Re:ゼロから始める異世界生活

第六章1  『竜車帰還路』

――都市プリステラを出て、ナツキ・スバル一行は一路、東へ向かって進み続ける。

目的地は世界図の東端、そこに位置するアウグリア砂丘――あらゆる存在の踏破を拒み、何百年も前から魔獣の巣窟として在り続ける曰く付きの土地だ。

方向感覚を狂わせ、探索者の心を蝕む瘴気。

人の命を弄び貪る、邪悪の先兵である魔獣の群れ。

そして世界の平穏を望み、監視塔から近付くものへと片っ端から成敗を下す『賢者』シャウラ。

「わかってるだけで、自殺しにいくみたいなラインナップだな……」

待ち受ける障害を思い浮かべるだけで、げんなりしてくるには十分だ。

実際、事情を知るものたちの話によれば、そこへ向かうのは自殺志願者か魔女教徒か、いずれにせよ、正常な脳の機能を損なった連中しかいないらしい。

だが、自分たちはそのどちらでもないし、死ぬつもりも毛頭ない。むしろ逆だ。

道のなくなった人々に、生かす道を与える。

その希望の種を手に入れるために、旅立ったのだ。

「……それにしても、不思議なもんだ」

揺れない竜車の揺れを錯覚しながら、スバルは座席の正面に座る顔ぶれにぽつりと呟く。それを聞きつけ、客室の中の全員の視線がこちらを向いた。

視線の数は、全部で四つ――この場にいるのはスバルを含めて五人なので、全員がこちらを見た形だ。

「不思議って、何かあった?」

「いや、大したことじゃないよ、エミリアたん。ただまぁ、こうやって一つの竜車に仲良く乗り合わせる顔としちゃ、結構意外性があるなって思っただけ」

エミリアの疑問に肩をすくめて、スバルはそう応じる。

そのスバルの左右、両隣を固めるのがエミリアとベアトリス、つまりは身内だ。この二人とスバルが一緒にいるのは当たり前の話だが、問題は正面の二人である。

「まぁ、確かにそないに感じるんもおかしないかもしれんね。実際のとこ、うちもちょぉ意外に思うとるもん。ナツキくんが違和感あるんも当然やろね」

「……ああ、せやな」

コロコロと笑い、関西弁ならぬカララギ弁で言ったのはアナスタシアだ。力なくエセ関西弁で応じると、彼女は己の髪に触れながら、意味ありげな目を隣へ向ける。

「もっとも、居心地の悪さだけの話なら、ユリウスさんには負けるかもわからんけど?」

「これは手厳しい。ですが、ご安心ください。――私も騎士の身です。一晩あれば心の整理を付けるには十分。ましてや今回はすでに数日……決して、過日のような無様はさらさないとお約束しましょう」

「優雅やなぁ。なら、その言葉に期待しとこか」

揶揄するようなアナスタシアの物言いに、一礼して答えるユリウスの態度は以前の彼そのものだ。

当たり前といえば当たり前のこと。『暴食』の権能の被害にあった彼だが、その影響を受けたのは彼というよりは、彼以外の周りの人々に他ならない。

であれば、態度が変わるのは彼より、彼の周りだ。その反応を受けて、彼自身も動揺は隠せずにいたが、それに関しては発言通り、無事に受け止め切ったらしい。

「……ったく、とんでもねぇ」

大したものだ、と声には出さないが称賛する。

その心根の強さは、はっきり言って脱帽ものだ。自分の存在だけを取り残され、周りから自分の記憶だけが失われる感覚――スバルも、覚えがないわけではない。

『死に戻り』で時をさかのぼるナツキ・スバルには、この世界の誰も覚えていない世界の記憶が確かにある。

一度、関係を築いた人間に忘れられる経験といえば、スバルの中なら最初のロズワール邸――あの日々の繰り返しが、それに該当するだろうか。

異世界に召還され、王都でエミリアを助けるために奔走し、その結果としてロズワール邸に招かれ――四度の繰り返しを経て、スバルは五度目の世界を踏破した。

それまでの四つの世界の思い出は、もはやスバルの中にしか残っていない。

そんな日々の中、関係を築いた屋敷の人々に、見知らぬ人間扱いされた衝撃は今なお忘れ難い。

あの苦しみと悲しみは、決して薄れない。

「……なんなのかしら? スバル、なんで急にベティーの頭を撫で始めているのよ?」

「気にすんな。あんとき、お前のおかげでずいぶん救われてたよなーって感慨深いだけだ。感謝感謝」

「わけわかんないかしら。それに髪が乱れるからやめ……なくてもいいけど、もうちょっと気を遣って撫でるのよ」

お尻半個分だけ席を詰めて、ベアトリスが頭を預けてくる。仰せの通りに、とスバルはその頭を撫でてやり、事実として救われたときの心境を再確認させられた。

屋敷の繰り返しの日々、スバルへの態度が変わらなかったのはベアトリスだけだ。『死に戻り』の起点より前に出会い、その後も彼女だけは接し方が変わらなかった。

それに救われたことは、ずっと彼女にも秘密だろう。

「そのあとは、エミリアたんに救われたんだけどな」

「――?」

スバルの述懐に、エミリアが不思議そうな顔をする。

その彼女の優しさに、声に態度に、預けてくれた膝の温かさに救われて、スバルは今、ここにいる。

「――――」

だからこそ、それを一人でやり遂げたユリウスの凄さが実体験として理解できる。スバルがこれだけたくさんの手を借りて、四度もやり直すほどに時間をかけて、乗り越えたものを成し遂げているのだから。

それとも、彼にも手を貸す誰かがいたのだろうか。

アナスタシアに忘れられ、陣営の誰にも手を借りれず、契約する準精霊との繋がりも絶たれて、血縁である弟のことも思い出せない彼に、誰かが。

だとしたら、それはよかったなと、そう思った。

「先ほどから、じろじろと人の顔を見て……どうかしたのだろうか、スバル」

「どうもしてねぇよ。なんか、優雅とか言われて典雅な感じに笑うお前がいけ好かないって思っただけ」

「優雅に典雅、実に結構な響きだ。まさか君に称賛されるとは思わなかった。意外と嬉しい……いいや、それは言いすぎたな。まあ、普通だろうか?」

「褒めたつもりねぇけど、その言われ方は腹立つな!」

以前の調子で――否、むしろ前より舌の滑りがよくなった風に言い返され、スバルの方がやり込められる。

プリステラで、弟の病室で、その横顔に浮かべていた弱々しさが嘘のようだ。あのときは勢いで、その面構えに色々と文句を付けた覚えがあるが、完全に黒歴史。

「スバルとユリウスって、仲良しなのね。ええと、今みたいになる前からこんな風に?」

「エミリアたん、そりゃ誤解だよ。俺とこいつが仲いいとかあるわけないじゃん。俺の今の顔、見た? 自分で言うのもなんだけど、過去最高に目つき悪かったよ?」

「そう? そんなことないと思うけど……あ、今のは目つきの話じゃなくて、二人の仲のことね。スバルの目つきは、いつもとおんなじですごーく悪いと思うわ」

「いつもとおんなじですごーく悪い!?」

「でも私、スバルの目つき好きよ。ホントのホント」

「あ、くそ、録音しといてあとで目つきの部分だけ削ってやりたかったなぁ、今の!」

悔しげにするスバルにエミリアが苦笑し、それから彼女は確かめるような目をユリウスに向ける。ユリウスはその視線に、ちらとスバルの方を見やり、

「私の方から、彼の言葉を否定する余地がありません。実際、私と彼が親しくしている……というのは語弊があります。私としてはこれでも、譲歩しているつもりなのですが」

「譲る歩み寄るって、字面がすでに恩着せがましいんだよ。もっとへりくだれ。……その方がムカつきそうだな」

「困った言い分だ。どうしろと言うのでしょうね、彼は」

エミリアに同意を求めるユリウスだが、そんな二人のやり取りに彼女は己の銀髪をかき上げて、

「やっぱり、すごーく仲いいような……?」

「だから見ての通りだってば」

「え? じゃあ、やっぱり仲いいんじゃ……」

エミリアと感受性の不一致があったが、スバルとユリウスはしれっとしたものだ。その様子にエミリアはますます困惑し、アナスタシアがくすくすと口を押さえて笑う。

そんなアナスタシアの反応に、ユリウスがふっと安堵するように唇を緩めた。――そんな仮初めの主従の関係が、その裏側を知るスバルにはどうにもキナ臭い。

ここにいるアナスタシアは、本当の意味でのアナスタシア・ホーシンとは異なり、ガワだけ同じ偽物だからだ。

現在、アナスタシアの中身は人工精霊であるエキドナ――通称、襟ドナに成り代わられている。襟ドナ当人に体を乗っ取る意思はないとのことだが、どこまで信用できるものかは怪しいところだ。事情を知るスバルは、何も知らないエミリアやユリウスに悟られないようにしながらも、警戒だけは欠かさないようにしていた。

「……スバル、いい加減にするのよ」

と、静かに考え込むスバルに、ベアトリスが声をかける。沈黙の間も、ずっとスバルに頭を撫で続けられていた少女の髪は乱れ、可愛い顔が仏頂面だ。

「おお!? 悪い、ベア子! お前の可愛い格好が台無しになって……こんなブチャイクに」

「ベティーの可愛さは髪型一つで乱れたりしないかしら! そんなことより、怖い顔になってるのよ」

スバルからお尻半個分離れて、ベアトリスが乱れた髪を必死に手で直しながら言った。その言葉にスバルが「う」と詰まると、ベアトリスは仕方なさそうな顔で、

「そんな無性に心配な顔しても意味なんてないかしら。……ベティーが気にしておくのよ。何かあれば、スバルよりよっぽど早く気付くかしら」

「……おう」

スバルの内心の不安に、ベアトリスがそう言葉を重ねる。スバル以外に、襟ドナとアナスタシアの成り代わりを知っているのがベアトリスだ。

本来、スバルは無用な混乱を避けるのと、襟ドナがアナスタシアの体を奪うつもりはない、という二つの主張から事実を秘することを約束した。だが、何かあってからでは遅いと、ベアトリスにだけはそれを伝えてある。

同じ人工精霊であり、同じ『魔女』エキドナと関係がある二人だ。何か襟ドナが企むようであれば、ベアトリスがそれを察してくれることだろう。

もっとも、ベアトリスの心情を考えれば、あまりエキドナと関わらせるのは得策とは思えなかったが、

「余計な気を回すより、スバルはスバルらしく、いつも通りに誰かれ構わず助けを求めてた方がいいのよ。でも、最初にベティーに言うかしら。今回は褒めておくのよ」

と、返されてしまったので、それはそれだ。

「――見えてきたわ」

ふいに、竜車に沈黙が下りたかと思えば、エミリアがそう呟いた。

竜車の窓から先を眺めるエミリア、彼女の目には遠く、目的地が見えたのだろう。スバルにも、窓の外の景色が見慣れたものになりつつあることがわかった。

「懐かしの道だ。もうすぐ、ロズワール邸だな」

そうこぼし、まずは最初のチェックポイントを目前に気持ちを引き締める。

この一行の目的地は冒頭の通り、『賢者』シャウラとの話し合いを求めてアウグリア砂丘へ向かうことなのだが、その道行きの準備と、長旅の中継地点としての意味合いで、道中のロズワール邸へ立ち寄ることで話がまとまっていた。

都市プリステラでの出来事や、『賢者』との話し合いに際しても、屋敷にいるであろう陣営の仲間と相談したいことが山ほどある。

それに、それに――だ。

「寄り道ってだけの話じゃ、ないからな」

『賢者』へ会いにいく旅路の前に、ロズワール邸に寄ることには意味がある。

大きな目で見れば、小さな世界のささやかな意味が。だが、ナツキ・スバルという小さな人間の目で見れば、大きな可能性を持った意味が。

「――――」

遠く、まだ見えてこないロズワール邸を幻視するように目を細めるスバル。

そのスバルの姿に、竜車の中の彼以外の四者がそれぞれ目を向けている。視線の色は感情は、様々だが――そのいずれの視線にも、気付く余裕がスバルにはなかった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ロズワール邸へ竜車が到着したのは、それから一時間後の正午過ぎだった。

都市プリステラを発ってから、十日ばかりの長い移動はいったん終わりだ。

「スバル!」

「おお、ペトラって、うおわ!?」

屋敷に地竜で乗り付け、御者の男性に礼を言って客車を降りる。と、屋敷の方からパタパタと駆けてきた小さなメイドが、そのままの勢いで飛びついてきた。

少女の勢いと威力を胸で受けて、スバルは後ずさりながらもなんとか受け止める。そして腕の中、飛び込んできた少女の頭を撫でた。

「いきなりだとびっくりするじゃねぇか、ペトラ。一ヶ月近く留守にしてたけど、元気にしてたか?」

「わたしは見た通り、元気にしてたよ? でも、スバル……様の方は大変だったんでしょ? 一昨日に手紙が届いて、ずっと心配してたんだから。またいっぱいケガしたんでしょ? 痛いの我慢してませんか?」

「こしょばいこしょばい」

赤みがかった茶髪を揺らして、ペトラがぺたぺたとスバルの体を触って確かめる。その手つきにスバルが苦笑していると、他の面々も竜車から降りてきた。

「ほれ、ペトラ。ちゃんとお屋敷のメイドとしての役割を果たせ。じゃないと、ラムやらフレデリカやらに怒られるぞ」

「……はい。あとでお話、聞かせてね」

戻って早々ではあるが、すっかりペトラの信用は損ねてしまったらしい。

結晶石を譲ってもらう、なんて話し合いに出ていった先で、都市全体を巻き込むような騒ぎに巻き込まれればペトラの心配も仕方ない。とはいえ、魔女教に関してはスバルが意図して引き起こした騒ぎではないのだが、その言い訳も無意味だろう。

魔女教の目的の大半が、エミリア陣営と関係があったのは事実なのだし。

「お客様、長旅お疲れさまでした。当家でメイドをしております、ペトラ・レイテと申します。これよりお屋敷へご案内させていただきます」

スバルの述懐は余所に、ペトラが堂に入った仕草で口上を口にしている。

ユリウスと、彼に手を借りて竜車を降りたアナスタシアも感心した顔だ。心なしかエミリアとベアトリスは、自慢げな顔つきにも見える。

「小さいのにしゃんとした子ぉやね。しっかり教育が行き届いてるわぁ」

「確かに、スバルに飛びついていた態度とは別人のようでしたね」

「――お恥ずかしいところを」

微笑むアナスタシアにユリウスが同意すると、その内容にペトラが頬を赤らめる。そんな少女を見下ろし、ユリウスはそれからスバルを見ると、

「なるほど……ますます、君が『幼女使い』ともてはやされる所以を痛感させられる」

「言っとくけど、ペトラは幼女ってほど小さくねぇし、百歩譲っても俺が使う幼女はベア子だけだから。勘違いすんな」

「ベティーも、使われるというほどスバルに都合よく働いてやってるつもりはないかしら。スバルも、そこは勘違いするんじゃないのよ」

ユリウスの軽口に辛口で応じると、さらに辛口でベアトリスにたしなめられた。

スバルが口をへの字にして黙ると、ため息をついたベアトリスがペトラの下へ。件のペトラと並んで、彼女のメイド服の裾をちょこんと摘まむと、

「それにほら、ベティーとペトラの間にそんなに差なんてないかし……待つかしら。ペトラ、ちょっと背が伸びてる気がするのよ。髪もちょっと伸びてるかしら……!」

「だって一ヶ月経ったし、わたしも今は成長期だもん。背も伸びるし、髪だって切らなかったら伸びるよ。ベアトリスちゃんは小さいままだね」

「な、なんてことなのよ……!」

愕然となるベアトリスを、笑ったペトラがぎゅーっと抱きしめる。むくれ顔のベアトリスを十分に抱擁して、それからペトラが「では、ご案内します」と歩き出した。

「んじゃ、ようやく屋敷に……んが」

その背中に続こうとして、スバルの後ろ襟が誰かの手に掴まれる。喉が詰まる声を上げて振り返ると、掴んだのはまさかのエミリアだ。

エミリアはスバルの後ろ襟を掴んだまま、背後の竜車に顎をしゃくり、

「スバル、パトラッシュが不満そう」

「む……わがままなやっちゃなぁ」

エミリアの指摘に地竜を見れば、竜車を引いて走った二頭の地竜の内、漆黒の美しい地竜がスバルをやけに刺々しい目で睨みつけている。

スバルの愛竜であるパトラッシュだ。地竜はスバルが視線を合わせようとすると、露骨に目を逸らし、不満げに小さく鳴く。

「ホントに、十日もあったのに仲直りできなかったわね」

「わかるけど、今回は真面目に俺のせいじゃねぇと思うんだよなぁ……」

頭を掻いて、スバルはへそを曲げているパトラッシュの対応に苦慮する。

パトラッシュがここまでスバルに塩対応なのは、振り返れば都市プリステラを出発したときから――否、その少し前までさかのぼる。というのも、魔女教防衛戦の終了後に、地竜の厩舎に迎えにいったらすでに機嫌が悪かったのだ。

オットーが負傷離脱でいなかったため、パトラッシュとは言葉を交わせていない。ただ、さすがにパトラッシュとの付き合いも長いのだ。そろそろこの愛竜が、スバルの何に対して怒っているのかもわかろうというもの。

「そりゃ、騒ぎの中でほったらかしにしといて、それで心細い思いをしてたってのはわかるんだけど……ごふぁ!?」

「スバル!?」

外れ、とでも言いたげに尾をスイングされ、直撃を受けたスバルが土塗れになる。相変わらず、パトラッシュの攻撃的な対応には優しさがない。スバルが意図と違う返答をすれば、何の躊躇いもなく一撃をぶち込んでくる。

「ま、まさか……レグルスの攻撃も避けきった俺が避けきれないとは……」

「大丈夫? パトラッシュ、また急に尾をブンブンし始めたけど、これって正解が言えなかったらまたおんなじことするつもりでいるんじゃない?」

膝をついて立ち上がると、手を貸してくれるエミリアの恐るべき発言。彼女の言葉にパトラッシュを見ると、確かに地竜は長い尾を振り回し、スバルを威嚇するかのようにその先端で風を切り刻んでいた。ワンミスごとに威力倍、とでも言いたげだ。

思わずゾーッとなり、迂闊な回答はできないとスバルの喉が引きつった。

「そんな風に悩まずとも、君の地竜は君への思いやりに溢れているよ」

だがそこに、案内の出鼻を挫かれたユリウスが、業を煮やして割り込んでくる。スバルは彼の物言いに、自分とパトラッシュを指差して、

「ホントに? 俺、こんなに土に塗れてるけど? これ思いやり?」

「親愛の証は目を見ればわかるだろう? 情の深い地竜だ。大方、あの騒ぎの最中に君の助けになれなかったこと、君に助けを求められなかったことを怒っているのだろう。それは君への怒りより、自憤の方が強いかもしれないな」

「なんなのそれ、どんだけヒロイン力上げてくるの、やめろよ」

ユリウスの指摘がどこまで正答かは知れないが、少なくともパトラッシュの尾の素振りがその言葉に止まったのは確かだ。スバルが改めてパトラッシュを見ると、変わらず地竜は顔を背けたが――、

「なんだか、そう聞いてから見ると、照れてるように見えるわね」

「エミリアたんも? 俺も。胸がときめくから、たまににしてくれ、パトラッシュ」

声をかけ、おっかなびっくり手を伸ばすと、パトラッシュがようやく頭を下げ、その固い鱗に覆われた体に触らせてくれる。都合十日もあった冷戦は、どうにかこれで終わったと見てよさそうだった。

「もういい? もう大丈夫?」

いつまで経っても屋敷の前庭から動き出せず、ペトラがやきもきしている。

案内を申し付けられて出てきて、それなのにこれだけ時間を食ったのだ。

「早く戻らないと、ラム姉様にまた怒られて……」

「――その心配ができるなら、あともう少し努力が足りなかったわね」

「ぴゃ――!?」

パタパタと足踏みしていたペトラが、その声に悲鳴を上げて背筋を正す。振り返れば視線の先、屋敷の方からやってくるのは桃色の髪のメイドだ。

疑いようも見間違えようもなく、ラムである。彼女はペトラを睨みつけて石像のように変えたあと、ゆっくりと客人やスバルたちの方を眺めて、

「最近はペトラも仕事ぶりが上達したと思っていたのに、ようやっと認められると思ったところでこの体たらく……ラムは本当に残念だわ」

「ご、ごめんなさい、ラム姉様……その、お仕事、認めてくれそうだったの?」

「ええ。ラムより料理もおいしいし、ラムより掃除も気が利くし、ラムより洗濯も上手になったし、ラムより早寝早起きだし、認めそうになっていたわ」

「そこはお前が自分に疑問を持てよ!」

メイド歴一年ちょっとの少女に、ベテランメイドがどれだけ負けるのか。ペトラの呑み込みの良さを鑑みても、ハードルが低すぎて話にならない。

そのスバルの叫びに、ラムが「ハッ」とすっかり見慣れた様子で鼻を鳴らし、

「自分に疑問なんて持ってどうするの? ラムが自分に持つのは期待と自信だけよ」

「ラムのそういうとこだけは、本当に尊敬に値すると常々思う」

威風堂々たるラムの宣言に、スバルは呆れながらもそう答えた。

実際、ラムの前向きさというか、揺るがなさは見習うべき点がある。ただ当人にはもう少し、自分を省みてほしいとも思うが、

「それをしたら、ラムがラムじゃないって気分になるか」

「ゾッとする話ね。それに、いつまでもこんなところにお客様を放置しておくわけにもいかないでしょう。早く屋敷に入るわよ」

肩をすくめるラムの言葉に、スバルも同意する。

さすがに入口で時間を食い過ぎだ。これ以上ここに留まっていると、しまいにはフレデリカやロズワールまで顔を出しかねない。

王選候補者やら辺境伯やらが揃って、何をしているのかという話だ。

「ロズワールはちゃんと屋敷にいてくれてる?」

先導するように歩き出すラムが、ペトラの肩を叩いて硬直を解除する。その背中にエミリアが声をかけると、ラムは「はい」と振り返らずに応じた。

「幸い、手紙が届いた時点でお屋敷に御滞在でしたので、そのまま残っておいでです。プリステラのことの概要は手紙で……詳しくは積もる話もおありでしょう」

「そうね、ちょっと色々あったから……」

「出かけるときと、人員が様変わりしていますものね。――ガーフとオットーは死にましたか」

「死なすなよ! 死んでねぇよ! 負傷離脱で帰るの遅れてるだけだよ!」

何をちょっと溜めていい声で言い出すのかと、スバルの突っ込みが裏返る。それに対してラムは悪びれない態度で肩をすくめる。

「余裕のない男は底が知れるわよ。特にバルスの底には穴が開いていて中身がこぼれ出しているんだから気をつけなさい。底が知れて中身が空なんて、最悪だわ」

「ズバッと傷付くからやめてくれ! それに、そんなことより……」

スバルたちの出発に先駆けて、プリステラから屋敷へ送った手紙――その内容が共有されているのであれば、スバルたちの帰還がただの帰還でないこともわかっているはずだ。

故に、手紙の後半の内容を確認しようとスバルが言葉を選ぶと、ラムがそれに先んじて指を立てた。そして、

「言ったでしょう、安心なさい。ロズワール様は御在宅……それから、『眠り姫』も『座敷牢』も、どちらも準備は整っているわ。もっとも」

押し黙るスバルに、ラムはそこで言葉を切り、唇をそっと舌で舐める。

赤い舌先が桃色の唇をどこか嫣然とした仕草で湿らせ、彼女は言った。

「どっちの準備も、ラムじゃなくてフレデリカとペトラの仕事だったけれどね」

「なんでそこでお前が自慢顔すんの?」

ともあれ、一ヶ月ぶりの再会であっても、まぁ、彼女はそんなもんである。

第六章2  『彼なりの歓待』

今さらではあるが、エミリア陣営の本拠地であるロズワール邸は、以前の焼け落ちた屋敷とは異なり、場所をメイザース領の本邸へと移している。

とはいえ、屋敷の間取りは以前と変わらず、中央に本棟を置き、その左右を西棟と東棟で固めた馴染みのものだ。屋敷自体の広さなどもほとんど同じであるため、屋内を歩き回っても戸惑うようなことは滅多にない。

ただ、少しばかり似すぎているせいもあって、近くにアーラム村がないことを失念しがちになるのが問題だ。スバルなどは何度か、寝起きの勢いで村までラジオ体操しにいこうとして、長い街道の途中で気付いて途方に暮れたこともある。

そのたびにベアトリスがあくせく追いかけてくるので、すごく怒られるのだ。

ともあれ、そんなロズワール邸に帰還し、変わらぬペトラやラムの歓迎を受け、屋敷の主であるロズワールの待つ応接間に入ったわけだが――、

「やーぁや、お帰りなーぁさい。無事のお戻り、何よりだーぁね」

応接間のソファに腰掛け、手を打って帰還を歓迎するロズワール。その喜色満面の歓迎ぶりに、スバルとエミリアは思わず度肝を抜かれた。

やたらと友好的な笑みを見て、二人は顔を見合わせる。

「……エミリアたん、なんか手紙におかしなことでも書いた?」

「し、知らないってば。それよりスバルこそ、変な贈り物でもしたんじゃないの? ほら、スバルとロズワールってたまにこしょこしょ内緒話してるし……」

「んな馬鹿な! ロズっちにわざわざ贈り物なんてするぐらいなら、その時間とお金を俺は日頃の感謝を込めて、エミリアたんとベア子とペトラとフレデリカとパトラッシュと一応ラムに還元する方法を考えるよ」

「女の名前ばっかりだったかしら」

「オットーとかガーフィールに贈り物とか男同士で恥ずかしいじゃん!?」

不機嫌なベアトリスに応じて、スバルはエミリアのじと目に苦笑して誤魔化す。

ちなみにレムを抜いたのは意識的な問題で、周りに気遣わせないためなのであしからず。ともあれ、そんなやり取りを見ているロズワールが肩をすくめ、

「なーぁんとも心外な反応だね。私が君たちの安否を心配し、その無事を喜ぶことのなーぁにがおかしいというのかな? 全部、当然のことでしょうに」

「それは、そうなんだけど……ロズワール、今まであんまりそんなところ、私たちに見せたことなんてなかったし……」

「この一年で、私にも色々と考え方の変化があったということですよーぉ。私が協力的になることは、エミリア様にとっても喜ばしいことのはずでは?」

「うーん、そうよね」

いけしゃあしゃあと言ってのけるロズワールに、エミリアが彼女らしい寛容さで変化を受け入れてしまう。そのエミリアに頷きかけ、掌をひらひらと振っている姿など見ていると、スバルはイマイチ信用が置けないのだが――、

「あれの考えを理解しようとしても、それは常人と違いすぎて理解なんてできないのよ。スバルは……スバルもちょっとアレだけど、あれのアレさはそれ以上かしら」

「お前、ちょっと今の台詞は指示語多すぎるぞ」

あれそれと老化が進んできたみたいな発言をするベアトリスの頭を撫で、スバルはエミリアに続いて応接間に足を踏み入れる。

上機嫌のロズワール――訝しんだものの、その魂胆はなんとなくわかっている。

実際のところ、ロズワールの思惑は今しがた、彼自身が口にした通りだ。

ロズワールは本気で、スバルやエミリアが無事帰還したことを喜んでいる。

『叡智の書』を無くした今、立ち塞がる障害を突破するスバルの行動、それだけがロズワールの、未だ語らない目的に到達するための最善手なのだから。

「そう思ってるなら思ってるで、もうちょい協力的だと助かるんだがな」

「私の手助けの有る無しに関わらず、君は君の目的を達する。そうであると信じているからこその、君の力の及ばない部分での協力だ。実に対等な関係じゃーぁないの」

「助っ人キャラが普段から使えない、RPGのお約束喰らってる気分だよ、俺は」

その時点では強すぎる助っ人キャラが、スポット参戦しかしないのはお約束だ。

ロズワールの戦闘不参加も、そんな感じの扱いに近い。彼の場合はスバルが追い込まれれば追い込まれるほど、『死に戻り』による運命改変力を信じる根拠になるため、ますます大喜びで窮策するスバルを見物し続けることだろう。

食えない輩のままだ、と舌打ちしたくもなる。

「――そろそろ、うちらもご紹介してもらってええかな?」

「と、待たせて悪かった。ロズワール、お客さんだよ。詰めて座ってくれい」

「聞いているよ。それにしても、面白い顔ぶれだね」

入口に立ったままの会話に、廊下で待たされる少女が声を上げる。その相手に軽く謝り、スバルはソファに座るロズワールを手振りで奥へ追いやった。

立ち上がり、上座にロズワールが深々と腰を下ろす。そうして、来客用のソファを客人二人に勧め、スバルたちはその対面にゆっくり腰を下ろした。

「遠方よりはるばるようこそ。こうしてまともに顔を合わせてお話するのは、論功式以来のことですねーぇ」

「ほんまやね。それにあのときも、言うほどちゃぁんとお話したわけやなかったし……実質、これが初めていう感じになるんやないかな」

話題に挙がった論功式とは、正式に『白鯨』の討伐が認められた際の、エミリア陣営・クルシュ陣営・アナスタシア陣営が合同で評された式典のことだ。

王都の王城で行われた小規模の式典ではあったが、当然、各陣営の代表者が集うことになったため、『聖域』の問題解決直後のメンバーは全員参加している。

緊張で青い顔のオットーと、城に目を輝かせるガーフィールが記憶に鮮やかだが、あれだけやらかした後でしれっと参加するロズワールも大したタマだ。

まぁ、緊張というか、あたふた加減ではエミリアもいい勝負だったから今さらなんとも言えないが。エミリアにしてみれば、身に覚えのない功績で褒められることになったわけなので、さもありなん。

ともあれ、それ以来の顔合わせであり、互いの挨拶もそこそこに行われる。

そして話し合いはさっそく、本題である都市プリステラでの報告になり――、

「――それで手紙にあった通り、オットーくんとガーフィールの負傷離脱と。なーぁるほど、了解しました。実に、頼もしい功績です」

報告を聞き終えたロズワールが、感嘆の吐息とともにそう吐き出す。その内容にエミリアが眉を上げ、「ちょっと」と少しだけ強い語調で、

「二人は大ケガして、帰ってこれないぐらいなの。それなのに、そんな風に言うなんてどういうことなの」

「どーぉうか早合点されずに。二人の負傷は確かに痛ましいことですし、しばらく離脱を余儀なくされるのは痛手に違いありません。ですがその反面、陣営に致命的な被害を被ったものはいない。他陣営を含め、複数の大罪司教と遭遇していながらこの結果……実に奇跡的な巡り合わせです」

「――――」

「無論、大罪司教の残した爪痕は早急に対処すべき事柄ではありますが、エミリア様や都市防衛に尽くした諸氏は最善の行動で被害を最少に留めた。そのことは少なからず、ご自分で認められてよいことだと思いますよーぅ」

「……そう、ありがと」

口の回るロズワールに、釈然としない顔でエミリアが礼を言う。

事実として、彼の言葉には正論の色が強いはずなのだが、発言者の印象というものは大事なものである。スバルにも胡散臭く聞こえたので、全員そうだろう。

「まーぁ、皆さんに私がどう思われるかはこの際いいとして、話を進めるといたしましょうか。――ちなみに、そのような騒動が起きた都市プリステラに、エミリア様方を招いたのはアナスタシア様のはずですが……その点、どう思っておいでですか?」

「騒ぎの真ん中に引き入れてしもたことは、申し訳なかったって思うとるよ。謝れ言われたらちゃぁんと謝る、その心の準備はできてるから」

「そして、真摯に頭を下げればびた一文払わずに済む……と。ああ、私への謝罪はなくて結構。エミリア様も、すでに断ってしまわれたのでしょう?」

「だって、魔女教が悪さしたなら、悪いのは魔女教でしょう? ただ呼んだだけのアナスタシアに責任があるはずないじゃない。それに私たちの場合、プリステラに呼んでもらった目的は果たせたわけだし……」

ロズワールに横目にされて、エミリアが自分の首元のペンダントに触れる。

そこには新たな大魔石がはめ込まれており、今も昏々と眠り続ける大精霊が復活のときを静かに待ち続けている。パックの依り代となる高純度の結晶石の入手――それが目的だった以上、確かに陣営の目的は達成されているのだ。

「あと、たまたま私たちがいたから魔女教を追い返せたのかもしれないじゃない。そう考えたら、むしろアナスタシアのお手柄だったんじゃ……」

「さすがにそこまで考えられるのは、他陣営への肩入れすぎるので止めますよーぅ」

エミリアの前向きさに、アナスタシアが何故か救われる形になる。

とはいえ、今の追及はロズワールも言ってみただけの牽制だ。実際のところ、魔女教の狙いのその大部分は、スバルたちがプリステラに持ち込んだ可能性がある。そこを指摘されてしまえば、魔女教悪しに違いなくても気分は重たくなる。

ので、一致団結して魔女教が最悪! と意見を固めておくのが吉だ。

「そのあたりに関しちゃ、他の三陣営も納得済みだよ。大罪司教も一人は死んで、一人は捕縛……魔女教としちゃ、もうガタガタだろうよ」

「組織力、については疑問の余地があるけどね。奴らの場合、連携やら団結といった言葉と無縁の無法者集団だ。たとえ味方が一人もいなくなって、最後の一人になったところで狂人の狂人たる精神は晴れない」

「……それについちゃ、同意見だがな」

ロズワールの見解はスバルと同質で、おそらくその考えは正しい。

魔女教という組織は、もはや組織というより狂人たちの寄合所だ。そこがなくなったところで、大人しくしていようなどと考える可愛げなど奴らにはない。

残る『暴食』と『色欲』の蛮行も、決して止まることはないだろう。

「だからこそ、対抗手段がいる。そのための今回のお話ってわけだ」

「……『賢者』シャウラとの接触、ねーぇ」

「難しいだろうってのはわかるけどな。手段が他に見つからない以上、試せることは試してみるしかない。せっかく全知全能……じゃなくて、全知扱いか。そんな賢者がいるってんなら、話聞きにいくだけ損はないだろ?」

「そーぉれをしちゃおうとした結果、命を支払う大損をする羽目になった人間が、この数百年で何人もいるわけだーぁけどね」

常識としてそれを語られると、確かに押し返される意見ではある。だが、こちらにはちゃんとそのための隠し玉もあるのだ。

スバルが目配せすると、アナスタシアが鷹揚に顎を引いて、

「そこで、うちの出番なんよ。幸い、うちはその『賢者』の監視塔に無事に到着する手段を持ってる。せやから、道に迷う心配はないよ。安心したってな?」

「言葉だけで信じろ、と言われましてもねーぇ。そもそもその手段があるのなら、大金を支払ってでも欲しがる輩が大勢いる。何故、あなただけがそれを?」

「うちは商人で、もちろんお金は大事や。――やけど、金銭にも代えられんもんかてあるんよ。これは、そんな中の一個やって話やね」

薄い胸に手を当てて、アナスタシア――襟ドナは堂々とそう嘯いた。

アナスタシアを装っているにも関わらず、その一言には不思議と力がある。彼女が今、本来の彼女でないことを知るスバルでさえ、気圧されるような力が。

そんなアナスタシアに直視され、ロズワールは片目をつむる。そして、その黄色の視線だけでしばし彼女を睥睨すると、

「やーぁれやれ、だ。これだから修羅場も鉄火場も噛み分けた人は扱いが難しい。それにこれもどーぉせ、エミリア様はご納得済みなんでしょうしねーぇ」

「勝手に決めて、ごめんなさいとは思ってるからね?」

「でも、勝手に決めることをやめようとまでは思わない。それでよろしい。あなたは茨の道をあえて選んで行かれる方だ。そこにこそ、彼もついていく」

気乗りしない態度のロズワールだが、彼の興味は結局、そこに行き着くのだ。

エミリアが困難な道を選べば選ぶほど、スバルが乗り越えるべきハードルは高くなる。ロズワールにとって、それが今や『叡智の書』に代わる希望であるから。

「とにかく、アナスタシアの案内で、そのなんちゃら砂漠を越えてくる。ちょっとばかし、また日数がかかりそうだけどさ」

「なんちゃら砂漠ではなく、アウグリア砂丘だ。何度も訂正されているのだから、いい加減に覚えたらどうだろうか」

うろ覚えのスバルに、嘆息するユリウスが言葉を差し込んだ。

アナスタシアの隣のソファに座り、これまで話し合いを黙って見守っていた彼は、その理知的な眼差しをロズワールへ向けると、

「ロズワール様にとり、非常に心苦しい申し出とは思います。ですが、都市プリステラでは今も、魔女教の暴威に晒され、心身ともに傷付いた人々が大勢いるのです。我々の行動が彼らの心を救う一助になるのであれば、どうかここはお許し願いたく」

「ずーぅいぶんと優美な言い回しだ。見たところ、非凡な能力の持ち主だが……私の記憶にないのが解せない。つまり、そういうことだーぁね?」

「――――」

記憶にないユリウスの存在に、それだけでロズワールは事情を理解する。かすかにユリウスが目を伏せると、ロズワールは肘掛けに腕を置いて頬杖をついた。

そして、どこか楽しげに唇を緩めると、

「『暴食』の権能で人々から忘れられ、世界に取り残される焦燥感。君は自ら置かれたその状況を打破するために、か細い希望を求めて『賢者』シャウラを目指すわけだ。べーぇつに誰かのためだなんて、言い訳する必要はないんだよ?」

「――っ。決して、そのような私利のために動くようなことは!」

「責めてるわけじゃーぁない。むしろ自然なことだし、私はその方が好ましいと思っているしね。何事も、基本的に他人のためより自分のための方が必死になるものだ。結果的に他者が救われるにせよ、その過程に救われ、満足感や達成感、優越感を得る心を否定する必要はない」

頬を強張らせるユリウスに、ロズワールはつらつらと続ける。

道化の化粧の奥で、彼の笑みはさらに深くなり、

「ましてや現状、君が救われれば他者も同じように救われる可能性が高い。大義名分を背負い、行動するのにいささかの呵責もいらないだーぁろう?」

「私は……」

「――メイザース辺境伯、そのあたりにしといてもらってええ?」

声に詰まるユリウスを手で制し、アナスタシアが代わりにロズワールと向かい合う。彼女ははんなりと微笑むと、愛らしく小首を傾げた。

そして、

「うちも、正直なところ記憶にはないんやけど……それでも、この子ぉはうちの騎士様らしいんよ。それがどうしようもないことでいじめられるんは、見ててええ気持ちやないんやね」

「記憶から失われても、主従の絆は活きている……と?」

「どうやろね、そのあたりのことはうちもよぅわかってへんよ。せやけど、ユリウスに道中、気遣われたんは自然で悪ぅなかったし……それに、や」

アナスタシアはそっと、持ち上げた指で対面のソファを指差して、

「いつまでもいらんことして、そっちの陣営が割れるんは防いだつもりやよ?」

「――これはこれは」

ロズワールがアナスタシアの指摘――噴火寸前のスバルを見て、肩をすくめる。スバルが怒鳴る寸前ということは、当然、エミリアとベアトリスも同じだ。

その様子にロズワールは降参、とでも言いたげに手を挙げた。

「はいはい、わーぁたしが悪かったですよ。ただ、そういう側面もあると指摘しただけだったんですがねーぇ」

「いらねぇ指摘だろうが。お前、本当にふざけんなよ」

「そうかーぁな? 結果に恩恵を受ける人間の大小問わず、そうした偏見を抱く人間は必ず現れる。邪推し、口さがなく文句を垂れる輩はね。その自覚がなかったようだから、先んじて忠告しようかと思っただーぁけ」

誰かのためでなく、自分のためだろう。

行いをそう罵られた経験は、実はスバルの中にも痛々しい形で傷がある。

かつて王城でスバルはエミリアに、彼女のための行動を自分のためだと言い返された。あのときの痛みは忘れ難いし、結果的にそれはおそらく事実だった。

だが、それが事実であろうとなかろうと、傷付ける目的でそれを口にされることはきっとある。しかし、だからといって、

「やったことの意味を、正しく受け止める人が減るわけじゃない。こいつがそんなタマかよ、ふざけろ」

「仕方ないでしょーぉうに。君と違って、私は彼の人柄を知らないからねーぇ。……君も、数日、旅を同行しただけの間柄には見えないが」

いきり立つスバルに、ロズワールが目を伏せた。長い睫に縁取られた瞳が、その瞬間にだけ本格的な悲壮感に暮れて、

「また、君だけが覚えているわけだ。あの、レムと同じように」

「何の因果か、だけどな」

「それは君が特別な証だよ。大事に、大事にするといーぃ。――欲しくても、得られないものが大勢いるのだから」

後半の述懐は、ロズワール以外にはよく聞き取れなかった。

ただ、問い詰めても決して口を割らないだろうと、スバルはさっさと見切りをつける。ともかく、伝えるべきことは伝えたはずだ。

あとは――、

「手紙で話した通りだ。座敷牢と……」

「『眠り姫』は連れ出す、だったね。思い切ったことをするものだ。あれだけ、君はあの子に触れられるのを嫌がっていたはずなーぁのに」

「起こす方法がわかるかもしれないんだ。試すさ。当然だろ?」

「その手段を最初に、あの子で試そうとするのが意外だったんだよ。君はひどく利己主義者を気取るけど、実情の部分で自罰的だ。心のどこかで、頭の片隅で、自分が最初に救われるべきではないと、そう思ってやしないかい?」

「――――」

図星を突かれて、スバルは思わず黙り込んだ。

今回のプレアデス監視塔を目指すにあたり、スバルは屋敷に到着する寸前まで、『暴食』の被害者の症例としてレムを同行させるか、悩み続けていた。

それはレムを目覚めさせること、それ自体への忌避などでは当然ない。レムが目覚める可能性があるなら、一日でも一秒でも、早く起きてほしいと願っている。

だが、それにナツキ・スバルが救われることの是非は、また別なのだ。

都市プリステラに、あれだけ大勢の人々がレムと同じ被害を受けている。彼らの家族は家族を奪われたことも知らず、眠る人々は案じられる権利さえ奪われたまま。

そう思えば思うほど、スバルの心には奇妙な楔が突き刺さる。

多くの人々に先駆けて、救われることの罪悪感だ。

だから本当に今回も直前まで、スバルはレムを連れ出すことを躊躇ったが――。

「そのことは、ちゃんと私がスバルを説得したの。だから、問題ないわ」

「……ますます、意外ですね」

黙り込むスバルに代わり、ロズワールに言ったのはエミリアだ。

訝しむロズワールは、胸を張るエミリアに片目をつむると、

「こういってはなんですが、彼女の目覚めはエミリア様にはあまり都合がよろしくないのでは? どう考えても、スバルくんはあの子に強い情がありますよ? 事によればそれは、エミリア様への情にも匹敵する……」

「そうね、そうだと思う。レムが目覚めたら、スバルはしばらくその子にかかりきりになっちゃうだろうし、私のこともどうでもよくなっちゃうのかも」

「いや、それはいくらなんでも……」

ない、はずだ。

エミリアへの想いが揺らいだことはないし、今後もそれは誓える。

ただ、それとは別の部分で、レムへの強い感情があるのも事実なのだ。そしてエミリアの言う通り、レムが目覚めれば、かかりきりになるのは間違いない。

だが、エミリアはそんなスバルに「いいの」と言って、

「それでスバルにそっぽ向かれるなら、私が今度はこっちを向いてもらえるように頑張るだけだから。今さら、スバルがいないなんて困るもん。だからどんなにレムが可愛くて夢中になっても、私の方にもきてもらいます」

「え、エミリアたん!?」

「それが私の覚悟と、私の決めたこと。それに、誰もスバルが救われたって文句なんて言わないわ。――だからいいの。レムを、起こしてあげましょう」

強い言葉で、エミリアがスバルの決断を後押しする。

その言葉の、ある種の告白のような響きに、スバルの方が驚き、膝が震えた。これまでにも何度か、エミリアから好意のようなものを告げられたことはある。あるが、それはどれも彼女の、親愛の域を出ていなくて――。

「私に、レムに、ベアトリスに、ペトラにパトラッシュに、オットーくんとガーフィール! スバルはすごーくすごーく、幸せ者でいいの」

「後半に地竜と男が混じってたんですがそれは」

あと、真ん中にロリも混ざっていた。

ともあれ、それを受けて、スバルの隣に座っていたベアトリスに脇を突かれた。スバルが「うひっ」と横を見ると、ベアトリスがいつもの憮然とした顔で、

「別に、今さらスバルの浮気性に文句を言うつもりはないのよ。……でも、片手はいつも空けておくかしら。それは、ベティーだけの特権なのよ」

「……お前、アホほど可愛いな」

「当然かしら。ベティーの可愛さは、天地神明に響き渡るのよ」

天地の神々がどう思うかまでは知らないが、スバルの心には響き渡った。

エミリアとベアトリスに後押しされて、スバルはレムの目覚めに尽力する。

――今はもう、そうすることに躊躇いはない。

「ってわけだ、ロズワール。愛されすぎてて悪いな。レムは、連れてくぜ」

「エミリア様もベアトリスも、その変わりように驚かされるばーぁかりだよ。いーぃとも、好きにしたまえ。元より、止めるつもりもないからね」

「じゃあ、さっきまでの問答なんだよ」

「行いの意味を解しているか、老婆心ながら確かめただけさ。そちらの名無しの騎士殿にも、悪いことをしたねーぇ」

「いえ」

最後の最後まで、揶揄するようなロズワールの物言い。それに対してユリウスは小さく息を吸い、それからスバルとアナスタシアを代わる代わる見ると、

「私はユリウス・ユークリウス。今は彼の記憶にしか形がありませんが、ルグニカ王国の近衛騎士が一人。この程度のことで、心を乱すほど未熟ではあれません」

そう言い切り、邪悪な魔法使いの邪悪な嫌がらせを、見事に跳ね除けたのだった。

「……ぐらぐらだったけどな」

「君はどちらの味方なのだろうか? 今、背中から刺された気分だが」

と、最後にそんなやり取りがあったことだけ、こっそりと付け加えておく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

話し合いが終わり、スバルたちは応接間を退室していった。

これからアウグリア砂丘を目指すにあたり、重要な鍵を握る可能性がある人物との接触のため、屋敷の東棟に存在する『座敷牢』へと向かったのだ。

そこには約一年前、前の屋敷が焼け落ち、この屋敷へ住人たちが移動してきたのと同じタイミングで運び込まれ、ずっと繋がれている存在がいる。

本来、接触など勧められる関係性の相手ではないし、安全でもないのだが――。

「どういう結果を持って帰ってくるやら。そのあたりに期待させられてしまうのは、わーぁたしもまた感化されているということなーぁのかな」

ソファの背もたれに体重を預け、深く腰を沈めながらロズワールはそうこぼす。

一人、応接間に残り、先ほどの話し合いの余韻を確かめる魔導師は、その脳裏に誰を浮かべたのか小さく音を立てて笑い、

「これは私も、彼に好意的なメンバーの仲間入りなのかな? どう思う?」

「……気色悪いこと言い出すんじゃないかしら、と思うのよ。お前の場合、本気でやってやれないこともないから、怖いとしか言いようがないかしら」

「さすがにこの体で迫るほど、節操のないつもりはなーぁいとも」

「女だったこともあるのよ。十分、警戒はしておくかしら」

ロズワールがますます楽しげに笑うと、返事をした少女――ベアトリスはつんと澄ました顔のまま、自分の縦ロールを引っ張って弄り出した。

手持ち無沙汰か、あるいは苛々しているときの癖だ。

「スバルくんたちは座敷牢だろう? 君も彼の傍にいないと危ないんじゃーぁないの?」

「牙の抜いてある野良犬より、牙を磨いてる飼い犬の方が厄介なのよ。だから、ちゃんと釘を刺しておこうと思ったかしら」

「飼い犬とはまたひどい。先生の、なら望むところなんだが」

「救いようのない変態なのよ。……ロズワール、あまりスバルを試すんじゃないかしら。余計な刺激、ベティーが許さないのよ」

どこか淫猥なロズワールの笑みに、渋い顔をしたベアトリスがふいにそう告げる。すると、ロズワールは笑みを引っ込め、いつものように片目を――青い目をつむり、黄色だけの視線でベアトリスを見つめ返した。

「君と私では立場が違う。腰の軽い君と違い、私は一途でね」

「それで母様に掠りもしてないところを見ると、スバルの手を握れるベティーの方が数百倍マシだからムカつきもしないかしら」

「言うようになーぁったものだ。禁書庫の司書気取りの君は、せーぇいぜい幸せになるといい」

「当然なのよ。だから、その幸せを守る動きもさせてもらうかしら」

ソファに座ったままのロズワールと、その正面に立つベアトリスが、同じ視線の高さで火花を散らせる。そんな丸い瞳の少女、その胸中を覗き込もうとするように、ロズワールは目を細めて、

「大罪司教を一人、倒した。スバルくんの中に、これで二つ目が入ったはずだ」

「……候補は、スバル以外にだっているはずなのよ」

「だが、どれも彼より近くも重なりもしない。掠るだけの方と重なる方と、どちらが選ばれるかは自明の理だよ。つまらないお為ごかしはやめたまえ」

「――これ以上は、やらせないかしら」

ロズワールの物言いに、ベアトリスが決意を秘めた声で応じる。

少女はギュッと、自分の腕の袖を掴み、ロズワールを睨みつけた。

「ベティーは、スバルのものなのよ。だから、スバルはスバルのままかしら」

「君の頑張りを邪魔するつもりはなーぁいとも。私としては、数が減っていれば減っているほど助かる。それだけの話だーぁからね」

「――ッ」

キッと、最後に強くロズワールを睨みつけ、ベアトリスは扉へと向かう。

居残っての話し合いも、これで終わりだ。

「ベアトリス」

その遠ざかる少女の背中に、ロズワールが声をかける。

ベアトリスは足を止めた。しかし、振り返らない。

「私はね、君には幸せになってほしいと、少なくとも他の有象無象と比べればずっと強く、そう思っているんだよ。君は……妹のようなものだからね」

「――ゾッとしない話なのよ。それに、お母様ほどじゃないかしら」

「それが愛というもの、だーぁろう?」

返事はなかった。

ただ、扉が開かれて、閉じる音だけが応接間に静かに響いた。

それきり、応接間に続く音は何もなかった。

第六章3  『少女の檻』

「旦那様との話し合いは、うまくゆかれましたの?」

「いつも通りっちゃいつも通りだし、いつも以上にムカついたって言えばそんな感じもする。察してくれ」

「なるほど、ということにしておきますわね」

応接間を出て、屋敷の東棟へ向かおうとするスバル一行、その案内を任されたのは今度はフレデリカだ。

美しい金髪を長く伸ばし、折り目正しくメイド服を着込んだ強面の女給は、アナスタシアとユリウスの二人に丁寧に――やっと、屋敷のまともなメイドの一人として挨拶を交わすと、憮然と歩き出したスバルにそんな風に話しかけてきた。

「道中と都市で、ガーフはちゃんと皆様のお役に立ちましたか? あの子には出る前に色々と言い含めておいたのですけれど、大ケガして戻ってこれないだなんて……向こうでも、エミリア様たちにご迷惑をかけていないか心配で」

「ええ、心配いらないわ。ガーフィールにはすごーく頑張ってもらっちゃったから。オットーくんと一緒に、今は大人しく静養……大人しくしててくれるかしら。しててくれたらいいと思うんだけど、とにかく静養するようにお願いしたの」

「不肖の弟がお心を煩わせて申し訳ありません」

エミリアでも半信半疑でフォローし切れず、フレデリカが恐縮してしまう。

ともあれ、ペトラにもラムにもロズワールにも、そしてフレデリカにも色々と素行が心配されるガーフィールだが、プリステラの出来事で何かしらの心境の変化――言ってみれば成長、そんなものがあったことは間違いない。

元々、ガーフィールの強さはあの年齢、十五歳としては突出している。

『腸狩り』や『八つ腕』との激戦を聞く限り、豪語する最強にはまだ遠くとも、エミリア陣営のみならず、大陸全土で上位を争う強さには違いない。

おそらく彼の最大の問題は、まだ未成熟のメンタルなのだろう。その精神的な脆さが克服されたとき、彼はまた一つ上のステージへと上がることになる。

ただまぁ、それも急ぐべき道のりではない。ゆっくりと確実に、階段を踏みしめるように強くなるのが、十五歳という年齢に相応しい成長の仕方だろうから。

それに――、

「今回に限っちゃ、真っ直ぐ帰ってこれねぇ理由もあるだろうしな」

「ミミのこと?」

「それもあるけど」

微妙に、耳ざとい感じで割り込むエミリアに苦笑する。

男女の恋愛に疎いはずのエミリアでも、他人の色事にはそれなりに好奇心が働くらしい。ガーフィールとミミの関係に、彼女は興味津々だ。

もちろん、ガーフィールも命懸けで自分を庇い、戦いの前も後もあけっぴろげに好意を主張するミミに情が湧いていることだろう。

はっきり言ってスバルも例外ではないが、憎からず思っている相手に好意を叩き込まれると、ぐらつかない男はいないのである。

そのあたり、経験者であるからして、スバルはなんとも言えない。

ガーフィールがラムへの恋慕と、ミミからの気持ちにどう応じるかは、今後の推移を見守りたいところである。

ただ、それとは別に、ガーフィールには都市プリステラに残した問題がある。

「――スバル様? 何か私にご用件でも?」

「いや、俺からは特にはなんにも。この件に関しちゃ、俺から話すのはよくないと思うからな」

意味深にフレデリカの横顔を見ていると、当人に視線の意味を問い質された。

彼女の疑問を誤魔化しながら、スバルはガーフィールの心中を想像する。プリステラでガーフィールが気にかけていた一家――金色の髪に翠の瞳と、フレデリカとガーフィールの姉弟を思わせる特徴があった家族だ。

あの人たちとガーフィールの関係と、それが意味するフレデリカとの関係性。

きっとそれは、ガーフィールが自分で胸を張って、フレデリカやリューズといった家族たちに報告したいことだろうから。

「だから俺は何も言わないさ。ナツキ・スバルはウルトラクールに去るぜ」

「そうそう、ガーフィールっていえば、プリステラですごーく仲のいい子どもたちがいて、その子たちが……」

「エミリアたんエミリアたん、俺のモノローグが無駄になるから!」

天然で色んな橋渡しが無駄になりそうで、スバルはエミリアの口を塞いだ。

放置しておくとシナジーが怖いので、今度、ちゃんと時間を作ってエミリアに背景周りをきちんと説明しておこうと心に決める。

ますます訝しげな顔をするフレデリカに、スバルは愛想笑いで手を振った。

「愉快に親交を温めているところ申し訳ないが、これから向かう先というのが?」

「あー、『座敷牢』って呼んでる場所だ。そこに一応、話してた奴がいる」

「ふむ、例の人物か。――うまく、話が進められるだろうか」

「やってみないことにはどーだかな。とりあえず、保険として聞いてみるだけでも」

スバルの説明に、後ろに続くユリウスは難しい顔で考え込んでいる。

実際、この提案に関してはスバルの方も問題点の多さは自覚済みだ。ただ、うまく運べばかなり今回の旅路のリスクを減らすこともできる。

「それにあの子、スバルにはわりと懐いてるし、大丈夫そうじゃない?」

「本格的に懐かれてるのは俺よかガーフィールだよ。ネコ科っぽいところが気に入られてるのかもしんないけど……と、着くな」

楽観的なエミリアに苦笑で応じたところで、フレデリカの足が止まった。同時にスバルたちの正面に、明らかに屋敷の中で異質な雰囲気の階層が飛び込んでくる。

大まかな間取りは以前の屋敷と違いのない真・ロズワール邸だが、東棟の地下部分――ここだけは、はっきりそれとわかる変化がある場所だ。

屋敷の中枢であり、生活に必要な施設の集中する中央の本棟。

使用人や客人の客室や、多目的な施設が集まっている西棟。そして東棟は歴史あるメイザース家の遺産や、書物などが保管された倉庫・保管庫として利用される。

ただし東棟の地下、ここだけは例外。石造りの冷たい空間には、貴族屋敷の地下部分という要素に、わかりやすい目的が付随している。

「なんや、ずいぶんと嫌ぁな空気の漂うとる場所やんね」

鼻を鳴らして、雰囲気の変化をアナスタシアが端的に評する。

そしてそれは否定意見の出ようがないほど、満場一致でわかりやすい評価だ。この階層に漂う空気は、まさに『嫌な感じ』としか言いようがない。

「瘴気、とはまた違うみたいやけど、体にええ気はしぃひんね」

「建物の構造上の問題と、そもそもこの施設の目的……そのあたりも無縁ではないと思いますが、究極的には中に潜む存在によるものでしょう」

暗がりの地下へ続く階段を見下ろし、アナスタシアとユリウスが言葉を交わす。

すでに『座敷牢』とまで話しているのだ。二人にもこの地下に存在する施設がなんなのか、限りなく正解に近い想像ができていることだろう。

「では、ご案内いたします。足を滑らせませんよう、気を付けてくださいまし」

そう言って、フレデリカが階段を先導して下っていく。長身の彼女の背中に続いてスバルたちも地下へ向かうと、ユリウスらも覚悟を決めた表情だ。

石造りの階段に、靴音がやけに大きく響いて聞こえる。地下から冷たい風が吹き上げてきて、微かに前髪を揺らすのが不可解なほど神経に障った。

「開けますわ」

地下へ下ると、すぐ目の前に鉄扉が立ち塞がる。扉には頑丈な鍵がいくつも取り付けられており、複数の鍵をフレデリカが一つずつ解除する形だ。

音を立てて扉の鍵、錠前などが外されて、軋む音を立てながら鉄扉が開かれる。すると扉の向こう、石造りの通路が広がり、最奥にまたしても扉が見えた。

「その向こう側に、件の人物がおります」

扉の脇へ下がると、道を譲るフレデリカが頭を下げた。彼女の会釈に顎を引き、スバルを先頭として四人は真っ直ぐにその扉へ向かう。

――地下最奥の扉に、鍵はかかっていない。

取っ手に手を伸ばし、押し開ければ即座に中とご対面が可能だ。

スバルはおずおずと扉に触れると、息を詰めて背後を窺う。

「――――」

エミリアも、ユリウスもアナスタシアも、ジッとスバルの行動を見守っていた。その三人に頷きかけ、スバルは深呼吸すると、取っ手を掴む手に力を込めた。

そして音を立てて、鉄扉が押し開かれ――、

「がおー、がおー! たーべちゃーうぞー!」

「きゃー、助けてえ、いやあ」

「ぐへへへへ、そんな風に助けを求めても、誰もきちゃくれないぜえ」

扉が開かれると、通路に明るい光が差し込み、同時に嬌声が聞こえてくる。

開け放たれた扉の向こう、部屋の中ではこちらに背中を向ける少女が一人、周りにたくさんのぬいぐるみを置きながら、両手に持った人形を弄んでいる。

声色を変えて、一人何役かは知れないが、夢中だ。

「いいえ、きてくれるわあ。だってだって、困ったときにきてくれるって約束してくれたんだからあ……んん?」

小さな女の子の人形を抱いて、立ち上がった少女がふいに何かに気付く。それからおそるおそるこちらに振り返る少女は、部屋の入口に立ち尽くすスバルたちを見て、その大きな丸い瞳を押し開いた。

茶色い髪をお下げにした、純朴で愛らしい顔立ちの、少女だ。

「よお、元気してたか?」

とりあえず、スバルは何事もなかったかのように、手を挙げて声をかけた。

「お、お兄さんのバカあ! 入ってくるときはノックぐらいしてよお!」

当然だけど、悪ふざけの結果として怒鳴られた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「ってなわけで、これが今回、魔獣関係のアドバイザーとして話を聞かせてもらうことになる、うちの屋敷の捕虜のメィリィだ」

「汚されちゃったよお、お兄さんに傷付けられちゃったあ……しくしく……」

部屋の隅で蹲って、ぬいぐるみに囲まれて凹む少女――メィリィをスバルが紹介すると、眉間に指を当てたユリウスが首を横に振った。

彼は悪乗りしたスバルを咎めるように、視界の端に少女を入れながら、

「事前に詳しく聞いておかなかったこちらの不手際もあるが……君は君で性格の悪さが際立っている。隙あらば悪ふざけしないと気が済まないのだろうか」

「悪ふざけってほどのことじゃねぇと思うんだがなぁ……いや、悪趣味なのは認めるけどさ。それに一応、危険人物なのは本当の話だぞ?」

弁解するスバルの言葉に、ユリウスは疑わしげな眼差しだ。そんな疑心暗鬼な男性陣を余所に、エミリアとアナスタシアは並んでメィリィに声をかけている。

「ごめんね、メィリィ。あとでスバルにはちゃんとメって言っておくから」

「なんや可愛らしい子ぉやないの。ベアトリスちゃんといい、ペトラちゃんといい、ナツキくんのとこはちょぉっと趣味反映しすぎなんやないの?」

「とんでもな意見、もっともらしく言わないでくれる!? 俺が集めようと思ってロリが集まってきてんじゃないよ!?」

にわかに『幼女使い』の異名が現実味を帯びるので、怖いこと言わないでほしい。

それはともかく、すっかりむくれたメィリィはエミリアたちの言葉にも耳を貸そうとしない。その辺、子どもらしい感性の持ち主なのがアンバランスだ。

「メィリィ」

「聞こえないわあ」

「メィリィってば」

「知らないもぉん」

これである。聞く耳持たずの姿勢に入られて、困り者だ。

なので、スバルは早々に最終手段を切り出すことにした。腰の後ろに手を回し、スバルは隠し持っていたそれをメィリィへ突き出す。

「ほれ、メィリィ。土産だ、受け取れ。新作ぬいぐるみ、ダレパンダ」

「――! わあ、可愛いい!」

スバルがメィリィに差し出したのは、都市プリステラから戻る道中、竜車の中でチクチクと繕っていたぬいぐるみだ。

この一年、家事手伝いとしてのスキルアップを果たしたナツキ・スバルの裁縫力は以前とは一回りも二回りも違う。ぬいぐるみ作りも可能だし、なんなら今ならば女性用の服を仕立てることさえできるかもしれない。

ともあれ、新作ぬいぐるみはパンダをモチーフに、『暑さでダレた』というテイストを加えた意欲作だ。どこかに似ているものがあった気はするが、それは世界を越えてまで主張はしてこないのでスルーする。

そんなこんなで新作を差し出され、メィリィは目を輝かせて受け取った。

「可愛い! 新しい子だわあ! なんて名前にしようかな……うん、決めた! この子は大熊猫って名前にするわあ!」

「それ、本質を突いた名前だなぁ」

命名のセンスはともかくとして、本質を見抜く眼力はなかなか優れている。

メィリィはパンダのぬいぐるみを大事そうに抱えると、機嫌の直った顔でスバルたちに向き直った。

「そういえば、おかえりなさぁい、お兄さんにお姉さん。ずいぶんと遠くまで行ってたみたいねえ。ペトラちゃんが寂しがってたよ?」

「一ヶ月ちょい留守にしてたかんな。それでまたちょっと遠出するから、ペトラには怒られそうなのが嫌なんだが……」

「ペトラちゃん、お兄さんのこと大好きだもんね。……あら、新顔さん?」

散らばっていたぬいぐるみたちを棚に並べ直しながら、メィリィが今さらになってユリウスたちに気付いた顔をする。その機嫌の移り変わりにユリウスは驚いた様子だが、アナスタシアの方は慣れた顔で頷いた。

「ミミに比べたら、振り回される感じは序の口みたいなもんやね」

「……そう言われると、その通りですね。ミミに感謝しましょう」

変なところで主従が合意し、それからふいにユリウスが視線を部屋へ送る。彼は一通り、その地下空間を眺めると、

「それにしても、座敷牢と聞いていたから過酷な環境を想定していたが……存外、過ごしやすそうな環境にしてあるのだね」

「入ってるのが女の子だし、苦しめたいわけじゃなかったから。……でも、なかなか外に出してあげられない事情もあって、複雑なの」

エミリアが不甲斐ない顔で眉を下げる。

その彼女の言葉通り、『座敷牢』――言ってみればメィリィの居住空間は、はっきり言ってしまえば軟禁される環境としては、非常に緩い空気の場所だ。

石造りの通路こそ冷たく見えるが、最奥にある彼女の部屋には明るい色彩の壁紙や絨毯が敷かれており、拘束もされていないため行動は自由。棚にはスバル手製のぬいぐるみが何個も並べられており、暇潰しのための書籍や遊具の数々も置かれている。

食事が与えられないようなこともなく、入浴や排泄も問題ない。つまるところ、悠々自適な引きこもり環境といえる。スバルの方がこもりたいぐらいだ。

ただし――、

「独特の、瘴気に近い空気は延々と漏れ続けているようだが」

「それもどうやら、その子から……って感じやね」

アナスタシアたちの視線に、メィリィがニコニコと微笑みながら頷く。

その純朴な表情の少女から、しかし隠し切れないほど滲み出るおぞましい鬼気。それこそがメィリィがここに軟禁され、解放されずにいる最大の理由だ。

「竜車でも話したけど、元々この子の素性はエミリアとか俺たちを狙ってきた……ええと、殺し屋みたいなもんだ。それはいいよな?」

「その時点ですでによくない気はするが、先を聞こう」

「含みのある言い方だな……とにかく、殺し屋なんだよ。で、メィリィがこの小さい体でどんな働きをするのかっていうと、早い話が魔獣を操る。『魔獣使い』だ」

「そう、私と悪い動物さんたちはすごく仲良しなの」

えへん、と言いたげに胸を張るメィリィだが、その語った内容は驚愕の一言。

そもそも魔獣とは決して、人には懐かない人類の害敵なのだ。唯一の例外として、魔獣は角を折られた場合、折った相手に従う仕組みがあるらしいが――、

「メィリィの場合、そういう角の有無とは無関係に影響する。理屈はイマイチ、説明されてもよくわからねぇんだが」

「ママのお話だと、私が魔獣たちにとって『角』と同じ役割をするんだってえ。だからあ、私は魔獣さんたちと仲良くできるわあけ」

魔獣の、角の役割を果たす――それの意味するところがイマイチ不明瞭だ。

なにせこの世界、魔獣の生態を解き明かそうといった類の研究はこれまでに行われてきたことはないらしい。無論、魔獣狩りを生業とする人々もいるにはいるらしいが、彼らも習性などには詳しくても、研究的な見地で見てはいないだろうから。

「メィリィは最初は、もう一人の人と一緒に私たちを襲いにきたの。そのもう一人をガーフィールがやっつけて、この子は捕まえた。それからずっと、この子はこのお屋敷で匿ってるの」

「なんでそないなことしたん? 言ぅても敵やったんなら、さっさと始末付けた方が……やなんて、小さい子ぉ相手にできそうにないかなぁ」

「……殺すなんて、考えられないわ。だけど、放逐も難しくて。だって、この子が言うには解放されたら」

「ママに怒られちゃあう。エルザも死んじゃったし、私も失敗しちゃったし、見つかったらきっと殺されちゃうわあ。だから、ここにいるのが一番安全」

メィリィは気楽な口調で、しかし表情には陰を落としてそう答える。

共同していたエルザを失い、仕事に失敗したメィリィ。彼女らの保護者、おそらくは殺し屋の元締めのような存在は、その失敗を決して許さない。

放逐して、彼女が制裁を受ける――それは確かに彼女の自業自得で、スバルたちにとっては関係のないことかもしれないが、

「夢見が悪い、ってことは間違いねぇからな」

「君やエミリア様のその考えは今に始まったことでもない。何を言っても外野に過ぎない我々が言葉を尽くすのも筋違いだろう。……ちなみに、母親というのは?」

「わからねぇ。母親、ママって呼び名以外は全部秘密だと。メィリィの話だと、顔とかもわからないんだとか。どんな家庭環境だよ」

だが、殺し屋稼業なんてものを生業にする以上、そういった暗がりの生き方は仕方ないのかもしれない。いずれにせよ、メィリィの口からその母親とやらを割り出し、後顧の憂いを絶つことは難しいようだった。

「ロズワールの野郎も、エルザが死んだら窓口がないとか使えねぇ……」

「何か言ったかい?」

「こっちの話だ」

スバルの召喚初日、王都で起こった徽章騒動はロズワールの仕込みだ。

当然、エミリアの命を狙ったエルザも彼の依頼を受けたものだったので、依頼したときの流れを汲めば特定は容易いはずだったのだが。

どういうわけか、その線は窓口になった人間が死亡し、連絡が付かないらしい。その後のエルザとメィリィの襲撃は、ロズワールの言を信じるのであれば彼の思惑とは無関係――母親、とやらの存在が気にかかるところだった。

「ともあれ、メィリィ関係についちゃそんなとこだよ。この子は必要に迫られてここにいる。甘やかしてるつもりも、とりあえずはねぇ」

「そのわりには、スバルもみんなもちょっと良くしすぎてるけどね」

「それについてはもう、夢見の良さ優先だよね!」

だって、小さい遊び盛りの女の子が、冷たい地下で軟禁とか心苦しいし。忘れようと思って忘れられるものじゃないし、無視しようとすると夢見が悪いし。

だったら別に恨みがあるわけじゃなし、気分良く過ごせるようにした方がいい。

「……普通に考えたら、恨みはあるんやないの?」

「……そうか?」

「だって、殺されかけた相手や言うてたやないの。それなら」

「そりゃ無為の悪意ってのはあるし、悪事は年齢に関わらず悪事だけどさ」

アナスタシアの問いかけに、スバルは頬を掻きながら考える。横目にメィリィを窺えば、彼女は感情の読み取れない目でスバルを見ていた。

別に彼女に配慮するわけじゃないけれど、素直な考えを口にする。

「判断力のない奴に悪事を命じた奴がいるなら、悪いのは命じた方だと思うんだよ。子どもならなおさらだ。自分で考える頭があって、それでもまだやるなら条件は一緒だと思うけどさ。目には目をの、ハムラビ法典じゃマイナスばっかだよ」

「綺麗事やね。その子が今まで殺した誰かが、それで納得する思う?」

「思わないし、その人たちがメィリィに報復したがるのはそっちの自由さ。俺だってこっちで誰か死んでたら、今みたいに許したなんて言わないし」

結局のところ、出会い方次第でスバルの意見も考え方もコロコロと変わる。

軸が定まっていないとか、感情に流されているとか、そう言われるならそれもいい。実際、そんなものだろう。

「俺は自分がガキの頃、自分で取れない責任は親とか大人に取ってもらってた。だから身近で、まぁ、仲良くできる子どもが責任取れないことしたら、代わりに取ろうとしてやってもいいんじゃないの? って思う。そんだけ」

「……貴重なご意見、ありがとさんや」

スバルの言葉に、途中から興味を失いかけのアナスタシアがそう締め括る。

もちろん、そういう反応が一般的な反応だろうと思うので傷付かない。潔癖な判断が尊ばれる組織であれば、年齢に関わらず悪事は悪行として裁かれる。

そこに猶予が与えられるのは、この陣営が緩い陣営であるからだ。そしてスバルはその空気と環境が、悪いものとは思わない。

「私は……」

「――ん?」

「私はスバルの言ってること、そんなに変だと思ってないからね」

「……あんがと」

完全に肯定されたいわけでもないけど、そんな感じの言葉に救われる。

そうして、自分の話題なのに置き去りにされていたメィリィに向き直り、スバルは彼女に視線の高さを合わせると、

「お前の力が借りたい話があるんだ。付き合ってもらっていいか?」

「……いいわあ。お兄さんに付き合ったげるう」

頼み込むスバルに、メィリィは静かに頷いた。

抱き寄せたパンダで顔を隠す少女の眦に、うっすら涙が見えたような気がしたことは、スバルも誰も指摘しなかった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「アウグリア砂丘なら、二回だけいったことあるよ?」

スバルたちの説明を聞き終えて、自分のお下げを弄りながらメィリィが言った。

彼女は記憶を回想するように目をつむり、

「手札の魔獣さんたちを補充しようって寄ったの。あそこ、魔獣がたくさんいる場所だったからすごい捗ったけどお……」

「けど?」

「お兄さんたち、本当にいくの? たぶん、私以外の人って死んじゃうよ……?」

倫理観の欠如した少女の目からも、どうやらスバルたちの行いは無謀に映るらしい。どれだけ入れ食い状態だったのか、魔獣第一人者の意見には重みがあった。

「経験者の経験談は大いに参考にしたいんだけど、いくと死ぬよって意見はもう散々議論されてるから今さらなんだよ。それに砂漠の迷路っぷりだけなら、突破する方法はひとまずこっちで準備してある」

「はいな、うちのことやね」

ひらひらとアナスタシアが手を振り、自分の案内役ぶりをアピール。

ただし、ただ道に迷わないだけでは監視塔への砂漠攻略としては三十点――赤点で落第必至。というか、この問題に関しては満点解答が出せない限り、おそらく生きて突破することは困難なのだが。

問題は三つ、『砂漠の迷路』『魔獣の巣窟』『賢者の目』だ。

その内の『砂漠の迷路』はアナスタシア=襟ドナでどうにかなるとして、二つ目の『魔獣の巣窟』に対するカウンター、これを用意したかった。

そのために、メィリィに詳しい話が聞きたかったのだが――、

「なんかこう、うまく魔獣を避ける方法とか逆におびき寄せる方法とか、そういうのに心当たりとかってないのか?」

「お兄さんが一人でどんどん走って進んだら、きっといぃっぱい寄ってくるけどお?」

「それ、もうすでに何回かやって痛い目見てるんですよ」

一年前に屋敷で一回、そのちょっと後に平原で鯨に一回、そろそろやめたい。

もちろん、手段がそれしかないならやるのは吝かではないが、砂漠の真ん中にスバルだけ取り残される形はできれば避けたいのである。

「お兄さんがダメなら、他に囮の人をいっぱい用意するとかあ。魔獣ってみーんな、普通の食べ物より生き物の方に飛びつくからあ、そんな感じかも」

「そんなの絶対にダメ! 反対! 私、反対です!」

「そんな躍起になって反対しなくても、誰も選ばないから大丈夫だよ」

とはいえ、建設的な意見は浮かび上がりそうもない。

魔獣の生態に関して、少なくとも他の誰よりも長じているだろうメィリィをして、効果的な策が思いつかない以上は手の打ちようがない。

「やっぱり、襲いかかってくる魔獣を片っ端からやっつける戦法か。エミリアたんとユリウスに期待が寄せられるな」

「そこに自分を含めないあたり、君の自己評価がどうなっているのか気になるところではあるが……それは、可能と思えるかな?」

スバルの提案に、ユリウスがメィリィへ現実性を問い質す。それを聞いて、メィリィはエミリアとユリウスの二人を交互に見ると、

「たぶん、ダメだと思う。お姉さんたち、休まずに一週間ぐらい魔法使えるう?」

「そんな末期の塹壕戦みたいな状況が求められんの!?」

「や、やってみる……?」

「いいよ! これは無理な話の流れだよ! エミリアたんの髪と肌がガサガサになるからやめよう! はい、却下!」

無理やりに中央突破する案は、そもそもの内容として無理があるらしい。

メィリィが実際に見た光景がどれほどのものかは知れないが、子どもらしい過剰さで語っていないとすれば、決して無茶は犯せない。

「竜車に魔獣の血を塗って、他の魔獣の嗅覚を誤魔化すというのは?」

「いや、地竜は誤魔化せないし、サメみたいに余計に集まってこないとも限らない。護衛を雇うとか……この際、白鯨のときみたいな大軍勢は?」

「それも駄目だ。以前、プレアデス監視塔を目指した挑戦者の話はしたろう? 軍勢と言わないまでも、大規模な集団が挑んだことはあった。結果は察しの通りだ。強力な魔獣の角を折り、他の魔獣の壁にするのは?」

「それこそ、鯨ぐらい圧倒的でもなけりゃ、数で押し込まれるだろうよ。もっとこう簡単に、虫よけスプレー感覚で魔獣避けがありゃいいんだが」

スバルの体臭――もとい、魔女の残り香は虫寄せスプレーなので役立たず。

アーラム村と魔獣の生存域を分けていた結界も、あれは恒常的にロズワールが結界を維持していたから機能するのであって、例えば自分の周りに結界を作って結界ごと移動――みたいなことはできないらしい。

「いっそ、ロズワールに掴まってみんなで空から攻めるか」

「賢者の目を掻い潜れるなら、それも手だったかもしれないがね」

「ああ、クソ、そうか。『賢者』のこともあんだよなぁ」

現実性のない意見は、現実的な観点から否定される。

砂漠と魔獣を回避しても、まだ賢者の問題は残っている。こればかりは正直、これまでに掻い潜った人間がいないだけに、何をされるかもわからないのだが。

「せめて、問題が一つに絞れれば……」

「――もお、しょうがないなあ」

「あん?」

部屋の中で車座になり、どうしたものかと頭を悩ませるスバルたちに、とうとうメィリィがそんな風に言った。立ち上がるメィリィは、座っているスバルたちの前で小さく首を横に振ると、

「私、一緒にいってあげてもいいよ。私が一緒なら、魔獣さんたちのことはどうとでもしてあげる。遠ざけるのも、ペットにするのも、殺し合いさせるのも、賢者って人を食べさせるのも自由」

「いや、後半は全部やるなよ!? っていうか……」

かなり過激な発言に目を剥くが、それ以上にその提案に驚かされた。

協力的な姿勢はいわんや、メィリィ自身が外に出ても構わないと、これまで決して口にしなかった意見を口にしたことに。

「外、出るの怖いんだろ? 大丈夫なのか?」

「別に、お屋敷の外に出てすぐにママに見つかるわけじゃないでしょ? 見つかるのは怖いけど、一生、中にいるわけにもいかないんだしい」

いずれは出なくてはならない、という意識がメィリィにあったことが驚きだ。

だが、それも当然かもしれない。機会を作って、こうして代わる代わる彼女の様子を見ることは続けてきたが、それでも一人で部屋にこもっている時間の方がずっと多かったのだ。考える時間はきっと、沈黙が怖くなるほどあったことだろう。

一人きりで部屋にこもるのは、楽であると同時に恐怖でもある。

そしてその感覚はいずれ麻痺しても、思い出したように心を責め立てるのだ。

「スバル……」

メィリィの胸中にスバルが妙な共感を覚えると、その袖をエミリアがそっと引いた。彼女の考えはスバルにもわかる。それはスバルも同感だからだ。

「楽しいお出かけになるわけじゃないぜ。案内はあるけど砂漠越えだし、お前はいるけど魔獣の巣穴を通る。おまけに怖い賢者が見てるかもって状況だ」

「久しぶりのお散歩には、ちょうどいいんじゃなあい?」

あくまでも強気に、メィリィは上からの視線でスバルにそう言ってのける。その言葉のどこまでが虚勢で、どこまでが本音かはわからないが――、

「魔獣の問題に対する切り札、そうよね?」

「ああ、そうだな。よろしく頼むぜ、メィリィ」

「言われなくても、そうしてあげるわあ」

エミリアとスバルが顔を見合わせ、それからメィリィに頷きかける。それを受けた少女はやや背伸びした風にそう言って、腕の中のパンダをギュッと抱いた。

そうして、今回の旅の達成に一つ前進と相成ったところで、その結果を見届けたユリウスが一言、感心した顔で腕を組んだ。

「こう言ってはなんだが、君は本当に少女を口説くのが得意なようだね。……あまり風聞のいい特技とは言えないが」

「お前らがそうやって、俺をどんどん幼女使い扱いするからな! 言っとくけど、メィリィも幼女ってほど小さくねぇから! 幼女ってのはなぁ!」

益体のないユリウスの言葉に、地団太を踏んでスバルは部屋の入口を指差す。するとちょうど、扉が向こう側から開かれて顔を見せたのは、

「――なんかやかましいと思ったら、またスバルは何を騒いでいるのかしら」

ロズワールとの密談を終えた、件の幼女が合流して、またひと悶着があったのだが、その件については語るまでもない出来事として、ひとまず区切られよう。

第六章4  『君を連れ出す理由』

プレアデス監視塔到達のための、死の砂漠地帯アウグリア砂丘の攻略。

魔獣の巣窟でもある砂の迷宮を抜けるため、心強い味方としてスバルたち一行に『魔獣使い』メィリィが加わった。

とはいえ、彼女を連れ出すと決めたものの、屋敷の座敷牢に身柄を拘束し、一年もの長い期間を縛り続けてきたのはロズワールの協力あってこそだ。

『腸狩り』と共謀して屋敷を襲った経緯もあり、当然、そんな彼女の軟禁を解除するにはそれなりの言い合いが発生するものと思ったのだが――、

「別にいーぃんじゃない? スバルくんとエミリア様が外に出すって決めたんなら、出してあげても問題ないでしょ。仮に判断違いでその子が悪さ働いたとしても、それで狙われるのは君たちだろーぉしね」

などと、ロズワールはあっさりとメィリィの解放を許可。その答えの内容も実にロズワールらしいと言わざるを得ない内容だったが、ひとまず許可は取り付けた。

そんなわけで、メィリィは無事、一年ぶりの解放と相成ったわけだ。

「んん~っ! やあっぱり、お外の空気は違うわあ。ずうっとあのお部屋の中にいると窮屈で、息が詰まっちゃいそうだったもん」

「つっても、お前にあんまりそう思わせないために色々と手は尽くしたんだけどな。言うほど、悪い生活ってわけでもなかったろ?」

「そおかしら? 気遣いは嬉しいけど、やあっぱり自由に出歩ける身とは全然違っちゃうわよお。お兄さん、そういう細かなところに気付けないと、今にお姉さんとお嬢ちゃんに嫌われちゃうんだからあ」

大量のぬいぐるみを抱えながら、振り返るメィリィが唇を尖らせる。

ちなみにメィリィの口にした、『お姉さん』がエミリアのことで、『お嬢ちゃん』がベアトリスのことである。これがペトラだとペトラちゃん、ガーフィールだと『牙のお兄さん』になり、オットーは『弱そうな人』なのだからさもありなん。

「お部屋、ここでいいのお?」

「聞いた限りじゃ問題なし。一応、使ってない部屋でも掃除の手は入ってるから、汚い場所とか不自由する問題とかはないはずだぜ。俺らが荷物運び出す間に、フレデリカあたりがきっちり掃除してくれてたはずだし」

「……ふーん」

きょろきょろと、物珍しげにメィリィが見回すのは、ロズワール邸西棟にある使用人用の私室が並ぶ一角――その中の一部屋だ。

座敷牢から解放されることになったメィリィだが、その立場は複雑を極めた。

当然、放り出すわけにはいかないため、屋敷で面倒を見る必要があるのだが、彼女の役割は客分なのか使用人なのか。客分というほど遠くには置けないし、使用人というほど内側に潜らせるのもいただけない。

結局、どっちともつかない半端な『協力者』という立ち位置に落ち着き、彼女には半身内のような形で使用人階の一室が宛がわれた。

そこに、これまで座敷牢に溜め込んでいた数々の私物を運び入れて、無機質な部屋を彼女色に染め上げようというところである。

「せっかくこんな風にしてもらってもお、長居するかどうかなんてわかんないけどね。無事に生きていけそうな目処が立ったら、すぐに逃げちゃうかもだしい」

「その目処が他人に迷惑かけないこと前提で、おっかない母親のところに帰るとかじゃない限り、お前の好きにしたらいいさ。あ、ただし、ちゃんと今回の仕事は終わらせてもらうぞ。その後でなら、好きにしろ」

「後腐れなくなくなったら、どこで死んでもいいってことお?」

「俺の耳にさえ入らなきゃ、誰がどこで死んでようが構うかよ。……って、昔のシニカル気取りの俺なら言っただろうけど、そうは言わねぇよ」

運び込んだ荷物を部屋の隅っこに置いて、窓際に佇むメィリィの頭を撫でる。栗毛にお下げの少女は、スバルの掌に撫でられたままになりながら目を瞬かせる。

「関わっちまった連中は、どうあれまともな生き死にしてほしいと思うもんだ。お前が出てくのも自由にしたらいいけど、どうせなら手紙の一つでも出せよ。それができる程度には真っ当に、過ごしてくれりゃそれでいいから」

ぽんぽん、と最後に軽く頭を叩いて、撫でていた手を引っ込める。メィリィは撫でられていた頭に手を当てると、じと目でスバルを睨みつけた。

「……お兄さん、そおやってお嬢ちゃんやペトラちゃんを手懐けたのかしら。まあったく、油断も隙もないったらないわあ」

「そういうつもりはねぇんだけどなぁ」

頭を掻いて、スバルは引っ越し手伝いを終えて部屋の出口に向かう。荷物の運び込みが終われば、部屋の飾り付けまでは手伝うつもりはない。というより、少女の模様替えセンスとスバルのセンスとの間にはおそらく絶望的な壁がある。

余計な手を入れて嫌われる前に、さっさと退散すべきだろう。

「まあ、お兄さんの言い分は話半分に聞いておくわあ。それにどうせすぐ、アウグリア砂丘に命を捨てにいくんだしい」

「捨てにいくんじゃなく、拾いにいくんだよ。そこんとこ、お前の力にかなりかかってるんでヨロシク」

「はいはあい」

ひらひらと手を振って、こちらを追い出しにかかる少女に片手を掲げる。スバルを見もしないメィリィは、気のない顔で箱の中から私物を取り出し、それを仮初の自分の部屋へと配置していく。

メィリィの言う通り、長居するかどうかも、戻ってくるかどうかもわからない部屋ではある。ただ、

「楽しそうにしちゃってまぁ」

自分の部屋を与えられた少女が、心なしか弾んだ足取りで室内を歩き回る。そしてお気に入りのぬいぐるみを置いて回る姿には十分、年頃の少女が初めて自分の部屋をもらった――そんな、弾んだ調子が見え隠れしていて微笑ましいのだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

メィリィの同行が確定し、『ドキドキ、賢者に質問ツアー』の参加者はこれで七名――スバル、エミリア、ベアトリスの身内枠三人に、ユリウス、アナスタシア、メィリィの外部協力者枠が三人。そして、連れ出されるもう一人の少女、レム。

以上の七名が、世界図の東端に位置するアウグリア砂丘へ臨むメンバーになる。

世界の端も端にあるアウグリア砂丘へは、真・ロズワール邸から東へ一直線――ただし、その旅路は水門都市プリステラへと向かう道筋よりも長く、片道だけで二十日近くかかることは確定している。

つまり今回の冒険は行き帰りだけで四十日、無事に監視塔へ到着し、そこに滞在する日数のことを考えれば二ヶ月以上になる可能性のある大遠征だ。

それだけに、何が問題になるのかというと――、

「なぁ、ペトラ。ほったらかしにしてて悪いけどさ、機嫌直してくれって」

「別に~。わたし、怒ってなんてないもん。スバル様はどーぞ、これまでみたいにどこか遠くで危ないこととかいっぱいしたらいいんじゃないですかっ」

すでに一ヶ月、プリステラ関係で放置された上に、加えて二ヶ月の放置が確定しているペトラが激しくへそを曲げてしまっているのだ。

少女はその小柄な体に似合いのメイド服を翻し、つんと澄まし顔を作りながらせかせかと屋敷の廊下を歩いている。スバルはといえば、そんなペトラの後ろを平謝りしながら、とにかく機嫌を直そうと言葉を尽くしている真っ最中だ。

そもそも、何故ペトラのご機嫌伺いにスバルがこんなに必死になる必要があるのかという話だが、古今東西、女の子がこうして不機嫌になった場合、悪いのは大抵は男であるというのが通説だ。

実際、この屋敷でも有数の女子力を誇る女子代表格であるペトラ。彼女の機嫌を損ねそうな残念男子は、屋敷にはスバルかロズワールかガーフィールかオットーしか――他にも該当者多数ではないか。というか、男勢は全員、残念男子ではないか。パック復活のあかつきには、パックもそのダメ男勢に加わるだろう。ダメすぎる。

とにかく、

「そりゃ一ヶ月もロズっちと屋敷に取り残されてたら息が詰まっただろうけど、一応はこれもお仕事なわけだから選り好みは……ぐえ!」

「そんなことで怒ったりなんてしません! わたし、子どもじゃないんだから! フレデリカ姉様やラム姉様もいるのに、変なこと言わないで」

「男の胸に飛びついて、水月に頭突き入れるような子が子どもでなくてなんと……」

人体急所を打ち抜かれて、悶絶するスバルにペトラがご立腹だ。

両手を腰に当てて、薄い胸を張る姿のどこに『子どもらしさ』以外を感じろという話だが、淑女は精神に肉体が追いつく前に出来上がっているものだ。ベアトリスの場合は成長が一向に追いつかないので、精神も引きずられてる感があるが。

「でもペトラ、前よりちょっと頭突きの位置が上がったか? 前は懐に飛び込んでから一拍、伸び上がるタイミングがあったと思ったのに」

「……呆れた。ベアトリスちゃんにも言ったでしょ? ほら! ちゃんと見て。わたしも一ヶ月で成長するの。背も伸びたし、足も伸びたし、顔も可愛くなったでしょ」

「あー、確かにちょっと伸びたか? 背も髪も。顔は元々可愛かったけど」

元々、ペトラはアーラム村一の器量よしだった。村の男児の憧れにして、お嫁さんにしたい女子不動の一位であったペトラだけに、屋敷のメイドとして引き抜く際にはすったもんだがあったものだ。

具体的に言うと、泣きじゃくる子どもたちを相手に、村の広場のど真ん中で繰り広げられる大相撲大会。最後には大人も乱入し、何故かボロボロにされたスバルが胴上げされて終わった謎の通過儀礼だった。

ともかく、村中に愛されて、屋敷への奉公を大いに嘆かれたペトラだ。

将来性抜群のペトラのためにも、できるだけ屋敷の中では便宜を図ってやりたい。そうはいっても屋敷の中でのスバルの権限などないに等しいので、こうして日々、日常を忘れずに済む程度に構ってやるぐらいなのだが。

「遊びたい盛りの女の子に、それもやってやれてなかったからな。気心知れてる姉様方とはいえ、仕事仕事じゃ息が詰まるのもわかるって話だ」

「そういう、話じゃないけど……」

よしよしと、拗ねる少女を慰めるように両手を開いてみせる。と、ペトラは少しだけ躊躇う仕草を見せてから、スバルの腕の中に飛び込んできた。小さい体を抱きしめてやり、労うように頭を撫でる。

「スバル……じゃなくて、スバル様。また、危ないことしにいくの?」

「危ないことって決まったわけじゃないぜ? いや、危ないかもしんないなぁぐらいの話が出てるけど、実はものすごい格安安全ツアーの可能性もある」

「どっちがどのぐらいの可能性?」

「八・二で、安全の方が分が悪いかな?」

「それ、だいぶ危ないと思うよ、わたし」

突っ込んだ話に持ち込まれると、嘘をつけないのもスバルの悪い癖だ。

腕の中のペトラが不機嫌になる気配がして、スバルはどうしたものかと嘆息する。と、ペトラはスバルの腹に額をぐりぐりと押し付け、

「わたし、心配です。スバル様っていっつもそう。初めてお屋敷にきて、村で会ったときからずっと。あんなにたくさん大変そうなのに、また休みもしないであちこち駆け回って……何もしない旦那様を見習ったらいいのに」

「いや、たぶん、ロズワールも俺らの見てないところで判子押すのに額に汗してたりすんだよ? 命の危険的な意味でなら、まぁ、役立たずは同感」

「魔獣のときも、魔女教のときも、土蜘蛛とか女神像とか、エリオール大森林のときもお墓掃除のときも大変で、それなのにプリステラでも魔女教とぶつかって、オットーさんたちまで死んじゃ……いかけたのに」

「危うく、またオットーが殺されてしまうところだった」

オットー死に過ぎ。

印象的には全くの同感ではあるのだが、あまり簡単に死なないでほしい。オットーに死なれると、ナツキ・スバルも死なないわけにはいかなくなる。

死でも分かつことのできない友情、などと嘯くつもりはないが。

「別にスバル様じゃなくてもいいじゃない。誰か他の人に……もっと、強い人とかに任せたらいいのに。旦那様とか、暇じゃない」

「わかった、わかったよ。ペトラがどんだけ、日頃、うだうだ過ごしてるロズワールに対してフラストレーション溜まってるのかはわかったから。何かにつけてロズワールを死地に追いやろうとするのはやめよう。陣営内の不和すぎるから」

ペトラがロズワールに出すお茶に、雑巾の絞り汁を入れるぐらいなら見逃しても構わないが、さすがに敵意・害意が具体性を帯び始めるのはマズい。

そうなる前に制止の声をかけるが、スバルを見るペトラの瞳は真剣だ。

おざなりな誤魔化しや、その場しのぎの言葉では少女を納得させられそうにない。何よりペトラは本気でスバルの身を案じてくれている。

ここで余計な軽口を挟むのは、その気持ちに対して失礼というものだろう。

「まぁ、ペトラの言い分もわかるよ。ちゃんとな。そりゃ、賢者の塔に向かうまでには魔獣もいるらしいし、砂漠の迷宮ぶりは半端ないって話だし、そもそも塔に近付くと癇癪起こした賢者に狙われるってとんでもなこったけど……それでも、誰かに任せようって気にはならねぇんだよな」

「……どうして? スバル様、まさか自分が強いって勘違いしてるの? そんな恥ずかしい勘違い、ガーフさんだけで十分だよ」

「ペトラの採点の厳しさマジ半端ねぇな! ガーフィールに聞かせらんねぇや!」

聞けば多くの男が震え上がるほど、ペトラの採点基準は厳しく辛い。

ガーフィールの強さに対する姿勢を、なるほど勘違いとはいい捉え方だ。ただし、ガーフィールはその『勘違い』を『現実』に変えるための努力は欠かさない。それにたぶん彼の場合、『勘違い』しているときの方が強いのが考え物だ。

そういう意味でも二重に、今の話はガーフィールには聞かせられまい。

「まぁ、ガーフィールの考え方に対する所感は置いておくとして……別に俺だって、俺より適任がいないと思ってるわけじゃねぇ。っていうか、砂漠の迷宮抜ける準備があるんなら、ラインハルトに全部ぶん投げた方が色々安全なはずだしさ」

「なら、なんでそうしないの?」

「なんでだろな。ちやほやされるのは好きでも、名誉欲がある方じゃなかったと自分では思ってんだけど」

自分がどうしてそうしたがるのか、実際のところはよくわかっていない。

ただ、あえて言葉にするとしたら、これはこういうことだろうか。

「――いや、やっぱり、これは俺がやりたいことなんだろうな。もっと適任がいるのかもしれなくて、そっちの方が可能性が高いってわかってても、俺がやりたい」

「どうして?」

「恥ずかしい話……目が覚めたとき、最初に見るのが俺であってほしいからだ」

「――――」

誰が、とは言わなかった。言わなくても、ペトラにも伝わっただろう。

今もなお、深い眠りの中にある少女――『賢者』の塔で、その彼女を眠りから目覚めさせる手段が見つかるのならば、それを掴むのは自分でありたい。

適任者が他にいるかもしれなくて、自分以外の誰かの方が可能性が高いのかもしれなくても、こればかりは譲れないし、譲りたくない、スバルのエゴだ。

「感情抜きで、理屈だけの話をするならさ……目覚めさせるのは、誰でもいいと思うんだよ。決して目の覚めない、とんでもない病気みたいなもんが蔓延してて、それから救い出すだけの話ならワクチンやら特効薬やらなんて、誰が開発してくれてもいいとは思う。救われてくれるなら、過程なんてどうでもって思う」

「……うん」

「でも、そこに感情をぶっ込んだら、過程も俺の手でやりたい。俺が助けてやりたい。俺が起こしてやりたい。俺の全部で、全部を救ってやりたい」

――だから、ナツキ・スバルがいくのだ。

もっと強い人間なら、いくらでもいる。

もっと頼れる人間なら、いくらでもいる。

もっと賢い人間なら、いくらでもいる。

もっと素晴らしい人格者なら、いくらでもいる。

だけど、その全部を自分のエゴで蔑ろにして、ナツキ・スバルがいくのだ。

彼女を救い出して、彼女に称賛されたい、ただそのためだけに。

「自分勝手で、がっかりさせてごめんな」

「――ホントに、がっかりしちゃった。今のでなんにも変わらない、わたしに」

「んん?」

情けない自白に、スバルは嫌われるの覚悟でペトラの頭を最後に撫でる。だが、ペトラは聞こえづらい声でそうこぼすと、スバルの腕の中で顔を上げた。

その丸く大きな瞳は大粒の涙で潤んでいて、スバルは驚いてしまう。

そこに、

「えいっ」

「また鳩尾――!?」

鋭く頭を振り下ろし、ペトラの額に水月が抉られる。

無防備な急所狙いにスバルの膝が落ちると、腕をするりと逃れたペトラは大きく飛びずさり、あっかんべーと舌を出した。

「スバル様のバーカ! 自分勝手! もう好きにしたらいいじゃないっ」

「ぐ、うお……っ」

「二ヶ月して戻ってきたとき、わたしがすごい美人になってビックリさせてあげますからっ。その成長を、間近で見られなかったことを後悔したらいいよ!」

「む、それは素直に残念な気持ちがあるぞ」

ちょうど成長期の子どもの変化は尋常ではない。ペトラも華の十三歳、二ヶ月も離れていれば、実際に印象が大きく変わってしまいかねない。

「何を隠そう、俺も中二から中三の一年間に十九センチ伸びたからな……」

「え、それはちょっと無理そう……」

まぁ、スバルの場合は元の身長が低かったために起きるレアケースだろう。かけられる期待の大きさにペトラが折れかけたが、すぐに少女は拳を握りしめた。

そして、スバルに両拳を突きつけて宣言する。

「とにかくっ! スバル様はそーやって好きに危ないところにいって、いっぱい人に心配とか迷惑かけながら、いつもみたいにしらーっと帰ってきたらいいのっ」

「そう言われると、俺ってかなり傍迷惑な奴だな……」

そうやって見てみると、意外とこれが言われ方間違ってないのでアレなのだが。

ともあれ、スバルの方も両手を突き出すと、ペトラの拳に拳を合わせた。

「んじゃ、毎度のことでペトラには悪いけど、いつものように危ないところにへらへら出向いて、んでもって色々なんやかんやしてしらっと帰ってくるのを待っててくれや。出かけた俺らに、おかえりって言うのだけはペトラの特権だ」

「……フレデリカ姉様とかラム姉様にも先に言わせない?」

「ああ、約束する」

「旦那様にも?」

「そこは心配しないでも、屋敷戻って最初に顔見せるのがロズワールだったら俺の方が殴り掛かるよ」

「……ん、わかりました。じゃあ、それで納得してあげます」

合わせた拳を引いて、嘆息するペトラがようよう意気を引っ込めてくれる。流れを見ると多分に、ペトラに譲らせてしまった形が大きいと見るべきだけれど。

「もう、スバル様は仕方ないんだから……」

なんだか、顔を見せる相手みんなに、そう言われている気がして。

頭が上がらないな、とスバルは思うのだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

後顧の憂い、というほどのことではないが、屋敷に残した問題を解消して回っていると、最後にスバルが足を運んだのがその一室だった。

「――――」

この部屋に上がり込むときだけは、自然とスバルも息を詰め、足音を忍ばせる。おそらくは大声で歌いながら、タップを刻んで入室しても室内の様子は変わらない。

それでも無意識に静寂を守ろうとするのは、その部屋の寝台に横たわる少女の眠る姿が、あまりにも見るものの心に儚げな疼痛をもたらすからかもしれない。

今すぐにでも、目覚めるものなら目覚めて欲しい深い眠り。

しかし、その眠りを妨げることに、ひどく冒涜的な何かすら感じてしまう。そう思うほどに、夢幻に沈む少女の姿は尊いものに思えるのだ。

「なんてのは、さすがに俺の主観的な意見すぎるのかね……」

呆れた口調で言いながら、スバルは寝台の横に椅子を引き、腰を下ろす。

そうして一ヶ月ぶりに足を運んだ部屋の中、以前と――一年前から一向に様子の変わらないまま、今も眠り続けるレムの寝顔と再会した。

「帰ってたのに、顔出すのが遅れてごめんな。ちょっと色々と片付けてて……それで気後れしてるうちに、最後の最後になっちまった」

「――――」

当たり前だが、眠るレムからの返事はスバルにはない。

そのことがわかっていながら声をかけるスバル、しかし表情は穏やかだ。彼女の前でだけ見せる、ナツキ・スバルの表情がそこにある。

エミリアにしか見せられない、何かをなげうつような懸命な表情。

ベアトリスにしか見せられない、命を預けるような信頼の表情。

そしてレムにしか見せられない、スバルの押し隠す弱さの表情、それがある。

「何から話したらいいかな……いや、話すこと自体はいっぱいあるんだぜ? 会いにこれなかった間、水門都市プリステラってとこにいってたんだけど、そこでも本当に色々あってよ。話すのに一晩じゃ足りない大騒ぎだったんだ。……でも、それについて話すのは、時間がたっぷりあるからさ」

胸元までタオルケットのかかるレム、寝台の中に潜る彼女の手を探し出し、スバルは何の気なしにその手を取って語りかける。

しなやかな指先に、細く白い腕。柔らかさと生命の温かさがそこにあるのに、不思議と血の通う感覚が――否、命の通う感覚がそこにはない。

生命を維持する、何がしかの力は働いている。

だが、生命を持続し、全うさせるための力は働いていない。

矛盾の中にあるレムの生命は、昏々とした眠りの中で今も時を止めている。

しかし――、

「やっと、届くかもしれない」

「――――」

「期待、煽るだけ煽って駄目だったって可能性ももちろんある。賢者が名前負けのがらんどうで、知識が当てになりませんでしたごめんなさいって可能性も、ある」

「――――」

「だけど」

『暴食』を倒す以外に、ようよう明確に見えた解法に迫る手段なのだ。

その答えに至るために辿った道筋が、他者に形作られたものであることは不甲斐なさの限りではあるが、それでもやっと掴めそうな光明――。

「エキドナには、ビビッて聞けなかったから」

『聖域』で、魔女の墓所で、夢の茶会へ招かれた際、『強欲の魔女』エキドナとの対面で、スバルは魔女を拒絶することで、その支配の手を逃れた。

それはナツキ・スバルという脆い魂を守ると同時に、レムを救うための手段を知る『かもしれない』相手を遠ざける選択、それと同義でもあった。

無論、過去を知る『魔女』であるエキドナが、現在で猛威を振るう大罪司教にどこまでの見識を持つかは知れなかった。だが、それでも事情を明かせば、魔女の推測を聞くことで解法を得る一助にはなったかもしれない。

断固として魔女の要求を撥ね退けた直後は、あの決断で良かったのだと自信が持てた。

しかし時間が経過し、流れる季節や関係性がレムを置き去りにするのを感じるたびに、あのときの選択が正しかったのかどうか不安になる。

救い出すと、そう心に決めていても、何ら具体的な行動を起こせない自分が。

ただやっと、その行き詰まりの閉塞感から抜け出し、彼女のために行動できる。

都市プリステラで、レムと同じ被害に苦しむ大勢の人々――彼らを救うための、プレアデス監視塔への旅路。しかし、本音だけを語るのであれば、スバルを監視塔へ進ませるのはレムの存在、それだけに他ならない。

不順で不適切、そうわかっていて、それでもスバルは――。

「俺は、お前を取り戻すよ、レム。――それは、俺の誓いだ」

あの、最も弱かった日々に、時間に、彼女がいてくれたように。

レムが最も誰かの手を必要とする今こそ、自分がそこにいてやりたいのだ。

「――痛い」

「――ッ!?」

決意を言葉にし、強く目をつむっていたスバルはその声に顔を跳ね上げる。

まさかの驚きに目を見開いてレムを見れば、しかし彼女は静かに瞼を閉じたまま、黙ってスバルに手を握られている状態だ。

ならば今の声は――、

「放しなさい、バルス。手、見ていて痛々しいわ」

「……なんだ、ラムか」

振り返ると、部屋の入口に立つラムがスバルの方を冷たい目で見つめていた。彼女の視線に安堵し、それからスバルは自分の手――レムの手を握る掌に、思った以上の力が入っていたことに気付き、慌てて手をほどく。

「白魚のようなレムの指が、バルスの情欲に蹂躙されるのは見るに堪えるわ」

「その言い方やめてくれる? なんか、俺のさっきまでの決意が一転してこう、汚らわしい感じになるから」

握っていた手をスバルが離すと、部屋に踏み入るラムがレムのその手を取る。姉は妹の白い指、そのほっそりとした手を軽く撫でてやると、スバルを横目にした。

「自分の決意が純粋で清廉なものとでも思っているの? もう少し、自分を丁寧に顧みてから発言なさいな。……瓜二つの容姿のレムに欲情されると、ラムの方も背筋に怖気が走るわね」

「安心しろ。姉様は外見はそっくりでも、その内面の輝きの違いによって俺の食指が全く動かねぇ。外面だけで判断するような、半端な男心じゃねぇぜ」

「そう、ならいいわ。せっかく方法が見つかって目覚めてみても、一年の間にバルスに忘れられたとあったら、レムの気持ちが浮かばれないもの。……この子がバルスを憎からず思ってるなんて、与太話がバルスの妄想でないのなら」

「どんだけ信用ないの……そろそろ付き合いも長いよ?」

「ハッ」

いつものように鼻を鳴らして、ラムが手振りでスバルに席を立つよう指示する。それに従って腰を上げると、彼女は部屋の中を見回して、

「出立の準備があるから、レムのお召し代えの用意もしなきゃいけないのよ。汗もかかないから着替えの必要もないけど……体を拭いてあげたりしなきゃいけないし」

「――――」

「――鼻の下が伸びているわよ、汚らわしい」

「コメントしづらいからコメントしなかったのに、黙っててもそれかよ!」

ラムに視線で軽蔑されながら、スバルは理不尽に地団太を踏みそうになり、場所が場所なのを思い出して拳を握るに留める。

レムの身の回りの世話――『記憶』と『名前』を喰われて眠るレムは、基本的に肉体的な反応と無縁にあるため、体を拭いたり、着替えさせたり、そういったことの意味は現実的な意味合いとしては何もない。

ただ、彼女という存在が時に置き去りにされていないのだと、彼女の周りにいる人々がそう感じるための、その慰めに過ぎないのだ。

「――――」

究極的に実利の話だけするなら、スバルがこうして語りかけるのも、ラムが妹の身の周りの世話をするのも、全てのことに前向きな意味はない。

それでも無駄とも言える行為を誰も止めようとしないのは、行いの全てに結果が伴うわけではないと、皆が言葉にしないでわかってくれているからだ。

「そろそろ、レムが自分の妹だって実感は芽生えたかよ?」

「――――」

丁寧な手つきで、それこそラムという少女らしからぬ優しさで、眠るレムの世話をする姿を見ていて、スバルはふいにその質問を投げかける。

ラムがレムを甲斐甲斐しく世話していても、彼女の中に半身であるレムの記憶は残っていない。自分と瓜二つの、おそらく無関係ではないだろう少女。ラムの実感だけで見れば、レムとの関係性はそんな希薄なものだ。

だが、一年間、こうした日々を過ごしてきた。

思い出は失われていても、形作られる別のものがある。それはラムの中に、今確かな形として芽生えているだろうか。

「実感なんて、そうそう芽生えるものじゃないわ。記憶にいないだけならまだしも、ラムはこの子が起きているところに出くわしたこともない。きっとラムに似て、優秀で凛とした子だったと想像はできるけど」

「優秀には違いないけど、凛としてた記憶はあんまりないな。意外と抜けてて、わりとあたふたするし、暴走気味なとこに困ったことも、結構ある」

半身持っていかれたことは、まぁ、この際だ。

そのスバルの答えにラムは「そう」の気のない風な声で応じ、

「ない思い出を語るのは、慰みにしても後ろ向きが過ぎるわね。そういうの、ラムの好みではないわ、バルス」

「そう、か? そう言うんなら、そうするけど」

「……目覚めたら、それで思い出せたなら、いくらでも話ができるわ。仮に思い出せなかったとしても、目覚めてくれさえすれば、いくらでも」

眠る妹の顔を覗き込み、ラムは表情を変えないままにその前髪を指でくすぐる。レムの髪の毛が白い額の上をさらりと流れ、ラムは小さく吐息した。

その横顔がスバルにはひどく、優しげに見えて。

記憶がなくても、思い出が失われても、絆までもが消えるわけではない。

仮に消えたとしても、また紡げないわけでもない。そう思った。

「まぁ、そこんとこは任せておけよ。『賢者』の監視塔、バッチリ攻略して、きっとレムを起こしてきてやらぁ。そしたら、姉妹感動のご対面ってやつだ」

だから、殊更に大きい声で、スバルは馬鹿に明るくそう言ってみせた。

神妙な空気は、少なくともスバルとラムの間には似合わない。

ただ、ラムはそんなスバルの発言に、やけに不思議そうな顔で振り返る。

「何を言っているの、バルス」

「あん?」

そして、ラムは小馬鹿にするような目つきになると、スバルに向かって言った。

「今回の旅、ラムも同行するんだから、その言い方は恩着せがましすぎるでしょう。感動の対面になるなら、ラムの方で勝手にやるわ」

「初耳なんですけど!?」

目を剥くスバルの反応に、ラムがいっそう見下すような目を向けてくる。

だが、そんな目をされても知らないものは知らないし、聞いてない話は聞いていないのだから理不尽だ。

「――――」

何事なのかと問い詰めるスバルに、ラムは耳を塞いで拒絶の態度。

結局、まともな話し合いにならないままに、この準備日も過ぎていく。

――ラムとレム、姉妹揃っての同行確定。

『賢者』シャウラに会うための、プレアデス監視塔攻略ツアー。

都合、参加者は合計八名の大所帯、そういう塩梅になりそうであった。

第六章5  『それぞれの不安』

さて、色々と話し合いやら同行者決めの紛糾やら、残される人員への別れの挨拶などで問題は多発したものの、ようよう、出発の朝が訪れる。

「そんなわけで、思った以上の大所帯に仕上がっちまったわけだが……」

腕を組み、スバルは今回の『賢者の塔攻略ツアー』の同行者を眺めやる。

陣営としてはエミリア陣営とアナスタシア陣営の二つ。エミリア陣営は当然、スバルとエミリアとベアトリス。そこに眠り続けるレムと、彼女に同行するラムの五名。アウグリア砂丘の案内役のアナスタシアと、その騎士であるユリウス。砂丘に存在する魔獣の群れをやり過ごすため、『魔獣使い』であるメィリィが加わる計八名だ。

単純な作戦行動が目的であれば、プリステラ奪還のために立った人員の方が人数的には多いし、行軍に関しても白鯨討伐や怠惰攻略戦のような経験がスバルにもある。

だが、純粋に遠隔地への移動――その道程の主要人物八名というのは、なかなか経験のない大人数であった。

「実際、大丈夫なのかね……」

「何か不安なことでもあるの? スバル」

首をひねり、先々のことに思いを馳せていると、エミリアが視界に割り込んでくる。遠出するための軽装に身を包む彼女に、スバルは「んー」と喉を鳴らし、

「目的地のこと考えれば不安は尽きないよ。そういうの抜きにすると……危ないところに大所帯でいくのがおっかない感じ。守る相手、多いと手が回らなくなるし」

「そうかもしれないわね。今回はレムとラムも一緒だし、メィリィとアナスタシアさんに、スバルのことも守らなきゃいけないんだもん」

「あれ!? さらっと非戦闘員扱いされてる!?」

「やだ、スバル。冗談に決まってるじゃない。もう、本気にするんだから」

拳を固めるエミリアにスバルの声が裏返ると、堪え切れずに彼女が笑い出す。スバルもその反応に遅れて笑うが、微妙に笑みが強張るのはご愛嬌だ。

事実、スバルの戦闘力がエミリアに大きく劣るのは本当の話だ。エミリアから見れば、スバルは守るべき相手――無論、そう思わせておくばかりのつもりはないが。

「あとの具体的な不安といえば……」

エミリアとの会話に一息つくと、スバルはちらと正面に目を向ける。

場所はすでにロズワール邸の前庭で、出発のための準備が粛々と進められている状態だ。そしてスバルの視線の先、十名近い人員を運べる大型の客車がある。竜車を引くための地竜が二頭連結されており、どちらも長距離移動に適した種族だ。

問題はその竜車の隣、身軽な状態で佇む漆黒の地竜と、その地竜と鼻面を突き合わせて睨み合う小さな影だった。

その様子に呆れた息を吐き、スバルは睨み合う両者の間に割って入る。

「魔獣使いって大袈裟な二つ名のくせに、地竜と仲良くもできないのか?」

「やだあ、お兄さん。勘違いしないでくれるう? 私が躾けられる動物ちゃんは、みいんな角のある悪い子だけなんだからあ。それ以外の動物ちゃんは、その子たちの臭いがついてる私のこと、好きになんかなってくれないわあ」

「そういうもんなのか……それはそれで難儀じゃね?」

メィリィの説明に肩をすくめ、スバルは彼女と睨み合うパトラッシュの鼻先を撫でる。気位の高い雌地竜は、スバルが触れてくると露骨に手の臭いを嗅いできた。

まるで、目の前にいる少女の臭いをスバルの臭いで上書きしようとするように。

「気遣い上手で懐の深いパトラッシュが、こんだけ露骨に態度に出すの珍しすぎるな……本当に相性悪いらしい」

「他の子たちは適当に相手できるけど、その地竜はお兄さんに懐きすぎねえ。隙を見せたら私に噛みついてきそうなぐらいだわあ。お兄さん、ちゃあんと躾けておいてくれないと、私がその子の餌にされちゃうから気を付けてねえ」

「そんな怖いこと当たり前みたいに言うなよ……。ほら、パトラッシュどうどう」

やや興奮気味の愛竜を落ち着かせ、スバルはメィリィをさっさと竜車に乗せてしまう。なお、『魔獣使い』として同行する彼女の荷物は少ない。元々、私物などほとんど持ち合わせていない少女だ。それでも、スバルの作成したパンダのぬいぐるみを持ち込んでいるあたり、可愛げがあるのは微笑ましい。

「女の子のご機嫌取りばっかりで、ナツキくんは大変みたいやね」

「……そう思うなら、お前は手間かけさせないでくれると嬉しいんだけどな」

メィリィを竜車に押し込むと、からかい口調でやってきたアナスタシアが声をかけてくる。アナスタシア――といっても、その中身は白狐のエキドナだ。

プリステラから屋敷までの道中、二十日余りの時間で差異の大部分が埋まっている。このままアナスタシアに成り代わられても、そのうちに区別がつかなくなりそうだ。

「そう疑わんといてほしいわ。うちかて本意やないって何度も言うとるやないの。そのために、危うい道先の案内人も買って出てるんやから」

「それも含めて、お前の創造主なら色々画策しかねないってのが俺のスタンスだよ。これも何度も言ってんだ、覚えておいてくれ。別に俺だって、お前が信じたくないわけじゃない。信じられるならその方がずっと気楽だし」

「覚えていない誰かのことで、こうも不利益を被るのは面白くないね。よほど、記憶にいないボクの作り手は君の不興を買ったようだ」

「――――」

「せやからそないに怒らんといてって。もう、怖いんやから」

途中で素に戻る襟ドナを睨みつけると、唇を尖らせてアナスタシアに扮し直す。彼女はそれきりスバルの横を抜け、やはり竜車の中に足を踏み入れた。

あとの人員は――、

「スバルくん、君もこっちで一応、話を聞いてもらえるかーぁな?」

声に呼ばれて振り向くと、屋敷の玄関に出てきているのはロズワールだ。

道化た衣装の辺境伯の傍らにはエミリアとユリウスの二人がいる。珍しい組み合わせだと思いながら足を向けると、ロズワールは三人を眺めて片目をつむる。

「まず、今回の旅路は二ヶ月近い日程が想像される。それだーぁけに道中、不測の事態が起きることが考えられる。問題への対処は都度、エミリア様やアナスタシア様であれば大過ないと思うけーぇど……」

「ん、任せて。私もただ、ぼんやり過ごしてたわけじゃないから」

「心強いお言葉です。エミリア様の成長は素直に喜ばしい。……さて、では道中の不安は個々にお任せするとして、重要な注意を一つ。――ラムのことです」

「――――」

声を潜めるロズワールに、スバルたちはそれぞれ表情を変化させる。

エミリアは長い睫毛を震わせ、スバルは考え込むように頬を強張らせた。そして唯一、この場で陣営から無関係のユリウスは微かに眉を顰める。

「その話、私が同席していてよろしいものですか? メイザース卿であれば、アナスタシア様の騎士である私に陣営の内情……一介の使用人とはいえ、そのことを明かすことは得策でないとおわかりのはずですが」

「なにも私も誰彼構わず話を持ち掛けるわけじゃーぁないさ。ユリウス・ユークリウス殿。君の屋敷での振る舞いと、あとはスバルくんあたりの接し方を見ていて、信用の置ける人物だと判断した。それ故の頼み事、そう思ってもらいたい」

「久々に最高に胡散臭いぞ、ロズっち」

「ごめんなさい、私もちょっとそう思った……」

ユリウスの懸念に真剣な声でロズワールが応じると、スバルとエミリアがほとんど同時に挙手して茶々を入れる。

前科のことを抜きにしても、ロズワールらしからぬ発言すぎる。それは発言した彼自身も自覚があったのか、「そりゃないでしょーぉよ」とスバルたちに苦笑し、

「まーぁ、説得力がないのは仕方ないかもだけどね。ともあれ、ユリウスくんが余所の陣営の粗探しに腐心する……なんて卑しい性格じゃないと思ったのは事実さ。だから君にも話は聞いてもらいたい。事は命に関わることなのでね」

「命に……」

真面目腐った顔でユリウスが呟くと、ロズワールは「そう、命」と頷いた。

「スバルくんやエミリア様は知っての通り、ラムの体質は少しばかり特殊だ。彼女の肉体は、注がれる才能を器が受け切れていない。あるいは才能という炎に見合った燃料を、肉体が用意できていないと言い換えてもいい」

「……知っての通り、ってほど詳しい話を聞いたことはねぇぞ」

「そうだったっけ? なーぁら、彼女が鬼族である話は?」

「それぐらいはまぁ……」

ラムとレムの姉妹が鬼族であることはもちろん知っている。

角を生やし、鬼の力を存分に振るうレムに救われた経験は一度や二度ではない。それにラム自身の口から、彼女が角を無くした『ツノナシ』であることも聞いていた。

故に、そのことは驚くほどのことではないとスバルは思っていたのだが、

「――鬼族、ですか?」

「ユリウス?」

声を低くして、驚きを露わにしたのは隣にいたユリウスだ。彼は端正な顔立ちの中、眉を持ち上げて黄色い瞳に動揺を浮かべている。

「鬼族はすでに滅んだものと、そう聞いていましたが」

「十年近く前に最後の集落が焼けて、ラムはその最後の生き残り……おっと、レムのことも考えれば姉妹二人が最後の生き残りになるんだったね」

「――――」

含むもののある言い方だったが、スバルは口を挟まない。苛立ちより強いのは、想像以上にあの姉妹が稀少な種族であったことへの驚きだった。

「鬼族が滅んだのには、理由はあるの?」

「……ご安心ください、エミリア様。鬼族の滅亡は種族淘汰の必定ですよ。時代の流れに迎合することを良しとせず、古いしきたりにしがみつき続けた結果です。断じて差別や偏見で数を減らされ、滅亡したわけではありません」

「……そう」

ロズワールの説明に、エミリアは物憂げな眼差しながら納得した顔をする。

エミリアもまた、ハーフエルフとされる稀少な出自の持ち主だ。二人を残して滅びた鬼族の在り方に、不安と同情を抱くのも無理からぬことだろう。

「あの二人が鬼族なのは全員が理解したよ。で、それでどうなる?」

話が停滞しかける雰囲気を察し、殊更に大きい声でスバルが話題を動かす。その声にエミリアとユリウスが顔を上げると、ロズワールは己の顎に触れて、

「肉体的な活動の止まっているレムはさておき、ラムの肉体は先ほど話した通りの欠陥がある。そーぉれは鬼族にとって重要な、角という器官を無くしたことが原因だ。本来、角が補うはずの肉体を動かす莫大なマナ――それを用意できないことで、体は常に苦痛と倦怠に蝕まれている」

「そんなことになってるの……!?」

「エミリア様が驚かれるのも無理はありません。あの子は気丈が過ぎる。一度だってそのことで、表情を曇らせたことはなかったでしょーぉから」

喉を詰まらせるエミリアに、ロズワールがゆるゆると首を振る。

エミリアの抱いた驚きはスバルも共有していた。ラムに角がないことは知っていた。レムの言葉から断片的に、角を無くす前のラムの地力が図抜けていたことも。

ただ、角がないことで受けるペナルティが能力の低下以外にあり、それが今も彼女を蝕み続けていることまでは思い至らなかった。

「――なるほど。メイザース卿のお考えはわかりました」

と、話をそこまで聞いただけの段階で、ふいにユリウスがそう言って頷いた。その反応にロズワールが「ほう」と眉を上げ、スバルとエミリアも顔を見合わせる。

今の流れは、単にラムの体質を確認しただけの話だ。それだけでロズワールの要求の何がわかったのか、驚くスバルたちの前でユリウスは己の前髪を撫で付けた。

「鬼族の種族的な特徴は、莫大なマナを操る力と強靭な肉体の戦闘力です。その双方を支える骨子が、他種族には存在しない角。――その角が役割を果たせず苦しんでいるのであれば、何かが『角』の代わりを果たさなくてはならない」

「君の名前を覚えていなかったことが悔やまれるほど、なるほど、聡明だ。これだけでそこまで看破されると、気持ちのいいぐらいだーぁよ」

「そっか、そういうことなんだ……」

ユリウスの説明にロズワールが感嘆し、エミリアも理解に至って手を叩いている。一方、置いてけぼりで困惑しているのはスバルだけだ。

事が魔力関連になると、門外漢のスバルは理解に遅れるばかりである。

「勝手にそっちだけでわかった感じになるなよ。つまり、どういうことだ?」

「簡単な話だよ。ラム嬢の肉体は、角があったときと同等のマナを外部から摂取することを求めている。角がなくなってそれができないのであれば、その外部から与える手段を誰かに求める必要がある。……それを、私たちに願い出るのですね」

「普段は夜、こっそりと私が補給を担当してるんだーぁけどね」

「……あ!?」

ユリウスの講釈とロズワールの言葉に、スバルの中で思考の歯車が噛み合った。

それは毎晩、ロズワールの下へいそいそと足を運ぶラムの姿だ。正直、あれは主人とメイドとのいかがわしい関係だと、スバルは生々しさに目を背けていたのだが。

こうして事情を知った上で思い返せば、そういうことなのだろうか。

「何か思いついたのかな、スバルくん?」

「い、いや、大したことじゃない。どぞ、先に進めてください」

「そうかい?」

一年越しの勘違いと発覚しても、わざわざ訂正するほどのことではない。

そもそもロズワールの一族は何代も重ねて、魔女エキドナとの再会を果たそうとしていた怪しさ爆発の連中である。ロズワール自身、エキドナに対する執着が目覚ましかったことは忘れ難い。ラムに浮気していたわけではないとわかって、かえって彼の執着心への納得がいったぐらいだ。

「ですが、メイザース卿。その申し出ですが、引き受けるには私では実力不足かと思われます」

益体のない思考に走るスバルの横で、ユリウスが申し訳なさそうに首を横に振る。その態度にロズワールが目を細めた。

「謙遜、あるいは違う陣営の相手に肩入れはしない……といった理由ではないようだーぁね。ラムへのマナの提供は、火・水・風・地の四種類の属性が必要になる。それだけにむしろ、エミリア様より君の方が適任だと思ったんだが」

「メイザース卿のご期待は、おそらく私の周囲にいる彼女たちのことでしょう」

言って、どこか弱々しくユリウスが唇を緩める。と、応じた彼の周囲を淡い光が飛び回るのが可視化され、六種類の輝きがゆらゆらと揺らめくのが見えた。

見知ったそれはユリウスと契約する、六体の準精霊――ただし今は、

「私の蕾たちですが……今、彼女たちと私との間にあった繋がりは消えています。元の肩書きが今も名乗れていれば、申し出を受けることに何の躊躇いもありませんが」

「名を奪われたことで、精霊との契約も断たれた……か。そのわりに、精霊たちは君の周りから離れようとしないようだーぁけど?」

「消え失せた繋がりの残滓が彼女らの中に残っているのか、あるいは漂白されて見えなくなっただけで契約自体は残されているのか……いずれにせよ、未熟なこの身が見放されずにいるのは蕾たちの慈愛に救われているだけに過ぎません。この身に残されたものは少なく、微力ではお力になれるものかどうか」

準精霊との繋がりに触れて、ユリウスは吐息する。それから一瞬だけ、彼はスバルの方に目を向けてきた。その視線の意図がとっさにわからず、スバルは困った顔をしてやるしかできない。

「――今はただ、一介の騎士として尽くすだけの身です。申し訳ありません」

「そーぅかい。それは残念だ。痛手ではあるが……」

「大丈夫。ユリウスができないなら、それは私に任せて」

沈痛なユリウスにロズワールの声の調子も落ちるが、代わりに胸を張ったのはエミリアだ。彼女はずいっと前に出ると、自分の周囲に微精霊を浮かび上がらせる。

「ユリウスの連れてる準精霊の子たちとは少し違うけど、微精霊の子たちとだったら私も力を借りれるもの。私だけの魔法じゃ火の属性が強すぎるけど、微精霊の力を借りれば他の属性の魔力も使えるわ。それでどう?」

「無論、彼だけでなくエミリア様にもお願いする気ではいましたので、エミリア様がやる気になってくださっているなら問題はありませんよ。たーぁだ、おそらく最初の内は非常に魔力の安定に苦労するかと思われます。その補助のために、ベアトリスの力をお借りください」

「ベア子の?」

「魔力理論と運用に関して、ベアトリスはとーぉても優秀だよ。今は繋がる相手がスバルくんだから宝の持ち腐れ感がすごいけど、少ない魔力を上手く運用して色々とこなしているだろう? その知識、エミリア様にも貸してもらいたいわーぁけ」

「少ない魔力とか言うなよ。でも、そうか」

エミリアとベアトリスの共同作業で、ラムの負担が軽くなるなら問題あるまい。

スバルは納得しかけるが、すぐに頷きかけた首をひねる。

「いや待て、それならなんでベア子に直接じゃなくて俺に話すんだよ。そりゃ俺も話は聞いておきたいけど、ベア子に話すのが筋だろ」

「だって、ベアトリスに話したら無意味に一回は断られるに決まっているからねーぇ。君の思ってる以上に、ベアトリスは私に辛辣なんだよ。君からももう少し私に対する風当たりが優しくなるよう、言っておいてくれないものかーぁな」

「あ、それは無理だ。俺、どっちかっていうとどころか完全にベア子サイドだし」

情けない顔のロズワールの要求をさっさか断る。

やらかしたことがやらかしたことだ。一年やそこらで埋まる溝でもない。大体、ちょっと流れが違えば殺されていたかもしれない相手と、そうそう簡単に打ち解けられるほど世の中優しいわけもない。

「そう考えると、殺された相手やらぼこぼこにされた相手やらと行動できる俺って、ひょっとして大物なんじゃないか……?」

「あ、スバル、今、調子に乗ってるときの顔してる」

「そんな顔してるときあるの、俺!?」

ともあれ、ロズワールの要求は受け止めた。

ラムに関してはエミリアとベアトリス頼み。エミリアはやる気になっているので、ベアトリスの方にはあとからスバルが話を通しておけば問題あるまい。

「よろしく頼むよ、スバルくん」

「なんだ、やけに殊勝じゃんか。そんな風に言うなんて珍しい」

「殊勝にもなるとも。――ラムが私の傍を離れようと言い出すのは、初めてだしね」

「――――」

それだけは茶化す雰囲気なく、真剣な声でロズワールは言った。

彼はスバルの顔から視線を外すと、青い空を見上げる。

「私にも当人にも、記憶のないはずの双子の妹だ。だけど、やーぁっぱり当事者は感じ入るものがあるんだろうね。ああして、私の意見に感情的に逆らうラムを見るのは肝が冷えるよ。――だから、君たちにお願いしたい」

「……ああ、覚えておくよ」

一年前の、『聖域』の出来事があってなお、ロズワールに尽くすラムだ。

何もかも、大事なたった一つ以外の全ては二の次であると言い切るロズワールであったとしても、そうまで自分に尽くすラムには思うところがある。

それが変化であるというのなら、それは決して悪い変化ではないと思う。

少なくとも、理解のできない怪物を味方に抱え込むよりも、その感情を持て余して思い悩む人間であってくれた方がずっとマシだ。

「――そろそろ時間のようだね」

言葉を重ねる前に、ロズワールが振り返った。

彼の背後、屋敷の扉が開かれて、向こう側から現れるのは四名の少女だ。いずれも肩書きはロズワール邸のメイドであり、揃った姿はなかなか壮観である。

もっとも、その内の一人は眠りの中にあり、瓜二つのもう一人は旅支度を整えた姿であるので、華やかさはあと一歩足りていないが。

「旦那様、二人の準備が整いましてございますわ」

「ご苦労様。――ラム、道中気を付けて」

静々と報告するフレデリカに応じ、ロズワールが旅支度のラムに声をかける。ラムはそれを受けると、スカートの裾を摘まんで丁寧にお辞儀した。

「ロズワール様、わがままを聞き届けていただいてありがとうございます。そのお心に見合った成果、必ずお持ち帰りします」

「期待しているよ。とはいえ、無茶はしないよーぉうに。それから、エミリア様とスバルくんの二人に無茶もさせないように。それも君の役割だーぁからね」

「重々、承知いたしました」

どの口が、と突っ込みを入れたくなるが、それはラムの視線に黙らされた。その視線に負けたスバルは、ラムの隣にある低い人影の方を見る。

そこにいるのはレムだ。その姿は外出着に着替えさせられ、今はペトラの押す車イス――スバルが元の世界の記憶を頼りに再現したものに乗せている。

元々、車イスの雛形はこちらの世界にも存在したのだが、方向転換の邪魔にならないキャスター的な前輪や、足場の存在とシートの改造など手が凝らされている。もちろんシートベルトと、頭部を守るクッションも実装済みだ。

ロズワールに無茶を言って、スバルの給金を注ぎ込んで作らせた一点ものである。

「遠出になるとメンテナンスに不安があるけど……」

「スバル様が小器用でいらっしゃるのと、素材が素材ですから二ヶ月であれば使用には耐え得るものと考えますわ。もちろん、無茶はされませんよう」

「気を付けてくださいね、スバル……様」

フレデリカのお墨付きをもらい、ペトラから車イスのハンドルを任される。受け取ってレムの後ろへ回ると、背負って進むより格段に楽だ。

舗装された道が前提であるので、砂漠や草原、砂利では効果を発揮しないが。

「OK、うまくやれそうだ。ペトラとフレデリカも、十分気を付けてな」

「旦那様のお世話はお任せください」

「オットーさんとガーフィールさんの面倒も、だよね」

車イスを動かすスバルに、ペトラとフレデリカは頷いて応じる。

旅の行程が二ヶ月ともなると、おそらくはプリステラにいるオットーたちも療養が終わってロズワール邸へ戻ってくるはずだ。

留守の間のことを頼れるメイドに任せ、スバルは車イスを押して竜車へ向き直る。

「それじゃ、名残惜しいけど出発するとすっか」

「どうしてバルスに指図されなくちゃいけないの。調子に乗るんじゃないわ」

「指図とかそんなじゃないけど、じゃあ、お前が仕切る?」

「ラムがそこまで図々しい性格に見えるの? 淑やかさと気遣いが肝要なメイドであるラムに、そんな真似はさせないでほしいところね」

「なんなの、お前。文句言いたいだけの年頃なの?」

「別にそういうわけじゃないわ。ただ」

そこで言葉を切り、ラムが意味ありげにスバルの手元を見る。スバルの手元は今、レムの車イスを押しているところだ。

その視線の意図を察して、スバルは深々と息をついた。

「代わってほしいならそう言えよ……」

「ラムが同行する意味と目的を考えれば、そこは譲って当然のところでしょう。……言葉にされずに察したところは、少しだけ見直してもいいわ」

スバルが渋々場所を譲ると、ラムがスバルに代わって車イスを押す。眠ったまま座る妹を労わるように、ゆっくりと車イスは竜車に向かって前進していった。

その背を見送りながら、スバルは空いた手を理由もなく開閉する。と、その手がそっと横から伸びてきた小さな掌に握られた。

「ベア子か」

「情けない顔してなくても、あの娘を想う気持ちで姉に負けてるわけじゃないから心配いらないのよ。スバルはスバルで、やってやれることをやればいいかしら」

「そういうわけでも……いや、そういうことなのか?」

役目を取られた、という気持ちがあったわけではないが、周りから見るとそういう風に取られかねない顔でもしていただろうか。

スバルは握られていない方の手で頬に触れて、引っ張ったり抓ったりしてみる。と、今度はそうしていた手が別の白い手に奪われた。

「はいはい、そんなことする手は私が取っちゃう」

「おっふ、エミリアたん……」

「あの娘が起きたら、両手が埋まりやすいスバルがどうするか見物なのよ」

「あ、それ私も気になるかも」

エミリアとベアトリスの二人に挟まれて、スバルは困ったような顔で二人を見る。しかし、戻ってくるのはじと目と楽しげな視線の二つだけだ。

おまけに背後からはペトラの視線が突き刺さり、竜車の前で振り返るラムの冷たい軽蔑の眼差しまで投げかけられる。

まさかの四面楚歌――と、それを見ていたユリウスが「ふむ」と頷くのが見えた。その渇いた反応に、スバルは唇を盛大に曲げる。

「なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ。さあ、どうぞ!」

「そうかい? それなら一つだけ。――麗しい女性たちに囲まれて、実に男冥利に尽きる状況だとも。君の両手がその花々の全てを満足させられるかどうか、私には非常に疑問に思えてならないけどね」

「なにこれ、俺が責められる流れなの!? 俺、なんか悪いことした!?」

呆れた顔で肩をすくめるユリウスに、スバルの情けない絶叫が空に上がる。

残念ながら、そんなスバルをフォローする内政官も筆頭武官もこの場にはいない。

来たる二ヶ月の旅路で、スバルは孤軍奮闘するしかないのだ。

その事実を理解して、両手から伝わる温もりへの信頼と親愛、それに勝るとも劣らない不安がスバルの胸に込み上げてくる、そんな出発の朝であった。

第六章6  『ユークリウスの銘』

不安いっぱいの朝から始まった旅路だったが、約一ヶ月に及ぶ行程は道のりこそ長くはあったが、道中には特別これといったアクシデントは起こらなかった。

街道を一路、東へ向かって直進しながら、何も起きない旅路は退屈なものだ。

「プリステラ往復もそうだし、リーファウス平原もそうだったけど……ルグニカ王国って道々の治安とかだいぶいいよな」

「街道の整備や治安維持のための巡回は、王国の平穏を守るために欠かせない。ルグニカは他の国々と比べても、特にそのあたりは徹底させている。およそ、野盗や魔獣の群れといった被害率はかなり低く保たれているはずだ」

「他の国はそうでもないってこと?」

「万年雪に覆われるグステコ聖王国では、そもそも街道の整備がままならない。整える端から雪に埋もれられてはね。ヴォラキア帝国やカララギ都市国家では、多種族が入り乱れる分だけ習俗の違う者たちも多い。慣習が違えば諍いも生まれる。そういった意味で治安が安定しているとは言い難いかもしれないな」

「ほー」

二頭の地竜を並べ、悠々と風を切って走るスバルとユリウスの会話だ。

大型の竜車を引っ張る二頭の地竜の前を、スバルのパトラッシュとユリウスの青い騎竜が先導している。

全員が竜車の中にいては、有事の際の反応が遅れる。ということでの布陣ではあるのだが、退屈紛れの会話が示す通り、旅路は平穏そのものだ。

「ふわ……」

「スバル」

退屈が過ぎる上に、代わり映えのない景色が続けば欠伸も出る。口に手を当てて思わず眠気を膨らませるスバルに、ユリウスは咎めるような目を向けてきた。

彼は己の愛竜に体重を預けながら、『風除けの加護』に守られて揺れることのない前髪をさっとかき上げてみせる。

「緊張感が持続しない気持ちもわかるが、張っていた気が緩んだ瞬間が最も危ないとされるときだ。気を抜くなとは言わないが、誰の目からも見える形でだらけているのはいただけないな」

「欠伸一つでどんだけ言うんだよ。お前だって欠伸ぐらいすんだろ。するよな?」

「無論、そうした生理現象は私にもあるさ。ただ、騎士の自覚があれば人前に出さない程度に抑え込むことは可能だろう? 君にはまだ、それが足りない」

「へいへい」

ちくちくと嫌味のような勢いで畳みかけられるが、スバルのいなし方もそろそろ堂に入ったものだ。すでにこうして、ユリウスと旅路を共にするのも二十日近い。プリステラから屋敷まで、そして今、アウグリア砂丘を目指す行程でずっと隣り合って地竜を走らせていれば、対応の仕方も学ぼうというものだ。

「真剣な話をされているときは、相手の方を見るのが礼儀だと思うが?」

「真剣な話してるときに顔を逸らされてるってことは、その真剣な話が求められてないタイミングってことだろ。お前も少し肩の力抜けよ。力みすぎ」

「私や君が警戒していなくて、どうして……」

「そんなにピリピリしてなくても、そうそう奴らも襲いかかってこねぇよ。あいつらが仕掛けてくるなら、こんなだだっ広いとこでやらねぇさ」

「――――」

言葉を遮り、首の骨を鳴らしてスバルはそう言った。そのスバルの言葉に意表を突かれたように、ユリウスは目を瞬かせている。

それからすぐ、美丈夫は小さく吐息をこぼした。

「焦っていると、君の目からも今の私は歴然なのかな?」

「当てずっぽ感はあるけどな。でも、気張りすぎってのは全員が思ってると思うぜ。いつも通りっていやいつも通りかもしれねぇけど……」

「そのいつもがわかるのは、今は君だけだからね」

「……そうな」

ユリウスの声の調子が落ちると、自然とスバルの方の声も低くなる。

背後、竜車の中の女性陣の会話は聞こえてこないし、逆にこちらの会話も彼女らには聞こえていないはずだ。

男同士、それに立場的には色々複雑だが、今は協力関係でもある。

もう少し、腹を割って話すべきことを話しておく場面だろうか。

「ロズワールにも話してたけど、準精霊の具合は?」

「あの場で話した通りだよ。蕾たちは私の周囲に集ってくれているが、伸ばした腕を止まり木に羽を休めてはくれない。言葉も、届いてはいないようだ」

スバルの質問に腕を持ち上げ、ユリウスが準精霊を可視化させる。

淡い輝きの六色の準精霊は、今も地竜を走らせるユリウスの周りに浮かんでいた。しかし、差し伸べられる腕に戸惑うように揺れ、かえって遠ざかろうとしてしまう。

なるほど、確かにユリウスと準精霊との間の絆は失われているようだ。

「再契約ってのはできないのか? 近くにいるってことは、お前の精霊を引きつけるなんちゃらって加護は働いてるわけだろ?」

「私の『誘精の加護』は今も健在のようだ。それがかえって、彼女らの認識の不可解に一役買っている。自分の中にある理解できない大きな感情を持て余すように、ね」

「こんな言い方するとアレだが、他の精霊で手を打つのは?」

「エミリア様のように、行く先々の微精霊に力を借りられる精霊使いであればその案も考慮できたが……その方法では私には精霊の力を十全に引き出せない。準精霊の蕾たちと絆を結ぶのにも、数年の時間を要したからね」

「……まぁ、エミリアたんも他の精霊からパック並の力は引き出せないもんな。やっぱり、パートナーになる精霊は特別ってことか」

「エミリア様と大精霊様。君とベアトリス様のように」

難儀なものだ。同じ精霊使いの立場として、すぐ次の精霊を探せなどとはスバルから言い出せるはずもない。絆が断たれて、ベアトリスを手放せるかという質問と同じ意味になるからだ。当然、中指を立ててお断りする案件である。

ユリウスにとって、六体の準精霊との関係は全く同じ問題なのだ。

「故に、今の私は剣技でしか騎士の務めを果たせない。もちろん、剣が精霊術に劣るなどと思わないが、私自身の力量が不足するのは事実だ」

「それを取り戻すための旅でもあるし、そもそもお前の剣の腕でそれ言うのただの嫌味だからな。しかも相手が俺って、それもさらに嫌味だから」

ユリウスの口にする、精霊術の欠けた不足の力量。

一年前、スバルが王都の練兵場でボロ雑巾にされたのはまさにその力量だ。あのときに比べればスバルの方もマシにはなったが、差が埋まったとは思っていない。

ユリウスからすれば、あのときのスバルは赤子の手を捻るレベル。今のスバルは五歳児を相手にするレベル、そのぐらいの差だろう。

「ラインハルトもそうだけど、お前らって自分を過小評価する悪癖があるよな。謙遜も過ぎれば毒! これはどこででも通用する言葉だと思うぞ」

「そっくりそのままお返ししたいところだが、どうだろう。――君や私はともかく、ラインハルトのそれは謙遜とも過小評価とも異なるもののはずだよ」

「謙遜とも過小評価とも違う……?」

同時に浮かべた赤毛の英雄だが、彼に対する認識の違いに首を傾げる。

誰の目から見ても超人・最強・完全無比といった塩梅のラインハルトだけに、彼への評価が食い違うとは思わなかった。

そんなスバルの疑問に、ユリウスは「いや」と首を横に振る。

「ラインハルトの実力に関して、高く評価している点では君と私は同じだよ。というより、彼を知る全ての人間が共通の感情を抱くはずだ。彼こそが人類の到達点、あるいは超越者とされる存在なのだと」

「それが言いすぎじゃないのがすげぇよ」

「実力だけでなく、彼の在り方は自覚まで完成されている。私が彼と初めて会ったのは十に満たない頃だったが……ずっと変わらないよ」

「十歳の頃からあれって、マジか」

パトラッシュの手綱を握りながら、ユリウスの述懐にスバルは愕然となる。

ラインハルトがいったいいつ、今のラインハルトになったのか。なんとも哲学的な問答に思えるものだが、少なくとも十年近く前には完成されていたらしい。

だとすれば、ずいぶんと壮絶な運命を背負った少年もいたものだ。

「その頃から、ラインハルトは『剣聖』なのか?」

「彼が『剣聖の加護』を継いだのはまだ五歳のときの話だよ。先代『剣聖』はテレシア・ヴァン・アストレア様……ラインハルトの御祖母で、十五年前の大征伐の際にお亡くなりになり、加護が移譲した」

「そう、だったな」

白鯨との戦いで戦死し、なおも死後を辱められた先代『剣聖』。

ラインハルトの祖母であり、ヴィルヘルムの妻であった女性の魂はプリステラで今度こそ空へ帰った。

だが加護は十五年前の時点で、ラインハルトの内に継承されていたのだ。

「どんな気分なんだろうな」

「うん?」

「五歳のときから、祖母ちゃんの加護を引き継いで、おまけに伝説の英雄の血を継いでる家系なんだろ? どんな気分で過ごすんだか想像がつかねぇよ」

――親の期待を懸けられることの重みは、スバルにも少しはわかるつもりだ。

周囲からの期待の重さに潰れかける痛みは、スバルにはわかる。

もちろん、スバルとラインハルトとでは背負ったものの重みも、責任も違いすぎるから、比べること自体が失礼になるかもしれないが。

「俺は正直、弱いからな。弱くて力が足りなくて悔しい思いすることばっかで、持て余すぐらい強かったらよかったのにって妄想しない夜はないぐらいだぜ」

「それはだいぶ虚しい気がするんだが」

「うるせぇな」

大事な話の最中に茶々を入れられ、スバルは舌打ちする。

「とにかく、そんな俺と個人的には対極の悩みに感じるからな。ラインハルトが五歳からラインハルトだったとは思わねぇけど、どんな気分だったんだろってよ」

「さすがに、当時の彼が何を思っていたのかまでは私にもわからないな。ただ」

そこで一度、言葉を区切ったユリウスは顔を上げる。

手綱を握りしめ、正面を見つめるユリウスは、注ぐ太陽光に眩しげに目を細めた。

「――あのとき、ラインハルトを見かけたことは私の大きな転機だった」

どこか、誇らしげにさえ聞こえる言葉だった。

日の光に目を細めるユリウスだが、ひょっとするとそれは日輪の眩しさに目を細めたわけではないのかもしれない。

当時、そのラインハルトを見たとき、やはり同じ目をしていたのではないだろうか。

「ってことは、ラインハルトとお前は十年来の付き合いなのか。幼馴染み要件をギリギリ満たしてると俺は考えるが、そんな感じ?」

「いいや? 私がラインハルトを意識したのはそのときになるが、彼が私の存在を知ったのはずっとあと……私が近衛騎士に任命されてからだろう。それが私が十六のときだから、彼と親しくしているのはこの六年ほどのことだ」

「……ずいぶん間が空いたんだな?」

「当時の私では、『剣聖』を引き継いだ彼と並び立てるだけの資格がなかった。年下の彼に痛いほど思い知らされて、それからが私の始まりだよ」

ユリウスの静かな言葉と、声音と裏腹に込められた熱い感情。

黄色の瞳に浮かぶ遠い眼差しを横目に、スバルは『始まり』の一言に頷いた。

おそらく、ぼやかした言葉以上にユリウスの中でその日は鮮明なはずだ。

それがユリウスの始まりであるのなら、記憶に鮮やかなのは当たり前だ。

スバルにも、『始まり』の記憶は胸に熱く、魂に焼き付いている。

異世界でエミリアに救われたとき、レムに崩れかけた背を支えられたとき、炎の中でベアトリスの手を取ったとき、いずれもスバルにとって『始まり』なのだから。

「それにしても、そっからが始まりって言い切るとなると、意外とお前ってガキの頃はやんちゃしてたのか? 放蕩貴族か、道楽息子みたいな」

他人事に思えないような感情の流れに逆らい、スバルは殊更に茶化した声で言う。

まさかユリウスに限ってそれはないと思うが、出会った当初、嫌味な貴族の青年といった印象を彼に抱いたのは事実だ。そして物語であれば、そんな貴族の青年が少年時代にどんな嫌味で高慢な生活を送るか、お約束のようなものである。

そんな気持ちを込めて、話の流れを変えるつもりで話題を振ったスバルに、ユリウスはふっと唇を緩めると、

「少しばかり表現には気を付けてもらいたいが……否定できない部分はあるな」

「マジで!? お前、やっぱり嫌味な貴族ポジションだったの!? 平民を馬の上から足蹴にしたり、使用人を執拗にイジメて追い込んだりしたのか!?」

「どうしてそんなに君が嬉々とし出したのか不思議でならない」

盛り上がるスバルに冷たい目を向け、それからユリウスは背後を窺う。

竜車を、ひいては中にいる彼女たちを気にしたのだろう。当然、確認するまでもなく話は聞こえないわけだが、気分の問題だ。

「君は私の、ユークリウス家のことはどの程度知っている?」

「まったく知らん」

「気持ちいいぐらいに即答するものだ」

実際、予備知識はゼロだ。

器用に竜上で胸を張るスバルにユリウスは苦笑し、それから腰の騎士剣に触れる。ユリウスの家に伝わるものだろうか。その横顔からは、今の自分に持つ資格があるのだろうか、なんてことを躊躇っているのが伝わってきた。

「――私は元々、ユークリウス家の嫡男ではない」

「――――」

「より正確に言うなら、正式な嫡男ではないとするべきだ。ユークリウス家の現当主であるアルビエロ・ユークリウス。その弟であったクライン・ユークリウスが私の父親になる。すでに他界し、当主に養子入りしているがね」

思った以上の言葉に、スバルはとっさに言葉が出てこなかった。

この世界の貴族社会の仕組みが、スバルの知る社会の知識とどの程度噛み合うのかは難しいところだが、ユリウスの立場は確かに複雑だ。

それにその場合、彼の弟であったヨシュア・ユークリウスの立場はどうなるのか。ユリウスを兄として慕い、今は世界の記憶から失われたあの青年は。

「プリステラに残したヨシュアの、実際の私との関係はわからない。私の中に残っていないだけで、実父であるクライン・ユークリウスの血を継いだ実弟なのか。それとも養父であるアルビエロ・ユークリウスの血を継いだ、本当の嫡子なのか」

「……それが違ったら、どうなるんだよ」

「兄弟というのはあくまで言葉の綾で、本来の関係は従兄弟となるのかな。その場合、ユークリウスの家督はヨシュア・ユークリウスのものになるはずだ」

「――――」

ユリウスの物言いは平坦で、それだけに事実なのだと突き付けられる。

この話しぶりの複雑なところは、実際の立場がユリウス自身にも把握できていないところだ。ユリウスとヨシュアが実の兄弟であれば、ユークリウス家を継ぐのはユリウスになるだろう。だが、仮にユリウスとヨシュアが実の兄弟でないなら、ユークリウスを継ぐのはヨシュアであることが正しい。

そしてそれを確かめる方法は、世界からヨシュアの存在が奪われ、弟の記憶と自らの居場所を無くしたユリウスにはわからないのだ。

「詮無いことだが、そう考えると私の立場は非常に複雑だ。自分で自分の明日をも知れないとはゾッとしない話だよ。もっとも、今の私にはユークリウスの家督の行く末よりも、自分の足下が定まらないことの方を優先すべきだが」

「――――」

スバルが思いの外に衝撃を受けたからか、ユリウスが冗談めかしたように言った。

口の中が渇き、胃が軋む感覚を味わいながら、スバルは自分に歯噛みする。今のユリウスに気遣わせるなど、馬鹿にも程がある。

「そんな生い立ちがあったものだから、当時の私はふらついていてね。養父に連れられて王城へ上がり、教え込まれた拙い礼儀作法を披露して帰ろうとしたところだ。そこでまだ、八歳だったラインハルトを見た。――それだけの話だよ」

少しばかり強引に、ユリウスは話を終わらせることを優先した。

突っ込んだことを聞く勇気も、何か気の利いたことを言い返せるでもない。スバルはユリウスが寂しげに前を向くのを見て、噛んだ奥歯を離した。

そして、とっさに出たのは疑問だ。

「なんでそれ、急に俺に話す気になったんだ?」

「聞いてきたのは君だったと思ったが、私の勘違いだろうか?」

「いや、そうじゃねぇけど……それは俺が悪いけど、でも、そうじゃないだろ。お前がこんな話、俺にするなんて変じゃねぇか」

「そうでもない。ラインハルトやフェリス、近衛騎士団では周知の事実だ。当然、アナスタシア様も知っている、特別な話ではないよ」

「――――」

微妙に納得がいかず、スバルは口をへの字に曲げる。

誰もが知っていることだ、とは言われても、だからといって自分から吹聴して回るような事柄でもない。やはり、不自然な言葉のように思えた。

そんなスバルの不満が、唇を曲げた表情からユリウスに伝わったのだろうか。

彼は手綱を引き、少しだけ愛竜の足を速めると、

「そう、皆が知っていた話だ。――だから今、君にも知ってもらいたかったのかも知れない。今の世で、私以外に最も私を覚えている君に」

青い地竜が尾を振りながら加速し、ユリウスの表情は見えなくなる。

とはいえ、こちらを置いてけぼりにするほどの速度ではない。単純に話の終わりを表明するための、相変わらずどこかキザったらしいやり口だ。

「――――」

「ん、大丈夫だ。気ぃ遣ってくれてありがとよ、パトラッシュ」

走る漆黒の地竜が首をもたげ、スバルの方を窺ってくる。「前の地竜に並んであげましょうか?」といった仕草に、スバルはその淑女の首を撫でて感謝を表した。

「……らしくね」

小さく、拗ねたような言葉が口をついて出た。

弱気になっているのか、それとも悲劇の主人公でも気取っているのか。

まったくもって、腹立たしいとしか言いようがない。

「ああ、クソ。馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は……」

頭を掻き毟り、スバルは口の中だけでその苛立ちを吐き捨てた。

結局、このときのユリウスの言葉への、的確な返答は何も浮かんでこなかった。

そしてそれは、アウグリア砂丘を目前とするまで出てこない。

一行が砂丘の最寄りの町、『ミルーラ』へ到着しても、出てこなかった。

第六章7  『砂海を目指して』

アウグリア砂丘最寄りの町、『ミルーラ』は有体に言って寂れた宿場町だ。

町の規模はそれなりではあるが、当然、水門都市プリステラや工業都市コスツール、王都ルグニカとは比較にならないほど小さい。

王国内に張り巡らされる街道はどこも整備されており、ミルーラまでの道のりも竜車で安定した旅路ではあったが、その東端の終着点にしては寂しい限りだ。

「だけど、仕方ないのかもしれないわね。地図で見ると、ここから東には本当にアウグリア砂丘しかないし……南には王国最大の大森林でしょう? 五大都市からも離れてるし、人の行き交いが少ないのもわかる」

町を見て回りながら、スバルの隣を歩くエミリアがそんな所感を漏らす。

白いローブを頭から被り、美しい銀髪と面貌をほんのり隠した状態だ。田舎町にエミリアのような美少女が現れると、町の人たちの美意識に打撃が走る――というのはスバルの冗談だが、彼女もやんごとなき立場である。外見だけでなく、その素性も含めてトラブルを招かないよう、ちょっとした配慮というわけだ。

もっとも、頭部や口元を布で隠す理由はそれだけではない。

身分を隠す以外の理由、それはミルーラの名物『災害』である砂風の影響だ。

「東に南に発展のしようがない上に、極めつけはこの砂風か。キツイな」

エミリアを風下に立たせ、ささやかな抵抗として風上側に立つスバルも、顔に巻いていた布を引き上げ、口元を隠しながらそう呟く。舌を動かすと、歯と歯の間を擦れる砂の感触があり、なんとも気分が悪くなる。

この砂を纏った風は、東の砂丘から吹き降ろすように町へ流れ込んでくるものだ。

風の強い日などはひっきりなしに砂風が吹き付けるらしく、町の中を出歩くためにはこうした防砂ファッションは欠かせない。

「――? スバル、どうかした?」

「いや、砂漠って聞いたとき、イメージしてた展開とは違うなと思って」

ちらと横目に自分を見るスバルに、エミリアが首を傾げる。

素肌の露出を極限まで隠し、頭からすっぽりと足首までマントで覆った姿だ。基本的に可愛い女の子は色んな衣装で周囲の目を楽しませるべし、というのがスバルの考え方なのだが、こうまで防御力が高い衣装では目の保養にもならない。

砂漠といえば、日差し対策に踊り子みたいな衣装――とはなんだったのか。

「それにしても、やっぱり宿の人の言うことは聞いておくべきだったか」

「今、ちょうど『砂時間』なんでしょ? 通りに誰もいないもんね」

さほど強くない風なのだが、砂の重さが軽いのかささやかな砂塵になっている。黄色く煙る視界の中、見渡す町の通りにはスバルとエミリアの二人しかいない。

この環境に慣れきった町の人間は、この砂風の吹く『砂時間』は屋内に立てこもり、建物の窓やドアの隙間まで塞ぐ徹底ぶりであった。

実際、砂風の中では視界はもちろん、呼吸にもかなりの労力が求められる。宿の人間は『砂時間』中は出歩くべきではないと、しっかり二人を止めてくれたほどだ。

ただ、止める宿の人間を押し切って出てきたのには理由がある。

「町の中でこれなんだ。砂丘の砂風はこんなもんじゃねぇんだろうな」

「……うん、そうね」

予行演習ではないが、わざわざ『砂時間』に出歩く理由は心の準備のためだ。

四方を砂に囲まれ、『砂時間』以外にも砂風の吹く砂丘の行路はこの程度ではない。砂丘から距離があり、建物の密集した町の中でこの視界の悪さだ。

砂丘の行路の険しさは、今の内にしっかり覚悟する必要がある。

「とりあえず、どこかのお店に入らない? このままだと、私もスバルも砂の塊になっちゃいそうだから」

まとわりつく砂を払いながら、エミリアが指差すのは通りの向こうにある建物だ。酒場、か何かと思しき場所は、ひとまず避難場所として機能しているらしい。

他の店は来店お断りの雰囲気があるが、少なくとも入口が閉ざされていない。

エミリアの提案通り、二人はせかせかと早足でその建物に向かう。

押し扉の前でできるだけ砂を落とし、それから酒場の中にゆっくりと入り込んだ。

「……砂風の中、いらっしゃい」

酒場に入ると、カウンターの向こうでグラスを磨いていた店主が、スバルたちの方を見て低い声をかけてくる。声の調子が歓迎していないのは、一目でスバルたちが砂塗れと気付いたからだろう。

落とせるだけ落としたつもりだが、それでもまとわりつく砂の量は膨大だ。悪いとは思いながらも、砂を散らして店内に足を踏み入れる。

「注文は?」

「ミルク、冷たいの」

「ミルク、あったかいの」

「――――」

カウンターに腰掛ける二人の注文に、店主は目を細めたが何も言わない。

ちなみに冷たいのがスバルで、温かいのがエミリアの注文だ。

「大繁盛、って雰囲気じゃねぇな……砂時間中は商売あがったり?」

被っていた頭巾を脱いで、運ばれてくるミルクに口を付けながらスバルは店主に尋ねてみる。愛想のない店主は「ああ」と短く応じると、

「ただでさえ、外の人間の出入りが少ない町だ。日の出てる間、店は開けちゃいるが道楽みたいなもんだよ」

「なるほど。んじゃ、外の人間な上にお客さんである俺らはお得意様だな」

「酒場でミルク頼んで得意げにされてもな。ほら、嬢ちゃんのだ」

「わ、ありがと」

温められたミルクが差し出され、エミリアが陶器を掴んで一息つく。ミルクに息を吹きかける彼女を横目に、スバルはカウンターの上に身を乗り出した。

「他の客もいないし、今ちょっと暇だろ? 少しだけ話、聞いてもいいか?」

「たとえ本当に暇でも、勤務中の人間に暇だろなんて話しかけんのはご法度だぞ。……余所者が何を聞きたい?」

「ずばり、アウグリア砂丘のことについて」

指を立てて、スバルが店主に質問状を突き付ける。と、それを聞いた店主の表情が初めて崩れた。

灰色の短髪の渋い店主は、濃い眉の下の目を怪訝そうに細める。それからスバルとエミリアを見比べ、小さく吐息をこぼした。

「何の冗談か知らんが、行楽気分でいくならやめとけ。死ぬだけだ」

「おいおい、何を言い出すんだよ。俺らがまさか、遊び気分に見えるってのか?」

「他の何に見えたら俺の今の忠告が出てくるんだ? あそこは誰も生きて帰っちゃこない死の砂海だぞ。女との逢引きに使える場所じゃぁない」

「確かに吊り橋効果は有効的なアプローチ方法だと思うけど、俺もそこまで追い詰められてねぇよ。エミリアたんからも言ってくれ」

「ふーふー、あちち……え? なに? ごめん、聞いてなかった」

「見ろ、このE・M・Tぶりを」

「悪いこと言わんから死ぬ前に帰れ」

スバルとエミリアのやり取りを見て、ますます店主の信頼度が下がった。

とはいえ、店主も悪気があって言っているわけではないだろう。実際、アウグリア砂丘の危険性は前評判からも知れている。だが――、

「退くって選択肢は俺らにはないんだ。進むって道しかない以上、できることはなるたけ安全な道を選ぶことだけ。わかるだろ?」

「わかってないのはお前たちの方だ。いいか? あの砂丘はどうしようもないんだ。魔獣の巣窟で、魔女の瘴気が漂ってて、遠目に見える塔には近付けない」

食い下がるスバルの態度に苛立った様子で、店主が砂丘の脅威を語り始めた。砂の入らないように閉じた窓を指差し、町の東を示して店主は唇を曲げる。

「毎年、お前たちのような無謀な連中が砂丘目当てにやってくる。目的は砂海の中にある賢者の塔だが……誰も辿り着けやしない。生きて戻ってこれれば御の字だが、大抵の奴は砂海で干乾びるか、魔獣の餌になって終わり」

「本当に、辿り着けた奴はいないのかよ?」

「砂海に塔が建ったのが何百年前だと思ってる。あの場所を目指す馬鹿野郎の数は減らないのに、到達者がいるなら名乗り出ないわけがない。知らないのか? そいつは『剣聖』でも失敗した功績になるんだぞ」

「――――」

プレアデス監視塔の攻略は、ラインハルトさえも失敗した挑戦だ。

それは当のラインハルト自身から聞かされているし、監視塔攻略のための難易度の異常な高さを物語ってもいる。

ただそれでも、越えなくてはならないのが今のスバルたちなのだ。

「もちろん、無策で突っ込むような馬鹿はやらねぇよ。そのための情報収集だ。酒場でやるのは基本だろ?」

「そうなの? どうしてお酒を飲むところで?」

「詳しいこと聞かれるとわかんないけど、たぶん、酒飲んでみんな口が軽くなってるから色んな噂話が流れ込むとかそんなん?」

「つまりは酔っ払いの与太話ってわけだ。無策で突っ込むのもいただけないが、愚策に偏るのもよくないと思うぞ」

「ぐえー! 正論が突き刺さる!」

真っ向から正論に打ちのめされ、ミルクを飲み干すスバルが轟沈する。

普段のスバルの会話ペースも、相手がいい大人になるとたじたじだ。店主もスバルのように、無鉄砲に砂丘に挑む人間を相手にするのは慣れたものなのだろう。実際のところ、スバルの砂丘挑戦は無鉄砲というわけではないのだが、相対する店主が実態を知らない以上は扱われ方は同じだ。

このままでは、何の手掛かりもないまま戻る羽目に――、

「大体、女の子まで連れてるのにあんな地獄にだなぁ……」

「ごめんなさい、店主さん。さっきから心配してくれてるのに、スバルが文句ばっかり言ってて」

手詰まり、とスバルが凹んでいると、説教を始めかける店主をエミリアが遮る。謝罪から入るエミリアの言葉に、店主は目を丸くした。

そんな店主に、エミリアはぺこりと頭を下げる。

「顔見知りでもないのに、色々とありがとうございます」

「いや、こっちも口うるさいようで悪いな。ただ、間違ったことは言ってないつもりだ。お嬢ちゃんたちみたいな若い連中が毎度毎度、な」

「そんなに何人も、『賢者』に会いにいこうとするんですか?」

「本当に『賢者』に会おう、なんて気概の奴はそんなにいないだろうさ。大抵の奴はアウグリア砂丘を攻略する名誉欲だな。あわよくば賢者に知恵を授けてもらおうなんて連中もいるんだろうが、塔に辿り着ければ褒美が貰えるなんてのも眉唾さ」

肩をすくめて、店主はうんざりといった顔つきで嘆息する。

言葉通り、プレアデス監視塔への挑戦者を何人も見送ってきたのだろう。顔のわりに人が好いのか、忸怩たる思いがあるようだ。

「それは、塔についても『賢者』に会えないってこと……?」

「そこまで辿り着いた奴の話も聞かない。噂じゃ賢者様は今も、塔の上から砂丘を見下ろして、不埒な輩に天罰を下すって話だが……見たわけじゃないしな。俺にはあの砂丘自体、餌をぶら下げて獲物を狩るための罠に思えてならんよ」

「魔獣と瘴気、って言ってたっけ。それって?」

「言ったまま聞いたままさ。あそこは魔獣の巣窟……魔獣は王国の各地に色んな種類がいるが、あの砂丘はおかしなことにあらゆる種類がいる」

興が乗ってきたのか、店主は声を潜めながらも饒舌だ。

エミリアが息を呑んで頷くと、店主は遠い目をする。

「斑王犬やら黒翼鼠は可愛げがある。固有種の一角獣と砂蚯蚓はここでしか見られない。あとは砂地に花畑があったら花魁熊の狩場だ。悪夢だと思え」

「花魁熊……」

「本当はカララギの方にしかいないらしいんだがな。体中に花が咲いた魔獣だ。見た目に騙されて近付くと、腸を啜られるぞ」

「さすが魔獣……えげつねぇ……」

魔獣は人類を殺すための獣、とは誰に聞かされた言葉だったか。

聞き耳を立てながら顔をしかめるスバルに、店主はそれ見たことかと鼻を鳴らす。

「だが、砂丘で一番警戒しなきゃならんのは魔獣よりも瘴気の方だ。砂風やら環境の変化も危険ではあるが、瘴気の方が優先度は上だな」

「その瘴気ってのがピンとこないんだよな」

重ねて声を曇らせる店主に、スバルは首をひねった。

瘴気、その単語自体は何度も耳にしているし、字面で想像できなくもない。要するに体や精神に悪い影響を与える、見るからに体に悪そうな空気のことだろう。

有毒ガス、などとは趣が違うと思うが、それに近いものだろうか。

「えっとね、スバル。瘴気っていうのは、言っちゃえば悪いものに汚染されたマナのことを呼ぶの。目には見えないけど、でもどこにでもあるでしょ?」

「え、マナが瘴気なのか?」

エミリアの指摘にスバルは驚いた。わかりやすい説明だが、スバルの想像していた方向とはわずかに意味合いが変わる。

マナが魔法使いや精霊にとって、非常に大きな影響力を持つのは事実だ。だが、ただ生活したり、騎竜して移動するだけならさほど問題にはならないはず。

しかし、エミリアはそんなスバルの拍子抜けした内心を見通したように、ゆるゆると首を横に振った。

「瘴気を甘く見ちゃダメ。元々、普通のマナは何の色も指向性もない純粋なもの。だけど瘴気……悪いモノに汚されたマナは、ゲートから取り込むだけで生き物の体の中を悪くするの。ゲートが自然にマナを取り込む器官な以上、それは避けられない」

「ずっと息を止めてる、ってわけにはいかないからか」

「嬢ちゃんの認識で正解だが、アウグリア砂丘に漂う瘴気はその上をいくぞ。――あそこの瘴気は生き物はもちろん、食い物や飲み物までダメにする」

「食べられなくなるって意味?」

「食べたら一気に瘴気の汚染が進むって意味だ。ゲートから微量に取り込むだけでも発狂モノだぞ。直接、胃袋から取り込んでみろ。汚染に呑み込まれる」

「そうなると、どうなるんだ? 頭がおかしくなるだけで済まないのか?」

「狂い死にするってのが通説だ。実際は……まぁ、否定はできんよ」

言葉少なに首を振る店主、その顔色は悪い。

直接的に口にはしなかったが、おそらく彼は見たことがあるのだ。瘴気に侵されて発狂し、死に至った人間の最期を。

「あんなところ、行かずに済むならその方がずっといい。そうしろ」

「――ミルク、ご馳走様でした。お話も、ありがとうございます」

話を締め括りにかかる店主に、エミリアはホットミルクを飲み干して礼を述べる。

途中から、店主も柔らかに話を聞き出されている自覚はあったのだろう。その上でここまで言葉を続け、スバルたちの方針を曲げさせようとした。

ただ悲しいかな。それでも、スバルたちの目指す場所は変わらないのだ。

「御代は置いておきます。スバル、いきましょう」

「ん……そだね」

取り出した銀貨をカウンターに置いて、エミリアがスバルの袖を引いた。ミルク二杯には高すぎる支払いだが、情報と気遣いの分のチップが込みだ。

立ち上がり、店主に礼を言って店を出ようとする。

「――ここ一年ぐらいの話だが、砂丘の方へ飛んでいく鳥を見かけるようになった」

「――――」

ローブを被り直し、砂風に備えるスバルたちの背中に声がかかる。振り向くと店主はこちらに背を向け、グラスを拭きながら独り言のような調子で続ける。

「見かける連中の話じゃ、その鳥は塔を目指して飛んでるなんて笑い話が広がってるぐらいだ。何の根拠もない話だが……」

そこで言葉を切り、店主はグラスを置いた。

そして、

「もしも砂丘で頼りがなくなったら、鳥を探してみろ。運が良ければ、塔まで連れていってもらえるかもしれん」

「――――」

「砂丘で頼りがなくなる時点で、運は最悪に決まってるがな」

店主の言葉に返事のないまま、スバルとエミリアは店を出た。

外へ出ると、砂風の勢いはだいぶ弱まっている。酒場に入ったときより幾分か視界が開けているのを確かめ、エミリアがスバルへ振り返った。

「いったん、宿に戻ってみんなと合流しましょう。アナスタシアさんたちも戻ってきてる頃かもしれないし」

「そうだね。向こうの収穫も気になる」

再び顔を覆ったエミリアの前に立ち、風除けになりながら歩き出す。

そうして酒場が見えなくなるまで離れたあたりで、エミリアが小さく呟く。

「さっきのお店の人、片足がなかった」

「……気付かなかったな」

「どこでしたケガかわからないけど……でも、そういうことじゃないかな」

エミリアの思わしげな言葉に、スバルも彼女の言いたいことがわかる。

見ず知らずの旅行者二人に、結構に親身になって砂丘の危険性を訴えた店主。

それが彼の経験談による忠告だったとしたら、その気遣いを振り切って砂丘へ挑む自分たちはひどい奴らだ。そんな風に感じた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「ナツキくんとエミリアさんも、無事にお戻りみたいやね」

宿に戻り、砂を落として部屋へ上がったスバルたちを迎えたのは、スバルたちと同じように外出していたはずのアナスタシアだ。

外出着から着替え、寝台に腰を下ろすアナスタシアははんなりと微笑んでいる。

一行が宿泊する宿は、ミルーラでは一等まともな宿である。

それでもプリステラの『水の羽衣亭』などに比べれば見劣りするが、そこは都市レベルの格差ということで納得する他にない。

「ユリウスは?」

「うちを宿に送り届けたあと、ちょっと町を見て回るいうてな。たぶん、砂に目を慣らしとるんやと思う。ナツキくんたちとおんなじやね。どうやった?」

「防塵ゴーグルが欲しいってのが本音だな。透明なガラスみたいなので、顔のこのあたりを塞ぐみたいに覆うんだ。作れないか?」

水中ゴーグルを思い浮かべて、スバルは自分の目の周りを示しながら聞いてみる。アナスタシアはその言葉に首を傾げ、「なるほど」と頷いた。

「ガラス細工やと強度に問題があるけど、一考の価値はある……か。砂風問題はカララギでも無関係やないし、使える考えかもしらんね」

「先々の特許関係の話がしたいわけじゃねぇよ。それがないなら……まぁ、『砂時間』さえ避ければ、行動不能ってことはないと思うぞ」

「問題は砂より、魔獣や瘴気の方みたい。瘴気は私とベアトリスで微精霊に働きかけてみるけど……魔獣はメィリィに頼りきりよね」

そう口にしたエミリアが、壁越しに隣の部屋の方へ視線を向ける。

そちらの部屋は現在、メィリィの監視にベアトリスがつく形になっているはずだ。心情的には裏切らないと信じたいところだが、メィリィの前科が前科である。おいそれと信用するわけにはいかないし、彼女の語る、母親との繋がりが切れたとも言い切れない。彼女の母親が口封じを試みない、とも限らない。

「そいでもって、道案内はアナスタシア頼りと。綱渡りだな」

「いつものことといえば、いつものことだけどね」

「違いない」

珍しいエミリアの茶々にスバルが唇を緩め、それからアナスタシアを見やる。彼女は寝台の上で背筋を伸ばし、「それで、やけど」と言葉を継いだ。

「出かけた目的、ちゃぁんと果たしてきたから安心してな? 竜車の車輪回りの調整と、砂丘に入るうちらの扱いはこっちの要求通りになるはずやから」

「そう……ごめんなさい。なんだか全部、やってもらっちゃって」

「ええよええよ。代わりにうちは戦力的に、エミリアさんを当てにさせてもらうし」

鷹揚に手を振るアナスタシア。

彼女の口にした目的――片方は、砂丘に入る竜車の調整だ。通常、竜車は整備された街道か、少なくとも道を走ることしか想定されていない。だが、今回の行路は大部分が砂の道であり、通常の竜車では移動もままならない。

竜車を置いて地竜に乗って移動するのは手だが――こちらには女子供が多く、意識のないレムもいることを考えれば現実的ではなかった。

そのため、砂漠地帯に適した竜車の調整と、地竜の変更が余儀なくされたのだ。

「パトラッシュは置き去りにできないけどな。それを置いていくなんてとんでもない」

「あの子、すごーく賢いもんね。置いてくなんて話してたら、スバル、噛まれちゃうんじゃないかしら……」

実際、そうなりそうなのでなんとも言えない。置いていかないし。

「で、竜車じゃない方の交渉は……」

「交渉ってほどのもんともちゃうよ。向こうが不安がるのを宥めて、ちゃぁんと言って聞かせてきたっただけやから」

愛らしく微笑んでみせるが、その笑みが見た目通りのものでないことを察して、スバルの背中はうそ寒くなる。

竜車と、もう片方の用件。そちらは簡単に言えば、砂丘に臨むための通過儀礼だ。

即ち、王選候補者であるエミリアとアナスタシアが、アウグリア砂丘で消息不明になった場合、その責任はどこにあるのか、といったことである。

現状、二人が王国にとって、最重要といってもいいほど重要なポジションにいることは周知の事実だ。その二人があろうことか、アウグリア砂丘で砂に埋もれたとあれば一大事、当然、その責任の所在を巡って大わらわが予想される。

アウグリア砂丘――砂丘自体の管理者はともかく、最後に立ち寄ったミルーラ周辺を治める領主にとって、その責任の重さは耐えられるものではあるまい。

なので事前に、『何があっても、それは候補者の自己責任』という点を領主に納得させ、一筆したためるためにアナスタシアは領主の下へ出向いていたのだ。

「それでも、止めきれんかったことで責められるかもわからんから……うちらの命はうちらのものだけやない。責任重大やね?」

「それは元からそうよ。王選だとか候補者だとかだからじゃなく、私たちが『賢者』に会って、色々なことを取り戻す手段を見つけない限り、助からない人たちが大勢いるんだもの。今さら言い出すことじゃないわ」

「頼もしい限りやないの」

アナスタシアはどこか嬉しげに、そう断言するエミリアを見返した。それから彼女は首を傾け、「それで?」とスバルの方へ目を向ける。

「ナツキくんたちは出歩いて収穫あったん? まぁさか、ホントにただ砂に目ぇ慣らしに出てたわけと違うんやろ?」

「まぁ、砂風の中でデートと洒落込んでたわけではねぇよ。一応、ちょっとは詳しい人間から話が聞けたつもりだ」

「お店の人が詳しかったのは、たまたまの偶然だけどね」

「酒場をチョイスした、俺の先見の明が光ったよね」

「お店を選んだの、私だった気がする……」

ともあれ、流れがどうで誰の手柄であるかは情報自体には関係ない。

アナスタシアにも先の酒場の話をしてやると、彼女は考え込む眼差しをした。

「鳥を見かける……ふーん」

「なんだよ、それが気になるのか?」

「他の話はまぁ、アウグリア砂丘に挑む上やと常識の半歩上ぐらいの話やからね。それより興味深いんは、やっぱりその変化やろね。鳥やなんて、一番、瘴気まじりの風に敏感そうやのに」

「そう言われると確かに……」

アナスタシアの言葉に、エミリアが自分の髪に触れながら考え込む。思索に沈むエミリアを横目にすると、スバルはそっとアナスタシアの方へ顔を近付け、

「――まさか、本当に何か思い当たる節があるのか?」

「これといっては浮かばないよ。ただ、興味深いというのは事実さ」

「――――」

「そう疑わしい顔をしないように。ほら、彼女に不審に思われるよ」

襟ドナの本心が顔を覗かせるが、そう言われては引っ込む他にない。幸い、まだ考え込んでいるエミリアは今のやり取りを見ていないが、安堵するスバルの胸裏は何故だか浮気を必死に隠す間男のような気分だった。

「出発は、どうする?」

「早い方がええやろ? 懸念やった竜車と話し合いは終わったんやし……積み込む荷物だけ補給したら、すぐにでも出た方がええんちゃうかな」

「明日、は性急だけど、明後日ぐらい?」

「そうしよか」

アナスタシアがそう言って手を打つと、エミリアも了承したと頷く。

それから視線を部屋の窓、砂が入ってこないようにしっかりと閉ざされたガラス窓へと向けて、目を細めた。

エミリアの紫紺の瞳が見つめるのは、窓の向こうの東の光景だ。

そこに町並みを乗り越えるような高さで伸びる、長大な影がそびえ立っている。

「プレアデス監視塔」

ぽつりと、銀鈴の声音がその建造物を呼んだ。

目的の塔は、ミルーラの中からも仰ぎ見ることができるほど、高く大きい。

――あれほど大きなものを、見落とすことなどあり得るだろうか。

ミルーラに到着する前、街道の道中から見え始めたプレアデス監視塔の姿に、スバルはずっとそんな疑問を抱いている。

何をどう間違えれば、あれほどの目印を見つけられなくなるというのか。

だが、そんな風に思う一方で、酒場の店主の忠告も突き刺さる。

「無策は論外、愚策は下策、か」

何がどうあろうと、挑まないという選択肢はない。

だからこそ取れるだけの、可能性を増やせるだけの手段を選んだつもりだ。

あの店主の語った、無策で愚策な冒険者とは違うはず、そう思う。

だからこそ、スバルは気付かないし、気付けない。

――何がどうあろうと、挑まないという選択肢はない。

この時点で、すでに最初の道を自ら閉ざしているのだと。

第六章8  『砂丘の洗礼』

――出発の朝がきた。

休息日を一日入れて、事前の根回しや聞き込みをした翌々日だ。

ミルーラの町の入口には砂丘越えの準備を済ませ、各々の装備を整えたスバルたちが集まっている。そんな中、竜車を見るスバルは感嘆の息を吐いた。

「ほあー、これが……」

「砂丘越えのための地竜――砂地に強い、ガイラス種だ。砂風や乾燥に適応した種族で、揃って大型だが気性は穏やか。扱いやすさで知られる、このあたりの固有種だよ」

竜車に繋がれる地竜を見やり、目を丸くするスバルにユリウスが補足する。

プレアデス監視塔を目指すにあたり、突破する必要のあるアウグリア砂丘。砂の支配する広大な道を行く上で、一般的な地竜の足では難所を乗り越えられない。

故にここまで街道を引いてきてくれた地竜を切り替え、この先は現在のガイラス種なる固有種の地竜に道を開いてもらうことになる。

「固有種、か。なるほどなぁ。プリステラの水竜もだけど、世界は広いわ」

眼前、竜車に連結される黄色い肌の地竜を眺め、スバルは腕を組んだ。

スバルもこの世界で過ごしてすでに一年以上。地竜に対する驚きもだいぶ薄れ、当初のような感動はなかなか味わえないと思っていたのだが、見識が狭かった。

「――――」

平たい頭部に、棘のような鱗を体中に生やした黄色い地竜。体格はオットーの愛竜であるフルフーに近い。フルフーは地竜の中でもスタミナに優れた種族で、三日三晩走り通せると飼い主が豪語していたものだ。そのフルフーの外見は、スバルの知識だとトリケラトプスに近いといえるだろうか。

一方で目の前にいる地竜は、近似の知識を探ればアンキロサウルスと似ている。

ただ、尻尾は短く、オリジナルと違って武器にはなりそうにない。そして特徴的なのは皮膚や顔つきよりも足の造りだ。――太く短い四足の先端はいずれも丸まり、鋭い爪がスパイクのような役割を果たし、巨躯を大地に繋ぎ止めている。

「うっかり踏まれたら取り返しのつかないことになりそうな足だな」

「アウグリア砂丘の砂は粒子が細かい。こうした足でないと、斜面を滑り落ちてしまいかねないんだ。ガイラス種の足の変化はそのための適応と言われている」

「砂漠地帯への適応ってことか。馬代わりでラクダ代わりで、水竜はなんだろ。動物に船を引かせるって、よくよく考えると元の世界じゃ見かけるもんでもないしな」

考え込むスバルの脳裏にスワンボートが浮かんだが、あれは船の形が白鳥を模しているだけで、実際には人力で動いているに他ならない。かといって、ワニやカバに船を引かせる風習も聞いたことがないし、水竜の代わりは思い浮かばなかった。

そんなことよりも――、

「砂地に適応したこいつらがいくような場所に、俺のパトラッシュ連れてって大丈夫なのか? うちの陣営きっての淑女に無理はさせられねぇんだが」

「君の愛竜は全ての地竜の祖とされるダイアナ種だ。かつては陸海空のいずれにも覇を唱えた最初の祖龍の系譜……どんな環境であろうと、一定以上の適応力がある。残念ながら、私のシャクナールには町で待機してもらうことになるがね」

スバルの問いに答えて、ユリウスが寂しげに宿の方を仰ぎ見る。

シャクナール、というのはユリウスの愛竜である、青い肌の美しい地竜だ。

愛竜とはいえ、彼の地竜も『暴食』に名前を喰われたユリウスのことは忘れている。だが、さすがに躾の行き届いた地竜は騎竜者が誰であろうと礼節を欠かさない。プリステラでの一方的な再会以来、最初からユリウスを受け入れていたし、ここまでの一ヶ月半の旅路で以前に近しい絆は結ばれた様子だった。

それだけに、愛竜を町へ残していくことへ忸怩たる思いがあるだろう。

「それにしても、自分の愛竜を身の周りで一番の淑女扱いとは……地竜に対する扱いがわかってきたと君を褒めるべきか、あるいは君の周りにいる女性陣への評価に対して苦言を呈するべきか判断に迷うところだ」

「……実際、パトラッシュの女子力の高さは侮れないところがあるんでな」

感傷に浸る眼差しも一瞬のことで、ユリウスは即座に揶揄するような発言で自分の胸中を押し隠した。スバルも、彼のその思惑を察してなんとなしに乗ってやる。

それを見届けると、ユリウスは手綱を握ることになる竜車の地竜へ挨拶に。スバルは代わりに竜車の方へ目を向け、ステップを踏んで扉をノックした。

「竜車は車輪だけ取り換えて中は据え置き、と」

ノックへの反応がある前に、スバルはちらっと改造された竜車を検める。

といっても、目立った変化は車体の下部――車輪回りと、砂風対策に砂避けを取り付けた窓枠ぐらいのものだろう。

長距離移動用に色々と工夫の凝らされたこの竜車は、言ってしまえばキャンピングカーのような多目的な機能を備えている。車内の前方には座席の並ぶ空間があり、真ん中から後方にかけては簡単な生活用のスペースがあるという優れものだ。

居住性を確保した上で、乗客数は最大で十名。正直、最初にこうした竜車をお目にかかったとき、スバルは自分の想像力をあっさり超えられたと驚かされた。

「電気も電化製品もなくても、魔石加工の魔石細工で代用できる道具はある。つくづく、人間ってのはどこでも便利を追い求める生き物なんだよなぁ」

「――しみじみと何を語っているのか知らないけど、準備は済んだの、バルス?」

外観に首をひねっていると、竜車の扉が開くのと同時に冷たい声が降り注いだ。

振り返れば、扉に一番近い座席にラムが立ち上がり、スバルを見下ろしている。

「前準備は昨日の内に済んでるからな。物の準備は十分。あとは心と体の準備になるけど、そっちも俺は十分ってとこ。お前の方こそどうだ?」

「そうね。何日も車中で過ごすと考えると、どれだけ気遣っても安心とは言えないわ。か弱いラムたちでは、砂丘の真ん中で襲われても助けを呼べないし」

「――大丈夫よ、心配しないで」

意味ありげにラムが目を細めると、それを聞きつけてエミリアが顔を見せる。竜車の後方を片付けていたらしきエミリアは、ラムの傍らに歩み寄ってその肩を叩いた。

「たとえ何が襲ってきても、中のみんなのことはちゃーんと私が守るから。外にはスバルやユリウスもいるんだし、ばっちりなんだから」

「さすが、心強い。ほれ見ろ、ラム。エミリアたんもこう言ってるし、安心しろよ」

「そうですね、エミリア様。ラムも大変、心強いです。しかし、何も襲ってくるのは害意ある存在だけではありません。中には邪な煩悩の働く輩も……」

言いながら、ラムの意味ありげな視線が意味ありげなままスバルの方へ向いた。

途端、ラムの視線と言葉の裏が伝わり、スバルは唇を曲げる。

「お前、もう一ヶ月近くも平和な夜を過ごしててまだそんな疑ってんの!? 俺がお前の前でそんな盛ってたことなんかねぇだろ!? そんな勇気ねぇよ!」

「それを声高に主張するのも情けない話だけど、この車内の美観率だとどんな風に血迷ってもおかしくないわ。ラムは常々怯えているのよ。乙女心を察しなさい」

「怯えてる? 脅してるじゃなくて?」

男女七歳にして席を同じゅうせず、的なラムの発言にスバルは声を震わせる。ちなみにエミリアは、そんなラムの言いように不思議そうに首を傾げるばかりだ。

相変わらずのE・M・Tさと、ラムの傍若無人さ。ただ、気になることがあってスバルは「あー」と気だるげに頭を掻いた。

「姉様、体調は大丈夫か?」

「……らしくもない。どうしたというの?」

「お前の心配は杞憂だけど、俺の心配は杞憂か? それが確かめたいだけだよ」

「バルスのくせに、気が回るなんて生意気だわ」

顔色が悪いわけでも、息遣いが苦しげなわけでもない。ともすれば普段のラムの振る舞いと変わらずに見えるが、彼女はスバルの言葉を否定しなかった。

強がりはしないし、隠そうとも図らない。そのあたり、ラムは意外と真摯だ。

「毒舌にいつもの切れ味がないからな。本格的に体調が悪いなら……」

「二十日もかけてここまできて、目的を目前にして足踏みしろというの? いつものことだけど、今日は特に笑えないわよ」

「ラム、そんな言い方しないの」

スバルを遮り、ラムがキツイ目つきをさらにつり上げる。そんな彼女の態度に眉尻を持ち上げ、怒ったように腰に手を当てるのはエミリアだ。

彼女はラムの傍らに立ったまま、スバルの方へと手を向けて、

「スバルだってラムのことを心配してるのよ。それにラムのことは私だって心配。ちゃんと毎日、ロズワールに言われた治療はしてあげてるけど……」

「治療、で呼び方いいのか安定しねぇけど、やっぱり本職じゃないもんな。エミリアたんやベア子がやってても、ロズワールほどうまくいかないか」

「……それを理由にするつもりはないわ。迷惑も、かけないつもりよ」

「心配はかけてるぜ?」

「いつものバルスなら誤魔化せている程度には堪えているわ」

「いつものラムじゃないから、誤魔化されてやれねぇんだよ」

売り言葉に買い言葉、ではない。ああ言えばこう言う、でもない。

とにかく、静かな言葉の応酬があり、スバルの物言いにラムは不満げに唇を噛む。しかし、スバルを睨む彼女の眼にはやはり覇気に欠けている。

それは自覚があったのだろう。ラムは吐息をこぼし、車中を振り返る。彼女の座席にすぐ隣、そこに置かれる車イスと、その上の一人の少女を見た。

竜車の座席を取り外し、そこに車イスを設置できるように改造したスペースだ。眠る少女は関係者のやり取りにも気付かず、眠りの中に残り続けている。

「置いていく、なんてさせないわよ。そもそも、置いていかれたところでラムの苦しみが改善されるわけじゃないから。むしろ、エミリア様から引き離されれば今のラムにとっては死活問題よ。殺す気?」

「早まるなよ。最初から置いてくなんて一言も言ってねぇだろ。それにお前を残してくって話になるなら、当然、エミリアたんだって置いてくっての」

「む! スバル、私はそんなの絶対に嫌だからね」

「だーかーら、大丈夫だって! ただ、俺はラムに確かめときたいだけ!」

「確かめたいこと?」

「最初にそう言ったろうが……」

早とちりを繰り返されて、最初の一言を忘れられたスバルが苦笑する。エミリアとラムが顔を見合わせ、揃って疑問を浮かべるのを見てスバルは言った。

「ラム。お前が普段の調子じゃないことなんてお見通しだから、なんかあったらすぐに言えよ。隠そうとか誤魔化そうとかすんな。そんなことしても無理やり助ける」

「――――」

「ふふっ」

指を突き付けて断言してやると、ラムは珍しく鼻白んだ顔をした。

その隣ではエミリアが口に手を当て、堪え切れない笑みを思わずこぼしている。やがて笑いの初動を受け流し、エミリアはどこか嬉しそうに唇を緩めたまま、

「私、スバルのそういうところ、すごーくいいと思うの」

「……え!? 今、惚れ直したって意味!?」

「寝てるレムの前でそういう話はやめなさい。女の害敵」

「女の敵じゃなくて害敵!?」

声を裏返らせるスバルに、ラムが「ハッ」と鼻を鳴らす。

それから彼女は細い足を伸ばして、竜車のステップに立つスバルを乱暴に蹴り出そうとしてきた。

「わ、ちょ、おい! 何すんだよ、落ちる!」

「落ちるはともかく、バルスの定位置は中じゃなく外よ。自慢の地竜に跨って、ラムたちの竜車の安全を血眼になって確保なさい。ほら、さっさと」

「さっさとじゃなくて、お前はお前で今の話をちゃんと……」

「――聞くだけ聞いたわ。だから、いきなさい」

固い声で言って、ラムの蹴りがより鋭さを増してくる。

太腿あたりを蹴られるスバルはすごすごと下がり、竜車を離れる寸前にエミリアへ目配せした。その視線にエミリアは「わかってる」と言いたげに顎を引く。

「ならひとまずいいか。でも、とにかくお前は……もがっ」

「いきなさい」

不意打ち気味の蹴りが鳩尾に入り、のけ反るスバルが竜車の外に落ちる。そうして客車の扉をさっと閉め、吐息をついたラムはふとエミリアを見た。そして、

「……エミリア様、そのお顔はなんでしょうか?」

「ううん、別になんでもないの。でも、なんだかラムが可愛いなって思って」

「心外な評価です。エミリア様にしては生意気ですよ」

「ふーん」

からかわれたことで口が滑り、ラムが珍しく自分の失態に頬を強張らせた。そんなラムの表情の変化に、エミリアはますます楽しそうに目を細める。

「いつもスバルには見せてる顔、やっと私にも向けてくれる気になった?」

「……気が抜けていました。ご無礼をお許しください」

「別に怒ってないわ。むしろ、ちょっと嬉しいぐらい。そうしてくれる方が、なんだかラムが心を許してくれるみたいだもん。私、スバルが羨ましかったから」

邪気のないエミリアの受け答えに、ラムは少しだけ押し黙る。それからすぐ、自分の髪を撫で付けるラムは毒気の抜かれた顔で、

「エミリア様も変わられました。初めてお会いしたときは、ガラス細工のような硬くて脆い覚悟しか持たない方に見えていたのに」

「今の私は、もうちょっとは強そうに見える?」

「ともすれば甘く……ガラス細工が飴細工になったようにも思えますが」

「わ、ラムってば厳しい」

憎まれ口を叩くラムに、エミリアはいよいよ堪え切れずに声を弾けさせた。

そのまましばらく、竜車の中では少女たちの言葉が交わされ続けたのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――アウグリア砂丘の攻略は、それから数時間後に開始された。

ミルーラの町から東へさらに十数キロ、竜車で小一時間ほどの距離から砂地が始まる。乾いた砂と瘴気を孕んだ風が強くなり、足下の草原が砂原に変わると、いよいよアウグリア砂丘への突入といった塩梅だ。

「――――」

今回の編成は竜車が一台と、竜車を引くガイラス種なる地竜が一頭。そこにスバルを乗せたパトラッシュが並走し、砂地を踏破する形になっている。

平たい顔の地竜の速度は速くないが、ずっしりとした走りには安定感があった。相方の変わったパトラッシュも最初は警戒していたものの、数時間も一緒に走れば相方の見所を見つけたようで、気位の高い顔はそのままに不満はないらしい。

「しいて言うなら、この地竜の今の不満はたぶんベティーの方にあるのよ」

とは、スバルの腕の中にすっぽりと収まるベアトリスだ。手綱を操り、胸の中で丸くなる少女を抱えながら、スバルは「いやいや」と首を振る。

「そりゃ穿ちすぎだろ。パトラッシュはそんな器の小さいドラゴンじゃねぇよ」

「……スバルはもう少し、周りを見る目を養った方が賢明かしら」

漆黒の地竜に横座りになりながら、スカートの裾を掴むベアトリスがそうこぼす。

以前に比べて、スバルの騎竜技術もだいぶ上達した。これまではパトラッシュの気遣いに甘えるばかりだったが、今では一端の騎竜者見習いといったレベルだ。

鞍に尻を乗せ、手綱を握る。ベアトリスを自分の前に座らせ、後ろから抱くようにして二人乗りする姿も堂に入ったものになりつつあった。

当然、スバルが乗る地竜はパトラッシュだけだし、こうしてベアトリスを乗せて二人乗りすることも初めてどころの話ではない。だから、ベアトリスのその想像はいくらなんでも被害妄想が過ぎる。と、そう言いたいのだが。

「プライドの高い地竜は主人以外は乗せたがらないものなのよ。中でも、スバルのこの地竜はとびきりかしら。ベティー一人なら絶対に乗せたりしないはずなのよ」

「それはお前が単純に、地竜に乗るのが下手だからじゃなくて?」

「それが理由なら、スバルがこの地竜と仲良くやれてた理由がなくなるかしら」

おっしゃる通りで。

パトラッシュの相手を気に入る基準が騎竜技術の有無なら、最初の試験でスバルは落第していたはずだ。そうでない以上、この淑女の目にスバルが適った理由がある。

そして実際、スバル以外に対するパトラッシュの態度はわりと辛辣なのだ。

「まぁ、好かれてる理由がわからないのは据わりが悪いってのは事実だ」

「そうなのよ。スバルは理由なしに好かれるほどの見た目じゃないかしら」

「……つまり、お前は確固たる理由があって俺のことが大好きだと」

「それはもちろん、ベティーは……何を言わせるつもりなのよっ!?」

密着した状態なので、赤い顔をしたベアトリスの攻撃を避ける手段がない。力ない掌にぺしぺし叩かれながら、スバルは「どうどう」とベアトリスを落ち着かせる。

と、そんな背中の上のやり取りに不満があるのか、パトラッシュが上体を持ち上げて二人を揺らした。

「お、わっと!」

バイクのウィリーのような姿勢制御に、スバルは思わずベアトリスを強く抱く。

基本、『風除けの加護』の力で騎竜の揺れも風も感じないのだが、さすがに今のように大袈裟な動きや、急旋回した際の角度の変化などの影響は受ける。

その特性を理解した上での嫌がらせだ。

スバルが抗議を込めてパトラッシュの後頭部を睨むと、地竜は一瞬だけスバルたちに視線を向け、『舌を噛むわよ』とでも言いたげに目を細めた。

「なんか気位の高さだけ見てるとラムに似てるな。意外と気が合いそうだ」

「もしくはぶつかり合って、絶対に分かり合えないかのどっちかかしら」

スバルとベアトリスがしみじみと言葉を交わして頷き合う。

と、

「――スバル、ベアトリス様。仲睦まじいのも見ていて微笑ましいが、そろそろ本格的に気を引き締める頃合いだ」

そんな緊張感のない二人に向かって、横合いから声が投げられる。

並走する竜車の御者台、そこで手綱を握るユリウスだ。単独で地竜に跨るのではなく、御者の役目に徹する姿はいささか彼に似合わない役回りに思えるが、ユリウス自身は気にした風もない。

もっとも、そのことを気にかける余裕もないのかもしれない。なにせ彼の隣には、

「お兄さんとベアトリスちゃんが仲良しなのはいいけどお、あんまり放っておかれると私も拗ねちゃうんだからあ」

そう言って、外見に不相応な流し目を送ってくるメィリィが座っているのだ。

アウグリア砂丘の攻略にあたり、魔獣対策要員であるメィリィには常に働いてもらう必要がある。そのため、砂丘に生息する魔獣への警戒として、メィリィは最も対応しやすい場所――つまり、竜車の前方を把握できる御者台にスタンバイしていた。

故の彼女の退屈しのぎを、延々とユリウスが引き受ける形になっているわけだ。

「お前のエスコートは隣の騎士様がやってくれてるだろ? 俺よりよっぽどスマートでスタイリッシュでエレガントなはずだぞ」

「半分以上、何言ってるのかわかんなあい。それに騎士様に不満があるわけじゃないものお。私はお兄さんに不満があるのお」

「俺に?」

三つ編みにした髪を弄りながら、メィリィはスバルを睨んで頬を膨らませる。

「私を引っ張ってきたのはお兄さんなんだしい、お兄さんが私の相手をする義務があると思うのよねえ」

「そんな聞き分けのない子どもみたいなこと言い出すなよ。見ての通り、その枠はベア子で満杯なんだよ。な?」

ぷんすかとしたベアトリスが肩をすくめ、スバルは改めてメィリィを見る。

拗ねる様子は歳相応だが、彼女の機嫌は今後の道行きに大きく影響するのだ。そのことを考えると、メィリィを蔑ろにするのは勇気がいる。

とはいえ、それを言い始めると手が回らなくなるのが実情なのだが。

「お前の言うことはもっともだ。けど、権利だの義務だの言い出すのは、まずは自分の役目をしっかり果たしてからにしてもらおうか」

「私のお役目、ねえ」

「もうすぐ砂丘の大本命に入る。入っていきなり魔獣がガオーとは思わないが、そうなったときに奴らを宥めるのがメィリィの仕事さ。わかってるだろ?」

「……はあい。ベアトリスちゃんは甘やかすくせに、お兄さんのイジワル」

意地悪したわけではないのだが、結果的にそう取られても仕方ない口車だ。

心なしかベアトリスが満足げなのを横目に、スバルはユリウスに手を挙げる。それを受け、ユリウスは静かに顎を引いた。

小さな淑女のご機嫌取りは、申し訳ないが彼が引き継いでくれることだろう。

それよりも――、

「スバル」

「ああ、見えてる」

ベアトリスの静かな呼びかけと、正面を睨みつけるパトラッシュの微かな嘶き。

それらに意識を呼び戻され、スバルも目を細めた。

眼前、そこにミルーラから延々と、見落とすわけがないほど輪郭のはっきりとした長大な塔の姿が――そして、その塔を取り囲む砂の大地が見えていた。

プレアデス監視塔を囲う砂の迷宮、アウグリア砂丘への堂々とした到着である。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

アウグリア砂丘名物、『砂風』には特に強く風の吹く『砂時間』が存在する。

一日に三度、午前・午後・深夜の時間帯にそれぞれ吹き抜ける砂風は、東から西へと砂と瘴気を運ぶ、静かににじり寄る災害だ。

特に風が強いのは深夜帯の時間で、この間の砂風は数時間に亘って吹き続ける。

ほとんど夜中、砂風の吹くことになる夜半は移動もままならないわけだ。

そのため、アウグリア砂丘の攻略は日中、それも午前と午後に数時間の『砂時間』という休憩を挟んで少しずつ進められることになる。

地面を覆い尽くす砂の粒子は細かく、噂通りの足場の悪さに何度も足を取られる。行軍は遅々としてペースが上がらず、苛立ちが募ることもままあった。

ただ、そんな状態にあって、スバルは拍子抜けしていることもある。

それは――、

「砂風のうざったさと足場の悪さはあるけど……思ったほどひどくもねぇな」

風上から流れる砂風に顔を背け、口元の布を引き上げて呼吸を確保する。微かに歯が砂を噛む感触はあるが、この程度の洗礼はミルーラでの時間と大差ない。

砂の舞い散る視界は黄色く、服の中に砂が入るこそばゆさはあるが、具体的に影響があるのはその程度のこと。砂丘の猛威は些少だ。

「砂丘って聞いたとき、てっきり死ぬほど暑いのを覚悟してたんだけどさ」

「ここいらは自然環境の問題で緑がないわけじゃないのよ。立ち込める瘴気が何もかもを殺すから、こんな風な景色が広がっているだけかしら。だからこの砂丘には雨だって降るし、極端に気温が狂うようなこともないのよ」

スバルの中の砂漠のイメージとしては、やはり灼熱の地獄という印象が強い。

元の世界で、実在の砂漠に足を運んだ経験など一度もないが、ゲームや漫画といった媒体で扱われる砂漠は、どれも熱砂のイメージが付きまとうものだろう。

それだけにアウグリア砂丘の過酷さは、想像と比較すれば快適なぐらいだ。

「最寄りの町が暑くも寒くもなかった時点で、砂丘が極端に灼熱地獄になるのもおかしな話か。ってことは、本格的に注意しなきゃは風と魔獣ぐらいだな」

「それと、道に迷わないことも……かしら」

懸念が一つ消えて、どこか楽観的なスバルの感情をベアトリスが引き締める。腕の中の彼女の指摘に、スバルは風に注意しながら前を見据えた。

依然、スバルの視線の先には消えない監視塔、その偉容がそびえ立っている。

「迷う迷わないとは言うものの、アレを見落とせって方が不自然だと思うんだが」

「ベティーもそう思うのよ。でも、何が起きても不思議はないかしら。『賢者』がどんな食わせ者か知らないけど、事実、誰も辿り着けちゃいないのが証拠なのよ」

「――――」

無論、スバルとて舐めてかかるつもりは毛頭ない。

現実的に考えれば、あれだけ巨大な構造物を目印にして、道に迷うのはともかく、目標を見失うことは考え難い。だが、挑んだ者は誰もがそう思っていたはずだ。

そう思って、なお辿り着けていない以上、それだけの理由があるはず。

何が起きても不思議はない。

ベアトリスの指摘通り、ここはそういう魔境だ。

「となると、そろそろ次の保険を立てるときか」

息を詰めながら、スバルはこれまで進んできた道を振り返る。

点々と砂地に残るのは、スバルたちを乗せたパトラッシュの足跡だ。ただし、直近のものしか残っておらず、それも数秒で流れる砂に上書きされて隠されてしまう。

自然が用意した、天然の殺し罠だ。

正面にある監視塔はともかく、きた道を見失わせることでは非常に優秀。

ただし、それはあくまで、普通の手段しか持たない者が相手の場合だ。

「前のやつが見えなくなりそうだな。よし、頃合いだ」

手綱を操り、スバルはパトラッシュに指示して並走する竜車へ体を寄せる。

竜車の方も地竜のスパイクじみた足跡と車輪の痕跡は残っているが、それも条件はパトラッシュと同じだ。そのため、辿る目印は工夫する必要がある。

「エミリアたん、お願い!」

「――はーい、わかったわ」

外から竜車をノックすると、返事とともにエミリアが扉の向こうに姿を見せる。

全身を白いローブで覆って砂対策するエミリアに、スバルは背後――遠間に目を凝らしながら、かろうじて視界にぼやけて映る『何か』を指差して、

「働かせてばっかりでごめんだけど、先生、お願いします!」

「スバルには外を見てもらってるもん。なんてことないわ。……先生ってなに?」

「頼み事するときのお約束。ととと、お願い」

「ん、頼まれました。――えい!」

ちょっとした軽口を交わしたところで、スバルの指差す方をエミリアが見る。

睨む、というには可愛らしすぎる目つきで、エミリアは気の抜ける掛け声を上げて魔力を迸らせた。

直後、エミリアの掌で膨大なマナが渦を巻き、加速度的に力を得た魔力は一気に空をひた走り、空気の爆ぜる音が辺りに響き渡る。

――そして数秒後、砂原の途上に突き立ったのは巨大な氷の塔であった。

「うん、上出来」

仕上がりを確認し、エミリアがまずまず満足そうに目を細める。

さすがにプレアデス監視塔には及ばないが、砂丘にあっては非常に目立つシルエットだ。そしてその氷の塔はここまで、スバルたちが通り抜けてきたアウグリア砂丘の途上に点々と、道を見失わない間隔で連続して建てられている。

「足跡が目印にならないなら、もっと目立つ方法で目印を立てる。魔法の応用だな」

「それにしても、ホントにスバルの悪知恵には感心しちゃう。よく思いつくわよね」

「砂丘が暑くなかった時点で、この方法ならやってやれんなって」

エミリアの魔法で作った氷も、自然の法則には逆らえないのか熱に弱い。

それだけに、これが本物の砂漠であればこうした禁じ手は通用しなかったかもしれない。だが、事この砂丘では有効な方策だ。

突き立つエミリアの氷の塔は、目印として問題なく機能している。最悪、本当に何かあった最悪の場合、撤退を余儀なくされてもあれを辿って帰れるはずだ。

「この塔も……うん、足下大丈夫そうだ。どうも土台がさらさらしすぎてるから、ひっくり返るかもっておっかなさが抜けねぇんだが」

「思いっきりザクッと刺してあるからへっちゃらだと思うけど、心配?」

「へっちゃらってきょうび聞かねぇな。……まぁ、よし」

不安を流し、エミリアをからかい、スバルは顔を上げる。その受け答えにエミリアはちょっぴり不満げだが、ひとまず彼女の不服には苦笑で応答。

それから肩越しにエミリアの背後、竜車の中に視線を向けた。中の面々は変わらずのはずだが、変わらずでいてもらっては困る人物が一人だけいる。

「アナスタシアは?」

「なんやの、ナツキくん。うちのことお探し?」

視線をさまよわせた直後、件の相手から声をかけられてスバルの肩が跳ねる。

その視界に割り込むように、エミリアの横から顔を覗かせたアナスタシアだ。彼女は驚くスバルを見下ろし、浅葱色の瞳を淡く細める。

「そないに驚かんでもええやないの。うちも中にいるやなんて承知の上やろ?」

「中にいるのは知ってたけど、エミリアたんの脇の下から生えてくると思わなくてそれにビックリしたんだよ」

「……ねえ、スバル。なんか今の言い方、すごーく嫌だったんだけど」

「うちも珍しく、普通にイラッとしたんよ。奇遇やね」

エミリアとアナスタシアの二人に揃って嫌がられ、スバルの方も仕切り直し。腕の中ではベアトリスが肩をすくめているが、ひとまずアナスタシアに向き直る。

「今回の砂丘攻略、お前の知識頼りなんだ。道案内、しっかり頼むぜ?」

「ナツキくんは心配性やね。同行してるんやから、この旅の成否はうちにとっても一蓮托生……手を抜くなんてありえないやろ? 安心しぃって」

「……狐を信じるなんて、簡単に言ってくれるもんかしら」

アナスタシアの言葉に、ベアトリスがスバルにだけ聞こえる声で言う。まったくもってそれは同感だが、それを根拠に責め立てるのも筋違いだ。

それを言い出すなら、そもそもこの監視塔攻略に乗り出したこと自体が選択ミス。今はつべこべ言わず、互いが互いの役回りに全力を尽くすべき。

「だろ、アナスタシア」

「そうやね、ナツキくん。何かあったらユリウスに報せるし、エキドナの言ってた場所が近付いたらそれも伝える。なんも、心配せんでええよ」

皮肉を込めるスバルの呼びかけに、アナスタシア=襟ドナは動揺する気配もない。

ひとまず、このまま進んで問題はないらしい。

「風が強くなってきたみたい。スバル、何もなければ閉めるけど……」

「……ああ、大丈夫。エミリアたんも、中のみんなのことよろしく」

「ん、任せて。スバルもベアトリスと仲良くね」

「それは心配いらないかしら。堪能しているのよ」

扉に手をかけ、中に戻るエミリアと別れ際に言葉を交わす。最後のエミリアの冗談にベアトリスが軽口で返すと、彼女の微笑みが扉に遮られて中に消えた。

そのまま、スバルは今度は竜車の前に回り込み、御者台に顔を見せる。

「エミリア様の目印はうまく機能しているみたいだね。さすが、君は巧妙だ」

「お前も悪知恵って言ってもいいんだぜ」

「そうは言わないさ。自他になかなかできない発想をする柔軟性が羨ましいよ。このような邪道、私にはとても考えつかない」

「邪道より悪知恵の方がよっぽど可愛げがある評価だよ!」

御者台に座るユリウスは、そうとわからないほどうっすらと笑みを浮かべる。

彼の端正な顔も今は白い布に包まれており、その表情はわからない。それでも声の調子で軽口の程度がわかるぐらいには、この一ヶ月、言葉を交わしている。

「メィリィ、そっちはどうだ? 仕事してるか?」

「それ、私に言うのお? お兄さんもこの竜車も、まあだ一度も悪い動物ちゃんと出くわしてないでしょお? 私が働いてる証拠じゃなあい」

御者台の奥を覗き込んでやると、やはりそこに膨れ面のメィリィがいる。彼女も砂風対策に頭からマントを被り、不満げな声だけでスバルの質問に答えてきた。

そのメィリィの答えに、スバルは進路を眺めながら頭の砂を払う。

「そうは言っても、お前の頑張りの成果って見え難くてさぁ。魔獣がお前のおかげで出てこないのか、このあたりにいないのかわかんない……」

「……ふーん、そんなこと言うんだあ」

ここまで砂と風以外の障害に出くわさず、前評判の高さに肩透かしを食らっていたスバルが迂闊なことを言った。途端、メィリィは低い声でそう言って、何事か考えるように両手で自分の頬を挟み、黙り込む。

その様子に、スバルは素直に嫌な予感を覚えた。

「スバル、彼女に謝罪を。今のは明らかに君の失言だ」

「い、言われなくても俺だってわかってるって。あ、あー、メィリィ? 今のはちょっと俺が悪かった。ちょっとじゃなく、完全に俺が悪かった。機嫌損ねないでくれ。悪気があったわけじゃないんだ」

「……ううん、大丈夫よお。別に怒ってなんかいないわあ。ただ、お兄さんの言うことにも一理あるなって思ってだけだからあ」

「そ、そうか。よかった。お前が見た目よりずっと大人で助か……」

「――だから、私のいる意味がわかりやすいように見せてあげるわあ」

スバルの言い訳と謝罪と安堵を遮り、メィリィがやけに不穏な言葉を放った。

その響きの不穏当さにスバルとユリウスが顔を見合わせ、とっさに宥める言葉を紡ごうとする。――直後だ。

「――――」

パトラッシュが、竜車の地竜が、揃って地面を強く踏んで動きを止めた。

地竜の本能が何かの接近をいち早く察し、手綱を握る主人に警戒を促す。そしてスバルとユリウスは同時に目を見開き、それを見た。

「――――」

眼前、砂の大地が突如として意思を持ったように蠢き始め、即座に砂の下からのたくる何かが這い出してくる。それは大量の砂を体中にまとわりつかせ、巨大な口から想像を絶する金切り声を上げる恐ろしくでかい生き物だ。

手足はなく、長く太い胴体をくねらせる姿は蛇を思わせる。しかし、砂と同色の端だとぬめった質感に見える肌、漂う悪臭と胴体に等間隔に刻まれる横縞の紋様。その頭部がゆっくりと頭を下げてくるのを見て、スバルはその正体に気付く。

蛇ではない。――これは、蚯蚓だ。

胴体の太さはスバルが腕を回し切れず、頭部と口は人間の四、五人ならば一飲みにしてしまえそうなほど大きい。取り巻く悪臭は腐臭にも似たそれで、細かい歯が並ぶ口腔から滴る唾液は音を立てて砂を蒸発させていた。

「――――」

目のない頭部がこちらを向き、まるで臭いを嗅ぐような素振りを見せる。

この瞬間、スバルは完全に呼吸を忘れた。手綱越しにパトラッシュの思考の空白も伝わってきており、胸の中のベアトリスが強くスバルの服を掴む。

嗅覚、それを思った直後、スバルは自分の纏う魔女の悪臭を思い出した。魔獣がそれに反応することも、この場でそれに反応された場合、この一行は――。

「ああもう、臭あい。早く帰って、どっかいっちゃってえ」

「――――」

戦慄を隠せないスバルたちの前で、メィリィがそんな適当な声をかけた。

その言葉に巨大な蚯蚓はメィリィの方を向き、しかしすぐにその小さな少女の指示に従うと、自分が掘り進めた穴の中へと巨体を潜り込ませていく。

数秒後、その蚯蚓が現れた穴は完全に砂に埋まり、静寂だけが周りを支配した。

「……今のは、おそらく砂蚯蚓だ。好んで砂地の下に潜む魔獣だが、私の知っているそれよりも少しばかり大きかった」

「少しばかりって、どのぐらい?」

「私の知識だと、成人男性の腕ぐらいの大きさだったはずだ」

蚯蚓がそのサイズで現れれば、十分にグロテスクな脅威だ。が、今の砂蚯蚓はユリウスの知識の数百倍から数千倍はでかかった。

アウグリア砂丘では魔獣が在来種の魔獣も凶暴化するという話だが、そのスケールの違いもその差異の一種と考えるべきだろうか。

ともあれ、

「い、今のすごい声、なんだったの……?」

竜車の小窓が開き、御者台と車内と繋がる窓からエミリアが顔を見せる。

砂蚯蚓そのものは見ていなくても、あの魔獣の出した咆哮は聞こえたはずだ。不安そうなエミリアだが、とっさにスバルは声が出てこない。

そうして硬直したスバルに代わり、メィリィがエミリアへと向き直って、

「気にしなくていいわあ。あれを気にしなくていいのがどれだけ恵まれたことか、お兄さんたちにわからせてあげただけだからあ」

「いやもうホント、メィリィさんには頭が上がらないッスわ!」

メィリィの言葉に硬直が解けて、スバルは心の底から惜しみない賛辞を贈った。

その変化にエミリアは驚いた様子だが、メィリィは驚いたあと、すぐに満足げだ。

「そお? やっぱり? お兄さんも見直したあ?」

「ああ、マジリスペクトだ。お前がいなきゃ、ここがどんだけ危ない場所なのか身に染みて感じたぜ。アウグリア砂丘、怖っ! 怖――っ!!」

多くの命知らずの冒険者が攻略に挑み、帰ってこなかった一端がわかった。

なるほど、確かに命知らずもいいところだ。

砂丘の洗礼が甘いだの肩透かしだの馬鹿馬鹿しい。平和万歳、平穏最高だ。

「ずいぶんと、調子のいいことかしら。呆れるのよ」

「うるせぇな! お前もびくってなってたじゃねぇか! あー、怖っ!」

「べ、ベティーはスバルが緊張したから付き合ってあげただけかしら。誤解するんじゃないのよ」

「そんなに強がるなよ。お前も俺と同じでちょっとちびったんだろ? わかるぜ」

「ちびったのかしら!?」

ギャースカと言い合いが始まるが、ひとまず誰もそれを咎めない。

騒ぎを起こせば魔獣が近付いてきかねないが、それに対抗する存在の威力は十分に証明された。故にユリウスすら、二人の言い合いを止めようとしなかった。

ただ、想像以上に薄氷の上を歩いているのだと、意識を締め直す。

それには十分な意味があったと、顧みることのできる砂丘攻略初日であった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

唐突に光が空を走り、風を穿った。

「――――」

激しい音を立て、衝撃の直撃を受けた氷の塔が半ばで砕かれて崩れ落ちる。

粉砕された氷の塔は即座にマナに還元され、大地に落ちたものも片っ端から砂に呑み込まれ、残骸も痕跡も残さずに世界から消える。

光はさらに立て続けに数度、連続して空を走った。

その回数は偶然にも、銀色の少女が氷の塔を打ち立てた回数と一致する。

それが何を意味するのか、この時点では誰にもわからない。

ただ、砂の迷宮の攻略は決して容易いものではない。

そのことだけは、確かな事実であった。

第六章9  『砂時間を越えろ』

アウグリア砂丘の攻略初日は、日没になってすぐに切り上げられた。

夜半に差し掛かれば、日に三度吹く『砂時間』の中で最も時間の長いそれが訪れる。瘴気を孕んだ砂の中を無理に進めば、体を蝕まれ、道を見失いかねない。

目印であるプレアデス監視塔を遠くに望むこともできないとなれば、夜は大人しく体力回復と、明日への英気を養うのに費やす方が賢明だ。

「ちなみに今さらだけど、魔獣対策は寝てる間も機能してるもんなのか?」

「当たり前じゃなあい。自分で連れてきた子たちにお尻を齧られるなんて、とってもお間抜けで笑えないわあ」

アウグリア砂丘の魔獣の猛威を知り、スバルは若干、というかかなり及び腰だ。そんなスバルのへっぴり腰を笑い、メィリィは鼻高々だ。

自分の有用性が証明できたのが嬉しいのか、砂蚯蚓の一件以来、彼女は目に見えてご機嫌である。スバルの方も彼女のご機嫌取りは命懸けの価値があると悟ったので、今後は対応にも真剣さを盛り込んでいきたい所存。

ともあれ、夜である。

ひとまず、砂丘の中の見晴らしのいい砂原を拠点として、スバルたちは竜車を中心に砂避けの準備を始める。といっても、そんな大掛かりな準備は必要ない。

一人にかかる負担はともかく、やり方は実にシンプルだ。

「じゃあ、エミリアたん。頼んでばっかりだけど、お願い」

「うん、ちょっと離れててね。――そりゃっ!」

氷の塔を突き立てるのと同じ要領で、気の抜ける掛け声をかけるエミリアが魔法を行使する。と、停車した竜車の東側を覆うように氷の壁が形成され、それが砂風に対する防備として機能し、砂を完全にシャットアウトする。

氷が溶ける心配もなければ、ちょっとした魔獣に対する防護にも役立つ。見た目と体感的に寒いのが問題だが、そこに目をつむれば十分な効果が見込めた。

「エミリア様のお力に甘え続けているのが、どうにも据わりは悪いが」

「いいの。言ったでしょ? スバルとユリウスには移動中に頑張ってもらってるから。それにこれも言ったけど、私、すごーく調子がいいの」

「普通は胸が悪くなるらしいし、それはそれで危うい気がするけどね」

氷壁を見やり、嘆息するユリウスにエミリアが力こぶを作る。柔らかそうな白い二の腕を横目に、スバルはエミリアの調子にも気を配らなくてはと考える。

実際、瘴気の漂うとされる砂丘の空気は独特の『重さ』がある。

その重さはスバルの体にもどことなく作用しているし、ベアトリスやユリウスの口数が少ないのもその影響がありそうだ。竜車の中でアナスタシアやラムが静かなのも、ひょっとすると関係しているかもしれない。

逆に調子が良さそうなのはエミリアと、様子の変わらないメィリィの二人だ。

二人に共通点があるとは思えないが、こうも影響が極端に出ている以上は警戒を欠かすべきではない。本音をいえば、早々に砂丘を抜けたいところだが。

「焦りは禁物だ。道を急ぎたがる君の気持ちも、わからないではないがね」

「――――」

氷に阻まれる東の空を見上げ、押し黙るスバルにユリウスが声をかけてくる。内心を見透かされた気がして、スバルは鼻を鳴らして氷壁に背を向けた。と、ちょうどスバルの方へ近寄るパトラッシュの鼻が、スバルの肩へ押し付けられる。

次から次へと、という感じでスバルは苦笑した。

「で、お前も俺を落ち着かせようとするのか?」

「別に、そんなつもりはなかったのよ。先手を取られたわけでもないかしら」

背中を押しつけ、意味ありげに下から見上げていたベアトリスが顔を背ける。

そんなに焦燥感が見え見えなのかと、スバルは自分の頭を掻いた。見ればエミリアも優しい目でスバルを見ており、目が合うと小さく手を振ってくれる。

急に気恥ずかしくなって、スバルは手を叩いた。

「よし、エミリアたんのおかげで寝床の確保はできたし、明日に備えよう。『砂時間』が終わるのは明け方だから、それまでに……」

「その前に、ラムの治療をしなきゃね」

「あ、そうか。そうだね。んじゃ、エミリアたんとベア子、頼んだ」

早口で話題を流そうとして、日課をこなそうとするエミリアに止められる。スバルの頼みにエミリアとベアトリスが頷き、男性陣を外に置いたまま治療が始まる。

ちなみに何故、スバルやユリウスを外に置いて治療が始まるのかというと――、

「――んっ」

扉越しにではあるが、治療が始まったのが微かに漏れ聞こえる声でわかる。

痛みを堪えるような、どこか熱っぽく震えた声はラムのものだ。竜車の中では淡い光が浮かび上がり、四つの属性を合わせたマナによる治療が行われる。

無くした角の傷からマナを注ぎ込まれ、治療を受けるラムの様子は痛々しくある反面、どこか艶めいたものを感じさせるのも事実であった。

そのため、初日に治療現場を目撃して以来、男性陣は同席を辞退しているのだが。

「返す返すも、アレをお前にやらせようとしてたロズワールの考えがわからねぇ」

「ある種、光栄な役回りには違いない。ラム女史は可憐で魅力的だ。ただ、彼女の目が誰を見ているのか明らかなのを考えると、素直に喜べはしないな」

「ロズワールもそれがわかってるだろうに、なんでこういうことするやら。……この場合、なんでそこまでされてもラムがって話になるのか?」

「人と人との繋がりは外からは図れないものがあるよ。男女の関係となればなおさらのことだ。極端なことを言えば、君と私の初対面もいいものとは言えなかったはず。少なくとも、こうして君と命懸けの道程に肩を並べることがあるとは、ね」

「……ま、それはそうか」

背後から聞こえる治療の嬌声に、スバルは微かに頬を赤くしながら鼻を擦る。

ユリウスはしれっとした顔だが、純朴な青少年には非常に刺激が強い。それでも離れて危険な魔獣に嗅ぎつけられるわけにはいかない。仕方ない。必要なのだ。

「なぁんて、ナツキくんの葛藤が見えるようやね」

「うおぁぁぁ!?」

静かに耳を澄ませていたところ、その耳に息が吹きかけられてスバルが跳ねる。体勢を崩して砂の上に転がると、竜車の裏側からこちらへ回り込んだアナスタシアの姿が見えた。スバルの慌てように警戒していたユリウスが、そのアナスタシアの姿に相好を崩し、転がるこちらの方を見る。

「些か驚きすぎではないかな。まるで邪なことでも考えていたかのように」

「はぁ? 邪なこととか別に考えたりしてませんけど? え、ちょっと何言ってるのかわかんない。全然わかんないです。さっぱりわかんないなぁ。アナスタシアさんそれで何の用ですか? 俺、なんでも聞きますよ!」

「誤魔化すの下手すぎひん? ま、ええけど。ナツキくんは中のやり取りに興味津々かもしらんけど、大事なお話しなきゃやから」

軽蔑の色が濃いユリウスの視線を振り切り、スバルはアナスタシアにサムズアップ。その反応に苦笑するアナスタシアは、ブーツで砂を踏みしめて、

「うわぁ、歩きにくぅ。ユリウスたちはよぅ平気やね」

「鍛えていますので。このときのため、とまでは言い切りませんが」

「足下が不確かなときは、確かめようとしてゆっくり踏むんじゃなく、わりと勢いよく靴裏の固さに任せて踏み切る。これ、クリンド流ね」

パルクール習得中に、万能家令であるクリンドから習った悪路走法の基礎だ。

アナスタシアはその言葉に感心したように頷き、それから羽織っていたローブの首元を下げ、隠れていた顔の下部分を外に出した。深い息を吐く。

「砂のことはわかるけど、息が詰まりそうになるわ。早い内に砂風と無縁の場所にいって、思いっきり深呼吸したいところやね」

「同感。あと、風呂に入りたい。頭が早くも砂塗れなんだよ」

砂漠地帯の人間が、頭にターバンを巻く理由もわかろうというものだ。

砂対策と、暑さ寒さの対策。過酷な大地に生きる人間の在り方は、当然だが理に適っている。スバルも適度に布を巻いているが、この程度では防ぎ切れなかった。

「お風呂、も同意やね。『賢者』さんのお家に、お風呂があったらええけどなぁ」

「……さすがにそこまではご存知ない、そういうことですか?」

「行き方はエキドナが知ってても、うちも入ったことがあるわけやないしね」

アナスタシアはローブの首元をさらに引き下げ、肌身離さず身に着けている狐の襟巻きを見せる。襟ドナが旅路の案内人になる、というのが今回の大前提だ。

彼女を疑っても始まらないが、詰めておきたい内容ではある。

「大事なお話、ってのは今後のことだと思っていいんだよな?」

「もちろん」

「謹んで、お聞きします」

薄い胸を張るアナスタシアに、スバルとユリウスが聞く体勢に入る。それを受け、アナスタシアはもったいぶった態度で竜車を振り返り、

「今日から中で車中泊やけど……男の子二人は前の座席で寝てもらわなあかんよ。婦女子と狭い密室やからって、調子に乗ったらあかんのやから」

「もうその手の話いいよ!」

「ちょぉ、緊張を解そ思うただけやのに……ま、ええけど」

そもそも、同じ部屋で寝泊まりぐらいしたところで今さらどうでもない。自分の勇気のなさと、相手の警戒心のなさはもう十分わかっているのだ。

ともあれ、そんなスバルの内心の叫びはさて置き、アナスタシアは本題に入る。

「今日、こうやって一日、監視塔を目指して進んだけど……手応えはどう?」

「手応えっていっても……ぶっちゃけ、これといった成果はねぇな」

質問に首をひねり、スバルは一日を振り返る。

昼時にアウグリア砂丘に到着して、午前中の『砂時間』をやり過ごしたスバルたちは、それから半日近くを移動に費やした。間にあった午後の『砂時間』を越えて、日没に入ったのが今の状況だ。それまでの成果といえば――、

「塔はやっぱり目印として完璧ってことと、エミリアたんに頼んだ帰り道の印。それからメィリィの効力が思った以上に強い、ってのが収穫かな?」

「前準備とスバルの機転で『砂時間』への対策は万全でした。ただ、問題はプレアデス監視塔、そこまでの順路が見えないこと……でしょうか」

「順路が見えない?」

言葉を引き継いだはずのユリウスと、結論が食い違ってスバルは眉を寄せる。そんなスバルにユリウスは「気付かなかったのかい?」と吐息をついた。

「確かにここまで、行程は目立った不備もなく順当に進めている。このまま調子が崩れなければ、というのは私も同感だ」

「持って回った言い方すんな、悪い癖だぞ。もっと直接的にバビュッと言えよ」

「では簡潔に。――スバル、君は塔の異変に気付かないのかい?」

「――――」

静かなユリウスの問いかけに、スバルは息を呑んだ。

それから監視塔――氷壁の向こう側に透けて見える、夜の中でもぽっかりと存在を主張する強大な偉容を見据える。

異変、とユリウスに指摘されても、スバルには監視塔の異常がわからない。一日、ずっと睨み続けていたその塔は、砂丘到着時から今まで何も変わっていないはずだ。

――何も変わっていない、はず。

「――!?」

「気付いたようだね。あの塔は明らかに、近付きも離れもしていない。私たちはあの塔を目指してずっと歩き続けているが……その距離は埋まっていないんだ」

ユリウスの指摘通り、その異常にスバルはようやく気付く。

遠間に見えるプレアデス監視塔は、変わらず、見落とすわけがないサイズ感のままでそこに在り続ける。何ら、見え方に変化のないまま。

「嘘だろ……」

「スバル、君が動転する気持ちもわかる。だが、気を確かに……」

「じゃあ、今日こんだけ苦労して砂塗れになって歩いた道のりが全部無駄だったってことか!? 攻略が面倒臭すぎる――!」

「……うん?」

足下の砂を蹴りつけ、声を荒げるスバルにユリウスの言葉が詰まった。スバルは困惑するユリウスの前で地面にしゃがむと、砂を掌ですくって唇を尖らせる。

「おいおいおいおい、マジかよ。それ知ったらドッと疲れが出てきた。苦労が徒労だったって言われるのマジでキツイわ。うわー、最悪だ」

「思ったより、精神的なきつさはなさそうやね」

「どこ見てんだよ! こんなに苦しんでるじゃん! メチャクチャ凹んだし、メチャクチャ嫌な思いしたっつの。お前も気付いてたならもっと早く言えよ!」

「確信が持てるまでは黙っていようと、そう思ってね。落胆させたくなかった」

「お前らはそうやってよぉ……」

すくい上げた砂を捨てて、手を叩きながら立ち上がる。そうして俯き気味のユリウスを下から睨みつけ、スバルは憤慨した。

「そういう思わせぶりな感じやめてくれます? 別に思いつきで喋っても怒らねぇよ! むしろ、そこから糸口見つかるかもしれねぇだろ。お前らの『このことは自分の胸の中だけに仕舞っておこう』って精神なんなの? それで状況が好転したこととかホントにあんの? 少なくとも俺は黙っててよかったこと一度もねぇよ!」

「あ、ああ、すまない」

「些細なことでもすぐに言えよ。これ、攻略不能キャラのラムにも言ったぞ。全員に言って回らなきゃダメなのか、おい」

ホウレンソウの不徹底さにスバルが呆れ返ると、ユリウスも反省した顔だ。『最優の騎士』相手に珍しく優位に立ったと、スバルは数多くの不都合の中からかろうじて良しと思えることを拾い上げ、アナスタシアと向き直る。

「で、お前はこの現象について心当たりがあると思っていいんだよな」

「説明不足やったんを反省した……ってより、うちの方も半信半疑やったんを今日一日で確信できた。そんな風に思ってもらえると助かるわぁ」

「その半信半疑の時点で次からは話せ。以上だ。で、何がどうなってる?」

先に言い訳を持ち出すアナスタシアに舌を出し、言葉の先を促す。するとアナスタシアは「驚かないで聞いてほしいんやけど」と前置きし、

「この砂丘と監視塔の間の砂原なんやけど、たぶん、空間が捩れてるんよ」

「空間が捩れてる……?」

「つまり、見え方と違くて地続きになってないっちゅぅことやね。このまままぁっすぐ歩き続けても、たぁぶんいつまで経っても辿り着けんよ」

あっけらかんと衝撃の事実を明かすアナスタシアに、スバルは開いた口が塞がらない。そのことは襟ドナから聞いた、という風を装っている以上、アナスタシア=襟ドナはそれを最初から知っていたはずだ。

「それが、ラインハルトもこれまでの挑戦者も辿り着けなかった原因ってわけか」

「目的地自体はそこに見えてるわけやしね。あとは距離を詰めるだけ……道中、魔獣の巣窟を必死で抜けてきたんならなおさら、あと一歩が欲しぃてたまらんやろし」

「――――」

目的を目前にして、道半ばで倒れる冒険者たちの無念がなんとなく偲ばれる。

ラインハルトですら攻略を諦めた、監視塔を目指す者を妨害する障害。歪んだ空間と、実際には辿り着けない砂海の果て――それがカラクリか。

「それを、どうしたら破れる?」

「……破る破らないの話は、ちょぉっと的外れかもしらんよ? これ、瘴気が生み出した天然の罠やもん。人為的な力はなぁんにも働いてない」

「天然の罠!? これが!?」

極々稀に、自然はその在り方自体に殺意があるとしか思えない罠を用意する。

砂漠地帯でしばしば見られる蜃気楼や、豪雪地帯の崖に続く雪道。大枠で考えれば底無し沼や、潮の満ち引きさえも人間の命を奪いかねない。

だが、さすがにこの監視塔の存在は――、

「これが自然の用意した罠か? さすがにそれは言いすぎだろ」

「元々、こうした現象が起こる場所にプレアデス監視塔を建てた。そう考えれば不自然ではない。それに理に適ってもいる」

「理に適う? 何の?」

「忘れてはならない。砂丘は監視塔に続いているが、砂丘の先にあるのは塔だけではないことを。そもそも、監視塔は何のためにある?」

語気の荒くなるスバルをユリウスが窘め、考えることを促してくる。今度の問いかけにはすぐに答えが浮かんだ。監視塔の目的、それは『魔女の祠』の封印だ。

そして越えられない砂丘の罠は、『嫉妬の魔女』の復活を目論む魔女教の抑止力としても、非常に高い効果を発揮することだろう。

一概に、そのことを責められはしない。

「……っ! わかった。とにかく、あの塔がどういう経緯と目的であそこに建てられたのかは今はいい。問題は別にある。その、歪んだ空間の突破法だよ」

「元を断つんは無理、って話はわかるやろ? ここはそういう土地なんよ」

「それはOKだ。風土と名産は把握した。次は弱点を探ろう。道案内を買って出た以上は、当然あるんだろ? 抜け道が」

「それがないとお話にならんもんね。……抜け道、といえるかは微妙やけど」

追及を重ねるスバルに苦笑し、アナスタシアはもったいぶった風な態度をみせる。それから彼女は、自分を注視するスバルとユリウスに頷きかけ、言った。

「あの『砂時間』の最中に、監視塔に繋がる空間が綻ぶ瞬間があるはずや。そこを通り抜けて、本当の砂海に入る。それが突破の条件やね」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――翌日からの砂丘アタックには、非常に困難な状況が連続した。

アナスタシアの開示した監視塔への道、その条件は全員が共有。つまり、『砂時間』が訪れるまでの行軍は大部分が余白となり、その間は持て余すことが予想された。

しかし、そうした不安は、

「肝心の『砂時間』がきても、綻びに辿り着けるかは運次第。そう考えると、一ヶ所に留まらんでいるんも悪ないとうちは思うよ」

「それにずうっと一ヶ所にいると、あたりの動物さんたちに私たちの臭いが覚えられちゃうかもしれないわあ。私は大丈夫だけどお、万が一、私と逸れるようなことがあったらどこまでも追いかけてきちゃうわよお」

アナスタシアとメィリィ、二人の意見によって事無きを得た。

前者の意見はいささか頼りないが、後者の意見は実際に命に関わる内容だ。あまり考えたい状況ではないが、危険から目を背けるのはただの臆病である。本物の勇気はあえて恐怖を直視し、それでも立ち向かうからこそ尊いのだ。

「そうだよね、エミリアたん」

「――? うん、そうね」

「エミリア様。あまり真剣に受け取らない方が。馬鹿なときの顔ですよ」

定期的に竜車の中の面子と言葉を交わすが、昨日の行軍が徒労と聞かされてもモチベーションは下がっていない。

ミルーラで用意した食料や水にもだいぶ余裕がある。瘴気の影響はエミリアとベアトリスの精霊術で和らげているため、不安はないと考えたいが。

「実際、何日仕事になるかわからないってのはストレスが溜まるからな」

「スバル、口の中に入った砂利は呑まずに吐くのよ。大した量じゃなくても瘴気を含んだ砂かしら。いい加減な処置だと、あとで痛い目を見るのよ」

口内に砂を味わう感触にもすっかり慣れ、警戒の薄れるスバルをベアトリスが注意する。相変わらず、騎竜中はスバルの腕の中にいるベアトリスは、懐から水の入れ物を出すと、

「ほら、口をゆすぐかしら。水浴びできない分、口の中ぐらい綺麗にするのよ」

「へいへい……そういえば、お前は風呂に入らなくても綺麗なまんまだよな」

「ベティーの体の大部分はマナで構成されているかしら。当然、清潔感は常に保っているのよ。いつどこででも可愛らしい、ベティーには当たり前のことかしら」

「はいはい、可愛い可愛い」

おざなりなスバルの対応にベアトリスが頬を膨らませるが、そんな彼女の頭を撫でてやり、ローブの中に押し込んだ縦ロールを弄って遊ぶ。今日は三つ編みだ。

「お、また魔獣の群れ発見。……ああやって遠巻きにしてくれてるんなら、あいつらもただの動物にしか見えねぇけど」

「私から離れて近付いたら、お兄さんなんかすうぐにガブリねえ。不思議だけど、このあたりの動物たちってみいんなお兄さんのことじろじろ見てるのよねえ」

パトラッシュを竜車に寄せ、進路から横に逸れた位置に集まる魔獣の群れを見る。メィリィは言葉通りに不思議そうな顔でスバルを見て、「変なのお」と呟いた。

どうやら彼女には、スバルの取り巻く『魔女の残り香』とやらがわからないらしい。瘴気と同質のもの、とスバルは考えていたのだが、実際のところはわからずじまいになってしまいそうだ。ともあれ、その臭いがスバルから薄れたわけでも、それに魔獣が引きつけられる性質が消えたわけでもないようだが。

「お、あれってもしかして懐かしの魔獣じゃないか? ラム、見てみろよ!」

「アレを思い出の一部みたいに語られるのはひどく不愉快だわ。ラムとついでにバルスも、ひどい目に遭わされた記憶しかないわよ」

遠目からこちらを窺う魔犬の群れは、旧ロズワール邸を襲った魔獣災害の同族だ。思わずテンションの上がるスバルに、ラムの態度は刺々しくて冷たい。

「そう言うなよ。あれが俺やお前、そしてレムとの関係の言わば仲人役だぞ。あいつらがいなかったら、今の俺はなかったかもしれない。そう考えると、あいつらとの関係も悪いものじゃ……いや、悪いよ! クソだろ!」

「自分で燃え上がって自分で消火するのやめなさい。見ていて哀れ、聞いていて惨め、考えるだけで情けなくなるから」

魔獣の群れを相手に一年前の苦悩が蘇る。そのヒートアップするスバルに嘆息し、ラムはとっとと竜車の窓を閉めると、話を切り上げてしまった。

残念だが、仕方ない。ラムの中で一年前のあの事変は、レムの存在を欠いた状態でスバルと協力して解決した形に塗り替えられている。実際、レム抜きでどうやったら魔獣の群れを攻略できるか不明だが、記憶改変はそれに違和感を持たせないらしい。

レムの記憶がラムの中で蘇れば、欠けた部分が埋まって話題も噛み合うはずだ。そのときはそのときで、やっぱり邪険にされる気しかしないのだが。

「うおおお! 『砂時間』やべぇ! 『砂時間』ぱねぇ! 砂風ヤバい!」

「な、なるべく透明の氷は作ったけど、ダメなら言ってね?」

「もうすでに結構ダメだこれ! 氷万能説崩れる!」

そして肝心の『砂時間』の到来、砂風に向かって飛び込み、塔へ繋がる空間の歪みを探して突貫するが、想像以上の砂の猛威に圧倒的に煽られる。

特に誤算だったのが、ここまで強力なパフォーマンスでスバルたちの冒険を支えてきてくれた氷壁、その完全敗北である。

「せっかくの氷の壁なのに、メチャクチャ砂が張りついて前が全く見えねぇ! っていうか、風が強すぎて面積広い氷で風を受けるとか自殺行為すぎる!」

「え!? なに!? スバル何か言った!? 全然聞こえない!」

「風が強すぎて自殺行為すぎる!!」

「え!? 死にたい!? ダメよ、そんなの! 弱気にならないで!」

「そんな話して……ぐああああ!! 目に砂が暴力的に入ったぁ!!」

「え!? なんて言ったの!? もう一回言って! スバル? スバル――!」

「もう一回やれって、そんなスパルタ……ぐああああ!!」

「スバル――!?」

暴風となった砂風は、もはや砂嵐のそれに近い。

挑んでいるスバルたちは真剣そのものなのに、やり取りは喜劇の一幕のようだ。

薄く、砂避けだけを念頭に入れた氷の板を持つことさえ、真っ向から吹き付ける風の中では自殺行為でしかない。むしろ完全に体中を布で防護し、地竜諸共に極限まで体を縮ませて受ける風の量を減らすのが得策だ。

ただし、その作戦の場合、ネックになってくるのが――、

「頑張れ! 頑張れ、ジャイアン! お前の馬力だけが頼りだ!」

「――――」

砂風を真っ向から受け、その中に突撃させられる地竜。すでに砂丘攻略の日数も数日を数え、芽生えた絆は呼び名となって表れている。

早い話、竜車を引っ張るガイラス種の地竜の名前を『ジャイアン』と名付けた。

そしてそのジャイアンの頑張りが、砂風の中では突破の鍵を握っている。なにせ女性陣を乗せる竜車には、風に対して小さくなるといった工夫のしようがない。

結果、ジャイアンが力の限り、風に負けない馬力で竜車を引っ張るしか方策がないのだ。

「あまり地竜にばかり無理をさせるのは性に合わないが……今は君が頼りだ」

「ほおら、頑張ってえ! もう、また終わらない砂原に帰るの嫌よお」

手綱を握るユリウスと、その隣に座るメィリィもジャイアンにエールを送る。

誰よりもジャイアンの頑張りを間近で見てきた二人だからこそ、その底力を信じて言葉を投げかけることができるのだ。

「――――」

風の中では小窓を開けることもできないが、竜車の中からもエミリアたちが心配そうに祈っているだろうことが信じられる。

せめてもの砂風対策として、エミリアには竜車を氷で多少弄ってもらった。前面に氷の板を張ってしまうと、砂は防げても風の猛攻に耐えられない。

ならば、とスバルの出した苦肉の策は、風を受け流すウィングや鋭角なフォルムの形成――風の中に猛然と突き刺さる、一本の槍をイメージした。

「プチ四駆の改造の応用だぜ。軽量化の肉抜きは命取りだからできねぇが、できることはやったつもりだ。さあ、いけよ、グングニル――貫けぇ!」

「――っ!」

スバルの叫びに呼応するように、猛然とジャイアンの足が前へと踏み込む。一本の槍となった竜車は、押し寄せる風を真っ向から食い破り、前へ、前へ。

やがてその神槍の名を冠する竜車は、自らが食い破った風の傷痕へ突き刺さり、砂の暴威を抉り、そして突破する――。

「――――」

砂風を抜けた瞬間、スバルを襲ったのは恐ろしく研ぎ澄まされた静寂だった。

あれほどに耳元で騒いでいた風も、全身を削るように打ち付けた砂も、魔獣たちの活発化を促す瘴気も、何もかもが幻であったかのように消え去っている。

「――――」

『砂時間』の終わりは、確かに唐突ではあるがもっと余韻がある。

砂を纏う風は徐々にその勢いを弱め、やがてゆっくりと波が引くようにいなくなり、独特の砂の香りだけを残していくのだ。

だが、今回に限ってはそれがない。それはつまり、今回の終わりは、これまでの『砂時間』の終わりとは別物であるという、証拠だ。

「――――」

口の中に渇きを感じながら、スバルは振り返る。

すると、そこにはスバルと同じく、砂風を抜けて呆然となるユリウスたちがいる。当然、彼らがいるのであればジャイアンも、そして竜車も同じだ。

「――ユリウス」

「ああ」

スバルの呼びかけに、硬直していたユリウスが顎を引いた。それからどちらともなく手を挙げ、グッと拳を握って『砂時間』の突破を称え合う。

ユリウスの隣ではメィリィが体についた砂を払い、ジャイアンを労っているのが見えた。ジャイアンは間違いなく、今回の旅の殊勲賞だ。

存分に感謝し、労い、褒美をあげなければ――ただ、

「今はとにかく! 突破だ! やったぞ! やっ――」

「ええい! ずっとずっと耳元でやっかましいかしら――っ!!」

大喜びするスバルの顎が、真下からベアトリスの掌底に突き上げられる。

見事な一撃に視界が回り、スバルはそのままパトラッシュの上からひっくり返り、砂の上へと無防備に落ちた。頭が砂に埋まり、大量の砂を口に含んだスバルは、即座に起き上がってベアトリスに食って掛かる。

「いきなり何すんの!? 人が大喜びしようとしたら急になんだよ! びっくりして結構たくさん砂飲んじゃったんだけど!?」

「ベティーを抱いてるのに、一人で盛り上がってうるさいのよ! 何かしらダウンバーストだのオフロードだのジェネシフトだのバーニングソウルだの、訳がわからんかしら! 耳がずーっとキンキンしたのよ!」

パトラッシュに跨ったまま、ベアトリスはスバルに向かって猛抗議してくる。

スバルとしては色々と言い分もあるが、確かにちょっとテンションが上がって適当な用語を並べ立てて叫んでいた感は否めない。なんだグングニルって。

「おほん。……と、とにかく、無事に『砂時間』は突破したわけだ。まずはそのことを喜ぼうぜ。ほら、バンザーイ!」

「……万歳かしら」

不貞腐れたベアトリスの態度はともかく、砂の障害の突破は間違いないのだ。

頑張ってくれたパトラッシュの首筋を撫で、凛々しい顔に疲労感を見せない愛竜の勇ましさにも感謝を述べる。

その上でスバルは竜車に駆け寄り、歓喜を分かち合おうとして――、

「――お兄さん」

「あ? どうした? お前ももうちょっと喜んでも……」

「黙って」

小走りのスバルを呼び止め、振り返るこちらにメィリィの鋭い言葉が飛ぶ。

そこに込められていたのは、あからさまな危険への警戒だ。

――それが意味するところを勘違いするほど、スバルもボケてはいない。

「――――」

押し黙るスバルに対し、メィリィは口に指を当てたまま頷き、空いている方の手でゆっくりゆっくりと、正面の方角を指差した。

スバルも、そしてユリウスやベアトリスも、その指の動きにつられて前を見る。

『砂時間』の砂風を越えて、監視塔までの歪んだ砂海はクリアした。

そのため、眼前に浮かび上がる監視塔のシルエットは、明らかにそれ以前までのものと比較して大きく、明瞭なものになっている。

目標までの具体的な距離が改めて設定された、そう考えることができた。

ただし――、

「……なんだ、あれ」

その監視塔へ続く砂地を埋め尽くすように、色とりどりの花畑がスバルたちの前に広がり続けているのだった。

第六章10 『閃光の如き』

――砂丘の大地に入り乱れる、色とりどりの花畑。

時刻は夜で、砂丘の空には不思議なことに星の光が見えない。

雲がかかっている様子はないのに空模様が窺えないのは、地上に立ち込める瘴気がこの広大な砂海を覆い尽くしているからだ、と事前に説明されていた。

その説明をしてくれたのはベアトリスだったか、それともエミリアやユリウスだったのか、スバルの中で判然としない。

ただ、今、明らかなのは、その窺えない空模様よりも大地に注意を向けるべきであるという本能の警鐘と、夜闇に負けない花弁の華やかさの不可思議な不気味さだ。

いっそ毒々しいほどに鮮やかな花々は、砂海にはあまりに不釣合いであった。

「砂丘の、花畑……」

口にしてみても違和感のある単語の繋がり、そこにスバルは既知感がある。

脳裏に浮かび上がるのは、砂丘に入る前に情報収集をしたミルーラの酒場。片足を無くしたそこの店主が語った、砂丘に現れる花畑の話だ。

砂丘に花畑が見えたら一目散に逃げろ、と店主は言っていた。

――それは獰猛で醜悪な魔獣、花魁熊の縄張りであるのだと。

「けど、一目散って言っても……」

言葉尻を弱々しくしながら、呟くスバルは正面を眺めて後ずさる。

花畑が魔獣の縄張り、その情報は有益だ。獰猛で凶悪な魔獣故に、即座に逃げろという話も頷ける。だが、問題があるとすれば、その規模だ。

「――――」

押し黙り、息を呑んだスバルたち一行。

『砂時間』の猛威を乗り越え、空間の歪みを突破した一行の前に現れた監視塔へ続く砂原――その正面の視界いっぱいに、件の花畑は広がっているのだ。

それは文字通り、足の踏み場もないほどに密集している。

砂原に突如として発生した花々の楽園だ。胡散臭いにも程がある。

酒場の主人の忠告がなくても避けて通ったことだろう。

それこそ、空を飛ぶことが可能であれば、何ら躊躇いなく躱して通ったはずだ。

「避けて通るの、無理だぞ」

掠れた吐息と区別がつかないほどの囁きで、スバルはメィリィに声をかける。

現状、魔獣対策に関して、一行はメィリィに頼りきりだ。その彼女がどんな判断を下すかが道を左右するわけだが、花畑を睨む少女の顔色はかなり悪い。

冷や汗が浮かび、色白の肌からは血の気が失せている。言葉にされなくとも、非常にマズい状況にあるのが手に取るようにわかった。

「――――」

ゆっくりと、パトラッシュが巨体で信じられないほど静かに身を寄せてくる。背中の上のベアトリスが「乗るのよ」と目で指示するのを見て、スバルは鞍へ足をかけると、できる限り音を殺して再び竜上に跨った。

進むにせよ、戻るにせよ、スバルの足では砂に呑まれてお話にならない。

判断は手綱で下すにしても、駆け足はパトラッシュの健脚が頼りだ。

「……ひとまず、みんな寝ているみたいだわあ」

「――――」

息を呑み、メィリィの判断を待ってどれだけ過ぎただろうか。数十秒か、あるいは小一時間であったようにも感じる時間を経て、メィリィが囁くようにそうこぼす。

それを受け、スバルは肩から脱力すると、竜車へとパトラッシュを近付けた。

「あの花畑は花魁熊の縄張り……でいいんだよな?」

「事前情報を照らし合わせて、まず間違いないだろう。ただ……少しばかり、私の想像していたものよりも規模が大きいな」

「その規模の違い、二倍や三倍なんて可愛げのある違いじゃなさそうかしら」

一息をつき、顔を突き合わせるスバルたちが感想を交換する。

ユリウスとベアトリスも、想像以上の大歓迎ぶりに声を無くしていた様子だ。竜車の中のエミリアたちも、『砂時間』の突破を喜ぶ声が途絶え、何事があったのかと恐る恐る小窓から顔を見せていた。

「スバル、何かあったの? 砂風の音は聞こえなくなったけど……」

「見事に『砂時間』はクリアしたよ。で、第一関門を突破したと思ったら、すぐに次の第二関門が待ち受けてたってわけ。ご覧の通り」

「ご覧の通りって……ぁ」

小窓から花畑を一望して、エミリアの喉が驚愕に凍り付いた。酒場の主人の話を聞いたのは彼女も同じだ。当然、想起する情報も同じものだろう。

エミリアが目を見開かせると、その脇からアナスタシアやラムも顔を見せる。二人もやはり花畑を眺め、監視塔までの試練の意地悪さに顔をしかめていた。

「砂風と『砂時間』は越えたってのに、今度の障害は花畑か。この花魁熊のテリトリーに関しては、アナスタシアは何も知らないのか?」

「道案内がうちの役目で、それ以上の役割はよぅ期待されても困るわぁ。せやけど、真面目にこれはちょっと困り物やね。どないしよか」

言外に襟ドナの意見に期待してみるが、肩をすくめる彼女にも打開策はないらしい。スバルは長く鼻息を吐き出し、メィリィを見やる。

「メィリィ、お前の体質なら魔獣を引っ込められるんだろ? 花魁熊たちも、あの花畑から引き上げさせることはできないのか?」

「……難しいわあ。十や二十、百ぐらいならなんとでもしてあげるけどお、それ以上の数だと私の指示が届かない子が出るものお」

「数の制限があるのかよ」

「質の制限もあるわあ。さすがに私も、白鯨や大兎にまでは無茶は言えないしい。花魁熊はその点、私と相性が悪いわあ。影獅子とは大違いねえ」

「影獅子……ああ、屋敷に出たでかい奴な」

思い出話はそこそこに、スバルはメィリィの意見を踏まえて花畑の方を睨みつける。

無数で、広大な花弁の楽園――はたして、どれだけの数の魔獣が潜んでいるのか見当もつかない。ただ、メィリィの限度である百を軽く上回ることは確実だ。

「現状、選択肢は『進む』か『戻る』かの二つと言えるだろう」

黙り込んだスバルに向かって、御者台のユリウスが指を二つ立てて言った。

そのユリウスの指を見て、スバルは吐息をつく。

「戻るって選択肢は最初からなしだろ。『砂時間』をクリアしたのにもったいないってのもあるけど、それじゃ問題が何も解決しない。先送りにしても意味がない」

「別の『砂時間』に潜れば、あるいは別の道から監視塔へ挑戦できるかもしれない。思考停止して道を塞ぐのは短絡的ではないかな?」

日に三度の『砂時間』、そのどれかに正解の可能性があるのではというのがユリウスの主張だ。スバルたちが抜けたのは深夜の『砂時間』。他に午前と午後の『砂時間』があるが、別の『砂時間』を通って辿り着く場所が変わることはありえるだろうか。

いや、とスバルは首を横に振った。

「仮に違う道に出たとしても、それが安全に監視塔までの道を確保してくれてるとは到底思えないな。ここは花畑だが、別の場所は違う障害の可能性もある。たぶん、楽して通れる道なんか用意されてねぇよ」

「……確かに。少々、希望的観測が過ぎる、か」

「それにひょっとすると、メィリィがいる状態で花魁熊の縄張り。今回が一番、可能性がある道なのかもしれねぇんだぜ?」

「今度は悲観的すぎる、と。相変わらず、君はこき下ろして持ち上げるのが得意なのだね」

「狙ってやった覚えはねぇよ。それで、メィリィ。お前はどうだ?」

分の悪さに目が行くユリウスを言い包め、スバルはメィリィに水を向ける。

黙り、ジッと花畑を眺めているメィリィは、スバルの言葉に「うん……」と弱々しい声で俯いた。

「数は辛いけど、やれって言うならやってみるわあ。なにも見える全部の動物さんに言うことを聞かせなきゃいけないわけじゃないものお」

「全部じゃなくていいって……?」

「花畑を通り過ぎるために、静かに最低限の花魁熊だけどかせばいいのよお。道を開けてもらって、あとは大人しく寝ててもらう。刺激しなければそのぐらい、なんとかやれるはずだわあ」

質問に答える間に自分の考えに確信が持てたのか、メィリィの声に力が戻る。

少なくとも、彼女は『進む』というスバルの選択を尊重してくれる構えだ。それは素直にありがたい。スバルはメィリィに頷き、それから全員の顔を見渡す。

「俺は進むべきだと思う。どっちにしろ、リスクに飛び込まないで得られるリターンはない。問題から逃げてるばかりじゃ解決は見えてこないってもんだ」

「他力本願が主のくせに、ずいぶんと大きな口を叩くものだわ」

前進を提案するスバルに、ラムが辛辣な言葉を投げかける。

その『らしい』指摘に苦笑し、スバルは「おうよ」と親指を立てた。

「結局、メィリィ頼みには違いない。万一、魔獣を刺激するようなことになったら、今度はエミリアたんやユリウス、ベア子頼みだ。悪ぃな」

「――――」

「おお、あと、パトラッシュもな。悪い悪い」

頼れるメンバーに名前がないのが不満なのか、首をもたげる愛竜の頭を撫でる。

そんなスバルの情けない宣言に、ラムは露骨に呆れた顔で肩をすくめた。

「自覚があるのが救えないわ。せいぜい、万一のときは囮の役目を果たしなさい」

「その言われようも懐かしいよ。お前は覚えてないかもしれねぇけど」

「――――」

ちょっとした過去を懐かしむ言葉に、ラムは訝しげな顔をするばかりだ。

魔獣の森で、あるいは王選のために王都へ向かう出発の朝に、ラムから投げかけられた似たような言葉があった。レムの存在が記憶から失われて、それに伴う記憶にも改変が生じた今、あの日のやり取りはどこへ消えたのだろうか。

「それを、取り戻しにいこう。もう一秒だって、後戻りしたくねぇよ」

「――うん、そうよね。私もスバルの言う通りだと思うわ」

拳を固めるスバルの決意に、エミリアが凛々しい顔で同意した。

彼女は自分の首に下がるペンダントに触れて、大魔石の中に眠る精霊への想いを指に掠める。それから紫紺の瞳は真っ直ぐ、花畑を見据えた。

「この花畑の向こうに、大切な思い出の鍵がある。止まらないでいきましょう。大丈夫。きっと、私がみんなを守ってみせるから」

「それ、女の子に言われるんは格好悪すぎるのと違う?」

エミリアの堂々たる宣言に、アナスタシアがスバルの方を見て言った。

うるさい、とは言い返したかったが、実際、エミリアの言葉の通りになるのが関の山だと思うと、なんとも難しいお話なのである。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

プレアデス監視塔までの距離は、目測でおよそ数キロの距離まで縮んでいた。

『砂時間』を越える前、アウグリア砂丘を闇雲に進んでいたときは、見えているはずの監視塔への距離は十数キロほどの目測から一度として変わらなかった。

それに比べれば圧倒的な距離の短縮、到着は目前とすら言える。

「ただ何もかも、この花魁熊の巣を抜けてからだ」

視界を埋め尽くす花畑は、砂海の上に堂々と鎮座していて異物感が強い。

草木が大地に根を張る、そんな当然の生態がこの花々にはないのだ。わずかに茎や根元が浮いて見えるそれは、花々が生えるのが大地ではなく、そのおぞましき獣の肉体そのものであるからに他ならない。

「――――」

花魁熊のテリトリーを抜けるにあたり、メィリィがスバルたちに下した指示は単純明快――出来得る限りの沈黙、それのみである。

彼女の言によれば、現在の花魁熊たちは休眠状態の中にある。滅多なことで目覚めはしないが、代わりに寝起きの魔獣の凶暴性は計り知れないらしい。

「悪い動物さんは活動したてが一番凶暴なのよお。退治された白鯨なんかも、霧と一緒に出てきた直後が一番怒りっぽくて厄介らしいわあ」

とは、メィリィの語ってくれた白鯨の余談だ。

そんな彼女の講釈に則って考えると、スバルたちが白鯨を迎え撃ったのはリーファウス平原に姿を現したまさにその瞬間。つまり、寝起き直後の最悪のタイミングだ。

苦しめられた思い出が蘇り、よく勝てたものだと遅まきながら自画自賛する。

それはともかく――、

「寝てる子を起こして怒らせるのは、人でも動物でも悪い動物さんでもおんなじ。だからあ、ちゃあんと静かにしててねえ。それだけできたらあ、私の方でなんとかしてあげるからあ」

そんな心強いメィリィの発言に従い、一行の息を殺した行軍が始まった。

布陣は砂丘攻略の際と入れ替わり、竜車の方が先に進むスタイルだ。御者台に座ったメィリィが花魁熊に意思を伝え、その意図を通じてユリウスが竜車を進める。スバルの操るパトラッシュはその竜車の後ろを付かず離れずで並走していた。

「――――」

気持ち前屈みになり、息を詰めるスバルはベアトリスの小さい体を抱いている。ベアトリスの体温が伝わってくるが、彼女も身を固くして緊張している様子だ。

ちらと竜車の方を見上げれば、竜車の屋根の上に人影がある。怪しい人物ではなく、見慣れた細身のシルエットはエミリアだ。

「――――」

スバルの視線に気付き、エミリアが紫紺の瞳をこちらへ向け、手を挙げた。

エミリアがああして屋根の上に潜んでいるのは、何事か問題が発生したときに即座に動けるようにするためだ。スバルとしては竜車の中で大人しくしていてもらいたいのだが、ユリウスの精霊術が当てにならない現状、高火力で範囲攻撃が可能な味方はエミリアしかいない。ベアトリスも無理をすればできなくはないが、一発大きいのを撃ち込んだ時点でスバルがガス欠になってしまう。

戦力的な意味で他者に、それも本来なら守らなければならない相手に依存してしまうのはスバルの劣等感の一つだ。

それがなければ、そうする必要がなければ、あるいはレムも。

そんな風に思ってしまう弱さは、スバルの中に常にある。

「――っ」

「――――」

などと折り合いのつかない感情を持て余していると、ふいにベアトリスの後頭部に顎をカチ上げられた。スバルが驚くと、ベアトリスは鼻を鳴らす。

今は目の前に集中しろ、ということだろう。改めて頭上を見ると、エミリアもスバルの方に指を突き付け、同じような注意を促しているのがわかった。

「――――」

納得も承服も、口には出せず、長い吐息へ変わる。

本当は頬を叩いて気持ちを切り替えたいところだが、そんな仕草さえも命取りになりかねない以上、自重は必須だ。

そして、スバルがいつもの思考の回り道を経て覚悟を決めるのと、一行の最先端が花畑に到達するのはほとんど同時だった。

「どいて」

一度、ジャイアンの引っ張る竜車が停車し、車輪の軋む音に紛れてメィリィの静かな声音が花畑に投げかけられた。

最初、メィリィの呼びかけには何の反応もなく、スバルは奥歯を噛む。

「どいて」

重ねて、メィリィが命令を呼びかけた。

それでもやはり、花畑には何の変化も生まれない。もどかしい時間にスバルの胃壁は痒さのようなものを訴えかける。

そして――、

「――――」

のそりと、まさに地面がめくれ上がるように、花畑が『起き上がった』。

「――――」

思わず、その起き上がった魔獣の姿を直視し、スバルの喉が微かに引きつる。

花魁熊と呼ばれる魔獣は、その名前が示す通り、熊に似た姿をしていた。だが、決定的にスバルの知る熊とは違う。違いすぎる。

起き上がった花魁熊の体長は、おそらく二メートルから三メートルの間だ。足は短く、代わりに腕は地面に擦るほど異様に長い。黒い毛で覆われて見える腕は太く、その先端には鉤爪のような爪がびっしりと生えているのがわかった。

その体の背面から脇までにかけて、鮮やかな花弁が揺れているのが印象的だが、間近でその魔獣を見れば、むしろ目がいくのは背面よりも体の前面側。

黒い毛に覆われて見える体躯だが、その体中を這い回るのは体毛ではない。びっしりと肉体を覆っているのは、細く入り乱れる花々の根だ。肌に血管が浮き上がるような見た目で、細かい根が魔獣の体を覆い尽くしているのだ。

「――っ」

びっしりと根に覆われる体だが、根の届かない部分は異常なまでに渇き、肉も皮も萎み切っている。顔貌は頭蓋骨の形がわかるほど極限まで水を失い、丸く飛び出す眼球はこの世の全てを憎悪するように血走っていた。

それはさながら、自らの体に根を張る花々に命を啜られているかのようだ。

花魁熊は花々と共存できていない。明らかに、花に命を殺されている。

「――――」

見るだけで嫌悪感を堪え切れない魔獣が、メィリィの言葉に緩慢な動きで従う。

ゆっくりと地面から体を引き剥がし、何も吸い上げられない砂原から根が引き抜かれ、千切れる音が無数に連鎖する。

竜車が通れるだけのスペースを空けるために、動き出す花魁熊は十数頭に及ぶ。そして進めば進むほど、その数は加速度的に増えていくのだ。

「ふ」

微かに、ユリウスの吐息が聞こえて竜車の前進が再開する。

あのユリウスをして、眼前の光景には身の毛がよだつのを堪えられなかったのだろう。竜車の後尾につき、スバルたちも花魁熊の開いた道へ入り込む。

「……ぅ」

途端、花魁熊の縄張りに入ったスバルの嗅覚に、暴力的な花の香りが飛び込む。

それは砂蚯蚓と相対したときのような悪臭とはまるで違うが、それぞれ質の違う甘い香りが入り乱れる状況が暴力的であることには変わりがない。

鼻腔が侵され、脳内の歯車が甘い香りに焦げ付くような錯覚さえ覚える。

「――――」

冗談抜きに眩暈を起こし、頭痛すら呼び起こすおぞましい臭気。

あれほど煩わしいと思っていた砂風でも構わない。この全身にまとわりつく毒のような香りを吹き飛ばしてくれるなら、と本気でそう思う。

そんなスバルの願いもむなしく、風のないまま、一行は花畑の奥へ奥へ進む。

「――っ」

ふいに、何かに気付いた様子でベアトリスがスバルの袖を引いた。何事かと彼女の方を見れば、ベアトリスは頻りに背後を気にしている。

その仕草に嫌な予感を覚えながら振り向くと、ベアトリスの反応の意味がわかる。

メィリィの指示で開かれた花畑の空白が、竜車とパトラッシュの通行を見届けると、その端からどんどん元の景観へ元通りになっていくのだ。

メィリィの命令を叶え、竜車が通行した時点で命じられたことは達成。また元の定位置に戻り、そこで休眠状態に入る――というのが奴らの思考だろうか。

戻るつもりはないにしても、これでは途中で停車することもままならない。無論、この魔獣の巣の中で休息を入れるなど、冗談でも遠慮したい話だが。

「――?」

そう思った直後、竜車の前進が停止した。

何があったかと前を見れば、竜車の止まった原因は明白。一頭の花魁熊が竜車の前に起き上がったまま静止し、その虚ろな目を御者台の二人へ向けている。

「――――」

その一頭が不審な動きをすると、付近にいた花魁熊の動きにも変化が生まれた。それまでのそのそと素直に移動する花魁熊の足が止まり、竜車をジッと見つめる一頭の行動をトレースするように、視線が竜車へ集まり始める。

――マズい、とスバルは直感的にそれを悟った。

振り返れば、花畑の突入地点からはすでに数百メートル進んでいる。後方の道は塞がれており、全方位を花魁熊に囲まれていることは明らかだ。その数は数百頭、あるいは千頭に及ぶ可能性もある。暴力的な数の差だ。

「――――」

そうまで考えたところで、屋根の上にいるエミリアと視線が絡んだ。

エミリアは竜車の前に立つ花魁熊を見下ろし、どういった対応を取るべきか判断に迷っている。もしもこのまま開戦が避けられないのであれば、竜車の前方をエミリアの魔法で切り開き、そのまま駆け抜けるのが最善の方法だ。

ただ、タイミングを誤って早まりたくはない。

「し――」

そうして判断に迷うスバルたちの前で、最も冷静だったのはメィリィだった。

彼女は唇に指を当て、魔獣を前にして躊躇するスバルたちを先に落ち着かせる。それから彼女はその唇に当てた指を前に突き出し、自分を見る花魁熊を睨みつけた。

「ちっちっち」

突き出した指、そして舌を弾くような音がメィリィの唇から漏れ出す。

それはまるで、人が子猫をあやすときに出すような吐息だ。本当に相手が子猫であれば微笑ましい絵面も、凶悪な魔獣が相手では何の緩和作用もない。

しかし、メィリィの指先は舌の音に合わせて揺れ、次第に花魁熊の視線は御者台の二人ではなく、メィリィ個人に、そしてメィリィの指へとずれていく。

「ちっちっち……ちぃー」

そのまま、指に花魁熊の焦点が合ったと確信を得たメィリィが、揺らしていた指ごと腕をゆっくりと竜車の右へ向ける。その腕の動きにつられて、竜車を通せんぼしていた花魁熊は顔をそちらへ動かし、のそりと一歩を踏み出した。

「――ぉ」

花魁熊の、竜車を離れる素振りに思わず安堵の息がスバルの喉から漏れた。

身を固くしていたエミリアやベアトリスも、露骨な安堵に肩の力が抜ける。通せんぼしていた一頭が動くと、他の花魁熊もそれぞれの離れる動きに戻ろうとした。

そのまま、花畑の行軍が再開する――はずだった。

「――――ッ!!」

その瞬間、緊張の糸が切れて、声を上げてしまったのは誰も責められまい。

突然、極限の膠着状態を強いられて耐えられるほど、心というものは強くない。それは人間もそうだし、地竜であっても同じだ。

花魁熊の負のプレッシャーを間近で浴びたジャイアンが、低い唸り声を上げ、癇癪を起こしたように地面を踏み鳴らしてしまった。

「しま――っ」

唐突に静寂を切り裂くジャイアンの咆哮に、休眠状態にあった花魁熊が一斉に反応する。竜車から離れようとした一頭が振り返り、その反応が周囲にも伝染――魔獣がその咢を開き、牙を剥き出しにして竜車に飛びかかる。

直前――、

「――エル・ヒューマ!!」

急速にマナが実体化し、作り上げられた氷槍の先端が魔獣の頭部を貫いた。

開いた大口の中に鋭い氷の穂先が突き刺さり、口内を蹂躙してうなじから先端が突き抜ける。脳髄が掻き回され、花魁熊は声も上げられずに絶命して後ろに倒れた。その勢いに巻き込まれ、数頭の花魁熊が一気に横倒しになる。

「走れ――!!」

それが、竜車の上にいるエミリアの先制攻撃と見取った瞬間、スバルは叫んだ。

その叫びに呼応し、ユリウスが手綱を操ると竜車が勢いよく走り出す。当然、パトラッシュもそれに続き、立ち尽くす魔獣を横合いから撥ね、猛然と駆け出した。

「――ッ!」

「きたきたきたきたきたきたきた――ァ!!」

一拍遅れて、凄まじい猛り声がアウグリア砂丘の夜を引き裂く。

広大な花畑が一斉にめくれ上がり、牙と醜い面貌を剥き出しにして花魁熊の群れが猛然と突き進む竜車へ向かって押し寄せてきた。

「スバル! しっかり掴まってないと振り落とされるのよ!」

豪風を浴びる錯覚は、無数の花魁熊が向けてくる殺意と食欲のプレッシャーだ。

鉤爪を備えた太い腕が振り上げられ、容赦のない一撃が竜上のスバルへも打ち込まれる。直撃すれば人体など軽々と剥がされ、内臓がはみ出すこと請け合いの威力。

しかし、それが命中する寸前に青白い煌めきが割り込み、魔獣に突き刺さる。

「えい! やあ! よしょっ! この……いっぱい、ヒューマぁ!」

相変わらず、気の抜ける掛け声とともにマナが渦巻き、黒い空に青白い光が乱舞したかと思えば、それは鋭い先端を地上へ向ける無数の氷刃へ姿を変える。

それは一瞬の停滞の直後、まるで推進力を得たかのように射出され、竜車へ群がろうとする花魁熊の頭部を、腕を、胴体を、足を、八つ裂きにして血煙を上げる。

「うおおお! さすがエミリアたん! 惚れ直した!!」

「そういうこと言ってる場合じゃないでしょ! 走って!」

「はい!」

エミリアのフォローに命を救われ、スバルはパトラッシュを加速させる。

こうした突然の戦闘に際し、エミリアは驚くほど冷静に戦いに対処する。思い返せばエミリアは戦いを忌避していても、戦い自体に気後れしたことはない。彼女の中で戦いに関する忌避感は、戦闘が始まってしまえば消し去れる逡巡なのだ。

「バルス、死ぬ気で走らせなさい。死にたくなければ!」

「ああ、もちろん――あれ、ラム!?」

エミリアの奮戦、青白い光が竜車の前方をまとめて薙ぎ払い、正面へ回り込もうとした花魁熊の集団がまとめて凍り付く。

ジャイアンが突進でその氷像を砕いて進む中、御者台に座って手綱を握るのはいつの間にか、客車から移動してきたラムだ。器用に手綱を操り、興奮状態にある地竜を御するラムに、スバルは目を剥いて視線をさまよわせる。

「ユリウスは!?」

「遠距離攻撃の手段がないと、御者台にいても役立たないそうよ。だから」

ちらと、スバルの叫びにラムが背後を見る。その視線につられて後ろを見て、スバルは思わず度肝を抜かれた。

砂を噛み、車輪が唸る竜車の側面、その装飾の一つに取りつき、握った騎士剣を振り回して接近する魔獣を切り払うユリウスの姿がある。

「エミリア様にばかり、ご負担をおかけするわけにはいかないからね」

「俺へのあてつけかお前!」

「そんなつもりは――」

そこで言葉を切り、ユリウスは接近する魔獣の爪に騎士剣を合わせる。斬撃が鉤爪の隙間を縫い、花魁熊の腕を深々と切り裂いた。そのまま踊る剣先は絶叫を上げる魔獣の喉を閃光のように貫き、脳幹を破壊して絶命させる。

その手際、最小の破壊で実に優美。

「ないとも」

立て続けに魔獣を撃破し、スバルへの応答の続きを口にしてユリウスは剣を払う。その仕草に心強さと、同時に敗北感を味わってスバルは渋い顔だ。

ただ、中・遠距離をエミリアが担当し、近距離をユリウスが切り払う。あの体制が続けば、竜車の方の心配はひとまず後回し。

問題はむしろ、他人事ではない方向にある。

「ベア子、いけるか!?」

「スバルの方こそ、ガス欠にならないように十分に注意するかし、ら――!」

パトラッシュの上で体を起こし、スバルは片手で手綱を、もう片方の手でベアトリスを抱え上げ、竜上に彼女の小さな体を立たせる。

そしてしっかりと互いの手を握ると、スバルの腹の奥で何かが疼いた。淀みのようなそれは熱を持ち、ゆっくりとスバルの体からベアトリスの方へ流れ込む。

「ミーニャ!」

詠唱とともに生み出された紫の結晶が、漆黒の地竜の鼻先を塞ぐ魔獣に狙いを定める。照準が合い、加速は一瞬、結果は直後だ。

ガラスの砕けるような音を立てて、魔法の直撃を受けた魔獣がのけ反り、結晶が砕け散る。だが次の瞬間、直撃を受けた魔獣の肉体もまた、結晶と同じように砕けた。

「よし、いいぞ、ベア子!」

「でも、乱発はできないのよ! 注意深く節約して……ミーニャ!」

「注意深く節約は!?」

ベアトリスの戦力は、スバルのマナ残量に依存する。

押し寄せる圧倒的な物量に対抗するために、節約を是とするベアトリスであっても出し惜しみはできない。魔法の一発ごとに魂が削られるような喪失感を味わいながら、スバルは軽口を叩いて余裕ぶり、ベアトリスの気後れを減らしてやる。

当然、そんな気遣いはベアトリスにはお見通しだろうが。

「ああ、もうもう! なんでこうなるのよお! これ、とっておきなんだからあ!」

そして、ここまで沈黙を守っていた最終兵器が立ち上がり、地団太を踏んだ。

御者台、ラムの隣に座っていたメィリィは涙目になり、赤い顔をして周りを取り囲む花魁熊の群れを見渡す。そして、自分に従わない魔獣に指を突き付けた。

「悪い悪い動物さんたちにお仕置きしてあげるわあ! きなさい、砂蚯蚓!」

「――嘘だろ!?」

メィリィが拗ねた子どものように言い放った直後、花魁熊が起き上がったことでめくれた砂原が、さらにその砂の下から豪快に持ち上がり、巨躯が飛び出す。

巨獣が地下から全身を突き上げる勢いに呑まれ、巻き込まれた花魁熊が何頭も空に打ち上げられた。高所から砂に転落する魔獣は骨が砕け、そして運悪く真上に上がった花魁熊はその、強大な口に呑まれ、咀嚼される。

砂原を破って飛び出し、おぞましい花畑を荒らすのはあの砂蚯蚓だ。

悪臭を漂わせ、宵闇を切り裂く奇声を上げながら、砂蚯蚓は竜車に取りつこうとする花魁熊を獲物と定め、その巨躯を躍らせて一気に叩き潰す。

「いっけえ、砂蚯蚓! みんなみいんな、ぶっ潰しちゃええ!」

「マジか、オイ! マジかマジかマジか、おいおいおい!」

地鳴りが生まれるほどの重量が砂海をのたうち、巨躯に押し潰される花魁熊の絶叫が響き渡る。花魁熊も決して小さな体格ではないが、全長が十メートル以上もある砂蚯蚓の巨体には到底及ばない。

圧倒的な質量差がぶつかり合いの結果となり、次々と花魁熊は死骸へ変わる。

もはや怪獣大決戦のような有様に、スバルはまともな言葉もない。

エミリアとベアトリスの魔法が、ユリウスの剣技が、メィリィの異能がかろうじて道を切り開き、竜車とパトラッシュは花畑をどんどん前進する。

「ああ! 砂蚯蚓があ!」

メィリィの悲鳴が聞こえた。

見れば、多数の花魁熊に取りつかれた砂蚯蚓が、その巨躯に爪を立てられて全身からおびただしい体液をこぼし、地面に倒れ伏す。

ぬらぬらと濡れそぼる砂蚯蚓の外皮は、蛇や昆虫のように強固なものではない。軟体を支える皮膚は容易く鉤爪の餌食になり、断末魔の悲鳴が砂海に木霊した。

「次! 次々い! どんどんきてえ!」

巨大な一匹が倒れて、顔を蒼白にしたメィリィが手を叩く。と、それにつられてまたしても砂が持ち上がり、別の砂蚯蚓が顔を出した。

今度は同時に六匹、しかしいずれも最初の一匹に比べると二回りは小さく、花魁熊の群れに囲まれればあっという間に狩られてしまう。

「このままじゃ……っ」

数の暴力に押し負ける。ひどく絶望的な感覚に、スバルは何か打開策はないかと必死に周囲に目を向けた。そして、気付く。

あれほど遠かった監視塔が、ほとんど眼前と言っていいほどの距離まで迫っていることに。

「もうちょっとだ! このまま監視塔に辿り着けば――」

それで魔獣が引き下がるわけではないが、それはやけに力のある希望に思えた。

この瞬間、何か特別な考えがあったわけではない。

ただ、監視塔に辿り着けばおそらく、この状況を打開する力があると感じた。

藁にも縋るような希望の精神だ。そしてそれは事実、間違っていなかった。

「このまま――」

ただし、その力はそうそう都合のいいものではない。

プレアデス監視塔へ近付く、不埒な輩に対して公平に降り注ぐ鉄槌だ。

「――?」

必死に目を押し開き、パトラッシュにしがみついてベアトリスを支えながら、スバルは正面に見える監視塔を睨みつける。

汗が伝い、微かに目を細めた瞬間、スバルはわずかな違和感を得た。

塔の中心、そこで何かが光ったように見えたのだ。

「なん……」

だ、と最後の一文字は続かなかった。

「――――」

――光が空を走り、それは狙い違わずスバルの頭部を直撃する。

瞬間、ナツキ・スバルの首から上は衝撃に吹き飛び、意識もないまま蒸発した。

「――――」

その一瞬の惨劇を目にし、声を上げる者はこの場にいない。

何故なら、それを目にする者も、悲鳴を上げるべき者も、根こそぎにされたからだ。

音を立てて、頭を無くした地竜が倒れる。

猛然と横倒しになる竜車の勢いに巻き込まれて、やはり頭部を無くした人体が押し潰され、へし折れ、肉片へと変わる。

血溜まりだけが砂の上に転がり、乾いた砂は流れる血潮を呑み込んでいく。

やがてゆっくりゆっくりと、砂の細かい粒子は砂海に朽ちる何もかもをその腹の中へと引きずり込み、押し隠してしまう。

血の華だけが、彼らの旅路の痕跡であったかのように鮮やかに色を残し。

しかしその紅の華さえも、全てを呑み込む砂の中に消える。

――一行はここに、全滅した。

第六章11 『涙声が聞こえる』

――見えたのは光、ただそれだけだった。

見上げ、首をもたげたことは覚えている。

直後に正面の塔の一部が白く光り、その眩さに目を細めたことも。

ただ、記憶はそこまでだ。以降は何も覚えていない。

痛みも、衝撃も、恐怖も、何一つ感じなかった。

ナツキ・スバルにとって、それらはいずれも『死』の訪れに欠かせない供だ。

泣き叫ぶような痛みも、肉体が千切れる衝撃も、全て失われる恐怖もない。

あるいはその『死』は、スバルの知るいずれの『死』よりも優しかったのかもしれない。

もっとも、死して脳まで蒸発させられたスバルに、そんなことを考える暇などどこにもなく、思い返して浸るだけの余裕もやはりなかった。

まるで瞬きのように、一瞬だけ視界が暗く閉ざされたかと思った直後、ナツキ・スバルの失われた『命』は再生し、逆流し、再び現実に投げ出される。

――投げ出された。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――ちっちっち」

「――っ」

一瞬、息の詰まるような重苦しさが五感に圧し掛かり、スバルは目を見開いた。

全身の血流の音がうるさく感じられ、収縮する筋肉が痛みを訴えかける。爪が掌に食い込むほど強く握られた手綱と、熱い体温で存在を主張するベアトリス。

「……ぁ?」

薄暗い視界の中、ベアトリスの後頭部を間近で見下ろしている。

鼻腔から滑り込む暴力的な甘い香りは、少女を抱き上げたときに香るそれとはまた別物だ。ベアトリスの香りは甘い焼き菓子のようなそれだが、あたり一面に漂うこれは粘質な毒のような、押しつけがましい甘さだ。

この甘さには覚えがある。当然だ。それはつい先頃、延々と嗅ぎ続けていた。

むしろほんの数秒間だけでも、途切れていたことの方が特別なのだ。

「ちっちっちっち」

混濁するスバルの意識に、舌を弾くような微かな音がリズムに乗って届く。

正面、ベアトリスが身を固くし、パトラッシュすらも息を殺して見守るのは、エミリアやレムを乗せた竜車であり、その竜車の鼻先にはおぞましい魔獣が立っている。

全身に細かい根を張り巡らせ、血に飢えた獰猛な魔獣――花魁熊だ。

瞬間、デジャブなどでは言い表せない、生々しい現実感がスバルに舞い戻る。

この感覚は疑うまでもない。『死に戻り』だ。

ナツキ・スバルは今、『死』を体感して、この時間に戻ってきたのだ。

「――っ」

――だけど、よりによって、この時間に戻されるのかよ!?

『死』の瞬間の出来事よりも、『死に戻り』したタイミングの悪さに悪態をつく。

舌打ちのような音で魔獣の興味を誘い、竜車の前から穏便にどかそうとしているのはメィリィだ。その目論見はギリギリまで成功し、しかし最後にしくじる。

竜車を引く地竜――ジャイアンが、魔獣の圧力に耐えかねるからだ。

「――――」

そのことがわかっていながら、スバルはとっさに判断を躊躇う。

肝心のジャイアンの様子は後方からは見えない。だが、手綱を握っているユリウスは地竜の異変に気付けない。彼であっても、そこに目を配る余裕はないのだ。

竜車の面々の誰もが、メィリィの花魁熊へのコンタクトの成功を祈っている。

だが、それは残念ながら――、

「ちっちっち……ちぃー」

メィリィの声が微かに緊迫感を帯び、彼女の指が竜車の右側を示す。花魁熊はその動きにつられて、のそのそとそちらへ足を動かした。

竜車にも、そしてベアトリスにも安堵の雰囲気が芽生える。しかし、ジャイアンはその緊張の糸の切断に耐えられない。

「ゆり……」

「――――ッ!!」

正しい判断を下せないまま、呼びかけはジャイアンの咆哮に遮られた。

先ほどの展開の焼き直しをするように、ジャイアンは唸り声を上げながら地面を踏み鳴らし、その鳴き声と地鳴りに花魁熊の意識が一斉に覚醒する。

血走った目をさらに剥き出し、涎を垂らしながら飛びかかる花魁熊。その頭部を青白い輝きが貫通し、爆砕するところまで完全に流れが同じだ。

「エル・ヒューマ!!」

竜車の屋根に立つエミリアが両手を翻らせ、踊るような動きで空に氷刃の渦を作り上げる。回転する氷の刃が次々と地上目掛けて射出され、丸鋸のような氷の凶器に花魁熊の群れが呑み込まれ、手足を切り飛ばされて断末魔が上がる。

「は、走れ走れ走れ走れ走れ走れ――ッ!!」

手綱を引いてパトラッシュを加速させ、スバルが声を上げると竜車も動き出す。

横目に御者台を見れば、飛び出してくるラムがユリウスと御者を交換し、騎士剣を抜いたユリウスが接近する花魁熊へ剣撃を入れ、蹴散らすのがわかった。

――完全に、同じだ。

その流れを踏襲したことで、スバルは強く強く奥歯を噛みしめる。

突然の『死に戻り』に、意識が追いつかなかったことは言い訳にならない。

自分が死亡したことの衝撃を後回しに、スバルの心が悔悟で埋め尽くされる。

ここまで、『死に戻り』を無駄撃ちしたのは、『死に戻り』を自覚して以来、スバルにとって初めてのことと言っていい。

『死に戻り』で得た情報を扱い損ねて、改めて死を迎える結果になったことはある。だが、『死に戻り』までしてきて、為す術なく同じ状況をなぞったのは初めてだ。スバル自身がなぞろうと、そう考えた意思と無関係に、運命のレールそのままに。

「――スバル! ボーっとしてる暇はないのよ!」

「――ッ!」

悔しさに俯き、手綱を強く握るスバルの胸にベアトリスが背中をぶつける。軽い衝撃と声に前を見れば、獰猛な魔獣が猛然と迫るのが見える。

同時に、伸ばされる小さな掌を握り、ベアトリスを竜上に立たせ、迎撃が始まる。

「ミーニャ! ミーニャ! もう一発、ミーニャかしら!」

掌を通じて、スバルの体内から行き場のないマナが吸い上げられ、ベアトリスを通して力に還元される。生み出される紫の結晶は行く手を塞ぐ魔獣の体に突き刺さり、その体を結晶化させて砕き、パトラッシュが破片を踏みしめて前進する。

「とっておきのお、砂蚯蚓!!」

自棄になったようなメィリィの叫びが聞こえ、視界の端で砂が噴き上がる。

花魁熊の覆った砂原、そのさらに下から体を起こした砂蚯蚓が、その巨大な咢に数頭の魔獣を放り込み、見上げるほどの体躯がまとめて敵を押し潰した。

怪獣大決戦再び、だが分が悪いこともスバルは知っている。

「――バルス! 死ぬ気で走らせなさい! 死にたくなければ!」

形にならない焦燥感に焼かれるスバルへ、叱咤するような声が刺さる。

御者台で手綱を操り、興奮するジャイアンを御すラムだ。レムに劣らない達者な手綱捌きで地竜を支配下に置いているが、このままではマズい。

「このまま真っ直ぐじゃダメだ! ラム、道を変えろ!」

「――っ! 何を言い出すというの? 監視塔は正面、周囲は魔獣の縄張りよ!」

「それはもっともなんだけど、それじゃダメなんだよ!」

パトラッシュが頭を下げ、正面に立ち塞がる花魁熊の胴体を突き上げる。もがく魔獣を鼻先に乗せたまま、漆黒の地竜はその魔獣の体を盾に猛進。次々と打ち込まれる鉤爪は魔獣の肉体を引き裂き、舞い散る花弁と鮮血が砂海を濡らしていく。

「バルス、何に気付いたの! はっきり話しなさい!」

「はっきり説明できたら苦労はねぇよ! とにかく、進路変更だ!」

苛立った風なラムの言葉に、スバルの方も乱暴に怒鳴り返すしかない。ひどく理不尽な対応だと自分でも思うが、それ以外に手段がないのだ。

なにせ、今のスバルには自分が死んだ原因がわかっていない。

『死に戻り』したことは間違いないのに、死の理由が思い出せないのだ。

気付けば『死に戻り』していたという点に関して、今回のそれはロズワール邸で初めて『死』を迎えたときの感覚に近いものがある。

まずは死因を確かめ、その問題を排除するところから。

「そんな余裕、どこにもねぇよ!!」

魔獣に追いつかれ、その鉤爪の餌食になったのか。酒場の店主の忠告通り、腸を啜られて無残な餌になったのか。あるいはうっかりパトラッシュから転落して、運悪く首の骨でも折ったのかもしれない。本当の本当に考え難いが、ベアトリスにマナを使われすぎて衰弱死、なんて線もないではない。

「そのどれだったとしても、ここまでぷっつり綺麗に記憶が途切れたことねぇぞ」

腹を裂かれても、氷漬けにされても、鉄球に頭を潰されても、兎に全身を貪られても、訳のわからない権能の巻き添えを喰らっても、スバルは『死に戻り』してきた。

そしてどんな死因であっても、『死』の直前の出来事から自分の手詰まりの状況を洗い出し、打破するための手立てとしてきたのだ。

そのか細い運命の糸が、今回はどこにも見当たらない。

そして見当たらない細い糸を探す時間が、スバルたちには与えられていない。

――これは地味に、最悪の、『死に戻り』封じをされている。

もしもまた同じ方法で死亡した場合、完全に手探りからの再開だ。

そうなる前に――、

「こっちから動く! とにかく、塔には近付くな!」

「だからそれがどうしてって……」

「塔が光るんだよ! たぶん、その光がヤバいんだ!」

「はぁ――!?」

切羽詰った状況だけに、応じるラムも言葉の刃に毒を塗る時間がない。端的に否定的な声音をぶつけられながら、スバルは手綱を引いてパトラッシュに伝える。

直進ではなく、とにかく曲がる意思を。

「正面に、塔は見えてるが……!」

花魁熊が大挙して押し寄せる砂海のど真ん中で、正面に見えている監視塔は明らかに近付いている。しかし、あれに近付けば本当に先ほどの焼き直しだ。

そうならないために、スバルの選ぶべきは――、

「逆走する! 『砂時間』をもういっぺん潜った方がマシだ! 前の砂丘に戻るぞ!」

「さっきから何を馬鹿なことを……」

「ラム! スバルの言う通りにして!」

血迷ったと思われて仕方ない決断に、否定の声を上げようとするラムをエミリアが引き止めた。彼女は無数の氷礫で魔獣を一掃しながら、スバルに頷きかける。

「スバルが何の考えもなく変なこと言い出すなんてありえないから!」

「バルスは日常的に妄言と戯言を垂れ流して生きています」

「スバルが危ないときに何の考えもなく変なこと言い出すなんてありえないから!」

「わざわざ言い直してくれてありがとう!!」

狼少年扱いを嘆くべきか、ピンチのときは頼れる男扱いなのを喜ぶべきか。

反省と自惚れのどちらも後回しにして、スバルの意思に従うパトラッシュが砂地に足を突き刺し急旋回。風を切る尾が魔獣の胴を薙ぎ払い、蹴り足で乱暴に花魁熊の一頭を蹴りつけ、逆走する。

「――っ! 上と横にいる二人! 振り落とされないようになさい!!」

急旋回するスバルたちを見て、ラムも巧みな手綱捌きでジャイアンを反転させる。当然、遠心力をふんだんに喰らう竜車は大きく傾き、横転しかかるが――、

「エミリア様! 足場を!」

「え? あ、そっか! はい!」

車体に剣を突き立てて体を支えるユリウスが、傾く竜車の補助をエミリアに訴える。その言葉にエミリアは目を丸くし、即座に魔力が竜車の真下へ。斜めに傾いだ車輪を補助するように氷の坂が生まれ、竜車は半円を描くように走って横転を免れた。

さらにそのまま勢いを殺さず、パトラッシュに追走する形で逆走が始まる。

――直後だ。

「なん……っ!?」

逆走を始めた次の瞬間、キンと鼓膜を鋭く引っ掻くような音が響いた。

思わず肩をすくめるスバル。その背後で、ふいに風が生まれる。

「今のは……って、おいおいおいおい!?」

「何かしら……ぴぃっ!?」

背後に生じた謎の感覚に、振り返るスバルとベアトリスが同時に驚愕する。

すぐ真後ろを走る竜車の上で、エミリアとユリウスも目を剥いていた。

「砂蚯蚓、ちゃんが……っ」

御者台から身を乗り出し、驚きに喉を震わせたのはメィリィだ。

その彼女の目の前、竜車の背後を覆うような形で砂蚯蚓の巨体が起き上がっていた。全長十メートル以上の巨躯に、胴体の太さは男二人が腕を回しても足りないほど。地上へ頭を突き出し、獲物を睥睨する姿はさながら砂海の王のような様相だ。

その砂蚯蚓の胴体が、何かの直撃を受けて木端微塵に吹き飛んでいた。

ぬらぬらとした体皮が千切れ、太く長大な胴体はものの見事に真っ二つにされる。頭部を無くした胴体は横倒しに、そして支えを無くした頭部側はこちらに向かってゆっくりゆっくりと落ちてくる――。

「横に、避けろぉぉぉ――!!」

落下してくる砂蚯蚓の頭部は、竜車を押し潰して余りある質量だ。

先に胴体に押し潰される魔獣の断末魔を背後に、スバルとラムはそれぞれの地竜に指示を伝達し、強引に進路を逸らして砂蚯蚓の直撃のコースを逃れる。

「――――ッ」

甲高い鳴き声を上げ、砂蚯蚓の頭部が勢いよく砂海へ落ちる。

砂が舞い上がり、逃げ損ねた花魁熊の骨が砕け散り、衝撃に巻き込まれて手足が吹っ飛ぶ。そのまま砂蚯蚓の頭部はバウンドし、さらに先々の魔獣を巻き添えにしながら転がり、最後には無数の鉤爪を浴びて肉片へと早変わりだ。

「あぶ、あぶ、危ね、危ねぇ!」

「スバル、マズったのよ!」

とっさの危機回避に胸を撫で下ろすが、即座にベアトリスはその安堵を却下。

何事かと懐の少女を見れば、彼女は舞い散る花弁を煩わしげに払い、背後を見回しながら、

「今ので、向こうの竜車と逸れたかしら! ベティーたちしかいないのよ!」

「んだと!?」

慌てて視線を追いかけ、スバルは周囲に竜車の姿がないことを確認する。

ただ、遠くに青白いマナの輝きと魔獣の咆哮、さらに小規模の砂の噴き上げが発見でき、エミリアの奮戦とメィリィの新たな僕の使役が遠目にわかった。

だが、向こうと合流しようとしても、合間には無数の花魁熊で埋まっている。そして手数の減ったスバルたちに対しても、魔獣の猛攻は弱まる気配がない。

「単純に戦力半分! 敵の数は倍!」

「さっきより四倍、きつくなったかしら!」

爪を振りかぶり、襲いかかってくる花魁熊の顔面に鞭の先端が唸りを上げる。

叩きつけられる衝撃が運よく魔獣の目を潰し、激痛に震える一頭を突破口に再びパトラッシュが走り出す。しかし、その方向はエミリアたちの竜車とは別方向だ。

「パトラッシュ! こっちじゃね……」

「この地竜なりに生き残るための判断なのよ。スバルやベティーより、こいつの本能に任せる方がよっぽどマシかしら!」

スバルの叫びを遮り、ベアトリスは立ち塞がる花魁熊を魔法で蹴散らす。パトラッシュは包囲網の薄い部分を一点突破し、背中の二人を守るために懸命だ。

「クソ! またこれ……またこの形か! 俺は何をしてんだよ!」

鞭を振るい、接近しようとする魔獣の顔面を弾く。だが、理性をなくした形相で飛びかかってくる魔獣の勢いをそれでは止められない。

剣で致命傷を与え、魔法で行動力を削ぐ。――スバルの選んだ力は、そのどちらにも遠く及ばない。小賢しさは、圧倒的な力の前に押し潰される。

できることをして、やれることを増やして、少しはマシになったと思ったのに。

運命はナツキ・スバルの小手先の努力など、鼻で笑って踏み潰すのか。

「レグルスのクソ野郎の方がよっぽどどうにかできたぜ……!」

「考え事してる暇なんてないのよ! 何か手段を……」

「ベア子、パトラッシュにムラクだ! 重さを軽くして、群れの頭を越える!」

「――! ムラク!」

スバルの指示を受け、ベアトリスがパトラッシュに『ムラク』――重力の影響を軽減する魔法をかけ、疾走する速度が加速する。踏み込みで進む距離が倍になり、跳躍するパトラッシュが魔獣を踏み場に蠢く花畑からの離脱を試みる。

だが――、

「光っ――!?」

目の端に白い光が浮かび、声を裏返らせた瞬間に『それ』が空を走ってきた。

地上を白い光が駆け抜け、砂海が凄まじい勢いで吹き飛ぶ。光が突っ走るのに合わせ、魔獣の体が引き裂かれ、血柱が上がり、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。

そしてその余波はパトラッシュの方にも襲いかかり、地竜の巨体が迫る『それ』の風圧に煽られ、軽々と弾かれてしまう。

「ベアトリス! しっかり掴まれ!!」

「スバルの方こそちゃんと抱きしめるかしら!!」

「――――っ!」

パトラッシュが嘶き、スバルがベアトリスの体ごと抱きしめてしがみつく。

空中で錐揉み回転し、猛然と花魁熊の頭上をパトラッシュの巨躯が跳ねていく。そのパトラッシュを追いかけるように、白光が連続して降り注いでくる。

砂が爆ぜ、巻き添えを喰らう魔獣が爆ぜ、掠めたパトラッシュが苦鳴を上げた。

「うあああああ――!?」

攻撃の最中に『風除けの加護』が外れ、スバルはその衝撃をもろに味わう。

手綱とベアトリスを掴み、両足でパトラッシュの鞍をしっかりと挟むが、勢いに揉まれ、あちこちに体を打ち付けて意識が持っていかれそうだ。

しかし、そんな状態にも関わらず、眼下の花魁熊の爪が追撃を撃ち込んでくる。

凄まじい衝撃に呑まれ、振り落とされまいと必死に足掻く。今、転落すれば絶対に助からない。かろうじて命が繋がっているのは、諦めていないからこそだ。

「けど、このままじゃ――」

「マズいのよ……っ!」

「――パトラッシュ!?」

一際強い衝撃と、パトラッシュの苦鳴が高く尾を引く。

見ればムラクの効果で軽々と弾かれるパトラッシュの横腹が、花魁熊の鉤爪を浴びてついに切り裂かれていた。漆黒の鱗に痛々しい爪痕が刻み込まれ、浅からぬ傷口から鮮血がこぼれ落ちる。

「――っづぁ!?」

その勢いのままに転がり、ついにパトラッシュが砂原の上に崩れ落ちる。同時にスバルたちも砂地に投げ出され、周囲を取り囲む花魁熊の餌場に取り残された。

頭を振り、体を起こす。ベアトリスと手は繋いだままだ。彼女もドレスの裾を払って立ち上がり、周囲に油断なく目を走らせている。しかし、不利は否めない。

「てめぇら! パトラッシュに指一本触るんじゃねぇよ!」

「ミーニャ!」

負傷し、苦しげに呻くパトラッシュへ殺到する魔獣に魔法が突き刺さる。スバルはベアトリスの手を引いてパトラッシュに駆け寄り、跪いて傷に触れた。

爪は内臓までは達していないが、無理をさせれば腹圧で腸が溢れかねない。無理はさせられない。治療する時間も必要だ。

「ベアトリス! シャマクだ! 周りにいる魔獣の認識を誤魔化す!」

「今!? それをしても時間稼ぎにしかならないのよ! それに……」

「今はその時間が必要だ! 急げ!」

血走った目で前傾姿勢になり、魔獣は飛びかかる隙を窺っている。

四方から襲われれば対処できない。いずれの魔獣が先走り、最初の切っ掛けになるかは奴らの辛抱強さ次第だ。そしてそれはたぶん、期待できない。

「――っ! エル・シャマク!」

ベアトリスが両手を合わせ、スバルの内側からごっそりと何かが抜け落ちる。

それは傍らの少女の手の中で渦を巻き、静かな力となって砂海を席巻、スバルたちを中心に半径十数メートルが黒い霧に包み込まれる。

陰魔法の基礎にして、大正義シャマクの発動だ。

認識の齟齬を生むシャマクの効果が広がり、花魁熊の挙動が完全に停止する。思考は理解の彼方へ消え、獲物を追い詰める本能すらも忘却させたのだ。

当然、実行犯であるスバルたちには効果はない。ただ、長持ちもしない。

「効果範囲の外の奴らが入ってきたら、いずれ荒らされるかしら。その前にその地竜を連れて脱出するのよ!」

「わかってる! ムラクの効果はまだ残ってるな? それならパトラッシュを俺が担いで、とにかくシャマク連発して向こうの竜車に合流を――」

鉄火場からの離脱、それを優先しようと判断し、パトラッシュに手を伸ばす。

通常は数百キロの巨躯だが、ベアトリスのムラクが効いている間、その体は羽毛のように――は言い過ぎだが、軽くなっている。担いで逃げるぐらいはわけない。

黄色い瞳がスバルをジッと見ている。その瞳を過る感情は複雑で、とても地竜の浮かべるものとは思えないほど雄弁だった。

その瞳が、物語っていた。――離れなさい、と。

「――スバル!」

パトラッシュの眼光に目を奪われた直後、ベアトリスが鋭い声を上げる。

駆け寄る彼女がスバルへ掌を向け、迸る魔力が盾を形成し、スバルのすぐ真横に紫色の魔法壁が出現――それが、撃ち込まれる白い光を逸らした。

「っごぁ!?」

鋼の打ち合うような鋭い音が鳴り響き、衝撃を受けたスバルの体が横に飛ぶ。転がって砂の上に大の字になり、咳き込むスバルは体を起こそうとして気付く。

衝撃を浴びた右の脇腹から血が滴り、それが右足をべったりと濡らしていることに。

「何を、喰らった……?」

血の溢れる脇腹を押さえて、片膝を突いたスバルは呆然と息を吐く。

途端、内臓を掻き回された衝撃が嘔吐感となって持ち上がり、胃液と血が口の端から一気に流れ出した。

破れた腹部から空気が抜け、血泡とともに屁に似た間抜けな音が漏れる。

「ぁ、ふ……」

「――バル! スバル!」

掠れた息が出るのと、視界が真横に傾ぐのは同時だ。

横倒しになり、身動きできなくなったのだと理解した。理解したが、それ以上が続かない。脇腹の傷が熱を持ち、そこから体が溶けてなくなるような痛みがある。

必死に、自分を呼ぶ声が聞こえた。

「スバル! スバル、ダメかしら! 死んじゃ……死な、死なないで……一人に、しないでぇ……っ! やめてぇ……っ」

肩を揺すぶられる。涙声がして、どうにか手を伸ばしてやりたいけど、動けない。

脳味噌が焼け付いたのか、目の前の少女のことが思い出せなくなる。

愛らしい顔の、でも泣いてて、泣き顔はさせちゃダメだろうと、思って。

「――――」

その向こう側に、大きな大きなトカゲが倒れている。

黒い、綺麗な見た目をしたトカゲだ。その体には、白く細長い何かが何本も何本も突き立っていて、ピクリとも動かないそれは明らかに死んでいる。

たぶん、自分もアレを喰らったのだ、と思った。

「ベティーを、置いていかないでぇ……っ!」

泣きじゃくり、少女が必死でスバルの体を抱き寄せる。

小さい体で、力の抜けたスバルは重過ぎる。それでも一生懸命に。

頬を涙が伝う。その涙ぐらい、拭ってやりたくて。

体の中で動く場所を探すけれど、見つからない。だから、体の中ではない、どこか別のところから動くものを引っ張り出して。

「――ぅ」

「スバル?」

目には見えない、自分にだけ見える『手』が、少女の頬の涙を拭った。

涙の滴を黒い指先がなぞり、少女が何かに気付いた顔でこちらを見る。安心させるように微笑んでやる力も、ない。

「すば――」

一瞬、少女が何事か言いかけた。

しかしそれは、少女のはるか背後から飛来する白い光に遮られる。

「――――」

再びの衝撃が、スバルの胸に突き刺さる。

ゆっくりと視線を落とせば、それはスバルを抱きしめる少女の背中を貫通し、さらにスバルの胸を貫いて、背後へ抜けていた。

「ぁ」

掠れた吐息を残して、スバルを抱きしめる少女の姿が掻き消える。

まるでこの世のものではなかったかのように、少女の姿は見えなくなった。

支えを無くして、スバルはその場に倒れ込んだ。動けない。動く理由が、ない。

「こ、ぉ」

微かに動く指先が砂を掻き、それだけだ。

術者を失い、周囲と空間を隔てていた黒い霧が風に吹き散らされる。

認識を誤魔化す魔の力が暴かれれば、取り残されるのは地竜の死骸と瀕死の少年。魔獣の群れは舌なめずりし、その獲物に近付いてくる。

「――――」

息が止まり、目の焦点がぼやけていく。

失血死、とは違う感覚。何か、致命的なものが流し込まれている。

何も、わからなくなる。

すぐ傍らで、鉤爪を振り上げる花魁熊の唸り声が聞こえる。

その爪が振り下ろされて、頭蓋が砕かれるのか。

それとも、今、消える寸前の視界の隅で、微かに光った『それ』が原因か。

どちらが理由かはわからなかったけれど、ナツキ・スバルの命は途絶えた。

第六章12 『監視塔の洗礼』

気だるさと灼熱の苦しみが同時に取り払われ、ナツキ・スバルは回帰する。

「――――」

眼前の光景に、とっさに悲鳴を上げなかったことを称賛してもらいたい。

二度目の『死に戻り』を経て、再び魔獣に取り囲まれる花畑へと舞い戻ったスバルは、慌てて自分の口を手で塞いで本気でそう思う。

「ちっちっちっち」

暴力的な花の香りが支配する空間で、聞こえてくるのはメィリィが舌を弾く音。

竜車の前に立ち塞がる花魁熊が、彼女の唇から放たれるリズムと、静かに揺られる指先に視線を奪われている。息を呑み、誰もがそれを見守っている鉄火場。

ほんの数分前、二度も立ち合ったばかりの場面に、またしても引き戻された。

――嘘、だろ?

自分の身に起きた出来事を描きながら、スバルの脳は高速で回転を始める。

早急に、意識の切り替えが求められる。つい先ほどまでは多数の魔獣に追いかけ回される修羅場であったことを忘れ、今は目の前の問題に対処しなければ。

目の前、目の前の問題。何が起きるのであったか。

ちっちっちっち、と子猫をあやすような、そんなどこか牧歌的な音が聞こえる。実際の状況はそんな可愛げとは無縁だが、花の香りも相まって思考が阻害される。

臭い、甘い、うるさい、煩わしい、痒い、痛い、熱い、どれが正解だったか。

「――?」

脳が沸騰するほどに巡るが、具体的な方策が何も浮かばない。

つい今しがたまで置かれていた状況と、現在の状況の齟齬に脳が追いつかない。必死に『今』に適応しようとするスバル。その胸に、微かな衝撃。

「――――」

見れば、体重を預けてきていたのは懐に抱いたベアトリスだ。

彼女はスバルの胸の中にすっぽりと収まると、こちらの代わりに握った手綱を見せるように軽く持ち上げる。おそらく、『死に戻り』直後の衝撃で取り落としたものを彼女がキャッチしてくれたのだ。

――直前の『死』が思い出され、ベアトリスの泣き顔と涙声が聞こえた。

「――っ」

そう、そうだ。そうだった。

スバルはすでに、この状況を迎えるのがこれで三度目だ。

自分は二度、ここで死んでいる。一度目は理解できない死を、しかし二度目はある程度、想像の及ぶ死を。だが、死の瞬間の苦しみが判然としない。

内臓が溶かされ、思考が鍋の中でぐずぐずに煮込まれる感覚――あれは。

――否、優先すべきはそこではない。今、優先すべきは、

「ちっちっち……ちぃー」

二度目の『死』にスバルの思考が追いついた直後、メィリィの花魁熊への挑発が終わりを迎える。舌の弾かれる音と指先の動きにつられ、魔獣の視線はゆっくりと竜車を外れて、一行の右側へと誘導される。

そのままのしのしと、花魁熊が離れてくれれば問題はない。しかし、そうならないことをスバルは知っている。

「――――」

遠ざかりかける花魁熊、その鼻先に立たされていた地竜――ジャイアンの息が荒い。

魔獣と直近で向き合わされた圧力と、暴力的に漂い続ける蜜の香り――二種類のプレッシャーが地竜の平常心を苛み、張り詰めた糸が唐突に切れてしまうのだ。

そうして地竜が騒ぎ出せば、刺激された魔獣の群れは一斉に襲いかかってくる。そうなれば、これまでの二度の『死』の再現に他ならない。

「――――」

だが、そのジャイアンの興奮状態に、スバルを除く一行は誰も気付けない。

直前の魔獣の脅威に集中するあまり、手綱を握るユリウスすらも意識を地竜から外している。故に、対処できるのはスバルだけだ。

しかし、どうやって対処すればいい。

声を出すわけにはいかない。とっさに近付き、触れることも無理だ。

ユリウスへ呼びかけ、地竜を宥めさせるのもリスクが大きい。それ以前に、今すぐに決断できなければ間に合わない。どうすれば――、

「――――」

ギュッと、スバルは最後の思考時間を利用して目をつぶる。

この一瞬で何かが閃かなければ、イチかバチか、ユリウスに声をかける。直前の二度の『死』が思い出され、魔獣の猛攻と監視塔の光が脳裏に蘇る。

二度目の『死』の瞬間、泣きじゃくるベアトリスに「一人にしないで」と取り縋られたことも、スバルの胸を深々と刺し貫き――気付いた。

「ベア子、愛してる」

「――っ!?」

後ろから小さな体を抱きすくめ、耳元に小さく声をかける。突然の愛情表現にベアトリスが驚愕するが、その口は手で塞いで叫ばせない。

代わりにスバルは斜め前方のジャイアンに向かって、『手』を伸ばした。

『死』の直前にベアトリスの涙を拭ったように、優しく宥めるための『手』を。

――インビジブル・プロヴィデンス。

口は愛情を囁いていたから、技名は残念ながら心の中だけで唱えた。

途端、スバルの体の中心――ベアトリスとの連携でマナが引きずり出されるのとは別の感覚が蠢き出し、黒い何かが呼び起こされることへ喝采を叫ぶ。

よくぞ呼び出したと、声高に主張するそれは、『怠惰』なナツキ・スバルに代わって目的を成し遂げる、この世に存在しない『見えざる手』だ。

「――――」

生み出される黒い掌はスバルの胸を起点に、ゆっくりと世界に顕現した。無論、その存在はスバル以外には見えない。抱きしめているため、『見えざる手』はベアトリスを貫通して存在しているが、意図せぬ接触には機能しないらしい。

その事実に感心する一方、コンマごとに自分の中の何かが削られるのがわかる。それは魂と呼ばれているものか、あるいは正気と呼ばれるものか、本当のところはスバルにはわからない。ただ、あまり時間はかけられない。かける気も、ない。

するりと伸びる黒い魔手は、今にも叫び出しそうなジャイアンの首へと向かった。そして掌はゆっくりと、その分厚い鱗に守られる太い首を撫でる。

びく、と何者かの接触に地竜の巨躯が震えるが、その掌に敵意がないことを本能が察したのだろう。地竜は荒い息を落ち着かせ、緊張を四肢から抜いていく。

「――うん?」

すると、わずかに身じろぎする気配が伝わったのか、ジャイアンの素振りに気付いたユリウスが手綱を引き、本格的に地竜を宥めにかかる。さすがにユリウスは手慣れたもので、発作的に暴れ出しかねなかった地竜を見る間に落ち着かせた。

それを確かめ、スバルも『見えざる手』との接続を即座に切った。黒い掌は自由を奪われると一瞬で霧散し、何もなかったかのように砂海の渇いた風に紛れる。

「は、ふぅ……」

直近の問題を回避し、スバルは安堵から長い息を吐いた。

同時に胸の中に立ち込めていた、黒い暗雲のようなものも吐き出したい。無論、物事はそう簡単にはゆかず、インビジブル・プロヴィデンスを行使した代償である喪失感のようなものは魂を掻き毟ったままだ。

ただ、その喪失感に胸を抉られながら、スバルは思う。

インビジブル・プロヴィデンス――『見えざる手』を行使した際の代償、その影響による息苦しさや喪失感が、以前に比べて明らかに『楽』になっている。

初めて、スバルがインビジブル・プロヴィデンスを使ったのは『聖域』でガーフィールと戦ったときのことだ。

あのとき、無我夢中で力を解放したスバルは、自分の半身が持っていかれたかと錯覚するほどの喪失感と、意識が不安定になるほどの酩酊感に襲われた。

それはスバルの前に同じ力を使っていた相手への嫌悪感であるとか、そもそもガーフィール相手に殴られすぎていたからであるとかでは言い訳が立たない異変だ。

それはこうした異能――否、権能が使えるようになった経緯も含めて、利用することの危険性をスバルに延々と訴えかけてきた。故にこれまでこの力を積極的に有効活用しようと考えてきたことはない。

オリジナルであったあの狂人の『見えざる手』ほど、スバルのインビジブル・プロヴィデンスには力も手数もない。せいぜい、涙を拭ったり、頭を撫でたりが手一杯。

それで魂を削られるのはコストパフォーマンスが悪すぎる。そう思って、半ば封印してきた手段ではあったのだが。

「馴染んできた、ってことじゃねぇだろうな」

喪失感と嫌悪感の減少に、スバルは安堵よりも不安を感じた。

手持ちのカードは多い方がいい、というのはスバルの持論であるが、ババ抜きで揃わないジョーカーを何枚も持ち合わせてもいいことはない。

もちろん、ババ抜き以外では強力な手札には違いないが――、

「うー、うー、うー」

「……さっきから、ずっと何をしているのかしら」

「ああ? 何って……」

スバルが小さく唸って思い悩んでいると、唐突に不機嫌な声がした。何事かと目を開けてみれば、こちらへ顔を向けてじと目のベアトリスと目が合う。

そしてそのベアトリスだが、珍妙なことになっていた。

「ベア子、何その頭と格好」

「――スバルがずっとベティーの髪の毛と服をコネコネコネコネしてた結果なのよ! なんでこんな辱めを受けなきゃならんのかしら!」

「ええ、俺が?」

悪気なく首をひねるスバルの前で、ベアトリスが声を潜めて猛然と怒る。

その立派な縦ロールはぐしゃぐしゃに乱れ、豪奢なドレスと、そのドレスを砂風から守るための白いマントは奇抜に整えられて、流行の最先端を走っていた。なお、誰もついてこない最先端の模様。

「――自覚ないのが腹立たしいのよ! 不安なのかと思って見過ごしてたらどんどん調子に乗って……その分だと、さっきの……あ、愛の言葉も覚えてないかしら」

「いや、それは覚えてる。ベア子LOVEなのは本音だしな」

「にゃっ!」

率直な言葉に顔を赤くして、ベアトリスはすっぽりと頭をマントで覆った。いじましい姿で実に愛でたいが、今はベアトリスとばかり戯れてもいられない。

スバルの人知れぬ努力の結果、ジャイアンは騒ぎ出さず、メィリィの能力頼みの竜車の行進が再開しようとする。しかし、スバルは花魁熊の隙間を抜け、パトラッシュを御者台へ寄せると、

「ユリウス、メィリィ。一時撤退だ。――分が悪すぎる」

と、二度の『死』を理由に、作戦の練り直しを提案したのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「お兄さんにはがっかりだわあ。ちょっと不安なことがあったぐらいで、こおんなにすぐに逃げ腰になっちゃうなんてえ」

「所詮、バルスはバルスということね。エミリア様の騎士になって少しはマシになったかと思っていたけど、やっぱり性根はそう簡単には変わらないわ。早漏」

「安全策を主張しただけでそこまで傷付けられる謂れがねぇ!」

どうにか花畑を逆走し、『砂時間』突破後の作戦会議の場へ戻ってくると、撤退の判断を下したスバルに急先鋒からの厳しい評価に突き刺さってきた。

花魁熊を手懐け、道を開いていたメィリィ。それから竜車で窓に取りつき、危急の事態に備えていたラムの二人だ。

竜車を停車させ、砂の上で顔を突き合わせる面々の中、自分の意見で行軍を中断させたスバルは小さくなっている。

「でも、スバルの判断は間違ってなかったと私は思うわ。あのままずーっと真っ直ぐに花畑を抜けようとしても、さっきと同じみたいなことはあると思うの。そうしたら今みたいにうまく抜けられるとは限らないし……」

「お姉さんは私の能力を疑うのお? 私より、お兄さんのこと信じるってことお?」

「ここまできたんだもの。二人のことを信じてます。でも、特にスバルの言うことは信じたいかなっていうのが私の意見なの。ごめんね」

「E・M・M……」

メィリィの子どもっぽい反論に対抗し、胸を張ってくれるエミリアたん・マジ・女神である。両手を合わせて崇めるスバル、その傍らでベアトリスが乱れた髪の毛と服装を丁寧に直し、

「それで、結局どうするつもりなのよ? 魔獣娘の加護が怪しいなら、この花畑を抜けるのは無謀が過ぎるかしら。……にーちゃがいれば、別にこのぐらいの魔獣の群れを全滅させるのはわけないかもしれなかったけど、そうもいかないのよ」

「パックがいてくれたら、そうね。私が頑張ってみるとか?」

「それは本当に最後の最後の手段にしたいな。それにここにいる花魁熊を全滅させても、他の魔獣が近寄ってきて無限湧きになるだけな気がするし。どうだ、メィリィ」

水を向けられ、拗ねた顔でいたメィリィは視線を逸らした。

彼女は畳んだ膝の上に顎を乗せて、子どもそのものの態度で、

「なあにが?」

「あの花畑の周り、いたのは花魁熊だけじゃないんじゃねぇのかって話だ。身も蓋もない話をしたら、花魁熊がいなくなっても別の魔獣の住処になるだけだろ」

「……合ってなくも、なくもないかもしれないけどお」

「どっちだ」

「そうよお、お兄さんの言う通りい。でも、だからってどうするのお?」

スバルの指摘を肯定しつつ、メィリィは逆に問い返してくる。

彼女の不満げな視線を受け、口をへの字に曲げるスバルにユリウスが肩をすくめた。

「メィリィ嬢の指摘もわかる。スバルの懸念は順当だが、だからといって不測の事態ばかりに及び腰になっていても得られるものがない。想定して対処できるのであれば、それは不測の事態とは呼ばれないのだから」

「だからって、何も考えずに加護任せにして突貫ってのも話が違うだろ。っていうかそれを提案するならお前のキャラが違う。それはもっとこう、ガーフィールとかの役目だ」

「無論、無策で無謀に走ることを推奨するわけでは決してない。どうすべきか、建設的な話し合いの末に決断されるべきだ。進むか、戻るか、改めて」

花畑に突入する直前と同じように、ユリウスは二本の指を立ててそう述べた。

その仕草にスバルが鼻を鳴らすと、それぞれが事態に対して考えを巡らせる。

「バルスが囮になって、魔獣に貪られている間に突破するというのは?」

「一致団結しろよ」

「ラムたちは助かり、レムから悪い虫も取り除ける。名案だわ」

「俺が貪られてる!」

「やっぱり、私がすごーく頑張ってみんなやっつけるとか……」

「エミリアたんって、案外こういうときに脳筋な結論出すよね」

「ノーキン……え、やだ、急になんなの? 恥ずかしい」

「俺にしては珍しいことに、これは無条件にエミリアたんを褒めたのと違うよ?」

「メィリィ嬢の加護に任せ、進めるところまで花畑を突っ切り……限界がきたところで先制攻撃を仕掛け、監視塔へ駆け込む。というのは賭けの要素が強すぎるな」

「うまくは言えないけど、それ失敗するから。うまくは言えないけど、確実に」

「ふむ……絶対の根拠がありそうな言い方をするものだね」

「さあ、どうかな。うまくは言えないけど」

『死に戻り』の禁忌に触れないよう、突撃作戦を却下するのには骨が折れる。

と、作戦会議というにはいささか進展に欠ける話し合いの途中で、スバルは気付いたことがあって手を打った。

最初のジャイアンショックと、その後の花畑の逆走を優先したために整理することを忘れていたが、そもそも戻る切っ掛けになった二度の『死』の死因だ。

一度目は突然すぎて、二度目は混乱の中で、あまりはっきりとしたことは言えないが――スバルの死因はどちらも、正面にある塔が光ったことと関係している。

「あの塔が光るの、見た奴は誰かいるか?」

「監視塔が光る……?」

スバルの質問に、全員が不思議そうな顔で首を傾げた。

その反応の芳しくなさに、スバルはやはり誰も見ていないのだと唸る。ある種、当然だろう。スバルがあの光を見たのは、正直、『死』の前後だ。あの光に攻撃的な意思があるのであれば、見た者は生きて帰れない。

見敵必殺を実現した攻撃、そう考えるべきだ。

「ナツキくんは、その塔が光るところを見たってことなん?」

「あ? あー、見間違えではないと思うんだが、光ったかもしれないなと」

「それ、いつのことなん?」

「……花畑の中にいたとき、かな?」

アナスタシアの追及に、答えがいちいち疑問形になってしまった。

ただ、花畑の中では声を上げられなかった事情があるため、塔の光のことを黙っていたことは不審には思われなかったようだ。スバルが塔の光を見たのはいずれも『死に戻り』と関連した時間帯のため、これも場合によっては禁忌に触れかねない。

少々、変則的にしか事実が伝えられないのは申し訳ないところだが――、

「塔が光ってたってことは、塔の中の賢者さんがこっちを見てたってこと?」

「そうでなくても夜なんやし、明かりを使ってるんはおかしないやろね」

「なるほど。『賢者』がこちらに気付いているのであれば、こちらの方から敵意がないことを報せるために働きかけてみるのも手かもしれませんね」

ただ、スバルが曖昧に内容をぼかしたことで、エミリアたちの考えは別の方向へ流れていってしまう。当然だが、友好的接触を求めての旅路なのだ。

その光の原因が賢者だとすれば、そうした意見が出るのも当然の流れ。

しかし、その光が決して、こちらに対して友好的なものでないことを知っているスバルからすれば、それは自ら崖に向かっていく暴走に他ならない。

「待て、今さらだけど情報を整理しよう。賢者に呼びかけるかどうかはそれからだ」

「情報の整理?」

「そう、整理。だってほら、アレだ。その光が賢者の生活用の光とは限らない。もっとこう……危ない、サーチライト的な光の可能性だってあるだろ?」

「さーちらいと……」

「つまり、ナツキくんは自分の見た光が、『賢者』の仕掛けた防衛機構みたいなもんの光やないんかって疑ってるゆうこと?」

「そゆこと!」

聞き慣れない横文字にエミリアが疑問符を浮かべる傍ら、アナスタシア=襟ドナがスバルの言葉の真意を読み取ってくれる。と、それを聞いて考え込むのはユリウスだ。騎士は「そうか」と心持ち低い声で呟き、

「賢者が数百年、誇張抜きに永らえているかどうかはわからない。あるいは賢者の残した何らかの遺産が、世界を守るための装置として働いている可能性もあるのか」

「お、おお……そこまでは考えてなかったけど、ありえるな」

「それならば、『嫉妬の魔女』の復活を目論む不逞の輩だけでなく、王国使者団のことさえも寄せ付けない理由に納得がいく。王国に友好的なはずの賢者が、いっそ暴虐と言い換えてもいいぐらい乱行を働くことはずっと疑問だったんだ」

どこか安堵したようなユリウスの言葉に、スバルは「そういう考え方もあるのか」と逆に感心した。

確かに過去の偉人が用意した遺産の防衛システムが、主人を亡くした後も延々と残っており、以降も侵入者を拒み続けるといった展開はありがちだ。魔法器のある世界であれば、そうしたシステムが存在してもおかしくはない。

「ただその場合、この旅が徒労になるから勘弁してほしいところだな……」

「別に賢者が死んでいても、その賢者の残した資料があればいいだけの話よ。世を儚むには早すぎるわよ、バルス」

「姉様の遺跡荒らしっぷりには頭が上がらねぇよ」

ユリウスの想像を肯定した場合、この旅の根底が覆されてしまう。が、そんな可能性に対してもラムの姿勢はぶれない揺れない変わらない。さすがである。

「ともあれ、数百年も眠らずに見張り続けてる……いうんは現実的やなかったけど、それなら可能性はあるかもわからんね。それに賢者シャウラの生き死にを悲観する必要はそこまでないとうちは思うよ?」

「そう? どうして?」

「長命な種族なら、今も生きてるやなんてことぐらい別に驚くことやないもん。うちのエキドナかて、生まれ自体は何百年も前なんやし」

ローブの中に押し込んだ白い襟巻きを引っ張り出し、アナスタシアが笑う。それを受けてエミリアはぽかんとしたが、すぐに自分のペンダントに触って、

「わ、私のパックも長生きなのよ。その、エキドナにも負けてません」

「なんで張り合うの、エミリアたん。まぁ、俺のベア子もなかなかのロリババアっぷりだけどさ。なぁ?」

「ベティーがそれに笑って答えると思うのかしら? 虫唾が走るのよ」

怒り笑いのベアトリスに言われて、スバルは首をすくめた。

そこで、話が逸れているとラムが手を叩く。

「賢者の生き死には議論の外よ。それより、問題はバルスが見た光の正体。これが危険なものなのか、あるいはバルスの錯覚か、結論を出さないと」

「そろそろ、報告の内容が嘘か真か疑わなくていいぐらいの関係性になれないかな、俺たち」

「嘘と決めてかからないあたり、ラムとしては譲歩しているわ」

そうかもしれない、とぼんやり納得してしまうから、進展がないのだろうか。

ともあれ、議論は一周回って光の正体に舞い戻る。

「俺は……あれが危険なもんだと思う。少なくとも友好的なもんじゃない」

「根拠は、勘だけ?」

「……まぁ、そうだな」

「そう。――厄介ね」

監視塔の光――それが二度の『死』の原因だと確信しているスバルだが、その事実を伝えるのには非常に難儀する。故に理由を『勘』で押し切るのは無理があると思っていたのだが、意外なことに、ラムはその返答に真剣に考え込んだ。

そしてそれはラムだけでなく、エミリアやユリウスも同じだ。

「え? あれ、勘だぞ? もっと疑ってかからないのか?」

「これがただの勘ならそう思うかもしれないけど、スバルの勘でしょう? だったらいきなり疑ってみるより、ちゃんと考える意味があるわ」

「あまり自分を卑下しないことだ。君もこれまで、それなりの修羅場を潜ってきた身だろう? そうした人間にしか働かない、ある種の直感は存在する。経験則と言い換えてもいいが……それは、決して馬鹿にしたものではない」

「野鼠は大雨の前に住処を変えるというもの。バルスの勘も馬鹿にできないわ」

「それは十分に馬鹿に……って、そうか」

条件反射の途中で毒気が抜かれて、スバルはなんだか肩の力が抜けた。

情報の出所を明かせない状態で、身内にさえも真実を隠さなければならない不条理。スバルはこれまでにも何度も同じ状況に出くわしてきたが、そのたびに、こうして周りの気遣いと信頼に救われ、同じことを繰り返す。

王都でレムが、『聖域』でオットーやラムが、プリステラでエミリアとベアトリスが、スバルがスバルであることを信じてくれていたのに、またこうして。

「友好的に呼びかけるにしても、手段がないよな。でかい声を出すなんて真似したら、賢者以前に熊さんたちいらっしゃいってなるのがオチだ」

「それは避けたいところだ。そうなると、現実的な手段はエミリア様の魔法を届けること……になるだろうか」

監視塔の方を眺め、ユリウスは右手を伸ばし、片目をつむる。

まるで絵描きが距離感を図るような仕草だ。そして、彼はしばしそのまま沈黙したかと思うと、

「おおよそ、ここから監視塔までは十キロ前後――花畑の手前から、エミリア様の魔法を飛ばすというのも現実的な射程距離ではないな」

「ちなみに、エミリアたんの魔法ってどのぐらい遠くまで飛ばせる?」

「距離? えっと、測ってみたことないからわからないけど……でも、さすがにここからじゃ塔までは届かせられないと思う。当たる前に消えちゃう」

『砂時間』前に見えていた監視塔のシルエットより、現地点からのシルエットは明らかに近付いている。実際、花畑を突っ切った周回では直前まで接近したのだ。

それでも、花畑の手前から塔を狙おうとする作戦は現実的ではない。

「そもそも、こっちの存在を伝えるだけで通してもらえるなら、ラインハルトだって通れそうなもんだ。あいつなら、なんかこう……十キロぐらい先に届く斬撃とか飛ばせるんじゃないの?」

「その可否は彼に聞く以外にわからないが、ラインハルトが挑戦したときには『砂時間』を抜ける、という手順をおそらく踏んでいない。ここまで我々が到達できたのはアナスタシア様が……いや、エキドナがそれを知っていたからだ」

「それもそうか。……ああ、クソ。もっと他に知ってることとかないのかよ」

案が否決されて、スバルは憂さ晴らしのように襟ドナに当たる。すると、アナスタシアを演じる襟ドナは器用に襟巻き状態の自分を動かし、

「そう言われても困るよ。『砂時間』の向こう側に道がある、そう断言できただけでも前人未到の功績だ。もっとボクを褒めるべきなんじゃないかな?」

「辿り着けて初めて道案内でしょ? 途中までは道覚えてたんだけどなぁって、お前はうろ覚えで配達する新聞屋か。仕事になってねぇよ」

「ふむ、一理ある」

スバルの乱暴な理屈に、しかし襟ドナは反論しない。襟巻きは黙り込み、その考え込む姿勢はアナスタシアの方にも伝染する。と、アナスタシアはふいに顔を上げ、

「そうや。そしたら、現時点でわかってることを詰めた方が良さそうやね」

「わかってることってーと……」

「ナツキくんの、危なそうな塔の光もそうやし、塔の手前に広がってる魔獣の花畑もそうやね。あとは三回の『砂時間』と……何かある?」

アナスタシアの並べ立てた、ここまでで判明している情報。

筋道を立てて、結論に至るまでの道を舗装するのは大事なことだ。スバルは腕を組むと、ここまでの旅路と、少しだけ見た先の危険を思い返す。

「今が、夜の『砂時間』を選んで入ってきた場所ってこと。それから、あの花畑を抜けるのは地竜に負担をかけすぎるってこと。あと、メィリィは俺らに黙って何匹か魔獣を連れてきてるだろ」

「うえ!?」

指折り、数えながらそう言ったスバルにメィリィが肩を跳ねさせる。その露骨な反応と小さくなる様子に、全員の視線が彼女に向いた。

それを受け、メィリィは慌てて首を横に振って、

「ま、待って待って。確かにい、お兄さんの言う通りだけどお……なんで、お兄さんはそれを知ってるのお?」

「当てずっぽうだよ。今のは鎌かけしただけだ」

「だが、スバルの想像は正しかったらしい。――どうする?」

ユリウスが静かな声で、背信者であるメィリィの処遇を相談してくる。その態度にメィリィが顔を青くするが、スバルは事を荒立てるつもりはない。

ユリウスを手で制して、メィリィに視線を合わせる。

「安心しろ。別にそれを叱ろうって話じゃない。お前なりの保険ってのはわかってるつもりだ。ただまぁ、疑われる要因にはなったけどな」

「は、離せばいいのお? そおしたら、怒らない?」

「別に逃がす必要もない。つか、必要だと思ったら使ってくれ。花魁熊の群れに囲まれて追われるときとか、すごい助かる」

「――――」

冗談だと思ったのか、メィリィは目を丸くして、そのままこくんと頷いた。それを見届け、スバルはいまだに警戒の目を緩めないユリウスに振り返る。

「子どものすることだぞ。大目に見てやれよ」

「それが扱いに相応のことしかできない子であれば、私も全力でそうしよう。だが、手放しに信用するには彼女の力は強すぎる。ましてや、この魔獣の園ともいえるアウグリアの大地では、ね」

「ならなおさらだろ。竜車じゃお隣さんなんだから、ちゃんと仲良くしてくれ」

スバルがそう言って聞かせると、ユリウスは少しの躊躇いのあと、剣気を収める。

すると、黙るユリウスに代わり、エミリアが手を挙げた。

「それで、スバル。さっきの話の続きなんだけど」

「ん、はいはい。続きね」

「花畑を抜けるのがダメってなると……どうするの? 別の『砂時間』で同じことを試してみて、違うところに出るかやってみる?」

「それも手、だけど……俺はちょっと、試してみたいことがある」

「試してみたいこと?」

スバルの考えに思い当たる節がないのか、エミリアはきょとんとしたまま首を傾げる。そのエミリアの傾げた首と角度を合わせ、スバルは花畑の方角――監視塔の方まで埋め尽くす花々の海、その端へと目を向けた。

無論、その端は見えないのだが――、

「どっかで花畑が途切れてるとしたら、少なくとも四方八方から狙われる心配だけはなくなるわけだ。端っこがあるかどうか、試す価値はあるんじゃねぇかな?」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――花畑の端っこを確かめにいこう、という目論見の参加者は全員になった。

「バラバラに行動して、逸れてしまっては元も子もない。それに、だ。メィリィ嬢の手助けなしに魔獣の直近を進ませるのは気が進まないな」

というユリウスの言い分が、全員の賛成を得たからである。

これに関してはスバルも同意見であり、一人でいく手軽さよりも安全性の方を優先することにした。

「さて、そろそろデッパツといきたいとこだが……」

出発の準備を各々が整え、竜車と地竜にそれぞれ乗り込む。

向かう方角は左、監視塔のシルエットを常に右側に置くことを約束事とすると、一行が確かめに向かうのは北ということになるだろうか。

もっとも、それは砂丘の中、東西南北のルールがいまだに守られていればの話になってくるのだが。

「落ち着いて考えると、ここも大概、不思議時空なんだよな。『砂時間』の中を抜けたらここに辿り着いてました、ってのは『扉渡り』に近いし……」

「スバルの言いたいことはわからなくもないのよ。確かに空間と空間を歪めて、物理的な距離を曖昧にするのは『扉渡り』の応用でもあるかしら。ベティーも一度、スバルに仕掛けたことがあるのよ」

「お前が俺に? いつ?」

「……忘れもしない、初対面のときかしら」

「初対面の……あー! ロズワールの屋敷で、あの無限ループしそうな廊下を一発クリアしたときか! あんときは悪かった。お前が一生懸命に準備してくれたのに、その頑張りを踏み躙るようなことして……ごめんな?」

「なんか本気で謝られてるのが本気で腹立つのよ! 忘れるかしら!」

「お前が思い出させたんじゃん……」

「むきー! なのよ!」

相乗りするベアトリスが何故か怒り出し、スバルは女の子特有の扱いの難しさに眉を寄せるしかない。とりあえず抱きしめて落ち着かせると、パトラッシュに命じて竜車の方へと歩み寄る。そして、

「そっちの準備は?」

「問題なく。あとは、エミリア様に一仕事していただければ」

「そうだな」

御者台で準備を終えたユリウスに頷き、スバルは屋根の方を見上げる。花畑の行軍の際と同じく、エミリアの位置は竜車の屋根の上に固定だ。

なんだか高いところに立ってご満悦に見えるエミリアに手を挙げ、スバルはここまでと同じように『目印』の設置をお願いする。

「エミリアたん、ここにお願い。とりあえず、ここが俺たちのベースキャンプ。できるだけ静かに……こう、魔獣を刺激しない感じで」

「ん、わかってるわ。これで魔獣を起こしちゃったら、せっかく静かに離れた意味がなくなっちゃうもんね。静かに静かに、静かーに」

スバルがゆっくりと、大きく腕を動かすジェスチャーをすると、エミリアもそっくりそれを真似して、砂の大地の上に見る見るうちに氷の塔が出来上がる。

静かに進めよう、という判断に嘘はないらしく、実際、作り上げられる氷の塔は速度は緩やかで、空気の張り詰めるようないつもの音も聞こえない。いくらか弱気な部分が出て細い仕上がりにはなったが、無事に役目を果たせそうだ。

「大丈夫、かな?」

「OK、問題なし。さすがだ、エミリアたん」

不安げなエミリアに大きくОとKを作ってみせ、スバルは花畑の方を窺う。

魔獣たちがマナの働きに敏感な場合、あるいはこれにも反応があるかもしれないと怖々と確認したが、幸い、花畑からは蜜の甘い香り以外のアクションはない。

どうやら、かなり鈍い連中らしい。

「今さらだけど、あいつらはああやって花畑に扮して何がしたいんだ……? 擬態のつもりなら、砂の上でやってる時点でおかしいってならないもんなのか」

「魔獣にそこまで細かい知能を期待するもんじゃないかしら。あいつらは基本、本能に刻まれたこと以外は何もできないし、しやしないのよ。そういう生き物かしら」

「さよけ。そりゃ、ずいぶんと――」

懐で辛辣な評価を下すベアトリス。その言葉に頷きかけ、スバルは花畑から視線を逸らし、出発の号令をかけようとして――気付く。

花畑の方へ向けた視界の端っこで、花畑とは違う場所に変化があった。

監視塔が、光ったのだ。

「――エミリア!!」

「――!?」

とっさのことにスバルが声を上げ、屋根の上にエミリアに呼びかける。その声の緊急性にエミリアが身を固くする。だが、光の結果はそれを上回る。

「――っ!?」

激しく甲高い音を立てて、氷の塔が何かの直撃を受けて木端微塵に吹き飛んだ。

細長く、十数メートルは高さのあった氷塔は決して脆いものではない。しかし、攻撃はまるで砂の城を崩すかのような容易さで氷を砕き、マナへと還元する。

――またしても、見えなかった。だが、理解した。

「やっぱり、あの光は攻撃――」

「スバル! 次がくるのよ!」

砕かれる氷の破片を体に浴びながら、スバルはベアトリスの呼びかけに首を曲げる。直後、またしても監視塔が光り、直感する。

光の次の一撃は、スバルを狙って放たれた。

――光は瞬きすら許さぬ速度でこちらへ迫り、一撃を以て急所を抉る。

その絶望的な威力の程は、すでにそれによって死を迎えたスバルが知っている。

故にその光に標的にされたと脳が判断した瞬間、『死』は決定付けられていた。

「――――」

光が真っ直ぐ、スバルの額へと突き込まれる。

風すら置き去りにし、音もなく獲物を串刺しにするそれはまさしく『死』そのもの。ナツキ・スバルはまたしても、為す術もなく無残にそれに殺される。

「――E・M・M」

「かしら!」

――狙われた瞬間、ナツキ・スバルがたった一人であったなら。

快音が響き、スバルに直撃したはずの攻撃が弾かれる。

原因は至極単純に、スバルの強度がその攻撃の威力を上回ったためだ。

『E・M・M』は、スバルがベアトリスと開発した三つのオリジナル・スペル。

その内の一つである、『絶対防御魔法』だ。

E・M・Mの発動中、スバルは身動きができなくなる代わりに、外部からの一切の干渉を受け付けなくなる。ベアトリスの陰魔法の技術と知識を総動員し、限定的にスバルの周囲の時間と空間を弄った結果である。

「あのゲス野郎と似た効果ってわかって、ちょっと気が引けるけど――ぶあ!?」

大罪司教『強欲』のレグルスは、心臓の譲渡によって肉体の時を止めていた。

E・M・Mは言ってみれば、その下位互換のような能力と言える。ただし、心臓が止まるような弊害はないし、マナが尽きない限りはいくらでも無敵でいられる。

もっとも、この状況では時間稼ぎ以外の手立てがない。

「ただ、ごえ!? 時間稼ぎぐるぉ!? 大事なことぶえる!?」

「ちょ! スバル、悲鳴ばっかなのよ!? 大丈夫かしら!?」

スバルの後ろに回り込み、その体を盾にするベアトリスの心配する声が上がる。それもそうだろう。なにせ、防御されていても音と衝撃は伝わる。

E・M・Mを発動後、監視塔の光はスバルが死なないのが不思議なのか、まるで確かめるように何発も何発も、連続して攻撃を撃ち込んでくるのだ。

「ご!? ば!? ろど!?」

その連射の速度と、狙いの正確性が尋常ではない。

当たったことの痛みや打撃力はスバルの体に残らないが、悲しいかな、何かが当たれば条件反射で苦鳴を上げてしまうのが人間の性だ。

「スバル――! もう……ええい!」

集中攻撃を浴びるスバルを見て、エミリアが屋根の上からこちらを援護する。

監視塔の攻撃からスバルを守るように、砂の地面からせり上がるのは分厚く巨大な氷壁だ。おそらく、エミリアが一瞬で作り出せる最高硬度の防御壁。

それは狙い違わず、スバルに撃ち込まれる攻撃への盾となるが――、

「嘘!?」

「あの氷壁でも歯が立たないのか!」

エミリアの悲鳴とユリウスの驚愕、それが示す通り、氷壁は一発で砕かれる。

信じ難い威力――だけではない。氷壁を貫通して、いくらか勢いの衰えた光がスバルへ激突。跳ね返るそれが何本も砂地に突き刺さり、砂が白い煙を噴いた。

見ればエミリアの氷壁の破壊痕も、穿たれたというより溶かされている。

「熱? 熱が、氷を焼いたのか?」

「地面に落ちたあれって……針?」

その攻撃の詳細を見て、エミリアとユリウスは同時に別の結論を得る。

だが、その間にも攻撃は続いている。スバルは常軌を逸した量の攻撃を浴び、無敵状態といっても限度を超えていた。

「スバル! マズいことがあるのよ!」

「聞きたくぶふっ! ないんだけどろっぽ!」

「このままだと埒が明かないのと、もうすぐマナが尽きるかしら!」

「もう!?」

「カツカツなのよ!」

ベアトリスの叫びに、スバルは撃たれながら奥歯を噛んだ。

無論、ベアトリスの伝えたいことは、『マナが尽きるから年貢の納めどきかしら』ということではない。『マナが尽きるから、反撃すべきかしら』だ。

「やれるか!?」

「愚問かしら!」

問いかけに、できないとはベアトリスは応じない。

頼れる相棒の答えにスバルは噛んだ奥歯を解放し、覚悟を決めた。

「三番目は不完全……二個目の方でいくぞ!」

「喰らった直後、E・M・Mを切っていくのよ」

時間はない。

スバルはエミリアへ目配せし、エミリアはそれを受けて頷いた。具体的な方策を話し合う時間がない。だが、伝わったと信じる。

「――ごっ!?」

光が走り、またしてもスバルはその直撃を受ける。E・M・Mの発動中のため、その攻撃は通らない――それが、ここで解除される。

オリジナル・スペルはいずれも、日に一度しか使えない限定的な切り札だ。E・M・Mを解除した以上、スバルはあの光に対する防御機能を喪失する。

そして次弾が届く前に、反撃を実行しなくてはならないが――、

「光っ――」

まるでスバルの行動を読んだかのように、光の次弾の放たれる速度が速い。

これまでと間隔の違う速度と威力は、明らかにスバルを仕留めにかかっている。当然、スバルの紙の防御力では一発、直撃されるだけであの世行きだ。

それを――、

「止まって――っ!」

スバルの前に多重展開される魔力の渦、それが立て続けに氷壁を砂地に作り上げ、一枚で足りなかった防御が同時に六枚作り上げられる。

その六枚の防御に、光が真っ直ぐに吸い込まれた。一枚目はあっさりと、二枚目も易々と、三枚目もないもののように突破される。

しかし、四枚目にはわずかな抵抗があり、五枚目に至ってはコンマだけ耐えた。そして最後の六枚目で、明らかに光の速度が鈍る。――だが、越えられる。

六枚目の氷壁を突き抜け、光が無防備なスバルの額へ突き刺さる。

――その寸前に、騎士剣が半円を描き、速度の鈍った光を捉えて切り払う。

「生憎と、彼が傷付くと悲しむ女性が何人もいる――」

竜車からこちらへ駆け込み、危険も顧みずに剣撃で光を払ったユリウスだ。

エミリアの防御で弱らせ、ユリウスが止めた。

その合わせ技にわずかに嫉妬しながらも、スバルの準備が完了する。

「いくぞ! 第二弾! 絶対無効化魔法『E・M・T』!!」

砂対策に被っていたフードを跳ね上げ、スバルが大口を開いて詠唱する。

すると、背中に隠れていたベアトリスがスバルの内側からマナを引きずり出し、スバルのものと自身の魔力を掛け合わせ、新たな魔法を作り出す。

「――――」

次の瞬間、スバルとベアトリスを中心に淡い光が拡大し、それが竜車を含んだ十数メートルほどの球形のフィールドを形成する。

出来上がったそれは見た目には透明な、光の球に自分たちを包んだに等しい。

しかし、その効果は絶大だ。

「これは……」

驚くユリウスの前で、再び監視塔から光が放たれる。目の端にそれを捉えた彼はとっさに剣を構えたが、すぐに目を見開いた。

光は真っ直ぐ、スバルを狙って直進し、この光のフィールドの中に飛び込んで、その瞬間に勢いをなくした。弾丸すら上回る圧倒的速度が見る影もなくなり、現実に残されるのは速度も威力も失った、白く細長い奇妙な物体だけだ。

それはあっさりと、剣を振るユリウスに弾かれ、砂の上に落ちて霧散する。

「針、か?」

「そのようだ。いや、それよりもスバル、この魔法は……」

「待て待て待て! 話したいことは山ほどあるけど、今は撤退が先だ! すぐに竜車に乗り込め! ここから逃げるぞ! 長くもたないんだよ!」

「――! わかった! 急ごう!」

緊急性の高い呼びかけに、ユリウスは疑問を引っ込めて竜車へと飛び乗る。即座に手綱を握ると、竜車は『砂時間』の向こうへ頭を向けた。

監視塔へ向かうのは今は自殺行為だ。これが正しい判断と、信じるしかない。

「いくぞ! 俺から離れすぎるな! この光の中にちゃんと入ってろ!」

「わ、スバル、すごい! 何本も光が飛んできてるのに……」

走り出した竜車の上で、屋根にしがみつくエミリアがスバルを見て驚いている。

どうやら効果なしとわかっても、光はその後もスバルへ追撃を続けているらしい。だが、どれだけ攻撃を繰り返しても、光はE・M・Tのフィールド内に入った瞬間にそれまでの力を失い、そのまま砂に落ちるだけだ。無力化、完了である。

「それにしても凄まじい力だ。これが、君とベアトリス様の切り札なのか?」

「切り札の一個だ! 言っとくが、ネタバレするつもりはねぇよ! それより、今はとにかく監視塔から遠ざかるのを優先しろ! いや、マジで」

「陰魔法の応用だとは思うが、まさか範囲内のマナによる影響を無効化しているのか? だとしたら魔法使いに対する天敵……いや、技能の補助にマナを利用している者にとっては、君は恐るべき存在だ」

「言っとくが、相対的に有利になったように見えるだけで俺が強くなってるわけじゃねぇから。素でケンカ強い奴には普通に負けるぞ。これはいつか、ロズっちに痛い目見せてやろうと思って開発した能力でな」

称賛するユリウスが本気で感服した様子なので、スバルも少しいい気分になる。

もちろん、それには監視塔の攻撃から逃れたという安堵感も手伝っていたのだが、いずれにせよ、『油断』以外の何物でもなかった。

ただ、この時点でその『油断』のもたらす結果に気付けたものはおそらく、それこそスバルですら不可能だったため、誰も責められないだろう。

「スバル! このまま花畑の前の砂丘に戻るの?」

「ちょっとしんどいけどそうしよう! とにかく、対策を練って――」

そう言って、『砂時間』が渦巻く砂風の中へ戻ろうと駆け戻る途中――E・M・Tのフィールドが触れた瞬間、『世界』が破けた。

「あ――?」

「しまったかしら!」

それまで、襲撃を越えた安堵に体を預けていたベアトリスが跳ねる。

彼女は正面の景色、破けていく夜の砂丘を睨みつけて、声を震わせる。

「空間の捩れが、E・M・Tで無効化されるのよ!」

「え?」

「言ったはずかしら! ここの捩れは、ベティーが屋敷で見せた『扉渡り』と似たようなものだって。つまり、歪んだ空間が元に戻るのよ!」

「それはどうなるって意味――」

スバルの問いかけは最後まで続かず、ベアトリスのしがみつく感触だけがある。

そのまま、『世界』は乱雑に紙を破くように裂かれ、ほどけていき、その亀裂の中にパトラッシュごとスバルたちを、竜車ごとエミリアたちを、呑み込む。

「ヤバい……エミリア!?」

「スバル――」

暗闇の中へと放り込まれ、重力の干渉を見失ってスバルは叫んだ。

上下左右がわからなくなり、竜車がどこにあるのかわからない。ただ、スバルの叫びに呼応したエミリアの声が、遠くなるのが聞こえて。

「これは――」

マズい、と言い切るよりも先に、破けた空間の向こう側に放り出された。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

花畑と砂海の境が破けてほつれ、その中に小さな集団が呑み込まれるのが見えた。

「――――」

遠目に、遠目に、それを見つめ、影は塔の中で蠢いた。

身を寄せていた窓から遠ざかり、石畳を踏みしめて、螺旋状の階段を下る。

その足取りはゆっくりと、しかし徐々に早くなり、逸る。

「――見つけた」

と、それは何年も言葉を口にしていなかったような、掠れた呟きを漏らした。

ただ、その響きが歓喜であろうことだけは、誰も聞き間違えはしないだろう。

「見つけた」

それだけは、確かだった。

第六章13 『砂の嘲笑』

――空間が歪み、世界が破け、生じた裂け目の中に真っ逆さまに落ちていく。

まるで薄紙を破くような容易さと切れ目を晒し、あっさりと裂ける世界。

頭から歪みの中に呑み込まれるスバルの鼓膜には、その盛大な視覚効果とは裏腹に何の雑音も飛び込んでこない。

聞こえたのは自分の叫ぶ声と、誰かが自分を呼んでいた声。

それすらも遠くなり、やがて聞こえなくなる。

触れ合っていた感触も遠ざかり、指が引き剥がされ、距離が離れる。

このまま、誰もいない、何もない場所に投げ出され、一人になるのだろうか。

そんな寂しさと悲しみに苛まれながら、スバルの意識はゆっくりと浮上していた。

そして――、

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――いつまで寝ているの。いい加減に起きなさい、バルス」

「ぽろろっか!?」

脇腹に鋭い感触が突き刺さり、衝撃にスバルは悲鳴を上げた。

思わず上体を跳ねさせて起き上がると、体中にまとわりついた砂が埃となって舞い上がる。咳き込み、口の中の砂利を吐き出した。

「うぇ! ぺっぺ! かーっ! ぺっ! なんだ? どうなった!?」

乱暴に目を擦り、立ち上がりながら周囲を確認する。と、足場の悪さに立ち上がろうとする膝が笑った。足下、それは変わらず、粒子の細かい砂の海だ。

意識を失う直前のことが蘇り、スバルはここがアウグリア砂丘の延長であると判断する。しかし、見渡す周りの光景は判然としない。何故なら暗い、暗すぎるのだ。

手元すら危うい暗がりの中、スバルの目が捉えたのは人工的な光の存在だけ。

「この非常時によく寝入っていられるものだわ。呆れて物も言えないわね」

辛辣な声が降ってきて、光の持ち主は小さく鼻を鳴らす。

光を放っているのは魔石細工の一種で、ラグマイト鉱石を加工した照明はカンテラのような道具だ。その光に照らされる顔を見て、スバルは眉根を寄せた。

「――ラム、か?」

「他の誰に見えるの? レム、だなんてつまらない答えは期待していないわよ」

「……レムとお前は顔は似てても、内面から滲み出るもので似ても似つかねぇよ」

いつも以上に辛口に思えるラムの言葉に応じ、スバルは改めて膝を払う。それから彼女の差し出してくるカンテラを受け取り、軽くあたりを照らしながら見渡した。

「ここ、どこだ? 何があった?」

「ここがどこかはラムの方が知りたいぐらいね。何があったかについては、バルスの想像よりも三歩は悪いわよ」

「それは俺が楽観主義者と期待してか? 悲観主義者だと睨んでか?」

「この場合、どっちの方がいいのかしらね」

返答はおそらく、肩をすくめる仕草が入っていたはずだ。

すぐ傍らにいるラムの様子すら確実ではない暗闇の中、照明に照らし出される空間はやけにだだっ広い。おそらく、空洞か何かの中に入り込んでいるようだ。

頭上にはうっすらと高い天井があり、地続きの壁が奥行きの広さを証明している。

「外気を感じないし、空も見えない。どっかに放り込まれたってことか……?」

「分断される前のベアトリス様のお言葉が確かなら、空間の歪みが原因でしょうね」

「分断……そうだ、分断! 他の連中は!?」

淡々と、無感情なラムの言葉を聞いているうち、理解が現実に追いついた。

スバルは照明を右へ左へ動かし、ラム以外の人影を周りに求める。しかし、その証明に照らされる空間に、望んだ姿はどうやっても映り込んでくれなかった。

「見ての通り、分断されたわ。監視塔までのまやかしをバルスの魔法が無効化……その結果、正しい道に入り込んだのか、それとも時空の歪みに閉じ込められて、永遠にここをさまようのかはわからないけど」

「言ってる場合か!? なんでそんなに落ち着いてんだよ! 俺とお前の組み合わせってことは……完全にランダムで飛ばされてるんだぞ!?」

静謐なラムの説明に、スバルは顔を青くして声を荒げた。

ベアトリスが叫び、目の前の空間が破けたことはすぐに思い出せる。その裂け目はスバルたち一行を丸ごと呑み込み、別の空間へと引きずり込んでいった。

そのとき、スバルとラムは同行者ではあったが、別のグループにいたはずだ。スバルはパトラッシュに跨り、ラムは竜車の中にいた。

「この分断だと、触れ合っていたことは同行する条件にはならないようだわ。裂け目に入り込む瞬間、ラムはレムを抱いていたはずだけど……この様だもの」

「俺にもベア子がしがみついてたはずだ。それなのに見当たらない……見当たってないよな? まさかここ、俺とラムしかいないのか? どういう組分けだよ」

分け方の条件が接触でないなら、何らかの理由があるのだろうか。

今回のグループは全部で八名。スバルとラムだけが抱く共通点として、特筆すべき理由はないはずだ。やはり、完全にランダムな組分けだというのか。

「いや、条件の推測は今は後回しだ! そんなことよりも、今はみんなとの合流を急がなきゃ……違う! もっとやらなきゃいけないことがある! レムだ!」

「――――」

「俺とお前は二人だからまだマシだ。他の連中もそれぞれ、誰かしらと一緒に分かれてるならまだ希望がある。でも、もしも一人になってる奴がいて、それがレムなんてことになったら……最悪だ」

エミリアやユリウス、今回の一行の戦闘力を一手に担った二人は問題あるまい。

メィリィやベアトリスも、それぞれの能力で単独ならばなんとかする。アナスタシア=襟ドナに関してはおそらく、『色欲』を撃退した切り札があるはずだ。

他の面子はいっそ、スバルとラムの組み合わせよりもマシといっていい。

――だが、レムだけは話が別だ。

レムだけは完全に、他の面子と違って自立行動ができない。

仮に誰かと一緒であっても、眠り続ける彼女を守りながら行動するのは至難の業だ。そして最悪、分断されたレムがたった一人きりになっていたとしたら、それはこの寂しい砂の海で『死』を待つだけの存在となりかねない。

「俺たちが他のみんなと合流するのも大事だが、最優先はレムの確保だ! 俺はあいつを、こんな寂しい場所に置き去りになんかできない。それだけは絶対に……絶対にダメだ。絶対に、ダメだ……!」

「……バルス」

「俺が連れてくるなんて言ったから……『賢者』に会わせれば起こせるかもしれないなんて考えて、それでこんなことに。ダメだ。絶対に、クソ、レムだけは……!」

「バルス、落ち着きなさい。今は焦っても……」

「なんでお前はそうやって落ち着いてんだよ! レムのことが記憶からすっぽ抜けてるからって、心配じゃないのかよ!?」

「――っ! そんなわけがないでしょう!」

最悪の可能性を想像し、口早に絶望的な未来と悔悟を並べ立てるスバル。そのスバルの言葉に、ふいにラムが耐えかねたように爆発する。

彼女は混乱するスバルの胸倉を掴むと、背後の砂の壁に強引に押し付けた。

「レムを心配しているのが自分だけだとでも思っているの? 図に乗るんじゃないわよ、バルス。実感がなくても、ラムはレムの姉よ。馬鹿にしないで」

「――――」

「……あの子とは、微かに繋がってる感覚がある。だから少なくとも今は無事よ。それだけ信じて、ひとまず落ち着きなさい」

感情を剥き出す、そんな表情ではない。しかし、平静を装うとする瞳に隠し切れない焦燥と憂いがあるのを見取って、スバルは固くしていた肩から力を抜いた。それを察してラムも腕をどける。壁から解放され、スバルは俯いた。

「……悪い。ごめん。ホントに、今のは俺が馬鹿で最低だった」

「大体、いつものことよ。バルスがただ生きてるだけで反省ばかりしていたら、それだけで一日が終わるわ。無駄なことはやめなさい」

「……ああ、悪い」

その舌鋒がラムなりの手打ちの証と感じて、スバルは最後に一つだけ謝る。それから思いっきり自分の頬を叩いて、気合いを入れ直した。

レムの現状の無事はラムが保証したが、それでも彼女が一人きりでいる不安が拭えたわけではない。早く皆と合流しなければならない状況は変わらないのだ。

「とにかく、合流を急ごう。ラム、その共感覚でレムの場所とか探れないのか?」

「難しいわ。あの子が眠っているから、伝わってくるのは鼓動ぐらいなのよ。他の手段なら『千里眼』があるけど……それも、あまり当てにならないわね」

「どうしてだ?」

「この砂丘、魔獣だらけで普通の動植物がほとんどいないわ。『千里眼』はラムと波長が合わないと視界を借りれない。魔獣とは重ならないわ。今回の顔ぶれだと、ラムが目を借りれるのはバルスの地竜ぐらいのものね」

「パトラッシュか。いや、それでも十分だろ。パトラッシュとかジャイアンも、誰かと一緒にいるなら確かめておきたい。特に竜車は丸ごとあると助かる」

「……それは、あまり意味がないわ」

乗り気でないラムの態度に、スバルはもどかしさを感じて首をひねる。今は合流に向けて、一つでも多く情報が欲しいタイミングだ。

それなのにここでそれを渋る、ラムの心情が理解できない。

だが、その真意を確かめる言葉を口にするよりも、答えが現れる方が早かった。

「――?」

ふいに視界の端に過ったのは、スバルの手にするカンテラとは別の光だ。

視界の端を過る光に嫌な記憶が鮮やかだったスバルはとっさに身をすくめるが、姿を見せた光はそれとは無関係の、緩やかな動きに揺られるものだった。

光は次第にこちらへ近付いてきて、やがてゆっくりとその輪郭が鮮明になると、

「ラムさんとナツキくん、話し合いは終わったみたいやね?」

「――アナスタシアと、パトラッシュ?」

聞き慣れたカララギ弁が降ってきて、スバルはわずかに首を持ち上げて驚く。見れば正面、スバルのものとは別のカンテラを片手に、パトラッシュの背に跨って揺られているのはアナスタシアだ。

そのアナスタシアの問いかけに、ラムはその場でローブの裾を摘まんでお辞儀する。

「ご配慮ありがとうございます、アナスタシア様。それで、周囲の様子は?」

「ちょぉっと奥まで見てきただけやけど、他の子ぉらは見当たらんね。ここいらに飛ばされたんはうちたち三人……と、この子だけみたいや」

「そう、ですか」

「気ぃ落とさんようにせんとあかんよ。気休めにもならんかもやけど」

「お気遣いありがとうございます。ええ、わかっている……つもりです」

竜上からのアナスタシアに、ラムは丁寧にそう応じた。その会話の流れで、スバルはかろうじてアナスタシアが周囲を見回っていたのだと判断する。

が、納得がいくのはそこまでで、説明不足には納得がいかない。

「おい、ラム。ここにいるのはお前と俺の二人だけじゃなかったのか? どういうことだよ、説明しろ」

「ラムは一度も、ラムとバルスの二人きりだなんて言った覚えはないわ。バルスが勝手にそう判断して興奮していただけでしょう。見苦しい」

「レムが心配すぎて配慮に欠けた、って言った方が可愛げがあるぞ、姉様」

「ハッ」

スバルの物言いに、ラムがいつもの調子で小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

その態度に復調を感じつつ、スバルはアナスタシアの方へ歩み寄る。

「謀られたのはともかく、アナスタシアが無事だったのは朗報だ。安心したぜ」

「その謀とうちは無縁やから誤解せんといてな? うちも一人やなしでホッとしとるよ。それにナツキくんの地竜、パトラッシュちゃんがいい子で助かったわ」

鞍に足をかけ、アナスタシアがおっかなびっくりパトラッシュから降りようとする。と、パトラッシュはその場にゆっくりとしゃがみ込み、降竜を手伝った。

さすが、できた地竜。イケ地竜である。雌だけど。

「他に隠れてる奴はいないよな? 正真正銘、俺たち四人だけ?」

「パトラッシュちゃん含めて、四人で間違いないよ。エミリアさんやユリウスが出てこん理由ないし……まぁ、メィリィちゃんはわからんけどね」

「この騒ぎに乗じて逃げ出してるかもってか。……ないとは言わねぇが」

脳裏に三つ編みの少女を思い描き、スバルはメィリィの選択に考えを巡らせる。

分断直前、メィリィはこっそりと魔獣を従えて保険にしていたことをスバルに暴かれている。『死に戻り』したスバルは、実際にメィリィがその魔獣で、監視塔からの攻撃や花魁熊の群れから竜車を守るために使役したことを知っている。

ただ、それは今回の周回では起きていない出来事だし、本来、メィリィが何の目的で砂蚯蚓を従えていたのかは彼女の心の中にしか答えがない。

こうした状況になった以上、メィリィが一行から逃れて、一人で砂丘を離脱しようと試みてもそれはおかしくはない。

「けど、それはしてない……と、俺は思ってたいよ」

「期待? それとも、まさか信頼なん?」

「願いってとこにしといてくれ。それより、周りはどうなってたんだ?」

メィリィに対するスタンスはさて置き、スバルはアナスタシアに捜索の報告を求める。彼女はローブの袂に手を入れて、「それがやねぇ」と首を傾げた。

「うちの見たところ、砂丘の中なんは間違いないんやけど……たぶん、ここって地下なんやと思うんよ」

「地下? 砂丘の、さらに地下ってことか?」

「砂丘の砂の下っちゅぅことやね。洞窟……やなしに空洞って話になるけど、地上と比べて明らかに気温が低いのと、空気が重たい」

合わせたローブの前を揺すぶり、肌寒さをアピールする仕草にスバルは頷く。

確かに現状、こうして過ごす空間の肌寒さは寸前の場面よりはるかに強い。高い天井と空の見えない空間、その推測にも辻褄が合う。

「砂丘の地下……嫌な予感がするわね。砂蚯蚓の穴倉じゃないことを祈るわ」

「う……それは……」

考えられる話だ。

実際、地中に生息する砂蚯蚓の存在は目の当たりにしているし、メィリィの使役した個体の巨大さを考えれば、この空洞は十分な大きさがある。目のない砂蚯蚓の生態を考えれば、この明かりのない空洞の闇もぴたりと一致だ。

「っていうかこのチーム、戦闘力に難ありすぎるだろ……俺とラムとアナスタシアって、わざわざ非戦闘員で固めたのか!?」

「エミリア様の騎士の身で、堂々と自分を非戦闘員扱い……これはダメね」

「現実を弁えてると言ってくれ。ベアトリスなしで自惚れるほど、俺は自分の鞭捌きに自信はねぇよ」

自衛手段のある面々と比べると、本当に戦闘力に欠如したメンバーだけが揃っている。制限付きのラムと、ベアトリスを欠いたスバルは言うに及ばない。

「ちなみに、そのベアトリス様は? 契約者なら繋がりを感じないの?」

「生憎、俺とベア子は心では強く結ばさってるが、現実的な感覚は伴わない。いや、前にベア子は俺を感じるって言ってたけど、俺からは無理だ」

「使えない」

「うるせぇよ」

嘆息するラムから顔を逸らし、スバルはそっとアナスタシアに顔を寄せる。そして平然としている彼女の横顔に小さく囁いた。

「で、お前は戦えるのか? どうなんだ?」

「――いざとなれば、もちろん戦うとも。ただ、アナの命を削ることになる。ボクとしてはできるだけ避けたい。君たちに期待させてもらうよ」

「その期待は裏切られるぜ。良い意味か悪い意味かはわからねぇけどな」

一瞬だけ、エキドナの顔になったアナスタシアにスバルは鼻を鳴らした。

それから静かに指示を待つパトラッシュへ顔を向け、その鼻先を掌で撫でる。漆黒の地竜は無言のまま身を寄せ、その固い鱗をスバルに擦り付けた。

「痛い痛い……けど、安心した。エミリアにベアトリスも抜き……でも、お前がいてホッとしたよ。しかし、本格的に組分けに意味がなさそうだな」

「――バルス」

パトラッシュと不安を分け合い、ラムからの呼び声に振り返る。すると、ラムはスバルに向かって腕を組み、アナスタシアのきた方向へ顎をしゃくった。

「いつまでもジッとしていられないわ。他の人たちと合流するためにも移動しましょう。幸い、アナスタシア様のおかげで明かりはある。ラムたちは進めるわ」

「おお……って、そういや、この明かりはアナスタシアが持ち出したのか?」

「竜車が呑まれる直前に、ナツキくんの用意してた非常袋だけ掴んだんよ。おかげで明かりと、ナイフと、非常食だけは持ち込めたわけやね」

アナスタシアがパトラッシュを指差すと、鞍に小さな非常袋が引っかけられていた。それはスバルが『非常持出し用』として、竜車に備えておいた文字通りの備品だ。

役立つ機会がこなければ、と思いつつも役立った現状にホッとする。

「やっぱこの手の知恵って馬鹿にしたもんじゃないよな。……これからも、初めて泊まる場所じゃ最初に非常扉の確認するのを忘れないようにしよう」

「戯言はともかく、バルスのお手柄でもあるわ。さ、褒賞に明かりを持たせてあげるから、キリキリと先導なさい」

「へーい……って、これ褒賞?」

カンテラを渡されて、ラムとアナスタシアの二人がパトラッシュの背に乗る。

この図式、どう考えてもスバルが従僕のポジションだ。

「さすがに三人乗りは……うんとうちとラムさんが詰めたらいけるかな?」

「やめておきましょう、アナスタシア様。密着できるとなると、バルスがこれ幸いに体を押し付けてくるのが想像できます」

「想像するのは勝手だけど、そっちがそうくるなら俺はもっとすごい想像するからな! 脅しじゃねぇぞ! 思春期舐めんな!」

中指を立てて強硬に主張すると、さすがのアナスタシアも苦笑いだ。ラムの方の反応は相変わらずだが、スバルはカンテラ片手に空洞の奥へと歩き出す。

まるで状況を忘れたような、スバルとラムの軽口と言い合い――それはきっと、互いの心の中にある不安を直視しないように、空回りするほど虚勢を張っただけ。

そのことはたぶん、二人とも気付いていて、何も言わなかったけれど。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

歩きづらさに苦心しながら、砂の大空洞をスバルたちは進んでいた。

さすがにパトラッシュは慣れたもので、背中に重石を二つ乗せていようと動きには何の問題もない。スバルの方もブーツに入る砂の感触を除けば、この数日で学んだ砂海の歩き方の応用で、さほど苦心せず進むことができた。

「風は……きてるような、きてないような」

「きているわ。ただ、風の細さを考えると地上と繋がっているのはずっと先ね」

道中、指先を舌で湿らせて風を探るが、スバルにはイマイチ判然としない。代わりに風に敏感なラムがそれを探るが、求める出口はまだまだ先のようだ。

それに出口もだが、優先したいのは仲間との合流でもある。そちらに関しては残念ながら、風に頼ったところで何の目印にもならない。

「エミリア様やユリウス様は、微精霊の導きで迷うことはないはずよ。その点でも、人選に悪意があると疑いたくなるところね」

「そうか。そういや、微精霊の道案内って結構有効なんだよな。クソ、俺の場合はベア子が存在的に強すぎて微精霊逃げるんだよな。キャパねぇし」

明らかになるのは、エミリアとユリウスの戦力面以外での強みでもあった。

索敵においても譲りっ放しのメンバーでは、探索も思うようには進まない。できる限り周りを見落とさないよう、丁寧に見回って進むだけだ。

「ラムさんやけど、ナツキくんが起きる前……飛ばされてすぐはかなり取り乱しとったんよ。レムさんが見当たらんくて、今は気丈に隠してるけど」

「……そうか」

こっそりと、アナスタシアにその話を聞かされ、ますます目覚めた直後のラムとの言い合いのバツが悪くなる。

記憶の中から妹の存在が掻き消え、それから一年間を過ごしたラムをスバルも見てきたはずだ。二人の間には、消えてしまったものがきっとうっすら残っている。他の誰でもなく、スバルだけはそう信じなくてはならなかったのに。

「まぁ、揃ってズブズブと暗い顔されるんも面白ぅないし、反省したんなら真っ直ぐ前見んとあかんえ? せやないと、大事なことも見落としてまうんやから」

「……調子崩れるな。お前、あんまりいいこと言うなよ。お前の大本にも似たようなシチュエーションで籠絡されかかってんだから」

「そろそろ、その大本とやらとボクのことは切り離して考えてほしいものだけど。あまりしつこいと女の子に嫌われるよ。これはボクの、時勢を見てきた経験則でもある」

「他のアプローチ知らないんでな。心の端に留めておくわ」

舌打ちまじりに軽口を交換し、進展のないことへの焦りと不安を誤魔化した。

そうした会話を挟みながら、一行は大空洞の奥へ進む。何の変化もない、砂の道に砂の壁――そんな道を歩みながら、思うことがいくつかある。それは、

「魔獣の巣かも、なんて警戒したわりに……一匹も魔獣と出くわさないな」

「それはラムも気になっていたわ」

足下の砂を蹴りつけ、そうこぼしたスバルにラムも同意する。

大空洞を奥へ進み、そろそろ小一時間が経過しようとしている。誰もいない、何もないことに焦りはあるが、それ以上に募るのは不安と嫌な予感だ。

無論、害敵が出ないことは歓迎すべきことには違いないのだが、静かすぎることにも嫌な予感は拭えない。――まるで、世界から切り離されたように。

「まさか本当に、どことも繋がらない亜空間に呑まれたわけじゃねぇよな?」

「したら、うちたちが頼りにしてる風はどっからくるのかってお話やね。この空洞の主で、尋常でなく大きくて凶暴な魔獣の鼻息やなんて想像でもする?」

「それを笑い飛ばせねぇのが怖いよ」

実際、何が起こっても不思議はない。すでに世界が破けるのはこの目で見たのだ。その裂け目がどこへ繋がっていたとしても、驚きには値しないのではないか。

「悪意に満ちた人選はともかく、まやかしが破られることを仕掛けた側が想定していたとは考え難いわ。狙ってやった無効化ではないし、偶然の産物でしょう」

「つまり、どういうこと?」

「この道がそのまま、魔獣の胃袋に繋がっているなんて最悪は想像するだけ無駄よ。――ほら、見なさい」

進展のなさが悲観的な意見に繋がるのを、ラムが理性的に否定する。それから彼女は説明の最後、足を止めたスバルに前を見るように促した。

その指摘に従い、スバルは目を凝らしながらカンテラを前に差し出す。すると、照らし出される空洞の通路は細まり、目の前に――、

「分かれ道だ」

「右か左か、といったところね。どうする?」

「俺の知識だと、こういうときは右を選べってクラピカが言ってた」

「誰やのん」

行動学的に見て、人は迷うと無意識に左を選びやすくなるというような話だった覚えがある。おそらく、利き目や利き腕、利き足まで含めると色々と条件が複雑になる問題だとは思うが、ひとまずそういった考え方もあるという話だ。

そのため、スバルの知る頭脳派キャラの理屈に従うと右に向かうのが正解と考えたいところなのだが――。

「それで、バルスはどっちに行きたいの?」

「……正直な話、左だ」

「クラピカのことはいいの?」

「誰やのん」

スバルの答えにラムが問いを重ね、アナスタシアがそれを茶化す。

字面だけ見れば、そのやり取りはそんな風に受け取ることができるだろう。

――だが、実際にはその言葉を交わす三人の顔色は悪いし、表情は硬い。その上、言葉を解さぬパトラッシュさえ険しい目つきで、右の道を睨みつけていた。

原因は、右の道から感じる圧倒的な負の感覚だ。

抽象的に言えば嫌な予感。もっと言葉を選べば、それは恐怖心に近い。

右の道を選ぶのは危険だ、と本能が警鐘を鳴らしている。

「右は……ヤバいと思う。碌なことにならない気がする」

「珍しく、バルスに同意だわ。アナスタシア様は?」

「カララギ流の多数決なら、二票入った時点でひっくり返せへんし……それにうちもここで右を選ぶ勇気は、正直なところ持ち合わせがないわ」

ない袖は振れない、とばかりに両手を振るアナスタシアの仕草が全員の答えだ。

スバルだけではない。ラムもアナスタシアも、パトラッシュと同様に右側の道に得体の知れない感覚を味わっている。故に、右の道は選べない。

「なら、左か。……これも、選ばされた感があって嫌な選択ではあるな」

「じゃあ、戻る? 得るものはないわよ」

「失うものもない言うんは、消極的すぎるかもしらんけどね」

及び腰になるスバルに、ラムとアナスタシアの檄が飛ぶ。

仕方なしに肩をすくめ、スバルはパトラッシュの前を歩くように足を踏み出す。左の道へ向かって、真っ直ぐだ。

迷いを抱きつつもそうして進めば、右の道とはおそらく大きく空洞の中で距離が離れていくのだろう。砂の壁越しにも感じていたプレッシャーのようなものが遠ざかり、自然と肩に入っていた力が抜けるのがわかった。

「――嫌な場所だわ」

同じものを感じたのか、ラムがそう呟くのが聞こえて、スバルは無言で同意する。

あの分かれ道の、右の道に感じた圧倒的な負の想念。左の道を選んだのは本能的にそれを忌避したのもあるが、理由はもう一つある。

――スバルの胸の内側で、右の道への快哉を叫ぶ何かの存在がある。

それの言うことに従うことが恐ろしかった。

そのことも紛れもなく、スバルが道を選んだ理由の大きな要因だった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

チーム『非戦闘員』が空洞を進み、分かれ道を越えてさらに数時間が経った。

「――――」

「――――」

「――――」

ゆっくりと、大空洞の捜索を続ける三人の口数も激減している。

それは疲労感のせいでもあるが、代わり映えのない暗がりの中で、時間経過すらも曖昧になったが故の精神の摩耗も手伝った沈黙だ。

実際、数時間が経過したという感覚もスバルがそう感じているだけで、本当のところはわからない。思った以上に時間を上手く使えている可能性もあるし、あるいはもっともっと時間を無駄に浪費している可能性も捨てきれない。

わかっていることは、ただ、何の進展もないこと、それだけだ。

「……あの分かれ道、右だったかな」

「久しぶりに喋ったと思ったら弱音? やめなさい。みっともない」

ぼそりと、乾いた唇を動かしてぼやくと、ラムが辛辣に突き刺してくる。

しかし、彼女の毒にも覇気がない。薄々、このまま何も見つからないのでは、という不安に彼女も支配されているのがわかった。

足場の悪い砂の道を徒歩とはいえ、すでに数キロは歩いている確信がある。

それで空洞の果てが見えないのであれば、嫌な予感が掠めるのも仕方がない。道を誤ったのでは、と疑いたくなるのも当然だ。

いっそ行き止まりに達すれば、引き返す諦めもつくというのに。

「地上の、あの光の連射……なんだったと思う?」

このままネガティブな会話が続くのを恐れて、スバルは話題の方向性を変える。

議題に持ち上がったのは、この状況のそもそもの切っ掛けとなった監視塔の光――賢者の用意したと思われる、砂丘の防衛機構だ。

「針だったわ」

「針?」

スバルのその疑問に、ラムが言葉少なに応じる。彼女は聞き返すスバルに吐息をこぼすと、自身の桃色の髪をそっと撫でつけ、

「細かい原理はわからないけど、細長い針を魔力で飛ばしていたのよ。針が熱を持っていたのは、飛ばす魔法の作用でしょうね。ただ、針自体も特別製だったようよ。弾かれて砂の上に落ちたあと、崩れて消えていたから」

「……あの騒ぎの中、よく見てたな」

「ちらっと見れば、そのぐらいはわかるでしょう」

さらりと言ってのけるが、ラムの眼力が尋常でないだけの話だろう。現にスバルが目配せすると、アナスタシアは呆れた様子で首を横に振った。

ラムの場合は自分の才覚をわかっていての発言なので、ただの嫌味なのだが。それにしても、さすがの分析である。

「目的はなんだと思う?」

「監視塔に近付くものを倒す……にしては、バルスを執拗に狙ったのが謎ね。弱い敵から減らすのは戦術の基本だから、それかもしれないけど」

「クソ、否定できねぇ!」

遠目に見て、そういう判断を下されたのだとすればその通りなので仕方ない。とはいえ、そのおかげで仲間に犠牲者が出ずに済んだのだ。

無敵魔法のあるスバルが弱くてよかった、という結論に落ち着いていい。

ただその場合――、

「賢者と友好的な接触は、難しいってことか」

「それは早計やと思うわ。あっちからしたら、うちらの素性も目的もなんも知らんと仕掛けてきたわけやろ? 話し合いの生じる隙はあると、うちは思う」

「それに最悪、用事があるのは賢者の知識であって人格じゃないわ。喋らないなら縛り上げて、適当に痛めつけてでも喋らせたらいいだけよ」

「姉様、それ悪役サイドの言い分だよ!?」

「欲しいものがあるなら手段を講じる。子どものお使いじゃないのよ」

唖然となるスバルにラムは平然としたものだ。それだけに本気が伝わってきて、スバルは自分の覚悟の甘さと底の浅さを思い知らされる気分だった。

本当にそれが実行されるかはともかく、ラムにその覚悟があるのは間違いない。それだけ、レムに尽くす本気が彼女にある証拠だ。

「――――」

ラムの覚悟に触れると、スバルも覚悟を決める必要があるのかもしれない。

レムのために手を汚す覚悟、ではない。それをレムのせいにすべきではない。

しなければならないのは、成果をもぎ取るための覚悟。

賢者という存在と相対したとき、それがどんな相手であったとしても、非情に割り切ることができる――そんな覚悟を。

「――――っ」

「パトラッシュ?」

スバルが唇を噛んでそう考えたのと、パトラッシュが息を詰めたのは同時だ。

地竜は進路を睨みつけ、目つきを厳しくしながら小さく唸る。その様子に気付いたスバルも足を止め、地竜を宥めに戻る。その首筋を撫で、「どうした?」と呼びかけた。

「何かに気付いたか? 何が……」

「――原因は、これね」

言葉を途中で中断し、押し黙るスバルに代わってラムがそう言った。アナスタシアが顔をしかめて、パトラッシュと同じく通路の奥を覗き込む。

無論、暗がりの広がるそちらには何も見えないが、見えない代わりに訴えかけてくる別の感覚がある。――鼻腔に滑り込むのは、香ばしい何かの焼ける臭いだ。

「……火の臭い、だと思うか?」

「他のものには感じないわね。かといって、炊事の施設が整っているようにはとても思えないけど」

「これが火なら……臭いの原因は、文明人がいるからだよな?」

「――――」

縋るようなスバルの問いかけに、ラムもアナスタシアも簡単には頷けない。

彼女たちの判断もわかる。だが、漂ってくる臭いは明らかに目的があって何かを燃やす香りだ。ラムは炊事といったが、漂う香りもそれに近い。

焚き火か、あるいは食事のための煮炊きか。だとすれば、

「エミリアたちの可能性はあると思うか?」

「同じ場所に飛ばされた前提なら、可能性は十分にあるやろね。ただ、この状況で火を使うのが迂闊なんか合理的なんかは、うちに判断はよぅつかんよ」

「――――」

道の先にいるのが何者か、それはここで相談していても答えは出ないだろう。

ならば呼びかけて相手の意思を確認する、そんな発想も浮かぶが、

「道の先にいるんが人でも、友好的とは限らんね」

エミリアたちでなかったとすれば、可能性として該当するのは『賢者』か。監視塔にいるはずの賢者が降りてきているとは考え難いが、ないではない。

その場合、敵対を継続するなら相応の攻撃力が予想される。

「……明かりを隠して、進むか。火を使ってるってことは、向こうの方に明かりがあるってことになる。俺らの方は最悪、隠しててもいい」

「原因を確かめん言うのもおかしな話やし、妥当なとこやと思うわ」

スバルの提案にアナスタシアが頷き、ラムもそれに遅れて静かに同意する。

二つのカンテラの内、ラムたちの所有する方の明かりを落とすと、一行はスバルの持つ照明だけを頼りに、火の臭いが漂う通路の奥へ向かって進み出した。

「バルス」

「あん?」

「何かあったら、置いてまっしぐらに逃げるわよ。恨まないようになさい」

「そのときは呪わせてくれ」

怖気づきそうになるのがわかったからか、ラムの言葉に勇気付けられる。

スバルの軽口にラムが微かに唇を緩めるのを見て、スバルは改めて真っ直ぐに通路を先導。パトラッシュの息遣いを背後に感じながら進み、次第に火の香りが強まってくると、

「――! 明かりだ」

通路の向こうに、微かに揺らめく赤い光を見つけた。

スバルは即座に自分の照明の明かりを落とし、背後の三人に沈黙するように指示する。それから腰を落として、忍び足で砂を踏みながら光の存在を確かめに向かう。

一歩、二歩――進むうちに、どうやら光が当たっているのは曲がり角の向こうであると見えてくる。通路は微かに左に折れており、火はその先からだ。

「――――」

静かに曲がり角に到達し、壁に背を当てながら向こう側を窺う。すると、わずかに熱気を孕んだ風がスバルの額をくすぐり、思わず目をつむった。

――直後、スバルの足下がふいに抉れ、砂の滑り台がその身を斜めに転がす。

「な――!?」

その不意打ちに堪え切れず、スバルは踏ん張ることも忘れて斜面を転がり落ちた。粒子の細かい砂は耐えるに能わず、一番下まで真っ逆さまに滑り落ちる。

頭から砂の山に突っ込み、おおよそ十数メートルの急斜面を転がったスバルはまたしても砂を吐き出して体を起こした。

「うげ! ぺっ! また砂……いや、それより……」

頭を振り、スバルは周囲を見渡す。今の驚きで思わずカンテラは手放してしまった。手近なところにあればと体の周りに腕をやり、固いものに手が触れる。

一瞬、カンテラを見つけたのかと思ったが、それは先ほどまで握っていた硬質なそれと比べて別物の感触だ。表面はカサカサで、触り心地は木の棒のようである。持ち上げてみると軽いが、太さと長さはそれなり。

「なんだ……?」

目を凝らして近付けても、暗闇の中ではその正体はわからない。

恐る恐る臭ってみると、ほんのりと感じるのは炭のような臭いに感じられて――、

「――――」

そう思った次の瞬間、突然の明かりが真後ろに発生した。

背後に出現したソレは赤く揺らめく原始的な輝きで、炎と呼ばれるそれである。そして炎が照らし出した世界に、スバルは自分が握るモノの正体を見た。

――それは、おそらく、生き物の足だ。

動物だったものが、その全てが炭屑になるまで焼き焦がされた、その結果だ。

そして座り込んだスバルの周囲には、そんな炭屑となった元生き物が散乱しており、スバルは無数の焼死体の真ん中に滑り落ちていたのだ。

「おぁ!? わ! わぁ!?」

手の中にあった炭屑を放り出し、スバルはとっさに後ずさる。だが、後ずさった背後に存在するのは恐ろしき焔であり、その熱波にうなじを焼かれて今度は前に倒れ込んだ。そしてようやく振り返り、それを直視する。

「――――ッ!!」

響き渡る咆哮を正面から浴びて、スバルは現実逃避気味に考える。

どうしてこいつらは、魔獣の鳴き声はどれもこれも、人間の不快感をこれ以上ないほど刺激するほどいやらしいものばかりなのだろうか、と。

無数の赤ん坊が一斉に泣き喚いたような、そんな高くひび割れた鳴き声が上がる。

焼死体だらけの空間で赤く燃え盛るのは、スバルの見たこともない冒涜的な生き物――まさしく魔獣だが、これまでとは毛色が違う。

スバルの知る限り、魔獣はどれも歪で醜悪ではあるが、何かしら既存の生物と掛け合わせたような、そんな形態であることが多い。

白鯨や大兎にしてもそうだ。どれも、動物としての基礎が存在した。

しかし、今、目の前に存在する魔獣には、その概念を当て嵌めたくない。

「――――ッ!!」

泣き喚く魔獣は、一見すれば馬との共通点を見つけられる。

細いが、大地を力強く駆けるために存在するたくましい四足。その四足に支えられる胴体が存在し、臀部から長い尾が揺れているのも馬と同じだ。

だが、本来なら馬の首が、頭部へと続くはずの部分に、人の胴体がある。人の胴体はさらに二本の腕を持っており、四足と加えて二つの腕の持ち主だ。そして人の胴体の首から上には頭がない。首から上にはそのまま、『角』が生えている。

魔獣の証明であり、他の動物と決定的に異なるためのわかりやすい目印。

その角が、頭の代わりに生えている。頭がないのだ。ならば鳴き声を上げる口はどこにあるのかといえば、人の胴体の胸から腹にかけてが縦に裂け、横向きに牙の生え揃った口腔がその存在を主張している。

「……化け物だ」

魔獣、という括りで呼ぶことすらおこがましい、生命の冒涜がそこに在る。

スバルの知識でならそれは、半人半馬のケンタウロスという空想上の生き物に近いが、まるで再現を途中で投げ出したかのような歪な像がそこにあった。

そしてケンタウロスはあろうことか、人の胴体部分の背中から炎の鬣を生やしており、信じられない火力で砂の空洞を焼き、赤い光を迸らせている。

その火力を見れば、周りに転がる焼死体を誰が作り上げたのかは歴然だ。火を使うなら文明人などと、そんな期待を抱いたのが誤りだった。

「――――」

ケンタウロスの人部分の腕は、五指を備えた人間の腕そのものだ。

ケンタウロスの馬部分の足は、蹄を形成した馬の脚部そのものだ。

その図体は六、七メートルほどあり、この空洞を闊歩するのにちょうどいいサイズと言える。――つまり、この空洞の主は、目の前のこいつだ。

「……ここも、罠か」

息を詰まらせ、スバルは絶望する。

講じる手段がない。とっさに腰の後ろに手を回し、鞭の柄を掴んだが、それで何ができるとも思えない。

そして息を呑むスバルに対し、ケンタウロスは目のない頭部を傾け、その口から聞こえよがしに咆哮を浴びせかけて、恐怖を煽る。

「――ッ!」

瞬間、スバルは虚をつくように動いた。

砂の上で身を回し、乱暴に炭屑の一つを蹴り上げてケンタウロスへぶつける。内部までこんがりと火の通った死骸はあまりに軽く、ぶつけても威力など皆無。だが、それでも牽制になればいい。急斜面へ取りつき、上の通路へと戻る。きた道を逆走することになるが、それは構っていられない。問題はこのケンタウロスがどこまで追いかけてくるのかがわからないことだ。こうして獲物を焼き殺して回っている以上、食欲がどれほどあるかは疑わしい。無論、魔獣は人間を本能的に痛めつけて殺すという性質があると聞く以上、そのことがプラスに働くとは限らない。それでも、少しでも上を向くための可能性になるのであればそれは――。

「かふ――」

そこまで考えたところで、スバルは自分の体が微動だにしていないことに気付く。

牽制に炭を蹴り上げたことも、振り返って急斜面を昇ろうと試みたことも、それ以前に鞭へ手を伸ばしたことも、どれもこれもスバルは達していない。

――何故ならそうなる前に、魔獣の息吹がスバルを焼いているからだ。

「――ぉッ」

理解に達した途端、スバルは全身が焼き焦がされる痛みと苦しみに絶叫する。だが、喉が焼かれ、肺の酸素を燃やし尽くされ、声など欠片も上げられない。

焼かれた肌が一瞬で泡立ち、皮膚が膨れて破裂すると、見たこともない体液が体中に溢れ、即座にそれが蒸発し、血が本当に沸騰する。

「――――」

のけ反ることも、苦しみに転がり回ることもできない。

筋肉と脂肪が灼熱に焼かれ、溶かされ、ぐずぐずになっていくのがわかる。痛みが遠のき、スバルは炎の中で溺れる錯覚を味わった。

火傷、そう火傷だ。火傷の深度について、どこかで見たことがある。

火傷には段階があって、三段階までいくと傷痕が残るし、皮膚を移植しなければならないと聞いた。それに人間は体の三割の皮膚を火傷すると、それだけで皮膚呼吸が困難になり、死に至るとも聞いた。

「――――」

短い髪が根本まで焼け、耳朶から溶けた鼓膜や脳髄が流れ出してくる。唇と歯茎が蒸発して歯が剥き出しになり、熱波の苦しみに舌を食い千切る。関係ない。すでに溺れている。火傷、これ、治るのか。ただでさえ顔に自信がないのに、火傷なんて負って愛想をつかされないだろうか。エミリアに、ベアトリスに、レムに。

「――ルス!!」

燃える燃える、視界が燃える。何もかもが燃えて、赤くなって、白んでいく。

凄まじい熱に血液が根こそぎ焼け焦げ、瞼が溶けてなくなり、眼球の水分が蒸発して白く濁り、何も見えない。

ただ、何か聞こえた。誰かが呼ぶ声が聞こえた。赤ん坊の泣き声が聞こえた。誰かが傍らに下りてくる。馬鹿。なんだ。逃げるって言ったくせに。どうしてもうこんなところに下りて。下りるとか、意味がわからない。それよりも、右に左に。

馬が、人が。違う。熱い。溶けて、燃えて、眠い。

溶けて、消え――。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――いつまで寝ているの。いい加減に起きなさい、バルス」

「ぐらんぶる!?」

手足も一本も動かなくなり、焦げた思考が崩れ落ちるのを体感して、スバルは鋭い衝撃に現実へ引き戻された。

突然のことに体を起こし、スバルは砂の張りついた額の冷や汗を拭う。

「え、あ……え?」

周りを見回す。

暗い、何も見えない。それは、つい数秒前の恐怖を呼び起こすもので。

「ひっ」

「……呆れた。ただの暗闇にどれだけ怯えるの。子どもじゃあるまいし」

「――ぁ」

思わず体を竦めて、小さくなっていたスバルはその声に目を見開いた。

カンテラの明かりで自分の顔を照らし、ラムは小さく吐息をこぼす。それから静かにその場に跪くと、彼女はその手でスバルの頬を撫でたのだ。

「情けない顔」

「……俺の顔、溶けてないか?」

「――エミリア様以外の前では、蕩けてたところは見たことないわ」

頬に触れる掌の熱は、スバルの味わったそれとは比べ物にならないほど、温い。

故にスバルは理解する。炎の感覚と別の熱のおかげで、状況を。

また、自分は『死に戻り』して舞い戻ったのだと。

そしてここは砂丘で迎えた二度の『死』とは、また別の出発点であると。

砂の迷宮の攻略に、命懸けで挑まなければならないのだと。

――砂海に流れる冷たい砂が、焼かれたスバルを嘲るように見ている気がした。

第六章14 『砂上の信頼』

冷たい砂の嘲笑と、触れた掌から伝わるラムの温もり。

どちらも今のナツキ・スバルにとっての現実であり、受け入れるべき『現在』だ。

「……ラム」

「なに?」

「お前の指、すべすべしてて気持ちいいな……って、ぶべ!」

「図に乗るんじゃないわ。このバルスが」

「人の呼び名を悪口みたいな使い方すんのやめてくれます!?」

迂闊な発言をした代償に頬を張られて、スバルは涙目でそう訴えかける。が、カンテラを手にしたラムはそれに応じず、そそくさと距離を置いてしまう。

ついさっきまで、滅多に見えない優しさを見せてくれていたというのに、冷たいものである。――もっとも、あのままでいられると照れ臭くて会話もできないから、こうして普段の調子に戻したのが本音のところではあるのだが。

「ここは……」

「どことも知れない真っ暗闇よ。砂海の景色が綻びて、竜車ごと裂け目に呑み込まれたのは覚えているでしょう? そこまで説明したくはないわ」

「いや、それだけ聞ければ大丈夫。なんとなく、把握した」

「……そう」

ラムの口から現状のあらましが話されて、スバルは深呼吸しながら受け入れる。

『死に戻り』したことと、その『死に戻り』地点が早くも変更されたことを。

――この砂丘において、スバルが迎えた『死』はこれで三度だ。

その内の二度は地上で、おそらく監視塔から放たれた光による死亡。だが、三度目になる今回はこれまでとは全く違う、地下で化け物に襲われての死だ。

直前の、ほんの一分前の自分の死に様を思い出すと身震いを堪え切れない。

「あんな死に方だったのにな……」

今回のスバルの死因は、いわゆる焼死というやつだ。

全身を真っ赤な炎で存分に炙られて、何もかも無理解に沈んだまま焼き殺された。灼熱の舌に体中を舐られ、あらゆる部位が焼けるというより溶けたことは忘れ難い。

人体が脂肪の塊とは知識の上では知っていたが、ああも簡単にドロドロと溶けるものなのか。焼死体が無残とは、なるほど納得のいく話だった。

「バルス、そろそろ落ち着いた? 大丈夫なら話をするわよ」

「あ、ああ。大丈夫、だ。……ここにいるのは、俺とお前だけか?」

「だとしたら、ラムは身の安全のためにバルスを置いて逃げているわ。そうしていないということは……わかるでしょう?」

「お前が滅多に見せない優しさ第二弾を発揮した?」

「慈愛と慈悲の塊であるラムに向かって、不敬極まりない発言ね。――無駄話をしている間に戻ってきたわ」

カンテラでこちらから見て左――ラムから見て右側を示すと、空洞の奥の方から別の明かりが近付いてくるのがわかる。頭一つ分だけ高い位置で揺れるカンテラは、わかっている通り、パトラッシュに跨るアナスタシアの所有する照明だ。

「ラムさんとナツキくん、話し合いは終わったみたいやね?」

「……アナスタシアと、パトラッシュか」

先ほどと同じ第一声があり、パトラッシュに跨るアナスタシアが笑いかけてくる。その言葉にラムがやはり、先と同じようにスカートを摘まんでお辞儀し、

「ご配慮ありがとうございます、アナスタシア様。それで、周囲の様子は?」

「ちぉっと奥まで見てきただけやけど、他の子ぉらは見当たらんね。ここいらに飛ばされたんはうちたち三人……と、この子だけみたいや」

「そう、ですか」

「気ぃ落とさんようにせんとあかんよ。気休めにもならんかもやけど」

「お気遣いありがとうございます。ええ、わかっている……つもりです」

竜上から気遣うアナスタシアに、ラムは普段の調子のようでやはり普段とは違う。今回はカンテラの所持者はラムだったため、彼女の横顔がはっきりと見えた。

前回、アナスタシアの言っていた通りだ。微かに憔悴して見えるラムの横顔から、彼女がレムと逸れて取り乱していたという事実が伝わってきてしまう。

「現状、合流できてるのは俺ら四人組だけか。……戦闘力がないのがヤバいな」

「思ったより取り乱さんのやね、ナツキくん。それとも、なんやラムさんに特別なおまじないでもしてもらったん?」

「生憎と、ラムとバルスを二人きりにしても何も発生しませんよ。翌日、バルスが斬殺死体となって発見されるだけです」

「なんなの? お前、人狼ゲームの人狼みたいな特性があんの? 怖い」

空元気のつもりではないが、目覚めたばかりのスバルの落ち着きようにアナスタシアとラムはそんな風に言及する。二回目だけに事情の把握が早いだけだが、すぐに動き出せることを今回も利点としたいところだ。

「ラム、一応確認するけど、共感覚でレムの場所はわからないんだよな?」

「ええ、ダメだわ。繋がりがあるから、少なくともあの子が生きていることは間違いないけど……それ以上のことはわからない。一人でないのを祈るしか」

「幸運とか不運に日頃の行いが関係あるなら、レムの行いは間違いなく善行ばっかりだ。……絶対、無事だって信じてる」

この理論が正しい場合、スバルが不条理な目に遭って死んでばかりなのはスバルの行いのせいということになるが、それには目をつぶっておきたい。

「それに……」

ラムやアナスタシアには絶対に明かせない、スバルの抱く大きな不安。

『死に戻り』の地点が更新されたことによる、救いたいもののこぼれ落ちる可能性。

名前を喰われたレムを取り戻すことが、『死に戻り』によってできなかったように。

今回の『死に戻り』の更新で、分断された仲間に悲劇が起きていたとしたら。

「それだけは、絶対にダメだ……!」

ここにいない、エミリアやベアトリス。ユリウスにメィリィ。そして、レム。

彼女たちの身に不幸な出来事が起きていないことを、願う。

ナツキ・スバルの手の届かないところで、彼女たちが傷付いていないことを。

「バルス。――ベアトリス様とは、繋がっていないの?」

「試してみたけどダメだ。パスが通ってりゃ、ベア子の方から俺を感じることはできるはずなんだが……呼び出そうとしても、繋がりが薄い」

「瘴気のせいかもわからんね。精霊もよぅ息が続かんて、うちのエキドナもちょくちょくぼやいてるもん。……元気なんは、エミリアさんだけやったし」

「ベア子も、そうだったのかな」

気丈なベアトリスの場合、仮に不調でも自分から訴えるようなことはしまい。その場合、スバルの方がちゃんとそれに気付かなくてはならなかった。

ベアトリスの不調は仲間全員の安否をも左右する。無事に再会したら、しっかりと怒ってやらなければだ。

「だからそのためにも、他の奴らと合流する。――いこう、空洞の奥に!」

奥へ向かえば、再びスバルを焼いたあの化け物と出くわす可能性がある。

だが、たとえそうであっても、進む以外に道はない。

大切な仲間たちと再会するためにも、進む以外に、道はない。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「ナツキくん、一人だけ徒歩やけど足下ふらつかん?」

「大丈夫だ。そっちこそ、パトラッシュは俺にしか懐かないから気を付けてくれ。ベア子は毎回、縦ロールの片方を食い千切られそうになってる」

「あはは、冗談がうまいんやから。パトラッシュちゃんええ子やし、そんなおいたなんかしぃひんよ。な?」

「――――」

空洞の奥へ進みながら、カンテラで先導するスバルにパトラッシュが小さく鳴く。その鳴き声はなるほど、確かに特に不満がないときの鳴き方だ。

やはり非常時とわかっているからか、スバル以外の人員を乗せているにも拘らず、パトラッシュは働き者である。さすが、エミリア陣営一のできる女。

パトラッシュにラムとアナスタシアを乗せ、スバルだけが徒歩で砂の迷宮を踏破する。その流れは前回を踏襲し、四人は空洞の奥へと足を進めていた。

出発は前回と比べれば十数分は早いかもしれないが、あの化け物がいつからあの場所にいるのかわからない以上、誤差の範囲でしかないだろう。

「あそこがあいつの住処……餌場か、もしくは遊び場かもしれねぇな……」

餌、と言い切れなかったのは、あの空間に存在した焼死体の数の多さだ。

スバルが掴んでしまった黒焦げの死体は、おそらくは動物の死体――形状からして四足動物の後ろ足あたりだと思ったが、食われた形跡はなかった。そして、そんな黒焦げの死体があそこには無数に転がっていたのだ。

ただ食事をするために炎を使う、というのであれば単なるグルメな魔獣として食文化を評価もできる。だが、焼くだけ焼いて死体を放置となると、あの化け物は獲物が焼け死ぬのを楽しむ残酷な性格で、あそこはそのための場所と捉えた方が自然だ。

常軌を逸した火力と、その異形の図体。

スバルは自分の焼け死んだ瞬間を思い出すと同時に、あの生き物として間違った形で存在する魔獣自体にも恐怖する。

「……うちの見たところ、ここいらは砂丘に間違いないはずなんやけど、地下かもしらんなぁって。ナツキくんはどう思う?」

「――――」

「ナツキくん?」

「え? あ? ああ、そうだな。俺もそう思うぜ」

「ちゃんと話を聞いていたの? 適当な受け答えだと失礼に当たるわよ」

考え込んでいたところ、適当に首肯したのが速攻でラムにばれる。が、スバルはとんでもない、と手と首を慌てて左右に振った。

「まさか、ちゃんと聞いてたって。その上で、ばっちり肯定ってスタンスだよ」

「寝るとき、下着は外した方が胸の形は崩れないわよね、という話よ。肯定するの? いやらしい」

「そんな話を俺に振る方がいやらしいだろ!? ってか、そんな話じゃないよね!?」

仰天するスバルがアナスタシアに助けを求めると、彼女は苦笑する。それからアナスタシアは「心配せんでええよ」と言葉を継ぎ、

「今のはラムさんの悪ふざけ。この非常事態にそんなお話するわけないやんか」

「だ、だよな? そうだよな。焦った。そもそも、ラムもアナスタシアも形が崩れるとか気にするほど胸とかないし……」

「ああっと、ごめん、ナツキくん、手が滑ってたわ」

「過去形で熱い!?」

カンテラがうなじに押し付けられて、魔鉱石発光の余熱に首が焼かれる。途端に焼死の感覚が蘇って戦慄するが、冷たい砂の上を転がって泣き叫ぶのは免れた。

と、砂の上に背中から倒れ込んだまま、スバルは竜上の二人を睨む。

「い、いきなりはひどくないか? 釈明の機会ぐらいは欲しい」

「人の身体的特徴をあげつらって貶めるんはあかんよ。そんなんするんは自虐以外は絶対にダメ。カララギやったら信用失墜して無一文や。な、ラムさん」

「ラムは気にしていませんので。それに、レムの方は大きいので釣り合いは取れています。問題ありませんよ」

補い合う美しい姉妹愛、などと言い出すとさらに不興を買いそうなので黙る。

スバルはうなじの微かな痛みに顔をしかめて立ち上がり、砂を落とすと咳払い。

「とにかく、本命の話しようぜ。ここが地下なんじゃ、って話だよな?」

「なんや、聞いとったんやないの。そうやね、うちはそう思う。地上と比べて空気が重たいのと、気温が低いのが理由やね」

「砂丘の地下……砂蚯蚓の穴倉じゃないことを祈るわ」

「……それよりヤバいもんの可能性もあるな」

ローブの前を合わせ、肌寒さをアピールするアナスタシアにラムが同調する。その彼女らの意見に首肯しつつ、スバルは微妙に事実を織り交ぜた。

もちろん、砂蚯蚓であっても戦闘力に乏しいこのメンバーでは撃退するのは至難の業なのだが、それでも攻略法が多少なり見えている砂蚯蚓の方がまだマシだ。

あの魔獣――ひとまず、便宜上ケンタウロスとしておくが、出会って即座に焼かれたスバルには戦闘力はもちろん、戦い方も何もわかっていない。

前回と同じく真っ向からぶつかれば、同じ死に方をする自信がある。

「実際、砂蚯蚓だけに関わらず、魔獣と出くわす可能性はあるよな。この砂丘にいた魔獣だけど、対策を話し合っておいた方がよさそうだ」

「そうね。……といっても、ラムも自前の知識と、道中でメィリィから聞いた話ぐらいしかないわ。それもたぶん、一般的な魔獣の生態」

「アウグリア砂丘の魔獣は瘴気の影響もあって凶暴化しとるようやし、そもそも生態的にいるはずのない魔獣もいる。それでも、知識はないよりあった方が、や」

スバルがそう提案すると、ラムとアナスタシアもそれに頷いた。

その結果、空洞の奥への捜索を進める傍ら、魔獣についての話し合いが持たれる。

「砂蚯蚓は外見の醜悪さと悪臭が目立つけど、凶暴性に反して肉体はそれほど強くはないわ。図体も大きいし、ラムの魔法で簡単に殺せる。……なんなら、バルスの鞭も無力ではないかもしれないわね」

「マジで? 鞭でダメージ入るの?」

「性格は案外臆病やって話やし、痛い思いしたら引き返す場合もあるらしいわ。その痛い思いの範疇次第やけど、可能性ゼロってことはないやろね」

「袋鼠はできれば出くわしたくないわ」

「ネズミなんて名前に反して凶悪な魔獣なのか?」

「うんにゃ、戦闘力はないんよ。たぁだ、戦い方がえげつなくて。自分の体がパンパンになるまで空気で膨らんで、敵の近くで爆発するんやね。で、自分の血とか内臓とか浴びせてきよるんよ」

「……それ、血が毒とかそういう?」

「そういうことはないわ。ただの嫌がらせ……でも、一匹がそれをやって臭いがつくと、他の袋鼠も群れでやってきて同じことをするわ。血塗れになるわよ」

「怖っ!」

さすがに得体の知れない魔獣共だけあって、生態を聞くだけで顔をしかめたくなるものも多い。そうした形である程度、純粋に魔獣について話し合ったところで、スバルは満を持してその話題を選んだ。

「じゃ、次は俺が砂丘で遠目に見た魔獣なんだが……馬の体に人の胴体がくっついて、背中から火を噴く魔獣って、知ってるか?」

「――――」

ここまでの魔獣の生態を話し合う流れで、スバルはケンタウロスのことを明かす。

これだけ特徴的な魔獣だ。仮にアレがこの砂丘特有の、既存の魔獣が異常に凶暴化した個体であったとしても、元があるなら突破口にはなり得るはず。

炎だけに水に弱い、なんてわかりやすい弱点があれば完璧なのだが――。

「……残念やけど、うちに心当たりないなぁ。ラムさんは?」

「ラムの方も残念ですが。聞くだに嫌悪感ばかりが募る魔獣だけれど」

「知らない、か……」

しかし、二人から返ってきたのはそんな答えだった。

ケンタウロス、またはその異常個体とは別個の汎用体に心当たりはないらしい。ただ、確実に出くわす可能性があるのはまずその魔獣なのだ。今の答えだけで、その突破口を探ることを諦めてしまいたくはない。

「本当に知らないか? こう、パトラッシュの頭の部分が人の胴体になってて、ちゃんと腕も二本付いてる。で、胴体の胸から腹の部分が縦に裂けてそこが口。それから人の胴体の首から上は、頭の代わりに角が生えてて……」

「えぇ……何それ。めっちゃ気持ち悪いやん……」

「正直、ひいたわ」

詳しく説明すればするほどに、女性陣の好感度が下がっていく。心なしか説明に使われたパトラッシュも嫌そうな顔に見えて、スバルは肩を落とした。

どうやら本格的に手掛かりゼロになりそうだ。

「そもそも、そんな魔獣を見かけたならその時点で報告なさい。なんでそんな危なそうな魔獣を見過ごすの」

「いや、それはその……夜のことだったんだよ。メィリィの加護があったからか、向こうから近付いてこなかったのを遠目に見ただけなんだ。ちょうど、お前が竜車の中でエミリアたんに治療されてるときでさ」

「いやらしい」

「お前、それ言いたいだけになってないか?」

適当な言い訳で誤魔化しつつ、スバルは手応えがないことに落胆する。

ケンタウロス対策に関しては、そうなると事前に打てる手立てがない。先んじてスバルの方から危険性を訴えつつ、実物と遭遇するのを避ける方策を探るまでだ。

「とりあえず、ケンタウロスって呼ぶけど……たぶん、かなりヤバい奴だと思う。人の胴体の背中から鬣が生えてて、それが火みたいに燃えてた。かなり執念深そうな面構え……顔ないからわかんないけど、そんな感じがしてたから、下手すると俺たちを追いかけてきてる可能性がある」

「なんでますます、そんなの放置しておいたの? 死にたいの?」

「今のは俺も自分の説明に語弊があったなと思う」

危険を知らしめたいがために、かなり無茶な論理展開になったのは否定できない。

ただ、これだけ伝えておけば、肝心のケンタウロスとの遭遇に対する危機感を持つことが彼女たちにもできるだろう。

それに、だ。ケンタウロス対策は何も、実際に出くわした場合ばかりではない。

もっと根本的な方法も、スバルは考えている。

それは――、

「ナツキくん、ラムさん。――お喋りはいったん、止まっとこか?」

アナスタシアがそう言って、パトラッシュに止まるように指示。賢い地竜は言われる前に足を止めていたが、その意を酌み取ったように頭を垂れた。

そして、アナスタシアが握ったカンテラを前に差し出すと、

「分かれ道、や」

――出くわさないための方策、その第一弾を目前としていた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

相変わらず、分かれ道には顔をしかめたくなるほどの怖気が漂っている。

そして、それが流れ込んできているのは明らかに右の道であるのだ。

「右と左、どっちへ行きたい?」

「クラピカ理論に従うと、右に向かうのが正解だ」

「誰やのん」

相変わらず、異世界ではスバルの知識は異物でしかない。

ただ、根拠のない発言ではなかったことを、スバルは身を以て体感済みだ。

「こういうとき、人間は無意識に左側を選びたくなるもんらしい。利き腕だったりとか利き目だったりとか色んな条件が作用するんだが、特に何の条件とかも付けない場合において、行動学でそういう実証がされてる」

「行動学、なんて頭の良さそうな言葉が出てきたけれど……右の道から感じる、この嫌な予感については無視するの? これは条件にはならない?」

右の道へ進むことが正解――か否かは別として、今回はそちらへ進むべきだ。

そう判断しているスバルは論理で丸め込もうとするが、やはり右の道から漂ってくる嫌な感覚に対する拒否感は強い。ラムはもちろんのこと、アナスタシアもできるなら右へはいきたくない、という目をしているのがわかった。

その二人を説き伏せ、右の道へ進ませるのがスバルのやるべきことだ。

『死に戻り』までして得た機会、むざむざと二人を『死』へは進ませられない。

「確かに右からあからさまに嫌な雰囲気はきてる。けど、これはちょっとばかりあからさますぎるだろ。まるでくるな、と言わんばかりだぜ?」

「――――」

「あの『砂時間』を突破する仕掛けもそうだし、監視塔の前の魔獣の花畑もそうだ。あれは自然のもんにしちゃ手が込みすぎてる。そう思わなかったか?」

「つまり、ナツキくんは砂時間も花畑も、この空洞も人為的なもんやって言いたいん?」

黙り込むラムと対照的に、アナスタシアはスバルの言葉の真意を辿った。彼女の発言にスバルは指を鳴らし、「そうだ」と首肯する。

「遠ざけたいから、色々と罠も仕掛ける。ここが人為的なもんじゃないなら、ここまでの小一時間で俺たちが魔獣と出くわさないのはなんでだ? ここがアウグリア砂丘の一部だってのは俺たち全員の共通認識だろ。メィリィもいないのに、魔獣の住処だったら遭遇しないのは不自然だ」

「だから、ここは人の手が……いいえ、賢者の手が入った場所だと」

「そんでもって、賢者の性格があまり良くないのを俺たちはもう知ってる」

「――――」

半ば、言い繕いで塗り固めたばかりの意見ではあったが、スバルは自分で口にしていても説得力がないわけではないと感心した。

実際、ここまでのアウグリア砂丘の行程を鑑みると、罠とも呼べる数々の場面は監視塔への道行きを妨げるためのもの――『試練』と言えなくもない。そして、この空洞でここまで魔獣と出くわしていないのも事実なのだ。

無論、最終的にケンタウロスと出くわすことがわかっている以上、スバルの想像は結論が誤っているのだが――否、あるいはあのケンタウロスは最後の番人。監視塔に入るために、最後は力を示せ、という仕掛けの可能性はある。

その場合、人選に悪意があるとしかやはり言いようがないのだが。

「……確かに、バルスの言い分にも一理あるわ」

「――! マジで?」

「なんで言うた自分が驚いとるんよ。おかしない?」

思索に沈黙していたラムの言葉に、スバルは思わず驚く。すると、その反応を見たアナスタシアが苦笑し、それから彼女は帽子飾りのボンボンを両手で持ち上げた。

「本音やと、うちは右には絶対にいきたない。せやけど、三人の意見が揃って左になるように誘導されてる……そう言われると、頷きたくもなるんよ」

「勝負勘で生きてきたあんたらしくない意見だな。流されるなんて」

「うちかて、賛同したなる意見があったらするいぅだけの話やん?」

苦笑が深くなるのは、実際のところ、襟ドナがアナスタシアの『勝負勘』といった勘所まではトレースできないためだろう。彼女にとっても苦肉の策であり、スバルの言い分に乗るかどうかは悩ましい場面だったはずだ。

「で、ラムは?」

「今、言った通りよ。ここまでの砂丘の在り方を考えると、バルスの言い分にも納得できる。賢者の性格の悪さはともかく、監視塔へ辿り着けない者が続発するのも頷けるだけの悪環境……誰かが手を入れたのは明白だから」

「まぁ、自然的なものって言われて納得はいかないよな……」

「だから、バルスの言い分を全面的に肯定するわけじゃないけど、一部に関しては肯定しないでもない。そうなると、右の道を確かめるのは吝かじゃないわ」

「……つまり?」

「ナツキくんの言うことに従うんは癪やけど、付き合ってくれるって」

素直じゃなさすぎるラムの発言を、アナスタシアが丁寧に解いて通訳する。

実際、ラムから訂正が入らない程度には正しい翻訳だったのだろう。要するに、ラムもアナスタシアも、スバルの口車に乗ってくれるというわけだ。

「――し! よかった、サンキュな。二人とも、後悔はさせねぇ」

「選んだ責任ぐらい自分で取るわ。勝手にラムの分の重さまで背負おうとするんじゃないわよ。その無駄な甲斐性、レムにだけ発揮してなさい」

「あ、うちは後悔させたら責任取ったってくれてええよ。その場合、いくらになるかはあとでソロバン弾いてご相談やね」

「二人して辛辣!」

喜んだのも束の間、責任を取る発言はあっさりと二人に蹴り飛ばされる。

襟ドナのアナスタシアトレースがどこまで本気かは不明だが、後悔させる結果にならないように努力する。その気持ちだけは本物だ。

「それに、難関は説得だけで終わりってわけじゃねぇ」

そう、そうなのだ。

スバルが得たのはあくまで挑戦権であり、実際の関門に挑むのはこれからだ。

――圧倒的な負の空気を垂れ流しながら、分かれ道は決断を待っている。

目に見えて空気が重く、悪くなる右の道へこれから踏み込む。

これが賢者の用意した試練だとしたら、初手でこちらの道を選ばれることに何を思うだろうか。

「この先で待ってるんだとしたら、せいぜい驚いてくれよ。――その横っ面、引っ叩いて色々と謝らせて、それからエミリアたちを見つけさせてやる」

そう決意して、スバルは右の道に向かってカンテラを掲げ、宣言した。

そして、そのスバルの背後でラムは小さく吐息し、

「もっとも、エミリア様たちの方には全員揃っていて、ラムたちよりも先に監視塔へ到着してる可能性もあるけどね」

「ここは素直に、格好つけていいところじゃなかったですかね?」

そう言って、挑戦前に意気を折られるスバルは恨み言を口にした。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

そんなやり取りを経て、スバルたち三人と一頭――四人組は右の道へ入った。

嫌な予感は今もある。気持ち、踏みしめる砂の感触さえ変わって思える不快感を味わいながら、スバルは額を伝った冷や汗を拭い、パトラッシュに笑いかけた。

「そう言えば、お前の意見を聞かずに勝手に道を決めて悪かったな」

「――――」

「なに? 俺のいくところが私のいく道だって? どんな悪路でも、必ず乗り切ってあげるから私を信じなさい? おいおい、イケメンすぎて惚れるぜ」

「戯言だけど、おおよそ、間違ってなさそうだから罪深いわね。どこがいいんだか」

無言のパトラッシュの気持ちを勝手に代弁するスバルに、ラムが呆れたようにそんなことを呟く。ただ、普段なら適当な発言に容赦なく突っ込むパトラッシュが落ち着いている以上、間違ったことは言っていない。

もしくは、そんなことをして体力を浪費するのは馬鹿馬鹿しいので、落ち着いた環境になるまで溜めている、のどっちかだ。後者かもしれない。

「もしもそうでも、できればお手柔らかに頼むな?」

「――――」

「今、否定っぽい鳴き方した?」

ここまで沈黙を選んでいたのに、急にそこだけ否定的に鳴かれて焦る。もっとも、無事にここを脱出してお仕置きする、という気概があるのはいいことだ。

パトラッシュはここから無事に出られると、信じてくれているのだから。

「――――」

こちらの進み方は、ここまでと変わらずスバルが先頭、パトラッシュが後ろだ。カンテラの明かりで数メートル先を照らし、足下を確かめながらの探索が続く。

その速度だが、明らかにここまでの道のりと比べて遅々としたものになっている。これは『死に戻り』前に、左の道に進んだときよりもずっと遅い。

原因は簡単だ。

「体が、重い……」

重量が増しているとか、見えない妖怪に背中に乗られているとかではない。そしてそれは実際には、何ら肉体的に作用している問題ではないのだ。

体が重く、足が進まないのは全て精神的な問題だ。

右の道は案の定、スバルたちの足を竦ませた負の感覚が満ち満ちていた。

これが賢者のいやらしい試練の一環であり、分かれ道の最初を抜けると、その先には安定した空間が待っている――などと期待しないではなかったが、残念ながらそれは儚くも裏切られ、むしろ呪いじみた負の想念は強まる一方だった。

「――――」

無言のまま唾を呑み込み、スバルは重たい足を砂から抜くようにして踏み出す。

足が竦み、動けないなんてことはない。脆く弱いことに自覚のあるスバルの心でも、まだ何事も起きていない砂の通路に怯えて蹲るようなことはないはずだ。

そう、心は怯えていないし、頭だってはっきりしている。

ただ、その意思に手足がうまく従おうとしてくれない。肉体だけは理性や魂の方針に逆らい、本能的な拒絶感を露わにして進むことを妨げようとしてくる。

真っ直ぐに進む、それだけのことに倍の時間と、倍の体力と精神力、それを費やす必要があって、スバルも疲労感を覚えずにはいられない。

「馬鹿馬鹿しい。このぐらいで弱音なんて吐けるかよ」

乱暴に頭を振って、スバルは体を重くする疲労感を忘れようとする。

右の道を選んだのは他でもないスバルの決断だ。だというのに、後ろの二人に先んじて弱音を口にしようなどと、許されるはずがない。

「なんだ、ちょっと歩き難いかもだが、大したことないな。意外とゴールとか近いんじゃないかなんて……」

「バルス」

「お、どうした?」

「うるさい」

「あ、おう……」

空元気で弱音を追い払おうとして、ラムの手短な毒に撃ち落とされた。

進むペースは格段に落ち、周囲の怖気も増すばかり。おそらくラムの方も精神的な負荷があるのだろう。いつもより短く鋭い毒だったのがその証拠だ。

「なぁ、気持ちはわかるけど、黙って歩いてるのも芸がないと思うんだが」

「楽しむために歩いてるの? 目的を思い出しなさい」

「そうじゃねぇけどさ……」

「黙って、歩きなさい」

取りつく島もない頑なな態度だ。

もちろん、意見としてはラムの方が正しいのだが、スバルにも言い分がある。

現状、体の重さは精神の重さと同期している。つまり、気分的に重たいから体も重いという悪循環だ。そうならないように、適度に気を紛らわしたい。

警戒は大事だし、配慮もしたいところだが、そのぐらいはわかってもらいたい。というより、ラムならそのぐらいわかるはずだ。いつもは配慮してくれる。

やはり、相当辛いのかもしれない。

「急いだ方がいい、よな?」

「――――」

「ラム?」

どの程度、差し迫った状態なのか確認しようと声をかけるが、ついにはラムはスバルの言葉に何も応じない。カンテラの明かりはスバルの正面の道と、今はパトラッシュの首元で全体を照らしているため、細かな表情までは見えない。

フードを頭から被り、アナスタシアの後ろでわずかに俯くラムの顔は見えない。

「ラム?」

「ナツキくん、もうええやん?」

「あ?」

足を止めて、その顔を見てやろうとスバルは振り返る。が、頑ななラムは顔を見せない上に、アナスタシアが彼女を擁護した。

唇を曲げるスバルに、アナスタシアは困った顔で頬を掻く。

「言うてなかったけど、ラムさん、地下で目ぇ覚ましてすぐはだいぶ取り乱しとったんよ。気丈やから落ち着きは取り戻したみたいやけど、やっぱり立ち直り切ってへんかったいうことやないかな」

「――っ! 余計なことを……!」

「ほら、ここはうちに任せ?」

ラムの心情に配慮しつつ、その上で配慮に欠けたアナスタシアの発言だ。隠した内心を暴かれてラムの歯軋りが聞こえるが、アナスタシアは一顧だにしない。

彼女は小さく手を挙げ、スバルに見えるように前を示した。

「今はお互い、話さん方がええよ。心がささくれ立ってるときは、誰とどんな話してもええ結果にならんもん。な?」

「――――」

「な?」

業腹だが、アナスタシア=襟ドナの言い分にも一理ある。

先に進むことや、無事に空洞を抜けることを優先するあまり、確かに今回のスバルはあまりラムの心情に配慮できていない。そのことのツケが回ってきて、ここへきてラムの態度に表出したのかもしれなかった。

そう考えれば、ラムばかりに問題があるとするのは早計だ。

「……わかった。確かに、そうだ。俺が悪かった」

「反省なさい」

「――っ! お前なぁ!」

「こーら、ケンカせんの。ほら、ナツキくん、進も、進も」

譲歩する気が全くないラムの態度に、スバルの心がささくれ立った。が、そこは間に入るアナスタシアがどうにか遮り、スバルに前に進む道を示す。

彼女がパトラッシュの首のカンテラを足で揺らし、砂の通路の影が視界の中で揺らめくのを見て、スバルは舌打ちした。

目に余る態度だが、ここで仲間割れしていても仕方ない。

幸い、この嫌な雰囲気がその気分の上下に作用しているのだと言い訳もできる。何かのせいにできる間は、余計なことで関係を悪くする必要はないのだ。

今の態度の悪さは、無事にここから出たとき、話し合えばいい。

「……いくぜ」

改めて、スバルが先導する探索が再開する。

ただ、やはり進行速度は遅々として上がらない。結局、精神的に上向き状態に入って肉体的な負荷を取り除く、という試みは失敗したのだ。

何も好転しなかった以上、状況が良くなる見込みも当然ない。

それでも、変化があるといえば変化はあった。

それはスバルたちの方にではなく、砂の迷宮自体の変化だが。

「道が、どう見ても狭くなってきたな」

右の道を進み、そろそろまた小一時間が経過しただろうか。

砂の通路はその上下左右、いずれの間隔も狭まってきており、その高さと道幅は巨体の魔獣が通ることは不可能な域に達しつつあった。

かろうじて、パトラッシュが通るだけのスペースはある。が、ジャイアンの引いていた竜車を通す幅はないし、砂蚯蚓やケンタウロスが通ることも不可能だろう。

つまり少なくとも、この道の先にケンタウロスが待ち構えている――という最悪の事態だけは免れそうだ。アレに比べれば、この先に何が待っていたとしても、悪い方向へ傾いていくことだけは避けられるだろう。

「だけど、道が狭くなるってことはますます注意が必要そうだ。とっさのときに動けないだろうし、お前らも警戒しててくれ」

「……っ」

「――おい」

先々のことを考え、そう言ったスバルはふいの音に眉尻をつり上げた。振り返り、カンテラに照らされる竜上の二人を見やる。

スバルの呼びかけに応じる声はない。ただ、パトラッシュの上に相乗りし、前に座っているアナスタシアが顔を掌で覆ったのはわかった。

穏便に収めて、どうにか進みたいアナスタシアにとっては当然だろう。

なにせ、今、ラムがしたのは、スバルの言葉に対する舌打ちだ。

「さっきから、お前、ホントに何のつもりだ?」

「別に」

「別にじゃねぇよ! 何のつもりなんだって聞いてんだよ!」

たまらず声を荒らげ、スバルはすぐ脇の砂の壁を蹴りつける。脆い壁の表面が剥がれるように落ちるが、舞い散る砂にスバルは何ら頓着しない。

今のスバルには、不遜なラムしか映っていない。

「人が黙って進んでりゃ、ちくちくちくちくと聞こえてんだよ! 舌打ちも今のが初めてじゃねぇだろ? なぁ、オイ、何のつもりなんだよ!」

「別に何のつもりもないわ。ラムからバルスに言うことは何もない」

「何にもなしでお前は年がら年中チッチッチッチ舌打ちしてんのか? してねぇだろ? してねぇのにしてるってことはする理由があるってことだろうが!」

冷たいラムの態度に反して、スバルの方の熱は先ほどから上がる一方だ。

当然だろう。ここまでのスバルの努力に対して、ラムの示してきたものはあまりに冷たく、そして一方的だ。

詰られ、見下される理由などスバルにはない。

「言いたいことがあるなら言えよ! 聞いてやるから言ってみろや!」

「――だから、何もない」

「嘘つけよ! 馬鹿か、お前? 隠す気があるんなら全部隠せ! ちらっと出してこれ見よがしにしといて、何もありません? クソ馬鹿の発想か、ボケ!」

「――――」

唾を飛ばし、口汚く罵るスバルにラムの雰囲気が変わった。

アナスタシアの後ろに掴まっている彼女が、体を傾けてスバルを睨みつける。その位置関係も気に入らない。他人の後ろに隠れて、上からスバルを見下す姿勢。

何かの力を借りて、偉くなったつもりなのか。

「ずいぶんと、バルスは進むのに熱心な様子ね?」

「当たり前だろうが! 何のためにここにきたと思ってんだ? 賢者に会うためだろうが! そのためにこんな苦労して、進んで何がおかしいんだよ!」

「違うわ。――ここにきたのは、賢者に会うためじゃない」

「ああ?」

「ラムたちがここにきたのは、レムのことを元に戻すためよ」

はっきりと、スバルを見つめてラムがそう断言する。その視線の鋭さと圧迫感に気圧されて、茹だっていたスバルの思考がわずかに弱まった。

レムを助ける=賢者と会う、ではないか。

「同じ、ことだろうが! 賢者に会って、レムを助ける! 一緒だ!」

「一緒じゃないわ。レムを助けることが先にきて、賢者に会うのはその後ろ。優先順位が違う。……そう、優先順位が違うのよ」

その言葉の最後で、ラムが声を震わせた。そこに込められた激情は、これまでの無感情な彼女のそれを総合して、余りあるほどの烈火の怒りだ。

冷たい砂丘の地下で、ラムはその怒りの熱を孕んだまま言葉を続ける。

「ラムはレムのために、妹を思い出すためにきた。それなのに、今は何をしてるの? レムもいないのに、こんな場所でのらりくらりと……ふざけないで」

「誰もふざけてなんかねぇだろ……! こうなったから、こうなった以上はこうなったときにしかできないことをすんだよ。違うか?」

「ええ、そうかもしれないわね。でも、こうなったことを確かめる以前に、バルスは一度でもレムのことを心配した?」

「……あ?」

「地下で目を覚まして、バルスはレムのことを心配した? エミリア様のことは? ベアトリス様のことは? 見当たらない誰かのことを、ちゃんと心配した?」

言葉を畳みかけられて、スバルは何も言えずに押し黙る。

確かに今回、『死に戻り』したことを契機に目覚めを迎えたスバルは、前回のように取り乱して皆の安否を確認しようとはしなかった。

だが、それは決して心配していないからではなく、ラムたちもそのことを知らないとわかっていたからだ。スバルなりの、配慮だ。気遣いだ。

それなのに、

「いいえ、してないわね。バルスはしてない。バルスは、レムのことなんてどうでもいいのよ。エミリア様やベアトリス様のことで頭がいっぱいなの。別にそれでもいいわ。それだけの男ってだけだから。でも、レムが可哀想」

「……黙れ」

「レムはバルスのこと、信じてたんじゃないの? ああ、それもバルスから聞かされただけの都合のいい話だからわからないけど。案外、適当なことを言っているだけかもしれないわね。女の前では都合のいいことばかり言う。エミリア様やベアトリス様もお可哀想だわ。こんな男に騙されて!」

「黙れよ!」

「いいえ、黙らない。何度でも繰り返すわ。――バルスは、レムのことなんて、どうでもいいと思ってる。このまま見つからなくても、せいせいするだけなのねって」

「――ふざ、けるなぁ!!」

視界が真っ赤に染まり、ぶつけられる軽率な発言に脳神経が燃え上がった。

高みからこちらを見下ろし、身勝手な言葉をぶつける高慢な女に怒りが爆発する。

掴みかかり、引き摺り下ろす――そんな時間ももどかしい。

「インビジブル・プロヴィデンス――!!」

「――く、あ!?」

頭の中を駆け巡るどす黒い気持ちを、スバルはそのまま胸へ下ろし、解放する。

生まれ出でた黒い掌は快哉を叫び、するりと伸び上がるようにして地竜の背中の上へと這い上がり、そこからこちらを糾弾する桃色の少女を投げ落とした。

悲鳴を上げ、ラムが砂の上に乱暴に転がる。

目には見えない魔手の暴力に、ラムは何が起きたのかわかっていない顔だ。その砂の上で寝転がるラムのすぐ傍に、スバルは駆け寄っている。

そして、

「ふざけるな」

自分がレムを、なんとも思っていないなどと、冗談じゃない。

怒りのあまり、全てがどうにかなったような、そんな過熱した思考のままに、

「――ぅ」

――スバルは仰向けのラムに圧し掛かり、その細い首を絞めていた。

ぎりぎり、ぎりぎり。

ぎりぎり、ぎりぎり、ぎりぎり。

第六章15 『砂に散る』

細く、白い首にスバルの指がかかる。

力一杯に締め上げ、ギリギリと音を立てて頚骨が軋むのを掌に感じながら、スバルは場違いな感想――細い、女の子の首だな、という印象を得ていた。

「……ぁ、ぅ」

馬乗りになられて、渾身の力で首を絞められるラムの唇から呻き声が漏れる。

端正な顔が苦痛に歪み、桃色の唇の端から涎が伝うのが見えた。口の中では自由を求めて赤い舌がチロチロと踊り、手足をばたつかせて必死に抵抗する。

「――――」

本気のラムに抵抗されれば、スバルでは到底太刀打ちできない。

『聖域』ではわずかな時間ながらガーフィールを一方的に殴り倒し、そうでなくても護身術程度であれば修得しているはずの彼女だ。当然、こうして男に上を取られた場合の対処など、何通りにも攻略手段を持ち合わせているはず。

ただ、そのいずれも、せめて手足のいずれかが自由になっていればの話だ。

「――インビジブル・プロヴィデンス」

「……っ」

ギリギリと首を締め上げながら、スバルは胸中の黒い情動を解放している。

目には見えない暗黒の淀みは実体を得て、今はラムの手足をしっかりと押さえ込むのに貢献していた。四肢を押さえつけられ、ラムは効果的にもがくこともできない。このまま首を絞める腕に力を込め続ければ、遠からず息が途切れるだろう。

そうして息が止まれば、ラムも先の自分の暴言を後悔するはずだ。

スバルがレムのことを蔑ろにしたと、どうでもいいと思っているなどと、身勝手で何の根拠もない妄言を、その見当違いの暴言でスバルの心を無神経に傷付けたことを、命を対価に支払わせてやることができる。

「お前が、悪い。お前が、お前が、お前が!」

ラムが憎い。ラムが憎い。ラムが憎い。

些細なことが積み重なり、大きな切っ掛けを経て溢れ出す。

憎しみが首を絞める指先に込められ、白い肌に爪が食い込んで血が滴った。

「ふぅ……っ」

爪の先に熱い血の感触を味わい、息を荒げるスバルにラムが憎悪の目を向ける。

命の灯火が尽きる寸前にありながら、眼前のスバルを睨みつける薄紅の瞳の強固さは何事なのか。まるで命を奪われるだけでは死なないと、そう言いたげな目だ。

首を絞めて殺したあとは、その目を抉り抜いてやる。そう決めた。

「バラバラにしてやる、クソ女。……お前が、お前なんかが、レムとそっくりな顔で俺を見てたと思うと、反吐が出る」

「…………」

「ああ? なんだよ、聞こえねぇよ。言いたいことがあるならはっきり――」

「……ら」

スバルの啖呵の語尾、そこに被さるようにラムが小さく何事か呟いた。

その音の響きに目を細めた瞬間だ。

ラムを押し倒すスバルの眼下、砂の大地が炸裂し、二人の体が吹き飛ばされる。

「な、ぁ!?」

「くぅっ……!」

突然の爆風に砂を浴び、目と口の中を汚されるスバルは痛みと砂の味に後ろへひっくり返った。爆発に巻き込まれたのはラムも同じで、彼女の小さな体はスバル以上に威力をもろに受け、転がっていく。

生じた爆発に裂傷を負い、砂の上に点々とラムのこぼした血が滴った。

だが、スバルの拘束からラムは逃れた。それが事実だ。

「ラム! てめぇ、魔法で……!」

「掠れた……息をつく時間。それさえあれば……詠唱は、できるわ……っ」

膝を突いて体を起こし、息も絶え絶えの状態でラムがスバルにそう言った。

首を絞められながら、ラムはかろうじて風の魔法である『フーラ』を詠唱した。狙いを外すわけにも、正確につけることもできず、発生地点は自分の真下だ。

結果、自分ごと爆風にスバルを巻き込み、難を逃れた――。

「ちぃ――!」

「――――」

その事実に思い至るより早く、スバルは腰の裏に手を回して鞭を取る。同時にラムも自分の懐から小振りな杖を抜き、戦闘に備えて戦意を迸らせた。

一撃の威力では魔法使いのラムに分があるが、攻撃の速度ならばスバルも負けてはいない。鞭の速効性はこの世界の、人外レベルの実力者にも通用する。あのすまし顔に鞭を叩きつけて、二目と見れない顔にしてやればいい。

「泣いて謝っても、もう遅いからな!」

「それはこっちの台詞だわ。バルスのような薄情者の色魔なんて、レムに会わせてあげる価値もない。輪切りになって、砂の上で枯れなさい」

「言ってろ!」

静かに殺意を燃え上がらせるラムに、スバルの方も応じる覚悟は固まった。

互いの間に落ちたカンテラの明かりを頼りに、二人はじりじりと間合いを取ろうとしながら、円を描くようにして睨み合いを続ける。

そのまま、ほんの数秒で殺し合いの火蓋が切られる――その直前だ。

「――はい、そこまでや!」

「――!?」

大きく手を叩く音が響いて、乾いた拍手にスバルとラムの顔が跳ね上がる。と、それをやってのけた邪魔者、アナスタシアは竜上から二人を見下ろしていた。

一人だけ、変わらずパトラッシュの背の上に座る彼女は、今まさに本気の殺し合いをしようとしていた二人を代わる代わる睨むと、

「そこまで、や。おんなじ仲間同士やのに、その怖い顔で睨み合うんはちょっといただけんわ。いくらなんでも、限度があるやろ」

「限度? ああ、限度があるよ。その限度を踏み越えて、言っちゃいけないことを言ったのはこいつの方だろうが! だからそれを償わせてやる!」

「嫌やわぁ、話が通じひんのやから。ラムさんの方は?」

ラムに指を突きつけ、唾を飛ばすスバルにアナスタシアは呆れた顔だ。そのまま彼女は話の水をラムに向けたが、桃色の髪の少女の応答もスバルと大差ない。

彼女は油断なく杖の先端をスバルへ向け、戦闘態勢を維持したまま、

「愚問だわ。バルスの態度は目に余る……いい加減、我慢の限界よ。そんなに自分のことだけが大事なら、望み通りに一人だけの闇に落としてあげようじゃない」

「呆れて物も言えねぇよ。くたばれ」

「こっちもあかん、か。なんやの、もう。うちには荷が勝ちすぎるやろ……」

憎悪を緩めないラムの態度に、スバルの憤懣も消える気配がない。

刺々しい殺意を交換する二人にアナスタシアがお手上げといった仕草で肩をすくめる。それを横目に、スバルはアナスタシアにも苛立ちを覚え始めた。

そもそも、何故、アナスタシアは自分だけは部外者みたいな顔をしているのか。

事の起こり、こうしてアウグリア砂丘へ足を運び、賢者の監視塔を目指す最初の切っ掛けを作ったのはどこの誰だと思っている。紛れもなく当事者、監視塔を目指す最も強い動機を持つ一人であるくせに、何もかも他人任せなのは何様のつもりだ。

挙句の果てに今も一人、スバルのパトラッシュの上に乗って見下して――、

「おい、お前。なに、上から目線で説教くれてんだ。降りろ」

「……あちゃー、そうきたん?」

「偉そうな口を叩く前に、まず同じ目線に立てよ。話はそれから聞いてやる。それができなきゃ、俺に偉そうな口利くんじゃねぇ!」

手にした鞭を振り下ろし、風を切る音と一撃を浴びる砂が舞い上がる。

当たれば皮が爆ぜ、見るも無残な傷口を生じさせる得物だ。アナスタシアの中身が襟ドナであろうと、宿主の肉体を傷付けるのは本意ではあるまい。

事実、スバルの指摘に従い、アナスタシアはゆっくりとパトラッシュの上から降りる。砂の上におっかなびっくり着地すると、彼女は「それで?」と首を傾げた。

「うちもこうして降りたわけやけど……ナツキくんはどうしたいん?」

「決まってるだろ。あの馬鹿に、さっきの発言を撤回させてやる。撤回する気がないなら、あとはやることは一つだけだろうが」

ラムが本気で本心から謝罪し、これまでの発言の全てを撤回して心を入れ替えるというのなら、スバルの方も情状酌量を考えなくもない。

だが、それを聞いたラムの方の反応はわかりやすく一つだ。

「って、ナツキくんは言うてるんやけど、ラムさんはどう思うん?」

「我ながら、撤回すべき点が見当たらない完璧な結論すぎてお話にならないわ。いったい、何をどう言い直せと言っているのか理解に苦しむわね」

鼻を鳴らし、心底、小馬鹿にするような態度でラムはそう言い切った。

それが彼女の答えだ。故に、許す機会はこれで永遠に失われる。

「聞いただろ。下がってろ。レムと同じあの顔、この世に一つだけにしてやる」

「――――」

「ああ、オイ? 何も言えねぇのか?」

「これは独り言だけど、馬鹿と話すと馬鹿が伝染するわ。だから話さない」

額に青筋が浮かび、スバルの堪忍袋はいよいよ限界に達する。

そのまま、真っ直ぐにラムへ突っ込み、八つ裂きにしてやろうと勢いづくスバル。そのスバルの正面に両手を広げ、アナスタシアが飛び出した。

「まぁまぁまぁ! ほら、落ち着いて! まだ結論には早いて」

「どけよ! お前から先にぶち殺してやろうか!?」

「ここはうちに任せって。な? ほら、ラムさんちょっと……」

踏み出そうとするスバルを押し止め、アナスタシアが強引にラムの方へ向かう。無言のラムはスバルを睨んだまま、仕方なくアナスタシアの傍らへ。

ただ、それで彼女が意見を翻すとはとても思えない。実際、ラムもそんなつもりは毛頭ない目つきで、義理だけを果たしにアナスタシアへ歩み寄った様子だ。

「あんな、ラムさん。確かに空気も悪いし、色々と気持ちがささくれ立つのもわかるんやけど……」

「そんな話は今はどうでもいいでしょう。それよりも、あの愚物を――」

「――そうやね。どうでもええわ、もう」

苛立たしげに、アナスタシアとの会話も打ち切ろうとするラム。その顔が初めてスバルから外れて、真正面からアナスタシアを見た。

切っ掛けは衝撃だ。ラムの体、その左胸に突き刺さった衝撃――それは、アナスタシアの手に握られた身幅の厚いナイフによるもので。

「あ、く……?」

「どっちが有用か、見比べた結果の判断や。勘弁したってな?」

捻り、傷口からナイフが引き抜かれる鮮やかな手口だ。

ラムは自分の左胸に生まれた致命的な傷を見下ろし、口の端から血をこぼす。それからアナスタシアを見上げ、軽く手を挙げて微笑む少女を目の当たりにし、倒れた。

砂の上にラムが力なく崩れ落ち、乾いた砂に流れ出す血が吸い込まれていく。

「は、ぁ?」

スバルはそれを、為す術もなく見届けていた。

鞭を手にする掌がわなわなと震え、怒りに奥歯がギリギリと軋む。

「お前、なんで……!」

「ナツキくんがちまちまやっとったら、ラムさんの警戒が解けんと殺し合いになっとったやろ? それで両方がケガしたり、両方が死んだりしたらどないするん。うち一人だけでこんな場所、脱出できんよ?」

怒りの形相のスバルに、アナスタシアは悪気のない顔で首を傾げる。

その言葉は正論だが、正論に押し潰されるスバルのこの激情はどうしてくれる。ラムにぶつけるはずだった衝動は持て余されたまま、怒りは発散できていない。

「それとも、その苛々……うちで解消する気なん?」

「――――」

「そんな目先の怒りに囚われて、目的を見失うやなんて馬鹿馬鹿しいと思わん? つまらんことで仲間を減らすんは、今回きりで十分やないの」

アナスタシアの言葉が、ゆっくりと水を浴びせるように激情を冷ましていく。

確かに彼女の言う通り、ここまできて考える頭を減らしていくのは馬鹿らしい。それにアナスタシア=襟ドナは、プレアデス監視塔へ辿り着く案内役の立場だ。すでにその知識が役立つか怪しい段ではあるが、捨てるには惜しい。

ムカつくことだけ言って、実利には何の役も立たないラムとは違う。失ってはあとが困る駒、そうであるのだ。

「……いいさ、今はお前の口車に乗ってやるよ」

「ん、それでええよ。いや、よかったわぁ。ホッとした」

わざとらしく胸を撫で下ろし、アナスタシアは満面の笑みを浮かべる。それから危うげに砂を踏み、スバルの方へやってきて、手を差し出した。

握手、のつもりだろうか。

「仲直りと、こっからもよろしくの握手やね」

「――――」

邪気のない顔で差し出される手を見下ろし、スバルはしばし考え込んだ。

アナスタシアの本心――現状は襟ドナの本心ということになるが、何を企んでいるのか本気でわからない。まさか口にする言葉、その全てが真実であると考えるほどスバルはお気楽でもないし、楽観的でもない。

そもそも、アナスタシアは今と同じ微笑みを浮かべたまま、隠し持っていたナイフでラムを殺害したのだ。そう、隠し持っていたナイフで。

彼女の手にする身幅の厚いナイフは、扱い方次第で骨まで断てそうな代物だ。

非常用持ち出し袋の中にカンテラ類と一緒に入れてあったもので、サバイバルを想定した一品だけに実用性は高い。だが、アナスタシアはそれをずっと隠し、ここぞという場面で自衛に用いた。――否、自衛ですらないかもしれない。

「ナツキくん?」

「――――」

「うちの手、取れんの?」

差し出される右手は空だが、左手には今もナイフが握られたままだ。握手のできる距離は即ち、ナイフの届く射程でもある。

手を握れば、少なくとも片手は封じられる。この距離でナイフと鞭、どちらが有利なのかは考えるまでもない。手を取る、それ自体が罠ではないのか。

――殺される前に、殺すべきではないのか。

「ナツキくん?」

「いや、なんでもねぇよ」

スバルは薄く笑い、それからアナスタシアの右手に手を伸ばす。

握り合って、完全に油断が生じた瞬間が狙い目だ。

――インビジブル・プロヴィデンス。

『見えざる手』がまたしても静かに発動し、黒い魔手がアナスタシアの細い首へとゆっくりと狙いを定める。

ラムのときのような失態は犯さない。次は容赦なく、黒い掌に喉を潰させる。

ナイフで優位性を確保したと高を括っている女に、目にものを見せてやる。

もっとも、見せたくともこの掌は見えないのだが――。

「――――」

そして、スバルは黒い魔手の指先をアナスタシアの首へかけたまま、彼女の差し出す手をゆっくりと握った。細い指の感触、アナスタシアの笑みが深まる。

同時にスバルの口にも陰惨な笑みが浮かんだ。

「ほんなら……」

ここだ、と確信する。

アナスタシアが何事か言い、ナイフを振り上げる前に魔手の力を発動する。細い首が黒い指先に絡め取られ、一瞬でその頚骨がへし折られる――。

――その直前に、放たれる風の刃がアナスタシアの胴体を背後から両断した。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

風が吹いた、そう錯覚した直後のことだった。

目の前で赤い飛沫が噴出し、「え?」という間抜けな声を漏らし、アナスタシアの肉体が真ん中で上下に両断される。

白い砂の上に大量の血がぶちまけられ、冷たい空気に熱い内臓と排泄物の湯気が入り混じり、おぞましい異臭が空洞の中に立ち込める。

桃色の小腸や大腸、まだ微かに活動する内腑の数々が砂の上に転がり、さながらそこは一人の少女の素材を活用した、内臓の博覧会と化した。

「――ぁ?」

その光景を目の当たりにし、スバルは自分の手元に目を落とす。

そこには固くスバルと右手を握り合ったまま、上半身だけでぶら下がるアナスタシアの肉体がある。彼女はその両目を見開き、呆然とスバルを見上げた。

その背後にはすでに腰で断たれた下半身が倒れ込んでおり、人形のような足がびくびくと痙攣し、筋肉の弛緩で失禁が垂れ流されていた。

「あ、あああああ――!?」

壮絶なアナスタシアの有様に、スバルの喉が絶叫を上げる。

とっさに掴まれる腕を振りほどこうとするが、握られる手の握力が尋常ではない。解くこともできず、スバルは体重が半分になったアナスタシアを振り回すだけだ。その乱暴な動きにますます出血が激しくなり、未だに上半身と下半身とを繋げる腸が揺すぶられ、あたりに体液がまき散らされて異臭が漂う。

「は、放せ! 放せぇぇぇ!」

「いややぁ! ウチ、死にたない……!」

「もう死んでんだよ! 助かるわけねぇだろ!?」

想像以上にはっきりとした生の慟哭があって、スバルは悲鳴で言い返す。

上半身と下半身が分かたれ、血と内臓がこれだけ溢れたのだ。即死していないことが間違っている。手を掴んだままなのも間違っている。何もかも、おかしい。

「放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ――ッ」

「いや、いやぁ! 置いて、置いてかんでぇ……っ」

「今さら言ってももう……ぐあ!?」

上半身だけのアナスタシアが腕にしがみつき、放り投げようとするスバルの肩に激痛が走った。見ればアナスタシアは左手に掴んだままのナイフ、それをスバルの体に突き立て、逃がさないようにしようとしている。

鋭い刃はあっさりとスバルの左肩を突き破り、その下にある鎖骨にまで亀裂を入れ、灼熱の痛みと出血がスバルに絶叫を上げさせる。

「がぁぁぁぁ――!? この、馬鹿、クソが、とっとと死ねよぉ!!」

「い、やぁ……っ」

乱暴にアナスタシアの顔を掴み、強引にスバルは彼女の体を引き剥がす。涙ながらに何かを叫ぶ少女を、スバルはやっとのことで遠ざけ、放り投げた。

元々、小柄なアナスタシアの体は半分になり、大量の出血もあってまるで空っぽになったように軽い。砂の上を弾んで、自分の作った血溜まりにそのまま転がる。

「はっ、はっ、はぁ……!」

それに目もくれず、スバルは刺された右肩の傷に手を当てる。痛みに視界が明滅し、出血の量に心臓が爆発しそうに加速するが、命に関わる傷ではない。

そのまま吐きそうな緊張に襲われながら、スバルは遅すぎる思考に達する。

先の、アナスタシアを殺した一撃は――。

「――バルス」

「く、ぁ」

その場に尻餅をつき、痛みに喘いでいたスバルの前にゆらりと影が立つ。

砂の埋もれたカンテラ、そのわずかな明かりの中に浮かび上がるのは、その半身を血で染めた細身の少女――ラムだ。

アナスタシアのナイフで胸を抉られ、死んだと思われた彼女はまだ息があった。そしてその執念のままに、魔法でアナスタシアを殺害したのだ。

「……この、馬鹿野郎。死ぬなら、一人で死ね」

ふらつくラムを見上げ、スバルは忌々しげにそう言い切る。

立ち尽くすラムの様子は満身創痍どころの話ではない。アナスタシアの一撃は致命傷には違いなかったのだ。胸の傷の出血は止まっておらず、今もスカートの裾からは延々と血が垂れ流しになっている。遠からず、失血死を迎えるだろう。

だがその前に、スバルを道連れにすることはできる。

「く、そ……」

スバルは周りを見渡し、自分の得物である鞭を探す。しかし、見つけたところで鞭を扱う右腕は肩から負傷中だ。左手では利き腕同様には扱えない。

ならばもはや、これしかない。

「インビジブル・プロヴィデン……!?」

すでにこの短時間で何度も頼った切り札。

再び、その目には見えない黒い掌の力を解放せんとした瞬間、スバルの脳が焼け付くような痛みを発し、頭蓋骨を錐で穿たれる苦しみが炸裂した。

「が!? あぁ!? ごおぁ!?」

断続的に訪れる激痛に、スバルの口の端から吐瀉物がこぼれ出す。

切り札を限度を超えて使用しようとした代償か、脳神経を発端に頭蓋骨の中で巻き起こった地獄の饗宴に意識がバラバラにされる。右肩の痛みなど、比較にならない。

頭蓋と脳を削り取り、魂を齧られるような喪失感がスバルの意識を封鎖する。

拙い鞭の抵抗どころか、その場でのた打ち回るスバルは格好の獲物だ。

瀕死のラムはただ、その憎悪だけを燃料に肉体を動かし、ゆっくりとスバルへ向かって血塗れの杖を振り上げる。

「ふー」

「あああ! があ! おおおおあああ!?」

頭を抱えたまま、アナスタシアの血溜まりで転がるスバル。

そのスバルを見下ろし、ラムの唇がたどたどしく動き、詠唱が始まる。

そしてそれは――、

「ら――」

「――――」

詠唱が完成し、生じる風の刃がスバルを切り刻む。

そうなる直前に冷たい砂の空洞に、固いものが噛み砕かれる音が響いた。

耳障りなその音は連続し、水音と肉の咀嚼される音が入り混じる。

「あ……ぁ」

死ぬ、切り刻まれる、それを確信していた。

だが、訪れるはずの『死』は一向に訪れない。やがて、息を荒げ、転がり続けていたスバルの頭から、次第に頭痛と喪失感が薄れていく。

「あ、は、ぁ、あ?」

左手で顔を覆い、脂汗塗れの頭を乱暴に揺すぶった。鈍痛が残っているが、鋭い刃のような痛みは遠のいた。何度も息継ぎし、全霊の力で体を起こす。

上体を起こすだけで馬鹿に時間をかけながら、スバルは濡れた自分の頬を拭う。

掌が真っ赤に染まり、原因が自分の目――どうやら、血涙を流したのだと気付く。

鼻からもおびただしい血が滴り、顔の下半分はおそらくひどい有様だろう。脳に直接、錐を突き刺すような痛みは『見えざる手』の代償に違いあるまい。

よくある話だ。特別な異能を使ったフィードバック、それがきた。

「なに、が……」

袖で乱暴に顔を拭い、スバルは周りを見回す。

いったい、自分がどれだけの時間、苦しみ悶えていたのかはわからない。ただ、そうしていられる時間が自分にあったとも到底思えない。

何かがあって、それで自分は――。

「パトラッシュ?」

「――――」

呆然と座り込んでいるスバルの傍らに、漆黒の地竜が寄り添っていた。

砂にしゃがみ込む地竜はスバルの呼びかけに気付き、その長い尾を揺すり、自分の健在を示す。

「お前は、無事だったのか。ええと……」

途端、直前の出来事が蘇る。

アナスタシアが両断され、それを為したラムがスバルを狙って見下ろす光景。

そう、あのままスバルはラムの手で、バラバラにされていたはずで。

「なのに、なんで……ラムは?」

力尽きて倒れた、のだろうか。

あまりにご都合主義な展開だが、ラムとて致命傷を負っていたのだ。そうなっていてもおかしくはない。

「運が、いいのか悪いのか……」

死にかけた以上、運がいいとは言いたくない。が、悪ければ死んでいたはずだと考えると、やはり運が悪いとも言い切れない。

いずれにせよ、今はそんなことを言っている場合ではない。邪魔者がいなくなったのであれば、速やかにこの場を逃れ、監視塔へ向かわなくては。

「パトラッシュ……悪い、乗せてくれ」

「――――」

「パトラッシュ?」

呼びかけ、その背中に触れるが、地竜はスバルの指示に従わない。

それどころか、その場にしゃがみ込んだパトラッシュはいまだにスバルの方へ一度も顔を見せようとしない。ただ悠然と巨躯を砂の上に座らせ、スバルの傍らで微かに荒い呼吸を繰り返しているだけだ。

「おい、パトラッシュ。聞いてんのか? おい」

次第に、苛立ちが募り始める。

それはラムやアナスタシアに対して感じたそれと近しく、普通ではありえない速度で降り積もる負の感情の螺旋だ。

呼びかけに答えない地竜に、立場を教えてやりたくなる。

「おい、パトラッシュ、お前、こっち向け! おい!」

「――――」

「この野郎、最初から言うこと聞いて……」

乱暴に背中を叩き、声を荒げるスバルにパトラッシュが首をもたげた。その仕草に荒く鼻息をつき、顔を突き合わせて言葉をぶつけようとして、気付く。

振り返ったパトラッシュの口が、常軌を逸して赤く染まっている。

「――――」

その紅は、もはやこの短時間ですっかり見慣れてしまった色だ。

スバルの体のあちこちにも付着しているし、今も右肩からは流れ続けている。周囲に漂う異臭は糞尿とそれの色が濃いし、見間違えるはずもない。

だが、気付きたくはなかったし、気付くべきではなかった。

「――――」

こちらを向いたパトラッシュの口元、その牙に『桃色の髪の毛』が無数に絡みついている。

「ひ」

しゃがみ込んだパトラッシュの巨躯の向こう側に、見失ったラムが倒れていた。

倒れる彼女の体だが、うつ伏せなのか仰向けなのか判断が付かない。頭を見れば簡単にわかることだが、だからこそわからない。

首から上が噛み砕かれて、原形を無くしているから判断が付かないのだ。

頭蓋を凶悪な牙に砕かれ、脳漿をこぼしてラムは死んでいる。腸をぶちまけて死んだアナスタシア同様に、彼女は頭の中身をぶちまけたわけだ。

そして、それを為したパトラッシュは今、スバルを見つめている。

その爬虫類に似た黄色い眼は、ひどく鋭く、狂気に染まっていて。

「――やめ」

くわ、と目の前でその顎が開くのが最後の光景だ。

そのまま意識が途絶える直前まで、ナツキ・スバルは自分の体が噛み砕かれる音を聞いていた。頭が砕かれ、耳が死んでからもずっと。

どこで音を聞いているのか不思議で笑ってしまいそうになったが、笑う口はないし、笑えるだけの命はないし、笑えることなんて何もないし。

相棒に噛み砕かれて、死んだ。

今回の描写は人によってはキツイかもしれないので、己の想像力にメンタルが負ける方は読みとばし推奨です。

と、あとがきに書いておく。

第六章16 『咀嚼の残滓』

――何かが壊れていく音を、意識だけが延々と聞き続けていた。

骨が噛み砕かれ、脳漿が押し潰され、眼球がひび割れて中の水が溢れ出す。

頭蓋、砕かれているのは頭の骨だ。その内側に詰まっている、大事なものが根こそぎ鋭い牙の力に押し負け、ぐちゃぐちゃになっていくのがわかる。

灰色の脳髄と脳漿がずぶりとこぼれ、前頭部に溜まっていたわけのわからない黄色い体液と混ざり合い、細い網目のような血管が千切れて赤い鮮血が流れ出す。

それら全部が一切合財一緒になって、意識と記憶は肉の色をした反吐に化ける。

痛み、痛みはある。息苦しさもある。

まるで、割れるように軋む頭の痛み――そう考えて、意識が苦笑した。

割れるように痛い、なんて話じゃない。

すでに割れるどころか、大事なものは全部砕け散ってしまった後だ。おまけに痛みを感じる部分だってとうに潰れているのに、今さら何を言い出すのか。

記憶を溜め込む脳が流れ出し、考えるための器官は潰れ、そもそも生命の維持に必要な部分が根こそぎ失われて、そうなったらどうなるか知っているだろうか。

そうなってしまえば、人間は『死』を迎えるのだ。

だから、当然、自分も――。

「――ルス。バルス。しっかりしなさい」

茫洋とした意識の首根っこが掴まれ、無理やりに明るい場所へ連れ出される。

戻った最初に感じたのは、耳元で聞こえる誰かの切羽詰った声だった。声には音の震えだけではなく、軽くではあるが頬を叩かれる感触も伴っていて。

「バルス、いい加減に起きないと、瞼を焼き切るわよ」

「――っ」

寝起きの頭に恐ろしい発言を聞かされて、意識が急速に浮上する。

声に呼ばれるままに暗黒の世界を抜け、意識は水面に顔を出すような形で息苦しい環境を抜けた。そして、焼き切る前に瞼を開けると、

「――バルス、起きたの?」

「――――」

すぐ眼前に、薄紅の瞳を細めるラムの顔があった。

息遣いが届き、少し顎を持ち上げれば唇の触れ合いそうな至近距離だ。無論、そんな色めいた事情があってのことではない。ラムがこうまで顔を寄せているのは、そうでもしなければ互いの顔の細部が見えないほど周囲が暗いから、それだけだ。

目の前のラムを意識すると、遅れて知覚は尻の下の感触などを拾い始める。細かい砂の粒子の上に体が転がり、スバルは砂海に大の字になっていた。

一息、スバルの口から呼吸が漏れると、ラムはスバルの瞳の奥を覗き込むようにしばし見つめ、それからゆっくりとカンテラを片手に体を離した。オレンジ色の光が彼女の手の中で闇を切り裂き、スバルは自分が未だ、砂の迷宮に囚われたままになっていることを――否、『死に戻り』したことを理解した。

「俺、は……」

暗がりのあたりを見回し、スバルは時間をかけて何があったかを思い出す。

『死』の瞬間の衝撃は常に鮮烈で、記憶を揺すぶる感覚は一向に慣れる気配がない。記憶野の中で地震に呑まれ、確かな『死』を思い出すために翻弄される感覚を味わいながら、スバルは最期の時に指先をかけ、思い出した。

「――――」

脳裏に凄まじい勢いで蘇るのは、カンテラに照らされるラムの憎悪の形相だ。

そして、彼女との罵り合いを発端とした、何の意味も意義も見当たらない殺し合いと、その惨たらしい末路。

「うぶ……っ」

「バルス?」

訝しげな顔をするラムの前で、スバルは思わず口に手を当てた。

それは数十秒前、ラムと殺し合った事実を思い出しての悲鳴――ではなく、そうなったラムの向かえた凄惨な最期を思い出したことの、嘔吐感だ。

「うっ、え……げぇっ」

スバルにとって、自分の『死』はすでに両手の指で足りないほど経験している。

そうして『死に戻り』する世界の中、エミリアやベアトリスといった身内が失われた経験だって、自分の『死』とほとんど同じだけ味わっているのは事実だ。

だが、スバルにとって『死』は決して慣れるものではない。

それは自分も同じだし、自分以外の誰かの『死』も等しく同じである。自分が死ぬことには恐れがあるし、身内に死なれるのは考えるだけで心が引き裂かれる。

――ましてや、前回のラムの惨たらしい死に様は初めて味わう衝撃だった。

腹を裂かれ、首を断たれ、無残に全身を傷付けられ、惨殺される姿を見てきた。

いずれの死に方も苦悶と悲嘆に満ち溢れたもので、死に方を並べて比較するほど悪趣味なことはスバルにはできない。

だが、ああして頭部を潰され、中身を咀嚼され、損壊されたのは初めてのことだ。

ラムの端正な造りの顔が、容赦なく牙にかかって潰れるのを見た。

それも、スバルにとっては最も信を置いている存在の一つでもある、パトラッシュの手で行われた惨劇だ。

「……ぉ、げぇ。げほっ、がほっ」

思い出すまい、と必死になることは、思い出すのと何ら変わらない。

ラムの惨い最期を忘れようとすればするほど、スバルの脳裏には地竜の口内に残った桃色の髪の毛と頭部の残骸が鮮明に浮かび上がるのだ。

結果、込み上げてくる嘔吐感を消化できず、スバルは砂に向かってえずく。

しかし、喉と胃袋は『死に戻り』の衝撃から立ち直りきっておらず、痙攣するばかりでスバルの意思に従おうとしてくれない。

「げほっ、えほっ……!

「……目覚めたかと思ったらいきなりそれ? 情けないわね」

地面に手をつき、必死に胃の中身を吐き出そうとするが何も出てこない。口の中は渇ききり、涎の一滴も流れ出てこないのだから驚きだ。

カンテラを片手にこちらを見るラムの表情は見えないが、懸命になって喘ぐスバルに彼女が呆れているのはその声音から十分に伝わってきた。

自然、その冷たい態度に『死』の直前の出来事が回想される。

あの理由もなく湧き上がった殺意に繋がる激情と、その激情を噴出させる発端となった罵り合い――それに駆り立てた衝動が胸の中で喚き、怖くなる。

だが、

「――噛むんじゃないわよ」

「――っ」

一言、そう前置きしたラムがスバルの傍らに腰を下ろし、その頤を持ち上げた。

跪いていたスバルがとっさのことに驚くと、ラムはそんなスバルの反応を意に介さずに口を開かせ、心底つまらなそうな顔のまま――自分の白い指を、スバルの喉の奥へと突っ込んだ。

「……!? ぉ、えぉっ」

「バルスの不器用は筋金入りだと知っていたけど、ここまでだと赤ん坊同然ね」

他人の指に喉を犯され、スバルの食道が乱暴に凌辱される。

すると、それまで嘔吐の邪魔をしていた胃袋や喉は新たな驚きを受け入れ、今度は一致団結して胃液と唾液を押し出すために必死に働き始めた。

そのまま涙目になり、スバルは嘔吐感に任せるままに砂の上にそれをぶちまける。胃液と水分を吐いただけだが、それでも嘔吐の前よりずっと楽になった。

「えほ、げほっ……はぁ、ふ……悪ぃ、もう、大丈夫……っ」

「そう? 満足できたみたいでよかったでちゅね」

「お前な……」

袖で口元を拭うスバルに、ラムが肩をすくめながら幼児言葉で返す。

その態度に思うところはあるものの、赤ん坊レベルの粗相をしでかしたのは事実だ。反論する余地などないし、今もラムの掌はスバルの背中を優しく撫でている。

わかりづらく、辛辣な心遣いだ。

「手、もういいって。それより、ここは……」

「結界が解けて、砂海が目の前で割れたことは覚えているでしょう? そこに竜車ごと呑み込まれて、投げ出された結果がここよ」

ラムの配慮を振り切り、スバルが周りを見ながらそう言った。それに対する彼女の受け答えを聞いて、スバルは『死に戻り』地点の継続に安堵と不安のどちらを抱けばいいのか判断に迷う。

ただ、いずれにせよ、行動は早々に起こさなくてはならない。

その判断に従い、言葉を続けようとして――、

『地下で目を覚まして、バルスはレムのことを心配した? エミリア様のことは? ベアトリス様のことは? 見当たらない誰かのことを、ちゃんと心配した?』

「――ぅ」

脳裏に蘇ったのは、ひどく鋭く心を抉ったラムの言葉の刃だった。

前回の終局を招いた不和――味方同士で殺し合ったあの状況は、明らかに異常だ。

自分のことに違いないが、回想した自分が正常な精神状態にあったとは到底思えない。そもそも、切っ掛けが異常だ。虫の居所が悪かった程度のことが積み重なって、罵り合いから殺し合いになるなど、あまりに馬鹿げている。

「バルス?」

言葉が出てこないスバルの様子に、ラムが首を傾ける。

前回のことは、異常な事態が招いた不和だ。だから当然、あんな状態で発されたラムの言葉に不安がる価値はない。――ただ、全て嘘と言い切るのも不自然だ。

通常ではありえないほど増幅されていたことは事実でも、スバルがラムに感じた不満や憤りは偽物ではない。何もかもが嘘だったわけではないのだ。

ならば、エミリアたちを心配しないスバルの態度に、ラムが言葉にし難い不快感を抱いたことは事実なのだろう。その感情に配慮するなら、スバルはここで形だけでもエミリアたちの心配をすべきだ。

実際、心配しているのだから、そう振る舞うのは嘘でもなんでもない。

ただ、心配したところで何も得られないと、それがわかっているだけで。

「――――」

今さら、本当に今さら、スバルは欺瞞に気付いて言葉に詰まった。

それが不和を避けるために必要とわかっていて、それでも欺瞞を口にしてラムを欺くことを心が躊躇った。打算で仲間を心配し、仲間を欺く――嫌気が差す。

当然、呑み込まなくてはならない躊躇いだ。それが理由で不興を買うなど、それこそ何の意味もないことなのだから。

「その……みんなは……」

「――そんなに自分を責めても無駄よ。誰の責任か、なんて追及することに意味なんてないわ。そんな時間の無駄より、優先すべきことがあるはずだわ」

しかし、スバルが心配する言葉を口にする前に、ラムの方がスバルの感情に勝手な帰結を得た。というより、深刻な顔をするスバルの表情を読み違えたというべきか。

ラムの洞察力からすれば珍しい事態だ。時に人の心を見透かしたような言動をする彼女の誤りは、内心、彼女がそれだけ焦っている証拠でもある。

「ただでさえ、バルスがゲロ吐いていた時間を無駄にしているんだから」

もちろん、ラムはそんな自分の心の荒れ模様を見せるような真似は決してしない。

その強がりとも頑固とも言い切れないラムの姿勢に、スバルはなんと言っていいのか判断に迷った。結局、何も言えないままラムの方が先に動く。

彼女はスバルの口に突っ込んだ指を拭うと、カンテラを迷宮の奥へ向けた。

「グズグズしていられないわ。レムと……それに、エミリア様たちと合流しないと」

「わ、かってる……その、ここにいるのは?」

「ラムとバルスを除けば……ちょうど、戻ってきたところのようね」

ラムの背中に取り繕うように確認して、彼女の言葉と視線を辿って奥を見る。

迷宮の向こうからやってくるのは、ゆらゆらと明かりを揺らすアナスタシアとパトラッシュだ。闇に溶ける漆黒の地竜を遠目に見て、スバルの眼球が微かに震える。

ちらちらとオレンジの光に照らされる、その凛々しくも凶暴で美しい顔立ち。

閉ざされた口の中に並ぶ、刃と見紛う牙の列が、少女の頭部を噛み砕き、そして立て続けにスバル自身さえも――。

あんなこと、普通に起こるはずがないのに。

「馬鹿か、俺は……いや、馬鹿だ俺は」

小刻みに震え出す奥歯を噛みしめ、スバルは自分の弱気を押し殺そうとする。

あの異常な不和の中、向けられた殺意が本物であったはずがない。パトラッシュに殺されたことは、スバルにとっても癒えない傷として心に刻み込まれた。

それでも、スバルは自分を殺した存在と向き合うことを繰り返してきたはずだ。

「そうだよ。レムだってラムだって、最初は……さ」

今しがた、温もりを覗かせたラムだって。

あれだけスバルを献身的に支え、許してくれたレムだって。

最初の関係は最悪だったし、命を狙われたことも、奪われたこともあったのだ。

それと比べれば、本意ではなかった先の出来事など、可愛いものだ。

「そうだ。そうだろ。……そのはず、なんだ」

自分の肩を抱き、スバルはまるで寒さを堪えるように肌を擦る。

砂海の地下、砂と闇に支配されるこの場所は確かに寒い。しかし、寒気を感じる理由は決して、外気のそれとは原因を異にしている。

「――ナツキくん、目覚めたみたいやね」

「――おかげさまで。それで、見回ってきてどうでしたか?」

正面、ラムとアナスタシアが言葉を交わしている。

この砂の迷宮の攻略方針と、今しがた得てきた情報のすり合わせを行っているはずだ。本来、スバルはそこに混ざり、伝えなくてはならないことが多くある。

それなのに、今は心を落ち着けることを優先しなくては、膝が動かない。

『死に戻り』したことで、『死』の直前の出来事や影響は置き去りにしたはずだ。

それなのに、消そうとしても恐怖は浮かび、あの瞬間の激情は蘇る。

スバルは延々と、その感情を押し退けるために抗い続けた。

「――――」

そんなスバルの様子を、漆黒の地竜はただ寂しげに見守っているのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――『死に戻り』したはずのスバルの心が、元に戻りきれていない。

そんな一部の事情を除けば、四人の地下迷宮探索の内容はほとんど同一だ。

自分たち以外の仲間の姿を求めて、スバルを先頭にした集団は冷たい闇の中をゆっくりと進む。カンテラで通路を照らし、道端に倒れている影がないか目を凝らしながら、その歩みは遅々として、もどかしいほどだ。

「――――」

本音を語れば、スバルはこの道中の確認作業を省略してしまいたい。

すでにスバルにとって、このあたりは二度通った道のりだ。見渡せる範囲にエミリアたちが転がっているはずがない。かといって、それを後ろの二人に訴えかけることに意味はないし、見落としがあると言われれば抗弁は不可能だ。

結果、ただでさえ落ち着かず、もどかしい行軍はペースの上がらないまま、スバルの焦燥感だけを募らせる時間が刻々と過ぎていく。

「他のみんなも無事やとええけど……うちらの場合、パトラッシュちゃんがおる分だけギリギリ運が良かった方かもしれんし」

「――――」

「足がない場合のこと考えたら、砂海の中なんて地獄やもん。不安はやっぱり、普通に戦力不足なことやろなぁ……」

「――――」

「最悪、うちも切り札出すんは躊躇わんようにするけど、程々にせんと後がないから怖いんよ。せやから、二人のこと頼らせてな?」

「――――」

「……ちょぉ、ナツキくんもラムさんも話聞いてる? さっきからずーっと、うちが一人で喋っとるやないの」

探索の道中、ずっと喋っていたアナスタシアが膨れる気配。相槌も入らない環境に不服を申し立てる彼女に、スバルは足を止めて振り返った。

それから竜上にいるアナスタシアを照らし、鼻から呆れた息を抜いて、

「ようもまぁ、喋る内容が尽きずに続けられるもんだな。……今は他の奴らを見つけるために必死になるべきとこだろ。無駄口叩いてる暇なんてねぇよ」

「無駄口やなんてとんでもやないの。うちはちゃぁんと今後の方針に関係あるお話してますぅ。それに、お喋りが尽きないんは普段はナツキくんの役目やん。今に限って静かぁにされたら、女の子二人……んーん、四人が不安になるやないの」

「四人、ね」

唇を曲げるスバルに、口の減らないアナスタシアがそう応戦する。

二人ならカウントはラムとアナスタシアだが、四人と言い直したのなら襟ドナとパトラッシュを加えた結果だろう。厳密にはアナスタシア=襟ドナ状態なので、三人と言い換えるべき場面だが――そもそも、訂正する問題でもない。

「――――」

頬を膨らませるアナスタシアに、スバルは黒瞳を細めて考え込む。

本物のアナスタシアは休眠中で、今は襟ドナが装っているだけ。にしても、その振る舞いもだいぶ馴染んできて、まるで溶け合っているかのようだ。

主導権を握っているのがどちらでも、彼女の表情や言動から内心を見透かすことができないのは、残念ながら変わらないのだが。

――前回、殺し合いに陥った不和の中、結末の凄惨さでラムとパトラッシュのことばかりが意識にあるが、アナスタシアの態度にも違和感はあった。

ラムの敵意とパトラッシュの害意、明白におかしくなった二人はわかりやすい。

だが、アナスタシアのそれは一見して狂気に陥ったか判断しづらく、最後の瞬間まで彼女の心がどんな色になっていたのかはわからないままだった。

無論、地力の差でアナスタシアはラムに殺されたが、非常用持ち出し袋の中のナイフを隠し持ったり、取り成すように見せかけて隙を窺うなど、その狡猾さはどこまでも油断ならない。

常日頃、意識していなければどこで寝首を掻かれてもおかしくは――。

「……なんだってそうやって」

――敵対することばかり、ずっと考えているのだろうか。

「――ッ」

通路の正面を向き、スバルはラムたちに見えない位置で自分の頬を殴る。

手加減抜きの一発に口の中が切れ、鋭い痛みと血の味を舌先に感じた。そうして自分自身を痛めつけて、混濁する意識の矯正を行う。

ラムやアナスタシア、彼女らが異常なのではない。

現時点で異常性を手放せていないのは、他でもないスバルの方だ。

「すげぇな。自分で自分がおかしいのがわかるって、ゾッとしねぇ」

自分が狂っているのか、相手が狂っているのか。

自分以外の何もかもが間違っていると、そう驕ったことがスバルにはあった。

究極的には当然、それは全て誤りである。迷走するスバル自身、傲慢に己が正しいと決めつけ、周囲を否定して回った馬鹿な経験をしただけだ。

最後には自分が間違っていたのだと、最初からわかりきっていたことを指摘され、それを認めることができた。だから、それは正しく、鮮やかな記憶だ。

だが、現状のスバルはその自分の異常性を、正常さの中で認識している。

その上でその異常性を飼い馴らせていないのだから、それはひたすらに恐ろしい。

この境地に、スバルは覚えと心当たりがある。

この荒涼とした心の感覚と、どこまでも孤独に狂っていく飢餓的な狂気。

これは狂人、ペテルギウス・ロマネコンティの至っていた地平だ。

自らの狂気を自覚して、異常性を正常に認識する、あの狂人の見た景色だ。

「バルス、どうかしたの?」

嫌な共感性を味わいながら、震えるスバルの背中にラムの声がかかった。

スバルは涎に混じる血を飲み下し、それから何事もない素振りで二人に振り返る。

「いや、なんでもね。靴の中に砂が入って気持ち悪いだけ」

「……別にバルスの一人が黙ったぐらいで、ラムの心に影響があるなんてことは微塵もないけど、アナスタシア様の言葉にも一理あるわ」

「ってーと?」

「黙り込んで、は別にしても、何かを抱え込んで女を不安にさせるものじゃないわ。そうさせたくないなら、もっとうまく隠すようになさい」

「――――」

ぴしゃりと言われて、スバルは再び唇をへの字に曲げた。

ラムの言葉の意味は明白で、勘違いのしようがない。そうすると、ラムの言葉がアナスタシアのわかりづらい配慮の翻訳であったことにも気付ける。

まるで見透かされているようで、心がささくれ立った。

「漠然としたもんだよ。話してわかるとは思えない」

「バルスの発言の意味がわからないなんて今さらだわ。そのことを心配するなら、もっと日頃から配慮するべきね」

「ラムさんって、ナツキくん相手やとホントに容赦ないなぁ」

舌打ちするスバルの言葉に、ラムは相変わらずの舌鋒をぶつけてくる。その毒のあまりの濃さと鋭さに、アナスタシアの方が苦笑するほどだ。

そのアナスタシアの穏やかな制止に、ラムはしかし肩をすくめて、

「ご安心ください。バルスは喜んでいます。苦難を喜ぶ変態なので」

「何の話? ねえ、俺の何を見た上での判定なの? あんまり自由にサンドバッグにするなよ? 知ってる? 打っていいのは打たれる覚悟のある奴だけだよ?」

「ハッ」

小馬鹿にするように鼻を鳴らすラムの態度は、ほぼほぼ普段の彼女そのものだ。

スバルの心持ちと違い、すでに平静を取り戻せている彼女が羨ましくもあり、妬ましくも憎たらしくもあって、そう考える自分に嫌気が差した。

ただ、それでも普段の軽口を交わしていれば、不穏の影の色は薄められる。それは紛れもなく、スバルが彼女らとの日常の中で作り上げた光明そのものだった。

「説明しづらいのをどうにか説明すると……ちょっと今、被害妄想が激しい」

「――――」

改めて言葉にすると、想像以上にフワッとした内容になってしまった。

それを受け、ラムやアナスタシアが唇をへの字にするのも頷けようものだ。

「――――」

ちらと見れば、パトラッシュまでもなんだか呆れているように見える。

賢く、物事の道理の何たるかを弁えているパトラッシュにとって、今のスバルの不甲斐なさは目も当てられまい。いっそ、スバルのことなど見限って、適当な主と鞍替えしてやった方がよほど彼女のためになろう。

実際、ラムやアナスタシアの方がパトラッシュを上手く扱える気がする。そのために邪魔だと思うなら、スバルに牙を剥くのも自然で――、

「ストップ、ストップだ……」

「聞こえ方の間抜けさに比べて、深刻なんやーってことはわかったわ」

パトラッシュと見つめ合い、徐々に剣呑になるスバルをアナスタシアがそう評する。客観的におかしい、と認められると安堵と不安が同時に湧く。

ようは彼女らの選択肢の中に、スバルを排除するというものが生まれたわけだ。そうなる前にこそ、いっそ――。

「俺、超めんどくせぇ」

「これ、もしかして本気でふん縛って運んだ方が楽なんとちゃう?」

顔を赤くしたり青くしたり、一人で百面相するスバルにアナスタシアが匙を投げた。そのアナスタシアの判定にラムは「だけど」と思わしげに眉を寄せる。

「そうやってバルスの四肢をもいでも、根本的な解決にはなりません」

「あまり強い言葉を使うなよ。俺という敵を作るぞ」

「大した脅威じゃないけど、ラムもエミリア様やベアトリス様を敵に回すのは御免被りたいわね。……レムにも顔向けできなくなるし」

考え込むラムに対して、スバルは敵意を抱かないように苦心する。

そんな風に自分の感情と戦う一方、不思議に思っていることが実はあった。

それは本当に今さら、この状況で考えるべきことではない。

ただ、このプレアデス監視塔攻略の旅に出て、砂の迷宮で二度の『死に戻り』を経た今、表出する疑問であった。

――レムについて、ラムがやけに敏感に反応するのが気にかかるのだ。

「――――」

もちろんスバルにとって、ラムがレムのことを気にかけるのは良い兆候だ。

スバル以外の誰の記憶にも残っていないレムにとって、彼女と双方向に絆を結んでいるのはスバルしかいない。それはある種、特別感をスバルにもたらしてくれこそするものの、物理的な意味では何の意味をもたらすものでもない。

そのレムの孤立した事情に、ラムは限りなく親身に近付こうとしている。

無論、レムの記憶が彼女の中に残っていないのは、この一年で嫌というほど思い知らされた事実だ。ただその一方で、ラムが自分と瓜二つのレムという少女の存在を、『スバルから知らされた真実』以上に重く受け止めていることも間違いない。

そしてどうやらその感情は、スバルが『想像を超えたと想像していた』以上の実感をラムにもたらしているらしい。

そのことは先の迷宮の不和――その切っ掛けとなった、スバルの配慮に欠けた言動への爆発からも窺える。

思い出したわけではない。なのに、思い出したのに匹敵するラムの想い。

彼女は情が、おそらくスバルの考える以上に深い。

――ただ、本当にそれだけなのだろうか。

「……いやらしい」

「いや、いやらしくねぇよ。そんな目じゃねぇよ。それこそ被害妄想だよ!」

「自分を棚に上げてそれ? これはもう駄目ね」

「俺が棚に上がってるとしたら、お前は神棚に自分から上がって見下ろしてるよ?」

そうして、普段と関係は変わっていないのだと、軽口を交わす間は安心できる。

仮に即座に気分が入れ替わり、温かな感情が冷たい害意に変わるとしても。

その間だけは、誰かを憎まずいられるのだ。

「ナツキくんの動向には注意するとして……原因は、あれかなぁ」

「アナスタシア様もお気付きですか」

「そりゃ、ナツキくんがこうまであからさまに影響受けるとそう思うわ」

疑心暗鬼と被害妄想に侵されるスバルの事情に、ラムとアナスタシアが心当たりがある様子で顔を見合わせる。というより、スバルも原因だけならわかっている。

二人の洞察力と、警戒心ならばそれはなおさらだ。ああして会話しながらも、スバルの一挙一動に注意深く気を払っているのが忌々しいほどわかる。

「忌々しいって……アホか」

「何か言った?」

「自分の馬鹿さ加減にな。それで、心当たりって?」

自分の感性に首をひねっていると、ラムとアナスタシアにも首をひねられる。それからスバルの質問に、二人は揃って正面を指差した。

その動きにつられて前を見れば、なるほど彼女らの言いたいこともわかる。

――目の前に、あの分かれ道が姿を現したのだ。

「さっきから嫌ぁな風が流れてくるんは感じてたけど……原因がわかったわ」

「この悪い風が不和を呼ぶ。メィリィの話だと、バルスの体臭は魔獣を呼び寄せるそうだし、元々、相性が悪い……いえ、良いのかしらね」

「これ、この嫌な感じがなんだかわかるのか?」

「バルスの現状と、バルスの体臭と、掛け合わせると答えは一つよ」

「体臭って何度も言うな」

過去二回は単純に『嫌な感じ』というところで全会一致した内容。そこにスバルの体質と現状が絡み合うことで違う見解が生まれる。

ラムとアナスタシアは顔を見合わせ、それから頷き合うと同時に、

「瘴気」

「魔女の、あれか。となると、この先にいるのって……」

「確信はないけど、元々、砂丘の奥に『魔女の祠』があるのは周知の事実。ああして砂海が解けた以上、何かの間違いで繋がっても……」

「とんだ近道になった、言うことなんかなぁ。それで、やけど」

精神を掻き乱し、殺し合いを呼ぶほどの不和を生んだ原因を瘴気と断定。

その上でおぞましき存在の可能性を言葉にし、アナスタシアが苦笑いしながら道を指差す。

二手に分かれる分かれ道、右からは瘴気が漂い、左にはケンタウロスの巣。

無論、左の道に潜む脅威については、この後でうまく話すつもりではあるが――今優先すべきことは、どちらへ進むか。

「で、どっちに進むんが正解やと思う?」

アナスタシアの問いかけに、スバルとラムは顔を見合わせる。

そして、寸分の狂いもなく声を合わせ、言った。

「――左」

そういうことになった。

第六章17 『砂海の王』

全会一致で分かれ道を左へ進むことになった、チーム『非戦闘員』。

右の道へ進めば瘴気に呑まれ、殺し合いに発展する不和が生まれることは明白。それだけに、左の道を選ぶのは極々自然なことで、間違ってはいない。

それはスバルにとって答えの出ている問答でもある。が、ならば左の道が安全策なのかといえばそういうわけでもないのだから出題者は意地が悪い。

右の道が精神的な罠だとすれば、左の道に待ち構えるのは物理的な罠だ。

あの炎を纏う異形の魔獣――ケンタウロスとの遭遇はできるなら避けたい。

それは戦っても勝ち目が薄い、というわかりきった戦力差だけが問題ではない。今の心境で魔獣と遭遇したとき、心からラムやアナスタシアたちと協力して戦うことができるかどうか、自分で自分に自信が持てないことが理由だ。

「実は砂丘で遠目にすげぇ魔獣を見たことがあってさ。パトラッシュみたいな体の首から上が人間の胴体になってて、その胴体の胸から腹にかけてでかい口が開いてる。んで、人の胴体の頭の部分はでかい角が生えてて……」

「えぇ、なにそれ……めっちゃ気持ち悪いやん……」

「正直、ひいたわ」

前回の魔獣話の流れを踏襲し、自然な展開でケンタウロスの生態の説明に入れた。それに対する女性陣二人――パトラッシュ含めて三名の嫌な反応はそのまま。

スバルとて、好んで説明したいわけではない。それでも、左の道に進み続ける以上、奴との遭遇は七割方避けられないと考えるべきだった。

「ひかれるのは予想してたけど、とにかくヤバそうな奴なんだ。一応、ケンタウロスって勝手に呼ぶけど、見た目がキモイだけじゃなく、背中に生えてる鬣とかがメラメラ燃えてて……すげぇ強そうだった。控え目に言って、勝てなそう」

「なんでそんな魔獣、見つけてそのまま放置したの? 死にたいの?」

「ああ?」

できるだけ感情を波立たせずに説明したが、普段通りのラムの軽口にすぐに怒りが込み上げる。わざわざ注意してやったのに何様なのか。

いつも偉そうに人を見下して、と内心で憤懣が憎悪に変わりかけるのを感じ、スバルは大きく深呼吸。激情を静め、落ち着くのに躍起になる。

「クソ……! 最悪だ、この場所」

「難儀ね。ラムも比較的、言葉は選んでいるつもりだけど」

「今ので選んでるつもりなら、たぶん、何の足しにもならねぇよ」

自分の感情を持て余すスバルに、ラムの声と視線が同情を帯びる。

もっとも、その態度が哀れまれているようでますますスバルを苛立たせるのだから、まさに何をしても逆効果と言わざるをえなかった。

「瘴気の影響……なんて話にするんは簡単やけど、それだけなんかは怖いとこやね。実際、うちやラムさんは影響受けてないわけやし」

「そりゃどういう意味だ? 自分だけは大丈夫、なんてお花畑な思考してんならやめた方がいいぞ。一皮剥けば、俺もお前も同じ人間だよ」

「棘のある言い方やわぁ。うちかて、そこまで自分に自信があるわけやないよ。判断力や決断力云々と、心身の強さはまた別の問題やし。……たぁだ、何でもかんでも瘴気の怖さに押し付けるんは話が乱暴やなって」

もったいぶった言い回しで、アナスタシアはスバルの現状に苦言を呈する。

理性的な言葉だが、要領を得ないことにスバルは苛立つ。一行の先頭に立ち、通路の砂を踏みしめて進みながら、スバルは態度で彼女に言葉の先を促した。

それを受け、アナスタシアは小さく咳払いすると、

「瘴気に関しての話やけど……うちも詳しいわけやないから、聞きかじりの話になるんは勘弁してな?」

「本格的に詳しいのは、それこそ魔女教ぐらいでしょうね」

「そうやけど、世の中には好き好んで人の嫌がるもんに触れたがる人種もおるんよ。例えば瘴気について調べて回る変わり者とか、やね。うちの知識はその、又聞きの又聞きの又聞き、ぐらいの眉唾になるんやけど」

アナスタシアが例に挙げたのは魔女研究者、といったところだろうか。

意外な響きだが、考えてみれば完全にゼロとするのもおかしな話だ。この世界にも研究者のような存在はいるだろうし、そうした知識欲の持ち主の全員が理性的に、世界の流れに従って禁忌の探究は避ける――と、まともな精神性のはずもない。

どこの世界、どんな時代にも、型にはまらない好奇心の権化はいるものだろう。

「その又聞きした知識のそもそもの始まりやけど、まず『瘴気』とは何か?」

「それは……魔女や魔獣の放つ、汚染されたマナでしょう? 魔女教徒も同じものを放っていると、そんな風に聞いたこともあります」

「ラムさんの答えが通説やね。瘴気は魔女が放ってるもんで、魔女に生み出された魔獣も同じように垂れ流しにしてる……やけど、こんな話は知ってる?」

「――――」

「魔女教徒と魔獣は、実はメチャクチャ仲が悪いんやってお話」

流暢に語り出すアナスタシア=襟ドナ。

作り手が作り手だけに、自分の知識をひけらかすのが好きなのかもしれない。アナスタシアのメッキが剥がれて、その下の白狐の本性が透けて見えるようだ。

そんな感想を抱くスバルと裏腹に、ラムはアナスタシアの言葉に目を丸くする。

魔女教徒と魔獣、それは共に『嫉妬の魔女』に味方する存在として考えられている者たちだ。その両者が実は険悪な関係、というのは驚くべきことかもしれない。

「俄かには信じられませんが……本当なんですか?」

「生憎、うちも魔女教徒と魔獣に知り合いがおるわけやないからホントのところはわからないんよ。せやから聞きかじりの話やって前置きしたわけ。せやけど、これがホントの話やとしたら、面白いと思わん?」

「面白い……?」

本来、用いられるべきではない単語が出た気がして、スバルが反応する。と、そのスバルの反応にアナスタシアは「そ」と短く頷いた。

「世の中、みぃんな『魔女』と魔女教徒と魔獣は仲良しやと思うとるやろ? それやのに、実際は魔女の下の二つは反目してるなんて知らんわけや。そんな勘違いが四百年もまかり通って……誰も真相を知らんのやもん」

「それは、確かに……」

「これも又聞きで悪いんやけど、瘴気のことも誤解が多いらしいわ。例えば、魔獣と瘴気の関係も実は知られてるのとは真逆で、魔獣は瘴気が大嫌い。魔女のことも、本心では憎たらしく思うてるって話」

「――いくらなんでもさすがにそこまでは」

アナスタシアの物語りに引き込まれ、ラムは質疑の言葉を重ねている。

そんな彼女たちのやり取りを背後に、スバルはアナスタシア=襟ドナの言葉が、おおよそ否定できない要素で固められていることを理解していた。

魔女と魔獣の関係が実は険悪で、魔獣は魔女のことを嫌悪している。

その可能性はこれまで、何度も『魔女の残り香』を利用してきたスバルには非常に頷けるものだ。そうでなければ魔獣は何故、ああまで憎悪を滾らせて、魔女の香りを漂わせるスバルを躍起になって追いかけるというのか。

異世界召喚された当初の魔獣騒動に加え、白鯨すらも攻略に残り香を利用した。

ここまで証拠が揃えば、魔女の残り香と瘴気との関連性を無視することも不可能。

――スバルを取り巻く『魔女の残り香』こそが、瘴気そのものなのだろう。

「まさか魔獣全部がペテルギウスみたいなヤンデレ属性持ちってことはねぇだろ。魔女以外の奴から魔女の臭いがするのは許せない。他の女の臭いがする的な」

それはそれでおぞましい想像だが、筋を通すには前述の可能性の方が適当だ。

つまり、魔獣は魔女の瘴気を嫌い、強烈に敵視している。

そもそも、『嫉妬の魔女』が魔獣を生み出した、という風説が実は間違っているということを大抵の人々は知らないはずだ。

魔獣を生み出したのは『嫉妬の魔女』ではなく、『暴食の魔女』である。

そこが伝わっていないから、魔獣と瘴気との関係性にも誰も気付かないのだろう。

アナスタシアの知識の源――実際に、『魔女』のことを研究する研究者がいるかどうかは不明だが、実在するならいい目の付け所をしている。

「……なんて、白々しい茶番か」

そこまで考えて、スバルは自分のお気楽さに呆れて嘆息した。

そんないるかどうかもわからない研究者の有無を疑うより、単純にアナスタシア=襟ドナが最初から持っていた知識を出しただけと考えた方が自然だ。

そう考えると、次第にスバルの中で別の形の憤懣が湧き上がる。

何故、こうまでしてスバルはアナスタシア=襟ドナの事情を隠してやる必要があるのだろうか。ユリウスや『鉄の牙』への配慮、それはある。

特にユリウスは現状、世界の記憶からこぼれていっぱいいっぱいの状況だ。

出来得る限り普段通りを装おうとしているユリウスだが、やはり彼であっても行き届かない部分はある。それを思えば、余計な心的負担は避けるべきだ。

避けるべきだが、それでなんでスバルが代わりに負担を負う必要がある。

「――――」

どいつもこいつも身勝手だ。

そんな奴らの尻拭いに、どうしてスバルばかりが奔走しなくてはならない。

腹立たしい。忌々しい。いっそ、何もかも全部ぶちまけてやろうか。アナスタシアの精神のことも、スバルの『死に戻り』のことも、何もかも――。

「……バルス。いきなり砂に頭を突っ込むのは不審だからやめなさい」

「関係悪化を防ぐための、俺の自発的な防衛行動だよ。ぺっ」

憤懣が限界に達しかけて、スバルは罵声を吐く前に顔から砂の壁に突っ込んだ。砂の壁は思いの外脆く、意外にも手で掘り抜けてしまいそうだ。

そんな事実と引き換えに、スバルは口の中に入った砂を吐き出す。ラムの白い目に思うところはあるが、自分の行動の責任でもあるので反発は胸に秘めておいた。

「ナツキくんの奇行も瘴気の影響……かな?」

「いえ、バルスの行いは素です」

「素ではねぇよ。瘴気の影響の二次災害だよ」

「まぁ、そこのところの真偽はおいおいってところで話を戻すと……魔獣は実は魔女が嫌い。そうなると、魔女教徒と魔獣の仲の悪さは説明がつくやろ?」

意識的に軽口で間を作り、それから本題に戻ったアナスタシアは首を傾げる。が、彼女の言葉にスバルの同意は追いつかない。代わりにラムが頷くと、

「仲が悪いかどうかは別として、魔女教徒と魔獣が一緒に行動している……なんて話は聞いたことがありません。そもそも、魔女教の噂自体が広まらないのもあります」

「そうか……本当はあいつらって隠れて暗躍する秘密組織系統なんだよな。なんでだろ、全然そんな感じのイメージがないんだが」

「バルスとエミリア様はあんな連中とぶつかりすぎなのよ」

スバルの知る魔女教徒は、揃いも揃って自意識過剰で自己顕示欲が強い。

ペテルギウスもその活動が密やかだったとは言えないし、他の大罪司教に至っては大都市一つ乗っ取った上に、放送までするアピールぶりだった。

どの面下げて、奴らが水面下で活動する悪の組織などといえるだろうか。

「あ、でも待てよ。白鯨はどうなる。あれは魔女教と協力してた……かどうかは今になるとちょっと怪しいが、その節があったぞ」

「さあ? 魔獣の方が魔女教を嫌うんが確かでも、魔女教が魔獣嫌いなんかはうちもよぅ知らんし……ま、違うくてもうちは拘らんけど」

「自分から話し出しといて……」

スバルの反論に適当な抗弁をして、アナスタシアは自説をあっさり投げ出す。その拘りの薄さは、なるほど他人の意見の又聞きというのは事実なのかもしれない。

ただ、話のタネとして使い潰した内容。その最後にアナスタシアは片目をつむり、

「結局、瘴気関係のこともよぅわからんってだけのお話。ラムさんの言う通り、汚染されたマナやなんて考え方もあるけど……じゃぁ、マナが汚染されるってどういう状況なんか説明できる人はおらんやろ?」

「――――」

「誰の体を通っても、マナはマナ。魔法や魔石細工で目的のために性質は変えても、マナそのものに色を付けるなんて誰にもできんことやのに」

「それは……」

「どうして、『嫉妬の魔女』だけはマナが汚せるんやろね。そして、その汚されたマナに適応する魔女教徒は、いったい、何のためにおるんやろね?」

立て続けに疑問を投げかけるアナスタシアに、珍しくラムが口をつぐむ。

反論の言葉が浮かばず、沈黙を選ぶ彼女は珍しい。それと同時にスバルは、アナスタシアのその語り口にデジャブと嫌悪感を味わっていた。

その要領を得ない内容と、結論を有耶無耶にされる物言い。

煙に巻くような態度の全てが、エキドナとダブって思えて嫌な気分だった。

「ととと、無駄話が過ぎたみたいやね」

ラムの沈黙とスバルの感慨、それらを余所にアナスタシアがふいに言った。

それまでと声の調子ががらりと変わり、急な話題の転換に置いてけぼりにされる。そんな二人を置いて、アナスタシアは手にしたカンテラで通路の正面を照らした。

その動きに倣ってスバルも足を止め、カンテラを掲げながら、気付く。

「――――」

正面、通路は緩やかに左に向かって折れ、微かに風が吹いてくる。

どこもかしこも変わり映えのしない砂の壁だが、そのいきなりな曲線と、漂う風に混じる『焦げ臭さ』には強烈に覚えがあった。

「焦げ臭い、肉を焼いた臭いね」

わずかに熱気を孕んだ風に、ラムが端的な感想をこぼす。

焼きすぎなぐらいに火を通した、黒焦げの肉の臭いが通路の奥から流れている。

この香りが、炊事に勤しむ誰かがいる証拠で、友好的に接触することが可能かもしれない――などと、無知だったとはいえよく考えられたものだ。むしろ、今よりそのときの方がよっぽど頭がおかしかったのではないだろうか。

「エミリア様たちが迂闊にも火を焚いて休息中……その線はあると思う?」

「迂闊に火を焚きそうなのがエミリアなのは同意見だが、ケンタウロスの話をした俺がそんな想像する余地はないな。お前も、頭がお花畑じゃないと信じてるぜ?」

「その暴言、瘴気が抜けた後でどう言い訳するのか楽しみにしておくわ」

ラムの問いかけに必要以上に刺々しく返すと、彼女からも痛烈に毒を返される。

そのことに鼻を鳴らし、スバルは敵意を向ける相手が違うと自分に言い聞かせた。

もはやここに至れば疑うまでもない。

この焦げ臭い風の先には大空洞があり、そこには炎を纏う冒涜的な魔獣がいる。

ここまで辿り着くのにかけた時間は、前々回に比べればいくらか早かったはずだ。それでも遭遇するからには、おそらくあの場所は魔獣の巣穴なのだろう。

奴がわざわざ移動してくれる、そんな淡い期待は抱けない。ならば――、

「殺して通るしかない、か?」

「現存戦力でできる案を挙げる方が建設的だとラムは思うわ」

「切り札さえ切ったら戦えんことはないけど……うち、できれば身ぃ削るんは最終手段にしたいわぁ。取り返しがつかんのやもん」

物騒なスバルの方針に、ラムとアナスタシアが揃って反対する。

否定されたことに苛立つが、スバルも今の自説を推すつもりはひとまずない。

実際、無茶な話には違いないのだ。伊達にチーム『非戦闘員』を名乗っているわけではない。魔獣と渡り合う選択肢は無謀と割り切るべきだろう。

「かといって、戻って右の道ってわけにはいかない」

「バルスのここまでの百面相を見ていて、右の道に進める豪胆さはないわね」

「でも、それやと八方ふさがりやなぁ。まさか最初の場所に戻って、他のみんなが探しにきてくれるんを待つ……なんて殊勝なことはでけんやろ?」

ラムの軽口はともかく、アナスタシアの言葉はもっともだ。今さら魔獣を恐れて戻るぐらいなら、最初から言葉を弄してあの場に留まったはずである。

そうしなかった以上、スバルの結論はあの魔獣を越える一択だ。

そしてそのための方法は、全く探れないわけではない。

「まず、必要なのは相手の情報だ。推測通りなら、可能性はある」

方針に迷う二人に先駆けて結論を出し、スバルはそう言った。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――魔獣ケンタウロスの生態について、スバルはほとんど何も知らないも同然だ。

なにせ、出くわしてものの十数秒で焼き殺されただけの関係である。

その外見の異形さに生理的嫌悪感を催したことと、火力が凄かったことだけが実体験として魂に痛々しく刻まれている。

通り一遍の考え方なら、無駄死にであったと捉えるのも仕方ない死に様だ。

だが、それでナツキ・スバルを推し量った気になってもらっては困る。

突発的な『死』に関して、ナツキ・スバルは百戦錬磨。もはや『死』という事象をただ『死』で済ませるような真似、しないで済むだけの経験則が培われている。

「まず、注目するべきなのはあのケンタウロスのビジュアルだ」

一度、目にしてしまえば忘れることのできない醜悪な外見。

見たのはほんの十数秒だが、その異様な見た目がかえって鮮烈に記憶に焼き付き、スバルの考察の手助けをしてくれる。

馬の下半身に人の胴体、角と化した頭部に胴体に開いた巨大な口腔。

いずれも子どもが適当に粘土細工で遊んだような不細工な有様だが、目を逸らさずに記憶を観察すれば気付く点がある。

「ずばり、目が付いてない」

本来、頭部があるべき場所に頭がないのだ。結果、あの魔獣の肉体に視覚を司る器官が見当たらなかったことは間違いない。

あるいはカンテラ無しでは光源らしいものがまるでない、この砂海の地下で活動することによる弊害――退化であったのかもしれない。

「モグラみたいなもんか。地下に適応するあまり、視力を失った」

それとも、最初から付いていなかったのか定かではないが、少なくともあの魔獣は視覚に頼って活動していたわけではおそらくない。

あのとき、魔獣はスバルの存在にカンテラの光で気付いた様子はなかった。魔獣がスバルに気付いたのは、あくまでスバル自身の無警戒に発する音と気配が原因だ。

即ち、あの魔獣が目の代わりに発達したのは、嗅覚か聴覚のいずれか。

「モグラは確か耳が良くて、代わりに鼻が馬鹿だって聞いたことがある」

先ほどのアナスタシアではないが、これも聞きかじりの知識には違いない。

ただ、何の根拠もない考えに縋るよりかは、よほどスバルの推測のアシストにはなる。ケンタウロスの強みは聴覚、そう考えてスバルは行動することにした。

故に――、

「――――」

無言のまま、スバルはできる限り静かに、無音で、腕を振り上げ、振り下ろす。

砂を踏みつけた瞬間、粒子が擦れる音がしないように細心の注意を払い、その上で振り下ろした腕の先端から投じられるのは、非常用持ち出し袋の中に入れてあった水の容器の一つだ。

それは狙い違わず、真っ直ぐに大空洞の端へ飛んでいき――空間の真ん中で赤々と燃え上がる魔獣の意識を、落下地点へと引きつけた。

「――――ッ!!」

水の容器が軽い音を立てて砂の上に落ちると、その音に気付いたケンタウロスは劇的な反応を見せる。燃える鬣を振り乱し、馬の胴体で飛び跳ねる魔獣は真っ直ぐに音の発生源へ駆け寄り、そこに猛然と躊躇なく体当たりをぶちかました。

「――――ッ!!」

壮絶に砂が舞い上がり、火の粉がチロチロと空洞の中に飛び散っていく。

激情に振り回されるケンタウロスは飛び回り、その開いた巨大な口の中の牙を擦り合わせ、無数の赤ん坊が泣き喚くような耳障りな咆哮を上げ続けた。

そしてそのまま、炎に包まれてひしゃげた水の容器を何度も踏みつけ、原形がなくなるほどに破壊させると、鬣から溢れる炎を砂の上にさらに垂れ流す。そうしてようやっと、乾いた砂以外が焼き尽くされ、魔獣は満足げに動きを止めた。

どうやら満足したらしい。

その行いを横目にしながら、スバルは腰に付けた紐を揺らし、移動を促す。魔獣の甲高い鳴き声が埋め尽くす空間の中、注意深く砂を踏む音は細切れにされる。

そうして細心の注意を払いながら一歩、また一歩と進んで――、

「――――」

止まれ、という意を込めて紐を引き、進む地竜の足を引き止める。

人語を解さぬはずの地竜はその指示に驚くほど律儀に従い、その巨躯に見合わない慎重な足取りでゆっくりと砂に足踏みした。

――闇色に塗り固められた空洞の中、スバルたちは決死の行軍を行っている。

空洞の広さはおおよそ、学校の体育館ほどと考えれば近いだろうか。

そこかしこに魔獣に焼かれた生き物の黒焦げ死体が転がる空間で、その端をスバルたちは足音と息を殺して縦断し、魔獣をやり過ごそうとしていた。

「――――」

静まり返った、というほど静寂だけが落ちる空間ではない。

ケンタウロスの、馬鹿に大きな口腔は荒い呼吸を繰り返しており、その音は風船に込めた空気が抜けるような不細工な音のそれに近いものだ。

外見だけでなく、その生態までも醜悪な魔獣――ただ、今はその単純明快な在り方がありがたい。おかげで、戦わずに済む算段も立った。

「――――」

再び、スバルは手の中に握った別の水筒を掲げ、ケンタウロスの背後へ投げる。単細胞の魔獣はその音に反応し、またしても猛然と空の筒に攻撃を仕掛けた。

炎と赤子の鳴き声が空間を埋め尽くし、盛大な火力に水筒は爆ぜ、乾いた音を立てて黒い炭へと姿を変える。

ただ、その間もスバルたちは歩みを進め、通路への距離を縮めることに成功した。

――ケンタウロスの生態を観察し、スバルの出した結論がこの単純な陽動だった。

視覚の存在しないことを理由に、スバルはケンタウロスの頼りは聴覚と判断。ラムやアナスタシアを置いて、物を投げる同じ手法で魔獣の気を引き、何度かそれを繰り返して確信を得た。

ケンタウロスは聴覚を頼りに獲物を見つける魔獣で、その上、同じ手法に何度となく引っかかる単純な頭の作りをしている生き物だと。

それを確かめることができれば、あとのことは簡単な話だ。

陽動するための素材を掻き集め、魔獣をやり過ごした後で逃げ込むための通路の位置をラムに風で読ませる。あとは入念にパトラッシュに隠密行動を言って聞かせ、緊張感と不安に負けないように心を強く持って、勝負に臨むだけのこと。

「――――」

実際、スバルの立てた作戦は拍子抜けするぐらいうまくいっている。

すでに空洞から通路への道のりは半分ほどまでクリアしており、緊張感に反して費やした時間はそれほど多くはない。学習能力のない魔獣は、同じことの繰り返しでクリアすることは十分に可能だろう。

「――――」

無論、カンテラの明かりは落としており、スバルたちの目に確かに見えるのは遠間で大いにはしゃいでいるケンタウロスの燃える鬣だけだ。

おそらく、視覚に頼らない魔獣にはカンテラの明かりは気取られないはずだが、それでも刺激する要因はできるだけ絞るのが小市民的な判断だ。

「――――」

紐が引かれる気配がして、スバルは物思いに耽っていた意識を引き戻される。

陽動を実行するスバルには二本の紐が持たされており、片方はパトラッシュに、もう片方はパトラッシュに騎竜するラムに持たせてある。

パトラッシュへの指示は『進め』と『止まれ』だが、ラムとの繋がりはこれといって明文化されてはいない。お互いに呼びかけ合う程度のものだ。

ただ、顔も合わせず、言葉も交わさず、意識だけを伝える紐の繋がりは、今のスバルには意外なほど落ち着くものだった。

これならばひとまず、スバルはラムに対してもアナスタシアに対しても悪感情を抱かずにいられる。誰かと顔を合わせないことがここまで楽だとは、という心境だ。

一方で、そんな孤独に安らぐ自分の心に不安がないわけでもない。

瘴気の影響である――と半ばスバルは自分を納得させているが、アナスタシアの先ほどの話で『瘴気』とは何なのか、それが不透明になった部分も大きい。

この場所を出れば治るものなのか、今はそれも疑わしいのが事実だ。

もしも治らなかったとしたら、エミリアやベアトリスにさえも、こんな疎ましい感情を抱かずにいられなくなるのだとしたら――。

「――!?」

ふいに強く紐を引かれ、スバルは思わずその場につんのめる。引かれたのはパトラッシュに繋がる紐であり、地竜から強引に止まるよう下された判断だ。

それにとっさに何事かと顔を上げれば――、

「――う」

スバルの一歩前を、投げつけられる炎の塊が通過する、

サッカーボールほどの炎の塊だが、それは熱波を周囲に振りまきながら飛び、そのまま数メートル先の砂の壁に激突し、そこで爆音を上げて激しく爆ぜた。

膨れ上がる熱風に冷えた体を炙られ、スバルは危うく悲鳴を喉で抑え込む。

パトラッシュに呼び止められていなければ、間違いなく直撃を受けた。

死ぬほどの威力かはわからないが、負傷は免れない火力には違いない。命拾いした事実に歯を噛み、同時にスバルの背に戦慄が駆け上がる。

何故、火球がスバルの方へ投じられたのか。

「――――」

思わず、スバルは背後に振り返る。

陽動に引っ掛かり、ケンタウロスは今も空洞の反対側で水筒と戯れていたはずだ。しかし今、魔獣はその角と化した頭部をこちらへ向け、低く唸っている。

まるでスバルたちがここにいることに確信があるかのように。

「――――」

そんなはずはない、とスバルは頭を振った。

スバルは投擲用の水筒を腰から外し、改めて陽動を仕掛けるために手に馴染ませる。ラムと繋がる紐が頻りにスバルを呼んでいるが、取り合わない。

今はまず、魔獣の注意をこちらから引き剥がすのが最優先だ。

振り上げ、水筒は放物線を描いて、ケンタウロスから大きく左へ逸れて砂へ落ちる。当然、魔獣の注意はそちらへ向き、不細工な猛獣は見え見えの陽動に飛びついた。

再びの炎、響き渡る赤子の泣き声。そして、甲高い音の反響する空洞の中、スバルはパトラッシュに指示して、通路への進行を急がせる。

繰り返し、繰り返し、決まった工程をやるだけでいい。

それだけで突破できるはず、だが――、

「――っ!」

またしても歩くスバルのすぐ傍を、ケンタウロスの投じる火球が通過した。

それは先ほどよりもさらに近く、あわやスバルの肌を掠めるほど正確な一撃だ。とっさに息を詰め、スバルは火球の爆裂による熱波に煽られる。

「――――」

正面に新たに生まれたオレンジ色の光源に照らされながら、スバルは遠間に佇む魔獣と睨み合った。目は合わない、睨み合ったとは語弊がある。

しかし、魔獣の注意は明らかにこちらを向いている。音でしかこちらを判別する手法を持たない魔獣が、何故、自分の鳴き声の中でスバルたちの存在に――。

「自分の、鳴き声……」

「バルス、反響――」

スバルの中で疑問と答えが連結し、紐を引くラムの呼びかけがついに音になる。

そして二つが同じ解答に辿り着いた瞬間、ケンタウロスが砂を蹴った。

蹄が砂の地面を蹴り、見上げるほどの魔獣の巨躯が軽々と冷たい空を飛ぶ。燃え盛る鬣の火力は走行中に増し、それは一気にスバルたちへと迸った。

馬の体と接続された人間の胴体が腕を掲げ、自らの燃える鬣を引き千切る。それが魔獣の掌の中で火球へと転じ、瞬きの後には炎の炸裂弾が完成だ。

「――ッ! 走れ走れ走れ走れ!!」

事ここに至れば、もはやケンタウロスとの激突は避けられない。

足音を殺した隠密はかなぐり捨て、スバルはパトラッシュの臀部を叩いて即座に通路へ駆け込むように命じた。

現在、スバルたちがいるのは空洞のちょうど真ん中――元の通路とも先の通路とも距離的には遠く、よもや謀られたのかと思われるほど魔獣に有利な位置。

「遊ばれたのか……!?」

「――――っ!」

驚愕に塗り固められるスバルの意識だが、魔獣はそれに取り合わない。ケンタウロスは生み出した火球を投じ、逃げ惑うスバルたちを弄ぶように砂を吹き飛ばした。

真っ直ぐ、通路へ逃げ込むことは奴にも読まれている。かといってジグザグに走って困惑させようにも、音を捉える奴の聴覚はこちらの小細工より正確だ。

「うお! わっ!」

下げた頭を掠めて、火球が次々と投げ込まれてくる。

目の見えぬ魔獣はそれに逃げ惑うスバルを弄ぶように、その足で大きくスバルの周囲を駆け回り、炸裂弾を連続して打ち込み、吹き飛ばす。

「ごぉ――!?」

足下が炸裂し、スバルの体は軽々と熱波に揉まれて吹き飛ばされた。

とっさに顔を両腕で庇ったものの、噴き上がる熱風は呼吸器官に侵入して鼻腔と喉が淡く焦がされる。呼吸に痛みがあり、粘膜が溶けて嗅覚が一時的に死んだ。

顔の中心に発生した激痛の狂騒に転げ回り、スバルは涙目になって顔を上げる。

ケンタウロスの胴体に存在する口が大きく開き、牙だらけの口腔は耳障りな音を立ててまるで笑っているように聞こえた。否、笑っているのだ。

魔獣との知恵比べにすら敗北し、力で弄ばれる弱者である人間を。

「クソ、がぁ……!」

憎悪、それが沸き立ち、スバルに立ち上がる力を与える。

疑心暗鬼や不必要な不和に比べれば、こうして敵対する害獣に抱く敵意のなんと健全なことだろうか。激情を煮詰めたようなどす黒いモノに呑まれながら、スバルは勝ち誇っている魔獣の、その自惚れた考えを鼻で笑った。

勝った気になっているのならお笑いだ。

瘴気嫌いの魔獣の分際で、ナツキ・スバルにどうして勝てると考える。

「――――」

腰に手をやり、鞭を抜く。

柄の感触を手に馴染ませ、その先端で軽く砂を弾くスバルにケンタウロスは哄笑を止めて、その風を薙ぐ鞭の音に興味深げに耳を澄ませた。

おそらく、魔獣にとって初めて聞く音なのだろう。

だが、スバルの本命はそちらではない。鞭はあくまで、陽動だ。

「――インビジブル・プロヴィデンス」

魔獣の暴挙を発端に、スバルの胸の中にわだかまるどす黒い感情。

それに指向性を与え、ケンタウロスの手足を引き千切るための力に変換する。馬鹿の一つ覚えのような使い方だが、構わない。誰にでも通用するワンパターンだ。

「――――」

鞭を頭上で振り回し、高速で風を切る音を聞かせてやる。

初めての音に興味津々の魔獣に気付かれないよう、不可視の魔手は暗がりの中を滑るように進み、魔獣の影に忍び込んで、その人間の胴の角へ狙いを定めた。

人の胴体に馬の胴体、どちらに重要な器官があるのかわからない。頭部が角である以上、そこに脳が詰まっているかも謎だ。それでも、致命的な重要器官がそこに存在することは違いあるまい。そう当たりを付け、角を不可視の掌で握り潰す。

もしも角の欠損で言うことを聞くようになるなら、自害させてやればいい。その方がずっと愉快なことで――。

「――!? ぎ、あ、がぁ!?」

そこまで考え、いざ誅罰を実行しようとした瞬間だった。

ケンタウロスを見据え、その頭部に『見えざる手』を伸ばしたスバルの頭部に、想像を絶する痛烈な衝撃が走る。頭皮を剥ぎ、頭蓋に直接錐を打ち込むような痛みに一瞬で白目を剥き、スバルは黄色い泡を吹いてその場に膝を突いた。

「が、ぁぁ!? ぐ、あぎぃ!」

膝を突いたまま両手を頭に伸ばし、鋭い痛みに対抗するためにこめかみを殴る。擦っても押さえても痛みは安らがない。痛みに対抗するために、より鋭く強い衝撃を与える。そのために殴り、殴り、殴っても殴っても痛みは越えられない。

頭蓋の中に生じた棘だらけの地獄が脳を刺し貫くように転げ回り、スバルは砂の上で悶絶し、訳もわからず砂を噛んだ。

「痛ぇ! あぁがぁ! 痛い痛い痛い! 痛いィ!!」

叫ぶ、血を吐くように。

口の中に大量の砂を入れて、奥歯でそれを噛みながら、意味不明の激痛に喉が塞がらないよう、スバルはのた打ち回って痛みに抗う。抗えない、負けている。

当然、インビジブル・プロヴィデンスは一瞬で掻き消えている。

霧散したそれはケンタウロスに何ら干渉することはできない。魔獣はスバルの様子に拍子抜けしたように、そのまま火球でスバルを焼死体へ変えようとする。

生み出される大火球が空間の冷気を追い払い、小規模の爆熱が世界を熱くする。

それはそのまま、ナツキ・スバルを消し炭に変質させ――、

「――――ッ!」

その直前に、猛然と飛びかかる漆黒の地竜が魔獣の腕を噛み千切った。

「――――」

闇に同化する体色の地竜は、音もなく魔獣に忍び寄って痛烈な一撃を加えた。腕を無くしてバランスを崩した魔獣は、頭上へ掲げていた火球をその場に取り落とす。

即ち、魔獣は自らが生み出した火球の熱を足下で爆ぜさせ、超至近距離の爆風を浴びて吹っ飛ぶこととなった。

爆裂を浴びて魔獣が爆ぜ、腕の傷から血をこぼしてケンタウロスがひっくり返る。それに目もくれず、砂の上を疾走するパトラッシュはのた打ち回るスバルの衣服を口にくわえ、即座に撤退するために走り出した。

腰のあたりを噛まれたまま、ぶら下げられるスバルは左右に揺らされ、血の巡りの悪さと消えない頭痛に苛まれながら背後を見る。

パトラッシュの後ろで、よろよろと起き上がるケンタウロス。

その人間の胴体の傷口が泡立ち、噛み千切られた左腕が瞬時に生えるのが見えた。化け物じみた再生力は他の傷口にも有効で、今しがたの爆発の余波で生じた体中の傷は次々に塞がり、魔獣はものの数秒で健在な姿へ舞い戻った。

そうなれば、障害になるものはもはや何もない。

ケンタウロスは不意打ちをくれたパトラッシュに嬌声を上げ、猛然と走る地竜に追い縋るように加速し、鬣を燃え上がらせて飛びかかる。

あらゆる悪路に適応するパトラッシュの走りは見事だが、それでも生息地をここと定めたケンタウロスの速度には一歩及ばない。元々の体躯の違いもあり、スバルをくわえるパトラッシュのすぐ横に魔獣が並走した。

魔獣の手の中に燃え上がる火球が生まれ、それは今度は縦に長く引き伸ばされる。何事かと目を見張れば、火球は魔獣の手の中で長柄の得物に姿を変え、瞬きの後に作り出されたのは頭から尻まで炎に包まれる槍だ。

「――――ッ!!」

炎の槍を振り上げ、ケンタウロスはその先端をパトラッシュへ叩きつける。漆黒の地竜はその槍の旋回に合わせてダッキング――砂に潜るような低さで一撃を回避し、ほんのわずかな隙を掻い潜るように加速。

しかし、駆け抜けると見えた瞬間、魔獣の蹄が真横から地竜の胴を蹴りつけた。固い皮膚の内側に威力が浸透し、パトラッシュが内臓を絞られる苦鳴に喉を鳴らす。それでも、牙に引っかけたスバルは落とさない。腰のあたりに感じる熱は、内臓を損傷したパトラッシュが吐く血によるものだ。

それだけで深手を負ったことが伝わる。

しかし、パトラッシュはスバルを手放さないし、スバルには愛竜の負傷を気遣う余裕も今はない。あるのは終わらない頭痛による、永遠に思える責め苦だけだ。

「――エル・フーラ!!」

「ジワルド――!」

明らかに速度の鈍るパトラッシュに、炎の槍の二撃目が放り込まれる。しかし、それが地竜の体を捉える前に、横槍が二方向から同時に入った。

片方は不可視の風の刃、片方は白く収束する高温の熱線だ。

いずれの詠唱も聞き覚えのある声だが、子細はスバルにはわからない。

ただ、その両方が魔獣を直撃し、その胴に風穴を開け、人間の胴体を斜めに切り取ったことはわかった。――その傷も、瞬く間に塞がったことも。

「バルス……! ああ、もう、死んだのならそう言いなさい!」

「厄介やなぁ、あの魔獣……うちと相性、悪いなんてもんやないよ」

声音の調子は普段のままなのに、どこか切羽詰って聞こえる少女の声。

逆に切羽詰った状況でありながらも、どことなく緊張感に欠けた少女の声。

愛竜の息遣いと吐血の熱を肌に感じながら、スバルの意識はもはや手放される寸前だ。こんなに痛みと苦しみに苛まれるぐらいなら、いっそ死んだ方が――。

「死ぬんじゃない、バルス! レムが泣くわ!」

「――ぉ」

耳元で怒鳴りつけられて、その声はスバルの痛みを越えて脳に届いた。

ただ、その声によって呼び起こされるのは、魔獣に抱いた憎悪に負けない怒りだ。

忘れているくせに。

誰も彼も、あの子のことを覚えてもいないくせに。

――わかったような口で、俺とレムのことに口出しするな。

「――インビジブル・プロヴィデンスぅ!!」

怒りのままに感情を解放し、スバルは涙で掠れた視界の端、そこを過った魔獣へ八つ当たりに近い勢いで漆黒の魔手を叩きつける。

途端、生じる頭蓋を噛み砕く激痛の荒波――それに呑まれて意識が食われる前に、スバルの『見えざる手』が魔獣の槍を正面から叩き折り、一矢報いる。

――だが、か細い抵抗が届くのもそこまでだ。

「――――ッ!!」

怒りの反撃への返礼は、さらなる憤激による痛烈な一発だ。

ケンタウロスは前足を砂の大地に突き立て、それを軸足にその巨躯を強引に旋回させ、後ろ足がカタパルトの如く射出される。

鉱物めいた蹄の硬度が重量と速度を得て、砂をぶちまけながらスバルたちへ――パトラッシュと、おそらく付近にいたラムやアナスタシアを巻き込んで炸裂する。

空洞の一部が吹き飛ぶほどの脚力が爆発し、砂の暴力に巻き込まれて全員がバラバラに吹き飛んだ。ついにスバルもパトラッシュの顎から外れ、為す術もなく砂の上へと転がり込み、衝撃の余波で崩れた何かの焼死体に激突する。

「ぁ、ぅ……」

言葉にならない頭痛と、ケンタウロスの蹴りを浴びた体。

肉体の内外から襲いかかる痛みの連続に、スバルはもはや意識が保てない。ただ、漫然と転がっている間に、『死』の気配が色濃く迫るのがわかる。

壊滅、全滅、無駄死に討ち死に。

そんな無情の言葉が脳裏を駆け巡り、しかし――、

「――――」

呼吸することも肺が忘れた状況で、スバルは自分の前に誰かが立つのを見た。

小さく、華奢な影だ。光源に乏しい世界で、その外見は判然としない。だが、見慣れた姿だからすぐにわかる。ラムだ。彼女が、ふらつきながら立っている。

スバルを庇うように、両手を広げて。

――馬鹿、無理だから、無駄だからやめろって。

そう声をかけようとしても、声を出す喉が死んでいる。砂が詰まったみたいに。――否、事実として砂が詰まっている。馬鹿みたいに砂を呑み込んで、頭痛を殺そうとしたことが原因で、今のスバルにはまともな声も出せない。

「……ど、ぅして」

ただ絞り出すように、スバルはか細い声で鳴いた。

あんなにもスバルの中には、身内であるラムたちへの不満や怒りがわだかまっていて、それは彼女らも感じていただろうに。

「――レムが、泣くもの」

そのスバルの言葉に、ラムが静かにそれだけ答える。

記憶にないはずの妹のために、記憶にない妹の想い人を守るために、ラムは立つ。

何がそこまで彼女をそうさせるのかスバルにはわからない。

わからなくても、わかることがある。

このまま、ラムは死ぬ。そして、スバルも死ぬ。それは避けられない。

「――――」

ケンタウロスが唸り声を上げ、その両腕に新たに二振りの炎の剣を作り上げる。あるいは剣の外見をしていないため、槌や斧のつもりなのかもしれない。

いずれにせよ、炎を纏った二つの武器だ。それで、自分と比べてあまりにも小さいラムを寸断し、スバルをも焼き焦がさんという構えだ。

「……こい、こいよ。何か、あるだろ」

来たる『死』の気配を目前に、スバルは痛みの奥底に手を伸ばす。

痛みに対して逆行し、潜行するそれは自分の中へと潜り続ける行いに近い。自分の外側――ラムやパトラッシュ、アナスタシアに助けを求めるのは現実的ではない。

ならば夢や妄想の類と罵られようとも、スバルは自分の内側に手立てを求める。明らかに現実的でないこの手法の方が、まだ現実的な手段であるのだから。

内側に潜り、濁り切った体の中へ手を伸ばし、蠢く黒い妄念を掻き分け、スバルは自分の中に打開策を求める。酷使しすぎた『見えざる手』ではない。もっと別の、何か、新しい手段を、この場を乗り越える方法を。

しかし、スバルのその決死の求めは――、

「――ぁ」

何も見つからないまま、スバルの正面で魔獣が両手の剣を振り上げた。

炎は魔獣の頭上で交差し、それが一瞬の停滞の後にラムへ向かって放たれる。大気を焼き焦がし、迫る斬撃は無情にも少女の細い体を焼き切り、吹き飛ばし、彼女の歩んだ道も、抱えてきた想いも、何もかもをなかったことにして、黒い炭に変える――。

その光景を幻視し、スバルは無力さに絶叫を上げて――、

「――――」

次の瞬間、恐るべき速度で放たれた白い光が、魔獣の上半身を消し飛ばしていた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

炎の剣を掲げた魔獣の肉体が、恐るべき光によってこの世から消失する。

それは切断や圧潰といった生易しいものではなく、文字通りの消滅を意味した。

「――――」

ケンタウロスは馬の胴体と、その頭部部分に人の胴体を繋いだ化け物だ。

そして光はその人の胴体に当たる部分の、胸から上を吹き飛ばしていった。当然、肩から先の腕はもちろん、人の頭部に当たる角や胸に空いた牙だらけの口もだ。

その衝撃に魔獣は音もなく傷口から血をこぼし――直後に、傷口が泡立って、これまでと全く同じ超再生が行われる。

蠢く肉が盛り上がり、失われた人の胴体が再形成。即座に人体が作り上げられ、その両腕には早々と炎の炸裂弾が生まれている。

「――――!!」

ケンタウロスが吠え、無数の赤子の嬌声が冷たい空間に響き渡る。

そのまま身を翻す魔獣はスバルやラムに目もくれず、自らの上体を消し飛ばした害敵に向かって真っ向から飛びかかっていく。

腕に数多の火球を生み出し、魔獣は疾走に合わせて次々とそれを投げ込み、爆熱に紛れて自ら吶喊を仕掛ける構えだ。だが――、

「――ッ!?」

魔獣の生み出す火球は、そのことごとくが正面から迎撃される。

それを成し遂げるのは、恐るべき正確さで火球を真っ向から穿つ白い光だ。光の速度は尋常ではなく、威力は明らかに火球を上回る。

炎の塊はその中心を光に打たれ、その光の威力に引っ張られて魔獣自体の体に着弾、白い光のハリネズミのようになったかと思った直後、魔獣の全身で炎が爆裂する。

腕が消し飛び、口腔が千切れ、馬の胴体部分が焦げ、ケンタウロスが転倒する。砂の大地に猛然と転がり、魔獣は怒りに任せてけたたましく叫ぶ。

しかし、傷口は蠢き、魔獣は死なない。抉られ、消し飛ばされ、及ばないのであれば、強度を増し、用途を変え、殺し方を進化させればいいとばかりに。

「――――」

失われた部位を再生する、魔獣の外見が変貌する。

人間部分の形が変わり、二本の腕は四本に増え、胴体にあった口腔からは鋭く長大な牙が覗く。馬の下半身も脚を増やし、八本の脚力は単純計算で倍だ。

さらに焦げた肌は黒光りする硬質なものへ変化し、一見すれば鎧を纏った存在に見えるかもしれない。

そして増えた腕のそれぞれに、炎の剣を、槍を、槌を、斧を構え、魔獣は短期間で信じられない進化を遂げ、白光の主だけのために自らを変えた。

「――――」

四本になった前足を上げ、ケンタウロスは轟然と雄叫びを上げる。掲げた前足の蹄を噛み合わせ、甲高い音を立てて、勢いを駆って走り出す。

その姿、巨躯も合わせ、鋼で武装した列車に等しい。重量と加速度は直撃した相手を容易く挽き肉に変え、見るも無残な死を迎えさせることだろう。

トドメに炎を振る舞えば、魔獣に恥を掻かせた存在は完全に消滅することになる。

「――――ッ!!」

砂が蹴散らされ『白光が突き刺さる』、炎の熱波『白光が突き刺さる』をたなびかせ、魔獣は猛然と『白光が突き刺さる』突き抜ける。『白光が突き刺さる』炎の熱はこれまでと『白光が突き刺さる』比べ物にならない『白光が突き刺さる』ほどに火力を増し、地獄の業火『白光が突き刺さる』さえもかくや『白光が突き刺さる』と言わんばかりであった。一瞥する『白光が突き刺さる』だけで『白光が突き刺さる』どんな存在であろうと『白光が突き刺さる』震え上がる『白光が突き刺さる』ことは避けられない『白光が突き刺さる』異形と異貌は『白光が突き刺さる』まさに砂海の王『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さる』『白光が突き刺さ』『白光が突き刺さ』『白光が突き刺さ』『白光が突き刺』『白光が突き刺』『白光が突き刺』『白光が突き』『白光が突き』『白光が突き』『白光が突』『白光が突』『白光が』『白光が』『白光が』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』『白光』――。

――。

――――。

――――――――。

――――――――――――――。

「――――」

そうして、凄まじい量の光が迸った直後、そこにはもはや何も残っていない。

あれほどの猛威を振るった魔獣は、その肉片まで含めて全てが光に消し飛ばされ、この世非ざるどこかへ吹き飛ばされてしまったのだ。

砂の上に残るのは、魔獣を掻き消すために放たれた無数の光――その源である、白く細長い針だけ。それも、すぐに風化するかの如く粉になる。

「――――」

それを愕然と見届け、スバルは頭痛も忘れていた。

気付けばスバルの腕の中、熱く細い体が飛び込んでいる。ラムだ。スバルの記憶の中にもないが、どうやら最後の瞬間、その体を抱き寄せていたらしい。

もっとも、何の意味もないことだったはずだし、ラムの意識もない様子だが。

「――――」

そのスバルの耳に、誰かの砂を踏む音が聞こえる。

それはゆっくりゆっくりと、確かにこちらへ、スバルたちの方へやってくる。

相変わらず、空洞の中には冷たい静寂と、暗闇が落ちている。

かろうじて光源になるのは、先ほどまで魔獣が盛大に吐き出していた炎の残骸が散らばっているのみ。ちょうど、スバルのすぐ脇にも燻る炎の片鱗があり、ほんの数メートル程度なら見渡すことができた。

その視界ギリギリのところに、誰かの足が入り込んだ。

「――――」

顔を上げ、スバルはその足の持ち主――おそらく、光の正体に目を向ける。

緩やかに視界を持ち上げ、霞む目に映り込んだのは、人間だ。

「――――」

女、だった。

奇妙な雰囲気を持った女だ。

砂の上に立つ足は大胆に腿まで剥き出しで、女の下腹部を守るのはギリギリまで切り詰めた裾の短いズボンだけ。そのすぐ上にはやはり露出した女の腰とへそがあり、細くくびれた胴の上には乳房を隠す胸当てのように布が巻かれるばかり。

ただ、肩からはマントのようなものを羽織っており、それが白い肩と露出する体の大部分をかろうじて風から守っている。

髪は闇に同化しそうなほど黒に近い褐色で、長く伸ばしたそれを一つに纏めたポニーテールにしている。

そしてスバルたちを見据えるのは、ひどく濃密な感情に濡れる双眸だ。

その薄い唇が横に裂け、女は獣性を帯びた笑みを浮かべ、言った。

「――見つけた」

少なくとも、言葉は通じるのだな、とスバルは思った。

思ったところで、スバルの意識は限界を迎える。

砂の感触に受け止められ、スバルは無言のままに意識を手放した。

せめて、腕の中の少女だけは手放さぬよう、強く抱いて。

その程度の意地を張るだけの、根性だけは残っていた。

第六章18 『砂の塔の番人』

――暗い、暗い澱みの中に意識はあった。

そこを訪れるのは、ナツキ・スバルにとっては久しぶりのことだ。

以前にも何度か、それこそ、『死に戻り』するたびに強制的に呼び寄せられていたような気がする、地にも空にも果てのない、闇だけが広がる黒い世界。

思えば、ここも不思議な空間だった。

なにせスバルは、この場所にいた記憶を外に引っ張り出せた試しがない。出入りするのは初めてではないのに、外に出たときには入ったことを忘れてしまう。

それはまるで、泡沫の夢のような儚い感覚だ。

淡い闇と、薄ぼんやりとした記憶の狭間で、外ではナツキ・スバルと呼ばれる意識は宙を掻き、ゆっくりと漆黒の中を泳ぐ。

意識だけで浮上し、肉体はもちろん、手足も目も耳も口もない感覚も慣れた。

上下左右がわからないことへの頼りなさも、奥行きも何もかも見えないことへの不安も、ただ一つのことだけに支配される意識にとっては関係ない。

意識の中核に位置し、あるいは意識そのものを形成するのは、耐え難く止め処ない激情――否、それは親愛であり、信愛であり、深愛であった。

ここへくれば、その愛情の源に出会うことができる。

意識はそれだけを学習し、再びここを訪れることができたことに歓喜する。

ずいぶんと久しぶりに味わう邂逅を前に、ないはずの胸が弾み、存在しない唇は歌うような喜びに満たされていた。

しかし、そんな意識の感慨は――。

「ずいぶんと、浮かれきっているようなのデス」

「まったく冗談じゃないよね。ちょっとばかり運が良かったぐらいで勝ち誇って、その後も調子に乗られっ放しじゃたまらないよ。図々しいにも程があるっていうかさ。もうちょっと、自分のことを客観的に顧みてほしいんだよね。そうしたらさ、自分がどれだけ厚顔無恥なことをしてるかわかりそうなものだってのに」

ふいに聞こえてきた、本来なら届くはずのない声に邪魔される。

『――――』

意識は振り返る。

顔も肉体もなければ、方角も定まらない世界で、振り返る行為に何の意味があるのか。それはない意味を探すのではなく、ない意味を作るための行いだ。

振り返るためには、肉体が必要となる。意識的にそう考えて行動に移せば、漆黒の闇は何もないナツキ・スバルにそれを与えざるを得ない。

かくして、振り返る意識はナツキ・スバルになり、振り返る肉体とあたりを見回すための視界を与えられた。

だが、それだけではまだ不十分、肉体としての完成は程遠い。このスバルは出来損ないであり、本物のナツキ・スバルは到底再現できていない。

手があればいいのか、足があればいいのか、あるいは鼻が口があればいいのか。

――否、人間一人を作り出し、再現するというのはそう簡単なことではない。

ナツキ・スバルを作るには、ナツキ・スバルはナツキ・スバルを知らなすぎる。

当人一人だけの知識や記憶だけで出来上がるほど、ナツキ・スバルは容易ではない。

故に現状、これ以上のナツキ・スバルを作ることは不可能だった。

だが、その欠落した状態に、不完全なナツキ・スバルは気付くことができない。

そのため、仮初の肉体に仮初の視覚を与えただけの不完全なナツキ・スバルは、地に足もつかないような状態にありながら、ぐるりと周囲を見渡し、気付く。

闇の中に浮かび上がる、ナツキ・スバル以外の『意識』の存在に。

「おぞましくも浅ましい、これは独りよがりの産物に他ならないのデス! あぁ、なんと罪深く、汚れた在り方か! ただただ、軽蔑に値するのデス!」

「並以下どころか人間以下、不完全ここに極まれりって感じじゃないか。そんな奴がさぁ、満たされていたこの僕を足蹴にするなんて何を考えてたんだ? 分を弁えれば最初からわかりきってたはずだろ? 僕の前に立つのも、立ちはだかるのも、邪魔するのも! 阻むのも! 何もかも! 不足なんだよ! 足りてないんだよ! 人間らしく論理的に考えればさぁ……! 人以下の、人畜風情にもさぁ!」

闇に浮かび上がる『意識』が、揃って不完全なナツキ・スバルに罵声を浴びせる。

片方は狂的に、片方は禍々しく、それぞれの憎悪をナツキ・スバルへぶつける。

ただ、残念ながら、意識だけのナツキ・スバルにはその憎悪が理解できない。

理解するための心が、脳が、このナツキ・スバルには用意されていない。その『意識』たちの言い分を理解しようとするなら、肉体を用意したように、この視覚を作り出したように、理解するための器官を生み出す必要がある。

『――――』

――だが、なんとなく、そのための器官はいらない気がした。

少なくとも、この二つの『意識』の言い分を理解するために、そうした機能を持たせようとすることの意味は薄く、何より欲求を覚えない。

無から有を引きずり出すのも容易ではない。せめて、ナツキ・スバルの意識がそれを本当の意味で欲さなければ、それを得ることも生み出すこともできない。

なので、その二つの『意識』の言葉に応じる言葉も、理解するための頭も、現状では後回しにせざるを得ない。いや、本当に、他意はなく。

「なんたる不遜! なんたる軽視! なんたる侮蔑! これほどまでにワタシが勤勉を以て訴えかけているというのに、わかろうとする努力さえ欠くのデスか! それはなんと、あぁ、あぁ、嗚呼……! 怠惰! アナタ、怠惰デスね!」

「どこまで他人をコケにすれば気が済むんだよ、人畜野郎……! いいか? 僕を誰だと思っている? 僕はこの世で最も満たされ、あらゆる出来事に心乱されない日々を望む、無欲で平凡な幸福だけがあればいい男なんだよ。それをお前が邪魔をする。権利の侵害だ。邪悪の所業だ。他人の幸福を足蹴にするのも大概にしろよ……!」

埒が明かない気がして、二つの『意識』に背を向ける。

肉体があると、対話する意思がないことを身振りで示せて便利だ。背後では今もなお、二つの罵詈雑言が響く気がするが、気にすると見えてしまうので気にしない。

振り向かずとも視覚は働く。この場合、おそらく『視覚』ではなく、『眼球』の存在が必要になるのだろう。機会があれば、それを作ることも念頭に入れたい。

ただ、今はそんな些事にかかずらわっている暇はない。

『――――』

何故なら、ナツキ・スバルの意識の前には、目的の影が姿を見せつつあるからだ。

『――――』

何も見えないはずの漆黒の闇、黒の中でより濃い黒を纏う影はいっそ鮮やかだ。

時にはナツキ・スバルの心を凍らせ、震え上がらせるしなやかな指の両腕。細身でありながら柔らかさを感じさせる肢体に、それを包み込む闇色のドレス。

相変わらず、首から上は濃霧に覆われたかのように判然としないが、そこに愛しい感情を抱かせる『誰か』がいることを、ナツキ・スバルは魂で理解している。

その姿形は明らかに、以前の邂逅のときより明瞭になり、距離も近い。

以前の邂逅では腕と体つきだけが見えていた人影は、今では身に纏うドレスと、長いドレスの裾から覗く素足まで見える。ほとんど肉体は完全に再現され、ナツキ・スバルに見えないのは闇に隠れる顔貌だけだ。

もどかしくはある。しかし、今はそれでいい。

前より強く、より近くに彼女の存在を感じる。だが、ナツキ・スバルの方に、明瞭になりつつある彼女を迎える準備が出来上がっていない。

今はただ、すぐ近くに在れることを喜べばいい。

いずれ必ず、その頼りない指先と触れ合い、細い腰を抱き寄せ、愛を交わそう。

『――愛してる』

その言葉に、出来上がったばかりの顎を引いて、ナツキ・スバルは応じた。

それだけのことに影が喜ぶのがわかり、申し訳ない思いが芽生える。

次の機会には、こちらからも愛の言葉が告げられるよう、『口』と『舌』が必要だ。

そんな感慨を覚えながら、ナツキ・スバルの意識は影の庭園から離れ――。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

寝起きはいい方である自覚のあるスバルだが、その反面、寝つきが悪いことも実は自覚として持っていたりする。

スバルにとって、眠りからの目覚めとは水面に顔を上げる感覚だ。水中にいた人間は誰であれ、水面に顔を出せば呼吸を忘れることはない。

スバルにとって、その呼吸こそが目覚めの意識の覚醒であり、目覚めの『呼吸』はできることが当たり前のことなのだ。

「寝起きがいいのって羨ましいな。私、すごーく寝起きが悪くて……」

とは、以前にそんな会話を交わしたときのエミリアのコメントである。

ちなみにエミリアの寝起きだが、これがこの言葉は誇張でも謙遜でもなんでもなく、本当にだいぶ悪い。イメージ通りといえばイメージ通りなのだが、エミリアは非常に低血圧で、目覚めてベッドから出るのに小一時間ほど必要なぐらいだ。

朝方にベッドの中で体を起こし、うつらうつらとしたまま意識の覚醒を待って、ようやく布団から外に出て、顔を洗って髪を整える――というスタイルである。

反面、スバルと違って寝つきは子どものようにいいのだから、まさに対照的。

「森だと、私以外にパックしかいなかったし、パックも夜になっちゃうとそんなに出てきてくれないから……寝ちゃうしかすることなくて……」

とは、以前にそんな会話を交わしたときのエミリアのコメントである。

これに関してスバルがどう受け答えしたかについては詳細は伏せさせてもらう。今では夜更かしに付き合う相手もいるのだから、昔のことは忘れるべきだ。

ともあれ、寝つきの良さはスバルには素直に羨ましい。

スバルはどうしても、ベッドに入って暗がりの中で目をつむると、色々考えてしまう。特に考えることが多いのは、ああしていればこうしていればという後悔のこと。

それはその一日のことであったり、あるいはもっと前の出来事のことだったり、後悔は時期も手段も選ばずにスバルを責め立てる。

それと戦っていると、どうしても寝付かれない。寝つきの悪さはそれが原因だ。

――だから、砂海の地下の出来事も、スバルにとっては新たな後悔の種として、今後のスバルの安眠を大いに掻き乱すことになること請け合いだった。

「……ここ、は?」

目覚めた瞬間、スバルは自分が『死に戻り』とは違う覚醒を迎えたと理解した。

まず、周囲に光がある。闇色の中で目覚めた砂海の地下と違い、周りを見渡すことができる状況は変化の証拠だ。さらに言えば肌寒さも薄れ、体は砂の上とは全く異なる感触に抱かれている。背中越しに感じる柔らかい感触は、おそらく寝台だ。

頭の下にあるのも、枕と呼ぶべきそれであり、つまりスバルは――。

「ベッドで寝てる……」

声に出して確認すれば、寝転がる体の上にかかるのは白いタオルケットだ。

枕と寝台の感触は、よくよく確かめれば知らない感触ではない。むしろ、ここ最近では非常に慣れ親しんだものであり、すぐに竜車に備え付けの寝具だと気付けた。

故にここは、プレアデス監視塔攻略のために使用された竜車の中だ。

「って、なんでそんなことに……!?」

逸れたはずの竜車の、その中に寝かされていると理解し、スバルは上体を起こす。その瞬間、起こした体の右手が誰かに掴まれていることに気付いた。

とっさに振り向けば、スバルの右隣――ベッド脇の床に膝を突き、寝台に体を投げ出して眠る少女の姿がある。どこか安堵した顔でスバルの手を握るのは、銀髪を一つに纏めたエミリアだ。

微かな寝息と、掌から伝わる温もり。

彼女が確かにここにいることに、スバルは掠れた息を漏らし、脱力した。

「ぁ、は……エミリア、だよな? これ、無事に……」

すぐ傍らに寄り添うエミリア、その姿に実感が持てず、スバルは戸惑う。右手は握られたままなので、左手を伸ばしてその頬に触れた。

白い頬は熱く熱を持っており、その肌は常軌を逸して滑らかで柔らかい。触れているだけで愛おしさが爆発しそうになり、許される限り頬をこねて確かめる。

「おお、間違いない、エミリアだ。……可愛い、やわっこい、あったかい」

「――あんまりイタズラしてやるもんじゃないのよ。エミリアもずいぶん、スバルを心配していたかしら。二晩、寝てないのよ」

「おおっひょい!?」

頬を弄られてエミリアが小さく唸るのを堪能していると、唐突に聞こえてきた声にスバルは思わず肩を跳ねさせる。そして慌てて振り返ってみると、寝床と生活スペースとを繋ぐ扉のところに、呆れた顔で寄りかかる幼女を発見した。

「ベア――」

「しー、かしら。聞き分けのないスバルは嫌いなのよ」

「――――」

思わず、再会を喜ぶ声を上げかけ、寸前でベアトリスに制止される。とっさに口を左手で塞ぎ、スバルは眠り続けるエミリアをそっと見下ろす。彼女は唇をもごもごさせながら、どこか幸せそうな顔で頬を緩めていた。

「危ね危ね……で、ベア子。こっちこい。抱きしめさせろ」

「何を馬鹿なことを……し、仕方ないかしら」

再会を言葉で喜べないなら、態度で喜び合う以外にない。

スバルが手招きすると、嘆息したベアトリスが実に仕方なさそうに近付いてくる。気のない素振りで自分の縦ロールを弄っている少女、それが傍らにくると、スバルは自由になる左腕で彼女を抱き寄せ、しっかりと胸に抱え込んだ。

「よかった……マジでよかった。本当に、心配してたんだぞ」

「……それはベティーの台詞なのよ。スバルや姉妹の姉が見当たらなくて、ベティーたちの方がよっぽど肝を冷やしたかしら。生きた心地がしなかったのよ」

「そうか。死にそうなぐらい心配してくれたのか」

「別にそういうわけじゃ……でもないかしら。そうなのよ、心配したかしら。本当の本当の、ホントに……」

軽いベアトリスの体を抱きしめていると、言葉の途中で少女が顔を伏せる。そのまま、胸に額を擦り付けるベアトリスの頭を撫で、無言でしばらく再会を確かめた。

そうして、しばしの沈黙が済むと、ベアトリスはすっきりした顔でスバルの胸から顔を上げ、ぴょんとベッドの横に下りる。

「とにかく、寝坊助のエミリア以外にスバルが起きたことを伝えなきゃいけないのよ。スバルで最後だから、みんな心配してたかしら」

「みんなって……そうだ、みんなは無事なんだよな? 逸れてた奴らも、俺と一緒にいた奴らも全員」

「安心していいのよ。ちゃんと全員、無事に揃っているかしら」

「そうか……そうかぁ……!」

ベアトリスの押してくれる太鼓判に、スバルの抱く焦燥感が薄れていく。全員が無事と聞かされ、望外の返事に心が安らいだ。

だが、すぐにスバルはその太鼓判に嫌なデジャブを感じて顔を上げる。

「待て、ベア子。俺はぬか喜びは御免だ。本当に全員大丈夫なのか?」

「む、スバルに疑われるなんて心外なのよ。ベティーがこんなことでスバルを騙す意味なんてないかしら。冗談じゃないのよ」

「お前がプンプンするのもわかるけど、別に疑ってるわけじゃねぇよ。お前が俺を騙そうとしなくても、結果的に騙される可能性はある。……プリステラでもそれは痛いほど実感したばっかりだしな」

「――――」

スバルが何を警戒しているのか、そこまで聞かされてベアトリスは察した顔だ。

プリステラでの魔女教との攻防戦でも、作戦終了後にスバルは同様の報告を受けた。全員が無事と聞かされ、事実として、認識の上でそれは正しかったが――、

「確認するぞ。俺と、エミリアと、ベアトリス。それに、レムとラムとパトラッシュ。アナスタシアにメィリィにジャイアンと……最後にユリウス。これで全員だ」

「――――」

「お前の言ってる全員ってのは、この全員で合ってる……か?」

「……大丈夫かしら。それで全員なのよ。ベティーが忘れていて、スバルだけが覚えてる誰かがいるなんてこと、ないかしら」

「そっか……そうか。じゃぁ、本当に喜んでも、いいんだな……」

必要なことを確認して、スバルは他に落とし穴がないか入念に考える。その上で何も見落としはないと判断し、ようやく、全員の無事という言葉に力が宿った。

「よかった。あぁ、よかった……!」

「まったく、スバルは大袈裟すぎるのよ。一番危ういスバルが大丈夫だった時点で、他のみんなが無事なことぐらい想像がつくかしら」

「バッカ、そういうことじゃねぇんだよ。そうだとわかってても、やっぱり不安は不安だし心配は心配なんだ。お前だって、俺の無事がわかって泣いてただろ?」

「泣いてなんかないのよ。ベティーはスバルの胸に顔を押し付けていたから、そんな姿は見られていないはずかしら。証明は不可能なのよ」

ふふん、とベアトリスは薄い胸を張って強がるが、その発言自体がそもそも語るに落ちている感が溢れていた。その上、スバルは自分の寝台の背中側――ベッドの半分ほどのスペースに、スバル以外の誰かが寝ていた痕跡を指差して、

「ここに、俺の隣に潜り込んで誰かが寝ていた形跡があるんだが、この動かぬ証拠を見てもお前が不安がってなかったとでも?」

「それはベティーじゃないかしら! こう、完全に濡れ衣なのよ。知らんかしら」

「お前以外の誰がこんなはしたない真似すんだよ。照れるな」

「とにかく、違うのよ! ああもう、エミリアが起きちゃうかしら」

いつもの調子で軽口を交わしていると、ベアトリスが強引に話の流れを逸らす。その赤い顔に苦笑しながら、スバルは長く、本当に長く深々と息を吐いた。

全員の無事、それが言葉で聞けてひとまず安堵する。

砂丘で、魔獣の群れに追われた状況で逸れて、スバルは砂海の地下で訳のわからない『死に戻り』を繰り返して、エミリアたちがどうしているかもわからなくて、あのまま取り返しのつかないことになったらどうしたものかと――。

「……そう言えば、あの変な疑心暗鬼、抜けてるか?」

「――?」

唖然とした様子で、自分の顔を左手でこねくり回すスバルにベアトリスが首を傾げる。ベアトリスには意味不明の行動だが、スバルには意味のある行いだ。いや、この行動自体には意味はないが、自覚症状の有無は大事な要因といえる。

「ベア子は……いつものベア子だ。エミリアも、いつも通り可愛い」

「何を言い出したのよ……」

呆れ顔のベアトリスだが、その言葉に奇妙な不快感や苛立ちは感じない。寝ているエミリアにも同様、二人に感じるのは信愛の感情だけだ。

あの地下でスバルを苛み続けた、不可解な憎悪は影も形もない。

「瘴気と遠ざかったから、でいいのか。原因不明で治療法も不明なんて、そんなおっかないのを放置しとくのも胸が悪いけど……」

「スバル、まだ具合が悪かったり、体調に不安があるなら寝てていいかしら。急いで起きる必要はひとまずないのよ。試験はベティーたちだけでどうにかするかしら」

「……なに?」

額に手を当てて、俯くスバルをベアトリスが気遣う。その気遣いの言葉の中に、聞き慣れない単語があって、スバルは思わず聞きとがめた。

「今、なんてった?」

「だから、休んでていいかしら。ズル休みじゃなく、ちゃんと具合の悪いときぐらい寝てても怒ったりしないのよ」

「なんかすごい言われた覚えがある感じの微熱トークだけど、その部分じゃねぇよ? その後で……試験って言ったか?」

「あぁ……うん、言ったかしら」

スバルの追及に、ベアトリスが「しまった」という顔をした。

それはスバルに隠しておきたかったから、という様子ではなく、むしろ休ませておきたかったから、という気遣いからくる配慮だろう。

ただ、そこまで聞かされて安穏としていられるほど、スバルは大人しい性格ではないし、ベアトリスもそのことはわかっている。

「ベア子」

「わかってるのよ。ちゃんと説明するかしら。本当はもっとちゃんと、落ち着いてから話した方がいいと思ってたのに……口が滑ったのよ」

「隠し事できないのが、お前の可愛くて良いところの一つだよ。――そもそも、最初に聞かなきゃいけないことをスルーしてた」

心底、不覚を取った顔のベアトリスに微苦笑し、すぐにその笑みが頬から消える。スバルはわずかに声を低くし、あって当たり前の疑問を口にした。

それは――、

「ここは、どこだ? 竜車の中、なんて小ボケは挟まなくていいからな?」

「スバルも、想像がついていると思うかしら」

ベアトリスが物憂げに吐息し、それから腕を組んだ。

そして、少女は天井を――その向こうの外を見上げる仕草で、軽く踵を鳴らし、

「――プレアデス監視塔」

「――――」

「あの砂丘の果てにあった監視塔、その中にベティーたちはいるのよ」

と、そう言った。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――繋がれたエミリアの手を慎重に解き、二晩の徹夜ですっかり眠りの中にある彼女を寝台に横たえると、スバルはその額を撫でてから竜車を抜け出した。

一ヶ月以上の時間を過ごした竜車の中は、どうやら逸れる直前と変化はない。

車体に大きな傷もなければ、どこかが破損したということもなかったようだ。

「スバルたちと違って、『砂風』の割れ目に呑まれたベティーたちは無事だったかしら。あの花畑とも違う場所に飛ばされて……一緒にスバルたちがいなかったことがわかったときの方が、よっぽどみんな青い顔していたのよ」

「お前も含めてだろ」

「――エミリアやユリウスもそうだったかしら。ベティーだけじゃないのよ」

ふい、と拗ねたように視線を逸らし、ベアトリスが竜車の外へ繋がる扉を開ける。軋む音を立ててドアが開くと、薄暗い空間と乾いた風に出迎えられた。

風の雰囲気は砂丘のそれに近く、空間の暗さは砂海の地下のそれに近い。ただ、砂丘に比べれば風には砂が混じらず、地下と比べれば暗さは和らいでいる。

原因は空間のそこかしこに備え付けられた魔法灯と、壁にびっしりとこびり付いて淡く光る苔によるものだろう。あの手の苔は確か以前、『聖域』の墓所の中でも見かけた覚えがある。どこにでも群生するあたり、わりと便利な植生だ。

「ここは……」

「プレアデス監視塔の第六層……まぁ、最下層ってことかしら。砂海から見える塔の外見からだと、第六層は地下に埋まってる部分になるらしいのよ。砂の上に出るのは第五層から……といっても、あんまり区別はつかないかしら」

円状の空間を見渡して、目を丸くするスバルにベアトリスが説明する。

イマイチ、要領を得ない説明なのは、スバルがプレアデス監視塔の内部や構造に全く精通していないためだろう。

見る限り、プレアデス監視塔の内部はかなり広大な空間が広がっている。

ベアトリスが第六層、と称した場所は床が一面石造りになっており、空間のど真ん中にぽつんと竜車が鎮座している。その竜車を中心に広がる円形の空間は、ざっと半径で二、三百メートルはありそうだ。

楕円ではなく、正確に円形として塔が建造されている場合、その正確さと、掛けた手間の膨大さに空いた口が塞がらない。

「……大昔の無駄手間って考えると、ピラミッドとかが思い浮かぶな。あれも一人の墓にしちゃ相当な無駄の塊。いや、なんか公共事業扱いで、職無しの人間にとっちゃすげぇありがたかった的な話は聞いたことあるけど」

「ぶつくさと、またわけわからんこと言ってるみたいなのよ」

「墓石の話だよ。生前葬も流行りだし、死んだ後のことを考えて先手を打っておくのは大昔から発想はおんなじだわな」

「……死んだ後の話なんて縁起でもないかしら。馬鹿馬鹿しいのよ」

配慮に欠けたスバルの発言に、ベアトリスが不貞腐れたように目を背けてしまう。自分の失言に気付いたスバルは頬を掻き、それからベアトリスの頭を軽く撫でた。

それから、ふと思い出したように竜車の前に回り込み、

「おー、ジャイアン! お前も無事で何よりだ! ジャイアン、死んじゃいあん!」

「なんで急にそんなくだらないこと言い出したのかしら!?」

「いや、やっとかなきゃいけない気がして。でも、無事で嬉しいのは本気だぜ」

竜車の前、きっちり車体の傍に繋がれているのは頼れる地竜のジャイアンだ。

デザート仕様のガイラス種はタフが売り、その文句に恥じないしぶとい生き様を見せ、ジャイアンは見事にあの難局を乗り切ってみせた。

「とはいえ、他の面子を差し置いてお前が最初の生存確認! ってのも締まらんなぁ」

「――――」

「おいおい、そんな切ない顔すんなよ。嬉しいって。ほら、あとでいつもより多めに餌やるから勘弁してくれ」

「――――」

「なんだよ。まったく現金な奴だなぁ」

「そろそろ、小芝居も落ち着いていい頃なのよ。疲れるからいくかしら」

ジャイアンと並んで小ネタを挟むスバルに、ベアトリスが付き合い切れない顔。そんなベアトリスの反応に「悪い悪い」と首をひねり、それからスバルは言った。

「別に困らせる気はないんだけどさ、確かめたいことがあって」

「なんなのよ」

「いや……ジャイアンがここにいるのに、パトラッシュが見当たらないなって」

同じ地竜同士、パトラッシュが無事ならここに繋がれているのが普通だ。

だが、竜車の向こう側を確認しても、あの漆黒の美しいフォルムは見当たらない。あるべき姿がないことにスバルは不安がるが、

「早合点するんじゃないかしら。あの地竜……パトラッシュなら、第六層には置けないから第四層にいるのよ」

「四層? 上ってこと? なんで?」

「ケガしてるから治療中かしら。竜車の中に姉妹の妹……レムの姿もなかったはずなのよ。状態が思わしくないのはみんな、四層に置かれているかしら」

「治療中って……レム、治るのか!?」

思わぬ話を聞かされて、スバルはベアトリスに飛びついてしまう。

そのスバルの剣幕にベアトリスは少し驚いた顔をするが、すぐに近付くスバルの鼻を摘まんで遠ざけ、

「お、落ち着くのよ……! 焦るんじゃないかしら……!」

「これが落ち着いてられるか! レムは……治るのか? それにパトラッシュも治療中ってどんな塩梅なんだ!?」

「結論から言うと! すぐにどうこうってことじゃないのよ! ただ、寝かせているよりマシな状況にしたってだけかしら! 地竜もそうなのよ!」

「……そうなのか」

詰め寄るスバルがしゅんと項垂れ、その勢いの減衰にベアトリスも沈痛な顔をする。しかし、少女は小さな拳を固めると、

「ほら、凹んでる場合じゃないかしら。なんとかする方法はきっとあるのよ。それを確かめるために、今はみんなで監視塔の試験に挑んでるかしら」

「――――」

落ち込んだスバルを励ますように、ベアトリスが下手くそな奮起を促してくる。その様子にスバルは毒気が抜かれ、「そうだよな」と顎を引いた。

「悪い、どうも後ろ向きだ。心配ばっかかけてごめん」

「スバルにかけられる心配なら、まぁ、別に許容してやるのよ。でも、できればベティーの見えるところで心配させてくれれば助かるかしら」

「考えとく」

ベアトリスの思いやりに触れ、スバルは彼女の頭を掻き回して感謝を表現する。

強力なベアトリスの髪型は、そんな風に乱そうとしても乱れない強固なものだ。ともあれ、ベアトリスの励ましも受け、スバルは塔の上の方へと目を向けた。

「ここが第六層……とにかく、上にいけばいいんだよな?」

「ユリウスたちはたぶん、今は試験の真っ最中なのよ。だから、今は先に『賢者』の方と顔を合わせて、詳しい話を聞いた方がいいかしら」

「賢者、か……あれ、そういえば」

ベアトリスの言葉の途中で、スバルは『賢者』の単語に引っ掛かりを覚える。

そう、そもそもその『賢者』に会うことが目的で監視塔へ足を運んだにも拘らず、ここまでベアトリスは『賢者』について特に話をしてこなかった。

「ベア子、賢者に会ったんだろ? どんな奴だった? チクチクと俺たちに向かってなんか白い光線投げてきてた恨み節とか言ってやったか?」

「……あんまり、賢者の話はしたくないのよ。ううん、違うかしら。賢者のことはたぶん、直接会った方が話が早いかしら」

「俺、その言われ方でまともな奴と顔合わせた記憶ないんだよな。確か、ロズワールと初めて会ったときもエミリアたんに似たようなこと言われた気がする」

もう一年以上も前のことだが、当時の会話は鮮明に覚えている。

確かロズワールに関しては、『会って話した方がわかりやすいし、きっと話も合うと思うわ』というような説明だった覚えがある。

実際、直接会わなければあのインパクトは伝わらなかったと思うし、会話の波長も合うといえば合うのだが、まぁ、当時のことは今さらだ。

「会えば、わかるのよ」

「……わかったよ。とにかく会ってみればいいんだな。これ、上はどうやって?」

「階段かしら。よく見ると、ちゃんと壁のあたりに階段があるのよ」

ベアトリスの言葉に目を凝らすと、なるほど円状の外縁に段差――階段のようなものがあるのがわかる。ただ、それは膨大な量の段差となり、広大な円形の塔をぐるりと回る形で組まれる螺旋階段を呈していて。

「え……? これ、上るの?」

「これを上るかしら。頑張れば、そんなに時間はかからないのよ」

「頑張ればって言われても……上まで何段あるんだよ!?」

果てしない上下運動を繰り返させられる羽目になりそうで、スバルは絶叫する。その声は空しく塔の中に木霊し、おそらく相当上まで響いて、悲しく消える。

そのスバルの嘆きを余所に、ベアトリスはやれやれと肩をすくめて、

「仕方ないかしら。これがちょっと魔法とか使えると、色んな手段で階段を飛ばして上までいけるかもしれないけど……スバルじゃ他に手がないのよ」

「いや、ほら、ムラクとかさぁ。あれ使って、軽々と一気に上まで上昇するとかそういう感じでどうだ?」

「やってやれなくはないけど、いざという場面でマナのガス欠……なんて事態が危ぶまれる気がするのよ」

「普通に階段上っても、いざという場面で体力のガス欠が危ぶまれるよ!?」

引きこもり当時に比べれば体力はついたとはいえ、それでも異世界基準ではまだまだ貧弱な坊やであることから抜け出せていないスバルだ。

最下層の第六層、その上にある第五層がどれだけの高さかはわからないが、少なくとも見上げた限りでは天井はちょっと見当たらない。その程度には高いと考えると、これはもう、ちょっとした登山レベルの所業だ。

「クソ! でも上らなきゃレムとかパトラッシュの安全が確認できねぇもんなぁ。やるしかねぇか。ああもう、チクショウ」

「その意気かしら。ファイトなのよ。ベティーも応援するかしら。――上に着いたら呼んでくれると、とても助かるのよ」

「させねぇよ、ショートカット!? お前も一緒にこいよ。歩け! 汗を掻け!」

「残念だけど、ベティーは可愛い精霊だから汗なんて――」

仕方なしに階段へ挑む覚悟をスバルが固めると、ベアトリスがそれを挫きにかかる。が、言い合いの最中、ベアトリスはふいに言葉を中断し、頭上を見上げた。

「ベア子?」

「マズいかしら。スバル、下がるのよ――!」

態度の急変にスバルが声をかけるのと、ベアトリスが血相を変えて飛びついてくるのは同時だ。胸に飛び込んできたベアトリスを受け止め、抱え上げる。

と、ベアトリスはぽかんとして、それからスバルの胸を乱暴に叩いた。

「馬鹿! だっこしろって意味じゃないかしら! 下がるのよ!」

「とっさだったからつい……って」

ベアトリスを抱き上げたまま、スバルは軽く後ろへ体を傾けた。何事かはわからないが、ベアトリスの警戒は事実だ。それに備えて、と思ったが、遅い。

――直後、凄まじいプレッシャーが頭上に発生し、スバルは息を呑む。

その圧迫感の原因は猛然と迫り、次の瞬間にはスバルの眼前へと着弾――激震が巨大な塔を揺るがし、生まれた爆風と砂煙にスバルは吹き飛ばされかける。

背後にちょうど、ジャイアンの巨躯がなければ転げ回っていたことだろう。竜車と地竜の重みに守られて、スバルは吹き付ける砂と暴風の中、必死に目を押し開いた。

そして、噴煙の向こう、着弾地点の砂煙が唐突に払われる。

煙を引き裂くような突風と、その向こう側から堂々と姿を見せる人影。もうもうと立ち込める砂を破って現れる相手の姿に、スバルは凝然と頬を強張らせた。

その姿、その外見に、見覚えがあったのだ。

「お前は……」

つかつかと、固い床を踏みしめて歩み寄ってくるのは長身の女だ。

黒に近い褐色の髪をポニーテールにして、大胆に手足、腹や背中まで露出した半裸と言って差し支えない格好。胸と下腹部を最低限にだけ隠し、その服装の上から黒いマントを羽織った、ずいぶんと偏った衣装の人物だった。

スバル的に言えば、ホットパンツに黒ビキニを付けてマントを羽織った痴女だ。

すらりと長く白い手足に、惜しげもなく揺らされる豊満な胸。背丈はスバルと同じぐらいか、やや向こうの方が高く、腰の高さは比べるべくもない。

白い肩の上には整った顔が乗っており、気だるげだが目力のある美貌があった。

――それは間違いなく、スバルが意識を失う直前、最後に見た顔だ。

あのケンタウロスに対して、容赦ない攻撃を加えて屠った人物。

そしてあのケンタウロスへ仕掛けた無数の光は、スバルも知る攻撃で。

「……お前が、『賢者』なのか?」

「――――」

無言で歩み寄る女に、スバルは喉の渇きを覚えながらそれだけ問いかける。

しかし、女はスバルのすぐ目の前にくるまで何も答えず、手を伸ばせば届く距離まで近付いたところで足を止め、しげしげとこちらを見るだけだ。

その視線は全身を舐めるようで、正直、スバルは落ち着かない。

声音一つも聞いていない相手で、おまけにその実力はケンタウロスを容易く葬り、想像を絶する距離から飛び降りても何の影響もないような人外レベル。

下手を打てば、即座に消し炭にされてもおかしくない相手だ。そんな相手の出方が全く見えないのは、恐ろしい以外に何の感想も抱けまい。

「――――」

スバルの腕の中では、変わらずベアトリスが身を固くして抱かれたままだ。彼女も緊張しているのが、その小さな体越しに伝わってくる。

少なくとも、ベアトリスと接触している状況で出くわしたのは幸いだ。最悪、戦闘に入ることは不可能ではない。

無論、戦いにならないに越したことはない。その努力は惜しむべきではない。

「お、おいって……聞いてる? ほら、あの、俺の仲間が世話になってるって話で、別に敵対するつもりとかない……んですよね?」

「――――」

「あの、黙っていられると不安になるんで、なんか言ってもらえると……それともひょっとして、言葉じゃなく念話で繋がる系とか? だと、困るなぁ。はは」

「――――」

じろじろと、推定『賢者』はスバルの言葉に反応せず、見てくるだけだ。

居心地の悪さ、ここに極まれり。スバルの困惑と戸惑いの程は、話し方の混乱ぶりから察することができよう。

このままだと、雰囲気の悪さに殺されかねない。

――そんなスバルの不安は、ふいに破られた。

「……三つ」

「へ?」

「――――」

スバルをじっと見つめていた女が、急にそんな風に呟く。

その声はやや掠れてはいたが、続けて聞くことができればおそらく美声と判断できるハスキーボイスだ。

ただ、どうにもミステリアスというか、心情の読み取れない目の前の女の声にしては、可愛げがあるなとぼんやりと思う。

と、そんなスバルの前で、女は静かに吐息して、

「ま、それはいっか。そんなことより、見つけた」

「ええ、と?」

急に女は何か投げ出すように言って、表情を変化させる。

それまで真剣に、スバルの内を覗き込もうとするかのような態度だったものが、ゆっくりと大きく、時間をかけて、凍ったものが溶け出すかのように。

女の口元が横に広がり、それは笑顔と呼ばれる形になって、

そして女は、スバルを見つめて、言った。

「――お師様」

「……は?」

まったく聞き覚えのない単語と、まったく身に覚えのない感情。

その予想外すぎる反応に呆気に取られて、スバルは後ろを振り返る。当然だが、そこにはジャイアンの姿しかない。ならば、ジャイアンが件のお師様か。

「お前、ここにきて急に重要キャラのフラグ立ててきたのか!?」

「そんなわけないかしら! 現実を見るのよ!」

ジャイアンにスバルが詰め寄ると、腕の中のベアトリスに怒られる。

その言葉はもっともだが、スバルの方は頭が回っていない。いったい、何を言われているのか皆目見当がつかないまま女に向き直り、

「いや、悪いけどたぶん人違いとかそういう類の……むぐっ!?」

「お師様ぁ! もうもうもう! 待ってたッスよ~!」

言葉の途中で、感極まった様子で飛び込んでくる女に抱きしめられる。というより、飛び込んできた女のタックルを食らい、押し倒される形だ。

背中から床に倒れ込み、間に挟まれるベアトリスが「むきゅー!」と悲鳴を上げるが、目を白黒させるスバルから、はしゃぐ女は離れようとしない。

その長いポニーテールを振り乱し、女は異常な怪力でスバルを締め上げつつ、嬉しそうな声で何度も何度も繰り返す。

「お師様! お師様! 長かったッス! 寂しかったッス! もうずっと、このまま近付く奴らを狙撃するだけの人生かと思ったッス!」

「ま、待て! 待て待て! なんだ!? 何の話だ!?」

「なんだってひどいッスよぉ! お師様が命令したんじゃないッスかぁ。祠に近付く奴らの邪魔をしろって……方法はまぁ、別ッスけど」

「じゃなくて、俺がお師様!? 何を言ってやがる!?」

柔らかい女の肌と直接触れ合っているが、そのラッキースケベを堪能する心の余裕もない。異常な腕力に掴まれたまま、スバルは必死に逃れようとする。

しかし、女も女で言い分があるのか、スバルから離れようとしない。

結果、スバルと女は間にベアトリスを挟んだまま、床の上でくんずほぐれつになる。

「お前、とにかく、離れろ……話にならねぇ……!」

「いやッス! 絶対にいやッス~! そんなこと言って、また目ぇ離した隙にいなくなるつもりに違いないんス! お師様変わってなさすぎ!」

「知るかぁ――!!」

強情な女は何のトラウマがあるのか、スバルから決して離れない。その顔を乱暴に掴んで遠ざけようとしながら、スバルは噛みつくように叫ぶ。

「そもそも、お前は誰で! なんなんだ!」

「何を言ってるッスか! シャウラッス! プレアデス監視塔の星番! お師様の可愛い教え子のシャウラッスよぉ!」

「覚えがねぇ――!」

名乗る女――シャウラだが、その名前は塔の『賢者』の名前のはずだ。

そのプレアデス監視塔にいる、偉い『賢者』がまさかこんなわけのわからない女であるはずがない。

スバルは断固として、そこに異議を申し立てる。

しかし、そうしてもつれ合って進展のない場に、ふいに変化が飛び込んだ。

それは――、

「――大変! 大変よ! 起きたらスバルがどこにもいないの! みんなに急いで知らせて、探しにいかなきゃ……」

「あ」

と、竜車の扉から飛び出すように、寝癖だらけのエミリアが転がり出る。焦燥感でいっぱいだったエミリアは、竜車を出たところで絡まり合うスバルとシャウラ――と、実はベアトリスもいるのだが、その二人を見つけ、目を丸くする。

「エミリア……たん! 起きてくれて助かった! 実はこいつが……」

「えい」

「痛い!? エミリアたん、なんで今、俺蹴ったの!?」

「よくわからないけど、すごーくもやもやしたの」

目覚めたエミリアも含めて、しばらく騒がしい怒鳴り合いは続き――。

結局、騒ぎに気付いたユリウスたちが合流するまで、プレアデス監視塔の『賢者』(仮)との悪戦苦闘は続いたのだった。

第六章19 『賢者の行方』

予想外の悪戦苦闘に、プレアデス監視塔第六層には激戦の余波が広がっていた。

立ち込める砂埃、汗と泥に塗れて組み合う男女。

そして、その二人を冷めた目で見る、それ以外の面々――。

「なんだよ、その目! 俺が、俺が悪いってのかよ!? 俺は悪くねぇ! 俺は悪くねぇ――!!」

「スバル、あまり幻滅させないでくれ」

「少しはいいところもあると思ったけど、所詮、バルスはバルスね」

シャウラにいいように組み伏せられるスバルに対する、降りてきたユリウスとラムの感想はそんなところだった。

ともあれ、

「無事に合流できたのは僥倖だ。君が目覚めてくれたのも朗報だが……状況は、どうやら口頭で説明もらえないと理解に苦しむ」

「俺も説明できるもんなら……クソ! 離せ!」

「いーぃやーぁッスーぅ!」

スバルの腕にしがみつくシャウラを見て、剣の柄に手をかけていたユリウスが肩をすくめる。彼女に攻撃の意思はない、と見取ったが故だろう。その点に関してはスバルも合意するが、それとは別に引き剥がすのに苦労しているのは事実。

「見てないで、剥がすのに力貸せよ……! こいつ、すげぇ怪力で……」

「鼻の下が伸びてるわよ、バルスケベ」

「伸びてねぇし、組み合わせんなよ! 応用するな! エミリアたん痛い! 髪の毛引っ張ってもあんまり助けにはならないかな!?」

「あ、ごめんなさい。全然、助けようとしたんじゃないの」

「そこ謝んだ!?」

強情なシャウラはスバルの腕を離さず、エミリアはなんだかやけに無表情でスバルの髪の毛を引っ張ったりしている。ちなみにスバルとシャウラのもみくちゃに巻き込まれたベアトリスは目を回しており、「きゅー」と赤い顔で潰れている有様だ。

「なんや……あんな大変やったのに、えらい空気の変わりようやね」

「お兄さんが起きたからなんじゃなあい? うるさいのは苦手だけどお、お兄さんが起きたのは良かったと思うわあ」

ユリウスとラムに遅れて、ゆっくりと階段を下りてきたアナスタシアとメィリィも合流する。これで、治療中という話のレムとパトラッシュ以外は集合だ。

集合したはいいが、このままでは落ち着いておちおち話もできやしない。

「と・に・か・く! 全員落ち着け! ――話を、しよう」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

寝起きの喉を酷使して、事態の収拾を図ったスバルにひとまず全員が従う。

といっても、車座になって集まる一団の中、シャウラはスバルの右腕にしがみついたまま離れないし、スバルの左側には肩が触れるかどうかの距離にエミリアが正座。そして膝の上にはベアトリスが陣取る、なんとも傍目には贅沢な布陣だった。

「いやらしい」

「お前、さっきまでの惨状見てた? 俺の右側、俺が望んでこうしてるように見えるか? 骨が凄いミシミシいってんだぞ。このままだと壊死する」

吐き捨てるラムに言って、スバルは拘束される自分の右腕を見る。

半裸の美女に抱き着かれている、と字面にすれば夢のような体験だが、実態は彼女の肌の柔らかさを体感するより、完全に極められた関節の痛みと絞られる腕の肉、骨や神経などへの影響の方が怖い。端的にいってもげる。

「で、腕が根本からもげる前に話を進めたくはあるんだが……その前に、まずはみんなよく無事だったな。レムとパトラッシュを未確認なのは怖いんだが……」

「まだ疑ってるかしら。大丈夫なのよ。ちゃんと、みんな無事かしら」

「ベアトリス様の言う通りだよ。とはいえ、君の不安や心配は正当なものだ。あとでちゃんと見舞うといい。――さすがに今回は皆、肝を冷やした」

再会を喜ぶスバルに、ベアトリスとユリウスも首肯する。

ユリウスは改めて、砂海で別れた直後のことを回想するのか渋い顔を作り、

「空間が割れた直後、君とアナスタシア様、ラム嬢を除いた我々はあの魔獣の花畑の彼方に落ちてね。そこで紆余曲折を経て、監視塔に匿われるに至った」

「でもお、お兄さんたちはいないしい、戦えないのがわかってたから心配したわあ」

先のベアトリスの説明をなぞるユリウスに、メィリィも膨れ面で同意した。

なるほど、彼ら彼女らの不安も当然だろう。砂海の地下に落ちた時点で、スバルたちも相当、いなくなった彼女らを心配していたのだが、お互い様だったわけだ。

「お姉さんったらすごおい取り乱しちゃって。その賢者さんに噛みついて大変だったんだからあ。今でも、思い出すと怖いくらいだったわあ」

「ちょっと、メィリィ。そういうことは言わなくていいの」

年齢不相応のメィリィの流し目に、エミリアが赤い顔をして反論する。少女の発言が誇張でないのは、耳まで赤いエミリアの反応で丸わかりだ。

不謹慎ではあるが、心配してもらったのは素直に嬉しい。

「そっかそっか、エミリアたんは心配してくれたか。ベア子も大泣きするほど心配してくれてたみたいだし、俺は果報者だよ」

「もう、スバルはまたそうやってふざける。……それに、ベアトリスも大泣きなんてしてないわ。半分くらいよ。そうよね」

「気遣うならちゃんと最後まで気遣えなのよ、この天然……!」

「――?」

涙目になった事実までは暴露されて、ベアトリスが拗ねるがエミリアは気付かない。そんな微笑ましいやり取りに頬を緩めつつ、スバルはユリウスを見上げた。

「そうなると、お前も相当ビビっただろ。その面が見れなかったのは残念だった」

「無論、大いに動揺したとも。君はともかく、アナスタシア様にラム嬢だ。か弱い女性二人、手の届かないところへ離れたのは痛恨だった。顔を青くして右往左往する姿を君たちに見られず、今は細い肝を安心させているところさ」

「ビビッて手も足も出なかった話がなんでそんな優雅な感じに仕上がるの?」

癖のように自分の前髪に触れて、微苦笑するユリウスにスバルは唇を曲げる。

強がるでもなく、弱々しいところを見せるでもなく、なんとも面白くない結果だ。すると、そんな二人のやり取りにメィリィが小さく噴き出す。

何事か、と目を向けると、彼女は自分の三つ編みを口に当てて、

「なあんでもないわあ」

と、意味深に笑って誤魔化すばかりだった。

「まぁ、逸れたみんなが俺たちを心配してくれてたのは了解したよ。誰も欠けてないって結果があるから、振り返って笑い話にもできるけどな」

「そこまで豪胆で図太いのはバルスぐらいのものよ。ラムの細い体と小さな心臓は、今でも思い出すと不安と恐怖で張り裂けそうだわ」

「俺の知ってる中で、一番心臓に毛が生えてそうな姉様が何か言ってる?」

実際、スバルの知人の中でも屈指の強メンタルを誇るのがラムだ。当然のように彼女の発言はスルー対象の戯言だが、正面に座るラムの顔を今はじっと見てしまう。

白い肌に薄紅の瞳。言うまでもなく整った顔立ちと、涼やかな美貌。可憐と優美の狭間にある妖しげな果実のような麗しの顔貌。どう見ても、いつものラムだ。

「――不愉快な目はやめなさい。じっと見て、何のつもり?」

「いや、ラムだよなぁって思って」

「これはもうダメね」

「何の主語もなしに判定するのやめろよ! そうじゃなくて……」

スバルの言葉を軽口と切って捨てるラムに、スバルは口をまごつかせる。

脳裏に浮かび上がるのは、地下で意識を失う寸前の出来事――ケンタウロスの前に立ちはだかり、負傷した身でスバルを庇っていたラムだ。

あちこちに傷を負い、勝算もなしに強敵に立ち向かう華奢な後ろ姿。ああして傷付くことを恐れない姿に喪失の恐怖を味わい、今、無事に二人とも生還している。

その事実を、普段通りに不敵な彼女と言葉を交わすことで実感した。

「やっぱり、この距離感だよ。変に憎々しくなったり、深刻になったりもしたけど、思い返せばあれも……いや、さすがにあれはいい思い出にはならねぇな」

「ぶつぶつと何が言いたいのかわからないわ。スパッと言いなさい。男らしく」

「お互い、無事でよかったなぁと。あと、最後は守ってもらって助かった」

「……時間の無駄だったわね」

「そういうこと言う!?」

人が素直に感謝を伝えたというのに、まったく伝え甲斐のないお嬢さんである。

と、そんな風にむくれるスバルに、エミリアが含み笑いした。

「大丈夫よ、スバル。ラムはちょっと照れてるだけだから」

「姉様が照れる……? 天変地異の方が説得力あるよ?」

「そ、そんなことないわよ。たぶん、ラムが目覚めるまでずっとスバルが抱きしめてたから、それでバツが悪いみたい。離れるときも乱暴だったし」

「エミリア様!」

こっそりと耳打ちしてくれたエミリアだが、その言葉にラムが猛烈に反応する。彼女はエミリアの唇でも読んだのか、珍しく目尻をつり上げて、

「あまり自分の基準で物事を考えない方がよろしいかと思います。ラムは人の心がわからないポンコツにお仕えしたいとは思いませんから」

「……そのポンコツって、私のことじゃないわよね?」

「ええ。エミリア様がちゃんと人の心が考えられる、ポンコツと無縁の存在なら、何の関係もないすっとこどっこいのお話になります」

「そうよね。えーと、ちょっと考えるから待ってて」

ラムの壮絶な皮肉塗れの暴言に、エミリアは真剣に考え込み始めた。その間、ラムはスバルを刃のような眼光で睨みつけ、「忘れろ」と唇だけ動かした。

その剣幕にスバルは思わず頷いて、それから目覚めたとき、自分のベッドに誰かが一緒に寝そべっていた痕跡があったことを思い出す。あれはてっきりベアトリスだと思っていたが、どうやら今の話を総合すると――。

「おっと、忘れた忘れた。忘れましたって」

「よろしい。ポンコツ……ではなく、エミリア様。もういいですよ」

「うー、ラムってだんだん、私に遠慮がなくなってきてない……?」

エミリアが非難の目を向けるが、ラムは素知らぬ顔でそれを受け流した。

とにかく、もうその点に触れてほしくないらしいラムから視線を逸らし、スバルは同行者の最後の一人、アナスタシアの方へ目を向ける。

彼女はユリウスの隣にちょこんと座り、いつものように帽子の飾りであるボンボンを弄って遊んでいたが、スバルの視線に気付くとはんなりと微笑む。

「ああ、お話終わった? ナツキくん、うちのことなんか忘れてもうたかと思ってたわ」

「身内優先のエゴぐらいは許してほしいな。そっちも、無事で何よりだ。地下の最後の戦いだと、もう何が起きてたのかわからなかったから」

「うちも真っ暗闇に投げ出されて怖い思いさせられたけどな? ナツキくんとラムさんと……あと、パトラッシュちゃんが奮闘してて魔獣には無視されとったから。そこで役立てなかった分、交渉では役立ったつもりやけど」

「交渉?」

「そこの、助けてくれた『賢者』さんとの、やね」

アナスタシアがスバルの右腕、そこで未だに頬擦りしているシャウラを指差す。

これと交渉、と聞くとスバルが渋い顔をするが、アナスタシアは苦笑した。

「いやいや、うちらも困惑しとるんよ。やって、さっきまでは押しても引いてもなぁんにも答えてくれんかった人が、ナツキくんにこんなメロメロなんやもん」

「無口? これが?」

「これじゃなく、シャウラッス。お師様~」

「うぜぇ……」

肩をすくめるアナスタシアと、むくれるシャウラにスバルはげんなりする。

確かに状況だけ見ると、アナスタシアたちの方にも一言あるだろう。だが、スバルにはスバルで言い分がある。実際、何もかも予想外の状況だ。

「いきなり好感度百ですり寄られると、相手が美人でもこっちの好感度がゼロだから戸惑うなんて話じゃないんだよな……」

「――! 今、あーしのこと美人って言ったッスか!?」

「都合いい耳だなぁ、オイ!」

改めて、スバルは空いた左腕でシャウラの頭を押して引き剥がそうとする。が、そうすればするほどもがくシャウラの腕力は強まり、スバルは降参だ。

結局、右腕にしがみつかせたまま、息を荒げるスバルは「仕方ねぇ」と首を振り、

「今は些細なことは後回しにして、話すべきことを話そう。いちいち、説明不足で右往左往するのは御免だ。色々話してもらうぞ、お前には」

「はいはーい、お師様の言うことならえんやこらーッス」

「なるほど、協力的で非常に助かる。では、お尋ねしたい。あなたはこのプレアデス監視塔に隠遁した『賢者』……という認識でよろしいでしょうか?」

「ぷいーッス」

「答えろよ! 話すって言ったばっかじゃん!」

友好的に笑っていたかと思いきや、ユリウスの質問には露骨に顔を逸らすシャウラ。その態度の悪さにスバルが怒鳴りつけると、シャウラは膨れ面をスバルに向けた。

「やれやれ、とんだお師様ッス。誰に何を聞かれても、余計なことは言わない話さない教えないっていうかぶっ刺せって言ったのはお師様ッスよ。あーしはその教えを忠実に守ってるだけッス。怒られるなんて心外ッス! 訴訟ッス!」

「そのお師様だいぶひでぇな!」

「そそ。お師様スゲーひどい人なんス。深く反省と陳謝を求める所存ッス」

「だから、人のことを勝手にお師様お師様と……なに、エミリアたん、その目」

スバルとシャウラの珍妙な会話劇に、エミリアがその丸い目を細めている。まさかまたしても謎の発作かとスバルは身構えるが、エミリアは「ううん」と言葉を継ぎ、

「大したことじゃないかもしれないんだけど……なんだろ。スバルとそのシャウラって子の喋り方、雰囲気が似てない?」

「俺、こんな下っ端口調で喋ってないよ!?」

「そうじゃなくて、言い回しっていうか。ほら、スバルっていつも真剣な話してても悪ふざけするでしょ? あんな感じがするの」

「そんな風に思われてたの!?」

心外な評価が飛び出したことにスバルは仰天するが、エミリアは気にした風もない。それどころか、

「ふむ……確かに言われてみれば」

「バルス並みの会話力ということ? 先が思いやられるわね」

「お兄さんの喋り方、わたしは結構好きだけどお?」

「せやけど、みんながみぃんなそれやと胃もたれするやん?」

周囲の賛同とイマイチな評価に、スバルは空いた口が塞がらない。が、そんなスバルに代わって、轟然といきり立つ一人の幼女――ベアトリスだ。

「まったく、勝手なことばかり言うんじゃないかしら。お前も、さっきからスバルに馴れ馴れしい上にべたべたしすぎなのよ。スバルの手を取るのに、ベティーがどれだけ苦労したと思ってるのかしら! ズルいのよ!」

途中から主題がずれているが、ベアトリスの心意気は嬉しい。しかし、そんなベアトリスの抗議を、シャウラは美少女がしてはいけない顔で受け流す。

関心のなさを顔だけで全力で表現し切ったシャウラに、ベアトリスのただでさえ小さい堪忍袋が限界を迎える。

が、その前にスバルのチョップがシャウラの額に入った。

「いい加減にしろ、お前」

「痛っ……くはないッスけど、虐待!? 虐待ッス……! お師様があーしに暴力振るったッス! 法廷で会おうッス!」

「うるせぇ! あと俺以外の奴ともちゃんと会話しろ! 話が進まねぇよ!」

「……いいんスか?」

「いいよ! むしろ推奨! そろそろ真面目に頼むぜ!」

顔をしかめたスバルの訴えに、シャウラはぽかんと驚いた顔をした。それから彼女は徐々にその表情を変化させ、驚き・理解・納得・感激と順繰りに辿った。

そして、

「うひゃー! やったッス~! お話の許可が出たッスー! これでもう、意味深にミステリアスな美少女を演じる必要なくなったッス~! バンザーイ!」

「そんな要素、もはや欠片も残ってねぇから!!」

尻尾があったら全開で振り回されていただろう、満開の笑顔。

実際、シャウラのポニーテールは大喜びで振り乱されて、腕を拘束したままのスバルの頬やら額やらを何度も殴りつけたのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――それで、お前が噂の『賢者』ってことでいいんだよな?」

ひとしきり騒ぎ終えて、騒ぎの前に確認すべき問答に本当にようやく辿り着く。

スバルの右腕を解放したシャウラは、今は車座になる一行の真ん中に胡坐して囲まれている状態だ。ちなみに右腕は痺れて上がらない。動かない。

「――――」

「答えろ。お前が『賢者』だよな?」

「ん~、その質問の答えはムズいッス」

質問に沈黙されて、スバルは再度、同じ問いを繰り返す。すると、シャウラはその表情を梅干しを食べたような酸っぱいものにして、曖昧に答えた。

その返答にスバルは眉を寄せて困惑を露わにする。が、代わりに挙手したのはエミリアだ。彼女は「それじゃぁ」と前置きして、

「あなたが『賢者』かどうかは別として……この塔の中で、ずっと砂丘を見張っていたっていうのはあなたでいいの?」

「あ、それはあーしで間違いないッス。四百年、来る日も来る日もずーっとずーっと砂の中を見張って、聞くも涙語るも涙な渇きの日々を過ごしてきたッス……!」

「可哀想……っ」

「エミリアたん、感化されない。お前も余計な情感交えるな」

拳を震わせて応じるシャウラに、感情移入してエミリアの瞳が潤む。そのエミリアを宥めつつ、スバルは今のシャウラの答えを踏まえてユリウスに目配せした。

目配せにユリウスは顎を引き、「では」と会話を引き継ぐ。

「一般的に周知されている、『賢者』としての所業は四百年、あなたが担ってきたという認識でよろしいでしょうか。シャウラ様」

「様付けだなんて照れるッス。慣れてないんで、あーしのことは普通に呼び捨てにしてくれていいッスよ。そんなシャウラ様なんて……でへへ」

「では言い直して。――一般的に『賢者』と知られているのは、君のことで間違いないのかな、シャウラ」

「さあ、どうなんスかね? 一般的なんて言われても、あーしは塔からずーっと出てないわけで、外の噂なんか知っちゃこっちゃないッス。案外、変な感じに伝わってるんじゃないッスか。あーしが『賢者』なんて呼ばれてるみたいに」

締まりのない顔をしていたシャウラの表情が一転、思慮深げな色を宿して雰囲気が変わる。その探るような視線の深さに、相対するユリウスも目を細めた。

ユリウスでなくても、今の発言は聞き流せる類のものではない。何故なら、シャウラの言葉が事実だとすれば――、

「君が『賢者』でないとしたら、『賢者』シャウラの言い伝えは丸ごと間違った伝聞ということになる。それとも、君以外に『賢者』とされるシャウラがいると?」

「その巷の『賢者』シャウラが何者かは知らないッスけど、あーしの知る限り、あーし以外にシャウラなんて名前の知人はいないッス。この名前もお師様に付けてもらったもんなんで、お師様があーし以外に付けてなきゃ……ッスけど」

ちらりとシャウラの視線がスバルに向けられるが、他の誰かも何もそもそもスバルは誰かにシャウラなんて名前を贈ったことはない。

ただ、『シャウラ』の名前に響きがあるのは事実。シャウラもまた星の名前であり、さそり座を形作る星名――意味は『針』だ。

自然と、監視塔から放たれた白光の正体に思考が及ぶが、それについて聞き出すのは後回しで構うまい。今、優先すべきは別の問題だ。

「お師様は心当たりがないみたいなんで、やっぱりシャウラはあーしだけの名前ッス。お師様がくれた、あーしだけの名前……他のシャウラなんか、いらないッス」

「なるほど。君はそのお師様をずいぶんと好いている様子だ。――罪作りな人物がいたものだね」

「言いながら俺を見るのをやめろ。濡れ衣だ。推定無罪だ」

「疑わしきは罰せよ……と、ラムは思うわ」

「法治国家としての誇りを持とうぜ、な?」

合間の茶々はともあれ、シャウラの言動に嘘の気配は見受けられない。そうなると、やはり違っているのは言い伝えの方なのか。

すると、話し合うスバルたちを余所に、アナスタシアがごそごそと懐を漁り出す。そして何かと思えば、彼女はがま口から何やら硬貨を取り出した。

「急に銭勘定……ってんじゃないよな?」

「うちの趣味やし、考え事するときに小銭に触るんは捗るんやけど……それとは意図が別やね。ほら、王国の硬貨をちゃんと見てみたらわかるわ」

言って、アナスタシアはピンとこないスバルに掌の硬貨を放り投げる。慌ててそれを受け取ると、投げ渡されたのは銅貨、銀貨、金貨、そして聖金貨の四枚だ。

まさかお駄賃代わりやシャウラへの賄賂、ということではあるまい。言われた通りに硬貨を確認して、スバルはそこに刻まれた意匠に気付く。

あまりこれまでジッと、お金に目を向けたことはなかったが――。

「お金に絵とか模様とか刻むのってどこでも共通なんだよな。不思議」

「不思議でもないよ? その貨幣がどこの出物なんかはわかるようにしとかなあかんし……それに、貨幣は常に国の歴史と共にあるもんやから。せやから、国の歴史に深く関わるもんが刻まれる」

「んん……?」

アナスタシアの口上を聞きながら、スバルは貨幣の刻印に注目する。よくよく見てみれば、なるほど貨幣はそれぞれ刻まれた絵柄は別々で――。

「聖金貨が『神龍』、金貨が『初代剣聖』、銀貨が『賢者』で銅貨が『王城ルグニカ』になってるの。知らなかった?」

「え、エミリアたんが物知りキャラみたいなこと言い出しただと……!」

「っていうか、知ってて当然でしょう。お金もちゃんと見たことないなんて、スバルは買い物のときとか無意識なの?」

エミリアの痛い追及に、スバルは口笛を吹いて誤魔化す。そして誤魔化しつつ確認したところ、確かに貨幣の刻印は説明の通りのご様子だ。

聖金貨には龍、金貨には目つきの鋭い男、銅貨には王城がそれぞれ刻まれており、そして銀貨に刻まれているのは――、

「若いイケメンのお兄さん、だな。シャウラとは似ても似つかない」

「でも、世間的にシャウラと思われてるのはこの絵の奴なのよ」

刻まれているのは長髪の、精悍な顔立ちをした美丈夫だ。当然、角度を変えてみても半裸の美女には見間違えられそうもない。

当人のシャウラが「見せてッス!」とせがむので渡してやると、彼女はしげしげとその銀貨を眺めて、

「へー、上手いもんッスね。お師様そっくりッス」

「どこが!? あ、いや、そこに刻まれてる『賢者』がお前のお師様なら、記憶の中のお師様には似てるってことか?」

「もー、何言ってるんスか。あーしのお師様はお師様だけッスよ」

「じゃあ、改めて言い直すよ。どこが!?」

銀貨に刻まれた絵柄とスバルを見比べるシャウラに、咳払いして声を上げる。

髪型も違えば目つきも違うし、そもそも人種さえも違いそうな勢いだ。合ってるのなんて性別ぐらいなものだろう。顔の良さ、というカテゴリーだけで判断するなら、スバルよりもユリウスの方が近いぐらいである。

しかし、シャウラはスバルのその意見に「えーッス」と不満げな目をして、

「あーしの見た感じ、かなり正確に捉えてるッスよ。髪の毛あるし、目と耳は二つ付いてるし、鼻と口もあるッス」

「そういうレベル!? 幼稚園児の似顔絵褒めてんじゃねぇんだぞ!?」

「私も、さすがにこの賢者とスバルは似てないと思うかな……」

不貞腐れるシャウラだが、スバルはもちろんエミリアの判定もアウトだ。当たり前のことである。だが、シャウラはなおも納得してない顔で、

「だって、あーしは人の顔比べるのって苦手なんスよ。男か女かが違うぐらいで、あとは大体似たようなもんじゃないッスか。……あとは大きさぐらいッスね」

「今、ベティーを見て付け足しやがったかしら、こいつ」

「ベア子が小さくて可愛いのはオンリーワンだからいいんだよ。それより、お前そのガバガバな審美眼でよく俺がお師様とか言えたな! 人違いだよ、完全に!」

シャウラの言い訳に便乗し、スバルはここまでの濡れ衣な不名誉の返上にかかる。そもそも、最初からおかしな発言だったのだ。無論、考慮する必要もなく、スバルにシャウラとの接点はなかったわけだが、これで一安心。

かと思いきや、そこでシャウラは首を横に振って、

「あ。あーしがお師様のこと見つけたのは、見た目の話じゃないんで問題ないッス」

「見た目じゃないって、じゃあ何で見極めてんだよ。オーラか?」

「臭いッス」

「――――」

「いやぁ、だって、こんな鼻が曲がりそうなぐらいどす黒くてエグイ臭いプンプンさせて平気な人なんて、お師様以外には考えられねッスもん」

「そこまで傷付けられたのは正直初めてだよ! なに、俺そんなひどいの!?」

臭い、というキーワードが出た時点で、一瞬だけスバルは覚悟したつもりだった。が、直後のシャウラの言葉の選ばなさに覚悟が一発で砕かれる。

心外な評価に顔を赤くするスバルに、シャウラは不思議そうな顔をして、

「なんで怒るッスか? あ、エグイって言ったからッスか? 大丈夫ッス! お師様の臭いはマジでひどいッスけど、あくまで何度も嗅ぎたくなるタイプの臭さッス! ゲロとかじゃなく、ゲテモノ料理系のあれなんで平気ッス!」

「女の子がゲロとか平気で言うな! あと、フォローになってねぇ!」

スバルは掌で顔を覆い、その場に泣き崩れるようにして恥じらう。

「なんなの……もうそろそろ言い慣れてきたとは思ってたけど、こんな風に辱められるなんてひどすぎる。俺が何をした……」

「だ、大丈夫よ、スバル。私、ちゃんとわかってるから。だから後でしっかり、水浴びしましょう?」

「ちゃんとわかってもらえてねぇ!」

さめざめと凹むスバルが使い物にならなくなり、慰めるエミリアを横目にベアトリスが嘆息。それから少女は腕を組み、スバルに背中を預けたまま、

「お前がスバルをどこの誰とも知らない相手と勘違いした理由はわかったかしら」

「勘違いしてないッス。チビッ子のくせに、生意気ッスね」

「生憎、そのチビッ子がお前の大事なお師様のパートナーなのよ。おっと、人違いだったからお師様でも何でもなかったかしら。失礼したのよ」

「――――」

「――――」

静かに、ベアトリスとシャウラの間で視線の火花が散る。

完全に話の主題がとっちらかってしまっているが、軌道修正しようにもまともに話になる人間が少なすぎる。こうなると、わりを食うのが常識側の面子だ。

「ベアトリス様、張り合うのは終わってからにしましょう。大事な話し合いの後でなら、バルスの飼い主が誰なのかご自由にされて結構です」

「スバルは誰に飼われてもいないかしら。そこがいいのよ」

「……はいはい」

心底呆れた目をしつつ、ラムがベアトリスの怒りを引っ込めさせる。と、それからラムは目を細め、未だに刺々しい目をベアトリスに向けるシャウラに声をかける。

「とにかく、話せるようになったなら僥倖。さっきまでは事務的な会話にも付き合ってもらえなかったけど、今度は大丈夫なのでしょう?」

「ん、お師様の許可が出たからOKッス。って言っても、何でもかんでも答えるほどあーしも優しくないッス。っていうか、そんなに物知らないッス」

「その返事だけで、あなたが賢者というのは間違いとわかるわ」

豊かな胸を自慢げに張り、いっそ堂々と無知を表明するシャウラ。ラムはそんなシャウラに張り合うかのように薄い胸を張り、この場の誰よりも偉そうに鼻を鳴らす。

「あなたはシャウラだけど、『賢者』ではない。それなら、『剣聖』と『神龍』には心当たりあるかしら?」

「ケンセーとシンリュー?」

「名前はレイドとボルカニカよ」

「うげぇッス」

ラムの質問に、シャウラは苦い物を噛んだ顔で舌を出す。

両者の名前に心当たりがあった、とわかりやすい反応だ。無言でラムがその心当たりを促すと、シャウラはその胡坐を掻いたまま体を左右に揺らして、

「そりゃ知ってるッスよ。棒振りレイドと皮肉屋のボルカニカは古馴染みッスもん。別れてからいっぺんも会ってないッスけど、元気でやってるんじゃないッスか?」

「片方……レイドは死んでいるわ、とっくに」

「マジッスか!? 殺しても死なないような奴だったのに死んだッスか!? なんで死んだッスか!? 変なもの食べたッスか!?」

「寿命よ。天命には誰も逆らえないわ」

「寿命……ああ、そっか。そッスよね。レイド、人間だったんスもんね」

知己の『死』を知らされて、シャウラがしんみりとした態度で目を伏せる。心なしかポニーテールまで力なく下がり、肩を落とす彼女は悲しげだ。

ここまでの態度や言動がどうあれ、友人の死を悲しむ姿は平等に物悲しい。

ようやく立ち直りつつあるスバルも、そのシャウラの横顔には胸に詰まるものがあった。

「じゃ、ボルカニカは元気なんスか」

「そっちはドラゴンだから」

「ああ、ドラゴンッスもんね。レイドより、ボルカニカの方が死んでたらよかったッスけどね~」

「すげぇ言われようだな、オイ」

ただ、ほんの少しだけ哀切を見せただけで、シャウラはさっさと切り替える。もう一人の知己に関して辛辣に述べて、彼女はさっぱりした顔だ。

そうしてさっぱりした顔のシャウラに、ラムは思案げに片目をつむって、

「レイドとボルカニカには覚えがある。……それなら、お師様の名前は知っているはずね?」

「――――」

そのラムの問いかけに、スバルたちは揃って息を呑んだ。

質問されたシャウラだけがきょとんとした顔で、「当たり前ッス」と答える。

ラムの質問は、なるほど『賢者』を紐解くのに非常に有効だ。

『賢者』=シャウラの方式が崩れた今、シャウラ以外に『賢者』と呼ばれる功績を成し遂げた者がいるのなら、当然、その人物に会う必要がある。

シャウラは何故かその人物をスバルと勘違いしているが、名前に関しては誤魔化せるものではあるまい。まさか、ここでナツキ・スバルという名前の『賢者』が出てくるミラクルは起きないはず、とスバルはいっそ祈った。

そして、その祈りは成就する。――想像以上の、おかしな形で。

「お師様の名前が気になるなんておかしな話ッスよ。本人がそこにいるんスから、お師様の連れのあんたたちだって知ってるんじゃないッスか?」

「残念だけど、あなたのお師様はトイレの便器に頭をぶつけて色々抜けたのよ」

「トイレに限定した意味ある?」

「お師様、またやったッスか……」

「また!?」

シャウラに同情的な目を向けられて、スバルは受けるべきではない屈辱を味わう。だが、その答えに納得したのか、彼女はぴょんと飛ぶように立ち上がると、

「じゃ、あーしの口から発表ッス。お師様の名前……そう、その名も高き大賢人! 確かに『賢者』なんて呼ばれるとしたら、相応しいのはお師様だけ!」

「前置きはいい!」

「せっかちッスね~。でも、それもお師様ッス」

派手な身振りを入れて焦らすシャウラだが、スバルの要請に拗ねた顔で舌を出す。それから彼女は自分の頬に指を立て、やけに幼い仕草で言った。

「フリューゲル」

「……あ?」

「お師様の名前はフリューゲルッス。大賢人フリューゲル、シャウラのお師様ッス」

その言葉を口にする瞬間、シャウラは満面の笑みで嬉しそうに胸を張る。

そこにはまぎれもなく、純粋な尊敬と感謝と親愛が込められていて、シャウラがフリューゲルへ向ける敬愛は疑いようもない。

ただし、その名前に対するスバルたちの反応はまちまちだ。

なにせその名前、覚えがある。

「……それ、木ぃ植えた人の名前じゃん」

と、ずいぶん前に一度だけ運命の交差した偉人の名に、スバルは首を傾げたのだった。

第六章20 『シャウラ ≠ 賢者=フリューゲル』

――偉大なる『大賢人』フリューゲル。

豊かな胸を張り、あけっぴろげな笑みを浮かべたシャウラの発言に、スバルたちは揃って顔を見合わせ、微妙な雰囲気に包まれた。

「あれ? なんスか、その反応。あーし、なんか変なこと言ったッスか?」

「いや、だって、なぁ?」

スバルたちの芳しくない反応に、シャウラが目を丸くしてきょとんとする。自分の言動に何の不可思議もない、とばかりに自信ありげな彼女には悪いが、その『フリューゲル』の名前にスバルたちが抱く感慨はなんとも難しいものだ。

『大賢人』フリューゲル。

頭に付く冠は残念ながら違うものだが、スバルはその名前に聞き覚えがある。

異世界に召喚されて以来、たった一度だけ運命の交わったことがある人物の名だ。もっとも、その人物との間に面識はなく、一方的な『借り』があるだけに過ぎない。

なにせ彼の人物の功績のおかげで、命を救われた経験があるのだから。

「フリューゲルの大樹……の、フリューゲルさんだよな?」

スバルの口にしたキーワードに、シャウラ以外の面々が顎を引く。とはいえ、メィリィは知らなかったらしく、「なあにそれえ?」と疑問に首を傾げた。

「聞いたことないわあ。タイジュって、木のこと?」

「そうだ。あー、ルグニカ王国のリーファウス平原ってところに、ものすごいでかい木が生えてて、それがフリューゲルの大樹って呼ばれてたんだ。そりゃもう、雲に届くんじゃないかってでかさで、男心がくすぐられるもんがあったな」

「へえ、そうなんだあ。そんなに言われると、見てみたい気がするわあ」

「すまん。あれは俺が切り倒した」

「お兄さんのいけず!」

速攻でメィリィの願望を折ってしまい、非人間扱いされてしまう。

厳密にいえば、大樹を切り倒したのはスバル単体の責任ではない。もっとも、大樹を切り倒して利用することを提案したのはスバルなので、責任の比重が一番重たいのはどこか、という話になればやはりスバルなのだが。

――フリューゲルの大樹は、一年前の『白鯨討伐戦』の切り札になった代物だ。

『霧』の魔獣、白鯨を討伐する上で、あの巨獣の体躯を上回る大樹の存在は非常に有用だった。最終的には大樹を切り倒し、白鯨を下敷きにすることで動きを封じ、トドメを刺すに至ったのだからまさに決定打と言える。

「それを植えたっていうフリューゲルさんには悪いとは思ってたが……まさか、こんなところで名前を聞くことになると思わなかった」

「白鯨討伐の論功があって、その後で切り株を見にいった場所よね。切り倒した木は色んなことに使われたって話だけど……」

「現在は『フリューゲルの大樹跡』として、切り株だけが残っていますよ。重要な史跡を保護する形ですが、以前と同じになるのは数百年後のことでしょう」

スバルの感嘆に、エミリアとユリウスがその後のことを口にする。

白鯨討伐の直後、『怠惰』討伐に加えて、レムやクルシュを巻き込む大罪司教の襲撃などが重なった。おまけにエミリア陣営に至っては直後、『聖域』を中心とした騒動でしっちゃかめっちゃかだったわけだが、論功はそんな一連の騒ぎの後のこと。

そこでは白鯨・『怠惰』の功績の話し合いがメインだったが、当然、生じた被害などの補償についても話し合われた。フリューゲルの大樹の、切り倒された樹木の有効利用と、残った切り株の保護はそんな中の一つだ。

ちなみに白鯨の方は使い道がなく、巨大な胴体はかなりの人員を割いて焼却され、頭部の骨だけが討伐の証拠として王城へ献上されている。

ともあれ、大樹の方の処遇はともかく、肝心のフリューゲルの方だが。

「そういや、確かに『賢者』フリューゲルって呼ばれてるとは聞いてたな」

「だけど、何したのかイマイチわからない『賢者』なのよ。……それで『賢者』扱いされてたことが、そもそもおかしいと言えばおかしいかしら」

「ただ功績だけで考えると、『賢者』の呼び名に見劣りする成果なのは事実だわ。よほど自分の功績を喧伝するのがうまかったのか……バルスみたいな奴ね」

「俺がいつ、自分の功績を誇張しましたかね!」

心外な評価にすこぶる不機嫌になるスバル。だが、当のラムは涼しい顔だ。

と、そのやり取りを聞きながら、「なるほどなぁ」と言ったのはアナスタシアだった。彼女は一人で納得した顔をしながら、

「確かに、言い伝えられてる限りの話やと、フリューゲルさんは『賢者』って呼ばれるんに不足かもしれんけど……真の『賢者』扱いされてたシャウラさんがこういう人やった以上、そういうことなんちゃうかな」

「そういうことってーと?」

「伝わってる功績か逆……んー、違うかな。逆や言うより、偏ってる。ううん、意図的になすりつけてるぐらいの方が可能性高いかもしらんよ」

「つまり、フリューゲルさんが自分のしたことを、シャウラさんがやったみたいにしてるってこと?」

アナスタシアの推測に、エミリアが目を見開いて驚く。その理解にアナスタシアは頷くと、改めてシャウラの方へ向き直った。

「と、うちは睨んでみたりするんやけど、シャウラさんはどう思うん? シャウラさんのお師様、そういうことしそうな人やったかな」

「そッスね~、難しい話はちょっとわかんないんスけど」

「お前な……」

「いやいやいや! 早とちりッスよ! ちゃんと続きあるッス!」

頼りない答えにスバルが目を細めると、シャウラは恐縮したように首を横に振る。それから彼女は両手を上げ、掌を無意味に開閉させながら、

「あーしにも正直、お師様の考えはわかんないとこが多いッス。でも、お師様は目立つのはあんまり好きじゃない人だったッスよ。なんで、面倒そうな噂話の矛先をあーしに向けて逃げるって、お師様らしいかな~って思うッス」

「目立ちたくない人間が、フリューゲルの大樹なんて名前の木は植えないと俺は思ったりするんだが……」

「スバル、それは考え違いだ。フリューゲルの大樹といえど、何も植えられた当初から大樹だったわけではない。年月を経て、成長することであれほどの偉容を得るに至ったんだ。植えた人間の名前が残っていたのであれば、後世の人間が呼び始めたものが定着したとしてもおかしくない」

「……ぐうの音も出ねぇよ」

ユリウスの訂正に、スバルは唇を尖らせて納得する。

なるほど、当時は単なる植林の一環だったものが、長い年月の果てにあれだけ立派な大樹に育った。これは名前の一つでも付けねばなるまい、となったところで、「なら植えた人の名前にあやかろう」となるのは自然な話だ。

それはそれで、名前を残していたフリューゲルの手落ちな気がするが。

「隠す気があるんなら、そもそもフリューゲルって名前が残るのも避けろって感じがするけどな。意外と抜けてるのか?」

「本で読んだけど、フリューゲルさんの名前がわかった理由って確か……あの大樹の上の方に、『フリューゲル参上』って刻んであったからよね?」

「抜けてるどころの話じゃねぇんだけど! 修学旅行生かよ!」

想像以上の自己顕示欲エピソードにスバルは仰天する。

似たようなことを大樹の傍にいったときにやりたくなった覚えがあるが、実際に実行するとなるとまた別の話だ。そもそも、フリューゲルがその傷を残したとき、まだ大樹は大樹ではなかったはずなのだし。

「その名前が独り歩きして、結果、『賢者』フリューゲルは木を植えた以外の情報が不明の謎の偉人として語り継がれることになったわけだ」

「じゃあ、フリューゲルが植えた人かどうかの確信も曖昧だったんだ!?」

「それが時を経て、別の『賢者』の口から正しいと証明されたことになる。そう考えると……ふむ。歴史の欠落を埋める場に立ち会って、少しばかり胸が弾むな」

「歴オタみたいなこと言い出すなよ……」

数百年の歴史の事実の裏を知り、ユリウスはどこか感慨深げだ。

魔法に関して見識が深い、というより説明するとき口数の多くなる傾向にあるユリウスだが、ひょっとすると知識オタク的な側面があるのかもしれない。

前々から少し疑っていた部分がさらに疑わしくなり、スバルはげんなりする。

「でも、大昔の『賢者』が実際はフリューゲルだった……ってわかっても、それで何かが大きく変わるわけじゃない、のよね?」

そうしてフリューゲルに対する見解が一致したところで、エミリアが自信なさそうに全員の顔を見渡す。それを受け、スバルはその通りと頷いた。

エミリアの言う通り、過去の偉業の真の功労者が実はフリューゲルだった、という事実は現状においては大した意味を持たない。――はずもない。

「いいや、エミリアたん。実はでかい問題があるぜ」

「え?」

「だってそうだろ? 元々、俺たちの目的は全知って評判の『賢者』さんから色々話を聞くことにあったんだ。だけど、噂の『賢者』さんは実は別人で、残ってるのは見るからに頭空っぽなこいつだけってことは……」

「あー、お師様~、頭振らないでほしいッス。カラカラ音がするッス」

シャウラの肩を揺すってやると、おどけながら彼女はそんなリアクションだ。

言葉を選ばず言えば、どう考えても全知とは程遠い。

「そもそもの、俺たちの当初の目的が果たせない。――『賢者』がいないなら、ここに足を運んだのは無駄足ってことだ」

「――――」

スバルの結論に、エミリアたちが口を閉ざす。

彼女らの反応を見ながら、スバルも自身の出した結論に奥歯を噛みしめていた。

一ヶ月以上の時間をかけて、スバルに至ってはすでに四度も死亡した。

それほどの苦難を乗り越えて辿り着いたプレアデス監視塔には、『賢者』とは名ばかりの番人が残るのみ。これでは、何の成果も持ち帰れない。

歴史の真実、『賢者』の実態。そんなもの、スバルには何の価値もないのだ。

スバルが欲するのはただ、大事な人間を救う手立てそれだけなのだから。

「シャウラ。望み薄だけど、これだけ聞いとく。お前のお師様……本物の『賢者』のはずの、フリューゲルはどこにいる?」

「今、あーしの目の前に……って答えたら怒られそうな気がするッス! でも、答えちゃうッス! あーしの目の前にいるのが、お師様フリューゲルッス!」

「そう言うと思ったよ」

へこたれそうでへこたれないシャウラの発言に、スバルは嘆息するしかない。

事実、元気なシャウラに八つ当たりしたくなる程度には、今のスバルの内心は荒れ果てた荒野も同然だ。手掛かりが潰えた、そう言ってもいい状況。

『賢者』という光明が消えて、手探りの段階に戻っただけといえばそうだが、闇の中に一度、眩い光を見てしまった後の暗闇は重みが違う。

希望は歩き出す力を与えてくれるが、その希望が塗り潰されたときの闇は、あるいはずっと暗闇の中にいるよりも人の視界を黒く覆うものなのだ。

ただ、そんなスバルに――、

「スバル、聞いて。そのことなんだけど、実は八方ふさがりってわけじゃないの」

「え?」

スバルの肩に手を置いて、項垂れる横顔にエミリアの声がかかる。彼女の方へ顔を向けると、エミリアは紫紺の瞳に確かな希望を宿していた。

顎を引き、スバルの肩に触れたまま、エミリアはシャウラに「そうよね」と続け、

「さっきまではほとんど何も話してくれなかったけど、今のあなたならもうちょっと詳しくお話してくれるんじゃない?」

「いいッスよ。あーしもお師様に凹まれてるの嫌ッスもん。それに長いこと一人きりだったんスから、お喋りしたいッス」

意味ありげなエミリアの追及に、シャウラは態度を変えずににこやかに応じる。胡坐を掻いた彼女は体を前後に揺すり、右手を天へ向け、頭上を指差した。

「お師様以外の人にはちょっと話したッスけど、ここが塔の一番下。第六層『アステローペ』ッス。上にいくにつれて五層『ケラエノ』、四層『アルキオネ』って上がって、てっぺんが一層『マイア』ッス」

「階層ごとにいちいち名前付けてんのか。面倒臭くね?」

「名付けたのお師様ッスよ?」

「嫌いなセンスじゃねぇけど、今はその話するつもりねぇよ。それで?」

エミリアの瞳に希望があり、それを助長する流れにスバルの気持ちは逸る。その表情の変化を見取ったのか、シャウラはニマニマ嬉しそうに頬を緩めた。

彼女はそのまま、上を指差すのと反対の左手を突き出し、五指を見せつけながら、

「五層『ケラエノ』がすぐ上、そこが外と繋がる出入り口のある層ッス。六層『アステローペ』はその下なんで、実は地下に当たるッス。下手打つと生き埋めになるんで、壁を壊そうなんてめったなことはしない方がいいッス」

「ちなみに壁や床だが、一見して石材のように見えるのに強度が尋常ではない。私はもちろん、エミリア様の魔法でも傷一つ付かないと先に言っておこうか」

破壊を試みた、わけではないのだろうが、シャウラの説明をユリウスが補足する。元より塔を破壊するつもりはないが、なるほどと頷いておいた。

「で、五層が出入り口なのはわかったが、その上は?」

「四層『アルキオネ』は出入り簡単な、あーしの住処みたいなもんス。結構、好き放題に汚しっ放しにしてるんで、じろじろ見られると恥ずかしいッス~」

「――――」

「お師様、目がマジッス。怖いッス。……ふ、普段はここからあーしは砂丘の様子を見張ってるッス。で、塔に近付く奴は片っ端から撃つべし撃つべしッス!」

「やっぱり、アレはお前か」

半ば、わかりきっていたことではあるが、本人の証言でようよう確信を得る。

砂丘でスバルを二度殺害し、その後のチーム分断の一因にもなった、あのプレアデス監視塔からの白光――その下手人は、やはりシャウラだ。

「アレのせいで、こっちはとんでもねぇ目に遭ったぞ、どうしてくれる」

「どうもこうも、あーしはお師様の指示に従ってただけッスし、それを言い出されるとここ何百年かやってたことにケチつけられてるだけッスよ~」

スバルが厳しい声で睨みつけると、シャウラは顔をくしゃくしゃにして及び腰だ。その顔に悪気はないし、もっと言えば反省の色もない。

罪の意識に欠ける、というよりはそもそも罪の意識がないのだ。

それは感情の欠落や、そういった問題ではなく――、

「スバル、何を言っても無駄なのよ。これに罪の意識や罪悪感はないかしら。これはただ命じられただけ……道具に、使われ方を問い詰めても無意味なのよ」

「そーそー、あーしはお師様の道具ッス! チビッ子、いいこと言うッス!」

ベアトリスの殺伐とした見解に、シャウラは我が意を得たりと満面の笑みだ。

コロコロと変わる表情と機嫌、そして今の自分の在り方への理解――おそらく、シャウラとは価値観が違う。イマイチ、会話がすれ違うのはそのためだろう。

つまるところ、

「お前と話してると疲れるな」

「それ、前にもよく言われたッス! 久しぶりッス」

「そうか。俺もよく言われたよ、昔」

今でもたまに言われる気がするが、スバルはその点については受け流す。

ともあれ、監視塔からの白光がシャウラの仕業だったとわかっても、彼女には何の謝罪も反省も求められないことは理解した。

ならば、話を中断することに意味はない。先を促すだけだ。

「四層はお前の住処……住処って言い方もあれだな、居住空間。なら、その上は?」

「三層『タイゲタ』からは試験会場ッス。――書庫に入る権利を試すッスよ」

「……書庫?」

その響きに、スバルが眉を寄せて問い返す。シャウラは聞き返すスバルの態度の変化に目もくれず、「そッス」と実に気楽に頷き返した。

「書庫ッス。三層『タイゲタ』から上は試験と、それに対応した書庫があるッス。書庫に入る条件だけ満たせば、中の本は好きに読んだらいいッスよ」

「中の本って、何が書いてあるんだ?」

「さあ?」

「さあ!?」

ここまでもったいぶったことを言っておいて、「さあ」で済まされてはたまらない。唇を曲げるスバルにシャウラは「だって~」とイヤイヤ首と髪の毛を振り、

「あーし、本とか読めないッスし、塔を守れ以上のことは言われてないんスもん」

「それもお師様……フリューゲルにか」

「はいッス!」

そこで誇らしげにされても、スバルの方は答えようがない。

ただ、スバルは首を傾げるだけのシャウラの発言に、エミリアたちの様子は真剣な面持ちを崩していない。瞳に宿した希望は萎えず、そのままだ。

「スバル、書庫の本、その内容は知識かしら」

「知識って……字面そのままの意味じゃなく?」

ベアトリスの言葉に、スバルは当然のことを聞き返す。

本に記されているのは大抵の場合、物語でなければ知識だ。本から得るものは感動あるいは知恵の充足でなければならない。

そして、ベアトリスが言いたいことは、そういう意味ではあるまい。

スバルの膝の上で、ベアトリスは首を横に振る。

長い縦ロールが同じように動き、なんとなしに視線でその動きを追うスバルに、

「ここは全知と呼ばれた『賢者』の記した知識の眠る場所、プレアデス監視塔は外に対する呼び名だそうなのよ」

「そッス。中にお師様が戻ってきたんなら、ここは元の役割に戻るッス。知りたいこと、気付きたいこと、何でも探せる大図書館――プレイアデスにッス」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「つまり、三層で初級。二層で中級。一層で上級の情報にアクセスできるようになると。試験ってのはクリアランス入手するための、資格試験ってことだな?」

「おー、さすがお師様ッス! あーしでも何言ってんのかいよいよわかんなくなってきたッス! でもたぶん、その噛み砕き方でOKッス!」

――大図書館プレイアデス。

監視塔の名前がなんとも親しみやすく、逆に胡散臭いものに変わったところで、スバルたち一行は六層を離れ、件の上層を目指して階段を上り始めていた。

螺旋階段は塔の円周を回るようにスバルたちを上層へ運ぶが、手すりなどがないために高いところまでいくと相当に肝が冷える。

「こわっ」

「スバル、もし怖いなら手を繋ぐ? まだ病み上がりなんだし、ふらふらして落っこちないとも限らないから……」

六層の地面が遠ざかり、ジャイアンと竜車がかなり小さく見えるようになると、下を覗き込んで息を呑んだスバルにエミリアがそう声をかける。

本音を言えばその手を握り、白い指の感触を堪能したくはあるのだが、

「ありがと、エミリアたん。でも、今は大丈夫。一応、階段の道幅あるから落っこちるってことはなさそうだし、逸る気持ちもあるからね」

「そう? でも、辛いと思ったらすぐに言ってね? いざとなったら私もスバルをおぶってあげるくらいできるから」

「そうか……それはちょっと、いざとなれねぇな」

エミリアに背負ってもらって階段を上る、さすがに絵面が最悪すぎる。

そんな男失格な行動に出るぐらいなら、ユリウスに貸しを作る方がマシである。

「なにかな?」

「それも最悪の手段だけどなってだけだ。別になんでもねぇよ。いけいけ」

視線に気付き、首だけ振り返るユリウスをスバルは手で払う。彼は肩をすくめると、そのままアナスタシアの手を取って階段の先導を再開した。

現状、スバル一行は普通に徒歩で塔の上層を目指している。急ぐ道のりではないので、逸る気持ちと裏腹に速度は程々だ。先頭をユリウスとアナスタシア、その後ろにラムとエミリアが並び、スバルとベアトリスがその後ろを歩いている。そして、最後尾にいるのがシャウラとメィリィなのだが、

「やだあ、裸のお姉さんってばあんまり揺らさないでちょおだい」

「ええー、人の背中に乗ってるくせに偉そうなチビッ子ッス~」

「だってえ、疲れたんだものお。ずっと歩き通しだったしい、こんなに何段もある階段を上ったり下りたりしてられないわあ」

「だからって、なんであーしが運ばなきゃ……あ! 髪引っ張るんじゃないッス!」

やかましくも騒がしいが、言葉のやり取りに刺々しいものはない。

最後尾のシャウラ・メィリィ組は、なんとも不思議なことにシャウラがメィリィを背負って階段を上昇中だ。当初、上に移動しようという話になったとき、メィリィが足が疲れたとごねたのが切っ掛けだが、そのメィリィを背負ってもいいと言い出したのはシャウラ本人だったので、そこは自薦に任せている。

「実際、肉体的にはたぶん、シャウラが一番たくましいしな……」

「違いないかしら。――スバル、警戒は怠るんじゃないのよ。ああ見えて、いつ牙を剥くか知れたもんじゃないかしら」

「あいつが? あの感じから?」

「スバルがフリューゲルじゃないと知れたら、どう出るかわからない相手なのよ」

「それは……」

小声で警戒を促すベアトリスの言葉に、スバルは口ごもってしまう。

考えないわけではなかったが、思考の外に置いておいていい問題ではなかった。事実、シャウラがこうして一行――否、スバルに対して友好的なのは、あくまで彼女がお師様=スバルと勘違いしているからに他ならない。

そして、その繋がりが完全に勘違いだとスバルたちはわかっているのだ。これまでに何度も口頭で否定しているが、シャウラは笑って取り合わない。取り合わないというより、聞いても何の痛痒も与えていないというべきだが、とにかく届かない。

故にシャウラの態度は変わらない、そうした保障と考えることもできるし――、

「何の切っ掛けで崩れるかもわからない、ってことか」

「もしもあれが敵対した場合、しんどいことになるのは間違いないかしら。エミリアとあの騎士……ユリウスも加えて、ベティーとスバルの総掛かりしかないのよ」

「シャウラの強さか」

ちらと、背後に視線を向けて、メィリィとじゃれ合うシャウラの様子を窺う。

外見不相応に親しげで無防備な姿。――最初の出会いとその後のやり取りがやり取りだけに、色々と判断に困る相手ではある。

ただ、スバルは現状、シャウラに対して態度を決めかねてこそいるが、目立った悪感情は抱いていないのが本音のところだ。人違いで親しげにされているとはいえ、ああもあけっぴろげに接されて、戸惑う以上に嫌えという方が難しい。

しかし、そうした接触感情と、危機感の欠如は並べられるべきではないのだ。

「――――」

シャウラの様子を窺いながら、その無防備な肢体に目を向け、スバルは考える。

砂丘でスバルたち目掛け、塔から光を投げつけてきたのは自白通り彼女だ。あの光の速射性と狙いの正確性は尋常ではなく、シャウラの実力の高さを十分に思わせる。スバルには現状、あれが魔法だったのかそうでなかったのかもわかっていない。

さらに付け加えれば、砂海の地下での最後の瞬間。

意識が途切れる直前の、ひどく茫洋とした意識の中にあるのは、あのおぞましい外見のケンタウロスと衝突するシャウラだったはず。

あの、理不尽か不条理のどちらかが具現化したとしか思えない化け物が、より強い力に呆気なく蹂躙され、消し飛ばされるのはこの目で見た。

言いたくはないが、直接戦闘になればシャウラに勝てるビジョンが浮かばない。

レグルスやらペテルギウス、あの辺の方がずっと気楽な敵だ。

「……なんか、あいつらのこと思い出すと嫌な気分になるな。いや、なって当たり前なんだけど、より身近に嫌な感じがする」

「スバルが何考えてるかわからないけど、気を付ける必要はあるかしら」

「だな。そうなると……聞いた方が早いか」

「え、なのよ」

ベアトリスの間抜けな声と、スバルが体ごと振り返るのは同時だ。後ろ向きに階段に足をかけながら、スバルは真後ろで重なるシャウラとメィリィを正面にする。

その動きにシャウラが足を止め、首を傾けた。

「どしたんスか、お師様。まさかお師様まで疲れたッスか? 別に運ぶのはいいッスけど、背中は塞がってるんでお姫様だっこッスよ?」

「それはそれですげぇ絵面になるから遠慮しとく。あー、お前がメィリィと微笑ましくポニーテールで遊んでるとこ悪いんだが……」

「ポニーテールじゃないッス、スコーピオンテールッス」

「――――」

「スコーピオンテールッス」

何の拘りがあるのか、押し黙るスバルにシャウラは繰り返す。

自分のポニーテールの房を手で押さえて、シャウラはずいっと顔を前に出して、

「スコーピオンテール……」

「わかったよ! なんだ、その拘り! とにかく、メィリィと仲良くやってるとこ悪いんだが、聞きたいことがある」

「ん! お師様のお話なら何でも聞くッス! お師様があーしとこんなに話してくれるなんて、あーし嬉しいッス~」

ポニーテール――もとい、スコーピオンテールを嬉しそうに振り回すシャウラ。おかげで背中のメィリィが尻尾の打撃に被害を受けている。意外と柔らかくて気持ちいいのはスバルも実体験済みだが、それはそれとして、

「お前、俺の言うことなら聞くんだよな?」

「エッチなことはダメッスよ?」

「最初にそこを確認取るな。ボケ殺しか」

「そういうお師様はボケ倒しじゃないッスか。お互い様ッスよ」

受け答えに余裕のあるシャウラに、スバルはペースが握れなくて戸惑う。普段ならば大抵の相手は、スバルの会話のペースに混ざると調子を崩す。ので、そこから適当に会話の糸口を探るのがスバルのやり口なのだが、やり難い。

この手のやりづらさは、大罪司教のような異常者たちともまた違う。彼らの場合はそもそも会話が成立しない難しさだが、シャウラの場合は別だ。

どうにも、知られている相手にこちらが知れていない分の後れを感じる。

まるで本当に、フリューゲルとやらとスバルの共通点が多いかのように。

「とにかく、お願いと質問だ。なるたけ、正直に素直に答えろ」

「お願いだなんてらしくないッス。命令したらいいのに」

「それほど偉そうな感じにはなれん。で、質問なんだが……お前、塔から俺たちに向かって攻撃仕掛けてきただろ? あれ、なんだったんだ?」

「塔にお邪魔虫を近付けないための狙撃、ヘルズ・スナイプッス」

「……なんて?」

「ヘルズ・スナイプッス」

にこやかに横文字で言われて、スバルは渋い顔になる。

なんというか、まぁ、わかる名前だが。

「いやー、でも今になって思うとヘルズ・スナイプがお師様に当たんなくてよかったッスね。ディメンジョン・ゲートが解除されなかったら、お師様に当たるまで攻撃ぶん投げてたかもしんないッス」

「待て待て待て待て、新出の単語が多い! ディメンジョン?」

「ディメンジョン・ゲートッス。塔まで辿り着かせないための小細工ッスよ」

シャウラの話しぶりから、スバルはそのディメンジョン・ゲートとやらが、あの『砂風』によって花畑との道のりを寸断し、なおかつ最後にE・M・Tの効果で解除されてしまった空間歪曲のことだと理解する。

「でも、アレのおかげでお師様がお師様だってわかったんで結果オーライッス。当たってたら、さすがのお師様もあーしを怒ったッスもんね?」

「あー、うん、どうだろ。怒るだけで済んだかな」

実際、当たって二度ほど死んでいるので、怒る段階までいけるか不安だ。

殺害の下手人と顔を合わせて、怒りがメキメキと湧き上がらないのも珍しい。ある種、あれが事故であり、シャウラに責任を追及しても無駄とわかっているのが理由の一端ではあるのだが。

「でもお、あんなの当たってたらお兄さん死んじゃったんじゃないのお? そおしたら怒るとか怒らないってお話じゃないと思うんだけどお」

と、半ば許しの境地にあるスバルに代わり、シャウラの背中のメィリィが口を挟む。その彼女の言葉に、シャウラはゲラゲラと全く女らしさのない声で笑った。

「何を言うんスか、このチビッ子。あーしのお師様があんなんで死ぬわけないじゃないッスか。元々、お師様はなんか死ぬんだか死なないんだかわかんないわけわかんない人なんスから」

「でもでもお、砂蚯蚓ちゃんはいっぱい攻撃されて死んじゃったわけだしい……」

「蚯蚓も熊も知ったこっちゃないッスよ。あーしのお師様は死なない、これが大事なことッス。――もし死んでたら、お師様じゃないだけッスから」

へらっと笑い、シャウラは嬉しそうな目でスバルを見つめる。その無邪気な笑顔を向けられて、スバルの背筋に寒気が走った。

まるで子供のように無邪気で、無防備なまでの信頼。彼女がフリューゲルに寄せるそれは、想像以上に彼女の根幹で強固に作り上げられた理想なのだ。

ベアトリスの懸念通り、そこが今のスバルとすれ違うことがあれば――。

「あと、砂宮に迎えにいくのが遅くなってすみませんでしたッス。お師様と別の組を塔に入れてる間に、お師様たちが奥に進んじゃったもんスから焦ったッス」

「ああ、いや、それは別に……っていうか、砂宮って言った?」

「そうッス。あそこはホント、危ないんで入んない方がいいッスよ。いくらお師様でも鍵も揃えずに近付くのは無謀なんで。餓馬王もうろついてるッスし」

「餓馬王……って、あの馬みたいな化け物か?」

砂宮、鍵、餓馬王。気になる単語が多いが、最後の餓馬王なる名前に触れる。

おそらく、それが件のケンタウロスのことだろう。

その質問にシャウラは頷いた。

「あれはお師様のいた頃はいなかったッスから、驚いたと思うッス。基本は砂宮の中でうろうろしてるだけなんで、砂宮にいかなきゃ出くわさないッスよ。たまに外に出てくる奴は容赦なくあーしがぶっ殺すんで」

「アレいっぱいいんの?」

「わんさかッス」

停滞なく肯定してくれるシャウラに、スバルは本当に心の底から嫌気が差す。

ケンタウロス=餓馬王の戦闘力はもちろん、あの外見と生態は筆舌に尽くし難い嫌悪感を伴うものだ。できれば特別な個体であってほしかったが、そういうわけではないらしい。わんさか、という表現からもそれは伝わる。

「餓馬王……私も知らない名前だわあ。見てみたいかもお」

「やめろ! あれは子どもの見るもんじゃない……」

「お、お兄さん……」

軽はずみなことを言い出すメィリィに、スバルは厳しいぐらいに注意する。魔獣コレクター的なメィリィの琴線に触れるのかもしれないが、図鑑を埋める目的であれと接触を持とうとするのはお勧めしない。

そのスバルの言葉に、シャウラも首を縦に振って同意する。

「やめといた方がいいと思うッス。餓馬王は角が何度でも生え変わるってコンセプトの魔獣ッスから、他の魔獣のお約束が通じないんスよ。見敵必殺、これ正義ッス」

「ぶー、わかりましたあ」

唇を尖らせ、年齢相応の仕草でメィリィが好奇心を引っ込める。

その様子に安堵しつつ、「それで」とシャウラがスバルに改めて水を向けた。

「お師様、お話ってそれだけッスか?」

「ああ、ひとまず……いや、それだけじゃない」

「――?」

首を傾げたまま、シャウラは「どんとこい」とばかりに受け入れ態勢だ。ここまで胸襟を開いてくれている相手に、警戒を続けるのも何とも不誠実。だが、どれだけ胸が痛んでも、心を鬼にしなくてはならないこともある。

一言、言っておくだけで何かが変わるなら、言っておくのが吉だ。

「シャウラ、これは俺からのお願いだ。俺と、仲間たちに危害を加えるな」

「――――」

「お師様の命令は、塔に近付く奴を攻撃しろ……だろ? 中に入った俺たちはその対象外だ。なら、もう攻撃する必要はない。危害を加えるな。絶対に」

「――――」

重ねて、念を押すスバルの言葉にシャウラは目を細めた。

そうして細めた目を見ると、その色彩は深く色濃い緑色をしている。豊かな表情を隙間なく浮かべていたシャウラは、初めて考え込むように笑みを消していた。

そのまましばしの沈黙があり、奇妙な緊張に息を止めていたスバルが、堪え切れなくなって息を吐く。と、

「ん、OKッス。お師様の新しい命令として、あーしもきっちり覚えたッスよ~」

「――――」

「お師様?」

受諾となった途端、相好を崩してへらへらし出すシャウラ。その急変についていけずに目を丸くするスバルに、シャウラは息がかかりそうなほど顔を近付けた。

至近距離で瞳が見つめ合うが、その緑の瞳には欺瞞や不信感は見つからない。少なくとも、スバルの窺える限りでは。

「いいのか?」

「いいも悪いもないッスよ。お師様の言うことなんスもん。それに別に難しいことじゃないッス。非暴力非服従ッス」

「命令に従うんだから服従はしてるじゃねぇか」

「体は自由にできたとしても、心までは奪わせないッス!」

「うぜぇ……!」

キリっとした顔をするシャウラの額にデコピンをくれて下がらせる。「あうー」とシャウラが下がると、その背中のメィリィが慌てるが、事無き。

ともあれ、スバルの願い事はどうもあっさりと受理されたらしい。それがどこまでの効力を持つかは不明だが、少なくとも――。

「俺が期待を裏切らない限りは、約束は守られるってか」

「それだけが条件なら大丈夫なのよ。スバルは予想は裏切るけど、期待は裏切らないかしら」

「すげぇ高評価ありがたい限りだけど、この場合、俺が裏切っちゃいけない期待の部分がぼんやりしすぎてない? フリューゲルってどうしたらいいの? 翼とか生やしたらいいの? ドイツっぽいやつ」

ちなみに、フリューゲルはスバル的にはドイツ語の『翼』を意味する。

まさかそこから引っ張ってきているとは思わないが、それも怪しいところだ。なにせこのフリューゲル、シャウラの名前も含めてキナ臭すぎる。

「そうだ、シャウラ。一個だけ最後に質問があったわ」

「なんスか~」

完全に気の抜けた顔で、シャウラがメィリィに頬をこねられている。

そのシャウラに背中を向けたまま、スバルは何の気ない素振りで、

「マイア、エレクトラ、タイゲタ、アルキオネ、ケラエノ、アステローペ」

「……スバル?」

スバルの口ずさむ単語に、隣のベアトリスが怪訝な顔をした。

それはただ音として聞くと、何やら聞き覚えのない単語の羅列だ。

無論、その中の四つほどはさっき聞いたばかりだが、そらんじられるほど簡単に覚えられるものでもない。――聞き覚えのないものならば。

「上から順番に全部、このプレアデス監視塔……もとい、大図書館プレイアデスの階層の名前だよな?」

「はいッス~」

「じゃあ、メローペはどこにある?」

「――――」

そのスバルの質問に、シャウラは再び沈黙する。ただ、その沈黙はさっきの考え込むそれと違い、虚を突かれたことによる驚きの沈黙だ。

微かに息を呑む音がして、スバルは何かしら確信に触れたと判断した。

「スバル、何を聞いたのよ? メローペって何かしら」

「とある七姉妹の最後の一人の名前。プレイアデスなら、七つないとおかしい」

一層から六層まで、六つの名前が振り分けられた階層。だが、モチーフとされた名前は本来は七姉妹――七つ目の、名前が付けられた階層があるはずだ。

「七層……じゃなければ、ゼロ層があるな」

「ゼロ層ッス。お師様が名付けたんスから、当たり前ッス。……ただ、お師様がいなくなってからできた場所なんで、どこにあるかは知らないはずッスけど」

スバルの当てずっぽうな推測に、シャウラが掠れた声で応じた。ベアトリスの驚く気配があるが、スバルは渇いた唇を舐めて目を細める。

隠れていたものを見つけ出した、そんな達成感はない。なにせ、これはスバルにとっては隠れていなかったも同然のものだからだ。

「一層が上級なら、ゼロ層は超上級か? 入るには……」

「――ダメッスよ」

入り方を尋ねようとするスバルに、シャウラが早口でその言葉を遮る。その口調の強さにスバルがちらと後ろを見ると、シャウラの表情は変わらない。

笑みと、信頼の眼差しのままだ。ただ、寂しさが微かに目元にあるだけで。

「まだ、条件が満たされてないッス。お師様は道の途中で、あーしに会いに戻ってきてくれて、それで満足ッス。だから、ゼロ層はダメッス」

「――――」

口調こそそれまでと変わらないが、代わりに奇妙なほど強固な壁を感じる声音だ。

それは数分前に交わした約束、その根幹さえ揺るがしかねない危うさを孕んでおり、食い下がることの危険性を強くスバルに訴えかけてきていた。

故に、スバルは深く追及することを、この場では諦める。

「わかった。無茶なことは言わないでおく。さっきの約束だけ頼む」

「それは了解したッス~。守るッスよ~、超守るッスよ~」

途端、シャウラは破顔して、今のやり取りを忘れたかのように喜悦にはしゃぐ。

その華やいだ声を背中に聞きながら、スバルは深々と息を吐いた。

「スバル、辛かったら言うのよ?」

「ん、大丈夫だ。色々、考えることは多いけどな」

ベアトリスの気遣いの言葉に薄く笑い、その頭を優しく撫でてやる。そうするとベアトリスは何も言えなくなるが、これはスバルが落ち着くための儀式でもあった。

シャウラとの会話で浮き彫りになった、フリューゲルの異常性。

何のことはない。彼もまた、スバルと同じだ。

スバル、アル、ホーシン、そしてフリューゲル。

この世界にあるはずのない知識を持ち込み、これ見よがしに残す自己顕示欲。もはや疑いの余地もなく、フリューゲルはスバルと同郷の人間だ。

「数百年前、か」

長い長い時間に思いを馳せ、スバルは乱暴に頭を掻いた。

この異世界で何を思い、何を考え、何を目指し、何を求めて――。

『賢者』の名前を放棄して、木を植えるような男は何を願って。

この世界で生き続けたのだろうかと、そんな風に思いながら。

そして、そんなスバルの背中に――、

「お師様」

「ん?」

気安い調子でシャウラが声をかけてくる。スバルは足を止めず、ちらっとそちらを振り向いただけだったが、そのスバルをシャウラは見上げて、わずかにはにかむ。

その表情は本当に嬉しげな笑顔で、

「改めて、おかえりなさいッス、お師様。――『賢人』フリューゲルのご帰還、このシャウラ、心よりお待ち申し上げておりました。……ッス」

第六章21 『モノリスの挑戦状』

シャウラの歓迎の言葉――それが見当違いな相手へのものだったとわかっていながら、スバルは最終的に否定せずに受け入れることにした。

ベアトリスの忠言もある。

実際、シャウラにスバルのことをフリューゲルと誤認させておいた方が、こちらにとって都合がいいことは間違いないのだ。これで今さら、シャウラに敵対されて戦闘になったとしたら、その圧倒的な力に蹴散らされないとも限らない。

一度、好意的に接した以上、スバルは少なくとも攻撃の手が鈍る。ただでさえ実力で劣るスバルがそうなれば、それは敗着の要因として十分すぎるだろう。

「心配しなくても大丈夫よ、スバル。もしもシャウラが本当はスバルがお師様じゃないって気付いても、きっとひどいことになんかならないわ」

とは、後ろの会話を聞いていたらしきエミリアの言葉だ。

銀髪を長い三つ編みに纏めているエミリアは、その先端を指で弄びながら、スバルの方に自信満々に言ってみせる。

「エミリアたんの太鼓判は嬉しいけど……その心は?」

「その心って言い回しはちょっとわからないけど、でも、シャウラいい子じゃない。私たちのこともスバルのことも助けてくれたんだし、普通に仲良くなることだってできるわ。そしたら、ケンカする必要なんてないでしょう?」

「……そだね」

いささか楽観的すぎる意見だが、悲観的すぎるのも十分に悪癖といえる。

シャウラが真実を知ったとしても、即座に敵対関係が成立するわけではない。仮に事実が明らかになっても、シャウラが自己判断で攻撃を止めればいいのだ。そしてそう思ってもらえるぐらい、仲良くなればいいというエミリアの考えは誤りではない。

情に訴える、という打算的な目的ではなく、戦いたくないという意思を理由に。

「あまりエミリア様のぽやぽやした考えは参考にしないことね、バルス。ここは『賢者』の監視塔で、砂丘には帰りも挑む必要がある。警戒はしすぎて損はないわ」

「もう、すぐにラムはそんな風に言うんだから。少しは気を緩めてもいいのに……」

「気を抜いた結果、バルスやアナスタシア様と地下に投げ出されましたから。か弱いラムにとって、あの絶望感は耐え難いもので……エミリア様にはわからないかもしれませんが」

「んー、そうかしら。でも、確かにこのあたりの地下ならへっちゃらかも? 私、なんだかアウグリア砂丘にきてからすごーく調子いいのよね」

辛辣なラムの物言いに、エミリアは鷹揚に応じるご様子。主従の間柄として、エミリアとラムの関係は一年前から結構に良好だ。いささかラムの言動はエミリアへの敬意に欠けているが、エミリアはむしろその扱いが嬉しくて仕方ないらしい。

蔑視や差別にトラウマがあるはずのエミリアには、かえってラムの言葉にそういった悪感情が込められていないことが感じ取れるのかもしれなかった。

「それにしても、エミリアたんが調子いいってのは?」

「なんだろ、空気が肌に合うのかしら。マナも、国とか地域によってはちょっと色が違ったりするから、そういうことだと思うんだけど……このあたりのマナは特に、私の肌には合ってるみたい。あんまり嬉しくないかも」

「まぁ、そうだね。こんな魔獣だらけの魔女が封印されてる場所じゃなぁ」

力がみなぎる、とばかりに拳を握るエミリアだが、すぐに情けない顔で苦笑い。そんなエミリアの気持ちに同情しつつ、力強い意見でもあるのは確かだ。

前述通り、魔獣に魔女と危険に事欠かないこの地帯で、エミリアの力が高まっているのは素直にありがたい。それでも、シャウラに敗北した姿はスバルの脳裏に刻み込まれているため、楽観視できる要因にはならないが。

「でも、条件が違うしな。塔から一方的に攻撃できた状況と違って、互いに顔の見える距離ならエミリアたんだって負けちゃいねぇはず」

「何がッスか? 何がッスか?」

「いや、お前ってメチャクチャ目がいいよなって話。すげぇ離れたところにいた俺たちに向かって、塔から正確に攻撃投げてきてたろ? あれ、どういう仕組みだ?」

「ああ、アレはあーしの針と狙いをマナで繋いで、そこに引き寄せられるようになってるってだけッス。ヘルズ・スナイプはお師様の考案ッスよ?」

「……そっか、余計なこと仕込んだな、フリューゲル」

おかげでひどい目に遭った。フリューゲルと話す機会はこないだろうが、もしもお茶会のような機会が得られたら存分に罵声を浴びせたいところだ。

そうして、上機嫌なシャウラの鼻歌を聞き、スバルが嘆息する。

すると――、

「歓談中のところすまないが、目的地に到着したよ」

「お?」

塔の上階へ続く螺旋階段――それを上る一行の先頭にいたユリウスの声だ。

アナスタシアの手を引き、エスコートしていた騎士の言葉に顔を上げると、斜め上に立つユリウスの向こうにいつの間にか天井が見えている。

「いや、天井じゃなくて、上の階の床部分ってことか」

「そこにあるのが五層『ケラエノ』ってことになるかしら。外との出入り口はここにあるだけで、ベティーたちは最初はここから入ったのよ」

五層を間近にしたところで、横のベアトリスがそんな注釈を入れてくれる。その言葉になるほど、と頷きつつ、スバルはすぐに「ん?」と違和感に気付いた。

分断されたあと、エミリアたちが五層から塔に入ったというのなら――、

「ジャイアンと竜車はどうやって最下層に乗り込んだんだ? さすがにこの階段、竜車が通れるほど広くないぞ?」

自分の通ってきた螺旋階段で手を広げ、スバルは道幅を確認する。階段の横幅はそこそこだが、それでも腕を伸ばしたスバルが二人は並べない程度。地竜の巨躯では単体ならかろうじて通れるかもしれないが、竜車の車体が通るのは不可能だ。

無論、これだけ長い階段を地竜に歩かせること自体、可能だとしてもやるべきではない道のりには違いないのだが。

「実はエレベーターがついてるとか、そういう仕組みか? なら、次からはそっち使おうぜ。健康志向はいいことだけど、文明の利器を否定しすぎるのもよくないよ」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない。……でも、竜車のことは簡単。シャウラが持ち上げて、運んでくれたの」

「……パードゥン?」

なんだか聞き捨てならないことを聞いた気がして、スバルはエミリアに聞き返す。その英語の返事にエミリアは眉を寄せたが、おそらく復唱を求められたのだろうと察したらしく、「だから」と言葉を継いで、

「シャウラが竜車と地竜をひょいって持ち上げて、簡単に下まで降ろしたの」

「いやいやいやいや、さすがにそれはダメだよ。竜車ったって、あのでかさじゃトン越えしてるかもしれないぜ? そこに地竜もセットって……」

恐ろしい発言にスバルは目を剥くが、同行者は誰もそれを否定しない。挙句、シャウラは自慢げに豊かな胸を張ると、小鼻を膨らませた。

「言われた通り、運んだのはあーしッス。いやぁ、あのぐらいなら楽勝ッスよ。出入り口のところに置いておくと、外から流れ込む瘴気でトカゲがおかしくなったりするかもしれないッスからね。ほんの気遣いッス。褒めてくれていいッスよ!」

「感謝の気持ちはあるけど、お前の細腕が細腕じゃないってわかってドン引きだよ。そんな怪力人間……ラインハルトでもできなさそうだぞ」

スバルの中で最高のビックリドッキリ人間は文句なしにラインハルトなのだが、その彼でもさすがに人間の限界を超えた質量を持ち上げるとかは無理ではあるまいか。

剣圧で世界を割ったり、水の上を歩いたり、一回生き返るぐらいはやれても、さすがに竜車を片手で担いだりは――、

「あれ、できるのかな。ちょっと不安になってきた。あいつが人間かどうか」

「むー、あーしの話なのにお師様が違う人のこと考えてる。ジェラシーッス」

ともあれ、竜車が最下層に運ばれた経緯は理解した。実際、運ぶ場面は見ていないので衝撃は少ないが、シャウラ激昂問題における新たな脅威材料とは受け止めておく。

さて、そうしてひとしきり話したところで、一行は五層に到着する。『ケラエノ』は何度も指摘された通り、塔の内外を繋ぐ入口が存在する階層だ。

円筒形の構造をした塔の奥に、一ヶ所だけ巨大な扉が備え付けられている。

見上げるほどの大きさで、横幅はゆうに十メートル近くあるだろうか。不必要に巨大な扉だが、開けるのにどれだけの力がいるのかも疑問で――。

「もしかしてこれ、試しの門方式で入るのも難しいみたいなことなのか?」

「少なくとも、私が押したところでびくともしなかったのは事実だ。おかげで、アナスタシア様や君の捜索もままならなくてね」

超巨大な扉を見やり、嘆息するスバルにユリウスが頷いた。どうやらこの扉、見た目通りの重量感で挑戦者の行く手を阻むものらしい。

竜車を軽々と片手で運ぶシャウラならいざ知らず、常人には開放もままならない。故にエミリアやユリウスはスバルたちを探しに出られず、やきもきする結果になったということらしかった。

「でも、あちこちガタがきてるのは間違いないみたいかしら」

「砂風が強いからやと思うけど、風に乗って砂が流れ込んでくるんやね。ちょこぉっと深呼吸すると、すぅぐに口の中が砂利っぽくなるから嫌やわぁ」

舌を出したアナスタシアが、その桃色の舌を指でなぞって砂利を落とす。彼女の言の通り、スバルも口の中に砂っぽい感触を味わっており、外と繋がる五層には微粒子のように砂埃が常に舞い散っているのがわかった。

「砂丘の砂は瘴気を孕んでいる。微量だからと甘く見ていると、体の内側から蝕まれかねない。用のない限り、ここは早々に通り抜けるべきだろう」

「それじゃ、そういうことにしようぜ。俺の目的はここじゃなく、四層『アルキオネ』の方なんだし。……また階段ってのが萎えるけど」

「相変わらず軟弱ッスね~。でも、安心していいッスよ。四層と五層の間の階段は六層と五層の間よりもよっぽど短いッス。あんまり遠いとあーしも行き帰りがだるくなるんで、それに配慮したッス~」

「揺らさないのお」

砂埃の中、両手を広げて駆け回るシャウラが後頭部にメィリィのチョップを浴びる。そんな様子を横目に、一行は五層を素通りして四層へ向かう階段に。

微かに風が流れ、薄暗い上に黄色く煙る視界の中、見上げた先にはそう遠くない位置に天井――上階の床が見えて、遠くないという意見は事実のようだ。

そうして、四層『アルキオネ』に向かって、軽口を叩き合いながら一行は歩き続け――やがて、目的の階層に辿り着く。

四層も、造り自体は五層や六層と大きく変わるわけではない。

塔の構造上、円筒形の建物であることは揺るがないし、大きさも劇的に変化することはない。――それでも、雰囲気の変化は明白だ。

まず、階段を上がったフロアの大きさが下層と大きく違う。

下層に比べると、円形のフロアはずいぶんと狭くできていた。それもそのはず、円形の建物の内縁に同じく円形の壁が敷居となって作られ、これまでワンフロアだった下層とは違った空間の使い方をしている。

下層からの螺旋階段は四層の中心に繋がる形になっていて、ぐるりと周囲を囲む壁にはいくつも扉が点在し、複数の部屋がフロアに存在するのがわかった。

「ここがあーしの住処にしてる四層『アルキオネ』。それで、お師様がきたがってた『緑部屋』がすぐそこッス」

「緑部屋……?」

趣の変わった四層にスバルが戸惑っていると、隣を抜けてフロアに立ったシャウラが大仰な動きで正面にある扉を示す。

四層に存在する複数の扉は、五層の出入り口と違って常識的な大きさだ。開くのに特別な力は必要なさそうだが、肝心の扉自体に奇妙な違和感がある。

『緑部屋』の異名通り、扉は緑色の無数の蔦に覆われていて、何百年も放置されたジャングルの秘境のような有様になっているからだ。

「俺がきたがってたってことは、ここにレムとパトラッシュがいるのか?」

「名前は知らないッスけど、女の子とトカゲがいるッス」

「安心なさい。中にいるのはレムとあの地竜で間違いないから」

尻込みするスバルに、シャウラの微妙に信頼性の欠ける証言。それらを小馬鹿にするように鼻を鳴らし、先頭切って緑部屋に向かうのはラムだ。

彼女は蔦だらけの扉に手を伸ばすと、石造りと思われるそれを躊躇いなく押した。彼女の細腕でも、扉はあっさりと滑るように開かれ、緑部屋が解放される。

「こないの? バルス」

「……いくよ、俺も」

試すようなラムの問いかけに、スバルは不安を蹴飛ばして前に出た。そして先に部屋に入るラムに続き、堂々と緑部屋の中に入り込む。

ただ、緑部屋にスバルとラムが入ると、そのまま扉はすぐに閉まってしまう。そのことに驚き、スバルが背後を振り返る。

「おい、分断されたぞ」

「なんでもビビる必要はないわよ。――この部屋、入る人間の数が限られるらしいわ。部屋の持ち主が嫌がるみたいね」

背後の異変にそう言って、ラムはさっさと進んでしまう。スバルはその説明に頭を掻いて、すぐにその小さな背中を追いかけた。

緑部屋はその扉の異様さを裏切らず、室内もしっかりと大量の緑に塗り潰されていた。のたくる植物が壁や床、天井を縦横無尽に張り巡らされており、時折、垂れ下がる蔦が行く手を阻むのを屈んで避ける必要がある。

そして、そんな緑の支配する空間の奥に――。

「レム……と、パトラッシュ」

緑の部屋の奥まった場所に、わずかに存在する雑多な植物のない空間。そこには生い茂る緑の草が折り重なり、所々に小さな花を咲かせたベッドができている。

その緑と花に彩られたベッドの上に、変わらない寝顔のレムが横たわっていた。

白い頬に色は差さず、寝顔には何の変化もない。微かな呼吸で胸が上下するが、生きている証は触れる熱以外にはその生命活動だけだ。

それなのに、やたらと力が抜けるほどに安堵感があった。

「ホントに、無事だったか……」

「だから言ったでしょうに。それとも、ラムがレムのことで嘘をつくとでも思ったの? 何のためにそんなことする意味があるの」

「そうは言わねぇけど、目で見るまで安心できないのは仕方ねぇよ。……パトラッシュ、お前も無事で何よりだ」

ラムの言葉に微苦笑し、それからスバルは草のベッドに眠るレムのさらに奥、そこに四肢を畳んで座るパトラッシュへと歩み寄った。

こちらも、レムと同じく緑色のベッドに寝そべっており、厩舎に敷いた井草の上に横たわっている状態とさほど変わらない。ただ、はっきりと違うのは――、

「……この草、普通の草と違うのか?」

「――――」

歩み寄り、無事を確かめるスバルの掌にパトラッシュが鼻を擦り付ける。愛竜の反応を優しく受け入れながら、スバルはパトラッシュの寝そべる緑の寝台――そこから伝わってくる、微かに温かな波動を感じて首をひねった。

「精霊の力で、治癒が速まる効能があるそうよ」

「精霊って……いるのか? どこに?」

「精霊使いのくせにわからないの? この部屋が、精霊そのものよ」

「――――」

パトラッシュを撫でてやりながら、ラムの言葉にスバルは慌てて部屋を見回す。生い茂る蔦に壁の苔、精霊の存在はその目に映り込まないが、ラムに言われて初めてスバルはその圧倒的なマナの濃密さに気付かされた。

まるで高濃度の酸素の中にいるように、呼吸と肉体が安らかになる感覚。

癒しのマナには似たような効果があるのかもしれない。落ち着いて深呼吸すれば、負傷のないスバルもその恩恵を受け取れるような気がした。

「なんとなく、わかった。確かにこれは精霊だ。……話せない、のか?」

「ここの精霊は変わり種……といっても、変わっていない精霊なんていないわね。エミリア様の大精霊様然り、ベアトリス様然り……特段、ここの精霊には意思らしい意思はないそうよ。ただ、入った生き物の傷や病を癒そうとするだけで」

「ふ、うん」

「どうかしたの?」

「大したことじゃない。ただ、知ってる魔女にそんなのがいたなと思っただけ」

魔女、と聞いて戯言だと思ったのか、ラムは鼻を鳴らしてレムの隣に歩み寄る。すると、妹を見守る姉を慮るように、ラムのすぐ後ろに蔦が伸び始め、それは急速に結びついて編み上がり、緑の椅子となってその体を支える。

ラムは精霊の気遣いに「感謝します」と頭を下げ、椅子に体重を預けた。

「なんかすげぇな」

「少なくとも、今まで見知った精霊の中で一番紳士的なのは確かね。バルスも少しは見習った方がいいわ。この精霊と、騎士ユリウスの立ち回りを」

「どっちにしても釈然としねぇ」

見習え、と言われた両者を頭から追い払い、スバルはパトラッシュを撫でる。頭を撫でて、掌で首筋をくすぐってやり、もたげた頭をゆっくりと降ろさせる。

「ゆっくり休んでろ。またお前に助けられちまったし、働きすぎだよ。たまには有給休暇取っても罰なんか当たらねぇからさ」

「――――」

スバルの穏やかな言葉に、パトラッシュは体を丸め、黄色い瞳を閉じて眠りについた。塔まで連れてきてもらって、お互いの無事が確認できた。

それだけで十分、パトラッシュの仕事は十分だ。

「レムに変化は? 治すのがレゾンテートルの部屋なら、今のレムにそれらしい干渉ができたりとか……」

「残念だけど、望み薄ね。可もなく不可もなく……治療に進展はないわ。傷でも病でもないものは癒せない。そういう判断みたいね」

「……そうかよ」

それでも、緑部屋の精霊は眠り続けるレムを労わることは惜しまないらしい。

眠るレムを見守るラムに対しても、ずいぶんと献身的なものだ。

「結局、このままじゃ何も変わらないってことだな」

「……変えたいなら、塔にきた目的を果たさなきゃダメでしょうね」

「大図書館プレイアデス、その試験か」

当初の目的は、プレアデス監視塔にいる『賢者』シャウラと接触し、その全知と謳われる知恵を借り、レムやプリステラに残る『暴食』と『色欲』の被害者を救済することだった。

だが、プレアデス監視塔の『賢者』シャウラは名ばかりの存在で、実際にいたのはスバルを『賢者』フリューゲルと勘違いする奇妙な少女が一人。プレアデス監視塔は実際には大図書館プレイアデスであり、シャウラの全知と謳われた知識は実際は、その図書館に貯蔵される無数の書物の中に眠っているという。

なるほど、大きく目的はねじ曲がり、終着点は予測もつかない方向へずれたが。

「知識に触れて、レムを取り戻す。――その目的はぶれてねぇ」

「……そう。ならいいわ」

肩を回して、軽くストレッチするスバルにラムは目を伏せた。それきり、彼女は眠るレムの手を優しく握り、スバルの方には一瞥もくれない。

そのラムの態度に片目をつむり、スバルは天井を指差して、

「俺は上の試験に挑むとする。お前は?」

「誰かがレムを見ていないと、いくらなんでも不安でしょう? それなら、ラムがその役目をするわ。元々、ロズワール様に無理を言ってまで同行してきたのは、レムのことを見守るためだったんだから」

「それは、まぁ、そうだな。それじゃ、レムのことはお前に任せた」

「見守るぐらいしかできないけどね」

「お前が見守ってくれてることに意味があんだよ」

珍しく自分を卑下するラムにそう言って、スバルは部屋を出る前にレムの寝顔を見る。安らかとも、苦しげとも言えない表情の消えた夢の中に彼女はいる。

その前髪のかかる額に手を伸ばし、そっとくすぐるように触れる。

「じゃ、いってくる」

「――――」

無論、返事はない。

ラムも自分が言われたわけでないことがわかっているから、無粋に口を挟まない。そのことに満足して、スバルは部屋の出口に向かう。

なんとなく壁に手を伸ばして、その蔦に触れながら「レムとパトラッシュをお願いします」と精霊に頼んでおくことも忘れない。

そして、部屋を出る間際、ふと足を止めた。

「そういえば、レムを放っておけないとか言って、でも今は空っぽにしてたよな? なんでわざわざ下りてきたんだ?」

「――――」

「まさか、俺が目覚めたって聞いて大急ぎで見にきてくれたってわけじゃないだろ? なんかあったなら教えておいてくれると……」

「とっとと行きなさい」

「え? いや、だけど、気になることがあるなら言っといてくれないと」

「早く行きなさい」

強烈に噴き上がる鬼気に気圧され、スバルはそれ以上何も言えず、すごすごと緑部屋を退散させられるしかなかった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「ラムが何考えてんのか大体いつもわかんねぇけど、最近は特によくわからん」

「んー、そうでもないと思うわ。ラム、あれで意外と素直だもの。その素直なところを隠そうとするの、私は可愛いと思うし」

「珍しく年上みたいな発言を……実際、年上ではあるのか」

「そうよ、私、お姉さんなんだから。この場にいる誰よりも……でもなかった」

「ふふん、ベティーの方がお姉さんなのはお姉さんなのよ。これは誰にも塗り替えられない厳然たる事実かしら。慕ってもいいのよ」

緑部屋を出て、残った顔ぶれと合流したところでそんな会話が生じる。

チーム最年長の座を奪われてエミリアは悔しげ、ベアトリスは満足げに薄い胸を張っているが、正直なところ、どっちにしてもお姉さんの態度ではない。

それに、現状の面子で最年長が誰なのかという会話は実は非常にデリケートだ。

「んん? ナツキくん、なに? なんや、うちに言いたいことでもあるん?」

「別に。見た目と実年齢が噛み合わない面子が多いなって話」

「そう? うちもよく、実年齢よりお若いですねーって言われるんよ。喜んでいいんかちょっと難しいとこやけど、侮られるんは侮られるんでやりようあるしね」

商売っ気の強い顔でアナスタシアは笑うが、本心はどうだかわからない。

アナスタシア本人の年齢は二十歳過ぎで、外見年齢は十四、五歳といったところ。だが、スバルが指摘したかったのはそういった外側の話ではなく、アナスタシアの中身の問題だ。現時点でアナスタシアは襟ドナに今も中身を乗っ取られたまま。

襟ドナの出生がベアトリスと同じそれなら、最年長レースに名乗り出るのは難しくない。もっとも、そんなくだらない意地でここまで隠してきたことを明かすなどありえないだろうから、スバルの方からも余計なことは言わないのだが。

それに、現状に限れば最年長レースの有力候補は他にもいる。

「およ、どうしたッスか、お師様。ははーん、さては緑部屋の草臭さが嫌になったッスね? わかるッス。あーしもあの部屋、いけ好かなくて嫌いなんスよ~」

「お前、俺からもエグイ臭いするって言ってたじゃねぇか。俺は平気なのか」

「お師様のは癖になる臭さなんス。ホントッス。今度は嘘じゃないッス」

「うるせぇ」

スンスン、と鼻を鳴らしてすり寄るシャウラを遠ざけて、スバルは上の階を睨みつける。四層に残り、上の試験に挑む面子はレムとラムを欠いた残りの全員――。

「お前はどうすんだ? 一緒にくんの?」

「あーしッスか? いやぁ、別に付き合う必要はないんスけど、せっかくなんでご一緒したいと思うッス。喋っていいのに喋れないのとか寂しいッスもん。何百年も黙ってたんで、喋りたいことだらけなんスよ~」

人懐っこい笑顔で切ないことを言われて、スバルもさすがに冷たくできない。エミリアやベアトリスも、その孤独には覚えがあるのだろう。シャウラに向ける気持ちは同情的な色が濃く、積極的に遠ざけるつもりはあるまい。

「私はこのお姉さん気に入ったしい、一緒がいいと思うわあ」

「試験に挑むのであれば、その場に試験官が居合わせるのは自然なことだよ。不正がないか見張るためにも、彼女が同行するのは正しいことだ」

そこに、意外な形でユリウスとメィリィからも援護射撃が入る。そうすると、もう過半数がシャウラの同行に好意的というわけだ。

スバルは最後に意思を統一するため、コメントしていないアナスタシアを見る。

その視線にアナスタシアは「うち?」と首を傾げ、

「ここでうちだけ強硬に反対しても意味ないと思うし、そもそも反対する理由もないし、別にええのと違う? それに、や」

「それに?」

「その子、ナツキくんにめちゃめちゃ懐いてるみたいやし、一緒に連れてったら試験の内容についてボロ出すかもしれんやん。そのうっかり、うちらに味方するよ」

「悪いッスけど、あーしは試験の内容全然わかんないからそれは裏切るッス」

「まぁ、口ではこう言うてるけどなぁ」

たはは、とアナスタシアが苦笑し、シャウラは褒められたような様子でドヤ顔。

アナスタシアの目算が吉と出るか不吉となるかは微妙だが、ひとまず、シャウラを連れ歩くことに誰も異論はないらしい。

やや不用心な感は否めないが、かといって一人歩きさせるのも不安といえば不安なので、危険物を手元に置くか遠くに置くかだけの違いである。

「わかった。一緒にいこう。当てにはならなそうだが、解説に期待する」

「言われてるッスよ、チビッ子。頑張るッス」

「お前が言われているかしら! 何を聞いていたのよ!」

振られるはずのない話題を振られた顔で、シャウラが唇を曲げている。ベアトリスの怒声を聞きながら、一行は緑部屋と対面の部屋――扉を開けて中を覗き込むと、そこからすぐ上に向かうための階段と出くわす。

「螺旋階段は終わったのか?」

「四層『アルキオネ』と三層『タイゲタ』とはすぐ繋がってるッス。あーしも別に用がなきゃ上らないんで、滅多にいかないッスけどね」

「用事っていうと?」

「乙女の秘密ッス」

さっそく役立たずぶりを発揮するシャウラを見切り、スバルはユリウスの方を見る。スバルの眠る間、すでに三層に挑んでいたはずの彼らだ。

何かしら、有用な話が聞けるものと期待すると、彼の騎士は悠然と肩をすくめた。

「期待されているところ悪いが、私たちもわかっていることはほとんどない。三層を上がってすぐ、試験と呼ばれる部屋に出くわすが……」

「出くわすが?」

「そこに存在するのは難解な謎だ。解く手掛かりも見つからず、途方に暮れていたというのが正直な話だよ」

「難解な謎……?」

ユリウスの言葉に要領を得ず、スバルは階段の上に目を向ける。上階は暗く、下から様子を窺うことはできない。ただ、その静謐さはいっそう不気味な趣がある。

「でも、入って何がどうなるってことじゃないみたい。別に私たちも出入りしても何の変化もないし……ただ、門前払いされてるだけ」

「相手にもされてない、と考えると腹立たしい限りかしら」

エミリアとベアトリスも、ユリウスの感想に同感の様子だ。

実際、試験とは言うものの、挑んだ面子は誰一人欠けていない。なんとなく、似通った単語に『試練』があるため、警戒心が芽生えただけのこと。

「仕方ねぇ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。――いくか」

「うん、その意気」

「その意気なのよ」

「その意気ッス」

三者から三様の肯定を受け、スバルは率先して階段に足をかける。そして段差を一段ずつ踏みしめて上階へ――これまでの螺旋階段と違って、三層へ上がる階段の段数は常識的な建物の高低程度だ。

故に覚悟と裏腹に、呆気ないほどすぐ三層『タイゲタ』にスバルは侵入する。

「ここは……」

入ってすぐ、スバルが感じたのは完全なる違和感だった。

違和感の塊というか、違和感しか存在しない空間というべきだろうか。

――白い、白い場所だった。

円筒形の、これまでの塔の延長上にあることは間違いないはずなのに、階段を上がったスバルを出迎えたのは全方位が白く染め上げられた不思議な空間だ。

空間的な広さはこれまでの塔の面積と大差ないはずだが、白すぎる空間には壁が、果てが見えない。上を見れば天井の位置もわからず、足下を見れば階段がある場所だけが黒くぽっかりと口を開け、それ以外の床は歩くのが怖くなるほど白い。

床を床と認識できず、あるいはそのままどこまでも落ちていってしまいそうな錯覚に見舞われる。天井と壁も同じ――この場所で、階下へ続く階段を見失ってしまったら、発狂しかねないのではないかとスバルには感じられた。

そして、そんな白い空間の正面――階段の目の前に、浮かぶ不思議な物体がある。

「石板……か?」

その物体を目の当たりにし、スバルの口から漏れたのはそんな感想だ。

それは実際、そうとしか表現のできない物体だった。

四角く、やたらと滑らかな質感のある物体で作られた黒い一枚の板切れ。

石造りでなければ石板とは呼べないが、かといって金属とも異なるそれは他に呼び方がない。

あえて別の気取った呼び方をするなら、『モノリス』といったところか。

物言わぬモノリスは不思議な浮力を得て、床から数十センチの位置に浮いている。

浮いている、はずだ。床の白さに高低差を確かめる目が狂わされ、イマイチそれも判然としない。だが、宙に浮かぶモノリスは泰然としてそこにあった。

大きさはスバルの身長ほどもあり、横幅は人が並んで二人分――近い大きさのものに例えると、畳が浮いているような印象だった。

「この不思議物質が、なんなんだ?」

「それが、言ってみればこちらに謎を突き付ける装置といったところだ」

異様な光景に意識を奪われるスバルに並び、ユリウスがモノリスを睨みつける。

すでに何度もそのモノリスに辛酸を舐めさせられているのか、ユリウスの横顔は普段に比べていささか厳しい。他の面々も全員が三層に上がり、白い空間の中、あやふやな雰囲気に耐えるように寄り添っている。

「長居はしたくない部屋だな」

「同意するよ。長くいると、平衡感覚が失われかねない。とっさに階段に逃げ込んで足を滑らせては、見ている側の寿命が縮まってしまうからね」

「こーら、ユリウス。余計なこと言わんの」

ユリウスの軽口に、アナスタシアが不服げに頬を膨らませる。その様子を見るに、どうやら戻る途中で足を滑らせたのは彼女のようだ。

だが、その失敗を笑う気にはならない。実際、この部屋は明らかに人間の感覚を狂わせる目的で作られている。作った人間の性格の悪さが具現化したような部屋だ。

「それで肝心の謎っていうのはどうしたら?」

「あの、板に触ったらいいのよ。そうしたら始まるかしら」

「モノリスに触ればいいのか」

「モノリス、か。不思議と馴染む呼び方だ。以後、そう呼ぼう」

変な部分に感心しているユリウスを捨て置き、スバルは代表して前に出る。誰も止めないので、そのままモノリスの傍らへ。

近付いてみると、モノリスからは不思議な威圧感が放たれている――わけでもなく、浮いている以外はどこまでも普通の板だ。畳が浮いていると思えば、最初に感じた恐れ多さも多少なり薄れる気がするし。

「ともあれ、触るぜ? カウントする?」

「あ、じゃあ、私が言いたい。三、二、一……」

「早い早い! わかったけど!」

スバルの呼びかけに、挙手して立候補したエミリアのカウントダウンが始まる。それに合わせ、スバルは慌ててモノリスに向き直った。

そして、

「ゼロ――!」

そのカウントに合わせ、スバルがモノリスに触れる――次の瞬間、黒い板の表面が内側から輝き、途端にスバルの目の前の景色がぶれる。

否、ぶれたわけではない。

スバルの触れたモノリスは、黒く輝きながら増殖を始めたのだ。

モノリスは表面を輝かせながら、その背面から次々に複製したモノリスを射出する。それは凄まじい速度で部屋の中に飛び回り、不規則な位置に点在し、浮かぶ。

無数のモノリスが白い空間の各所に配置され、スバルはその変化に呆気に取られた。そして、呆然となるスバルの鼓膜――そこを通り抜け、脳に直接声が響く。

『――シャウラに滅ぼされし英雄、彼の者の最も輝かしきに触れよ』

「――っ!?」

唐突に聞こえてきたその声に、スバルは思わず驚いてモノリスから手を放す。そしてフラフラと後ずさると、その背中を誰かに背後から支えられた。

振り返る。すると、そこにユリウスの顔があった。

彼はスバルを右手で支えながら、左手で自分の前髪に触れると、

「どうだろうか。私たちの最初の驚き、共感してもらえたかな?」

「底意地悪いことしてんじゃねぇ――!!」

スバルの抗議の声が響き渡り、ユリウスの微苦笑にさらに一役買うことになる。

ともあれ、本格的に『試験』は始まった。

大図書館プレイアデス、第三層『タイゲタ』の試験。

制限時間『無制限』。挑戦回数『無制限』。挑戦者『無制限』。

――試験、開始。

第六章22 『白い星空のアステリズム』

ユリウスの腕を振り解き、一人で立てるもんしてから『試験』に向き直る。

スバルの眼前、触れていたモノリスを中心に、無数の複製モノリスが白い空間の中に広がった形だ。その数は正直、数えるのも嫌になるほどの量がある。

「これが『試験』……ってことでいいのか、シャウラ」

「いいんじゃないッスか? お師様の、いいとこ見てみたいッス!」

「飲み会のお囃子みたいなこと言ってんじゃねぇよ……」

出たことないから知らないが、たぶんそんな感じだろう。

気楽な調子で応援してくれるシャウラを背後に、スバルは部屋の中を見渡す。変わらず白に包まれる、遠近感も高低差も何から何まで狂いそうな階層だ。

目立った変化は点在するモノリスだが、それらも特段、最初の一個との違いがあるわけではない。大なり小なり、どうやら大きさの違いがある様子だが、それ以外は宙に浮いていることも、不思議材質でできていることも同じだ。

「それ以外に何かヒントになるものっていうと、やっぱりさっきのアレか」

思い出されるのは、モノリスに触れた瞬間に脳内に響いた声だ。

『――シャウラに滅ぼされし英雄、彼の者の最も輝かしきに触れよ』

とするそれは鼓膜を介した音ではなく、頭蓋の中、脳に直接囁きかけられるそれに近い。聞こえた声音は、音ではないためか『誰かの声』といった概念になかった。

言ってみれば、自分が考えた文章のように脳内に割り込んできたのだ。自分の考えに音も何もない。故に、声の主が誰なのかはわからない。しいて言えば自分だ。

「聞こえたあの声が、試験問題って判断か? そうなると……」

「スバル、考え込んでいるところ悪いが、いくつか注意事項がある。先にそれを聞いてから取り掛かっても罰は当たらないだろう」

首をひねるスバルに、先ほど悪ふざけを仕掛けたユリウスがそう言ってくる。

階下への階段付近、モノリスを遠巻きにするエミリアたちがそちらに固まっており、全員で頭を悩ませる構えだ。その手前で手招きしているユリウスに、スバルは「へえ」と感心したように肩をすくめた。

「そっか。俺が寝てる間、みんなは先に挑戦してたんだもんな。そりゃ進展あるか」

「進展、といえるほどのものではないかもしれないがね。そうだな。スバル、手近なところにある石板……いや、『モノリス』に触れてみてくれ」

「お前、そんなに気に入ったの? いや、別にいいけど……」

やけにモノリスの呼称に拘るユリウスに目を細め、スバルはすぐ右方にあったモノリスへ歩み寄る。最初のモノリスとは別の、複製された一枚だ。こうして接近してみると、少しだけ最初のモノリスより小さいのがわかる。

「触った瞬間、腕が呑まれるとかトラップないか?」

「大丈夫なのよ。もしそんなことになったら、これから一生、ベティーがスバルの右腕の代わりになってあげるかしら」

「あ、じゃあ、私もスバルの左手の代わりをしてあげる。安心してね」

「その想定だと俺の両腕が無くなってるんだけど!」

エミリアとベアトリスの心強い保証のおかげで、スバルは勇気を出してモノリスに手を伸ばした。触れる、それ自体に大きな不安はない。

仲間たちが止めないで推奨する以上、安全性を疑う必要は皆無だ。問題は単純に、モノリス複製のように驚きの事実を隠している可能性だが――。

「お?」

不安を抱えたまま指先がモノリスに触れると、黒い石板は目を焼くほど光り輝く。事実、その眩さにスバルは息を詰まらせ、とっさに顔を腕で覆った。

そして、その光が晴れたとき、スバルの目の前には――。

「あれ? モノリスどこいった?」

「ふふふ、お師様、後ろッスよ」

「後ろ……?」

瞬きのあと、眼前からあったはずのモノリスの消失をスバルは確認する。その事実に驚いていると、無意味に勝ち誇ったシャウラに後ろを見ろとせっつかれた。

振り返ると、階段の正面――つまり、最初の一枚のモノリスがあった場所だ。そこに、始まりのモノリスが一枚。残りのモノリスは全て部屋から消えていた。

「つまり……これは?」

「最初の状態に戻った。つまり、『試験』には失格という判断だろう。無論……」

憮然となるスバルの横を抜け、ユリウスが最初のモノリスに不用意に近付く。そして手を伸ばして表面に触れると、途端に脳内に響き渡るあの声――。

『――シャウラに滅ぼされし英雄、彼の者の最も輝かしきに触れよ』

改めて出題されると同時、最初のモノリスから再び次々とモノリスが複製され、それは先ほどと同じ勢いで部屋の各所に点在、『試験』が配布される。

言ってみれば、『再試』というわけだ。

「なるほど。答えに辿り着くまでは、何度でも考え直せるってことか」

「と、いうのが今のところ我々の推測だ。ちなみにこのモノリスだが、闇雲に触れて回っても答えには至らない……とだけは明言しておこう」

「あ、下手な鉄砲は試したあとなわけね」

ユリウスのマイルドな言い方を、スバルが身も蓋もなく噛み砕く。すると、その説明を聞いたエミリアやメィリィが恥ずかしそうに自分の頭を撫でていた。

全部、触って確かめてみたらいい、というのは確かに彼女らがやりそうな作戦だ。もっとも、それが上手くいかなかったということは。

「『試験』ってぐらいだ。問題を解いて、答える必要があるってことだな」

「闇雲に答えだけ差し出すのは、出題者の方のお気に召さないらしい」

「あー、いるよな。テストで解答欄に答えだけじゃなく、ちゃんと途中の式も書かないと点数やらないみたいな先生さ。カンニング対策には覿面だけどな」

解法抜きに答えに辿り着くのは、カンニングか直感しかありえない。小学校までだとしばしば、直感で答えが出る問題もあったりするものだが、算数の目的は解法を学ぶことであって、その場その場の問題を何となく抜けることではないのだ。

小学校時代、途中式の曖昧さで減点されたときは憤慨したものだが――、

「今となっては先生の方が正しかったぜ……」

「ナツキくんがまぁた思い出に耽っとるとこ悪いけど、ナツキくんの出番はむしろここからやないの。ほら、正気に戻って戻って」

「え、あ、おお、悪かった。でも、俺の出番?」

遠い目をし出したスバルを呼び戻し、アナスタシアが腰に手を当てている。彼女の要請にスバルが首を傾げると、全員が顔を見合わせて言った。

内容が同じだったので、意訳して統合する。

つまり――、

『シャウラに滅ぼされた英雄、聞き出すのスバルの役目でしょう』だ。

「スバルが起きるまで、私たちも何回も『試験』には挑戦したの。だけど、肝心のこの子がシャウラかどうかも私たちには話してくれてなかったから」

「ベティーたちの中ではシャウラは『賢者』だったのよ。それは銀貨に彫り込まれてる絵の人で考えてたから、この娘がシャウラなんて繋がらないかしら」

とは、これまでシャウラに話を聞けなかったエミリアたちの答えだ。

目覚めて以来、人懐っこいどころか馴れ馴れしいレベルで接してくるシャウラを見ていると、これがだんまりを決め込んでいたというのがスバルには信じ難いのだが、唯一の塔の関係者に口を噤まれていたのでは話が進まないのも仕方ない。

かといって、スバルには懸念もあった。

それは当のシャウラが舌の封印を解除し、喋られるようになったとしても――。

「とりあえず聞いてみるか。おい、シャウラ。お前が滅ぼした英雄っていうのに、心当たりがあったら片っ端から教えてくれ」

「任せてくださいッス。殺した奴の名前をいちいち覚えてるなんざ、二流の仕事……あーしみたいな一流は、百から先は覚えちゃいねえッス」

「だろうね!」

親指を立ててウィンクするシャウラの力強い返事に、スバルは膝を叩いた。

およそ想定して恐れていた通りの、頭空っぽなシャウラの返答だ。

彼女のこれまでの話しぶりや態度からして、おそらくそうだろうとは思っていた。シャウラが滅ぼした英雄、とそのものズバリな答えを知っていそうな彼女が、頭っから何にも覚えていない可能性だ。

「とはいえ、それで終わってしまっては話が進まない。シャウラ女史、本当に君は何も覚えていないのかい? ささやかなことでも構わないのだが」

「って言われてもッスねえ。あーし、塔に近付く奴を片っ端からヘルズ・スナイプしてただけで、死体はお外の魔獣が掃除しちまうッスもん」

「んー、でもそれやとおかしない? そもそも、塔の知識を開示するかどうかってための『試験』なんやろ? その問題が塔を守るための、シャウラさんの管理が始まったあとのことを示してるやなんて時系列が変やん」

心当たりなし、と唇を尖らせるシャウラだが、その発言の違和感にアナスタシアが言及する。なるほど、とその意見にはシャウラ以外の全員が首肯した。

確かに、塔の中の問題が、塔の管理が始まった以降のことを問題にしているとは考え難い。そうなると、自ずと『シャウラが英雄を滅ぼした』時間は塔の建設前。

「つまり、無作為に乱発する前の話になるのよ。ほら、思い出すかしら。そうやってお乳や尻にばっかり栄養がいってるから記憶力が乏しくなるのよ」

「この見た目はかか様が選んだッスよ~。でもでも、思い出せって言われても正直出てこないッス。塔ができる前、ッスよね?」

「うん、そうよ。塔ができる前。その頃、シャウラが死なせ……滅ぼしたって、そういう心当たりがある人、いる?」

階段周りに集まって、シャウラを中心に必死で彼女の記憶を呼び覚まそうとする。しかし、全員の期待を一身に浴びるシャウラは、「あひーん」と唸りながら成果が上がる気配がない。

「嘘かホントか、お前は四百年前からいるんだろ? その頃の有名人、次から次へと名前挙げていったら二、三人殺してるんじゃねぇか?」

「お師様、あーしのことなんだと思ってるッスか。花も齧り合う乙女ッスよ」

「それは乙女じゃなくて毛虫かなんかだよ」

「スバル、さすがに今の言い方はひどいと思うわ。本人も、思い出したくないことだったら無理して思い出させなくても……」

「エミリアたんの優しさは超美徳だし、チャームポイントだけど、こいつは甘やかせば甘やかすほどダメになるタイプだね! 俺にはわかる! 同類だから!」

力強く胸を張って断言するが、そもそもシャウラは思い出したくないから思い出せないわけではなく、純粋に記憶能力が弱いから思い出せていないだけだ。

記憶関連に関して、ちょっと色々と難しい問題を抱える一行だからデリケートに扱いたい話題ではあるが、シャウラに関しては別問題である。

「実際、適当に名前挙げてくのは間違いでもないんじゃねぇか? その中の何かが答えに当たって、それがモノリスとどう感応するかはわからんが」

「確かに、ナツキくんの言う通り。答えがわかったところで、それがどうしたら『最も輝かしき』に触ったことになるんかな」

触れたモノリスが消えて、『試験』失敗と思しき判定がされる以上、最終的な解答方式は『正しいモノリスに触れる』であろうとは予測がつく。

問題はその『正しいモノリス』の見つけ方であり、それがシャウラの記憶をほじくり出したところでわかる気がしない、といったところにあった。

「だけどお、いつまでも考え込んでても進歩がないんじゃなあい? 裸のお姉さんがせっかく協力的なんだしい、わかりそうなことは聞いたらいいと思うのお」

と、問題の出だしで躓く大人たちに向かって、未だにシャウラの剥き出しの肩に掴まっているメィリィが口を挟んだ。彼女はシャウラのスコーピオンテールを手で弄りながら、退屈そうな顔でモノリス群を眺める。

「魔獣ちゃんはいないしい、お話は進まないしい、あんまりここって楽しくないんだものお。早く進めて、お屋敷に帰りたいわあ」

「――――」

そのメィリィの、ある種、台無しな言葉に全員が言葉を失う。それからすぐ、「どうしたのお?」と向き直ったメィリィ、その頭をスバルは撫でた。

「……何かしらあ?」

「いいや、お前の言う通りだと思っただけ。そうだよな。こんな砂だらけで、おまけに外はおっかない魔獣がうろついてる場所だ。とっとと片付けて、問題も全部解決して……レムを起こして、困ってる人たち助ける方法全部回収して、早く出よう」

試す前から不安で足踏みなど、大切な時間の浪費だ。

それこそ、この『試験』とやらを用意した意地悪い誰かの思う壺な気がする。

「お師様、お師様。実はそのチビッ子のすぐ横に、撫でやすい頭があるッス」

「言ったろ。お前は俺と同じで甘やかすと際限なく堕落するタイプだ。なので、ここから先はスパルタでいきます。早く思い出せ」

「ええーッス」

不満げに頬を膨らませ、シャウラは完全に拗ねた様子だ。もっとも、ほんの十数秒もするとすぐ忘れた顔で鼻歌など歌い出すので、扱いやすくはある。

「さて、幼い淑女からのご要望もあった。目前にある可能性を試すぐらいのこと、惜しまずにやっていくことにしようか」

「ん、そうした方がええやろね。何回失敗してもええやなんて気楽なもんやん。大抵の場合、人生は一発勝負なんやし……優しい問題やね」

メィリィに発破かけられる形だが、ユリウスとアナスタシアも合意に達する。

では、改めて、『シャウラに滅ぼされて忘れられた英雄』を思い出させるときだ。

「とりま、覚えのある名前だと……そうだな。あ、レイドは? 初代『剣聖』とかあれだよ、お前が殺したんじゃないの?」

「ひぃぃぃぃぃっ!!」

「きゃあっ!」

「四番でサード!」

気安い調子で名前を出した途端、シャウラが甲高い悲鳴を上げて飛びずさる。そのあまりの勢いに、たまらず落っこちたメィリィをスバルがダイビングキャッチ。

危うげなくメィリィを地面に下ろしてやると、飛んで逃げたシャウラが部屋のかなり遠くの方までいって小さくなっていた。

「おい! 悪かったよ! なんかよくわからねぇけど戻ってこい!」

「あ、あんまりおっかないこと言わないでくださいッス。お師様ホント人が悪い。最悪ッス。乙女のピンチッス。責任問題ッス」

軽口を叩きながらも、歩いて戻ってくるシャウラの声はか細く震えている。強がっているが、強がりきれていない。そうさせるのは紛れもない恐怖、畏怖だ。

当然、その対象は一人しかいないはずだが。

「なに、初代『剣聖』ってそんな怖い人なの?」

「馬鹿な。ラインハルトやヴィルヘルム様、アストレア家の祖に当たる御仁だ。剣の腕もさることながら、人格者であったことは疑いようがない。確かに伝聞として残る逸話には豪放磊落な気が強く、ラインハルトたちとは重ならない部分も散見するが……そうでなければ、今代までのアストレア家の歴史が歪められてしまうじゃないか」

「いやぁ、でも、歴史を紐解くと優れた為政者も見方変えると結構ひどいなんて日本史とかでもあることだしな。それに比べたら全然マシな疑いというか……」

「やれやれ、話にならないな。いいだろう。ここは生き証人である彼女に語ってもらえばはっきりする話だ。さあ、聞かせてやってくれ」

シャウラの反応から人となりを想像するスバルに、ユリウスがものすごい勢いでまくし立ててくる。その上、予防線を張ろうとするスバルを一笑に付す扱い。

その姿には久しぶりに、王選当初の嫌味な騎士の姿が垣間見えた。あのときの態度は悪役を演じていた、と今ではわかっているスバルだが、こうして見るとやっぱりいくらか素ではあったんだな、という感想だ。

ともあれ、

「初代『剣聖』、レイド・アストレアに対する所感。シャウラ女史、忌憚なく貴女の意見を聞かせてもらいたい」

「人間のクズだったッス」

「忌憚なく貴女の意見を聞かせてもらいたい」

「なかったことにすんなよ!!」

都合の悪いことを聞き流そうとしたユリウス、その肩を張り飛ばして現実を見させる。悪い顔をしているシャウラを指差し、スバルは続けた。

「ほら、聞けよ。お前の知りたかった歴史の真実がそこにあるぞ。生き証人だ。剣の腕に優れた人格者、レイド・アストレアの逸話を好きなだけ語ってもらえ」

「……大なり小なり、秀でた才を持った人間は自信を持つものだよ。そのことは責められるべきではないし、むしろ誇るべきことだ。歴史に名を残す最高峰の剣士ともなれば、そうした振る舞いをするのも、そう、時代背景を鑑みれば適当で――」

「お前がそんな必死なの初めて見た」

自分でもどれだけ説得力があると思っているのか、ユリウスもしどろもどろだ。

憧れの歴史に若干、裏切られた節のあるユリウスはさて置き、シャウラの『レイド・アストレアの真実』は止まることなく垂れ流される。

「まー、とにかく嫌な奴だったッス。悪ガキがそのまま大きくなったみたいな性格で、弱い者イジメとか大好きだったッス。っていうか、あのクズから見たら大抵の相手は弱かったんで、もう誰と戦っても弱い者イジメッス。あーしも超やられたッス」

「でも、シャウラってあんなに強いのに、それでもやられっ放しだったの? あ、だけど四百年も前だと、シャウラもまだ小さかった?」

「あーしは生まれたときからこの調子ッス。だから今も昔もあーしは変わってないッスけど……アレは別格だっただけッス。マジクソッス」

クズだのクソだの、過去の英雄がひどい言われようである。

それだけ憎々しい思い出が溢れ返るのか、シャウラの態度から黒いものが消えない。それはまさに、イジメられた人間がイジメた人間の所業を思い出すが如きだ。

「あのクズは覚えておくべきッス。やった方は忘れても、やられた方は絶対に忘れないという当たり前の事実を……ッス」

「ラインハルトって実例があるからそこまで驚かないけど、お前をやり込めるって相当の化け物だな、レイド・アストレアも」

「マジで最悪だったッス。でも、十回やれば一回ぐらいは両手使わせるぐらいできたッス。あーしもやられっ放しじゃないッスよ」

「……そうか」

としか答えようがない。十回やって一回勝つとかではなく、十回やって一回両手を使わせる、という目標は高いのか低いのか。

スバルなら百回やって一回もラインハルトに両手を使わせられる気がしないので、十分に抗ったと言えると納得しておいた。

「まぁ、そのレイドのことは後回しでいいや。お前が滅ぼしたわけじゃないなら聞いても無駄っぽいし」

「――。――――。その通りだ。今は優先すべきことが他にある」

「今、優先させるのに時間かからなかったか?」

学術的興味か単なる趣味的好奇心かは判別不可能だが、たぶん、しばらくユリウスは使い物にならないとスバルは判断した。

幻想が砕かれたユリウスには悪いが、現状、スバルがラインハルトの祖先のことを気にする理由は残念ながらない。血筋がどれだけすごかろうと、そもそもラインハルト本人が十分すぎるほどすごいので今さらだ。それに少なくとも、『父親』の人間性に関してなら、自分の方が恵まれている自信もあった。

「そうなると、英雄を当てずっぽうで挙げてもらうのは詳しい奴に任せるとして」

「わかった。謹んで受けよう」

「まだお前って言ってないけど、いいよ。やれよ。ベア子、フォローして」

「わかったのよ」

やる気のある人間に仕事を任せる、名采配が光った。フォロー役として、知識だけなら四百年分あるベアトリスを付けるアシストも万全だ。

「それじゃ、私たちはどうする?」

「俺たちは、もうちょっと詳しく周りを見て回るかね」

シャウラにユリウスとベアトリスが付きっきりになるなら、英雄関連はあちらに任せて配置の疑問などを当たっておきたい。

複製されたモノリスの配置――不均等なこれに意味があるとしたら、その法則性を探っておくのは無駄にはなるまい。

「とりあえず、階段の正面にあるのが……最初の一枚」

「問題を出してくれるモノリス、よね」

触れないように注意、というほど狭い間隔で並んでいるわけではないが、スバルはエミリアとアナスタシアの二人を連れて、部屋の中のモノリスを見て回る。

点在するモノリスは、改めて確認すると意外と大きさは疎らに存在した。ただ、大きさは最大でも最初のモノリスシリーズ以上のものはなく、あとは一回りから二回り小さいモノリスが無数に散らばっている形だ。

「パッと見やと……最初のモノリスと同じ大きさなんは七、八個かな?」

「かな? うん、私もそうだと思う。すごーく遠くの方にあるのは、みんな小さいのだと思うわ。あれも触ったらやり直しになっちゃうけど」

「前科ありそうな言い方……あ、ごめん。なんでもないです」

エミリアが悲しげな目で見てくるので、スバルは余計な一言を中断した。そうして最初のモノリスの前に戻り、スバルは彼女らと顔を突き合わせて考え込む。

「シャウラに滅ぼされし英雄、その最も輝かしきに触れよ……なんか、格好いいこと言おうとしてる感はあるが」

「抽象的な物言いには違いないかなぁ。生憎、シャウラさんの記憶頼りやなんて話やとしたら、問題として手落ちなんてお話やないけど」

「それはまぁ、そうだよな」

『試験』と銘打っておきながら、実質、その解答のための方法が他者頼り――それも本来、塔の管理者として置かれている存在頼りとはいかにもアンフェアだ。

スバルたちは友好的に接触――望んだわけではないが、結果的にシャウラと敵対することなく塔の中に入れたものの、そうでない場合は泥沼の殺し合い。首尾よく塔に入ったとしても、シャウラは倒さざるを得ない可能性もあり得た。

「そうなったら、『試験』の合格なんて永遠に無理になっちゃうもんね」

「『試験』を解かせるつもりがないっていうんなら、それは正解だよな。防衛機構として、強いガーディアン置いて、おまけにそのガーディアンを殺したら通れないなんて意地悪な関門を置いて……」

「でも、スバルはそう思ってない。……違う?」

「ま、ね」

セキュリティの問題に触れるスバルに、エミリアが期待のこもった目を向ける。その目を向けられて、スバルは含み笑いしながらそれを肯定した。

スバルの弱い目だ。エミリアやベアトリスにこの目をされるとスバルは弱い。レムもそうだし、ガーフィールやオットーもたまにする。ペトラもそうだし、と考え出すと切りがない。パトラッシュとラムぐらいだ、この目をしないのは。

「あー、なんとなく傾向が見えたな」

「――?」

「いや、こっちの話」

スバルの底を見透かしている相手には、通用しないスバルの虚勢だ。無論、そうした見方をしてくれる仲間がいるから救われる。

それはそれとして、問題を『試験』の形式に戻すと――、

「例外を除いて、基本的に問題ってのは解かれることを想定して作るもんだ。本気で隠しておきたいものを隠すなら、見つかる可能性なんて残さない方が賢いし」

「せやけど、ここはそういうんと違う……ナツキくんはそう睨むん?」

「ここの番人やってたシャウラが言ってたろ? ここは欲しい知識が得られる大図書館だって。あんな賢そうな言い回しをシャウラ本人が思いつくと思えねぇし、誰かに教わった言葉をそのまま垂れ流してる。ってことは、この図書館を作ってシャウラにそれを任せた『フリューゲル』は、図書館させるつもりがあったってことさ」

そうして可能性を解いていけばいくほど、今の状況の不自然さが目につく。

この大図書館プレイアデスの創造主は、建物の目的を機能させようとしていたはずだ。そのための篩にかける条件として、『試験』とシャウラをここに残した。

「最初から、シャウラと仲良くできる人間以外は利用できないってことか?」

「でも、シャウラは塔に近付く人は全部やっつけろって言われてたのよね?」

そう、そうなのだ。

シャウラに下された命令は『塔に近付く者を例外なく排除』することであり、スバルたちがシャウラと友好接触できたのは偶然に過ぎない。その偶然に恵まれなければ塔に挑む資格すらないと乱暴に結論するなら、

「必要なのは腕っ節と、運と、シャウラさんと仲良くできる魅力? なかなか、課題として不適当なんが並んでるようにうちは思うんやけど」

「……だよなぁ」

シャウラに負けた場合、シャウラを死なせた場合、シャウラに協力してもらえない場合、いずれも大図書館プレイアデスに挑む資格をなくす――。

暴論だが、現状までで出揃っている条件を並べるとそう結論するしかない。

ただ、それで納得するのはどうにもスバルは気持ち悪かった。

と、

「んー。んんー」

「エミリア?」

「なんだか、すごーくモヤモヤしてて。胸のこのへん、気持ち悪いの」

悩ましく唸り、エミリアが自分の胸元に触れてそんなことをこぼす。なんとなくそちらに目をやりそうになって、スバルは白い肌を注視する前に自重した。

おほん、と咳払いし、エミリアに「気持ち悪いって?」と眉を寄せ、

「なんか、気になることがある?」

「実は、あるの。だけど、これって関係ないことかもしれないし、言ってもスバルにしかわからないかもって思ってたから……」

「この際、今は何でも言ってほしいと思うから言ってくれていいよ。別に俺の考えが正しいってわけじゃないし、多角的に考えるのは基本的にいいことだ」

「そう?」

何に遠慮していたのか、考え込んでいたエミリアがその言葉に少しだけ表情を明るくする。それから彼女は「それじゃ」と言葉を継ぎ、

「モノリスに触ったときに、頭の中に声が聞こえるでしょ?」

「そやね。不気味な仕組みやけど、なんやろね」

「あの声だけど……墓所の『試練』のときに似てない?」

「――――」

エミリアの思いつきに、スバルとアナスタシアが同時に黙り込む。ただし、スバルとアナスタシアとでは沈黙の結果は一緒でも過程が違う。

アナスタシアはその言葉に心当たりがないことの沈黙だが、スバルの方の沈黙は意表を突かれたことと、納得がもたらしたものだ。

『試練』――それは、『聖域』に存在した魔女エキドナの墓所でのものだ。

過去・異なる現在と向き合わされる不可思議な現象、スバルは途中でリタイアしたために詳細は知れていないが、墓所にいたエキドナの話では三つ目の『試練』もあったとされ、エミリアはそれを乗り越えている。

否、この場合はその『試練』の内容や苦難の四方山話が重要なのではない。

重要なのはその『試練』に挑戦する際、やはり同じように『自分の声』で試練の内容を告げられた、そんなリフレインの方だ。

「言われたら、そうだ。なんで頭から抜けてたんだ……嫌な思い出だからか?」

「スバル、エキドナのことすごーく嫌がってるもんね」

「――っ」

「救世主が実は黒幕だったって経験を経ると、俺みたいになるよ」

『聖域』以来、エミリアとスバルで『魔女』たちの話をしたのは一度か二度だけ。試練の内容に触れても、エミリアは言葉を濁すため追及していない。

そんな二人の間で共有されているのが、『エキドナは性格ブス』という点だ。エミリアの方はもっとオブラートな言い方だが、スバルの方はそんなものである。

「なんや、エキドナの名前が出たからびっくりしたわぁ」

「あ、そっか。アナスタシアの精霊もエキドナって名前なんだっけ。……喋り方とかすごーく似てるのよね。変なの」

「変なの、で済ませていいかは後々に回すとして、そうか。試練に似てるのか」

『試験』の話を聞いた時点で、『試練』と似ているなとは思っていたのだ。

始まり方まで『試練』と近似の部分があるということになると、これはひょっとするとシステムの一部、あるいは大部分、墓所と似通っているのかもしれない。

「そう考えると、『試練』も一応、挑戦は無制限だったんだよな」

「それに、ここも『試験』があるのは三層と二層と一層で、三つなのよね」

「――――」

つくづく、そういうことなのだろうか、とスバルとエミリアは顔を見合わせる。

『賢者』の名前、そして四百年の時間。そこを振り返ると、当然、あの『魔女』たちの時代とも重なり、歴史がすれ違うことは避けられないのだろうか。

「うん、でもごめんね。それがわかったところで、この答えにはならないよね」

と、そこまで考えたところで、エミリアが慌てた顔で話を中断する。

エミリアの結論通り、ここが墓所と無縁ではない可能性があったとしても、それとこの『タイゲタ』の『試験』とは何の関係もない。

相変わらず、『シャウラに滅ぼされし英雄』の名前はシャウラ頼りのまま――。

「……違う、ってことなのか?」

「スバル?」

「ここが解かれることを想定してる場所だとしたら、シャウラをどうにかできないと攻略できない。それがそもそも、間違いなのか?」

ここが『賢者』の塔であり、あそこが『魔女』の墓所であった。

出題者はいずれも意地の悪さは共通しているが、共通点がそれだけでないなら、考え得る可能性はある。

『魔女』は『試練』で人を試したが、結果を出せない苦難は与えなかった。

『賢者』が『試験』で人を試すなら、結果を出せない苦難は与えないはず。

「シャウラの存在抜きで、塔を攻略できる可能性……」

「ナツキくん、なんや思いついたんなら……」

「し」

考え込むスバルが顎に手を当て、片目をつむって思索に沈む。すると、その様子に光明を見たアナスタシアが声をかけるのを、エミリアが手で制して黙らせた。

唇に指を当てて静かに、とジェスチャーを入れると、エミリアは頭を回転させるスバルを見つめて、その紫紺の瞳を期待で輝かせた。

そのエミリアの期待に気付かず、スバルの頭は回転する。

この『試験』において、『シャウラ』の存在の有無は重要ではない。あるいは塔への挑戦者は、襲ってくるシャウラを撃破する可能性すらあるのだ。シャウラの名前も知らないままに、だとしたら――。

「シャウラをシャウラと知らなくても、シャウラがあるとしたら」

「――――」

「俺たちはフリューゲルの功績をシャウラのものと間違って信じてた。『賢者』の功績は初代『剣聖』や『神龍』と一緒に魔女を封印したこと。だけど、『嫉妬の魔女』は間違っても英雄なんて呼ばれる器じゃねぇし、滅ぼされたわけでもない」

前提が間違っている、という可能性はここで切れる。

あるいはスバルが知らないだけで、『賢者』フリューゲルがシャウラに押し付けた英雄譚が他にあるのかもしれないが、そこにユリウスやベアトリスが思い当たっていないのはあまりにも不自然――必然、浮かぶ可能性。

「シャウラをシャウラと知らなくても、シャウラがあるとしたら、だ」

一度、口にしたものと同じ内容を口にした。

それは考えが堂々巡りした、というわけではない。逆だ。一つの可能性を切り捨てて、もう一つの可能性の方に至った証拠。そしてその内容は――、

「ベア子! ちょっとこい!」

閃いた可能性に従い、顔を上げたスバルがベアトリスを呼び寄せる。

シャウラに色々と話しかけ、記憶の扉をこじ開けようと苦心するユリウス。その隣にいたベアトリスは、何かを得たと伝わるスバルの声にぴょんと飛び上がった。そして駆け寄ってくると、

「その顔、ベティーの好きなスバルの顔かしら」

「お前、いつでも俺のこと好きだろ?」

「特に、なのよ」

恥じらいなくベアトリスに言われて、スバルは正面に立った少女に手を伸ばす。伸ばされた手をベアトリスが握り返し、つぶらな青い瞳がスバルを見た。

その瞳が「何をしてほしいの?」と聞いている。だからスバルは頷き、

「単純だ。――ムラクで、ちょっと高くジャンプしたい」

「……まさか、諦めて天井を壊して上にいこうって話じゃないかしら」

「露骨に呆れるなよ。もちろん、違うぜ。上からこのモノリス、見下ろしたいんだ」

「モノリスを見下ろす……」

スバルの発言に、背後のエミリアがモノリスを振り返って呟いた。

その結果はわからないまでも、ベアトリスはそれ以上のことを聞こうとはしない。彼女は小さく吐息をこぼすと、握った手をより強く引き寄せ、

「ムラク、なのよ」

淡く、薄紫の波動がベアトリスの詠唱に従い、スバルの肉体を薄く包む。

重力の影響を遠ざけ、身軽さを先鋭化させる魔法だ。軽く跳ねるだけでも一メートルほど浮かび、力一杯に床を蹴れば――、

「よ、っと!」

ベアトリスの手を掴んだまま、スバルの体が高々と部屋の上へ飛び上がる。その高さは六、七メートルほどに及ぶが、本来は激突するはずの天井に体が当たらない。

どこまでも白い空間の中、まるで天井が存在しないかのように階層は拡張されている。故にスバルの体は上空から、部屋の全景を見下ろすことができた。

「――思った通りだ」

「目的、果たせたかしら?」

「おおよ。この場所、最高に意地悪いぜ」

腕の中、呟きを聞きつけたベアトリスの視線に、スバルは頬を歪めて頷いた。

そのまま、二人の体は垂直に地面に向かって落下するが、飛び上がるのに貢献した身の軽さは着地にも恩恵を与える。何の問題もなく着地し、お姫様だっこしていたベアトリスを床に下ろすと、

「英雄の名前、わかったよ」

「ホントに!?」

思索と跳躍を見届けたエミリアに、スバルは得た確信のままにそう言った。その言葉にエミリアが驚き、アナスタシアも目を丸くする。

その声を聞きつけ、話に夢中になっていたユリウスたちも、スバルたちの方へと集まってきた。

「お兄さん、わかったのお?」

「解けたぜ。意地悪な試験官の考え諸共、ひとまずな」

「さすがお師様ッス! 痺れるッス! 憧れるッス!」

親指を立てて答えると、メィリィを背中に乗せたシャウラが大仰に頭を揺する。それを横目に、ユリウスがモノリス群に目をやり、

「今さら君を疑うつもりもない。どういった風に答えを出したか教えてくれ」

「そんな大層なもんでもねぇよ。これが解けないのはお前らが悪いわけじゃない。解ける可能性のある奴が、そもそもずっと少ない」

そういう意味で、この問題は最高に意地が悪いのだ。

シャウラという障害を乗り越え、問題の内容を理解し、そしてそもそも『問題の答えを知る可能性』の時点で挑戦者が絞られている。

「シャウラに滅ぼされた英雄、その名前はオリオンだ」

「オリオン……?」

スバルの口にした単語に、全員が怪訝なものを浮かべてシャウラを見る。が、当のシャウラはその視線に、「知らないッス!」と懸命に首を横に振った。

「いやいやいや、あーしの知らない人ッスよ。仮に殺してたとしても、そもそもここまで辿り着けない人が英雄なんてちゃんちゃらって話ッス。だからあーしは悪くないと思うんスよ。どうッスか、この理論武装! あーし賢いッス!」

「と、見たまま賢くないこいつが忘れた可能性を最初は疑ったけど、そうじゃない。そもそも、この問題の『シャウラ』ってのはこいつのことじゃないんだ」

「シャウラはあーしだけッスよ! お師様に貰った名前ッス!」

「そのお師様がお前に付けた名前にも、そもそも元ネタがあったって話」

反発するシャウラの鼻面に指を突き付け、詰め寄った彼女を背後へ押しやる。それからスバルは歩み出て、最初のモノリスの前に立った。

「シャウラの名前の由来って……もしかして、またスバルだけが知ってること?」

「俺だけってわけじゃないけど、みんなが知ってるわけではないね。――俺の地元の星の名前に、『シャウラ』ってのがある。意味は『針』なんだけど、それが何の針かっていうと『サソリ』の針なんだ」

スコーピオンテール、とシャウラが自分の髪型を強硬に主張していたが、あれはある意味でヒントだったのか、それともシャウラの天然なのか。いずれにせよ、『シャウラ』=『サソリ』=『針』を想起させる条件はいくつかあって。

「言い伝えによると、英雄オリオンは調子づいたことが理由で、嫌がらせに派遣されたサソリに刺されて死んで星になった。で、オリオンを殺したサソリもその功績で星になって、今でも空じゃオリオンはサソリにビビってるって話なんだが……」

「スバルが噛み砕くと、英雄譚もなんかしょんぼりな感じなのよ」

「とにかく、星を人とか動物とかの形に例えた星座って考え方がある。アステリズムって考え方でもいいけどな。――で、上からモノリスを見下ろしたら、だ」

ベアトリスの魔法で身軽になり、跳躍してモノリス群を見下ろした。

白い世界に、黒く点在するモノリス――本来の色味としては真逆だが、それは白い世界に浮かび上がる黒い星々の連なりであり、知った形だ。

最初のモノリスと同じだけの大きさ、そのモノリスが全部で八つ。

オリオン座を形成する、主要な星々のそれと数も配置も一致する。

そして、『最も輝かしきに触れよ』と最後に結ばれたのであれば――、

「最初のモノリスがど真ん中。まぁ、アルニラムあたりと睨んで、そのまま星座の形を……オリオンをなぞってやると」

「そうすると?」

「最も輝かしき、ってのが意外と曲者な言い回しだ。実は星は光り方も色々あって、ずっと明るいのもあれば、たまに強く光るのもある。そういう意味だと、オリオン座には最も輝くってのに該当する星が二つあって……」

真上から見下ろしたとき、左上に位置するオリオンの右肩『ベテルギウス』と、右下に位置するオリオンの左膝『リゲル』の二つが存在する。

恒常的に明るいのは『リゲル』だが、『ベテルギウス』は時折強く光る変光星だ。

どちらともとれる、という問題への解答は美しくないが――、

「俺だったら、『リゲル』の方を取るかな」

ベテルギウスって名前には、似た名前で嫌な思い出もあるし。

「――――」

そうして自分の中で答えを結んで、スバルはオリオンの左膝『リゲル』のモノリスに触れる。

これが答えとは限らない。だが、おそらく正解のはずだ。

そして同時に理解する。

この『試験』を考えた人間の底意地の悪さと、二層と一層に待ち受ける障害の、その高さと険しさへの覚悟を。

「――――」

眩く、白い部屋は光に包まれる。

音も景色も置き去りにして、何もかもが吹き荒び、やがて――。

「……おお」

光が晴れたとき、スバルたちは石造りの空間――塔の延長上の建物の中、無数の書架に囲まれた部屋の中心に立ち尽くしていた。

第六章23 『三層タイゲタの書庫評』

周囲の白い空間が消え去って、眼前に出現したのは石造りの部屋と無数の書架。

触れていたはずのモノリスの存在が掻き消えたことを確認して、スバルは自分の辿った思考の帰結が、おそらく正しい答えだったのだろうと判断する。

判断するのだが――、

「やったわ! スバル、すご――」

「考えた奴、性格悪ッ!!」

「えええ!? 最初にそんな反応!?」

三層『タイゲタ』が解放されるのを見届け、歓喜の声を上げたエミリアが目を剥く。盛大に顔をしかめて、塔の中に響き渡るようなスバルの罵声だ。

驚くエミリアや見守る周囲に振り返り、スバルは「ああ、ごめん」と言って、

「思った通りに解けたのは我ながらお手柄に違いねぇんだけど……これで解けたのは逆に大問題だと思うぜ。いや、実際、フェアじゃねぇよ」

「そう、なの? スバルが物知りでいてくれたおかげで謎解きができた……って、私はそう思うんだけど」

「俺が物知りで解けたっていうより、俺みたいなのじゃなきゃ解けなかったってことの方が大いに問題なんだよなぁ」

頭を掻くスバルだが、エミリアはわからない顔で首を傾げている。

どう説明したものか、と思うが、詳しく説明しても少々厄介な解法だろう。

三層『タイゲタ』に存在した『試験』であるが、その内容は解きながらスバルが語った通り、オリオン座の逸話になぞらえたものであった。それ自体は「考えた奴が星好きとかロマンチストかよ」と自分を棚上げして考えるところなのだが、大問題になるのは『オリオン座』関係の知識が、この世界では得ようがないこと。

オリオン座も、もちろんシャウラが星の名前であることも、星座の並び方から何まで全部、スバルのいた元の世界の知識であり天体だ。

この世界が実は、スバルのいた世界のはるかな未来であったり失われた過去の文明であったりするとんでも展開があれば可能性は残るが、この世界の星空の見え方がスバルの知る天体とまるで違うことはすでに確認済みである。

「まぁ、星空の並びが全然変わって見えるぐらい年月が過ぎてた……とかだったらお手上げだけど、それこそオリオン座なんて残らねぇよ」

夜空からオリオン座が失われるほど年月が過ぎたのなら、オリオン座の逸話などもっと早くに消えている。そうした事情を鑑みれば自ずと辿り着く答えは一つ。

この問題を考えた人間は、スバルと同じ星空を知る人間。

もっと悪く言えば、異世界の星空に詳しい人間以外は解けない問題を『試験』と言い張る性格破綻者だ。

そして問題文を考えたのは、ここまでの会話の流れからして、『賢者』フリューゲルで疑いあるまい。

「お前のお師様だけど、相当、性格悪い奴みたいだな」

「いやいやいやいや、何を言い出すッスか。自分で自分を悪く言うなんてお師様らしくないッスよ! それに性格悪いのは否定しないッスけど、解ける分だけ間違いなく有情ッス! レイドなら絶対に無理難題……自分の分身とか置いてって、勝てなきゃ通れないとかやるッスよ」

「それもおっかねぇけど、可能性はどっちの方がマシなのかね……」

いずれにせよ、過去に『嫉妬の魔女』を退けた英雄たちは性格に難ありの様子。

この面子だとまだ、異世界の知恵を試されただけマシだったのかもしれないが。

「それで、やけど」

弁明にならない弁明をするシャウラにスバルが嘆息すると、そこに割って入ったのは周囲を見回していたアナスタシアだ。彼女は襟巻きに忙しなく触れながら、本がみっしりと詰まった書架の一つ一つに目をやり、

「ナツキくんのお手柄で『試験』は突破……それはええけど、ここの書庫としての役割ってなんなんやろね。どんな本があるんか、興味深いわ」

「シャウラ嬢の説明では、知りたいことであれば何でも知れる知識の宝庫――といった説明でしたが」

アナスタシアの疑問に首肯し、ユリウスがちらりとシャウラの方を見る。が、シャウラは自分の過去の発言など忘れた顔で、その剥き出しの肌に遠慮なく触れているメィリィと戯れている。

期待度は最初から低いが、シャウラからこの『タイゲタ』の書庫の説明を受けることはほぼほぼ無理と考えてよさそうだ。

「アレの反応からして、そもそも『タイゲタ』が開かれたのが初めてのことなのよ。見て回って確かめてみるしかないかしら」

「そうだな。……お前、心なしかウキウキしてない?」

「そんなこと……あるかもしれないのよ」

スバルのすぐ横にきて、裾を摘まむベアトリスはいつもより少し早口だ。

微妙に瞳が輝き、興味深げに書庫を見回す視線――その原因に思い至り、スバルは状況も忘れて何となく微笑ましくなってしまう。

「てっきり、お前は禁書庫に嫌な思い出しかないのかと思ってたよ」

「……いい思い出ばっかりじゃないのはホントかしら。でも、どんな場所でもあそこはベティーが四百年を過ごした場所なのよ。それに」

「それに?」

「スバルが『俺を選べ』ってベティーを口説いた場所かしら。忘れようとしても、忘れられる場所じゃないのよ」

「――――」

思わぬ言葉にスバルが目を丸くすると、ベアトリスはスバルから顔を逸らす。が、その背けた顔の耳が真っ赤に染まっており、恥ずかしがっているのが見え見え。

「自分で言って自分で照れて、何したいんだ、お前」

「ベティーの禁書庫の記憶はちゃんと、スバルって記憶で〆られてるってことの証明かしら。……別に、それだけなのよ」

「お前、可愛いなぁ」

「むきゃー、かしら!」

愛おしさが込み上げて、スバルはベアトリスの頭をぐしゃぐしゃになるまで撫でてやる。途中でベアトリスが猫のような悲鳴を上げて遠ざかり、スバルはそれを満足げに見送ると、呆れた顔をしたアナスタシアたちに向き直る。

「と、雑談はこんなところにして、書庫の方を確認するか」

「ご馳走様、やね。見てて微笑ましいけど、親子のやり取りやなぁ……」

「せめて兄妹、だろ」

アナスタシアの感想に舌を出し、スバルは屈伸すると改めて周囲を見渡す。

スバルたちがいるのは、石造りで円筒形の部屋のど真ん中だ。構造自体は元の塔の延長上に戻り、果てが知れなかったほど拡張された空間が錯覚だったとわかる。

六層や五層は螺旋階段以外、目立った特徴のない広大な空間。逆に四層はいくつもの部屋に仕切られた、シャウラ的にいうと多目的なねぐら。

一方、三層は同じだけの広さの空間に所狭しと書架が並べられており、背の高い本棚には無数の本がぎっしりと詰め込まれている。部屋には円形の段差がいくつもあり、スバルたちのいる中央が一番低く、外に向かうにつれて段差が高くなる。

蔵書は気が遠くなるほど多く、ベアトリスの禁書庫も相当なものがあったが、単純に本の数だけでいえば物量ではこちらが圧倒しているだろう。

「目的の本を見つける、検索コンピュータが欲しくなるな」

「禁書庫の中なら、どこに何の本があるのかベティーは完璧だったのよ」

「すげぇな、お前。天才か」

ベアトリスの密かな自慢に感嘆しつつ、スバルは手近な本棚に近付く。

見れば、エミリアたちもそれぞれ本棚に歩み寄ってはいるのだが、なかなか手に取る勇気を持てずにいる様子だ。

「解いたのはスバルでしょう? だから、スバル以外が触っても平気なのかなって」

「あー、確かにどうなんだろうな。でも、正答者しか読めない形式にするなら、解くのを見てただけのエミリアたんたちまで書庫に入れるのがおかしくないか?」

「あ、そっか。ここに入れた時点で、許可が出たみたいに考えていいんだ」

「うん、そうだと思う――けど、エミリアたん!?」

警戒していたエミリアにスバルが推測を述べると、彼女は納得した顔で頷く。それから彼女は無警戒に、すぐ目の前の本棚から一冊の本を抜き出した。

そして言っておいて驚くスバルの前で、ぺらぺらと中身に目を通す。

「んー、普通の本……かしら。スバル、どうしたの?」

「いや、いいんだけど、エミリアたんのクソ度胸に驚き惚れ直しただけ。大丈夫じゃないかなーって言ったの俺だけど、むしろ俺だよ?」

「――? スバルが言ったから、大丈夫でしょう? え、変なこと言った?」

本気でよくわかっていない顔のエミリアに、スバルの方が言葉を無くす。スバルは言葉にし難い感情に掌で顔を覆って、「うあー」と呟いた。

「なんだろ、信頼の眼差しが痛い」

「それが君が積み上げてきたもの、ということだよ。それに事実、君は誰にも解けなかった『タイゲタ』の謎を解き明かした。その功績、もはや否定できないはずだ」

「こんなもんまぐれ当たりみたいなもんだよ。たまたま俺だっただけだ」

スバルの困惑にユリウスが肩をすくめるが、騎士の言葉にスバルは目を逸らした。

エミリアの信頼、ベアトリスの親愛、ユリウスの誠意――いずれも、スバルの望んだものに違いないのに、それが与えられることに違和感が晴れない。

そうされるだけの価値を、スバルは常に自分に疑い続けている。

「エミリアさんの言う通り、普通の本やね。別に触った瞬間に体が燃える、なんておっかない仕掛けはないみたい」

「本の材質は……やや不透明ですね。年代もわからない。ですが中身は……?」

エミリアの毒見的積極性があって、他の面子も次々と本に手を伸ばす。とはいえ、膨大な本の一冊二冊で全てが知れるほど、世の中簡単にはできていない。

アナスタシアやユリウスは中身、装丁などを確かめつつ、首をひねり合っている。

「ベア子、どうだ?」

「見たところ、本の規格は統一されてるかしら。でも、タイトルは全部違うのよ。これは『ノア・リベルタス』。こっちは『リブレ・フエルミ』。……並べ方も無茶苦茶な風に見えるかしら」

司書の血が疼くのか、本の適当な並べ方にベアトリスは不満げだ。あまり禁書庫で彼女が整理整頓していた記憶はないが、分類はされていたかなと思う。

そんなベアトリスの憤慨はさて置き、スバルは本の背表紙を見ていて気付く。

「この本のタイトルだけど……ひょっとして、全部、人の名前か?」

「ん……と、そうみたい。これは『パルマ・エウレ』、こっちは『コヨーテ』」

「知らない名前ばかり、と見受ける。あまり見識の深いとは言えないが、私の知る限りで見知った名前はないな。無論、ちゃんと見回れば別と思うが……」

「お前が知らないんなら、たぶんここの奴は誰も知らねぇよ」

本気なのか謙遜なのか不明だが、最近、歴オタっぽさが露呈しつつあるユリウスだ。その彼の知識にないのであれば、人名タイトルが適当なモノなのは事実だろう。

スバルも適当な本を手に取って中を見てみるが、羅列する文字は普通に『イ文字』や『ロ文字』に『ハ文字』など、この世界特有の言語だ。

これが福音書になると、正式な所有者以外には読めない幾何学的な文字で描かれていたりするが、これらの本にはそういった小細工はされていない。

文字が細かすぎるのと、文章自体が退屈すぎるせいか、読んでも読んでも頭に内容が入ってこないが、それは興味のない本によくある問題だ。

「一応、アナスタシアさんにも確認するけど……知ってる名前とかあるか?」

「――んーん、ないよ?」

一応、の名目でスバルはアナスタシアにだけ確認を取る。無論、アナスタシア本人というより、その肉体の制御権を握る襟ドナへの確認だ。

ユリウス以上の知識を保有する可能性は、襟ドナには十分にある。ここで襟ドナが嘘を言う必要性は、あの精霊が最初から敵対意思がある以外ではあるまい。

ひとまずその報告を信じて、スバルはどうしたものかと途方に暮れる。

「途方に暮れるには早いか。木を隠すには森の中……ひょっとしたら重大な情報の詰まった本が、この書架のどっかに埋まってるかもしれねぇとしたら嫌だなぁ」

「途中で諦めないの。解けない謎解きよりずっと前向きじゃない。頑張らなきゃ!」

膨大な量の本を前に、早くも先々の不安にスバルの心が折れかける。そんなスバルにエミリアが小さく拳を固め、気合いを入れるように呼びかけてきた。

そのエミリアのガッツポーズを真似しつつ、スバルは書架に向き直る。並ぶ人名タイトルはいずれも記憶にないものばかり。せめて、知っている名前にでもぶつかれば確かめる欲求も――と、背表紙に指を当て、本をなぞっていると。

「……?」

なぞる途中、ふいに掠めたタイトルにスバルは指を止めた。

その本の背表紙に指を掛け、ぎっしりを詰まった書棚から傾けて引き抜く。本のタイトルにあるのは知った名だ。

なんとなしに手に取って、スバルは本を開く。そして、知人の名前が入った本の中身に目を通し――直後、それがきた。

――意識が、暗転する。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――女、一人の女がいた。

女、と呼ぶことを躊躇するほど、まだ幼い女だ。

痩せた体に粗末な服、日に焼けた褐色の肌に緑の髪。

童女と呼ばれるような年代の女は、しかし尽きぬ悩みに心を支配されていた。

それは決して答えの出ない、女にとっては生まれながらの命題であった。

「――――」

延々と頭を悩ませ続け、尽きることのない至上の命題。

それは世に存在する理、その白と黒――即ち、善と悪にあった。

正しきこと、誤った行い。

世に無数の選択肢があれど、全ての行いには両極いずれかの評価が下される。

まだ童女であった女には、その理に悩み続ける理由があった。必然があった。

女の世界を白と黒、善と悪、善因と悪因、二つに割ったのは女の父だ。

「――――」

女の父は罪人の首を刎ね、咎に相応しい罰を下す行いを生業としていた。

罪を犯した罪人に、罪に相応しい罰を、人生の最期を与えることが父の生業。

「――処刑人」

そう呼ばれる父の所業を、処刑場の在り方を、女は幼い日より目にしてきた。

おぞましき残酷な行い、落命する咎人の断末魔、血と死に支配された処刑場。

――そこで女に『死』を見せ続けたのは、他でもない女の父親の意思だ。

犯した罪に罰が与えられ、悪果には悪果で以て報いがある。

世に存在する善悪の、己が処刑人として信じる在り方を、父は女に伝えようとした。

父の意思は崇高なものであり、高潔な思想に違いなかった。

だが、女の幼さを思えばそれは独りよがりであり、理想を求めるには早すぎた。

女は幾人もの死を見届け、血の香りを嗅ぎ、罪人が罰されるのを焼き付けた。

結果、女は命の尊さを、人の死生の理を学ぶ以前に、罪に相応しき罰を学んだ。

善行が善因を生み、悪行が悪因を呼び、罪人の魂は罰に相応しく穢れてゆく。

父の教えをそう理解し、女は『罪に相応しき罰』の在り方を欲する。そのための指針となり得るものを、悪業を悪と定める善の天秤を求めた。

「――――」

しかし、女の求める天秤は、女の探し求めた範囲に存在しない。

事の善悪に単純な答えはなく、正誤は、罪と罰は、多くの要素に左右される。

「――――」

だが、まだ幼く、妥協と諦めを知らぬ女は止まらない。

答えを得なければならない。善悪に相応しき天秤を心に宿さなければならない。

消えない胸の内の問いかけに、答えを差し出さなければならない。

「――――」

懊悩する日々が続き、しかし答えが天の恵みのように授けられたのは突然だ。

父の酒杯を割り、女は自らの犯した罪に大いに怯えた。

あるいは首を落とされることすら覚悟して、女は己の罪を父に告白した。

「――自分の間違いを打ち明け、謝ったことは正しい」

女の父は過失を許し、笑みすら浮かべて女に言った。

その父の微笑みと頭を撫でられる掌の感触に、幼い女は理解した。

――犯した罪を計る天秤は他でもない、罪人自身の心の内にあるのだ。

たとえ誰が見ていなくとも、罪人の罪は己の心が知っている。

善悪は、わからない。難しい。正誤は、確実な指針がない。見つからない。

しかし、罪の意識は己の中にある。

罪に相応しい罰の基準はない。だが、罰に相応しい罪の意識は己の中にある。

女は理解した、満足した、天秤をようやく手に入れた。

幼い女は命の尊さを、人の死生の理を知らぬまま、罰に相応しき罪を暴いた。

「――――」

処刑人の父を見習い、罪に相応しき罰を下すため、女は日の下に歩き出す。

罰されるに値する罪人の、その心を暴くために。

「――――」

それは善悪を、正誤を、実と不実を二分にする、女にとっての人生の集大成。

幼い女の問いかけに、ある者は笑い、ある者は困り、ある者は戸惑う。

だが、女の問いかけに答えた結果は、全員が同じだ。

――罰に相応しき罪は、己の心の中にある。

周りを見る。誰もいない。ここにはもう、罰を受けた罪人しかいない。

粉々に砕け散った破片の人々と、最後に父の破片を踏み越えて、女は自分に与えられた宿願を果たすために、罰に相応しい罪を求めて歩き出す。

――『傲慢の魔女』は罪を問い、罰を与え、罪人を裁き続けた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

見知った『魔女』の始まりを見届け、スバルの意識が痛みとともに回帰する。

「づぁ――ッ!!」

べりべりと、音を立てながら意識が本から引き剥がされる。血が乾いて張りついたような感覚に支配されながら、外側が剥がれることも構わず強引に引っ張る。

痛みがあるのは頭でも体でもない、魂だ。

魂が本に引っ張られ、そこから引き剥がすのに痛みを伴っているのだ。

「スバル!」

「――はっ!」

横合いから声が突き刺さり、同時に腕に鋭い一撃が打ち込まれる。踏み込み、エミリアが手刀でスバルの手首を叩いたのだ。

衝撃にスバルの手は弾み、そこから握りしめていた本が落ちる。本は開かれたまま逆さに床に落ち、スバルはよろよろと本棚に寄りかかった。

「お、おぉ?」

「だ、大丈夫? 今、すごーく辛そうだったけど……」

「なんとか、持ってかれずに済んだ……か? いや、わからないけど」

不安げな目のまま支えてくれるエミリアに頷きかけ、スバルは息を整える。走ったわけでもないのに心臓は弾み、息は落ち着かずに荒れたままだ。

バクバクと心臓の鳴り続ける胸に手を当てて、スバルは深呼吸を繰り返す。その瞳はあちこちにさまよい、最終的にエミリアに留まって落ち着いた。

「平気?」

「エミリアたんの顔見てると落ち着く。もうちょい手ぇ貸してて」

「それはいいけど、何があったの?」

甘えたスバルの発言を素直に受け取り、エミリアは肩を支えたまま問いかける。彼女の言葉にベアトリスが動き、床に落ちた本に手を伸ばした。

「今、この本に触って変な顔になったかし……」

「待て、ベアトリス! 触るな!」

「――?」

本を拾おうとするベアトリスを止めようとするが、それより先に少女は本を拾い上げ、抱えてしまう。中にまで目を通さなかったベアトリスは、そのスバルの剣幕に訝しげな顔のままタイトルを読み上げる。

「――テュフォン。スバルは知ってる名前なのかしら?」

「あ、ああ……お前こそ」

ベアトリスの質問に、スバルは「お前こそ知らないのか?」と聞き返そうとした。しかし、彼女の返答が肯定でも否定でも答えに詰まりそうで、スバルはどう言ったものかと眉を寄せる。

その間にベアトリスは本を開き、中を確認してしまう。

「馬鹿――!」

「馬鹿とは失礼なのよ。別に、他の本と変わらないかしら」

スバルが味わったものと同じ衝撃がベアトリスにも突き刺さる――かと思いきや、少女は本の内容に何も反応しない。他の本と同様の扱いで、彼女は不満げな顔つきのまま、その本をスバルに突き付ける。

「でも、スバルには他の本と同じには見えなかった……そういうことと見たのよ」

「……そうだ。けど、なんで俺だけ?」

「まさか、部屋の問題と同じでスバルにしかわからない? もしくはやっぱり、問題を解いたスバルだけしか効果がないとか……」

「だとしたら、ますます性格が悪ぃけど……」

考え込むエミリアの言葉に、スバルは嫌な予感を覚えながら首を振る。ともあれ、突き付けられた本だが、もう一度、目を通そうという気力は湧かない。

――脳裏を過るのは、いやに鮮明な感覚で体感した『女』の記憶だ。

臭いがあり、空気に味があり、足裏に大地の感触があり、砕いた命の重さがあった。

それだけ濃密に『誰か』の記憶を追体験して、引き返せたのが奇跡だ。

あるいはあのまま、他人の人生に呑み込まれる。

そんな埒外の恐怖と嫌悪感が、あの体験には確かに存在したのだから。

「スバル、このテュフォンって人とどこで?」

「説明がムズイ……いや、エミリアたんには難しくないのか? 知らないってことは会ってないんだろうけど、墓所にいたんだよ」

「墓所――」

その響きに、エミリアとベアトリスが同時に動きを止める。

『墓所』はスバルだけではなく、エミリアにとってもベアトリスにとっても因縁のある場所だ。ただ、あの墓所で繰り広げられた『魔女の茶会』を思えば、二人がテュフォンを知っていてもおかしくないと思うのだが。

もっとも、エキドナが素直にエミリアを招いたのかはわからないし、ベアトリスにとってのエキドナはスバルの知るそれと異なる可能性が高いのだが。

「テュフォンは、過去にいた『魔女』の一人だ。『傲慢の魔女』で、見た目はベア子ぐらいの褐色ロリ。ただ、無邪気の残酷って言葉が具現化したみたいな子だった」

スバルの説明に、エミリアとベアトリスは心当たりがないと首を横に振った。

どうやらエキドナの魔女博覧会は、スバルにだけの特別な措置だったらしい。自分の目的に利用するためだったとはいえ、なかなか趣向を凝らしてくれたものだ。

「無邪気の残酷……か」

口に出してみて、スバルはわずかな時間だけ接したテュフォンを思い出す。

実際、精神世界でのこととはいえ、彼女に手足を砕かれたことは忘れ難い。直後に治ったとはいえ、四肢を失うことの衝撃は薄れるものではないのだ。

ただ、そうした彼女のどこか異常性の垣間見えた根幹に、どういった理由があったのかは今の『読書』によって表層を知れた気がする。無論、それが即座に理解に繋がるかといえば、それは全く別次元の問題だが。

「ともあれ、今、俺はその本を読んで、そのテュフォンって子の……記憶? 人生? ルーツか? とにかくそんなところを追体験した。気持ちいいもんじゃなかったけど」

「それはスバルの反応を見てたらわかるけど……人の記憶を、追体験。それってなんだかますます、墓所の『試練』みたい」

「アレの場合、自分の記憶と真っ向勝負だったけどね。まぁ、楽勝だったけど」

「そ、そうね。楽勝だったけど」

鼻水ボロボロになるまで泣き喚いたことや、何度も何度も失敗して心が折れかけたことなどなかったことにして、スバルとエミリアは頷き合う。

そんな二人の態度に白けた目を向けつつ、ベアトリスは本の汚れを払った。

「他人の記憶を追体験する本……言い換えれば、過去を手繰る手段でもあるかしら。だとすると、知りたいことを知れる図書館って考えは……」

「ベア子、何か思いつい――」

ぶつぶつと、スバルの身に起こった出来事と内容に何事か考え込むベアトリス。だが、スバルがその横顔に問いを発する途中、またしても声が飛び込んだ。

「――っ」

声がしたのは、スバルたちとは別の書架を調べていたユリウスたちの方だ。聞こえた苦鳴のような音に目を向ければ、本を手に膝を突くユリウスの姿が見える。

傍らに寄り添うアナスタシアが驚き顔で騎士の肩を揺すり、本を奪った。

「ユリウス? ユリウス、しっかりしぃ! ウチの声、聞こえるやろ?」

「……アナスタシア、様」

「そう、それでええ。ゆっくり、深呼吸して。……ん、大丈夫やんな?」

先ほどのスバルと全く同じ素振りで、ユリウスの意識が現実に帰還する。疲弊した姿すらどこか絵になるユリウスに、アナスタシアは安堵の表情を覗かせた。

その二人の方へ駆け寄り、スバルは「無事か?」と声をかける。

「難しい本の読みすぎで知恵熱か? 気持ちはわかるぜ」

「確かにこのところ、書物に目を通す生活からは遠ざかっていた。武に文にいずれも精通していなければならない騎士として恥ずべき姿勢だ。容易く謎かけを解いた君の見識の深さを見習わなければならないだろうね」

「よくもまぁ、すらすらと……」

味わったものがスバルと同じなら、魂が受けた負担は相当なもののはずだ。にも関わらず、直後に優雅に強がれる姿勢が憎たらしい。

そんなスバルの内心を余所に、エミリアが黒髪の後頭部に手刀を入れる。

「あた」

「条件反射みたいにイジワル言わないの。ユリウス、ホントに大丈夫?」

「ご心配をおかけして申し訳ありません。大袈裟に反応した我が身が恥ずかしいぐらいですよ。……とはいえ、心臓に悪い体験ではありました」

心労を隠して、エミリアに優雅に応じるユリウス。ただ、隠し切れない衝撃は彼の額に薄く浮いた汗が証明している。背伸びするアナスタシアが手にしたハンカチを額に当ててやると、ユリウスは恐縮といった様子で頭を下げた。

「強がるんは男の子の本能やからしゃぁないけど、辛いときは辛いって言うんよ? 無理してアカンことになったら、周りに迷惑かけるんやから」

「はい。お気遣いありがとうございます」

「うんうん、アナスタシアさんの言う通りよね。ね、スバル」

「なんで俺に念押ししたのかわかんないけど、そうだね!」

両陣営の主従がそんな会話を終えて、主眼はアナスタシアの腕の中の本へ。

ユリウスが内容に目を通して、おそらくスバルと同じ体験をしたモノだ。背表紙に目を向けると、記されたタイトルは――。

「――バルロイ・テメグリフ。知ってる?」

「俺は聞き覚えないぜ。たぶん、間違いなく」

読み上げたエミリアに横目にされて、スバルは自信を持って頷き返す。

これでも、わりと記憶力には自信がある。この世界の知人関係であれば、アーラム村から王都の果物屋のオッサンまで完璧だ。

その記憶の名簿に、バルロイなる人物の名前はない。だが、その名前に首をひねり、思い当たる節がある顔をしたのはアナスタシアだった。

「その名前、ウチは覚えあるなぁ。確か……うん、そう。ヴォラキア帝国の将軍にそんな名前の人がおらんかった?」

「――正しくは、元将軍です」

うろ覚えの記憶を辿って答えを口にしたアナスタシアに、ユリウスが補足する。そのやり取りを聞いただけで、ユリウスに所縁のある人物と伝わった。

ただ、その肩書きの縁遠さにスバルは眉を寄せる。

「ヴォラキアって、南の国だよな? そこの将軍とお前が知り合いなの?」

「二度目の訂正だが、元将軍だよ。なにも意外な話ではないだろう? 私はこれでも近衛騎士団の人間だ。ルグニカ王国とヴォラキア帝国は隣国でもあるし、一方的に名前を知っているのもおかしな話じゃない」

「なるほど、一方的に知ってる相手……ね」

ユリウスの説明を受け、スバルはふんふんと頷いた。それから小さく吐息し、さっと手を伸ばしてアナスタシアからその『バルロイ』の本を奪う。

「ナツキくん?」

「驚かせてごめん。でも、確かめたいことがあってさ」

本を奪われたアナスタシアが目を丸くし、スバルは回収した本の表紙をなぞる。それからパッと本を開いて、その内容に目を走らせた。

一瞬だけ、スバルはあの『追体験』がくるのではないかと覚悟する。だが、おそらくこないだろうという考えもあり、正しかったのは後者の方だ。

「俺も、一方的に知ってる名前になったから読んでみたけど、何もこない」

「……スバル」

「今、俺たちの間に大事なのは信頼関係だろ? 俺とお前の間にそれがあるかどうかってのは……ないわけじゃないって、思ってたのは俺だけか?」

「――それは卑怯な物言いだ」

自分を睨みつけるスバルに、ユリウスは目を伏せてそう答える。

彼は自分の前髪に触れながら、

「この場にいる君たち以上に、私が信を置くべき相手は今はいない。ラインハルトにすら抱けない精神的な支えを、アナスタシア様や君に貰っているとも」

「……その言われ方、なんか気持ち悪いな」

「私も言っていて舌が痒くなったよ」

鼻の頭をスバルが掻くと、前髪を摘まんだままユリウスが瞑目する。それから彼は嘆息し、すぐにアナスタシアやエミリアに向かって一礼した。

「非礼をお詫びします、アナスタシア様。エミリア様。今、私は些末な私情を答えに交えました。本の内容を共有すべき場で、許され難いことです」

「それを許すかどうかは、ウチやエミリアさんの器量やね。どう思う?」

「私の言いたいこと、スバルとアナスタシアさんに言われちゃったかな。だから、それがどうしたって今は思ってます。まる」

エミリアとアナスタシアが早々に謝罪を受け入れると、ユリウスはさらに一度、深く腰を折った。その彼の内心がスバルには手に取るようにわかる。

悪いことをしたと、気合いを入れて謝った人間は許されることに弱いのだ。スバルもよくよく味わう感覚だけに、わりと他人事ではない。

「バルロイ・テメグリフ。ヴォラキア帝国の元将軍ですが……すでに亡くなった人物です。そして、彼の命を奪ったのは他でもない、私でした」

「他国の将軍を死なせた。なかなか、驚きやね」

「アナスタシア様は……いえ、今はお忘れでしたね」

「――――」

観念して話し出したユリウスの述懐に、アナスタシアは目を細める。

ユリウスの今の態度からして、おそらく記憶から消える前のユリウスと、襟ドナに乗っ取られる前のアナスタシアの間では共有された情報だったのだろう。

もっとも、条件的に初耳に戻ったはずのアナスタシアは大して驚いていないが、スバルとエミリアの驚きはかなりのものだ。

「えっと、私の勉強した本が正しかったら、ルグニカとヴォラキアってすごーく仲が悪いって聞いてたんだけど……」

「そんな帝国の将軍とか死なせて、戦争とかにならないもんなのか?」

素直で素朴な二人の疑問に、ユリウスは少しだけ安堵の表情で頷いた。

「複雑な事情が入り組んだ結果でね。ラインハルトやフェリスとも無縁の話ではないんだが、端的に言えば元将軍は帝国でクーデターを企んだ。私が彼と相見える結果になったのは、ちょうどその折に帝国に滞在していたからだよ」

「あの二人も、か。ラインハルトって輸出禁止じゃなかった?」

「特例で許可が出た。帝国の皇帝が彼に会いたがった、という事情だ。……いくら君でも、ラインハルトに輸出という言葉はそぐわないと思うが?」

「とっさに言葉が出なかったんだよ。なんて言えばよかった。密輸?」

運び込んじゃいけないもの、という意味では間違った表現ではあるまい。実際、プリステラで改めてラインハルトの規格外さを実感した身としては、他国の主戦力にラインハルトがいることの悪夢は想像に難くない。

国境付近にくるな、と国際条約に盛り込まれるのも納得である。

「とにかく、その元将軍の名前がバルロイ・テメグリフだ。すまない。原則、事情を明かすことは禁じられていたのと、私自身にとっても苦い記憶でね」

「大っぴらに言えない事情なわけか。わかった。お口にチャックしておく」

「ん、わかったわ。私もお口にちゃっく? しておく」

ユリウス側の事情が判明して、スバルとエミリアは秘密の共有に合意する。

そうして、ユリウスの『追体験』した本の人物が明らかになったことで――、

「わかった気がするのよ。つまりここにある本は、読んだ人間が『見知った相手』の過去を追体験する本かしら」

「俺が『魔女』で、ユリウスが元将軍か。それが妥当、っぽいな」

「なんや、聞き逃せない単語が聞こえた気がするんやけど、ナツキくん、魔女とも知り合いなん? いややわぁ、その交友関係。完全に魔女教やん」

「俺も自分で超怖いけど、あそこまでキャラ濃くないから安心して。無個性なのが最近の悩みなんだ」

アナスタシアの言葉にスバルが肩をすくめる。と、エミリアやベアトリス、挙句の果てにユリウスまで酸っぱいものを食べたような顔をする。

その心外な反応にスバルが顔をしかめていると、アナスタシアが嘆息して、

「おおよそ、書庫の本の意味はわかった。わかったけど、ウチの怖い話してええ?」

「あんまり聞きたくねぇけど、なに?」

「この書庫にある本、全部に人名が書いてあるわけやろ?」

わかりきったことを言って、アナスタシアがスバルに同意を求める。その設問に答えたあとの、次なる言葉が怖いと思いながらスバルは頷いた。

そして、アナスタシアは『バルロイ』の本と、ベアトリスが持つ『テュフォン』の本を指差して、

「帝国将軍さんと、ナツキくんのお友達の『魔女』の本」

「友達ではねぇけど」

「オトモダチの『魔女』の本まであるってことは、故人の本があるわけや」

「――――」

テュフォンの状態を故人、と呼ぶことには違和感が残るが、墓所から茶会の空間が消失した今、彼女らは完全に死亡したと考えるべきなのだろう。

エキドナに関しては、襟ドナ含めて怪しい点が多すぎて安心できないが。

そんなスバルの内心のささくれは別として、アナスタシアはその場で両手を広げると、ぐるりと回りながら書庫の全域を示して、言った。

「ここにある本、過去から今に至るまでの世界中の人間の名前があるんとちゃう? そうやとしたら……目的の誰かの本を探そなったら、どれだけかかるんやろね?」

――訂正。この書庫の創造主、性格が悪いわけではない。

――性格、最悪なのだ。

作中、ユリウスの語った『帝国マジ最悪だった外交』のお話は、月刊コミックアライブ内で連載中の短編連作の方で描いた内容になります。

特に知らなくても問題ありませんが、毎月、作者は死にそうになりながら2万字ばかり書いているので、探して読んでみると面白い&嬉しいです。

告知告知。

第六章24 『へそ曲がりの試験官』

――女、一人の女がいた。

女は感情的だった。女は常に泣いていた。痛みに敏感で、常に泣き続けていた。

嘆き悲しむ理由は一つ、自分の無力が許せなかった。

女の周りには常に争いが、戦いが、奪い合いが満ち溢れていた。

何度声を上げても、どれだけ縋ったとしても、自分が泣こうと喚こうと、その悲しみは決して終わろうとしなかった。だから女は運命を呪った。

運命を呪って、呪って、呪った挙句に女は気付く。いくら泣いても無駄なのだと。

それに気付いた女が次に欲したのは、ただひたすら純粋な力だった。

他者を圧倒し、全てを薙ぎ払う力を欲し、女は自分を限界に投じて痛めつけ、得られる限りの力を得んと、求める限りの強さを極めんと奔走した。

必要なのは、傷付ける力ではない。奪う力、そんなものでもない。

誰も追いつけないほど、圧倒的な強さを求めた。それが戦いと止めると信じた。

涙を流し続ける女は、泣かずに済む力が欲しかった。

力と力がぶつかり合う戦いを、無力なままでは止められない。

声は届かない。願いは叶わない。嘆きは遠ざけられ、悲しみが空を覆っていく。

何故、平気でいられる。何故、他人を傷付けられる。何故、傷付けられたままで生きようと思える。何故、何故、何故、別の道があると思えない。

「子どもが泣いてる。お年寄りが泣いてる。男が泣いてる。女が泣いてる。みんなが泣いてる。なのに、どうして――!!」

それを止めるために、ひたすらに力を欲した。

己を鍛え上げ、どんな苦痛にも耐えて鋼の意志を貫徹した。

やがて女は到達する。無双の力に、他を寄せ付けない圧倒的な境地に。

戦場に立った女は、戦いをやめろと声高に叫ぶ。

全ての力を力でねじ伏せ、全ての嘆きを力で押し潰し、あらゆる悪意を力で叩きのめして、流れる涙を止めるためだけに奔走した。

剣を握るものを殴り、魔法に頼るものを蹴りつけ、牙を剥くものを砕き切り、戦いを求めるものたちを一人残らず粉砕する。

だが、女が抗えば抗うほど、強ければ強いほど、剣も魔法も牙も数を増す。

それはまるで螺旋、戦いの螺旋だ。

力に力で対抗する以外に、誰も自分を生かす答えを持っていない。

だから誰も、戦って勝ち取る以外の道があると知らないのだ。

「どうして――!!」

そう思う自分も、結局は暴力を振るっている。

血濡れの拳を下げて、返り血に塗れたまま天を仰いで、女は慟哭した。

戦いは止まらない。努力も奔走も全ては無駄で、彼我の涙は決して止まらない。

止まらず、走り続けてきた女の胸に、ついに絶望が去来した。

涙が流れた。溢れ出た。

止まらず流れ続けていた熱い涙ではない、冷たい無力と失望の涙が。

しかし、同時に、湧き上がる別の感慨があった。

胸の内をどす黒く染め、それ以上に視界が真っ赤に、頭が白くなるほどの激情。

その感情の正体を、泣きながら女は知ることになる。

その感情の名前を知って、その感情の始まりを知って、女は理解する。

自分はずっと、悲しくて泣いていたのではない。

ただただ、自分はずっと、怒り狂っていたのだ。

その感情の名前を、人は怒りと――否、これを人は『憤怒』と呼ぶのだ。

涙を強要する世界に、戦いをやめない人々に、いつか必ず終わる命の理不尽に。

――鉄拳を、喰らわせてやろう。

いつしか女は立ち上がり、汚れた膝の土を払い、再び走り出していた。

まだ戦いを続ける人々のど真ん中に飛び込み、その顔面を殴り飛ばし、叫ぶ。

戦いをやめろ。空を見ろ。風に聞け。花を嗅げ。家族と、恋人と生きろ。

女の声に、初めて戦場に動揺が走った。

大地が割れるほどの拳、空が唸るほどの蹴り、その全てが人を生かした。

傷が塞がり、悲鳴が止まり、温もりに膝が折れ、戦いに意味はなくなる。

命は日常に回帰し、泣き喚く声が戦場から消える。

人々の涙は止まった。人々は女に感謝した。声を上げ、手を振り、笑って。

だがそのとき、すでに女の姿はどこにもない。

当然だ。

女にはまだやるべきことがある。振り返る暇も、足を止める理由もない。

誰も泣かない、争いのない、何も奪われない、そんな世界を求めて。

走り、走り、走り続け、女は拳を振るい続ける。

いずれ全ての涙が止まるまで。自分の頬を濡らす、熱い雫が止まるまで。

――『憤怒の魔女』は悲しみへの怒りを燃やし、ずっとずっと走り続けた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

また一つ、知り得る死者の本を見つけて、現実にスバルは回帰する。

開いた本から流れ込んでくるのは、本に記される名前の人物が生前に駆け抜けた戦場と掲げた信念、そのほんの表層に過ぎない一部分。

そうわかっていても――、

「……重い」

ズシリと、胸の内側に形のない鉛が溜まっていくような感覚がある。

人間の一生、どんな人間であれ、一秒は一秒、一分は一分、一年は一年だ。その人生の濃度を測る物差しなどなく、故にこそ時間は常に平等に流れる。

そんな時間の積み重ねを、こんな薄っぺらい紙に書き残しただけの文章や、特殊な技術を用いた記憶の転写で伝えきれるはずもない。

それでも、たかだか触りの部分に過ぎなくとも、スバルは流れ込んでくる意識に自分が引きずられないように耐える必要があった。

それほどまでに、人の足跡というものは大きく、重いものなのだ。

「スバル、大丈夫?」

「……ああ、大丈夫。平気だ。少し、頭がふらっとしただけ」

「それ、大丈夫って言わない……」

開いた本を閉じて、本棚に戻すスバルをエミリアが思わしげに見つめる。彼女の視線に片目をつむり、スバルは今しがた戻した本を指差して、

「また一冊、魔女の本を見っけた。今度のは、まぁ、魔女の中ではマシな方の子の本だよ。やっぱり、ちょっと変な子だったけど」

「変な子……セクメト?」

「あれはだいぶ変な人だろ。って、セクメトのことは知ってんだ?」

『聖域』の墓所、夢の茶会でエミリアも魔女エキドナと出くわしたはずだが、エキドナ以外の魔女との接点については聞いていない。あるいはエキドナは、スバル以外には他の五人を会わせなかったのではと思っていたので、エミリアの口からセクメトの名前が出たことには驚きがあった。

『怠惰の魔女』セクメト、赤紫の髪を伸ばし放題にしていた自堕落な女性だが、振る舞いはともかく人間性は魔女の中で最も常識寄りの人物だった。

「セクメトを知ってるなら、他の魔女は? 例えば、この本のミネルヴァとか」

「ううん、ごめんね。私、エキドナとセクメトの二人としか墓所では会ってないの。セクメトとも、ちょっとだけしか話してないし」

「そっか。いや、別にいいんだ。仮に知ってる相手だったとしても、あんまり見て気分のいいもんじゃないからさ」

しゅんと項垂れるエミリアに苦笑して、スバルは本棚の側面を軽く叩く。

死者の生前の記憶を封じ込めた書棚は、木製とも鉄製ともつかない不思議な素材でできており、スバルの掌を受けてもびくともしていない。

現在、三層『タイゲタ』の書庫を荒らすスバルたちは、書棚に収まった無数の本が死者の記憶を呼び起こすものと理解した上で、地道な捜索活動を続けている。

何を探すための活動なのか、それはいたって簡単だ。

「それにしても、上の階に上がる階段ってどこにあるのかしら」

「今のところ、手掛かりゼロだからなぁ……」

首をひねるエミリアと、反対側に首をひねってスバルは嘆息する。

今、一同が揃って頭を悩ませているのが、三層『タイゲタ』の『試験』を越えて、次に出題される問題――ではなく、そもそも二層へ挑戦するための階段の所在だ。

モノリスの展開する白い空間が消えて、『タイゲタ』の大書庫は開放された。

おかげで死者の記憶に触れられるという、人によっては垂涎の技術が用いられた空間に辿り着けたはいいが、

「正味、あんまし今の俺たちには関係ない場所だからな」

スバルたちの欲する情報、それを顔と名前の一致する死者の記憶から、それも能動的に選ぶことのできない記憶から探り当てるのは膨大な時間と運が必要だ。

そのどちらも、現状は期待できない。時間はもちろん、スバルは自分が幸運に恵まれているなどと嘘でも口にする自信はなかった。

「だからたぶん、俺たちの欲しい情報は上にあるはずなんだが」

「なのに、上にいけない。本棚の上にも飛び乗ってみたけど、ダメだもんね」

「エミリアたんって結構、大胆だよね……」

天井を指差して、エミリアが先ほど実演した出来事を回想する。

上へ向かう階段探しに業を煮やして、円状に並ぶ書棚の一番外側――『タイゲタ』の書庫は中心から外に向かって床の段差が高くなる構造のため、最も高い位置にある本棚の上に飛び乗ったのだが、それでも天井に手がつかないほどだった。

ちなみに本棚の上に乗った際、エミリアの短いスカートの裾がかなり大胆に揺れていたのだが、不思議と中が見えない動きになっていたことを記しておく。

そのスバルの遠回しな指摘に、エミリアは自分のスカートの裾に触れると、

「パックに教わったのよ。えーと、女の子らしいお淑やかな護身法……だっけ。それ、いつもちゃんと気を付けてるから」

「パックを褒めたいような責めたいような複雑な気持ちだ。……ま、ともかく」

物理的な手段で強引に上階を目指すのは、エミリアがすでに失敗している。

つまり、階段は何らかの方法で現れるギミック――書庫の出現だけでなく、上階へ上がるだけでもひと手間かかるとはいちいち凝っている。

凝りすぎると挑戦者のやる気を削ぐと思うのだが、おそらく設計者であるフリューゲルはそのあたりも考慮して監視塔を作ったのだろう。憎たらしい。

「親の顔が見てみたい……そもそも、本人の面構えも謎だけど」

「――スバル、少しいいだろうか?」

ぼやくスバルの後頭部に声がかけられる。相手はスバルたちと反対側の書庫を荒らしていたユリウスだ。隣にアナスタシアを連れた彼がこちらへ歩み寄ってくるのを見て、スバルは片手を上げる。

「ん、何か見つかったのか?」

「残念ながら、収穫はないよ。最初の一冊以来、見知った名前の本を探り当てることもできていない。君たちの方も同じ結果のようだ」

「そうでもないわ。スバルはちゃんと、また別の一冊を見つけてふらふらしてたもの。ね、スバル」

「エミリアたんが自慢げだから便乗するけど、そうなんだよ」

「そうか。自愛してくれ」

微妙にしこりの残ったこめかみに触れて、顔をしかめるスバルにユリウスは淡々と顎を引いた。その男二人のやり取りを横目に、エミリアは「だけど」と言葉を継ぎ、

「ユリウスたちも階段は見つけられてないんだ。ホント、すごーく困っちゃう」

「エミリア様の心中お察しします。……ですが、もしもこの書庫が本当に、過去から今に至るまで全ての死者の名前を記録しているのだとしたら、とてもではありませんが我々だけでは手が回りません。もっと多くの、それこそ国を挙げるべき事案です」

人手不足と前置きした上で、ユリウスは真面目腐った顔でそう提案する。

そのユリウスの発言に、スバルも究極的には異論はない。すでにアウグリア砂丘は攻略され、監視塔へ辿り着くだけなら魔獣の巣窟を抜けるだけでいい。それだけでも十分、大冒険には違いないが――、

「以前に比べれば、塔までの道行きは開かれたも同然だ。この不可思議な書庫を有効利用する意味でも、国に報告する価値はあると考える」

「資料的価値は半端じゃないもんな。……お前の大好きな歴史関係の虫食いも、かなり埋まるのは間違いねぇだろうし」

「それはあくまで副次的要素だ」

スバルの茶々に早口で応じて、それからユリウスはしばし沈黙。が、すぐに彼は吐息すると、「いや」と目をつむり、

「それを全く期待していないと言えば嘘になる。すまない。私心があった」

「そんな凹むなよ、私心で動くのの何が悪いんだよ。それで盛大に反省されると、下心百パーセントで行動する俺はどうなるんだよ」

基本、スバルは見返りを期待するし、私心を捨てて使命感で動けるとも思わない。いつでも自分のことばかり、それがスバルの行動理念であり、方針だ。

だからこそ、ラインハルトやユリウスのような高潔の騎士像に近付けないのだが。

「殊更、遠ざけようとするもんでもない。そもそも、俺の記憶にある限り、アナスタシアさんが王様になりたい理由なんか私心丸出しだったぞ。違った?」

「んーん、違わんよ。うち、王様になりたい理由は欲を満たしたいからやもん。結果的にうちの周りにも利益が回る。それだけの話」

無礼か不躾なスバルの物言いに、アナスタシアは気を悪くする風もなく笑う。それから彼女は自分の襟巻きに触れて、その白い毛並みを撫でながら、

「せやけど、そんなユリウスとウチが主従になるんやから面白い。そんな風に思うんやけど、エミリアさんらはそう思わん?」

「個人的には余所の足並みが揃ってないのは助かるから、そのまま音楽性の違いで解散してくれると助かる……痛っ! エミリアたん、痛い!」

「イジワルなこと言わないの。――私は、アナスタシアさんたちのこと、前よりちゃんとわかってないから迂闊なことは言えない。でも、相手がどんな風に立派でも、私は私のやり方で、私の騎士様たちと一緒に頑張るから」

私の騎士様、の部分でスバルの袖を摘まみ、エミリアは胸を張ってくれた。その横顔に胸がいっぱいになって、スバルは鼻から長く息を吐く。

「へなちょこかもしれないけど、負けないわ」

「へなちょこってきょうび聞かねぇな……痛っ! 痛い!」

茶化した途端に腕を抓られて、スバルはエミリアのお仕置きから跳ねて逃げる。そんな二人のやり取りに、ユリウスとアナスタシアは毒気を抜かれた顔だ。

特にユリウスは、直前までの自省する雰囲気でもなくなった様子で、

「……時々、真剣に君たちのことが怖くなる。どこまで本気で、どこまでがそうではない部分なのか見分けられず」

「俺はともかく、エミリアたんは大体真面目で真剣だよ。そこが可愛いだろ?」

「胸に留めておくとするよ」

そうしてユリウスが顎を引くと、脱線した話もひとまず終着駅につく。代わりに本題に引き戻すのは、両手を叩くアナスタシアだ。

「それで、さっきまでのお話に戻るんやけど……人手が足りないから、外から人を呼んだ方がええって話やったやんな?」

「はい、その通りです。現状、砂丘に対する不安は大部分が軽減され、規模の大きな調査隊を塔へ入れることも可能でしょう。上階への道だけに限らず、この書庫で何らかの発見ができれば……」

「それなんやけど、ウチはちょぉ怖く感じるんよ」

「怖い、ですか?」

熱弁するユリウスを遮り、アナスタシアがゆるゆると首を振る。その答えに眉を寄せる自分の騎士に、アナスタシアは「あんな?」と指を立てた。

「人手が増える、そのことはうちも歓迎なんよ。この書庫、見回るだけでも大変なんやもん。特にうちは背ぇが低ぅて、本棚見てるだけで首が痛ぁなるから」

自分のうなじをトントンと叩くアナスタシアは、「せやけど」と続けて、

「本当に、塔の中に大勢が入れるんか疑問やわ」

「――――」

「商売の基本は相手の立場になって考えること。まぁ、商売に限らんと、どんな場面でも役立つ人生の基礎やね。で、それに則って考えてみよか」

「考えるって、相手の立場? でも、誰のこと?」

「この塔を作って、『試験』の準備して、シャウラさんを置いた人……やね。その人の気持ちになって考える。すると、見えてくるやん?」

「性格がひん曲がってるってか?」

「バキバキやとうちは思うよ」

スバルが唇を曲げると、アナスタシアも同感とばかりに頷く。

その言葉に、真面目なエミリアとユリウスは難しい顔だ。が、どちらかといえば性格の悪い側に所属するスバルとアナスタシアは自然と同調する。

アナスタシアの言い分はもっともに思えた。

もしも本当に、性格の悪い人間がこの塔の攻略難易度を上げようとするなら。

「シャウラ! 聞きたいことがある。ちょっとこい」

「お師様ー? はいはーい、今すぐいくッスー!!」

大きく、書棚の向こう側にいるシャウラを呼ぶと、威勢のいい返事があって、すぐに高々と跳躍する人影が目に入る。シャウラだ。

彼女は両腕を伸ばし、長いポニーテールをなびかせながら、満面の笑顔でスバルの胸の中に突っ込んできて――、

「おーしーさーまっ!」

「ひょい」

「んぎゃッス!」

その勢い余った抱擁を、スバルは絶妙な体捌きでかろうじて避けた。

途端、勢いを殺せないシャウラが地面を弾み、床に手足をついたまま恨めし気な顔で睨みつけてくる。

「うー、お師様マジいけずッス」

「いや、今のはお前だから避けたんじゃなくて、勢いがすごかったから反射的に」

「じゃ、ゆっくり近付いたら抱きしめてくれるんスか!?」

「え? 嫌だけど?」

「なんでッスか! あーしのどこが不満ッスか! こんなグラマラスなのに! こんなビッチなのに!」

「ビッチなのかよ。じゃあ、それが理由だ」

不満丸出しに騒ぐシャウラが、すげないスバルの言動にぶーたれる。と、そうして拗ねるシャウラの跳ねた先から、ちょうどこちらへ二人の少女がやってきた。

ベアトリスとメィリィ、外見はともかく、珍しい取り合わせだ。

そんなスバルの考えが視線に出たのか、それに気付いたベアトリスが少しだけメィリィから距離を置く。

ベアトリスと同年代(外見上)なのはペトラもそうだが、彼女に対する接し方とメィリィへのそれとではかなりわかりやすい線引きをベアトリスはしている。

無論、同陣営で好意的な味方であるペトラと、元々どこかからの刺客として送り込まれた上、禁書庫と屋敷の焼失に関わったメィリィを同じに扱うのは無理だろうが。

「そうやって人見知りしてると、いつまで経っても友達ができないぞ」

「いきなり何を言い出したのかしら。それに、途中でシャウラが持ってかれて、おちおち話もできないのよ」

「あー、そっちの話の腰折って悪かった。なんか収穫とかあったか?」

「……特になかったかしら。それに、よく考えたら話ってほどのことでもなかったかもしれないのよ。うん、そうだったに違いないかしら」

「――?」

ぷいっと顔を背けて、ベアトリスがスバルの問いをすげなく切り捨てる。

微妙に頑なな態度にスバルは疎外感を味わったが、そのことをベアトリスに追及するより、崩れ落ちていたシャウラが立ち直る方が早い。

地面に横倒しになっていたシャウラは、腹筋の力だけで立ち上がって屈伸すると、

「ま、お師様がいけずなのは今に始まったことでもないッス。気を取り直すッス。立ち直りの早さはあーしの持ち味ッス」

「その点、実に協力的で助かるよ。時にシャウラ嬢、聞いてもいいだろうか」

「なんスか? お師様じゃない人に、あーしは簡単に口説けないッスよ」

「確かに君は魅力的な女性だが、食事に誘うのは別の機会にしよう。――この塔を取り巻く事情について、いくつか確認したいことがある」

ビッチにあるまじき身持ちの固さを表明するシャウラを、ユリウスが優雅な口説き文句を交えて華麗に躱す。シャウラも、その受け答えは予想していなかったのか、彼女らしくもなく目を丸くして、「あ、はいッス」と素直だ。

「感謝する。では、まず最初に……君は、ここから二層へ上がる階段がどこにあるのかは知っているかい?」

「二層『エレクトラ』の階段ッスか? さあ? あーし、四層から上にいったことなんてねッスもん。知らないッス」

「それはそれで衝撃的な発言やね」

自己申告が事実なら、シャウラが監視塔で過ごした年月は四百年ほどのはずだ。

その間、砂丘の監視に集中して、自分の暮らす監視塔の散策もしていなかったとするなら、さすがにそれは見上げすぎた忠誠心と言わざるを得ない。

正直、お師様扱いされるスバルとしては複雑極まりないが。

「ユリウス、ちょっとええかな」

と、今度はユリウスに代わり、アナスタシアがシャウラと向かい合う。騎士に続いて質問権を主張するアナスタシアは、その浅葱色の瞳にシャウラを映して、

「シャウラさんはアレやろ? 正確にはこの監視塔……やなくて、大図書館プレイアデスの番人って立場やんな?」

「いーぐざくとりぃッス」

「なるほど。したら、ウチの予想やと……四つ。ん、五つかな?」

右手を持ち上げ、五本の指を立てるアナスタシア。その仕草と発言に、意図を読めないシャウラはきょとんとした顔で目を瞬かせた。

しかし、

「――シャウラさんが言われてる、塔を守るための内緒の決まり事。五個と違う?」

「――――」

はんなりと微笑するアナスタシアの言葉に、シャウラは初めて絶句した。

目を見開き、肩を跳ねさせたその反応は、言葉よりも明快に、アナスタシアの疑いが事実であると示していたのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「そもそも、あーしは別に隠し事してたわけじゃないッス。ただ、聞かれないから言わなかっただけッス。そこのところ、ちゃんと書面に残してもらいたいッス」

「いいから、全部話せ」

アナスタシアに秘密を看破され、あたふたするシャウラの弁明をスバルが潰す。

その強硬な姿勢に、シャウラは自分の両手の指をそれぞれ突き合わせ、

「例えばの話ッスけど、お師様たちがあーしに内緒で塔を出ていこうとかしたら、あーしはもう容赦なくぶっ殺すッス」

「すげぇいきなりだな!?」

「別にやりたくてやるわけじゃないッス! 例えの話ッス! そもそも、これはあーしにとって逆らえない問題なんスよぉ」

まさかの敵対宣言にスバルが目を剥くと、シャウラは長身を小さくして首を振る。ぺたんと座って膝を抱えるシャウラは、その豊満な胸を自分の膝で潰しながら、

「あーしがお師様をぶっ殺すなんて、そんなのできるわけないじゃないッスか。あーしの方がぶっ殺されて終わりなのに、メチャメチャしんどいッス……」

「そんなに嫌なら拒否すれば……まさか、契約とか言い出さないだろうな」

嫌な予感がして、スバルはシャウラにその単語を口にする。

そもそも、最初からシャウラの素性について考えていれば思いつく話だ。四百年前から塔にこもり、『賢者』の代わりに魔女の封じられた祠を見張る番人。

そんな気の長すぎる役割を任され、その上、実際に数百年の期間にわたって指示を守り続ける。――寿命も在り方も、人間的なそれではない。

「お前も、ベア子みたいに精霊なんじゃないか?」

ありもしない約束を理由に、四百年間、禁書庫に縛られていたベアトリス。

その彼女と同じように、シャウラもまた四百年、監視塔に近付くものを次々に仕留めながら、条件を越えられるものが辿り着くのを待っていたのだとしたら。

あるいは彼女も、ベアトリスと同じ存在――。

「なわけないじゃないッスか。精霊とか、そんなフワフワした連中と一緒にされたらたまったもんじゃないッス。断固拒否……なんか、急にみんな目が怖いッス!」

「この場の面子、八割が精霊と関係あるからな!」

なにせ、未熟な人間も含めて精霊術師が三人。さらに精霊そのものである幼女が一人と、暫定精霊に体を乗っ取られている人物も一人。無関係なのは階下で待っている鬼の姉妹と、何故か悪戯っぽい顔でシャウラを眺めるメィリィぐらいだ。

シャウラの言い分は、そんな一同にとって快いものではない。

ただ、

「それならそれで、お前はなんなんだよ。精霊でもないんなら、そんな必死になって契約を守ろうとする必要ないだろ」

「何言ってるの、スバル。精霊でも精霊使いじゃなくても、約束したんなら守らなくちゃダメに決まってるじゃない。約束は大事。はい、繰り返して」

「いや、今のは俺が悪かったけど、言葉の綾で……」

「約束は大事。さんはい」

「約束は大事約束は大事約束は大事」

思わぬところでエミリアの叱責を受け、三回繰り返して許しを得る。

ともあれ、スバルとエミリアのとんちきなやり取りは余所に、シャウラの頑なな姿勢はまったく以て理解し難い。

本当に、メチャクチャ義理堅いというだけの話とは思えないのだが。

「今、大事なのはシャウラ嬢が何を命じられているか、だ。話が大きく脱線していくのは君の悪い癖だぞ。意識した方がいい」

「あたかも俺が全て悪いかのように……わかったよ! 俺が悪かったよ! 俺が悪かったのは認めるから、それはそれとしてキリキリ吐けてめぇ!」

「わー、完全に八つ当たりッスけどそれでこそお師様ッス。話すッス」

情けない顔で詰め寄るスバルに、シャウラはご満悦な様子で手を打つ。と、それから彼女は咳払いして、妙にかしこまった態度で「では」と口を開いた。

「不肖、あーしが言われてることを簡単ながらお話させていただくッス。まず、大図書館プレイアデスの挑戦者は、もう絶対に外に出さないッス」

「いきなりどうしようもねぇぞ」

「大丈夫! ちゃんと抜け道があるッス! たーだーし、ちゃんと大図書館の『試験』を解き終えて、一層『マイア』までいけば問題ないッス。オールOKッス」

親指を立てて、グッとサムズアップするシャウラ。

「ちなみに、この条件に違反した場合、あーしは血も涙もないキリングマシーンに早変わりするッスから、お師様との約束は無効ッス。手出しするッス」

「俺との約束より優先度上ってか。傷付くわー」

「おおー、お師様を傷付けるのに成功するなんて、あーしも腕を上げたッス! これは進化に違いないッス! 四百年の集大成ッス!」

「皮肉だよ!」

「あーしもッス!」

鋭く言い合い、それからシャウラは二本目の指を立てて、立てた指をリズミカルに揺すりながら「続きましてー」と言葉を継ぐ。

「もう飽きたんでポンポンいくッス。一、『試験』を終えずに去ることを禁ず。二、『試験』の決まりに反することを禁ず。三、書庫への不敬を禁ず。四、塔そのものへの破壊行為を禁ず。五……あー、五は……あー、ないッス」

「全部で四個の決まり事……だけど」

どうにも歯切れの悪いシャウラの言葉を引き取り、エミリアが思わしげな顔つきでスバルたちへ振り返る。彼女の抱く不安と懸念、それにスバルも首肯した。

シャウラの口にした内容は、おおよそ、守れる範疇の問題だが、気になることがいくつかある。特に問題になるのは――、

「『試験』の決まりに反するのを禁ず、ってのは気になるな」

「何か、我々の知らない決め事が裏に隠されているということになる」

顎に手を当てるスバルに、ユリウスも同意見の様子だ。

三層『タイゲタ』の『試験』、少なくともモノリスを用いたアステリズムの問題に関して、スバルたちはそれらしい決め事の指摘を受けていない。

しいて言えば、間違ったモノリスに触れた途端に失格扱いされたことだが――。

「決め事、決まり……なんや、いやぁな響きに聞こえるんよね」

「……墓所の『試練』は、失敗すると次の日まで挑戦できなくなった。それって、さっきの『試験』のやり直しにちょっと似てるけど、もしかしたら」

そこで言葉を切り、エミリアは躊躇うように唇を噛む。震える紫紺の瞳がちらりとスバルの方を見て、その視線にスバルは頷き返した。

「思いついたことがあるなら話してくれ。何言っても馬鹿にしたりしないから」

「うん、わかった。あのね、スバルとアナスタシアさんも言ってたけど、この塔を作った人はすごーくイジワル……でしょ?」

「言葉の選び方が可愛らしぃなってるけど、そやね。それで?」

「相手の立場になって考えるのも大事。つまり、すごーくイジワルな人の気持ちになりながら、今のシャウラの言ったことを考えると、こうじゃないかなって」

全員の視線が集中し、エミリアはそこで一度、自分の唇を舐めた。それから、彼女は両手を重ねて、その指先を天井に向けると、

「守らなきゃいけない決め事、それなのに決め事の内容がわからない。……それ自体、イジワルなんだって思わない?」

「……つまり」

「決め事の内容を想像しながら、それを破らないように進めってことかもって」

「――――」

エミリアの不安げな言葉に、スバルたちは顔を見合わせた。

その反応にエミリアは長い睫毛に縁取られた目を伏せ、

「エキドナだったら、そういうことしそうだなって」

「……エミリアたんも、性格悪い奴でパッと思い浮かぶのはあいつか。気が合うね」

補足に付け加えられた一言が、少なくともスバルにとっては信憑性を増す。

エミリアの慣れない、性格の悪い人間的な発想――そしてそれは、かなり正しいのではないかとスバルには感じられた。

破ってはいけないルールを設け、その内容を挑戦者に明かさない。

なかなか、性格も趣味も悪い仕掛けだ。

「ちなみに、この決まり事を破った判定ってお前がするのか?」

「なんかわかるようになってるらしいッスよ。今、言った条件のどれが破られても、あーしにはそれがわかるらしいッス。だから、誤魔化せないんス。――あーしのことも、お師様たちのことも、絶対に」

言葉の後半、やけに神妙な態度で言い切られた声には力があった。

それはシャウラの力量、という意味での力ではない。むしろ、逆だ。

――シャウラに、シャウラほどの力を持つ存在に、言わせるだけの力があった。

「元々、厄ネタだったところにさらに厄ネタが重なっただけだ。今さらだ」

「そう言い切れる君がたまに羨ましい」

吐息をこぼし、そう呟いたスバルにユリウスがそう言った。その美丈夫の横顔をスバルが見返すと、彼は肩をすくめて、

「やはり、常に格上としか相対できない立場がそうした精神を培わせるのだろうか。だとしたら、それは私にはなかなかできない経験の差だな」

「お前はもっと足下に怯えろ。今に、机の角に小指をぶつけるからな。ぶつけろ」

「はいはい、仲良ぅケンカするんはええけど、本題を忘れんとこな?」

スバルとユリウスの間に割って入り、アナスタシアが座るシャウラを見下ろす。

「それでホントに終わりなん? それ以外は大丈夫なんやね?」

「誓うッス。今度は嘘じゃねッス。それに、この決め事が破られない限り、あーしの体はあーしのものッス。間違ったッス。お師様のものッス」

「いらねぇ」

「突き返されたッス! でも、心は常にお師様の傍にあるッス!」

「それもいらねぇ」

腰に手を当てたアナスタシアに再確認されて、シャウラはいらない情報とともに自分の立場をしっかりと表明する。あちこち余計な装飾があるものの、ひとまず、階下でのスバルとの約束――スバルたちに危害を加えない、は守るということだろう。

無論、決め事が破られない間は、という条件付きであるが。

「それにしても、『試験』を終わらせなきゃ外に出られないなんて……なんだか、ますます墓所の『試練』に似てるわよね」

「いや、最悪、敵対するこいつを倒せれば帰っていいんだろ? 墓所より緩いよ」

「お師様はそんなことしないッス! 誰よりも心が広くて優しかったッス! やべ、嘘ついたせいで体痒くなってきたッス!」

嘆息するエミリアとスバルの前で、自業自得のシャウラがばたついている。

ひとまず、シャウラから聞き出すことは本格的にこんなところか。

「お話は終わったあ? もお、裸のお姉さんとくっついてて大丈夫う?」

「終わった終わった。いいぞ、好きにしろ。って、すげぇ懐いてるな」

話の終わりを見取って、それまで蚊帳の外にいたメィリィがシャウラへ駆け寄る。そしてその細い肩にしがみつくと、また背中に上っていた。

完全に塔内での、メィリィの指定ポジションに落ち着いた形だ。竜車を担ぐほど怪力のシャウラにとっては、メィリィぐらいの重さはそれこそ羽も同然だろうが。

「お姉さんの傍にいるとお、なんだかすごく落ち着くのよねえ」

「あーしはまぁ、別に気にしないッス。ちびっ子二号の面倒ぐらい見るッス」

「二号?」

「二号がこっちのちびっ子で、一号があっちのちびっ子ッス」

メィリィを肩車したまま、シャウラは一号と称してベアトリスを指差す。

そのシャウラのかなり無礼な発言に、ベアトリスは何の反応も示さない。普段であれば顔を赤くして、シャウラに食って掛かるのが彼女の性格なのだが。

「ってか、さっきも話に全然混ざってこなかったし、どうかしたのか?」

「――――」

「ベア子? おーい、ベアトリス。しゃんとしろ。おでこにキスするぞ」

「……勝手にすればいいのよ」

「――――」

聞いていないわけではないのか、スバルの言葉にそんな気のない返事だ。それが面白くなくて、スバルは眉を寄せる。

それから、

「むちゅー」

「んぎゃーかしら!?」

なんか腹が立ったので、本当に額にキスしてやると、途端にベアトリスは我に返り、口付けされた額を押さえたまま大きく飛びずさる。転ぶ。立ち上がる。転ぶ。

「動揺しすぎだろ……」

「な、な、な、何をいきなりしているのよ!? 脈絡なさすぎるかしら!」

「脈絡はあったし、お前の許可も取ったよ。お前、ホントに大丈夫か?」

額を必死で擦っている姿に多少傷付きながら、スバルは少女のことを心配する。

考えてみれば、ここは曰く付きの砂丘の真ん中にある塔だ。スバルにはよくわからない瘴気やらなんやらが漂っているはずだし、それが原因かもしれない。

「調子悪いなら俺と手繋いでろ。それで落ち着くだろ」

「この流れでは無理なのよ! ちょっと落ち着く時間を寄越すかしら!」

顔を赤くして、ギャースカ喚くベアトリスにスバルは肩をすくめた。手を繋ぐのまで拒否されたのはちょっとショックだが、これで普段通りの彼女の態度だ。

何か心配事でもあるのなら、また機を見て聞き出すとしよう。

「さて、そうなると、あとの問題は……」

「結局、二層への階段の所在は闇雲に探す以外にないということか」

改めて、書棚に向き直るスバルの言葉をユリウスが引き継ぐ。

わずかに消沈して見えるのは、人手が必要とした彼の考えが、シャウラに命じられている決め事によって半ば頓挫したからだ。

『試験』を終わらせなければ、塔から外に出ることは認められない。当然、人を呼ぶために砂丘へ戻ることも許されないということになる。

故に、捜索は今の面子で続ける以外の選択肢はない。

「砂丘に落とした金の粒を探す気分、って言ってわかるか?」

「君らしくもなく詩的な表現だが、素直に同意できるね」

スバルとユリウスが珍しく、目の前の難題に対して素直に意気投合する。

このまま身構えていても埒が明かない。さっさと、この本の海に身を投げ、上へ向かうための方法を模索せねば――と、思ったところだ。

「ねえ、私、少しだけ思ったんだけど」

意気込みも新たに書庫へ臨もうとする二人に、エミリアが小さく手を上げる。

振り返る二人に彼女は首を傾げ、その唇に指を当てると、

「性格の素直じゃない人が、塔を作ったってところでずーっと考えてたの」

「言葉の選び方が可愛らしぃなってるけど、そやね。それで?」

先ほどのリフレイン、まるで繰り返しのような錯覚に襲われるやり取りの最後に、エミリアは「だから」と付け加えて、

「階段の場所なんだけど、ひょっとして――」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「やっぱり、この塔作った奴の性格、クソ最悪だな!!」

高く長く伸びる階段――二層『エレクトラ』へ向かうそれを前に、スバルは堪え切れない怒りを盛大に吐き出した。

二層への階段、エミリアが思いついた、その隠し場所は――、

「四層とか五層の、今まで見てないところに出てくるかもって思って」

当たって嬉しいような複雑なような、そんなエミリアの言葉。

彼女の推測はばっちり当たって、二層への階段は四層の、ラムやレムの待っている緑部屋のすぐ隣室――その空白のスペースに出現していたのだった。

リゼロEX 『ゼロカラカサネルイセカイセイカツ』

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

これは毎年恒例のエイプリルフール企画!

本編ではなく、IF世界のお話になります!

内容は『Re:ゼロから始める異世界生活』第四章74からの分岐となりますので、まだそこまで読んでいない方は注意してください。

なお、本編とは全く異なる世界のお話ですので、キャラクターたちの関係性など大きく変化していますが、ご了承ください。

それがわかった上で楽しめる方だけ、どうぞ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

夢、夢を見ていた。

薄らがない夢を、繰り返される夢を、終わらない夢を、終わらせない夢を――。

幾度も重ねて、幾度もやり直して、幾度も誤って、幾度も正して。

千回、紡いで。万回、繋いで。億回、超えて。いつしか、数えること忘れて。

苦痛があり、驚愕があり、混濁があり、破滅があり、憎悪があり、狂乱がある。

摩耗し、揺すぶられ、ねじ曲げられ、退廃し、慟哭させられ、心を砕かれる。

それでもなお、届きたい場所があって。

それでもなお、守りたい願いがあって。

繰り返し、重ねられる悲劇の形を誰が知らなくても、忘れないために。

たとえ誰も気付くことがなくても、自分だけは忘れ得ないように。

――たとえ、救いたい相手が泣いたとしても、救いたい。

だから、その手を取ったことに、今も悔いはない。

悔やむことがあるとすれば、その手を取ることに躊躇いと迷いを抱く、自分の弱くて脆くて、鋼に届かない心が、悔しかった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――虚ろな夢から目覚めたとき、最初に感じるのはいつも鈍い頭痛だ。

「――――」

睡魔の指先に抗いながら目を開き、何度か瞬きして意識を浮上させる。

ぼんやりと、意識には曖昧な霧がかかったままだが、血の巡りが悪いのはほんの数秒のことだ。すぐに意識は眠りから剥離し、覚醒が肉体に活動力をもたらす。

「ぁ、あー」

そうした肉体の目覚めと裏腹に、その口から漏れ出すのは間延びした声だ。

一見、寝惚けているようにも思える行いだが、これも朝の大事な儀式の一つである。仰向けに転がったまま、こうして声を出すことでいくつもの情報が流れ込んでくる。

声の調子、自意識の確立、手足の無事、記憶の整理、日課の運行、命の有無――。

決まった行いを毎朝、必ず行うことでそれらが確かめられる。

それこそが、ナツキ・スバルが大過なく朝を迎えられたことの証明になるのだ。

「ふぁ」

欠伸とともに掛布団をどかして、上げた足を振り下ろす動作で上体を起こす。

乱暴に頭を掻きながら周りを見れば、それは見慣れた一室――それなりに豪華な調度品と、天蓋付きのベッドが置かれた自室の内装が飛び込んでくる。

ただし、スバルが目覚めたのは天蓋付きのベッドではなく、部屋の奥に置かれたソファの上だった。そこで布団にくるまり、丸まって夜を明かすのがこのところの――否、この数年のナツキ・スバルの就寝習慣である。

とはいえ、寝台で眠らないことにはそれほど大きな理由はありはしない。

ただ単に少しでも、寝心地のいい環境を用意しようと苦心しているだけだ。そんな試行錯誤の結果、寝台で眠るより、ソファで寝ることに安堵感を覚えることを学んだ。

以来、そうしている。それだけの話である。

「――――」

目を擦りながら、その寝床にしているソファから降りると、スバルは身支度を整えるために洗面所へ向かう。寝室と隣り合わせの洗面所で顔を洗い、濡れた顔を鏡に映してじっくりと自分の顔を観察する。

疲労感の残る顔つきと、どこか虚脱感を思わせる眼差し。だらしなく気抜けした頬も相まって、三拍子欠けて腑抜けていた。

その面構えを引き締めるために、スバルは自分の頬を両手で思いっきり叩く。

乾いた音と痺れる痛みに涙が浮かび、それを押し流すように冷水を顔に浴びせる。そして再び濡れた顔を鏡に映し、顔つきと眼差しと頬を入念にこねながら、念じる。

「笑え、俺。できなきゃ、死ね」

魔法の呪文を唱えて、それからスバルは口元を歪めた人相の悪い笑みを作る。

白い歯を見せ、三白眼を細めた笑顔は、十八年以上も付き合いのある自分の悪人面だ。目も表情も顔色も、問題なく『擬態』できている。

「よーし、よし、キープだ」

その笑顔を確認して、スバルはタオルで顔を拭くとさっさと服を着替えにかかる。

屋敷で過ごすとき、スバルの格好は使用人の制服――ではなく、それなりに格調高い貴人の礼服だ。とはいえ、堅苦しい上着は脱ぎ、白いシャツの袖をまくったラフなものに着崩している。だが、そうした対外的に相応の格好が今は当然のように求められる。

それらはどうにも息苦しいが、仕方のないことでもあった。立場に相応しい格好をすることは義務であり、それはスバル自身が望んで得た立場であるのだから。

「そろそろ、いつもの時間になっちまうな」

着替えが終わり、部屋の扉の上に備え付けられた魔刻結晶を見上げ、そう呟く。

濃い緑色に発色するそれは朝の到来、そして予定起床時間を間近にしたことを示していた。どうやら、今朝は少しばかり、笑顔の形成に時間をかけすぎたようだ。

あと数分もすれば、時間に几帳面な少女が定刻通りに部屋の扉をノックするだろう。

その前に、済ませるべきことを済ませなくてはならない。

「――――」

意識を切り替えると、スバルは自分のシャツの胸元をはだける。そこには就寝中も外されずにあった、『黒い結晶』を細いチェーンで繋いだペンダントが下がっている。

妖しくきらめく黒いクリスタル、それを掌に握り込み、スバルは目を閉じた。

冷たく硬い結晶石の感触――それはスバルの掌に包まれると、途端に熱を持ったかのように存在感を増し、まるで生物であるかのように脈打ち始める。

自然、掌中で発生した奇妙な鼓動、そのリズムと回数を無意識が数え始める。

全力で走ったあとの脈拍よりも早く、高く鼓動を打ち続ける結晶石。その脈動はいつしかスバル自身の心音と重なり、心臓の鼓動と結晶石の脈動が等しくなった。

それを脳が理解したとき、スバルの意識は肉体の頸木から解放されて、現実ではありえない別の空間へと誘われている。

瞬間、世界から音も気配もなくなり、代わりに眩い光が意識を包み込んでいた。

「――――」

光に塗り潰された意識、それがゆっくりと覚醒に導かれる。

閉じていた瞼を開けば、降り注ぐのは目に沁みるような陽光だ。そして、瞬きする眼前に広がっていたのは、風の吹き抜ける壮大な草原だった。

広い、どこまでも続く緑色の草原だ。

見渡す限りに草の海が続いており、背の低い草の群れは穏やかな風に柔らかになびく。頭上、空には雲一つない晴天があり、注ぐ陽光は宝石のようにきらめいていた。

空の青と大地の緑が延々と続き、それらははるか遠くの地平線で薄く交わる。現実感の欠けた夢幻の世界に相応しい、悠久と思える静寂がそこにあった。

壮大で、澄み渡り、何もない空間。――そんな世界に一つだけ、異質な部分がある。

「――――」

草原の中心、そこに立つスバルが振り返れば、そのすぐ背後にはなだらかな坂があり、それは小高い丘へと続いている。

丘の上にはささやかな花園があり、その可憐な花々のすぐ傍には日の光を受けるパラソルと、白いテーブルが存在していた。

「――――」

無言のまま、スバルはその丘を上がり、パラソルの下に入り込む。

白いテーブルには湯気の立つカップが置かれていて、陶器の中は琥珀色の液体が温かに満たされていた。

配膳された二つのカップと、テーブルを挟むように置かれた白い椅子。

片方は自分に用意されたものと、スバルは確認も取らずに椅子に座り、まだ淹れたばかりと思しきカップに口を付け、お茶で喉を潤した。

――相変わらず、おいしくもマズくも感じない、妙なお茶だ。

ただ、このお茶に最初に必ず口を付けること。

それがこの場所の主と交わした約束であり、奇妙な関係の挨拶代わりでもあった。

ただし――、

「あー、飲んだ飲んだ、ごっそさん。じゃ、さっさと本題に入ろうぜ」

「――確かに、最初の一口は挨拶代わりも同然とボクが言ったのは事実だよ。だけど、それは決して挨拶しなくても構わない、という意味ではないと思うんだけどね」

お茶を飲み干し、テーブルにカップを投げ出したスバルの一言。その内容に、テーブルを挟んで向かい合う人物が薄く微笑みながら苦情を申し立てた。

その苦言に、スバルは鼻の頭を指で掻きながら、

「……挨拶なんて別に必要なくね? 四六時中、俺の頭の中を観察してるお前にしてみたら、出会ったも別れたも意味なんてねぇだろうし」

「それとこれとは話が別だよ。第一、四六時中、君のことを覗いているだなんて人聞きの悪い言い方はよしてもらいたいな。仮にそれが事実であったとしても、ボクだって花も恥じらう乙女な年頃なんだ。意中の男の子をずっと見つめているなんて知れたら、外聞が悪いにも程があるじゃないか」

「花も恥じらう乙女って、俺の知らない間に言葉の使い方の概念が変わったの?」

「辛辣だね。まぁ、乙女と言い張るには年齢的に無理があるかもしれないけど」

そう言って、相手は苦情の内容と裏腹に口元を楽しげに緩めていく。

すっかり慣れた軽口の交換、相手はスバルの不躾な態度にもかなり寛容だ。――というより、そんな言葉の応酬さえも楽しんでいる、そんな様子だった。

そうして微笑まれることに、スバルの心には歪な罪悪感が募らずにはおれない。

かといって、どんな風に接することが正解なのか、それさえもわからない。目の前にいる相手にだけは、その最適解を突き止める手段が全く通用しないのだから。

「やっぱり、お前は嫌な女だな」

「それは嬉しいな。優しくて欲深い君にとって、凡百の好ましい誰かになるよりも、君が救いの手を差し伸べる価値を見出さない無関心な誰かになるよりも、君の心を残酷に傷付けて、抜けない楔を突き刺す憎らしい誰かになる方が、ずっとボクには喜ばしい」

すっかりこなれた相手には、皮肉も嫌味も通用しない。

その返答にスバルは嫌そうな顔で鼻を鳴らしたが、それはますます相手を喜ばせる結果になっただけだった。

「さて、これ以上、君の反感を買って嫌われるのも心が痛む。そろそろ、今朝の逢瀬の目的を果たそうじゃないか」

「嫌われるのは本望じゃなかったのか?」

「女の子の可愛い強がりってやつだよ。そのぐらい、見抜いて受け入れてほしいな」

「可愛い……?」

心底、疑わしげに首を傾げるスバルに、相手は微苦笑した。

そして――、

「本当に、君はどこまでも物怖じしない人間だ。『強欲の魔女』として、そんなところが気に入っているよ。――ナツキ・スバル」

契約者が自らに相応しいことに、『強欲の魔女』は。

エキドナは嫣然と目を細めて、心から嬉しそうに微笑んだ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「今日はキスダムの月、十四日。……それは間違いないよな?」

「安心してくれていい。君は昨夜、何事もなく眠りにつき、今朝も何事もなく目覚めた。一晩の間に最悪の事態は発生していない。そう心配しなくても大丈夫だよ」

「馬鹿言えよ。そうやって何もないと思って眠って、朝起きたら死んでたことだってあるんだよ。いつどこで死ぬのかなんて、どれだけ気張っても足りるもんかよ」

魔女の楽観に舌打ちして、スバルは絶望的な喪失感を味わった『死』を思い出す。

ただ漫然と、必ず訪れると疑いもしなかった明日――それが何の前触れもなく奪われ、唐突に『死に戻り』した事実と、親しく過ごした人々に忘れられた現実、それがどれだけの恐怖と失望をもたらしたことか、忘れられるはずがない。

「そうだね。今のはボクが軽はずみだった。謝るよ」

「……いやに素直だな?」

「悪いと思えば謝りもする。ボクはそれほど物分かりの悪い女じゃないって、それは君にもきちんと見せてきたつもりでいるんだけどね」

過敏に反応してバツの悪いスバルに、そう言ってウィンクするのは黒い服の少女だ。

その少女のことを語ろうとするとき、最初に目につくのは目を奪われ、心を絡め取るような魔性の美貌と、その美しさをたったの二色が表現する驚愕の事実だ。

長く、雪のように美しい白髪は腰ほどまでに伸び、細くしなやかな肢体は黒い喪服のようなドレスに包まれている。椅子に腰掛け、長い足を組んだ姿にはどこか退廃的な色気が漂っており、薄い唇がカップの液体を嚥下する姿には異常にそそる艶があった。

それは、無理やりに触れれば滅びを免れないと直感できる倒錯的な魔貌――それにも拘らず、触れようと挑む者が絶えなかった逸話の残る、終焉をもたらす災厄の魔女。

それがスバルと契約を交わした、黒ずくめの白い少女、エキドナの正体である。

「――じー」

「――? どうしたんだい。じっとボクの顔を見つめて。何かついているかな?」

「ああ、目と鼻と口と耳と毛が」

「……何故だろう。当たり前のことを言われているのに、変に侮辱された気分になる」

スバルの受け答えに眉をしかめて、不満げな顔をするエキドナ。その彼女にスバルは「待て待て」と手を上げ、

「別に侮辱とかそんなつもりはねぇよ。ただなんとなく、魔女って前評判のわりにはそこまでビックリ人間でもねぇよなって、そう思ってただけ」

先ほどは退廃的だの倒錯的だの色々と表現したものの、こうして実際に話してみれば、少しばかり癖の強いところはあるが、気さくと言えなくもない普通の少女だ。

無論、魔女らしく歪んだ部分があることは否定しないが。

「ほほう、それはなかなか珍しい意見だね」

と、そんなスバルの感想に、エキドナはどこか楽しげに唇を緩めた。

彼女はカップをテーブルに置くと、長い足を組み直して自分の白髪をかき上げる。

「これでも、ボクは四百年前には色々と各地に逸話を残した魔女の一人だよ。そのボクを捕まえて、普通とは聞き捨てならないね」

「特別扱いに憧れる中学生みたいなこと言い出したな」

「君に、と付け加えるとボクの心情にだいぶ近付くけどね。でも、それだけじゃない。そのことも、君と初めて会ったときに話したはずだよ」

「あー、なんだっけ。確か、耐性がない人だと初見で吐かれる見た目なんだっけ」

「そこだけ切り取られると、ボクの人物像が激しく誤解されている気がするな」

威厳ある魔女の風格が一転、スバルの受け答えにエキドナが拗ねる。

その反応にスバルは「まあまあ」と適当に応じて、ずれた話題の修正にかかった。とはいえ、話す内容は朝の日課としては十分だ。

「与太話に終始してる場合でもない。俺はとっとと現実に戻らせてもらうぞ」

「もういくのかい? もう少しぐらい、ここで時間を潰しても誰も文句は言わないよ。知っての通り、ここで過ごした時間は現実に影響しない。気休めになるならいくらでも……ボクも、それに期待している」

椅子から立ち上がって背伸びするスバルを、エキドナがそう言って引き止める。

その魔女の甘言にスバルは首の骨を鳴らして、

「そうだな。正直、俺もここに長居する選択肢で救われるのはわかってるけど……」

そこで言葉を切り、振り返りざまにスバルはエキドナを見下ろした。

魔女の黒い瞳と、スバルの黒瞳とが真っ直ぐに視線を結び、絡み合う。

だが――、

「俺はそんな風にお前に甘えるつもりはない。そんなつもりの契約じゃないのはわかってるはずだぞ」

「まったく、素直じゃないな。ボクはこの世界でただ一人、君の苦しみも悲しみも共有できる共犯者のつもりでいるっていうのに」

「――俺は苦しみも悲しみも、誰かに預けるつもりなんてない。これは俺だけのもんで、俺だけのもので済ませるのが、俺とお前の契約した理由だ。そうだろ」

拗ねた顔のまま肩をすくめるエキドナに、スバルは低い声でそう断言した。その返答にエキドナは目を伏せ、無言で自分のカップに口を付ける。

それは反論する言葉をなくし、会話を続ける理由もなくしたことの意思表示だ。

それを見届けると、スバルは彼女に背を向け、丘の下へ向かおうと踏み出す。が、その前に立ち止まり、魔女に振り返った。

「ところで、お前、さっき四六時中、俺のこと覗いてるのを否定しなかったよな?」

「……仮に、と言ったと思ったけど?」

「仮にそれが事実だったとしても、って言い方は言外にそれが事実だって認めてる文脈だと俺の国語力は思うんだが」

「――――」

「――――」

スバルの追及に、エキドナは小さく吐息した。そして再びカップに口を付ける。それは会話を続ける理由をなくした意思表示であり――、

「お前、それやれば俺が引き下がると思ってんじゃねぇだろうな。ちゃんと倫理的に問題がある場合、覗き見はストップしてんだろ? な、してるよな?」

「当然じゃないか。ボクだって、君の入浴や用を足す場面まで覗き見るほど下品じゃない。ただ、そうした無防備な場面で何事も起こらない確信がない限り、君の契約者として目を背けるわけにはいかないとも思う。これはあくまで、約定を順守する『強欲の魔女』としての義務感からの行いで……」

「今度から、風呂とトイレに入るときはペンダント外すからな」

早口で言い訳する魔女にそう言って、スバルは羞恥心を噛み殺しながら丘を下った。

丘の下、スバルが最初に草原に出現した地点には、いつの間にか扉が生じている。独立した一枚の扉、それは外の世界への出入りを可能とする唯一の扉だ。

「――――」

扉の前に到着し、ドアノブに手をかけたスバルはなんとなしに振り返る。

すると、丘の上では風になびく髪を押さえ、所在なさそうに立つエキドナがこちらの背中を見下ろしていた。

それを見上げるスバルの視線に気付くと、彼女は少しだけ逡巡し、やがてスバルに小さく手を振る。それに何の返礼もせず、ため息だけ残してスバルはドアを潜った。

――直後、夢の世界に囚われていた意識が解き放たれ、現実へと回帰する。

「――――」

意識が現実に舞い戻ると、スバルは黒い結晶石を握り込んだ姿勢のまま、自室の真ん中で棒立ちになっていた。

長く息を吐いて、扉の上の魔刻結晶に目を向ける。色は緑、輝きに変化はない。

夢の世界で過ごした時間は、現実時間にしてほんの数秒、それが証拠だ。

「しかし、慣れねぇな……」

夢の世界に足を運び、エキドナとの茶会を過ごすのは毎朝の日課だ。

だが、そこから現実に舞い戻り、体感時間と実時間のズレが生み出す違和感は、なかなか容易に脳に馴染まない。『死に戻り』、それともまた異なる感覚だ。

そのことにスバルが嘆息する。と、

『ここは発想を逆転して、慣れないことに慣れるというのはどうだろう。気休めに過ぎないけど、少しは楽になるかもしれないよ?』

まるで耳元で囁かれるように、今しがた別れを告げたばかりの魔女の声がした。

それは実際に耳元で囁かれたわけではない。その声は契約により、首から下げた結晶石を通じて流れ込んでくる魔女の思念波だ。夢の世界へ赴かなくても、スバルとエキドナとは契約によってパスが繋がっている。

そのため、こうして夢の世界から、魔女はスバルに直接語りかけることが可能なのだ。

ただし――、

「用事のないときは軽はずみに話しかけてくるなって言ってあるだろ」

『周りに誰もいないんだ。別に部屋で一人のときぐらい、ボクに構ってくれても罰は当たらないと思うんだけどね』

「うっかり人前で同じことして、見えない誰かと会話してるような痛い奴だと思われたらどうするんだよ」

『その評価は今さらな気がするけどね。それに、精霊使いなんかは契約精霊と思念波で会話することも珍しくない。独り言も、それほど目立たないよ』

「精霊使いの場合はお互い思念波。俺の場合はお前が思念波、俺は独り言。傍から見たら俺の方が痛い」

『はいはい、わかったよ。君のお望み通り、必要なとき以外は黙っていることにする。魔女を言いなりにしようなんて、君はずいぶんと亭主関白なんだな』

「い・い・か・げ・ん・に・だ・ま・れ」

『やれやれ。御用があれば遠慮なくお声がけください、契約者殿』

声色に怒りを交えてやると、エキドナは芝居がかった言葉を残して引っ込んだ。

それでも、魔女はペンダント越しに世界を覗き見ているはずだが、ひとまずそのことは頭から追い払い、スバルはすっかり癖になっているため息をついた。

今後、ペンダントは風呂とトイレのタイミングに必ず、尻ポケットにでも突っ込んでおくことにしよう。――などと、そう思ったときだ。

「――スバル様、起きていらっしゃいますか?」

部屋の扉が外からノックされて、いつもの起床時間の到来が知らされる。

投げかけられた柔らかな声に、スバルは小さく咳払い。それから頬に手を当て、鏡で確認した笑顔を作れるように意識してから、「おいよー」と気抜けする返事をした。

それを受け、扉がゆっくりと開け放たれると、一人の少女が部屋に入ってくる。

「おはようございます、スバル様。今朝も、気持ちのいい朝ですよ」

そう、微笑みながら言ったのはメイド服姿の少女――スバル付きのメイドである、ペトラ・レイテであった。

出会った頃はまだ幼い蕾だった彼女も成長期に入り、今まさに美しく咲き誇る過程にある。昔と比べて背丈と手足が伸び、可憐なメイド服もますます板についてきた。

その所作や振る舞いも、愛らしい衣装に決して負けていない。元々、彼女は物覚えも要領も良い少女だった。今のペトラはメイドとしても、一流の域に達している。

華の十四歳――すっかり大人びたペトラの微笑みに、スバルも笑顔で応じた。

「ペトラもおはようさん。気持ちのいい朝……そりゃ同感だ。今日も朝からペトラの可愛い顔が見れて、俺も大満足ってもんだもんな」

「また、スバル様ったらそんなこと。……でも、森の向こうの空には雲がかかっていて、午後から天気が崩れるかもしれないみたいです。今日は町にお買い物にいく予定があるので、晴れたままでいてくれるといいなぁ」

スバルの挨拶に小首を傾け、そっと窓の方へ目を向けたペトラがそう呟く。その言葉尻にかすかな幼さの片鱗が残っていて、スバルは小さく噴き出した。

「あ、やだ、スバル様」

「いやいや、今、ちょっとだけ立派なメイドさんの殻が破れてたな。ペトラらしい」

「もう、そんな風に子ども扱いするのはやめてください。わたしも、すっかり大人になりました。メイドの仕事だってもう二年……一人前なんですから」

赤みがかった茶髪を揺らして、ペトラは恥ずかしげに頬を赤らめて唇を尖らせる。そんな可愛らしい妹分の姿に、スバルは笑ったまま少女の頭をぽんぽんと撫でた。

その感触にペトラは幸せそうに目を細め、それから名残惜しげに吐息をつく。

「それで、今朝はどうされますか? まだ朝食には早い時間ですけど……」

「あー、とりあえずいつもの日課だけ済ませて、大丈夫そうならみんなで朝ご飯かな。きつそうなら……とりあえず、いつもの通りで」

「……はい」

スバルの答えに微かに目を伏せ、ペトラは難しい顔をする。可愛らしい少女にそんな顔をさせておくのがしのびなくて、スバルは頭を掻きながら、

「ともあれ、今日もありがとな。わざわざ、起こしにきてもらってさ」

「――――」

「ペトラ?」

「スバル様の、そういうところ、本当に不器用」

話題の転換が下手くそなスバルをそう評して、ペトラは呆れた風に嘆息。それから少女は首を横に振ると、花の咲いたような笑顔を作って、

「いーえ、これもわたしのお仕事ですから。それに、スバル様は寝坊されることがないのでとても楽ちんです。……それはもうちょっと、だらしなくてもいいのに」

「ん?」

「なんでもありません。では、また後ほど。失礼します」

毎朝のお勤め、スバルの目覚まし係を終えて、ペトラはお行儀よくスカートを摘まんでカーテシー。そして、スバルに見送られながら部屋を出ていった。

扉が閉まり、スバルはペトラの成長ぶりに満足げに頷く。

「ペトラも立派になったもんだ。兄貴分として鼻が高いぜ」

『彼女の方は、君のことを兄貴分だなんて思っていないようだけどね』

「……必要なとき以外は黙ってるって言ったばっかりでこれか。魔女様ってのはずいぶんと簡単に約束を破るもんなんだな」

独り言に相槌を打たれて、スバルは沈黙に耐え切れない魔女の辛抱弱さに呆れる。が、すぐに諦めの嘆息を残すと、ペトラの消えた扉に目を向けて、

「俺はあの子の兄貴分だよ。で、ペトラは俺の可愛い可愛い妹分だ。だから、あの子には幸せになってもらうさ。――それは絶対だ」

『絶対、幸せになってもらう、か。……存外、それは恐ろしい言葉かもしれないね』

スバルの硬い声音に、エキドナは茶化すでもなくそう言った。

その魔女の言葉を聞き流して、スバルは軽く伸びをしてから部屋を出る。

屋敷の廊下は早朝の気配に冷え切っており、スバルは身震いしながら、その冷たい空気を肩で切りながら歩き出した。

――毎日の『日課』、それに取りかからなければならないからだ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

この数ヶ月、朝のロズワール邸では壮絶な『殺し合い』が繰り広げられている。

もっとも、それを『殺し合い』と呼ぶのは当事者たちにとっては心外かもしれない。

ただ、その攻防を傍から眺めるスバルにとって、それは『殺し合い』と呼ぶ他にないほど苛烈なやり取りが交わされているのだ。

事実、少なくともぶつかり合う二者の片方は殺すつもりで挑みかかっていることは間違いない。だが悲しいかな、それを相手取るもう一方はその獰猛な戦意を軽々といなす。

その二者の間に存在する実力差は、誰の目にも絶望的なほど明らかだった。

無論、だからこそ、こんな危険な日課が毎朝続けられているのに違いなかったが。

「る、ァァァ――ッ!!」

吠え猛り、中庭の芝生を吹き飛ばす勢いで蹴り足が爆発する。

踏み込み、激しい推進力を得た金色の影が真っ直ぐ猛進、敵影へ獣爪を叩きつけた。

それは分厚い鉄板を引き裂き、人体であれば易々と挽肉に変える非情な一撃――獣爪は無数の連撃となって荒れ狂い、獲物の逃げ場を封じるように襲いかかる。

しかし――、

「残念だけど、隙が大きいな」

「が、ァ――ッ!?」

降り注ぐ致命的な獣爪の乱舞を、影は最小限の身躱しで避け切る。直後、一声とともに長い足が跳ね上がり、獣の胴体が真下から穿たれた。

その一撃に苦悶の声が上がり、仕掛けた側の体が真上へ打ち上げられる――、

「が、づォ――!?」

――はずだったが、そうはならない。

真上へ突き上げられる体が、それを迎え撃つように振り下ろされる踵に迎撃されて地面に激突する。その衝撃は芝生の地面に円状のクレーターを生み、獣は大の字になって完全に沈黙し、身動きが取れなくなった。

「続けるかい?」

「――ぁ、ぉ」

呻き声を上げる敗者に、勝者が続行の意思を問いかける。

それは嫌味でも皮肉でもなく、純粋に闘争心へ投げかけた言葉だ。だからこそ、それは深々と敗者の魂を傷付ける。

だから――、

「無自覚だろうけど、皮肉にしかなってねぇよ。武士の情けでやめてやれって」

すでに勝敗の決した場面に割り込み、スバルは頭を掻きながらそう声をかけた。その言葉に、大の字に倒れる相手を見下ろしていた青年が振り返り、笑みを浮かべる。

燃えるような赤毛の青年はスバルに手を上げ、

「やあ、おはよう、スバル。今朝も早いね」

「お前らほどじゃねぇよ。それにしても毎日、飽きないっつーか懲りないっつーか……別にお前も律儀に付き合う必要ないんだぞ、ラインハルト」

「強くなりたいっていう彼の志は間違ってない。それに日に日に彼が強くなっているのも事実だよ。そう遠くないうちに、僕に追いつくときもくるんじゃないかな」

「そうか? ……ちょっと俺には想像つかないけどな」

赤毛の青年――ラインハルトの言葉は、冗談でも謙遜でもない雰囲気だ。

その彼の自他評価にスバルは片目をつむり、地面に寝転がったままの人物を見た。

そこに転がっているのは、短い金色の髪をした少年だ。

苦しげに喘ぎ、いまだ戦闘不能状態にあるが、その緑色の瞳に宿る戦意は全く薄れていない。が、体は意思に従わず、ただ悔しげに歯軋りしている。

その悔しがる気持ちに理解があり、スバルは少年に手を差し伸べた。

「ほれ、立てるか、ガーフィール。あんまり凹むな。お前が……」

「……気安く、触ろうとしてんじゃァねェよ。別にてめェの手なんざ借りなくッても立てるってんだよォ」

差し伸べたスバルの手を振り払い、金髪の少年――ガーフィールが牙を剥く。

だが、それが強がりなのは誰の目にも明らかだ。顔には苦痛が色濃く、呼吸も荒い。ただ、その虚勢を馬鹿にするほどスバルも大人げなくなれなかった。

振り払われた腕を軽く振って、体を起こすガーフィールにスバルは嘆息し、

「まぁ、お前がそう言うなら好きにしろよ。でも、朝飯の前に水浴びして、汗と泥は落としとけ。さもないと、ラムに嫌われるぞ」

「……ッせんだよ。言われなくッたってわかってらァ」

スバルの苦言に頭を振り、ガーフィールは顔をしかめながら立ち上がる。その膝はまだ震えていたが、それでも歩けないほどではない。

驚異的な回復力で立ち直り、ガーフィールは涼しげに立つラインハルトを睨んだ。

「次ァ、負けッねェ」

「期待しているよ」

嘘の響きが欠片もないラインハルトの答えに、ガーフィールは鼻を鳴らした。それから足を引きずる少年は、スバルの横を通りすぎるときにちらりとこちらを見て、

「――けっ」

と、忌々しげに舌打ちすると、そのまま中庭から屋敷へ引き上げていった。

その様子を苦笑で見送り、スバルはやれやれと首を横に振る。

プライドは傷付き、バツの悪さもあるはずだ。それでも、悪感情は朝食までに汗と一緒に水に流してくれればいい。まったく、難しい年頃なのだ。

「あいつのこと、お前に任せきりで悪いな。お前も疲れてるようならひとっ風呂……って、それで風呂場で鉢合わせしても困るか」

「そうだね、彼に悪い。幸い、僕は汗を掻くほど動いていないから遠慮しておくよ。ガーフィールを泥だらけのまま、ラムさんの前に連れ出すのも可哀想だ」

ガーフィールを見送って、そう投げかけたスバルにラインハルトは微笑む。

言葉通り、『剣聖』には今の朝稽古の影響はまるで見られない。殺しかねない剣幕で挑みかかるガーフィールを、完全に子ども扱いしていた。

おまけに彼は涼しい顔つきのまま、ガーフィールが叩きつけられて陥没した芝生を足でならす。すると、どういう原理なのか芝生は綺麗に元通りの状態に。

これも彼が所有する、無数の加護の力なのか。――ますますを以て、敵対したときのことを考えるとゾッとする人物だ。

それだけに、彼を自陣営に引き込めたことは、スバル最大の戦果といえるだろう。

『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア。

彼の現在の所属は、ロズワールを後ろ盾とした王候補であるエミリアの陣営にある。

王選開始直後、フェルトの騎士として彼女に与していた『剣聖』は、王国でも突出した知名度の下、最大の敵対者として君臨していたわけだが――、

「――こんなこと言ったらなんだけど、これでフェルトが戻ってきたら、またお前と敵味方になると思うとゾッとするぜ」

「――――」

「どうした?」

「……いや、気遣ってくれるのはありがたいけど、僕はおそらくフェルト様の騎士に戻ることはできない。どうやら、僕はあの方には不相応だと判断されたようだ。そうでなかったら、僕を置いてどこかへいなくなったりしなかったはずだからね」

スバルの発言に寂しげに視線を逸らして、ラインハルトは首を横に振った。

彼のその答えに瞑目して、スバルは内心を押し隠しながら吐息する。

――王選候補者の一人であり、ラインハルトの主君でもあった少女、フェルトが彼の騎士の前から姿を消して、すでに一年近くが経過している。

あの猫のような少女はアストレア家を離反し、唯一、気を許せる家族同然の老人を連れて、彼女に忠誠を誓った『剣聖』を置き去りに王選から逃げ出した。

それが世間的な彼女への風評であり、それはほとんど事実と等しい。

実際、ラインハルトはフェルトに何も聞かされないまま、王選から唐突に弾かれた。

忠誠を捧げた主人が行方をくらまし、その事実に『剣聖』がどれほどの無力感を覚えたかは計り知れない。

そんな彼に手を差し伸べ、新たな陣営に味方として引き入れたのがスバルだ。

自責の念と責任感に頑なだったラインハルトも、スバルの必死の説得に胸を打たれ、新たな主としてエミリアに剣を捧げることを了承した。

以来、『剣聖』はエミリア陣営の剣となり、王選においても非常に大きな役割を果たしてくれている。かつて『嫉妬の魔女』を封じた『剣聖』の末裔が、半魔と蔑まされるエミリアを支援する立場に加わったのだ。その意味は想像以上に大きかった。

それに、王選関係以外でも、ラインハルトの存在には助けられている。

同陣営に所属していながら、反発的なガーフィールへの対処などもその一つだ。

「お前とラムには頭が上がらねぇよ。でなきゃ今頃、俺はガーフィールに何回ぶちのめされてるか想像もつかないからな」

「そこまで無分別なことはしないはずだよ。確かに表面上、ガーフィールはスバルに厳しく当たっているけど、それは実力を認めていることの裏返しだ。ただ、君の強さは一目でわかりにくいところがある。それがなかなか、彼には受け入れられないだけだろう」

「まぁ、あれだけ小細工の連発で煙に巻かれたら誰でもムカつくだろうからな。あれ以外の手はなかったから、後悔も反省もしてねぇけど」

ラインハルトの擁護に肩をすくめて、スバルは『聖域』での出来事を回想する。

墓所と連結した結界により、村人の脱出が不可能とされた『聖域』。そこへ雪崩れ込んでくる魔獣『大兎』の脅威――その難題の突破に、スバルはいくつもの手を打った。

『聖域』の解放を恐れ、スバルやエミリアたちをなんとしても阻止しようとするガーフィール、彼への対処などは『死に戻り』の恩恵を全霊で注いだといえる。

それはまさしく、スバルとエキドナの契約の始まりだ。

魔女の手を取ることを選択したスバルは、あの『聖域』で想像を絶するほど『死に戻り』を繰り返し、ありとあらゆる試行錯誤を重ねた。

その結果、スバルは『聖域』に滞在する全ての人員の行動を把握し、ガーフィールを完全に蚊帳の外に置くことで、彼の妨害を根本から無効化した。

墓所の『試練』を秘密裏に突破して結界を解き、ロズワールはリューズへの根回しを済ませて避難を誘導、大兎の脅威が『聖域』を襲う前に住民を逃がした。

その間、目前に迫る解放の時をなんとか遠ざけようと奮闘するガーフィール、その抵抗の全てを封殺して。

結局、ガーフィールが全てを理解したのは、何もかも終わったあとのことだった。

『聖域』の住民の避難が終わり、手遅れだったと知ったガーフィールはそれでも『聖域』に残ろうと抗った。だが、『聖域』は大兎の襲来を受け、単独で抗うこともできずに少年は瀕死に追いやられる。そこを、スバルとロズワールの手で救われた。

力不足と判断ミス、十年以上も少年の心を頑なにしてきた事情を部外者になし崩しに、それも蚊帳の外で解決され、ガーフィールの志は傷だらけになった。

その後の彼が、鬱屈とした感情を怒りに変え、スバルを憎むのも当然のことだ。

ラムと、彼の姉であるフレデリカの説得がなければ、ガーフィールは形だけでもエミリア陣営に加わるような選択をしなかったかもしれない。

そんなガーフィールの憤怒の捌け口になったのが、新たに参入したラインハルトだ。

つまるところ、ガーフィールが最も許せないのは己の力不足だったのだろう。

がむしゃらに強くなろうと足掻くガーフィールは、確かな目標として『剣聖』の強さを知ったことで、少しずつ変化の兆しが生まれている。

そうすればやがて、『聖域』では得られなかった答えに至る日がくるかもしれない。

「それで、少しは俺とも打ち解けてくれれば満足ってとこだな」

「君の気持ちは遠からず通じるさ。焦る必要はないよ」

スバルの消極的な結論に、ラインハルトは慰めるように首を横に振った。それから、赤毛の騎士は屋敷の方へ目を向け、

「ガーフィールのことは、今しばらく僕に任せてほしい。……フェルト様の信頼も得られなかった僕に、君がまだ期待してくれるなら」

「卑屈になるなよ。お前が信じられなきゃ誰を信じられるってんだ。期待してるぜ」

「わかった。では、君は君のやるべきことを。――それが、一の騎士としての務めだ」

最後の一文にだけ、ラインハルトは特別な感情を込めていた。

『一の騎士』、それは主従の関係において、最も強い絆で結ばれた間柄にだけ許される立場だ。ラインハルトは、フェルトのそれになることはできなかった。

スバルにはそうなってほしくない、そんな気持ちが込められていた気がして。

「それじゃ、またあとで」

そんな感傷は欠片も表情に出さず、ラインハルトはスバルの肩を叩いて庭を去る。その立ち去る彼の足下、凹んでいたはずの芝生に先ほどまでの戦いの痕跡は微塵もない。

元通りになった芝生の上に立ちながら、スバルはラインハルトが庭から完全にいなくなったのを確認して、ため息をこぼす。

「ガーフィールのことは、お前に任せた……か」

『なかなか堂に入った演技だったね。君もふてぶてしくなったものだ』

「――――」

またしても、協定破りの魔女の声が聞こえた。が、もはやスバルは何も言わない。

その無言を許可と受け取ったのか、エキドナは結晶石越しの思念波を飛ばしながら、

『ガーフィールを憐れむのは君の自由だ。けど、『聖域』の問題解決についてはしっかりと話し合ったはずだよ。あれだけ試行回数を重ねて、最善を選んだはずだ。誰も傷付けず、誰も死なせず……ついには全員の命を救った。そうだろう?』

「わかってる。だから、別に何も言ってねぇだろうが」

『ラインハルトのことも、罪悪感を覚える必要はないよ。そもそも、あの少女――フェルトは王選に対して乗り気じゃなかったはずだ。だから、後腐れのない逃げ道を提示してあげた。今頃、あの巨人族の老人と一緒にカララギで穏やかに暮らしているさ』

「――――」

ナツキ・スバルの選択を、エキドナが丁寧に丁寧に瘡蓋をめくるように慰める。

ガーフィールの停滞、ラインハルトの苦悩――それは全て、スバルの選択の結果だ。

ガーフィールのことはまだいい。あれは『聖域』の問題を犠牲なしで解決するために必要なプロセスだった。だが、ラインハルトのことは別だ。

彼と彼の主君とを切り離したのは、完全にナツキ・スバルの策謀だった。事実を知られれば糾弾と軽蔑は避けられない。そんな企てだ。

だがしかし――、

『エミリアを狙う魔女教の悪意を退けるのに、君には力が必要だった。綺麗事では誰も救えない。君はあくまで、正しい選択をしただけだよ』

「うるさい」

『穏便にプリステラを救えたことも、あの選択があればこそだ。あの水門都市を襲った災厄に対して、ラインハルト抜きでどれだけ対抗し得た?』

「――――」

『無論、あの場に集った戦力なら違う手段でも撃退はできたかもしれない。でも、あれだけの大事件でたった一人の犠牲者も出さずに、複数の大罪司教を撃退できたのは紛れもなく、事件の前にラインハルトを擁していたことが理由だ』

重ねられるエキドナの言葉は、スバルを慰めるようで逆の結果を生み続ける。

それは行いを正当化するために、幾度も幾度も降りかかる言葉の刃だ。

そうやってスバルの心をズタズタに引き裂くことが真の狙いなのではないか、そう思わせるほど的確に、言葉の刃はナツキ・スバルの行いを、欺瞞を、切り刻んでいく。

何回、何十回、何百回、繰り返しても、足りなかった。

圧倒的に力が足りなかった。そしてその力は、『死に戻り』を繰り返し続けるナツキ・スバルの経験だけでは決して補えなかった。

未来の記憶と経験、それだけでは覆せない絶望がこの世には存在した。だとしても、妥協することができれば、苦難を乗り越えることはできたかもしれない。

しかし、我が身惜しさで犠牲を許容できるほど、スバルは強く弱くはなれなかった。

諦めを受け入れ、妥協することを許容し、犠牲に目をつむれば、意味がない。

自分自身の命を天秤に乗せることをやめて、魔女の手を取った意味がなくなる。

だから、必要な力を得るために、必要な戦力を掻き集めるために、奔走した。

その結果として最強の剣を、ラインハルト・ヴァン・アストレアを陥れ、味方にした。

そのために必要な、フェルトの王選からの離脱――その事象を実現するために、どれだけの試行錯誤を重ねたか、その全てを語る気力はない。

ラインハルトとの敵対、その剣の前に散ったことも十や二十では利かなかった。

それでも最終的に、穏便に、誰一人犠牲にならずに、それは達成された。

その結果だけが、ナツキ・スバルにとっての救いだ。

たとえどれだけ、心が傷付いたとしても、命さえ救われれば――。

「命が、ある。命があれば、未来がある。未来があれば、希望がある。希望があれば、可能性がある。可能性があれば――」

『――人は救われる。君は正しい。間違っていない。ボクが保証する』

「お前の保証なんて別にいらねぇよ……」

己を戒め、己を奮い立たせ、己の根底にある考えをスバルは口にする。

魔女はそれを肯定し、理解し、共有し、称賛した。

その言葉に悪態で応じながら、魔女の言葉に救われているのも事実だ。

命、命だ。

命さえあれば、またやり直せる。可能性がある。希望を繋げる。

犠牲とは、スバル以外の命のことだ。全ての勘定に含むことをやめた、スバルの命以外が守られれば、絶えず『死に戻り』に挑み続ける価値は必ずある。

――たとえ、救いたいものが泣いたとしても、俺は救いたい。

それこそが、魔女の手を掴んででも成し遂げると決めた、スバルの救いなのだ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

魔女の残酷な慰めを受け、スバルは中庭をあとにする。

ラインハルトとガーフィールの朝稽古、それを見届けるのは実はスバルの日課とは無関係の出来事だった。

あの現場にはたまたま通りがかり、結果的に声をかけざるを得なかっただけのこと。

スバルにとっての本当の日課は、これから屋敷の書庫で行われる。

「――よ、ベアトリス。邪魔するぜ」

屋敷の東棟の最奥に、その書庫は整然と存在している。

両開きの重たい扉を押し開けば、最初に中から溢れ出すのは圧倒的な紙の香りだ。ぼんやりとした魔法灯の光に照らされる室内には、所狭しとばかりに書棚が押し込まれ、いずれも分厚い本でぎっしりと埋め尽くされている。

それはかつて存在した『禁書庫』にも劣らぬ蔵書量、そういえた。

だから、なのだろう。

この場所が、自分の守るべき『禁書庫』ではないとわかっていながら、それでも少女がここへ居座り続けるのは、そこにかつての居場所の片鱗を見るからだ。

「――――」

薄暗い部屋の奥、書庫の片隅に膝を抱える少女の姿がある。

部屋に入ってすぐ、木製の脚立に座っているのが彼女の定位置だった。その記憶が今も鮮明なせいで、もう蹲っている姿の方が長くなったぐらいなのに、違和感はいつまでも消えないしこりとなってスバルの中に燻り続けている。

変わらぬドレスの装いのまま、ベアトリスは膝に額を押し付けて蹲っている。その姿勢のまま、少女は部屋に入ったスバルの存在にも声にも、身じろぎ一つ反応しない。

ただ、眠っているわけではないことは、その小さな体をきつく抱きしめる指、それが白くなるほど力が込められていることから明らかだった。

以前は不機嫌そうに、それでも堂々と司書を名乗ってスバルを出迎えたベアトリス。

その凛とした、自負と責任に裏打ちされた姿勢は見る影もない。

そんな少女の様子に目を細めて、一瞬だけ胸を過る感情をスバルは瞬きで捨て去る。それから馬鹿に明るい笑顔を作り、書庫のカーテンを開け放った。

ここは禁書庫と違い、物理的に存在する空間だ。当然、窓もあれば、扉は侵入を拒む結界にもなりえない。だから――、

「なぁ、ベア子。今日もいい朝だ。気持ちのいい風が吹いてる。そろそろ、カビ臭い部屋に引きこもるのもやめて、外で元気よく遊ぶ気にならないか?」

「――――」

「外で遊んでドレスを泥んこ塗れにしたくないってんなら、せめてみんなと一緒に飯でも食おうぜ。前みたいに食堂に出てきてさ。そのぐらい、大変でもないだろ?」

「――――」

カーテンが開かれ、窓から日の光が書庫の中に降り注ぐ。

その日差しと、あけすけに笑いかけるスバルの呼びかけに、ベアトリスは顔を伏せたまま沈黙を守った。膝を抱える腕は少女を縛り付けたままで、それがまるでスバルには自分を罰しているかのように思えた。

「なぁ、ベア子……」

「……いい加減、黙るのよ」

「――――」

その姿を見ていられず、歩み寄ろうとしたスバルにベアトリスが突然に言った。

彼女の声は重く沈んで、その上、掠れてさえいた。しかし、そんな声音にスバルは安堵を得てしまう。声を聞くことさえ、最近では滅多にないことだったからだ。

沈みきり、一言も言葉を交わせない日々がずっと続けば、拒絶や否定の言葉さえも喜びに直結してしまう。

そんなスバルの内心を余所に、ベアトリスは顔を上げないまま続ける。

「ベティーは、疲れた。もう、諦めたかしら。お母様の、言いつけにも背いて……契約も破って……それなのに、まだ生き残って……なんで」

「ベアトリス……」

「あのとき、お前が、見捨ててくれれば……なんで、助けにきたのよ。……誰も、お前になんか、お前なんか、『その人』じゃ、ないくせに……っ!」

それは消えない恨み言、それは薄れ得ない怨嗟、それは許されない悔悟――。

ベアトリスが四百年間、ずっと独りきりで抱え込んできた想いと、その想いを手放すことへの壮絶な覚悟、それを踏み躙ったこと、踏み躙られたことへの憎悪だ。

禁書庫の中、己の使命の放棄を覚悟した精霊は、しかし覚悟と裏腹に生かされた。

望みと違えて長らえたことで、彼女に与えられたのは理由をなくした生の時間だ。

禁書庫は、燃え盛る屋敷とともに失われ、彼女の居場所は永遠に失われた。

それでも、ベアトリスは使命を諦め、投げ出した事実を忘れない。

そのことは強い責任感を抱く彼女の心に、消えない傷となって無残に残り続ける。

それこそ、あの禁書庫の焼け落ちた夜以来、延々と書庫の片隅に蹲り、ずっとずっと泣いて過ごすことを余儀なくされるほどに。

それでも――、

「――っ! 離せ! 離すかしら! ベティーに、触るなぁ……っ!」

その小さくなる姿が見ていられなくて、スバルは蹲る体を包むように抱きしめる。

その抱擁に声を裏返らせ、ベアトリスは嫌悪と怒りを剥き出しにしてスバルの首筋に爪を立てた。手加減抜きに引っかかれ、傷口に血の雫が浮かぶ。それでも、離さない。

震える小さな体を、慰めるように抱きしめた。

だが、そうすることで本当に慰められたかったのは、スバルなのかもしれない。

「なんで、会いにくるのかしら……! お前なんか、お前なんか……!」

「お前がそうやって、俺に八つ当たりしてくれてるうちは何度でも通うよ。今は消えないように思える後悔の火も、ずっと吐き出し続けてればいつか消えるかもしれない」

「消えるはず、ないのよ……! ベティーは!」

「俺は、お前が生きててくれて嬉しい。だから、またお前がいつか、俺の前に膨れて立ってくれるのを待ってる。――その期待も、生きててくれたからだ」

「――っ」

穏やかに、できるだけ真摯に言葉を尽くすと、ベアトリスの抵抗がなくなった。

そのまま、ベアトリスは呆然とした顔になり、心ここにあらずな様子で泣きじゃくる。それはこれ以上、会話を続けることができなくなった証だった。

――二週間に一度は、スバルとベアトリスの間で交わされる癇癪と放心の交換。

抱きしめる腕をほどくと、ベアトリスは再び、抱えた膝に自分の額を押し付ける。そうして俯いて己の殻に閉じこもる少女に、スバルはもう何も言えない。

スバルの言葉は、ベアトリスの硬い心の門を開けることができないままでいる。

それでも、こうして何度も門を叩くことを続けていれば、やがて開かれることがあるかもしれない。――そう信じられる可能性、それが希望というものだ。

「……あのとき、嘘でも俺が『その人』だって言えればよかったのかな」

ベアトリスを残して書庫を出て、扉に背を預けながらスバルはそう述懐する。

屋敷への襲撃と、スバルの存在に『その人』への希望を抱き、砕かれたベアトリス。彼女は自分の長い使命の終わりを覚悟し、その脆い期待と悲しい諦念の両方を砕かれた。

四百年、禁書庫を明け渡すことのできる『その人』の来訪を待ち焦がれた少女に、スバルは嘘でもいいから『その人』を騙るべきだったのだろうか。

そうすれば、彼女の心は、あの焼け落ちた禁書庫とともに焦がされることなく、守り抜くことができたのだろうか。

『禁書庫が失われたことは取り返しのつかないことだよ。あれらの知識が受け継がれずに消えたことはボクにとっても痛恨だが、仕方ない。君にとっては知識より、ベアトリスの命が救われたことの方が重要なはずだ』

「お前がそれを言うのは筋違いだ。お前だけは、それを言えないはずだぞ」

過ぎた時間に未練を残すスバルに、夢の世界に留まるエキドナが抗弁する。

だが、そのエキドナこそがベアトリスに禁書庫を託し、四百年もの不毛な時間を過ごさせた張本人ではないか。

エキドナの命じた役割の結果、ベアトリスの心は儚くも砕け散った。

それなのに――、

「お前が、『その人』を待てなんてあいつに言わなかったら……!」

『待ってほしいな。それはいくらなんでも、論理のすり替えってものじゃないか。ボクにはボクなりの理由があって、そうする必要があったんだ。もちろん、ベアトリスがそのために長い孤独を過ごしたことはボクにも責任がある。だけど、決してそれはボクがあの子に不幸を強いようとしたわけじゃない。それはわかってほしいな』

「ぐ……」

エキドナの反論を受け、スバルは己の八つ当たりを自覚して口ごもる。

魔女の言葉は正しい。結局、スバルがここでエキドナのことを責めるのは、自分にできなかったことの責任転嫁を押し付けているだけなのだ。

「……『その人』ってのは結局、誰だったんだ」

『それは残念ながら、ボクの口からは明かせない。禁書庫が失われてしまった以上、それについて論じることも意味はない。仮にその人物を見つけ出したとしても、彼にはそのことはもうわからないはずだ』

「彼……ってことは、男か」

『――これは口が滑ったかな? でも、見つける方法は皆無だよ。そもそも、見つけたとして、どうしたいんだい? ベアトリスに会わせる? それとも、君が何らかの形で制裁を加えたい? だとしたら何の罪で。当人はすでに自覚する機会もないのに、存在しない罪で誰かを裁くことなどできない。それに、そんな暇も君にはない』

失言、それをそうと思わせないエキドナの弁術にスバルは舌打ちする。

事実として、魔女の言葉は何もかも正しい。見つけられない。裁けない。スバルにはそんなことにかまけている時間はありはしない。

『ベアトリスは確かに不憫な時間を過ごした。でも、それは未来もそうなることを約束される理由にはならない。図らずも、君が言った通りだ』

「――――」

『今は後悔に打ちのめされていたとしても、いずれあの子も解放されるときがくる。そうなったとき、誰かがあの子を受け入れてやらなくちゃならない。その誰かに、君か、あるいは君でなくとも誰かがなれる。それが、生きていることの可能性だ』

それは詭弁だった。

それは体のいい取り繕いだった。

だが、それは疑いようなく、希望でもあるのだ。

エキドナの甘言に思えるそれは、しかしスバルが信じざるを得ない可能性なのだ。

だからスバルは、契約で繋がる魔女がどれだけ言葉を弄しているだけだと透けて見えても、彼女の言い分を否定することができない。縋り、寄りかかってしまう。

唯一の共犯者であり、スバルの罪を常に意識させ、忘れさせない彼女の存在に。

「平行線だな」

『ああ、平行線だね』

結局、そうして話を終えるのが、スバルとエキドナの罪への向き合い方だ。

未来に希望を託し、可能性に道があることを信じて、理想に届く日の訪れを待つ。

たとえ何度機会があろうと、スバルはやはりこの場所へ辿り着くのだ。

焼ける屋敷から、残ろうと必死になるベアトリスを連れ出し、少女に禁書庫を失わせながらも、泣き崩れる日々が続くことを知りながらも、彼女に生きていてほしい。

試行錯誤を重ねて、何千と繰り返した世界の中で、誰も死なせずにベアトリスを救い出す方法は、スバルには見つからなかった。

そうやって、希望を自給自足しながら、どこまでもどこまでも歩き続ける。

救われる、救われた。

その言葉を未来の糧にして、可能性が芽吹くことを祈って、今日も。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「おーぉや、そこにいるのはスバル様じゃーぁありませんか。ベアトリスのところからのお帰りですか?」

「――――」

ふと、廊下を歩く背中に声がかけられて、スバルは反射的に立ち止まった。

その声の調子と声音から、相手が誰なのかすぐに思い当たる。それだけに、立ち止まったことを後悔したが、足を止めたからには無視することもできない。

嫌々ながらも振り向くと、相手はスバルの真後ろに悠然と佇んでいた。

「ロズワール、か」

「ええ、そうですとも。おはようございます。今朝はベアトリスとは?」

「……久々に口利いてくれたかな。まぁ、進展は今後に乞うご期待だ」

「なるほど。……どうやら、こっぴどくやられたようですねーぇ」

憮然としたスバルの受け答えに、左右色違いの目を細めたのはロズワールだ。

その視線はスバルの首と、頬に向かっている。そこには先ほど、ベアトリスに爪を立てられた引っ掻き傷が痛々しく残っていた。

「生憎、傷の治療にはとんと不向きでして。その傷を癒すことはできそうもありません。治癒術を使えるのは……ベアトリスとガーフィール、それにエミリア様だけですが」

「前者二人はちょっと厳しいな。エミリアに頼むのも……まぁ、考えとく」

「あなたが言えば喜んで治してくださるでしょうに。それとも、傷口が痛む方が今のあなたにとっては慰めになるのかもしれませんね」

「――――」

口の重いスバルに代わり、饒舌に喋るロズワールの舌鋒はいちいち鋭い。特に最後の一言、その内容にスバルが目を細めれば、ロズワールは道化た仕草で肩をすくめた。

道化の化粧に奇抜な衣装、姿形や振る舞いはこれまでと変わらないロズワールだが、それでも以前とは決定的に異なる部分がある。

スバルへの接し方、態度、それらの裏にある確かな敬意。

それはロズワールが、図らずもナツキ・スバルの存在を有用と認めた証であった。

「ですが、心配はいりませんよ。時間をかければ、あなたなら必ず突破口を見つける。如何なる方法であれ、最善を掴み取ることにご執心のあなただ。ベアトリスの心を救いたいと願うなら、きっとその方法も手中にできるはず。焦ることはありませんとーぉも」

「ずいぶん簡単に言ってくれるもんだ。そんな便利な話じゃねぇってのに」

「ご謙遜を。――それに、簡単であるなどと私も思っていませんよ。ただ、その事実はあなたのこれまでの功績を曇らせるものではない、それだけの話」

恭しく一礼して、ロズワールはスバルの功績を真っ向から称賛する。

事実として、スバルの異能を『死に戻り』であると把握しているのは、スバルと契約関係にあるエキドナだけだ。が、それに類する『やり直し』の異能を把握し、その事実とともに功績を評価しているのはロズワールだ。

エキドナが現実的な力を持たない以上、正しい意味でスバルを最も評価しているのはロズワールである、そう断言しても過言ではない。

「王都、我が屋敷、再びの王都。そして『聖域』、プリステラ。――あなたはこれまで何一つ取りこぼさず、今日まで在り続けてきた。それは紛れもない成果であり、あなたが成し遂げてきた快挙に相違ない。いずれ、あなたは必ず私の悲願も叶えてくれる。私は、そのために協力を惜しまない。存分に利用されてください」

「楽観的だな。……俺がお前の掌で踊ってやる確信なんかないはずだ」

「ですが、あなたは龍の血を欲している。でなければ、あの少女――レムは目覚めない。その結論がある限り、あなたはエミリア様を王にする。でしょう?」

低く、探るようなロズワールの目つきに、スバルもまた冷酷な目つきで睨み返す。

それは互いに、互いの急所を掴み合う同士、危うい足場の上で成立する協力関係だ。

ロズワールはスバルの『死に戻り』を利用して成し遂げたい目的があり、それをなし崩しに果たさなければならない状況へスバルを誘導するつもりでいる。

そしてスバルはその思惑がわかっていながら、今も眠り続けるレムを救い出すために、彼の思惑に従って事を進めなければならない。

「なに、悪い取引きには絶対になりませんよ。あなたはあなたの、私は私の、なんとしても叶えたい願いを叶える。そのためにお互いを利用する。それだけのことです」

「――――」

「私の力は有用なはずだ。このときのために、四百年もの時を費やしたのです。私にとって、あなたの力がそうであるのと同じように、ね」

そのロズワールの確信に、スバルは反論することができない。

それはずっと前から、『聖域』でロズワールの裏切りを知ったときから出ている答えだ。王選のためにも、その歩みを阻もうとする障害への対抗手段としても、ロズワールの存在を欠くことはスバルたちにはできない。

仮に彼がスバルを利用し、己の願いを叶えようと企てているとしても。

「お前がもっと素直に本音で、何がしたいって言ってくれれば、俺だってこんな頑なにならないで協力できるかもしれないってのに」

「残念ですが、それはおそらくなりませんよ。あなたは、それを選ばない」

少しでも緊迫感を和らげるために、歩み寄ろうとしたスバルをロズワールが切り捨てる。その内容にスバルが目を丸くすれば、ロズワールは妖しげに笑ったまま、

「自覚がないならなおさらです。あなたは、あなたの最優先すべき事情を必ず全力で推し進める。そのための障害、あるいは足を引く原因になりえると判断すれば、どんな事情があろうと願いなど簡単に切り捨てます。それができる、できてしまう。そうすでに決めつけてしまった。だから、あなたは私の切り札になったのですから」

「――――」

「いいじゃありませんか。私は私の、あなたはあなたの、好き勝手に願いを叶える。それで届かないとすれば、それは叶わなかった方の想いが足りないだけのこと」

「……ああ、そうかよ」

狂気的な執着心、それがロズワールを支えていることはすでにわかっている。そしてその根源的なものがどこから発生しているのか、彼が明かすつもりがないことも。

それだけ理解して、スバルはロズワールとの会話を打ち切り、とっとと歩き出した。その心の断絶を示す姿勢に、ロズワールは歩みを止めたまま、

「ああ、そうそう。今、レムの部屋にはラムがいます。一応、伝えておきますよ」

「――――」

それには何も答えず、スバルは角を曲がり、彼の視線から逃れた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「不肖の妹のために、わざわざ足を運んでくださってありがとうございます、ナツキ・スバル様」

『聖域』での契約以来、あるいはナツキ・スバルの在り方が定まって以来、といった方が的確かもしれない。

屋敷においても外部においても、無数の変化が訪れることが避けられなかったが、その中でも彼女の変化は最も大きな一つと言えるかもしれない。

部屋に入ったスバルに向かって、深々と腰を折ったのは桃色の髪をしたメイド。

冒頭の発言は紛れもなく、あのラムが口にしたものである。

傲岸不遜を絵に描いたような性格であった彼女だが、『聖域』の出来事を経て、あれ以降の様々な出来事を乗り越えた今、スバルへの態度は激変してしまった。

「いつまで経っても、お前のその態度には慣れねぇな」

「……重ね重ね、以前の無礼は申し訳ありません。ラムの無知と無自覚で、ナツキ・スバル様には大変なご迷惑をおかけしました。ですが、ロズワール様とエミリア様より、ナツキ・スバル様へは最大限の敬意を払うようにと申し付けられておりますので、今後はそのようなことは決してありません。ご安心ください」

表情を変えないまま、完璧な侍女の所作でラムはスバルにそう答える。

その態度には以前までの馴れ馴れしさや、親しみと言い換えてもいい距離感の近さは微塵も残っていない。それは壁――否、壁であれば乗り越えることもできる。だが、乗り越える方法の存在しないそれは、壁ではなく世界の隔たりといった方が正確だ。

ロズワールに心酔し、その在り方を尊重するラム。ロズワールがスバルへの接し方を改めたように、ラムの中でもスバルの存在の価値は大きく変化した。

その結果が、スバルを敬う対象としてみなした彼女の態度だ。

そんなラムから視線を逸らして、スバルは部屋の中央――この部屋へ足を運んだ理由、寝台に寝かされている青い髪の少女を見やる。

仰向けに横たわり、もう二年以上も変わらない姿でいる彼女――レムだ。

目覚めさせると誓い、そしてその誓いを果たす確信に届かないまま、時間だけが無情に彼女を置き去りにしていく。

「レムに変わりは?」

「ありません。依然、眠り続けるままで……。頭を悩ませる問題が多くある中、ラムの愚妹に気を揉ませて言葉もありません」

「そんな言い方するな。レムは……レムのことを考えるのが、無駄なんてことは絶対にない。二度と、するな」

「――はい」

きつく、そう言いつけるスバルにラムは短く応じた。

そこに不満も不服も、安堵も感謝もない。妹、とそう呼ぶレムに対して、ラムは実感もなければ理解もない。彼女は形式上、レムを妹として認めているが、その内心にはおそらくすでに、レムの居場所はないのだ。

彼女の心は完全に、ロズワールへの忠誠心だけを拠り所にしてしまっている。

それはロズワールの思惑に乗り、ラムの抱いた願いを断つことになる選択をした、スバルの行いの影響が強い。

レムが目覚めたとしても、彼女の心に妹の居場所は戻るのだろうか。

あれほど敬愛した姉に、あれほど溺愛した妹に、姉妹は戻れるのだろうか。

「――っ。ラム、悪いがレムと二人にしてくれ」

「……かしこまりました。御用の際にはお声かけください」

ゾッとなる想像に歯噛みして、スバルはラムと同室にいることに恐怖を覚えた。その震えが奇跡的に声に出ないうちに、彼女の存在をこの場所から追い払う。

幸い、ラムはスバルの言葉に反論せず、優雅にカーテシーだけ残すと、静々と部屋を出ていった。それで、部屋に残るのはスバルとレムの二人きりだ。

「……レム」

「――――」

寝台に横たわり、寝息ともつかない呼吸を繰り返す少女は返事しない。ただ、微かにその胸が上下することと、触れれば温かな血の通う体だけが生きている証だ。

この場所へ足を運んで、必ずその手を握って、弱々しい脈拍を確かめることが、スバルがレムにできる全てであり、スバルが自分に許した慰めのときの全てだ。

「……エキドナ」

『――君の方から呼ぶのは珍しいね』

ベッド脇に座り、レムの手を握るスバルの呼びかけにエキドナが反応する。呼ばれないことと、呼ばれなくても話し始めることに自覚があったらしい魔女は、感情のぬるま湯に浸かるスバルの言葉を静かに待った。

やがて、沈黙が十数秒、あるいは数分続いただろうか。

「レムを目覚めさせる方法は、前に言った通りだな?」

『ああ。彼女の眠りの原因になった、『暴食』の大罪司教に問い質すこと。ただし、これは可能性が低いと言わざるを得ない。奴らを見つけ出すことが至難の業だし、捕まえたとしても口を割らせる方法が……接触だけできれば、口を割らせる方法なんて、君の力があれば見つけることは容易いかもしれないけどね』

「ああ、そうだ。そうだとも。あいつらを見つけて、捕まえて、口を割らせればレムを起こせるってんなら、何万回だろうと、挑んでやれる。なのに……」

見つからない。『暴食』の大罪司教は、憎たらしい冒涜者は姿を現さない。

水門都市プリステラに、『憤怒』、『色欲』、『強欲』の大罪司教が揃ったときでさえ、肝心の『暴食』の大罪司教は姿を見せなかった。

何故、何故、何故、何故、何故――。

「『暴食』がダメなら、賢者の塔は? 何もかも知ってる、『賢者』シャウラなら……」

『魔女として断言するよ。プレアデス監視塔へ向かったとしても、君は無駄足を踏むことになるだけだ。『賢者』は君の期待には応えない。それどころか、『賢者』は君の存在を許さない可能性さえある。無駄死に寄り道は、君も望まないはずだね』

否定される。否定される。ナツキ・スバルの願いは、『強欲の魔女』の丁寧に。

『暴食』の大罪司教は見つからず、『賢者』の存在は助けにならず、手詰まりになる。ならば、いったい、どうすれば――。

『――だから、君は龍の血を得るしかないのさ』

「龍の血があれば、レムを目覚めさせることができる」

『あれで神龍だ。その血に秘められた万能の力を以てすれば、眠りに囚われた少女の魂を解放するぐらいのことはできるだろうね』

エキドナの言葉は推測に過ぎない。だが、それは確信めいた推測であった。

明言こそ避ける姿勢にあるが、魔女の言葉にはかなり力強い響きがある。だから、スバルはそれこそがレムを救う方法だと信じられる。

龍の血、それはルグニカ王国に『神龍』ボルカニカが授けたとされる秘宝の一つ。

大地に豊穣をもたらし、あらゆる病理を遠ざけ、奇跡をもたらす可能性。

それを利用することができるのは、王国で最も尊い地位にある存在だけ。

つまりは、その存在は――、

「王位を手に入れれば、届く」

『そうとも。だからこそ、君は彼女を――エミリアを、王にしなくちゃいけない』

「――――」

『エミリアを支援し、彼女を支え、救いたい人々を救いながら、彼女を王にする。そして龍の血を手に入れることで、初めて、君はレムを救うことができる』

エキドナの言葉が、毒のようにスバルの脳に沁み込んでくる。

レムを救うために、エミリアが王になる必要がある。エミリアを王にすることは、エミリアの願いを叶えることは、スバルが自らを捧げて叶えたい目的の一つだ。

万々歳だ。エミリアを支えることが、レムを救うことに繋がる。

エミリアを王にするのは、レムを救うため。

結果的にレムが救われるのは、エミリアを王にしたいと願ったスバルの志のおかげ。

だから――、

『だから……』

「やめろ、馬鹿野郎。……そうやって、事あるごとに俺の決心を揺らがせるな。なんでお前はそうやって、エミリアのことを俺の中で下げようとすんだよ」

『そんなつもりは、ないけど?』

「説得力がねぇよ。何度も、何十回も、何百回も、このやり取りを繰り返してんだ」

それこそ、スバルの心を洗脳でもするかのように、魔女は度々、毒を流し込む。

スバルの目的をすげ替え、エミリアの価値を蔑ろにさせようとするように。だが、それはスバルにとって譲れない一線だ。そこを違えてしまえば、ナツキ・スバルはこれまで犠牲にしてきた、自分の屍を踏みつけにする資格を失う。

「私心は挟まないはずだぞ。お前がエミリアに何の含むところがあっても」

『誤解だよ。まぁ、いくら言っても君は信じないから、これも平行線だけどね』

「平行線になるぐらい、繰り返したやり取りだってのに、よく言うぜ」

エキドナとの協力関係は、こうやって気が抜けないところがある。

魔女はスバルの共犯者を名乗り、事実として知恵を貸す形でスバルに貢献する一方、スバルの『死に戻り』だけでなく、スバルの在り方さえも利用しようと画策する。

もっとも、詰めの甘いところがあるおかげで、その毒牙も届かずにこれているが。

「龍の血は手に入れる。エミリアを王様にすることで。――でも、それはレムを助けるついでにすることじゃない。エミリアを王様にすることが、レムを救うことに繋がる、俺の初志貫徹は変わらない。そこは、間違えない」

『やれやれ。たまにはボクの都合のいいように踊ってくれても文句はないのに。少しは隙を見せてくれないと、魔女の面目が立たないな』

「詰めが甘い。……ってより、お前はたぶん、根っこが甘いんだよ。悪党になりきるには向いてないんだろ。それで助かってるけどな」

『なるほど。肝に銘じておくとするよ』

敗因を述べられて、エキドナはやけにすんなりとそれを受け入れる。そのことを教訓に次に活かそうとしても、おそらく彼女にそれはできない。

何故なら、性質はそう簡単には変わらない。変えられるものではないからだ。

ナツキ・スバルが、どこまでいってもナツキ・スバルであるように。

『強欲の魔女』エキドナも、『強欲の魔女』エキドナでしかありえない。

どうあっても変えられないものを武器に、生きるしかない。

人生は、配られたカードで勝負するしかないのだから。

「――レム、待ってろ。必ず、起こしてやる。そのために」

――何度、死んだとしても。

それは誇張ない覚悟であり、差し出すには軽すぎる賭け金だ。

どれだけ投げ捨てても、尽きることのない命を払い続ける。それがやがて目覚めに繋がるのであれば、何の後悔もない。

それだけ、それだけ、それだけで、いいから。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――ベアトリスの書庫、レムの寝室を巡り、そこで日課の最後に到達する。

閉め切られた部屋の扉に、スバルは気楽な調子でノックを送った。すると、すぐ返礼に内側からノックがある。返事ではなく、ノック。

それに応えるように、スバルは重ねてノック。すると、相手もすぐにノック。こっちも負けじとノック。相手も負けじとノック。ノック、ノック、ノック――。

「――もう、いつまでやってるの! すごーく、やきもきしちゃうじゃない」

と、先に忍耐力が尽きたのは、部屋の主の方だった。

扉が内側から開かれて、顔を見せたのは銀髪の紫紺の瞳の美少女――それは絶世、あらゆるものを魅了してやまない、至高の美貌の体現だ。

そんなエミリアが、赤らめた頬を膨れさせながら顔を見せれば、美しさよりも可憐さの方が際立って感じられ、スバルは思わず噴き出した。

「あ、なんで笑ったの? もう、スバルのオタンコナス」

「オタンコナスってきょうび聞かねぇな。っつか、先にノック返し始めたのってエミリアたんの方じゃん。俺、それに乗っかっただけだし」

「そんな風に言うんだ。ふーん、別にいいけど。それなら、スバルのこと、部屋に入れてあげないだけだから」

へらへらと笑ったスバルの言葉に、エミリアは拗ねた顔で扉を閉めようとする。その様子にスバルは慌ててドアの隙間に手を入れて――、

「あだーっ!」

「あ! スバル、大丈夫!?」

指を挟まれて、大げさに悲鳴を上げるスバルにエミリアが飛び上がる。慌てて部屋を飛び出した彼女は、鋭い痛みを訴えるスバルの右手を急いで掴むと、

「はむ」

「え、エミリアたん!? ちょっと大胆じゃね!?」

「ひひはら、ふほひおとなひくひてて」

何を言っているのやらだが、紫紺の瞳を鋭くするエミリアの剣幕に気圧される。

そのエミリアの薄い唇は、赤くなったスバルの右手の指をくわえている。柔らかな唇の内側では、エミリアの熱を持った桃色の舌が、スバルの指の痺れるような痛みを優しくなぞっているのがわかった。

その感触にぞわぞわと、スバルの背筋に艶っぽい身震いが走る。

「ん……大丈夫、かな。スバル、痛くない……って、なんで顔が真っ赤なの?」

「男の子的にどうしようもない理由というか、思わぬ展開に大混乱というか……いえ、大丈夫です。ありがとうございました。これで俺、やっていけるよ」

「――? よくわからないけど、治癒魔法かけるからね?」

舐めてもらった指を掲げ、頭を下げるスバルにエミリアは困惑顔。だが、彼女はすぐに意識を切り替えると、スバルのその指に淡い青の波動で治癒をかけた。

エミリアの舌で和らいでいた痛みが、その治癒魔法によって完全に快癒する。あとは彼女の唾液に濡れた指を、スバルがどう処理するか、それだけだ。

「服で拭う……いや、それはもったいない気がする。かといって、これを堂々と舐めるのはさすがに上級者すぎないか……!? だけど、この機会を逃したら……」

「あ、ごめんね。唾で汚いわよね。きゅっきゅっと、はい、綺麗」

「しまった――!? 時間制限付きの選択肢だった――!?」

愕然となるスバルに気付かず、ハンカチで指を拭いたエミリアはご満悦だ。それから彼女はふと、スバルの首筋に視線を送って、目を瞬かせる。

そこには治療の済んでいない、ベアトリスの引っ掻き傷が残されている。そのことに目敏く気付いたエミリアは、そっと白い指でその傷に触れて、

「スバル、痛そう。この傷、どうしたの?」

「あ、ああ、これ? これはちょっと、途中で引っかけて……」

「嘘」

とっさに取り繕おうとしたスバルの言葉を遮り、エミリアが短くそう口にする。

彼女は大きく丸い瞳を見開いたまま、スバルの傷口を何度もその指で撫で、やがてぽつりと呟いた。

「――ベアトリスでしょう」

そう口にした瞬間、エミリアの声は無感情に凍えていた。

直後、エミリアの体から迸ったのは、膨大な量の真白の力だ。それは一挙に屋敷の廊下を席巻し、スバルの肌が焼かれるような冷気に撫ぜられる。

空気が凍りつき、軋む音を立てるのを感じて、スバルは大慌てで、

「エミリア! エミリア、落ち着け! 大丈夫、大丈夫だから!」

「――――」

「エミリア! 俺を見ろ、ここだ!」

「――ぁ」

強引に腕を伸ばし、乱暴に彼女の細い体を掻き抱いて、声をかける。

耳元で何度もエミリアの名前を呼び、スバルは息がかかるほど近くで、その紫紺の瞳に自分を映しながら叫んだ。

その声に、エミリアのぼやけた瞳の焦点が遭い、声が漏れる。

刹那、屋敷の最上階を覆い尽くさんばかりに広がった冷気が霧散し、全身を取り巻く圧倒的なプレッシャーも消失、元通りに戻る。

「あ、危うかった。もうちょいで、ラインハルトが駆け付けるところだ……」

「わ、私、今、え……?」

「大丈夫、大丈夫だ。エミリアたんはいい子、いい子、なんともないよ」

目を白黒させ、その場にぺたりとへたり込むエミリアに合わせ、スバルも座り込む。状況が呑み込めていない頭を抱いて、スバルは落ち着くようにその背中を何度も叩く。

次第にエミリアの呼吸が落ち着き、彼女はおずおずとスバルの顔を見ると、

「ご、ごめんね? 私、また変な風に……」

「いいから。エミリアたんにかけられる迷惑は迷惑じゃねぇから。これは、俺が望んで引き受けてる役割なの。安心してって」

「……ん、うん」

語りかけるスバルの言葉に、エミリアは思わしげに眉を寄せながらも頷く。

その心が本当の意味で安寧を得るまで、スバルはその体を離さない。

――エミリアの情緒不安定は、『聖域』での『試練』を越えることができなかった事実が影響している。

第一の『試練』、己の過去を垣間見る試練で彼女が何を見たのかは結局わからない。

ただ、その過酷な思い出はエミリアの心を折り砕き、立ち上がる気力を挫いた。そしてそれを乗り越えることができないまま、『試練』はスバルの手によって終わらされる。

故にエミリアの歩みは、今もあの墓所の中に囚われたままなのかもしれない。

しかし、彼女がどれだけ拒み、嘆いたとしても、時間は止まることなく進み続ける。そして彼女が停滞することを、世界も、周囲も、誰も許さない。

だから、立ち止まりかけるエミリアの手を、スバルが引き続けるのだ。

「ごめんね、スバル。私、またスバルに迷惑かけちゃって……」

「大丈夫、ノープロ、無問題。むしろ、大歓迎ってな感じで」

「……ふふっ、スバルってば。ん、ありがとう。大丈夫、落ち着きました」

しばしの抱擁があって、エミリアがスバルの胸の中から顔を上げる。すっと立ち上がる彼女の温もりが離れて、スバルは名残惜しげに唇を尖らせた。

「残念。もうちょっと、エミリアたんの柔らかさを堪能してたかったのに」

「えと、そうした方がいい? スバルがそうしろっていうなら、私はそうするけど」

「いえいえいえ、大丈夫。こういうのはね、ちょっと物足りないぐらいで我慢するのが長続きするコツなの。満腹になるまで餌を与え続ければ、それはただの家畜。俺は飼われるままの豚になるより、己で獲物を狙う狼になろうと思うね」

「そうかも。私も、スバルは豚より犬の方が近いと思うわ」

「豚と犬ってなるとまた話違ってくるけどね!?」

とんちきなやり取りを交わしながら、スバルは笑みを取り戻したエミリアに安堵する。

幸い、先ほどの傷の動揺は忘れてくれたようで、一安心だ。

『見るに堪えないな』

「黙れ」

「――え?」

「あ、エミリアたんに言ったんじゃないんだ。ごめん、独り言」

ふいに差し込まれた思念波に、反射的に言い返してエミリアを驚かせてしまう。

結晶石越しの思念波は当然、スバルにしか届かない。目の前のエミリアの状態に、嫌悪感も露わに吐き捨てたエキドナ、その侮蔑と嘲弄も、スバルにしか届かない。

「だ、黙ってた方がいい? スバルがその方がいいなら、頑張って静かにするから……」

「違うって! 平気だから、いっぱい話そう? 話してくれていいんだよ」

「……ホントに?」

不安げに、エミリアの紫紺の瞳が潤み始める。それにスバルが頷くと、エミリアはホッと安堵した顔で、スバルの手に自分の手を重ねて、

「それじゃ、教えて、スバル。――私、今日は何をしたらいい?」

「――――」

「昨日は、ちゃんと言いつけ通りにずっと部屋で勉強してました。スバルの言うことなら間違いないもの。だから、何をしたらいいのか、教えて?」

――スバルの言う通りにする、スバルなら間違わない、スバルを信じてる。

そのエミリアの言葉に、スバルは笑顔の仮面が剥がれないようにするのに苦心した。

鏡の前で練習した笑顔、その集大成がここで発揮される。おかげで、エミリアは不信感を抱くことなく、スバルの言葉を期待に目を輝かせながら待っている。

墓所の『試練』を越えることに挫折したエミリアは、その心をスバルへ完全に依存することで守ろうとしている。

当然といえば当然の話だ。

『死に戻り』の力を利用することで、スバルはエミリアの前に立ち塞がる障害を、何もかも完璧に排除してきた。エミリアがスバルの言葉に逆らわないのをいいことに、信頼を得られたのだと勘違いして、これまでずっとやってきた。

エミリアの心がスバルの存在に固執し、ひどく不安定な状態になっていることに気付けたのは、もうどれだけ『死に戻り』したとしても『聖域』へ戻れなくなってからだ。

それでも、スバルはこの状況を、最悪だとは思っていない。

「じゃあ、エミリアたんにお願いだ。今日のところは、昨日と同じで勉強の続き! また何か大きなことをやるときは、ちゃんと前もって知らせておくから」

「プリステラとかみたいに?」

「そう、プリステラとかみたいに。それまでは英気を養っておくこと。有事に備えて、自分を高めることこそ、今のエミリアたんに最も大切なことなのだ」

「むむ、はい、わかりました、スバル先生! ちゃんと言いつけ通りにします。だから――」

どこか茶化した芝居を入れるスバルに、エミリアもノリノリで同調する。敬礼のような仕草で命令を受領したエミリアは、最後に少しだけ言葉を躊躇い、

「――だから、ちゃんとできたら、頭、撫でてくれる?」

「――――」

上目遣いにスバルを窺い、不安げに、恥ずかしげに口にするエミリア。

その姿にスバルは息を呑み、一瞬だけ停滞が生まれた。その一瞬が、あとほんの数瞬続けば、エミリアの瞳に絶望が過ったことは想像に難くない。

だが、幸いにも、スバルはそうなる前に笑顔を作り、

「当たり前だろ? むしろ、俺の方こそお願いしてエミリアたんの髪の毛に合法的に触りたいぐらいだけど?」

「――? スバルが触りたいなら、いつでも触らせてあげるけど……」

「だーかーら! それもご褒美だからダメ。いいことがあったとき、それがお約束。エミリアたんのなでなでと一緒。OK?」

「ん、おーけー」

親指を立て、歯を光らせるスバルの確認にエミリアもたどたどしく頷いた。それから彼女は名残惜しく、スバルの手と自分の手を重ねたままでいたが――、

「それじゃ、部屋に戻ってるね」

「ああ、ご飯はペトラに運ばせるから、一緒に食べよう」

「うん、待ってる。それじゃ、またあとで、ね」

手を振り、エミリアが部屋の中に戻っていく。――短くなった銀髪が寂しげに揺れるのを見て、スバルは最後までなんとかため息をつくことを堪えた。

やがて音を立てて扉が閉まり、スバルとエミリアとの繋がりが物理的に断たれる。

『まったく、醜悪にも限度がある』

「――――」

エミリアの姿が見えなくなった途端、悪態をつき始めるエキドナ。その彼女の嫌悪に塗れた言葉に、スバルは何も答えない。

何も言葉を交わさないこと、それがエキドナとの付き合いで学んだ、エミリアに対する辛辣な彼女への対処法だ。

語らない、語らせない。

その頑なな姿勢を貫くスバルに、魔女も無駄を悟って口を開かなくなる。

エミリアのことに関してだけは、エキドナは絶対に当てにならない。

そしてエミリアとスバルとの関係は、以前と変わっていないようで、それでもやはり別物になってしまっていて、それを修正する時間は今はなくて。

『言いなりの人形になっている方が、君の目的にとっては好都合だしね』

「――っ」

その残酷な指摘に喉が詰まり、スバルは反応したことを後悔した。

それは肯定されるべきではない一言、だが、否定することのできない一言。

命を守ることで、未来を守り、希望を守り、可能性を守ること。

そのために、エミリアの心の『今』を犠牲にしている。

そしてそれがエミリアだけに留まらないことを、スバルは自覚しているのだから。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

食堂で、陣営揃っての朝食の参加を辞退すると、食事係を拝命しているペトラは残念そうな顔をしたが、スバルとエミリアのための食事を部屋へ運び込んでくれた。

食事中、何度か精神的に揺らぐエミリアをフォローしつつ、朝食が終われば、エミリアはスバルに指示された通り、素直に己の執務机に向かう姿勢だ。

「ちゃんとスバルの言う通りにして、立派な王様にならなくちゃだもの」

と、気合いを入れるエミリアを応援して、スバルは彼女の部屋を出る。

ロズワールの領主業務の一部を代行し、王選におけるエミリアの知識は出会った当初とは比べ物にならない。努力の成果は日増しに証明されている。

だが――、

『何をするにも、最後には必ず君の裁可を求める。とても面白い王に育つね』

「黙れ」

『そのことへの不安は君も抱いている。このまま、あれを王座に据えていいものか、常に揺らいでいるのは知っているよ。でも、そうせざるを得ない』

エミリアの部屋を出て、屋敷の廊下を歩くスバルにエキドナが毒を垂れ流す。

エミリアの精神が不安定になり、王選当初の志が大きく揺らいでいるのは事実。それでも、彼女は必ずルグニカ王国の王座につく。

他でもない、ナツキ・スバルがそうさせるのだ。

『死に戻り』を繰り返し、あらゆる艱難を彼女の前から排除し、どんな障害が立ち塞がろうと退け、エミリアの大望は必ず果たされる。

そしてそうすることは、エミリアだけでなく、レムを救うことにも繋がるのだ。

エミリアを支え、レムを救い、近しい人々を苦しみから遠ざける。――まさに、ナツキ・スバルが魔女と契約して望んだ未来そのものではないか。

――残念ですが、ナツキさん。ここでお別れです。

「――――」

ふいに、鼓膜ではなく、記憶を震わせる声がして、スバルの足が止まった。

振り返り、周りを見ても誰もいない。ならば魔女の悪趣味かと思えば、それは彼女の思念波でもありえない。もっと別の、記憶からの呼びかけだ。

声は続ける。

――僕はね、ナツキさん。これでも、あなたのことを恩人だと思ってました。大恩がある人で、できるだけそれに報いたいと、そう思っていました。

声は続ける。

――けど、あなたの決断を見て、わかったんです。あなたは誰の助けも求めてないし、それどころか、あなたは何もかも、一人でどうにかしようとして、できてしまう。

声は続ける。

――だから、これが僕の恩の返し方ですよ。たぶん、あなたは近くにいる人、みんなまとめて守ろうと必死になるでしょうから、僕は降りることにします。

声は続ける。

――では、さようなら、ナツキさん。お体に気を付けて。

声は続ける。

――僕は、あなたのことを友達だと思ってましたよ。

声は続ける。

――あなたは、そうじゃなかったでしょうけど。

「――ッ!」

最後の言葉が脳裏に響いた瞬間、スバルは力任せに拳を壁に叩きつけた。硬い音が廊下に鳴り響き、スバルの拳が痛々しく割れる。

拳骨に血を滲ませながら、スバルは荒い息を吐き、反対の手で頭を掴んだ。

今のは、忘れもしない、オットー・スーウェンの残した言葉だ。

『聖域』を経て、魔獣『大兎』を退け、ベアトリスを燃え盛る屋敷から連れ出して、その全てを己の経験だけで切り抜けたスバルに、オットーはそう言って屋敷を去った。

去り際の彼の背中は、あれから一年以上も経つのに、消えてくれない。

それはまるで、全てを救うことを選んだスバルを責めているかのようで。

『でも、彼を止めることもしなかった。実際、守る人間が減ってくれることは、君にとっても幸いだったはずだ』

「違う。そんな打算的な理由で止めなかったわけじゃねぇ。ただ、あいつの意思を尊重しただけだ。そもそも、あいつはここに残る理由がなかった奴なんだからな」

積み荷の買い取りと、魔女教から救出されたことの恩返し。

だが、恩返しについては竜車を飛ばして、時限装置で吹き飛ぶはずだったエミリアを救う手助けをしてくれた時点で貸し借りはなくなっている。

積み荷の方は、相応の金額を渡した時点で、やはりこれも貸し借りなしだ。

オットー・スーウェンに、エミリア陣営に協力する理由は何もない。

彼がそうした理由もなしにここに残るとすれば、それは彼自身にとって、行商人を続けるために出ていく以上の理由が、この場所になければ成立しない。

だから、出ていくと決めた彼を止めることはしなかった。それに、オットーの『言霊の加護』は有用ではあったが、王選を勝ち抜くのに必須ともいえなかった。

そもそも、エミリア陣営に関わり続けることは、『王選』と『魔女教』の二つの点から危険性が拭えない。ここを離れた方が、オットーにとっていい。

その後の噂は聞かないが、ほんの二週間ほどの付き合いだ。大した縁でもない。

ナツキ・スバルが命を投げ出して、守らなければならない人たちは他にいる。

「――――」

滴る血を靴裏で踏み躙って、スバルは頭を振ってから歩き出した。

最近はこうして、どうにもならないことに思考を強姦されることが多すぎる。苛立たしい。腹立たしい。何より、エキドナはそれを楽しんでいる節がある。

考えることが無数にあるのだ。自分の、頭の中にかかずらっている暇などない。

最適を、最善を、最良を、最高を、最大を、選択しなければならない。

それなのに――、

「――――」

早歩きに廊下を抜けて、スバルは自室に舞い戻る。今の自分の顔を、うっかりにでも誰かに見られるわけにはいかなかった。

ナツキ・スバルは平静で、理性的で、楽観的で、普段と何も変わらない。

そう在るように、屋敷にいる全ての人たちに信じてもらわなければならない。

そうでなければ、守りたいものも守れない――。

「――あら、ずいぶんと焦った様子で戻ってきたようだけれど」

部屋に入り、後ろ手に鍵をかけた瞬間、部屋の中からの声にスバルは顔を上げる。

そのスバルの過剰な反応を見やり、ベッドに腰を下ろしていた『黒い女』が嫣然と微笑み、その三つ編みにした長い黒髪をそっと手でかき上げていた。

「時間通りに戻ったはずなのに、そう睨まれては困ってしまうわね」

「――エルザか」

「ええ、その通り。『腸狩り』エルザ・グランヒルテ、ご主人様の命令に従って、こうして馳せ参じた次第。――ご迷惑だったかしら?」

そう言って艶めいた仕草で小首を傾げるのは、女性的な体を惜しげもなく晒した黒い衣装を纏う美女――妖艶だが、毒蛇めいた美貌を放つ殺し屋、エルザだ。

音も気配もなく、寝室に先回りしていた女を、スバルは最初に驚きを通り越したあとはすんなりと受け入れる。

当然だ。彼女は敵ではない。心を許せる味方ではないが、それでも味方ではある。

なにせ――、

「わざわざ、焼ける屋敷から引っ張り出してまで助けたんだ。その分、働いてもらう」

「わかってる。別に今の雇い主であるあなたに不満はないもの。私は、私の趣味に反さない範囲で依頼を選ばせてもらうけれど……今のところ、文句はないわ」

腰に備え付けたククリナイフを引き抜き、鈍い輝きを見せつけながらエルザは笑う。

彼女には現在、陣営の裏方としての協力を申し出ている。

陣営のトップであり、穢れることのできない象徴であるエミリア。

『剣聖』として、表立っては揺るぎない評価を得ているラインハルト。

そして、数々の難局を被害ゼロで食い止め、乗り越えてきたナツキ・スバル。

そうした、明るい評価の下、自由に動けないスバルたちに代わり、エルザには汚れ仕事に手を染めてもらう機会が多い。無論、汚れ仕事といっても、その内容は決して卑劣なものとは限らないが――。

「それで、首尾はどうだった?」

「残念だけれど、教わった拠点には『暴食』の姿はなかったようね。いたのは有象無象の魔女教徒ばかり……一人残らず、自由にさせてもらったけれど」

「ああ。それはお前の好きにしていい。……けど、外れか」

朱に濡れる唇を舐めるエルザの報告に、スバルは顔をしかめて息を吐く。

外れ、またしても届かない。『暴食』の大罪司教を捕えるための手は何度も打っているのに、どう足掻いても奴に届かない。

「結局、『強欲』が殺せただけか」

「それに『憤怒』は捕えてある。上首尾だと思うけど、あなたにとってはそうじゃないのかもしれないわね」

「……とにかく、報告はわかった。ひとまず、また適当に待機しててくれ。頼みたいことがあるときは、またこっちから連絡する」

「そう。――じゃあ、待っているとするわね」

エルザの言葉には取り合わず、スバルは早々にそれだけ言いつけた。それを受け、彼女は特に気にした風もなく立ち上がり、窓際へ向かう。

スバルの部屋は屋敷の三階にあるのだが、窓から入ってきたのだろうか。別にそのぐらいの軽業、こなしたところで何の驚きもないが――。

「あ、待て、エルザ。聞きたいことがある」

「――? 何かしら、難しいことはわからないのだけれど」

「そんな大したことじゃない。お前、外からこっちにきたんなら……森の向こうの天気はどうだった? 雨とか大丈夫だったか?」

「天気? ええ、別に何の問題もなかったわ。少しだけ雲が厚いのだけれど、崩れる心配はたぶんないでしょうね。それが?」

「いや……」

首をひねり、スバルは自室の魔刻結晶を眺めた。時刻はすでに火の刻――陽日の七時を回っていて、すでに昼時を過ぎた頃だ。

それだけ確かめると、スバルは窓枠に足をかけたエルザの傍へ歩み寄り、

「頼みたいことができた。――そのナイフで、俺の首を刎ねてくれ」

「――頭、おかしくなったわけではないのかしら」

「いたって正気で言ってるぜ? 必要なことだから頼んでるだけだ」

スバルの発言に珍しく目を丸くして、エルザはそれから獰猛な気配を噴出する。しかし、それを浴びてもスバルの姿勢は一向に変わらない。

その堂々とした様子に、エルザは肩をすくめた。

「普通に考えると、首を刎ねられた人間は大抵は死ぬのだけれど」

「俺も、それに該当する方だと思うぜ。お前はどうか知らないけど」

「私も、首を落とされたら死ぬと思うわ。……本当にいいの?」

「最初、お前を助けたときに言ったはずだ。――依頼とは無関係に一個だけ、俺の言うことを聞いてもらう。今がそのときだ」

重ねて願い出るスバルの態度に、エルザはすっと目を細めた。そして、彼女は自らの得物であるククリナイフを手にすると、その鋭利な刃を掌の中で旋回させ、

「言い残すことは?」

「痛くしないでね」

「――――」

「あ、あと、死んだあとの俺の腸は好きにしていいから、屋敷の人間には手を出すな。まぁ、そのためにラインハルトを置いて――」

その言葉を言い切るより前に、エルザの腕が風を切っていた。

一瞬だけ、スバルの視界が綺麗にひっくり返る。そのままくるくると部屋の中を見回しながら、見慣れた自室に血がぶちまけられるのを見届けて、

――ああ、部屋の掃除、ペトラに悪いことしたな。

と、思いながら、スバルの命はぷつりと消えた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――虚ろな夢から目覚めるとき、スバルはいつも息苦しい感覚を味わう。

だが、そこからの解放は今回は早い。

おそらく、眠りの目覚めとは異なる形で、ナツキ・スバルが再構成されたためだ。

「――――」

上体を乱暴に跳ね起こして、スバルは汗の滲んだ額に手を当てる。冷たいそれは寝汗というよりは、落命の衝撃を引きずって流れた脂汗に近い。

ともあれ、スバルの体は自室のソファの上にあり、陽光が窓から差し込んできていた。

「朝、か」

刎ねられたはずの首に触れて、スバルはゆっくりと立ち上がる。首をひねり、うっかりと頭が床に落ちないことを確認しつつ、扉の上の魔刻結晶で時間を確かめた。

薄く緑色に光る結晶は、時間が早朝であることを示している。

問題は、それが『いつ』の朝であるかなのだが――。

「――――」

それを確かめるために、スバルは自分のペンダントに触れた。黒い結晶石がチェーンで繋がれたそれは、スバルの現実と夢の城とを繋ぐ通行手形のようなものだ。

掌に握り込んだ結晶石から、熱い感覚と脈動が流れ込んでくる。それとスバルの鼓動が一致すれば、訪れるのは白い光と、世界が切り替わる証明だ。

「――――」

目を開ければ、スバルはまたしても、あの広大な草原の真ん中に立っている。

振り返れば丘があり、花園のすぐ傍らにあるパラソルの下では、白いテーブルに向かう黒服の魔女が優雅にカップを傾けているのが見えた。

丘を上がって、魔女の下へ向かう。

「おい、今日は……」

「――――」

テーブルに手をついて、優雅なティータイムを続ける魔女に噛みついた。だが、彼女はそれには何も答えず、ただ静かに正面の席を指差してみせる。

そこにあるのは空席と、来客のために淹れられたお茶のカップだ。そしてそれは彼女がスバルに提示した、茶会に参加する最低限の条件――。

「クソ、飲めばいいんだろうが、飲めば!」

舌打ちしながらカップを掴んで、スバルは一気にその中身を喉に流し込む。途端、淹れたての茶の熱さに目を剥き、

「ごぶぁ――!?」

「わぁー!? ちょっとちょっと! 君、いくらなんでもそれはないんじゃないか?」

「うるせぇ! お前が気難しい魔女なんか演じて、面倒な手順踏ませようとするからこんなことになって……げほっ、がほっ、ぶほっ!」

茶を逆流してむせるスバルに、さしものエキドナも大慌てで席を立つ。それから彼女はスバルの背中に手を当て、咳が落ち着くまで背中をさすり続けた。

そうして、しばらくスバルがげほげほとやってから、

「あー、お茶は?」

「はぁ、今回はいいよ。また、せっかく淹れたお茶を吐き出されても敵わない。それにテーブルも、汚したままにしておくのは不憫だからね」

口元を拭いながら、仕切り直そうとするスバルにエキドナは首を横に振る。

魔女はスバルの吐き出したお茶で汚れたテーブルを眺めると、軽く指を鳴らしてみせた。すると、テーブルは溶けるようにほどけ、塵になって消えてしまう。

「やれやれ、椅子にも少しかかっているな。ボクに立ち話をさせるような人間、そうそういなかったっていうのに……君も罪作りな男だね」

「むせて吐いただけの話だぞ。――それより、大事な話だ」

からかうようなエキドナの言葉を切り捨て、スバルは指を立てる。

確認しなければならないこと、それはたった一つだ。

「今日は、いつだ? キスダムの月、十四日……で、間違いないか?」

「――――」

「エキドナ?」

「少し焦らしてみただけだよ。せっかちすぎると、事は逃げてしまうよ」

「――エキドナ」

魔女の遊戯に付き合う暇はない。スバルの言葉にエキドナは肩をすくめると、

「正しいよ。安心していい。君の『死』は、君を当日の朝に引き戻した。今回の起点はこの日の朝に固定されたようだ。確信があったのかい?」

スバルの質問に答えて、エキドナは逆にそう切り返す。

一方、スバルは『死に戻り』したのが同じ日の朝だと確認できて一安心した。そして、その心地のままで、エキドナの質問に首を横に振る。

「いや、特に確信とかはなかった。最悪、前のセーブポイントに戻るかと思ったけど」

「前の、となると二ヶ月前のことだ。ずいぶんと思い切りのいいことをしたものだね」

「かもしれないな。毎回、エルザでも驚くんだなって不思議な気分になるけど」

とはいえ、雇い主が唐突に自分を殺せと言い出せば、あの快楽殺人者であるエルザでさえも正気を疑って当然だろう。

それでもわりと毎回、すぐに逡巡を切り捨てて従ってくれるあたり、『死に戻り』装置として非常に彼女は優秀だ。

「ただ、今回の『死に戻り』が今日の朝ってのは、あれだな」

「そうだね。そうなると……また直近で、何か問題が発生するらしい」

顔をしかめたスバルの発言に、瞑目するエキドナが同意する。

『死に戻り』の始まり、セーブポイントの移行、それはナツキ・スバルにとって、『死に戻り』がなければ越えられない艱難が降りかかる、その予兆だ。

そして、それはつまり――、

「またお前の力を借りることになるな」

「なに、それが契約だからね。それに、ボクから力を貸せるようなことはこれまで通りに特にはない。――せいぜい、ここで君に口出しするのが精いっぱいだ」

「その精いっぱいに、救われることも結構あるからな」

「……あまり、魔女を掌で転がそうとするべきじゃないよ。そんな簡単に君の思い通りになると思われては、他の魔女たちに示しがつかない」

視線を逸らし、エキドナは自身の長い髪に指を通しながら、どこか照れ臭そうにそんな風にこぼす。その姿にスバルは胸の高鳴りのようなものは覚えないが、それでも、戦いを前にして、微笑ましいものを見たような気持ちにはなった。

「ともあれ、頼りにしてるぜ、『強欲の魔女』」

「いいとも。こちらこそ、君の奮闘に大いに期待させてもらう。できれば、もっとボクの好奇心を満たすために協力的になってくれれば幸いだが……」

「それは断る。お前の無限の好奇心に付き合ってたら、俺の人間性が枯れ果てるのは時間の問題だからな。誰が、そんな無限の選択肢を試すような真似ができるかよ」

「それは残念」

と、おどけた仕草でエキドナが言えば、新たな戦いの前のティーブレイクは終了だ。

思わぬ形で『死に戻り』の地点が変わったが、ある意味、これは先制攻撃の機会を得たと割り切ってもいい。

「先制攻撃されてばっかの『死に戻り』が、まさかの先制攻撃に役立つか」

そう述懐して、スバルは丘を下って、現実へ戻るための扉へ向かう。

その背中に、エキドナが微かに声を高くして、

「そういえば」

「うん?」

「『死に戻り』地点の変更を理解したわけでなかったんなら、君は何のためにわざわざ『死に戻り』をしたんだい?」

「ああ。それは――」

それは――、

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

夢の世界の扉を潜り、ナツキ・スバルの意識が現実へと回帰する。

「――――」

扉の上を見上げれば、魔刻結晶の示す時間は先ほどから変化していない。相変わらず、現実時間と実時間の違いに慣れないまま、スバルは洗面所に向かった。

顔を洗い、歯を磨き、笑顔の形成に苦労して、それから手早く服を着替える。

そして、それがちょうど済んだ頃に、

「――スバル様、起きていらっしゃいますか?」

部屋の外からノックの音が届いて、スバルは時間通りだなとソファから腰を上げる。そして部屋の扉に手をかけ、こちらから開け放ってみせた。

「わ」

「よ、おはよう、ペトラ。今朝も可愛いな」

突然にドアが開いて、向こうに立っていたペトラが目を丸くしている。だが、彼女はすぐにそれがスバルの悪戯だと気付き、はにかむように笑った。

「もう、びっくりさせないでください」

「すまねすまね。で、ペトラ。挨拶はしてくんないの?」

「ホントに反省してくださいよ? まったく……はい、おはようございます、スバル様。今朝も、気持ちのいい朝ですよ」

軽薄なスバルの態度に言及せず、ペトラは愛らしく微笑んだままそう続ける。その言葉はまさしく、『死に戻り』する前の朝とまったく同じ流れだ。

そうなれば、彼女の次の発言も同じになる。

「気持ちのいい朝、同感だ。今日もペトラが可愛くて、言うことなしだな」

「また、スバル様ったらそんなこと。……でも、森の向こうの空には雲がかかっていて、昼過ぎから天気が崩れるかもしれないみたいです。今日は町にお買い物にいく予定があるので、晴れたままでいてくれるといいなぁ」

そんな願望を口にする少女、その言葉尻に歳相応の顔が覗くのを聞いて、スバルは思わず噴き出しそうになった。それを見て、ペトラが頬を膨らませるが、スバルは「悪い悪い」と前置きしながら、

「でも、安心しろよ、ペトラ。今日も、一日ちゃーんと晴れたまんまだ。雲は見かけ倒しで問題なし。俺が断言するぜ」

「え? ホントですか? それはすごい助かります。……でも、なんでわかるの?」

「そりゃ、もちろん……」

スバルの断言に目を丸くして、ペトラは首を傾げる。

そんな少女の疑問に、スバルは歯を見せて笑いながら、言った。

「――そのために、命懸けで戻ったぐらいだからだよ」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

緑の草原、花園の香る小高い丘、白いパラソルと白いテーブルが存在する定位置で、喪服のような黒い衣装を纏った、どこまでも白い少女が優雅にカップを傾ける。

温かな茶の味を舌で楽しみながら、魔女は陶然とした息を漏らし、

「自身の命を、誰かを救うために、守るために、傷付けないために、差し出す。それはとても高潔で、気高く、誰からも称賛されて然るべき偉業だ。それも、一度では済まない繰り返しの苦行に挑むなんて、ますますを以て、そう思わざるを得ない」

己の胸に手を当てて、魔女は自身と契約した少年の姿を思い浮かべる。

必死で理想を求め、現実に打たれながらも抗うことをやめず、『死に戻り』という最悪の異能を我が物として、懸命に戦い続ける、愛すべきニンゲンを。

「――だが、『死に戻り』で自らの命を差し出すことで周囲を守ることは諸刃だ。自分の命を軽視するあまり、君は自分以外の命の価値に固執しすぎた。自分の命に価値が見出せなくなったから、大切な人たちの命を守ることに必死になりすぎて……今度は、大切な人たちの命『以外』に目がいかない。それは、どこまでも」

どこまでも、どこまでも、たった一つに縋りつく姿勢は、あまりにも愚かで。

そして愚かということは、無知ということは、知れるということは。

「――君は本当に、ボクにとって好ましい人だ」

まるで恋する乙女のように頬を染め、魔女はこの場にいない少年を想う。

結晶石越しに、彼のゲートを通じて、世界が手に取るように伝わってくる。そして降りかかる苦難は彼を砕き、そのたびに、無意識に彼は魔女に依存していく。

その精神を強く保ち、魔女の誘惑に耐えているつもりで、傀儡と化しても。

たかだか天気の一つを確認するために、『死に戻り』することをいとわない精神性になっているとしても、そんなことにも気付かず。

「でも、安心してほしい。君の大切な人たちの命は、ボクも全霊を賭して守るために知恵を吐き出そう。だから、そのために君も――」

――魔女の尽き得ぬ好奇心を満たすための、共犯者で在り続けてほしい。

苦難のときが、理不尽な運命が、これからも何度となく少年に降りかかる。

それがどれだけ辛いものであろうと、高い壁であろうと、しかし、少年と魔女は手を取り合って、互いに力と知恵を貸し合って、乗り越えていくのだ。

それが『強欲の魔女』が差し出した、焼けつくようなアイなのだ。

「ああ、それにしても――」

少年のゲートを通じて、少年が守るために奔走し、少年に守られた結果、その心の多くに傷を負った人々を感じながら、魔女は嘆息する。

それは永遠に解けぬ命題、死してなお、彼女を虜にして離さない謎。

ああ、それにしても――、

「――愛は何故、減るのだろうか」

結局、ナツキ・スバルがナツキ・スバルを軽視すれば、それは自分の命を軽はずみに扱うようになって、他人の命を守ることが言い訳になって、他人の命以外を蔑にしちゃうんだねって、そんなお話。

なお、このルートですが、四章以降をお読みの方はおわかりの通り、ある登場人物【ヒント:魔女!】が大量にホラを吹いています。

魔女ってマジクソだな!という感想が出ればよし。

しかし公式で、猫カフェとかやってる裏で原作者がこれだよ。

第六章25 『二層エレクトラの待ち人』

お久しぶりです! 本編です!

ちょっと思い返しながら書いてるので、ややテンポ悪いですがよろしくお願いします。

これからぼちぼち、再開していきます。

――女、一人の女がいた。

女は虐げられていた。家族に、一族に、愛すべき同族に、軽蔑され疎まれていた。

産み落とされる前、女には期待がかけられていた。それを生まれは裏切った。

残されたのは落胆と失望、与えられたのは侮蔑と嘲弄。それが女の唯一の所持品。

一族には悲願があった。かつての栄光と繁栄の証、神と呼ばれた始祖の再臨。

あらゆる秘術とあらゆる非道、犯した禁忌は数知れず、その結実が女であった。

だが、生まれた女は悲願を裏切り、一族は失意と絶望に女を見限った。

「どこへなりとも生きて死ね。それが貴様の罪業だ」

家族からも同族からも見捨てられ、野に放たれたのは赤子の時分。

生きる術なく野に投げられて、女子供に生き残れるはずもなし。

しかし女には、生きる術はなくとも生きる力はあった。

皮肉にも、それは犯した禁忌と重ねた罪過、一族の悲願が生んだ負の饗宴。

言葉も知らず、知恵も持たず、ただ本能に従って、女は野で長らえ生き延びた。

獣を殺し、生き血を啜り、地を這い回り、泥水を舐める。

やがて時は過ぎ、赤子は少女に、少女は女になり、野で過ごすのも難しくなる。

野獣の如く山を荒らす女の噂を聞きつけ、男共がその命を狙い、女は捕えられる。

囚われた女は見目麗しく、男たちは女の命を奪わず、女は飼われることになる。

男共の言いなりになりながら、次第に女の意識は野から人里へ下りてくる。

生きるために足掻く必要をなくし、男たちの欲望に晒され、生きるだけの日々。

いつしか女は寝台で、知らなかったものを男たちから得ることになる。

言葉を、知識を、生き方を、そして感情を。

いつしか待遇は変わり、身を飾るものを贈られ、宝石のように女は扱われる。

その日々の中、女は男たちに奇妙な感慨を抱いていく。

それが感謝や恩義に似た何かであると、そのときの女は気付けない。

女はその感慨を抱いたまま、住処にいた男たちの首を全て折った。

容易く、一息に、苦しませずに、一瞬で、全員を一纏めに、葬った。

住処を抜け出し、野に赴き、何の迷いもなく、女は自分の故郷へ帰りつく。

そこに住まう同族に、自分と同じ血の通った一族に、自分よりはるかに大きな体を持った人々に、女は奇妙な感慨を得る。

それが憎悪と復讐心だと、そのときの女は気付かない。

ただ、泣き喚き、許しを乞う声はなかなか痛快で、女は初めて心から笑った。

「ここで潰えて、無様に死ね。――それが、あんたらの罪業さね」

その喜びを得るために、女は次々と同族を、血族を、一族の悲願を自らすり潰す。

丁寧に丁寧に、一つたりとも残さず、余さず、時間をかけて、一人ずつ、確実に。

やがて全ての同族が死に絶え、何もかもが終わったとき、女は男たちと共に過ごした住処へと舞い戻った。

同族の亡骸は打ち捨てて、しかし男たちの亡骸は全て丁寧に埋めてやる。

そうして一人だけになった住処で、女は長い長い息をついた。

それが安息であるのだと、それが安らぎであるのだと、女は初めて幸福を覚える。

もう誰の邪魔も入らない。考えることも、行動することも無用の中、眠りに落ちる。

――『怠惰の魔女』は、延々と続く惰眠を、飽くなき安寧を貪り続ける。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――二層『エレクトラ』への階段は、大階段とでも呼ぶべき威容を誇っていた。

六層から五層、そして四層へと上がるまでにあった長い長い螺旋階段と比較して、その大階段は横幅も、一段の高さもかなり大きい。

そもそも、部屋が丸ごと階段部屋へと書き換わっているのだから、その威圧感たるや推して知るべし、である。

何もなかったはずの空白の部屋、その空き部屋に出現した大階段。

それを目前に腕を組み、スバルは長い嘆息をこぼす。そして――、

「なんか、ずいぶんと長い間、ここで足踏みしてた気がする……」

「え? 階段、見つけたばっかりだけど、急にどうしたの?」

やけに実感のこもったスバルの言葉に、隣に立つエミリアが目を丸くして驚く。

その反応にスバルは「いや」と首を横に振り、それから背後に振り返った。そこには大階段を発見し、この塔の設計者の底意地の悪さを共有した同行者が揃っている。

その変わらぬ顔ぶれに、スバルは何故か奇妙な安堵を覚えた。

「――? スバル、なんでベティーのおててをこねてるのかしら」

「ここにいるって実感が欲しくて……おほん、それはもういいんだ。悪い」

繋いだ手をこねられて、怪訝な顔をするベアトリスにスバルは愛想笑い。

そして、改めて室内の面々に向き直ると、背後の大階段を指差した。

「で、気を取り直してなんだが……この大階段、実は最初からここにあったのに、みんなが揃って見落としてた、なんてことはないよな?」

「さすがに、これだけあからさまな階段を見落としていたとは考えにくい。――ただ、この部屋だけに限定した場合、その見落としも否定できないな」

「ってーと?」

「探索中にあった違和感、の話やね。うちもそれはちょぉわかるわ」

スバルの疑問を受け、頷き合うのはアナスタシアとユリウスの主従だ。二人の納得にスバルは首を傾げるが、そこにエミリアが「はい」と手を上げ、

「スバルが寝てる間のことなんだけど、私たちはこの四層に集まったりしてたの。レムとパトラッシュが緑部屋で休んでるのもあるし、三層の謎解きにも挑戦してたから。それで、どの部屋に荷物を置くか、みんなで歩き回ってたんだけど……」

「そのとき、この部屋はなんとなく全員が避けたのよ。無意識のことだったけど、今にして思えば……」

「なんか、認識阻害的な方法で遠ざけられてたんじゃないかって?」

エミリアの言葉をベアトリスが引き取り、その結論をスバルが口にする。その推測にエミリアとベアトリスは頷き、アナスタシアとユリウスも同じく首肯した。

大階段を発見して、初めて全員が「そういえば」と気付く類の認識阻害――だとすれば、この部屋には最初からこの大階段があったのかもしれない。何らかの魔法で階段が見えないようにされていて、気付けないカモフラージュか。

「まぁ、でなきゃ三層で石板の謎解きが終わったときに、うっかりこの部屋にいた誰かが出てきた階段に潰されるとかありえるもんな……」

「スバル、石板ではなく、モノリスだ。混乱は避けたい。呼び方は統一しよう」

「モノリスモノリスモノリス! 満足したか? 話進めるぞ」

おざなりな対応にユリウスが不満げなのが目の端に入るが、スバルはそれを食傷気味に無視。視線を、ここまで会話に入ろうしてこなかった二人――階段の傍で遊んでいるシャウラと、その背に掴まるメィリィへと向けた。

「ん? なんスか、お師様? はっ! ひょっとして、あーしが役立てる場面がきたッスか!? お師様のためなら、何でもするッスよ! 連帯保証人にもなるッス!」

「お前、絶対意味わかってなくて言ってるよな! それは親兄弟とか友達に言われてもなるな。一応、確認しとくけど、お前、この階段のことは……」

「苦節、あーしがここで暮らして云百年……初めて見るッスね!」

「メィリィ、遊んでていいぞ。スコーピオンテール引っ張ってやれ」

「別に、お兄さんに言われなくても遊んじゃうけどお」

「痛い痛い痛いッス」

相変わらず、塔の攻略には何の役にも立たないシャウラ。彼女への折檻をメィリィに委託して、スバルは改めて大階段を見上げた。

四層まで上がる階段と違い、この大階段は螺旋状の構造をしていない。通常、階段と呼ばれるものと同様に、真っ直ぐに上階へと続く形だ。ただ、塔の構造上、真っ直ぐに階段を上がる形では、三層を通り越して二層へ繋がる大階段など、塔の外へとはみ出してしまうようにしか思えないのだが――。

「そこは不思議パワーで何とかしてるのかな……」

「もしくは、これが二層に繋がってる階段と見せかけて、全然別の場所に繋がってる階段だとか……それだと、意地悪すぎるかな?」

「この塔にいると、エミリアたんの純朴さが汚されて、どんどん意地悪い人間の思考に染まってく恐れがあるな。早く攻略したい」

「――?」

よくわからない、とエミリアが首を傾げる。が、この大階段を発見したのも、そもそも三層攻略に必要なヒントになってくれたのも、元を辿ればエミリアの発言だ。

プレアデス監視塔or大図書館プレイアデスといったこの建物は、設計者の思考が反映されて非常に底意地の悪いギミックがいくつも仕掛けられている。

それを次々と解き明かすエミリアは頼れると同時に、彼女の性格が曲がってしまわないか、健やかな日々を過ごしてほしいスバルとしては悩み所であった。

「とはいえ、ペースは悪くないよな。三層の『試験』だって、言っちまえば俺は初回クリアしてるわけだし、塔の攻略は三日で三分の一が終わったといえる」

「四百年以上も進展がなかったことを思えば、とんでもない進捗ペースかしら」

「そう言われると、確かにやべぇな。……いや、でも、俺って案外、何百年も動いてない歴史を動かす男だからな。歴史を動かす男ってパワーワード感がすごい」

振り返れば、『白鯨』の討伐協力に加え、魔女教大罪司教『怠惰』撃破に『大兎』の討伐。『強欲の魔女』の墓所での『試練』突破にも一部貢献し、大罪司教『強欲』を倒して、人類未踏のプレアデス監視塔到着。そして、誰も挑戦していなかった『試験』の一つをクリアし、これから二つ目の『試験』へ臨もうと――。

「過程省いて功績だけ箇条書きすると、俺って馬鹿みたいだな……」

それまでの間に散々死んでいるので、胸など到底張れたものではないが、それにしてもここ一年でこの世界の歴史を動かしすぎている。

意図的に動かしているつもりはないが、少なくとも今後、大罪司教『暴食』と『色欲』には落とし前を付けさせる必要があることを考えると、あと二つは歴史を動かされることを覚悟しておけ、世界――といった気分だ。

「って、あれ? どしたの、エミリアたん。急に俺の手なんて握って」

「……ううん。ただ、スバルはもうちょっと、もう少し、自分のことをちゃんといたわってあげた方がいいと思うの」

「俺ぐらい自分にダダ甘な奴ってそうそういないし、エミリアたんとかベア子が優しくしてくれるから、これ以上は贅沢だよ」

レムが目覚めればレムも、きっとそこに加わる。厳しいけど、優しい。

それにペトラやパトラッシュ、ガーフィールやらオットーも追加すると、スバルが自分で自分に甘くする余地など残るはずもない。

「――――」

そんなスバルの受け答えに、エミリアは何か言いたげに唇を震わせ、しかし言葉が見つからず、ただ上目遣いにスバルを見つめるだけに留まった。

握られた手に込められた力が微かに増し、スバルは首を傾げる。

しかし――、

「ナツキくんのこれは、もう根っこの部分の問題やと思うよ。一日二日ですーぐ直るもんとはうちには思えんもん。それこそ、エミリアさんが何でも使って教えてあげたら話は別やろけど……」

手を叩いて話に割り込み、アナスタシアがちらとエミリアを見る。その視線にエミリアは真剣な顔をしていたが、それはアナスタシアの求めた態度ではなかったらしく、

「――それは、望み薄みたいやしね。向いてないし」

「――? よくわからないけど、やり方を教えてくれたら私、頑張ってみるわよ?」

「そんなん絶対にイヤやん……うち、地竜に蹴られるの御免やし」

「地竜に蹴られるって、馬に蹴られるみたいな言い回しなのかな……」

ガーフィール語録とは別に、極稀に飛び出す異世界語録に新たな一ページが加わった。

ともあれ、エミリアとアナスタシアの会話にはスバルも首を傾げる部分が多い。そのままエミリアと二人で仲良く首を傾げ合っていると、アナスタシアは疲れた顔で嘆息し、そうしてから大階段を指差した。

「ほーら、いつまでも足踏みせんと、上にいってみぃひん? 三層みたいに頭ひねらなダメかもしれんし……ナツキくんがあっさり解いてくれるかもしれんしね?」

「三層と同レベルの意地の悪さだったら、俺も自信ねぇぞ、正直」

はっきり言って、スバルが三層『タイゲタ』の『試験』をクリアできたのは、たまたま星や星座に関連する内容で、スバルの知識にクリティカルしたからだ。

星座――それも、スバルの知る元の世界の知識が必要となる難題。その事実に、スバルはこの塔の設計者であるフリューゲルが、スバルと同じく異世界へと召喚された現代人であると当たりを付けている。

その点に限れば、二層の『試験』の内容が現代知識を必要とするものという可能性が高く、そこではスバルが役立てる可能性はあるが――、

「三層と違って、俺の知らない知識求められたら困るしな……フリューゲルだし、ドイツの歴史とか言われてもわかんねぇよ」

そんな漠然とした不安はあるものの、周りの期待の目を気にして言い出せない。エミリアやベアトリス、彼女らのこの目にスバルは弱いのだ。

足りないドイツの知識でも何でも、引っ張り出してどうにかしたいと思ってしまう。

「――しゃーねぇ。文字通り、次への階段が真ん前にあるんだ。ここでいかなきゃ男じゃねぇ。さぱっと挑んで、ズバッと攻略してやるぜ」

「生憎、この場にいるのは私と君を除けば女性ばかりだがね」

「心意気の問題なんだよ、水差すな! よし、いくぞ、ベア子!」

「んきゃーなのよ!」

ぐっと拳を固めて、意気込みを語ったところに水を差される。それに舌を出して言い返し、スバルはベアトリスを引っ張り上げると、軽い体を抱えたまま階段に足をかけ、一気にそれを駆け上がり始めた。

「あ、スバル、待って!」

勢いよく駆け上がるスバルを追って、エミリアが慌てて走り出す。その様子にやれやれと肩をすくめ合い、ユリウスとアナスタシアも続いた。

「裸のお姉さんはいかないのお?」

「裸、裸ってうるさいッスよ、チビッ子二号。大体、あーし裸じゃないッス。ちゃんとエロ可愛い格好してるッス。お師様セレクトにケチつけないでほしいッスよ」

「ケチとかじゃないけどお、置いていかれるのは困るでしょお。ほおら、急いで急いで」

「乗っかってるだけなのに偉そうなチビッ子ッス! お師様にあとでちゃんと躾けてもらうッス! あーしも躾けてもらいたいッス~!」

スコーピオンテールを左右に揺すって、嫌々と頬を赤らめながらシャウラが階段に足をかける。背に少女を負っているとは思えぬ軽やかさで、彼女は大階段を一度に五段は飛ばして先行する面々を追った。

「だだだだだだだだだ――!」

そんな後方のやり取りに目もくれず、ベアトリスを抱き上げたスバルは階段を駆け上がる。途中、器用にスバルの腕の中で姿勢を入れ替え、いつの間にかお姫様抱っこの姿勢でスバルに抱き着くベアトリス、その青い目が細められ、

「やっぱり、空間が捩れてるとしか思えないかしら。これだけ一直線に上って、塔の外に飛び出す気配がないのよ」

「外観からわからなかっただけで、塔がそんな形してるのかもしれねぇぞ」

「この階段部分だけはみ出すように? それだと、外から眺めて違和感があるから、せっかく階段を隠した意味がなくなるのよ」

「だよね。俺も言ってみただけ」

ベアトリスの推論に賛同しつつ、軽く息を弾ませながらスバルは頭上を仰ぐ。

不思議なことに、駆け上がる階段には上階の近付く気配がない。これだけ走っているにも関わらず、下るエスカレーターを逆走しているような徒労感があった。

「まさか、エミリアの言ってた嫌がらせが現実味を帯びてくる……」

階段だけ用意して、実は上と繋がっていない可能性――そんなゾッとしない想像にスバルが身震いするのと、唐突に頭上が開けたのはほとんど同時だった。

「う、お――!?」

「ひゃ」

明かりのない、石造りの階段通路を駆け上がっていたつもりが、突然に白い光に迎えられてスバルとベアトリスは一緒に声を上げた。

思わず、踏鞴を踏んで前のめりになりながら足を止めれば、いつの間にやら唐突に階段が終わり、新たな階層へと足を踏み入れている。

そこは――、

「白い部屋、再び……ってか」

「かしら」

立ち止まり、ゆっくりとお姫様抱っこしていたベアトリスを床へ下ろす。

思いの外、階段は長い道のりだった。少しはマシになった持久力でも、膝に手をついて呼吸を荒げることが止められないほどに。

そんなスバルの背中を撫でながら、床で爪先を叩くベアトリスが部屋を見渡す。その視線を追いかけ、スバルは唾を呑み込んだ。

階段を上りきった二人が到達したのは、三層『タイゲタ』での『試験』が行われた情景にそっくりな白い空間だ。床も天井も果てなく広がっているように感じられ、遠近感が根底から狂わされる不可思議な構造。

正しく、この白い空間が場所として固定されている印象を抱けるのは、やはり三層と同じように階下と繋がる、ぽっかりと空いた階段部分だけだった。

「わ、またこの部屋?」

その階段部分から続々と、スバルたちに続いてエミリアたちが姿を現す。彼女らは出迎えの白い景色に同じように驚いて、一様にげんなりと肩を落とした。

また『試験』が始まるのだと、わかりやすく提示されたような気分になって。

「うっかり、三層に上がってきたってことはないか?」

「それはないと思うの。四層から三層に上がるのに、段数は五十四段だったけど、ここは四百四十四段あったもの。十倍ぐらい上がってきてるでしょ?」

「か、数えてたの、エミリアたん?」

「ふふ、実は階段の段数を数えるのが最近の密かな趣味で……なんで頭撫でるの?」

自慢げに密かな趣味を告白したエミリア、彼女の頭をスバルたちが代わる代わる撫でていく。その撫でるのに参加しなかったユリウスやメィリィも、微妙に不憫そうな目をエミリアへ送っていた。

「なんだか、すごーく変な感じなんだけど……」

「と、とにかく、エミリアたんの大手柄だ。おかげで、一気に三層の十倍ぐらい上がってきたのがわかった。地味に二層飛ばして一層まできてるんじゃ説も浮かぶが、ひとまずここが二層だと仮定して考えると……」

「『試験』が始まるはずなのよ。たぶん、あれがその切っ掛けかしら」

エミリアの疑念は後回しに、スバルはベアトリスの指差す方向――階段を上がって、ちょうど正面に当たる場所、そこで存在感を主張する物体に目を留める。

三層『タイゲタ』でも、やはりああしたものが部屋の中央に陣取っていた。それに触れた途端、『試験』が始まる。ここも同じ条件ならば、おそらくはあの――、

「モノリスではないな。――剣だ」

黄色の瞳を細め、部屋の中央に突き立つ『それ』を見つめ、ユリウスが言った。

彼の言葉通り、白い空間に存在する『それ』は三層で目にしたモノリスではない。

――『それ』は、剣だ。

鞘から放たれた抜き身の剣が、その先端を白い床に突き刺し、立っている。

柄を上に向け、真っ直ぐに突き立つその剣は、ひどく美しくスバルの目に映った。

華美な装飾があるわけではない。素材の良し悪しなどスバルにはわからない。

ただ、過剰な装飾もなく、最低限の鋼に留まるその在り方が、美しく見えたのだ。

「雰囲気からして、さながら『選定の剣』ってとこか……」

「――――」

「はいはい、よぉ我慢したね。偉い偉い」

その絵面に対するスバルの呟きを聞きつけ、眉を上げたユリウスがなんとか自重した。その耐える様子をアナスタシアが褒めるのを余所に、スバルはひとまずシャウラへ目を向ける。彼女は自信満々の顔で、豊満な胸を誇示するように腕を組んでいた。

その表情には「何を聞かれてもわからないと答える準備は万全ッス!」と書かれていたため、スバルはついに何も聞かずに前に出る。

「スバル」

「大丈夫、だとは思う。三層の例を考えると、いきなり即死系の罠が起動するってことはないだろうから」

心配げなエミリアに頷きかけ、スバルは選定の剣へとゆっくりと足を進めた。当然のように一緒についてくるエミリアとベアトリス。その二人以外の面々は階段付近に待機し、何かあれば即座に反応できる構えだ。

「アナスタシアを逃がすとき注意しろよ。階段が長ぇから、うっかり突き落としたら死ぬまで転がり落ちるぞ」

「留意しよう。君こそ、エミリア様とベアトリス様への注意を欠かさずに」

「大丈夫。スバルはちゃんと私が守るから」

「ああ、守られるぜ」

親指を立てて応じてやると、気合い十分なエミリアの姿にユリウスが嘆息する。それを見届け、スバルは選定の剣の前に立った。

手を伸ばせば触れられる距離だ。この時点で、剣は確かな現実感を伴ってここにある。モノリスのように、不可思議な物体といった印象もない。

「とはいえ、塔ができた頃から刺さりっ放しの剣ってことになるからな。それが劣化してないだけ、十分に異常事態だ」

選定の剣を前に呟いて、スバルは軽く一呼吸――そして、剣の柄に手を伸ばした。

ぐっと掴み、微かな抵抗があるのを感じつつ、上へ力を込める。

一瞬、これが呼称通りに『選定の剣』だった場合、当たり前だがスバルには抜けない可能性が脳裏を過った――が、その懸念はすぐに杞憂に終わる。

「――――」

ほんのわずかに力を込めた途端、床に突き立つ先端があっさりと抜けた。

それは鞘から剣を抜き放つが如く、そうあるべきと定められたような流麗さで。

その直後に、それがくる。

『――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ』

「――ッ!」

鼓膜を通り越して、脳に直接響くような声が『試験』の概要を告げる。

予想できていた展開だけに、握った剣を取り落とすような無様こそ晒さなかったが、相変わらずの不思議現象に居心地の悪さは味わわされた。

やはり、脳に響くこの声は『自分』のそれによく似ている。

「車酔いみたいな感覚があるな……これ、今のはみんなにも……」

剣を抜いたスバルだけでなく、周りのみんなにも聞こえたのだろうか。モノリスのときは、触れた当人以外にも声は聞こえた。

だから、今回も――その意を込めて振り返り、スバルは気付く。

「――――」

――全員が息を詰め、一点に目を向けていることに。

「――――」

その視線につられ、スバルはそちらへと目を向ける。視線が向いていたのは、スバルが引き抜いた選定の剣のさらに正面――ちょうど階段から剣までの距離と、同じだけ剣から距離を置いた場所だ。

そこに、一つの影が出現していた。

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

ぼそりと、呟かれただけのはずのその声が、やけに大きくスバルには聞こえた。

剣を抜いた瞬間、聞こえた内容と全く同じ文言。しかし、それは今度は脳に直接響く自分の声ではなく、紛れもなく正面の人影から発された他人の声だ。

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

声が、まるで馬鹿の一つ覚えのように、その文言を繰り返す。

言ってしまえば機械的に、ある意味では自動的に、それとも本能的になのか。

不気味に繰り返される文言と、それを乗せる声色との落差に身震いが隠せない。その人影の声は、まるで心臓を剣先でくすぐるように、ひどく直接的だった。

「――――」

感じる身震いが恐怖なのか、感動なのか、快楽なのか、悲嘆なのか、区別できない。他人に感情をこうまで自由に弄ばれるのは、生物として絶対的な差がある証拠だ。

この距離で、ただ声だけで、命を、弄ばれている。

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

――赤い、長髪を無造作に背に流した男だった。

身長は、かなり高い。スバルより頭一つ分は上背があり、その身長に見合ったたくましい筋肉が男の肉体を覆っている。

その身に纏うのは鎧ではなく、防護の役割に何ら寄与しない紅の着流し――右腕の袖を抜いて剥き出しになった裸身、その胴回りに白いさらしが巻かれているのが遠目にわかった。

燃ゆる炎の色をした髪は背中の真ん中に届き、その左目は不細工な文様の入った黒い眼帯が覆っている。そして、眼帯のない右目は届かぬ天を映した空色だ。

きっと、静謐に悠然と佇んでいれば、見るもの全てが振り返り、絵画に残したくなるほど整った美貌――それを、野蛮で残酷、狂気的な笑みが台無しにする。

それは、あまりにも美しい姿をした、獰猛な獣だ。

この世で最も美しい凶獣――そんな存在に、スバルは呼吸することを忘れる。

「ひ」

時間が止まった錯覚の中、その静止を最初に割ったのは呻き声だった。

とすん、と軽い音がして、直後に「きゃっ」と少女が声を上げるのが聞こえた。動かせぬ視界、その端にかろうじて見えたのは、尻餅をつく黒髪の女――シャウラが床にへたり込み、その傍らでメィリィが目を白黒させる状況だ。

「ひ、ひ……」

ともすれば、シャウラは失禁しかねないほどに動揺していた。

ただでさえ大きな目を見開いて、美少女が決してしてはいけない顔で驚きと、その心中に吹き荒れる狂乱の大きさを表現している。

可能であれば、本能の訴えに任せるままにこの部屋から飛び出していたはずだ。

ただ、震える足がそれを許さなかっただけで。

――あの、ケンタウロスすら一方的に始末したシャウラが、怯えて動けない?

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

声は、怯えるシャウラが目に入っているだろうに、なおも変わらず繰り返す。

一層、不気味さの増す状況――しかし、同時に気付くこともある。

これほどのプレッシャーを放ちながらも、男は一歩もその場から動かない。――否、男はプレッシャーなど放っていない。男は、立っているだけだ。

ただそこにいるだけで、『魔女』に匹敵する存在感を他者に与える生き物なのだ。

「――っ」

息を呑み、瞬きすら忘れていた瞼を力ずくで閉じて、一瞬、落ち着く。

それからスバルは男から目を逸らさぬままに、一歩、後ろへ後ずさった。右手には選定の剣を、左手にはベアトリスの手を握り、硬直した彼女を連れて、後ろへ。

「え、エミリア……」

「わ、かってる……」

置き去りにするわけにはいかぬと、スバルはやはり硬直していたエミリアの名を呼んだ。その呼びかけに、エミリアも震える声で頷く。膝が震えるのを堪えられないままに、ゆっくりと彼女が動くのに合わせ、スバルは後ずさった。

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

距離が開く。なおも、男は動かない。ただ、それを繰り返す。

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

全神経を注ぎ込みながら下がり、へたり込むシャウラの傍へ辿り着いた。シャウラは相変わらず恐怖の顔を強張らせ、メィリィは彼女の腕を掴んで動けない。

彼女たちを連れて、この場から撤退。可能なのか。スバルの両腕は、剣とベアトリスの手を握る指はガチガチに固まってほどける気配もない。シャウラとメィリィの腕を掴んで、立ち上がらせることができるビジョンが浮かばない。そもそも、あの男はそれを見過ごすのか。あの男の目的は何なのか。何のためにここにきて、『試験』とは、この剣は何のために――、

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

繰り返される言葉、文言、それは二層『エレクトラ』での『試験』の提言。

それを男が繰り返すことに何の意味がある。剣を抜いた途端に聞こえた『試験』の内容と、それを繰り返す男と、愚者と、許しとは――。

「――天剣に至りし愚者、彼の者の……ゆる、しを……」

「――ぁ?」

思考が加速し、スバルの中で恐ろしい結論が生まれかけたのと、澱みなく繰り返されていた男の声、そこに澱みが生じたのは同じタイミングだった。

思わず呻くスバル、その不用意さにエミリアやベアトリスが緊張するのを感じるが、それはこの変化には何の影響もない。

――それ以上に、男の変化は明白だ。

「天剣、愚者の……許し、をぉ……あ、ああお、おーおー、あー」

「な、なんだ? なんだなんだ、何が起こる?」

「あ、あ、ああああああ――ッ!!」

「ぴぎぃっ!」

「どわぁっ!?」

澱みどころの話ではなかった。

棒立ちでいた男、その発言におかしな停滞が生まれ、次の瞬間に爆発する。男は自分の頭に手を当て、乱暴に髪を掻き毟りながら絶叫した。

その突然の振る舞いに豚のような悲鳴を上げ、ついに我慢しきれなくなったシャウラがスバルへと飛びつく。当然、支えきれない。彼女の腕に思い切りに抱きしめられながら、スバルは受け身も取れずに床にひっくり返った。

「――ッ!」

衝撃に一瞬、視界を火花が散る。その間にも鼓膜には男の絶叫と、スバルの腰にしがみついて嫌々と首を振るシャウラの泣き言が飛び込んでくる。

「あああああ――!!」

「ひやぁぁぁ! お師様お師様お師様助けてぇっ! いやッス! 助けてぇ!」

「お、お前、さっきから何を――」

「――るっせえぞ!! 二日酔いの頭に響くンだよ! 喚くンじゃねえ!」

「あふっ……」

落ち着かせる言葉が届く前に、ついにシャウラの精神が限界を迎えた。

それまでの暴れぶりがなんだったのか、シャウラは呆気なくぐるりと白目を剥くと、スバルの腰にしがみついたまま動かなくなった。

精神の均衡を失い、失神したのだ。

「嘘だろ、お前……」

「ぶくぶくぶくぶく……」

ご丁寧に、わかりやすく失神した状況を伝えるシャウラは完全に戦線を離脱した。試験官の立場上、彼女が塔の攻略に役立つ期待は低かったものの、ここまでの反応にははっきり言って予想外だ。

何せ、彼女の戦闘力だけは折り紙付き――その彼女が、これほど怯えるなどと、

「只者ではないと、そうお見受けする」

「あぁン?」

一歩、高い靴音が鳴り響くのと、不機嫌に男が唸ったのは同じ原因だ。

それは白い靴の踵で床を叩いて、前に踏み出した優麗の騎士――その手に、ひっくり返った拍子にスバルが手放した剣を拾い、頬を硬くするユリウスだ。

そのユリウスを目にして、男はその口の端を苛立たしげに歪めた。

「なンだ、オメエ。つーか、ここどこだ。ふざけてンのか、オメエ」

「いいや、ふざけてなどいない。こちらも、戸惑ってはいる。突然にこの場に貴方が現れたのだ。――警戒も、やむを得ないと思ってもらいたい」

「なンだ、オメエ。ややこしい喋り方してンじゃねえぞ、オメエ。オレの子分と似た喋りしてンじゃねえぞ、オメエ。オメエ、オレの子分かよ。違えよな。違えンなら紛らわしい真似するンじゃねっつーンだよ、オメエ」

ユリウスの、あくまで礼節に則った上で警戒を露わにした物言いに、男はますます不機嫌を強めた様子で舌打ちする。

それは先の文言を繰り返すだけの状況に比べればはるかに人間的だが、かといってうまく会話が成立しているとは到底言えない状況には違いなかった。

「――いい女、いい女、エロい女、ジャリ、ジャリ、子分、雑魚」

「残念だが、私は君の子分ではない」

「かっ! その言い方、ますます子分そっくりじゃねえか、真似すンじゃねえ」

ユリウスの反論に、初めて男が上機嫌に笑った。

異常に白い歯と、異様なまでに整った美貌と、異貌の狂気が混ざり合い、鮫のような笑みだった。

「――――」

ようやく、その笑みにかろうじて男の姿に人間性が垣間見えた。あるいは、ようやく会話の通じる、知的生命体である確認が取れたというべきか。

「おう、オメエ。説明しろや。なンだ、ここ。オレに何してくれてンだ、オメエ。上等くれてンじゃねえぞ、オメエ。ちゃきちゃき話せや、オメエ」

「いきなり、現れて……ずいぶん、偉そうだな、お前」

「あぁン?」

剥き出しの胸元に手を突っ込んで、無造作に自分の胸を掻き毟る男。その男に向かって、ようよう体を起こしたスバルが、絞り出すように言葉をぶつけた。

それを受け、隻眼の右目を見開く男が、寝転ぶスバルを睨みつけて、

「なンだ、オメエ。何寝てンだ、オメエ。いいご身分かよ、オメエ。エロい女侍らせて肉布団ってか、オメエ。そこ代われ、オメエ」

「生憎、当人の意思を尊重して、そのお願いは却下だ……」

震える膝を酷使して、スバルはなんとかその場に立ち上がる。その際、しがみついていたシャウラは強引に引き剥がしておく。引き剥がすときに配慮が足りず、頭から床に落ちたが、気を向けてやる余裕がない。

ただ――、

「あー、あー、あぁ? ンだ、オメエ。あれか、オメエ。ふざけてンのか、オメエ」

「……人の面見るなり、失礼か、オメエ」

「かっ!」

奥歯を強く噛むように、硬い音を響かせて男が獰猛に笑った。

それから、男は困惑するスバルを無視し、その隻眼で白い部屋をぐるりと見渡す。そして「おーおー、はいはい」などと納得した風に頷くと、

「わかった。――ンじゃ、始めっか」

「始めるって……待て! さっきから、お前勝手に話進めすぎだろ!?」

「るせえな、オメエ。さっきっから散々、オレが寝言で説明してやっただろうが、人の話はちゃンと聞けや、オメエ」

「さっきからって……」

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

状況についていけず、目を白黒させるスバル。それに代わり、何度も繰り返された文言を一言一句違わず呟いたのはエミリアだ。

かろうじて、彼女たちの硬直も解け始める。ユリウスとスバルに続いて、何とか時間の静止から解放されたエミリアとベアトリス、それにアナスタシアとメィリィも。

シャウラだけは、完全に意識をなくしたままだが――、

「かっ! そっちのいい女は雑魚とは違えな。生身だったら今夜の相手だ、オメエ。……よく見たらやべえな、オメエ。なんだ、その面、マブすぎンだろ、オメエ」

「まぶ……?」

「お前が! ここの試験官! そういうことで、いいんだな?」

エミリアを見て、どこか好色なものを瞳に宿した男。その男とエミリアの間に割って入り、スバルは指を突き付けてそう言った。

その確認に男は鮫のような笑みを深め、

「――知らねえ。他人の付けた肩書きになンざ興味ねえよ。オレはオレ。オメエはオメエ。それ以上に何がいる。オレとまともにお話したけりゃぁ、こっからオレを一歩でも動かしてみろや、オメエ」

「――――」

無防備に、ただ悠然と立ち尽くすだけの男の発言。

それを笑い飛ばせなかったのは、男の提示したその条件が、まさしく『試験』に値するほどに難易度の高い条件だと、すんなり受け入れられたからだ。

――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ。

目の前に立つ男が、『天剣に至りし愚者』だとすれば、許しを得る方法は教わった。

あとは、純粋に、それが、可能なのかどうか。

「ルグニカ王国、近衛騎士団所属。ユリウス・ユークリウス」

戦い――否、『試験』が始まる前に、ユリウスが礼儀に則って自ら名乗り上げた。

対等に、これから雌雄を決する相手への最低限の敬意。

それを受け、男はその青い隻眼を楽しげに細め、異常な剣気を垂れ流しながら、

「名乗る名なンざねえよ。――オレは、ただの『棒振り』だ」

大図書館プレイアデス、第二層『エレクトラ』の試験。

制限時間『条件付無制限』。挑戦回数『条件付無制限』。挑戦者『条件付無制限』。

――試験、開始。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

本当は、こいつを出してから更新止まる方がみんな気になったはずなので、

すごーく反省しています。失敗失敗。

第六章26 『棒振り男』

――女、一人の女がいた。

女は気が触れていた。女は狂気の淵にいた。女は、飢餓の極地に立っていた。

孤城で唸り声を上げ、空の玉座に齧りついて、歯を欠き、口を裂き、飢えていた。

生まれ落ちた日は人であった女は、このときすでに人ではない。

全ての始まりは数年前、この土地を治める男が不治の病にかかったこと。

日に日に衰え、迫る死に怯えた男は、延命のためにあらゆる手段に手を伸ばす。

やがてそれは禁忌の術法に及び、長らえるための悪逆無道に多くの命が集められる。

多くの命が犠牲になり、多くの命が無為になり、その犠牲の一つに女がいた。

自分が誰で、なんて名前で、どこの生まれで家族が誰で、そんな記憶は燃え尽きた。

女はただの道具だった。病魔に蝕まれ、死を待つだけの男の命の苗床だった。

費やされるだけの無為の命、そのはずが、女は生き残った。

滅びぬ肉体、湧き上がる力、時というものに置き去りにされる命の灯火。

病魔に侵された男の望みが、悲願が、女の肉体で実現された。

男は成果に歓喜し、犠牲者たちの追悼も後回しに、女の拘束を強引にほどいた。

――気付いたとき、女は一人、無人の孤城で飢餓に悶え苦しんでいた。

残酷なまでの飢えに思考は掻き消え、暴力的な渇きに記憶は白く食い荒らされる。

何も記憶にない。何もわからない。ただ、全身は拘束され、自由もない。

城内の食物は喰い尽くし、胃の中身を吐き出して、再び咀嚼するのを繰り返した。

最後には飢えのあまり、石壁を齧り、玉座を噛み砕き、絨毯を食い千切る始末。

このままでは、飢えて死ぬ。死ねない体で、飢えて死ぬ。

「ぐるぐる、ぐるる。ぐるぐる、ぐるる……」

忘我をもたらす極限の飢餓に、女はついに幻を見る。

孤城の中、自由気ままに駆け回るのは獣毛を纏った犬の群れだ。

幻覚でも構わない。物理的に満たされぬなら、心だけでも満たされたい。

その一心で女は這いずり、獣に喰らいつく。喰らいつかれる。喰い尽くす。

満たされる。直後に吐いた。吐いたものを舐める。咀嚼する。吐く、喰らう。

幻に、見間違いに、錯覚に、願望に、味がある。形がある。舌の上に転がる。

気付けば城内は、おぞましい獣たちの巣窟と化していた。

「あは、あはは、あははははははぁ」

歓喜した。喰らい、喰らわれる日々に埋没し、喰らっては満たし、満たしては吐く。

飢餓と拒食の板挟みになり、女は喰らっては吐き、啜ってはこぼした。

虚空より産み落とされる――否、産み直される、おぞましい気配の獣たち。

いつしか女の拘束は、獣たちとの喰らい合いに耐えかね、外れ、自由になる。

自由を得て、女は這いずり、城を出た。

獣たちも、女に続いて城を出る。地に、あちこちに、散らばっていく。

空腹は、飢餓は、絶えることなく、女は食い荒らし、喰い飽きた城をあとにする。

いつか、この飢えと渇きが満たされる日が訪れんことを。

――『暴食の魔女』は魔獣の群れを産み落とし、尽きぬ飢餓に飢え続ける。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――プレアデス監視塔、二層『エレクトラ』での『試験』が始まる。

場所は監視塔、第二層、白亜の領域。

試験官は部屋の奥に悠然と佇む、鮫のように笑った赤毛の男。

自らを『棒振り』と自称した男、その全身から放たれる剣気は尋常ではない。

現れた経緯も経緯だ。この監視塔の、一応の管理者であるはずのシャウラが彼を目にして気絶した実績もある。明らかに、只者ではない。

故に――、

「初手から、全力でいかせてもらおう――!」

「――――」

一歩、前傾姿勢になるユリウスが口上と共に踏み込んだ。

その腕から、男へ向けて柔らかく投じられるのは、元々、この『エレクトラ』の床に突き立っていた選定の剣だ。縦回転する剣が放物線を描き、それは男の足下に狙い違わず突き刺さる。

男が手を伸ばせば容易く抜ける、それを狙ったように。

「なンだ、オメエ。オレに剣、投げ渡すなンざ何のつもりだ。死にてえのか」

「生憎、無手の相手に斬りかかるような無粋、騎士として恥ずべき行為だ!」

「かっ! 笑わせやがる。――素手じゃねえよ、よく見ろ、オメエ」

踏み込むユリウスへ、男が牙を剥いて凶悪に笑う。そのまま、男は無造作に振り上げた足で乱暴に剣を蹴りつけた。選定の剣が、派手な音を立てて吹き飛ぶ。

それは正面、飛び込んでくるユリウスの真横を挑発的に通過し――、

「――っ! その言葉、後悔しないことだ!」

正々堂々、その心遣いを無下にされ、頬を硬くしたユリウスが騎士剣を抜き放つ。

細身の剣は一直線に、真剣勝負の場を穢す無礼者への鉄槌となる。

その、雷光のような刺突が――、

「可愛く吠えンなよ、間抜け。綺麗な面してンだ。泣かせて興奮したら困ンだろ?」

「な……っ」

一男の胴を穿たんとした刺突、それがまさしく雷鳴のような音を立てて止まる。

当然、ユリウスが手を緩めたのではない。彼は常に、自分のできる領分の中で全力だ。故に、止めたのは彼ではなく、相対する鮫の笑顔。

「馬鹿な」

「見たもンそのまンま信じろや。まずはそっからだ、そっから」

快活に笑い、『棒振り』がその右手で自分の胸をぼりぼりと掻く。その素振りには直前までの様子と何ら変わりがない。戯言を並べていたときと同じ態度だ。

しかし、彼の左手は恐るべき正確さで、ユリウスの刺突を摘まんでいた。

それも――、

「――木の、枝?」

「違えよ、よく見ろ、目が悪ぃのか、オメエ。箸だ、箸。ツマミ喰うのにいンだろうが、箸。だから、持ち歩いてンだよ」

遠目にも歪な形をした木の棒――『棒振り』はそれを左手で器用に操り、思わず呻いたスバルの知識と同じように扱ってみせる。この世界にも箸があるのは、プリステラでの滞在で身をもって体感したが、こうも完璧に使いこなす人間は初めて見た。

――否、どれだけ完璧に使いこなせたとしても、箸で一級品の剣技を受け止めてみせるなどとても人間業とはいえない。

「笑わせンな、オメエ。一番いい角度に、一番いい速さで、一番いい感じに、一番うまく振り回せば――箸だろうと、斬れねえもンなんかねえよ」

「ぐ……ッ」

驚愕の光景に、欠伸でもしそうな顔つきで『棒振り』がのたまう。その光景に言葉を失ったのは誰もが同じだが、当事者であるユリウスはそうはいかない。

彼は腕に力を込め、二本の箸に先端を止められた騎士剣を取り戻そうとする。だが、その細い箸にどれだけの力が入っているのか、剣は微動だにしない。

「言っとくが、箸は妙なもンじゃできてねえぞ。下手な素材じゃお肌に悪ぃからな。混じりっ気なしに、どっかその辺にあった木だ」

「く……なっ」

「力むな、力むな……笑えよ、オメエ。笑った方が美人だぜ。男じゃ意味ねえが」

ふいに剣の拘束が緩み、ユリウスは込めた力の矛先に刹那だけ戸惑った。その刹那の隙に身を回し、男の素足が跳ね上がる。それが凄まじい威力となって、ユリウスの細い腰の真上を蹴りつけ、弾き飛ばした。

「ユリウス――!」

悲鳴のように叫んだのが誰だったか、スバルにはわからない。ただ、迂闊な身動きを封じられたまま、軽々と吹っ飛んでいくユリウスの痩身を見送るしかなかった。

そして、空中で姿勢を制御できずにいる彼を追い、

「かっ!」

跳躍する『棒振り』の長身が、弾丸のような速度でユリウスへ追い縋る。ありえない身体能力でユリウスの真上へ追いつく『棒振り』、彼はその右手と左手にそれぞれ箸を一本ずつ構え、ユリウス目掛けて嵐のように斬撃――斬撃と言っていいものかわからないが、箸による暴力を叩きつける。

その、振るわれる腕があまりの速度に掻き消えて見える。それは誰の目にも同じであり、ただでさえ宙で不自由を強いられるユリウスには回避手段がない。

腕の中の騎士剣だけを頼りに、男の箸撃にユリウスは懸命に防御を合わせた。しかし男の箸はそれを嘲笑うように掻い潜り、ユリウスへ箸が突き刺さる、突き刺さる、突き刺さり、突き刺さり、突き刺さり、突き刺さり――、

「ジワルド――!!」

熱線が、中空で攻防を繰り広げる二人へ目掛けて放たれる。

白光はそのシンプルな在り方と同様に、恐ろしく端的に世界を削り取る。即ち、射線上にあるものを焼き尽くし、焼き切り、切断する熱波の刃だ。

直線的で、避けられやすいように思える難点――しかし、熱線はそれを光もかくやという速度で強引に潰し、獲物へと真っ直ぐに襲いかかる。

さしもの『棒振り』も、第三者による光の一撃には何の抵抗も――、

「――オレの剣は光も斬るぜ、オメエ」

嘯く声が聞こえるより早く、放たれる箸撃が熱線を正面から切り裂いた。

それは想像を超えた光景、ありえない幻影に誰もが目を剥く。ただ、男だけがそれを当然と嘲笑い、なおも空いた片手でユリウスを嬲るのを継続する。

おちょくるように――否、事実、盛大におちょくりながら。

「――ッ! ジワルドぉぉぉ――!!」

その事実に目を血走らせ、詠唱が重なる――。

両手を広げ、熱線を放つ魔法を詠唱するのは、その可憐な顔貌を決死の色に彩ったアナスタシアだ。彼女は広げた五指――両手の指、合わせて十本の先端から、それぞれ熱線を同時に放射、十条の死線が一斉に『棒振り』目掛け踊りかかった。

――それを、『棒振り』は驚くべき方法で回避する。

「かっ!」

『棒振り』は踊りかかる光を直前と同じように箸で切り払い、次の瞬間には何もないはずの宙を蹴りつけ、一気に真下へ急降下――自分の体に下敷きにしていたユリウス共々、白い床へ降り立つと、ユリウスの鳩尾に箸の先端を当て、そのままユリウスを地面に擦り付けるようにして走り出した。

「かかかかかっ! よく狙え、オメエ。蠅が止まるぜ、オメエ。それじゃ、色男も取り戻せねえぞ、オメエ。かかかかかっ!」

「ジワルド! ジワルド! ジワルドぉ――!」

高笑いしながら疾走する男に、アナスタシアはなおも追撃を仕掛ける。しかし、魔法の威力自体が高くとも、当たらなければ意味がない。

四方へ熱線が放たれるも、男はそれを時に切り払い、時に身を屈め、時にユリウスの上で身を回しながら易々と回避する。

圧倒的な技量と戦闘力、それと同時に浮き彫りになるアナスタシアの技術不足。

この場合、アナスタシアではなく、アナスタシアの肉体に収まっているエキドナの技術不足というべきか。ユリウスの窮地に魔力を振り絞るエキドナだが、それは意気込みと裏腹に完全に空回りし、攻撃は一度も掠ることさえできない。

やがて――、

「――ぁ、く」

「あぁン?」

時間切れ、それが先に訪れる。

楽しげに熱線を躱していた『棒振り』は、唐突に途切れる追撃に眉を上げた。その視線の先で、アナスタシアの華奢な体が崩れるように倒れる。

その鼻腔から鼻血が流れるのは、肉体に多大な負荷をかけた証拠だ。以前、彼女は自身で言っていた。切り札は、身を削るために多用できないと――。

「アナスタシア様――!」

「おぉう!?」

そうして倒れた主の姿に、防戦一方だった騎士が奮起する。背中で地面を滑らされながら、全身に浴びるような箸撃を受け続けていたユリウスが、ついに『棒振り』の暴威から身をよじって逃れていた。

胸元のボタンを外し、近衛騎士のマントを外して背の摩擦に変化を生み、男の絶妙な力加減から逃れた形だ。

そのまま、ユリウスは自身の馬鹿に細長い足を旋回させ、地に寝そべった姿勢から男の側頭部へと蹴りを放つ。男はそれを顎をしゃくるようなわずかな動きで避けたが、その隙にユリウスはブレイクダンスのような動きでなおも蹴りを二発、いずれも躱されながら姿勢を制御し、立ち上がった。

「今のはオメエ、オレ好みじゃねえか。そそるぜ、オメエ」

「戯言に付き合う暇はない! そこをどけ――!」

圧倒的力量差、それを理解しながらもユリウスが吠え、男へ吶喊する。あれほどの連撃を浴びながら、手放さなかった騎士剣が唸りを上げて蛇のように喰らいつく。

義憤と使命感に背を押されながらも、流麗かつ優美な剣撃――それはあるいは、騎士として修められる剣技の最高峰だったのかもしれない。

それを手に入れるのに、いったい、どれだけの月日が、修練が、血の滲むような努力の日々があったのか、わからないほどに。

なのに――、

「遊びか、オメエ。遊ンでンのか、オメエ。手ぇ抜いてンじゃねえぞ、オメエ」

「――ッ」

「なンだ、これ。笑わせンなよ、オメエ。本気出せや、オメエ。本気でやってンのか、オメエ。本気でやっててこれなら……とンだ、期待外れだぜ、オメエ」

刺突が止められ、斬撃が弾かれ、連撃が撃ち落とされ、必殺がいなされる。

ユリウスの積み重ねてきた剣技が、騎士として修めてきた全てが、『棒振り』を自称する男の退屈そうな吐息に、恐ろしく美しく凶悪に振り回される、二本の箸に。

たかだか、二本の棒切れに、ユリウスの『半生』が踏み躙られる――。

「こンなじゃねえだろ、オメエ。なに、一人で戦ってンだ、オメエ。これはオメエの戦い方じゃねえな。――だから、つまンねえな、オメエ」

「私は……」

「女のとこいきたきゃいかせてやンよ。やわっけぇ膝でも借りて、泣いて甘えろ。出来損ないの不細工剣士が」

一瞬、ユリウスの横顔を過ったそれは怒りか、痛みか、嘆きが、絶望だったのか。

いずれのどれであったとしても、その内心を他人が窺い知ることはできない。

「――――」

ユリウスの剣閃、細い騎士剣がこれまでに幾億と繰り返された銀閃をなぞった。

にも拘らずそれは、傍観する誰の目にも明らかなほどに、迷いのある剣撃で。

箸が、その剣閃に横合いから割り込んだ。

次の瞬間、翻る棒切れが易々と、鋼の騎士剣を半ばで断つ――ただただ軽やかな音を立てて、ユリウスの騎士剣が真っ二つに折れた。

吹き飛ぶ愛剣の先端を、ユリウスの黄色の瞳が呆然と見送る。その剣に如何なる謂れがあったのか、彼がいつからあの剣を使い続けているのか、わからない。

ただ、きっと、この瞬間に折れたのは、ユリウスにとって剣だけの話ではない。

「寝ろ」

吐き捨てる一言と共に、恐るべき拳骨がユリウスの横っ面に突き刺さった。

それは一切の洗練さと無縁の、この世で最も原始的な暴力。人間が道具を用いる以前の時代からあった、己が肉体という名の原初の武器による一撃であった。

「――――」

容赦のない一撃が、ユリウスの端正な横顔を歪めるほどにぶち抜く。重々しい威力が一瞬で彼の意識を刈り取り、糸が切れた人形のようにユリウスの体は慣性に従って吹き飛び、転がり、猛然と滑って――アナスタシアの、すぐ傍らに倒れた。

意識のない主従が並ぶ。それが、野獣のような男の場違いすぎる気遣いのように。

「さって、次は……」

準備運動を終えた、とばかりに首を鳴らし、男がこちらへ振り返る。

事実、準備運動のようなものだ。ユリウスが戦場を駆け出し、一方的に嬲られ、アナスタシアの援護が入り、二人が倒れるまでほんの数十秒の出来事――その間、スバルは割り込む隙すら見出せず、ただただ棒立ちする他になかった。

それはスバル以外の、残るエミリアたちも同じ――、

「――アイスブランドアーツ、アイシクルライン」

「――――」

――断じて、否。

それを証明するように、白い空間に光が舞った。

それは青白く煌めく光の乱舞、かろうじて目に捉えることが可能な氷の粒子――エミリアの絶対魔力が生み出した、氷雪結界『アイシクルライン』。

「一つだけ、聞いておきたいんだけど」

限定範囲内に自身の魔力と通じるマナを展開し、一種の結界を作り上げたエミリアが、その中心で眼帯の上から左目を掻く男に声を投げた。

「あぁン? 言ってみろよ、激マブ」

「私はエミリア、ただのエミリアです。――あなたを、一歩でも動かせばいいんじゃなかったの? すごーく、走り回ってたけど」

名乗り、それからエミリアが当然の質問を口にする。

戦いが始まる前、『棒振り』は確かに笑いながらそう言っていた。『自分を一歩でも動かしてみろ』と。その条件に従えば、彼は明らかにそれを破っている。

ユリウスとの戦いは、この部屋を縦横無尽に飛び回ったなんて次元ではなかった。

しかし、男はその指摘に「オイオイ」と肩をすくめて、

「真に受けンなよ、ノリで言っただけだぜ、オメエ。たまにあンだろ、特に意味もねえけどカッコいいこと言っちまうときが。それだ、オメエ。わかンだろ。わかンねえか、女だもンな。激マブだもンな。今晩付き合えよ、オメエ」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない。それに、私はきっと、あなたと戦っても勝てないと思うの」

「え、エミリア……?」

魔力を全霊で展開し、戦闘準備を整えながらもエミリアは堂々とそう言った。その発言に『棒振り』は目を丸くし、硬直していたスバルも喉から声を絞り出す。

その呼びかけにエミリアは「ごめんね」とスバルに断って、

「あなたは、すごーく強そう。それは、見ててわかりました。だけど、私たちは『試験』を乗り越えなきゃいけないの。だから、勝てる方法を用意してください」

「…………」

「一歩でも、あなたを動かせたら私たちの勝ち。それで勝負しましょう。……ダメ?」

眉尻を下げ、押し黙った男に向けてエミリアがそう提案する。最後に、ほんの少しだけ自信なさげに付け加えたエミリア、その言葉にスバルはぽかんと呆気に取られる。

それは何とも、どこまでも、馬鹿馬鹿しいほどに、図々しい申し出で。

その図々しい物言いに、『棒振り』はしばらく黙り込んだかと思うと――、

「かっ!」

と、歯を噛み合わせるように短く笑い、その青い目を見開いてエミリアを見た。それからじっくりと、男はエミリアの全身を舐めるように眺めると、

「――いいな、嫌いじゃねえぞ、オメエ。オレ相手によくぞそンだけ言った。トリーシャ以来の大馬鹿だぜ、オメエ。気に入った」

「じゃあ、『試験』は合格?」

「そこまで大盤振る舞いはしねえよ、オメエ! けど、いいぜ。いい女の前でカッコつけちまったかンな。カッコつけちまったからには最後までカッコつけねえと、死ンでも死にきれねえ。――オメエの言う通りにしてやンよ」

「合格……」

「一歩でもオレを動かせたらオメエの勝ちだ!」

食い下がるエミリアに、『棒振り』はどこか毒気を抜かれた顔で声を荒げた。それを受けてエミリアは頷くと、スバルの方へ視線を向けて、

「アナスタシアとユリウスをお願い。二人とも、治療してあげて」

「ま、待った! さっきの見たろ!? 無策でいっても……」

「大丈夫。向こうは殺す気はないみたいだし……私も、本気でいってみるから」

気合い十分、止めようとするスバルの言葉を振り切り、エミリアが一歩前に出た。そして、凛とした横顔のまま、エミリアはその両腕を『棒振り』へ向ける。

距離は開いたまま、遠距離から、彼女の魔法なら一方的に狙い撃ちにできる。

「激マブな面して、したたかじゃねえか、オメエ」

「やれることを精一杯やるのが、私の騎士様から教わったやり方な、の!」

太い腕を組み、圧倒的不利の立場にありながら男はただ獰猛に笑った。

その男の笑みを目掛け、エミリアが声に力を込めた直後――青白い光の乱舞するフィールドに、大気のひび割れる音が連鎖し、次々に氷の武器が形成される。

剣があり、槍があり、斧があり、矛があり、矢があり、無数の武器がある。

アイスブランドアーツ、アイシクルライン――エミリアの膨大な魔力を使った、限定的な絶対破壊空間、スバルの考案した絶技が今、発動する。

「えい、や!!」

気の抜ける掛け声、しかしその後の光景は欠片も腑抜けてなどいない。

エミリアの声と同時、その鋭い先端を男へ向けていた武器が、四方八方から一斉に『棒振り』へと目掛けて飛びかかった。

死角からも襲いかかる同時攻撃、それは正しく、防ぎようのない全体攻撃だ。

それに対し、男は再び、己の両手に二本の箸をそれぞれ持つと、無数の剣閃ならぬ、箸による暴威が荒れ狂った。

氷の、美しく切断される情景が、芸術的に繰り広げられる。

「――――」

エミリアの言葉に従い、ユリウスとアナスタシアの下へ駆け寄るスバル。二人の安否を確かめ、意識をなくしているだけであったことに安堵する。

アナスタシアは、おそらくエキドナの懸念通りに身を削った結果だ。鼻血もすでに止まり、安心とはいえないが昏倒しているだけ。そして、あれだけ一方的に嬲られたユリウスも、箸撃は彼の肉体を痛めつけてこそいたが、打撃以上の傷ではない。

百度と打たれた事実が、剣であれば百度殺されたことの証明ではあっても、ユリウスは手心を加えられ、生還していた。

「二人とも、無事かしら。でも……」

「わかってる」

隣で、同じく二人の様子を確認したベアトリスをスバルは遮った。

二人の安否は確認できた。だが、これを為した野獣と、エミリアは真っ向から激突している真っ最中で――、

「かっ!」

飛び散る氷、その破片を口に入れ、噛み砕いた男が楽しげに箸を振るう。その一振りに、同時に襲いかかった氷の剣と斧が真っ二つに切り裂かれた。

破壊された氷の武器は一瞬で淡い光へと還元され、野卑に乱雑に暴れ回る美しき野人の周囲を光が散る、いっそ幻想的な光景が延々と繰り広げられていた。

ただ、そうしていながらも――、

「――動かない」

「いっぺンカッコつけたら最後までカッコつけさせろや、無粋か、オメエ。死線上で男張れねえで、いったいどこで突っ張ンだ、オメエ」

呻くようなスバルの声を聞きつけ、『棒振り』が鼻歌まじりに魔法を迎撃する。その間も、まるで激しい舞いのように踊り狂っている上半身と違い、その両足はどっしりと床の上、山のような不動を保っていた。

その状態では、雨あられのように魔法を撃ち続けても埒が明かない。それは、戦場を俯瞰するスバルだけでなく、当事者であるエミリアにも訪れた焦燥感。

故に、エミリアはその膠着状態を打破するために、踏み込む――。

「――うー、やぁ!!」

細く、しなやかな肉体を躍らせ、銀髪をなびかせるエミリアが真っ直ぐ飛び込む。振り上げる両腕、その掌に生じるのは両手で振るう長大な戦斧だ。

それを、エミリアは豪快に体を縦回転させ、真上から男へ目掛け叩きつける。

「かかっ!」

その氷の戦斧の一撃に、男は慌てずに箸を跳ね上げ、射線上に割り込ませた。真っ直ぐに落ちる斧撃、その軌道が箸でほんの微かに逸らされ、そのズレは男へと向かって落ちる流れの中で徐々に大きくなり、ついには男の着流しの袖を掠めるようにして外れ、床に突き刺さる。

激しい衝撃と共に爆風が吹き荒れ、自らの威力に耐えかねた氷の戦斧が根本から木端微塵に砕け散る。だが、瞬時にエミリアはその斧を手放し、後方から射出される矛を奪うように手に取ると、身を回して次なる攻撃を開始した。

「えい! や! とりゃ! うりゃ! うりゃうりゃ! うやぁ!」

矛の一撃が、双剣の一閃が、長剣の斬撃が、刀の居合が、鞭の音速が、斧の打撃力が、叩き込まれるありとあらゆる攻撃が、男の前には容易く防がれる。

無論、エミリアの技術が低いわけではない。

エミリアの身体能力は高く、彼女の莫大な魔力と格闘能力を合わせたアイスブランドアーツは、考案したスバルが言うのもなんだが、エミリアの能力を十全に生かした戦闘技法と断言できる。

「――スバル」

手を強く握られ、ベアトリスが慮るような声をこぼす。それにいくらかの冷静さを取り戻してもらいながら、スバルは戦場に必死に目を凝らしていた。

割り込む隙が、見当たらない。それほどに、エミリアは流れるように得物を取り換え、自身の強みを活かし、自身の攻撃と、同時に嵐のような魔法攻撃を継続している。それはまさしく、あらゆる兵器による絨毯爆撃が繰り広げられる爆心地だ。

その爆心地のど真ん中にありながら、一歩も動かずにそれを処理するあの男が、ただの『棒振り』などと名乗った化け物が、異常なのだ。

迂闊に割り込めば、ただスバルがエミリアの気を散らせる要因になりかねない。

その懸念がスバルに動かせない。手を握り、押し黙るベアトリスも同様に、歯がゆさを堪えて戦場を見守る他にない。

このまま、エミリアの体力が底を尽くまで状況は動かせないのか。

そんな状況に、思わぬ変化が生じた。それも、唐突に。

「ふん! えい! てりゃ!」

エミリアの両腕が双剣を掴み、左右から男の首を挟むように斬撃を放った。それを男は首を下げて易々と回避、エミリアの両手から双剣がすっぽ抜ける。が、エミリアは即座に別の双剣を掌の中に生成し、交差した腕を開く要領で追撃――今度は男はそれを豪快に、床と平行になるような姿勢でのけ反るように避けた。

「かっ!」

「わっ」

膝を曲げ、床に寝そべるような姿勢から、男は強靭な足首の力だけで体を支える。一方、攻撃を空振ったエミリアは勢いに負け、腕を広げたまま一歩、下がった。

この戦いの中で、エミリアが初めて見せた、致命的なまでの隙――男にとっては幾度も機会はあったのだろうが、これはその中でもとびきり最悪の刹那だ。

そこへ、男は曲げた膝を伸ばして体を跳ね上げ、姿勢を戻す。エミリアは隙だらけのまま、舞い戻った男の様子に奥歯を噛んだ。

その瞬間、男はこれまでで最も獰猛に歯を剥き、鮫の笑みのまま前傾になり、

「隙あり」

手にした箸を使って、エミリアの双丘を下からすくい上げるように撫でた。

「な――」

エミリアは普段通りの白い衣装、白く滑らかな肌が見える格好だ。その胸部分を箸で撫で付け、豊かな膨らみを淫猥に歪ませ、男の野卑な笑みが深まる。

その卑猥な行いに、男は満足げに「かっ!」と喉を鳴らすと、

「役得、役得。これしきのことで怒ンじゃ……」

「とりゃ!」

「ごぁっ――!?」

頭上で両手を組んだエミリア、その手を覆うように生み出された氷のグローブが打ち落とされ、下卑た笑みを浮かべた男の頭頂部を直撃する。

一撃に氷が砕けるほどの威力、硬い衝撃音が響き渡り、その威力に男は「ぐおおおお!」と悲鳴を上げ、頭を抱えてその場にゴロゴロと転がった。

「痛ぇぇぇッ! な、何考えてンだ、オメエ!? 普通、あンな真似されたら女は行動が鈍ンだろうが! 一瞬も躊躇わなかったぞ、オメエ!?」

「――? 体に触られただけでしょう? あなた、隙だらけだったもの」

「ざっけンな! どういう育ち方してンだ! 親は何してやがったンだ!」

殴られた頭をさすりながら、地面に胡坐を掻く『棒振り』が声高に訴える。その叫びにエミリアは目をぱちくりさせ、箸に撫ぜられた自分の胸に触れて、

「……何か、変なこと言った?」

「おい! この激マブ何とかしろ! 外歩かせンな! 雑魚! オメエ付き人だろうが! オメエ、ちゃンとしろや、しゃンとしろや、痛えな、オメエ、クソ……!」

「お、前に、エミリアのことであれこれ言われる筋合いはねぇよ。それより……」

「あぁン!?」

気圧されながらも、スバルは荒ぶる男の言葉に何とか言い返した。そして、エミリアに卑猥な手を伸ばした事実への怒りをいったん後回しに、男を指差す。

それから、告げた。

「一歩どころじゃなく、動いてる」

「――――」

「あ! ホントね! やった! 私の勝ち!」

スバルの指摘に男が黙り込み、代わりにエミリアが両手を合わせて飛び跳ねる。

彼女の周りではその感情に呼応し、氷の魔力が次々と花となって咲き乱れ、エミリアの勝利を自分自身で祝うように花開くのがわかった。

男の提示した、自分を一歩でも動かしてみろという条件は達成された。

それは誰の目にも明らかで、男がごねない限りは、適用されるはずだ。

「お前は、どう出る?」

疑いなく、自分の勝利と『試験』の達成に喜ぶエミリアには悪いが、スバルは目の前の男の往生際をそこまで信じていない。ここまでのやり取りで、彼に潔さを期待するのが難しいのは自明の理だ。

この負けに憤慨し、ついには制限を捨ててこちらへ襲いかかり、一連の『試験』の流れを全てなかったことにしたとしても不思議ではなかった。

そんな警戒に、スバルの額を一筋の汗が流れ落ち、頬を伝ったときだ。

「あー、仕方ねえ。言ったことは言ったことだ。スケベ心に足すくわれるなンざ笑い話にしかなンねえが、仕方あンめえよ」

「み、認めるのか……!?」

「オメエ、オレを何だと思ってやがンだ。ここで食い下がったら、せっかくカッコつけたオレの株が下がンだろうが、オメエ。取り返しつかねえだろうが、オメエ。そンなことになって、責任取れンのか、オメエ。女寄り付かなくなンだろ、オメエ」

「現時点で、株なんか下がりようがないぐらい最低の負け方してるぞ……」

「るせえよ、雑魚が! 雑魚っつーか、稚魚が! 稚魚が喚くな、オメエ。とにかくその激マブの勝ちだ。通してやるよ。それが条件だ。しゃああンめえ」

がりがりと乱暴に頭を掻いて、『棒振り』は堂々と自らの敗北を認めた。

潔いのか潔くないのか、わけのわからぬ口上。しかし、その宣言が出た以上は、スバルもこれ以上は食い下がるつもりはない。

ユリウスとアナスタシア、二人が男との攻防で倒れた被害こそあるが、おそらくは緑部屋に運び込めば十分に回復が見込める範囲だ。

第二の『試験』としては、あまりに手応えがないように思えるが――、

「――で、次は稚魚がやンのか? それとも、ジャリ二人のどっちかかよ」

「え?」

上の階層へ向かえる。

その理解に思考を走らせていたスバルは、続く男の言葉に目を見張った。その反応に男はゆっくりと立ち上がり、着流しの左肩――剥き出しになっていた右肩同様に、左肩を抜いて、こちらへ向き直る。

――空気が、焼ける臭いがした。

それが、男から迸る桁違いの剣気――先ほどまでのそれが遊びに思えるほどの、劇的な変化による本能の訴えであると、スバルは遅れて理解して。

「塔にいンのが、全部で七人……抜けたのが、オメエの女がまず一人」

「――――」

「次は、誰がオレを抜いてくれンだ。――なぁ、オメエよ」

大図書館プレイアデス、第二層『エレクトラ』の試験。

制限時間『条件付無制限』。挑戦回数『条件付無制限』。挑戦者『条件付無制限』。

――達成者、エミリア。

――未達成者、スバル、ベアトリス、ユリウス、アナスタシア、メィリィ、ラム。

――『試験』、続行。

第六章27 『エレクトラの壁』

――女、一人の女がいた。

女はどこにでもいる、生まれも育ちも平凡な村娘だった。

父母に愛され、兄弟に愛され、女もまた家族を愛する、極々普通の女であった。

家の決めた許婚がいて、凡百の村娘と同様に寒村の片隅で定まった生涯を終える。

それが女にとっての人生、疑う余地もない舗装された在り方だった。

そんな女の平凡は、村を訪れた下衆な権力者によって打ち砕かれる。

自分の何が良かったのか、ただ人のモノを欲する悪習だったのか、いずれの事実かわからぬまま、権力者は女を強引に欲しがった。

小国の寒村であろうとも、権力者との間には拭いきれない格差がある。

権力者の求めに、女は逆らえない。運命の不条理に、ただ屈する他にない。

だが、女は愛されていた。家族に、許婚に、村々の人々に。

権力者の横暴に耐えかね、人々の怒りは燃え上がり、それはやがて戦火を生む。

炎は延焼し、村々は軍となり、ついには権力者は館ごと焼き尽くされる。

たったの一晩で女の立場は大きく変わる。

ただの平凡な村娘から、挙兵した一団の首魁、その許婚の立場へと。

なおも尽きぬ炎の猛り、これを危険視した周囲は次々に手勢を向ける。

そのことごとく、女のためにと奮起する人々によって返り討ちに。

戦火は瞬く間に燃え広がり、やがて小国を、周辺国を、大国を焼き尽くす。

その発端とされた女の存在は知れ渡り、人々は彼女を天上の美姫と噂する。

幻想に幻想が重なり、膨れ上がる関心と期待に、女の細い体は潰れそうになる。

そのことに誰も気付かない。家族も、許婚も、人々も、誰も女を見ていない。

手を振れば歓声が、道を歩けば人波が、声をかければ感涙が、女へと向けられる。

「こんな、の……おかしい。ま、間違って……る……」

顔を覆い、否定する。そんなはずがない、こんなはずがない。

自分はただの村娘、天上の美姫でも傾国の艶女でもなく、一介の村娘。

どこにそんな価値がある。

人々は夢に酔っている。幻想に惑わされ、理想に踊らされているのだ。

やがて歯止めの利かないままに、大国さえも女を発端とした炎が焼き尽くす。

滅んだ大国、奪った城、その頂で許婚は女に跪く。そして、告げた。

「――君を愛している。この勝利も、人々の笑顔も、全ては君がくれたものだ」

燃え上がる首都、積み上がる死体、狂喜に打ち震える人々。

共に過ごした村人たちも、彼女を愛した家族も、女の幸福を願った許婚も。

もう、誰も、どこにもいない。

――女は、許婚に返事をせずに去った。家族も、村人も、何もかも捨てて。

与えたはずがない。欲したこともない。女はただ、全てを失くしただけだ。

確かにあったはずの、愛されていた日々を失くして、女は一人、焼け野原を行く。

それでも、夢は、幻想は、理想は女を逃がさない。

行く先々で、誰もが女を愛し、女に尽くし、女を欲し、全てが滅んだ。

誰もが女を愛する。呪いのように。その内側の、本当の愛も知らないで。

『色欲の魔女』は失くした愛を求めて、滅びを迎える愛に愛され続ける。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――放たれる剣気が野放図に、『エレクトラ』に挑むスバルたちへ突き刺さる。

紅の着流し、その両袖を抜いて、さらしを巻いた上半身を剥き出しにする男。

『棒振り』は狂気的な目つきで、絶望的な宣言をこちらへぶつけてきた。

二層の『試験』――試験官である『棒振り』に上層へ進む資格を認めさせることが条件であるそれは、常識外れの男の技量によってすでに二人の脱落者を出している。

そんな条件下でも、持ち前の胆力とおねだり、そして圧倒的物量を武器にした戦闘力で何とかエミリアが勝利をもぎ取ったのだが――、

「――誰か一人でもクリアすればいいって条件じゃねぇのか!?」

「あぁン? 誰がンなこと言ったよ、勝手抜かすな、オメエ。なンで一人がいけたら残りも全部いけることになンだよ。常識で考えろ、常識で! 頭の中身も稚魚か、オメエ」

「せ、世界で一番、常識なんて言われたくない奴に正論を……!」

両手に一本ずつ持った箸をぺしぺし交差させる男、その正論にスバルは呻く。

実際、『試験』におけるクリア条件を勝手に早合点したのはこちらの方だ。

三層での試験内容が謎解きであり、解かれた途端に部屋の構造自体が変化したのも、その早合点に拍車をかけたといえる。てっきり、二層の『試験』も一人がクリアすれば、新たな書庫が開放されるものと勘違いしていた。

その前提が崩れ、クリアに個々の戦力が必要であるとされれば、この『試験』の突破は絶望的であるといえる。

エミリアの引き出した条件――『男を一歩でも動かす』というものが、その内容の簡易さに反して、どれだけ難儀なものだったのかを目にした直後だ。

はっきり言ってしまえば、エミリアは現状、このプレアデス監視塔へ挑戦するメンバーの中ではユリウスと並んで最高戦力――ユリウスが準精霊との契約が切れている以上、異論なく一番強いのが彼女といっていい。

そのエミリアに、男が最も油断している初戦での突破を許してしまった。

つまり、一番弱体化した状態の敵に、一番強い先鋒をぶつけてしまった形だ。

これが一回限りの勝利でよければまだしも、個々の勝利が必要となる勝ち抜け戦とした場合、以降は隙のなくなる男相手に、戦闘力に劣る次鋒たちをぶつけていかなくてはならないということだ。

一歩、男を動かす――エミリアがあれほどの攻撃と、ほんのわずかな幸運の果てにもぎ取った勝利を、はたして自分たちが勝ち取れるのか。

「――待った、なのよ。お前の言い分には決定的な誤りがあるかしら」

「誤りだぁ?」

戦慄し、不利な戦況の中に勝利の糸口を探ろうとするスバル。そのすぐ真横で、落ち着けとばかりに強く手を握ったベアトリスが、男にそう言い放っていた。

それを受け、不機嫌になる男はベアトリスをその隻眼に収め、

「なンだ、オメエ。十年早えぞ、オメエ。せめて五年はいンだろ、オメエ。もっとちゃンと手足と背丈伸ばして、胸と尻ズドンってなってからこい、オメエ」

「……元々、お前の戯言に付き合うつもりはなかったけど、今ので完全にその気がなくなったのよ。だから、ストレートにぶつけてやるかしら」

「すとれーとに、何を?」

「決まっているのよ。――エミリアはお前に、一歩でも動いたら『私たち』の勝ちと言ったかしら。つまり、エミリアの勝利はベティーたち全員の勝利なのよ!」

「――っ!」

ベアトリスの指摘にスバルは息を呑み、思わずエミリアの方を見た。

まさか、あの図太い交渉にはそこまでの意図があったのか、とエミリアの秘められた悪女ぶりに驚愕する。そのスバルの視線の先で、エミリアは口に手を当てて「あ」と言っていた。違った。素だった。E・M・Tだ。

「そう、そういえば、私言ってた! 私たちって言ったわ! どう? それなら、私たちは全員であなたの『試験』を乗り越えたことにならない?」

「そりゃ言い方の問題だろうよ、オメエ。ならねえよ」

「そう……わかったわ。スバル、ベアトリス、ごめんね。ダメだって……」

「引き下がるのが早すぎるかしら!!」

がっくりと肩を落とし、神妙な顔で引き下がるエミリアにベアトリスが怒鳴った。しかし、落ち着いて考えれば無理のあるトンチだったとスバルも思う。

そんな可能性に縋りたくなるぐらい、壁の高さを絶望視したというのもあるが。

「まぁ、そのジャリの言い分もわからなくはねえよ。最初はどうも、何人掛かりでもいいンでオレを抜いてみろって話だったみてえだしよ。――言いなりになンのはつまンねえから、無理くり起きてやったけどな」

「無理くり起きたって……最初のあれは、システム破りってことか!」

「知らねえよ、オメエ。オレにわかる言葉使えよ、オメエ。若白髪みてえなことばっか言ってンじゃねえぞ、オメエ」

上機嫌と不機嫌がころころ入れ替わる男、その男の発言に適当に頷きつつ、スバルはなんとなく男の正体――『試験』の、システム部分にある推論を立てた。

三層と二層の『試験』、そして出現直後の正気になかった風に思えた男の発言とその後の言行。それらの端々から窺えた違和感とを結び付けて至れる理解。

要するに、本来の『試験』と現状の『試験』との間には、致命的な齟齬がある。

「本当は、全員で協力して条件を満たせばいいだけの『試験』が、お前が『起きた』のが理由で、一人ずつ条件を満たさなきゃいけなくなった?」

「かっ! なンだ、わかンじゃねえか、オメエ。けどな、どっちが楽だったかはわかンねえぞ。総掛かりでオレを殺すのと、オレに胸揉ませて一発殴ンのとどっちが楽だったかはわかりゃしね……っと!」

「――迂闊なこと言ってんじゃねぇよ、セクハラ野郎。俺は静かに切れてるぞ」

不用意な一言、そこへ怒りを込めた鞭撃が襲いかかった。

腰の裏から引き抜いた鞭を、スバルは肘から先だけの動きで速度重視に叩きつける。が、男は音速に迫るはずの鞭撃を箸で難なく受け止め、摘まんで揺すった。

当たる見込みは低かったが、鞭の奇襲はこれにて失敗――、

「かっ! 棒振りする雰囲気じゃねえと思ったが、まさか鞭かよ、オメエ。どンな趣味だ、オメエ。鞭で引っ叩くのは敵と、オメエの女だけにしとけや」

「お前は敵で合ってんだろうが! それに、エミリアとはもっとちゃんと順序踏んでくつもりだし、踏んでった先に鞭使うような選択肢もねぇよ!」

「スバル、スバル、落ち着くのよ。わけわかんないこと言ってるかしら。それに、相手のペースに乗せられてるのよ!」

「そうよ、スバル! そんなに怒っちゃダメ! 私はただ胸に触られただけだし、おかしなことはされてないから」

「それがおかしなことなんだよ、エミリアたん!」

「普通は怒るとこなンだぜ、激マブ」

落ち着かせようとするエミリアの言葉に、スバルと男が同時に突っ込んだ。その息の合った注意にエミリアは目を丸くし、ベアトリスが深々と嘆息する。

そこへ――、

「――ちょっと、いいかしらあ?」

毒気を抜かれた、と言わんばかりの四人のやり取り――そこに、ここまでずっと沈黙を守り続けてきた人物が、満を持して声を震わせた。

「……こんなこと言いたくないけどお、引き返すべきだと思うわあ」

そう言って、小さな手を上げたのは濃い青髪を三つ編みにした少女――メィリィだ。少女はその膝に失神したシャウラの頭を乗せたまま、ゆるゆると首を横に振る。

奥に佇む男、彼を映した黄緑の瞳に確かな怯えを宿しながら、だ。

「なんで、お兄さんがその人と普通に話せるのかがわからないわあ。……騎士のお兄さんも、襟巻きのお姉さんもやられて、裸のお姉さんだって」

「シャウラだけは別の理由で倒れてんだが……確かに、妙だ」

メィリィの弱気な意見は、しかし現状戦力を顧みれば当然の判断だ。

むしろ、この場に残ってなおも挑戦を続行しようとしたスバルの方が冷静になりきれていない。完全に、『棒振り』の剣気に中てられている。

そこに、エミリアへのセクハラと、ユリウスとアナスタシアの二人が倒れたことがどれだけ影響しているかは客観的になれないが――、

「――仮の話、引き下がって出直しってなったら、それは認めてくれんのか?」

「――――」

エミリアのクリアを認めた潔さ――引っ込みがつかなくなっただけともいえるが、それを見せたあととはいえ、それ以外の部分も物分かりがいいとは限らない。

メィリィの真っ当な判断を実行に移すにも、相手がそれを認めなければ戦闘は避けられないのだ。先ほどまでは不殺の手心が相手にあった。だが、ギアを入れ替えたとばかりに振る舞った今、次の挑戦にも命の保証があるとは限らない。

そうなれば、挑戦どころの話ではない。撤退するのに、全力を出す必要がある。

掛け値なしに、『棒振り』の実力は破滅的なレベルに達している。

棒切れ二本でユリウスを撃破し、エミリアと渡り合い、なおも明らかに余力を残した態度――その実力、誇張なくラインハルト級だ。いったい、この塔の管理者は何のつもりでこんな化け物をここへ置いたのか。

三層での『星座』を題材とした謎解きも含め、クリアさせる気がないとしか思えない有様ではないか。

「どう、なんだ?」

じりじりと、踵をずらしながら背後に倒れるユリウスとアナスタシアへ近付く。そのスバルの動きに気付いて、ベアトリスとエミリアもそれとなく位置取りする。

『棒振り』が牙を剥くことがあれば、その瞬間にエミリアが再びアイシクルラインを発動し、ベアトリスのムラクを倒れた三人にかけて駆け出す以外にない。最悪、まだ未完成の、ベアトリスとの切り札第三弾を発動することも考慮して――、

「――やめだ」

「え?」

「やーめーだ! やめだやめだやめだやめだやめやめやめ! 萎えた!」

身も心も全力撤退に向けていたスバルたちへ、男は唐突にそう言い放った。その子どものような態度にスバルたちが目を剥くと、男は抜いた左袖に再び腕を通し、着流しを最初と同じ状態へ羽織り直した。そして、不機嫌に歩き出すと、警戒するスバルたちとは離れた位置――哀れにも、蹴り飛ばされた選定の剣へと向かった。

その、落ちた剣を男は踏みつけて跳ね上げ、軽々と受け取る。それから、先端を勢いよく白い床に突き刺し、『試験』が始まる前と同じ状態へと戻した。

そして――、

「店仕舞いだ。帰れ、オメエら。オレは飽きた。やってやらン」

その場にどっかりと腰を下ろし、片膝を立てた姿勢で吐き捨てるように言った。

「――。ま、待て待て待て! 自由すぎるだろ、なんだそりゃ!? お前の気分で、『試験』のあれこれを勝手に決めるのかよ!?」

「るせえな、オメエ。元々、ここの裁量はオレに任されてンだぞ、オメエ。そのオレがやらねえつったらやらねえンだよ」

その傍若無人な言いように、スバルは思わず絶句する。そんなスバルの驚きに、男は「それに、だ」と続け、

「――やる気がねえときのオレは遊ばねえぞ。オメエ、やれンのか?」

「――――」

ぶわ、と風が吹く悪寒をスバルは全身に浴びた。

箸さえも懐に仕舞い込み、一切の武装を捨てた男は口の端を歪めている。それは、笑みに違いなかったが、これまでのそれとは質が異なる。

獰猛でありながらも陽の雰囲気があった笑みではない。どす黒く血生臭い、陰惨な殺意を纏った凶獣の微笑だった。

「……ぁ」

小さく、呻く声が聞こえた。

見れば、それはスバルのものではなく、横にいたはずのエミリアのものだ。彼女は自分の白い喉に手を当てて、宝石のような瞳を見開いて驚愕している。

膝が落ちて、床にへたり込むエミリア。自身が立てなくなっていることにも、呼吸を忘れてしまっていたことにも、この瞬間に気付いたとばかりに――、

「は――」

そして、それはエミリアの反応に呼吸を『思い出した』スバルも同じだ。気付けば息苦しさに膝をついて、スバルはおびただしい量の汗に全身を濡らしていた。

エミリアと同様に――否、彼女以上に、男の剣気に威圧された。

心臓の鼓動すら忘れかけ、殺されかけたと言ってもいい。

周囲に、思い出させてくれる誰かがいなければ、今頃は眼力だけで死んでいた。

「せいぜい、頭ひねって勝ち筋探せよ、オメエ。激マブと同じ手は通用しねえぞ。寝てるエロ女ぐれえでもねえ限りな。失せろよ、オレは寝る」

低い声色に遊びなく、それだけ言って、かくんと男の頭が下がった。しばらく待てば、徐々に聞こえてくるのは寝ていてもやかましい男のいびきだ。

ある意味、全くその人柄を裏切らない高いびき――しかし、そのことを笑う余裕など、この場に残った誰一人にもなかった。

「早く、戻りましょお」

一刻も早く、この場を離れたい。

そんな本能に逆らわずに主張するメィリィ、少女の言葉を契機に、スバルたちはゆっくりと負傷者を連れ、『試験』からの撤退を余儀なくされた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――なるほど。それが二つ目の『試験』からすごすご逃げ帰った理由なわけね」

「……辛辣っすね、姉様」

「やめなさい、その喋り方。そこで寝てる娘のお師匠様説が真実味を帯びるわよ」

「それはヤバいな。気を付ける」

ゾッとしない忠告に力なく肩をすくめれば、その返答にラムは小さく吐息した。

場所は四層、緑部屋の隣室にあたる空間だ。そこで顔を合わせているのはスバルとラム、そこにエミリアとベアトリスとメィリィが加わり、最後に転がされているシャウラを含んだ六人ということになる。

――長い長い階段を下り、二層から逃げ帰った一行は、ひとまず負傷者を緑部屋へと担ぎ込み、精霊の治療に彼らの身柄を委ねた。

道中の見立てではユリウスは単なる昏倒、アナスタシアも魔法を使いすぎたことによる疲弊が原因とのことで、命に別状はないとの話だ。

故にベッドに預け、部屋の人数制限と、事情説明を兼ねてラムを連れて部屋を移動したのだが――、

「聞くだに馬鹿げた試験官がいたみたいだけど……エミリア様だけは、そのお眼鏡に適ったのでしょう? 一人だけでも、書庫を見てくることはできなかったの?」

「それは……」

「あ、そういえば思いつかなかった。そっか、私だけなら一層に上がれたのかも……できるかどうか、『棒振り』さんに聞いてみる……?」

「……いや、やめとこう。不機嫌なときに刺激して、藪蛇をつつきたくないし、仮にエミリアたん一人だけ上にいけるって言われても、あれだ、危ない」

「すごーく気を付けるわよ?」

「危ない」

「危ないわね」

「危ないかしら」

エミリアの決意に、スバルとラムとベアトリスが同時に水を差した。その心配されようにエミリアがすごすごと引き下がるが、何も過保護が理由で彼女のやる気を挫いたわけではないのだ。

現状、あの『棒振り』を迂闊に刺激したくない。これは紛れもない事実だ。

あの奔放ぶりに物申したい気持ちがあるのは本音だが、『試験』の再開がいつになるかは別にしても、不機嫌なときに挑むのは自殺行為でしかない。

実際、今のスバルたちはあの男が剣を握った姿すら目にしていないのだから。

そして、もしもエミリアだけがあの男の横を抜けられたとしても――、

「本当に、二層の『試験』が一個だけなのか怪しい。馬鹿にあっさりと……いや、エミリアたんがトントン拍子に抜けたからそう見えるだけかもしれねぇが、あれだけで本当に終わりなのかって不安がある」

「それは、私は考えすぎだと思うの。あの人……乱暴で、ちょっと言ってることが変なところもあるけど、嘘はつかなそう。ううん、つけなそうな人だったもん」

「その嘘がつけないのが信条が理由か、知性が理由かで評価が分かれるな……」

ともあれ、エミリアの指摘を撥ね退ける根拠はない。それにどちらかといえば、スバルもあの『棒振り』に対する人物評では彼女と同意見だ。

あっさり抜けたと思われる『試験』も、言い換えれば最高戦力のエミリアだからようやく達成できたとも取れる。現に、ユリウスは倒れたわけで――、

「あいつ、凹みすぎなきゃいいけどな……」

「ユリウスのこと、心配?」

「どうだろ。心配は、まぁ、心配なんだろうけど……そんな簡単でもないかな」

『棒振り』との真っ向勝負、それに完敗し、打ち倒されたユリウスの姿が記憶に焼き付いている。あの、最後の瞬間のユリウスの横顔を思えば、スバルの不安は考えすぎということはないだろう。

剣技は届かず、児戯のように弄ばれ、挙句に騎士剣さえも折られて――、

「代わりの剣は竜車に用意があったけど、そういう問題じゃねぇだろうしさ」

「剣は打ち直せばいい。ベティーには、その拘りはわからないかしら」

「ベア子だって、俺が作ってやったハンカチとかミトンとかエプロンとか大事にしてくれてんだろ? それが破られたみたいな、それの上級版みたいな話だよ」

「……分からず屋なこと言って、悪かったのよ」

暴言を素直に反省したベアトリス、その頭を撫でてやり、スバルは吐息をつく。

緑部屋で目覚めたあと、ユリウスがどういった反応をするかは想像がつかない。らしくもなく落ち込むのか、あるいは彼らしく気丈に振る舞ってみせるのか、どちらであったとしても、なんと声をかければいいのかわからず、気が重い。

それに気掛かりがあるとすれば、それはユリウスのことだけに留まらない。

「アナスタシア……エキドナの、あの必死さはいったい……」

スバルの脳裏に疑問として強くこびりつくのが、ユリウスと『棒振り』との一騎打ちに割り込み、援護を加えたアナスタシア=襟ドナの判断だった。

あの瞬間、ユリウスを援護する手が割り込んだことに疑問はない。ああして劣勢に陥るユリウスの姿に、どうにか援護の手を入れようとしていたのは、スバルを含めて全員が同じ気持ちだったはずだからだ。

ただ、それを言ってしまえば傍観者的な立ち位置にあり、アナスタシアの肉体を間借りする形で活動していたエキドナがしたことは、意外を通り越し、驚愕に値した。

ここまでの旅程や、監視塔に到着して以降も、エキドナはアナスタシアとしての振る舞いを忘れず、極力、彼女の肉体に配慮した行動をすると断言してきた。それに反することもなかったと、少なくともスバルの目の届く範囲では納得している。

それがここへきて、突然に、あんな行動に出たことにはどうした意味が――。

「あの娘の衰弱は、ちょっとした魔法の使いすぎとは深刻さが違っているかしら」

「――そりゃ、どういう?」

考え込むスバルに、唯一、アナスタシアとエキドナの現状を共有しているベアトリスがそっと耳打ちしてくる。

聞き返したスバルに、ベアトリスは「つまり」と言葉を継ぐと、

「にーちゃとベティー、それにあの襟巻きは精霊の中でも特殊なのよ。それぞれ、凡百の精霊と比べて強力だけど、代わりにちょっとした制限があるかしら。ベティーのことは、スバルには今さら説明する必要もないはずなのよ」

「ああ。独占欲が強いから、お前と契約した俺は他の精霊と契約できない。俺はベア子のものだ。安心していいぞ」

「べ、別にそんなの嬉しいとかちょっとしか思わないかしら。それより、あの襟巻き精霊の方なのよ。あれが、あの娘の体を借用してるのは事実だけど……ここまで付き合ってきて、わかったかしら。あの娘、オド以外に使える魔力がないのよ」

「オド以外に、使えない?」

「スバルと同じで、肉体のゲートに不備があるかしら。弁が壊れていて、外からマナを取り入れる機能が死んでるのよ。だから、命を削らなきゃ魔法が使えないかしら」

「それは……」

致命的ではないか、とスバルは息を呑んだ。

アナスタシアの肉体が抱える問題、その事実にスバルは驚嘆する。それは、この世界においては非常に重たいハンディキャップだ。

切り札は身を削る、アナスタシア=襟ドナがそう言っていたことが思い出される。それは文字通り、本当に文字通りの意味だったのだと。

そして、明らかになったその事実が、ますますスバルを困惑させた。

事実として、エキドナがアナスタシアの肉体を酷使することが、宿主である彼女の命を縮めることに他ならないとしたら――、

「なんであいつはそうまでして、ユリウスを助けようとしたんだ?」

計算高く、何かを目論んでの行動――そんな風には見えなかった。あの必死さの裏側にあったのは紛れもなく、ユリウスの身を案じるものの懸命さだ。

それを、エキドナがユリウスに抱いたのだろうか。それも、彼の持つ『誘精の加護』の力だというのだろうか。

「――アナスタシア様と、騎士ユリウスのことも心配だけど、もっと突き詰めるべき問題が別にあるわね」

「あの、『棒振り』のことだな」

「ええ。薄情なようだけど、ラムにとっては『試験』がどうなるのかの方が大事だもの。――それが越えられなければ、レムを取り戻す手段に届かない」

スバルの思考に割り込み、ある意味、冷酷な意見を口にしたのはラムだ。

彼女の言葉は自分で認めた通り、少しばかり配慮に欠けている。だが、スバルはそのことを責める気にはなれなかった。

「――――」

そうは見えないラムの硬い表情、その裏側に微かな焦りがあるのを感じる。それは失われた妹の存在を取り戻す可能性、それに指をかけていながら、なかなか届かないことへのもどかしさ、それが察せられたからだ。

「着流しに隻眼、赤い髪に青い瞳……いやに、自己主張の激しい背格好だけど」

「思い当たる人間がいたりするか? 実物を見ないとイメージつかないかもだが、はっきり言って化け物みたいに強い。ラインハルト級かもしれない」

「悪夢ね」

「でも、スバルの言ってることは嘘じゃないわ。ラインハルトの本気の強さは見たことないけど……ん、それぐらい強かったと思う」

信じ難いといったニュアンスを含んだラムに、エミリアからもフォローが入った。実際に手合わせしたエミリアがこうまで言うのだ。

彼女に嘘をつくメリットもない。その判断から、ラムは疲れた風に額に手をやり、

「バルスとエミリア様の言葉を信じるとすると、騎士ラインハルトと同格の敵……地上最強と並び立つなんて言われてるのは、今の世界じゃせいぜい各国一人ずつよ」

「ラインハルトが王国最強で、他の三国にもそれぞれ最強がいるってことか」

「ヴォラキア帝国一将『青き雷光』セシルス・セグムント、グステコ聖王国の『狂皇子』、それからカララギ都市国家の『礼賛者』ハリベル。でも、どれも特徴が違うわね」

「赤毛の長髪はいない?」

「聖王国の『狂皇子』だけは特徴が知られてないからわからないけど」

「皇子、皇子か……そんな雰囲気では、なかったかな?」

もっとも、『狂』の部分だけ拾えば絶対に違うとも言い切れないが、美しい顔立ちだったとはいえ、王族の気品があったとはいえない。

あれは野にある美しさ、荒野にあるから許される類の美術品だ。

「となると、世に名の知られていない武芸者の類……」

「服装はカララギの民族衣装だったのよ。ハシも、使いこなしてたかしら」

「本来の使い方と違いすぎて、使いこなしてたって言っていいもんか……」

それに、あの男と『世に知られていない武芸者』という印象は、どう頑張ってもスバルの中では繋がりそうにない。

男の年齢はスバルよりやや上――おそらくは二十代半ばといったところだろうが、あの年齢まであれほどの実力者が、それもあれだけ人間性の濃い人物が知られずに済んだということには違和感が先立つ。

それに、だ。

このプレアデス監視塔の奇妙な仕組みに組み込まれた男が、はたして只人なのかという疑問がずっと付き纏っていて――、

「あ、お兄さんたちちょっといい?」

「ん?」

「裸のお姉さん、そろそろ起きるみたいよお?」

部屋の隅っこで、甲斐甲斐しくシャウラに膝を貸していたメィリィが手を上げる。その彼女の言葉通り、シャウラはメィリィの膝枕に頭を乗せたまま、やけに艶めかしくくねくねと身をよじり、「ううーん、あうーん」だのと唸り始めていた。

そして、全員の注視を浴びながら、ゆっくりとその瞼が開いて――、

「お師様ぁ……独りにしないで……もう、寂しいのは、嫌ッス……」

「出鼻に切なくなるようなこと言うのやめろ! 本当は起きてんだろ、お前!」

「ちぇーッス。しおらしいこと言ったら、お師様ほだされてくれるかと思ったのにいけずッス。でもでも、そんなところもあーしは愛してるッス」

「心配して損した……」

長い足を振り上げ、それを振り下ろす動作でシャウラが身軽に立ち上がる。括った長い後ろ髪――彼女曰くスコーピオンテールを揺らし、シャウラはきょろきょろと部屋の中を見回すと、「おや?」と首を傾げ、

「あれ? なんでこんなとこにいるんスか? 確か、あーしたちはお師様の劇的な閃きで『試験』突破して、上に向かって……」

「ああ、それは夢じゃない。現実だ」

「そこでお師様があーしを抱きしめて、もう離さないって笑いかけて……」

「それは夢だな! 二つ目の『試験』が始まった途端、気絶したんだよ!」

おっとろしい夢の内容を語るシャウラを怒鳴りつけ、スバルは気絶直前の出来事を思い出させようとする。が、シャウラは「気絶~?」と何故か小馬鹿にするように鼻を鳴らし、

「あーしが気絶なんて、そんなみっともないことあるわけないじゃないッスか。何百年ぶりかにお師様と再会しても、気絶まではしなかったッスよ? そのあーしが気絶だなんて、ちゃんちゃらおかしくってへそで茶が湧くッス!」

「ううん、疑いたくなる気持ちはわかるけど、ホントに気絶してたのよ。スバルと、メィリィがすごーく心配してたの。信じてあげて」

「ええ! お師様があーしのことを!? でへへへ、信じるッス」

「安い……」

「わたしがおまけみたいなの、なんだかすごおく心外だわあ」

しまりのない顔をして、デレデレと意見を翻すシャウラにスバルとメィリィが揃って複雑な顔をした。ただ、その事実を認めたあとで、シャウラは「あれれ?」とさっきとは反対に首を傾げて、

「でも、気絶って何があったんスか? あーしが倒れるなんて尋常じゃないッス。そんな状況、お師様以外は皆殺しになっててもおかしくないッスけど……」

「あなたがバルス……ならぬ、お師様に過剰な期待を寄せているのはわかるけど、事実だそうよ。ゆっくりと思い返しなさい。……目の前に、長い長い階段があるわ」

「長い長い階段……」

記憶を辿って蘇らせるつもりか、ラムが催眠療法のように静かな声で語りかける。肝心のラムがその現場を見ていない不都合があるはずなのだが、ラムはまるで見てきたかのように、ゆっくりとシャウラの閉ざされた記憶を紐解いていった。

「出迎えるのは白い部屋、床に突き立つ鋼の剣。それを手にした瞬間、その場にいた全員の心に響き渡る奇妙な声――」

「どきどき……」

ラムのやたらと情感のこもった語り口に、すっかりシャウラとエミリアが感情移入している。シャウラはともかく、エミリアは何が起こったのか事細かに知っているはずなのだが、スバルは話の腰を折るのを恐れて言及しなかった。

そして、語りはシャウラの封じられた記憶へと差し掛かり――、

「そのとき、部屋の奥に現れる人影。それは、赤い長髪に青い瞳をし、異国の衣装を纏った風体の男……」

「ひやあああああ!!」

肝心の場面に達した瞬間、シャウラが悲鳴を上げて飛びずさった。そのまま彼女はスバルへ飛びつくように向かってきたが、それを予期していたスバルは腰を落とし、どっしりと体ごと受け止める。今回は倒れない。

代わりに、シャウラの柔らかい肌に万力のように締め付けられる。

「痛い痛い痛い痛い! お、思い出したのか! 思い出したんだな!?」

「な、な、な、なんであいつがここにいるッスか! お師様たちが死んだって言ってくれてたのに! 生きてたッス! やっぱり殺しても死なない奴だったッス!」

「はあ!? お前、何を……」

痛みに涙目になりながら、スバルはシャウラが何を言い出したのかと問い返そうとして――そこで、気付く。

シャウラの言葉の示す意味に。

彼女の語った通りの内容に、この塔へきてから該当する話題の人物は一人だけだ。

それは――、

「『棒振り』! 『棒振り』レイドッス! あの鬼畜! 悪魔! またあーしの胸ズバズバ揉むために生きて帰ってきたんスよーーー!」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――レイド・アストレア。

それは、伝説に名を残した剣士の名前だ。

魔獣を斬り、剣豪を斬り、龍を斬り、ついには魔女を斬ったとされる大剣士。

『剣聖』の名を最初に賜った人物であり、世界を救った三英傑の一人でもある。

ラインハルト・ヴァン・アストレアを含む、『剣聖』の家系であるアストレア家の栄光の始まりにして、今なお剣に生きるものたちにとって至上の憧れ――。

信じ難いことではあった。その名は、四百年も前に失われたはずの命の名だ。

ここが数百年前から存在し、魔女に所縁のあるものの手で作られた塔でなければ、そんな可能性は一笑に付したことだろう。

だが、ここには四百年前を知る生き証人がいる。

だが、ここは四百年前を生きた『賢者』が作り上げた塔。

その性格の悪さを思えば、『最強の番人』として初代『剣聖』を置き、彼を超えてみせろなどと、いかにも言い出しそうなものではないか――。

その事実を収穫に、スバルたちは急ぎ、緑部屋へと舞い戻った。

相手がレイド・アストレアであると知れたなら、その対策を練らなければならない。幸いにして、彼の『剣聖』は逸話に事欠かない男と聞く。

そして幸い、過去の偉人について詳しい人材が、この一行には含まれているのだ。

無論、敗戦の影響が彼に残っていることは想像がつく。しかし、相手の素性を知ればその恥もすすげよう。だって、相手が悪かったのだ。

何せ、相手は『剣聖』――ラインハルトと同じ家名を持つものであり、その家名を作り上げた始祖にあたる人物だ。

そう思えば、あの敗戦のことだってうまく消化できるはずで――、

「――あの、馬鹿野郎」

そんな慰めの言葉を抱えて、緑部屋へ戻ったスバルは押し殺した声を漏らした。

部屋の奥にある、負傷者を寝かせる精霊が作り上げた草のベッド――四つのベッドにはそれぞれ、レムと、アナスタシアと、一番奥にパトラッシュがいて。

アナスタシアと、パトラッシュの間にある一つ、そこが空になっていた。

ただ、その蔦で編まれたベッドの上に、折れた騎士剣だけが置かれていて。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――階段を叩く靴音と、肌を刺す剣気に男はゆっくりと瞼を開けた。

眠りを邪魔されたことへの怒りはない。そも、人生とは常在戦場。

この身は常に死線上にあると定めれば、そこで何事が起ころうと心を乱さずに在れるものだ。そこで、どれだけ遊び心を持つかは別の話だが。

「――――」

階段を上がり、徐々にその姿が見えてくる。剣気に覚えがあった。靴音、足捌きにも同じく覚えがある。直近のことだ。忘れようがない。

ただ、それは相手も同じはずだったから、そのことは奇妙に思った。

もう少し、賢い相手かと思ったのだが――、

「――――」

「かっ!」

そんな印象は、上がってきた相手の目を見て掻き消えた。

代わりに喉を鳴らしたのは、込み上げてきた衝動だ。

それを舌の上で盛大に鳴らして、ガシガシと乱暴に赤髪を掻き毟った。

そして――、

「今度は、遊びじゃ済まねえぞ、オメエ」

「――――」

意味があるとは思えなかったが、一応の義理として言葉を投げかける。

それを受け、相手は一度瞑目し、すぐにあらゆる感情を投げ捨てた。

それから、躊躇いなく手を伸ばし――床に突き立つ、剣を抜き放って、構える。

「ルグニカ王国、近衛騎士団所属――ユリウス・ユークリウス」

「――――」

名乗り上げ、こちらが目を細めるのを契機に、騎士は猛然と走り出した。

その様子に男は――レイド・アストレアは、酷薄に頬を歪めて、

「そのつまンねえ肩書き名乗ってる間は、オレの遊び相手にもなンねえよ」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

たぶん、部屋から撤退するときはスバルがユリウスを背負って、エミリアがアナスタシアをお姫様抱っこして、ベア子とメィリィがシャウラの腕と足を持って担架みたいに運びました。

軽くしていたシャウラですが、ベア子とメィリィが途中でばてて落とし、転がり落ちるのを慌ててエミリアたんがキャッチ。最終的にエミリアたんがアナスタシアとシャウラの二人を両肩に抱えて、ベア子とメィリィを励ましながら階段を下りていったと思われます。

第六章28 『ユリウス・ユークリウス』

――おそらく、誰も信じたりしないだろう。

『俺の名前はナツキ・スバル! ロズワール邸の下男にして、こちらにおわす王候補――エミリア様の一の騎士!』

あの瞬間、王城の大広間にいた全員を敵に回した大法螺吹き。

言い切った当人さえも、どこか浮ついた感情と勢い任せの言行を隠し切れずにいた発言――それに、ただ一人、感銘を受けた男がいたことなど。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

拾い上げた選定の剣は、何故か泣きたくなるほどに掌に馴染んだ。まるで、剣に自らが選ばれたのだと錯覚しそうになるほどに。

そんな風に胸を張れる理由など、今の自分のどこにもないというのに。

「し――っ!」

折られた愛剣と比べれば、わずかに身幅が厚く、先端も重い。しかし、それを踏まえて剣撃を放てば、多少の差異はすぐに修正ができる。

手に馴染んだ武器ばかりが扱える戦況とは限らない。あらゆる事態を想定し、可能な限り、剣を選ばず戦えるように修練を積んできた自負があった。

「つまンねえな、オメエ」

その自負を乗せた鋭い刺突が、欠伸まじりの男の眉間に向けて放たれる。だが、男はそれを首を傾ける動作で躱し、刃で頭髪の先端を軽く梳くと、毛先を整えたとばかりに赤毛を散らし、真後ろへと跳躍した。

開く距離、それを踏み込みと足捌きで追い縋る。

戦いの中、総合的に剣技を評するのであれば、重要になるのは剣捌きだけではなく、足運びと足捌きになってくる。

当然ながら、剣には間合いがある。最適な位置に、最速で辿り着き、最大限に機会を活かすには、腕だけでなく足、即ち肉体全てを扱うことが要求される。

故に、剣技の修練を始めた頃は、何より最初に足運びを叩き込まれたものだ。

良い師に恵まれたと、そう思っている。師の剣術は今の自分と比べればいくらか見劣りするものがあったが、それは年齢的にも仕方のない領分だった。

ただ、自身の実力以上に、他者にものを教えるのがうまい人だったのは間違いない。剣技の実践だけでなく、その技術がどこで生まれ、どういった形で継承されていったのか、そんなことを話すのが好きな人だった。

自然と、自分もまたそれを聞くのを楽しみ、実践できることを誉れに思った。

「――――」

跳躍へ追いつき、着地地点へ目掛けて剣撃を叩き込む。上下左右、三方向は攪乱を入れて、本命は真下からの斬り上げだ。

「お手本通りか、オメエ」

股下から胸までを撫で切る剣の軌跡を、男は棒切れで易々と変更した。射線に割り込む棒切れが剣の刃に触れると、信じ難いほどあっさりと力が逸らされる。抵抗しようとするも、剣の一振りは秒にも満たない刹那の攻防――そこに、容易く針に糸を通すような繊細な力加減を加える男の技量が度を越しているのだ。

「――っ」

驚愕に喉の奥で呻きが発生し、勢いよく剣撃が頭上へと抜ける。生じる隙を踏ませまいと身を翻し、意識に命じて風の刃を――否、その選択肢は、今はない。

牽制のための魔法は放たれない。これは、ただ隙を作っただけだ。

「かっ!」

突き出される前蹴りが、横腹へと真っ直ぐに突き刺さった。素足の爪先が抉るように内臓の隙間に突き込まれ、たまらず体が折れた瞬間、突き刺さったままの足が捻られ、体内の臓器が一斉に悲鳴を上げる。

吹き飛ぶ。瞬間、自ら衝撃の方向へ飛んで、慣性に振り回されることを防いだ。

しかし、蹴りの貫通力そのものを殺せるわけではない。ぐるぐると視界が回ることと、胴に受けた衝撃が脳へ突き抜ける感覚に嘔吐感を覚えながら、それでも敵を見失うまいと目を凝らし、迫る床に足を叩きつけ、姿勢を保った。

呼気が荒い。深呼吸では回復に時間がかかる。

無理やりに肺を絞り、体内に残っている酸素を全て吐き出した。一度、体の中身を完全に空にし、強引に荒らげた呼吸に平静を思い出させる。

「――――」

吐く、吐き切った。これでまだ、戦える。戦えるはずだ。

「――――」

視界、十メートルほど離れた位置に赤毛の男が笑みを浮かべて立っている。

再び、あそこへ飛びつく。追い縋り、剣撃を叩きつけ、せめてあの余裕の笑みを剥がしてやらなければ。そこからが、本当の戦いに――、

「気取ってンな。戦いに嘘も本当もあるかよ、オメエ。絵本でも読ンでンのか?」

「――ぁ」

瞬く間に距離を詰められ、唖然となる。

正しく、瞬きの直後だ。男は十メートルを一瞬で詰め、こちらの眼前に得物である棒切れを突き付ける。それを払いのけんととっさに剣を振り上げ、不用意に大きな動作があったところへ、弧を描く二条の棒撃に側頭部と胸を打ち据えられた。

鋭い衝撃、痛みよりも一撃の鋭さに意識が持っていかれかける。奥歯を噛み、手放しかけた意識を必死に掻き集め、力強く床を踏んだ。

「おお、ぁ!」

とっさに低い声で吠え、半月の斬撃を男へとぶち込む。男はそれを舞いでも踊るように優雅に回避し、横っ面に肘が打ち込まれた。再び、意識が揺れる。

足を振り落とし、靴裏に広がるじわりとした痛みで戦意を支えた。しかし、瞬時の正確な判断力は損なわれる。故に、体が最も馴染んだ一撃を選択した。

炎と水の同時詠唱、そこに剣撃を加えた三方一斉攻撃――不発。

炎と氷の援護はなく、放たれるのは幾度も重ねた修練の末に、『最優』と呼ばれるまでに至った芸術的な一閃だけだ。あるいは相手が只人であれば、たったそれだけでも十分に仕留めるには足りたことだろう。

「ぺい」

騎士剣技の最高峰が、手慰みに振るわれた棒切れに軽々と弾かれる。

突き上がる膝が鳩尾に突き刺さり、苦鳴と共に胃液が絞り出された。そのまま崩れ落ちかけた体に、正面から連撃が叩き込まれ、倒れられない。

「おお?」

衝撃に前ではなく後ろへ倒れかけ、とっさに伸ばした手で体を支えた。そのまま後方回転する勢いで蹴りを放つと、男は意外そうな声を漏らしてそれを躱した。

後方回転、そのまま距離を取る。鼻血がこぼれた。白い袖で拭う。制服が、いやに赤い塗料で鮮やかに汚れた。

構わない。鋭く呼気を放ち、右手に握ったままの剣に全霊を注ぎ込む。

届く、届かせねばならない。強く、強く在らねばならない。

「情けねえなあ、オメエ。剣持ってどンだけだよ、オメエ。オレは剣持って三ヶ月しか経ってねえぞ、オメエ。オレは光斬れっけど、オメエは何が斬れンだよ」

「今、ここで、貴方を――」

「馬鹿言えよ、オメエ。できるかよ、オメエに。できねえよ、オメエにゃ。届くまで振れねえ。届くまで振ってねえ。できるまで振れねえ。できるまで振ってねえ。やることやってねえのに、やりてえことだけ言ってンじゃねえよ、オメエ」

反論の代わりに一度、強く強く剣撃を叩き込んだ。

その剣撃への返答とばかりに、十を超える打撃が降り注ぎ、叩き込まれた。

「――――」

意識が揺らぐ、倒れない。何故、倒れないのか。それは――、

「不足してンだよ、オメエ。足りねえンだよ、オメエ。オメエのくるとこじゃねえンだよ。畑違いなンだよ。役者が違えンだよ。お呼びじゃねえンだよ」

強く、なければいけない。剣で、それを証明しなければならない。

名前を、家を、家族を、主君を、戦友を、友を、魂で結ばれた精霊を、失って。

残ったものは、これだけだ。残ったものは、自分だけだ。自分が自分として積み上げてきて、形のない、これだけが残ったものなのだ。

これだけが、自分の存在証明なのだから。

「気持ち悪ぃンだよ、オメエ。綺麗なお面貼り付けてンのか、オメエ。他人の猿真似ばっかで満足か、オメエ。剣も、オメエも、つまンねえよ」

剣の頂を、目指したことがあった。

その場所ならば目指せるのではないかと、思ったことがあった。

すぐに、それは高望みだったと手放した。

赤い髪の少年が、剣を手にした少年が、大いなるものを背負っていると、その目ではたと気付いたときに。

「誰もオメエなンざ見てねえよ。期待しちゃいねえよ。オレが遊ンでやってると思って甘えてくンな。殴っても蹴っても楽しかねえよ、オメエじゃよぉ」

憧れがあった。輝く物語が溢れていた。

それらに並び立とうとするには、今の自分では足りなすぎると思った。

だから懸命になって、足掻いて、いずれあのときに手放した夢にもと、思って。

「――――」

眼帯に塞がれていない青い瞳が、ざんばらに伸ばされた炎の色をした髪が、かつて夢を手放す切っ掛けになった少年と、その後に抱いた数多の憧れの一つと重なる。

いつか、届きたいと願って、努力を欠かさずに、過ごしてきたつもりだった。

「足りねえよ、オメエ。全然、足りねえ。――人生、サボってンじゃねえよ」

届きたいと願った憧れに吐き捨てられ、棒切れ一つで叩きのめされる。

剣すら振るってもらえずに、振るった剣を届かせることも叶わずに、重ねてきた努力など無意味だったと、積み上げた血と汗は無為だったと、突然に崩された自分の人生の中、唯一、これだけはと信じたものさえも、踏み躙られて。

「――――」

じわりと、何かが込み上げる。

それを、それ以上に湧き上がるものが掻き消した。

「かっ! 堪えンのかよ。ますますつまンねえな、オメエ」

舌打ちと共に、光が迸り、四肢が穿たれる。

糸の切れた人形のように崩れ落ちる。それを、しかし暴力が許さない。

胴を打たれる。息が詰まる。髪を掴まれ、左右へ振り回された。そのまま床へ叩きつけられ、転がった拍子に顔面を蹴り飛ばされる。そのまま円盤のようにぐるぐると回って床を滑り、果てない白い世界を延々と転がされていく。

床を叩いた。体を跳ね上げ、蹴り飛ばされた方向を見る。その顔に、飛び込んできた男の膝が直撃した。激突の瞬間、こちらから膝に額を合わせ、額を割られながらも男を弾き飛ばすことに成功する。

間隙が生まれた。体勢を立て直せる――はずなのに、体が動かない。

「ふ、く……」

全身が悲鳴を上げていた。特に頭部に受けた被害が大きい。ぐらぐらと揺れる意識は定まらず、気が抜ければ次の瞬間にも頭の中身がこぼれ落ちそうだ。

剣、剣は、どこにいったのか。確かめるように、ゆっくりと、自分の右手に力を込める。そこに、確かな剣の柄の感触があった。安堵する。

手放せない。これだけは。これさえも手放せば、何を手放したことになるのか。

――あるいは、今、自分が手にしているのは『剣』の形をした別のものなのか。

「――――」

在り方に、過ちはないと。これこそが自分の道だと、信じて歩いてきた。

それは今もそうだ。それが揺らぐことなど、生涯ありえぬと、思ってきた。

だから、それがこの手をすり抜けて消えたのは、正誤とは別の問題のはずだ。

――それとも、誤りだったのか?

在り方を損ない、選ぶ道を過ち、信じるものを見誤ったから、これなのか。

名前を、家を、家族を、主君を、戦友を、友を、魂で結ばれた精霊を、失って。

唯一、これだけはと残ったはずのものさえ、取るに足らない、縋るに足らない、支えになどならないまやかしだったのだとしたら。

――強く在り、あなたを支えると、主君に誓った。

――強さを覚えていると、ただ一つ残った友に言われた。

何もかもなくした世界で、その『強さ』だけが、この身を支える唯一なのに。

その『強さ』だけが、この、脆く弱々しい自分の、消えない『確か』だったのに。

「――迷いが剣に出たぜ、オメエ」

「――!?」

自問自答にどれだけ時を費やしたのか。

おそらくは一秒にも満たぬ刹那のこと。だが、その刹那の隙間があれば、それは男にとって――『剣聖』にとって、敵を無限に屠る機会を得たも同然のことだ。

がむしゃらに剣を引き上げ、迫りくる攻撃を防がんとした。

甲高い音が、響いた。何事か目を見開けば、そこには床を転がっていく剣が映る。

この手を滑り落ちて、ついには剣さえ失って。

名も、誇りも、剣もなくして、ここに立つのは、ならば何なのか。

「天剣に至る資格なし。――オメエにゃ、子分の立場もやれねえよ」

渇いた声が冷たく告げて、『剣聖』が棒切れを順手に握り、腰を落とした。

――初めて、『剣聖』が構えた瞬間だ。

直後、棒切れが唸りを上げ、剣撃――それは、紛れもなく剣撃だった。

絶対的な剣撃が放たれ、衝撃波に揉まれながら、吹き飛ばされる。

「――――」

拳でも、蹴りでも、これまでのいずれの暴力とも、異なる一撃。

これは暴力ではない。これが剣の頂、剣の最高峰、真の『強さ』が放つ剣技。

光に呑まれ、意識が飛ぶ。

死を見るのか。死を超克した何かを見るのか。それもわからない。

ただ、吹き飛ばされる瞬間、ほんのわずかに声がした。

「ユリウス――!!」

荒げた声は、どこか悲壮感に満ちていて。

必死になって、長い階段を駆け上がって、決定的な瞬間に出くわしたような。

そんな声音が叫んでいたから、場違いに笑みが生まれた。

『最優』の騎士。ルグニカ王国、近衛騎士団。ユークリウス家の嫡男にして、次期当主。王選候補者、アナスタシア・ホーシンの一の騎士。

――ユリウス・ユークリウス。

「は」

今の自分に、その名前で呼ばれる資格があるのだろうか。

そんな疑問を最後に、ユリウスの意識は光に呑まれ、ぷつりと途切れていった。

第六章29 『ルーザー』

――長い長い階段を駆け上がって、辿り着いたときには、もう手遅れで。

「――――」

呼吸を荒げ、過労を訴える肺を酷使し、絞り出すように叫んでいた。

だが、声に、言葉に、状況を変えられるような力はそうそう宿らない。それこそ、剣技を競い合うような場面では、言葉の力不足はますます深刻だ。

それを、『剣技』の競い合いなどと、そう呼んでいいものかすら、わからないが。

あまりに一方的すぎたことと、片方の得物がどう取り繕っても棒切れでしかないのだから。

――白光が、ただでさえ白い空間をより強い白さで塗り潰していく。

原理は不明だ。光すら斬る、と豪語された一振りだからこそなのか、それとも型破りな剣士の人間性が為せる業か、斬撃は衝撃波を伴い、空間を一掃する。

その剣撃の射線上にいた人物もまた、光に呑まれ、為す術なく吹き飛ばされた。

そして、文字通り瞬く間に光は消え、白光の晴れた空間に広がっていたのは、片袖を脱いだ赤毛の男の長身と――まるで躯のように転がる、紫髪の剣士の姿だ。

「よお、稚魚じゃねえか、オメエ」

その光景に絶句するスバルへ、気安く声をかけたのは赤毛の男だ。彼は直前の剣戟など忘れた顔で、息一つ乱さずに鮫のように笑った。

それから、打ち倒されている剣士――ユリウスを指差すと、

「遅かったな、オメエ。もう片付いちまったし、邪魔臭えからとっとと持って帰れ」

「……レイド・アストレア」

「ンだよ、オメエ。人の名前に探りなンぞ入れてンじゃねえぞ、オメエ。名乗らねえ方がカッコいいってオレのカッコつけの邪魔してくれてンじゃねえよ、オメエ」

名前を呼ばれて不機嫌になる『棒振り』――もとい、レイド。

その的外れな言い草に、スバルの方も不服を覚えつつ、あからさまな行動には出ない。ゆっくりと、レイドから視線を外さないままに倒れるユリウスの下へ。

「別に獲って喰いやしねえよ、オメエ。ンなじろじろ睨まなくてもな」

「悪いが、俺の故郷じゃ熊を相手にするときは目を逸らすなってのが常識なんだ。ユリウスは……」

警戒と視線をレイドに向けたまま、スバルは体を傾けてユリウスの呼吸を確かめる。意識は喪失しているが、口元に向けた掌には呼吸の反応があった。

あの剣撃を浴びても、命は奪われていなかったらしい。そのことに安堵する。

「次は容赦しねぇって言ってたわりに、温情があるんだな」

「そうでもねえよ。オメエ、箸に殺されるより、箸に負けて逃げ帰る方がダサいと思わねえか? オレは思うぜ。そンな情けねえ姿晒すぐらいなら死ンだ方がマシだ。だから、箸で負かして、逃げ帰らせてやンよ」

「温情があるってのは撤回するぜ、クソ野郎」

「かっ! 稚魚に何言われても響きゃしねえよ。それに、今日はもう試してやるつもりもねえ。かかってくンならぶちのめすがな。オメエの足下のそいつみてえに」

右手で腹を掻きながら、レイドは左手の箸でスバルとユリウスを交互に示した。

そして現状、レイドの態度にどれだけ腹を立てようと、その無礼を撤回させてやるだけの手段はスバルの持ち合わせにない。

「クソ」

「おうおう、そうしろ。黙って担いで、負け惜しみでも言ってけよ。それで気が晴れンならオメエよ、その方が楽だし、利口だぜ。つまンねえがな」

どっかりと腰を下ろして、レイドが青い瞳を冷酷に細めて言い放った。その勝者の愉悦に晒されながら、スバルは倒れるユリウスを何とか担ぎ上げる。

ほんの小一時間前にしたのと同じように、強引にユリウスを背負う形だ。意識のない人間の体は重く、ましてやユリウスはスバルよりも身長が高い。かなり難儀な形になるが、背に腹は代えられなかった。

ここにユリウスを一人、残していく選択肢などあるはずないのだから。

「――次はいい女の誰か連れてこいよ、オメエ。あの激マブでもいいぜ」

最後まで、一度として誰かの名前を呼ぶことなく、レイドはひらひら手を振った。

そんなレイドの悪ふざけ同然の態度に、スバルは文字通り、何も言えずにただ逃げ帰る以外のことができなかった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「……はぁ、はぁ」

一歩ずつ、一段ずつ、確かめるように踏みしめながら階段を下りていく。

階段の通路はそれなりに広いが、石壁に囲まれた光景に閉塞感は拭えない。この階段を上り下りするのは二度目だが、真っ直ぐに続く階段が塔を突き抜けない構造上の不自然さ、その謎を解き明かす方法も今のところ手掛かりゼロだ。

「なんて、馬鹿なこと考えながらでもないと……やって、られねぇ……っ」

長い長い階段を、人を一人背負って下ることの辛さは説明するまでもない。

ましてや、この大階段の段数は四百四十四段(エミリア数え)もあるのだ。スバルがエミリアに悪感情を抱くことなどまずもってないのだが、辛い階段の具体的な数字を出してしまった今回に限っては、頬を引っ張って叱りたい衝動に駆られる。

無論、頬を引っ張られようとエミリアは可愛いに違いないのだが――、

「早く、連れ戻らないと……エミリアも、ベア子も心配してるな」

緑部屋でユリウスの不在に気付いたスバルたちは、全員が手分けして監視塔の中の彼を探し回ることになった。三層へ向かったり、四層の各部屋へ急いだり、シャウラは階下にいるジャイアンと竜車の下へ確認にいかせるなど、様々だ。

みんな、ユリウスのことを心配している。レイドに敗北し、折れた騎士剣を置いていなくなった彼がどんな心中でいるのか、

彼女らがその憂慮に心を痛める性質であることは、今さら疑う余地もない。

「でも、な……」

――ただ、スバルだけは違った。スバルだけは、すぐに理解できた。

騎士剣を置いたユリウスが、どこへ、何のために向かったのか。

それはきっと、スバルだけが――、

「――揺れる、ものだな」

「――ッ! 気付いたのか!」

背中から届いた声に、階下へ伸ばした足を止めた。その呼びかけに、背中に担がれるユリウスが「あぁ」と身じろぎし、

「こ、こは……」

「ぼやっとした言い方すれば階段の途中、もうちょっと具体的に言えば長い階段の途中、さらに具体性を増せば四層と二層の間の階段を逃げ帰る途中だ」

「迂遠な、ことだね。……私は、君に背負われて?」

「そうだよ。言っとくが、この短時間で二回目だぞ、これ。二度とやりたくねぇって思った三十分後にまたこれやらされてる俺の気持ち、お前にわかるか?」

「道理で、乗り心地の悪いはずだ……」

「お前、振り落とされたいの?」

微かに息を抜くように、ユリウスが笑った気配が背中越しに届いた。その皮肉な物言いに反論しながら、スバルはわずかに緊張を緩める。

正直、目覚めたユリウスの第一声がどうなるか、スバルには予測がつかなかった。忌憚なく本音を言わせてもらえれば、恐れていたといっても過言ではない。

だから、目覚めたユリウスの最初の一声から派生したやり取りが、自暴自棄なものでなかったことにホッとしていた。

「何があったか、ちゃんと覚えてるのか?」

「……情けない、話だがね。易々と敵に打ち倒され、そのまま情けをかけられた挙句に、アナスタシア様や君に迷惑を」

「……あれが相手で、ボロ負けしたことを責めるほど悪魔じゃねぇよ」

ひどく、彼らしい物言いにスバルは嘆息し、階段下りを再開する。

意識の戻ったユリウスは、先ほどに比べればはるかに運びやすい。それに足取りを重くしていた不安も晴れてくれたおかげで、残りの段数も勢いでいけそうだ。

「……アナスタシア様は、ご無事だろうか。倒れられたことと、あの精霊の部屋で治療されていた姿は、見届けたのだが」

「命に別状はない、ってのが今のところの診断結果だ。お前の方がよっぽど死にかけたぐらいだよ。あれ相手に……つか、あの眼帯野郎が誰だか知ったら驚くぞ」

「――レイド・アストレア」

「――――」

確信に満ちた声音に、スバルは一瞬、驚きに呼吸を足を止めてしまった。だが、すぐにそれを誤魔化すように、呼吸も足も動きを再開する。

背中に、その動揺が伝わらないようにスバルは言葉を選びながら、

「よく、よくわかったじゃねぇか。こっちはあれだ。シャウラが知っててな。あいつは四百年前の顔見知りだろうから知ってて当然だけど……どうも苦手意識ってのは本当だったらしい。顔見るなり失神したのも、それが理由だと」

「なに、気付く余地は多くあった。炎の赤毛に、青い瞳。あれほど図抜けた剣技……剣技、といっていいものかな。私は彼に剣を振らせてすらいない。単に実力者と、そう言わせてもらおうか。『棒振り』というのも、文献に見られた彼を示す表現だ」

「まさか、あの箸で戦うから『棒振り』って昔から呼ばれてんのか?」

「正しくは、得物を選ばないという意味合いでだ。『棒振り』を自称された時点で思うところはあったが……確信が、持てなくてね。伝えられず、すまない」

申し訳ない、というユリウスのニュアンスに、スバルは何も答えなかった。

気付く余地はあったと彼は言ったが、それはあまりに酷な話だとスバルは考える。

レイド・アストレア、初代『剣聖』とされる男は四百年前に死んだはずの人物だ。

お伽噺や伝説に名を残した過去の偉人と遭遇したなどと、特徴が一致したからといって容易に発想できるはずもない。

気付く可能性があるとすれば、その発想力はスバルが持つべきだった。

この監視塔で行われる『試験』が、どこかエキドナの墓所で受けた『試練』に近しいものがあるとはエミリアとも頷き合っていたのだ。

ならばスバルこそが、この塔で行われる『試験』の内容にもっと考えを巡らせ、可能性を思いつく限りに挙げておくべきだったのだ。

それを怠った結果が、あの二層『エレクトラ』での、敗走に繋がったのだから。

「ふ。如何なる原理でか、過去から蘇った伝説の剣士との邂逅……か。本来、この奇跡的な巡り合わせを私は喜ぶべきなのだろうが……」

「心中お察しするよ。伝説の英雄が、実物あんなじゃガッカリもいいところだ。『賢者』って前評判のシャウラといい、この監視塔は肩透かしが多すぎる」

「……心中、察する、か」

どこか、掠れて自嘲的な響きを孕んだ声音だった。

ユリウスのこぼしたそれを間近で聞いて、スバルは配慮に欠けたと奥歯を噛む。しかし、「それにしても」とその言動には触れず、

「確か、金貨に彫られてるのが初代の『剣聖』って話だったけど、これも実物とは大違いだったな。シャウラが性別ごと違ってたのは人違いだから仕方ねぇにしても、こっちも相当ギャップがあるぞ。金貨の方は、もっとオッサンみたいで……」

「史実として、レイドが三英傑に数えられる功績を挙げたのはもっと上の年齢だ。金貨に描かれる姿はおそらく正しい。上にいる彼が、史実より若いんだ」

「そういえば、レイドはシャウラに見覚えがなかったみたいだったな……」

話題を逸らすつもりが、思わぬところで疑問の一つと結び付いた。

ユリウスの話と照合すれば、なるほど、確かにシャウラ側とレイド側では顔見知りにあったにしては温度差がありすぎた。あれが、仮の話として『シャウラと出会う前のレイド』だったとすれば、二人の認識の違いに頷ける部分もある。

もっとも、シャウラの方は反応が過剰すぎるし、レイドはあの性格だと人の顔と名前を覚えていない可能性がわりと高いのが根拠を弱めるが。

「それが正しいとなると、魔女と戦ったのは全盛期過ぎてからってことか。で、俺たちはその若い全盛期のあいつを突破しなきゃいけねぇと」

「前途多難か、あるいは不可能な難事に思えてくるな」

「しんどいのは間違いねぇな。けど、対策を練れば抜け道はきっとある。現に……」

レイド攻略のための糸口を探りながら、そこでスバルは言葉の先を躊躇った。

今、この瞬間に、それをユリウスに伝えるべきか、心が制止をかけたからだ。

だが、それは一歩、遅かった。

「現に……なんだろうか」

「いや、その……」

「スバル」

レイドを観察して突破口が見えた、などの言い訳はすぐに見破られる。実際、今すぐレイドを突破する方法や、弱点などが見つかっていないのは確かなのだ。

故に、スバルは短く名前を呼ばれ、観念した。

「……お前と、アナスタシアが倒れたあとに、エミリアが『試験』を突破した」

「――――」

「ただ、あれだ。単純な力比べで、あいつをぶっ倒したってわけじゃない。色んな偶然が味方したのと……エミリアが、その、特殊だったからだ」

単純な勝利と呼ぶには、あの結果は少し難しいところがある。

『試験』としては、試験官であるレイドにエミリアが自分の覚悟と実力を認めさせたといったところだが、その実情は目にしたもの以外には説明しづらい。

同じ勝ち方をしろといっても、エミリア以外の誰にもできないことなのだから。

「とにかく、色々複雑な要素が絡み合った結果、エミリアは『試験』をクリアした。ただ、あいつはクリアした本人だけが通るのを許すって話で、俺たち全員が上にいくには全員が勝たなきゃいけないのは一緒……むしろ、悪質だ」

「――――」

「なんで、作戦を練る必要がある。戦える面子はともかく、俺なんかはベアトリスとのコンビ戦を認めさせなきゃお話にもならねぇ。メィリィはそもそも、『試験』に挑む理由がない。そのあたり、話し合いで納得……気が重すぎるけどな」

「――――」

「だから、その、お前も再戦すれば目がないわけじゃない。つっても、あれだぞ。今回みたいなやり方じゃなくて、だ。もっときっちり、相手を見極めた上で傾向と対策を練っていく。今回ばかりは俺のスタイルに従って……」

「――――」

「……おい、聞いてるか? ユリウス、おい?」

早口に説明する間、応答のないユリウスを不審に思う。そのまま、背中にいる彼に呼びかけると、何度目かの呼びかけにユリウスは微かに息を詰め、

「あ、ああ、大丈夫だ。聞いているとも。……そうか、エミリア様が」

「そこは微妙に前の話なんだが……そうなんだ。それがあるから、これはクリアが絶望的な試験ってわけじゃない。気負いすぎるなよ?」

「気負う? なに、そんな心配はいらないとも。――全て、君の言う通りだ。エミリア様が『試験』を越えられたのであれば、彼は……『剣聖』レイドは越えられない障害では決してない。それがわかったのは、大きな収穫だ」

「お、おお、そうだ。そうなんだよ。……それが、わかってくれりゃいい」

思いの外、エミリアが『試験』を乗り越えたことを柔軟に受け入れられて、ユリウスの反応に怖々と説明したスバルは肩透かしを味わった。――否、これでいい。

自分が躓いた障害を、誰かが先にクリアしたと知らされる。

その事実に心を軋ませる心配など、ユリウスには無用のことだった。少しばかり、彼にナイーブな面を期待しすぎたといえる。あるいはスバル自身の物差しで、ユリウス・ユークリウスという騎士を推し量るべきではなかったというところか。

そんな感慨をスバルが抱くのと、ユリウスが長く息を吐くのは同時だった。

それから、ユリウスは「さて」と軽い調子で言葉を紡ぐと、

「そろそろ、下ろしてもらえるだろうか。いつまでも君に背負われたままだと悪酔いしそうだ。地竜と違って、君に『風除けの加護』はないようだからね」

「揺れと風は我慢して、ありがたく背負われておけよ。しんどいのは事実だが、ケガ人に自分で歩かせるほど薄情者にはなれねぇ。エミリアたんに叱られる」

ユリウスの申し出に首を振り、スバルは体を揺すり、ユリウスを背負い直した。

事実、ユリウスの状態はあまりいいとはいえない。緑部屋にいたのはほんの数十分のことで、あの部屋の精霊がどれだけ有能であったとしても、全身を痛めつけられたユリウスにどれだけの治療が施せたものか。

そして、二度目の敗北を経験したユリウスには何の処置もできていない。

裂傷や骨折などがあれば、スバルもクリンド印の応急処置技術の腕を振るうところだが、生憎とユリウスにそうしたわかりやすい外傷はない。

レイドの攻撃はひたすらに、ユリウスの心を折らんと放たれたものだった。

無論、それが外傷とは異なる形でダメージを蓄積していることは疑いようがなく、彼に無理をさせることが論外であることには代わりがない。

だからスバルはあと半分、おおよそ二百段はあるだろう階段を、ユリウスを背負ったまま下り切る覚悟を決めていたのだが――、

「――いや、君にそこまで苦労はかけられない。気絶したままならばまだしも、幸いにも目は覚めた。自分で、階段くらいは下りられる」

「つまらねぇ意地張るなよ。大体、突っ張っても今さらだぞ。背負われてるのを見られるのが恥ずかしいってんなら、一緒にいた全員に見られてる。……気絶してたシャウラと、アナスタシアだけは見てないけどな」

「ならば、それが理由だ。二人に……特に、アナスタシア様にはこんな姿を見せるわけにはいかない。下ろしてくれ」

「とってつけたようなこと言うな。そもそも……」

「――下ろしてくれと言っているだろう!」

――激発は、突然のことだった。

「うお!?」

張り詰めた声が耳朶を打った直後、スバルは階段の壁に肩からぶつかっていた。

原因は、背中にいたユリウスが強引に身をよじったことだ。とっさに壁の方へ体を向けたからよかったが、危うく階段から落ちてもおかしくなかった。

しかし、そうして自分の身を守るのが精一杯だったせいで――、

「――く」

「お前……馬鹿野郎! いったい、何考えてやがんだ!」

壁に寄りかかって振り向けば、少し下の段差に倒れているユリウスを見つけた。スバルの背中から落ちて、いくらか階段を滑り落ちたのだ。

うつ伏せで肘をつき、苦しげに喘ぐ姿には苦痛の色が濃い。明らかに、それは階段から落ちたことだけが原因のものではなかった。

「言わんこっちゃねぇ! おい、そこにいろ、馬鹿。今いく……」

「こなくていい!」

「――――」

「……一人で、立てる。手を借りる必要は、ない」

慌て、階段を駆け下りようとした足が止まった。

床に肘をつけながら、伸ばした手でスバルが駆け寄るのを制止したユリウス。彼はそのまま深く息を吐くと、その横顔を硬くしながら、何とか体を起こした。

そうして壁に背を預けると、背を擦り付けるようにゆっくり、ゆっくりと腰を上げ、膝を伸ばし、寄りかかりながらも立ち上がった。

「言った通り、だろう? 一人で立つことぐらい、わけのないことだ」

どこか、投げ捨てるようなその声の響きに、スバルはとっさに言葉が出ない。

ユリウスはそのまま体を反転させ、右半身を壁に預けるようにしながら、それこそ赤子が床を這うような速度で、のろのろと、階段を下り始めた。

一歩、一歩と、踏みしめるように――。

「少し、時間はかかりそうだが、君の手を煩わせる必要はない。それより、階下の女性たちが心配だ。自分の行いを棚上げするようで恐縮だが、私の行方を探しているのが君だけとはどうしても思えないのでね」

一歩、また、一歩。

「できれば、先に階下へ向かって説明してきてくれないだろうか。とはいえ、詳しい話と、弁明は私自身からするのが筋だろう。君はあくまで、私が見つかったことだけ伝えて、安心させてくれればいい」

ゆっくり、ゆっくりと、一歩ずつ。

「……弁明するのが気が重いことなのは認めるがね。避けては通れない道だ。その荒れた道を少しでも整えてくれると、私としては君に多大な恩を感じざるを得ない。君にとって、私への貸しなどこれ以上増やしてもと思うかもしれないが」

こちらに顔を向けず、階段を一人で、独りで下ろうとするユリウスは話し続ける。

遅々とした足取りでも、立ち止まるスバルとの差は確実に開いていく。

詰めようとすればすぐに詰まる距離だ。彼の願いを叶えるにせよ、一度は追い抜く必要がある。――だから、スバルは足を動かした。

「エミリアたちに、先に話してくればいいんだな」

「……ああ、そうだ。もしも、アナスタシア様がお目覚めになっていたら……いや、やはりやめておこう。とにかく、君に頼みたい」

急ぎ足に階段を下りて、スバルは悠々とユリウスに追いついた。階段に響く靴音にユリウスは安堵に似た息を吐いて、スバルに先にいけと促す。

――否、『先にいけ』ではない。『先にいってくれ』と、促されたのだ。

「――――」

それを言ったユリウスの内心を、スバルは少しは理解できているつもりだ。

それが理解できた理由は、エミリアたちと違い、スバルにだけはユリウスがレイドへ挑みにいったのだと、すぐに直感したことと同じ理由――。

いつか、スバルが抱いたものと、どこか似通ったものが原因に違いない。

だから、あのとき、スバルは――、

「――ッ! ああ、クソ! クソクソクソ! 馬鹿野郎! 俺もお前も、大馬鹿野郎だ! チクショウ!」

苛立たしげに吐き捨てて、スバルは階段を蹴っ飛ばしてユリウスへ向かった。

追い抜くつもりでではない。壁に寄りかかり、おたおたとした足取りでいる彼の左腕を掴むと、乱暴に肩を組んで体を支えた。

「な……スバル、何のつもり……」

「うるせぇ! 何が一人で立てるだ! へっぴり腰なのが丸見えなんだよ! そんな奴を置いてさっさといけなんて飲めるわけねぇだろ! エミリアに叱られる以前に、俺が俺に嫌気が差すっつーんだよ!」

「だが、私は……」

「俺だって、本当に手ぇ貸さなくていいんなら手なんか貸さねぇよ。ただでさえ、俺の両手はあれこれ色んなもんで埋まってんだ。本気で俺の力なんか借りたくねぇなら、俺が我慢できなくなるような情けねぇ格好でふらふら歩いてんじゃねぇ!」

「――――」

唾を飛ばし、そう怒鳴りつけるスバルにユリウスが押し黙った。

一度は振りほどこうとした力を失い、ユリウスが抵抗することに躊躇ったのを見て取った途端、スバルは無理やりに肩を貸したまま歩き始める。

いったん、そうしてペースを作ってしまえばユリウスも逆らう暇がない。

「お前の腹の底がわかってるなんて、知ったような口は利かねぇよ」

「――――」

「けど、今、お前が一人でこの階段を、長ったらしいこの階段を、独りっきりで歩いて下りる必要なんかねぇんだ。肩ぐらい貸してやるし、貸しだとも思わない」

貸し借りの話など、馬鹿げている。

それを言い出せばスバルなど、ユリウスにいったい、どれだけ借りがあるのか。

それこそ一番最初の借りはきっと、あの王城での練兵場から始まって。

――ユリウスが、レイドに勝てないとわかって挑みかかった理由は、わかる。

あのときと、あのときのスバルと同じだ。

あのときのスバルは、勝てないとわかっていても、ユリウスに挑みかかった。何度倒されても、殴られても、懲りずに立ち上がり、挑み続けた。

それ以外に、胸の奥から込み上げる激情を、吐き出す方法がなかったからだ。

そして、あのとき、スバルは、何もかもが終わったあの場所で、エミリアと口論の末に決別したあの場所で、『独り』になって、辛かった。泣きたかった。

――だから、ユリウスをこの階段に、独りきりにしてやるものか。

「――――」

腹の底が熱い。あのときと、同じように。

あのときと違って、この激情をどこへ吐き出せばいいかわからぬまま。

「――スバル」

「なんだ」

「……すまない」

「うるせぇ」

それが八つ当たりに聞こえなければいいと思いながら、答えた。

そのまま二人はゆっくりと、階段を下りて、四層へ戻っていった。

――エミリアが二人を見つけて安堵に胸を撫で下ろしたのは、それから十数分後のことだった。

第六章30 『二層攻略反省会』

――女、一人の女がいた。

女は全てを憂えていた。人を、争いを、世界を、あらゆる全てを憂えていた。

女には全てが小さく見えた。何もかもが、誰もが、守るべき幼子に思えた。

腕を振るえば千々に散る、そんな人々や世界を支配することは容易い。

しかし、女は自らの腕を支配ではなく、庇護のために用いようと、そう決めた。

女の孤軍奮闘が始まった。それからの試行錯誤は、女にとっても易くなかった。

人を導くのも、人を結び付けるのも、人を手助けするのも、人に助言するのも。

いずれも、女一人だけでは及ばない。手が届かない。為すべきことに、至れない。

女は初めて、自分の力不足を呪うこととなった。

危難が見えても、手が足りない。窮地に陥っても、救えない。その、力不足を。

目の前は届いても、届かぬ距離は埋められない。何もかもが見通せても、すでに起きた出来事は変えられない。はるか先の災厄に、対処するための命がない。

力はあると、信じていた。それは願いには大きく届かなかった。

知恵はあると、驕っていた。それは望みを辿るための道を示さなかった。

故に女は絶望する。己の力不足への呪いを、ひたすらにひたすらに練り上げる。

ありとあらゆる悔悟に打たれ、他者の嘆きに無限に引き裂かれながら。

やがて女は理解する。不可能だ。無理だ。できないのだと。

これは女一人の手に余る、願うことすら不相応でしかない、大願であったのだと。

それを知った。理解があった。不可能を思い知った。――だが、諦めはしない。

一人で足りぬのならば、数を増やせばいい。

単独でなければ、同じ願いを持つものを集めれば、届かぬ願いへ手が届く。

頭が冴え渡る。見えなかったものが見えるようになる。

届かぬ嘆きを、救えぬ悲劇を、繰り返される残酷を、この願いで摘み取ろう。

扇動者と手を組み、天剣に戦場を与え、龍と取引きして、大願へと突き進む。

いずれ至るだろう、悲願の結論。

やがて訪れるはずの、誓願の顛末。

いずれ、やがて、必ず来る、大願の成就――。

「救う。救ってみせる。救う道が見える。――救う道を、識っている」

その過程でどれほど傷付こうと、失おうと、諦めることだけは放棄する。

扇動者が消え去り、天剣が笑みを忘れ、龍が遠き空へと飛び去っても、諦めない。

最初の賛同者をなくしても、足取りは途絶えない。女はもう、一人ではない。

「あるはずなんだ。あったのを識っているんだ。――識りたいんだ」

無数の躯に舗装された道を歩く。数多の命を犠牲にした、大願の成就を目指す。

いずれ、全ての涙に手が届くはずなのだ。そうしたとき、わかる世界がある。

そうなって初めて、原初の願いに届くことができる。

だから、それを求めて、必死に、女は耐え難い痛みに耐えて、もがき続ける。

――『強欲の魔女』は届かぬ願いに身を焦がし、自身の強欲に血を流し続ける。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――ユリウスはちゃんと、ここで傷が治るまで休んでること! 絶対の絶対!」

ボロボロのユリウスを緑部屋に叩き込んで、声を大にしてエミリアは言った。

二層『エレクトラ』から四層へ続く長い階段、それを肩を預けて下り切ったスバルとユリウス。二人を出迎え、エミリアが安堵した直後のやり取りだ。

気持ちの切り替えが早いのは美徳だし、有無を言わせぬやり口なのもありがたい。理由を聞かなければ、言い訳をさせもしない早業だった。本当はエミリアも、ユリウスと話したいことは山ほどあっただろうに――、

「――しなきゃいけない話はきっとスバルがしてくれたはずだもの。だから、今はしっかり休んでもらって、それ以外のお話は後回しでいいの。でしょう?」

「……あー、とのことだ。俺は基本的にエミリアたんの意見には全面降伏だし、今回は反論の余地なしだと思うから同意見。寝てろ」

緑部屋の入口で、蔦のベッドに腰を下ろしたユリウスにスバルは肩をすくめた。エミリアも、スバルの隣で腰に手を当てて鼻息の荒いご様子だ。そんな姿も可愛い。

そんな二人の言葉を受け、ユリウスは自分の前髪に触れながら吐息をつく。

「無論だ。すでに君やエミリア様には迷惑をかけすぎている。この期に及んで、言いつけに逆らう恥知らずな行いはできない。素直に従うとも」

「わかったの一言でいいところを長々と……」

「ホントにそう! 別に、私たちがどうとかそんなことはいいの。ケガしてるのはユリウスなんだから、それが治るまで安静にしてなきゃダメってお話! 迷惑はいくらでもかけていいのよ。仲間なんだもの」

「――――」

「パトラッシュ、ユリウスのことをお願いね。もしもまた何か変なことがあったら、大きい声で鳴いて私たちを呼んでね」

ユリウスの迂遠な謝意をぴしゃりと切り捨て、鼻白む彼を余所にエミリアは部屋の奥――緑部屋で負傷を癒す、パトラッシュに声をかけた。

緑部屋に残される人員は三名と一頭――意識不明のレムとアナスタシアに、負傷者であるユリウスとパトラッシュがいる形だ。緑部屋は一度に受け入れられる人数に制限があるため、スバルやエミリアが見張りに残ることもできない。

そのため、中で治療を受ける誰かが周囲の人間を看るのがベターな選択だ。本来、その役割はユリウスに任されるべきなのだが。

「エミリア様にこうまでおっしゃられては形無しだ。大人しく、ここで項垂れていることとしよう」

「なくした信頼はなかなか取り戻せない。その点、常に信頼の分野で高得点のパトラッシュに追いつける奴なんかいないしな。なんかあったら、容赦なく噛みついてやっていいぞ、パトラッシュ」

「――――」

喉を鳴らし、パトラッシュがスバルとエミリアの頼み事を受諾――おそらく、受諾してくれたものと思われる。

エミリア陣営随一の『わかっている女』であるところのパトラッシュは、先ほど、ユリウスを一人でいかせたことに責任を感じている目つきだ。

次は絶対にない、と意欲を燃やした姿勢には頭の下がる思いでいっぱいだった。

「ほれ見ろ。パトラッシュも『次は絶対にうぬを逃がさぬ』と仰せだ」

「何故か、本当にそう言っているようにも見えてくるから不思議なものだね」

「でも、うちの武闘派内政官のバイリンガルによると、大体、そんなニュアンスで合ってると思われる。淑女だから、語尾は『ですわ』かもしれないけど」

たまにオットーに『言霊の加護』で翻訳してもらうと、パトラッシュの器の大きさとスバルへの懐き度には驚かされることが多い。最近はオットーなしでもかなり親密に心が通じ合ってきている実感がある。などと、実際に口に出すとパトラッシュの不興を買って尻尾で叩かれるので、乙女心は複雑なものだった。

ともあれ、

「大人しく、傷の治療に専念させてもらうとするよ。こうして乙女たちに囲まれ、悠々と静養するのも贅沢なことだからね」

「言っとくが、この部屋にいる女子はアナスタシアさん以外は全員俺のだ」

ユリウスの減らず口に、スバルはベッドのレムとパトラッシュ、それから隣にいるエミリアを順番に指差して言い張った。

それを受け、エミリアは「む」と頬を膨らませると、

「私、まだスバルのものになってません。……思ったんだけど、私の騎士様なんだから、スバルが私のものなんじゃないの?」

「それすげぇ嬉し恥ずかしい評価なんだけど!」

唇に指を当てたエミリア、その聞きようによっては大胆に思える発言に一喜一憂しつつ、スバルは改めて、部屋に残すユリウスの方を見やった。

苦悩の峠を越えるには時間がかかる。だが、少なくとも、その一合目に足をかけるだけの、心のゆとりが持てたかどうかを確かめるように。

「とりま、休んでる間、さっきのこと思い出して頭抱えてゴロゴロしたくなるかもしれねぇけど、パトラッシュが見てるってこと忘れるなよ」

「安心したまえ。そんな醜態は晒さない。――優雅ではないからね」

「……調子出てきたじゃねぇか」

「ふ」

受け答えに彼らしさがあり、スバルはひとまずの安堵に頬を緩めた。

二度の敗北、それも手も足も出ない完敗だ。

それは耐え難い屈辱と無力感をユリウスに刻み込んだはずだが、どうにか彼はその第一波はしのぎ切ったらしい。

あの、長い階段に、ユリウスを独りきりにさせなくてよかった。

それが少しでも救いになってくれていれば、スバルも王城で大勢の前で大恥を掻いた経験から学んだ甲斐があったというものだ。

「――パトラッシュ、頼んだぞ」

最後の最後に愛竜に念押しして、スバルとエミリアは緑部屋を出る。

去り際、パトラッシュがユリウスの方へ身を寄せて、その監視体制にユリウスが苦笑している気配が伝わってきた。

さすが、パトラッシュは指示に忠実、賢竜である。

ユリウスの精神状態的にも、パトラッシュの忠竜精神的にも、緑部屋に残された人員の心配はいったん大丈夫と思っていいだろう。

「……扉、凍らせて閉じ込めておく?」

「エミリアたんの無限の発想力には驚かされてばっかりだけど、それは最終手段にしたいかな。それやって、緑部屋の精霊を怒らせるのもゾッとしないし」

「ん、そうよね。ふふ、言ってみただけ。冗談よ」

可愛く舌を出して冗談を詫びるエミリア。その反応に唇を綻ばせつつ、スバルはそれも選択肢の一つとして胸に秘めていたことは口にしなかった。

――最悪、本気で力ずくで行動を封じる手段も、考慮してはいたのだ。

その場合、ユリウスを止めるのに最適な人選は能力的にも立場的にもエミリアだ。幸い、ユリウスの精神状態は安定に向かってくれたおかげで、そんな差し迫った選択肢を取らずに済んでよかった。スバルもホッとしている。

「ともあれ、緑部屋のことは部屋の責任者の精霊に任せよう。見た感じ、パトラッシュの傷もいい感じに治ってきてたみたいだし、ユリウスもそんなかかんなそうだ」

「うん、そうね。ユリウスの傷は……見た目ほどひどい傷じゃないから、たぶんすぐに良くなると思う。レイドが、そういうやり方みたい」

「……手加減がうまい、か。ユリウスには聞かせられねぇな」

言葉を選んだエミリアの推測に、スバルは頭を掻きながら同意する。

得物が棒切れであることは悪ふざけの究極でしかないが、それでユリウスほどの実力者を赤子扱いするほど、レイドの戦闘力は突出している。

初代『剣聖』、賢者と龍と協力し、『嫉妬の魔女』を倒した立役者――そんな肩書きを持つ伝説の英雄となれば、なるほど納得とするしかない。

その人間性が、『伝説の英雄』と崇められるに相応しいかは別の話だが。

「ひとまず、俺たちの話し合いは……」

「――騎士ユリウスの傷が癒えるまでに、その第二の『試験』とやらの突破の方法を見つけ出さなくちゃいけない、でしょう?」

「――――」

と、そんなスバルとエミリアの会話に冷然とした声が割り込んだ。見れば、それは通路の壁に背を預け、二人が戻るのを待っていたラムだ。

緑部屋の制限人数に引っかかり、通路で待たされていたラム。彼女に、内心をピタリと当てられたスバルは自分の頬をぐにぐにと触れて、

「俺の顔、そんな詳しく内心が出るぐらいバラエティに富んでんの?」

「顔に心配事がまとめて貼り付けてあっただけよ。今、バルスが心配する相手や理由なんて、その部屋の中にしかいない。それだけの話でしょう」

「んなことねぇよ。この中に限った話じゃなく、一緒にいる連中はみんな心配してるっての。エミリアたんやベア子はもちろん、姉様のこともな」

「ハッ!」

サムズアップしたスバルの返答に、ラムが鼻を鳴らして小馬鹿にする。

それから、背を向けて歩き出したラムにスバルが唇を尖らせて拗ねると、隣のエミリアがくすくすと口元に手を当てて笑い、

「大丈夫。ラムはちょっぴり照れてるだけ。素直じゃないんだから」

「それこそ欲目が強すぎる気がするけど、エミリアたんがそう言うなら、まぁ」

薄く微笑むエミリアを横目に、スバルは首の骨を鳴らしてからラムの後ろを追いかける。ラムが向かったのは、四層にある小部屋の内の一つだ。

その部屋へ足を踏み入れると、

「……遅いかしら。待たせすぎなのよ。ユリウスは平気そうかしら?」

出迎えの声は、部屋の真ん中にぺたりと座り込んでいたベアトリスだ。彼女はじと目でスバルとエミリアを見上げると、微妙に悪態っぽい言い回しをしつつ、ユリウスのことを心配してきた。その素直でない態度に苦笑する。

「安心しろ。とりあえず、峠は越したっぽい。責任感が無駄に強い奴だから、あれこれと思い悩みはするだろうけど……もう、自棄は起こさねぇよ」

「スバルがそう言うなら、まぁ、そう信じてもよさそうなのよ。それならそれで、問題は一個に絞れるから助かるかしら」

ユリウスの安否確認を受け取り、ベアトリスが顎を引く。そのベアトリスの発言にスバルも頷くと、今度は部屋の中を見回した。

小部屋は、四層にいくつもある空きスペースの一つであり、スバルたち監視塔攻略組の手荷物などが置かれている場所だ。その一室で車座になり、顔を突き合わせているのはスバルとエミリア、それにラムとベアトリス。あとは――、

「あの野郎について、お前に詳しく聞かせてもらいたいところだな、シャウラ」

「うひぃ、お師様おっかないッス! でもでも、そんな風に厳しくされるのもあーし嫌いじゃないッス。嫌よ嫌よも好きのうちってやつッス」

「だそうよ、お師様。いやらしい」

「濡れ衣!」

自分の女性的に豊満な体を抱いて、くねくねと身をよじるのはメィリィをしがみつかせているシャウラだ。その彼女の頓狂な言動にラムが悪乗りするが、スバルとしては冤罪もいいところである。

ともあれ、

「まずはみんな、ユリウス探しはお疲れ様だった。やめろって言っても、どうせあとから本人の謝罪があると思うけど、とりあえず無事だよ」

「いいの。ユリウス本人にも言ったけど、無事に見つかってくれただけでよかったんだから。ね。みんなもそうでしょ?」

「エミリア様と一緒にされては困ります」

「え!? どういうこと!?」

全体の音頭を取り、話を進めようとしたスバルだが、早くもエミリアとラムとの間に意思の乱れが生じてしまっていた。

驚くエミリアに、ラムは「いいですか?」と指を一つ立てて、

「報告を聞く限り、第二の『試験』は塔にやってきた全員が越える必要がある。それなのに、騎士ユリウスは独断で二度目の挑戦を……これは一歩間違えれば、アナスタシア様の陣営との協力関係にも亀裂を入れかねない行いです」

「ユリウス一人の行動で、全員の挑戦が失敗するかもしれなかったから?」

「そうなっていた場合、ここまでの道程は全て無駄になります。二層にいる試験官がこちらを無事に帰してくれるかも怪しい。……そこの、エセ賢者も含めて」

ちらと、エミリアに説明していたラムの視線がシャウラへと向いた。まさか自分に矛先が向くと思っていなかったのか、シャウラは「あーし?」と自分を指差す。

「エセ賢者って、あーしのことッスか? その呼び方、マジ心外ッス! 賢者なんてあーしが自分で名乗ったわけじゃないッス! あーしが名乗る名前は、お師様が付けてくれたシャウラだけッス! お師様一筋ッス!」

「いやらしい」

「俺を見て言うのをやめろ! ……お前の言い分が間違いってわけじゃねぇけど」

少々、言いすぎのきらいはあっても、ラムの推測は最悪の場合を想定すれば間違いではない。ユリウスの行動は、スバルたち全体を危険にさらした。

彼が、第二の『試験』の概要をしっかり把握していなかったことを加味しても――むしろ、加味したからこそ、軽率だったともいえる。

「騎士ユリウスらしくない、というにはラムはあの方のことを知らなすぎるわね。『暴食』のことを含めても、ああした行いをしない人と思っていたのだけど」

「そりゃ、俺も同意見だが……わからないってのと、俺の考えはまた別だからだ。男のはしかみたいなもんだ」

「はしか?」

「水疱瘡でもいいぞ」

「――――」

どっちにしろ、『誰もが一度は経験する病』のようなニュアンスを込めた。

今回のユリウスの独断がそれに該当するといえば軽く感じてしまうが、はしかや水疱瘡も大人になってからかかれば被害は大きい。

表出するのが致命的な場面であれば、それはなおさらだ。

「それが致命的にならなかった。……今回は、それでよしとしてくれ」

「――ラムはただ、他人に足を引かれたくないだけよ」

スバルから視線を外して、ラムが小さな声でそんな風に呟いた。

微かに頬を硬くしたラム。そんな彼女の様子に、スバルは眉を上げる。

「姉妹の姉、塔にきて以来、あまり調子が良くない様子なのよ。長旅の疲れが出てるのか、角の療法の効き目が悪いのかもしれないかしら」

「もしくは、別に心配事がある……つか、それだろうな」

すぐ隣に座り、スバルと手を繋ぐベアトリスと小声でやり取りする。

ユリウスの独断や、攻略法の見えない苛立ちをスバルやシャウラへぶつけるラム、それはあまりにも普段の彼女らしくない態度だ。

おそらくその原因は、レムを救う手立てを目前にしていながら、それに手が届かないことへのもどかしさだろう。

無論、ベアトリスの指摘した疲労や角の傷、それも無縁ではあるまい。

心身ともに万全でないこと。

それが、ラムから常の冷静さを失わせている原因だった。

「それでえ、ケンカしたいだけなのお? それとも、話し合いがしたいのお? どっちなのか決めてくれないとお、わたしも付き合い切れないんだけどお」

一瞬、悪くなりかけた場の空気に待ったをかけたのはメィリィだ。

シャウラの隣に寄り添い、自分の三つ編みを弄る彼女は気だるげな眼差しを部屋の全員に向け、

「できればケンカはやめてよねえ。わたし、痛いのも怖いのも嫌いだしい」

「お前は……いや、正論だ。その傍観者ポジションに助けられるな」

「そうお? うふふふ、それなら感謝してよねえ」

スバルの感謝に、メィリィは年端もいかない少女らしく無邪気に微笑む。

しかし、その笑みはどこか妖艶さを孕んだものであり、彼女の危うげな性質をほのかに物語っていた。

そんな笑みを向けられつつ、スバルは言葉通りのありがたみをメィリィの発言に抱いている。振り返れば、先の『試験』からの撤退もメィリィの発言のおかげだ。

場合によっては、全員が危なかったかもしれない窮地を逃れられたのは、同行者でありながら一歩引いた目線を持つ彼女の貢献だった。

「今後もその調子で頼むぜ。冷静な奴の目ってのは大事だ」

「調子いいんだからあ。そんなこと言っても、わたしの仕事は砂海を抜けたらおしまいでしょお? 他に役立つことなんてできないんだしい」

「でもねぇよ? 考える頭は一個でも多い方が助かるし、砂海で生き残れたことも含めて、塔の中じゃ一蓮托生だ。運が悪かったと思って俺に頼られてくれ」

「――――」

堂々としたスバルの寄りかかる宣言に、メィリィはしばし呆気に取られる。それから彼女は長く嘆息すると、

「……ペトラちゃんの気が休まらない理由がわかったわあ」

「――? ペトラがどうしたって?」

「なんでもなあい。それより、裸のお姉さんに話が聞きたいんでしょお?」

ぷいと顔を背けて、立ち上がったメィリィがシャウラの背中をぐいぐいと押した。その細腕の腕力に負けたわけではないだろうが、シャウラはいそいそと進み出ると、スバルのすぐ目の前に膝をついて座り、ぺたりとその場に頭を下げた。

「不束者ッスけど、末永くよろしくお願いするッス」

「殊勝な態度で助かるな。じゃ、結納品として聞きたいことが……痛い痛い痛い! エミリアたん!? ベア子!? なんで左右から脇つねったの!?」

「別に」「なんでもないのよ」

なんでもないのに脇をつねられていてはたまらないのだが、エミリアとベアトリスの態度にそれ以上の追及は躊躇われた。

とにかく、とスバルは咳払いを入れ、改めてシャウラに向き直り、

「上にいたのはレイド・アストレアで間違いなかった。当人も認めたしな。で、当時からの生き証人であるお前に話が聞きたい。あいつは、どんな奴なんだ?」

「人間のクズだったッス」

「それは前に聞いたし、実際、この目で確かめたよ」

唇を曲げ、美少女がしてはいけない顔で故人を懐かしむシャウラ。その故人が同じ建物の上の階にいることは別にしても、いい思い出でないことは間違いない。

顔を見た途端、泡を噴いて気絶するほどなのだから当然だが。

「俺たちはどうしても、あいつを突破しなきゃならねぇ。二層の『試験』を越えるためのヒントを一個でも増やしたいとこなんだよ」

「思い当たること、何でもいいから話してごらんなさい。『剣聖』レイドの性格、癖、人間関係、好きなもの嫌いなもの、弱点。そうね、弱点が聞きたいわ。話しなさい」

「すげーぐいぐいこられてるッスけど! 弱点なんか知ってたらあーしが突いて仕返ししてたッス! つまり、弱点はねーッス!」

「ちっ、使えない」

「お師様より偉そうッスね、この娘……」

仮にも『賢者』と呼ばれたプライドがあるのか、かなり上から高圧的なラムの態度にシャウラが唇を尖らせる。が、ラムの一睨みに首をすくめ、すごすごとスバルの後ろへ回り込んで盾にされた。

「なんで隠れるんだよ。絶対、お前の方が強いぞ」

「強いとか弱いとかって問題じゃないッス。なんとなく、本能がこんな風にあーしに反応させるッス。たぶん、お師様がビビってるからッスよ。そのビビりが、お師様と一心同体のあーしに伝わってきてるんス」

「お前のビビりを俺のせいにするな」

背中に柔らかい感触が当たるのが落ち着かず、スバルはシャウラの首根っこを掴むと、嫌がる彼女を無理やりに元の位置へと戻した。

そうして、質疑応答の再開になるわけだが――、

「えーと……結局、シャウラは『試験』のことについては何も知らないのよね?」

「知らないわけじゃねッス。ただ、今はまだ語るべきときではないってだけッス。おそらく、全ての答えは塔の謎が解かれたときに明かされるッス」

「そうなんだ……すごーく、ドキドキするわね」

「純朴なエミリアたんを騙すな」

「『剣聖』の弱点がわからないにしても、癖とかはないの? 戦ってるときの癖でもあれば、そこから突破口が見出せるかもしれないわ」

「癖ッスか。そういえば、あーしがレイドのセクハラの仕返しに殺そうとしたとき、あいつ、よく自分の尻掻きながら戦ってたッス! これは癖じゃないッスか?」

「それはおちょくられてるだけだな……」

「そもそも、『試験』を突破する条件が曖昧かしら。エミリアが認められたのは間違いないにしても、他の条件……認めるための、何かがきっとあるはずなのよ」

「たぶん、美人に弱いッス。美人なら通れるとあーしは推測するッスよ」

「となると、俺とユリウスだけ置いてけぼりにされんのか……由々しき事態だ」

「す、スバルも見ようによっては、頑張れば、あの男の目を潰せば、きっと、その、通れるかもしれないと思えないこともないはずかしら……!」

「お前は可愛いなぁ」

と、あまり役に立たない質疑を応酬しつつ、スバルはなんとかスバルを傷付けまいとしたベアトリスを抱きしめて頭を撫で回してやる。

ベアトリスはスバルの腕の中、甘んじてされるがままになりながら、

「どっちにしても、エミリアが認められたのはたまたまの偶然なのよ。あの男が油断していて、エミリアの攻撃だったから当たっただけかしら」

「その心は?」

「エミリアが殺す気で殴ってたんなら、あの男も当たったりしなかったはずなのよ。だからあれは男の油断と、エミリアの勝利かしら」

「あれ? 今、私、褒められてる?」

「褒めたのよ」

「あ、やっぱり。ふふ、ありがと。すごーく嬉しい」

ベアトリスの推測と、そこから派生した賛辞にエミリアが喜び、スバルに撫でられているベアトリスをさらに撫でる。

だいぶぐちゃぐちゃした状況だが、微笑ましいともいえる光景だ。

「しかし、殺意の有無で対応力が変わるって字面にするとカッコいいのに、実物があれだからな。どこまで本気でいるのやら、だ」

「……発想を、逆転させるべきね。バルスの言う通り、どこまで本気でいるのかわからない相手だけど、本気にさせてはいけないのよ」

「本気にさせちゃ、いけない?」

呟きを拾い、思案気にこぼしたラムにスバルは眉を寄せた。その言葉に、ラムはなおも考え込みながら「そうよ」と続け、

「エミリア様が試験官に認められたのは、相手の譲歩を引きずり出して、その上で条件を満たしたから……かなり、試験の突破条件は浮ついているわね」

「ファジーな条件ってのは同意見だ。試験官の気性が反映されてる」

「だから、試験官を楽しませつつ、試験として成立する条件を提示する。その上で試験官を負かすことが、二層を突破する条件なんだわ」

「――――」

ラムの言葉を受け取り、スバルはなるほどと内心で手を打った。

エミリアが『一歩でも動いたら』と条件を付け、膨大な手数と少しの幸運を利用してなんとかもぎ取った勝利――レイドの油断も含め、最も条件が緩い段階での勝利があれだ。武力でもぎ取る勝利は、もはや不可能と考えるべきだろう。

「かといって、じゃんけんで勝ったらってわけにもいかねぇだろうしな……」

「あの、レイドを納得させる条件を見つけて、それで頑張る……やっぱり、この『試験』もそこを考えなきゃいけない大変な試験なのね」

「大変ってより、これは三層とは別の意味で意地悪な試験だと思うぜ」

知力(この世界にない知識)を試されたあと、今度は武力(世界最強レベル)を試されるのかと思いきや、本題は別の部分にあったと推測される『試験』。

つまりは二層の『試験』も、三層とは趣こそ違うが、監視塔を作り上げた『賢者』の底意地の悪さが発揮されたもので間違いない。

あとは――、

「――いいじゃないッスか。そんなに焦らなくても、ゆっくりやってったら」

「ゆっくり、っつってもな」

考え込む面々を見回し、胡坐の姿勢で体を左右に揺すったシャウラが気楽な調子で言い放った。それを受け、スバルたちは顔をしかめたが、彼女は気にせず、ただ瞳を爛々と楽しげに輝かせて、

「お師様たちがいたいだけ、ずっとずっとずーっといてくれたらいいッスよ。あーしは何百年も、お師様がきてくれるのを待ってたんスから」

「それは……」

「いくらでも時間かけて、『試験』を順当にクリアーしてくれてったらいいッス。あーしはそれを、ずーっと見守ってるッス。――何日、何年、何百年でも」

それは、軽はずみに冗談と笑い飛ばせない、重みを伴った言葉だった。

シャウラが軽い調子で、笑顔で、スバルたち――否、スバルに対する好意しか存在しない態度で紡ぐ言葉には、彼女が過ごしてきた何百年の重みがある。

ここで、『賢者』の言葉に従い、監視塔を守り続けてきた番人としての重みが。

シャウラは言った。

『試験』を終えずに出ることを禁ずる、と。そしてそれが破られたとき、たとえ相手がお師様などと慕っているスバルであっても、容赦はしないと。

好意的であるから、親しげであるから、それが味方となるわけではない。

プレアデス監視塔攻略において、星番を務めるシャウラもまた――、

「――ここで、あーしと一緒に楽しくやっていったらいいッスよ!」

――信頼できる味方などではないのだと、その笑顔に痛感した。

リゼロEX 『ゼロカラアヤマツイセカイセイカツ』

恒例のエイプリルフール企画です。

本編のパラレルの内容となっていますので、キャラクターの関係図が色々と変わってきていたりしますが、変わらない扱いのキャラもいますので、そのあたり含めて許せる方のみどうぞ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――意識を支配したのは、肉体の中心を発端とした激しい『熱』だった。

「ぐ、ぅぅぅぅ! 熱ッ」

固い地べたの感触を顔面に味わい、スバルは自分がうつ伏せに倒れていることを自覚する。なのに、立ち上がるための手足は動かない。

まるで、自分が自分でなくなったかのように、肉体の自由は奪われてしまっていた。

それなのに、灼熱だけは際限なくスバルを焼くのだから冗談ではなかった。

――熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

口を開ければ、悲鳴の代わりにこぼれ出たのは大量の血だ。

痛みと苦しみの挙句、溢れかえる自分の血で溺れそうになり、スバルはこの世の痛苦の極みをひたすらに味わわされる。

――いったい、自分が何をしたというのか。

苦しみから逃れるための逃避願望が、そんな泣き言を脳裏で繰り返し紡がせる。

いったい、自分が何をしたというのか。

決して、褒められるばかりの生き方でなかった自覚はある。だが、そんなことはスバルに限ったことではない。誰もが、日々を全ての人間に誇れるほどに潔白に生きることなどできていないはずだ。後ろめたいことも、後悔することも、目をつむったことも、妥協したこともあるはず。

それなのに、どうして自分だけがこんな目に遭わなくてはならない。

他の全ての人間がお目こぼしされる運命を、どうして自分だけが押し付けられて。

「あぁ、クソ……」

ごぼごぼと、溢れる血の隙間から呟きが漏れた。

それは後悔であり、無力さへの憎しみであり、運命への憎悪であり――、

――自分への、呆れでもあった。

「――――」

これだけ傷付いても、これだけ苦しんでも、これだけ死ぬような目に遭っても。

灼熱に身を焼かれ、鋭い痛みに文字通り身を斬られ、命さえ脅かされても。

脳裏に焼き付く少女の姿は、微笑みと、悲しい死相ばかりが繰り返されるから。

「俺が」

今、再び、決意を口にする。覚悟を口にする。未練を、後悔を口にする。

幾度挑んでも、幾度這いずり回っても、幾度願っても、届かぬ未来を求めて。

『痛み』も『熱』も全ては遠く、負け犬は負け犬らしく、みっともなく吠えるのだ。

「必ず」

翻る凶刃が、命を絶たれる寸前の瀕死の灯火へ無情に迫りくる。

しかし、それすら目に入らない。すでに、覚悟は極まっているのだ。

――お前を、救ってみせる。

その願いを再び抱いた瞬間、ナツキ・スバルは命を落とした。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――見慣れた光景を再び目にしたことに、スバルは奇妙な安堵と脱力感を覚えていた。

「無事、戻れまして安心してございます、ってか」

王都の往来を眺めながら、スバルは拾った木の枝で地面に「正」の字を書き連ね、気の済むまでそれを続けたあと、足で踏み消して嘆息した。

ナツキ・スバルは、太陽系第三惑星地球出身の平凡な不登校高校三年生だ。

ジャージ姿にスニーカー、コンビニ帰りのビニール袋を手にしたラフな格好を見れば、誰もそのことに疑いを持ったりしないだろう。

ただし、その理屈が通用するのは、ジャージやスニーカー、コンビニといった横文字の意味がちゃんと伝わり、価値観を共有できる文化圏に限るのだ。

つまり、何が言いたいのかというと――、

「――異世界召喚ものって、思ったよりキツイんだよなぁ」

馬ほども巨大なトカゲが馬車を引き、土煙を立てながら目の前を横切っていった。

当然、そんな光景はスバルの知る地球圏ではお目にかかれない。ならば、今のは馬に特殊メイクを施した、いわゆるテーマパークのキャスト的な存在なのかと言われると、それも易々とは頷けない。

何故なら、トカゲはあれ一頭だけでなく、通りや街のあちこちに溢れ返っており、そのトカゲを従える人々にも特殊メイクを受けたものが多すぎるからだ。

人型の獣――獣人や亜人といった種族の装いをした人間が、少なくともスバルの視界に入る範囲で二、三十人。無論、スバルと姿形を同じくした一般入園客も多数いるのだが、それは外見という個性の暴力に埋没してあまり意識に入ってこない。

そもそも、こんな現実逃避にいつまでも思考を割いてはいられないのだ。

獣人もトカゲも、キャストでもなければ映画の撮影なんかでもない。ここは、これが当たり前にまかり通る文化圏で、ここでの異物は彼らではなくスバルなのだ。

――そんなことはもう、体感で十数日も過ごしたスバルは痛いほど痛感している。

「……いくか」

益体のない思考を打ち切り、尻を払って立ち上がる。

スバルは拾った木の枝を右手に下げたまま、ぼんやりとした足取りで通りへ――表通りの人波に紛れるのではなく、裏通りへと足を踏み入れた。

人がごった返した表通りと違い、背の高い建物に挟まれた裏通りの人気は少ない。まさしく路地裏に相応しい装いとなったその場所は、まるで通り一本隔てただけで外界から隔離されたような静けさが落ちている。

早い話、ここでは何が起きても、悲鳴が表通りに届くことはまずない。

故に、そんなところへお上りさん丸出しの顔をしたスバルが紛れ込めば、当然のようにそれを目当てにした悪党が姿を見せるわけで。

「よお、兄ちゃん。少し俺らと遊んでいこうや」

かけられた声に振り向けば、通りを塞ぐように立っていたのは三人の人影だ。

大、中、小と満遍なくニーズに合わせて取り揃えたラインナップに、スバルは彼らの本気のリサーチ力を感じ取る。何のリサーチかは知れないが。

「――――」

首を傾け、三人組とは反対の道に目を向ける。背後、この路地は行き止まりになっており、表通りへ出るには三人組に通してもらう以外にない。

そして、三人組にスバルを表通りへ出してくれる意思があるかというと――、

「おいおい、呆けた面してどうしたよ」

「状況がわかってないんだろ。教えてやったらいいんじゃないか」

緩慢なスバルの素振りに、三人組は下卑た笑みを浮かべながら嬲る算段を立て始める。相手から見れば、スバルは素人丸出しの状態だ。

都合のいいカモ、それを前にして舌なめずりするのは責められない。

ただ、それは完全に彼らの見込み違いだ。

確かにスバルはまともにケンカもしたことがなければ、格闘技を習っていたような隠された過去もない。素人、という彼らの判断は間違っていない。

だがしかし、この三人組に対する経験値だけならば、スバルはすでに百戦錬磨だ。

「――あ?」

油断する巨漢――三人組をトンチンカンと名付け、トンに向かって腕を突き出す。

その腕には、先ほど通りで拾った木の枝が握られており、さして鋭いわけではないその先端が、しかし喉の柔らかい部分に食い込み、わずかな抵抗のあとで突き破る。

「おい?」

その、一瞬の出来事にトンが目を見開き、左右に立つチンとカンも硬直した。

これでトンは戦闘不能だ。そして、硬直する二人のうち、中肉中背の方――チンの方に空いた手を伸ばし、スバルはその髪の毛と耳を掴んで振り回した。抵抗はさせない。勢いを付けて、一気にその頭部を横の壁に叩きつける。

固いものが潰れる音がして、チンは壁に血の跡を付けながら崩れ落ちた。

同時、首に木の枝を刺したままのトンが膝をついて、白目を剥きながら倒れる。倒れ方が悪い。前に倒れるから、余計に枝が深く刺さった。

これで、二人が戦闘不能に陥った。残すところ、あと一人――。

「ひ」

小柄な男――カンが、仲間二人を一瞬で倒されたことに顔を青ざめさせている。

そのまま、二人を見捨てて通りの外へ駆け出せば、スバルと脚力の勝負になり、生き残る目はあったかもしれない。

それなのに、カンは倒れる二人に目を向け、逃げるのを躊躇った。すでに手遅れであるとも知らず、限られたほんの一秒の猶予を無為にした。

馬鹿が。大馬鹿だ。そんな、馬鹿な選択をした報いを受けろ。

「ぐ、が、ぁぁ……」

細い首に手を回し、スバルは力を込めてカンを後ろの壁に押し付けた。暴れる小柄な体を、壁に押し付けたまま持ち上げる。ぐいぐいと、両手に力を込め、締め上げた。

スバルと目線の高さが同じになるまで持ち上げられ、首を絞められるカンが目を見開き、だらしなく開いた口が酸素を求めてぱくぱくと喘ぐ。だが、気道を力ずくで塞がれ、自由を奪われた彼に救いが訪れることはない。

「これで、俺が通算で何回、お前らと会ったかわかるか?」

「く、こ……」

「八十八回だよ。末広がりでめでたいなってか。笑えよ」

徐々に赤黒くなり、涙と涎を垂れ流す顔面を睨みつけ、スバルは言った。

だが、当然、カンにそんな余裕はない。じきに、余裕どころか抵抗力をなくし、ぐったりとなった体をスバルはその場へ投げ捨てた。

倒れる三人を見下ろし、一応、念のために全員の首を一度、強く踏んでおく。スニーカーの踵が硬いものを砕く感触があれば、ひとまず安心だ。

トンの首だけは太く、念入りに五回は踏みつけてやる必要があった。こればかりは何回やってもコツが掴めない。運よく、一回ずつで片付く場合もあるのだが。

「首、絞めるのはスマートじゃないな。……感触も気持ち悪いし、もうやめよう」

そんな反省点を踏まえて、スバルはチンの体から二本のナイフを拝借。それから三人の死体を適当に道の端に寄せ、何事もなかったかのように路地裏を出た。

路地に入ったのも、トンチンカンと出くわしたのも、かなり早めに事を起こした。少しだけトンチンカンの処理に時間をかけたが、ほんの十数秒のことだ。

スバルは急ぎ足に表通りを抜け、目的の場所へと足を進めた。

「――――」

通りの様子を眺め、間に合ったと安堵に胸を撫で下ろす。

商業街と呼ばれる大通り、そこも他と変わらぬ人波が左右に入り乱れ、王都ルグニカの賑わいを証明する役目を負っている。

ただ突っ立っているだけでも、十分すぎるほどに喧騒が鼓膜に飛び込む空間だ。

しかし、その賑やかさの雰囲気が、ふいに違った形に変化する。

「――待って! もう! 待ちなさい!!」

一際、大通りの喧騒を高く切り裂いたのは、聞き惚れる銀鈴の声音だった。

切羽詰まった雰囲気を孕みながらも、どこか声の主の気性の穏やかさを隠し切れずにあるその声は、通りの人波をすり抜ける小柄な影に向けられている。

「へへっ」

と、猫のような笑みをこぼし、人の隙間を縫って抜けるのは金髪の少女だ。その手には輝く何かが握られており、一仕事を終えた感がありありと窺える。

そうして、その少女へ目掛け、通りを青白い輝き――氷槍が飛びかかっていった。

「――ッ!!」

思わぬ攻撃に少女が驚き、跳んだり跳ねたりを駆使してその氷槍を躱す。

その魔法攻撃は人の多い通りで放たれたものであり、突然のことに混乱が生じ、王都の人々は一斉に道を開け、関わり合いになるのは御免だと両手を上げた。

ずいぶんと統率された動きだ。王都で騒ぎに巻き込まれるのは日常茶飯事、とまで言ってはなんだが、それに近いものがあるのかもしれない。

ともあれ、道を開けた人垣を駆け抜け、姿を見せるのはお目当ての人物。

「――――」

『彼女』を目にした瞬間、スバルは世界の全てが凍結したような感覚を味わう。

風も、人の声も、時間すらも感じなくなり、意識の何もかもがその肢体に奪われるのだ。

長い銀髪を躍らせ、宝石のような紫紺の瞳を強い意識に光らせる。白く細長い手足に、まるで妖精のために誂えられたような神秘的な白い装束――。

時の止まった世界で、彼女だけが時の静止を免れ、スバルの前を通り過ぎてしまう。

彼女の目的は、直前にすり抜けた金髪の少女――フェルトだ。

フェルトに何かを奪われ、それを取り返すために彼女は王都を奔走することになる。そしてそれは彼女にとって、避け難い不幸の運命へ続く道なのだ。

だが、そんなことはさせない。

彼女を、『死』の運命になど、絶対に捕えさせない。

「俺が、必ず、お前を救ってみせる」

遠ざかる彼女の背中に、スバルは八十八度目の誓いを立てる。

これほど破られ続ける誓いに、いったいどれだけの説得力があるかはわからない。

わからないが、諦めなければ、抗い続ければ、救いたいと願い続ければ――、

「待っていてくれよ。――サテラ」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

死して時間を巻き戻す力、『死に戻り』。

スバルがこの『死に戻り』の力で、世界をやり直すのはこれが八十八回目だ。

すでに百回の大台を目前にした挑戦だが、その全ては銀髪の少女――サテラを、運命に袋小路から救い出すために、そのために費やされてきた。

「あれこれと、試行錯誤を重ねてみたもんだが……トンチンカンみたいにはいかねぇ」

と、それがこの運命最大の難敵――エルザ・グランヒルテに対するスバルの結論だ。

サテラが盗まれた物品、徽章をフェルトに盗むように依頼したのが、そのエルザという名前の漆黒の女なのだ。この女が、サテラを何度も死に追いやる危険人物である。

これまで、八十七回に及ぶ挑戦の中、スバルは幾度となく、このエルザを排除し、サテラの安全を確保しようと奔走したのだが、もはや人外の領域にあるエルザの戦闘力を前に敗北を喫し、五十回以上も腹を開かれて落命している。

腹を開くのを好むサディスト、エルザは戦って勝てる相手ではない。

これがまだトンチンカンのような輩であれば、ある程度の行動をパターン化し、必勝の方策を練ることもできる。しかし、エルザほどの強さになると、スバルが何か行動を起こそうとした途端、瞬きの早さで首を刎ねられておかしくない。

実際、首ではなく、瞬きの早さで腹を裂かれたことは何度もあるのだ。

スバルが戦って勝つことはできない。フェルトも、ロム爺も、サテラも同じだ。

その結論を受けた上で、スバルが選んだ戦法は――、

「素敵! 素敵よ! もっと、私を楽しませてくれると嬉しいのだけれど!」

「ぐあああ――!!」

黒刃が次々に翻り、風が巻き起こるたびに血が噴出する。

通りへ倒れる人の数はすでに両手の指では足りぬほどになり、返り血を浴びるエルザの表情は恍惚を通り越し、断続的に絶頂感すら味わっているように見えた。

これほど凄惨な状況にありながら、血を浴びるほどに色香を増していくエルザ。

過去、処女の生き血を浴びることで若さを保とうとした女性が、吸血鬼などと呼ばれた逸話があったはずだが、今のエルザはまさにその『吸血鬼』然とした姿に見えた。

「……これも失敗、か」

嘆息し、屋根の上に潜むスバルは惨状を俯瞰しながら目を細めていた。

場所は貧民街の一角、周囲を廃墟に囲まれた特に寂れた区画で、ある種の広場のような空間を舞台に、血の惨状は拡大の一途を辿っていた。

エルザと剣を交え、そのことごとく凶刃に倒れていくのは王都の衛兵だ。

善意の一市民から通報を受け、危険人物であるエルザ・グランヒルテを発見し、その捕縛のために挑んで命を散らした人々――善意の一市民として胸が痛む光景だった。

「まさか、ここまで普通の衛兵とエルザとの間に実力差があるとはな……」

これでは、エルザを喜ばせるために生贄を差し出しているようなものだ。

スバルの期待は、王都を守る衛兵のような立場の人間であれば、何らかの魔法的な力によって肉体を強化し、エルザと互角に渡り合えるのではとしたものだったのだが、それはどうやら高望みでしかなかったらしい。

やはり、エルザの実力はこの世界においても図抜けた域にあるわけだ。

ますます、エルザに対する憤りが強くなる。だが、どれだけ強く怒りを持っても、スバルの力であの凶悪な女を止めることは叶わない。

衛兵たちのラッキーパンチで、エルザが倒されるともとても思えなかった。

「これ以上は見てるだけ無駄か」

犠牲になった衛兵たちには悪いが、この試みはここで終わりとさせてもらおう。

まだ手を緩めるつもりはないが、ここで死んだ彼らも、スバルが最終的に失敗して命を落とせば、やり直した世界では息を吹き返すのだ。

そのための犠牲として、今はひとまず涙を呑んで死んでいてもらおう。次の機会があれば、彼らには何も期待などしないから、安心して王都の平和を守っていてほしい。

そう、スバルが結論し、その場を離れようとしたときだった。

「――あら」

足を止め、エルザが凶刃を振り上げたまま、血に濡れた唇を舌でなぞった。

溢れる狂喜と殺意は、衛兵を虐殺する遊びに飽きたエルザが新たな獲物を見出した何よりの証だ。そして、そのエルザの哀れな生贄に選ばれたのは――、

「――そこまでだ」

赤い、炎がそこに立っているのかとスバルは幻視した。

「――――」

息を呑み、目を擦り、改めて見直してようやく、それが炎ではなく人だったことを認めることができた。

それは赤い炎の髪に、澄み渡る空を閉じ込めた青い瞳を持った青年だ。

細く見えるが、しなやかに鍛え上げられた長身を白い装いに包み、腰には恐ろしく大仰な拵えをした剣を一本携えている。

その顔立ちは百人いれば百人が振り返り、見惚れるほどに整った神の造形。性別を超越した美の暴力、それを感じさせないのは青年の穏やかな佇まいが原因か。

一目で、有象無象とは異なる存在なのだと、魂で知らしめる存在感――。

「騎士ラインハルト……!」

「君たちは下がっていてくれ。彼女は……『腸狩り』だ。すでに犠牲者が多すぎる。これ以上は出したくない」

生き残った衛兵の震える声に、青年――ラインハルトが微かに目を伏せて言った。

それは、まるで塵芥の如く屠られた命への憐憫であり、それを為したエルザという戮殺者への義憤でもあった。

遠目にそれを見るスバルにも、ラインハルトという青年の心根が見える。

なんと、真っ当な理由で、真っ当な考えの下、真っ当な精神性を以て、怒る男なのか。

死を悲しみ、殺戮を憎み、及ばずを悔やみ、後悔を信念で塗り替える。

それが、あのラインハルトと呼ばれた青年――騎士の、在り方であるのだと。

「ラインハルト・ヴァン・アストレア。『剣聖』の家系ね。素敵、素敵だわ!」

「過分な評価の重みに潰れそうな日々だよ。君は、『腸狩り』で間違いないね」

「ええ、その通りよ。いけないわ。どうしましょう。本命のお仕事があるのに、こんなところであなたと顔を合わせてしまうだなんて」

恍惚に熱い吐息を漏らし、エルザは熱に潤んだ瞳をラインハルトへ向ける。

一方、ラインハルトの表情は真剣そのもので、青い双眸には使命感があるばかりで遊び心は全くない。

対極的な思想で向かい合った両者だが、その心の導き出した結論は同一だ。

互いが互いを討ち果たし、目的を達する以外にないと。

「本来であれば、僕は投降することをお勧めするんですが……」

「この惨状を前にして、あなたは私にそう言ってくれるの? 優しいのね。私にとっても、彼らにとっても残酷なぐらいに」

「――いえ、僕も同意見です。ここで君に手心を加えることは、彼らの死に対して誠実とは言えない。だから、投降してほしいとは言いません」

倒れ伏す衛兵たちの亡骸、それを愉しげに足蹴にしたエルザの言葉に、ラインハルトはゆるゆると首を横に振った。

そして、傍らに控える衛兵に手を伸ばし、「剣を」と短く告げる。

「どうか、お願いします」

指示された衛兵が剣を差し出すと、ラインハルトはそれを握り、感触を確かめた。その様子にエルザは胡乱げに眉を寄せ、

「腰の剣は使わないの? 噂に聞く、龍剣の切れ味を肌で感じてみたいのに」

「生憎、この剣は抜くべき相手を見極める性質があるんだ。少し厄介な性質ではあるが、剣は君をお気に召さないらしい。代わりに、こちらでお相手しよう」

「ふうん」

腰の剣ではなく、受け取った剣を構えたラインハルトにエルザが吐息する。

しかし、どこか不満げに思えた態度も一瞬のこと。即座に切り替え、目の前に立っている青年との戦いと血の予感に、女は舌なめずりした。

そして――、

「『腸狩り』、エルザ・グランヒルテ」

「『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

互いに名乗り合い、広場の中心で風になる両者が激突する。

勝負は一合、たったそれだけで決着した。

何の変哲もない斬撃、それは光の渦を生み、衝撃波が貧民街の一角を崩壊させる。

『剣聖』と呼ばれた男の剣撃は、まさしく『力』そのものであった。

その光景を、ナツキ・スバルは目を見開いて、見ていた。

頬を伝った涙と、震える膝の原因も、わからぬままに――。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

スバルが仕組み、期待したものとは異なる展開ではあったが、エルザの打倒という最大の目的は果たされたと言っていい。

ラインハルトの参戦は予想外だったが、願いが叶ったならば万々歳だ。

おかげで、サテラの徽章を取り巻く事象は無事に解決する。フェルトとロム爺も、取引き相手であるエルザが合流しなければ、サテラの徽章を確保しておこうと無理をすることもないだろう。サテラが、怒りに任せて二人を殺すことも考えにくい。

盗品蔵を中心とした物語は、必要最低限の登場人物で完結してくれる。

それは、スバルにとっても望ましい結果だった。

だから――、

「――あなたは、どうして私を手助けしてくれるのかしら?」

「別に信用してくれなくてもいいけどな。衛兵に囲まれて、リベンジできなくなってもいいって言うんなら、俺を斬り捨てて好きに逃げろよ」

「――――」

吐き捨てるように、スバルは背後、壁に寄りかかって蹲るエルザに言った。

その全身が血塗れで、黒い装束もあちこちが破れ、白い肌が露出している。もっとも、肌には痛々しい傷跡が目立つため、そのことに羞恥を感じる余地は微塵もない。

そもそも、スバルはエルザに女としての興味など全くないのだ。

ただ、使えると思ったから、機会を利用しているに過ぎない。

「衛兵は血眼になってお前を探してる。俺が見当違いの方向に誘導してやったから、こっちに気付くのにもうしばらくはかかるだろうよ。傷は?」

「すごく痛いわ。痛くて痛くて、死んじゃいそう。ふふ、素敵ね」

「俺にはわからねぇ感性だよ。死なれちゃ困るから、なんとかしてぇけどな」

せっかく、危険を冒してまでエルザを生き延びらせる方向へ誘導しているのだ。

ここで倒れられ、ましてやスバルまで衛兵の捜索の巻き添えになっては、偶発的に発生したサテラ生存ルートが水の泡になってしまう。

その場合はその場合で、また今回の目が出るまでサイコロを振り続けるだけだが。

「貧民街の、南東まで道を作っていただける? そうすれば、私は妹と合流できる。傷の手当ても、逃走経路も用意してくれるはずだから」

「妹! はっ、姉妹でとは抜け目ねぇし、救えねぇ話だ」

信用されたわけではあるまいし、信用されても虫唾が走るが、エルザの言葉にスバルはこの難局を乗り切る算段を付けた。

逃げる過程ですでにかなり南へ流れてきているのだ。ここから、エルザの指示した場所へ移動するのにそうはかからない。

エルザの所持していた聖金貨とやらで、スバルが買収した貧民街の人間が衛兵たちの捜索を邪魔し、間違った方へ誘導してくれている。問題は、ない。

「わからないのは、あなたの目的ね」

「お前に貸しを作っておきたいんだよ。いつか、役立つときがくるかもしれねぇ」

「貸し、ね。それが不思議だわ。――あなた、そんなに私を殺したがっているのに」

エルザに肩を貸し、逃げる手伝いをしてやりながらそう言われた。すぐ間近でエルザの黒瞳がスバルを見上げ、その奥にある感情を覗き込もうとしてくる。

だが、勘ぐって奥を覗くまでもない。スバルの黒瞳の答えはエルザが拾った通りだ。

スバルは、エルザを可能なら今すぐ殺してやりたい。しかし、後先考えずに挑めば、死にかけのエルザにすらスバルは勝てないし、そもそもそれは短絡的だ。

スバルは今、自分の置かれている状況がひどく偏ったゲーム盤だと想定している。

あらゆる手を考え、試行錯誤し、最善手を打つことを前提とした戦い。

これを将棋のようなものだと思えば、盤上に存在する駒を手当たり次第に追い払っていけば勝利を得られるなどと生易しいものではない。

可能ならば、敵と味方を入れ替える。隙あらば、立つ瀬を変えるのを厭わない。

そのためには、殺したいと心底憎しみを抱いた相手すら、利用すべきだ。

「俺は、お前を殺したい。きっと、いつか殺すよ。だけど、今じゃない」

「そう」

隠すまでもないと、スバルは自分の腹の底をエルザに打ち明けた。

これでエルザが慎重な人間であれば、後顧の憂いを断つために彼女はこの場でスバルを殺していたはずだ。だが、そうはならない確信がスバルにはあった。

それはこれまで、八十八回――その、八十回以上をエルザに殺されたスバルだけが抱ける、殺意の確信だった。

「素敵ね。あなたと、私とを憎しみで結び付ける。いずれ、必ず。きっと、あなたの言葉は私に証明されるわ。それはとてもとても、素敵なことね」

「――――」

血に濡れて赤く染まった唇を緩め、エルザがまるで恋する乙女のように微笑んだ。

その笑みを間近にして、スバルは心底、この女をおぞましいと思った。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「また必ず会いましょう?」

「じゃあね、お兄さん。エルザのことは感謝してあげるわあ」

合流した濃い青髪の少女にエルザを引き渡し、スバルは安堵に息を吐いた。

エルザの指示した廃屋に待っていたのは、まだ幼い十代前半の少女だった。最初はその幼さにスバルは驚いたが、少女は場慣れした態度でエルザの傷を手当てし、さっさと王都から逃走する準備を終えると、早々に廃屋を引き上げた。

かろうじて、エルザとの連絡手段を確保したことが、スバルの得た報酬だ。

冒した危険に見合った報酬であるのか、それは定かではないが。

「それは、これからの俺の行動次第、か」

血の汚れが渇いたジャージの上着を脱ぐと、スバルはそれを腰に巻いて歩き出す。

足の向く先は貧民街の反対、盗品蔵の方角だ。エルザが出向くことができなかったあの場所で、サテラが無事に徽章を取り返せたのか、それだけが気にかかった。

「――――」

時間をかけ、盗品蔵に辿り着いたスバルはその光景に目を丸くする。

「これは、予想外だった」

そうこぼしたスバルの正面に広がるのは、氷漬けになった盗品蔵の光景だ。

氷漬けというより、氷の中に盗品蔵が閉じ込められているという表現の方が正しい。いったい何があったのか、近くの住人に軽く聞き込みしてみると、

「盗品蔵の顔役だった爺さんと、その孫娘が衛兵にしょっ引かれたんだよ。なんでも、おっかねえ魔法使いを敵に回したとかなんとか……関わりたくねえな」

「その、孫と爺さんは無事なのか? 魔法使いは?」

「ケガはねえって話だが、どっちもよく見たわけじゃねえよ。もういいだろ」

鬼気迫るスバルの勢いを不気味に思ったのか、男はスバルの腕を振り払うと、急ぎ足に裏路地の闇に紛れて遠ざかっていった。

その背中を見送り、男の言葉を反芻して、スバルは安堵に胸を撫で下ろす。

男の言葉がどこまで事実かはわからないが、少なくとも死人が出た話を今のものと聞き間違えることはないはずだ。

フェルトとロム爺が衛兵に捕まったのは、やっていた生業が生業なので仕方ない。しばらく臭い飯を食って、自分の所業を反省すべきだ。

そして、サテラは無事、スバルの望み通りに助かってくれたとわかって――。

「――さて。あとはこっから、俺がどうするかだな」

頭を掻いて、スバルは自分の目的が空っぽになったことを自覚する。

異世界に召喚され、『死に戻り』なんて力を付与されて、それを駆使して、あのお人好しで可愛らしい銀髪のハーフエルフを助ける。

それを成し遂げるために、八十七回も死んで、ここへ辿り着いたけれど。

「しまったな。死んでやり直して、エルザがなんでサテラから徽章を盗もうとしてたのか聞き出してきた方がいいか……?」

負傷したエルザを運ぶ間に聞き出すべきだったが、失念してしまっていた。

とはいえ、あそこでエルザの事情に突っ込んだことを聞いて、スバルが心情的にサテラ寄りだということがばれれば、エルザがどう行動したかはわからない。

結果的に今、スバルもサテラも命がある。それが、正解なのだとしたら。

「できれば、サテラのことをもっと詳しく知っておきたいけど……」

サテラがどこからきたのか、どこへ向かったのか、また会えるのか、わからない。

それがわかるまで、繰り返す手段もあるにはあるが。

それ以外の手立てが、あるとしたら――、

「――それは、お前らが教えてくれるのかな?」

氷漬けになった盗品蔵の前で、スバルはポケットに両手を入れながら振り返る。

人の気配は、ない。なのに、スバルの視界には無数の人影が立っているのが見えた。

凡庸な顔ぶれ、老若男女が適度に入り乱れ、統一感のない集団。

ただ一つだけ、その集団の中に統一されたものがあるとすれば、その双眸だ。

いずれも、目が死んでいる。狂気に染まり、狂喜を求め、そのために。

きっと、鏡を見れば、スバルも同じ目をしているはずだ。

「――――」

その感傷に頬を緩め、スバルは頭上を仰いだ。

怖いぐらいに冴えた月が、凍れる盗品蔵と、狂人たちを無言で見下ろしていた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

サテラの素性が詳しく判明したのは、それから二ヶ月近く経過してからだった。

「王選! 銀髪のハーフエルフ! ロズワール・L・メイザース辺境伯の推薦! サテラじゃなく、エミリア――!」

何の進展もなく、続報の途絶えていたところに飛び込んだ詳細情報に飛びつき、スバルは歓喜の表情で両手を叩いた。

思いがけず情報が流れ込んできたのは、王城からの発令を受け、王都のみならず国中に掲示された『王位選抜戦』の報せでのことだ。

原始的に、立て看板などを街中に立てて表明されたその情報に、最初はたかだか一個の国の選挙などと小馬鹿にしたスバルは目を剥いた。

候補者として立てられた五人の女性――その中に、探し求めた少女がいたのだから。

「王選、王選か……王様候補ってことは、やんごとなき身分。道理で、ただ歩いてるだけでも気品とかに溢れてたわけだよ。エミリア、エミリアかぁ」

本名がわかったことで、スバルの心は羽が生えたように軽くなっていく。

当初、サテラと嘘の名を名乗られたことはとっくにわかっていた。彼女――エミリアが何のために、スバルにサテラなどと偽りの名を告げたのか、その理由も。

だって、サテラなんて名前を名乗る銀髪のハーフエルフがいれば――、

「当然、こいつらとの関与を疑って人は近付かない。俺を危険から遠ざけるための、苦肉の手立てだったわけだ。可愛い顔して、可愛いこと考えるなぁ」

ハーフエルフであることを寂しげに語り、遠ざけられることを恐れるような顔をしておきながら、相手のことを慮ってそれを利用し、危険から距離を置かせようとする。

なんていじましく、健気な子なのだろうか。胸が締め付けられる思いだ。

そこへ――、

「――ナツキ・スバル! 寵愛の信徒よ! ここにいるのデスか!?」

「――――」

けたたましい、鳥を絞めるような耳障りな声が反響し、スバルの名を呼ぶ。

その声に顔をしかめ、スバルは王都から引き剥がしてきた立て看板をベッドに置くと、嫌々ながら扉を開け、私室の外に出た。

部屋の外は冷たい空気と、暗い空間が広がっている。その空間に反響するのは耳障りな声だけでなく、異様にせかせかとした靴音もそうだ。

そして、閉めた扉に背を預けて待っていると、薄明かりだけが頼りの通路を抜け、青白い不健康そうな顔をした男がぼんやりと姿を見せる。

その男はスバルを目にすると、目が飛び出さんばかりに双眸を見開いて、

「探したのデス! 何故に、何故に、何故にこんなところで怠惰を貪っているのデスか!? 我々は! 勤勉に! 魔女の導きのままに、愛に応えねばならぬ身だというのにぃぃぃぃ!」

「言い掛かりはやめてくれよ、ペテさん。俺は『福音』の指示に従ってるだけさ。『福音』が俺にここで過ごせって命じたんだ」

「なんと! 『福音』がアナタにそのようなことを!? この時期に、この機会に、こんな状況で、アナタほどの敬虔な信徒を何故に遊ばせておくのか、いったい魔女は何をお考えなのか、ワタシ如きでは推し量ることさえ! さえ! できぬのデスか」

やかましく怒鳴り散らし、それだけでなく体の動きもうるさい。

まさしく狂人――ペテルギウス・ロマネコンティを前に、スバルはため息をつくのを堪えるのに苦心していた。

好感など持ちようのない狂人だが、スバルにとっては有用な相手に違いない。

何せ、スバルが身を寄せた集団はどいつもこいつも自分本位なエゴの塊で、一般教徒に至っては自意識が備わっているのかすら疑わしい。

一般教徒の感情の希薄さは、日常生活の中で自分の所属がばれないよう、何らかの干渉が意識に行われているのでは、とスバルは勝手に推測していた。

ともあれ、そんな考察はどうでもいい。重要なのは、一般教徒とはかけ離れた権限を持たされた立場にある、このペテルギウスの来訪の目的だ。

この二ヶ月、スバルはペテルギウスを含んだとある集団に迎えられ、一応は何不自由しない生活を送らせてもらっている。

もっとも、生活に不自由はしないが、行動と精神的には不自由なことばかりだ。

特に狂人、狂信者の類と接する機会が多いことは、あくまで常識的な人間性しか持ち得ないスバルにとって苦痛以外の何物でもなかった。

住まいは、山中に存在する入口を隠された洞窟。

意外と居住性に優れ、自室を宛がわれるほどに厚遇されているのだが、人里から遠いことや、床の硬さと壁の温かみのなさが現代っ子のスバルには堪える。

とはいえ、外の環境で彼らとの関わりを隠せるほどに演技がうまくはない。妥協案としてここで暮らし、この世界の知識を蓄えることは有用だった。

「で、この隠者生活してる俺に何の用事だって?」

「ご存知ないのデスか? この国で、今まさに行われんとしている愚かな行事を!」

「国で、これからってことは……王選のことか?」

「そうデス! 王選! デスが、問題はそこではないのデス! 重要なのは王選そのものではなく、王選に参加する存在! すなわち、銀髪の半魔!」

「――――」

物知らずなスバルにご教授するためか、ペテルギウスは王選のお触れ――スバルが部屋に飾っているものと、同じものを持参し、それを突き付けた。

そこには当然、穴が開くほどに見つめた愛しい少女の顔がある。ペテルギウスの骨と皮だけの指も、やはりその少女の顔を指差した。

「見るのデス! 風体も! 出自も! まさしく、魔女への冒涜! ワタシたちにとって見過ごすことなどあってはならない存在! これは、試練の時なのデス!」

「試練」

「そうデス!!」

声高に叫び、ペテルギウスがお触れの張り紙を洞窟の岩壁に押し付ける。そして、エミリアの人相書きに拳を叩きつけ、血が飛び散った。

好んで自傷する狂人が、痛みと血に酔いながら、紙に描かれるエミリアを冒涜する。

「合えば擁し! 合わねば排し! 魔女に相応しき器であるか確かめ、それに適うのであれば我らの下へ受け入れるのデス! そのための試練を、行わねば!」

「それを、俺に手伝えって?」

「ええ、その通りデス! 他のものにも声をかけましたが、不信心なあのものたちが応じるとはとても思えないのデス! 唯一、『憤怒』だけは可能性がありましたが、今は王国から遠く……故に! 我々だけでも赴かねば!」

使命感を胸に、ペテルギウスは滂沱と涙を流しながら、血に染まった拳をぐいぐいと自分の口の中に押し込み、傷口を啜る。口の端が裂け、前歯が手の甲に突き刺さり、薄皮と筋肉を傷付ける光景は目を背けたくなるほど凄惨だ。

ただ、鋼の精神力で耐えるよう言いつけ、スバルは平然とした顔を装いながら、

「で、同行したらいいのかな? 勝手がわからないんですが、司教様」

「同行してくださるのデスか! あぁ! 嗚呼! それはなんとなんとなんとなんとなんとんとんとんとんとんととととと……喜ばしいことなのデスか!」

「一緒にいくって言っただけではしゃぎすぎでしょ」

こぼれた苦笑は本心からのものだ。

しかし、スバルの前向きな返答を受け、ペテルギウスは首がもげそうなほどに何度も何度も頷くと、スパッと切り替えた様子で足を揃え、背を向けて、

「すぐにでも、発つのデス! 道中、すでにワタシの『指先』には指示したあと……それぞれと合流し、メイザース領へ。そこで、『福音』の導に従うのデス!」

「了解。……ところで、試練って何をするんだ?」

「当然の疑問デス。魔女の器に相応しきものか試す……すなわち、入れ物が魔女の魂を収める強度が、質が、何よりも資格があるか、試す行いデス!」

具体性に欠ける説明に、スバルはわかった風な顔をして頷く。

詳細はわからない。だが、それはサテラ=エミリアのことがわからなかった間の、あの煩悶とした時間と比べればはるかにマシだ。

それに今回のことで、どうやらまたエミリアと関わることができるのだし。

ただ、そのためにも――、

「――さあ、さあさあ! さあさあさあ! 行くのデス! 試すのデス! 此度の器が相応しからんば、魔女は再びこの世に再臨せりデス! この、我々が数百年ぶりに、全ての席を埋めたこの機会に!」

「魔女サテラが下りてくるとなると、器の子は……」

「尊い犠牲となるのデス! デスが、それは光栄なことなのデス! 代われるものならワタシが代わりたいほどに! この身を差し出せばサテラの御心に適うならば、ワタシは何度でも、どれほどの苦痛にも耐え、再会のときを望むのデスから!」

「そうか、消えるのか」

狂乱と共に歩き出したペテルギウスの背後に続き、スバルは小さく呟いた。

それは自分の世界に閉じこもり、ケタケタと笑い続けるペテルギウスには届かなかった、ほんの微かな囁きで――。

「へえ、そうか」

――ナツキ・スバルが、ひどく陰惨に笑ったことにも狂人は気付かなかった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

剣を、細い体の中央へ突き立て、ねじる。

剣先から伝わってくる手応えが、命の大事なものを引き千切る感覚を教えてきた。

その空しさに、震える吐息が漏れて――、

「こんなこと言っても信じちゃもらえないだろうけどさ」

「な、ぜ……」

「俺は、ペテさんのこと、嫌いな奴の中じゃマシな方だったよ」

驚愕に押し開かれた瞳が、すぐ間近で交錯する黒瞳を絶望的に見下ろしていた。

消えない驚きを抱いたまま、ゆっくりと後ろへ倒れる体から剣が抜ける。その勢いにスバルは踏鞴を踏んで下がり、深呼吸をした。

その足下に、血溜まりに倒れるペテルギウス・ロマネコンティがいる。

スバルの手で直接、心臓を破壊され、今にも息絶えるペテルギウスが。

「ここまで、状況を作るのに苦労したぜ。頭がおかしいふりして、あんたはちょっと周到すぎた。正直、本当に何度も頭を抱えたよ」

「何を、言って……るの、デス、か……?」

「俺が、ここまでくるのにどれだけ試行錯誤したかって話。いや、作戦もそうだけど切り札とかも本当にヤバかった。マジで、ホッとしてる」

力の入らない手足に、無理やり力を込めてペテルギウスが這いずる。しかし、立ち上がって反撃する余力はない。あくまで死から遠ざかるように、後ろへ這いずるだけ。

そして何もしなくても、ペテルギウスの命は長くない。

「最初は『見えざる手』も見えなかったし、どうしたもんかって焦ったさ。『指先』の対処にも困らされて……今は、なんとかできた達成感に満たされてる」

「ぐ、うう、うぅぅ……」

流れる血が、そのままペテルギウスの命の残量だ。

止血するどころか、勢いをなくさず流れ出る血を眺め、スバルは黒幕気分で種明かしをしていく。

不可視の黒い掌を操る『見えざる手』。

ペテルギウスの腹心、それどころか予備の肉体のストックである『指先』。

そして、その予備の肉体へ乗り移り、命を長らえる『憑依』。

これらを駆使し、彼の口癖である『勤勉』そのものの行動でエミリアを追い詰めようとするペテルギウス、それを下すのには本当に骨を折らされた。

ここまで辿り着くのに、実に四百を超える試行錯誤を要することになるとは。

「だから間違いなく、あんたは俺にとって、この世界で一番言葉を交わした間柄だ。すげぇ勝手な話だけど、友情みたいなもんも感じてる。目標に向かってひたむきで、持ってるカード全部使って戦い抜こうとする姿勢とか、感銘とか受けなくもない」

「なに、を……何を、何を、何を何を何を何を何をおぉぉぉぉ!!」

死に向かって落ちるだけの肉体に、最後の最後で怒りに似た力が宿った。その全てを自身の存在に注ぎ込み、死に体のペテルギウスが上体を起こす。

血を吐く――文字通り、その口から溢れる血をこぼし、血走った目を見開いたペテルギウスがスバルへ向け、

「背信者! 魔女の寵愛に背く裏切者! 許すわけに、許すわけには、いかないの、デス!!」

声を荒らげ、ペテルギウスが血塗れの腕を伸ばした。

それは『見えざる手』を発動するための行動ではない。見切られる不可視の腕など何の意味もない。ここで、ペテルギウスが縋る手段はただ一つ――。

邪精霊ペテルギウス・ロマネコンティが、肉体を奪い取るための条件。

精霊術師としての素養のある人間、その肉体へ『憑依』するためのプロセス。

そして、この場にその資格を持つ人間はたった一人だけで――、

「アナタの、体を――!!」

奪う、その意思を込めたペテルギウスに、スバルは小さく吐息した。

それから、ゆるりと正面へ踏み込み、ペテルギウスの決死の形相を足蹴にする。全力で叩き込まれた前蹴りに前歯が吹き飛び、のけ反るペテルギウスは驚愕した。

奪えるはずの肉体に、乗り移れなかった。

その答えを言葉ではなく、スバルは掲げた左手――その指先に浮かび上がった、ほのかな赤い輝きで証明する。

それは、微精霊と呼ばれる存在だ。

精霊術師の素養のあるナツキ・スバルと契約を結び、仄暗い道を照らすだけの役割を持った可愛い道具。

邪精霊ペテルギウスの『憑依』は、未契約の精霊術師の肉体にしか乗り移れない。

この条件を見極めるのに、いったいどれだけ死を重ねたことだったか。

「人生で一番長い三日間だった。あんたにとっちゃ、ほんの短い付き合いだっただろうけど……」

「ナツキ・スバルぅぅぅぅ――!!」

「エミリアを狙ったんだ。――後悔は長くしろよ」

憎悪の絶叫を吐くペテルギウス、その胸を蹴倒し、仰向けにした顔面に剣を振り下ろす。容赦なく、剣撃はペテルギウスの頭蓋に突き立ち、その命を脳ごと破壊した。

耳障りな断末魔が途切れ、スバルはペテルギウスを貫通して地面に突き刺さった剣に体重を預けながら、長く息を吐く。

実時間では短く、体感時間ではあまりに長かった、ペテルギウスとの激闘が終わった。

達成感と、虚脱感の両方が押し寄せてくる。

「あらあ? こっちももう終わってたみたいねえ」

そうして、しばしの沈黙に浸っていたスバルへ声がかかった。

振り向けば、生い茂る木々を掻き分けて巨大な影――黒い体毛、獅子の頭部に凶暴な四肢を備えた凶獣がのしのしとこちらへやってくるところだった。

無論、気だるい口調で声をかけてきたのはその凶獣ではない。その背に跨り、年齢に見合わぬ流し目をスバルへ送りつける少女だ。

「ああ、片付いた。助かったよ、メィリィ」

「いいのよお。報酬はもらってるし、エルザもお兄さんにはお世話になったものお。でもよかったのお? この人たち、お兄さんの仲間だったんじゃなかったあ?」

「どうだろ。最後に殺そうとしてこなければ歳の離れた友達って言えたかもだけど、俺のこと殺そうとしたからなぁ。惜しくも友達落第じゃね?」

頬に跳ねた血を袖で拭い、スバルは少女――メィリィに肩をすくめる。すると、その言葉にメィリィは自分の顎に指を当てて、

「ふーん。それなら、わたしはお兄さんのこと殺そうとしないからあ、お兄さんのお友達ってことお?」

「その理屈だとそうだな。俺とお前は友達だよ、メィリィ」

「わあい、やったわあ。これで、ペトラちゃんたちと合わせてお友達たくさあん」

両手を合わせ、メィリィは凶獣の背中で嬉しそうに肩を揺する。その子どもらしい態度に眉を上げ、スバルは彼女の口から友達がいると出たことに驚いた。

「へえ、意外だ。こんなこと言ったらあれだけど、ちゃんと友達いるんだな」

「そうよお。もう、みいんなわたしが殺しちゃったんだけどねえ」

「――――」

薄く微笑み、メィリィはそのことへの罪悪感などはない顔で言った。

殺した、ということは仕事する上で関わった相手だったのだろうか。一時はメィリィにも子どもらしいところがなどと思ったが、やはり倫理はねじ曲がっている。

あの、エルザと姉妹なのだからさもありなんではあったが。

「なんにせよ、足りない手数をメィリィが補ってくれたおかげで助かった。でなきゃ、あちこちに潜伏してる『指先』を皆殺しにするなんて俺一人じゃ無理だったし」

「別にいいけどねえ。だけど、わざわざわたしたちじゃなきゃダメだったのお? もっとちゃあんとした国の騎士さんとかに頼めばよかったのにい」

「それだと、俺の目的の一部が果たせなくてさ」

「目的?」

メィリィが首を傾げ、スバルの考えを探ろうとする。が、スバルはそれ以上を説明するつもりはなく、適当な笑みを作ると、

「こっから先は大人の話だ。メィリィみたいなお子様は知らなくてよろしい」

「あ! もう、そんな風に子ども扱いするんだからあ! お兄さんなんてもう、知らない知らない、知らないんだからあ!」

ぷんすかとメィリィが怒ると、その怒りに触発されたように凶獣が唸る。

うっかり、ここで凶獣をけしかけられては事だ。せっかく、苦労してペテルギウスを殺したのだから、この周回を失敗で終えたくはない。

何とか、メィリィの斜めになったご機嫌を立て直そうと、スバルはあれこれ苦心して、少女のご機嫌取りに勤しむのであった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

王選開始からの数日で、ルグニカ王国の版図はかなり大きく変化した。

まずもって最大の変化は、王選最有力候補と目されていたクルシュ・カルステン公爵の脱落――もっとも、これに関しては事実関係を理解しているのはスバルだけだ。

何故なら、このクルシュという人物の存在はこの世界から跡形もなく消失し、『存在した』という事実ごと掻き消え、いないものとして世界に記録されたためだ。

そのため、王選は元々四人で始まったものとなり、カルステン公爵を支持していたはずのものたちの記憶もねじ曲がり、異なる勢力に組する形になる。

「白鯨の霧ってのはおっかねぇもんだ。他人の記録を消しちまうなんて」

それが、どうしてスバルにだけ効果を発揮しないのかは謎だ。ただ、スバル自身に特別なことをした覚えがないため、他人の会話で変な齟齬が生じるのが面倒だった。

いなくなったクルシュ・カルステンのことなど忘れてしまえばいい。

無謀にも、力の及ばぬ強敵に挑んだ結果死んだ人間に、挽回の機会など訪れない。

その機会を得られるのは、この世界ではナツキ・スバルだけなのだ。

故に敗残者のことは、真似してはいけない愚行として記憶に留めておくだけ。

そうした、スバル以外には何の意味もない変化とは別の変化もある。

それが――、

「王選候補者の一人である、エミリア。長年、世界を苦しめてきた邪悪の徒、魔女教の大罪司教『怠惰』を討伐……!」

その報せに王国は沸き、功績は遠く他国まで知れ渡ったと聞いている。

スバルとしても意外なほど宣伝効果のあったそれは、ナツキ・スバルが四百もの死を積み上げた挙句に得た勝利を、丸ごとエミリアへ――彼女を支援する、怪しげな道化姿の男に譲渡した結果だった。

正直、エミリアへ功績を譲るための交渉、それに対して辺境伯とされる男がどのような態度で応じるかは、ペテルギウス討伐に匹敵する賭けだったが――、

「気持ち悪いぐらい話のわかる奴だったからな」

辺境伯、ロズワール・L・メイザースはスバルの申し出を受け、これをあっさりと快諾すると、すぐにペテルギウス討伐の功績をエミリアのものとして発表した。

その態度に胡散臭いものを覚えながら、スバルはロズワールの行動を見咎めない。

元々、この世界ではくだらない理由で蔑まれる立場にあったエミリアだ。そんな彼女の支援者として名乗りを上げ、後ろ盾となって王選の参加を推進する。

そこには単なる物好きか、あるいは万一の可能性でエミリアが王座につけば、甘い汁を啜ることができるといった下卑た期待があるのだろう。

ペテルギウス討伐の報告に、涎を垂らして飛びついたのがいい証拠だ。

「いいさ。好きにしろよ、辺境伯さん。あんたがエミリアの味方をする限りは、俺もあんたの味方をしてやる。あんたの期待通り、王になるのはエミリアだ」

そのためにできる限りを、ナツキ・スバルはこの『死』を覆す力で果たしてみせる。

だがもしも、ロズワールがエミリアに対して不埒な望みや、不相応な考えを持つというのなら、そのときは――、

「エミリアのために並ぶ墓標が、一個増えるだけの話だ」

それまではせいぜい、エミリアに知られぬ立場で暗躍し続けるために、ロズワールには表立っての行動を預けるしかない。

その代わりに、水面下でスバルはあらゆる策謀を巡らせる。

そのためにも――、

「せっかく拾ったんだ。役立ってもらわなきゃ困るぜ、『青』さん」

「――――」

洞窟の奥、そこには申し訳程度の鉄柵を嵌められた牢獄がある。

その冷たい空間で鎖に繋がれるのは、薄汚れた格好をした人物だ。その頭部に亜麻色の猫耳を生やし、華奢な体を近衛騎士の白い制服に包んだ少女――風の、男らしい。

ペテルギウスの死と、白鯨が暴れ回ったごたごたの後片付けに奔走している中でスバルが見つけ、戦利品として持ち帰った道具だった。

ただ、噂に聞く『青』と呼ばれるほどの治癒術の才気を見せてくれる機会には今のところ恵まれていない。それどころか、彼は自分の傷を治すこともせずに、ひたすらに牢獄の床を見つめ、すすり泣くように呟き続けている。

「……誰か、教えて。教えてよ。私は、何のために……殿下は? 私は、何のために。誰かがいたの。いたはずなの。そうじゃなきゃおかしい。なのに……」

「しかし、参ったな。これはちょっと時間がかかりそうだ」

頭を掻き、スバルは懐に入れていた書状を取り出す。それは、王選が開始したことを報せるお触れの張り紙であり、スバルが後生大事に肌身離さず持ち歩くものだ。

その、張り紙の内容が、スバルの知るそれとは変化している。五人の候補者が並べられていたはずが、人相書きが四人になり、記述も減っているのだ。

クルシュ・カルステンの存在消滅に伴い、こちらにも変化が適用されたのか。

だが、スバルの記憶は覚えている。眼中になかったとはいえ、穴が開くほどにこの記事は読み返したのだ。クルシュ・カルステンの騎士の名は、フェリックス・アーガイル。

この、目の前にいる『青』の治癒術師であったはず。

「白鯨の霧に消されると、記憶が違和感を持たない程度に変化に対応するってのが俺の見立てだったんだが、この調子を見るとな」

「誰か、誰か教えてよ……殿下、殿下は? 殿下、誰と一緒に……?」

「欠けた記憶を補い切れないぐらい大きいと、こんな風になっちまうのか」

その人間の人格形成に大きな影響を与えた存在、それが世界から欠け落ちれば、当然のようにその人間自体が成立しなくなる。

故に、壊れた人形のように繰り返す『青』はこんなことになってしまったのだ。

壊れた心の癒し方は、残念ながらスバルにもわからない。

彼の心の無事を守れる唯一の存在と、スバルとは接点がなかった。仮にやり直したとしても、遡れる時間はスバルが定めるのではない。

そのため、彼と彼女との間にどんな物語があったのか、スバルにはわからない。

「それでも、せっかく見つけた駒なんだ。大丈夫だ。俺はきっと、お前の心のひび割れを埋めてみせる」

「誰か、お願い……教えて。私は、私はどうして……」

スバルの言葉に、『青』は一切の反応を見せない。

埒が明かないように思えるが、スバルは焦らず、時間をかけて向き合う覚悟がある。

傷を癒す力、寄りかかる縁を失った騎士、これほど扱いやすい駒はそうはない。

だから、スバルは真摯に、心を込めて、

「今度は、お前が自殺しない方法をちゃんと見つけてやるからな」

何度でも、死のうとする意思と向き合ってやると、そう言い切った。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

屋敷の出入り口は全て封鎖した。

扉を内側から打ち付け、窓にも全て板を張らせて。カーテンを閉め切った暗い邸内の状況を、おかしいと訝しむ注意力があれば気付けたかもしれない。

無論、そんなことがないことは確信した上で、今回のことを仕掛けたが。

「――ッ!」

凄まじい業火が巨大な屋敷を余すところなく包み込み、焼き焦がしていく。

屋敷のあちこちを火元とした炎の延焼は留まることを知らず、建物は上も下も鎮火しようのない勢いで燃え上がり、全てを灰燼に帰さんと猛り狂っていた。

炎に包まれる豪邸、そこで黒焦げになるのは家財道具や装飾品ばかりではない。

この屋敷で長く、苦痛の時間を過ごしてきた多くの女性たちもまた、炎と煙に巻かれて命を落とし、人であったかもわからぬ消し炭へと姿を変えていくのだ。

あまりにも惨い所業、そう思われても仕方のない蛮行。

だが、これが他でもない、今まさに焼け死んでいく女性たちが望んだことだったと、いったい誰が信じるだろうか。

「ふざ、ふざけ、ふざけるなぁ!!」

火の手の勢いが強く、風を浴びてさらに火勢の増す邸内に男の罵声が響き渡る。

それは焼かれて倒壊する建物の中、哀れなほどにみっともなく引きつった声だ。

声は、この状況を信じられないと、何が起きたのかと狂乱しながら、

「九十二番! 百十四番! 百二十三番でもいい! どこだ!? どこにいった!? 僕を誰だと思ってる!? 僕を残して、この状況で勝手に逝くなんて、いったいどこまでお前たちって女は無責任で身勝手なんだ!?」

癇癪を起した子どものように、裏返った声で叫ぶのは白髪の青年だった。白い衣に身を包み、平凡な顔立ちをまるで鬼のような形相にして、喚き散らしている。

それは、今にも崩れかねない豪邸火災の中にあって異常すぎる存在だ。

正常な人間であれば、この火勢から逃れるためにあらゆる手を講じるはずだ。

しかし、この男にはその行動の様子が見られない。それどころか、自分が死ぬなどと一切考えていない、どこか生死を超越した倫理に基づいて行動している。

男の頭がおかしい、わけではない。

――否、それを否定するのも正確ではないが、男には相応の確信があるのだ。

この火災で、自分が死ぬことなどありえないと。

故に、男が怒鳴り散らしている理由は、自分の死への恐怖とは全く無関係で。

しいて言えば、この不審火を起こしただろう自分の妻への、度し難い怒りだ。

あまりにも状況が、足下が、見えていない怒りで――、

「どいつもこいつも、この僕の限られた資産ってものを蔑ろに――」

「――その、聞くに堪えない口を閉じてくれると嬉しいのだけれど」

「な」

その、怒り狂った男の顔面が、炎の壁を突き破って飛び出した靴裏に直撃される。

予想外の角度からの一撃と、そもそも予想外の衝撃に目を回し、男の体が軽々と廊下の反対側へ。そこにあった壁も炎で脆くなっており、男の激突に耐えかね、崩れる。

激しくもんどりうって大の字に転がり、男は唖然と燃える天井を見上げていた。

「な、にが……」

「この炎は、あなたのたくさんの奥さんからの絶縁状へのサイン。有体にいえば、恐怖で縛れる愛情はおしまいってことのようね」

呆然とした男の声に応じたのは、先ほどの蹴りと同時に聞こえた声だ。

弾かれたように男が上体を起こすと、男が砕いた壁を乗り越え、燃え盛る室内に漆黒の衣装を纏った女が入ってくるところだった。

嫣然とした微笑みと、長い黒髪の三つ編みが特徴的だ。

だが、何より女の立場を克明に語るのは、その右手に握った曲刃――。

「賊が! この僕を誰だと思ってる!? 馬鹿な真似をしたことを後悔……」

しろ、と口走り、両腕を振り上げることで男は女へ攻撃を仕掛けようとした。

しかし、その目論見は軽い衝撃と、肘で切断された両腕が吹っ飛ぶのが視界の端に見えたことで頓挫する。視線を下げ、自分の腕がなくなった光景が目に入る。

理解、不能。これはいったい、何が起きているのかと。

「不死身? 無敵? どちらだか忘れたけれど、その種明かしは済んでるそうよ。今のあなたはなんというか、ただ不愉快なだけの虫みたいな人ね」

「――ッ! お前みたいな、娼婦が――」

「――――」

両腕の喪失も忘れ、プライドを傷付けられた男が汚い言葉で女を罵ろうとする。だが、女はその全てなど言わせない。

長い足を振り上げ、地べたに尻餅をつく姿勢の男の股間を蹴り上げた。その威力に男の体が浮かび上がり、いつの間にか両腕に握られる女の刃が死を描く。

両腕が肘より上、肩でさらに切断され、足が爪先から徐々に腿の上へ向かって輪切りにされる。爪先、足首、脛、膝、腿と斬撃が入り、血をぶちまけながら男の体は見るも無残な状態へ早変わりした。

「――僕を」

「その状態でも、まだ何か言おうとするのは立派なものね」

はるかに的が小さくなった胴体へ、女の直蹴りが突き刺さり、それは板で閉じられたはずの窓を粉砕し、男の体を燃え盛る豪邸の外へ吹き飛ばした。

砕けた窓ガラスの破片と共に、手足をなくした男は受け身も取れずに地面に落ちる。部屋が二階だったのが幸いし、落下によって致命的な損傷は免れた。

もっとも、手足をなくし、大量に出血した現状がすでに十分、致命的だが。

「こんな、馬鹿なことがあってたまるかよ。……僕は、僕はこの世界で最も、完成された存在だ。多くを求めず、足りることを知って、無欲で清貧に、生きて……その、僕が、なんでこんな、お前たちみたいな、欠陥人間共にいいように……」

「そんだけ普段から悪し様に罵ってりゃ、離婚調停に持ち込まれて当然だろ」

「なぁ!?」

もはや自力で寝返りを打つことすら困難な男、その視界にまたも別人が映り込む。

誰であろう、黒髪黒瞳に黒のローブを羽織った少年――ナツキ・スバルだ。

スバルは、その哀れなほどに状況の見えていない男にため息をつくと、

「まさか、ここまで周囲が協力的に運ぶとは思わなかったぜ、レグルスさん」

「お前、なんでここに……いや、お前が、仕組んだのか……?」

「他に何がある?」

肩をすくめ、ようやく理解が状況に追いついた男――レグルスにスバルは頬を歪めた。その笑みに見下され、レグルスはその瞳に赫怒を宿し、

「のろ、われろ、このゲス野郎! お前、自分が何をしたかわかってるのか!? 愛する妻を、妻たちを! 僕の前で、屋敷ごと焼き殺したんだ! それがどれだけ非道で、悪魔じみた行いかわかるのかよ!? この妻殺し野郎!」

「予想外の切り口すぎて、俺も開いた口が塞がらねぇや。……言っとくけど、お前の心臓対策に命を差し出してくれたのは、他でもない奥さんたちだからな?」

「――馬鹿、な」

耳をほじり、呆れた顔で伝えたスバルにレグルスが絶句する。

その、心底意外でたまらないというような反応の方がスバルには理解し難い。

レグルスは、妻という名目で多くの女性を屋敷に囲い、逆らえば殺すと暴力で脅して身勝手な結婚生活を謳歌していた。

それだけならば、ひどく悪辣なハーレム願望とも思えるが、彼の大罪司教の醜悪さはそこにとどまらない。彼は、自身の『心臓』を妻たちに預け、自らの肉体の時間を止めた不老不死と『無敵』を実現した凶人だったのだ。

大罪司教『強欲』、レグルス・コルニアスを殺すには、心臓を奴に戻すしかない。

そのための手段は、奴が心臓を預ける対象とした妻たちを全員殺し、奴が心臓を隠すための場所を失わせる以外になかった。

この事実に行き合ったとき、さすがにスバルも決断に苦心した。

しかし、このスバルの迷いを解いてくれたのが、他でもないレグルスに囚われの身となった妻――否、女性たちだったのだ。

「みんな、お前に一矢報いれるなら死んでも惜しくないってよ。あそこまでひでぇ言われよう、俺もなかなか聞いた覚えがねぇや」

「そんな、誰が信じるか……。僕は、僕は妻たちを愛してた! だから、あいつらだって僕を愛するべきだ! そうだろう!? でなきゃ、おかしいだろうが! なのに! あいつらが妻失格なだけで、どうして僕がこんな目に!」

「……本気で、言ってんだろうな。ホントにそれが怖いよ、お前らは」

スバルは辟易とした顔で呟いて、いまだに罵詈雑言と責任転嫁を続けるレグルスから視線を逸らした。

その視線の先、燃え盛る屋敷から飛び降り、庭に着地した黒影――エルザが映る。彼女は軽く体についた煤を払い、スバルの視線に気付くと、

「あら、心配してくれているの? 安心して。どこもケガなんてしていないから」

「心配なんてしてねぇよ。それより、これはなんなんだ。こんな悪趣味な状況にしろなんて言ってねぇぞ」

呑気なエルザの言葉に、スバルは唇を曲げ、手足のないレグルスを指差した。

少なくとも、スバルの見かけたことがあるレグルスには手足があったので、この状態にしたのはエルザに相違ない。その指摘に彼女は肩をすくめ、

「手足があるとうるさそうだったし……それに、あの人たちからの言葉は伝えてあげた方がよかったでしょう?」

「……それは、そうだな」

意外にも、エルザに人を思いやる心があったらしい。

レグルスの犠牲になった女性たち、彼女たちが如何なる覚悟を以てレグルスをこうして罠にかけたのか、その事実を伝えず、死なせるのは間違っていると。

そして、それを伝えた以上は――、

「ぎ、ぁっぁぁ!」

レグルスの胸に、エルザがククリナイフを突き刺し、ずいぶんと軽くなってしまった体をゆっくりと持ち上げる。まるで串焼きの具材のような状態で、レグルスは血を流しながらもがき、ひたすらに生を渇望していた。

「一思いに?」

「いや……」

エルザの問いかけに、スバルは顎に手を当てて考え込む。

エルザではないが、スバルにも人並みに同情心や義憤を覚える心はあるのだ。そしてその心が、あの涙ながらに死を望んだ女性たちの覚悟に報いろと訴える。

なので、スバルはエルザに命じた。

「そこの、弱火のところに放り込め。焼け死ぬのを見届ける」

「ええ、わかった」

スバルの残酷な指示に、エルザは何の呵責もない顔で頷いた。

そうして、燃え盛る屋敷の端、わずかに火が燃え移っただけの廃材の山に、いつまでも恨み言をやめないレグルスの体を投げ込む。

「――――」

身を焼かれ、死ぬまで炎に炙られ続ける男の絶叫が夜空に木霊する。

それを顔色も変えずに、スバルはエルザは並んで見守り続けた。

「虫の方が、鳴き声が心地良い分、あれよりマシね」

長い長い断末魔がやむ頃に、ぽつりとエルザがそうこぼした。

それは、スバルも同感だった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――割れたグラスの音が、スバルには信頼の砕け散る音に聞こえた。

「こ、れは……っ」

「ごめんネ。ホントにごめんネ。こんなこと、したくなかった。ホント、ホントだよ」

驚愕に声を震わせ、男はカウンターに肘を強くついた。しかし、崩れる体を支えられずに上体が滑り、座っていた椅子を倒して店の床に倒れ込む。

その横転に巻き込まれ、カウンターに置かれていたグラスとボトルが床に落ちて割れると、飛び散った中身が男の白い制服を酒臭く汚していった。

手足の自由は利かず、血の気は徐々に引いていく。唇が青紫色になり、視界が濁っていく感覚に男は何度も瞬きを繰り返し、間近に迫る終焉を遠ざけようと試みていた。

その男の懸命な足掻きを、スバルはテーブル席に座ったまま見下ろしている。

優美な顔つきをした男だ。すらりとした長身で、店に入ってきたときの佇まいや、友人へかける言葉遣いにも気品が満ちていた。まさに騎士らしい騎士。

「『最優』なんて呼ばれてるのも納得だよ、ユリウス・ユークリウスさん」

「き、さまは……」

「けど、自分の立場を弁えるんなら、もう少し周りに気を遣った方がよかったな。今をときめく王選候補者、その一の騎士って立場なんだ。当然、主人だけじゃなく自分が狙われることも計算に入れとかなきゃ。もっとも……」

苦しげに喘ぐ男――ユリウスに高説を述べ、立ち上がったスバルは腕を伸ばした。その腕が向かったのは、倒れるユリウスの隣の椅子に座っていた人物だ。

亜麻色の猫耳に愛らしい顔立ち、華奢な肩をそっと引き寄せ、頭を撫でてやる。それだけで、『青』は陶然とした様子で眦を下げた。

「ふぇ、りす……君は……」

「傷心につけ込むのもなかなか苦労したんだぜ? まさか、あの子以外の誰かの命のためにこんだけ腐心する羽目になると思わなかった。その甲斐はあったけどさ」

「貴様、は、何を企んで……」

「お前にはもう関係ない。安心しろよ。俺の見立てじゃ、お前が脱落すればお前の主人には危害を加えなくて良くなるはずなんだ。奮起した場合はわからねぇけど」

ユリウスの黄色い双眸に、戸惑いと怒り、悲しみと混乱、嘆きと疑念が入り乱れる。

だが、その高速で入れ替わる感情の全てが無意味だ。

「昔の友達に呼び出されて、酒場で一杯飲んだ途端にこれだ。信頼ってのは甘い毒だね、『最優』さん。それに溺れて、見誤ったんだ」

「……ぉ、く」

「誰にも誇れることをするのは楽だよな。生きやすくて羨ましいよ。死ぬけど」

しゃがみ込み、朦朧とする意識にあるユリウスの顔を覗き込む。すでに、ユリウスの視線はスバルを見ていない。自分を、殺す指示を下した男に拘泥していない。

ただ、彼の双眸に宿るのは、望まぬ凶行に利用された友人の安否と、おそらくはこの場にいない主への無念であり――、

「――――」

「どこまでも騎士だな。憎たらしいったらねぇ」

永遠の沈黙に沈んだ死に顔を見下ろし、スバルはそう吐き捨てた。

いやに胸がムカムカするのは、おそらくこの『最優』の騎士に命を奪われなければならない理由が全くなかったからだ。

死なせる名分のない殺しを、スバルは初めてに近いほど命じた。

魔女教や大罪司教絡みの連中を死なせるのに、心が痛むことなどない。ただ、今回の殺しはスバルが単純に、どちらを責めるのが易いかだけで選んだ。

常に護衛に囲まれる、候補者のアナスタシア・ホーシンよりも、警戒度が低く、何より言葉で籠絡し、依存させた『青』が使えると。

「スバル様、私はうまくやれましたか?」

「上出来だ。辛いことやらせて悪かったな」

ユリウスの死を見届け、立ち上がったスバルの傍らで『青』がか細い声で問う。その態度にスバルは肩をすくめ、不安げな頭をまた撫でてやった。

それだけで、情緒不安定な心が落ち着くなら、いくらでも撫でてやる。

「いいんです、スバル様のお役に立てれば。だって、これが殿下や、スバル様が望んだ未来を形作るために必要なこと、なんですよネ?」

「ああ、そうだ。そのために、お前の友達には生きててもらっちゃダメだったんだ」

「はい……」

感情の希薄になった表情で、それでも友の死には心がひび割れる感覚を味わうのか、『青』は心の空白を埋めるように、スバルの裾をそっと摘んだ。

そうして、店内に死の香りが濃密に漂い続けると、

「――おや、お取込み中でしたか?」

誰も入ってこれないはずの入口を開け、一人の優男が店内に入ってくる。

マズい状況を見られた、と部外者であれば口封じを考えるところだが、幸い、その優男に口封じは必要ない。関係者だからだ。

「時間通りだな」

「ええ。時間は有限、『金銭と時は等価値』ってのが商人の考えですから」

「まだ商人を名乗れるなんて、ずいぶん厚顔だな。『死の商人』だろ」

「それを言われると何とも」

と、スバルの言葉に頭を掻いたのは、灰色の髪をした細身の男だった。

すらっとした体を黒いスーツに包み、黒いネクタイまで締めた姿は一見すれば平凡な男の葬式帰りか何かだが、よくよく見れば彼の全身に誤魔化し切れない死臭が漂う。

顔立ちも優しげで目つきも穏やかだが、視線の巡らせ方には明らかにこちらを警戒したものがあり、修羅場を潜ってきたことが窺える。

何より、その濁った瞳が気に入った。あれは生き甲斐をなくし、生きる意味を見失って、それでも生きることを選んだ生ける屍の目だ。隣にいる、『青』に近い性質の、瞳だ。

「名前は……聞いたことなかったかな」

「名乗ったことはありませんし、名乗るつもりもありませんよ。もちろん、こちらもお客様の名前を聞こうとは思いません。その方がお互い、安心できる」

「ま、お前の言う通りだな。友達になれるわけじゃねぇんだし」

「ええ。何かあればすぐ敵に回る。そんな相手を友達と呼んだ結果がこれでしょ?」

地に伏したユリウスの亡骸と、スバルに寄り添った『青』を眺めて男が揶揄する。その皮肉には何も言い返さず、スバルは店の出口へ足を向けた。

毒の手配も後片付けも、秘密裏にこの男と協同して用意したことだ。魔女教を動かせば面倒なことになる。スバルは今、危うい綱渡りを繰り返しているのだから。

「ラッセルによろしく伝えておいてくれ。また頼むってな。右腕なんだろ?」

「あの人の右腕は右肩についてますよ。僕は、ただの奴隷です」

割り切った考え方をするものだ、とスバルは良くも悪くも現実的な男の答えに好感を抱いた。それと同時に残念にも思った。

友達になれたら、きっと気が合っただろうに。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

候補者を削り、立ち塞がろうとする大罪司教を削り、そのための暗躍を繰り返す。

謎の集団、危険人物の巣窟、その上で内部では互いのことに過剰な干渉はしない。

この魔女教という集団は、スバルにとって実に都合のいい隠れ蓑だった。

いずれ、必ずや根絶しなくてはならない隠れ蓑であるが、そうした前提条件の下で利用していると、清々しいぐらいに使い捨てることに罪悪感を覚えずに済む。

大罪司教にも、仲間意識など微塵もない。

常に虎視眈々と、殺す方法を思索し、試し、実行可能そうなら根回しをする。失敗してもその都度、スバルには世界をやり直す力があった。

何となく、この状況のスバルにも、仲間と呼べるような関係もできてきた。

魔女教など一人も当てにならず、関係者など増やすべきではないとわかっているが。

「お兄さんとは、ずうっと最初からやってきたじゃない? この調子で、お兄さんが楽しいことをどんどん手伝わせてくれると嬉しいわあ」

「別に私はあなたに肩入ればかりするつもりはないけれど、あなたは今も、機会があれば私を殺そうと思ってる。それが、なんだかとても心地良いのよ」

「スバル様がいてくれれば、殿下の夢が叶います。だから、私はずっとついていきます。……でも、あれ? 殿下と、スバル様は、いつ、どこでお知り合いに……」

「汚れ仕事を頼む間柄でしょう? 仲間だなんて馬鹿馬鹿しい。僕もあなたも、家族にも顔見せできない親不孝者ですよ。いっそ、死ねたら死んだ方が楽なんですがね」

「あと一歩、あと一歩で宿願が叶うかもしれないところへきているのさ。そーぉのためなら、私は悪魔に魂を売り渡していい。君という、悪魔にねーぇ」

――スバル自身、自分が決して褒められた行動をしているとは思っていない。

それでも、その行いにいつしか、賛同者のようなものが現れたことは。

ひょっとしたら、救いになっていたのかもしれない。

『死に戻り』の力で、ナツキ・スバルはエミリアを救おうと望み、足掻き続ける。

たった独りで、戦い続けるしかないと、そう思っていた孤独の戦い。

それがひょっとしたら、いつの間にか、独りのものでなくなったのかも、と。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

王都が火の手に包まれ、スバルは全身の軋む痛みに喘ぎ、空を仰いでいた。

意識ははっきりとしている。

鋭い痛みが、かえってスバルの意識を喪失ではなく覚醒の方へ突き動かした。

何があったのか、どうしてここにいるのか、全ては鮮明だ。

「――――」

腕の中に、スバルは動かなくなったメィリィの体を抱えていた。

少女はすでに光の消えた目を開け、この世ではないどこかの景色を見つめている。あの生意気な態度も、年齢に不相応な甘ったるい声も、子どものように扱われて癇癪を起こすような姿も、もう、二度と見られない。

――だって、スバルは『死に戻り』して、この瞬間に舞い戻ってきたのだ。

『死に戻り』の地点が変わっても、以前よりも過去に戻れたことは一度もない。

『死に戻り』の起点がここへ変わり、戻ったスバルの腕に亡骸となったメィリィが抱かれている以上、もはや彼女の命は取り戻せないのだ。

「――――」

それが自分の心を慰めるだけとわかっていて、スバルはメィリィの瞼をそっと閉じた。死者の冥福を祈る資格など自分にはない。この手は、血に汚れすぎた。

それはメィリィも同じだ。死後の安寧など、得られるはずのない悪行を重ねた。罪業は積み重なり、スバルたちを地獄へ引きずり込む鎖となって離さない。

「それ、でも……」

『死』を迎えたことを理由に、諦めることだけは許されない。

幾度、ここへ至るために死を重ねてきたことだろうか。すでに千を超え、万に至り、あらゆる命を冒涜し、踏み躙り、己の願いを叶えんと欲し、ここへきた。

『死』の苦痛に折れかけたことは何度もある。だがそのたび、心を炎が燃やした。

あの、一番最初の灼熱が、微かに届いた指先の感触が、スバルをここへ辿り着かせた。

あと一歩で、その本懐が届くところへきたのだ。

多くの、犠牲を払って、ようやくここへ。

それなのに――、

「――そこまでだ」

声は凄絶に、頭上からスバルへ降ってきた。

王都が炎に包まれるのは比喩的な表現ではない。そして、その猛り狂う炎を己に取り込んだかのように、坂上に現れた姿は煌々と輝いて見えた。

「ラインハルト、ヴァン、アストレアぁぁぁ……」

「自己紹介の必要はなさそうだ。僕も、君と交わす言葉を多くは持たない」

ラインハルトの青い双眸が、眼下に蹲るスバルを真っ直ぐに射抜く。

その双眸に宿った光は、ずいぶん前に見かけたときと違い、激情に揺れていた。

相手が戮殺者であろうと、心を乱すことのなかった男が、スバルに対しては。

言葉にすることすら難しいほど、色濃い激情――憎悪を宿し、睨みつけてくる。

「人を憎む機能が、お前にもあったんだな、『剣聖』!」

「僕も、驚いているよ。自分の中に、こんな感情があるとは思わなかった」

「新しい自分を発見したか。ハッピーバースデー。誕生日おめでとう、ラインハルト」

「悪いが、今日は僕の誕生日じゃない。だが、君の命日にはなる」

気取った言い回しも、ラインハルトほどの色男がすれば様になったものだ。

彼なりの言葉に死刑宣告を突き付けられ、スバルは笑みを浮かべた。

すました顔を崩し、奥底にあった感情を引きずり出してやったのだと、そのことに何の意味もないとわかっていても、それぐらいしか勝ち誇れることがなくて。

「笑わせてくれるな、ラインハルト! 『剣聖』! 王国の剣! お前は、このルグニカ王国を守る騎士なんだろ!? お前の、どこが国を守った!? 言ってみろよ!」

「――――」

両手を広げ、唾を飛ばして叫ぶスバル。

二人が向かい合った王城の正門前、そこから一望できる王都の全景は、その全てが火の手に包まれて――否、王都だけではない。

今や業火は、ルグニカ王国の全土を滅ぼさんと猛り狂っている。

ラインハルトがどれほど強く、優秀な騎士であったとしても、ラインハルト一人に何ができるというのか。何もできはしない。それが結論だ。

「それが、俺からお前への贈り物だよ! お前を殺すために、俺が仕掛けた罠だ!」

「僕を、殺すために……?」

「俺が! いったい、どれだけお前を殺そうとしたと思ってる!? 俺がいったい、何度何回何千回! お前に挑んだと思ってるんだ!?」

「――――」

意味のわからないスバルの叫びに、ラインハルトは困惑で頬を硬くした。

彼にはわかるまい。スバル以外の誰にも、絶対にわからない。

スバルはすでに、ラインハルトを殺すためにあらゆる試行錯誤を重ねたのだ。

ラインハルト・ヴァン・アストレアという男を研究し、研究し尽くし、思いつく限りの手段を試し、策を弄し、あらゆる手立てを以て殺そうと試みた。

だが、どんな手段を取ろうと、ラインハルトはその全てを打倒した。ナツキ・スバルの浅知恵など、彼という存在には何ら影響を与えられないのだとばかりに。

エルザを犠牲にし、メィリィを犠牲にし、『青』を犠牲にし、友達になれたかもしれない男を犠牲にし、共犯者を自称する道化を犠牲にし、魔女教を犠牲にし、大罪司教を犠牲にし、ありとあらゆる非合法を、非道を、外道を、重ねても殺せなかった。

だから、ラインハルトの命脈を断つ手段をなくし、スバルは決めたのだ。

「俺は、騎士としてのお前を殺してやる。『剣聖』なんて大仰な名前を地に落として、この足で踏み躙って、汚ぇ痰を吐きかけてやる!」

「そんなことの、ために」

「そんなこと! ああ、そうだよ、そんなことだ! 俺はそんなことのために、周りにいた奴らの命を全部使って、お前を地に落としたんだ」

抱いていたメィリィの体を地面に横たえ、スバルはラインハルトに指を突き付ける。

動揺を隠せずにいるラインハルト、それが小気味いい。

「お前は英雄だよ、ラインハルト。俺にラインハルトは殺せない。だが、俺でも英雄を殺すことはできる。――これが、お前の殺し方だ、ラインハルト」

「――――」

押し黙るラインハルトに、スバルは汚くひび割れた声で勝ち誇って聞かせた。

手を尽くし、策を巡らせ、犠牲を生み、血を流し、『死』を重ね、そうしてようやく。

メィリィに庇われて命を永らえて、ようやく、この状況で、対峙することができて。

これだけ犠牲を積んで、やっと、同じ舞台に立つことが、できた。

「……なぁ、なんでなんだ?」

ふと、直前の勢いが熱い風に吹き消され、弱々しい声が漏れていた。

「なんで、お前はそんな強いんだ? お前は、なんで、俺があいつらを、死なせなきゃ届かないぐらい、強いんだよ?」

震える声に、嗚咽が混じった。そのことに、ラインハルトの表情が強張る。

彼にはもはや、スバルがいったい何を考えているのかわからなくなったはずだ。当然だろう。スバルにだって、もう自分が自分でわからない。

溢れ出る涙の理由もわからない。涙なんて、最後に流したのはいつだったか。

きっと、この世界に連れてこられた、あの日が最後だ。

ナツキ・スバルを、この炎の情景へ連れてきた、あの日の涙が最後だった。

「お前みたいだったら、よかった。お前みたいに、真っ直ぐに、何もかも救える力があれば、よかった。俺は、お前が羨ましい。俺は、お前が憎たらしい」

「君は……」

涙と共に溢れ出るそれは、きっとナツキ・スバルが抱いた本当の想いだった。

あの、王都で幾度も重ねた最初のループで、ナツキ・スバルを終わらない円環から解き放った男、ラインハルト・ヴァン・アストレアを見たときだ。

――あのとき、スバルはラインハルトが、羨ましかった。

何度も何度も腹を裂かれ、文字通り死ぬような思いをして、それでも何も変えられなくて、心はどんどん荒んで、剥がれ落ちていって、それで、何かの偶然みたいに、まるで道途に落ちている小石をよけるみたいに、あっさりと運命を塗り替えて。

それができた強さに、憧れ、羨み、妬んで、憎しみを抱いた。

「――俺は、お前になりたかったよ、ラインハルト」

「――僕は、君の気持ちはわからない」

無常に、スバルの本心からの言葉をラインハルトは戯れ言だと切り捨てた。

それが正しい。ラインハルト、英雄よ、お前は本当に、いつだって正しい。

――どこで掛け違えた? どこで、ナツキ・スバルは過った?

わからない。いや、わかっている。だけれど、誰にもそれは理解できない。

だからこそ、だからこそなのだ。

ナツキ・スバルはとっくのとうに、他人に理解できない狂人なのだ。

「――――」

ラインハルトが目を細め、軽く腰を屈めた。剣に手を伸ばす様子はない。彼の目から見ても、スバルを倒すのに武器はいらないというわけだ。

正解、それで間違いない。スバルの脆弱な体など、彼の一撃で木端微塵だ。

ならばせめて、ならばせめて――、

「――諦めるには、まだ早いんじゃないかしら?」

「君は――!」

ラインハルトが飛び出した瞬間、横合いから黒影が飛びかかっていた。激しく軋る音を立てて、黒影が叩きつけた斬撃をラインハルトの手刀が迎え撃つ。

馬鹿か。どうして、あれだけ勢いの乗った刃を手刀で迎え撃てる。そら見ろ、甲高い音を立てて刃が砕けた。馬鹿か。なんで、刃の方が砕け散る。

「本当に規格外なのね、あなた」

くるくると中空で身を回し、四肢をついて着地したのは血塗れのエルザだ。

死んだと、そう思っていた。この状況を生み出すための布石として使われ、彼女もそこで命を燃やし切る覚悟でいたと思ったのに。

「死に損ねたみたい。この状況だと、改めて死ににきたみたいにも思えるけれど」

「エルザ……」

「メィリィは、そう、死んだの。姉不幸な妹ね」

地面に寝かせたメィリィを視界の端に入れ、エルザが少しだけ寂しげに呟く。

しかし、彼女は瞬き一つでそれを切り替えると、正面のラインハルトに向き直り、

「妹の仇でもあるようだし、踊っていただけるかしら?」

「すでに武器はない。それに、君は自分が誰を庇っているのかわかっているのか?」

「難しい話は好きじゃないの。私は、私のやりたいようにする。後ろの彼は、そんな私をやりたいようにさせてくれる。だから、上客なの」

唇を舐め、エルザは戮殺者にしか通じぬ道理でラインハルトに答えた。

ラインハルトが息を呑み、エルザ相手に身構える。

「これが、きっと最後の機会になるわね。楽しかったわ。すごく、素敵だった」

「エルザ! 俺は……!」

「さよなら」

彼女らしい、こちらの思惑など何も考えてくれないあっさりとした別れだった。

次の瞬間、野生動物のような俊敏さで跳ねたエルザがラインハルトへ踊りかかり、英雄と戮殺者の激しい戦いが始まる。

短い時間で片付いてしまう、エルザ・グランヒルテ最後の血の饗宴が。

「――クソ!」

この場で、死ぬわけにはいかない。

スバルはエルザの戦いと、メィリィの亡骸から目を背け、坂下へ向かって走り出した。

遠く、背後で激戦の余波が響き渡る。

燃え盛る王都は次々に建物が倒壊し、あちこちで悲鳴が木霊する地獄と化した。聞こえる断末魔、子が親を、親が子を、男が女を、女が男を呼ぶ地獄だ。

そうだ、これはスバルの作り出した地獄だ。

この地獄を作り出し、ラインハルトの虚像を打ち砕き、目的を果たさんとした。

あとは――、

「お、前は……」

「――――ッッ」

足がもつれ、転んで倒れかけたスバルの体を、すぐ横合いに並んだ巨大な生き物がその口にくわえ、背に投げ飛ばした。なんとか必死にしがみつけば、スバルの目に飛び込んできたのは漆黒の体毛と、猛然と正面へ駆け抜ける獅子の顔貌。

「お前……メィリィは、もう死んだのに……」

スバルを乗せ、炎の王都を駆け抜けるのは、メィリィの操る魔獣の一体だった。

凶獣ギルティラウが、ナツキ・スバルを乗せてひた走る。すでに主人はなく、従う義理もないにも拘らず、魔獣はナツキ・スバルを乗せ、一直線に――。

「頼む、見つけてくれ。どこかに、いる、はずなんだ……」

祈るような気持ちで、スバルはギルティラウが奇跡を起こしてくれることを望む。

心に生まれたこれが何なのか、安堵なのか、諦念なのか、区別のつかない感情に押し包まれ、ナツキ・スバルの意識は今にも途切れかけていた。

だが、それが本当の限界を迎える直前だった。

「――そこまでよ」

放たれる氷杭が、次々に駆け抜けるギルティラウの横腹に突き刺さった。

絶叫が上がり、魔獣が足をもつれさせてその場に激しく転倒する。その転倒に巻き込まれ、スバルもまた石畳の路面に全身を打ち付けた。

「ぐ、ぁ……な、にが……」

痛みにかすむ目を押し開いて、スバルは何が起きたのかと周囲を確かめる。

すると、その左半身に無数の氷を突き立てたギルティラウが体を起こし、淡く青白い輝きに包まれる人影に向かい、突進を仕掛けるところだった。

獣爪を振り上げ、ギルティラウは雄叫びを上げる。魔獣としての矜持、あるいはメィリィという少女に最後まで仕えた一体の獣としての誇りだったのかもしれない。

振り下ろされる一撃は、直撃すれば人体など軽々と引き裂くだけの威力があった。

しかし、それが届くより早く、一際大きく鋭い氷槍が、放たれる。

「――――」

それは、大口を開けて飛び込んだギルティラウの口内へ侵入し、喉を貫通して胸から再び体内へ侵入、臀部を突き抜け、魔獣の全身を串刺しにした。

絶命を免れる破滅的な一撃、直後、空気のひび割れる音が響き渡り、ギルティラウの全身に白い霜が降り、氷漬けの氷像へと変わる。

ギルティラウの最期、それを見届け、スバルはゆっくりと立ち上がった。

左腕が上がらないのは、転倒した際に折れたか外れたかしたからか。きっと、泣き出しそうなぐらい激しい痛みがあるはずなのに、脳がそれを感知しなかった。

だって、今ここで、スバルが泣き喚いていたりしたら、全てが台無しだろう。

「――そこまでよ、悪党」

左右には燃え盛る王都の街並み、二人の間には氷漬けとなった魔獣の氷像。

激しい義憤と使命感に燃える紫紺の瞳と、耐え難い歓喜に揺れる黒瞳が絡み合った。

月光を色付いた銀色の髪、至高の宝石を嵌め込んだアメジストの双眸。スバルの心を掻き乱してやまない天上の美貌に、妖精の歌声を錯覚する銀鈴の声音。

追い求め、追い求め、欲して、愛してやまずにいた、少女の姿が、そこにある。

「――エミリア」

「私のことを、知っているの?」

名前を呼ばれ、意外とばかりに眉を上げたエミリアの反応にスバルは吹き出した。

想像通り――否、初めて、一緒に王都を巡ったときの印象通りの少女だ。

今、自分が王選候補者として、この国でどれだけの注目を集めているのか、全くちゃんとわかっていない。自覚が足りないのではなく、きっと自己評価が低いのだ。

世間的には彼女は、魔女教の『怠惰』『強欲』『暴食』『憤怒』『色欲』を下し、長きに亘って人々を苦しめ続けた邪悪を根絶せんとする勇者だというのに。

そしてその肩書きは、今日、この瞬間を以て完成するのだ。

「何がおかしいの?」

「いや、ごめん。なんていうか、嬉しくて、かな。君がその、なんだ。全然変わってなかったのが、報われたような気分になって」

「どういう、意味? あなた、私とどこかで……?」

スバルの言葉に、エミリアは必死に記憶を探ろうとしている。

しかし、彼女の記憶のどこにも、ナツキ・スバルの姿は存在していない。

当然だ。あの、束の間の逢瀬はスバルの中にしか残っていない。そして、その束の間の逢瀬だけが、最後の無念の誓いだけが、ナツキ・スバルをここへ誘った。

「あなたは……」

「リア、ダメだよ、相手の話をまともに聞いちゃ」

「――パックか」

何か、記憶の手掛かりを求めようとしたエミリア。それを遮ったのは、彼女の肩にふいに出現した灰色の小猫――その精霊の姿に、スバルはちゃんと覚えがある。

すでにあの日の記憶は遠いが、それこそ、繰り返した回数よりもなお多く、あの日のことは延々と思い続けてきたのだ。

その記憶の一部を担っている存在を、忘れるはずもない。

「気安く呼んでくれるもんだね。これだけ派手にやらかしてくれて、いったい、どんな風に落とし前を付けるつもりなのかな?」

「落とし前は付けるさ。お望み通りな。――逃げる方法なんて、どこにもないし」

「――? 潔いんだね? 怪しいなぁ」

スバルはジャージの前を開いて、両手を広げて無抵抗を示した。

ジャージ、そうジャージ姿だ。これまでずっと、封印してきたジャージを、今ここでは着ている。エミリアと再会するなら、これが一番だと勝手に思ってきた。

これを着て、また彼女の前に立てる日を、待ち望んで。

「今から、俺が話すことは、全部頭のおかしい奴の妄言だ。忘れてくれ」

「――え?」

「今、王都を燃やしてる炎は俺が起こした。王都だけじゃなく、この炎は国中を焼き尽くそうとしてる。誰にも防げなかった。これは国や、国を守る騎士の失態さ」

訥々と、語り始めたスバルにエミリアが大いに戸惑った。パックは、スバルの語る言葉を止めるか迷った顔だが、エミリアの様子を見て攻撃を中断する。

その計らいに感謝しつつ、スバルは続ける。

「ラインハルトの、『剣聖』って名誉も地に落ちる。親竜王国ルグニカを守るはずの盟約ってのも、どこが起点になったかわからない以上、龍も救いようがない。これは、何度もやって試したから間違いない。結局、ラインハルトも龍も、体は一個なのさ」

「国中を燃やした? あなたが? それは、国を滅ぼそうとして?」

「いいや、違うよ。これが、君を王様にする、たった一個のやり方だからさ」

「――――」

笑みを浮かべたスバルの言葉に、エミリアがその瞳を大きく見開いて動揺した。

彼女の中で、今のスバルの発言は全く意味が通じなかったはずだ。

妄言と、そう銘打った以上、それが伝わらなくても構わない。

結果が伴えば、スバルは本望なのだから。

「国を滅亡へ追いやる終の炎――この厄災をばらまいた張本人を、ラインハルトでもなく、神龍でもなく、君が討ち果たすんだ。残った王選候補者の誰にも、これ以上の功績を作ることはできない。君は、四百年の停滞を壊し、世界を救った英雄だ!」

「そんな、わけない……あなた、何を言ってるの!? やめて、全然わからない! 何を言ってるのか、わからない!!」

エミリアは自分の頭を抱え、耳を塞ぎ、スバルの言葉を聞くまいとする。その瞳に涙が溜まり、白い頬を伝い落ちるのを見て、スバルの胸が甘い衝撃を受けた。

それは泣かせたことへの罪悪であり、スバルの行いに彼女の心が揺れたことを見た、薄暗い快感が原因でもあった。

「わからなくていい。わからなくていいんだ。あとのことは全部、君の周りの奴らが勝手に祭り上げてくれる。君は、君の望みをそこで叶えればいい。そのためだけに、俺はこうやって国を焼いたんだ。何もかも、君のために」

「嘘よ、嘘、嘘! だって、私は……あなたは、どうして、私を……」

身に覚えのない献身に、望んだ覚えのない捧げものに、エミリアは慟哭する。

彼女の悲しみは仕方ない。彼女が理解できないのも仕方ない。

スバルは、自分が過ったことを知っている。

スバルは、自分が正しくないことを知っている。

スバルは、これがエミリアを喜ばせる方法でないことを知っている。

でも、これしか方法がなかったのだ。

エミリアの望みを叶え、エミリアを王にし、エミリアへの想いを形にする。

それがわかっていて、最初から間違っていると知っていて、スバルはここへきた。

だから、ナツキ・スバルは笑った。嗤った。哂った。

「――俺を見ろ、エミリア。俺を見て、俺を憎んで、俺を刻み込め」

「あなたは、誰、なの? あなたは、どこの、誰なの……?」

両手を広げ、ゆっくりと歩み寄るスバルに、エミリアは震える声で言った。

その問いかけを受け、スバルは目をつむった。

それを、ずっと待ち望んでいた気がする。

エミリアの前で、その問いかけに答えることを、ずっと――。

「――俺の名前はナツキ・スバル」

「すば、る……」

掠れた声がスバルを呼んで、それだけで万感の想いが込み上げた。

きっと、これだけで、スバルはここへきたことに満足してしまったほどに。

だからその想いを胸に、続く言葉が震えずに済むことを祈りながら――、

「――魔女教大罪司教、『傲慢』担当、ナツキ・スバルだ!」

「大罪司教……!」

渾身の名乗りを上げ、スバルは全身の力を足に込めて地を蹴った。

体中に散らばった力を掻き集め、ナツキ・スバルの人生最後の疾走がそこにある。

多くを犠牲にし、仲間と呼べたかもしれない奴らを足蹴にし、絆であったかもしれないものに救われ、ここで最後に愛しい少女の前に辿り着いて――。

「世界を焼き焦がし、国を揺るがし、英雄を殺し、そして――」

「――――」

「――君に、殺される男だ」

衝撃が、胸の中心を穿ったのを感じて、スバルは薄く微笑んだ。

膝からその場に崩れ落ち、スバルは支えもなく倒れ込み、転がった。

エミリアに届くこともなく、その横を無様に、石畳を受け身も取れずに転がっていく。

やがて、大の字になって空を仰げば、赤々とした王都を見下ろす蒼穹がある。

赤と青に挟まれた世界で、ナツキ・スバルは終わりを迎える。

「どうして?」

目をつむり、終わりを受け入れようとしたスバルは、何かに気付いて瞼を開けた。

倒れるスバルのすぐ近くで、見下ろすエミリアが立っている。彼女の瞳から流れ落ちた涙が、スバルの頬に当たり、目を開けさせた。

「どうして?」

繰り返し、重ねられた問いかけ。

その『どうして』が、いったい何を意味しているのか、スバルは考えた。

『どうして』、こんなことをしたのか。

『どうして』、こうなるしかなかったのか。

『どうして』、自分に殺されるためにここへきたのか。

きっと、色んな『どうして』がそこにあって。

その、全部の『どうして』に答えを返してあげたいけれど、スバルに残された時間はあとほんのわずかしかなくて。

だからスバルは、息を抜くように、最後の一息に答えを乗せた。

「――愛してる」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

『死』が、近付いてくる。慣れ親しんだ、『死』が。

『死』を迎えるたびに、スバルはどこだかわからない、暗く寂しい場所へ連れていかれる。

それは本当に、本当に寂しい、一人ぼっちでは耐えられないような場所で。

『死』を迎えるたびに、ここからスバルは送り出されてきた。

あの、血と苦痛と、涙と慟哭と、ほんのわずかに愛するものがある世界に。

だけれど、もう、いいのだ。

もう、満足した。

「――――」

スバルを、このほの暗い世界で迎える誰かが、何か囁いていた気がした。

それは慰めであり、それは励ましであり、それは確認であり、それは告白だった。

何故だろうか。これは、スバルの求めた想い人ではないのに。

想い人は、ここではない場所で、自分のいない場所で、望みを叶えて報われる。

そのための犠牲に、多くを払い、最後には自分を捧げたのだから。

だから、いいのだ。救ってくれなくても。救いは、一番最初に、もらったのだ。

「――――」

それはきっと、呼びかけだった。

優しく、慈しむように、愛おしむように、名前を呼ばれて。

だから、スバルは自分の存在が『死』の螺旋を外れ、遠のくのを受け入れながら。

受け入れながら、その『――――』の言葉に応えた。

「――――」

――たとえ、君が拒んでも、俺は君を忘れない。

『ゼロカラアヤマツイセカイセイカツ』 ~fin~

去年の『カサネル』と、今年の『アヤマツ』は、

どっちを先に書くかコインで決めました。

先日出た12巻の内容を考えると、逆の方がよかったかもとも。

久しぶりに、一日で3万7千字書けて、自分で自分スゲーと思いました。まる。

なお、このルートは第一章四周目、トンチンカンに絡まれたときに裏声で助けを求めなかった場合、ラインハルトが助けにきてくれない選択肢から分岐して突入します。

第六章31 『塔共同生活のすゝめ』

――結局のところ、二層『エレクトラ』攻略会議の結論は先送りとされた。

話し合いの流れで具体的な打開案が出なかったこともあるが、結論を先延ばしにした最大の原因――それは、スバルの腹の虫である。

「考えてみたら俺、二日も意識なかったところから復活して、その足ですぐ塔の攻略始めてたじゃん……そりゃ、お腹と背中がくっつくわ」

会話が停滞したところで盛大に腹の虫が絶叫し、そこで初めてスバルは自分がどれだけ空腹の状態に置かれていたのかを自覚した。

腹が減っては戦はできぬ、ではないが、空腹は思考力にも影響する。結果、スバルの腹の虫の訴えを契機に、ひとまず、その場はお開きとなったのだ。

「正直、腹の虫が鳴いてくれて助かった部分もあるしな……」

二層の打開案はともかく、何となく監視塔における『試験』の出題傾向。

その、出題者の意地の悪さが見えてきたところで、同時にほのかに明らかになったシャウラの危険性――元々、彼女の戦闘力は危険視すべきだったのだが、当人の頭空っぽな態度と、スバルに馴れ馴れしく接する姿に緊張は薄れかけていた。

『――ここで、あーしと一緒に楽しくやっていったらいいッスよ!』

何日でも、何年でも、何百年でも――。

そう、臆面もなく言い切ったシャウラの様子に、その忘れかけていた危険性をようやく思い出すことができた。そういうべきだろうか。

「やるつもりはねぇけど、もしも塔の攻略を中断して脱出ってなった場合、あいつが敵に回るのは確実ってルールもあるみたいだしな……」

脳裏を過る、シャウラの口にしたプレアデス監視塔攻略における複数のルール。

『試験』の途中退場、『試験』のルール違反、書庫への不敬、塔の破壊。いずれかに反すれば、シャウラは監視塔への入場を阻んだときのように、再び敵に変貌する。

それは避けたい。戦力的にも、心情的にもだ。

「ただ、な。シャウラの言ってたみたいに、ここで何年も過ごすなんてのは現実味もねぇし、願い下げって話なんだが……」

塔の攻略に目を向ければ、あらゆる点から自然と不安が首をもたげてくる。

すでにスバルたちは、このプレアデス監視塔への旅程に一ヶ月以上を費やしているのだ。とんとん拍子に『試験』を片付け、塔の攻略が終わったとしても、プリステラへの帰還に同じだけ時間をかけると考えれば、最短でも三ヶ月近い旅となる。

無論、長引くから中途で手を引くなんてことは、シャウラとの敵対のことも含めてしたくはないが、エミリアやアナスタシアの参戦する王選には期限がある。

全体で三年――すでに一年と少しが経過し、残す期限は二年を切っているのだ。

費やせる時間はもちろん、積むべき時間も、無限ではありえないのだから。

「でも、そんな明日の明日の心配ばっかりしてても埒が明かないのよ。まず、大事なのは今日を踏まえた明日のことかしら。そのためにも……」

「今は、お腹いっぱいご飯を食べておけってか」

「それなのよ」

ぴしっと、スバルの言葉に指を立てたのはベアトリスだ。

腹の虫を切っ掛けに話し合いが終了し、食事の準備が整うまでの時間をスバルは塔の散策――居住区とされている、四層の見回りに費やしている。

そのスバルに同行し、きゅっと手を繋いで歩いているのが件のベアトリスだ。

定期的に手を繋ぐのは、ゲートに不調のあるスバルから、契約精霊であるベアトリスが直接マナを徴収するためである。が、そんなお題目を抜きにしても、スバルはベアトリスと手を繋ぎたがったし、ベアトリスもそれを拒むことはなかった。

「それにこの二日、俺が寝込んでる間はお前も不安だっただろ? 今日は安心して、俺にべたべた甘えてくれていいからな」

「馬鹿なこと言ってるんじゃないかしら。これは、スバルが寝込んでいた間、サボっていた分のマナ徴収を多めにしてるだけなのよ。特に、この塔の中では常にベティーは万端の状態でいたいかしら。準備不足は避けたいのよ」

「とは言いつつ、マナ徴収しない間も寝込んでる俺の手を握ってたってのは?」

「それはマナと関係なく、ベティーの心の充足のためだから関係ないかしら」

マナ徴収とは無関係、と胸を張ったベアトリスだが、かえってそっちの方が微笑ましい上に恥ずかしい気がすることにスバルは触れなかった。

ともあれ、ベアトリスの考えにはスバルも諸手を上げて賛同する。

二層の『試験』のことがあるのだ。まさか、その上の一層までもが戦闘力を必要とする試験内容とは考えたくないが、可能性は捨て切れない。

それに、スバルとベアトリスのコンビの強みは戦闘に限った話ではないのだ。戦闘以外の部分で小細工するためにも、ベアトリスには万全であってもらいたい。

「よし、ベア子。俺のことはいい。ぐんぐん、俺からマナを吸って肥え太れ……!」

「別にたくさんマナを徴収しても、ベティーはぶくぶく太ったりしないのよ! それに、意気込んでもスバルの元々持ってるマナの量はたかが知れてるかしら。そのなけなしのマナを引っ張って、倒れられても困ってしまうのよ」

「おいおい、それじゃ、どうすりゃいいってんだよ」

「だーかーら! せめて、お腹いっぱい食べて、ゆっくり休んで体力の回復とマナの貯蔵、あとベティーの相手に勤しむかしら。それがスバルの使命なのよ」

「完全に病み上がりみたいだし、やっぱり放っておかれてて寂しいお前の本音がちょっぴり混じってたじゃねぇか……っと」

歯痒さ半分、微笑ましさ半分で器用な表情を作ったスバル。その足が、通路の奥からやってくる人の気配に止まった。

靴音を立て、向こうから姿を見せたのはエミリアだ。彼女はスバルとベアトリスに気付くと、「あ」と目を丸くし、駆け寄ってくる。

その手には銀色をした金属製の容器――バケツが握られていた。

「バケツか。エミリアたんってば、こんなときでも精が出るね。歌の練習?」

「ふふっ、何言ってるのよ、スバルったら。確かにバケツ先生にはいつも歌の練習を手伝ってもらってるけど、今はそんなときじゃないことぐらいわかってるでしょ」

「そりゃそうだ。じゃあ、なんでバケツ?」

「それは、バケツ先生に本来のお仕事をしてもらうためなのです」

スバルの疑問にえへんと微笑み、エミリアが手にしたバケツを突き出す。と、バケツにはなみなみと水が張っており、なるほど、バケツ先生本来のお役目復帰だ。

ただ、そのお役目が果たせたこと自体に疑問が浮かぶ。

「これ、水ってどっかから湧いてるの? 塔の周りって砂海しかないんじゃ?」

「あ、それは勘違いよ、スバル。塔のずっとずーっと向こうまでいけば、大瀑布があるはずだもの。そこには水がすごーくいっぱいあるから……」

「そこまでして、ほんのバケツ一杯の水を汲んできてくれたのか。俺のために」

「スバルのためならそのぐらい全然してあげるんだけど、そうじゃないの。実はね、あの緑部屋の精霊が綺麗な水を出してくれるのよ」

すごいでしょ、とエミリアが何故か自慢げだが、スバルとしてはその真相の少し手前にあった彼女の一言が嬉しかった。

スバルのために大瀑布に水汲みすることもいとわない。それは、嬉しかった。

「その喜びを噛みしめつつ、だけど……あの部屋の精霊ってホントすげぇな。傷の治療だけじゃなくて、そんなことまでしてくれんのか」

「水を出すだけなら、私やベアトリスも魔法でなんとかできるんだけど……」

「砂丘や監視塔の周囲は瘴気の影響が濃すぎるかしら。その瘴気に長く触れたマナを飲み水に使うのは、できれば避けた方が賢明なのよ」

「っていうことなの」

「なるほどな」

エミリアの説明をベアトリスが補足し、スバルはその内容に納得する。

ここまでの旅の道程、普通の旅路であれば重要視されるべき飲料水の確保、この問題はかなり魔法の力に頼ってクリアさせてもらってきた。

マナさえあれば、わざわざ重たい水を必要量運ばなくても、容器だけ用意しておけば自由に作り出すことができるのだ。魔法の利便性ここに極まれり、である。

「大気汚染じゃないけど、瘴気が原因になるマナ汚染みたいなことって考えられるのか。やっぱり、飲み水とかで取り込むと体に悪かったり?」

「体に劇的な変化があるかはわからないかしら。でも、たくさん取り込めば、その分だけ内に瘴気を溜め込むことになるのよ。そうなったら、最悪、スバルのみたいに魔獣を引き寄せる体質になってもおかしくないかしら。身震いするのよ」

「自分で言うのもなんだけど、この体質って結構生きづらいからな……」

要所要所でこの体質を活用している感のあるスバルだが、土壇場以外でこの体質が役立つことはまずない。それどころか、ちょっとハイキングで山に入ったら、うっかり魔獣に囲まれかねない危険性だってあるのだ。

魔獣を引き寄せる体質など、ないならない方がずっといいに決まっている。

「それで、水はできるだけ緑部屋の精霊が浄化してくれた湧き水を使ってるの。スバルが寝てた二日間も、そうやって過ごしてたのよ」

「へー、そうだったのか」

プレアデス監視塔内の、知られざる生活環境の説明にスバルは感心しきりだ。

と、その湧き水の話を聞かされて、今さらながらスバルの中に当然の疑問が浮上する。それは先の、シャウラへの警戒とも無縁ではない内容だ。

「水はいいとして、食べ物はどんな感じなんだ? 食料は一応、砂海越えのために街で買い溜めしてきたけど、トラブルもあったし」

「安心して。あの騒ぎがあっても、食べ物がどこかに飛んでっちゃったりしなかったから。全部、ちゃんと竜車に残ったまま。だけど……」

「それをどううまく分配しても、一ヶ月もてばってとこだよな」

飲料水を除いても、竜車に積載できる重量には限りがある。それに、食糧が必要なのは乗員であるスバルたちだけではない。騎竜である、パトラッシュやジャイアンにも食事は必要だ。それを踏まえて、積み込んだ食糧は暫定一ヶ月分――。

命からがら、塔を脱出できればいいという話ではない。このプレアデス監視塔を正しい意味で攻略し、無事に最寄りの街へ帰り着くための期限が一ヶ月なのだ。

それが、このプレアデス監視塔を攻略するために使える、スバルたちの期限。

「――――」

「つっても、一ヶ月もこんなところにいるつもりないけどね」

「スバル……」

一瞬、不安げな目をしたエミリアにスバルは笑いかける。

期限はあり、難題は多数、しかし、それに尻込みしていても始まらない。

「なにせ、たった一日で……まぁ、俺はスタート出遅れてるから、正確には塔について三日目だけど、それで一個目の『試験』はクリア、二個目の『試験』もエミリアたんが楽々と突破してんだ」

「楽々、ではなかったけど……」

「ここははったりを利かせる場面だから、楽々って言っていいの」

真面目なエミリアに偉そうに指を立て、それからスバルは繋いだままのベアトリスの手を引くと、正面に立たせた少女の頭に自分の顎を乗せた。

そして、スバルとベアトリス、二人の視線がエミリアを見上げる。

「相手が、過去最強の『剣聖』だろうと関係ねぇよ。あんな眼帯セクハラ箸野郎、俺の小細工とベア子の力でけちょんけちょんにして、さっさと突破してやるぜ」

「そうかしら。けちょんけちょんなのよ」

「けちょんけちょん……」

「けちょんけちょんってきょうび聞かねぇな」

「ズルい! 今の! スバルとベアトリスが言ったのに!」

スバルとベアトリスの連携した罠に、エミリアが顔を赤くして怒る。

馴染みのやり取りに新たなパターンを混ぜ込まれたエミリアは、ほんのりと不満げな様子を引きずりながら、仕方ないと言いたげに吐息をこぼした。

「ん、わかった。わかりました。なんだか、スバルに言われるとそれが簡単なことみたいに聞こえちゃう。でも、それがすごーく頼もしいのよね」

「ああ、信じて期待して頼みにして愛してくれていいよ。俺、そのための君の騎士」

「そうよね。頼りにしてます、私の騎士様」

「今、愛してって部分が否定されなかったから動揺する……」

「――?」

軽口に交えた愛の囁きがすんなり受け流され、肩透かしを味わった。かといってまともに受け取られても動揺するので、やらなきゃいいだけの話なのだが。

ともあれ――、

「今さらだけど、エミリアたんに水汲みなんてさせてんのもおかしな話だよね。これこそ騎士の仕事……っぽくはないけど、主従の従側の仕事のはずだし」

「いいのよ。スバルは私の騎士様だけど、別に主従の関係になりたいわけじゃないもの。スバルは私の隣にいてほしいの。それだけ守ってくれたらいいから、病み上がりの間は大人しく甘えててね」

「なんなの、エミリアたん! そんなに甘やかされると嬉し死にするよ!?」

「それに、今日の夕食当番は私だから! 一から十まで全部やりたいの!」

「どっちも本音っぽいのが、エミリアの難しいところかしら」

ふんすっ、とやる気満々なエミリアの発言にベアトリスがため息をついた。それからベアトリスは、スバルの顎を頭に乗せたまま手を振り、

「ほら、エミリア。お前がいると、スバルがいつまでも落ち着かないのよ。食事の準備も遅れ続けるし、早くいった方がいいかしら」

「そう? わかったわ。それじゃ、またあとで。期待しててね」

「『楽しみ』にはしておくのよ」

骨抜きにされるスバルに代わり、ベアトリスがエミリアを送り出す。その際、エミリアの言葉へのベアトリスの返事が、両者の微妙な認識の違いを反映していた。

「ご飯の準備ができたら呼ぶから、あんまり遠くにいかないでね」

「四層にはいるつもりかしら。それでも、聞こえるかどうかは……」

「わかった。おっきな声で呼ぶから」

「……わかったのよ」

ひたすらに微笑ましいやり取りを交わし、バケツ片手に手を振るエミリアが通路の奥へ消えていく。それを見届け、ベアトリスは頭に乗せたスバルの顔を見上げた。

「それで、そろそろ落ち着いてくれてると助かるかしら」

「……ああ、大丈夫だ。なんだかよくわからないんだが、やたらとエミリアたんが愛おしくてな。まるで、エミリアたん以外の全てが色褪せて見えるような世界を経て、本当のエミリアたんの笑顔と再会を果たしたような気分だった」

「いつも以上に何を言ってるのかわからないのよ! それに……」

「それに?」

決め顔で、エミリアへのほのかな想いをポエミーに語ったスバル。そのスバルにベアトリスは背中を預け、すっぽりと胸の内に収まると、

「エミリアばっかりズルいかしら。スバルはベティーのパートナーなのよ。ちゃんとその自覚を持って、振る舞ってほしいかしら」

「お前、ホントに可愛いなぁ」

「みぎゃーなのよ!」

あんまり可愛いことを言うので、スバルはベアトリスを抱き上げて頬擦りし、そのままくるくると廊下で回り始める。

「大丈夫、安心しろ。ちゃんとお前も愛おしいぞ。なんていうか、今、世界の全てが美しく見えるんだが、その中でもお前はとびきりだ。ベア子、愛してる!」

「わ、わか、わかった、わかったから! わかったから下ろすかしら! もうわかったって、わかったって言ってるのよー!」

そうして、顔を赤くして叫ぶベアトリスだが、スバルは下ろしてやらない。

そのままくるくるくるくると、スバルはベアトリスを抱えたまま、四層の廊下を楽しく楽しく回り続けた。

二人の楽しそうな声は、エミリアが「ご飯できたわよー!」と大きな声で呼びかけるまで、しばらく長く続いていたのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

さて、そんな食事までの時間、何もくるくる回るだけに費やされたわけではない。

ベアトリスプレゼンツによる四層の散策と案内は、意識のなかったスバルより二日分だけ塔生活の先輩である彼女によって、かなりしっかりやっていただけた。

とはいえ、元々、監視塔なんて名前で呼ばれている場所だ。

居住性に気を遣われているはずもなく、実際、居住区扱いの四層にしても住み心地を良くするための工夫は何もない。特別なのは治療用の施設である緑部屋と、三層と二層へそれぞれ通じる階段が設置された大部屋だけだ。

あとは下層へ通じる大階段があるのを除けば、いくつもの小部屋が不揃いな間隔で点在するばかりであった。

「地図がないからあれだけど、あったら絶対に気持ち悪い配置だわ、この塔。俺、こういう設計段階でガタガタな感じの建物とかすごい嫌なんだよ……」

「何を言ってるやら……大体、『試験』の性質があれだけ意地悪いのに、作った人間の性格の歪みを今さら気にしても仕方ないかしら。今さらすぎるのよ」

「あ! 今の、お師様の悪口ッスよ! このチビッ子、塔作ったお師様の悪口言ったッス! いいんスか、お師様! チビッ子だからって、甘くしてやったらつけ上がるだけッスよ! ここは大人げないレベルで叱ってやるべきッス! で、余った甘やかしはあーしにくれたらいいッス! どんとこいッス!」

「うるせぇ……」

鬼の首を取ったような勢いで、ベアトリスの揚げ足を取りにいくシャウラ。というか、ベアトリスの発言は揚げ足でもなんでもないのだが、説明が面倒だ。

いちいち、スバルとお師様と『賢者』の違いを講釈するわけにもいかない。その勘違いを、いいように利用している立場としてはなおさらに。

「こーら、いつまでも悪ふざけして騒いでないの。シャウラも、大人しくしてて」

「えー、納得いかねッス。差別ッス。チビッ子差別ッス~」

「本当に悪いことしたんなら、スバルだってベアトリスを甘やかしたりしないでちゃんと叱ります。そうしないってことは、そうじゃないってことなの。それに、小さい子が大事にされるのは当たり前のことよ。私もシャウラも、それは我慢」

「ベティーより年下のくせに、当たり前のように子ども扱いされるのが納得いかないかしら……」

「まあまあ、ここは年上の度量を見せつけてやれ」

不満げなベアトリスを宥めてやり、スバルは苦笑する。

食事の準備が整ったとのエミリアの呼びかけに、一同が集まったのは四層にある大部屋――食糧など、竜車から下ろした積み荷が置かれた場所だ。

食事の場には一応、意識がないのが原因でこられないレムとアナスタシアを除いた全員が揃い、顔を合わせた形になっている。

あの二人以外の全員、つまり――、

「――食事の前に一言だけ、よろしいでしょうか、エミリア様」

と、そう切り出したのは、一番遅れて部屋にやってきたユリウスだ。

緑部屋に放り込まれる形で治療に専念していたユリウスだったが、食事の場にこうして顔を出したのは何も空腹が理由ではあるまい。

食事を緑部屋へ運ぼうとした提案を断ってまで、この場へやってきたのだ。

そのユリウスの問いかけに、場を仕切っていたエミリアは「ええ」と頷くと、

「もちろん、どうぞ。でも、別に私に断る必要なんてないのに」

「アナスタシア様が不在の今、この場で最も尊ばれるべき方はエミリア様です。それに、すでに私の勝手でご迷惑をおかけしたあと。この期に及んで、とは参りません」

エミリアの言葉を受け、首を横に振ったユリウスの舌が流麗に冴える。

かしこまった態度、律儀な考えはいよいよ普段の彼らしい。だが、その発言に対して、あまり好意的に受け取れない立場のものもこの場にはいる。

「殊勝な心掛けね。そのぐらい、前からわかっていてほしかったけど」

「ラム……」

「無謀で意地っ張りなのはバルスだけで十分よ。特に、まともだと当てにしていた人に先走られては失望して当然でしょう。今後は、ないと思わせてほしいわね」

辛辣にユリウスの独断を評したのは、冷然とした面持ちでいるラムだ。

その声と瞳の冷たさはいつも通りだが、表情の硬さだけは普段より強く思える。厳しい言動にも、彼女らしい気遣いが薄れているように思えた。

「ラム、今のは言いすぎよ」

「……申し訳ありません、エミリア様。以後、気を付けます」

その、辛辣さを見咎めたエミリアに、ラムはすぐ謝罪し、ユリウスにも目礼した。そうして引っ込められれば、それ以上の追及はできない。

それに、いつもより余裕のないラムを責めることも間違いだ。彼女はユリウスを嫌っているわけでも、憎んでいるわけでもない。ただ、本気でレムを救いたいと願い、そのために心の全てを費やしたいと望んでいるだけなのだ。

「ラム女史にも、他の方々にも、大変なご迷惑をおかけしました」

それがわかっているからユリウスも、ラムの辛辣さは自身の行いの報いと戒め、反論せずに頭を下げて事を収めた。

食事の前の時間を取り、ユリウスがしたかったことはこのケジメだ。

ユリウスの独断行動、その真意はスバルにも何となくわかっている。だから、スバルは彼を許せたが、それをユリウス自身が許せるかどうかは別の話だ。

そのための、最初の一歩として、これは必要な儀式だった。

「はい! ユリウスは謝りました。私は、その謝ってくれた気持ちを受け入れます。それで、このことで何が悪いってお話は私の中ではおしまい」

手を叩いて、エミリアがユリウスの謝罪にそう言った。そのエミリアの言葉に、スバルはもちろん、ベアトリスも頷く。

「俺はまぁ、言いたいことは言ってやったあとだし、これ以上は武士の情けで」

「ベティーも、ブシノナサケなのよ。このあとの働きで取り返せばいいかしら」

「――すまない」

二人の返答に、瞑目したユリウスがそれだけ呟く。

そのスバルとベアトリスに続いて、ユリウスの謝意に反応したのはメィリィだ。彼女は床に足を崩して座ったまま、自分のお下げを指でいじくり、

「死なずに済んだんだしい、それでよかったんじゃなあい? わたしは別に、騎士のお兄さんのことは気にしてないわあ」

「お師様がノープロって言ってるんで、あーしもノープロッス。ノーパソッス」

「ノーパソは違ぇだろ……」

無関心に思えるメィリィの言葉は、気遣ったものというより本心のようだ。それに追従するシャウラも、おそらく本気でどうとも思っているまい。

塔の関係者であり、スバルと気持ちメィリィ以外に心を開く素振りの見えないシャウラはともかく、メィリィの立場もややこしいものであった。

そして――、

「――――」

直接の謝罪にも何も言わなかったラムだけは、許すとも許さぬとも言わなかった。

ただ、彼女は羽織った白いローブの前を合わせ、食事に目を落としただけだ。

そしてそれをユリウスも静かに受け入れる。ユリウス以外の、スバルたちも。こればかりは当人同士の問題、余人が口を挟むべきところではないのだから。

「――それじゃ、改めてご飯にしましょう。今日は、私とラムで準備しました」

「火は使わせていないから、少し男らしい以外はまともなはずよ」

「ええ、そうよ。すごーくまともなの。……まともって変な言い方じゃない?」

気を取り直し、音頭を取ったエミリアの口上。その後に続いた補足にエミリアは首を傾げたが、ラムは何のフォローも入れなかった。

ともあれ、そんなやり取りを経て、監視塔での貴重な食事が囲まれる。

竜車に積み込まれた食糧の多くは、干し肉や燻製などの保存食である。当然、大味であったり、食事の質が偏ることは避けられない――が、ここでも魔法が活躍する。

エミリアの得意な氷魔法を応用すれば、竜車に備え付ける形で簡易的な冷蔵設備を運用することが可能であり、新鮮な食材を用意することもできるのだ。

おかげで果物や生鮮食品も少なからず保存が可能なので、食事事情に関してはかなりの安定性を保つことができている。

「それでも、痛みやすい材料から早く使ってあげないとダメだけど」

「それを悩めるのも贅沢って話だよ。ホント、E・M・S(エミリアたん・マジ・食の女神)! 旅のおかげで、エミリアたんの料理の腕もかなり伸びたし、できれば一生、俺のために味噌汁を作ってほしいぐらいだぜ」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

とは、旅の間に料理の腕をメキメキ上げたエミリアとのやり取りだ。

エミリア自身の願いもあり、この旅程での食事は各自持ち回りの当番制を採用していた。もちろん、いきなりエミリアに単独で料理をさせるようなやり方ではなく、ちゃんと誰かしらのフォローがつくという形での試みだ。

おかげで、もうここにはダイスキヤキを真っ黒に焦がしていた少女はいない。

何故なら、火を使わせない調理を主に担当してもらっていたからである。

ちなみに、今回の旅のメンバーでまともに料理ができたのは、一年間の使用人生活で料理スキルを身につけたスバルと、何をやらせてもそつなくこなすユリウス。そして意外なことに、まともな料理もやれば作れるラムの三人だった。

なお、プリステラへ向かう道中では、スバル・オットー・ガーフィールの男三人がジャンケンで料理当番を決める方式だった。

それはともかく――、

「――じっと見て、何か文句でもあるの?」

「……いや、一ヶ月も旅しててあれだが、いまだにラムが料理できるの慣れねぇなと」

「何を言い出すかと思えば……」

意味深なスバルの視線と言い訳に、ラムが呆れを隠さず嘆息する。

「屋敷でラムが厨房に立たないのは、できないからじゃなくてやらないだけよ。蒸かし芋ならいざ知らず、普通の料理に腕を振るうつもりはないわ。その仕事は、フレデリカとペトラに譲ってあげる」

「そか。……まぁ、そうだな」

「ええ、そうよ。……なんで、蒸かし芋だけは特別なのかしら」

自分の発言に自分で疑問を抱いた風に、ラムが難しい顔をしている。その横顔を眺めながら、スバルもまたほのかな嘆息をこぼした。

あらゆる家事技能において、ラムはレムに後れを取っていた。

だが、レムの記憶が世界から剥がされたのを切っ掛けに、スバルはその関係性が額面通りの意味ではなかったことを悟っている。

事実、ラムはメイド仕事に留まらず、何をやらせても相応にうまくやるはずだ。そしてそのことと、レムの喪失とは能力的にはおそらく関係ない。

つまり、ラムはレムが健在だった頃から、やろうと思えば今と同じようにやれていた。そうしてこなかったのは、彼女の生来の怠け癖が原因――では、あるまい。

「――――」

そのことを、スバルはあえて掘り起こしたいとは思わなかった。

今のラムには、きっとわからないこと。そしてその真意は、レムが無事に戻ってきたあとも、語られる必要などないことなのだと、そう思う。

それにしても、だ。

「想像ついたけど、お前の食い方には品が欠片もないな」

「もぐもぐ……あ? お師様、今、なんか言ってたッスか?」

顔をしかめたスバルに、頬袋をぱんぱんにしたシャウラが目を瞬かせる。

この世界、とかく自分の美少女性を無駄遣いする人物が少なくないが、シャウラはその中でもトップクラスだ。リリアナに匹敵すると言っていい。

手掴みで食事を口に運ぶシャウラ、その様子にスバルは頭を掻いた。

「食いながら口を開けて喋るな。食うか喋るかどっちかにしろよ」

「じゃあ、お師様とお喋りするッス! あーし、お師様となら永遠に話せるッス!」

「この流れでお喋りの方を選ぶテンプレ外しか。……静かに食べろ」

「あーい、ッス」

てっきり、食べるのを続けるかと思いきや、スバルとのお喋りを優先しようとする忠犬精神には頭が下がる。実際、指示に素直に従う様子といい、扱いやすいという意味ではシャウラの危険度は大きく低下するのだ。

本当に、当人の性質と実力と危険性と、それが釣り合わない相手だ。

「裸のお姉さんってばあ、すごい食べっぷりよねえ。そんなにお腹が空いてたのお?」

「減ってたってより、これがうますぎるッス! あーし、あんまし食に執着ないと思ってたッスけど、この味のためなら半魔に弟子入りすんのもいとわねッス!」

「え? 弟子入りって私に? 料理の?」

メィリィの指摘にも手を止めず、シャウラは口の中のものを一気に飲み下し、エミリアをびしっと指差した。それに驚くエミリアへ、シャウラは何度も頷くと、

「これだけの料理、なかなかのものッス。あーしの目は誤魔化せないッス。あーしも料理の腕上げて、お師様の胃袋をぎゅっと掴んで今夜は寝かさないぜッス」

「野心が駄々漏れねえ」

「シャウラ、あなたの気持ちはわかったわ。でもね、料理の道はすごーく厳しくて険しいのよ。それでも覚悟があるなら、私も、真剣に弟子のこと、考えてみる」

「エミリアたんも変なとこでたまに図々しいな」

大体、今日の料理も七割ぐらいはラムの手柄だろうに。料理の極意を知った風なエミリアと、素人料理に感銘を受けすぎなシャウラがわりと滑稽だ。

「言っちゃなんだが、世界にはまだまだうまいものがたくさんあるぞ。エミリアたんの料理はそりゃ……愛情だけで俺の中では満点だが、そこを除いたらまぁ普通だ。お前、普段はどんな食生活なんだよ」

「よくぞ聞いてくれたッスね、お師様。あーしの食生活は、それはもう尋常じゃないッス。大体、仕留めた獣を焼いて食うだけッス」

「仕留めた獣って……外の魔獣とか?」

スバルの疑問に、シャウラが腕を組み、豊満な胸を張って深々と頷く。

その、魔獣中心の食生活の悪環境は言うに及ばずだ。スバルはベアトリスに振り返り、「どうなの?」と直球で質問した。

「さっき、瘴気汚染のマナで作った水は飲めないみたいな話したばっかだけど」

「魔獣の肉が、体に良いか悪いかなんて考えたくもないのよ。ただ、すぐに悪影響があるってほど、危険なものとも言われてはいないかしら」

「記録によれば、過去に魔獣を食することを目的とした研究者がいたそうだ」

ベアトリスの眉間に寄った皺をスバルが指でほぐしていると、興味深いと同時に結構あれな事例をユリウスが説明した。

彼は無言ながらも、先を促すスバルたちの視線に片目をつむり、

「承知の通り、魔獣は人間に襲いかかる習性がある。行軍中や旅の道程、食糧に窮することがあったとしても、危険地帯を縄張りとする魔獣は容易に発見できるんだ。なにせ、隠れ潜むという考えがない。魔獣は必ず襲いかかってくる。それを倒せば、安定して食糧が得られると、そう考えたものがいても不思議はない」

「で、うまくいったのか、それは」

「食糧事情などの改善を求め、紆余曲折の試行錯誤が重ねられたらしい。だが、安定した成果は上がらなかった。無論、食べて毒となるわけではないが……」

「ないが?」

「かなり、味に問題があるらしい」

味の問題、と言われてスバルは呆れた顔をした。

味など最悪、香辛料でも何でもぶっかければ誤魔化せるのではないか。確かに雑食性の動物の肉は生臭いと聞くが、毒でないならもう少しやりようがあったはず。

「あくまで文献で見た限りの話だ。シャウラ女史、実体験ではどのような感想を?」

「汚水に浸した砂みたいな味がするッス」

「あ、香辛料じゃダメなやつだ」

「お師様が食べたいなら、今度、あーしが餓馬王の丸焼き作ってあげるッス。クソマズくてやみつきになるッス。嘘ッス」

想像のつかない味わいらしく、シャウラの食事の勢いもこれでは責められない。

餓馬王の丸焼きについては丁重に辞退させてもらった。そもそも、丸焼きにする以前にあの気持ち悪い魔獣は全身が燃え上がっていたし。

「しかし、食糧事情は悩み所だったんだが……」

ぽつりとこぼし、スバルは頭を抱える。

視線の先では、泣き出しそうな満面の笑顔で食べ物を口に詰め込むシャウラと、そのシャウラの食べっぷりに母性を刺激され、料理を追加しかねないエミリアがいる。

一ヶ月、食糧の残量も含めた試算の制限時間だったが。

シャウラがこのペースで食事に励まれると、もっと減るかもしれないなとスバルは思った。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

食事が終わり、湧き水を使った水浴び(主に体を拭くだけ)が済むと、この日は解散、就寝時間が訪れる。

状況を鑑みれば、夜通し塔の攻略会議に紛糾するのが正しい攻略組としての姿なのかもしれないが、現状、それで打開案が出るとも考えにくい。

明日のことは、明日の自分に期待――とは、少し調子のいい考えかもしれないが。

「実際、ぽんと解決案が飛び出る問題ってわけでもねぇ。時間は取りたいとこだ」

『試験』の内容が内容だ。最悪、明日も無策で二層に挑む可能性も考えられる。

考えるより、当たって砕けろ作戦――本当に砕かれては困るが、少なくとも、あの試験官である初代『剣聖』に、こちらを殺すつもりはひとまずないと思えた。

あるいは、会話から攻略の糸口を見つけ出せるかもしれない。エミリアが、結果的に話し合いで譲歩の点を引きずり出してくれたように。

「そうするにも、回る頭の余地は残しておかねぇとだ。だから、しっかり食って、しっかり休んで、万端の状態で臨まないとな」

両手で頬を張り、スバルは様々な不安要素を噛み殺し、そう考える。

おおよそ、エミリアたちもスバルの意見に賛同――というより、消極的に今はこれしかないといった状態であった。

そんなわけで、今夜は解散。各々、寝室として使える竜車に戻り、そこで明日に備えて眠りにつく流れになるのだが。

「スバル、ベティーはエミリアたちと一緒に竜車にいるのよ」

「おお、わかった。悪いな、ベア子。夜更かしするなよ。背が伸びなくなると、小さいままになって……それ可愛いな。よし、夜更かししろ、ベア子」

「心配しなくても、ベティーはこれ以上大きくなったりしないかしら。ずっと可愛いままなのよ。だから、早く寝てもへっちゃらかしら」

欠伸をして、ひらひらと手を振るベアトリスと別れる。去り際、ベアトリスはエミリアと手を繋いで、今夜はおやすみとスバルの下を離れていった。

「エミリアたん、ベア子をよろしく。また明日」

「ん、また明日ね。……スバルも、あんまり夜更かししちゃダメよ」

夜更かし自体は責めずに、エミリアはそれだけ言って、大階段を下層へ向かった。それを見送り、スバルは軽く背伸びすると、四層の通路を靴音立てて進む。

目的地はわかりやすい。蔦に覆われた扉のある、緑部屋だ。

そこで――、

「スバルか?」

「……と、お前か」

部屋の前、そこで鉢合わせになったユリウスが、スバルの姿の目を丸くする。

ちょうど、彼も緑部屋に入ろうとしていたところで、やってきたスバルの様子に目を細め、すぐに納得した風に顎を引いた。

「なるほど。どうやら、君も私と同じ目的でこの部屋へきたようだ」

「目的の相手は違うだろうけどな。……俺は、今夜は譲ろうか?」

「いや……」

スバルの提案にゆるゆると首を振り、ユリウスは閉じた扉へ目を向ける。それからしばしの沈黙があり、ゆっくりと黄色の双眸がスバルへと戻された。

そして一歩、扉を譲るようにユリウスが後ろへ下がる。

「この場は、私こそ君に譲ろう。思えば、君は今朝まで二日も意識がなかった。その無事の報告だけはできたが、きっと、彼女も夜を焦がれていたことだろう」

「……まぁ、譲ってくれるっつーんなら素直に譲られるけども」

典雅な言い回しに頭を掻いて、スバルはちらとユリウスを見やる。

その顔に無理をしている素振りは見つからないが、元々、スバルは他者の気持ちを推し量るのが苦手だ。表情の裏に真意を隠されれば見抜けない。

「お前はそれで平気なのか? 傍に、ついててやりたいだろうに」

なので、スバルは仕方なく、嘆息と共に素直な考えを口にした。

それを受け、ユリウスは「そうだね」と薄く微笑み、

「できれば、アナスタシア様が目覚めるのを傍で見守りたいのは事実だ。……ただ、目を覚まされたとき、最初になんと声をおかけするか。それに、迷いを抱いていることも事実だよ。情けないことだが」

「第一声は、心配してました。起きてくれてよかった、じゃねぇの? 問題は第二声からだろ。それは……まぁ、お前次第だな」

「ふ」

「なんで笑ったんだよ。結構真面目に答えたってのに」

それなりに真剣な答えだったのだが、ユリウスのお気に召さなかったご様子だ。その反応に心外な顔をするスバルに、ユリウスは踵を返し、背を向けた。

「君の発想は自由だ。――それが、私は羨ましい」

「馬鹿って言われてるみたいでカチンとくるな。おい、どこいくんだ?」

「この場は君に譲るんだ。竜車へ戻り、休むとする。今日は少し、疲れたのでね」

背中越しに手を上げ、歩き去るユリウスがそう言った。

少し疲れた、と『試験』のことを遠回しに言える程度には回復したのか、それともそれがただの強がりなのか、やはりスバルにはわかりづらい。

わかりづらかったが――、

「――ユリウス、やっぱり、お前はアナスタシアさんが起きるのを待った方がいい。俺の方の用事が済んだら起こすから、そうしろ」

「――――」

「言っとくが、後悔した回数は俺の方がきっとお前より多いぜ。その俺からのアドバイスだ。ちょっとは真に受けてくれや」

通路の奥へ消える背中に、スバルは最後までそう声をかけた。それをユリウスがどう受け取ったか、返事はなかった。しかし、ユリウスならば悪い方向には転がるまい。そのぐらいの信用は、少なくともスバル側からはあった。

「……邪魔するぞ」

首を振り、ユリウスへの配慮を打ち切ると、スバルは扉を押し開け、緑部屋の中へと足を踏み入れる。ぼんやり、淡い光によって照らされる室内は、相変わらず多量の緑に支配されており、蔦で編まれたベッドの上には二人の少女が寝かされている。

手前のベッドにアナスタシア、そして奥のベッドにレムの二人だ。

「そして、一番奥にはお前がいると」

「――――」

見舞いにやってきたスバルを見上げ、小さく喉を鳴らしたのはパトラッシュだ。漆黒の地竜は、まるでスバルがくることを知っていたかのように自然な態度。

おそらく、察しのいいパトラッシュはスバルがくるのがわかっていたのだろう。自然と、自分の寝そべる蔦の寝床を半分開け、スバルが座るスペースを開けている。

「お前ってヤツは本当に……傷も、だいぶよさそうだな」

苦笑し、スバルはパトラッシュの黒い鱗を掌でなぞった。

地下での餓馬王との一戦、その負傷の形跡も三日間の治療でかなり良くなっている様子だ。元々、パトラッシュは自分の不調をスバルに悟らせないようにするところがあるが、今回は強がりではなく、順調に回復してくれているらしい。

「本当に、この部屋の精霊様々だ。感謝してもしきれねぇや。この部屋がなかったら、どんだけ大変なことになってたかわかりゃしねぇし」

パトラッシュの負傷を幸いだったとは口が裂けても言わないが、アウグリア砂丘を乗り越えるための被害は最小限に抑えられたのは事実だ。

一行の負傷者はスバルとパトラッシュの二名だけ。それも、この緑部屋の効果で無事に取り返せる範囲、上々以上の成果といえる。

二層の『試験』で負傷したユリウスとアナスタシアの治療も含め、緑部屋の存在には救われ通しだ。まるで、誰かがこのために誂えてくれていたかと思うほど。

「さて」

パトラッシュともひとしきり親愛を確かめたところで、スバルは一度、軽く深呼吸してから奥の寝台――レムの下へと向かった。

ベッド脇にスバルが立つと、しゅるしゅると音を立てて蔦が集まり、寝台のすぐ横に座るための椅子を作り出してくれる。

「至れり尽くせりにも程があるな」

緑部屋の精霊に感謝が尽きないと言ったばかりでこれだ。これではまるで、よくしてもらうためにおべっかを使ったみたいではないか。

そんなつもりではなかった、とだけ断り、スバルは寝台の横につく。

「レムが夜を焦がれた、なんてユリウスは言ってたが……」

それは間違いだ。

だって何のことはない。レムに、こうして誰にも邪魔されずに話せる時間を待ち焦がれていたのは、彼女の方ではなく、きっとスバルの方なのだから。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――スバルが異変に気付いたのは、軽く肩を揺すられる感覚が切っ掛けだった。

「――う?」

俯いていた顔を上げ、スバルはその場で何度か瞬きする。反射的な肉体の行動に反して、意識が追いついてくるのがやけに遅い。

ゆっくりと、浮上してくる意識。それが現実に追いついて、気付く。

「寝てた、のか?」

顎に手を当て、スバルは自分の意識が眠りに落ちていたことに驚かされる。

場所は緑部屋の室内、スバルの体はレムの寝台の脇、椅子に座った姿勢のまま眠りこけていたらしい。だが、スバルの記憶と、椅子の形状がまるで違っている。

記憶にある蔦で編まれた椅子には背もたれもなかった。だが、今の椅子は眠るスバルを柔らかく支えるために大きな背もたれが作られ、その全身を包むような卵型の形状へと変化している。精霊の、おもてなしの精神が強く出過ぎていた。

おかげで過ごしやすすぎて、うっかり居眠りが本眠りになるところだった。

「俺も、そこそこ疲れてたってことか……っと、パトラッシュ?」

自覚のなかった疲労感を口にして、スバルは目覚めの原因――スバルの肩に、その長い尾を伸ばして触れたパトラッシュを振り返る。

草の寝床に体を丸めていた愛竜は、何事か訴えかけるようにスバルを尻尾で起こしたのだ。それが何を伝えたいのか、とスバルは眉を寄せ、

「――嘘だろ?」

パトラッシュの視線を辿り、スバルは椅子から飛び降りる。そして駆け寄るのは、緑部屋の扉側にある寝台――アナスタシアが寝ていたはずのベッドだ。

過去形なのは、そこにいたはずの彼女の姿が見当たらないためである。その事実にサッと、スバルは血の気が引くのを感じた。

「あ、あれだけユリウスに偉そうなこと言っといて……」

スバルが居眠りしたことが原因で、ユリウスをアナスタシアの目覚めに対面させてやれなかった。それは、字面で見ても格好がつかないどころの話ではない。

――否、問題はそれに限った話ではなかった。

「起きて、それで……? どこにいった? トイレか? 俺も起こさないで?」

トイレに付き合え、などと言われなかったことが疑問なのではない。あのアナスタシアが――正確にはエキドナだが、それが、寝ているスバルに何も言わず、緑部屋を一人で抜け出した行動に疑問があった。

二層の『試験』直後、行方をくらますなどと――まさか、ユリウスと同じように、あのままレイドへ二度目の挑戦をしにいったとは思いたくないが。

「まだ、ベッドはほんのりあったかい。……探さねぇと」

蔦のベッドには、寝そべっていたアナスタシアの温もりがわずかに残っていた。パトラッシュが呼び起こしてくれたのもある。

おそらく、アナスタシアが出ていったのはそれほど前のことではない。

「パトラッシュ! レムを見ててくれ! あと、起こしてくれて助かった!」

「――ッ」

短く応じる声に手を振り、スバルは緑部屋の外へと転がり出る。

慌てる心中、アナスタシアの行く先は想像もつかない。スバルであれば、一の一番で確かめたいのはエミリアやベアトリスの無事――そう考えれば、彼女が向かう先はやはりユリウスの下になるのだろうか。

「いや、今は中身が襟ドナなんだっつの。そんな直球のはずがない。そしたら……」

人手が足りない。居眠りした自分の恥はあえて晒すとして、この場はとにかく、他の面子にも声をかけ、アナスタシアの居場所を――。

「――は?」

探さなければ、と階下へ呼びにいこうとしたスバルはそこで息を詰めた。

それは唖然、呆然とした反応から思わず漏れた吐息だ。あってはならないもの、ありえないものを見たときに漏れる、呆けた声であった。

「――――」

呆然と見開かれるスバルの視界を、何かが悠然と横切っていく。

それは白い両翼を広げ、さほど広いとはいえない通路を華麗に飛んでいく、一羽の鳥だった。

「なんで……塔内に、鳥が?」

いるはずのない鳥の姿に、スバルは呆然とそうこぼした。

プレアデス監視塔の壁面に、外と通じる窓のようなものは全くない。塔は完全に外界と隔絶された建物であり、内と外を繋げるのは五層にあった大扉だけだ。

少なくとも、スバルの認識ではそうだし、四層を案内してくれたベアトリスも、外に通じる窓の存在があるようなことを匂わせたりはしていなかった。

「――ッ! ま、待て!」

強い異変の気配に、スバルは遠ざかる鳥の後ろを慌てて追い始める。

一瞬、躊躇いがあった。この場で鳥を追うべきか、それとも誰かを呼びにいって、アナスタシアの不在と鳥の存在を打ち明け、助力を乞うべきか。

だが、スバルは鳥を追うことを選んだ。ここで鳥を見失うこと、その方がリスクが大きいと、言葉にできない直感の選択に従って。

「――――」

無論、飛ぶ鳥はスバルの呼びかけに羽を休めるような優しさはない。悠然と、スバルを置き去りにするように通路を飛翔し、奥へ奥へと姿が遠くなる。

それを懸命に追いかけ、追いかけ、やがて――。

「――!? 消えた? んな、馬鹿な」

通路、その最奥へ辿り着いたところで、スバルは声を裏返らせていた。

監視塔の形状に沿って、ぐるりと円を描く形になっている四層の通路。だが、それは一周できるように繋がってはおらず、半周ほどのところで壁に阻まれてしまう。

時計で言えば、十二時の部分に壁があり、左右のどちらからでもそこで足を止められるといった様子だ。

それがわかっていたから、スバルは鳥が扉を開けられない限り、部屋に入り込むこともできず、必ず捕まえられると睨んでいたのだが――。

「壁にぶつかって、落ちた雰囲気もない。これは、どうなってる……?」

消えた鳥の足取り、ならぬ翼取りがわからず、スバルは困惑に周りを見回した。

残念だが、鳥が逃げ込めそうな部屋は見当たらない。出現も唐突ならば、その退場も唐突。まるで、夢でも見ていたかのように煙に巻かれた気分だ。

ただし、それが夢でないことはすぐ証明される。

「――これ、羽根だよな?」

通路を少し戻ったところで、スバルは床に落ちている白い羽根を発見する。確実とはいえないが、状況からして、これはスバルの追っていた鳥の羽根だ。

これが、鳥実在の証拠になる。これを持ち帰って、エミリアたちに「塔の中に鳥がいたんだ!」と訴えることも可能だが、何の解決にもならない。

消えたアナスタシアの手掛かりには何も――、

「いや、待て……ここに、羽根が落ちてるってことは」

何かあるはず。

そう考え、スバルは羽根の落ちていた周辺の床や壁を手当り次第に調べる。ぺたぺたと、石造りの床や天井、近くの部屋などを調べ、壁を押したりもしてみた。

しかし、どこにも仕掛けのようなものはなく、時間だけが過ぎることに焦りを覚える。やはり、人を呼んできた方が――と、思ったときだ。

「あ――!?」

羽根の落ちていた地点を掌でさらっていたところだった。指が、すぐ傍にあった壁を掠めたと思った瞬間、すっとその壁を素通りする。

目の錯覚ではない。おそるおそる触れれば、壁に触れられなかった。

「でも、ここの壁は調べたはず……」

調べ損ねたわけではないと、スバルが改めて壁に触れれば、その壁はスバルの腰から上には実体があり、それより低い地点にはまやかしが張られていたのだ。

入口を塞いだように見える幻惑――以前、ペテルギウスの率いる魔女教が、岩窟に作った隠れ家にこうした仕掛けがあったことを思い出す。

「――虎穴に入らずんば、虎児を得ず、だ」

這いつくばり、四肢をつけばまやかしの壁を潜ることができる。

スバルは一瞬の躊躇のあと、その壁を潜り、向こう側へと挑んだ。おそらく、鳥は低空飛行でここを抜け、この先へいったのだ。

これが外へ通じているか、あるいは塔の別の場所へ続いているのだとしたら――。

「ぷあっ!」

壁を抜ける暗闇、それは思ったより長く続かなかった。

まやかしの壁を潜り、抜けた先で思わずスバルは水面に顔を出したように呼吸する。理由なく、闇に潜るような心地で息を止めてしまっていた。

そして、その顔に外気が――冷たい風が、触れたことに気付く。

「――お」

目を開け、ゆっくりと闇から外の世界へ瞳を慣らした。

そこに広がっていたのは、想像を絶するほど高い場所から覗ける夜の砂丘の光景。それを見下ろしている、星が煌めく黒い空。

そして――、

「――――」

監視塔のバルコニーと呼ぶべき空間で、風に紫の髪をなびかせるアナスタシアと、そんな彼女の周りを囲む無数の鳥たちが待つ光景だった。

第六章32 『何者』

――想定外の光景を前に、スバルは唖然と瞠目するしかなかった。

奇妙なことが連続する夜だ。

意図せぬ居眠りから始まり、緑部屋からいなくなったアナスタシア=襟ドナを探して奔走し、塔の中にいるはずのない鳥を見かけ、それを追いかけた。その鳥を行き止まりに見失い、手近な床と壁を探って隠し通路を見つけ――、

「――トンネルを抜けると、そこは雪国だった」

こぼれた軽口は、この奇妙な光景の説明に何ら寄与していない。

スバルが潜ったのは壁であってトンネルではなく、目の前に広がったのも雪国などではなく、冷たい風の吹く砂海の夜だ。

黒い空には煌めく星々が浮かび、監視塔のバルコニーからは黒い海のような砂丘の光景を遠くまで見渡すことができる。

何もかもが、スバルの言葉に見合わない。その代わりに――、

「――ナツキくん?」

掠れたスバルの呟きを聞きつけ、風に髪をなびかせる人影がこちらへ振り返った。

薄紫の、ウェーブがかった髪をそっと手で押さえる少女――浅葱色の丸い瞳に、闇の中に浮かぶほど白い肌をした、可憐な容姿の持ち主だ。

探していたアナスタシアだ。その呼びかけにスバルは一瞬だけ逡巡して、

「……夜の散歩にはうってつけの絶景スポットだな」

出だしの驚きを舌の裏に隠して、スバルはアナスタシアに肩をすくめた。その仕草と話題の切り出しに、アナスタシアは小さく「そうやね」と笑い、

「見晴らしがええのはホントやね。でも、せっかくの見晴らしも、肝心の景色が真っ黒々やなんて残念やわぁ。遠目に、街が見えるだけでも違ったのに」

「これはこれで、夜の海を眺めてるみたいな趣があって悪くないけどな。それに、なんて言っても……」

言いながら、スバルは一望できる景色ではなく、頭上に指を向ける。それにつられて空を仰ぐアナスタシア――そこに、満天の星空がある。

「空気が冷たくて澄んでるから、星が超よく見える。ロマンティックだろ?」

「星が綺麗なんは事実やし、空気が澄んでるんはうちも同意見やけど……それやと星の見映えより、もっと気になることがあるんと違う?」

「もっと気になること、ってのは」

「星が見えることそのもの。ここまで、砂海で星が見えた夜なんてあった?」

呆れた風にアナスタシアに言われて、スバルは「あー」と手を叩いた。

彼女の指摘通り、こうしてバルコニーから星空が見えていることは、ここまでの砂海の道程を思えば不思議なことだった。プレアデス監視塔の周囲では、空に星の煌めきを見つけることはできない。

何故なら――、

「瘴気が濃くて、空に雲みたいにかかってたはずだもんな」

「それがないってことは、この塔だけ瘴気と無縁なんか……もしくは、ここが立ち込めてた瘴気より上の高さにあるってことかもしらんね」

「この高さならまぁ、それもないとは言い切れねぇな」

バルコニーから外の景色を眺めて気付いたが、現在の高度――監視塔の四層に当たる階層は、地上数十メートルなんて高さではなく、百メートル単位の高所にある。実感がなかったが、五層から四層へ上がる階段はそれだけの高さがあったわけだ。

「……それでも、この位置で塔の真ん中まできてるかどうか」

バルコニーの外ではなく、外壁に沿って塔を見上げ、スバルは吐息する。

推測が正しければ、瘴気より高い位置へ上がっているにも関わらず、雲を突くような塔のてっぺんは到底見えない。暗さとは無関係に、まだまだ上がある。

それこそ、二層への階段は四百段以上もあったのだ。それだけでも、塔が相当に余力を残していることは疑いようがない。

ともあれ――、

「――――」

星空と、塔の高さについてはそこそこに、スバルはアナスタシアへと目を向ける。はんなりと唇を綻ばせ、手を腰の後ろで組むアナスタシアに不審な動きはない。

これといった警戒も、何かを仕掛けてくる様子も皆無だ。

少なくとも、いきなり敵意を露わにしてくることはないと、それだけ確認して――、

「――で、この状況の言い訳は?」

「言い訳?」

「深夜、こっそりと寝室を抜け出して、誰も知らない秘密の通路を抜けて、こんなところで夜風に当たりながら鳥たちと戯れる……怪しすぎるだろ」

不思議そうな顔のアナスタシアに、スバルは顎をしゃくって追及した。

鳥たち――そう、鳥たちだ。

この場に、こうして顔を突き合わせるのはスバルとアナスタシアの二人だが、バルコニーには二人以外にも多くの観衆が詰めかけている。

それが、微動だにせず、状況を静かに見守り続ける作り物のような鳥たちだった。

「――――」

一羽や二羽などと、そんな穏やかな数では到底ない。

バルコニーの外縁部に留まり、羽を休める鳥の数は五十を下らない。群れかと思われるほどの数だが、それを群れと断定することに抵抗があるのは、集まった鳥たちの種類が統一されたものではないためだ。

白い鳥が、青い鳥が、黒い鳥が、斑の鳥が、大きい鳥が、小さい鳥が、痩せた鳥が、太った鳥が、種類雑多で統一感のない鳥たちが一揃いに集まっている。

その事実もなかなかに異様だが、それ以上にスバルが不気味さを覚えたのは、この光景を形作る鳥たちの挙動だ。

――これだけ多くの鳥がいるのに、鳴き声どころか、羽音一つ聞こえてこない。

鳥たちに、それぞれ意思疎通する知恵があるかは定かではない。

だが少なくとも、この統一感のない鳥たちは、意思だけは統一されているのだ。

「ナツキくんが、そないに不安に思うんも仕方ないけど……」

そんなスバルの疑念に対し、アナスタシアは自分の頬に手を当てる。

「秘密の通路、は大げさなんと違う? だって、現にナツキくんもこうしてここにおるわけやし」

「それは……鳥が俺を導いたというか、あれだよ」

「それやったら、うちもおんなじ。夜、塔の中をふらふらーっと散歩しててん。そしたら鳥が飛んどるやないの。それ、何かなーって追いかけたらここに」

「――――」

「なんて、信じてくれん顔やね?」

両手で鳥を模して、空を泳がせていたアナスタシアが目を細める。

当然だが、納得のいく説明ではない。否定できるだけの根拠はないが、そんな都合のいい話があってなるものか。自分を棚上げして、スバルはそう結論する。

「この鳥は……」

「この子たち、なんなんやろね」

「――っ。それは、俺が聞きたいことだよ」

のらりくらりとしたアナスタシアの態度もそうだが、ただ遠目にこちらのやり取りを見守るだけの鳥たちの視線も居心地が悪い。

鳥の瞳からは感情を読み取ることが難しく、あるいは本当に、感情など持っていないのではないかと、そう思わされるほどの隔たりを感じる。

この鳥たちは、バルコニーは、アナスタシアは、いったい何を考えているのか。

「俺と同じで何も知らない……それを鵜呑みにしろってのは都合が良すぎるだろ」

「ナツキくんも何にも知らん、ってところにはうちも言いたいことあるけど……でも、本当に困ってるんよ。ここにきてからずっと、調子狂いっ放しやもん」

やれやれ、と額に手をやり、アナスタシアは悲嘆に暮れる素振りを見せる。そのアナスタシアを油断なく眺めながら、スバルはふと、鳥について思い出していた。

――プレアデス監視塔に向かって、アウグリア砂丘を鳥が飛ぶ、と。

そんな話を聞かされたのは、塔へ向かうための砂海越えの準備に立ち寄った街の酒場だ。砂海で道に迷うことがあれば、鳥を探せと店主は言っていた。

幸い、スバルたちは砂海で遭難するような失敗はしなかったため、ほとんど忘れかけていた忠告だったのだが――、

「これ見ると、あながちあれも単なる噂話じゃなかったってことか……」

スバルの呟きを受けても、鳥たちからの反応はない。

彼らはただ静かに羽を畳み、宵闇を飛ぶのを嫌うように翼を休めている。

冷たい風に晒されながら、それでも身を寄せ合い、温もりを共有することもなく。精巧な人形のような眼差しを、スバルとアナスタシアへ向けるだけだ。

「この子らはずっとその調子。うちも途方に暮れてたところ」

「それを信じるのは、俺の経験則的にちょっと無理だな」

「経験則て?」

「俺の経験上、迂闊にこんな場面に出くわすと、大抵は命が危ないのがお約束だ」

スバルの、迂闊行動での臨死経験はなかなか豊富だ。

古くは屋敷の夜徘徊で、レムに撲殺されたところからそれは始まる。

その後もあれこれあった出来事を割愛して、スバルの経験則は迂闊な行動=死を意味するものと結論付けていた。

その経験則にならえば、今の状況はかなり危険に思われて――、

「せやったら、その経験則に新しいパターンのお勉強やね。今回はそうならんよ」

「――――」

「臆病なナツキくんにとって、最悪の可能性はうちが何か企んでること。こんな風にこの塔に誘き寄せて、なんやとんでもない陰謀巡らせて、ナツキくんやエミリアさんらをめためたにしよなんて考えてたら……やろ?」

図星を突かれ、スバルの頬がわずかに硬くなる。

そんなスバルの様子に、アナスタシアは「わかりやすいわぁ」と笑った。

「安心し。そんな回りくどいこと考えてないし、うちにナツキくんへの敵意はない。この塔の、他の誰にも……あ、試験官らは別やけど」

「シャウラとレイド、か」

「――――」

名前を出した途端、苦い顔でアナスタシアが押し黙る。

その反応を見て、スバルは「あ」と声を漏らした。

「寝てたから聞いてなかったよな? あの、二層の『試験』で新しく出てきた奴だが……あいつはレイド・アストレアだ。初代『剣聖』。どうも、過去から呼ばれて出てきた、みたいな仕組みらしい」

「聞くだにとんでも設計やね、この塔。……創造主は、何を考えていたのやら」

スバルの説明を受け、アナスタシアは呆れたコメントの最後に低く付け加える。その口調からカララギ弁の訛りが抜けた気配に、スバルは息を詰めた。

ここまで、彼女のことはほとんどアナスタシアとして扱い、接してきたつもりではある。だがやはり、こうして目の前にいる彼女の本質は――、

「――今、ここにいるのは俺とお前の二人だけなんだ。腹割って話さないか」

「ん……」

「正直、人のガワ被ったお前と話してても埒が明かない。何を言われても、俺がお前を根っこから信用するのは無理だ。だから……」

「――アナを演じるボクではなく、ボクと言葉を交わしたいと」

瞬間、スバルの提案に応えるようにアナスタシアの気配が変わった。

彼女を取り巻く雰囲気が一新され、姿形は変わらないのに、明らかに対峙する存在感が変質する。瞳に宿った感情が、思考が織りなす表情が、切り替わっていた。

「――――」

そうして、その変化に息を詰めるスバルの前で、アナスタシア――否、アナスタシアを演じていた人工精霊エキドナが、ゆっくりとバルコニーの外縁へ向かう。

転落防止用の柵などなく、申し訳程度の高さに塀があるだけの外縁だ。彼女はその塀にそっと腰を乗せ、すぐ傍らに佇む白い小鳥の頭を優しく撫でた。

そして――、

「――ここで、こうして二人きりで言葉を交わすのは確かに初めてだったね」

と、スバルの提案を受け入れ、儚げに微笑んだ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「こないのかい?」

「いや、だって柵ないし、安全対策が不完全すぎるから嫌だ」

「別に、無警戒に近付いてきても突き落としたりしないよ?」

「その言い方が信用ならねぇんだよ。そういうとこ、オリジナルそっくりだな」

危険極まりない場所に座り、悪気のない顔で誘ってくるエキドナにスバルは唇を曲げた。が、その断り文句が気に入らなかったのか、彼女は露骨に眉を顰める。

それから、「いいかい?」と講釈するように指を立てて、

「何度か言っているが、そのオリジナルの魔女とやらとボクをあまり同一視しないでもらえないだろうか。はっきり言って、知らない人物と比べられるのは不愉快なことこの上ない。それが、ボク自身の造物主であったとしても、だ」

「その物言いもなんだが……そうだな、悪かった。善処するよ」

「お願いする」

外見も声もアナスタシアのまま、エキドナはスバルにそう訴えかける。

正直、その指摘すらスバルの知る性悪な魔女の口調にそっくりだったのだが、彼女の主張には素直に頷くべき事情が含まれている。実際、スバルだってエキドナと似たような存在などと言われたら、名誉棄損を強く訴えかけたい所存だ。

「とはいえ、君の懸念ももっともだ。こうして夜な夜な、誰も気付いていなかった場所に一人で足を運んでいるところを見れば、疑われたとしても仕方がない。しかし、その疑惑を当然と受け止めた上で、重ねて君の疑念を否定させてもらうよ」

「お前、よくその鳥に無警戒に触れるな」

「……今のボクの話を聞いてくれていたかい?」

「聞いてたけども」

さっそく、互いの差し出す意見の内容にすれ違いがあった。

ただ、エキドナの言い分以上に、スバルには彼女が小鳥を――作り物のように不気味な鳥の頭を撫でられるのが不思議で仕方ない。

ここが昼下がりの公園で、もっと小鳥が生物的な反応を見せれば話は別だが。

「ばーっと群がってきて、全身ついばまれて殺されるとか怖くねぇの?」

「その、君の想像の方がよっぽど恐ろしい。まさか、それも経験則だなんて言い出さないだろうね?」

「見た目は可愛い兎に、元気よく飛びつかれ……そうになったことがあってな」

なのでそれ以来、多数の動物が一ヶ所に集まっている様子には気後れする。

幾度も『死に戻り』経験を重ねてきて、楽だった死など一度もないと確信を持って断言できるが、中でも一際ひどい死に様だったのがその記憶だ。

「……実際に青い顔をしているあたり、無理強いはしないよ。ボクも、この鳥たちに親しみを覚えるわけじゃない」

スバルの顔色がよほど悪かったのか、エキドナは早々に小鳥から手を引いた。それから膝の上に両手を置くと、「さて」と改めてスバルの方を見つめる。

「腹を割って、と君はボクに提案したわけだが……こうして、アナであることの振る舞いを忘れてみたボクと、いったいどんな話がしたいのかな?」

「とりあえず、この場所と、鳥との関係」

「それについては、アナとして答えたのと同じ答えしか返せない。ボクはここに、君と同じように鳥に導かれた。それまで、心当たりなど一つもなかったと。ただ……」

「ただ?」

代わり映えのない答えに落胆しかけたが、わずかに引っ掛かりを残した追撃にスバルの眉が上がる。その反応にわずかに逡巡し、エキドナは続けた。

「ボクは正直なところ、君に同じことを聞きたいと思っていた」

「俺に、同じこと?」

「アナになりきっていたつもりだったから、冗談に聞こえたかもしれないね。ボクは導かれるようにここへ足を運んだ。そして今、この場所で君と対話している。……塔へ戻る入口の前に立つ、君と」

「――――」

「君は、この塔の管理者であったシャウラとも顔見知りだった。少なくとも、向こうは完全にそのつもりで君に接している。それを加味し、こんなところで二人きりになった上で告げるのは卑怯だと思うが……」

エキドナの語る言葉に呑まれ、スバルは発言を差し挟めない。そのスバルにエキドナは一度言葉を切り、アナスタシアの顔のまま、問いを差し出した。

その問いは――、

「――ナツキ・スバル、君は何者なんだ?」

「何者も、なにも……」

「プリステラに赴く以前に話は戻る。一年前、君が白鯨討伐と、『怠惰』の討伐を成し遂げた論功式のあとだ。アナは、君のことを調査したんだよ」

エキドナの明かしたそれは、アナスタシア陣営の王選戦略の一環だろうか。

対立候補であるエミリア、その騎士として叙勲を受けたスバルを調べるのは、こうした戦いにおけるセオリーというべきものだろう。

だが、ホーシン商会を率いる大商人、アナスタシア・ホーシンをしても――、

「君の素性はわからなかった。最低限の情報を調べること自体の難易度も相当だったとアナがぼやいていたよ。それについてはおそらく、君というよりは君の周りの人間が何かしていた結果とは思うが」

スバルの情報統制、そんな行いに陣営で絡んでいる人間がいるとすれば、筆頭に上がるのはロズワール、次点でオットーとクリンドあたりだろうか。

いずれであったとしても、やっていて不思議はない。そして彼らは、わざわざその事実をスバルに伝えるほど優しくないか、無粋ではないかのどれかだった。

「なんにせよ、辿ることができたのは王選が始まる直前、王都で起きたとされるちょっとした出来事に関わっていたことぐらい。騎士ラインハルトが、候補者の一人であるフェルトを見出したとき、君を見かけたと証言が取れた。だが、それだけだ」

それ以前の記録は存在するはずがない。

故に、エキドナ――この場合はアナスタシアだが、アナスタシアの調査はスバルの足取りをほぼほぼ完璧に追い切っていた。

それが彼女らにとって、不十分な結果であることを除けば。

「――――」

エキドナの瞳が細められ、スバルは何を言えばいいのか答えに窮した。

これまで、『死に戻り』の情報を伝えることができず、それを下敷きにした情報共有ができずに苦しんだ経験は多い。しかし、今回のこれは初めてだ。

ナツキ・スバルが何者であり、出自不明の人物であることが鎖になるのは。

「俺は……」

「と、こうしてくどくどと並べてみたわけだが」

「――ぁ?」

真剣な顔で、どうにか言葉を絞り出そうとしたスバルにエキドナが両手を広げた。その口調があまりにも軽々しくて、スバルは呆然となる。

そんなスバルの反応を受け、エキドナは「うん」と満足げに頷くと、

「アナとボクの君への認識は、そうした素性不明であることと、多大な功績を積み上げた新人騎士……それが、プリステラまでのものだ。その印象が、プリステラでの魔女教との戦いにおいてどう変革されたかは言葉にしないが……この監視塔にきて、また少し変わっている自覚がある」

「――――」

「こうして夜更けに二人、誰の目もない空間で一緒にいることに不安を覚え、警戒したとしてもそれは仕方のないことと許してほしい」

広げた腕を閉じて、エキドナは微笑みながら首を傾けた。

そうして彼女の話を呆気に取られたまま聞き終えて、スバルは渇いた唇をもごもごと動かし、どう受け止めるべきかと真剣に悩む。

が、悩む間にふと気付いた。

――膝の上のエキドナの手に、指先が白くなるほど力が入っていることに。

「……お前、もしかして本気でビビってるのか?」

「――その発言は、少し心外だな。例えばだが、君はシャウラと本当はどういう関係なんだい?」

スバルの質問に、エキドナは答えずに別の質問を投げ返す。

「シャウラとは、ここで会ったのが初めてだ。何も知らない」

「三層の『試験』、あれほど早く君が解き明かせたのは偶然かな?」

「……偶然だ」

「それなら、君がこうして、一見してわからないように偽装された隠し通路を抜け、たまたまボクしかいない状況で、声をかけてきたことは?」

「――――」

ねちねちと続けられるのは、エキドナからスバルへ向けた恨み節だ。

彼女は質問を重ねることで、スバルにこう言っているのだ。

「逆の立場になってみろ、か……」

「それでも、ボクは様々な要因から君を敵対的な存在である可能性は低いと見積もっている。こうして胸の内を明かしたのは、それを示すための誠意と思ってほしい」

薄い胸に手を当てて、エキドナは自分の心境を語ったと態度で示した。

スバルとしても、その心意気を買って、また自分の素性と行動の怪しさを顧みて、エキドナの言葉に頷いてやりたいのは山々だった。

山々なのだが――、

「――どうやら、ボクの造物主は相当君の心に傷を残したらしいね」

人工精霊エキドナの振る舞いが、『強欲の魔女』であるエキドナと似通っていると思えば思うほどに、どんな誠意を尽くされても本心から信じ難い。

これこそまさに、魔女の残り香と言ってもいい。

「お前の、言い分は、わかった。納得は、した。信じるかどうかは、別として……」

「君の葛藤はすごい伝わってくるよ」

「ここで、俺とお前が会ったのは偶然だとして、だ。じゃあ、ここは? このバルコニーみたいな場所は、何のためにあるんだと思う?」

事実として、このエキドナが何かを企んでいたとしても、ここで口を割らせるための証拠は何もない。信用ではなく、不可抗力的に言い分を聞き入れた。

しかし、そのことと、この場所が隠された空間であったこととは別の話だ。わざわざ隠されていた以上、ここには何らかの存在価値があるはず。

「それについては仮説がある。三日前……砂海でのことは記憶にあるかな?」

「三日前ってなると、塔に辿り着く前のしっちゃかめっちゃかが浮かぶけど……」

「その乱痴気騒ぎの際、花魁熊に追われるボクたちを白い光が襲った。――あれは、どうやらシャウラの仕業だったそうじゃないか。なら、この場所は」

「――あいつの、砂海を監視する足場?」

エキドナの仮説の行き着く先に、スバルは指を鳴らした。

彼女の推測には納得がいく。実際、シャウラは遠距離に向け、彼女曰く『ヘルズ・スナイプ』によって塔に近付くものを狙撃してきたのだ。思えば窓もなく、外を眺める手段のない監視塔のどこでそれをしていたのかと考えていたが――、

「おそらく、こうした場所は塔の円周の至るところにあるんだろう。見たところ、この空間はボクたちが塔に接近しようと試みた方角とはずれる」

「鳥は?」

「鳥については謎だ。こうして触っても反応はない。ただ、おそらく体温はあるようだから、実際に作り物というわけではない。できれば解体してみたいが……」

傍らの鳥を見下ろして、エキドナが丸い瞳を残酷に細める。しかし、彼女は向けかけた指を引くと、その指先をじっと見つめて、

「生憎、アナの体にこれ以上の負担をかけたくない。君が鳥を絞めてくれるなら話が早いんだが……」

「そりゃ、どうしても必要ってんならやるが……」

異世界に呼ばれて一年と少し、スバルとて鳥や野兎を狩った経験はある。無論、食べるための殺しと、試すための殺しとでは気分が違いすぎるが、

「殺したあと、食べる分には……」

「そう、残った食糧の問題もあったね。では、二十羽ほどお願いしたい」

「馬鹿野郎! お前、ゼルダの伝説知らねぇのか!?」

あっけらかんと鳥の大量虐殺をお願いされて、スバルは怒声を張り上げた。知るはずのない知識で怒鳴られたエキドナは目を丸くしている。

そのことはともかく、さすがに二十羽も殺すのは気が咎めた。

「それに、さすがに殺したらこの無数の鳥たちにも動きがあるんじゃないか?」

「……それは、否定できない怖さがあるな」

スバルの不安に、エキドナもこればかりはと口元に手を当てる。

鳥たちは物騒な会話を続ける二人に無反応だが、その視線だけは相変わらず、この場の部外者といえるスバルたちへと向けている。

鳥葬、という単語が脳裏を過って、スバルはエキドナの即断を引き止めた。

「やるなら、準備してからやろう。ひとまず、今は後回しだ」

「逃げる素振りもない、か。わかった、それでいい。……実際のところ、この鳥たちを調べて得られるものがあるとも考えにくいしね」

「その、探究心とか知識欲が勝った故の発言みたいな雰囲気やめてくれ」

「――?」

魔女の人となりを本気で知らないらしいエキドナは、それでもやはりオリジナルに近い行動様式を保っているように思えて油断ならなかった。

なのでスバルはそこを無視し、魔女らしくない、精霊エキドナとしての部分に質問を投げかける。

「あんまりちゃんと確かめてこなかったけど、アナスタシアさんはどうなんだ?」

「……依然変わりなく、だ。アナは今も、この体の奥底で眠り続けている。これほど長く体に宿ったことはないから、ボクも焦りを抱いていないと言えば嘘になるな」

「焦り?」

元の体に戻れていないことか、とスバルはニュアンスに込めたのだが、エキドナは「そうじゃない」と首を横に振る。

「ボクとアナとは一応、精霊と術師の契約関係にある。共に不完全な精霊と、不完全な術師同士……不完全な関係ではあるけどね。アナの体のことは話したはずだが」

「ああ、ゲートに欠陥があるとか、ないとか」

「そこは、今の君とベアトリスの関係に近しいものがあるな。君たちと違うのは、アナの肉体はマナの受け皿が全くないこと。ボクとの契約を維持するためには、彼女はオドを費やしていくしかない」

「うん、うん?」

その説明も、おおよそ前に受けたものと変わりがないように思えた。しかし、エキドナはスバルの理解は浅いのだと、自分の胸に指を押し当て、

「アナに代わり、こうしている状態はボクが顕現し続けているに等しい。それは加速度的にアナのオドを食い潰す行いだ。今も刻々と、アナのオドは削れていっている」

「オドは、そいつの魂そのものだとかって……ってことはつまり」

「アナはボクと契約することの危険性を承知の上で、ボクの手を取った。そのときから、いずれは終わりがくることは想定されていたが……今は、より早い」

――だから、一刻も早く、アナスタシアに体を返さなくてはならない。

エキドナは、自分とアナスタシアの置かれた状況をそう締め括った。その内容にスバルは、彼女たちの境遇を軽く考えすぎていたと思い知る。

「そんな体で……そんなボロボロの状態で、王様になんてなれるのかよ?」

「それは自分の主人のためにも、アナに権利を放棄してもらいたいという意味かな?」

「――ッ! ふざけんな! そんな話じゃねぇよ! 俺は……」

「アナは決して引かない。諦めることもしない。ボクはそれを知っている」

踏み込み、声を荒げようとしたスバルに、エキドナはぴしゃりと言い切った。

その勢いに気圧され、スバルは目を瞬かせる。それからおずおずと唇を震わせ、

「……アナスタシアさんは、そうまでして自分の国が欲しいのかよ。手に入れて、すぐに手放すことになるかもしれなくても」

「人より短いかもしれないが、アナ自身はその短い時間を他者の何倍もうまく使う。それに、アナには王座を諦められない理由がある」

力ないスバルの声に、エキドナはアナスタシアへの信頼を込めて言った。

そして語られる、王座を諦められない理由。それは――、

「――望まれたからだ」

いつの間にか、立ち上がったエキドナはこちらへ歩み寄り、バルコニーの中央でスバルと正面から向き合っていた。

真っ直ぐに黒瞳を覗き込んで、浅葱色の瞳が告げた言葉にスバルは動けない。

プレアデス監視塔の、『試験』の、それとはまた別の重みがスバルに圧し掛かる。

「――――」

動けず、言葉が出ない。エキドナも、何も言わない。

そうして動きの止まった二人に代わり、羽音だけが冷たい夜を切り裂いていく。羽音は後方から抜け、翼を休める鳥たちの群れに加わった。

また新たに一羽、鳥がバルコニーへと――、

――背後から。

「――――」

スバルは変わらず、監視塔の外壁を背にして立っていた。その背後から鳥が羽ばたくとすれば、それは監視塔の内側からに他ならない。

エキドナが、スバルが、鳥の羽ばたきに導かれ、ここへ足を運んだ。

ならば、当然、三羽目の鳥の羽ばたきにも。

「――今の話は、どういう、ことなんだ?」

どこか呆然と、信じる根本が揺らいだような声音がバルコニーに響く。

立ち尽くす男の声に、鳥たちは一斉に羽を広げた。そして、豪雨のように凄まじい羽音を立てて、鳥たちは躊躇なく飛び立っていく。

夜の空へ、宵闇に包まれた砂丘の海へ。

大海原に取り残されたような心地の、スバルとエキドナ、

――そして、ユリウス・ユークリウスを残して。

第六章33 『■■■・■■■』

無数の羽音に置き去りにされて、夜のバルコニーに深淵が降り積もる。

視界の悪い夜空へ飛び立つことを、作り物めいた鳥たちは恐れずに羽を広げた。

それはまるで、寄る辺のない空へ落ちることの方が、この場に残ることよりもよほど気が楽だ、とでも言うかのように。

仮にそれが事実なら、スバルも全く同意見――それほどに、息詰まるこの状況は想定外で、最悪の場面に等しかった。

「――――」

場所は監視塔、隠された夜のバルコニー。

その入口を塞ぐように立つユリウスが、端正な面に困惑を刻み、頬を硬くする。視線の先には、夜の密談を交わしていたスバルとエキドナ――彼にとってはアナスタシア、そんな二人の姿が映り込んでいて。

「――今の話は、どういうことなんだ?」

緊迫感の張り詰める空間、そこに一言違わずユリウスは言葉を繰り返した。

直前の、呆然とこぼれたそれと内容は変わらず、しかし声音にはわずかに力が戻っている。そのことがユリウスの、芯の強さを悲しく証明していた。

――どこから、話を聞いていたのか。

「――――」

ユリウスの問いかけに対して、スバルは停止しかけた思考を強引に動かし、その問題へと辿り着く。どこから話を聞いていたのか、それが重要だ。

直前まで交わされていた、アナスタシア=エキドナとの会話の内容は、決して心構えなしに聞かせていいものではない。そもそも、この監視塔攻略において、スバルとエキドナとの間に共有している秘密は根が深すぎる。

事は『人工精霊』、『強欲の魔女』、『暴食の権能』と様々な要因へ及ぶのだ。

それらを符合して生まれた状況、その詳細をスバルはユリウスに隠すと、話しても混乱を生み、苦しめるだけだと判断した。

その最たるものが、アナスタシアの精神が眠りにつき、今、彼女の体に宿っているのは人口精霊エキドナであるという事実だった。

それを――、

「――あー、もう、ナツキくんたらあかんよ、そんな見え見えの態度して」

「……あ?」

硬直したスバル、その胸を軽く指でつついて、エキドナがはんなりと微笑む。

その口調と態度、仕草は完全にアナスタシアのトレースであり、一瞬、スバルは何が起きたのかと目を丸くして呆気に取られた。

そんなスバルを置き去りに、エキドナは踊るようにその場でくるりと回ると、

「ごめんな、ユリウス。でも、仲間外れにしようとしてたわけと違うんよ。うちはただ、このプレアデス監視塔から戻ったあとのことで、ちょこーっとナツキくんと大事なお話してただけ」

「――――」

「緑部屋を出たんは、レムさんと地竜の子ぉがおったやろ? 別に話が漏れる心配はないけど、なんや気分的に誰かのいるところで内緒話ってのも変やん? やから場所を変えて……たまたま、おあつらえ向きなここを見つけた。それだけ」

胸の前で手を合わせ、エキドナが「堪忍な?」と小首を傾げる。

その仕草は可憐で、いかにもアナスタシアがやりそうなものに思えた。だが、肝心の話の誤魔化し方が、アナスタシアではありえないほどに低レベルだ。

まるで、都合の悪い場面を見られた取り繕いに、形だけ体裁を整えたような上辺だけの言葉――実際、それは『まるで』でもないのかもしれない。

この状況を望まず、不意を打たれたのはエキドナも同じはずだ。彼女の方がほんのわずかだけ、スバルより早く行動を起こせただけに過ぎない。

そしてそれは――、

「――アナスタシア様、ではないのだね」

「――――」

「エキドナ、君の事情を話してもらいたい。事ここに至って、なおも私に隠し立てしようとするほど、君も往生際は悪くないはずだ」

微かな逡巡を挟んで、ユリウスがエキドナに正面から問い詰めた。その言葉に、エキドナは「そんなこと……」と、一瞬だけ反論の姿勢を見せたが、

「エキドナ」

もう一度、ユリウスに呼ばれて口を噤んだ。そのまま、彼女はアナスタシアの顔をスバルへ向け、浅葱色の瞳を言葉にし難い感情に揺らす。

しかし、ここから挽回する術はスバルにも思い浮かばない。

「ユリウス、どこから聞いてた?」

「……アナスタシア様のお体のことから」

スバルの問いに、ユリウスは押し殺した声で応じた。

その部分だけで十分、感情的になって取り乱して当然の内容だ。それでも、少なくとも表面上は平静を保てるユリウスはさすがと言うべきだった。

あるいは境界線を飛び越え、感情的になるどころではないのかもしれない。

「――プリステラでの魔女教との戦い、あれ以降、アナの精神は体の奥底で眠り続けている。そのため、今、彼女の体を動かしているのはアナではない。ボクがアナを演じることで、今日までずっと過ごしてきた」

エキドナも、ここまでくれば誤魔化せないと考えたのだろう。

淡々と、前置きすることもなく、ただ事実を並べるような口調で説明を始めた。

プリステラで起きた魔女教との攻防、その最中、アナスタシアに代わり、魔女教との対決に臨んだエキドナ――その後、アナスタシアの精神が目覚めないこと。

そのことをユリウスやリカード、『鉄の牙』の面々にも隠し、戻る手段を求めてプレアデス監視塔を目指したこと。

――そしてそれらの事実を、スバルだけがエキドナと共有していたこと。

「何故、スバルだけはその情報の共有を?」

「彼が大罪司教の権能の影響も受けず、最も状況の混乱の外にいた人物だった。それに人工精霊であるボクと、そのルーツを同じくするベアトリスと契約を交わした精霊術師でもある。もっとも、ボクも打ち明けようと最初から考えていたわけじゃない。ただ……」

「――。ただ?」

「ただ……彼に、ボクがアナを演じていることを見抜かれたから、話さざるを得なかったんだ」

スバルだけが、アナスタシアの肉体にエキドナが宿っていたことを知っていた経緯、その説明にユリウスの瞳に強い動揺が走った。

エキドナが言葉に詰まったのも、その動揺を予期していたからに他ならない。

当然だ。スバルが、エキドナの演技に気付けたということは――、

「関係の薄い、外部の人間にも気付けるはずのことを、一の騎士を自任する男が気付けずにいたということか……」

「待て、馬鹿! お前、そんな言い方はねぇだろ!」

「――――」

「状況が……状況が悪かったんだよ! あんな大事件があって、お前はお前で切羽詰まってた! お前だけじゃねぇ、リカードとか、ミミたちだってそうだろ? 俺が気付いたのは……なんか、とにかく、たまたまなんだよ!」

自嘲するようなユリウスの発言に食って掛かり、スバルはなんとか彼の言葉による自傷行為を止めようとした。しかし、それに相応しい言葉が、一の騎士としての務めを果たせなかったと、そう自嘲するユリウスを慰める言葉が見つからない。

だが実際、ユリウスに何ができた。責められるような立場だろうか。

忠誠を捧げた主君からも、共に主君を盛り立てようと誓った仲間たちにも、長く騎士としての時間を過ごした戦友たちにも、その他多くの、彼がこれまで騎士として生きて積み上げてきたものを砂山のように崩されて、なおも立てと何故言える。

毅然としていろと。優美であれと。一の騎士らしくあれと、何故言える。

騎士であることが、人間らしく傷付くことすら許されない生き方であるなら、騎士であることこそが、ユリウス・ユークリウスにとっての呪いだ。

「その、偶然を常に確かなものに昇華することが、一の騎士の務めだ」

「――ッ! 何が、一の騎士……だったらそんな面倒な肩書き……」

「捨ててしまえ、などと言わないでいてくれ。私は……今の私は、私から何か一つ、取りこぼすことさえ恐ろしい」

スバルの勢い任せの慰めなど、ユリウスの奉じる騎士道の前には容易く弾かれる。紛糾する感情に喉が詰まり、何も言えないスバルにユリウスは首を横に振った。

「話を戻そう。――エキドナ、あなたの目的は?」

「……この肉体を、アナに返すことだ。この、プレアデス監視塔へボクが君たちを案内した理由は、『暴食』や『色欲』の被害より、それを優先してのことだった」

「つまり、現状はあなたにとっても望まぬ事態であると。そして、アナスタシア様を元に戻す術は見つかっていない。……仮に、あなたを斬っても」

腰の騎士剣に手を当て、目を細めたユリウスが剣呑な問いを投げかけた。

それを受け、エキドナはその目を伏せると、そっと自分の胸に触れて、

「ボクが悪い精霊で、あれこれ理由を付けてアナの肉体を乗っ取ろうとしている……その推測を否定する証拠をボクは出すことができない。だから、仮に君がボクの言い分を嘘であると断じ、ボクを消滅させようとしても止めることはできないな」

ただ、とそこで言葉を切り、エキドナは一拍置いて続ける。

「おそらくその場合、意識の戻らないアナの抜け殻が残されるなら御の字……最悪の場合、生命維持に支障をきたし、命を落とす可能性もある」

ユリウスの仮説、エキドナを斬るという意見にエキドナが所感を述べた。そうして述べたあとで、彼女は両手を軽く掲げ、

「無論、これはボクが命惜しさに苦し紛れで言った戯言の可能性もある。ボク自身、ボクが死ぬことが解決法でないとは断言できない。ボクが死ぬことでアナが長らえるなら、それでも構わないと思う気持ちもある。死にたくはないけどね」

「どうして、あなたはアナスタシア様のためにそこまでできる?」

「ボクとアナとは不完全な関係だ。だから、一般的な精霊と、精霊術師の在り方に当てはめるのは正しくないかもしれないが……」

そこで一度言葉を切り、エキドナはユリウスを、スバルを、交互に眺めた。

形は違えど、精霊術師として、精霊と正しく契約関係にあった二人を羨むように。

「ボクはアナが好きだよ。この子がまだ幼かった頃から、ずっと傍にいた。だから見捨てたくなんてないし、幸せになってほしい。――それが、ボクの理由だ」

「――――」

「ユリウス、君に事実を明かさなかったのは、余計な混乱を招きたくなかったからだ。可能であればアナはボクの存在を隠し通そうと考えていたし、事実、プリステラの一幕があるまでボクのことは隠し切れていた。したたかなあの子のおかげでね」

プリステラでも、ユリウスはアナスタシアがずっと隠していたエキドナのことを公表したとき、相当にショックを受けたはずだ。

あのとき、彼の胸中にどれほどの嵐が吹き荒れていたのか、エミリア奪還を優先したスバルにはわからない。

ただ、短いスパンで主君の隠し事――それも、アナスタシア自身の根幹に関わる秘密をいくつも、明かされるはずでないタイミングで明かされたことは、ユリウスにとってどのぐらい不本意なことなのだろうか。

「……アナスタシア様と、あなたの関係は理解できた。何もかもを信じ切ることは難しい。だが、信じるしかない。少なくとも今、あなたをどうこうするのは軽率だ」

「そう、か。君が理性的に判断してくれて嬉しいよ、ユリウス。アナも、そうしてくれてきっと喜んでくれているだろう」

「――――」

騎士剣の柄から手を放し、ユリウスはエキドナの言葉に応じず、沈黙を守った。

だがそれは納得とは程遠い、忸怩たる思いを残したものだったはずだ。しかし、ユリウスはその無念を瞬きだけで追い払い、

「確認したい。アナスタシア様のオドを対価に、あなたが顕現し続けるなら……当然だが、無理をすればするほど、アナスタシア様のお体に負担がかかる。それは間違いないはずだ」

「そうだね。その認識で正しいよ。よく食べ、よく眠り、程よく体を動かす……健康志向のような手法だが、それがオドの消費量を抑えるにはちょうどいい」

「そうか、それならば……何故、二層であんな無茶な真似をしたんだ?」

ほんの少し気持ちを立て直し、軽口めいたものを口調に交えたエキドナに、ユリウスが不意打ち気味に切り込んだ。

その内容は二層での出来事、彼の指摘する無茶とは当然――、

「二層の試験官である、レイド・アストレアと私が戦っている最中、アナスタシア様は……アナスタシア様の体を預かるあなたは、魔法を行使し、援護に入った」

ユリウスとレイドの、最初の激突のときのことだ。

圧倒的な剣力を誇るレイドの前に、ユリウスが為す術なく打ちのめされたとき、エキドナは膨大な魔力を駆使し、レイドへ向けて魔法を放った。

それは決定打になるどころか、逆に負荷のかかったアナスタシアの体が限界を迎え、昏倒するような事態になったのだが、問題は結果ではない。

何故、それをしたのか。その一点だ。

「あの一幕が、アナスタシア様の体にかけたご負担は決して軽くないはず。ここまで話していて、あの行いだけがあなたの主張と食い違う。それは何故だ?」

「それは……」

ユリウスの指摘した事実は、スバルも気になっていたことだった。

あの場で、打ち倒されるユリウスのために決死の表情で行動を起こしたエキドナ。そこに嘘があったようにも、打算があったようにも思えなかった。

あったのはきっと、純粋な憂慮。それを、エキドナがユリウスに向けることは、アナスタシアとずっと共に過ごした彼女ならありえる――それだけだろうか。

しかし、そうしたスバルの疑問、そしてユリウスの言葉にエキドナは「すまなかった」とその場に深々と腰を折って、

「あれは、ボクも失敗だったと感じている。なんというか、素人目でお恥ずかしいが、戦略的な観点からの判断だったんだよ」

「戦略的な判断?」

「あの時点で、二層の試験官の殺意の有無はわからなかった。下手をすれば、ユリウスという戦力を失いかねなかったわけだ。それは避けたかった。無論、アナのためにもそうだ。それに、こちらに背中を向けるレイド・アストレア……それも、ボクの目には好機に映ったんだよ。うまくいかないどころか、迷惑をかけてしまったが」

すまない、と最後にもう一度だけ付け加えて、エキドナはゆっくり体を起こした。

その説明に矛盾点はない。素人判断で、迂闊な行動をしてしまったと言われれば、それを否定する根拠はスバルにはなかった。感情的なものを除けば。

そんな話が、簡単に受け入れられるものか。

だが、スバルがその点を追及しようと、そう詰め寄る前に、

「――わかった。今後は軽挙は謹んでほしい。他でもない、アナスタシア様のために」

「心得たよ」

「なっ!?」

わかったと、納得した素振りをするユリウス、それに頷き返したエキドナ。二人のやり取りに目を剥き、スバルは冗談じゃないと床を蹴りつけた。

「今の話で、なんで納得が……」

「スバル、私は納得した。エキドナも、今後は軽挙は慎むと約束した。これ以上、何を言えばいい? ――これはアナスタシア様とエキドナの問題であり、私とアナスタシア様の問題でもある」

「――――」

「奇妙な行き違いから君を巻き込んだようですまない。だが、これはあくまで、アナスタシア様の陣営である私たちの問題だ。君が心を痛めることではない」

問題から遠ざけようとするユリウス、その言葉にスバルは奥歯を噛んだ。

スバルが心を痛めることではない、などと勝手なことを。

「俺が、何をどう受け止めようと俺の勝手だろうが!」

「そして君が受け止め、私に私の問題は受け止めさせまいと? ……アナスタシア様とエキドナのことを、語らずにいたように」

「――っ」

「すまない。言葉が過ぎた。……だが、事実だ」

押し殺したような声で、視線を逸らしたユリウスが言い放った。

その声を、頑なな態度を見て、ようやくスバルは気付く。

ユリウスは全く、平静を保ってなどいなかった。

その胸中の荒れ模様どころか、表面上さえ取り繕うことなどできていない。

己の存在を見失わせ、唯一、残っていたはずの主君への忠誠もまやかしだったと結果に示され、慮って告げられたはずの約束も破られて。

それでも感情的になれないことが、ユリウスという男の在り方だった。

「言い合うつもりはない。アナスタシア様のためにも、早急に事態を収拾する術を見つけ出す必要性がある。エキドナ、あなたにも本格的に協力してもらいたい」

「……そうだね。君に隠し通せなかった以上、ボクがアナを演じ続けることの理由はないと言っていい。もちろん、アナの姿で喋るボクを君が許容できるなら、だが」

「それは構わない。アナスタシア様を取り戻さなければならないと、その姿を見ることでより強く自分を戒めることになるだろう」

ひどく苛烈に自分を傷付ける覚悟、その意思にエキドナが悲しげな顔をした。しかしその顔を、空を仰ぐユリウスは見ていなかった。

彼はそこで初めて、バルコニーから見る夜空に瘴気がかかっていないことに気付いた様子で、煌めく星々の光にそっと目を細めている。

「長居する理由も、もはやない。中に戻ろう。アナスタシア様のお体と、エキドナのことは明日……改めて、エミリア様たちにもお話しなければ」

「ああ、わかったよ。ボクも、覚悟はしておこう」

そう言って、歩き出したエキドナの手をユリウスが優しく取る。それはきっと、彼がアナスタシアにするのと寸分変わらない所作。

中身がどうあっても、アナスタシアへの忠節は変わらない。――たとえ、体の奥底で眠る彼女が、そのユリウスのことを忘れていても。

「ユリウス!」

その姿に痛切なものを感じて、スバルはとっさに声を上げていた。

思い出に置き去りにされて、でも自分の中にだけは相手のことが残っていて、その想いだけを頼りに必死で足掻く――その在り方は、痛いほどわかるのだ。

たとえ忘れられても、忘れられない。その想いだけが、突き動かすこともある。

「――――」

足を止めたユリウスは、エキドナを連れたまま振り返らない。

やけに真っ直ぐと伸びた背筋、どんなに心がへし折れかけていても真っ直ぐに、それが無性に腹立たしくて、

「お前、俺に何か言いたいことねぇのかよ」

エキドナのことを、アナスタシアの体のことを、黙っていた。

この夜だって、緑部屋で過ごす時間を交代すると約束し、しかしスバルはその約束に反して、こうしてバルコニーでエキドナと密談を交わしていた。

言い訳はできる。理由はある。悪意あって、そうしたわけではない。

それでも、悪意の有無で、理由の有無で、言い訳の有無で、心は自由にならない。

だからいっそ、声高に悪罵を吐き出せばいい。罵り、怒りをぶつければいい。

それがスバル自身の罪悪感のためなのか、それとも本当にユリウスのためを思っての考えなのかはわからない。

そしてきっと、ユリウスはそれをしない。

声を荒げたり、恨み言を吐き出したり――、

「――あるさ」

「――――」

「わかっている。君が何を考え、私に事実を隠していたのかはわかっている。悪意があるはずもない。あるのは配慮と、心遣いだけだ。君の懸念にも同意見だ。仮に逆の立場であっても、やはり私は君に黙っていただろう」

「――――」

「――だが、それでも」

空を仰ぐ。絞り出すように、声が。

「私はアナスタシア様にも、君にも、騎士足り得ぬなどと思われたくなかった」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

塔の中に戻るのに、何か特別な手順が必要だったりはしなかった。

バルコニーへ出たときと同じく、腰より低い位置にある隠し通路を潜り、塔の中にゆっくりと戻る。膝をついて床を這いながら、ふと、ここを通って出てきたユリウスも同じように這いつくばったのだろうか、と益体もなく考えた。

生憎と、先に戻った彼が這いつくばっていたかどうか、スバルは覚えていない。

直前のユリウスの言葉に打ちのめされ、少し唖然としていたためだ。

「――――」

何も言われないと、正直思っていた。――否、そうではない。

ユリウスはおそらく、罪悪感に揉まれるスバルに悪罵をぶつけ、楽になどしてくれないだろうと勝手に思い込んでいた。彼の高潔さがそれを許さず、怒りも恨み言も投げつけられることなく、あの場は静けさに呑まれるものと。

だが、そうはならなかった。

最後にユリウスが残していった言葉、それが棘となって心臓に突き刺さる。

恨み言を言われれば、楽になるものと思っていた。楽になりたいわけではなかったが、何も言われないよりよっぽどマシだと。

しかし、現実はそうではなかった。ユリウスの残した棘は痛みを主張し、突き立ったままの傷口からは血が流れ続ける。棘を抜くことを躊躇うほどに、深く。

「緑部屋には……戻れない、よな」

おそらく、エキドナを連れたユリウスは緑部屋まで彼女をエスコートしたはずだ。その後、下層に残してきた竜車まで、寝床を求めて下りてくるとも思えない。

スバルがそうであるように、ユリウスだってスバルに合わせる顔はあるまい。

根深い問題――それを根深くしたのは、スバルが判断を誤ったからとも言えるが、これは一朝一夕に片付く問題ではなくなった。少なくとも時間をかけ、冷静に話し合えるだけの間を開けなければ、決して解決には向かわない。

そう考えれば、おめおめと竜車に戻るのは気が引けた。ユリウスが戻らないとわかっていても、ぬくぬくと布団にくるまるのは何となく気が咎めたのだ。

かといって、この遅い時間にスバルの内心の吐露に付き合ってくれる相手はいない。

眠りにつくレムも、あるいはスバル贔屓の強いパトラッシュも、どちらも緑部屋にいるため、エキドナやユリウスとのバッティングを恐れて近付けない。

エミリアやベアトリスを起こし、話を聞いてもらうのもワガママが過ぎた。

だからスバルは当て所もなく――、

「――バルス?」

その声に、スバルは微かに喉を鳴らして足を止めた。驚きと共に振り返れば、四層の通路――石造りの床に靴音を立て、姿を見せたのは桃髪の少女、ラムだ。

ラムは薄紅の瞳をわずかに見開くと、スバルの様子を上から下まで眺めて、

「ずいぶんとしょぼくれた顔ね。みっともない」

「……会うなりいきなりだな。っていうか、ラムはこんな時間に何してんだ?」

「それはそっくりそのままお返しするわ。……といっても、バルスがこんな時間までしてたことなんて想像がつくけど」

すぐ真ん前までやってきて、自分の肘を抱くラムの言葉にスバルは頬を硬くする。

何があったのかは想像がつく、と言われて表情を曇らせるスバル。そんなスバルにラムはやれやれと肩をすくめて、

「どうせ、またレムに聞かせても仕方のない愚痴をこぼしていたんでしょう? いくらラムの妹が可愛くて寛容でも、無理難題ばかり押し付けるのはやめなさい」

「……ああ、そっちか。まぁ、そうだよな」

「――?」

ラムらしい物言いに軽く目を見開き、それからスバルは苦笑した。

内心を言い当てられたわけではなく、スバルの日々の行動予測からの言葉だ。確かにラムの言う通り、普段からスバルはレムの傍で夜を過ごすことが多い。

実際、今夜もそうしていた。その帰りだと、ラムが思うのは当然のことだ。

しかし、今日はそれだけでもなくて――、

「情けない顔するのをやめなさい」

「あでっ」

「しょぼくれた顔で、情けない顔で、ただでさえ低い男が下がるわよ。そんなだと、バルスを騎士にしているエミリア様の品格が疑われるわ。改めなさい」

俯く額をラムに指で弾かれた。

その威力にスバルは涙目になるが、退屈そうに鼻を鳴らすラムの姿に文句は封じられる。それどころか、安堵する自分がいて。

「……なんつーか、ホント、姉様って姉様だよね」

「ハッ。気色悪い感想はやめなさい」

額を撫でながらのスバルのコメントに、ラムは心底嫌そうに顔をしかめる。その態度に救われるのが、自分で自分が情けない。

別に話を聞いてくれるわけでも、何が起きたのかを親身になってわかろうとしてくれるわけでもないのに。

「ラムは、こんな時間まで何してたんだ?」

「いやらしい」

「ノータイムで話終わらせようとするなよ。ちょっとした取っ掛かりだろうが……」

取り付く島もない態度に肩をすくめ、スバルは軽く一息ついて、ラムの後ろ――彼女が歩いてきた方の通路へ目を向ける。

それなりに広い四層だが、これといって目立った施設があるわけでもない。あるのは緑部屋と、竜車から運んだ荷物の数々。そして――、

「……二層への階段、か?」

「――――」

「まさか、上にいってたんじゃねぇだろうな。一人で」

「安心なさい。そこまで無謀じゃないわ。この目で見たわけじゃないとはいえ、レイド・アストレアを一人でどうにかできると思うほど自惚れてもいないしね」

嫌な想像に唇を曲げたスバルへ、ラムは鼻で笑うかのように疑念を否定した。

その過程で、微妙に隠し切れないユリウスの独断への言及が見えたが、今ここでそこに触れるのはスバル自身にとっても棘が痛い。

「そう、騎士ユリウスと何かあったのね。ケンカ?」

「俺ってそんなにわかりやすい?」

「バルスがわかりやすいのと、ラムが聡明すぎるのよ。後者の比重の方が大きいから心配しないでいいわ。……いえ、やっぱり前者も気にしなさい。拷問されたとき、すぐに相手に内情が知れるから」

「その拷問されたパターンの想定が怖すぎるんですけどね」

自分の頬をぐねぐねと弄り、そう応じるスバルにラムは目を細めるだけだ。わりと冗談ではない、と言われた気がして、スバルは身震いする。

確かにスバルの立場上、王選あるいはエミリアに敵意ある人間が、そうした乱暴狼藉を働く可能性もなくはない。気には留めておこう、と考える。

「それはそれとして、お前はそれならなんでここに……」

「――二層に上がってはいない。上がろうと、してみただけよ」

「……無謀じゃないって言ったのにか。まさか、寝込みを襲おう的な?」

手段を選ばず勝ちにいく、という姿勢であればスバルも嫌いではない。ラムがそうするために、レイドが寝入っている時間を狙って忍んだのならば理解はできた。

問題は、過去の記録からの再現のように思われるレイドが眠るのかということと、そもそも寝ていたとしてもアレをどうにかできるのか、だ。

「残念だけど、寝込みを襲うのは無理ね。階段の途中で引き返したわ。そのぐらい、あれは規格外の化け物よ。ガーフが可愛く見えるわね」

「懐いたあとのガーフィールは、わりあいいつでも可愛げあるけど……」

「振る舞いじゃなく、危険度の話よ」

それだと、振る舞いに可愛げがある部分の否定になっていなかったが、大事な話の最中なのでそれには触れず、スバルは眉を顰めた。

「確信したわ。手段を選ばなくなれば、あっちも手段を選ばなくなるだけ。やっぱり話し合った通り、攻略には本気にさせない程度に満足させる必要があるわね」

「……それだけ確かめに、わざわざ一人で二層にいったのか?」

「何度も言わせないで。二層へは上がってない。今のラムには厳しすぎるもの」

純粋な力不足を認め、ラムは二層への挑戦には準備が肝要だと戒める。時間をかける必要があると言われると、先のエキドナやユリウスとのやり取りが蘇り、スバルとしては難しい顔をせざるを得なかった。

「バルス?」

「ん、や、なんでもない。……なんでもなくはないんだが、とりあえず今はだ。たぶん、明日になったらちゃんと話がある」

「ひたすらに思わせぶりな発言ね」

「あれだけ引っ張ってなんだが、俺から話すのは違う気がしてな。さすがにここでも不義理なんてしたら、ちょっと取り返しがつかねぇよ」

今でも十分に、修復可能かどうか怪しい亀裂だ。そこにさらに楔を打ち込み、亀裂を広げるような真似はしたくない。

そんな弱腰なスバルに、ラムは納得したわけではないだろうが引き下がる。

「いずれにせよ、二層の……レイドの攻略には手間暇がかかるわよ。せめて、シャウラがもう少しためになることを知ってればよかったけど」

「まぁ、あいつが当てにならなかったのは事実だが、あんまり言ってやるな。そもそもあいつが手助けしてくれなきゃ、俺たちは揃って砂の下で黒焦げだったんだし」

そもそも、シャウラを欠いては二層の『試験』まで辿り着けなかった。それを思えば、塔に入ってからの彼女のガッカリ賢者ぶりには目をつぶっても、と思う。

試験官の手を借りて『試験』を突破する、その方がよっぽど例外的なのだし。

「綺麗事ばかり並べていても、どこかで行き詰まるときがきっとくるわよ」

「俺だって、別に何でもかんでも清廉潔白が正しいって思ってるわけじゃない。ケースバイケース……今回は、特にそれに当たらないってだけ」

「気楽なことね。……ラムは、そんな悠長には構えられないわ」

スバルの受け答えに不満げにこぼし、ラムはやれやれと肩をすくめた。そして、彼女はゆっくりと背を向けると、

「そろそろ寝ないと明日に差し支えるわね。竜車に戻るわよ」

「あー、うん。その、俺は……」

戻りづらい理由の説明、それもしづらい。ただ、そんな風に言葉を濁したスバルに首だけ振り返り、ラムは小さな吐息をこぼした。

「好きになさい。もし、寝不足が理由で足を引っ張るようなことがあったら、ねじ切るわよ」

「ああ、悪い……ねじ切るって何を!?」

「ご想像にお任せするわ」

ひらひらと手を振り、ラムが下層へ下りる階段の方へと足を向ける。触れたくないところに触れず、立ち直りを自助努力に任せてくれるのは彼女なりの気遣いか。

そんな遠ざかる細い背中に、スバルは見えないとわかっていて手を上げた。

「姉様、お休み。また明日」

「……ラムはバルスの姉様じゃないわよ。その呼び方、やめなさい」

最近は断り文句にも力がなく、なし崩しに認めるのだけは拒むような抵抗だ。

そんな言葉を残し、ラムの姿が見えなくなると、スバルは首の骨を鳴らして「さあ、どうしたもんか」と呟いた。

竜車には戻れない。緑部屋にもいきづらい。となると、朝までの時間をゆっくり休めるか、あるいは有意義に過ごせる場所が必要なのだが。

「ただ寝るだけなら、適当な部屋でいいんだが……」

一番候補に上がりやすいのは、荷物が置いてある部屋だ。

竜車の積み荷、食材などが運び込まれた部屋だが、枕になるものも探せばあるだろう。硬い床に少し体が痛くなるかもしれないのがネックで、そのぐらいなら竜車で寝ろという話であることを除けば。

あとは――、

「二層の攻略、レイドの攻略について考える」

正直、これが一番建設的な判断ではある。

現状の問題の多くは、この監視塔を攻略することで解決に向かう。それも確実とは言えないが、状況を好転させる大きな要素には違いない。

レイドの攻略は、夕餉のときに皆で話し合った通り、彼の本気を出させずに、彼を本気で満足させる手段を見つけるという、かなりアバウトな内容だ。

せめて、そのアバウトさを少しでも減らせる可能性があれば――、

「――そうだ」

と、そこまで考えたところで、スバルは指を鳴らした。

ふいに電撃的に脳裏を過った考えに、スバルの足の向く先がバシッと決まる。

「これがうまくはまれば……」

確実とは言えないまでも、状況を大きく進める一手になり得るはず。

その思いつきに心を逸らせ、スバルは急ぎ足にその場所を目指す。

――夜の監視塔に、逸るスバルの靴音だけが高く響く。

――たった独りの、靴音だけが。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――目覚めの感覚は、水中から水面に顔を出す瞬間に近い。

夢という無意識に沈み込む体を引き上げ、呼吸という形で現実を全身に巡らせる。そうすることでゆっくりと意識は蘇り、水面を割って、生まれ出でるのだ。

眠りは死で、目覚めは生誕――気取るなら、そんな言い方もできるかもしれない。

ともあれ、そんな詩文的な感慨を余所に、意識は徐々に覚醒へ――、

「――スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」

「って、うおわぁ!?」

目を開けた瞬間、すぐ間近にあった美貌に驚かされ、スバルは横に転がった。

と、転がってすぐに地面がなくなり、そのまま短い距離を落下、肩を打ち付ける。

「んぎゃぁ!」

「きゃっ! スバル、平気!? なんでそんなにいきなり転がったの!?」

「い、いや、俺も別にいきなり転がろうと自主的に判断したわけじゃ……」

ぶつけた肩をさすり、軽く頭を振りながらゆっくりと体を起こす。それから目をぱちくりと瞬きして、スバルは困惑した。

そこは緑色の部屋だった。

部屋中、育ちすぎた蔦がのたくるように覆い尽くし、壁は完全に隠れている。仮に蔦でできた部屋だと言われたら信じそうなぐらい、突飛な外観の部屋だった。

そしてスバルはどうやら、その部屋の真ん中、蔦で編まれたベッドに寝転がっていたらしい。そこから転がり落ちて、この様、と現状を分析する。

そんな冷静ぶった判断をするスバルだが、それには理由があった。

「ん、どこか強く打ったりはしてないみたい。ホントによかった。でも、すごーく心配したんだから、あんまり驚かせないでね」

「エミリア、そんな言い方だとスバルは反省しないかしら。もっときつく言ってやらないと、ベティーたちの心配ぶりがスバルには伝わらんのよ」

「そうよね。ほら、ベアトリスもこう言ってるでしょ? スバルが見当たらないって大慌てで、倒れてるところを見つけて泣きそうだったんだから……」

「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」

すぐ目の前で、コントのようなやり取りが繰り広げられる。

その微笑ましく思えるやり取りにうんうんと頷きつつ、スバルは振り返った。地べたに座り込むスバルのすぐ後ろに、何か巨大な生き物の気配。

「――――」

それは、大きなトカゲだ。黒い鱗の肌をした、馬ほどもでかい大きなトカゲ。それがあろうことかスバルにすり寄り、鼻先を首筋に擦り付けてきている。

ずいぶんと人懐っこい、とスバルはそのトカゲの頭を優しく撫でた。

そして、ため息をつく。

「つまり、これはあれだな」

冷静に、落ち着いて、ゆっくりと、息と共に言葉を吐き出した。

そんなスバルの様子に、正面にいた二人の少女が首を傾げる。

「――スバル?」

と、姉妹のように息を合わせて、二人が同時にスバルの名前を呼んだ。

目が潰れそうなほどに美しい銀髪の少女と、妖精のように可憐なドレスの幼女が。

銀髪美少女と、縦ロール幼女、巨大なトカゲ、蔦でできた部屋――。

スバルは大きく口を開け、叫んだ。

――だって、これは、つまり、あれだ。

「異世界召喚ってヤツ――ぅ!?」

やっとここまできましたー。

第六章『記憶の回廊』、本編スタートです。

第六章34 『コンビニを出ると、そこは不思議の世界でした』

菜月・昴は平成日本生まれのゆとり教育世代出身である。

彼の人生は十七年、その全てを語り尽くすにはそれこそ十七年の時間を必要とする。

それらを割愛し、彼の現在の立場を簡単に説明するのならば『高校三年生にしてひきこもり』となる。

詳細を説明するなら、『受験を間近に控えた時期なのに、親の期待も何もかもうっちゃって自分の殻に閉じこもったどうしようもないクズ』といったところだ。

ひきこもった理由は特にない。

普通の平日、たまたま「今日は起きるのが面倒だ」となんとなく思い、サボりを実行に移したことが切っ掛けではあった。

そのままずるずると自主休校が増え、気付けば立派に親を泣かせるひきこもり。

日がな一日怠惰を貪り、コミュニケーション皆無のネットに沈み続け――、

「その結果が異世界召喚……てふべ」

「スバル?」

うんうんと唸りながら、現状整理に勤しむスバルの頬が白い両手にガッと掴まれる。見れば、それをしたのはすぐ目の前にいる銀髪の美少女だ。

――正直なところ、どえらい美少女だった。

月光のように煌めく長い銀髪、宝石を嵌め込んだ紫紺の瞳。

長い睫毛を震わし、心配げにこちらを覗き込む美貌は常軌を逸しており、世界中の芸術家が揃って筆を折るほど突出した神なる芸術品かと錯覚するほどだ。

そして、そんな美貌の少女はあろうことか、息がかかるほどの至近距離でスバルの顔を掴み、「んー?」と覗き込んできているわけで。超いい匂いがする。

「スバル?」

「は、はひ、ナツキ・スバルです」

再度、銀鈴の声音に名前を呼ばれて、スバルは引きつった笑顔で答えた。

顔だけでなく、声も震えていたかもしれない。あと、笑顔もキモかったかもしれない。どういった理由かは不明だが、この美少女はスバルにやけに親しげだ。でなければ、こんな風に超至近距離で見つめ合ったり、話しかけたりしてくれないだろう。

「ん、スバル……よね。ごめんね。なんだか、ちょっと変な風に見えたから」

「へ、変ってのは……あれかな? 目つきとか、そういう意味だったり?」

「ううん、違うの。目つきはいつも通りすごーく悪いけど、頭打ってないかなって」

「目つきはいつも通りすごーく悪い!?」

軽いジョークで和ませようとして、思わぬ角度からのコメントに殴られる。声を裏返らせるスバル、その反応に美少女は「ごめんね」と小さく舌を出して詫びた。

可愛い。なんだろうか、この美少女。親しいどころかものすごい好意的だ。

やや、発言にあった『いつも通り』といった表現が気にかかったものの――、

「――エミリア、それだけでなんでもないなんて結論付けるのは早計なのよ。やっぱり、どこか違和感があるかしら」

「――? でも、スバルの目つきはいつも通りだと思うけど」

「スバルの悪い目つきの話は今してないのよ! 目つきの悪さはこの際、どうでもいいかしら!」

「目つき悪い悪い言うな! 人のウィークポイントあげつらうのは趣味がよくねぇぞ! なんなんだ、お前ら……あ、いや、君たち、ちょっと可愛いからって……」

勢いよく立ち上がり、スバルは眼前の美少女と、彼女に声をかけた相手――豪奢なドレス姿で、その服装の華美さに負けない縦ロールが特徴的な、妖精のように可愛らしい幼女に声を荒げかける。が、その語調は尻すぼみになった。

持ち前の図太さでドカンとぶちかまそうと思ったのだが、さすがに相手は初対面の美少女と美幼女。噛みつくにしても、ゲージ不足が深刻だ。

――それにこの状況、妙だった。

これがスバルの想像通りの状況だとしたら、彼女ら二人はスバルにとってかなり重要なキーパーソン。第一村人どころか、それ以上のポジションだと考えられる。

なので、スバルはゆるりと居住まいを正し、第一印象を優先することとした。

「おほん」

一つ、咳払いを入れて仕切り直し、スバルは二人に向き直る。

訝しげな顔をする二人の少女と、背後に丸くなる黒い巨大トカゲ、その両方が視界に入るように一歩下がり、

「――改めまして自己紹介をば。俺の名前はナツキ・スバル!」

びしっと指を天井に突き付け、反対の手を腰に当てながらポージング。

スポットライトもディスコミュージックもないのが残念だが、それにめげず、スバルは歯を光らせて、己にできる全力を尽くして言った。

「無知蒙昧にして、天魔不滅の風来坊! 不束者ですが、どうぞよしなに!」

「――――」

名乗りの口上を高らかに述べると、それを聞く二人と一匹が呆気に取られる。

その様子を正面に、スバルはリアクションがあるまでポーズを続行。ここは先に動いた方が負ける、と勝手に自分の中で勝負の場とした。

やがて、十数秒の沈黙を経て、美少女と美幼女は顔を見合わせると、

「ええっと……別に知ってる、わよね?」

「今さらすぎる自己紹介だったのよ」

「あれー!?」

そう、気合いを入れた自己紹介も肩透かしに、そんな感想をこぼしたのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――事の重大さが本格的に明らかになったのは、その少しあとのことだ。

わりと会心の自己紹介のウケが悪く、首をひねったスバル。が、その後、二人から改めて事情を聞いたところ、驚くべきことが明らかになったのである。

スバルと、美少女たちとの記憶のすれ違い――スバルにとって初対面であるはずの彼女たちは、スバルのことを知っているというのだ。

当然、スバルの側にそんな記憶はない。それ故に――、

「つまり、スバルは……何にも覚えてないの? この塔のことも、プリステラであったことも……ううん、それどころか、ラムたちも、ベアトリスも。……私の、ことも?」

「えーと……はい、あの、そのようです、はい」

「――――」

膝を畳み、恐縮して答えるスバルに美少女が瞠目する。瞳に浮かぶ激しい動揺、それを目の当たりにして、スバルも強烈な罪悪感を味わった。

そして、スバルの返答にショックを受けたのは美少女だけではない。

「記憶が……ない? まさか、そんなことあるはず……」

呟くのは、顔を蒼白にした美幼女だ。

あるいは美少女以上に混乱した顔で、幼女はその衝撃を受け止められていない。

蔦で編まれたベッドに腰掛けるスバル、その隣に座った幼女はそっとその袖を摘んでいる。細い指先が微かに震えていて、やはりスバルの心は痛んだ。

「――――」

驚き、狼狽える二人に何とか言葉をかけてやりたいが、生憎とスバルの方もそこまでの余裕はない。正直、寝耳に水の水量が多すぎて溺死しそうだ。

――当初、スバルは自分の身に起きたのは『ただの異世界召喚』だと考えていた。

異世界召喚に『ただの』と冠が付く時点ですでに常識を外れた事態だが、その想定は中らずとも遠からず――否、ほとんど正解だったと言っていい。

ここはスバルの知る、スバルがこれまで十七年間生きてきた世界ではない。

それは奇抜な衣装と、人外めいた美貌を持つ二人の少女の存在からも明らかだ。それでも足りなければ、馬ほども大きい黒いトカゲを弁護側は提出する。

かなり大きいと聞くコモドドラゴンでも、この黒いトカゲの体躯には及ぶまい。そこに自立してベッドや椅子を作り出す蔦生命体が加われば、勝訴は明らかだ。

――故に、ここは常識の異なる世界、すなわち異世界。

いわゆるファンタジー系に属する、スバルの知らない世界であることは相違ない。

あとの問題は、スバルがこの世界に呼ばれた理由と、召喚した術者のことだ。

てっきりスバルはそれが目の前の二人、この手の物語のお約束である、ヒロイン的な立場につく美少女だと思ったのだが――ここで、話の風向きが怪しくなった。

前述の、スバルと面識があるという二人と、その記憶がないスバルの、お互いの認識のすれ違いである。

「二人とはすでに出会ってたってのに、俺だけがそれを忘れてる……ってか」

直前のやり取りで追加された情報に、スバルは難しい顔をする。

少なくとも、異世界召喚が現実のものとなった時点でスバルのキャパシティはいっぱいいっぱいなのだ。そこに、実は異世界召喚後に活動していた事実があると知らされ、いよいよもってスバルの受け皿は窮屈極まりない状態に陥った。

正直、スバルにしてみれば「そんなはずがあるか」と一笑に付していい言い分だ。

しかし、美少女と美幼女の態度は真剣そのもので、嘘をついているようにはとても見えなかった。もちろん、スバル自身に二人の語る記憶は片鱗も見当たらないので、頑固にそれを拒むこともできたが、それは二人の様子を前に気が咎める。

それに、自分と美少女の意見の二者択一なら、美少女の方が本当のことを言っているのではないか、と考える程度にはスバルは自分を信じていない。

無論、そればかりが根拠ではない。――より強い根拠は、体の異変にあった。

「……確かにこれ、コンビニ出た直後の体じゃねぇんだよなぁ」

そうぼやきながら、スバルは自分の右腕を持ち上げ、拳を開閉する。

心なしか、ややたくましさを増した腕がそこにあった。掌にも、覚えのないマメがいくつも増えている。竹刀の素振りでできたマメではないし、そもそも竹刀の素振りだって一年以上ご無沙汰だったはずだ。

それに、腕の変化はそれだけにはとどまらない。

「グロいな……」

持ち上げた腕をひっくり返し、手の甲側に目を向け、顔をしかめる。

少したくましくなった腕だが、それ以上に見た目がかなりグロテスクになっていた。右腕の肘から先、手首にかけた黒い斑の紋様――血管のようなものが浮き出て、趣味の悪いタトゥーのように腕を覆っているのだ。

これがもっと、生物的なイメージが薄ければタトゥーで誤魔化せたかもしれないが、どう足掻いても腕の一部であり、グロテスクさは否めない。

「――――」

その、黒い斑の紋様に強めに爪を立ててみる。

指でなぞっても、質感は普通の肌と変わらない。痛みがあったり、妙な痺れがあったりなども皆無。爪を立てれば、相応に鋭い痛みが返ってくるばかりだ。

このまま思い切り、爪で黒い肌を破れば血は流れるのか。

――それで流れる血は、はたして本当に赤いだろうか。

「スバル……」

「あ! いやいや、何でもねぇよ? ただちょっと、こんがりウェルダンに肌焼きすぎてんなーってのが気になって。そんだけそんだけ」

ちょっとばかりショッキングな変化だが、美少女の憂える声に軽口で誤魔化した。

幸いと言うべきか、スバルはそれほど自分の体の傷に頓着する方ではない。親からもらった体に傷を付けることの罪悪感はないではないが、親への罪悪感など稼ぐまでもなく積もりに積もっていて、今さらだ。

とはいえ、これはさすがに範囲が広い。長袖と、可能なら手袋もあった方が、他者の気分を害さないだろうなとぼんやり思った。

「常に長袖、そして合法的に指空きグローブが装備できる。いざ、危険な状況になると手袋を外し、露わになる黒い腕……まさか、あの男は『黒腕』……! みたいな展開とか考えると熱くない?」

「――――」

などとおどけた風に右腕を振りつつ、スバルは渇いた唇を舌で舐める。

この腕の変化、異様さを含め、美少女たちの説明の信憑性は非常に高い。

そもそもスバルにとって、一番最新の記憶は『コンビニの買い物直後』だ。

ジャージ姿で買い物を終えたはずが、今のスバルの格好は着慣れたジャージとは程遠い、汚れの気になる旅装のような代物だ。足下もスニーカーではなくなり、過度に日焼けした腕にはコンビニ袋も持っていない。

まさしく、世界だけでなく、時間を跳躍している。

コンビニを出て、瞬きをしたら目覚めの瞬間――それがスバルの認識だ。

だとすれば、意識をなくしたのはどの瞬間なのか。気付けば眠りの中にあって、ここで呼ばれて目を覚ました。ならば、それまでの空白は?

――コンビニで異世界召喚されて、その後の時間を過ごし、記憶をなくした。

異世界召喚、言ってしまえば何度も夢想したまさしく夢の展開――それを、こんなにも純粋に喜べずに受け取ることになるとは、とんだギフトだ。

スバルにはスバルの知らない異世界で過ごした時間があり、そんな時間の中で、スバルの知らない彼女たちと交流を深めた知らない事実がある。

それを信じて、彼女たちの好意を信じて、寄る辺としていいのか。

「――――」

「あ、あー、えーと、その、あれだ! へっこむ気持ちもわかるんだけど、ここは一つ、気を取り直していこうぜ!」

あれこれと難しく考えていたスバルは、ふと空元気にそんな声を出していた。

隣と正面、二人の少女の沈んだ顔に心が激しく沸騰する。

彼女たちがこの状況に心を痛め、困っていることは確かだ。

その原因がスバルにあるといえば、それはそれで少し釈然としないものはあるが、これを何とかできるのはスバルだけだろう。

だからスバルは驚く二人に両手を向け、殊更におどけてみせながら、

「俺の知る限り、こういう一時的な健忘症ってのはポンと何かの拍子に戻ったりするもんだし、大げさに心配しなくて平気だって。映画とかならあれだ、二時間以内にケリがついて、全部丸っと元通りって塩梅だよ。悲劇は大団円のためのスパイスってな!」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

「あれれ、そう……?」

「でも……」

早口に並べたスバルに、美少女からは虚勢の甲斐がないお返事。その言葉にスバルは脱力感を覚えたが、すぐ美少女は首を横に振った。

そして、軽く眦を指でこすると、ふっと微笑み、

「スバルは、やっぱりスバルだから……ん、それは安心した」

「え。そ、そう? そう言ってくれると、俺も少しは気が楽に……」

「えいっ!」

「って、いきなり何を!?」

気合いの入った声と同時、美少女がわりと看過できない勢いで自分の頬を叩いた。両手で挟むような一撃に乾いた音が響き、美少女の頬が真っ赤になる。

それを見て大慌てするスバルだが、美少女は軽く頭を振ると、

「よしっ、元気を入れたわ。あんなんじゃダメよね。スバルの方がずっと困ってるはずなのに、いつまでも私たちまで困った顔してちゃ」

「顔に似合わず、めちゃくちゃ勇ましいなこの子……」

「ほら、ベアトリスも!」

顔を赤くしたまま、なかなか威勢のいい発言をする美少女にスバルは驚く。美少女はそのままの勢いで、今度はスバルの隣で固まる美幼女へ声をかけた。

その美少女の剣幕にドレスの少女は少し気後れしていたが、

「驚いちゃったのも、悲しい気持ちもわかるけど……今、一番辛いのが誰なのか考えなくちゃ。私たちが、何とかしてあげなきゃダメでしょ?」

「べ、ベティーは……」

「――――」

口ごもり、何を言えばいいのかと逡巡する美幼女。

その幼い戸惑いに、しかし美少女は何も言わず、じっと見つめて返事を待った。

言葉を重ね、無理やりに心を動かすこともできる。でも、それはしなかった。それはたぶん、この美少女が、この美幼女のことを信じているからだ。

二人との思い出がない、スバルにはわからない信頼が二人の間にあるからだ。

「スバルは……今、困ってるはず、かしら」

「……まぁ、そう言えなくもない、かな?」

ちっぽけな意地と軽口がスバルにそう言わせた。しかし、美幼女はその言葉に納得していない。だからスバルは頭を掻いて、

「あー、正直、そうだな。うん、助けてほしいと思ってる」

「――――」

素直に追い詰められた心境を伝えると、美幼女の瞳が驚きに見開かれる。薄く、青い瞳に浮かぶ奇妙な瞳孔――それが、スバルには何故か蝶の羽ばたきに見えて。

「……ああ、もう、まったく! スバルは本当に仕方のない契約者なのよ!」

直後、蝶の羽ばたきが竜巻を起こしたように、美幼女の態度が大きく変化する。短い腕を組み、呆れたと言わんばかりに幼女がそう声を張り上げた。

その勢いに美少女が微笑み、スバルは肩を跳ねさせる。と、そんなスバルの鼻面にびしっと、幼女が指を突き付けた。

「いつもいつも、面倒事ばっかり持ち込まれてベティーはいい迷惑かしら! こんなことはこれっきりにしてくれないと、いい加減、ベティーも愛想尽かすのよ!」

「お、おお……えと、それは、つまり?」

「素直に助けてって言えたのに免じて、今回だけ目をつぶってあげるかしら。――どうせ、スバルはベティーがいなきゃ、寂しくて生きていけない弱虫なのよ」

「そこまで言う!?」

すごい勢いで調子が上向いた幼女の態度にスバルは度肝を抜かれる。この子がいなければ寂しくて生きていけないとは、なんと大げさな物言いなのか。

「ふん、忘れたなんて言われても、すぐ思い出させてやるかしら。――ベティーの契約者は何があっても、思い出の中でセピア色になんてならない、鬱陶しくてやかましい男なんだってことを」

「色々わかんねぇけど、それが俺のことならものすげぇ言われようだな!?」

契約者だとか、聞き捨てならない単語が頻発した気がしたが、沈んだ顔をしていた子が顔を上げたのだ。そこに突っ込む無粋はひとまず堪えた。

正直、スバルはまだ、この状況を穏当に受け入れたとは言い難い。

混乱は収まらず、現実とは向き合い切れず、説明を事実と鵜呑みも難しい。

だがそれでも、ひとまず、彼女たちの心意気は伝わってきたから。

「俺の名前はナツキ・スバル。右も左もわからねぇが、たぶん君たちのお友達。図々しいとは承知の上で、一つ君たちに頼みがある」

改めて立ち上がり、スバルは天井に指を突き付けて名乗った。

それから最後に二人に手を差し伸べ、首を傾げる。

「――君たちの名前を、教えてほしい」

「――――」

その言葉に、何故か美少女は喉を詰まらせ、美幼女が目を瞬かせる。

しかし、それも一瞬のことだ。

二人は一度間を置くと、ゆっくりとそれぞれの笑みを浮かべて、

「私の名前はエミリア、ただのエミリアよ。またよろしくね、スバル」

「ベティーは大精霊ベアトリス、スバルはベティーの契約者なのよ」

と、そんな風に名前を教えてくれたのだった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

さて、そんなこんなでひとまず、エミリアとベアトリスとの二度目の初対面と言うべきイベントをこなしたスバルだったが――、

「――――」

朝食の席、という名前の事情説明の場で、針の筵のような気分を味わっていた。

場に同席してくれているのは、当然ながらエミリアとベアトリスの二人。そしてそれ以外にも、五人の男女――男女比がちょっと偏っているが、男女がいる形だ。

エミリアたちの説明によれば、彼女らはスバルと同行し、この塔――内部からではさっぱりわからないが、共に塔の攻略に切磋琢磨する仲間たちらしい。

そのいかしたメンバーを端から順番に説明すると、やたらとエロい格好のグラマラスな美人、年齢のわりに妖艶な雰囲気の美少女、可憐な顔にきつめの眼光がチャーミングな桃髪の美少女、はんなりと柔らかな雰囲気を纏った幼い顔立ちの美少女、それからやけに整った顔をした貴族っぽい雰囲気の青年――以上だ。

全員美形で、この時点でスバルは異世界の凄まじさを思い知っている。

「まぁ、個人的な好みで言えば、銀髪美少女なエミリアちゃんの一馬身リードかな」

「――――」

などと、益体のない呟きを聞こえるようにこぼしてみるが、反応は極寒だ。

当然だろう。なにせ彼女らは今、スバルの記憶喪失――自分たちが忘れられた事実を知ったばかりなのだ。エミリアたちと同様の衝撃は避けられない。

「それで、みんなも驚いてると思うけど……スバルは今、すごく困ってるの。こんな状況だけど……ううん、こんな状況だからこそ、力を貸してあげて」

と、そう言ったのは、スバルの事情説明に助力したエミリアだ。

とはいえ、短時間でわかったことだが、彼女はあまり話が上手な方ではない。あっちへこっちへ転がりそうになる話をコントロールし、うまく説明してくれたのはベアトリスの方だった。

おかげで過不足なく、全員にスバルの状況は伝わったはずだが――、

「――エミリア様、よろしいですか?」

手を上げ、桃髪の少女がエミリアに確認を取る。様付けされたエミリアは、それを当然のように受け入れ、「ええ」と顎を引いた。

「あの子はラム。お屋敷のメイドで……メイドって、言葉はわかる?」

「それは問題なく……でも、お屋敷でメイドときたか。うん、了解した」

桃髪の少女――エミリアの補足でラムとわかった美少女はメイドらしい。メイドがいる時点でエミリアが結構な身分と予想されるが、そんなスバルの内心を余所に、ラムはスバルへと薄紅の視線を突き刺し、

「これは、何かの悪ふざけなの、バルス?」

「そう疑われるのは仕方ねぇと思うが、マジな話だ。あと、俺の名前が目潰しの呪文になってんぞ。……お前が、あのベッドに寝てた子のお姉ちゃんか」

「――――」

唐変木な呼び方に顔をしかめて応じると、ラムの瞳がすっと細められる。

話題に挙げたのは、スバルが目覚めた緑色の部屋――通称『緑部屋』とそのまんまなネーミングの部屋で、エミリアたち以外に存在した少女のことだ。

明るい青の髪に、ラムとそっくりな顔立ち――眠ったまま、あれだけの騒ぎに我関せずと眠り続けた少女の存在は、『二度目』の初対面を乗り越えたスバルが、エミリアたちに最初に事情を尋ねた人物だった。

何でも、この塔とやらの攻略に赴いた目的の一つが、眠ったまま目覚めない彼女の目を覚ます方法を探すこと、らしいのだ。

「妹を起こしてやりたいタイミングで、俺が面倒事になったみたいで悪い。けど、俺も正直いっぱいいっぱいなんでな。文句は、記憶が戻ったあとの俺に盛大に頼む」

「……その物言い、本当に忘れているの? その軽薄な態度も口調も、普段のバルスと何にも変わってないようにしか思えないけど」

「そう言われると、変わらない良さが俺にあるって言ってもらえたみたいでちょっと気分が上向くな。まぁ、人の性根はそう簡単には変わらないってとこで、新しい俺とも前とおんなじ感じで接してくれ」

空元気なのもあるが、気負いのないスバルの態度にラムは訝しげな様子だ。

変化がないと、彼女がそんな疑問を抱く程度にはこれまで通りのスバルができている。それは記憶の喪失とは別に、悪くない事実だとも思えた。

少なくとも接し方の面で、変な気遣いをさせる心配はないのだろうし。

「ってなわけで……うぉぉう!?」

「お師様~?」

ラムとの受け答えをいったん区切り、さてと一息つこうとした瞬間、スバルは耳に甘い吐息を吹きかけられて仰天する。慌てて横へ飛びのけば、左耳を舐めそうなぐらいの距離に立っていたのは、グラマラスな黒髪の美女だ。

黒ビキニにホットパンツ、そしてマント――特殊なフェティズムを狙いすぎている感がある美女だが、驚くのはその服装ではなく、動きの方だ。

直前まで、床に胡坐を掻いていた美女はいつ立ち上がり、歩み寄ったのか。

「あ、えーっと……」

「シャウラッス、お師様最愛の教え子にして、このプレアデス監視塔の星番ッス!」

「星番……? それに、お師様ってのは俺のこと……?」

「はいッス!」

太陽に匹敵する明るい笑顔で、自分を指差すスバルに美女――シャウラが頷く。あまりに屈託のない笑顔に、スバルの中で彼女の印象がすっかりひっくり返った。

外見だけで言えば、この中でも一番妙齢に思える美女、格好も相まって非常に大人びた色香があるかと思えば、その態度はまるで子どものようだ。あるいは、構ってもらえるのが嬉しくて仕方のない子犬、といったところか。

実際、シャウラはそんなスバルの印象を裏切らず、頭の後ろで束ねた長い黒髪を尻尾のように揺すりながら、

「それにしてもお師様、ホントに懲りないし飽きないッスね~。そうやって、何回あーしのこと忘れたら気が済むッスか?」

「懲りる飽きるの次元の話じゃねぇし! 大体、俺ってそんな何回もぽんぽん記憶が吹っ飛んでんの!? 次元越えたせいで抜けやすくなってんのか!?」

シャウラのあっけらかんとした意見に、スバルは目を剥いて周りに確認する。

記憶喪失の事実を渋々と認めつつあるが、頻発しているとしたらそれはまた別の話になる。体質ではないので、もはや病気だ。異世界の風土病で記憶喪失になっているのだとしたら、生きにくいどころの話ではない。

「どうなの? 俺、そんな頻繁に記憶なくなってんの?」

「そんなはずがないのよ、落ち着くかしら。シャウラ、お前もあんまりスバルを混乱させるんじゃないのよ。やっと、気持ちが落ち着いたところなのに……」

スバルの左手を握り、ずっと傍にいるベアトリスがそんな風に嘆息する。彼女がシャウラをじろりとじと目で睨むと、シャウラは「べー」と舌を出して、

「別にあーし、お師様を困らせようとしたわけじゃないッスしー。あ、でも、それでお師様があーしのことで頭がいっぱいになってくれるんなら、それもいいかもしんないッス。あーし、魔性の女になるッス。お師様、魔性好きッスか?」

「現時点で魔性は混乱に一役買うだけだから不要。今は天使か女神か妖精の手助けが欲しいとこなので、半裸のお姉ちゃんは間に合ってるよ」

「ちぇー、いけずッス! こんなにバインバインなのに、お師様いけずッス~」

ぐいぐいと好感度の高いシャウラの振る舞いに、スバルは苦笑しつつ申し出を辞退する。正直、悪い気はしないといえばしないが、彼女の向ける好意はこの瞬間のスバルではなく、彼女が『お師様』と慕うスバルのものだ。

それを言い出せば、エミリアやベアトリスの親しみもそうなのだが――、

「本当、お兄さんってばあ、すっごく困ったさんよねえ」

そうしたスバルの内心を余所に、甘ったるい声で幼い少女がそうコメントした。

外見はベアトリスと同年代だが、妖精と見紛うベアトリスと違い、まだ人間の範疇にある可愛らしい顔立ちの少女だった。濃い青の髪を三つ編みにして、その外見に見合わない艶っぽい流し目をこちらへ送ってきている。

「育てた親に一言物申してやりたい佇まいだな、ベイビー」

「――。それはやめた方がいいわあ。お兄さん、絶対ママと相性悪いものお。それより、今はお兄さんの記憶のことでしょお?」

「つっても、すぐ戻る目途が立つもんでもなし……今はそれより、君の名前の方が大事かな。教えてくれると、また仲良くなる第一歩になるぞ」

「ぷっ……仲良くだってえ」

何が面白かったのか、少女は口に手を当てると軽やかな声でスバルを笑った。それは嘲りにも、呆れにも似た、しかしそのいずれでもない笑みで。

そんな風に笑われる理由がスバルにはちっともわからなかったが、

「メィリィよ、お兄さん。記憶と一緒に、得意なお裁縫のやり方まで忘れちゃってなければ、またぬいぐるみを作ってほしいわあ」

「おお、俺の隠された特技の一つが割れてんのか。そうなると、俺は相当にメィリィのことを可愛がってたらしい。ベアトリスと同じで、妹分かな?」

「あの娘は、スバルやベティーを殺しにきた殺し屋かしら」

「どういう冗談!?」

なかなかヘビーなベアトリスの冗談だが、何故か誰もそれを否定してくれない。よもや、とスバルはメィリィを見たが、彼女も薄く微笑んでひらひら手を振るだけだ。

実際のところがどうなのかはともかく、子どもの暗殺者――というのはいかにもファンタジーなので、気に留めておくだけ留めておきたい。

「で、ラムにシャウラ、メィリィと自己紹介が続いたわけだが……」

メィリィの諸問題を棚上げして、スバルは視線を残りの二人――薄紫の髪をした襟巻きの美少女と、秀麗な面立ちをした青年へと向ける。

この場において、スバルの事情説明にまだ一言も発していないのはその二人だけだ。スバルとしては、この女性比率の多い場所で唯一の同性である青年に、結構な期待を寄せたいところなのだが。

「――――」

黄色い瞳を震わせ、押し黙った青年の様子には鬼気迫るものがあった。それは容易に言葉をかけるのを躊躇わせる雰囲気があり、スバルもなかなか切り出せない。

読んだ空気をあえて壊すことに定評のあるスバルだが、それにしても、彼の様子は踏み込むのを躊躇わせるには十分なものがあった。

あるいはこの室内で、最も衝撃を受けているのは彼なのではと思わせるほどに。

「少し……」

「ん」

「少し、彼に落ち着く時間を与えたい。構わないかな?」

その青年に代わって、軽く手を上げて言ったのは襟巻きの美少女だ。他のものと比べて厚着した少女は、その可愛らしい外見に見合わぬ男っぽい口調――いわゆる、ボクっ子っぽい雰囲気で切り出した。

ともあれ、彼女の言葉には救われる。どうしたものか、とスバルやエミリアたちも頭を悩ませていたところだったのだから。

「ああ、そう、だな。いきなりで、ビックリさせたのは間違いないし……」

「ボクの見立てだと、そればかりでもないんだが……」

「あ、やっぱりボクっ子なのか」

いかにもボクっ子っぽい少女はやはりボクっ子だった。

思慮深げな素振りを見せつつ、襟巻きを弄る少女はスバルの言葉に苦笑し、

「今はアナスタシア、と名乗っておこうか。本当は君の衝撃的な告白がなければ、代わりにボクが驚きの告白をするつもりだったんだが、前後したよ」

「驚きの告白、ね」

どんな告白をするつもりだったのか、スバルは純粋に疑問に思ったが、薄く微笑むだけでアナスタシアは答えない。そしてそのやり取りに、エミリアやベアトリスが困惑したような顔をしていたのも気になった。

アナスタシアの告白、その内容が彼女たちにもわかっていない――のとは、少しだけ違った風な印象を受けたが、

「どうあれ、騎士ユリウスが落ち着くまで時間がいるなら……その間に、朝食の準備をしましょう。エミリア様、バルスを水汲みに借りても?」

「え?」

立ち上がり、膝を払いながらそう言ったのはラムだ。

状況の停滞を嫌い、時間を有用にしようとする彼女の姿勢は頼もしい。が、一方で合理的すぎやしないかと思う部分もあり、予想外の申し出にエミリアも驚き顔だ。

何より、水汲みに記憶喪失のスバルを同行させる判断も――、

「スバルはまだ記憶もあやふやだし、休ませてあげた方が……」

「休ませたところで、記憶が戻る目途は立たない。バルス自身が言ったことです。それに、記憶の有無に関わらず、バルスにはロズワール様の使用人としての役割がある。ちょっと物忘れがひどくなったぐらいで、サボれると思われてはたまりません」

「なかなか辛辣だなぁ、ラムちゃん……ラムさん?」

「――――」

じろりと睨まれ、スバルは肩を縮めて萎縮した。

とはいえ、ラムの言い分にも一理あるのかもしれない。スバルも現状、難しい立場に置かれている自覚はあるが、過度に気を遣われるのも居心地が悪い。

それに――、

「――――」

アナスタシアに支えられ、俯く青年の様子を見ると、彼が落ち着くまでの間はスバルはここにいない方がいいような気がした。

あるいはそれを察して、スバルを部屋の外へ連れ出す狙いだったのか。

「だとしたら、侮れないな、ラム……」

「……とにかく、いくわよ、バルス。他の能力には期待しないから、せめて水汲みぐらいはこなせるようになさい」

「あ、私たちも……」

「甘やかしすぎても、バルスのためになりませんよ」

呼び捨てで呼び方は正解だったのか、スバルの言葉にラムは抗弁しない。代わりに彼女は、連れ出されるスバルに付き合おうとしたエミリアを制止した。

その言葉にエミリアは言い返そうとしたが、「まあまあ」とスバルが割り込み、

「ラムの言葉にも一理ある。頭の中身はともかく、体に問題はないんだし、聞いたところじゃ俺は使用人? 小間使い? そんな感じだったみたいだし、ここは一つ、水汲みぐらいは職務復帰させてくれよ」

「……スバルは使用人じゃなくて、私の」

「私の、なに? ――! もしかして、あの、その、こ、恋人的な……」

「ううん、全然そんなじゃないけど」

「全然そんなじゃないんだ! まぁ、そうだよね……」

鼻息荒く、期待を込めて言ってみたが、エミリアにすげなく撃墜された。

好み一直線なのは間違いないが、高嶺の花すぎて手が届くはずもない。記憶の有無に関わらず、スバルがこれだけ可憐な花びらに触れられるものか。

「ともかく、俺はいいから、あっちをお願い。戻ってくるまでに、ちょっとは立ち直っててくれるといいんだが……」

「……うん、そうよね。わかった。何とか、話してみる」

冗談はさておき、スバルは声を潜めてエミリアに青年の方を指差して告げる。青年は何やら、アナスタシアと言葉を交わしている様子だが、立ち直り切れてはいない。

エミリアやベアトリスが親身になって、少しは立て直してくれると助かる。

なお、何となくシャウラとメィリィには期待しない方がいい気はした。

「なんで、ベティー、お前が頼りだ。任せたぜ、契約っ子」

「――。その呼び方は、やめてほしいのよ」

「――? そうか? じゃあ、ベアトリス?」

「……ひとまず、それでいいかしら。スバルの頼みは任されたのよ」

手を握っていたベアトリスが、スバルの呼びかけに小さく反論した。その反応に、どうやら何かを選び間違えたらしいとスバルは思ったが、それ以上は掴めない。

水汲みにいくスバルの手を放し、ベアトリスはちらとラムへ目を向けると、

「姉妹の姉、スバルを任せたかしら」

「ええ。といっても、それほどの距離ではありませんし、危険があるかどうか」

「その危険がないはずの場所で、記憶を落としたのがスバルなのよ」

「確かに」

「うぐぐ、反論できねぇ……」

ベアトリスとラムのやり取りに、スバルは悔しい思いを味わった。と、そんなスバルの下へ、部屋の端からエミリアがバケツを持って戻ってくる。

そして彼女はスバルにバケツを差し出し、

「ラムと、ゆっくりでいいから。戻ってくるまでに、話せるように頑張るわね」

「ああ、頑張る。そっちも頼む、エミリアちゃん」

「――。うん」

一瞬、返事に間があった気がしたが、その追及はできない。

「バルス」と呼んでくるラムに急かされ、スバルはバケツ片手に部屋を出る。直前、青年たちの方をちらと見たが、言葉を交わせる状態にはまだなかった。

「……あれって、どういうことなのか聞いても大丈夫か?」

「騎士ユリウスのこと? それは、ずいぶん残酷なことね、バルス」

「残酷なのか……」

二人、ラムと廊下を歩きながら、スバルは部屋に残してきた面子、とりわけ言葉も発せなくなるほど衝撃を受けていた青年のことを話題にした。

それに対するラムの返答は残酷、わかったことは青年の名前がユリウスと、名前までスマートな印象を受けるということぐらいか。

「あの人のことはエミリアやベアトリスに任せるとして、わざわざこんな風に連れ出したんだ。まさか、ホントに水汲みだけが目的ってわけじゃないだろ?」

部屋から少し離れたあたりで、スバルは直球でラムに切り込んでみた。

「――――」

「無言、か。いや、俺も別に確信があったわけじゃないし、ひょっとしたら的外れな発言でものすごい赤っ恥掻くだけかもなんだけどさ」

「――――」

「……もしかして、本当に水汲みだけ? あの、だったら、今の発言は忘れてほしいっていうか、その、ドヤ顔で『何かあるんだろ?』とかちょっとあれなんで」

「――――」

「うん?」

反応がなかったので、よもや的外れかとスバルは頬を硬くする。が、取り繕いの言葉を続ける最中、ふいにラムが足を止めた。

二歩ほど、前に出てしまったスバルは足を止め、そのラムへ振り返る。

すると彼女は自分の桃色の髪を軽くかき上げ、

「――いい加減、つまらない芝居はやめなさい、バルス」

と、薄紅の瞳にわずかな怒りを宿して言ってきた。

「へ? 芝居ってのは……」

「こうして、わざわざ場所を変えたんだからわかるでしょう。あまり、女に恥を掻かせるものじゃないわよ、いやらしい」

「いやらしいて」

何を言われているのかと、スバルは困惑に揉まれながら眉を顰める。が、その間もラムは自分の肘を抱いて、やれやれと呆れた風に首を横に振っていた。

「どうせ、バルスのことだから、またろくでもないことを思いついたんでしょう。腹芸のできないエミリア様や、別陣営のアナスタシア様、それに信用できないシャウラはともかく……ラムにぐらい、何を企んでいるのか明かしておきなさい」

――そうすれば、いざというときに対応しやすい。

そんなニュアンスを込めて、ラムはスバルに淡々と言い放った。

それを受け、スバルは目を泳がせると、自分の黒髪を黒い右腕で力なく掻く。

「ええと、だな。ラム、お前の言い分はあれだ。わからなくはないんだが……」

「だが?」

「悪ぃけど、これって演技とか芝居とか、悪巧みとかじゃねぇんだよ。俺は本当にすっぽりと記憶が抜けてんだ。だから、お前の期待には応えられない」

「強情ね。バルスが一人で抱え込むのはいつものことだけど、今回ばかりはそれじゃ困るのよ。ラムも、レムのことが懸かってる。ちゃんと一枚噛ませなさい」

「いや、だから……」

強情はどっちなのか、と頑なにスバルの言葉を否定するラムに困り果てる。

記憶喪失事態を受け入れ難いのは間違いない話だが、こうまで頑迷になられてはスバルの方もお手上げだ。大体、記憶喪失になった芝居をすることが、いったい塔を攻略するなんて状況の中でどんな役に立つのか。

「それはラムにもわからないけど……バルスには、バルスなりの腹案があるんでしょう。だから、それを洗いざらい話しておきなさい。ちゃんと内緒にしてあげるから」

「二人だけの秘密の共有ってのはそそられるけどさ……」

内情はわからないが、スバルには何か考えがあるに違いない。

ラムの言い分に、驚きを通り越して少しだけ呆れてしまう。そんなあやふやな理屈で問い詰められても、スバルには何も答えようがない。

そもそも『スバルならば』なんて、どれだけスバルを買いかぶるのだ。

しかし、そんなスバルの考えにラムは――、

「バルス」

「うん? ……って、おい!?」

一歩、彼我の距離を縮めたラムが腕を振るい、スバルが左手に持っていたバケツを突然に払い落とした。金属が石の床に打ち付けられ、高い音が廊下に響く。

そのことに驚き、何をすると声を荒げかけるスバル。だが――、

「うおっ」

胸倉を掴まれ、気付いたときには体勢を崩されて壁に押し付けられていた。

背中を打った痛みに苦鳴が漏れ、スバルはそれが、すぐ真正面にいる小柄な少女にやられたのだと遅れて気付く。

遅れて気付いたが、その狙いはわからない。

「お前、何のつもりで……」

「言いなさい。いい加減にしないと、ラムにも考えがあるわよ」

「――ッ! わかんねぇ奴だな! だから、何にもねぇって言ってんだろ! 嘘じゃねぇんだよ! 俺は」

低い声音で恫喝され、暴力を振るわれたこともあってスバルの我慢も限界がくる。これだけ言ってもなお、信じようとしないのならば。

そう、胸倉を掴むラムの細い手首を掴もうとして――、

「――いいから、全部話しなさい!!」

「――――」

吠えるような声を間近でぶつけられて、スバルの怒りが耳から抜けた。

それは驚きによるもの――だけではない。驚きはあった。突然の大声に驚いて、とっさの力を抜いたのはある。

だがそれ以上に、スバルの行動を押し止めたのは別のものだ。

「全部、話して……」

声は、ひどく震えていた。

そのことに、スバルは記憶がないにも関わらず、衝撃を受けていた。

受けた衝撃は単に、スバルが抱いていた印象を裏切られたからなのか、それとももっと異なる理由があったのか、定かではなかったけれど。

「……お願いだから、全部、話して」

「ら、む?」

「……お願い」

弱々しく、スバルの胸に額を当てて、少女が震える声でそう漏らす。

それは直前までの勢いを完全に失い、ただただ悲痛なものへ成り果てていた。

涙声ではない。それほど脆くはない。

嘆いてはいない。それほど自分に優しくない。

――ただ、声に宿った悲憤は行き場がない。

――誰へ、どこへ、向けられたものなのか。

「バルスが、忘れたらラムは……レムは……」

「――――」

「レムは、あの子は……」

レム、それは彼女の妹の名前だ。

緑部屋のベッドに寝かされる、彼女と瓜二つの『眠り姫』。

あの少女と、それからこの目の前の姉である彼女と、スバルとの間にどんないきさつがあったのか、それは今のスバルには想像することもできなかったけれど。

ラムが本気で、スバルが忘れた何かへ縋っていたのだと、それだけはわかって。

「……ごめん」

腕をだらりと下げて、スバルは胸に額を押し付けたまま、表情を見せないラムにか細い声で謝った。

忘れたことを謝ったのか、何も答えられないことを謝ったのか。

きっとどちらでもあり、そのどちらかだけではない他の感情もあっただろう。

「――――」

ラムはそれ以上、何も言わなかった。

スバルも何も言えないまま、ラムにきつく上着を握られる感触に目をつむった。

――そんな二人のどうにもならない様子を、転がるバケツだけが見つめていた。

第六章35 『薄氷関係』

「――スバルは、忘れられることがどれだけ辛いのか知ってる。だから、誰かを忘れるなんて、冗談でも絶対に言ったりしないわ」

「――――」

部屋に戻る直前、室内から聞こえた声音にスバルは思わず息を詰めた。

姿形は見えないが、美しい銀鈴の声音はエミリアのものだ。その、彼女の微かに張り詰めた声とその内容に、スバルは愛想笑いを作る頬を引きつらせる。

声に込められた強い信頼、それと同じぐらい大きな嘆願。

それはエミリアが、『ナツキ・スバル』へ向けているものだ。断じて、『菜月・昴』へ向けられたものではない。それを、先のやり取りと同じく痛感する。

「……冗談でも言わない。そうね。珍しく、エミリア様の方が正しいわ」

その声を聞きつけ、自嘲げに呟くのはスバルと同行するラムだ。水の入ったバケツを持つスバルと違い、無手の彼女は自分の肘を抱き、白い肌に爪を立てている。

それは戒めであり、悔恨であり、届かない誓願の痛々しい続きだ。

「ラム……」

「益体のない戯れ言よ、聞き流しなさい。さっきのことも、エミリア様たちにご心配をかけるだけ。ラムの名誉のためにも黙っていることね。もし喋ったら……」

「――――」

「……本当に、覚えていないのね」

喋ったら怖い、とでも言いたかったのだろうか。あるいは、スバルの方が彼女の軽口を先取りして、そんな言葉を投げかけるべきだったのか。

先の、妹の存在を繋ぎ止める術を求めたときと同じように、ラムはその薄紅の瞳に掠れた失意を宿してスバルを見た。その感傷も、瞬きの間に消える。

何も言わせてくれないのはラムの強さか、それとも弱さだったのか。

彼女の心の奥底はわからない。

ただ微かに、スバルの胸元に縋りついた痕跡がわずかに残るばかりだ。

「――お待たせして申し訳ありません。戻りました」

思案する暇さえ与えず、歩みを再開したラムが部屋へ足を踏み入れる。その頑なな姿勢こそが、ラムの固持する意思の表れだろう。ならばスバルも、それに言及しない程度の心遣いはあった。

彼女に遅れてスバルも部屋に戻れば、室内には多少なり無理の気配が広がっていた。

それでも、スバルの衝撃的な告白の直後に比べれば幾分もマシだ。

それを証明するように、戻ったスバルに「ご苦労様」とエミリアがねぎらったあと、声をかけてきたのは――、

「……先ほどは、醜態を晒してすまなかった。改めて、いいだろうか?」

「お、おお。こっちこそ、なんつーか驚かせて……ああ、いや、話の腰を折っちゃ悪いな。承ります」

「そう硬くならないでくれていい。君に畏まられるのはいささか落ち着かない」

そう言って、薄く笑みを浮かべるのは紫髪の美青年――ユリウス、だったか。

先の、スバルの告白直後には顔を蒼白にしていた人物だ。水汲みの間、エミリアとベアトリスがどれだけ説得に心を砕いたかはわからないが、見るに、会話を交わすぐらいの気力は取り戻してくれたらしい。

ただ、通路でのラムの言葉もある。――ユリウスのことを聞いたとき、彼女はスバルに残酷だと、そう言った。それがいったい、どういう意味だったのか。

「改めて、ユリウス・ユークリウスだ。こちらにいらっしゃるアナスタシア様……彼女の騎士を務めている。君とは友人……の、ようなものだ」

「そうか、よろしく……なんで、そこに自信なさげ?」

「生憎と、君と私でお互いの認識に些少の違いがあってもおかしくはない。私は友人と思っていたが、君がどうだったかは……」

「文字通り、記憶の彼方ってか」

「――。そういうことだね」

どこか、言葉の端々に感じられる優麗さにスバルは唇を曲げた。

エミリアたちの話によれば、相応に過酷な環境への旅路――それに同行したメンバーで、唯一の同性ともくれば当然、それなりに心を許した間柄のはず。

それはそれとして、いかにも騎士然としたユリウスの態度と先ほどの発言だ。今のスバルでも、記憶をなくす前の彼への初対面の印象は悪かろうと受け止める。

「そんな心配しなくて大丈夫よ。スバルとユリウスはすごーく仲良し。それは、ちゃんと一緒にいた私たちが保証してあげるから」

「そうねえ。別にそれは心配する必要ないんじゃなあい? 騎士のお兄さんにとっての問題ってえ、それどころじゃないんだしい」

そんな二人のやり取りに、腰に手を当てたエミリアが割り込み、メィリィがどこか悪戯っぽい眼差しで茶々を入れる。

エミリアの言葉は、純粋にスバルとユリウスの初接触を慮ってのものだが、メィリィのそれはエミリアのものとは孕んだ思いが別枠だ。

そのことにスバルが眉を顰めれば、その意を酌んだようにユリウスが頷く。

「そう、だな。メィリィの言葉通りだ。スバル、君に起こった異変についても話し合わねばならないが、我々が抱える問題はそれだけにとどまらない。そのことについても、ここで説明させてほしい」

「それは、今朝から様子のおかしいアナスタシア様に関係があること?」

「……ご明察だ、ラム女史」

壁に寄りかかるラムの言葉に、微かに目を伏せたユリウスが応じる。それを受け、ラムは細めた目をアナスタシアへ向けると、小さく吐息をこぼした。

「バルス、水桶を寄越しなさい。食事の準備をするわ」

「……大事な話をするとこなんじゃないのか?」

「同じ部屋の中よ。別に話は聞こえる。……手を動かしていた方が気が紛れるのよ」

乱暴に言って、ラムがスバルの手からするりと水の入ったバケツを奪った。そのまま彼女は部屋の隅にある荷物の方へと向かう。朝食の準備、その言葉通りの作業を小さな背中が始めるのが見えた。

「ごめんね。ラムも、普段はああじゃないんだけど……」

「なに、気遣いは不要だよ。彼女の気持ちも理解できる。――喉から手が出るほどに欲した情報が、目前で一気に遠ざかったと思えばね」

ゆるゆると、エミリアの謝罪にアナスタシアが首を横に振った。そんなアナスタシアの受け答えに、エミリアとベアトリスは難しい顔をする。

スバルにはわからない、彼女らの引っ掛かり――その答えは直後に、アナスタシア自身の口から語られた。

「さて、すでに大いなる混乱をもたらされた朝に、これ以上の驚きを追加でもたらすのは気が引けるんだが……隠し立てを続けることは不和以外の意味を生まない。故に受け切れる土壌があると信じて、打ち明けさせてもらおう」

「……ずいぶんと、尊大で遠回しな物言いなのよ。とっとと本題に入るかしら」

「そんなに怯える必要はないよ、ベアトリス。――ボクと君とは、おそらくは関係の浅からぬ姉妹のようなものだ。お察しの通り、ね」

「――――」

アナスタシアの言葉に、ベアトリスが頬を硬くした。自然、スバルの隣に立っていた少女は、頼りを求めるようにスバルの袖口をそっと摘まむ。

その様子を横目にして、スバルは幾許か躊躇ってからその手を取った。微かに指先が驚きに震えるが、小さな掌はすぐに温もりを受け入れる。

「……君と契約者との関係は微笑ましくて理想的だな。ボクも、アナとそうした関係を築くのが理想だったんだが、今はそれがうまくいっていない」

「他人事みたいに、アナスタシアさんのことを呼ぶのね。やっぱり、あなたは……」

「ああ、君たちの推測は正しい。――今、この体に宿っている意思はアナのものじゃない。アナスタシア・ホーシンは、この体の奥底で眠りについている。こうして君たちと言葉を交わすのは、仮初の主として肉体を預かる亡霊さ」

エミリアが息を詰まらせ、握ったベアトリスの手に力がこもった。告白にユリウスが沈痛な顔をし、メィリィは相変わらず退屈そうな表情。そのメィリィの横で胡坐を掻くシャウラだけが、告白ではなく食事の準備をするラムの方へ意識を向けている。

こちらへ背を向け、作業に従事するラムの表情は窺えない。

そして、スバルだけは――、

「……何の話をしてるのか、さっぱりわからねぇ」

当たり前のようにやり取りに置き去りにされ、難しい顔をする他になかった。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――アナスタシア・ホーシンと名乗った少女の肉体は、現在は全く別の存在によって支配され、その精神は深い眠りについている。

早い話、アナスタシア――エキドナと名乗った精霊の説明はそうした内容だった。

その事実はエミリアやベアトリスにとっても衝撃的だったようだが、スバルにとっては衝撃的というより、わけがわからない状況を加速させたも同然だ。

元々、アナスタシアに対する認識が頭に残っていないスバルだ。それを、最初の挨拶でアナスタシアと説明された人物が、実は別人だったんですと言われても、

「……そ、そうなのか。それはなんだ。ええと、大変、だよな?」

と、他人事のような感慨を漏らす以外にリアクションができない。

無論、これが非常に深刻な事態であることは、自分以外の周囲の反応からも想像がついた。そもそも、この塔とやらにきた目的が目的だ。

眠り続ける少女を、何らかの病にかかったらしき人々を、救う手段を求めてこの塔へやってきた。――そう、聞いていたはずだったのに。

「いざ、塔へついてこれからというタイミングで、肝心のこちらが満身創痍……バルスはなけなしの記憶を失い、アナスタシア様の意識は深淵の中」

「あ、明るい条件が見えない……」

端的にまとめたラムの言葉に、スバルは頭を抱えたい気持ちになる。

問題は山積み――第一、スバルはスバル自身の問題にすらまだ向き合い切れていない。そんな状況で、次から次へと難題ばかり突き付けられても動きようがない。

これでは――、

「みんなで、下ばっかり向いててもしょうがないと思うの。うんと悩みたい気持ちは私もわかる。わかるけど……でも、落ち込むだけじゃダメ」

「――――」

「私たちは、たくさんの人の期待を背負ってこの塔まできたのよ。今、スバルとアナスタシアさんが大変なことになったのは、はっきり言ってとっても大変。だけど」

両手を叩いて、全員の視線を集めたエミリアがそこで言葉を切る。

そして、一拍の間を開け、エミリアは紫紺の瞳で全員を見回すと、

「足は止められない。――諦めちゃダメって、ずっと教わってきたもの」

強い口調で言って、エミリアが順繰りに部屋の中の面子の顔を見る。その視線が最後にスバルへと向けられ、美しい紫紺に射抜かれて喉が詰まった。

自然、胸が熱くなる。何を言えばいいかはわからない。が、その視線には期待があった。それを受け、動かなくてはならないと、スバルは手に力を込める。

「いたっ! 痛いのよ! ちょ、スバル!」

「あ、悪い……いや、悪くねぇ。これは、気合いが入った証拠だからな」

「いい顔で言っても痛いものは痛いかしら! 反省するのよ!」

「ご、ごめん。痛いのは悪かった。でも、気合いは間違いじゃない。ああ、そうだよ」

華奢な手を握り潰されかけたベアトリスの抗議に謝罪し、スバルは頭を振った。

辛気臭い顔をしたくもなる状況、それはわかる。だが、答えの出ない難題に頭を悩ませるばかりでは前進はない。そのことも、スバルの経験上、間違いなかった。

スバルだって、一人だったらこんな状況、きっと途方に暮れていたに決まってる。でも、スバルは一人ではない。スバルの側に記憶がなくても、スバルのためを思って声をかけてくれるエミリアたちがいる。それなら――、

「確かに、俺の記憶がすっぽ抜けてみんなに迷惑かけてるのは申し訳ない。でも、それがイコールで絶望的って話にはならねぇはずだぜ。考え方を変えてみろよ。今の俺なら、余計なしがらみに囚われない斬新なアイディアが湯水のように湧き出すかもしれねぇ。それが、この状況を打開するヒントになるかもしれないだろ?」

「……それはまた、ずいぶんと前向きな意見だね」

「後ろ向きになって得するか? 大事なもんは前にある。幸運の女神は前髪しかないってよく言うだろ? それに、この塔の攻略? それに必要なのは柔軟な発想ってヤツかもしれねぇぜ。この世界の固定観念に囚われない、異世界の発想ってヤツだ!」

勢い任せの発言に、苦笑するアナスタシア――否、エキドナをさらなる勢いで押し返した。空元気の口から出任せには違いないが、今の空気は壊す必要がある。

そんなスバルの考えを受け、難しい顔をしていた面々にも変化が生まれた。

「……ん、そうよね。スバルはいつだって、色んな大変な場面を飛び越えてきてくれた。だからきっと、これも乗り越えちゃうわよね」

「おお、その意気だぜ! って、それだと頑張るのはまぁ俺なわけなんだが、期待される以上はせいぜい頑張ってみる所存。可愛い女の子の応援もあるしね」

「ありがと、スバル。――うん、良かった。やっぱり、スバルはスバルなんだ」

「――――」

そっと、豊かな胸を撫で下ろしたエミリアの囁きにスバルは虚を突かれた。

――やっぱり、スバルはスバル。

彼女のこぼした、心底からの安堵の一声に、スバルもまた安堵する。

これでよさそうだ、とそう思えた。

彼女の、エミリアの知るナツキ・スバルとの齟齬を少しずつ埋めていける。そうすればきっと、ぎくしゃくとぎこちない関係も円滑にやっていけるはずだ。

「……やれやれ、楽観的なことだ」

「おお?」

と、エミリアの言葉に安堵したスバルへ、ふいにそう言ったのはユリウスだ。彼は肩をすくめると、スバルの視線に「いやなに」と唇を緩め、

「記憶の有無に関わらず、君が勇猛と無謀の区別がつかない一声を上げるところは変わらないなと思っただけだよ。我々に立ちはだかる障害がどれほど強大か、忘れてしまえたからこその発想、と言えるだろうか」

「そっちこそ、やけに板についた嫌味ぶりじゃねぇか。さては、そっちがあんた……いいや、お前の素ってわけか。ユリウスさん……ユリウス、だな」

「……なるほど。エミリア様のおっしゃる通り、記憶の有無など些細なことなのかもしれないな。どうあれ、そうそう人の根は変わるものではないと」

「俺も、お前とどういう付き合いだったのか結構想像がついてきたよ。お互い、わかりやすいタイプで何よりだったな」

剣呑というほどに険しくはなく、友好というには刺々しいやり取りを交換する。しかし、スバルはこれがユリウスとの距離感だったのだと確信が持てた。

最初に抱いた印象に間違いはない。スバルとユリウスとの初対面は、お互いに印象は良くなかったはずだ。その後、どういう経緯で塔へ同行するような流れを許容するに至ったかはおいおいだが――、

「またよろしくだ、ユリウス。抜けた記憶が戻るまで、適度に苦労しろ」

「ああ、仕方ない。これも務めと、甘んじて受け入れよう。――記憶など些細なこと。そう、だとも。……その通りだ」

スバルの友好の挨拶に、ユリウスが静々と頷いたところで話が区切られる。

記憶は失われ、それ以外にも問題は頻出。決して、明るい顔をできるような状況でないのは事実だが、それでもなお、顔を上げるところに強さがある。

「当人が深刻になりすぎていないところが、救いといえば救いなのかもしれないね」

「表に出てないだけで、この胸の内は嵐に見舞われてるけどな。まぁ、それはあとでエミリアちゃんに二人きりで優しく慰めてもらうから」

「――? 膝枕する?」

「あ、いえ、ごめんなさい。それはまだちょっと、早いかなぁって」

胸を張り、調子に乗った途端にスバルはへたれた。まさか、あっさりと優しく慰めてくれるエミリアの態度に心が怖気づく。

しかも、膝枕だ。自然と、視線が柔らかそうな彼女の白い腿へ向いて――、

「準備ができたわ。運ぶのを手伝いなさい、バルスケベ」

「痛ぁ!?」

膝裏に軽快な勢いで蹴りが入り、スバルはその場に悲鳴を上げて崩れ落ちる。それを横目に見下ろし、汚らわしいとでも言いたげな顔をするのはラムだ。

「無駄に前向きなのはバルスの数少ない美点ね。それを活かして、食事の準備にも前向きに取り組みなさい。片付けと、掃除と、ありとあらゆる雑用にも」

「それ、ラムが楽したいだけなんじゃ……」

「あ、お師様、あーしも手伝うッス~! ご・は・ん! ご・は・ん!」

強権を発動するラムへの抗議は、待ち切れないとばかりに食事へ飛びつくシャウラによって掻き消された。皿を運び始めるシャウラを見て、スバルも仕方なしとその準備に加わる。

「メニューは……なんか、いかにも保存食って感じだな」

「事実、いかにも保存食だもの。エミリア様のおかげでいくらか持ち運べた生鮮類も底を突いた。これから、味気ない食事が続くわよ」

「そりゃ、なるたけ早く塔を攻略して、人里へ戻りたいもんだな」

人間の心の余裕は、衣食住が整って初めて生まれるなどと聞いたことがある。そういう意味では、この塔の生活はどこまで整っているか怪しいものだ。

特に食事に関しては記憶がないのも相まって、スバルにとってはこの味気ない保存食が『異世界の味』のベーシックとして刻まれる。これは辛い。

「食事中にすまないが、ナツキくんに確かめたいことがある」

「ひもじい、ひもじいよ……って、俺に? なんだ、聞きたいことって」

異世界召喚されて奴隷落ちし、貧しい食事の内容に不平を訴えるロールプレイをしていたスバルは、エキドナの言葉に食事の手を止める。

「なに、ひとまず前向きに事態へ向き合おうと団結したところで恐縮だが、ナツキくんの身に起きた出来事について事情を共有しておきたいと思ってね。なにせ、この塔へきたことで起きた異変は君の記憶だけだ。逆説的に言わせてもらえば、いつどこでボクたちにも君と同じ現象が起きるかわかりはしない」

「なるほど、それは確かに。我が事ながらあれだが、記憶喪失って面倒臭ぇからな」

「本当に我が事なのにあれな言い方かしら……」

納得、と頷くスバルにベアトリスが呆れた風な顔をした。

しかし、エキドナの心配には一理ある。それに実際、スバルも自分の記憶が失われた経緯は知る必要があった。記憶が戻る糸口も、失われた流れに関係あるはず。

「――――」

食事するスバルの右隣にベアトリス、左隣にはエミリアがいる。記憶をなくし、目覚めたスバルの傍にいてくれた二人――彼女らが自分へ向ける、根拠のわからない信頼と好意、それがいったいどんな記憶に由来するものなのか、知りたい。

――否、思い出さなくてはならないと、そう任ずるが故に。

「とはいえ、俺も起きたら記憶がなくなってたらしいって話なんで、よくわからないんだよな。……エミリアちゃんたちは、どういう経緯で俺を?」

「それは……朝、竜車にスバルの姿が見えなくて、四層の部屋にも見つからなかったから心配になって……」

竜車、という単語に引っかかりを覚えたが、スバルは話の腰を折るのを恐れて口を挟まなかった。おそらく、緑色の部屋にいたトカゲ――地竜と関係あるものだろう。馬車みたいなものだと思われる。実物を見たい好奇心は後回しに。

「ベティーはエミリアほど切羽詰まったりはしなかったのよ。ただ、この得体の知れない塔で契約者の行方がわからなくなるのは困りものかしら。だから、エミリアと一緒に塔の中を捜し回って……」

「捜し回って?」

「三層の、あの白い書庫で倒れてるのを見つけて、緑部屋に運んだの」

エミリアとベアトリスの共同説明に、スバルは「はー」と息を吐いた。

「三層とは、この塔における複数に跨る階層の一つだ。我々がいる、この階層が四層。最上層である一層を目指し、攻略を進めている。三層はすでに攻略済み……他ならぬ君の知恵によって、だ」

「補足説明ありがとよ。……俺の知恵で、ねえ」

微妙に足りない部分を、ユリウスが詳細に補ってくれる。とはいえ、その内容はスバルにとってはやや信憑性に欠けて思えた。

しかし、そんなスバルの反応に、エミリアが「大丈夫」と言葉を継ぎ、

「それはホントのお話。私たちはちんぷんかんぷんだったのに、スバルったら一人ですぐに解いちゃって……すごーく、カッコよかったのよ」

「ははは、ありがと。……ちんぷんかんぷんって、きょうび聞かねぇな」

「――――」

「なんか変なこと言った?」

褒められた照れ隠しだったのだが、何が問題だったのかエミリアが黙りこくってしまった。一瞬、彼女の瞳が深い感情に揺れるのが見えたが、その正体はわからない。

ともあれ、水面を揺らす波紋のようなそれには追いつけず、

「ところで、倒れてた俺をあの草だらけの部屋に運んだってのは……」

「あの部屋は特別な精霊によって守られている。その精霊は人の傷を癒す力があって……だから、レムもあの部屋に寝かせてあげているのよ」

「オーケー、オーケー、理解した。それで、俺も運び込まれたわけだ。……ちなみに、記憶がなくなった原因があの部屋って可能性は?」

「それは……」

考えていなかった、というようなエミリアの反応にスバルは片目を閉じる。

これはあくまでスバルの勘繰りだが、精霊とやらの考えは不明ながら、それが植物の形をとるならある種の残酷性は考えられるのではないだろうか。

花が美しい姿と甘い蜜で、昆虫に花粉を運ばせるように。

あるいは擬態によって虫を捉え、その生命力を吸い尽くす食虫植物のように。

肉体を癒す代わりに記憶を吸い尽くす。――そんな可能性があるのでは。

「なかなか突飛な発想力だが、それは考えにくい。その場合、君よりも長く、早くあの部屋に入っていたボクにまず異変があるべきだ」

「……元の体の持ち主が起きないのは、その異変とは無関係?」

「アナのことは、この塔へくる以前からの問題だ。緑部屋との関連性はなきに等しい。あとはそうだね……部屋にいた地竜は、君を忘れていたかい?」

「なに?」

「あの地竜は君にひどく懐いていた。仮に記憶を吸い尽くす悪癖があの部屋の精霊にあったなら、彼女は君にそっぽを向くかもしれないね」

エキドナの言葉に、スバルは目覚めた直後にすり寄ってきた地竜を思い浮かべる。

確かに、あの地竜はやけにスバルに親しげだった。その原因が、元々スバルの地竜だったということなら納得だ。それと同時に驚くこともある。

「あの地竜、雌だったのか……」

「話を戻そう。あの部屋が、君に悪さを働いた可能性はあまり高くない。ボクとしてはそれよりも、君が倒れていた部屋の方に問題があると思える。三層の、あのタイゲタの書庫で目覚めたという話だったね」

「うん、そう。あの部屋で、スバルが白い床に倒れてて……」

そのときのことを思い返して、エミリアがぎゅっと自分の手首を握りしめる。

「慌ててあの部屋に運んで、みんなを呼びにいこうとしたんだけど……」

「呼びかけてる間に目が覚めて、そしたらスバルはこの調子だったのよ。だから、時間的にも緑部屋の仕業とは考えにくいかしら。……やっぱり、あの書庫に」

問題があったとすれば、その書庫とやらに原因がある。

どうやらその共通見解に至った様子だが、スバルにはピンとこない。その、書庫という部屋がいったいどんな部屋なのか、想像力が及ばないからだろう。

「その、タイゲタ? タイゲタの書庫ってのはどんな部屋なんだ? 何となく、聞き覚えはある響きなんだが……」

「あの書庫は、『死者の本』が存在する部屋だ」

「『死者の本』……ってのはまた、中二チックだな、おい」

響きへの関心は棚上げして、スバルはその『死者の本』という表現に食いつく。その反応を受け、顎を引くユリウスが「確証はないが」と続け、

「あの書庫には、世界各国の死者の名を冠した本が連なっていた。本を読むには資格がいる。おそらく、自分に関係のある死者の本だけが読めるというものだ」

「また悪趣味な……その本に、何が書いてあるんだ?」

「およそ、その死者の人生だろうか。強烈な思念が脳に焼き付くように押し寄せてくる。あまり、好んで何度も確かめたい内容ではないな」

ユリウスの説明からは、体験した当人にしか語れない事実の重みがあった。

死者の思念が脳に焼き付く、とは端的に言ってあまり味わいたい類の衝撃ではないように思えた。そして、そんな体験が可能な書庫で倒れていたのなら――、

「――俺も、本を読んで倒れてた? まさか、それで脳をやられた的な?」

「ない、とは言い切れないだろうね。そのあたり、『賢者』としてはどう考える?」

「……もしかして、あーしに言ってるんスか?」

スバルの推測に頷きつつ、エキドナが意味ありげな視線をシャウラへ向けた。その視線の意味もさながら、『賢者』とは全く不釣り合いな呼び方だ。

なんなら、シャウラが最もこの一室で『賢者』から遠い存在と言っても差し支えあるまい。

「何度言われても、あーしの答えは変わらないッスよ。あーしは、塔のことはルール以外はなんも知らねッス。あーしはルール破りに厳しくするように言われてるだけ。お師様が塔で何をしても、あーしはノー関係ッス」

「そもそも、俺はどうしてシャウラにお師様なんて呼ばれてるのかも未知数なわけなんだが……」

「安心なさい。それについては記憶がなくなる前からバルスの答えは同じよ。都合がいいから何も言わずに利用しているだけ。……最低ね」

「勝手に勝手な結論出されましても!」

親愛度MAXと表現しても過言でないシャウラの視線に、スバルは困惑を表明するしかない。

グラマラスな美女に親しくされる環境は普通に考えれば嬉しいかもしれないが、その好意の発信源がわからなければひたすらに困惑を生むだけだ。

それに、彼女の好意と親愛には奇妙な違和感を覚える。エミリアやベアトリスがスバルへ向ける、ひたむきなものとは根本が異なる何かを。

これが、記憶がないことの弊害なのか今のスバルにはわからないが。

「ともかく、その書庫ってのが怪しい。記憶の戻る手掛かりがそこにあるかもしれないってんなら、確かめにいくのも手だな」

「そうすべきだろう。ただでさえ難題が重なった状況だ。我々を悩ませる問題は少ないに越したことはない。それに、こうした状況になって素直に思い知る」

「思い知るって何を?」

「――君が、どれだけ多くを補ってくれていたかを、だ」

ユリウスの言葉に、スバルは片目をつむったまま、小さく鼻を鳴らした。

それは照れ臭いからではなく、本心からの苦笑だ。それこそ、買い被りが過ぎる。ナツキ・スバルにそこまで寄りかからねばならないなど、末期も末期。

弱り目に祟り目、相当の負担になったのだなと、改めてスバルは自分の無自覚な足手まといぶりを意識する。

「なんにせよ、食べ終わったら書庫ってとこにいってみたい。俺の落ちた記憶がそこに散らばってんなら、拾い集めて詰め直したいとこだから」

「もう、そんな変な言い方して。ホントに、スバルなんだから」

「そのスバルなんだからって言い方、たぶん褒め言葉じゃないよね!?」

あえて軽い調子に崩したスバルに、エミリアが薄く微笑みながらそう言った。それを受け、場の空気がほんのわずかだけ弛緩する。

方針が定まり、本当の意味で少しは前向きになれたような感触があった。

「そんな空気に割り込むようで悪いんだが、ナツキくんに聞きたいことはもう一つあるんだ」

「まぁ、ここまできたらもう何でも言えよ。なんだ?」

「いやなに、これはあまり記憶のことや、塔の攻略とは関係のないボクの好奇心の質問なんだが……」

そう前置きして、エキドナは緩くウェーブした自分の髪を指で撫でる。そして、愛らしい表情の中、浅葱色の瞳にだけ深く理知的な色を宿し、言った。

「君がたびたび口にする、イセカイとはどういう意味なんだい?」

第六章36 『安堵感の置き所』

――イセカイ、とはどういう意味なのか。

「――――」

エキドナの口にした問いかけに、スバルは息を詰め、黙り込んだ。

その間、室内の視線はスバルに集中する。視線に込められた感情は様々だが、往々にして共通するのは『疑念』というべき感情だろうか。

『イセカイ』なる単語に関して、全員が未知のモノと捉えている。

それはつまり、記憶をなくす前のナツキ・スバルは、そのことを彼女らに一度も説明してこなかったということで。

「イセカイ……そういえば、前からたまにスバルってそんなこと言ってたわよね」

「聞き覚えはありますね。日頃の言動から、戯言の類と気にも留めていませんでしたが」

「エミリアちゃんはともかく、ラムの俺への無関心ぶりがすごいな……」

唇に指を当て、可愛らしく真剣に考え込むエミリアとは対極的な姿勢だ。

その渋い顔のスバルの発言に、ラムは「ハッ」と冷たく鼻を鳴らしてあしらう。が、そうしてワンクッション置いてくれたおかげで、最初の驚きは和らげられた。

エミリアやラム、これまで一緒に行動していたはずの彼女たちにすら、以前のスバルは『異世界』のことを打ち明けてこなかったのだ。

それが何を意味するのか、確かなことはわからないが――、

「何かの制限があったのか? この世界に飛ばされたとき、神様か女神様に言っちゃダメって誓わされたとか……そもそも、俺はどんな使命があってここにいるんだ?」

首をひねってみるが、背負った使命の『し』の字も脳裏を過ったりしない。

思うに、スバルが異世界召喚された背景には何者かの思惑が働いているはずだ。

目下のところ、スバルの知識によれば、その何者かとはいわゆる『神』に類する可能性が高い。

その記憶に残らぬ『神』とやらは、スバルに何らかの役割を課して異世界へ送り出した。――と考えるのが、この手の異世界モノのお約束というヤツである。

なので、記憶をなくしたことが『神』にとって不都合に当たるなら、何らかのフォローで状況が改善されることを期待したいところだ。手厚い福利厚生なしに異世界ファンタジー世界へ放り出すなどと、そんな酷薄な『神』でないことを信じたい。

あるいは――、

「――実際、禁則事項なのかどうか、確かめてみた方がいい、か」

「スバル?」

乾いた唇を舌で湿らせ、スバルは置かれた状況へのカウンターを模索する。

呟きを聞きつけ、不安げにスバルを見るベアトリスにウィンクし、スバルは投げかけられた疑問――『イセカイ』に言及することとする。

仮に、万が一この発言を『神』なる存在に禁じられていたとしても、タブーに触れた結果として取り返しのつかないペナルティがあるとまでは考えにくい。

よもや、タブーに触れた途端に耐え難い苦痛に襲われるような意地悪はないはず。

少しの不安と緊張を胸に、スバルは軽く息を整える。

そして――、

「その、イセカイってのはな、『異なる』『世界』って書いて異世界……つまり、今ここに俺たちが存在してる場所とは、別の世界って意味なんだ」

「別の世界で、『異世界』……」

「そ。それで、異世界ってわけなんだが……」

スバルの説明を受け、口の中で音の感触を確かめるようにエミリアが反芻する。その反応は彼女だけのものではなく、この場の全員が同じようにその単語を確かめていた。

『イセカイ』とした発音にあったように、その単語自体を未知のモノと受け止めて。

『イセカイ』という単語への理解度の低さから想定されたことだが、どうやらこの世界には異なる世界といった考え方が一般的ではないらしい。

それと同時に、スバルは自分の体にペタペタと触れて、

「……特に、何もなさそうだな」

言葉にしてみて、スバルは自分の身に何も起きていないのを確かめる。

今のところ、自分の気付ける範囲で異変が起きた形跡はない。痛みも、痺れもない。おかしな声が『言いつけを破ってしまったのですね』と悲しげに語りかけてきたり、『あれほどいけないと言ったのに』と周りの面子が鶴に変化したりもしない。

懸念されていた不安は、何の問題もなく処理されてしまった。

「これはこれで予想外だな……」

てっきり、何か理由があって異世界のことを話していないのだと考えていたが、この分だと引っかかるものは特に思い当たらない。

そんな肩透かしな感覚にスバルが首を傾げると、「いいかい」とユリウスが手を上げる。

「異世界、という単語の意味は分かった。君らしい造語とも受け取れるが、いささかその含意に思うところがある。何故、君はその異世界をたびたび引き合いに?」

「あ? あ、ああ、そっか、そうだな。ただ異世界って単語の説明をしただけじゃ、お話になってねぇよな。ええと、つまり……」

「つまり?」

ユリウスの追及を受け、スバルは自身の説明不足を認める。

そして認めた上で、一度、咳払いをすると、

「俺は、その異世界ってヤツの出身なんだ。この世界で生まれて育ったんじゃなく、途中からこの世界に紛れ込んだ異分子。――だから、俺にとっちゃここが異世界ってわけ」

――そう、はっきりと自分の立場と境遇を表明した。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――自分は異世界からこの世界へやってきた人間である。一つよろしく。

大まかに言ってしまえば、スバルが打ち明けたのはこうした内容だ。

その大胆な告白に、打ち明けられた側のエミリアたちの動揺は想像に難くない。なにせ、異世界なんて存在からして知らなかった彼女たちへの爆弾投下だ。

これまでの常識が覆され、世界がひっくり返ったような衝撃を味わって不思議はない。

告白を終えてからその懸念に気付いて、スバルは自分の迂闊さを呪った。

これで、エミリアやベアトリスが混乱の渦に呑まれて嘆き悲しむようなことがあれば、それをもたらした加害者としてスバルには責任を取る義務がある。

はたして、泣き崩れる美少女をどうやって慰めればいいのだろう。経験がない。

と、スバルは数秒の間にそんな不安を抱き、ちらりと告白を受けた面々に目をやる。

全員が顔から血の気を失い、さぞ混乱しているものと思った。のだが――、

「……ええと、それって、大瀑布の向こうってことでいいの?」

「へ? 大瀑布?」

思わしげに眉を寄せ、おずおずと切り出したエミリアにスバルは目を丸くする。

聞き覚えのない単語――瀑布、とは滝か何かのことだと思ったが、大瀑布となるとそれの大きいバージョン。巨大な滝のことだと思っていいものか。

――否、そもそも大きな滝と異世界に、何の関係があるというのか。

「いや、全然違うって。滝とは無関係。滝じゃなくて、ここと常識とかから完全に違ってる世界の話で……」

「だから、それが大瀑布の彼方でしょう。バルスの故郷でどんな言い方をしているか……いいえ、バルスの故郷からすると逆なのかもしれないわね。大瀑布を挟んで、こちらの国々の方が『異世界』。素っ頓狂な言動にも、納得がいくわ」

「そうだね。ナツキくんの素性をどれだけ調べても追いつかなかった理由は、彼が大瀑布の彼方の出身だったためというわけだ」

「って、おいおい、それでさらっと納得いくのか!?」

エミリアだけでなく、理知的に思えたラムやエキドナまでもがその結論に納得する。

スバルにとっては理解し難い謎の滝への信頼度だ。大瀑布の彼方――滝の向こう側に異世界があるという考えは、いったいどこのトンネルの不思議の国なのか。

「色々忘れたスバルには心当たりはないかもしれんのよ。でも、大瀑布……世界の果てにある水際、その彼方からきた人間の話はいくつか残されているかしら」

「世界の果ての水際……その響きは嫌いじゃねぇけども」

「大瀑布は、龍以外は渡れないとされるその此方と彼方の境なのよ。彼方に何があるのか知るものはいない。……だから、稀にその堺を越えたものがいたとして、それが語った言葉を嘘や偽りと否定する根拠は誰も持たないかしら」

受け入れ態勢に入った聴衆の納得、その下地をベアトリスが説明してくれる。

その内容はイマイチ、こちらの世界事情に精通していないスバルには想像しづらいところがあったが、『大瀑布』なる単語と今の説明で考えられるのは――、

「ここは浮遊大陸みたいな感じの場所で、別の大陸には龍じゃないと渡れない的な?」

「はぁ」

「そこ、すごい不満げにため息つくな。傷付くだろ」

何となく説明づけようとしたスバルの発言を、ラムがものすごい失望の目で見る。

しかし、大なり小なり、他の面々もスバルの発言に思ったことは共通した様子。つまるところ、浮遊大陸説は見当違い。

「的外れなら的外れで了解したよ。……もしも今の説が正しかったってんなら、龍の背中に乗って気持ちよくアハ体験って期待もあったんだけど」

「そおんなこと言ってると、お兄さんの可愛い地竜が拗ねるんじゃないかしらあ」

「あ、そっか。あの黒い地竜って、俺の地竜なんだっけ。あとで乗せてもらおう」

「あーしも! あーしも、拗ねるッス! お師様、もっとあーしのこと大事にして愛でて愛したりするべきだと思うッスよ~。記憶なくした今こそ、関係リスタートッス。ゼロからッス!」

「うるさいし、べたべたすんなし。あと、他人事だからって記憶なくした事情をそんなにさらーっとつつくんじゃないよ」

膝を抱えたメィリィとのやり取りに、はしゃぐシャウラがやかましく加わる。

なかなか容赦なく踏み込むシャウラの発言だが、それが今のスバルにとってはかえってありがたく感じられた。――気遣われすぎるのも、やはり辛いのだ。

「――――」

ちらと、スバルは周りの空気感というヤツに目を向ける。

元の世界では『空気を読まない』ことに定評のあったスバルだが、それも時と場合、状況によりけりだ。いかに適性が低くても、味や色が濃ければ読めも見えもする。

エミリアとベアトリスは言うに及ばず、ラムやユリウス、アナスタシア=エキドナすらも、その態度にはスバルへの気遣いが見えている。

良くも悪くも、記憶をなくす前のスバルは彼女らとうまくやっていたのだろう。羨ましい。いったい、どんな魔法を使ったのか教えてほしいぐらいだ。

教えてもらったところで、今のスバルに実践できるとは到底思えないが。

「とにかく、今の話をまとめると……この世界の端っこは大瀑布って滝になってて、たまにその向こう側からやってくる奴がいる。で、俺もその一人だと」

「スバルの話を聞くと、そうとしか思えないんだけど……違うの?」

「うーん」

思わしげなエミリアの目配せに、スバルは腕を組んで難しく唸った。

正確には、どころかかなり大きくスバルの意図した内容と食い違ってしまう理解だ。とはいえ、スバルがここで滾々と『異世界』と大瀑布の違いを説いても、事態に改善は見られない可能性が高い。

「要するに、だ」

この世界には、『異世界』という概念は存在しないのだ。

エミリアたちの認識する、『大瀑布の彼方』が実際にスバルのいた世界や、別世界の存在を示唆しているかはわからない。実際に滝の向こうには別の大陸的なものがあり、そこからやってきたコロンブス的人物の記録が『変人』として残ったのかもしれないのだ。

そうなると、もはや『異世界』の正しい理解はお手上げと言っていい。

「ちなみに、記憶がなくなる前の俺が異世界の話をしたことはないんだよな?」

「思い返すと、たまに『異世界』って口にしてたことはあるけど……こんな風に、ちゃんとそのお話をしたのはこれが初めてよ」

「エミリアに同じ、なのよ」

エミリアとベアトリスが言葉で、他の面々は仕草で質問の答えを肯定する。

以前のスバルは彼女らに『異世界』の話をしていない。それは、今のスバルと同じように話しても理解は得られないと判断したためか。

そうでなければ――、

「――話しちゃいけないって、心に鍵をしてたから、か」

「スバル?」

「んや、なんでもない。時に、俺以外にもいわゆる異世界人がいるってんなら、知り合いにもいたりする? 大瀑布の彼方人か、漂流者ってんでもいいけど」

ひょっとすると、異世界からの漂流者が大勢いて、そんな人間だけが集まったコミュニティ的な自治体が存在するかもしれない。

が、そんなスバルの希望にユリウスがゆるゆると首を横に振り、

「残念だが、君の言うところの漂流者の存在は非常に稀だ。そもそも、大瀑布の彼方からやってきたと吹聴するのは、その大部分が虚言か空想癖のあるものの場合が多い。夢物語をでっち上げ、人の関心や金銭を目当てにするような輩がね」

「あー、うん、まぁ、そうだよな……」

確かめようのない話だけに、作り話に尾ひれ背びれはつけ放題。夢のある話もアンニュイな物語も想像/創造が自由となれば、そこは夢想の温床だ。

仮にスバル同様に本物の異世界人がいたとしても、彼らの言葉や行動、残したものは無数の虚偽の中に埋もれ、見つけようがなくなったことだろう。

「――正直なところ、大瀑布の彼方への興味は尽きない。しかし、どうやらそのことと現状に関連性はないらしい。ナツキくんの持つ知識や不明な出自に説明がついた、という一点に重点を置いて、この場は収めるのが得策だろう」

気まずい沈黙が生まれかけたところで、そう話題を区切ったのはエキドナだ。

元々、彼女がスバルに水を向けたことで発生した話題だったので釈然としない部分はあるが、どうあれスバルも異論はない。

――それに、元の世界の話をすればするほど、置き去りにして投げ捨ててきた問題と向き合わなければならなくなる。それは、心が重く、辛かった。

目の前の、この非常事態に集中することで、今はそれを忘れていたい。

「俺のことはそんなとこだ。みんなが心配して愛してくれてるのはわかったけど、おちおち話し合ってても埒が明かない感がある。なんで、そろそろ」

記憶を失った直接の原因かはわからない。

だが、記憶のあったスバルが最後に向かったと目される場所――そこで何が起きたのかを確かめたい。

「問題の、『タイゲタ』の書庫でのことを確かめるかしら」

言葉を引き継いでそう言ったベアトリスに、スバルは深く頷き返した。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

さて、そんなこんなで『タイゲタ』なる書庫へ向かう一行。

いったい、どんなものが待ち受けているのかと緊張するスバルだが、目的地以前に道中もなかなかに苦労の連続だった。

それというのも、

「あの、エミリアちゃん? なんで、ぎゅっと手を握られてるんでせう」

「え? だって、スバルを放っておくと心配なんだもの。手の届く場所にいてもらわないと……で、それなら最初から手を繋いでたらいいかなって」

「その結論は短絡的で好きだけど、こう、結構以上に恥ずかしいし!」

と、頬の熱さを自覚しながら、スバルはエミリアに握られた手を持ち上げる。

ほっそりとした可愛らしい手指、柔らかい握力に悪気なく手を握られ、スバルは手汗を掻いていないか心底心配になる。

そんなスバルの言葉に、エミリアは「もう」と怒った風に眉を上げ、

「そんなこと言って。ベアトリスとも手を繋いでるんだから一緒じゃない」

「幼女と手を繋いでることと、美少女と手を繋ぐこととの間には今日も冷たい雨が降るっていうか、雲泥の差っていうか、月とすっぽんならぬ幼女と美少女の差があるんだよ」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

テンパってあれこれと言い訳を並べるものの、放置しておいた結果として記憶をなくしてきた前科を持つスバルにエミリアは寛大ではない。恨むぞ、記憶。落とした自分。

「今の発言は聞き捨てならないけど、エミリアの言う通りなのよ。スバルは大人しく、ベティーとエミリアに手厚く保護されていればいいかしら」

「そうは言ってもな。これがベアトリスが真ん中で、それを両側から俺とエミリアちゃんで挟んでる若夫婦スタイルなら歓迎だけど、これはカッコ悪くない?」

「スバルはカッコ悪くなきゃスバルじゃないのよ」

「それ、どんな評価!?」

エミリアとは反対の手を握るベアトリスにも散々な評価を喰らう始末だ。

その二人の心配を筆頭に、ささやかな部分で気遣いが連続するのが気にかかる。

集団の先頭を歩くユリウスはたびたび振り返り、ユリウスに続くエキドナは曲がり角の先に何があるのかいちいち解説してくれる。

発言すれば辛辣なラムだが、気を張っている彼女が見かけ以上に苦しんでいることを、他でもないスバルだけは知っていた。誰かに相談すべきかとも思うが、ラムの事情を誰に打ち明けていいものか、その判断がスバルにはつかない。

こうなると、最後尾で気楽にやり取りしているメィリィとシャウラの二人だけが、今のスバルにとっては精神的に癒しだった。

「まぁ、何かの役に立つわけじゃ全然ないんだが……」

「……なんだか、すごおく失礼なこと考えてなあい? お兄さん」

「お師様の頭ん中はいつもそんな感じッス。気にするだけ損ッスよ。いっぺん、覗いてみたら一面ピンク色でぶっちゃけ引くッス。桃色脳ッス、破廉恥学園ッス」

「破廉恥でも学園でもねぇよ。お前、それどこ知識だよ」

「お師様由来ッス。あーしの知識は丸っと全部、お師様由来ッス」

会話するだけ頭が痛くなる。が、それすら心地いいのだから重症だった。

ともあれ、道中にそんなやり取りを交わしつつ、一行は階段を上がり、三層『タイゲタ』と呼ばれる空間へ到着する。

時間や距離を大きく上回って疲れる展開だったが――、

「ここが、『タイゲタ』……聞いてた通り、本だらけだ」

ざっと、大量の本に所蔵するタイゲタを見回し、スバルは感嘆の息をつく。

なるほど、これは想像以上の光景だった。

スバルもなかなか読書家(ラノベや漫画、攻略本など)だったが、これほど大量の本に囲まれた経験はついぞない。無論、国会図書館などと比較すればあちらが勝るのかもしれないが、その勝利はスペースの差がもたらしたものに過ぎない。

ともあれ、その絶景が意味するところはただ大量の所蔵量というだけではなく――、

「ここにあるのは『死者の本』って話だったが……つまり、この本の数だけ死者がいたって話になるわけだ。……ホモサピエンスの頃から延々と記録し続けてるんだとしたら、文字通り気が遠くなる記録量だよな」

この世界の規模はわからないが、死者の記録が余さず本になっているなら、その量は数え切れるものではない。目的の本――見知った死者の名前を探し出そうとしても、到底見つけられるものとは思えなかった。

「今どきの図書館なら検索機能は必須みたいなとこあるけど、ここには?」

「その、検索機能とやらのことはわからんかしら。ただ、ここにはベティーのような司書はいないのよ。手探りで確かめていくしかないかしら」

「砂漠に落とした百円玉を探すような作業だな……」

げんなりとしながら、スバルは手近な本に手をかける。

本棚から引き抜かれた一冊は容易く手に収まり、眺めても特にこれといった特別さは感じられない、いたって普通の本だ。タイトル以外のデザイン部分はなく、非常にシンプルな出来といえるだろう。問題があるとすれば、

「しまった。タイトルが読めねぇ」

そのタイトルとおぼしき、ミミズののたくったような文字が解読不可能なことだ。

エミリアたちの話では、本のタイトルは『死者』の名前と聞く。それが接点のある死者であれば、生前の記憶が読み返せるらしいが、そもそも文字がこれではスバルに読解はできなそうだ。――記憶が危うい今、その接点が意味を持つかも怪しいが。

「うーむ、これは難しいかも……って」

「スバル!」

途方に暮れた気分で振り返ったスバルは、突然の声に大きく驚く。

次の瞬間、手にした本がもぎ取るように奪われ、それをしたエミリアが本を胸に抱いて大きく後ろへ下がっていた。

「え、ええと、エミリアちゃん?」

「迂闊なことしちゃダメじゃない! スバル、わかってるの? スバルはきっと、ここで記憶をなくしたのかもしれないのよ?」

「いや、そんな大げさな……」

血相を変えたエミリアの言葉に、スバルは苦笑して頬を掻く。

しかし、事態を軽く受け止めているのは、どうやらスバルだけらしい。

「スバル、エミリアの言う通りなのよ。直感で動くのは控えるかしら」

「私も同意見だ。軽挙な行動は慎むべきだろう」

「む……」

ベアトリスとユリウス、両者から追撃で注意を受け、スバルは喉を詰まらせた。

胸に湧くのは反感ではなく、バツの悪さからくる恥の感情だ。

確かに少しばかり、迂闊な行動が過ぎたかもしれない。

「ぷぷーっ! お師様怒られてるッス! それでしょんぼりしてるッス! でもでも、あーしはそんな情けなくて悪ガキっぽいお師様でもカマンッス!」

「うるせぇよ。人が素直に反省してるのを茶化すな」

「こらこら。またそうやって話の腰を折られては困るよ。実際、ナツキくんの行動はやや軽率ではあったが……判明したこともある」

口に手を当て、盛大にスバルの凡ミスを笑い飛ばすシャウラ。そのシャウラにスバルが噛みつくのを、間に割って入るエキドナが遮った。

それから、彼女は襟巻きをそっと手で撫で付けながら、

「ナツキくんは、本の題名が読めなくなっていた。そうだね?」

「――? ああ、そうだな」

「ここからわかることは、彼のように記憶をなくすことがあれば、識字能力――もしくは認識能力に支障をきたすということだ。異世界への言及も、そうしたことが原因で……」

「残念だけど、スバルが文字の勉強を始めたのはロズワールの屋敷にきてからなのよ」

「――――」

自信満々に語ろうとしたエキドナが、ベアトリスの突っ込みを受けて閉口する。そんなエキドナの反応に構わず、ベアトリスは短い腕を組むと、

「屋敷にくるまで、スバルはイ文字の読み書きもできなかったかしら。そのことは、教育係だった姉妹の姉も知っているのよ」

「ええ、ベアトリス様の仰る通りです。元々、バルスは文字の読み書きもままなりませんでしたので、ラムが献身的に教育を。……今の体たらくを見るに、その努力も無駄になったようですが」

「悪かったよ! そんなエピソードがあるなんて知らなかったからな!」

説明を引き継いだラムの恨み節に、スバルは声を高くして謝罪する。その息を荒くするやり取りを横目に、エキドナは咳払いした。

「コホン。どうやら的外れだったようだ。ボクの意見は忘れてほしい」

「いや、的外れというほどのものではないよ。少なくとも、これでスバルの記憶が失われたのが、ルグニカにきて以降のものであることは発覚した」

「つまり、バルスがこの書庫で何の役にも立たないお荷物という事実ね」

ユリウスの確認を、ラムが辛辣に補足する。もはや何を言っても藪蛇なのでスバルは言及しないが、ユリウスは「ラム女史の言葉は正しい」と顎を引いて、

「言い方はともかく、だ。いずれにせよ、スバルに昨夜の再現をさせるわけにもいかないところだった。ここは、彼以外の我々で手掛かりを探すべきだろう」

「うん、それが安全だろうね」

「異存はないわ。エミリア様とベアトリス様も、それでよろしいですか?」

己の肘を抱くラム、その言葉にベアトリスは「わかったかしら」と頷く。そして、エミリアは真剣な瞳をスバルへと向けて、

「スバル、お願いだから大人しく待っててね。きっと、スバルがなくした記憶、私が……私たちが見つけてあげるから」

「お、おお、わかった。何にもできないってのが歯痒い感じだけど、ここはエミリアちゃんたちを信じて大人しく待つぜ」

「本当に大人しく待てる? 勝手に動かない?」

「すごい念押しするね! 大丈夫だよ! 五歳児じゃないんだから、大人しく待つぐらいできるって。約束してもいいぜ」

「じゃあ、やっぱり大人しくしてないつもりなんじゃ……」

「どういうこと!?」

安心させようと約束を持ち出したのに、余計に不信感を買う結果に終わる。

何事かと周りを見れば、ユリウスとエキドナの二人はともかく、ベアトリスとラムの二人はさもありなんとばかりに肩をすくめていた。

ともあれ――、

「スバルは大人しく端っこで待っててね」

と、エミリアの真摯な訴えを受け、スバルは仕方なく書庫の端っこで待機する。

膝を抱えて何となしに作業を見守れば、エミリアたちは二組に分かれて書庫を別々に捜索する模様だ。組み分けはエミリア・ベアトリス・ラム組と、ユリウス・エキドナ組。

イマイチわかっていないが、エミリアとエキドナがそれぞれ、この凸凹チームの頭として機能しているらしい。

「組んで探してるのは、お兄さんみたいにならないための保険みたいねえ。お兄さんってば、本当に問題を持ち込むのが得意なんだからあ」

「記憶はねぇけど、記憶がないことが問題なわけだから俺は何も言い返せねぇ……いや、やっぱり殺し屋に言われたくはねぇぞ」

「つまらないこと気にするんだからあ」

「つまらないことじゃないと思うよ!? 大体……」

声高に突っ込み、舌打ちしてからスバルは視線を横へ向ける。

壁際で、本棚から離れて待機するスバルの隣、そこで同じように壁に寄りかかっているのは三つ編みの少女、メィリィだ。

彼女は年齢に不相応な艶っぽい流し目をスバルへ送り、「なあに?」と首を傾げる。

「さっきから思ってたんだが、お前はこの捜索に加わらないのか?」

「うん、加わらないわあ。だって、わたしってお兄さんやお姉さんたちのちゃんとしたお仲間ってわけじゃないものお」

「ちゃんとした仲間じゃないってのは……」

「言ったでしょお? 殺し屋……失敗したから、元殺し屋かも。元々、ここにはちょっとしたお手伝いできただけだものお。それ以上は知らないわあ」

「つまり、保釈の条件みたいな感じか。……元でもなんでも、殺し屋を味方に加えて冒険って、なかなか思い切った判断したんだな」

「――。ええ、ホントにそうねえ。ホントに、どうかしてると思うわあ」

口元に手を当て、メィリィはくすくすと笑って会話を区切った。

そんな彼女の態度にスバルは鼻から息を吐く。そして、

「メィリィの意見はわかったけど、お前は?」

「あ、あーしッスか? あーし、読み書きできないから何の役にも立たねッス。お師様と一緒で、本の内容とかチンでプンでカンッスよ」

スバルを挟み、メィリィと反対側で壁に寄りかかるシャウラがあけすけに笑う。それから彼女は手を伸ばし、スバルの左腕をその豊満な体に引き寄せた。

柔らかく、温かい感触。思わず、それを振りほどく。

「うおわ!」

「あーん、お師様ったらいけずッス~」

「い、いけずとかじゃねぇよ、やめろ。女の子がはしたない……そういうのは、好きな男とかに……いや、好きな男も、いきなりそんな感じでこられたら引くからやめとけ。お前のそれは、百害あって一利なしだ」

「ぶーぶーッス。また女子の品格の話ッスか。お師様、マジ変わんないッス」

唇を尖らせ、シャウラがスバルの態度に不服を申し立てる。しかし、その彼女の言葉にスバルは鼻白み、目を伏せた。

「お師様?」

「お前も、俺は変わってないと思うか?」

首を傾げるシャウラに、スバルは思わずそう問いかける。

変わっていないという表現は、この目覚めた数時間で何度かかけられた言葉だ。それはスバルにとって救いであり、呪いにも思えた。

――変わっていないことを喜ばれるのも、変われていないことを嘆かれるのも。

「うーん、よくわかんねッス」

だが、そんなスバルの葛藤を余所に、シャウラはあっさりとそう言い放った。

さすがのスバルも、その返答には呆れるしかない。あるいは彼女に、こんな繊細な悩みの一端を聞かせたのが間違いだったのかもしれないが。

「お前な……いや、お前に聞いた俺が馬鹿だった」

「むー、お師様は馬鹿じゃないッスよ。そんな言い方、たとえお師様でもあーしが怒るッス。お師様はすげーお人なんスから、胸張ってほしいッス」

「お前のスタンス、イマイチよくわかんねぇな」

凹んだスバルを指差して笑ったかと思えば、スバルが自嘲気味になればそれを怒る。一貫しているのは、それがスバルに関わる話題であることだけ。

そんなスバルの疑問に、シャウラは豊かな胸を張り、腰に手をやって笑う。

「変わったとか変わってないとか、お師様はお師様なんでどーでもいいッス。お師様は好きにしてくれたら、あーしはそれについてくだけッスもん」

「――。その結果、おかしなことになってもか?」

「ま! それで変なとこ辿り着いても、あーしが無理やりこじ開けるッス。お師様は忘れちゃったかもしれないッスけど、それがお師様とあーしの関係ッスよ」

「――――」

積み重ねられるあけすけな言葉、裏表など微塵も感じられないシャウラの発言、それを何度も叩きつけられ、スバルは微かに息を呑んだ。

それから、シャウラに顔を見られないように顔の向きを変える。

「お兄さん?」

「――ッ!」

反対を向いたらメィリィがいたので、再び反対へ顔を向け直す。

「お師様、どうしたッスか?」

「がぁ、もう!」

結局、スバルは左右に逃げ場がなく、その場にしゃがみ込んで床を睨みつけた。両腕で頭を抱くように抱え込み、誰にも今の顔を見せない。

スバルを間に挟んで、メィリィとシャウラが顔を見合わせている気配がする。

彼女らにはわかるまい。――否、わかってほしくない。

あんな、空っぽで考えなしで、隙間だらけの言葉に救われた気持ちになるなんて。

気負わなくていいのだと、言葉より雄弁に態度で示された気がして。

「お兄さんったら、変なのお」

「お師様が変なのは元からッス。でも、そんなとこも愛してるッス」

頭を飛び越えた少女たちのやり取りに、スバルは何も言えない。

ただ、ほんのわずかにだけ、心を急き立てる切迫感が和らいだ気がした。

――スバルが何とか衝動を受け流して立ち上がったのは、エミリアたちが収穫なしと戻ってくる、ほんの数分前のことだった。

第六章37 『ハリボテの見る夢』

――第三層『タイゲタ』の捜索は収穫なしの結果に終わった。

「ごめんね。一生懸命、手掛かりを探したんだけど……」

その不甲斐ない結果に、深刻な顔でエミリアがスバルに頭を下げた。その謝罪を恐縮して受けたスバルだが、正味なところ、落胆はそれほど大きくない。

もちろん、ここで記憶を取り戻せればそれが一番だったことは間違いない。だが、元々記憶をなくした自覚に乏しかった上に、彼女たちの捜索活動中、少なくとも何の収穫もなかったなんてことは心情的に思えなかったからだ。

「――? お師様、どーしたんスか?」

「んにゃ、何でもねぇよ」

ちらと視線を向けられ、シャウラが能天気な表情で首を傾げる。長い、漆黒の三つ編みを揺らしたその姿に、スバルはこそばゆい思いを抱きながら肩をすくめた。

他意なく、悪意なく、深い考えもない。

つまるところ、それは何も考えていないということであったが、そんなシャウラの態度が今のスバルには救いに思えた。

少なくとも、何かにつけて顔色を窺われたり、過剰な心配をされたり、一挙手一投足を不安げに見守られるよりは、よほど。

「見たところ、どうやら本の並びに規則性はないらしい。題名通りに並んでいることも、時系列が整っているとも考えにくい。それどころか、昨日は見つかったはずの本も、記憶を辿ったが同じ書架に収まっていないほどだ」

「そいつはまた、厄介で不親切な図書館があったもんだな」

書庫を見回すユリウスの発言に、スバルは鼻面に皺を寄せた。

圧倒的な蔵書量を誇るだけに留まらず、その本の並びから位置までごちゃ混ぜになるとあっては、図書館利用者として完全にお手上げだ。

仮に目的の本があったとしても、これでは一向に見つかるまい。

「例えばだけど、片っ端から本を抜き出して床に積んでおくとかダメなのか? 端っこの本棚……ぐるっと部屋中囲まれてるから端っことかないけど、どっかをスタート地点って決めてしらみつぶしに当たってけば、どっかで成果があるんじゃないか?」

「ボクの想像だが、それはやめておいた方が賢明だろうね。おそらく、それは塔内でやってはいけない禁則事項に触れる。――書庫への不敬、そう見なされかねないよ」

首を傾げ、そう提案したスバルの意見をエキドナが却下する。そのエキドナの意見に、ベアトリスが「そうかしら」と短い腕を組んで、

「床に本を放置するなんて、司書の経験者であるベティーも見過ごしてあげないのよ。そんな、本に対する敬意のない真似をしてはダメかしら」

「ベアトリス様は、わりと床に本を積んでいたことが多かった気がしますが」

「あれは、床に置いておくのが正しい保存法の本だったのよ」

ベアトリスの苦しい言い訳に、薄紅の瞳を細めてラムは何も言わない。ただ、深々とため息をついた姿に、ベアトリスがショックを受けた顔をしていた。

と、そんな司書トークの傍ら、スバルは「禁則?」と首を傾げる。

「ごめん、また聞いてない話っぽい。その禁則ってのは?」

「あ、ごめんね。ちゃんと説明してなかったみたい」

そのスバルに、エミリアが指を立てる。

「実は、この塔の中で何個かしちゃいけない決まり事があるの。ええと、『試験』を終わらせないで塔を出ちゃダメとか、書庫で悪いことしちゃダメとか、塔を壊しちゃいけませんとか、そういう決まり事」

「なるほど。で、床に本を置くのは書庫で悪いことしちゃダメってことか。……ちなみにだけど、そのルール違反の判定って誰がするんだ?」

「はいはいはーい! 星番のあーしがするッス! っていうか、ルール違反があったら、なんか勝手にあーしがビビッときて、そんで血も涙もないキリングマッスィーンになるッス! なんで、なるたけやめてほしいと思うッス!」

「血も涙もないキリングマシーン……お前が?」

元気よく手を上げたシャウラを見て、スバルは胡散臭いと鼻で笑った。

シャウラの軽口をどこまで信じるかは別として、この溌剌としてやかましい少女が、血も涙もない殺人機械に変化するとは到底考えにくい。そもそも、女の細腕でどこまでのことができるのか――というのは、魔法ありありのファンタジー世界では通用しないか。

それに事実、シャウラの立場はスバルやエミリアたちの味方というわけではなく、このプレアデス監視塔とやらの星番――監督役であると聞いていた。

メィリィとはまた違った形のイレギュラーポジションであり、塔内の『試験』を速やかに進行するためのまとめ役なんだとか。――全く、そんな印象はないが。

「本気でそんなに重要なポジションなら、俺とお前のよしみで色々見逃してくれよ」

「あ、悪い人ッス! お師様マジダーティーッス! でも、そんなちょい悪なところもたまんないッス! そんなお師様のお願いなら聞いてあげたいこと山の如しなんスけど、これってあーしの意思とかわりと無関係なんで、諦めてスポーツマンシップに則って正々堂々の和気藹々と頑張ってほしいッス」

「使えねぇ」

「あひん」

監督役を不正に抱き込む作戦は、思いの外、監督役の権限が浅すぎて失敗に終わる。

ついでに、会話中にぐいぐいと顔を寄せてきたシャウラの額にデコピンを入れて、その愛嬌のある顔を後ろへのけ反らせた。そのままスバルは力なく嘆息する。

すると、

「……なんだか、スバルとシャウラ、すっかり仲良しさんね」

そのスバルたちのやり取りに、エミリアが囁くようにそう言った。

微笑ましい、とでも言いたげな発言内容に、スバルは気恥ずかしさもあって、「いやいや、そんなことないよ」と振り返る。

「――――」

しかし、その軽口を叩こうとした勢いは、瞳を伏せたエミリアの表情に止められた。

エミリアは微笑んだりしていない。ただ、長い睫毛に縁取られた目を伏せ、紫紺の瞳を寂しげに揺らしていた。

その様子にスバルが息を呑むと、それに気付いたエミリアが慌てて手を振る。

「あ、違うの。仲良しなのはすごーくいいことよ。沈んだ顔なんて、スバルには似合わないし……うん、全然いいの」

無理な笑顔を作り、エミリアはどこか自分に言い聞かせるように言った。

「あー、エミリアちゃん。あのさ、俺は……」

頭に手をやりながら、スバルはそんなエミリアにかける言葉が見つからない。

今は、何を言っても不正解になる気がするのだ。

そもそも、この場における正解は彼方に消えた記憶の中にしかない。提示される選択肢の全てが誤答である、そんな悪夢的な状況が今なのだ。

そんな状況で、目の前の悲嘆を堪える少女になんて言葉が――、

「ねえ、それでこのあとはどうするのお?」

と、そうして沈黙が生まれかけた状況に、甘ったるい声が一石を投じた。

見れば、そうしたのはタイゲタの床に座り込み、頬杖をついたメィリィだ。彼女は低い姿勢から、大人たちの顔をぐるりと見回して、

「お兄さんの記憶の手掛かりは見つからなかった。それは残念だし、別にいいんだけどお、それなら次はどうするのかしらあ。まだ、記憶の手掛かりを一生懸命探すのお? それとも……」

そこで言葉を切り、メィリィは頬に当てたままの右手の指を立て、天井を指差した。

そして、どことなく挑発的な微笑を作る。

「また、上を目指してみるう? お兄さんの記憶のことは、いったん後回しにして」

「……そう、だね。それも、一考の余地がある」

メィリィの言葉を受け、そう応じたのは思案げな顔つきのエキドナだった。その肯定的なエキドナの反応に、エミリアが目を丸くする。

「待って。急ぐ気持ちは私も同じよ。でも、スバルをこのままになんてしておけないわ」

「君の考えはわかるよ。ボクやユリウス、それに他のみんなも、ナツキくんの記憶が戻ることが望ましいのは間違いない。……ただ、現状はこうも考えられないかな? ナツキくんの記憶がなくなったのは、この塔の『試験』の一環かもしれないと」

「スバルの記憶が、『試験』の一環?」

思いがけないエキドナの言葉に、エミリアだけでなく、他の全員が首をひねる。そんな中で、エキドナだけが「いいかい?」と片目を閉じた。

「この塔に常識が通じないことはすでに疑問の余地がないと思うが、ナツキくんの身に起きたことが塔と無関係とは考えにくい。それがあるから、こうしてボクたちはタイゲタまで足を運んだわけだしね。――記憶は、大きく言えば塔に奪われたと考えられる」

「記憶が塔に奪われた、って響きは中二的でカッコいいと思うぜ。これが自分のことでなければ、俺もワクワクして話に乗っかっただろうが……そもそも、タイゲタの『試験』は終わってたって話だ。ここで記憶を抜かれるのって変じゃないか?」

「うん。だから、ボクは記憶が奪われた理由は直接的に『試験』が理由ではなく、禁則に触れたことが原因じゃないかと考えている。タイゲタの『試験』は終わっても、塔全体の機能は全うされてない。本を持ち出したり、書庫への不敬ができないみたいにね」

エキドナの推論が披露され、スバルは大いに頭と首をひねって考え込んだ。

つまるところ、エキドナの推論はこう言いたいのだ。

「昨日の俺が、ここで禁則事項を破って頭ボカーンってなったんじゃないかってことか。正直、抜け道探そうとするのは楽したがりな俺らしすぎて反論できねぇけども」

「でも、それだと、シャウラが怒るはずなんじゃないの?」

スバルの結論にエキドナが首肯したが、そこにエミリアが割り込んだ。挙手したエミリアはシャウラを手で指し示して、先ほどのやり取りを思い出させる。

「規則に違反したら、シャウラが怒るはずでしょう? 記憶とは全然違う話のはずよ」

「そうですね。バルスが愚かしくも規則を破った可能性はわかりますが、シャウラは今もラムたちに牙を剥いてはいない。これはどう考えるの?」

エミリアの言葉を引き継いで、ラムが「それとも」と薄紅の瞳でシャウラを見つめる。

その視線に、シャウラは「うひ」と居心地悪そうにスバルの後ろに回り込んだ。

「まさか、本気でバルスのために役割を放棄したとでも?」

「さすがにそれは楽観が過ぎるだろう。ただ、シャウラ女史は先ほど自分でも言っていたように、この塔で行われる罰則の実行役である自覚が希薄だ」

肩をすくめ、ユリウスがエキドナの隣に立って、彼女の意見を支持する。

「我々に提示された禁則は四つ、その禁則を破った場合、与えられる罰は一律ではない可能性もある。シャウラ女史が敵に回り、我々に攻撃を仕掛けてくる場合もあるのかもしれないが、例えば書庫への不敬の罰は記憶の喪失……」

そこで、ユリウスは言葉を切った。彼の黄色い瞳が、ふとスバルへ向けられる。

「――――」

その瞳の奥を過った感情、それは複雑怪奇でスバルには内実が読み取れない。

しかし、ユリウスはすぐに「もっとも」と言葉を継ぐと、

「この推測が正しいかどうか、試して実証する猶予は我々にはない」

「本当に記憶がなくなるだけなら、目覚めて四、五時間のバルスの記憶を生贄に捧げて確かめるって手段もあるわよ。被害は最小限で済むわ」

「人の記憶をモルモットにするのはやめろぉ! 記憶がその人を形作るんだぞ! ほんの四、五時間でも俺は俺だ! ボク、悪いナツキ・スバルじゃないよ!」

「冗談よ」

ぷるぷる、と首と手足を激しく振ったスバルに、ラムがそっけなく言い捨てる。

本当に冗談や嘘だったのか、正直ちょっと疑わしい。そう思うのは、彼女がおそらく高潔で、人に弱味を見せたがらない性質だと、接した時間は短いながらもわかるからか。

つまるところ、意図せず弱々しいところをスバルに見せてしまった恥を、消したいと本気で思っていても不思議ではないのではと邪推。

ともあれ、エキドナやユリウスの推論が事実かどうかは別として、一つの可能性としては十分に考慮に値する。

それと同時に、この記憶の喪失に関してスバルも思ったことがあった。

それは――、

「ぶっちゃけ、二人の意見が本当かどうかとは置いといても、ここで手当たり次第に足掻きまくるってのは俺も反対かな。なんか、往生際悪くジタバタしてても、落っことした記憶が見つかる気があんまりしないんだよ」

「それは、何か根拠がある発言なのかしら?」

「感覚的な話だよ。それに、これが本当に『試験』の一環なんだってんなら、ひょっとすると塔の『試験』をまるっとクリアすると、俺の記憶もひょっこり戻るかもだろ?」

「――――」

立てた指を左右に振ったスバルの発言に、エミリアたちが顔を見合わせる。

だが、それは不信感からくる否定的な反応ではなく、それとは真逆の、驚きから希望の種子を拾い上げるような反応だった。

ぐっと、胸の前に拳を固めて、エミリアが何度も頷く。

「そう、よね。スバルの記憶がこの塔に吸われちゃったんなら、きっと、塔の『試験』が終わったら返してもらえるかもしれないわよね」

「吸われちゃったって表現はちょっと可愛すぎる感あるけど、その意気その意気」

「ん、この意気ね!」

可愛くガッツポーズを作るエミリアに、スバルは安堵しながら微笑む。

すると、その様子を見ていたベアトリスがやれやれと首を振って、

「まったく……どっちが励まされてるのかわかったもんじゃないのよ」

と、そんな風にこぼした。

確かに、これでは立場はあべこべ――しかし、スバルはこれでいいと思っていた。

手繰るべき希望の糸を見つけ出して、エミリアの瞳に力が戻っている。そのことにスバルは大きな安堵感を覚える。

暗い顔は似合わない少女だ。それに、スバルを心から気遣ってくれてもいる。そんな彼女に暗い顔をさせる原因が自分にあるなどと、何とも心苦しいではないか。

「と、高嶺の花を相手にそんなムーブを見せる俺であった……」

「何を言ってるのかわからないけど、ひとまずスバルの記憶は棚上げにしておくかしら。それで、塔の『試験』を終わらせるなら、メィリィの言うように上にいくしかないのよ」

「上か。えーと、ここが三層って話だから、次にいくのは二層だよな」

言いながら、スバルはきょろきょろと書庫の中を見回す。歩き回ったわけではないが、すでに十分すぎるほどに観察した部屋だ。

書架以外に何もない部屋。それはつまり、上にいく階段も見当たらないわけで。

「二層にいく階段って、どこにあるんだ?」

「それは四層にあるの。四層から、二層までいっぺんに繋がってる階段があって……あるんだけど」

そこで、エミリアが難しい顔になり、そっと視線をユリウスへと向ける。その視線を受けたユリウスは、「ご心配を」と眉を顰めて、

「昨日のような独断専行はしません。それは朝食の席でも誓わせていただいた通りです。ただ、それがなかったとしても……」

「初代『剣聖』レイドは強敵って話ね。さて、どうしたものかしら」

ユリウスとラムが、それぞれ表情で苦いものを交換し合う。そしてそれは二人だけでなく、この場にいるほぼ全員が共通して抱いた感覚だ。

例外なのは、苦いどころか劇物を口にしたように顔をしかめるシャウラと、

「あー、ごめん。それで、そのレイドってのはなんなの?」

相変わらず、状況に置いてけぼりのナツキ・スバルであった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――初代『剣聖』レイド・アストレア。

それが、このプレアデス監視塔の二層を持ち場とする試験官、その名前だそうだ。

そもそも、『剣聖』の肩書きが初耳なわけだが、おまけにそこに初代までつくとなると、スバルのサブカル知識において強キャラの予感しかしない。

その予想と期待を裏切らず、事実として『剣聖』とやらは圧倒的な実力者なのだとか。

現に昨日、レイドに挑んだ一行はまさに大人と子どものような力の差を味わったらしい。

そんな中でも、実力と偶然で勝ちを拾ったらしいエミリアは大したものだが――、

「問題は、記憶をなくした俺が満を持して何の役にも立たねぇ」

朝食の席ではみんなの不安を紛らわすため、この塔をクリアするための斬新な発想がバンバカ飛び出すなどと吹聴したものだが、聞いた限り、二層の『試験』は純粋な腕比べだそうだ。つまり、悪知恵や現代知識無双が介在する余地がない。

「小麦粉をばら撒いて、粉塵爆発でやっつけるとかうまくいかねぇかな……」

お手軽最強必殺技である『粉塵爆発』だが、あれも実際に発動しようとすると、かなり粉塵の量に微調整が必要だとか聞いたことがある。そもそも、食料が貴重だと言明された状況下で、小麦粉をふんだんにばら撒くだけの度胸がスバルにはない。

大体、小麦粉があるかどうかも未知数であった。

「そうなると、異世界召喚された俺のチート能力に期待したいとこなんだが」

石造りの壁に手を当てて、スバルは「はぁ!」と念を発動してみる。が、特に掌から衝撃波が放たれることも、石壁が粉々に砕け散るようなこともなかった。ただ、掌にざらついた感触と、どことなく空しい気持ちが胸に込み上げただけである。

残念ながら、スバルに与えられたチート能力はわかりやすい肉体強化ではないらしい。

壁に手を当てたまま、軽く身をよじって蹴りを放つ。思いの外、軽く上がった足が高い位置に靴跡をつける。爪先が痛い。これも外れだ。

「そうなると、魔法ってわけか。ベアトリス、俺が使える魔法を教えてくれ」

「魔法なら、スバルは永久に使えなくなったのよ」

「永久に!? なんで!? 禁呪にでも手を出したのか!?」

「使っちゃダメって言われてた初級魔法を使いすぎて、ゲートを壊したかしら。だから、スバルは二度と魔法が使えないのよ」

「初級魔法で壊したんだ!? だせぇ!」

魔法使い生命と引き換えに大魔法を使ったとかではなく、初級魔法で元栓を壊したと聞かされて、想像を絶するダメさ加減にスバルは天に嘆きたくなる。

記憶の有無とは無関係に、ナツキ・スバルの異世界生活は底辺スタートだった。

「人に恵まれた、ってのがせめてもの救いか」

軽く掌を開閉して、スバルは深いため息と共にそんな感慨を抱く。

一方的であっても、スバルを知ってくれている人間がいることは救いだった。これがなければ、スバルは全く未知の世界に、何の特殊能力も持たない状態で投げ出されるところだった。正直、何の寄る辺もない状態で生き残れるほど器用な人間ではない。

だから、今の状況は救いだったのだ。――誰かの顔を、沈ませていたとしても。

「――――」

息を詰め、スバルはその場に屈伸する。

体の調子、魔法の調子、特殊能力の有無は確認した。

二層へ上がる前の、降って湧いたような空き時間だ。

エミリアたちが二層の壁に挑む準備をする間、スバルは自分の体に何らかの特殊な能力が備わっていないか、その確認に余念がなかった。

壁を叩き、壁に念じ、魔法の才能が枯渇した事実に憤然としたり、ちょっと塔内を駆け回ったりして、様々な方面から考えた結果、スバルの中で一つの結論が出る。

それは――、

「これ、もしかすると何ももらってないな……」

通路を全力疾走して、微かに息を弾ませながらスバルはその事実を受け止める。

ほんの少し、記憶の自分より体力がついている気がする。壁を蹴りつけたときも、股関節の柔軟性は見違えるようだった。しかし、それは体中の傷や、グロテスクな腕の状態と同じで、この記憶にない一年間でスバルが培った成果なのだろう。

親の期待にも応えられない凡人が、相応の努力の末に勝ち取った程度の実力。

そこに、いわゆる『神』に賜わった特別な力の恩恵は感じられなかった。

「一応、変身ポーズまで試してみたんだけどなぁ」

ウルトラの戦士的だったり、仮面のライダー的だったり、はたまたプリティでキュアキュアしてみたり、セーラー服美少女ウォーリア風なものも試したが、効果はなかった。

やはり、スバルは身一つで投げ出されたタイプの異世界渡航者ということだ。

「あとは、ピンチで覚醒する可能性に賭けるしかねぇな。……クソ」

がりがりと頭を掻いて、スバルは胸中に湧き上がる不安の種を噛み殺した。

エミリアたちの前では多少なり、気を張ることで誤魔化せていたかもしれないが、こうして改めて状況を俯瞰してみれば、スバルの立場には不安しかない。

記憶がなくなったこと。それはもはや疑いの余地はないだろう。

信じるべき証拠が多すぎるし、正直、今は『信じたい』気持ちの方が強かった。それを信じられなくて、どうしてこの場に今も留まっていられるものか。

ここにいたい。ここしか、今はない。だから、そのための力が欲しかった。

「結局、覚えてない絆に縋り付くしかないってわけだ。泣けてくるぜ」

もらうばかり、消費してばかりのナツキ・スバルは異世界でも変わらない。

エミリアたちが真剣に、スバルの身を案じてくれていることが伝わってくるほど、スバルは借り物の立場にあやかる自分が呪わしかった。

「二層にいって、何ができるってわけじゃないだろうけど……」

置き去りにされることを、留守居に残ることを心が拒んだのはそれが理由だろう。

二層の番人、レイド・アストレアの説明をしてくれたあと、エミリアたちの間で『試験』にスバルを同行させるか意見が割れたのだ。

連れていくことに不安がある、と一番強く主張したのはエミリアであり、他の面々もエミリアほどではないが、スバルの同行には反対の様子だった。同行したところで、スバルが二層の攻略に役立つ可能性が低く考えられたことと、話に伝え聞くレイド・アストレアの気性が、今のスバルには毒だと考えられたらしい。

故に、そのままであればスバルは置き去りにされていたかもしれないが――、

「――それでも、一緒にいくって言い張ったのは俺だからな」

エミリアたちがスバルを残していこうとしたのは、スバルの身を案じたからだ。

そうして優しく扱われることが、今のスバルには嬉しくも猛毒だった。記憶を失う前のナツキ・スバルなら、きっと彼女らに同行しただろうし、彼女らも同行させるか否か、話し合うことなんてなかったに違いない。

記憶のあるなしが、スバルの能力に影響を与えたとは考えにくい。つまり、知識の有無を除けば、今のスバルでも記憶をなくす前と同じ働きができるはずなのだ。

そのためにあれこれと模索してみてはいるのだが、成果は上がっていなかった。

「無理言ってベアトリスに一人にしてもらったのに、これじゃ先が思いやられる」

スバルを一人にすることに、最後まで渋い顔をしていた幼女の顔が思い出される。

肉体・魔法・スキルの方面でチート能力の有無を確かめようとしたあと、スバルは変身ポーズを試すくだりで、ベアトリスにご退場を願った。

さすがに、人前でいくつものポーズを試すのは小っ恥ずかしい。もちろん、ベアトリスはかなり強硬に食い下がり、スバルと一進一退の攻防が繰り広げられたのだが。

「スバルを一人にすると、記憶を落っことしてきたり碌なことがないのよ! ベティーは梃子でも動かないかしら!」

「その気持ちは嬉しいし、ありがたいんだけど、これから人に見せられないことするから!」

「スバルとベティーの間に、そんな水臭い気遣いはいらないのよ!」

「いや、裸になったりするから。ムーンライトメイクアップするから」

と、力押しで訴えかけ、とにかく熱意でへし折った形だ。

最終的にベアトリスには、余計なことはしないで必ず合流することと、強い強い厳命を受けることでどうにか話はまとまった。

「契約者って言われてもピンとこないけど、あの分だとベアトリスとはうまくやってたみたいだな。俺らしくもねぇ。……本当に俺だったのかよ」

唇を曲げて、スバルは腰の裏――そこに備え付けられていた鞭を抜き取ると、何となしに振るって壁に先端をぶつけてみる。引き戻す。自分の足を打った。

「ぐお……! こ、こういうのは体が覚えてるもんじゃねぇのかよ……! もしくは、カッコだけで、記憶なくなる前から使いこなせてなかったのか……?」

脛のあたりを強打されて、スバルは涙目になりながら足をさする。

そもそも、愛用の武器に鞭を選んでいるところからどうなのか。剣や銃ではなく、鞭を選ぶところに人と違うことカッコいいと勘違いしている性質が感じられる。

「使いこなせてたんなら、なくなったのは頭の中身だけじゃない?」

足をさすりながら、跪くスバルはそんなことを考える。そして、考えたあとでそのあまりの救えない可能性に頬を歪めた。

仮に、今の推論が正しかったとすれば、何と無様なモノだけがここに残ったのか。

記憶を失い、一緒にいたはずの人たちに心配をかけ、積み上げてきたものもなくして役立たずになった挙句、体に刻まれた歴史だけは残して、ガワだけ整えてある。

ハリボテではないか。

「は」

軽く息を吐いて、スバルは立ち上がった。

内心、自分の脳内に浮かんだ四文字の言葉が、馬鹿笑いしたくなるぐらいくだらない。

ハリボテなどと、今さら何を。

――ナツキ・スバルがハリボテでなかったことなど、いつあったのだ。

「あー、やめだやめ。アホらしい。自分で自分のモチベ下げてる場合かよ……」

自分の額に拳骨を入れて、スバルはため息をつきながら鞭をまとめる。まとめ方もよくわからず、四苦八苦しながら何とか腰に戻した。

その際、掌にあるマメ――竹刀の素振りでできるそれとは違った、一年間の積み立てを感じさせるそれを見る。何となしにそれを舌でなぞった。硬い。苦い。

「こんなときのために、やってきたことの日記でも残しておけよ。使えねぇ」

理不尽な苛立ちを記憶がなくなる前の自分にぶつけ、スバルはゆっくりと歩き出す。

チート能力は確認できなかったが、ある意味、確認できなかったことが収穫といえる。これで、存在しないものを頼りに行動することをしなくて済む。

それも、いささかネガティブすぎるポジティブさだったが。

「ととと、こっちじゃねぇや」

一本、道を折れ間違えて、スバルは別のフロアに出ていた。

正面、大きく広がるのは螺旋階段――塔の下の階層へと向かうための、異常なほど巨大な螺旋階段のフロアだ。

六層からなるとされる塔において、六層から四層まで上がってくるのには、おそらくは百数十メートルもの高さを階段で上がってくる必要がある。

山登りのそれと比べれば楽かもしれないが、塔内にはどこか陰鬱と重たい空気が満ちていることもあり、見た目以上の労力が求められるに違いなかった。

「そう考えると、この塔も妙な造り……ファンタジー世界で今さらの話か」

中にいるだけで治療してくれる草花があるような世界だ。それに、元の世界にも、人知を超えたとしか思えない建造物は多くあった。ピラミッドなどもその一部だろう。

そうして考えると、この塔とピラミッドの間にそれほど差はないように思えて。

「元の世界との共通点を探す、みたいなことは前の俺もやったのかね」

前の俺、という表現に自分でおかしくなる。

記憶をなくす前後で、何かの歯車が狂ってしまった気分だ。本来であれば、自分の以前も以後もない。過去も現在も、自分は地続きだ。

だから、ここでもナツキ・スバルは――、

「――お?」

ふと、感慨を振り切るように首を振ったスバルは、息を抜くような声を漏らした。

それは本当に、何気ない吐息だった。

思いがけないことを受け、思わずこぼれたものだ。

それ以上でも以下でもない。

ただ、それぐらいささやかな衝撃に、背を押されて。

「――――」

その、それ以上でも以下でもない吐息をこぼして――天地がひっくり返る。

「ぁ?」

足が、地面を離れていた。――否、離れたのは足だけではない。体だ。

体ごと地面を離され、宙に投げ出され、完全に天地を見失い、浮遊感に呑まれる。

浮遊感に呑まれ、ナツキ・スバルの存在が、落ちてゆく――。

「ま、ぇ?」

ごう、と猛烈な風が吹くような音が鼓膜を突き抜ける。

わからない。何もわからない。今、ナツキ・スバルは落ちていた。落ちている。くるくると宙を錐揉み回転しながら、真っ逆さまに落ちていく。

落ちて、落ちて、落ちて、落ちていく中で、意識が現実に追いつく。

落ちて、いる。

「ま、て、待て待て、待て――」

視界が回り、手足が宙を掻いて、投げ出されて何秒が経過したかわからなくなって、ようやくスバルは自分の身に起きたことを理解する。

落ちている。転落している。墜落している。はるか高みから、はるか地上へと。

螺旋階段を大きく外れ、大口を開ける巨大な黒い闇に呑み込まれている。四方、必死に目を凝らせば、飾り気のない石の壁が高速で下から上へと流れていく。――否、壁が流れているのではない。スバルが、落ちながら、落ちているから、視界が逆さに流れていく。流れ落ちていく。

振り回される感覚、そのまま、込み上げる嘔吐感、酸っぱい胃液が宙に溢れた。

「――ごぇっ」

呼吸が間に合わず、胃液に喉が塞がれる。

鼻の奥につんとした痛みが走り、内臓が全て定位置を外れ、体の中でしっちゃかめっちゃかになって大暴れしている。吐瀉物に顔が、服が、きっとフロア中汚れてしまって。

エミリアに呆れられる。ベアトリスに怒られる。ラムに冷たい目で見られる。ユリウスにため息をつかれる。エキドナに肩をすくめられる。メィリィに笑われる。シャウラに指を差される。

そんな場違いな焦燥感に、スバルは自分の本質を見失い、喪失した。

指で掻いても、見つからない。空にない。自分の内にない。どこにいった。どこにある。

記憶の次は、自分を見失って、なくしものばっかりで。

「おかあさん」

酸味まじりの呟きが漏れたのと同時に、ナツキ・スバルは失神した。

意識が途切れ、記憶の接続が曖昧になり、そして――。

そして――。

そして――――。

そして――――――――――――。

硬いしょうげ

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」

目覚めて、最初に聞こえたのは銀鈴の声音だった。

腕に触れる細い指の感触と、間近に感じる息遣い。その感覚を頼りに、スバルの意識はゆっくりと浮上し、重たい瞼を開く。

――すぐ目の前に、恐ろしく整った月の妖精がいた。

「じゃなくて、エミリアちゃん……?」

「ああ、スバル、よかった。目が覚めたのね。すごーく心配したんだから」

スバルの呼びかけに、目の前の少女――エミリアが心底安堵した様子で胸を撫で下ろす。その様子に目を丸くしながら、スバルはぐるりと周りを見た。

緑色の蔦に覆われた部屋、その蔦で編まれたベッドの上に横たわる自分。安堵に胸を撫で下ろしたエミリアと、その隣に佇む縦ロールの美幼女。

「エミリア、そんな優しい態度だとスバルは反省しないかしら。もっときつく言ってやらないと、ベティーたちの心配が伝わらないのよ」

「そうよね。ほら、ベアトリスもこう言ってるでしょ? スバルが見当たらないって大慌てで、倒れてるところを見つけて泣きそうだったんだから……」

「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」

ベアトリスが顔を赤くして、悪気のないエミリアの発言にぷんすかと怒る。

そのやり取りを見ながら、スバルはただ、大いに首をひねった。

「え? なに、夢?」

「――?」

そのスバルの発言に、エミリアとベアトリスも揃って首を傾けたのだった。

第六章38 『オマエハダレダ』

自分の身に何が起きたのか、欠片も理解が追いつかないまま、スバルは部屋の中をぐるりと見回した。

「――――」

見慣れた、とは言わないが、見知った部屋の内装だ。

壁や床、天井までもが緑色の蔦で覆われ、スバル自身、蔦で編まれたベッドの上で体を起こした状態にある。

目の前では二人の少女――美少女と美幼女が首を傾げていて、ベッドのすぐ脇には巨大なトカゲが足を畳んで座った姿勢。部屋にあるもう一つのベッドには、目を閉じた青い髪の少女が横たわっている。

全く何の異常もなく、ここはプレアデス監視塔の緑部屋だった。

「だけど……あれ? 俺はなんだってまた、ここで?」

目を覚ましたのか、それがわからない。

頭に手をやり、スバルは直前の出来事を思い出す。

確か、塔の二層に挑もうという話になって、その前に自分に何らかの特殊能力がないかを確認していたはずだ。結局、何の能力もないという結論が出て、それからスバルはエミリアたちと合流しようと塔の中を歩き――、

「えっと? そのあとは、なんだっけ?」

イマイチ、直後の記憶が判然としない。

ふと、気付いたらまたこのベッドに横たわっていた、という印象が強い。

そうして、曖昧な記憶を手探りに検めていると、

「ねえ、スバル、大丈夫?」

「うひゃっ! エミリアちゃん、近いって!」

すっと、息がかかるほど至近距離に、エミリアの美しい顔が迫っていた。長い睫毛に縁取られた紫紺の瞳、そこに自分の顔が映るのが見えるほどの無防備な接近に、スバルは蔦のベッドの反対側に降りることで距離を取る。

その過剰な反応に、エミリアは目を丸くして、

「そんなに驚かなくてもいいのに。それに、驚かされたのはこっちの方なんだから」

「驚かせたのはって……」

「決まっているのよ。いなくなったと思って探したら、倒れてるところを見つけたかしら。これで心配しない方がおかしいのよ」

「マジで? 俺、また倒れてたの?」

腕を組み、呆れた風に鼻を鳴らしたベアトリス。彼女の言葉にスバルは驚き、立ち上がった自分の体をペタペタと触った。

ただし、触ってみたところで異常は感じられない。そもそも、記憶喪失になった人間が自分の異常に気付けるのか怪しいところだが、外傷は見当たらなかった。

「けど、短時間に二回もひっくり返ってるってのはかなりヤバい感じだよな……。ほんの数時間とはいえ、その記憶が吹っ飛ばなかったのは運がよかったっていうべきか?」

「何をぶつぶつと……スバル、ベティーたちに言うことがあるはずかしら」

「言うこと……」

広げた自分の両手を眺めていると、ベアトリスがそんな言葉を投げかけてくる。その言葉にスバルははてと首を傾げ、エミリアとベアトリスの二人を見た。

二人に言わなければいけないこと、それは何だろうかと少し悩み、

「そ、っか。えっと、ごめん。心配かけて悪かった。また助かったよ」

「それでいいのよ」

「ふふっ、どういたしまして。でも、ホントに何ともなくってよかった。安心しちゃった」

「ああ、そうだな。エミリアちゃんにも、このハイペースで迷惑かけちゃ申し訳ねぇ」

手を上げ、スバルはエミリアへの謝意を表明する。しかし、そのスバルの言葉に対し、エミリアが形のいい眉を顰めた。

それから、彼女は紫紺の瞳を戸惑いに揺らしながら、

「ええっと、それでなんだけど……スバルは、さっきからどうしたの?」

「どうした、ってのはわりと漠然とした疑問だね。どこにかかってくる問題?」

「だって、さっきから私のこと、エミリアちゃんって。なんだか、スバルにそんな風に呼ばれるのってすごーく落ち着かない気分になるから」

言いながら、エミリアは自分の長い銀髪に指を絡め、おずおずとスバルを見つめる。その胸を掻き毟るような寂寥の眼差しに、スバルは思わず喉を鳴らした。

無防備で親しげで、スバルの好みにストライクすぎる容姿の少女――しかし、彼女の今の態度には、そんなスバルの感慨とは溝の深い差がある様子で。

「スバルの悪ふざけは今に始まったことじゃないかしら。そんなことより……」

と、そんな二人のやり取りに、不機嫌な口調でベアトリスが割り込んだ。彼女は立派な縦ロールを揺すりながら、ビシッとスバルに指を突き付ける。

そして、桜色の頬を膨らませながら、

「そろそろ、ベティーたちには話してほしいのよ。なんで、夜の間にまた『タイゲタ』の書庫に入ったのかしら。倒れていたのは何が原因だったのよ?」

「待て待て待て待て! え、なに、俺ってまたタイゲタで倒れてたの?」

「また?」

「マジかよ、タイゲタすげぇ怖いとこだな……つか、俺は何しにまたそんなとこいってんだよ。ただでさえ曰く付きの場所だってのに、命知らずすぎるだろ」

身に覚えのない出来事を伝えられ、スバルは困惑と不穏すぎる事実に頭を抱える。

確かに意識が途絶える前後の記憶は曖昧だが、それでもタイゲタに再び足を運ぶような用件はなかったはずだ。

いっそ、塔の中で倒れたスバルを、誰かがタイゲタに放り込んでいた、という状況の方が納得がいくぐらいだ。それをするメリットが全く浮かばない点を除けば。

「待つかしら、スバル」

しかし、そんな混乱をきたしているスバルに、ベアトリスが待ったをかけた。

「うん?」

「なんだか、話が食い違っている気がするのよ。スバル、正確に話すかしら」

「正確に、ってのは……」

「今、自分が置かれてる状況を、ベティーたちに話してみるのよ」

噛み含めるように、ベアトリスはゆっくりとスバルにそう告げた。その言葉の重みと態度の威圧感に、スバルは気圧されながら頷く。

そして、心配げな顔つきのエミリアに見守られながら、スバルは考え込み、

「まず、話したと思うが……目を覚ましたら、俺には記憶がなかった。すっからかんってわけじゃなくて、この異世界に召喚されてからの記憶が……」

「ちょ、ちょ、ちょ、待つのよ!? 記憶? 記憶って何のことかしら!?」

「え?」

威厳たっぷりだったベアトリスの表情と態度が、説明の出鼻でいきなり砕け散った。

思いがけない彼女の反応にスバルが驚き、慌てるベアトリスの肩をそっと後ろからエミリアが支える。しかし、エミリアも決して落ち着いているわけではない。

彼女もまた、スバルに驚きの目を向けていた。

「スバル、ごめんね、ちょっと何を言ってるのかわからなくて……」

「いや、ここで止まられると困るっていうか、ここは二人だって……」

――知っているはず、と続けようとして、言葉は続かなかった。

「――――」

エミリアとベアトリス、二人のスバルを見る目には困惑が色濃い。それが、決して演技によるものでないことぐらい、さすがにスバルにも理解できた。

それと同時に、二人の態度が演技でないことの方が、スバルにとっては空恐ろしい。

何故、二人はスバルが話した記憶喪失の事実を忘れているのか。

まさか、この塔は記憶を吸い取る性質があって、記憶を失い続けているのはスバルだけではないのではないか。全員、記憶を適度に吸われていて、会話ややり取りが成立しなくなっていくという恐ろしい塔なのでは、というゾッとしない想像が浮かんで――、

それから、はたとスバルは気付く。

「寝起きの、二人とのやり取り……」

それに、何となく覚えがある。――否、何となくではない。覚えがあった。

エミリアとベアトリス、二人との初対面――この場合、記憶をなくしたスバルにとっての初対面であるが、そのときに交わした会話とそっくりなのだ。

もっと言えば、緑部屋で目覚め、蔦のベッドに寝かされていた状況そのものが、記憶をなくしたスバルが目覚めた状況の再現ではないか。

「――――」

その事実に思い当たり、スバルは音を立てて唾を呑み込む。

ちらとエミリアとベアトリスに目をやれば、二人の態度に変化はない。ただ、彼女らの動揺する瞳にあるのは不信ではなく、『スバル』へ向けられた心からの憂慮だ。

そこに偽りがないことが、スバルの心を一層冷静にした。

正直なことを言えば、スバルの心は大波に揉まれたように困惑の只中にある。

だが、察するにこの状況は――、

「同じ状況を見てる。――つまり、予知夢」

目を覚ました瞬間の状況を鑑みると、そう考えるのが妥当ではないだろうか。

そう思えば、意識の途絶――覚醒というべきか。その瞬間の記憶が曖昧なことにも納得がいく。夢とは何故か、繋ぎ止めようとしても指の隙間から零れ落ちていくものだ。

あるいはこの予知夢こそが、スバルが異世界へ招かれて与えられた特殊能力――、

「すげぇ使いどころが難しい、ピーキーな能力だな……」

ただ、使いこなせれば強力な力であることは間違いない。

予知夢とは、つまるところ未来予知だ。この的中率が高ければ高いほど、状況の打開に大きな手掛かりとなる。

生憎、今の予知夢で得た情報で役立つものはあまり思い浮かばないが――、

「――二人に、ちょっと落ち着いて話を聞いてもらいたい」

居住まいを正し、自分の能力を把握したスバルは二人に向けてそう言った。そのスバルの様子に、エミリアとベアトリスは顔を見合わせ、それから頷いてくれる。

真剣な二人と向き合い、スバルは微かな躊躇いを挟んで、言った。

「信じてもらえるかわからないんだが、どうも、俺は記憶をなくしたらしいんだ」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――タイゲタの書庫で目覚めたスバルは、記憶を喪失していた。

スバルが打ち明けた事実を二人が消化し切るのには、それこそ予知夢で見たときと同じだけの時間と、切っ掛けが必要だった。

「えいっ!」

空気の弾ける音がして、エミリアが力一杯、自分の白い頬を両手で叩く。その痛みと衝撃に、彼女は不安げだった目を見開くと、「よしっ」と気合いを入れた。

勇ましく、男らしい割り切り方、それもまた予知夢で見た通りの光景で。

「元気を入れたわ。あんなんじゃダメよね。スバルの方がずっと困ってるはずなのに、いつまでも私たちまで困った顔してちゃ。ほら、ベアトリスも!」

威勢のいい発言で気力を立て直し、エミリアはベアトリスの肩を揺すった。そのエミリアの剣幕に、ベアトリスは戸惑いを隠せない表情でいたが、

「驚いちゃったのも、悲しい気持ちもわかるけど……今、一番辛いのが誰なのか考えなくちゃ。私たちが、何とかしてあげなきゃダメでしょ?」

「べ、ベティーは……」

「――――」

口ごもるベアトリスを、スバルは胸の奥の疼痛と戦いながら見守っている。

このあと、ベアトリスが何を言うのか、どんな顔をするのか、スバルは知っている。

だが、それがわかっていることが、スバルの心に安らぎをもたらすかといえば、それは全くの見当違いだった。

誰かの気持ちを、期待を、裏切ることは辛いし、恐ろしい。

それが何度目であろうと、同じ問題であろうと、二度目の状況であろうと、同じだ。

そして今、スバルは一度目のときよりもベアトリスを知っている。だから、一度目のときよりもずっと、今の方がスバルは辛かった。

「……ああ、もう、まったく! スバルは本当に仕方のない契約者なのよ!」

そう言って、ベアトリスは不安と困惑の殻を突き破り、瞳に浮かんだ蝶の紋様の如く、停滞の蛹を突き破って羽ばたいた。

そのことに安堵しながら、スバルは同時に強い自己嫌悪も抱く。

――これでいいのか。これで満足なのか。ええ、ナツキ・スバルよ。

――お前がそうやって築いてきた絆と信頼の上に、俺も砂の城を建てればいいのか。

「――――」

エミリアとベアトリスの、優しくも心の痛む決意を見届け、スバルは奥歯を噛む。

予知夢を見たことを、スバルは二人に打ち明けていない。

目覚めた直後のやり取りと、二人の名前を覚えていたことに関しては、記憶の全てが抜け落ちたわけではない、とした内容で押し切った。

実際、記憶の喪失はもちろん、抜けた記憶の配分もスバルの報告が全てだ。二人に疑うことはできないし、スバル自身も不毛なやり取りは望まない。

何より、自分の予知夢がどれほどの的中率なのか、それを見極めたかった。

そのためにも、おそらく、大きく予知夢とズレる事態を生むべきではないと考える。すでに出だしで変化は生じただろうが、大きなズレはない範囲だろう。

ただ、スバルが予知夢のことを公にしなかったのは、それだけが理由ではない。

「――――」

エミリアもベアトリスも、ラムにユリウス、エキドナも誰も、スバルに『予知夢』の能力があることを説明しなかった。シャウラやメィリィも、そうだ。

彼女たちが、スバルにそれを隠したとは考えにくい。あの状況下でそこまでの意思統一が取れていたとは考えにくいし、それ以前に、意味がない。

ならば必然的に、彼女らが『予知夢』を知らない理由はたった一つ――ナツキ・スバル自身が、その能力を明かしたことが一度もないということだ。

「……何を考えてたんだ、ナツキ・スバル」

自身の名を、もはや別人のような感覚でスバルは呼ぶ。

――否、もはや別人のような感覚なんて言い方は誤りだ。別人なのだ。

スバルにとって、『ナツキ・スバル』は存在も知らない未知の人物だ。その考えを推し量ることはできないし、対話も交わせない。理解に至る切っ掛けがない。

『スバル』は何故、エミリアたちに自分の力のことを話していないのか。

スバルが考えたように、可能な限り、予知夢の展開を変えないためなのか。だったとしても、状況が打開されてから、打ち明けるタイミングはあるのではないか。

そうでないなら言えない理由が、言いたくない理由があるのか。

そんな『スバル』への不信感が、沸々とスバルの中で芽生えていく。

「お前は……」

――何を考えてたんだ、『ナツキ・スバル』。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――その後の展開も、やはりおおよそ、予知夢の通りに事が運んだ。

「それで、みんなも驚いてると思うけど……スバルは今、すごく困ってるの。こんな状況だけど……ううん、こんな状況だからこそ、力を貸してあげて」

エミリアが、スバルが記憶をなくした状況を他の面々に説明する。

拙い説明ではあったが、大きく状況を変えないためにも迂闊なフォローはできない。結果、あまり弁の立たないエミリアの代わりにベアトリスが奮闘する形だった。

そうして――、

「これは、何かの悪ふざけなの、バルス?」

ラムに、スバルの状況が悪ふざけなのではないかと疑われ――、

「それにしてもお師様、ホントに懲りないし飽きないッスね~。そうやって、何回あーしのこと忘れたら気が済むッスか?」

記憶をなくしたスバルの言動を、シャウラがあっけらかんとした態度で仕方ないと受け入れてくれて――、

「本当、お兄さんってばあ、すっごく困ったさんよねえ」

興味があるのかないのか、メィリィは混迷する状況を楽しむように悪戯に微笑み――、

「少し、彼に落ち着く時間を与えたい。構わないかな?」

スバルが記憶をなくした事実に動転するユリウスを気遣い、エキドナがわずかな休息の時間を設けようと提案した。

それを受け入れ、ラムの誘いに乗って、スバルは水を汲みに部屋を離れる。

そうして二人きりになって、ラムはスバルの胸倉を掴んで壁に押し付け――、

「……お願いだから、全部、話して」

気高さは失っていない。しかし、決して芯が揺れていないわけではない。

そんなラムの静かな慟哭を聞かされて、スバルは確信と共に、皆の下へ戻った。

――予知夢は、正確だ。憎らしいほどに的確で、状況を完全にトレースしている。

スバルとて、全員の言動を一言一句、一挙一動を把握していたわけではないが、それでも印象に残っている部分に変化はない。

問題があるとすれば――、

「ナツキくんは、こんな状況のわりにずいぶんと落ち着いているんだね」

改めての自己紹介と、アナスタシアの意識がエキドナに上書きされている状況、そうしたお互いの爆弾を打ち明け合ったところで、エキドナがスバルにそう言った。

「――――」

そのエキドナの言葉に、スバルは口の中が渇くのを感じる。

正直、エキドナの指摘は無理もない。スバル自身、どうにも演じ切れなかった。

みんなが驚き、慌てふためいて、それでもどうにか不条理な事態に抗おうと決心する姿を見ながら、そのことに本心から感情移入することができなかった。

一度見た映画を、今一度、初めて見たように感じることができないのと同じだ。

募るのは気丈に振る舞う彼女たちへの同情心と、それをわかっていて放置した罪悪感、そしてそれを続けてきただろう『スバル』への嫌悪感と、負の感情の詰め合わせだ。

言葉数の少なく、表情の暗いスバルの態度、それが不自然に冷静であると受け取られたとしても、そのことに不思議はなかった。

ともあれ――、

「落ち着いてる、って評価されるのはありがたいな。俺は通信簿に必ず、『落ち着きがありません』って書かれるタイプのガキだったから」

「ツウシンボ、というのはよくわからないが……それもイセカイの?」

「ああ」

目を細め、エキドナが問いかけてきた内容にスバルは首肯する。

今回も、やはり『異世界』についての質問は行われ、スバルの返答は変わらなかった。自分は異世界から召喚され、この場所に招かれた存在であると。

そして、それを聞いたエミリアやエキドナたちの理解が、『大瀑布』とやらの彼方からきたのだろう、という理解になるところも同じだ。

おそらく、予知夢の状況を完全に再現できなかったとしても、行動に強い意志や決意が伴っているものは、形を変えながらも実現されるのだ。

それは、スバルの知る漫画やゲームでの、未来予知系でお約束の設定でもある。

突発的な事態に対する反応は変わっても、やると決めていることは簡単には消えてなくならない。デートに誘おうと決めている人間は、多少の妨害があったところで、別の形でデートを申し込む――そんな感じだ。

つまり、エキドナはスバルの記憶喪失云々がなくても、異世界について聞くつもりがあったということになる。

「今まで説明してこなかったくせに、不用意に異世界って単語は出してたのか。……何を考えてんのかますますわからねぇ」

予知夢の性質上、その能力を打ち明けづらいのはまだしも、異世界のことを話していないのは心底不思議だ。まるで、打ち明ける意味がないと諦めていたように。

――打ち明けることを、恐れていたかのように。

「結局、君の混乱が一番少ないというのもおかしな話だね。何とかしなければ、とボクたちの方の焦燥感は募るばかりなんだが」

「周りが慌ててると、かえって当事者は冷静になる、みたいなヤツかもしれない。俺だってどうにかしなきゃってビビってるぞ。そこは安心してくれ」

「それって、全然ホッとできない気がするんだけど……」

肩をすくめるエキドナに、スバルもまた軽口含めて肩をすくめる。そのやり取りをエミリアが気抜けした様子で見ていたが、空気は何となく澱んだままだ。

やはり、スバルの態度が大きいのだろう。できるだけ、夢の自分をトレースしようと心掛けてはみるが、正直、自分の態度がイマイチ判然としない。

それこそ、本気で戸惑っていた人間の真似をするのは難しいという話か。

だから、これ以上のボロを出す前に――、

「とにかく、お互いの状況はひとまず把握した。混乱があるのはわかるが、力を合わせて乗り切ろうぜ。そのためにも、そろそろ状況を動かそう」

手を叩いて、スバルは無理やりに空気の入れ替えを試みる。

前回、こうして話し合いが停滞したあと、自分たちが何をしたか。それを思い出させるように、あるいは予知夢に従うように、ベアトリスが頷く。

「問題の、『タイゲタ』の書庫でのことを確かめるかしら」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「うへへへへ~」

と、しまりのない顔で、だらしない声を漏らすのはグラマラスな美女だった。

背筋を伸ばし、凛とした表情をしていれば、ただそれだけで多くの男を虜にするだろう美貌、それを完全に崩壊させ、彼女は弛緩した顔でスバルにしなだれかかる。

「お師様、お師様ぁ。あーしは嬉しいッス。きっと幸せにしてみせるッス」

「そこまでの話はしてねぇよ。腕を抱くな。柔らかくて怖い」

「あーん、あとはそのいけずなところだけ砕けてほしいッスよぉ」

額を押しやり、腕にしがみつこうとするシャウラをスバルは強引に遠ざける。

正直、ただでさえ目の毒な格好をした美女に、ベタベタとされるのはスバルの人間強度的にも、男の子強度的にも遠慮願いたい距離感だ。

現在、スバルたちはプレアデス監視塔の三層、『タイゲタ』の書庫へきている。

夢でもあったように、スバルが記憶を喪失した原因の究明と、可能であればスバルの記憶の復元、それを目的とした探索だ。

ただし、その結果が振るわず、何の成果も得られないことをスバルは知っている。

探索に参加することを禁じられているのもあり、歯痒い時間だった。

そんなスバルに対して、夢よりも親しげで馴れ馴れしいのがシャウラなのだが――、

「だって、お師様。あのチビッ子とかより、あーしのこと選んでくれたじゃないッスか」

「選んだわけじゃねぇよ。成り行き上、仕方なくだ」

だらしない顔のシャウラが言っているのは、『タイゲタ』へくるまでの道中の話だ。

それほど長い距離ではなかったが、前回、エミリアやベアトリスと手を繋いでの移動を余儀なくされた環境を、スバルは固辞していた。

その真意は、エミリアやベアトリスに対する良心の呵責だ。

予知夢で何が起きるのかを知っていて、その上で徒労となるだろう事実を明かさず、言ってしまえば状況を俯瞰する形でスバルは彼女たちに接している。

その自覚の分だけ、気遣ってくれる彼女たちと距離を近付けるのが心苦しかった。

だからあえて、頭空っぽで何も考えていないシャウラと隣り合い、こうして『タイゲタ』捜索の待機中も一緒にいるわけだが。

「やっと、お師様があーしの魅力を認めてくれたんスね! もう、このこのっ、四百年も待たすんスから。嬉しくて嬉しくて、ディープなキスしちゃうッス!」

「そういうわけじゃねぇよ! 怖い! ホントにやめてくれ!」

圧し掛かろうとしてくるシャウラ、その腕力が尋常でなく強くて、壁に追い込まれるスバルは懸命に抵抗する。壁ドンどころか、壁ゴワァッ! ぐらいの圧力だ。

そのまま、一度も愛を知らないスバルの唇が強引に奪われる寸前――、

「はいはい、お兄さんは嫌がってるでしょお。あんまりはしゃがないのお」

「あたたたた」

と、シャウラの後ろに回ったメィリィが、その長い三つ編みを掴んで引っ張る。幼い少女の腕力だが、わりと本気で体重をかけられれば相当な痛みだろう。

しかし、シャウラは首のひねりで三つ編みを取り戻すと、その長い黒髪を大事そうに胸に抱きしめて、

「あーしの髪になんてことするんスか! 大事な髪に、恐ろしい娘っ子ッス!」

「だってえ、銀髪のお姉さんとか、ベアトリスちゃんに怒られたくないもおん。半裸のお姉さんがお兄さんに悪いことしないように、見張っててあげないとねえ」

「むっきーっ! 腹立たしいッス! お師様何とか言ってやってくださいッス!」

「シャウラ、俺の二メートル以内にくるな。怖い」

「お師様のバカーっ!」

おいおいと泣き崩れる素振りをして、シャウラがスバルに背を向ける。

すべらかな肌がむき出しになった白い背中に、スバルは頬を掻いて目を背けた。それから、後ろ手に手を組んでいるメィリィに目をやり、

「あー、助かった。殺し屋にこんなこと言うのも変な感じだけど」

「気にしないでえ。殺し屋は廃業したみたいなものだしい、今はお兄さんやお姉さんたちの言うことを聞かされてるだあけ。わたしが悪い動物ちゃんたちに手伝ってもらうみたいに、お兄さんたちもわたしをうまく使ったらいいわあ」

「――――」

他意も悪意もない発言、それだけにメィリィの言葉はスバルには堪えた。

メィリィは特に何の呵責もなく、普通の考えとしてそれを発言している。それがスバルの世界と、この世界の価値観の違いといえばそれまでだが、

「――――」

何も言わずに、もっと言えば、何を考えているのかわからない顔で、メィリィは書庫を捜索するエミリアたちの方を無関心に眺めている。

その少女の背丈は低く、顔には年齢相応の幼さがあり、肢体は伸び切っておらず、女性らしい起伏にもまだまだ乏しい。――つまるところ、子どもなのだ。

それが、そんな渇いた価値観を是としていることが、どうにも耐え難かった。

「たぶん、お前にもまだまだ頼ることがあるから、よろしく頼んだぜ」

「――? ええ、だからそう言ってるでしょお? うまく使ってって」

「使うじゃねぇよ、頼るだ。道具じゃなくて、対人関係なんだぜ?」

「……ふーん」

一瞬、スバルの言葉に呆けたあとで、メィリィは意味深に目を背けた。ただ、その反応に不快感ではなく、居心地の悪いようなそれを見出して、スバルは安堵する。

それこそ、渇いた価値観が彼女の心中にあったとしても、感じられる何もかもがスバルの知るそれから外れてしまっているわけではない。

互いに未知な状況を歩み寄れる、その事実の方が、今のスバルには救いだ。

「……お兄さんって、ホントに何にも覚えてないのよねえ」

「うん? ああ、残念なことに。なんか、思い当たることとかあるのか?」

メィリィから記憶のことを振ってきたことが意外で、スバルはそう聞き返す。その質問にメィリィは「そうねえ」と唇に指を当て、嫣然とした笑みを浮かべた。

「ペトラちゃんが聞いたら泣いちゃいそうねえ」

「うぐ……また知らない子の名前が」

「ペトラちゃんはねえ、お兄さんのことが大好きな女の子なのよお。ここに送り出すのもすごおく心配してたから、ほらやっぱりって声が聞こえてきそうねえ」

「おのれ、昨日の俺め、なんて迂闊なことをしてくれたんだ……」

まだ見ぬペトラなる少女の想いに苦しめられ、スバルは苦い顔をする。

スバルの知らない『スバル』の足跡を、あと、どれだけ拾い集めればいいのか。

「ホント、昨日のお兄さんが迂闊って意見、わたしもそう思うわあ」

そんなスバルの内心を余所に、メィリィは背伸びをしながらそう言った。

それが奇妙な実感を伴っていたように聞こえたのは、スバルの気のせいだったのだろうか。

いずれにせよ、それを確かめるより早く、エミリアたちが戻ってくる。

やはり手掛かりはないと、その事実と、予知夢の正確さの証明だけを持ち帰って。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

『タイゲタ』の捜索が不発に終われば、その後は二層へ上がる準備時間になる。

つまり、ここまでがスバルの知る予知夢の範囲であり、ここから先は未知の状況――現時点で、スバルはすでに未来予知の実力を疑っていない。

状況は、スバルの知る通りに推移した。

そこに問題があるとすれば、予知したところで手応えのある展開はなかったこと。

「未来予知ができる、って事実が確かめられたことが大きい、か?」

とはいえ、それも妙な話だ。

そもそも、予知夢の発動条件がスバルには全くわかっていない。単純に、眠れば確実に発動するものなのか、何らかのキーが必要なのか、完全なランダムなものなのか。

予知の力に頼りたいほど切迫した事態で、のんびりと眠りこける時間があるとも思えない。このあたり、もう少し詳しく条件を見極めておきたい。

突き詰めると、この予知で何ができるのかを。

「ひとまず、夢と同じようにベアトリスに無理言って一人にしてもらったが……」

変身する力があるのではないか、とスバルは色々な試行錯誤をするため、かなりの無理を押し通してベアトリスにご退場願った。

ベアトリスの粘り方は不思議と夢で見たより強かった気がしたが、それは『タイゲタ』での道中など、接する時間が夢より少なかった影響なのかもしれない。

ともあれ、こうして無理を言って一人になったことには理由がある。

「夢から覚めた理由と、目覚める直前に何があったか確かめないとだ」

単純に、現実の方で起きるように呼ばれて起きただけかもしれない。しかし、夢から覚める条件は、他にも夢の中で覚醒に足る状況に出くわす場合もあるだろう。

恐ろしい目に遭うであるとか、痛い思いをするであるとか、そのあたりだ。

「今、ちょっとゾッとなったけど、予知夢の予知夢とか、胡蝶の夢っぽくて怖いな」

胡蝶の夢とは、自分が夢の中で蝶になったとき、果たして夢を見ている自分は本当に人間なのか、あるいはあちらこそが蝶が人になる夢を見たのではないか、という考えだ。

堂々巡りになる思考、答えの訪れない問いかけ、それは自分自身という存在の足場を不確かなものとして、あやふやな場所へ追い込む恐れのある自問自答だ。

今のスバルの立場にそれを当てはめるなら、これは果たして予知夢から覚めた現実なのか、覚めた現実だと思っている予知夢なのか、といったところか。

まさか、またしてもあの緑部屋で、エミリアとベアトリスに揺り起こされるところから始まるなどと、そんな風には思いたくないが――、

「――そうならないために、夢の先にいけばいい。それができるなら、エミリアたちに予知夢のことを打ち明けても問題ないはずだ」

記憶がなくなる前の『スバル』は、どういうわけかエミリアたちに情報の共有を避けたようだが、生憎と、記憶をなくしたスバルは状況を変化させることに貪欲だ。

迂闊なことをすればどうなるかわからない、とした不安に怯えて、おたおたと遅れ遅れの状況を招くような真似はしたくない。

「――方針は固まったな」

しばらく、自分の立ち位置を見つめ直し、スバルは予知夢を話すことを決める。

とはいえ、ここから先はスバルにとっても未知の領域だ。不思議と、ベアトリスと別れたあと、いくつかの変身ポーズを試してからの記憶が淡い。

故に、予知夢の証明を求められた場合は難しいのだが、その場合は発動条件も含め、彼女たちに協力してもらって解明していくべきだろう。

使いこなせれば強力な武器になる。あるいはこれこそが、このプレアデス監視塔を突破する上で、最も必要な武器となりえるのではないか。

だから、そんな思いを胸に――、

「――ナツキくんのことだが、錯乱状態にある彼を同行させるのは危険じゃないかい?」

「――――」

皆のところに合流しようとして、大部屋の前に辿り着いたスバルは息を詰めた。

聞こえてきた理知的な声音は、聞き間違いようもなくエキドナのものだ。

何故か、スバルはとっさに壁に張り付き、声をかけることを躊躇ってしまった。そんなスバルの存在に気付かず、室内の会話は続けられる。

「エキドナ、危険というのはどういう意味だろうか」

「確認するまでもないことだろう? 彼が記憶を失ったこと、それはここまでの態度を見るに事実だろう。しかし、その後の受け答えは明らかに正気を逸している。『イセカイ』という単語の説明がその証左だ」

「イセカイ……」

「まさか、本当に彼が大瀑布の彼方からやってきたと信じているわけじゃないだろう?」

ユリウスとエミリアが、エキドナの言葉に息を呑んだ気配があった。

同時に、スバルの心臓が強く跳ねる。今の、エキドナの発言はどういう意味なのか。それを飛び出して確かめたいと、そう訴える感情を抑えつける。

スバルがそうしなくても、きっと他の誰かが――、

「確かに、荒唐無稽な説明だったわね」

「ラムまで、スバルの言うことを疑うの?」

淡々と、感情の凍えたラムの指摘にエミリアが驚く気配がする。そのエミリアの問いかけに、ラムは「エミリア様」と短く呼ぶと、

「ラムも、バルスの言い分を頭から疑うわけではありません。実際、バルスの持ち込む知識や言動、奇妙な風習は大きく知られていないものばかりです。あるいは、誰も知らない場所からきたと、そう信じるに足るかもしれない」

「それなら……」

「でも、それはあくまで地続きのどこかの話。大瀑布……この際、バルスの言葉に合わせてイセカイでもいいけれど、そんな場所の実在は信じられない。……もう、今のバルスの言葉を、信じる根拠なんて、ない」

「ラム……」

苦いものを堪えるようなラムの声に、エミリアが気遣わしげに彼女を呼んだ。しかし返事はなく、エミリアは微かに喉を鳴らしてから、

「私は、スバルを信じる。ベアトリスもそう。だから、みんなもお願い。スバルの言葉を信じてあげて」

「……エミリア様、エキドナはスバルを、彼が自発的に我々を騙そうとしていると言っているわけではありません。ただ、今の彼が平静にないと、そう言っているだけです」

「その言いぶりだと、お前はそっちの精霊に賛成ってことかしら?」

エミリアの懇願を、ユリウスが理性的に押し返す。だが、それは全面的にスバルの味方をしようとするベアトリスにとって、癇に障る発言でもあった。

途端、室内に不穏な空気が流れ、スバルの額を汗が伝う。

「まぁまぁ、ケンカはやめて落ち着いた方がいいッスよ。今、ここでポコポコやり合ってもお師様いないし、喜んでもらえないッスもん」

「そういう尺度の話し合いじゃないと思うんだけどお。……でも、そうよねえ」

変わらず、傍観者に徹するような立場にあったらしいシャウラとメィリィの声。しばらくもったいぶるように笑い、メィリィは「おっかしい」と続け、

「お兄さんにでも直接聞いてみたらあ? お兄さん、頭がおかしくなってるのおって?」

「――っ」

その言葉の毒気に、スバルは強く奥歯を噛んだ。そして、自分でも驚くほど冷静に壁から離れると、足音を立てないように慎重に部屋を離れる。

「――――」

そのまま、いくらか距離を取り、慎重な足取りは早足に、やがて駆け足になる。

そうして、誰もいない通路の突き当たりに出くわすと、壁に額を押し当てた。

「く、そ……!」

誰に、何を言うべきかもわからず、スバルは燻る感情のままに壁を叩く。

スバルを欠いた状態で、ああして交わされていた話し合いは、思いの外衝撃だった。

全面的な信頼が勝ち取れた、などと自惚れていたわけではない。むしろ、そんなところは思考の範疇になかったと言っていい。

信頼は、前提だとスバルは思っていたのだ。

エミリアとベアトリスが、あまりにスバルに親身で、気遣ってくれるものだから。

それを居心地が悪いなどと嘯いておきながら、信じてもらえて当然だと驕っていた。どこか別の場所からきたと、きっと塔の攻略に役立つと、何の疑いもなく。

記憶をなくした足手まといで、平静な思考を失った役立たず。

客観的に見て、自分がいったいどれほど恥知らずな状態にあるのか、それをようやく思い知った気がする。

何が、信頼は砂上の楼閣なのか。

自分の方がよほど、そのことを理解できていなかった。

『ナツキ・スバル』が勝ち取ったものを、ナツキ・スバルが扱えるものかよ。

「この調子じゃ、予知夢のことなんて打ち明けても無駄だ」

記憶喪失を信じてもらえたのは、彼らが善良であることの何よりの証拠だ。

だがそれと同時に、異世界のことを信じてもらえなかったのは、彼らが良識ある人間であることの証明でもある。

そして、予知夢の説明がどちらの天秤を傾けるか、考えるまでもない。

「最初から、掛け違えた……」

失敗した、失敗したのだ。

今さら、スバルが頼れるところを発揮して、どうして評価を覆せる。

今、求められているのは『ナツキ・スバル』なのだ。ナツキ・スバルではない。

素知らぬ顔をして、彼らの下へ戻ればいいのか。そして、彼らがどんな会話を交わしていたのかも知らない様子で、図々しく二層の攻略に加わればいいのか。

あるいはエミリアとベアトリスが押し切られ、置き去りにされる方になるのか。置き去りにされるとして、お目付け役には誰がつくのか。

せめてそれは、会話に困らないシャウラかメィリィを希望したいところだ。

「……クソ、馬鹿馬鹿しい」

言いながら、何気なく通路を歩いていたスバルの視界が急に開けた。

出くわしたのは、四層と下層を繋ぐ巨大な螺旋階段――恐ろしく大きな監視塔、その真ん中から下半分までを空洞で繋ぐ、巨大な、

「螺旋、階段……」

ふと、その光景に目を凝らし、スバルは少し考え込んだ。

ここへくるのは、夢も含めれば二度目のこと。夢でも現実でも、記憶をなくしたスバルのために、エミリアたちは塔の中を軽く案内してくれた。

だから、この光景に見覚えがあるのは間違いではない、のだが――、

「いや、それとは別に、なんか、変な感覚が……」

ぞわぞわと、背筋の産毛が逆立っていく感覚がある。

全身の血が冷たくなり、耳鳴りがやけに大きく感じる。自然と心臓の鼓動が早くなり、息遣いが荒くなって、何故か膝が震え出した。

カチカチと、合わない歯の根が音を立て始め、スバルは異常を自覚する。

だが、気温が下がったり、外部的な影響を受けた変化ではない。

この異常は、異変は、スバル自身の肉体を起因としたものだ。もっと言えば、この肉体への影響は、スバルの精神か、もっと深いところの何かが――、

「――ぁ」

とん、と軽い衝撃があって、スバルは一歩、前に踏み出していた。

――否、踏み出したとは言えない。

踏み出したとは、踏みしめる大地があって成立する言葉だ。

前に一歩、足が出た。

そして、その足は、宙を掻いた。

だから、

「あ

――ッ!?」

落ちる、落ちる、落ちている。

自分の体が浮遊感に呑まれ、天地が大きくひっくり返り、豪風が鼓膜を殴りつける。

その状況に置かれて、スバルは理解した。転落している。

違う、軽い衝撃があった。ただ、落ちたわけではない。

自分は突き落と「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!」

絶叫を上げ、スバルは必死に手を伸ばした。どこか、掴まる場所を懸命に求める。

何もない、どこにもない、世界がわからなくなるぐらい、回転していて。

体の中身が全て、下から上へと引っ張り上げられる絶望的な嘔吐感。それが口の端から溢れ、黄色い胃液がごぼりと垂れ流されて、宙にぶちまけられる。

この感覚に、覚えがあった。

異常な嘔吐感と苦痛に苛まれながら、曖昧だった記憶が恐ろしく研ぎ澄まされる。

そう、そうだ、そうだった。

目覚める前、予知夢の終わり、スバルはやはり同じ目に遭っていた。

転落して、どうにもならない状況を嘆いて、そして、意識が途切れて。

だから、この状況もじきに終わって、予知夢から覚めて、あの緑の部屋に――、

瞬間、衝撃がスバルの右半身を粉々に砕く。

「くか」

空気が割れるような音と、稲妻のような衝撃が右半身を襲い、スバルは絶句した。

そして、遅れて襲い掛かってくるのは、空前絶後の激痛だ。

「ぎ、ぃぃぃぃぃああああああ!!」

ちらと見れば、右腕が肘から反対にへし折れ、骨が突き出しているのがわかる。血塗れの状態で、上着は破れ、桃色の筋肉とやけに白い骨が見えた。

激突したのだ。

恐ろしく高所から落下する勢いのままに、スバルの体が螺旋階段の一部と接触した。そのまま、転落と回転の勢いはスバルの体をぶち壊し、なおも止まらない。

――否、それどころか。

「が! ごぉ! げぅっ!」

血をまき散らしながら回転する体が、そのままさらに下の段差と激突する。

運の悪いことに、次に段差の一撃を浴びたのは頭だった。額がばっくりと割れ、頭蓋の中のこぼれてはいけないものがこぼれる感覚。

一瞬で意識は彼方へ消し飛び、そのまま途切れて――しまいそうなところで、また別の段差と体が衝突し、へし折れた右腕がより人の形を失っていく痛みに覚醒する。

「ああああ!!! ぎあぁぁぁぁっっ!!」

痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

痛みが、苦しみが、嘔吐感が、灼熱が、ナツキ・スバルを粉々にしていく。

腕が、足が、顔が、叩きつけられる石の階段に削られ、砕かれ、潰されて、人ではないものにしていく。人ではない、『ナツキ・スバル』ではないものに。

――記憶が人を形作るんだよ。

「ふへ」

おびただしい量の血をばら撒きながら、スバルはふと、そんな声を聞いた。

そんな馬鹿なことを言ったのは、わかったような口を利いたのは誰だったのか。

だが、いいことを言うものだ。記憶がその人を形作る。いい言葉だ。

だとしたら、記憶を失い、自分の在り方を損なった存在は、いったい、どこの誰で、何者になるというのか。

「――――」

血を吐くような、文字通り、血を吐くような絶叫を、上げる喉も潰れた。

はるかはるか地上へ辿り着くまでの間に、ナツキ・スバルはバラバラになる。

夢が、覚めることはない。ナツキ・スバルはしくじった。

失敗したものに、取り返す機会などない。

終わりがくる。

ゆっくりと、暗く昏く、世界が染まっていって。

――オマエハ、ダレダ。

痛苦と熱い血潮の果てに、ナツキ・スバルの存在は、砕け散った。

リゼロEX 『ゼロカラオボレルイセカイセイカツ』

恒例のエイプリルフール企画です。

本編のパラレルの内容となっていますので、キャラクターの関係図が色々と変わってきていたりしますが、変わらない扱いのキャラもいますので、そのあたり含めて許せる方のみどうぞ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――憎悪に満ちた声を聞いた。

――それが、耳から離れないのです。

――憤怒に染まった声が追いかけてきた。

――それが、怖くて怖くてたまらないのです。

――殺意を剥き出しにした声に圧し掛かられていた。

――それが、魂を鷲掴みにして離してくれないのです。

――生に縋れば縋るほどに、誰かを傷付ける自分がいた。

――それが何より一番、申し訳なくて申し訳なくて、今も溺れ続けているのです。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――首を、ギリギリと絞められていた。

馬乗りになられ、軽い体に圧し掛かられて、身動きを封じられていた。

両足、細い膝に肩を押さえられ、もがく体の自由が奪われる。眼前、首を絞める白い腕には赤い擦過傷がいくつもあって、花が咲いたようだと、場違いな感慨を抱いた。

――ギリギリ、ギリギリ、ギリギリと、首が絞められていた。

「――――」

すぐ目の前に、激情を湛えた瞳がある。

大きく、丸い瞳にはとめどない怒りと、空っぽの絶望感が深く深く広がっていた。

その空虚な瞳の奥に、まるで吸い込まれてしまいそうだとぼんやり思う。

「ぁ、か……ぅ」

――ジタバタ、ジタバタ、ジタバタと、みっともなく足をばたつかせる。

逃れようと、そうもがいているわけではなかった。

逃れるつもりなど、とっくにない。それでも足がばたつくのは、生きたいという意思の表れではなく、純粋に苦しいと、肉体が訴えかけているだけ。

酸素の不足した頭、生きる気力に欠けた精神、それに反して足掻こうとする肉体。

全てが乖離していて、バランスの悪い自分の在り方が醜く思える。

静かに死ねない。静かに死にたい。

できるだけ穏便に、穏当に、眠るように死ねたら一番よかった。

だが、そんな願いは叶わない。叶わないどころか、晩節は全く逆の結末だ。

「ぶ、く、く」

口の端から泡を吹いて、眼球が飛び出しそうなぐらいに目を見開いて、たったの数日で痩せ衰えた棒切れみたいな体をよじって、獣のような呻き声を上げている。

似合いの最後と、言うべきだろうか。

似合いの末路と、言うべきだろうか。

いったい、何がどうしてどうなって、こんな場所に辿り着くことになるのか。

「――何が、おかしいの」

ふと、声が降ってきた。

獣のような呻き声とは別の、冷たく、しかし、よく通る澄んだ声色だ。

首を絞めながら、憤怒に染まる瞳の持ち主が、薄い唇で言葉を紡いでいた。

「――――」

何がおかしいと、そう問われても、答える言葉が見つからない。

そもそも、何もおかしいことなどない。ないのに、何を問われているのか。

問いかけが理不尽だった。謎かけめいていて、不親切で不条理で。

押し付けられても答えようがない。それなのに、無言の時間の居心地が悪い。

理不尽と不条理に、摂理に振り回され、取り残されるのはこれでいったい何度目だ。

「――何が、おかしいの」

おかしいことなどない。

「ふ、へ、へへ」

ならば、問いかける相手の方が誤っているのか。

それとも、自分で気付けていないだけで、自分はこの瞬間を楽しんでいるのか。

女に馬乗りになられて、首を絞められている状況を、楽しんでいるのか。

だとしたら、嫌だなと、理性的な感想がこぼれる。

「――何が、おかしいの」

おかしいことなど何もない。何もないのに、問いは重ねて投げかけられる。

投げる、ですらない。この距離だ。投げるですらない。

互いに触れ合い、息が届くほどの距離で、相手の女の美しい顔を見上げながら、声を塗り付けられている。塗りたくられている。

詰る言葉ですらなく、貶める悪罵ですらなく、澄んだ憎悪の中に声はいて――。

「何が、おかしい――」

の、と。

重ねて、答えを求めるはずの問いかけが、ふいに途中で霞のように消えた。

「――づ」

ふらりと、目の前にあった女の顔が左に揺れた。

そのまま、傾く体を立て直せない。崩れた姿勢のまま、女の体は白い雪の上に倒れ込んだ。当然、首にかかった腕は外れ、窒息への道筋は中途で絶たれる。

「――ぜ、ぁ」

咳き込む喉から、苦い血の味が込み上げる。

萎んだ肺を膨らませ、また萎ませて、不足していた酸素が体内に次々と送り込まれる。それも、反射的な生存本能だ。呼吸を拒んで死ぬことなど、まともな人間にはできない。

自分がまともかどうかなど、今この場で議論することもしたくないが。

「――――」

直前までの、どこか泰然と死を受け入れていた心境は掻き消え、今は酸素という名の生への執着が手放せない。必死に、懸命に、みっともないほど貪欲に貪る。

そうして、幾度も幾度も、冷たい空気で肺を満たしたあと、気付く。

「――――」

津々と、白い雪が降り積もる中、薄雪に女が横倒しになっている。

血色の悪い顔と唇が、女の非常識な美貌を、より美しいものに昇華していた。掠れた吐息が白く曇り、衰える生命の兆しが、やけに煌めいて瞳に焼き付く。

見れば、ひどく雪景色に不釣り合いな格好だ。

肩や腿が露出した制服は、寒気に対して布の厚みも全く足りない。首元や耳など、冷えやすい部位は風に晒され、見ている側が身を切られるような痛みを覚える。

着の身着のまま――もっとも、それは女だけでなく、こちらも同じ条件だった。

「――――」

――カチカチ、カチカチ、カチカチと、噛み合わない歯の根が震えている。

それが寒さが原因なのか、胸にわだかまる鬱屈としたものが原因なのか、定かではない。

ただ、この瞬間は自分の体の変調より、目の前の女から目を離せない。

「――ぇむ」

雪上に倒れ、顔の半分を雪に埋もらせ、それでも女は美しかった。

尽きぬ憎悪と赫怒が、その華奢な体に火を灯し、生かしているとしか思えない。それほどに女は傷だらけで、生きているのが不思議な状態だった。

「――――」

白い、雪景色の中、自分と女の周りには、無数の屍が転がっている。

命を喰らい、貪り、魂を凌辱せんと集まった卑しい獣たちは、いずれも女の風の前に屍を晒した。故に、この場に生者は二人だけ。自分と女の、二人だけ。

それも、あるいはすぐに一人か、ゼロになるものか。

「――――」

何事か、か細く呟く女の傍に、ゆっくりと立った。

かじかむ両手の指は、赤黒く変色している。体温の低下が著しく、冷たい指には感覚がない。微かな痒みだけが、体に指がついているせめてもの証だ。

その、頼りない指を震わせて、人の頭ほどもある石を、何とか持ち上げる。

何の変哲も曰くもない、ただ落ちていただけの手頃な石だ。

それが、持ち上がったことに人知れず安堵する。

手にした石と、倒れている女とを見比べる。

一瞬、自分が手にしたその石が、倒れる女とよく似た女の顔に思えた。

微笑んでいたこともあったかもしれない。しかし、この心に最後に焼き付く形相は、悪鬼の如く苛烈に、殺意と敵意を叩きつけるそれでしかなく。

それを振り払うように、両手に抱えた石を振り上げた。

その動作を見上げる薄紅の瞳が、微かな声で、しかし確かに聞こえる声で、言った。

「――絶対に、殺してやる」

――石が、固いものに叩きつけられる音が、雪の森に鈍く鈍く、響き渡った。

響き渡った。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――その日、ロズワール・L・メイザース辺境伯の邸宅は、静かに崩壊した。

皮肉にも、その崩壊を最初に兆しで捉えたのは、屋敷のことを維持せんと、誰よりも必死に足掻いていた女性であり、故にこそ、その行いは悪辣であった。

「――――」

元々、屋敷の主であるロズワールに、彼女は返し難い大恩を抱いていた。

だから、屋敷を維持していたメイドの姉妹が不在となり、主を世話するものが誰もいなくなったと知って、すぐに主の下へ馳せ参じた。

変わり果てた主の様子は、彼女の胸にひどくひどく痛ましいものを差し込んだ。

妖しげに輝き、常に自信満々に思えた左右色違いの双眸も、奇抜といえば聞こえがいいが、端的に言って奇妙と悪趣味の極みであった道化の薄化粧も、それこそ他者の美意識を爪で掻き毟るような衣装選びも、何もかもから光を失ったロズワール。

そんな彼との再会を受けて、彼女は――フレデリカは、ぎゅっと拳を握りしめた。

「このままで、終わるわけにはいきませんわ。あの子たちのためにも、わたくしが」

居場所を守らなければ、と懸命になるつもりだった。

何ができるわけでもないが、何かしたいとは願っていて、そのために行動を起こした。

屋敷を立て直すために精力的に動いて、わからないなりに協力してくれる少女の手を取って、無気力で倦怠の中に沈んだ主の腕を引き、毎日を忙しく駆け回る。

足を止める暇など、フレデリカにはなかった。

時折、辛い心境に足が挫けそうになっても、彼女は懸命に顔を上げた。

こんなところで挫けていては、大切な人たちに顔向けができない。

いつしか、笑うことを忘れて。いつしか、豊かに夜を迎えることも忘れて。

それでも懸命に、フレデリカは愛したものを、水面で散り散りになる泡を逃さないように、必死で手で囲って守ろうとして。

それなのに――、

「――ぁ」

フレデリカが気付いたときには、屋敷は何もかもが、手遅れになっていた。

白く、凍り付く廊下に靴裏が囚われ、自分がどこにいるのか彼女は見失う。

見慣れたはずの屋敷の光景が、見知ったそれとは明らかに違ったものと化す。

丹念に掃除した廊下が、日々の食事に迷った厨房が、手のかかる人たちの世話に奔走した日常が、フレデリカの目の前で、白く曇る世界に囚われていく。

そして、それをしたのは――、

「大精霊、様……」

「ごめんね、フレデリカ。君は何も悪くないよ。――ただ、ボクがボクの一番大事なものを守ろうとするなら、この決断をするのが一番正解なんだ」

言って、空中で顔を洗ったのは、灰色の体毛をした小猫だ。

掌に乗るぐらいの大きさしかなく、しかし、その小さな体に絶大な力を秘めた超常の存在――大精霊、パックであった。

信じたくはない。だが、もはや疑う余地はない。

彼こそが、屋敷を白い終焉に包み、一変させた張本人であるのだと。

「何故、このようなことを……」

「言ったでしょ? ボクの行動は全部、リアのためだよ。――リアが森を出るのに賛成したのは、それがあの子のやりたいことで、あの子の安全のためだと思ったから。だけど、ここにはもう、その価値はない。どこで、落っことしちゃったんだろうね」

「――――」

「ロズワールは、ボクの見込み違いだった。あれは可哀想な、ただの人だよ」

首を横に振り、パックが無感情な声音で言い放った。

その言葉に、フレデリカは息を詰める。そしてすぐに、自身の鋭い牙を噛み鳴らし、

「――当家の主を、旦那様を侮辱されることは、メイドとして許しませんわ」

「君も、可哀想な子だね。君だけが、終わってるこの場所を守ろうと必死だった」

「過去形にするのはやめてくださいまし。まだ、終わっていませんのよ」

啖呵を切る。勝ち目のない、大精霊に対して。

そのフレデリカの抗いを前に、小猫は丸い瞳を細めて、憐れみを浮かべた。仕草から表情から、どこまでも人間臭い存在だと、フレデリカは前のめりになり、

「エミリア様が、嘆かれますわよ」

その一言が、大精霊にわずかな躊躇いと、フレデリカの勝機を生むことを願って。

だが、しかし――、

「残念だけど、ボクはリアに甘々なんだ。子離れできてない、親猫だからね」

欠片の躊躇いも、微塵の勝機も、その大精霊の前には現れなかった。

自分と、彼らの見ている世界の違いに、フレデリカは奥歯を噛む。

それが後悔か、悲嘆か、如何なる感情へ変化するのも間に合わない。

ただ、白い風が吹いて、それだけで、フレデリカという女性は、凍えていた。

それが、ロズワール邸の崩壊の始まりだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

魔人が崩壊の兆しに気付いたときには、すでに何もかもが手遅れだった。

「――――」

幽鬼めいた足取りで、魔人は自分の屋敷の中を歩く。

靴裏で、冷え込んだ空気の塊が音を立てて崩れ、肌寒い風が首筋をくすぐる。

首をすくめ、途端に、肌寒さに生理的な反応があることがおかしく思えた。

このところ、衣装選びも顔の化粧も、フレデリカに任せきりだった。

あの健気で、懸命な少女は、何もかもが手遅れになってしまったこの場所で、それでも恩返しをしようと励んでいて、何も感じないはずの胸がわずかに痛む。

――ロズワールの悲願は、いつしか、静かに道を途絶えていた。

「ラム、レム……」

おそらくは、契機となったのは鬼の姉妹を失ったことだ。

二人の存在は、ロズワールの悲願へ至るための計画になくてはならない重要な鍵だった。それが零れ落ち、気付けば、ロズワールは一人きりで。

四百年、長く、願い続けた祈りの道筋が途絶えたのだと、それに気付いてしまったとき、ロズワールは自分の足で立つことができなくなっていた。

「――ラム」

ぽつりと呟く名前、それが最大の後悔に通じる名前だ。

――元々、こうなる可能性を考慮はしていた。

それどころか、試みの分が悪い自覚があって、こうなる可能性の方がずっと高い。だからこそ、ロズワールは自分の存在に保険をかけていた。

自分が終わりを迎えるとき、それを、喜んで受け入れてくれる存在を欲した。

それが、自分より先に失われたことが、ロズワールの最後の歯車を狂わせた。

「――――」

だから今、こうして凍て付く邸内を歩く自分が、ロズワールには不思議だった。

すでに、立ち上がる気力を、歩き出す理由を、自分は失ったはずなのだ。

『旦那様、元に戻ってくださいまし。そんなことでは、二人が――』

幾度も、フレデリカはロズワールにそう呼びかけていた。

気力が萎え、精神の倦怠に沈んだロズワールをいたわり、フレデリカは根気強く、無気力な主を奮い立たせようと献身的に尽くした。

だから今、こうして凍て付く邸内を歩く力が、自分の中には残っていた。

だから今、宛てもなく歩く通路の途中で、窓の向こうの景色に目が留まった。

だから今、白く凍える世界と、そこで抗おうとする金髪の少女の姿が見えた。

「――――」

それを、守らなくてはならないと、おそらくは考えたのだと思う。

あるいは反射的な行動だったのかもしれない。

反射的に、そうしなくてはならないと体が判断する程度には、想いの残滓があって。

だから今、ロズワールは緩やかに腕を掲げ、膨大なマナを放とうと――、

「――っ!」

瞬間、ロズワールは己の首を目掛けて迸る、鮮やかな剣閃をかろうじて躱していた。

「――おや、これを避けられるとは予想外。もしかして、筆頭宮廷魔術師殿は、魔法だけじゃなく体術なんかも齧ってらっしゃったりします?」

軽やかな声が、ロズワールの背後から投げかけられる。

それは凍れる廊下を焦がすような速度でゾーリを滑らせ、こちらへ振り返った濃紺の髪をした青年の声音だ。

「今の動き、端役にできるものではありません。素直に感嘆しましたよ」

青いキモノ姿に足下はゾーリ、ひどく場違いな格好をした人物は、その腰に二振りの刀を差し、その内の一本を抜刀して、自分の肩をとんとんと叩いていた。

顔立ちは整っており、笑顔がよく似合う。幼気と悪戯っぽく輝く瞳が印象的で、長く伸ばした髪を括った姿から、どこか中性的な印象を他者へ与える。

ただし、彼から放たれる常識外れの透き通った剣気――浴びるだけで千も万も、自分の斬殺される死に姿が浮かぶ鬼気を前に、穏当な感想など浮かびもしまいが。

「魔法以上に腕に覚えのある方でしたら、僕の方も気が重くならなくて助かります。何しろ、一方的すぎるのは僕の美学に反しますからね。いえ、やれって言われたらやるんですが、なるべく、悪者扱いは避けたいところでして」

「噂通り、よく喋るじゃーぁないか……」

「え! 僕の噂ですか? いやー、参ったなぁ。こんなところでも僕って有名人だったりします? へへへ、おかしな噂じゃないといいんですけどね」

ぺらぺらと流暢に語りながら、青年が照れ笑いを浮かべて頭を掻く。

その様子を目の当たりにしながら、ロズワールは自身の身に降りかかった事態を紐解こうと、緩慢だった思考に火を入れ、揺り起こす。

その熱に一役買ってくれているのが、左腕に発生した灼熱の感覚だ。

「――――」

「ところでその腕、早く処置しないと失血死するのでは?」

「ご忠告、痛み入るよ」

青年の指摘に、ロズワールは血の気の失せた唇を緩める。

そのロズワールの左腕は、二の腕あたりであまりに鮮やかに切断され、いっそ現実感がないほど人形的に廊下に転がっていた。

首を目掛けた初撃を回避した際、腕を持っていかれたのだ。

処置と言われ、ロズワールは傷口に手を当てると、瞬間的な炎で焼いて塞ぐ。凄まじい激痛が脳髄をつんざくが、それを微かに頬を硬くするだけで乗り切った。

その強引な応急処置を見やり、青年が軽く目を見開く。

「魔法使いって、もっと臆病なのかと思っていました。アーニャとかはその手合いですし……あ、ちなみにアーニャっていうのは僕の知り合いで」

「わかっているよ、セシルス・セグムントくん」

「――――」

「ヴォラキア帝国最強の戦士、『九神将』の筆頭だろう? 一将の位を与えられた『青き雷光』の呼び名は、ルグニカでも有名だよ」

「それはそれは、光栄の至り」

ロズワールの低い声に、青年――セシルス・セグムントが優雅に一礼する。

身分を隠す素振りもなく、そもそも名を偽る理由などないとばかりに、いっそ清々しいほど堂々とした振る舞いだ。

その芝居がかった仕草を見届け、ロズワールは吐息をこぼした。

「それにしても、これはどういうわけなのかーぁな。よもや、ルグニカ王国の次代の王位が決まろうかというこの時期に、ヴォラキア帝国が条約に反した暴挙に出るなんて」

「あ、それは誤解です。今の僕は九神将を休業中というか、失業中といいますか、とにかく帝国とは全く関係ない、一般人の……流浪の最強剣士という触れ込みなので」

「――――」

「悪ふざけではありませんよ。僕の行動に、帝国は一切関知していません。無論、閣下への忠誠心は今もこの胸に宿っていますが……僕には、僕なりの故がある」

大げさな身振り手振りで、セシルスは自分と帝国との無関係を強調する。それを頭から信じることは難しいが、帝国の意向としては解せないのは事実。

それだけに、ロズワールは左右色違いの双眸を細め、セシルスに問いかける。

「だとしたら、より疑問だね。君は帝国の一将の座を捨ててまでここへきた。いったい、何がそこまで君を突き動かしたのかーぁな」

「簡単ですよ。――天剣へと至る道筋、その足掛かりを約束されまして」

「天剣」

その響きに、ロズワールは形のいい眉を顰めた。

それを見取り、セシルスは「ええ」と深く頷く。その表情は笑みのままだが、決定的に違っていたのは、瞳に宿る感情だ。

喜怒哀楽の喜びと楽しみ、それを以て『青き雷光』は人を斬る。

だがしかし、この瞬間のヴォラキア最強の瞳にあったのは、喜びや楽しみではなく、もっと色と熱の濃い、有体に言って――、

「生者に伝えたことのない悲願です。それを言い当てられ、挙句に手伝えるなどと嘯かれては……これを契機と、受け入れるのもやむなしかと」

「意外だ。君は他人の操り人形になるような手合いには見えないのに」

「他人に操られているのと、運命の用意した舞台を受け入れることとは、単なる主観の違いでしかないのでは? 僕はこの世界の花形、主演役者として台本を受け入れる。その上で、台本にない台詞や演技を入れるのが役者の腕の見せ所でしょう?」

肩をすくめ、再び感情の戻ったセシルスの双眸に、ロズワールは頷く。

なるほどと、彼の主張の芯の強さには恐れ入った。強固なそれは、セシルスが勝利を積み上げる中で築き上げられた哲学だ。

それを曲げることなど、それこそ四百年の執着に生きたロズワールにはできない。

変わらないことを良しとするロズワールにとって、彼の哲学は甘露ですらあった。

「僕も、たぶん、あなたのことは嫌いじゃないです。むしろ好き。ですが、これも僕のお役目ですので……ルグニカ王国、筆頭宮廷魔術師、ロズワール・L・メイザース辺境伯、その首、貰い受けます」

それが彼なりの敬意なのか、セシルスは一度、手にした刀を鞘に納める。そして、もう一振りの刀の唾を鳴らすと、美しい剣の刀身が世界に晒された。

その刀の美しさはまさしく魔性、尋常ならざる力を秘めた魔剣が一本――。

「――一番刀、『夢剣』マサユメ」

「所有者の魂を蝕む、魔剣の一振りか。――セシルスくん、一つ聞いても?」

溢れ出す鬼気を目の前に、ロズワールは気楽な調子で指を立てた。

隻腕、血臭、凍れる大気に古今無双の剣豪を正面、その状況での問いかけに、セシルスもまた、場違いなぐらいに軽い調子で首を傾げ、

「なんでしょう。僕の弱点ですか? 僕の弱点なら、人の話を聞かないことと、二十歳を過ぎても落ち着きがないこと。帝国の議会でもよく議題に上がっていました」

「君の、雇い主の名前は?」

それを聞かれて、セシルスは眉を軽く上げた。

それから刀を下段に構えて、後ろ足を引く。ゆっくりと、前傾に上半身を傾け、

「口さがないものは悪党、外道、そのやり口から『粛清王』なんて陰口を叩かれてもいますが……あなたには、正しい名前を伝えるように言われていますので」

そう前置きして、セシルスは唇を舌で湿らせる。

それから十分にもったいぶって、告げた。

「――――」

名前が言霊になり、鼓膜へ届いた刹那、屋敷の床が爆ぜ、セシルスが消える。

世界から消失したと、そう錯覚するほどに速い。

『青き雷光』はこの瞬間、その二つ名に相応しく、雷へ迫った。

故に、交錯は一瞬であった。

しかし、その刹那の合間に、ロズワールは薄く唇を綻ばせ、呟く。

「やはり、君だったか」

その言葉が、真に世界に音を与えるよりも、『夢剣』の軌跡の方が速い。

ただ、全てが彼方へ消え去る前に、ロズワールの意識は考える。

屋敷にいた、少女たちの安否を。

自分の悲願の巻き添えになり、挙句に、何の幸福も残せなかった少女たちを。

――謝る資格も時間もないなと、それを最後に、何もかもが消えた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

『扉渡り』の仕組み自体は、禁書庫の扉を別の扉と繋ぐ、単純なものだ。

その単純な効能故に、『扉渡り』の応用性は高く、優れた魔法であると自負している。ただし、如何なる魔法もそうであるように、『扉渡り』もまた万能ではない。

仕組みが暴かれれば、有用性も弱点になりえる。だからこそ、禁書庫の存在と『扉渡り』の効果は、外部のものには秘匿されていなければならなかった。

そう、外部の人間には、知られてはならなかったのだ。

――それ故に、これは必然だったのだと思う。

「なんて、皮肉なのかしら」

禁書庫の扉に触れた瞬間、ベアトリスは自分が誘われていることを理解していた。

広い邸内、無数の扉が選択肢として存在するにも拘らず、ベアトリスに選択権はなく、たった一ヶ所の扉の前に誘導される。

その方法も簡単だ。――他の扉が、開けられない状態であればいい。

『扉渡り』の封じ方は、繋ぐ扉の選択肢を奪えばいいのだ。

それを堅実に実行され、邸内の扉が開く場所を一つに限定された。そして、その方法を実現するのに力を貸した存在が、大切な兄だとも半ば理解していた。

天秤が傾くのは、仕方のない話だ。それが、自分たちの存在の不文律――。

それで、兄を恨むなどと筋違い。故に、ベアトリスは兄への恨み言など抱かずに、ただ静かにそれを相対するべく、扉を開け放った。

「――よう、ベアトリス」

開かれた扉の向こうで、それは気安くベアトリスを呼んで、手を上げていた。

その声と態度に、覚えがある。だからこそ、ベアトリスの体は怖気に震えた。

記憶にある顔と、目の前にある顔と、細部がまるで一致しない。

大まかな記憶の再現としては正しくても、それはもはや別人のような有様だった。

「お前、なんて目をしているのよ」

昏い、昏い眼差しを前に、ベアトリスは首を横に振る。

拒絶と否定、そこに嫌悪感を付け加えたくなるほど、それは変わり果てていた。

珍しい、黒髪と黒瞳はそのままに、髪は艶を失い、瞳はどす黒い感情に鈍く光る。

目の周りには闇を思わせるほど色濃い隈が浮かび、痩せ衰えて頬のこけた顔と、わずかに見える手指の血色が死人のように青白かった。

黒い長衣に身を包み、肌の露出は最低限――黒で統一した衣装の中、目立つのが橙色の首巻きだろう。それだけが、暗鬱とした彼の印象を凄惨に裏切っていた。

あれから、いくらかの年月が過ぎた。

だが、それにしても、この変化は行き過ぎだ。ニンゲンが、こうも変わるものなのか。

「お前、ずいぶんと雰囲気が変わったみたいかしら」

「そう言うお前は変わらないな。成長期は落っことしてきたのか? 普通、二年も経ったら少しは大人っぽくなってるもんだぞ」

掠れた声が、ベアトリスの言葉に軽口で応じる。

二年、だったか。当人がそう言うのであれば、過ぎた月日はそんなものなのだろう。

二年など、ベアトリスにとってはそれこそ瞬きのように短い感覚だ。それがニンゲンにとって、特に目の前のニンゲンにとって、どれほど意味ある年月だったのか。

――死に体だった男が、こうして復讐に舞い戻ってくる程度には、意味ある年月だったのか。

「覚えてるか、ベアトリス。ここで、一緒に飯を食ったよな」

「――。そんな記憶はないのよ。お前と、一緒に食事したことはないはずかしら」

対峙するニンゲンの言葉に、ベアトリスは眉を顰める。

二人、向かい合っているのは、屋敷の一階にある食堂だ。白い布のかかったテーブル、その真ん中の席に腰掛け、ニンゲンはベアトリスに意味のわからない問いを投げた。

そのベアトリスの返事に、相手は自分の目元の隈を指でなぞり、

「……ああ、そうだよな。お前は、それ知らないや。うん、今のは、俺が悪かった。いつも、俺が、悪い。いつだって、俺が」

「何があって……ううん、そんなこと、もう聞いても仕方ないことなのよ」

一瞬、ベアトリスの胸中を躊躇いが過った。

だが、少女はそれを瞬きで殺し、すぐに不要な選択肢を戒めと共に封じ込めた。それから、胡乱げにするニンゲンへと、自分の小さな掌を向ける。

そこには、禁書庫を守る司書としての矜持――あるいは、誰にも望まれていない役割に殉じることへの、儚い使命感が宿っていて。

「お前が、復讐したいと考えるのは正当な権利かもしれないかしら。だとしても、ベティーにはベティーの役割があるのよ。そのためにも……」

「――――」

強く、ベアトリスは自分の役割に徹し、彼の暴挙を食い止めようと睨みつける。

それを目にして、彼の表情が微かに強張った。それは何か、堪え難い感情を堪えようとしているようにも見えて、その間隙にベアトリスは踏み込もうと――、

「勘弁してくれよ、ベアトリス。――俺を、守ってくれるって契約したろ?」

――その瞬間、致命的な停滞を生じさせたのは、ベアトリスの方だった。

「……ぁ」

契約、その響きにベアトリスの全身が衝撃に貫かれて硬直した。

そしてその硬直は、ベアトリスの意思とは無関係に、解けることなく固定される。

精神的なものが原因ではない。物理的に、動きを封じられた。それは――、

「堪忍な。これでもう、動かれんよ」

ベアトリスの傍らに、影から湧き立つように一人の人物が現れていた。

それは、黒いキモノをだらしなく着込んで、金色のキセルを鋭い牙が並ぶ口にくわえた獣人――狼顔の、長身の男だった。

彼は糸のように細い目で、自分の腰ほどの高さのベアトリスを見下ろしている。その見えづらい瞳に何の感情も見出せず、ベアトリスの喉が細く鳴った。

「こ、れは……」

「影を縛った、みたいなシノビの不思議技だな。忍術だと思っていい。心配しなくても、そんなに長くはかけないよ。……お前は、俺の恩人だから」

硬直し、体の自由を奪われたベアトリスは、その声を聞き届ける以外にない。

かけられる言葉に震えはなく、共有される思い出に誤りはない。ゆっくりと席を立ち、こちらへ歩み寄る彼の瞳は昏く、しかし不穏の色はなかった。

復讐と、彼がここを訪れた理由をベアトリスは決め付けた。だが、そのニンゲンの目つきは、ベアトリスには復讐者のそれとはどうしても思えなくなる。

昏い光に満たされた黒瞳の中に、胸を掻き毟る何かを見つけてしまったから。

「あのとき、お前が俺を逃がしてくれたおかげで、今の俺がある。そのことをずっと、お前に伝えたいと思ってたんだ」

「その、やり方がこれなら……お前は、迷惑な男かしら。……本当に、迷惑な」

「悪かった。けど、わかったんだよ、ベアトリス」

歯噛みしたベアトリスの言葉を遮り、彼は首をゆるゆると横に振った。その唇が、微笑の形を描いて、そっとベアトリスを見下ろす。

思えば、彼がこうして微笑む姿など、見た覚えがあっただろうか。ほんの、数時間を禁書庫で過ごすことを許してやった、あの時間の中で。

そう回想するベアトリスに、彼は手を差し伸べて、告げる。

「――お前と俺が、同じものだってことに」

「――――」

目尻が下がり、このときだけ、彼の瞳は一番最初の、本当に最初の少年に立ち返る。

あの、屋敷の数日の、おかしくなる前の彼に戻って。

「あのとき、死ぬしかないって諦めて、それでも投げ出せなかった俺を、お前が救ってくれた。今も、何度も何度も、あの夕焼けのことを思い出すよ」

「お前……」

「感謝してるぜ、ベアトリス。……なんであのとき、俺を殺してくれなかったんだよ」

「――っ」

それは果たして、感謝だったのか、それとも恨み言だったのか。

いずれにせよ、泣き笑いのような顔で言われた言葉に、ベアトリスはただ瞠目した。

そうして、自分のしたことの影響を、彼の心を蝕んだ絶望を、受け入れる。

自然、硬直していた体の不自由が解かれ、突き出していた腕がだらりと下がった。しかし、取り戻された自由で、抵抗する気力はすでにどこにもない。

因果が、巡ってきたのだと、ひどくすんなりと納得ができた。

「ベアトリス、俺はお前に感謝してる。俺はたぶん、お前のことが好きだったんだよ。あの時間の中でお前だけが、本当に俺に寄り添ってくれたんだと思う」

「……最低の、告白なのよ」

「違いねぇ」

彼の言葉に、ベアトリスは空虚な心境で応じた。

そして、薄く微笑む彼の黒瞳に、ベアトリスは真実を見る。――それが、そこに宿っている昏い感情が、とても見慣れたものだと、わかった。

それは、多くのものの胸に巣食い、やがて希望を喰らい尽くす、忌むべき病巣。

――絶望という病が、彼の中に、自分の中に、巣食っている。

「ハリベル、クナイを」

その呼びかけに、ベアトリスの傍らに立つ獣人が眉を上げた。

沈黙し、二人のやり取りを傍観していた獣人は、くわえたキセルを上下に揺すり、

「……ええの?」

「クナイを」

重ねて命じられ、獣人は左腕を縦に振った。

直後、食堂の床に音を立てて、黒い鋼の塊が突き刺さる。足下に突き立ったそれを、彼はしゃがんで引き抜くと、ずっしりと重く見えるその感触を掌で確かめた。

鈍く輝く黒鉄は、命を刈り取る形をしていた。

「契約、覚えててくれて嬉しかった」

それを利用したくせに、と思わないでもなかった。

だが、それが本当に、遠い喜びを儚げに眺めるような声で。どうしても、咎めようという気持ちにならなかった。

「お前は、ちゃんと色がついてて、綺麗だな……」

「――――」

ただ、ベアトリスの瞳が見開かれ、大粒の涙が浮かんでいく。

ぼやけた視界に、それを穏やかに見る彼の姿がある。瞬きして、涙が頬を伝った。そうして涙を流して、彼の姿を最後まで見ていたいと願った。

彼と、自分は、同じものだと、そう言われた。

ならば、そこにいるのはきっと、今の自分そのもので。

あのとき、自分がしたことが、彼の人生を大きく歪めてしまったのかもしれない。

それが巡り巡って、こうして自分の下へと跳ね返ってきたのなら。

彼が、今、ベアトリスを、救おうとしてくれているのなら――、

「ぉ、まえが」

「――――」

痺れ、硬直した舌を震わせて、ベアトリスは言葉を紡ぐ。

吐息のように掠れた言霊が、すぐ目の前に立つ彼の、その動きをわずかに止めた。

時間をくれている。恨み言でも、なんであろうと受け止めようと、覚悟が見えた。

その覚悟に、ベアトリスは――、

「――お前が、ベティーの、『その人』なの?」

その問いかけの意味は、きっと彼にはわからなかった。

その答えがあることなど、ベアトリスは期待もしていなかった。

ただ、最後の最後、自分にそれが訪れるなら、聞かなくてはならないと。

「ああ」

――だから、彼が微笑み、頷く姿にベアトリスの心は割れ砕けた。

微笑みに親愛が、言葉には優しさが、振り上げる刃には祝福があって。

「俺が、お前の『その人』だよ」

一際、大きな涙の雫が、少女の赤らんだ頬を伝い落ちていった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「溺れるものは藁をも掴む、って言葉が俺の地元にはあるんですよ」

床に敷かれた赤い絨毯を見つめながら、男はその声を聞いていた。

絨毯と、男の顔との距離は近い。

近いといえば、男の呼吸の間隔も近かった。心臓の鼓動が早鐘の如く鳴り続け、息は全力で野を駆けた直後のように弾んでいる。

男は、御年六十に差し掛かる老年だった。

息子どころか孫が成人し、相応に人生の年輪を刻んできた自負がある。

立場上、多くの人間と言葉を交わし、渡り合ってくる必要があった。その戦歴は立派に人に誇れるほどだし、人を見る目には自信がある。

不世出の、などと嘯くつもりはないが、人並み以上の才覚に恵まれ、人生を豊かにするべく邁進してきたつもりだ。

だからこそ、男は自分の現状が、夢か幻か理解できずにいた。

――自分が、孫とそう変わらない年齢の相手を前に、跪かされる現状を。

「藁って、わかります? たぶん、藁はあると思うんだけど……まぁ、麦とかそういうヤツのことです。で、溺れてる人はすげぇ必死だから、掴まっても助かるわけないんだけど、それに掴まっちゃうみたいな」

「――――」

「わかりやすく言うと、死にかけた人間は生きるために必死みたいな格言ですよ。火事場の馬鹿力とは違うかな。そっちは逆転の目があるけど、藁は悪足掻きだし」

ぺらぺらと、頭上からの声は流暢に言葉を投げかけてくる。

その大半が益体のない言葉に聞こえるが、一言一句を聞き逃すわけにはいかない。それをして機嫌を損ねたものがどうなるのか、おぞましい噂は山ほどあるのだ。

彼が、こうして台頭して二年、残酷で陰惨な噂は後を絶たない。

敵対するものを、その家族を、関係者を、あらゆる手段で追い詰め、見せしめにし、破竹の勢いで拡大し続ける、結社『プレアデス』の代表。

おぞましい功績と類稀なる悪辣な手腕を評して、名乗らぬ彼を人は呼ぶ。

――『粛清王』と。

「――――」

男が跪くのは、いつしか四大国の陰に潜み、裏社会を牛耳り始めた結社の本部。

豪華絢爛な調度品や絵画、贅を凝らした品々が下品なぐらいに集められた建物で、商談の相手として招き入れられた応接間だった。

代表である王は、部屋の奥にある玉座――まさしく、宝と呼ぶのが相応しい、至高の玉座に座り、来客を見下ろしている。

絢爛な見栄えと豪奢な造りは、かけられた金額を思うと目が眩む。人の人生の千や二千では到底届かない、資産の暴力が眼球に叩きつけられる思いだ。

それが結社の――否、王の力の誇示であるのだと、察しの悪いものでも一目で理解ができる。仮に理解できないものがいたとしても、それはこの部屋に入ったが最後、二度と外の光を拝むことなどできないだろう。

力の誇示、すなわち財力の証明は何も物に限った話ではない。

壁際にずらりと並んだ十数名の男たちは、いずれも名の通った武人や傭兵揃い。金銭で従わせることが可能であろうと、それを実行するのにかかる費用はいかほどか。

それが十数名となれば、維持するだけでも莫大な金銭が必要となる。

そうした、金で動く輩の中でも最高峰が揃えられているかと思えば、玉座の左右を固めている存在の異質さは、跪く男に酩酊感を味わわせるのに十分だった。

――常外の超越者、『礼賛者』ハリベルと、『青き雷光』セシルス・セグムント。

カララギ都市国家と、神聖ヴォラキア帝国。

二つの国でそれぞれ、最強の名を欲しいままにした戦士が二人、脇を固める。この、唐突に出現した結社、それを率いる若僧の暴挙が許される理由など、これ以上にない。

「シグルムさん?」

「――――」

一瞬、気が遠くなったところに名前を呼ばれ、男――シグルムの心臓が凍り付く。

見れば、肘掛けに頬杖をつく粛清王が、笑みの消えた表情で、昏い黒瞳をシグルムへと向けている。

まさしく、心臓を鷲掴みにされる心地にシグルムは喘いだ。

何か、弁明をしなければと、酸素を求めて唇がわななく。しかし、そんなシグルムの哀れな反応に、粛清王は肩をすくめた。

「あー、退屈させてすみません。話が逸れるのは俺の悪い癖でして。昔から、回りくどい感じじゃないと、なかなか本題に入れないんですよ」

「い、え……その、私は」

「俺が話してる」

「――――」

自分の唇に右手の指を当てて、王の左手が男を指差していた。

静かな指摘に弁明を遮られ、男の背中をドッと脂汗が濡らしていく。そのまま、身も凍るような沈黙が十数秒、永遠のように長く感じれる時間が過ぎて、

「……すみません。脅かすつもりはなかったんです。ただ、ほら、こっちの二人とか、周りの連中は俺が雇ってるから従ってくれますが、あなたはそうじゃないでしょ? だからなんていうか……安心が欲しくて、すみません」

「――――」

敬語で、声の調子は静かで、それだけに異常性が際立つ。

粛清王は礼儀正しく、相対する相手に敬意を払い、その上で躊躇いなく暴力を行使する。

王の声色と、語りかけるための言葉が、聞く側には全く異なる思惑を孕んでいるように聞こえてならない。おどおどと、自信がないように見える青年の目つきは、こちらの胸中を見透かさんと細められ、全神経が相手の一挙手一投足を観察している。

彼の、仄暗い黒瞳が問いかけてくるのは、たった一つの問いかけだ。

――お前は、俺の味方なのか、敵なのか。

「――――」

無論、敵ではないと、そう主張するべきだ。

しかし、シグルムの言葉は封じられ、声で答えを返すことは禁じられている。

声を出せば、目で応じれば、態度で示せば、その機嫌を損ねるのではないか。

そんな恐怖が老人の心を絡め取り、人生で最も長い十数秒を永遠にする。

これを大げさと、笑い飛ばしたもので、生き残っているものは一人もいない。

結社の在り方は苛烈で、四大国にある裏社会の中枢、その大部分に彼の手が伸び、もはや剥がれ落ちることなどない、病巣と成り果てているのだ。

生き残るには、その病魔に罹患しないことと、病魔を克服する以外にない。

そして、その克服の方法こそが、恭順という名の全面降伏それだけなのだ。

関わってはならない不治の病、ついにはそれから逃げ切れず、老人はここへきた。

全ての答えをあらかじめ用意して、服従する覚悟を決めてやってきたのだ。

だが、その考えですら甘かったことを、シグルムはこの場でようやく理解する。

手足を縛られ、身動きのできない状態で水へ投げ込まれたように、呼吸が苦しくなり、酸素を求めて唇が喘ぐ。陸で、部屋で、視線に、溺れさせられる。

「――――」

病では、ない。これは呪いだった。

粛清王は、消えない呪いに支配されている。

病的なまでの恐怖心が彼の目を曇らせ、消えない疑心暗鬼が心を蝕んでいる。

彼は、人間を恐れているのだ。他人を恐れ、疑い、憎悪している。

彼自身が最も強い恐怖心を抱いているからこそ、彼は同じものが他者を蝕んでいないかと、それを確かめるのに躍起になり、他者を同じ病に感染させるのだ。

溺れるものはと、王は最初に話していた。その通りだった。

今、助かるならば、シグルムは藁にでも何にでも縋り付こうとするだろう。

「それで……そう、藁の話だ。生きるのに必死って話で……うん、だからわかります。シグルムさんが、うちにこうやって話を通しにきてくれたのは、そういう、ちゃんと筋を通そうとした結果だってことは」

「――――」

「俺は、筋を通す人は好きですよ。話し合おうって人は、いきなり殴りかかってくる奴よりずっと信用できる。うちの悪い噂をどのぐらい聞いてるかわかりませんけど、俺を噂で判断しないでください。……俺は、なるべく、波風を立てたくないんです」

話しながら、粛清王がこちらへ向けた左手を開いた。そして、話す順番を譲ると示すように、そっと手を差し出す仕草を見せる。

「ぁ」

途端、硬直が解けるように、シグルムの唇から掠れた息が漏れた。

一瞬、それが王の神経に障らないか恐怖したが、目の前の青年は反応しない。根気強い沈黙が、かろうじて世界へとシグルムを導いてくれた、らしい。

「シグルムさん?」

「い、え……申し訳ありません。こちらこそ、申し出は送った書状の通りです。結社の皆様とは、今後とも末永く、お付き合いいただければ」

言葉を慎重に選び、過剰にへりくだりはせず、シグルムは立場を表明した。

それを受け、粛清王が目を細め、しばし思案したあと、微笑む。

「――――」

その微笑を浮かべた表情が、唐突に年齢相応のそれに見えて、シグルムは驚く。

そうして、驚くシグルムに王は深々と頷いて、

「いいお付き合いをしましょう、シグルムさん。詳しいことは、あとで担当の人間と打ち合わせてください。これが、一番賢い選択だ」

「あ……」

「これからも、どうぞ結社をよろしく」

手を上げ、微笑んだまま、粛清王が商談を締め括る。

その言葉にシグルムはゆっくりと体を持ち上げた。跪く体が硬直していて、思わず体勢を崩しそうになるが、かろうじて堪え、長く、息を吐いた。

「ありがとう、ございました。今後とも、こちらこそ、ご贔屓に」

「ん」

何とか、舌の痺れを隠して、最後の挨拶まで言い終えた。

そして、用は済んだとばかりに頷く粛清王に頭を下げ、シグルムは後ろへ下がる。

「――――」

胸中を吹き荒れるのは、安堵と達成感の嵐だった。

つい数秒前まで全身を重く縛り付けていた鉛のような緊張は薄れ、男は自然と軽くなった足取りで、帰りを待つ家族の顔と名前を一つずつ思い浮かべ、頷いた。

荒波を乗り切り、どうにか望みを繋いだと――、

「――?」

そのときだ。

背後で、ほんの微かな軽い音がした。

耳に馴染み深いそれは、硬貨の音のそれであった。

硬貨が掌から滑り落ちて、床に落ちたときの音によく似ていて。

「裏」

一言、短い声が聞こえた。

それがなんなのか、シグルムの理解が及ぶよりも早く――、

「――――」

老人の視界が傾いて、床と平行になった。

跪いたときより、絨毯が近い。――と、それが最後だった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

首を刎ねられた男の亡骸が倒れるのを、ハリベルは細めた目で眺めていた。

鮮やかな手並みだ。

老人の手足には痙攣がなく、絨毯に落ちた首は自分の死に気付いていない。死体を死体たらしめる条件を、奪命以外に満たしていないが故の、芸術品めいた亡骸だ。

もっとも、死体は死体でしかなく、それを美しいなどと評する趣味は自分にはない。

「お、うええ……っ」

その死体から血が噴出するのを見て、玉座に座る少年が口を押さえる。

もうすでに、何度となく死体も、人が死体に変わるところも目にしてきたはずだが、その神経は細いまま、一向にそれに慣れることがなかった。

「命じておいてそれっていうのは、さすがに死者への冒涜なのでは? 死体に慣れろとは言いませんが、せめて死体を作るのを避ける努力をされてはどうです?」

「俺だって、好きで殺してるわけじゃない……ありません。直視できないなりに、現場には居合わせてる。それがせめてもの……」

「欺瞞ですね」

口元に手拭いを当てて、吐き気と戦う雇い主に同僚の言葉は容赦がない。

無論、正しいのはこの場では同僚――セシルスの方だ。雇い主がそれに腹を立てないのは、自分の行いが欺瞞である自覚がある、その証拠だろう。

そうして、青白い顔色をより死人に近付けた少年に、セシルスは「それにしても」と言葉を続ける。彼の視線は倒れ伏す亡骸、哀れな老人へと向けられていた。

「ボスの矛盾にはいささか以上に呆れます。あんな穏やかに話し合いを終わらせたのに、いきなり殺せなんて、閣下もビックリの心変わりですよ」

言いながら、セシルスは不満げに頬を膨らませる。二十代の男がしていい仕草ではないが、精神の未成熟さも相まって、セシルスにはその手の仕草がやたらと似合う。

人間的に美形であることと、普段の振る舞いがそれを許容させるのだろう。

ともあれ、そんなセシルスの暴言めいた指摘に、さしもの少年も頬を歪め、

「だから、言ってるじゃないですか。俺だって、別に殺したかったわけじゃないんです。その人にも言った通り、できれば信じたかった。嘘つく顔にも見えなかったし」

「では、何故?」

「嘘をついてるように見えなくても、嘘をつく奴は嘘をつくからですよ」

不思議そうな顔をするセシルスに、玉座で膝を立てる少年が唇を噛んだ。

その、ひどく渇いた人生観だけは、誰にも揺るがせない強い意志が垣間見える。

ハリベルも、セシルスも、彼の過去に何があったのかは知らない。

ただ、彼の過去に、それを信じさせるだけの出来事があったのだろう。

微笑み、親しげに接してくる人間が、その胸中に打算と疑念を溜め込んでいて、優しくしてくれたのと同じ手指で、唇で、憎悪と殺意を吐き出してくるような経験が。

そんな経験が、この少年に学ばせたのだ。

「先に芽は摘む。枝は落とす。俺は、絶対に、二度と、騙されない」

ぎゅっと、少年が自分の肩を掴み、布越しに肌に爪を立てる。容赦のない爪の食い込みを見れば、皮が破れ、血が滲み出しているのは明らかだ。

その自傷が、自分を保つために必要な儀式であるのだと、彼を知る側近と、結果的に長く付き合えている部下たちは知っているから、誰も止めない。

やがて痛みに満足したのか、少年がゆるりと玉座から立ち上がって、

「死体、片付けて埋葬してください。あと、その人の店に使者を出すように。全部没収するけど、従えば悪いようにしないと。逆らうようなら家人は皆殺しにして、店は燃やしてください。引継ぎが済んだら、次の担当者に挨拶にこさせるように。それで、残すか潰すか、判断します」

淡々とした語り口で、少年が室内にいる人間に聞こえるように指示する。

誰に、ではなく、誰かがやれという大雑把な指示だ。

過程ではなく、結果だけを求めるその呼びかけが、結果的に結社をうまく回す。誰かの手柄ではなく、全員が手柄に集中することで、結社は万全の体制を保ち続ける。

そうするだけの理由と、そうせざるを得ない弱味が、全員にあるのだ。

そして、誰かが日和見した結果、何もかもが奪われる危険性を冒すぐらいならばと、全員が全力で事に当たる。――ある種、理想的な職場環境である。

――例えば家族、例えば恋人、例えば財産、例えば命とその他諸々。

それらを保険として、安全策を握り続けることが、結社の代表たる男の主義。

粛清王と呼ばれて恐れられる、臆病な少年の戦い方なのだ。

「ボス、上着忘れとるよ」

「ああ、ありがとうございます」

立ち上がり、扉に向かおうとした少年の肩に、ハリベルが黒い上着をそっとかける。

肩に羽織るだけ。一言の礼も付け加えて。――直後、ハリベルの髭が微かな殺意を捉えて痺れる。強烈なそれに、ハリベルは糸目の奥の瞳を伏せた。

殺意の出所は、考えるまでもなく、目の前の少年だ。

おそらくは、背後に立ったから。

「……ハリベルさん、殺したくねぇなぁ」

「ははは、せやったら殺さんといたらええやん。うまぁく使ってくれたらええんよ」

「でも、道具持て余して自滅とか最悪じゃないですか。……舐めプして死ぬとか、負け方としてクソすぎるし」

ぶつぶつと、すぐ背後の側近の殺し方を考えながら、少年が上着に袖を通す。

その愚痴るような言葉を軽々しい調子で聞き流すが、少年の言葉は冗談ではない。彼は可能であれば、ハリベルを殺そうとするだろう。

今はただ単純に、殺すことの手間と、殺すための準備の不十分さと、殺したあとの手間と準備の不十分さとを見比べて、殺さない方に傾いているだけ。

「ボス、ボス。この方が持ってきた献上品は、どちらへ運んでおきます?」

「献上品……中身、なんでした?」

「中身は……ああ、魔鉱石ですね。どこでボスの好みを聞いてきたのやら。これだけ配慮してきたのに斬首とは、ますますこの方が哀れで哀れで」

「首を落としたのはセシルスさんの勝手でしょうに……」

部屋の入口で、呼び止められた少年が憎々しげに頬を歪める。それから、彼は飄々としたセシルスの態度に嘆息して、

「魔鉱石は、俺の部屋にお願いします。それ以外のものは皆さんでお好きに」

「はいはい、確かに。それから、ボス」

「……なんですか」

不機嫌な声を出す少年、その少年にセシルスが自分の目元を指でなぞり、

「隈、だいぶひどいですよ。そろそろ、お姫様のところでひと眠りされては?」

セシルスの言葉に、少年が盛大な舌打ち。

それをセシルスは笑い飛ばすが、彼の周囲にいる他の男たちは緊張に身を硬くする。あるいはここで、不機嫌を理由にセシルス討伐を命じられるのではと。

もちろん、そうなった場合、セシルスを殺すのは並大抵のことではない。この建物の全戦力を使い捨てて、ハリベルが相打ち狙いといったところか。

「――考えとく」

幸い、少年はその短気を起こさず、一言だけ残して背を向けた。

そうして、安堵の気配が広がる室内、男たちは立ち去る代表の背を見送る。一人、ひらひらと手を振るセシルスの気軽さが、ハリベルにとっても悩みの種だった。

「僕も、そんなに団体行動得意な方やないのになぁ……」

くわえたキセルを上下に揺すり、ハリベルは先を行く少年の背中に続く。

一応、一番付き合いの長い側近として、護衛のような役回りをするのがハリベルだ。ともあれ、邸内だろうと外だろうと、彼に危害を加える輩はそうそういない。

前者は恐怖から、後者は彼の存在を知らないものが多いため、だ。

「――――」

慎重に、全てを品定めする少年を、ハリベルは細い目でじっと見つめている。

彼が本部とした建物には、応接間以外も多種多様な芸術品やら絵画やらが飾られ、その暴力的な財力を見せびらかし、専守防衛の体を保っている。

権威を財力で示し、力を誇示するのは、不要な敵を作らないための苦肉の策だ。

戦わずして勝つ、などと少年は言っていたが、まさしく理想と言えるだろう。

無論、それはそれとして、過分な財力は他者の妬みや嫉みの対象になる。究極、何をしたとしても敵は増えるのだ。少年のやり方は、絶対数を減らす分には良策だ。

そして、敵の数が少なくなれば、あとは暴力の質で対抗するだけでいい。

「ハリベルさん……適当に、セシルスさんが暴発しないように見ててください」

「ほいほい、任せとき。ボスは、お姫様んとこ?」

「ん」

セシルスの提案を受け入れるのは屈辱的なのか、頬を歪めて少年が答える。

そのまま、二人の足は結社本部の一番奥――『パンデモニウム』などと名付けられた建物の最奥、厳重に守られた部屋の扉の前に到達する。

――その扉には、見たものが戦慄するほど大量の鍵と、錠前がかけられている。

五十に迫る鍵の量は、この扉の奥に隠されたものの重大性と、鍵を用意した人間の周到さと執拗さと偏執的な在り方を如実に印象付ける。

だが、最もこの扉の所有者が偏執的なのは、扉を開けるための鍵穴に符合する鍵が、一本たりともこの世に存在していないこと。

つまりはこの扉は、通常の方法では決して開けることができないのだ。

それを開けるには――、

「――パック」

「呼ばれて飛び出てにゃにゃにゃにゃーん」

少年の呼びかけを受け、気抜けする声と過剰な光の演出と共に、灰色の体毛をした小猫が中空に姿を現した。

とぼけた態度と愛くるしい姿だが、その実、絶大な力を秘めた大精霊――パックと、そう呼ばれる存在が、ふわふわと少年の肩に着地する。

「や、久しぶりにきたね。リアに用事かい?」

「ドア、開けてくれ」

「むむむ、なんだい、その言い方は。お父さんの機嫌を損ねると、娘に会わせてもらえないかもしれないよ。もうちょっと、年頃の娘を抱える父親の気持ちに寄り添って……」

「パック」

肩の上で、カイゼル髭を撫で付ける仕草をするパックを少年が呼ぶ。

その、色濃い隈に覆われた少年の顔を眺めて、パックは「やれやれ」とため息。

「またギリギリまで我慢したんだね。仕方ない。その努力に免じてあげよう」

そう言って、散々もったいぶったパックが短い両手を扉へ向ける。そして、無数の鍵のない鍵穴へと、淡い光が降り注いでいって、

「がちゃりー」

直後、淡い光は氷の鍵へと変わり、それが鍵穴の奥で開放の音を奏でる。

開けられない扉の開け方――存在しない鍵を、作り出すという裏技だ。

「うまぁく盲点をつくもんやね。鍵穴があったら、それに合う鍵を探したなるんが人情ってもんやのに。真似して開けられたら困るけども」

「魔法の波長もあるからね。ボク以外の誰かが同じことをしたら、すぐにボクや君たちに報せがいくようになってるよ。それに、ボクってずっとリアと一緒にいるし」

「それもそうやねえ」

パックの言葉に、ハリベルが納得と頷く。

そのやり取りを尻目に、少年が鍵の開いた扉に手をかけ、止まった。背後、何食わぬ顔で立っているハリベル、その顔を見上げて、

「ハリベルさん、いっていいよ」

「そう? 僕も、たまにはお姫様に挨拶したいんやけど……」

「いっていいよ」

何の気ない申し出が、淡々とした物言いに却下された。

それが絶対の拒絶であると、ハリベルもはっきりと受け取った。食い下がるほどのことでもないと、ハリベルはキセルを噛んで後ろへ下がる。

「なんかあったら、気軽に呼んでくれてええからね」

「――――」

扉に手をかけたまま、警戒の眼差しを向ける少年にハリベルは背を向ける。

角を曲がり、見えなくなるまで、少年の視線は背中に突き刺さっていた。

どこまでも、警戒心が強く、慎重というより臆病な、雇い主であり、恩人。

「ああ言うても、絶対に、呼び出したりせえへんやろなぁ」

そんな気だるげな呟きと共に、ハリベルは紫煙を吐き出し、頭上を仰いだ。

煙が天井にぶつかって、行き場がなくなって霧散する。

――それがなんだか、自分たちの行く末の暗示のようにも思えた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

死んでしまったのかと思うぐらい、少年の寝顔は静かなものだった。

「――――」

自分の膝に頭を預け、死の淵に寝入っていく少年をエミリアは見つめている。

瞼の周りには、炭でも塗ったのかと思うほど濃い隈があり、それが少年の深刻な睡眠不足と、そうならざるを得ない過酷な環境を物語っていた。

「また、ずっと眠れてないみたい」

「仕方ないよ。この子の今の立場だと、気の休まる暇がないだろうしね。それこそ、たまにリアに甘えにくるときぐらいだろうし」

額を撫でて、睫毛を指でなぞる。そうして寝顔を自由にするエミリアに、ふわふわと浮かんでいたパックが長い尻尾をお腹に巻いてため息をつく。

そのまま、彼はぐるりとエミリアの『私室』を見回した。

白い部屋だ。

白い壁に、白い床。白い天井と白い寝台、白い家具に白いカーテンと、部屋の中のあらゆるものが白で統一されている。

そんな中、エミリアの纏った薄手の寝衣も白なのだから、病的なぐらいだ。

この部屋が、エミリアに与えられた自由の範囲。――監禁された、鳥籠の中。

監禁などと、そんな言葉を使っていいものか、エミリア自身も迷ったままなのだが。

「今でも、リアはこの子のことを怒ってるかい?」

「……どう、かな」

そのパックの問いかけに、エミリアは返答するのを躊躇った。

言いづらい、というわけではない。ただ、自分の心の在り処がよくわからない。

それこそ、最初はもちろん腹を立てていたし、今だって仲直りはしていない。

互いに謝り、謝られの時間を設けてもいないのだ。そのことに触れないまま、時間だけが淡々と過ぎてしまい、なあなあの日常が続いてしまっているだけで。

「でも、私、パックには怒ってるから。私に内緒で、勝手に連れ出す準備までして」

「ごめんよ。だけど、仕方なかったんだ。あんな状態のロズワールにリアを任せてなんておけないでしょ? 危ない場所と立場に引っ張り出すだけ引っ張り出しておいて、本人があれじゃ無責任だよ。その点、リアの安全ってだけなら、ここはピカ一だし」

「――――」

「リアを危険な目に遭わせたくないって考えは、ボクとこの子で一緒だから」

だからパックは、ロズワール邸からエミリアを連れ去る内密の申し出に賛同し、王選からの離脱を躊躇いなく実行、結社への協力を惜しまなかった。

そしてエミリアだけが何も知らず、気付けばこの白い部屋で、囚われの籠の鳥――。

ただ、そのパックの判断を責める資格が自分にないことを、エミリアも理解している。

「結局、私は何にもできなかったから……」

ルグニカ王国の次代の王を決める王選――その戦いにおいて、エミリアは見るも無残な敗戦を、それも不戦敗に甘んじた。

その最大の原因は、王選候補者が集められた会合への参加を拒み、結果的に、王選への参加を認められなかったことにある。それは並びに、エミリアの後援者であったロズワール・L・メイザース辺境伯の失脚と、彼自身の失調をも意味していた。

早い話、エミリアは王選への参加の意思を示せず、後援者であるロズワールはその資格を喪失し、エミリア陣営は陣営としての初機能を前に瓦解したのである。

結果、エミリアは梯子を外される形になり、何もできないまま不戦敗とされた。

「……私の、願いは」

差別のない世界を作ることだった。

ハーフエルフであることや、生まれがその後の人生の絶対の評価とはならない場所、そんな環境を築くことが、拙いながらもエミリアの願いであるはずだった。

だが、その願いは口にすることもままならないまま、夢物語の彼方に消えた。

そうした願いの先にあった、エミリアの故郷の解放――エリオール大森林の大地で眠り続ける、氷像と化した仲間たちを救い出すこともまた、できなかった。

「あのまま、だらだらと何の庇護もない屋敷にいるぐらいなら、森に戻った方がよかったのに、リアはそれもできずにいたからね。さすがに、最初に密使から連絡があったときはボクも驚いちゃったけど」

「……すごーく、驚いた。だって」

ここへきて再会した少年を、エミリアは死んだものと思っていたからだ。

――王選への不参加、その運命を決定付けたのは、屋敷の使用人の少女の死だ。

魔獣が発端となった騒動で、最初の犠牲者となった少女、レム。彼女の死への関与が疑われたのが、ちょうど屋敷に滞在していた部外者の少年だった。

疑惑を向けられた少年はそれに耐えかね、逃げ出してしまった。その少年を追い、レムの姉であるラムもまた屋敷を飛び出し――そのまま、戻らなかった。

瓦解は、おそらくそこから始まったのだ。

レムの死の原因が魔獣の呪いにあるとわかったのは、近隣の村に被害が拡大し、すでに取り返しのつかない大失態が重なったあとだった。

魔獣騒動の結果を受け、ロズワールは挽回の機会を活かせずに失脚する。エミリアもまた、王選への参加を表明することが叶わずに不戦敗の屈辱を負わされ、屋敷は日増しに悪い方へ悪い方へ、誰も望まぬ崩壊へと、着実に歩み寄っていった。

そんなときだったのだ。

何も変えられない無力感に打ちひしがれ、緩慢とした日々を重ねていたエミリアを、あの日、いなくなったはずの少年が迎えにきたのは。

「――――」

パックに、答えた通りだ。エミリアは、少年に怒りを覚えていた。

こちらの事情を鑑みず、何の説明もなく、そもそも、いなくなるときも戻ってくるときも何も言ってくれなくて、こんなにいきなり自分を連れ出して。

エミリアを取り巻く世界が崩れ始めたのは、彼が切っ掛けだったかもしれないのに。

それなのに――、

「あんな風に……」

再会したエミリアに、少年は弱々しい顔で、不安と恐怖に疲れ切った顔で、今よりももっとひどい顔で、縋り付いて、泣きじゃくって、救いを求めた。

そうして、子どものように泣き喚く少年に、エミリアは怒ることを忘れたのだ。

甘い、のかもしれない。安い、のかもしれない。

それでも、子どものように泣きじゃくり、最後には赤ん坊のような寝顔を晒した少年を叱りつけられるほど、エミリアは自分の在り方が立派とは思えなかった。

そうして、少年がエミリアの下を訪れるのは、救いを求めにくるときだけ。

彼はエミリアの下へやってきて、自分が部屋の外で何をしてきたのかなんて一言も語らずに、ただただ自分の辛い思いをたどたどしく語り、エミリアの膝に命を預ける。

それを全霊の信頼を受け取るのか、心底から甘く見られている屈辱と受け取るのか、それはエミリア次第であり、エミリアはどちらの答えも出せていない。

「きっと、これってすごーく、不健康なのよね……」

これが、平常な状態でないことぐらい、世間知らずのエミリアにもわかる。

しかし、エミリアにはここで、縋り付く少年の涙を受け止めて、ひと時の安らぎに沈む彼を見つめ続ける以外に、自分の在り方を証明できない。

「――――」

少年がエミリアの下を訪れるのは、頻度で言えば十日に一度。

それ以外の時間はきっと、寝る時間すら惜しんで、彼は必死に足掻き続けている。

多く、言葉を交わしたりはしない。

ただ、こうして、自分の下を訪れる少年を、十日に一度の逢瀬を、エミリアは。

「……スバルの、オタンコナス」

――たぶん、心待ちにしているのだと、そんな自覚がエミリアにはあった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――弾かれた金貨が裏を示せば、ただそれだけで誰でも殺す。

そんな異常な主人の在り方に、フレデリカは嫌悪の感情を隠し切れない。

応接間に転がった首のない死体を片付け、フレデリカは汚れた絨毯を取り換えて、それから『パンデモニウム』の中にいる傭兵たちのために、食事の準備をする。

「他人を命運を、文字通りの運に投げる……神にでもなったおつもりなんですの?」

死体が死体となった顛末を受け、フレデリカは自身の劣等感の原因でもある、鋭い牙を噛み鳴らし、怒りに震える心を抑えつけた。

フレデリカ・バウマンが結社に雇われているのは、結社の代表である『粛清王』の情婦――そう噂されるエミリアが、強く懇願したからと聞いている。

あの日、屋敷が白く凍える冷気に満たされ、自分もまた、裏切った大精霊に命を奪われたと確信したフレデリカは、しかし、何の因果かここで目覚めた。

以来、首輪を嵌められ、ここでメイドとして、憎い相手に尽くすべく使われる立場。

いったい、自分がどれだけ不手際を働けば、これほど不条理な目に遭わされるのか。

「――旦那様、失礼いたします」

主人への食事は、フレデリカが直接部屋まで運ぶ決まりだ。

フレデリカ以外の誰にも任されず、代表はフレデリカが作った食事以外口にしない。それを光栄と、そんな風に考える心持ちは全くない。

そもそも、味や信頼がフレデリカに任された理由ではないのだ。ただ、フレデリカは馬鹿な真似をしないと、そう確信が持たれているだけで。

「入れ」

いくつもの鍵が外される音と、不躾な命令がフレデリカに入室を許した。

指示に従い、食事を運ぶカートと共に、フレデリカが主の部屋へ足を踏み入れる。

主の部屋は、贅を凝らした建物の内装や装飾品と打って変わって、広さ以外は非常に簡素で、言い換えれば人間味のない退屈な一室であった。

部屋の四隅には大量の本が、それも分野を選ばず、乱雑に集められた本が適当に詰め込まれており、几帳面なフレデリカには耐え難い空間だ。かといって、部屋の掃除を申し出ることを、この主人は強烈に嫌がる。

おそらくは、部屋に何かを仕掛けられることを警戒しているのだろう。

そんなことができないとわかっていて、それでもそれを警戒するのは、慎重というより臆病の発露――ひどく、軽蔑すべき醜態だ。

「旦那様、この、落ちている書類はいつものように?」

「……ん。ああ、頼む。わかりそうな奴に、見せてくれたらいいから」

言って、興味がなさそうに主人が手振りして示すのは、部屋の床に散らばっている、汚い字で書き殴られたいくつもの文章だ。

一見すれば、単なる書き損じとして片付けてしまいそうな紙切れだが、その実、これがこの結社の財源――粛清王のもたらす、神秘の数々の切っ掛けなのだ。

「その辺は、あんまり役に立たないかも。……エンジンとか、そういうのの仕組みって全然わかんねぇし。やっぱ、食事関係が一番わかりやすいよな……」

ぶつくさと呟きながら、ここではないどこかを眺めている主人。

彼が口にするのは、これまで誰も見たことがない、発見したことがない、気付いたことがない知識や文化、その糸口であったり、到達点であったりだ。

人と会えば、非情な決断を繰り返し続ける黒髪の少年――だが、彼は運命の悪戯か、稀代の発想をいくつも携えた、文化の開拓者としての才覚を与えられている。

彼が口にした多くの知識の切れ端が、在野に燻っていた知恵者たちに火を付けた。

常人には解せぬ到達点を一足跳びに示す少年の戯言を、知恵者たちは馬鹿正直に検証し、議論し合い、ついには一つの理論として確立する。

結果、それが莫大な利益を生み、何も持たない少年を大悪党へと育て上げた。

『今さら、現代知識でテンプレ無双とか、笑えてくるな』

以前、その功績を称えられた主人が、そんな呟きをこぼしたのをフレデリカは知っている。それを口にしたとき、彼が全く笑っていなかったことも。

ともあれ、大勢を不幸にする一方で、大勢の幸福を生み出してもいるのが、この黒髪の主人のあくどいところだ。

人間的には唾棄すべき存在でも、その頭脳には確かな価値がある。

これほど、扱いづらい存在は、きっと世界に二人といないに違いない。――そういう点ではもしかすると、ロズワールと気が合ったのかもしれないが。

「――――」

「フレデリカ、食事。先に、一口齧ってくれよ」

考え込む間も、てきぱきとフレデリカは食事の準備を進めていく。

この少年は、骨と皮だけのガリガリの姿をしている。食が細いわけではなく、精神的なものが大きいのだろう。

多くを傷付け、奪い、恨みを買っているわりに肝が細く、よく戻している姿を見かける。食事係として気分良くはないが、吐きたくて吐いているわけでもあるまい。

「旦那様、これで」

準備した食事は何故か二人分。

全てのメニューを二人分、倍の皿に盛り付け、テーブルへと並べる。それから、全部の皿の食事をフレデリカが一口ずつ齧り、毒見してみせるまでがお役目だ。

毒を盛ってやろう、と考えたことはない。やりたい、まではある。

ただ、フレデリカにとって、メイドとしての仕事は人生の大部分を占めた大事なものだ。教えてくれた人間、関わった人間、それらを思えば、暴挙はしたくない。

「では、出ておりますので、何かありましたら」

「ん」

食事中、主人はその姿を見られることをよしとしない。

そのため、食事の準備を終えたフレデリカは、終わった頃合いを見計らって、部屋を出ていることになる。

この日も、そうして部屋を離れ、外で待とうと考えて――ふと、目に留まった。

机に上に広げられたそれは、結社の構成員の名前が並んだ名簿に見えた。

その、名簿の横に、金貨が置かれているのが見えて。

瞬間、その意味を悟ったフレデリカは、背中に怖気が駆け上がるのを隠せない。

「旦那さ――」

「フレデリカ」

振り返り、主人を呼ぼうとしたフレデリカを、空っぽの黒瞳が見つめていた。

その空虚な闇に、フレデリカは息を呑む。そんな彼女の前で、主人はゆっくりと机に歩み寄ると、開いていた名簿を閉じる。

それから、そのすぐ横にある金貨を持ち上げ、親指に乗せると、

「――表」

軽々しい音と共に、弾かれた金貨が彼の左手に落ちる。それを受け取り、表裏を確かめた少年は、フレデリカに微笑みかける。

「表だ、フレデリカ。――弟と、祖母は無事だよ」

「――ぁ」

「出ていけ。いいって言われるまで、入ってくるな」

主人の言葉に、フレデリカはもはや返事もせず、人形のように頷く。

そして、込み上げる涙も隠せぬままに、頬を熱い雫で濡らしながら部屋を出た。それからすぐに、フレデリカは顔を覆い、走り出す。

「う、ううう……うぅぅぅッ!」

誰にも、何も、話すことはできない。打ち明けることは許されない。

どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

何故、こんなことになってしまったのだろうか。

あの屋敷の日々が、可愛くない後輩と、可愛い後輩と、困った主人と一緒に、過ごした日々が遠く、遠く――あの時間は、どこへ消えてしまったのだろうか。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――密使からの連絡を受け取って、セシルスは片目を閉じ、月を仰いだ。

「ふむ、ふむふむ、ふむふむふーむ」

そのまま首をひねり、腰をひねり、長い髪が地面を擦るほど身を傾ける。

元々、考えるのは得意ではない。セシルスは学がなく、そもそも学ぶつもりも皆無の人生であり、生涯、といっても二十年程度だが、費やしてきたものなどただ一つ。

ただ、剣客であることだけを誇りとし、刀を振るうこと幾星霜。

それだけの人生だったので、難しいことは御免被りたいのが本音も本音なのだった。

「さて、どうしたもんでしょうかね。僕としては」

傾けていた体を起こし、セシルスは床を擦った髪の毛を払う。それから、彼は腰の刀の唾を鳴らし、踊るように後ろへ振り返ると、

「ねえ、ハリベルさん。どう考えてます?」

「――なんや、そんな堂々とされると、息殺してた僕の方が恥ずかしいやないの」

城――パンデモニウムのバルコニー、月が覗く空に見下ろされる空間で、わずかな影から染み出すように、獣のシノビが現れる。

隠形を見破られたハリベルは頭を掻き、悪びれない顔のセシルスに歩み寄った。

懐からキセルを出し、くわえた先端に火を落とすと、紫煙を吸い込み、吐き出す。

「さっきの、こっそりとした遣いは誰やったん?」

「あれですか? 一応、『九神将』の一人なんですが……まぁ、最強格のシノビであるハリベルさんにかかったら、見つかっても仕方ないことですよね」

「セーさんて、隠し事とかするの全然向かん人やな。今ので、セーさんが全然、ヴォラキア帝国と切れてないって僕にバレてしもたんと違う?」

「でも、ハリベルさんはそんなこと、とっくにご存知だったのでは?」

「――――」

困った風な笑みを浮かべたハリベルが、セシルスの指摘に笑みを深める。

それが否定の意味でないことは、セシルスにも素直にわかった。

「元々、ボスに協力してるのは閣下のお達しでしたしね。もちろん、ボスの誘い文句にふらふらと誘われて、こっちへきてしまったのも嘘ではないですが」

「帝国の首輪付き……ま、スーさんの動きは、適度に誘導できたら自国の利益にしやすいところやろしね。どこから持ち込んでくるんやかわからん知識も、ルグニカとグステコに比べたら、カララギとヴォラキアの方が受け入れやすかったやろし」

「ですです」

キモノの袂に手を入れて、セシルスは間者であった事実を肯定する。

セシルスが結社の企てに協力しているのは、宣言通りに、ヴォラキア皇帝の指示を受けてのものだ。とはいえ、皇帝もセシルスの気質はわかってくれているので、これといって細かい指示は受けていない。聞いても覚えていられないし。

ただ、端的に命じられたセシルスの役割は――、

「閣下以外であれば、ボスが殺せと命じた相手を殺せばいい。いつも通りに」

「セーさん、シノビの僕より暗殺者っぽくない?」

「いえいえ、さすがにそんなことありませんよ。だって、ずっと水に潜るとか、体中に毒を仕込んでるとか、影から湧き出すとか、そんなの僕はできませんから」

手と首を振って謙遜し、セシルスは分野の違いを素直に認める。

シノビとして、暗殺者として、自分はハリベルには遠く及ばない。その代わりに、真っ向勝負をするとなれば、ハリベルはセシルスに及ばない。

「で、まさしく密使と会っている現場に出くわしたわけですが、どうされますか? ここで一つ、僕と死合ってみたりします?」

「そら、密使の内容次第やなぁ」

「ふむ、その内容とは」

「もしもそれが、スーさんを殺せたらいうんやったら、止めるために戦わんと」

キセルを指に挟んで、紫煙を吐くハリベルの髪が冷たい夜風に揺れる。

あっけらかんと、主君のために命懸けで戦う宣告をされて、セシルスは「なるほど」と頷く。

「前々から気になってたんですが、ハリベルさんはどうしてボスのために? 僕はほら、閣下の命令なんで、本気の忠誠心ってわけではありませんが」

「恩返し」

「――。あの方に、ハリベルさんが恩を受けるようなことが?」

思わぬ言葉が飛び出して、セシルスは素直な驚きで聞き返す。人によっては不躾と罵られるような図々しさだが、ハリベルはそうは受け取らなかった。

ただ、ハリベルは夜空の欠けた月を見上げ――、

「スーさんと出会った頃、カララギの端っこでちょっとした事件があったんやね。それがまぁ、四大精霊絡みの事件やったんやけど……スーさんが収めてくれたわけ」

「へえ、四大精霊! 僕も一体知っていますが、わりと会話が通じませんよね、あれ。それを鎮めるなんて……あれ、ボスって思ったより強かったり……」

「ちゃうちゃう。そないに好戦的に受け取らんでええて。なんやろ……まぁ、何が直接の決め手かはわからんけど、あれやね。たまにスーさんが見せる、異様な先読みがあるやんか。あれみたいな、そんな感じやった」

唾を鳴らした刀を戻し、セシルスはハリベルの説明に片目を閉じる。

微妙に納得がいくような、いかないようなな雰囲気なのは、セシルスがある種の面で、ボスである少年を評価しているためだ。

ハリベルは異様な先読みと言ったが、セシルスはそうは捉えていない。

あれは、万事において備えておくが故の、臆病故の武器と考えている。そして、セシルスは強者を尊び、好ましく思う。

それがどんな戦い方であれ、勝とうと貪欲にあれるものを戦士と認める。

「まぁ、僕はその中でも剣客なので、できれば剣同士が一番燃えますが」

「セーさん、セーさん、僕の話はもうええの?」

「そうですね、十分です。どのみち、ハリベルさんを疑ったりとか、そういうこと考えたことありませんし。帝国と違って、都市国家は頭の思惑が絡まり合う……誰かの意向で動いてると言われるより、よっぽど信頼できますよ」

そう応じると、ハリベルは何やら脱力した様子で肩を落とす。その仕草にセシルスは首を傾げ、それから「ああ」と思い出したように手を叩いた。

「そうそう、忘れていました。さっきの密使からの連絡ですが」

「それ、僕に話してしもてええの?」

「話さないと、色々と困ることもあるかもと思いまして。実はですね」

そこで、セシルスは満面の笑みを浮かべると、ハリベルに言った。

「――元辺境伯殺しが明るみになったので、王国が本気で結社を滅ぼしにかかるらしいですよ」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――そうして淡々と、終わりの瞬間は訪れる。

「本日はお目通り叶いまして、誠にありがとうございます」

そう言って、客人として応接間へ通された青年は、堂々と『粛清王』に対峙した。

「――――」

多くを殺し、多くの命を握り、多くの弱味を握るとされる男だ。

それを前にして、平静を保とうとしたもの、強がっていたもの、そうしたものは大勢いたものだが――、

「――なんか、堂々としてすごいですね。俺とそんな変わんないでしょうに」

「――。いきなりのお褒めの言葉、恐れ入ります」

頭を下げたのは、黒いスーツとネクタイを揃えた細身の青年だ。

柔和な顔立ちをしているが、瞳の奥にはどこか薄暗い闇が垣間見える。浮かべている笑みもおそらくは偽物で、しかもそれを見破られることを当然としている。

投げやりではないが、度胸は据わっている。――ちぐはぐな印象の青年だった。

「ええと、あなたは確か……」

「実は近々に、こちらの方で色々と手広く商売させていただきたく思っています。ですのでまず、結社の方にご挨拶と、贈り物をする機会をいただければと」

「なるほど、それは、まぁ、お気遣いどうも」

てきぱきと、自分の役割を進めようとする姿勢は好感触だ。

その姿勢を見習い、少年も淡々とした仕事に徹しようとする。

「献上品はこちらです。――代表は、これをお望みとお聞きしましたので」

「へえ」

青年が差し出した献上品、従者が運び込み、蓋を開いたそれに目を奪われる。

そこには大量の石――魔鉱石が詰め込まれ、純度の高さを証明するように、室内に満ち満ちるマナの濃度が一段と濃くなった。

その、献上品を見つめて、粛清王が呟く。

「何色が多い?」

「――?」

「赤と、青が多いですかね。でも、奥を見ると黄色と緑も……わりと、一揃いって感じに見えます。いやあ、気が利いてますね」

意味のわからない問いかけに、初めて青年が躊躇った。

その青年に代わり、答えたのは王の横に並び立っているセシルスだ。そのセシルスの報告を受け、王は厳かに頷くと、

「そうか、それはありがたい。心遣い、確かに受け取るよ。ええと……」

「ラッセル・フェローの遣いのものです」

「ん、わかったよ。あの、ラッセル・フェローの、な。よくわかった。何か、困ったことがあれば……」

そこで、粛清王が言葉を切る。

理由は、使者の青年が言葉を遮るように手を広げたことだ。

一瞬、室内にざわつく気配が広がる。王の言葉を遮った、その行いに粛清王がどんな反応を返すか、護衛たちが色めき立つ。

だが、そんな中で、ハリベルとセシルス、そして当事者の青年だけは冷静に、

「待ってください。実は、贈り物はまだこれだけではないんです」

「――へえ。ますます、感心だ」

続いた青年の言葉に、王がそう返答して、緊張感がわずかに薄れる。

そうして、いくらか緊張感が薄れた場で、青年は深々と頷く。

そして――、

「――ルグニカ王国から、粛清王の蛮行へ、返礼だそうです」

――直後、発生した白光が、応接間を丸ごと呑み込み、破砕する。

凄まじい光の奔流が、豪華絢爛な応接間を、魔城パンデモニウムを、まるで浄化するかの如く呑み込んで、白い塵へと変えていく。

何が起きたのかわからないまま、白い光に蒸発させられたもの、十八名――いずれも腕に覚えがあり、名のある戦士であったが、それはもはや格が違った。

仮に蒸発した彼らに事実を伝える方法があっても、誰一人として信じまい。

――自分たちを蒸発させた一撃が、ただの剣の一振りによって行われた所業などと。

崩落する、結社の本拠地。

主要なものたちが集まっていたその場所を吹き飛ばし、君臨する光輝の存在。

数多の悪行に手を染め、ついには世界の敵として認定された『粛清王』。

その存在を討つために、親竜の国が送り出した刺客、それこそが――、

「――『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

全ての努力を台無しにする、理不尽な神の鉄槌が、顕現した。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

破壊された応接間に、悠然と男は立っていた。

燃える赤毛に空を写し取った青い瞳、その白い近衛騎士の制服に一切の穢れを残さぬ騎士の中の騎士、それが一枚の絵画の如く、立っている。

その騎士の手の中で、握られていた聖剣が粉々に砕け散った。

たったの一振りで、世に名を遺した名工が鍛えた鋼が容易く塵と化す。その代償に、無数の蛮行を重ねてきた男と、その一味を一網打尽に――、

「――できるほど、可愛げのある手合いでないのはおわかりでしょう?」

「――――」

雷速で噴煙を突き抜け、凄まじい剣撃がラインハルトへと叩きつけられる。

まさしく、雷鳴の如き衝撃音が鳴り響き、『剣聖』の長身が大きく背後へ弾かれた。ただし、その身に斬撃を浴びてはいない。――愛剣の、鞘で受け止めている。

手にするのではなく、身をひねって斬撃を鞘で受けたラインハルト、その曲芸じみた行動に、一撃を放った青年――セシルスが口笛を吹いた。

「いやはや、まったく、相変わらずの人間離れ……お変わりなくて嬉しいですよ、ラインハルトさん」

「僕は、この再会はあまり喜べそうにありませんよ、セシルス殿」

ゾーリで粉塵の舞う床を蹴り、抜き放った『邪剣』ムラサメを肩に担うセシルス。その挨拶代わりの一撃と挨拶に、ラインハルトは眉を顰める。

そして、噴煙の晴れてゆく部屋の奥へと目を凝らすと、

「……届かなかったか」

「ああ、ボスには届きませんでしたね。まぁ、僕とハリベルさんが守ってるところへの一撃ですから、なかなか難しいところではありました。ぶっちゃけ、僕はボス守る動きとか全然してなかったので、ハリベルさんの功績が十割ですけども」

そう言って、セシルスが能天気に顎でしゃくった部屋の奥――煙の晴れた玉座に、頬杖をつく『粛清王』と、それを背後に庇った狼人、ハリベルの姿がある。

ハリベルは、口にくわえたキセルから紫煙を吐くと、

「セーさん、訂正。これ、僕の功績と違うから」

「え! それじゃあ、まさか、秘められた僕の力が……」

「そういうんとも違う。これ、スーさんの仕業。……この玉座、やたらと強力な力で守られてるみたい。僕らも、聞いたことなかったけど」

自分の手をわなわなと見つめるセシルスに、ハリベルが首を横に振る。

そして、そのハリベルの背後で、玉座に腰掛けていた『粛清王』が立ち上がった。それから、彼は自分の首に巻いた橙色の首巻きを掴み、

「――お前の一発は盗品蔵で見てんだ。備えてるに決まってんだろ」

頬を歪め、ひどく痛々しい笑みを浮かべた。

それこそが、『粛清王』――否、ナツキ・スバルとラインハルトの、再会だった。

「スバル……!」

「外れ籤引いたもんだな、ラインハルト。お前が盗品蔵で俺を助けなかったら、今頃はこんなことにならなかっただろうよ。――その場合、大切なご主人様にも会えなかっただろうから、お前にとっちゃそうでもないのかな?」

「――っ」

ハリベルの背後から覗き込むように、スバルがラインハルトに舌を出した。

その悪辣な形相に、ラインハルトが痛みを覚えたように頬を硬くする。悲しげに揺れる青い瞳を見つめ、悪鬼の如く憎々しい表情を作っていたスバル。

それがふと、表情が掻き消えて、

「――なんだ。お前、やっぱり白黒のままかよ」

「――? 白黒? それはいったい……」

「黙れ、嘘つき野郎。――そんなんじゃ、お前には殺されてやれねぇよ」

感情の凍えた声音で、スバルは興味を逸した風にラインハルトから目を逸らす。そのまま、ハリベルの肩を叩いたあと、ラインハルトと対峙するセシルスを見つめ、

「セシルス、好きにしていいです。俺はもう、興味がなくなったので」

「――。僕にはイマイチわかりませんが、どうやら僕とボスとでは見えているものが違うようですからね。ありがたく、好敵手はいただきましょう」

「見えてるものが違う……ははっ、道理だ。最後まで笑わせてくれるぜ」

セシルスの言葉の何が面白かったのか、スバルは楽しげに膝を叩いた。

それから、すぐに笑みは消えてなくなり、

「それなりに楽しかったよ、セシルス。お前は弱味がなくて、苦手だった」

「僕はあれです。――マヨネーズが怖い」

「ハッ!」

いけしゃあしゃあと言い放ったセシルスに、心底愉快そうにスバルが笑った。

そのスバルの姿が、ハリベルに抱えられる形で影へと沈み込む。そのまま、スバルとハリベルの二人は窮地に際し、この状況を離脱する――。

「待つんだ! まだ話は……」

「――終わりですよ、『剣聖』。終わりにしたくないのであれば、また追いついて始めてください。その前に、『粛清王』の忠実といえば忠実な部下が立ちはだかります」

「く……っ」

消えたスバルたちを追おうとするラインハルト、その足下を斬撃が通り抜ける。

床を横一線に斬りつけた一撃は、抜き放った瞬間すら見せない、圧倒的な剣速が為せる常外の一閃、剣の極みへと到達したものの一振りだ。

「生憎と、その評価を授けていただくにはまだ早い。僕はまだ、山登りの途上ですよ。あと一歩、乗り越えることができれば至れると思うんですが」

「至るとは、どこに」

「無論、天剣」

瞬間、空気が張り詰める音を立て、それが斬り裂かれ、死ぬのがわかる。

真に一刀の極みへ到達した剣士――否、剣客の放つ透き通った剣気。それはもはや魔性の域に達し、常識では計り知れない事態をも引き起こす。

そこに佇む剣の化身は、ただ刀に触れるだけで、見えざるものをも殺すのだ。

「このときを待っていました。――あなたと、剣を交えるこのときを」

「……セシルス殿、僕とあなたとは以前、すでに手合わせしたはずです。あの手合わせは僕にとっても、大きな意味があった。そのあなたが、どうして」

「当然、我が身は剣を振るうものなれば。――死線上にて、相見えるのみ」

二番刀、『邪剣』ムラサメが妖しげな輝きと共に抜き放たれる。

一番刀、『夢剣』マサユメが斬られることを望むほどに美しい刀身を剥き出す。

世界に存在する魔剣・名剣・聖剣の十振り、その二本が――否、

「――『龍剣』レイド」

常に『剣聖』の傍にあり、しかして『剣聖』に相応しき敵以外には抜かれることのない剣が、その白く輝く刀身を大気に晒す。

抜き放たれた刃に音を感じるのは、龍剣が喝采しているからに相違あるまい。

「ご存知でしょう、ラインハルトさん。僕たちの前には壁がある」

互いに、聖剣・魔剣・龍剣を手にし、超級の存在が向かい合う。

にじり合うように距離が縮まり、世界が衝突を恐れ、大気が歪んでいく。

「ある領域へ達したものたちは、その先への道を壁に遮られるものです。どうあっても越えられないその壁を、乗り越えずに諦めがつくものもいるでしょう。ですが、僕にはそれは不可能だ。その壁を越えなければ、僕は僕でいられない」

「――――」

「そこへきて、ボスの誘いがあったんです。壁を越える方法を……まぁ、つまるところ、死線上であなたと剣を交える方法を、本気で命の奪い合いへのお膳立てをすると。まさしく――藁にも縋る思いというやつでした」

「藁に……?」

「溺れるものは、ということだそうです」

それが、セシルス・セグムントがこの場へ至った、唯一の解法。

あるいは、剣客である自分の望みを言い当てられたとき、それは必定だったのか。

目を見開く『剣聖』に、セシルスは唇を湿らせた。

そして、笑い、笑顔で人を斬る『青き雷光』は、告げる。

「溺れているのですよ、ラインハルト・ヴァン・アストレア殿。僕の雇い主殿に言わせれば、僕たちは、何かを強く欲するものは、皆が皆、溺れているのだそうです。目にしたこともない『オオウナバラ』とやらで、溺れ続けているのです」

「――――」

息を呑む、ラインハルトが。

そこへ、身を低くし、二本の刀を構えるセシルスが、ゾーリを脱ぐ。

「――剣客、セシルス・セグムント」

ヴォラキア帝国、一将、『青き雷光』――余分な肩書きなど不要。

この身、只一つの剣客にして、天剣への道を望むもの。

――雷光が、雷鳴が、パンデモニウムをつんざく。

血飛沫が、舞った。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――パンデモニウムに激震が続く。

戦いの余波が、激しい揺れと衝撃が、エミリアの私室まで轟いてくる。

天井から釣り下がる照明が大きく揺すられ、埃が舞い散るのを眺めながら、寝台に丸まるエミリアは選択を迫られていた。

「――――」

ここにいろ、とそう言われている。

あるいはそれは、「ここにいてくれ」という懇願のようでさえあった。

それを信じて待つべきなのか、それを無視して飛び出すべきなのか。

自分の置かれた立場と心の在り方に迷いながら、選択を先送りにし続ける。

しかし――、

「――リア、決着がつくよ」

「え……」

激戦の揺れが続く中、寝台のエミリアにパックがそう声をかける。震える紫紺の瞳で宙を見れば、短い腕を組むパックが小さな鼻を鳴らしていた。

決着と聞かされ、エミリアは息を呑む。

また、何もすることができなかった。

選択を先送りにして、選択しないことで結果を受け入れる。

それが卑怯な行いだと、半ばわかっていて、また自分は――。

彼に、スバルに対する態度を保留しようと――、

「――ラインハルトがいる。スバルの、負けだね」

「――――」

そんなエミリアの思考が、続けられたパックの言葉に凍り付いた。

「え」

形にならない思考、言葉にならない声をこぼし、エミリアは目を見開く。

決着と聞いて、エミリアはスバルの勝利を確信していた。それを疑ったことが一度もなかったことを、エミリアはこの瞬間に初めて理解する。

ナツキ・スバルは敗北しない。

どんな相手がこようと、勝手な理屈と強固な人間不信を武器に必ず勝利する。あらゆるものを手駒とし、考えうる手勢の全てを操り、どんな敵でも撃滅する。

そして、考えることに疲れ、ひと時の安寧を求めにエミリアの下を訪れると――。

必ず、スバルは自分のところへやってくると、エミリアは信じ込んでいた。

「今日まで、ボクはリアの選択を急がせたことはなかったけど、今回はダメかな。選ばなくちゃいけないときがきたんだ」

「選ぶ、って……」

「ここに残るか、ここから出ていくか、だよ」

どこまで知っているのか、淡々としたパックの言葉には確信があった。

ぎゅっと、シーツを握りしめるエミリアをパックが見下ろしている。その表情には普段の飄々としたそれが微塵もなく、ただ可愛い愛し子を憐れむ色が強い。

道に迷った愛し子の、その道行きを不安視する、親の目線だ。

「スバルがうまく情報統制してたみたいだからね。結社の活動に、リアが関与した形跡は一切ないって。まぁ、ホントにリアは関わってないんだけど、わりと長く一緒にいたから、邪推する輩は出てくるだろうし、必要な対策だよね」

「関わってないって、それなら私は、どういう立場だったの?」

「ロズワールのところから連れ去られて、監禁されていたって扱いだよ。今、パンデモニウムを壊そうとしている子たちは、君を助けにきた救出隊でもあるみたい」

思いがけない説明に、エミリアはただただ唖然とする。

エミリアが、自分の意思と無関係にロズワールの下から連れ出されたのは事実だ。そしてそのことに腹を立て、スバルのことを疎んだことがあったのも事実。

だが、救いを求めて縋り付くスバルを拒絶しなかったことも、彼がエミリアとの時間を守るために懸命なのを、見過ごしてきたのも事実であった。

それを受けてなお、エミリアは彼の在り方に無関係であったと言えるのか。

そう言い張るなどと、まさしく、厚顔無恥の極みではないのか。

「リア、ここで大人しく待っていれば、救出隊が可哀想なお姫様として助けてくれる。だけど……」

囁くように語りかけ、パックがエミリアの細い肩の上に着地する。そして、頬をすり寄せてくる猫精霊の、言わない言葉の続きはエミリアに痛いほどわかった。

待っていれば、被害者として助け出される。

だが、エミリアがここを自ら離れれば、それは自由意志の与えられた加害者だ。

その事実を前に、逡巡は一秒もなかった。

「――――」

立ち上がったエミリアが、白い部屋の唯一の扉に触れる。

外から開けるためには、複雑な術式による個人の認証が必要になり、スバルと、世話係のフレデリカ以外は入出ができない決まりとなっている扉だ。

その術式が、エミリアが内側から手を添えた途端、跡形もなく砕け散る。

「スバルの、オタンコナス……」

砕かれた術式の痕跡を掌に求めながら、エミリアはか細い声で呟いた。

元々、この術式はエミリアにだけは容易く破れるように設定されていたのだ。つまり、スバルはエミリアが逃げたいとき、いつでも逃げられるようにしていたということ。

鳥籠の扉はいつでも、籠の鳥の決意一つで破られるようになっていたのだ。

それが、エミリアは逃げないとスバルが高を括っていただけなのか。

それとも、エミリアの逃げたい意思を尊重するスバルなりの優しさだったのか。

その答えを、スバルの口から聞きたいと思った。

――それが、何も選択できずにいた時間の果てに、エミリアの選んだ答えだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

応接間を連れ出され、ハリベルと共に城の中を走りながら、『粛清王』は、少年は、ボスは、主人は、彼は、――ナツキ・スバルは、低く笑っていた。

「フェルトあたりを、ちゃんと、人質にしとけばよかったかな……」

そうすれば、ラインハルトの動きを縛ることができただろうか。

――否、それよりも、ラインハルトの怒りを買って、その力でパワーアップした『剣聖』と戦うことになる可能性の方が高そうだ。

とことん、シミュレーション通りの流れだった。

おそらくは、パンデモニウムが落ちるときはこうなる予感がしていたのだ。

「裏社会の大ボス気取りも、ちょっとは楽しかったかな……」

思い返す。ここまでの道のりを。

いったい、どれだけ苦労したことか。たくさんの人の弱味を握り、憎悪を向けられながら、相手の人生を支配して、気紛れにその命を奪って――。

――否、気紛れでは、断じてなかった。

遊びだと思われていたなら、それは大いなる誤解だ。

それを解こうと努力したことも、努力する意味もないから、考えたこともないが。

――スバルは、人間が怖かった。おぞましかった。

表面上は笑顔で接してきて、実際は腹に一物を抱えている。そんな人間の在り方が、真実を隠し、無数の思惑のままに動ける人間が、恐ろしかった。

一緒にいる人間が信じられるかどうか、そんなことを考慮するのが馬鹿らしくなる。

だからスバルは、人間関係をシンプルに簡略化することに決めたのだ。

全ての人間は嘘をつく。

その上で、全ての人間がスバルを憎悪したとしても、何の問題もない世界の確立。

どんな人間にも弱味はある。家族が、恋人が、財産が、夢が、希望が。

だから――、

「――世界中の人間の弱味が、握れたらなぁ」

そうすれば、ようやっとスバルは、誰も疑わなくてよくなる。

モノクロの世界で、信じられるカラフルがいない世界で、憎悪を糧に、安らげる。

「――――」

スバルを連れ、一緒に逃げてくれているハリベル。

そのハリベルの姿が、スバルには真実の形で見えない。――スバルには、彼の姿がモノクロに見える。白と黒、たったの二色になって見えるのだ。

「――――」

モノクロに見えるのは、ハリベルだけに限った話ではない。

今や、スバルに見える世界は、何もかもが色を失い、二色に移り変わっていた。

人も、物も、絵画も、調度品も、宝石も、魔鉱石も、鮮血も、水も、白と黒。

血と水の区別がつかず、スープと毒の区別もつかない。

全てはモノクロだ。モノクロなのだ。

そんな世界にあって、スバルにカラフルに見えるものが、いくつかあった。

それが本物だと、スバルは信じている。

それ以外の全ては偽物だと、スバルはそう信じている。

ベアトリスが、そうだった。

エミリアが、そうなのだ。

あとは、唯一、あとは。

とにかく、それ以外の全てを、スバルは信じられない。

それ以外からもたらされるものは、何もかもが文字通り色褪せて見える。

嘘にならない、本物だけ。

ナツキ・スバルを生かすも殺すも、決定権を持つのは、本物だけ。

「……ラインハルトには、ちょっと期待してたんだけどな」

もしかすると、あの日々の前――本当に、色を失う切っ掛けとなった出来事より前の関係者であれば、色褪せることなく在り続けてくれるのではと期待した。

だが、初めて会う人間さえもモノクロに見えるスバルなのだ。そんな期待は淡く、あの鮮やかだったラインハルトが、スバルには灰色の塊に見えた。薄汚れて見えた。

所詮はラインハルトも、人の子だ。

きっと彼もまた、嘘をつき続けて、生きている。それだけのことなのだ。

「旦那様――!」

城内を駆け回っているスバルたちを、ふいに横合いから高い声が呼ぶ。

見れば、廊下の向こうから走ってくるのは、長い髪をした長身のメイド、フレデリカだった。色分けはできないが、顔の主張が強い奴は覚えやすい。

スバルはフレデリカのことが、密かに気に入っていた。だから――、

「御覚悟――ッ!」

踏み込んで、律義にお命頂戴と叫んでしまうところも、可愛げがあると思える。

無論、フレデリカのその行動は、カララギ最強の目こぼしはされない。

「あ、ぅ!」

手にした短刀を奪われ、フレデリカが腕を極められて壁に押し付けられる。それをしたハリベルを、フレデリカは首だけ振り返って、

「何故、ですの、ハリベル様! 今、混乱に乗じれば、その男を……!」

「殺せる。そう考えるんは、僕もよぅわかるよ。弱味を握られてる子ぉらは、スーさんを殺して解放されたくてしゃぁないやろね。せやけど……」

そこで、ハリベルは細めた目を開き、フレデリカを睨みつける。その眼光を間近で浴びて、フレデリカの細い喉が鳴った。

「生憎、僕は弱味で従ってるわけやない。スーさんには、恩で従っとるんよ」

「恩!? この男に、恩? ふざけないで、くださいまし……!」

壁に押し付けられたまま、血走った目でフレデリカがスバルを睨む。ただでさえ鋭い牙が肥大化し、その女性の細い指が、太く、強大な獣へと変じていく。

「絶対に……、っ!?」

「スーさん?」

その、懸命に身をよじるフレデリカの傍らに、いつの間にかスバルが立っている。

フレデリカが目を見開き、ハリベルが呼び止めるが、スバルは止まらない。そのまま、フレデリカの必死に持ち上げた腕が、スバルの首を掠める。

瞬間、はらりと、スバルが首に巻いていた布切れが舞い落ちて――。

「――ひ」

フレデリカが、それを目にして喉を引きつらせた。

ハリベルも、初めて見るそれを前に、微かな驚きを露わにする。

――ナツキ・スバルの首に、くっきりと残る、指の跡。

「ダメだ、フレデリカ。白黒のお前に、殺されてはやれない」

「――――」

硬直したフレデリカに、スバルは顔を近付け、はっきりと断言する。

あるいは、フレデリカならば、色がつくかもしれないと期待していた。しかし、この瞬間、決定的な瞬間になっても、フレデリカは白黒のままだった。

「ハリベルさん……フレデリカを連れて、逃がしてやってくれ」

「……スーさん。たぶん、『剣聖』を引き入れた内通者は」

「わかってる」

身動きの取れないフレデリカを見て、スバルはハリベルの言葉を遮った。

言われずとも、わかる。フレデリカが内々にそうした働きをするだろうことは、あの待遇の果てならば理解できる感情だ。

――否、フレデリカに限らない。彼女でなければ、他の誰かがしていただけ。

それこそ、彼女以外は全て、見込み違いだっただけで。

「戻ってこなくていいぜ、ハリベルさん。俺は、俺なりに決着をつけるから」

「――――」

「俺への恩義を返すなら、ここまででいい。そもそも、あんなの、恩に感じる必要なんてなかったんだ。……俺は、ズルしただけなんだから」

首を横に振り、スバルはハリベルに薄く笑いかけた。

ハリベルは、たぶん、スバルに対して真摯に接してくれていた気がする。それでも、ハリベルにも色はつかなかった。

もしかすると、一度失われた色は、戻らないのかもしれない。

何かを信じる資格を、スバルが失ってしまったから。

だからもはや、何一つ、世界はスバルに色づいてくれないのか。

だとしたら、あとは、縋れるものは――。

「スーさんとは、ちゃんと友達になりたかったわ」

「……俺が逃げ出してなかったら、なれたかもね」

スバルの意思を受け入れ、ハリベルはただ、その短い言葉を別れの挨拶とした。

スバルも、それ以上を彼と交わすのは無粋に感じる。

最後ぐらい、友達になれたかもしれなかった人には、格好つけておきたい。

「フレデリカ」

「――――」

呼びかけに、フレデリカがゆるゆるとこちらを向く。

すでに戦意喪失してしまった彼女に、スバルは伝えるべきか迷ったが。

伝えてほしいと、そう言われていたから、

「飯、いつもおいしかったって、伝えてくれってよ」

――たぶん、その奇妙な言い回しは、フレデリカに意味がわからなかっただろう。

最後まで、フレデリカにはナツキ・スバルが怪物に見えたはずだ。

それでいい。それで構わない。そう見えるように振る舞い、それをやり切った。

見たいはずの結果は、得ることができなかったけれど。

「さて、俺はどこへいこうか」

ハリベルがフレデリカを連れ、影に沈むように姿を消した。

そうして一人、ナツキ・スバルが、夢の跡地に取り残される。

揺れが続くパンデモニウム、おそらくはラインハルトとセシルスの激闘が繰り広げられている証拠だが、遠くから聞こえる複数の声は、攻めてきたのがラインハルトだけでなく、この機に乗じた潜在的な敵もいるのだろうと判断できた。

敵、敵、敵。敵ばっかりだ。

そうなるように生きてきた以上、仕方ないのだが。

「――――」

スバルは正面、分かれ道に達して、どちらへ向かうかわずかに迷った。

右へいけば、弱い自分が拠り所にしていたエミリアの寝所。

左へいけば、弱い自分が拠り所にしていた、彼女の――。

「――ぇ」

どちらへ、その選択肢に顔を上げた瞬間だった。

駆け寄ってきた何者かが、スバルの左脇に鋭い刃物を突き立てていたのは。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

見知らぬ城の、見知らぬ景色の中を、裸足のエミリアが走っていく。

約一年を過ごしたパンデモニウムだが、エミリアが知る城の光景は白い私室だけ。部屋の外のことも、建物の外のことも、エミリアには全てが慮外のことだった。

そしてそれは今も変わらない。エミリアの関心は世界にはない。

今、エミリアの関心が向くのは、自分を求め続けた少年、ただ一人だけだった。

「――エミリア様!」

名前を呼ばれ、ハッとした顔でエミリアは足を止めた。

あちこちが崩落し、原形を失いつつあるパンデモニウム。窓がひび割れ、傾く白い廊下でエミリアを呼び止めたのは、燃える赤毛を頂く青い目の青年だ。

「ラインハルト……」

「ご無事でしたか、エミリア様。またお目にかかれて何よりです」

こんな場にあっても、騎士の礼を貫き通す姿勢は勇ましく、あまりに気高い。

見つけたエミリアの下へ駆け寄り、頭を垂れる青年、ラインハルト・ヴァン・アストレアの姿に、エミリアは紫紺の瞳を戸惑いで揺らしていた。

「ラインハルト、ひどい怪我よ。大丈夫なの?」

「ご心配には及びません。軽い傷、とはさすがに言えませんが」

そう言って、エミリアの言葉にラインハルトが唇を緩める。

だが、そのラインハルトの姿は、彼にあっては想像もできない満身創痍の状態だ。

体中に無数の剣閃を浴びた刀傷が走り、今も止まらない出血が白い廊下に点々と血の雫を落としている。精悍な顔立ちの頬には乱れた赤毛が張り付き、呼吸を乱したところを見たこともない横顔には、確かな疲労の色があった。

騎士の白い制服は自他の血に塗れ、何より驚くべきなのは――、

「あなたの、剣が」

「ここは、『龍剣』が抜かれるべき場面だと、剣が判断したのです」

決して抜かれることのない聖剣、アストレア家に伝わる『龍剣』レイドが白く輝く。

その鮮やかな美しい刀身を目にして、エミリアはごくりと息を呑んだ。

その刃がいったい、この城の誰に対して振るわれ、これから振るうつもりなのかと。

「とにかく、エミリア様がご無事でよかった。……僕と一緒に、ここを離れましょう。城の外に竜車があります。それで、ルグニカへ」

「ルグニカに……ここは、どこなの?」

「ここは、カララギ都市国家の果てにある、ギラル赤丘の隠れ城……居場所を掴むのに苦労しましたが、腕利きの諜報員と、内通者のおかげで何とか」

エミリアの質問に応じながら、ラインハルトは周囲を警戒している。

今も、揺れが続くということは、この城のどこかで戦いが起きている証拠だ。ラインハルトからすれば、味方の援護に向かいたいところだろう。

いかに傷だらけであったとしても、それでも彼は王国最強――否、世界最強の男だ。

彼にかかれば、パンデモニウムを落とすことも時間の問題。

彼さえいなければ――。

「エミリア様、今はこの場を――」

急いで離れましょう、とラインハルトは続けようとしたのだろうか。

だが、その言葉は、背中を向けていたエミリアの行動によって、唐突に遮られた。

「――――」

一瞬のことだった。

ラインハルトの腹部を、背後から氷の剣が貫通する。青白い氷の刀身を血が伝い、内臓を破壊と氷結に侵され、『剣聖』がかつてない衝撃に血を吐いた。

「エミリア、さま」

「あ」

何事が起きたのか、理解できずにいるラインハルトが膝をつく。その様子を目にしながら、エミリアは呆然と、自分の白い指を見た。

自分が何をしたのか、それこそ、本当に思わぬ行動だったことに唖然として。

――これが、エミリアの本心からの裏切りであれば、ラインハルトは防いでいた。

敵意や殺意を込められた攻撃であれば、ラインハルトの直感を潜り抜けられない。あるいは加護がまともに働いていれば、やはりラインハルトの防備を貫けなかった。

しかし、ここがパンデモニウムであったことと、エミリア自身が自分の心を御し切れなかったこと――それが、ラインハルトに致命的な隙を与えた。

「だ、め……ダメよ。スバルは、ダメなの。ラインハルト、ダメよ。スバルは、傷付けさせない。スバルには、私が、必要なの……」

嫌々と首を横に振りながら、エミリアは自分の行動の真意を裏付けていく。

とっさの行動、とっさにラインハルトを自分が攻撃した理由、それは彼の存在がパンデモニウムを壊し、ナツキ・スバルを追い詰めると本能的に悟ったから。

そしてその悟りを、本能的に止めなくてはと考えてしまったから。

エミリアは無意識に、スバルを守るために、ラインハルトを殺すしかなかった。

「スバルは、私が……」

事、ここに至ってようやく、エミリアは自分の心を理解する。

幾度も幾度も、スバルが自分の下へやってきて、安らぎを得ようとする姿を見つめ続けて、そんな時間を過ごす内に、エミリアもまた、救われていたのだ。

――スバルがエミリアを必要とするように、エミリアもスバルが必要なのだ。

「私が、守る。私が、スバルを守ってあげなきゃ……」

「エミリア様、それは……」

「――パック! お願い!」

轟、と凄まじい冷風が溢れ出し、銀色の髪が白い廊下に美しくはためく。

いっそ、殺意に昇華された身を切る極寒の風を浴び、ラインハルトは血の線を宙に引きながら大きく後ろへ跳んだ。そして、咳に吐血を交えながら剣を構える。

空を映した青い瞳に、『氷結の魔女』と『終焉の獣』が並び立つ。

『悪いね、ラインハルト。リアの願いは、ボクの望みだ。――君がそこまで弱ってるなら勝ち目もある。ネコ科っぽい残酷さでしょ?』

「お願い、ラインハルト。このまま帰って。私と、スバルのことは放っておいて」

「――それは、できません」

この期に及んで、穏便な解決法を探ろうとするエミリアに、ラインハルトは首を振る。

すでに交渉は決裂している。背後から不意打ちを浴びせたときに――否、あるいはラインハルト自身は、傷のことなど考慮せず、状況が許せば和解に応じたかもしれない。

しかし、ラインハルトの信念が、すでにそれを許さないところへきている。

「結社『プレアデス』代表、『粛清王』ナツキ・スバルはすでに、ロズワール・L・メイザース元辺境伯を始めとした王国民、並びにヴォラキア帝国、カララギ都市国家、グステコ聖王国の臣民を、合わせて十二万六千七百二人、死なせています」

「――――」

「直接的な被害だけでその数。間接的な被害を含め、命以外の被害者を上げれば、その数はさらに膨れ上がる。とても、見過ごせる悪ではありません」

ラインハルトの言葉には、真摯な響きと懇願があった。

自分の言葉を聞いて、ナツキ・スバルの悪行を知ることで、エミリアの心変わりを願うような響きがあった。

事実、エミリアは衝撃を受けていた。私室にこもり、あくまでスバルの寝顔を眺めることだけが役割だったエミリアは、彼の悪行を一つも知らなかった。ロズワールを死なせ、自分を連れ出したことには薄々勘付いてはいたが。

そして、その衝撃を経て、エミリアは俯く。

衝撃、確かに衝撃はあった。だが、エミリアが抱いた衝撃は、スバルが犯した罪の重さと多さへの落胆ではなく――、

「――ごめんなさい、ラインハルト。私はそれでも、スバルが大事なの」

その悪行を知った今も、ナツキ・スバルへの執着が薄れない、自分自身への衝撃。

エミリアの立ち位置は、真実を知っても変わろうとはしなかった。

「――っ」

それを口にしたエミリアに、ラインハルトは唇を噛んだ。それから、彼はすぐに顔を上げると、抜き放たれた龍剣を正面へ構え、

「――『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」

「私はエミリア。ただの、エミリアよ」

互いに名乗り合い、次の瞬間、白い衝撃波がパンデモニウムの最上層を破壊する。

救われるはずの囚われの姫が、救いにきた剣の騎士と、殺し合いを遂げて。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「く、そ……くそったれ……あの、クソ、ボケ……!」

崩壊する城の中を、スバルは悪態をつきながらよたよたと走っていた。

ふらつく足下、ぽたぽたと滴っていく鮮血――左脇には、刺客に襲われた際のナイフが突き刺さったままで、脳髄を延々と痛みがデンプシーロールしている。

「あの白黒野郎……次があったら、絶対に殺してやる……!」

脂汗を掻きながら、廊下の壁を頼りに進み続けるスバルは、最後のダメ押しをしていった挙句、トドメはくれずに逃げた刺客を――応接間で消えたはずの男を、思い浮かべた。

『これ以上は僕の仕事の範囲外ですので。ナツキさん、お足下にお気を付けて』

敵中で大将を斬りつけ、あの逃げ足と語り草は見事の一言――などと、敵を称えるような趣味はスバルにはない。

的確に、やられて嫌なことをやっていく男だった。純粋に屈辱感と、あの難敵を見落としていた自分の迂闊さへの失望が憤怒に変わる。

だが、その激情の発散も、この状況では果たされそうにない。

「似合いの最後、似合いの末路か……」

じくじくと、火傷のように痛む左脇に手を当てながら、スバルは陰鬱に呟く。

自分のしてきたことを思えば、いつか報いを受けることは確実だとわかっていた。それでも、その報いを受ける瞬間を地獄まで先延ばしにするのが理想だったのだが、所詮は凡人の浅知恵――始めてから三年も経たずに限界とは、情けない。

独裁者の迎える末路なんてそんなものだ。

疑心暗鬼の果てにやりすぎたことも、その滅びに拍車をかけたことは違いない。

しかし、後悔はなかった。

あれをしていればこれをしていれば、なんてわかりやすい修正点も見当たらない。

間違っているのは最初からわかっていて、正そうと考えたこともない。ただ、間違っているなりの生き方があるだろうと、スバルは足掻いていただけだ。

溺れていただけ。溺れていたものが、息継ぎに懸命になっていただけ。

ただそれだけで――、

「――スバル」

「――――」

血の跡をつけながら、廊下を這うような速度で進むスバルを誰かが呼んだ。

一瞬、その声の正体がわからず、スバルは眉を顰める。――心当たりがなかったわけではない。ただ、その声が、ここで聞こえる理由がわからなかった。

だって、彼女の私室はこことは真反対の位置にあって、外へ逃げるためならば、こんなところへやってくる理由なんてないのだから。

だから――、

「う、ぉあ!」

「よかった、スバル……ちゃんと会えた……っ」

「エミリア……?」

駆け寄ってきたエミリアに飛びつかれ、廊下に押し倒されて、その美しい顔を至近で眺めて初めて、スバルはそれが現実であると受け止めた。

白黒の世界に、銀色と、紫紺と、桜色の唇と、色が、ついていく。

エミリアだけがまるで、世界で唯一だと教えてくれるように、色づいている。

「――でも、なんで」

色づくエミリアの姿に、しかしスバルは状況が理解できない。

確かな温もりが、痛いほどの抱擁が、エミリアからスバルに与えられる。

いつだって、エミリアを求めるのはスバルの方から一方的で、そんな彼女がどうして、こんな状況になってスバルの下へ――、

「……エミリア、その怪我って」

「――。大丈夫、だから。ホントに、何ともありません。へっちゃらよ」

抱き着くエミリアを改めて見れば、微笑んで強がる彼女は傷だらけだった。

美しい銀髪は乱れ、一部を切り落とされて不揃いの状態になっている。白い薄手の寝衣はほつれと血で汚れ、素足にも痛々しい裂傷がいくつもあった。

こんな風にならないように、彼女の私室には無数の防衛策を施しておいたはずだ。

それに、彼女がこんな目に遭うことを許さない精霊が、一緒にいたはずで。

「パックは何をしてたんだよ……」

「パックは……ううん、その話は、今は、いいの。今はいいから……」

「――?」

一瞬、エミリアの瞳を逡巡が過ったが、それはすぐに閉じた瞼に隠される。

その反応をスバルは訝しんだが、次にエミリアが瞼を開いたとき、垣間見えた逡巡はどこにもなかった。

「スバル、一緒に逃げましょう。今なら、誰も私たちを追ってこれないから」

「――逃げるって、俺と?」

「そうよ。他に誰がいるの。変なこと言わないの」

少しだけ怒った風に、エミリアがスバルの鼻を指でつついた。それがあまりに場違いな仕草に思えて、スバルの頭上を疑問符が飛び交い続ける。

そもそも、エミリアはスバルのことを、疎んでいたはずだ。

「それでも、君が優しいから、俺はそれに甘えてただけで……」

「――そう、だったのかな。私も、そうだったらって思ってたけど」

「エミリア?」

胸に手を当てて、エミリアが寂しげに、儚げに目尻を下げる。

その胸を、脳裏を過るのは、スバルが彼女を連れ去って、ここで過ごした日々だろうか。足繁く通う憎い相手の寝顔を、見つめ続けるしかなかった時間だろうか。

あの時間にスバルは救われていて、しかしエミリアには屈辱のはずで――。

「私、スバルに怒ってたと、思う。でも、それってホントに最初だけで……あとは、ずっとスバルに助けられてたって、思うの」

「俺に、助けられてた……?」

「私を、スバルが必要としてくれたから。誰にも必要にされないって、そんな風に諦めてた私を、スバルが許してくれた気がして、だから……」

共依存、そんな単語がスバルの脳裏に浮かび上がった。

スバルが、エミリアの存在を心の安定に必要としたように。エミリアもまた、あの時間の必然性を自分の中に求める間に、そんな結論に思い至った。

それ故に二人は、互いに互いを必要とする、共依存の関係に陥ったと。

「スバルと、一緒にいたいの。だから、逃げましょう?」

「……そう、言ってくれるのは、嬉しい、けど」

たどたどしく応じながら、スバルはいまだ、エミリアの告白が受け止めきれない。

衝撃に打ちのめされる心中、それを余所に、思考は現実的な解答を導き出す。

エミリアが言ってくれるように、彼女と逃げるのは不可能だ。

ラインハルトがきている。彼を、セシルスが押さえてくれているとしても、城の外には『粛清王』の討伐を求め、多くの敵がひしめき合っているはずだ。

もはや、城の外にはスバルの味方はいない。潜在的な敵を抑えるための数多の手管も、この状況では機能しない。潜在的な敵は、確かな敵となって立ちはだかる。

エミリアを連れて逃げるなど、全く現実的ではない。

ナツキ・スバルはここで終わりだ。ここで、終わって――、

「――だったら、一緒に死んであげる」

「――――」

瞬間、スバルは腹を刺されたときより、ラインハルトが登場したときより、終わりを悟ったときよりも、呆けた。

微笑むエミリアが、スバルを見つめて、慈しみと、確かな親愛を込め、言った。

ナツキ・スバルが終わるならば、エミリアもまたここで――、

「一緒に終わってあげる。あなたが、必要としてくれない場所に、私はいたくない」

「――ぁ」

「お願い、スバル。あなたが、必要なの。私と、一緒にいてほしいの」

胸に、エミリアが縋り付いてくる。熱い雫と吐息の感触を味わって、スバルは普段とは真逆の触れ合いで、自分が必要とされていることを強く実感した。

自分が、エミリアに縋り付くように、エミリアがスバルに縋り付いている。

ずっと、スバルはエミリアを必要としていた。彼女に、救われていた。

だから、エミリアがスバルを必要として、救いを求めてくれている今が。

エミリアが、スバルを必要として、救いを求めてくれている、今が。

今が、今が、そんな瞬間が、くることなんて、考えたことも――。

「スバル……?」

縋り付くエミリアの肩を掴んで、スバルは彼女を押しやった。

そして、凝然と目を見開く彼女の前で立ち上がり、スバルは後ろに下がる。

エミリアが、スバルを見上げている。

そんなエミリアに、スバルは唇を震わせ、言った。

「う、そだ……」

嫌々と、首を横に振り、スバルはエミリアを――恐怖の目で、見ていた。

「すば、……」

「嫌だ、やめろ、やめてくれ。なんで、俺を、今さら、なんで! やめろ! やめろやめろやめろ! やめてくれよぉっ!!」

恐怖、恐怖だ。

恐怖があった。恐怖しかなかった。恐怖だけがあった。恐怖だけなのだ。

恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖――。

『――そんなに魔女の臭いを漂わせて』

耳を塞ぐ。

頭を抱える。

声を、絶叫を上げて、聞こえる声から逃げようとする。

『――無関係だなんて白々しいにも限度がありますよ』

耳を塞ごうと、

頭を抱えようと、

声を、絶叫を上げようと、逃げようとしても、逃げ切れない。

『――姉様は、優しすぎます』

「そんなこと、俺が知るかよぉぉぉぉぉ――ッ!!」

血を吐くほどに絶叫し、スバルは後ろへ後ずさる。

エミリアが立ち上がり、何事か語りかけてくる。聞こえない。

甘い、甘い、優しい言葉で、スバルに寄り添おうとする。聞こえない。

彼女の言葉が、声が、聞こえてこない。聞きたくないのだ。

甘やかすな。優しく接するな。

どうして、今さら寄り添おうとする。

そんなことは不可能なはずだ。

いったい、どれだけ悪行を重ねてきたと思っている。

それを、許せるエミリアではないはずだ。

なかったはずだ。

それを変えてしまったのか。

スバルが縋り付いて、情けなく鼻水を垂らして、眠れぬ夜をエミリアに頼ることで乗り切ることで、ナツキ・スバルの愚かしさが、エミリアを変えてしまったのか。

エミリアも、変わるのか。

「俺を! 嫌っていてくれたらよかったんだ! 俺を、疎んでいてくれたらよかった!」

「――――」

エミリアが、色褪せていく。

エミリアから色が抜け落ちて、白黒の世界へ沈み込んでいく。

嘘だ、嘘だった。欺瞞が、スバルの世界を色褪せさせていく。

銀色が、紫紺が、エミリアを構成する、スバルの信じる美しいエミリアを構成する色が抜け落ちて、彼女が欺瞞の白黒へと染まっていく。

その現実が受け止めきれない。エミリアは、尊く、変わらないはずだった。

憎い相手であっても、縋り付く相手を遠ざけられない。

彼女の優しさが、そうした心の表れだと信じていたから、彼女はスバルを許してなどくれないと、そう信じていられたから、スバルはエミリアに溺れることができた。

だが、エミリアもまた、変わるのだと理解してしまったら――。

「優しくなんて、するなよ……!」

「どうせ、俺のことを、嫌いになるんだろ。疑うんだろ? 俺が邪魔になって、殺したいと思って、憎んで、呪って、裏切るんだろ!?」

「だったら、最初から俺を憎んだままでいてくれよ! 変わらない、そのままであってくれたらそれでよかったんだよ! 憎んだら、そのままだ。憎んだら、そのままで……!」

込み上げてくる、怒りが。

何もかもが、うまくいかぬ世界への、怒りに、溺れていく。

溺れる自分を救いたいと、必死に足掻いて、息継ぎを繰り返してきたのに、ここへきてついに、エミリアさえも、スバルを裏切った。

――変わるものは、いつか裏切るのだから、今、裏切ったも同然なのだ。

「いつか俺を裏切るくせに、俺を愛したふりなんか、しないでくれよぉ!!」

「――っ」

ふらふらと、スバルへ手を伸ばしたモノクロのエミリアを、突き飛ばす。

思い切りに後ろへ突き飛ばして、支えのないエミリアが廊下に倒れ込んだ。刹那、胸に躊躇いが過ったが、スバルはそれを恐怖で塗り潰す。

エミリアすらも、もはや安らぎではないのだ。

いつか、くるかもしれないと、本当に最後の可能性として考慮していた事態が、きてしまった。――必要とされるなどと、そこまでは考えていなかったが。

――エミリアは、いつか、スバルを許してしまうかもしれない。

そんな日がこなければいいと願っていたが、それは、やはりきてしまった。

だからスバルは、もう、この白と黒の二色しかない世界で、最後の手段に縋る。

「――!!」

倒れたエミリアが、何事か叫んでいる。

それを背中に追いやって、スバルは走り出した。

脇腹の痛みも感じない。もはや、そんなものにすら頓着しない。

あるものは、終わりへの意思だけ。スバルの色づく世界は、全て掻き消えて。

残っているものは、ただそれだけ。

溺れるナツキ・スバルが縋れる、最後の藁は、それだけ――。

――決して、変わらないものを、スバルを、許してはくれない憎悪を。

「――!!」

半狂乱になるエミリアの声は、半狂乱になるスバルに届かない。

魔境は、パンデモニウムの崩落は、主の心の崩壊と同じく、加速度的に進んでいく。

壊れていく世界で、色をなくしていく世界で、スバルは辿り着く。

「――――」

壊れ切っていない、ナツキ・スバルの執務室だ。

エミリアの私室に負けず劣らず、強固な防護が施された一室――それは、エミリアと同じように、絶対に壊されてはならないものが、この部屋にあるから。

傷付けたくないから、遠ざけたエミリアと真逆に。

最も自分の身近な場所に置き続けた、それを、スバルは開放する。

書棚の後ろに隠された扉は、真に、スバル以外には開けることのできない扉だ。

それを、スバルはゆっくりと開放する。

開かれた扉の向こうで、鎖の音が、壁と繋がれる鎖の音が、鳴り響く。

そして、鎖の音を奏でながら、『薄紅』の瞳がスバルを見つめて、言った。

「――やっと、死にたくなったの、バルス」

――憎悪だけを理由に、自分を殺してくれる女の微笑は、血の色をしていた。

『ゼロカラオボレルイセカイセイカツ』Fin

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

今回は遅れてすまなかった。

このルートは、二章での四周目、レムが呪いで死亡後、崖から飛び降りる選択肢を選べず、ベアトリスに領地の外へ逃がされてしまった場合から派生します。

もっと端的に言うと、『STRAIGHT BET』がかからなかった場合です。

第六章39 『残骸』

断続的に、延々と、壮絶な灼熱が存在を塗り潰していく。

頭蓋を、手足を、胴体を、内臓を、血肉を。

肉体を構成するありとあらゆるものが硬い衝撃に潰され砕かれ、ねじられ折られ、それを切っ掛けに発生する痛苦が脳を焼き、神経を爪弾いて、魂を焦がして爆ぜさせる。

その、途方もない喪失感と熱に、絶叫が漏れた。

痛み、痛み、痛み、痛み、痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み。

痛みが、ある。

痛みだけがあった。痛みだけだった。世界は痛みで満たされていた。世界が痛みで満たされていると、そう考える思考すらも痛みに塗り潰され、痛んでいく。

思考は、存在は、痛みに塗り潰されていくのだ。

不安も、混乱も、緊張も、悲嘆も、憤怒も、失望も、痛みの前では全てが無価値だ。

価値がない。

そう、価値がない。

思考にも、行動にも、思案にも、意見にも、希望にも、記憶にも、等しく価値がない。

無価値そのもののそれが、砕かれ、潰れ、果てに失われたとして、何を惜しむ。

ただただ、終わりのない痛みだけが、存在の確かさを魂に刻み込む。

その、終わるはずのない痛みが、唐突に存在を手放して――、

「――うああああああああああああああああッッッ!!」

絶叫を上げ、覚醒する。

悲鳴を上げる喉が潰れ、込み上げる血に溺れていたことも、今は記憶の彼方だ。

「あああああああああ!! うああああああ!!」

叫びながら、手足を振り回し、砕かれる自分の体を守ろうとする。関節がひしゃげ、不自由な状態に追い込まれたはずの腕が、足が、動く。

動くが、バランスを崩し、そのまま体が短い浮遊感に包まれ、床にぶつかった。

「――ッッッ!」

声にならない声を上げ、床の上で転げ回る。

床の感触がおかしい。太い縄を敷き詰めたような感触を、転げ回る全身で味わい、叫ぶばかりの喉が酸素を求めて膨らめば、つんとした痛みに即座に咳き込んだ。

そのまま堪え切れず、嘔吐する。何も腹に入っていない。黄色い胃液が、渇き切った口腔を酸っぱい臭いと一緒に通り抜け、ぶちまけられる。

「う、ぼぇっ! げぇっ! げほっ! がほっ!」

咳き込み、少量の胃液を必死に吐き散らしながら、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。蹲り、顔を覆い、何度も、力なく額を床に打ち付けた。

それを繰り返し、繰り返し、ようやく気付く。

――全身を容赦なく叩き潰した、灼熱に似た痛みが掻き消えていることに。

「――ぁ」

ふと、消えた痛みに驚いていると、さらに遅れて気付くことがあった。

背中を、蹲る自分の背中を、誰かが優しく、掌で撫で付けているのだ。

「落ち着いた?」

振り返り、涙でぐしゃぐしゃになった視界に、背中を撫でる相手の顔が映り込む。

それはぼやけた視界の中でも鮮明な、美しい銀髪と紫紺の瞳を持つ少女――心配げに眉を顰め、背中を撫でてくれている彼女の姿に、ひゅっと喉が鳴った。

「スバ……」

「うああああああああああ――ッ!!」

大きく身をひねり、背中に触れている白い手を、乱暴に振り払った。

とっさのことに、腕を払われた少女の瞳を驚愕が過る。だが、それ以上に精神に深刻な被害を受けたのは、他ならぬこちらの方だった。

背中、だ。

背中に、触られたのだ。

今も、直前も、自分は背中に触られて、次の瞬間、あの苦痛が――。

「ひ」

ぞわりと、背中の産毛が逆立つような感覚があり、逃げるように後ろへ跳んだ。無論、足腰は立たず、そのまま無様に尻餅をついて後ろにすっ転ぶ。

その転んだ体を、やけにざらつく黒い感触に受け止められて、

「――――」

怯えるこちらを見たのは、鋭い面貌を持った爬虫類の眼光だ。その口に並ぶ細かく鋭い牙の群れを見て、それが自分を容易に噛み砕ける凶器だと理解した途端、

「うあああああああ――ッ!!」

またしても悲鳴を上げ、今度は前に転がる。すぐ目の前に人の足が見えて、相手の顔を見上げることもできずに横へ転がり、立ちはだかる小さな影を突き飛ばした。

「ベアトリス!」

高い、銀鈴の声音が必死に何かを叫んだが、耳を塞ぐこちらには届かない。

そのまま、緑色の壁の切れ間を目掛け、震える足腰を叱咤して部屋を飛び出した。石造りの通路に踏み込み、止め切れずに体が正面の壁にぶつかる。

ぶつかり、痛みが走る。視界が真っ赤に染まって、骨の砕け散る幻聴が聞こえた。

「ひいっ」

ぶつけた右腕、自由に動く。本当に自由に動くのか、確かめるように壁に打ち付ける。痛みが返る。悲鳴がひっくり返る。

そのまま壁伝いに、よたよたと頼りない足取りで走り出した。

「はっ、ひっ、あひっ……っ!」

息を切らし、涎をこぼし、脂汗を浮かべながら、懸命に懸命に通路を走る。

背後、誰かが追ってくる気がして、振り返りたい気持ちを何度も堪えた。振り返れば、誰かが追ってきていることが確定すれば、はち切れそうな心臓は耐え切れない。

心臓が破裂し、全身の血が腐り、足下からガラス細工のように体が砕ける予感がある。

それは予感なのか、あるいは真実なのか、とにかくはっきりしていること――それは、このままでは己が死に絶えるという、絶対に揺るがない事実だ。

人は生まれながらに破滅している。

一秒ごとに老い、一秒ごとに死に向かい、一秒ごとに終わりへと落ちていく。

だが、今の自分にそんな観念的な『死』など意味を為さない。

もっと極端な形で、『死』はひたひたと、確かな足取りで近付いてくる。無様にみっともなく、逃げようと足掻くこちらを嬲るように、追い詰めてくる。

走り、逃げた。とにかく逃げた。

『死』が追ってくる。殺される。殺される。このままでは殺される。

殺されたはずなのに、まだ殺される。あるいは、あれほどの痛みを与えられてもなお、人というのは死ねないのか。生命の神秘なのか。それはいっそ、おぞましい。

神秘などと綺麗な言い方は不釣り合いだ。それは、おぞましく、醜い執着だ。

いっそ、死んでいるべきだったではないか――。

「――ッ」

爆音のような心臓の鼓動が鼓膜を揺らし、視界はちかちかと明滅する。呼吸の仕方すら忘れる赤子未満の生命習熟度で、死の恐怖から逃れようなどとちゃんちゃらおかしい。

おかしくても、笑いなど漏れない。全てのものが、恐怖の対象だった。

「――――」

正面、自分がどこを走っているのかを見失いそうになるぐらい、代わり映えのしない石造りの通路が続いている。

わかるのは、後ろへ戻ってはいけないこと。かといって、何の頼りもなく逃げ続けたとしても、いずれはジリ貧になって道を失う。

道を失えば、誰かに捕まる。誰かに捕まれば、命を奪われる。

何故、どうして、自分が命を、そんな疑問は今は、何一つ役に立たない。

右へ、左へ、どちらへ進むか迷っている暇はなかった。

ただ、右手が触れた壁を頼りに、この瞬間にも追いついてくるかもしれない『死』から逃れながら、必死になって呼吸に喘ぐ。

まるで、溺れている気分だ。

地上で、水などどこにもないのに、水面を目指してもがいている気分だ。

溺れ、溺れて、溺れるものが足掻くように、水面を目指すように、ジタバタ、ジタバタ、ジタバタと、足掻いて足掻いて足掻いて、やがて――、

「――オメエ、こンな朝っぱらから何しにきやがったンだ、オイ」

「――――」

すぐ目の前に、恐ろしく巨大な存在を感じて足が止まった。

――否、止まったのは足だけではない。

呼吸が止まり、あれほどうるさかった心音が静かになり、疲労と恐怖で震える膝の動きが止まり、生命活動の何もかもが首根っこを押さえられた気分だった。

――眼前に立つもの、それが巨人であるかのような錯覚がある。

だが、数秒の時間を経て、それが長身ではあっても、決して人の域を飛び越えた体格の持ち主でないことがゆっくりと理解に浸透していく。

同時に、人という生き物が、これほど猛々しい鬼気を纏えるのだという事実も。

「一人かよ、オメエ。オメエ、稚魚が一人って、お話になンねえだろ。稚魚じゃ、一人じゃなく一匹か。一匹でもお話になンねえよ。昨日の子分と、いい女共連れて出直せよ、オメエ。オメエ、聞いてンのかよ、コラ。オメエ、オイ、オメエよ」

まさに立て板に水というべきか、正面に佇む存在がこちらへ澱みなく声を投げつける。

ひどく暴力的な気配と、どこか投げやりな感情を孕んだ言葉に殴りつけられ、一度は止まったはずの呼吸が、心音が、膝の震えが再開する。

――きてはならない、獰猛な獣の檻の中に入り込んでしまった。

ただ必死に、逃げ続けただけだ。

石造りの通路を懸命に駆け抜け、見覚えのある場所から遠ざかろうとする。結果、見知らぬ部屋で、上へ向かう階段を見つけ、それに縋り付いた。

あるいはその階段のことも、昨日か、昨日に類するいつか、数時間前か、とにかくいつだったかに聞かされていたのかもしれなかったが、忘却の彼方だった。

長い、長い長い、長すぎる階段を上がって、息を切らして、上がって、そして。

そして、辿り着いた先で、最も恐ろしい野獣に、睨みつけられて、

「オメエ、聞いてンのか?」

「ひ」

気付けば、息がかかるほど目の前に相手の顔があった。

長い赤髪、左目を覆った黒い眼帯、片方の肩をさらけ出すように着崩した着物、白いサラシが見えるのと、何のつもりか、鼻先に細い木の棒を突き付けてくる。

その、鋭利でも何でもない先端が、突き付けられた『死』にも思えて。

「――ッ!」

「おうコラ、無視ぶっこいてンじゃねえぞ、オメエ」

「は、ぁ、え?」

一も二もなく、本能の訴えかけるままに背を向けて逃げようとした。

それなのに、背後へ走ろうとした瞬間、何故か男の胸板に正面からぶつかる。のけ反った額を木の棒に押され、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

後頭部を床に打ち付け、視界を火花が飛び散る。痛みに、涙が溢れた。

ぶつける痛み、打ち付ける痛み、それは容易に、砕かれる痛みを思い出させて。

「あ、あ、あああ……」

「おいおい、オメエ、まさか泣いてンのかよ。なンだってピーピー泣き始めてンだ、オメエ。下で連れとケンカでもしたのかよ、オメエ。言い負かされて泣いてンのか、オメエ」

「ぐ、ひ、うう、うぅぅぅ!」

「ったく、仕方のねえ野郎だな、オイ」

仰向けに横たわったまま、ぐずぐずと再燃した恐怖に涙を流し始める。それを見やり、長髪の男はガシガシと乱暴に自分の頭を掻いた。

そして、寝転がるこちらの頭、すぐ横にしゃがみ込むと、

「オラ、何があったか話してみろや。聞いてほしいンなら聞いてやる」

「……う、ぁ?」

「こンなとこまで逃げ込ンでくンだ。よっぽどのこったろーが、オメエ」

嘆息と共に告げられた言葉、その意味がよく呑み込めず、何度も瞬きする。

途端、それまで凶悪無比に思えていた存在が、ゆっくりと確かな輪郭を帯びた気がした。人の形をしているだけではなく、人の情と在り方が実像を結んでいく。

涙にぼやけた視界に、その男のこちらを見下ろす顔が、徐々に鮮明になって――、

「――なンて言うわけねえだろうが、馬鹿が」

「ぎ、が、ぁぁあああああ!?」

――獰猛な、血を求める鮫のような形相で、男が木の棒を胸へねじ込んできた。

瞬間、肋骨の隙間に枝の先端が滑り込み、骨に守られるはずの繊細な臓器を、それこそ嬲るように優しく、労わるように生々しく、つつき、くすぐるのがわかる。

それだけで、文字通りに血を吐くような苦痛が全身を貫いた。

「何、逃げてきてンだ、オメエ。おまけに、逃げた先がオレのとこってのはそれこそ何のつもりだ、オメエ。オレはオメエの保護者でもダチでも何でもねえぞ、オメエ。群れる相手はオメエで選ンでンだろーが、オメエ。死にてえのか」

「ぎ! がっ! あぎっ! ぐぎゃぁっ!」

「お話し合いで仲良く片付く関係かよ、オメエ。それで済むなら、端からオレがこンなとこ呼ばれるわけねえだろ。殺す気でこいよ。オレは遊ンでやンよ。それでようやくだ」

明らかな苛立ちと負の感情、一言ごとに怒りの度合いが増していく一方で、こちらの内臓を弄ぶ男の手先は繊細、あるいは緻密というべき精密性を誇っている。

自分の内臓のありがたみと重要さを、激痛と共に思い知らされているからこそわかる。

男があとわずかでも、感情に流される性質であったり、あるいは粗暴な振る舞いに見合わぬ腕しか持ち合わせていなければ、とうに自分の臓腑は弾けている。

そうなっていないのは、男の恐ろしいほどの才能だ。

暴力と、それを振るう技量に恵まれすぎた、虐げる者としての圧倒的な才覚。

それがあって初めて、この蛮行は正しくこうして成立するのだ。

――違う。あまりに、この場所は、自分の知る場所とは、違いすぎた。

「失せろ、稚魚」

「が」

臓腑をつつく感触が遠ざかり、次いで男の足に乱暴に横腹を蹴りつけられる。

それは蹴るというより、足の甲に乗せて、投げるに近い足蹴の仕方だった。ふわりと体が浮かび上がり、為す術もなく転がり、広い空間から退場させられる。

ただし、そのまま転がり、部屋を飛び出す体を迎えるのは、

「い、やだぁぁぁ……ッ!」

階段を転がり落ちる、その光景を幻視して、思わず床に爪を立てた。

歪な音がして、床を掴もうとした右手の爪、中指と薬指のそれが根本から剥がれる。剥き出しになる神経と赤い血が床を濡らし、しかし、何とか体は転落を免れた。

「ぐ、ぐぐ……ッ!」

何とか落下を逃れた安堵も束の間、直後に襲い掛かるのは指先を起点とした灼熱の感覚だ。鋭い痛みに手を見れば、まるで箱の蓋が開いたようにめくれる爪が二枚、隣の小指の爪も半ば剥がれかけていて、視覚的な痛みが脳髄の働きに拍車をかける。

「痛い……痛い、痛い、痛いよぉ……」

爪のめくれた右手の指を左手で握り込み、圧迫して些少でも痛みを和らげる。ぽたぽたと、流れる血が手首を伝って床に落ち、血の跡をつけながら階段に立ち上がった。

もう、背後に振り返る勇気などない。

相手が、あの猛獣が、こちらへと意識を向けている気配もなかった。もし、仮に一瞥でもされれば、今度こそ耐え切れずに階段を転げ落ちていたに違いない。

最悪の状況を、一つ手前で止まって、次善の最悪に収まって、さあどうする。

「なん、で……」

自分は、こんなところにいるのだろうか。

足取りは逃げることを忘れ、心音は恐怖に呑まれて麻痺し、そうなってようやく、自分がこの場所に実存することの、無意味さと不可思議さに頭が回った。

砕け散ったはずなのに、ここにある。

灼熱に呑まれ、消え去ったはずなのに、まだここにある。

全てが夢か、幻か、そんなものであれば、よかったのに。

「予知……夢……」

そんな風に、自分の身に起きたことを想定していた。

見たことのある光景が、接したことのある人間が、交わした覚えのある会話が、通過したはずのイベントが、自分の目の前を通過していったものだから。

それが起きた理由を、自分なりに理屈で片付けようとして、そう考えて。

きっと、どこか、それすらも対岸の火事のように、他人事のような曖昧さで考えて。

その浅慮と浅薄の代償を、壮絶な苦痛で支払うことになるとも知らずに。

「――――」

気付けば、その場にしゃがみ込んでいた。

ぽたぽたと、止まらない血の滴が、石の階段に赤く沁み込んでいくのがわかる。

徒労感と、喪失感と、失望感と、とにかく、悪い考えばかりが頭を巡っていた。

堂々巡りになるそれらの結論は、突き詰めれば全部が同じ――どうして、自分がこんな目に遭っているのかわからない、だ。

「――――」

ほんの、数時間前まで、自分はぬくぬくとした、倦怠の日々の中にいた。

何の危険もなく、せいぜいが心配事といえば先のない自分の未来ぐらいのもので、誰かに脅かされることもなく、真剣に取り合うようなこともなく。

――父と母の視線に、ただ顔を伏せていればいいだけの、そんな場所にいた。

それが、悪かったのだろうか。

父と母に、迷惑をかけ続けた。失望させ続けた。いい子で、あれなかった。

だから、死ぬほどの苦痛を味わって、それでもなお、死ねぬほどの状況に追いやられ、爪が剥がれて痛かったり、知らない男に拷問されたり、階段で一人、泣いているのか。

こんな思いをするぐらいなら、いっそ、もっと、ちゃんと。

「……いってきますって、言えばよかった」

後悔ばかりの、人生だった。

失敗ばかりで、うまくいかないことだらけで、振り返ればやり直したいことなどそれこそ両手両足の指でも足りないけれど、いの一番に、それが浮かんだ。

家を出るとき、いってらっしゃいと母に声をかけられた。

自分は、それに答えなかった。

何故か。

――台所の、水につけたコップを、洗っていなかったからだ。

「ぐ、ふ……っ」

コップを、洗わなかった。

ココアを飲んで、こびりついた茶色い汚れを、洗うのが面倒だった。

母の声に答えて、会話が生まれてしまったら、コップを洗えと言われるかもしれなかった。だから、母の声に答えなかった。コップを、洗いたくなかったからだ。

コップを洗いたくなかったから、自分は母の言葉を無視した。

何も言わなかった。何も言わないまま家を出て、コンビニに向かって、自分で稼いだわけでもない金を使って、そのまま、気付けばこんな場所にいた。

母にも、父にも何も言わずに、コップを洗わないで、こんな場所にいた。

コップの一つも洗わずに、優しい母に何も言わずに、こんな場所で、死にそうだ。

迷惑をかけて、何一つ返せないまま、コップも洗わないで、死ぬのだ。

死ぬ、死ぬのだ。死ぬだろう。絶対に、死ぬ。

あんな高い場所から落ちれば、助からない。絶対に死んでしまう。

「……俺は、死ぬ」

死ぬのだ。

生きとし生ける全てのものはいずれ死ぬが、自分はここで死ぬのだ。

知っているものが、誰もいないこんな場所で。

父も母もいない、見知らぬ他人たちに囲まれて、汚い血の塊になって、死ぬのだ。

「俺は、死ぬ。俺は、死ぬ。俺は……死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ……」

呟く。呟くと、不思議とそれが、ほんの少しだけ遠くなるように思えた。

気休めだ。気の迷いだ。口にしたところで、何かが劇的に変わるわけではない。

『死』は変わらず、こちらの運命を絡め取るために微笑みながら佇んでいる。

それが、今ははっきりと、人の形をしているように見えた。黒い影が立ち上がり、こちらを嘲るように笑っているように見えた。

その、黒い影に顔が張り付いていて、それが見知った顔で、こんな場所で見知った顔とは誰のものなのか、そう考えて、すぐに気付く。

自分の顔を張り付けた『死』が、指差して震える自分を嗤っている。

「笑うな」

影を睨みつけ、どす黒い憎悪を込めて、そう言った。

影の笑みはやまない。指を差すことも、やめようとしない。

「笑うな。笑うんじゃねぇ。笑うんじゃ、ねぇ……!」

立ち上がり、歯を食い縛り、壁伝いに影へと歩み寄る。

影の笑みはやまない。指を差すことも、やめようとしない。

「笑うな、やめろ。俺は、死ぬ。お前にじゃない。お前に殺されるんじゃない」

『死』の具現化が、初めて、その表情を歪ませた。

自分のものが、自分の言いなりにならないことに、腹を立てたように見えた。

それが、影の弱点に思えて、ここぞとばかりに攻め立てる。

「俺は、お前には殺されない。俺は死ぬ。確かに、俺は死ぬ! 俺は死ぬ! 死んだ! 死んだんだ! 死んで、ここに戻って、だけど、俺はお前には――」

――殺されてやらない。

そう、はっきりと口走ろうとした瞬間だった。

「――――」

唇が、意のままに動かなくなった。次いで気付くのは、影を睨みつけていた眼球の不自由と、自分自身の肉体が完全に制御を離れた喪失感。

何故、などと疑問を呈することすら封じられ、ただただ異常の変化を待ち望んだ。

動かない。体が。――否、動かないのは体ではない。世界そのものが、止まっている。

目の前にいた黒い影も、その動きを止め、憤怒の形相を歪めたままでいる。

そんな世界にあって、動けない自分を残して、唯一、動くものがある。

それは――、

「――愛してる」

――それは、たぶん、黒い女だった。

黒い、全身を黒一色で染め上げた、すらりと細い肢体を持つ女だ。

黒が女の形をしているのか、女が黒を纏っているのか、どちらか定かではないし、それを決めることに意味があるとも思えない。

とにかく、それは黒い女だった。まるで、花嫁衣裳のような黒い装束を纏い、内からも外からも顔を覗くことのできない黒いヴェールが顔貌を隠す。

「――愛してる」

ただ、黒い女の唇が紡ぐのは、想像を絶するほどに強い感情だった。

いったい、どれほどの感情を煮詰めれば、その唇から漏れる言葉に近付くだろう。

それは質であり、量であり、時間であり、重さであり、価値であり、概念だ。

およそ、『愛してる』という言葉を口にするものが世界にどれほどいるかは知れないが――その、全ての『愛してる』を含有すれば、きっとこの女の『愛してる』になる。

そして、愛を囁く女はゆっくりと、その黒い腕をこちらの胸へと向けて。

細い指先が胸板を、皮を、肉を、骨を通り抜けて、鼓動を刻む心臓へと寄り添う。

「――――」

ほんの数分、十数分、時間などわからないが、目覚めてから幾度となく、その存在を意識してきた心の臓――しかし、今、この瞬間ほどそれを思ったことはない。

その存在を、忌々しく思ったことはない。

何故なら――、

「――愛してる」

愛を囁くのと同じ情熱を込めて、女の黒い指が心臓を愛撫する。

それと同時に突き抜ける衝撃が、痛みを恐れるこの身を、完膚なきまでに屈服させる。転落の衝撃に全身を砕かれ、消えぬ灼熱に魂を焼かれ、母への罪悪感に心を摩耗したことさえも、この痛みの前では塵芥のように思える。

絶叫できるなら、させてほしかった。

喉が張り裂けるほどに叫べたなら、少しは痛みに対して何かができた。痛みに向き合うのではなく、痛み以外のものに気を向けることで、痛みから逃れられた。

それができない。ただ、痛みと、向き合わされる。

「――愛してる」

女の愛が、心の臓を手放さない。

それはまるで、自分以外のものへ興味を向けることなど許さないと、尽きせぬ独占欲がそうさせているかの如く。

――あらゆるものへの嫉妬心が、そうさせているかの如く。

「――はっ」

解放は、唐突のことだった。

「――――」

息を吐いて、その場に崩れ落ちる。

はらはらと、涙がこぼれ、ついにはその場に失禁していた。生温かい感触が股間を濡らして、階段を階下へ向かって小水が流れ落ちていく。

そんな無様な醜態を、止まっていた黒い影が指差して、声高に嗤っていた。

謀られたのだと、その笑う姿を見ていて気付く。

ああして、弱味を見せた素振りをすれば、容易に飛びついて、踏んではならない虎の尾を踏むと、謀られたのだ。

「俺を……」

続く言葉は、言葉にならなかった。

頭を抱える。まだ、爪の剥がれた傷からは血が流れている。涙も、階下へと流れていく小水も、何もかもが、自分の弱さと愚かさへの罰に思えて。

――いっそ、殺してくれ。

その言葉は、声にならない。

殺されたとして、本当に自分は『殺されられる』のだろうか。

階段を、靴音と心配げな声が駆け上がってくるまで。

汚水と失望感に塗れたまま、ただ、愚かな子どものように泣き続けた。

それは――ナツキ・スバルの残骸は、泣き続けた。

第六章40 『星空に見捨てられて』

何もかも、散々だった。

文字通り、散る散ると書いて、散々だ。

見つかり、連れ戻され、何があったか問い質され。

ぽつりぽつりと、呟くたびに状況が悪化していくのが自分でもわかった。

「それじゃ、スバルは本当に、何にも覚えてないの?」

膝を抱える自分を見下ろし、銀髪の少女が憂いを帯びた眼差しを向けてくる。

その隣にいる幼い可憐な少女も、こちらの言葉を受け止めきれず、愕然としていた。

「姿が見えなくなったと聞いて困り果てていたが……まさか、こんな事態になっているとは思わなかった。これは非常に、難しい問題に直面したようだね」

白い、狐の襟巻きを巻いた少女がどことなく硬い声で呟く。

その内容に相槌を打つ余裕もなくしているのは、優麗な面持ちの騎士だった。

「いったい、どれだけ無様な姿を晒せば気が済むの、バルス」

言って、まき散らした汚物の片付けを終えた少女に睨みつけられる。しかし、そこに言葉ほどの悪感情はなく、あるのはもっと、縋り付くような心細い色だ。

「お師様、お師様。なんか、雰囲気がずんと暗くなったッスね~。もっと笑顔でないとダメじゃないッスか。それに……あれ、なんだろ。小便臭いッスね!」

こちらの状況も弁えず、けらけらと上機嫌に笑っている黒髪の女。

その黒髪の女の傍らで、自分の三つ編みを撫で付ける幼い少女は、関心の薄い様子でこちらに流し目を送ってくるだけだった。

「――――」

どの反応も、大きく分ければ、すでに見過ごした反応だ。

一度目、二度目――これが、三度目。自分は三度、彼女たちを落胆させた。

もっとも、汚物を垂れ流して逃げ惑い、一人で泣きじゃくっているところを発見された今回が、一番ひどい状況なのは火を見るより明らかだろう。

――その、ひどい状況である事実を知るものも、この場には自分しかいないのだが。

「へ」

笑えてくる。

自分が、同じ状況を――否、同じ時間を、三度繰り返している事実が。

一度見た光景を二度見た。そして、三度目が訪れるに至り、スバルはようやく、自分が置かれた状況を正しく把握していた。

――自分は、二度死んだのだ。

それも、どちらも、おそらくは同じ場所からの転落死――一度目は途中で意識を失い、死の瞬間を味わうことがなかったから、自覚が抜け落ちた。

だが、二度目はそうはならなかった。落ち方が下手くそで、死に方の才能がなかった自分は転落時にあちこちをぶつけ、全身を破壊されて、やっと死んだ。

やっと死んだのに、舞い戻った。

死んだ瞬間、あの緑色の部屋に舞い戻り、再びの覚醒を経て、今日をやり直す。

死んで、舞い戻る。――『死に戻り』だ。

それが、この異世界で、ナツキ・スバルに与えられた、神様からの祝福。

「へ」

二度目の、笑みが漏れた。

それを笑みと呼ぶべきか、客観的に見て大いに議論の余地があるだろうが、少なくともスバルにとってそれは笑みだった。

笑う以外にできることがない。涙は、正直、涸れ果てた気がする。

泣くのも体力を浪費する。死んで舞い戻って、死ぬ前に使った体力もチャラになっているようだったが、文字通り、今回は目覚めに体力を垂れ流しすぎた。

「とにかく、落ち着くまでスバルには休んでてもらいましょう。時間が経てば、何かしら変化があるかもしれないもの」

銀髪の少女の提案で、自分の待遇がそう決まったことをなし崩しに知る。

また暴れ出してはたまらないと思われているのか、スバルの身柄は大げさにも、全員の監視の下、あの緑色の部屋へと戻された。

「今のバルスを、レムと一緒に置かせておくのはゾッとしないわ。ラムは反対よ」

「……しかし、スバルの体調の回復に一番可能性があるのは、こうなった原因を突き止めることを除けば、あの部屋の精霊に頼ることが望ましいはず」

「だったら……だったら、レムをあの部屋から出すまでよ。あの子の世話は、ラムがつきっきりで見る。もう、あの子を心配しているのは、ラムしかいないんだから」

言い合いと、意見のぶつけ合いはいないところでやってほしい。

どうあれ、自分には選択肢のないことだ。率先して、この状況を果敢に乗り越えようとする気力など、今のスバルには持ちようがなかった。

「……レムが、可哀想だわ」

瓜二つの、眠り続ける少女を背負い、部屋を出る前に彼女はスバルにそう言った。

その言葉の真意がわからない。わかりたいとも、思えない。

「スバル、ここで大人しくしているのよ。きっと、ベティーが記憶の戻る方法を探してきてあげるかしら」

「――――」

「一人きりで、蹲ってなんかさせないのよ」

部屋を出る前に、幼い少女が優しくそう語りかけてくれる。

声には悲痛な色と、しかし気高い決意があった。そうすることが正しいのだと、信じて疑っていない、強い声音だった。

そんな風に、気遣ってくれる声をかけてくれる相手に――、

「……ぁ」

伸ばした指を、スバルは肩を縮めることで避けようとした。

その身じろぎを見て、特徴的な紋様のある少女の瞳が痛ましく揺れる。

「――――」

他人だった。

彼女たちはどこまでいっても、他人なのだ。

しかし、それはスバルにとって、彼女たちが他人なのではない。

彼女たちにとって、ここにいるスバルが他人なのだ。

彼女たちが向けてくれる親しみも、気遣いも、あるいは親愛に近いそれも、本来の『ナツキ・スバル』へ向けられたもので、この残骸に向けられたものではない。

そして、それと同じように――、

「殺される謂れだって、俺にはねぇよ……」

一人、緑部屋に取り残されて、スバルは奥歯を軋らせ、そう呟く。

身に覚えのない親愛と信頼、積み重ねたはずの時間と絆を吹っ飛ばして、居心地の悪い好感情を向けられることはまだマシだ。

だが、『ナツキ・スバル』が積み上げた、殺意の尻拭いを何故しなければならない。

良いことも、悪いことも、一緒くたにして全てが自分のものではないのだ。

それなのに、どうしてこんな場所で、溺れかけながら足掻かねばならないのだ。

「俺は、御免だ……」

一人になって数時間、スバルは壁に背中を押し付け、じりじりと立ち上がる。

噛みしめすぎて、口内に溜まった血と唾液の交じり合ったそれを吐き捨てた。そして、緑部屋の外へ向かって、ゆっくりと足を進める。

「――ッ」

そうするスバルの背中に、唯一の同席者であった黒いトカゲの鳴き声がかかる。

それは、どこかか細く、寂寥感を滲ませたものに聞こえたが、すぐに首を横に振る。

ただの大きな爬虫類が寂寥感などと、馬鹿馬鹿しいにも限度があった。

「餌は誰かが運んでくれるだろ。大人しくしててくれ」

言い置くスバルに、なおもトカゲの声は細く追いかけてくる。

それに聞く耳を持たず、スバルは後ろ髪を引かれる思いを振り切り、緑部屋の外へと足を踏み出した。そのまま道の左右、誰もいないのを確かめて忍び歩き。

「水と、食料の場所は……」

わかっている。

水汲みに同行したから、水の場所はわかっている。食料の置いてある場所もわかる。あとの問題は、どのぐらい持ち出すべきか、だ。

「――――」

正直なところ、スバルにはわからない。

いったい、誰がスバルを突き落とし、その命を奪ったのかが。

だが、スバルははっきりと覚えている。

あの場所で、誰かがスバルの背中を押したことを。それは、後ろから肩を叩いた結果であるだとか、強い風が吹いただとか、そんな馬鹿げた理由ではない。

確かに突き落とされた。明確な殺意の下、ナツキ・スバルは殺されたのだ。

容疑者はエミリア、ベアトリス、ラム、アナスタシア、ユリウス、メィリィ、シャウラの七人――その中の、何人が敵なのか、味方なのか、スバルにはわからない。

そもそも、彼女たちは本当に一人残らず、スバルの知り合いだったのかすら、今のスバルには判断のしようがないのだ。

――本当は全員が、スバルを殺すために塔に集まった刺客なのではないか?

「それなら……」

食料を持てるだけ持ち出しても、心が咎めることはない。

しかし、その判断は同時に、一度目と二度目、変わらず声をかけてくれたエミリアを、記憶を戻す手立てを探すと言ってくれたベアトリスを、記憶をなくしたことを信じ切れずに叫んだラムを、それらが演技であったのだと疑うことになる。

「――――」

無理だった。

あれだけ恐ろしい目に遭って、一度ならず二度も殺されたにも拘らず、スバルは心底から彼女たちを疑い、自分の身の安全のためだけに走り出すことができない。

「クソ、クソ、半端野郎……!」

どっちつかずの自分の醜態を罵り、スバルはこっそりと食料を袋に詰める。

いわゆる非常食揃いで、味への配慮はされていない。無論、今重要なのは腹持ちの方であって味など二の次、三の次だ。

それを、おおよその見立てで三日分、一人で食べる分だけ持ち出すことにした。

水も、同じように革の水筒に入れて持ち出す。あとは――、

「外は、砂漠だって話だったが……」

食料と、同じ場所に片付けられていた外套を羽織った。サイズとデザイン的に、スバルのものはすぐに見つかった。外套は前を閉じると、首元を引き上げて口を覆えるデザインになっていて、まさに砂漠の防砂対策といった在り様だ。

そうして、水と食料、砂漠用の道具を揃えれば、これで準備は万端だった。

「俺が、二回死んだ時間は越えたかな……」

逃げ出して、たどたどしく事情を話して、緑部屋で蹲っていた時間を考えれば、おそらく前回突き落とされた時間よりも後ろに自分は立っているはずだ。

『死に戻り』の効果がさっそく発揮された。こうやって、自分の身に降りかかる死亡フラグを次々と乗り越え、命懸けの綱渡りを続けていけと。

「――――」

そんなのは、嫌だ。

そんな目に遭わされるぐらいなら、こんな場所にいない方がマシだ。

小走りに部屋を飛び出し、スバルは頭に描いた地図の通りに螺旋階段へ向かう。二度、自分が突き落とされた場所だ。当然、そこに近付くことに心は悲鳴を上げていた。

しかし――、

「――ッ」

螺旋階段に辿り着き、眼下の光景に一瞬だけ目を奪われた直後、スバルは振り返り、背後からの刺客がいないかを入念に確かめた。

幸い、時間が違うからか、スバルの所在を刺客が掴めていないからなのか、スバルの背を押すために伸ばされる腕は見当たらなかった。

今頃、彼女たちはあの、死者の記憶が眠る書庫か、あるいは傍若無人な試験官の待つ上階へ向かったか――内臓を抉られた記憶が蘇り、嘔吐感が込み上げた。

「あんな、あんな奴に、挑めるもんかよ……」

人間ではなかった。それは、技も人格も、どちらにも当てはまる評価だ。

あんな相手に挑んだところで、勝ち目があるなどと到底思えない。――ならば、勝てないとわかっている戦いに、彼女たちが向かったことを見過ごす自分はどうだ。

「知るかよ!!」

さっきから、自分の中に浮かんでは消える謎かけが足を止めようともがいている。

それがどうした。それが、どうしただ。

優しくされたかもしれないが、偽りかもしれないのだ。

心配してくれたかもしれないが、その裏では殺意の刃を研いでいるかもしれないのだ。

ならばせめて、危険人物が潜んでいる可能性を伝えてはどうか。

「その、伝えた相手が敵だったらどうすんだよ」

敵、敵とはお笑い草だ。

日常生活で、争いと無縁の世界で、『敵』なんて単語を発する機会は、それこそゲームの中でぐらいしかない。それを、当然のように口にする、させられる世界。

間違っている。こんな場所にはいたくない。こんな場所にはいられない。

「――ッ」

胸の奥から湧き上がる、耐え難い苛立ちを噛みしめて、スバルは走った。

螺旋階段を走って下り、遠すぎて見えない階下へと、五層へと向かって走っていく。段差は多く、壁に沿って延々と駆け下っていく階段の果ては見えない。

息を切らしながら、必死になって上へと向かったあと、今度は階下へ向かって懸命に逃げている自分の滑稽さが馬鹿らしく思えた。

それでも、死にたくない。

「つい、た……っ」

階下へ、五層へと到達する。

丸い円状の塔の中、四層と違って部屋などに区切られることのない五層は、四層と同じだけの広さをそのままワンホールとして利用している。

五層に大きくあるのは、さらに階下である六層へと向かう階段と――、

「でかい、扉……」

見上げるほどに強大な扉が、恐ろしい圧迫感と共にそこに聳え立っている。

「――――」

扉を前にして、異様さに気圧される感覚がスバルの喉を詰まらせた。

微かに、砂っぽい風が吹くのを感じる。おそらく、扉の隙間から差し込む外の風が、砂を塔内へとささやかに送り込んでいるのだ。

それはつまるところ、扉が外と通じていることの確かな証拠であり、

「エミリアたちの、説明が正しければ……」

その扉から、外の砂漠へと出られるはずだ。

砂漠――正式な名前は忘れたが、とにかく、砂の道を抜けて、人里へ出る。そうすれば少なくとも、冷酷な刺客に命を脅かされる心配はない。

砂漠の移動の基本は、夜に動くこと。砂嵐を避けること。方向を定め、その一点に向かって進むこと。――そのぐらいの知識しかないが。

「確実に殺される場所にいるより、能動的に助かる賭けをしてやる」

正常な判断ではないと言われればそうなのかもしれない。

だが、これが異常な判断であろうと、助かろうとして下した判断を誤りとは思わない。この状況下で、『自分』さえ信じられなくなれば、待ち受けるのは暗闇だけだ。

暗闇で、座して死を待つような真似は絶対にしない。

死ぬぐらいならば、反撃をしてやる。

「――――」

正面、巨大な扉に手を当て、ゆっくりと前に力を込める。

扉の大きさはスバルの十倍ではきかない。本来なら、スバルが全力で体ごと押したとしても、びくともしないような重量のはずだ。

それが、スバルの掌で押されると、まるで機械仕掛けのように容易く押し開かれる。

「へ」

気抜けするような息が漏れて、スバルはそのまま大きく開こうとする扉を止める。

今はまだ、スバルが抜け出そうとしていることに気付いていなかったとしても、扉が完全開放なんてことになれば、さすがに彼女たちに気付かれかねない。

スバルが抜け出したことがバレるとしても、せめて、彼女たちが追いついてこれないぐらいに距離を稼いで、それからにしてもらいたいのだ。

「――――」

扉の開放を止めて、そっとスバルは隙間から外を覗き込んだ。

途端、視界に飛び込んでくるのは、うっすらと夜の気配に呑まれつつある、広大な砂の海だった。

「……本当に、砂漠、なんだな」

目を細め、地平線の彼方に目をやるが、果ては見えない。

遮蔽物も何もない環境で、地平線の果てが見えない状態なのだ。そこまでいくのに、どれだけの距離があるのか、スバルには知る由もない。

だが、どれだけ距離があったとしても、永遠に詰まらない距離ではないはずだ。

一歩進めば、外の世界に一歩近付く。

外の世界に近付けば――元の世界に一歩、近付くのではないか。

「――――」

一瞬、スバルの足が塔の中に残りかけた。

この場所に残していくことになる、おそらく、きっと、スバルに対して悪意のない人たちを、そのままにしていくことへの後ろめたさがそうさせた。

それを、スバルは振り切る。外への、元の世界への未練が、そうさせた。

ここには、いたくない。

ナツキ・スバルの帰る場所は、父と母の待つ、あの家なのだから。

「だから……」

扉の隙間を抜け、強く、前へ踏み出した。

砂を踏みつけると、思った以上に靴底が砂に取られる感覚がある。それを力ずくで踏み躙って、ナツキ・スバルは外の世界へと、力強く歩み出した。

そして――、

「――え」

踏みつけた靴裏が大きく炸裂して、スバルの体は宙に高々と投げ出されていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

背中から地面に叩きつけられ、スバルは前後不覚に陥っていた。

完全なパニック状態――もはや、今のスバルにとっては正常でいる状態とパニック状態、どちらの方が常態化しているか定かではないが。

「何が……」

起きたのか、と口の中の砂を吐き出しながら、続ける猶予はスバルにはない。

何故なら、何が起きたのかはすぐ目の前に、堂々たる姿で答えとして提示されていたからだ。

「――――」

眼前、夜に染まる世界を背景に、スバルを見下ろすのは巨大な影だ。

手足がなく、ぬめる体皮を持って、凶暴かつ残酷な牙を口に並べた巨躯――それは、スバルにはミミズに見えた。

恐ろしく巨大なミミズだ。体長、十メートルを下らない、ミミズの化け物。

「こっ……」

こんな、化け物がいる世界観なのか。

いちいち、現実離れした光景が、スバルの精神を横殴りにして平静に戻させない。

そして、直近に迫る危機的自体が、蹲って嘆くことを許してくれない。

「この、クソったれ……ッ」

砂塗れの体で立ち上がり、スバルは思い切りに頭を振る。

おそらく、直前にスバルを吹き飛ばしたのは、地面の中にいたミミズの一撃だ。あるいはただ単に、息継ぎに飛び出してきたところの真上にいただけかもしれない。

とにかく、このミミズはスバルを砂の上に転がし、その上で――、

「見逃すつもりは、ない……!」

形勢が圧倒的不利なことを悟り、スバルは視線を巡らせる。

まだ、塔から出発してたったの四歩だった。不甲斐ないにも程があるが、建物の中に飛び込んで命を拾う選択肢は十分にある。

だが、視線を巡らせ、スバルは自分の運のなさを呪った。

ミミズの一発で吹き飛ばされ、砂の上を転がったスバルは塔から遠ざけられていた。巨大なミミズは、スバルと塔の間に立ちはだかっていて、塔に戻ろうとすれば、ミミズの巨躯を掻い潜らなければお話にならない。

「だからって……」

何の当てもない砂の海へ走り出しても、いずれはミミズに追いつかれる。

第一、このミミズが一体だけとは限らない。これだけの大きさならば、このミミズがこの砂漠の主である可能性は十分にあるが、この半分のサイズでも十分脅威だ。

まして、群れに襲われるようなことがあれば――、

「逃げる選択は、現実的でも何でもなかったってのかよ」

それを、懇切丁寧に手早く教えてくれる世界の親切さが憎らしい。

そして、状況の整理にまごつくスバルへの、ミミズの方の態度も決まった様子だ。

ゆっくりと、目のないミミズの頭部がこちらへ向けられ、大口が開かれる。

そのミミズの頭部に、ねじくれた角があるのが、何とも異物感だった。

「一発、一発だ。一発、一発、一発……」

首元に防砂布を引き上げ、スバルはミミズの挙動に目を走らせる。

腕を軽く正面に突き出し、タイミングを計る。ふと、自分の右手の剥がれた爪、その傷が塞がり、わずかながら爪の再生が始まっているのが見えた。

治癒魔法、あるいは緑部屋の効能か。そんな、ささやかな意識の間隙に――、

「――ッッッ!!」

巨躯からは想像のつかない、恐ろしく耳障りな奇声を上げて、ミミズがスバルへと倒れ込むように飛び込んでくる。

轟、と風の唸る音が聞こえ、スバルは一瞬、自分の体が意識の置き去りにされるような奇妙な感覚を味わった。

「――――」

飛び込んでくるミミズ、その右脇に転がり込み、初撃を躱す。

それ以外のことは考えない。そして、それをうまくやった自分の幻覚が見える。その幻覚の行動をなぞるように、意識に遅れている体が動けばいい。

その通りに、動かした。

「――しぃっ!!」

粉塵を巻き上げ、すぐ真横で衝撃波が発生する。

その余波を喰らいながら、スバルは砂の上を転がり、自分の意識の幻覚をなぞった。

「……はぁっ!」

体が、自分の記憶よりもはるかに機敏に動いた。

刹那、脳裏に過ったのは、スバルにとって記憶にない『ナツキ・スバル』の一年間。この過酷な環境で生き延びた『ナツキ・スバル』、その経験の残滓がある。

それに生かされたことを、今は何も考えない。

「このまま――ッ!!」

転がる勢いを前身の勢いへ転化して、スバルは正面へと、塔の入口へと全力で走る。

この瞬間だけは、すぐ目の前にある生に縋り付くことが全てだ。

塔の中へ戻れば、薄れえない疑心暗鬼の環境と、死への恐怖に苛まれることはわかっている。それでも、巨大なミミズの糞になる最後を選ぶことはできない。

「――――」

振り返る余裕はないが、頭から砂海へ突っ込んだミミズが、即座にこちらへ切り替えして襲ってこれるほどの器用さはないはずだ。

あと、ほんの十数メートルばかりの距離、何とか駆け抜けてみせ――、

「る」

瞬間、ミミズの頭ではなく、ミミズの尾が砂の地面を割るように出現し、スバルの足下を刈るような勢いで砂が炸裂、またしても体は宙へと投げ出されていた。

「お、ぁ」

宙を舞いながら、何にも届かない手足を掻いて、スバルは下を見る。

見れば、空中をくるくると舞い飛ぶスバルの眼下、大口を開け、その体を貪ろうとするミミズの汚い口腔があった。

――甘く見た。

この過酷な環境を、これだけの巨躯になるまで生き抜いた野性を、温室も同然の世界で過ごしてきた自分が出し抜けるなどと、甘かった。

浅慮で浅薄、その代償を、また命で支払うことになる。

「いや、だ」

落下しながら、羽根をもがれた虫のように足掻きながら、声がこぼれる。

死ぬ、また死ぬのか。死んだとして、死に切れるかどうかもわからない。そもそも、死んで、ここで終わって、どうなる。耐えられるのか。

この気持ちのまま、永遠に終わらない暗闇に放り込まれたとしても。

耐えられるのか。

「嫌だあああああああ!!」

叫び、助けを求めて夜空に手を伸ばす。

触れられるものはない。ただ、薄雲のかかったようにぼやけた空の果てに、あるはずの星すらも見えず、スバルは一人、落ちていく。

同じ名前を持った星にも見捨てられて、化け物の腹に呑まれ、消えてなくなる。

そんな、絶望を――、

――白い、光が迸った。

「――――」

白い光が迸り、それが、大口を開けたミミズの顔面を吹き飛ばした。

文字通り、衝撃はミミズの横っ面に突き刺さり、その巨大な頭部を飴細工のように歪ませて、刹那、爆ぜる。

汚い色の肉と血をまき散らして、ミミズの頭が爆ぜ、吹き飛んだ。

スバルを呑み込むはずの頭部がなくなり、ミミズの巨躯がぐらりと揺らぐ。しかし、その体が倒れるより早く、スバルの体が頭部をなくしたミミズへとぶつかった。

ぐずりと、焼く前のハンバーグのタネに全身でぶつかっていく感覚だ。

傷口であり、内臓であり、血肉そのものであるものをクッションに、スバルは身の毛もよだつ不快感と引き換えに命を拾った。

口の中に刺激と嘔吐感を触発する液体が混ざり、懸命に咳き込む。その間も、ミミズの亡骸はゆっくりと砂の上に倒れ――られない。

次々と、視界の端をちかっと光が破裂するたびに、ミミズの亡骸が撃ち抜かれる。

撃ち抜かれ、爆ぜ、短くなり、飛び散り、ミミズは裁断され、千切れていく。かろうじてそれがスバルに当たらなかったのは、悪運の中の強運というべき偶然だ。

やがて――、

「――ぁ」

衝撃に振り回される体が、砂の上に投げ出されたことにスバルは気付いた。

五体を伸ばして、スバルは砂の上に仰向けに転がっている。

「――――」

頭上、ミミズに投げ飛ばされたときと同じ、星の見えない空がある。

何の因果か、命を拾った今も、空は変わらず、『昴』を見捨てたままでいる。

呆れられて、望まれて、見放されて、憎まれて、親しまれて、遠ざけられて。

生きたいのか、死にたいのか、いたいのか、いたくないのか。

「俺に、どうしろってんだよ……! 答えがあるなら、教えてくれよ……!」

顔を覆い、誰もいない、何も見えない空に向かって怒鳴る。

返事のない中、スバルが聞きたい答えを、一番持っているのは誰なのか。

それはおそらく――、

「――答えてくれよ、ナツキ・スバル」

情けなく、ため息のような声で言って、スバルは体を横へ倒した。

何気なく、何の意味もなく、ただ、身をひねっただけだった。

――そのささやかな動きが、耳を掠めて地面へ突き刺さる白い光からスバルの命をかろうじて救った。

「づっ」

右の耳を、何かが凄まじい勢いで削いだ。

痛みを訴える耳を押さえ、横に転がる。血が滴り、痛みの原因を見た。

白く光る、細長い針のようなものが、砂地に突き立っていた。

「これ……ぇ」

何なのか、手を伸ばし、触れようとした途端にその白い針は塵へと変わる。

そして、直後に、スバルの視界がぶれた。

「――――」

大きくぶれた。それは上から下へ、だ。

ミミズがのたくっていたためか、あるいは今の白い針が最後の一刺しになったのか、スバルの尻の下の地面が崩れ、周囲の大地ごと地下へと落ちる。

「う、ぁ、あああぁ!」

飛びのいて、縋ろうとしても指は砂をすり抜ける。

蟻地獄へと落ちる虫のように、抵抗できないままに、スバルの体は砂底へ落ちる。

手足が埋まり、身動きが取れなくなり、上を向いて、必死に喘ぐ。

全身が砂に呑まれ、そのまま、生き埋めになる予感に、懸命に抗うように。

「誰か、誰か、助け……」

続く声は形にならないまま、スバルの体は砂に呑まれ、落ちてゆく。

そうして、惨めに足掻く『昴』を、空の星は一欠片も気付くことなく。

第六章41 『安らぎの臭い』

――意識が戻って、最初に感じたのは息苦しさと圧迫感だった。

「かふっ」

咳き込み、口内に溜まった不愉快な感触――砂だらけの唾液を吐き出し、重い瞼をこじ開ける。意識を喪失していた。

居眠りではなく、もっと強制的な、逆らい難い波に呑まれての意識の途絶だ。

睫毛にまで砂が圧し掛かったような重い感覚、それに抗いながら、スバルは自分の身に何が起きたのか、直前の出来事を回想する。

確か、ひどい錯乱があって、それから塔を出ようとして、誰にも邪魔されずに塔を出たところまでは間違いなく――、

「ミミズと……白い、光……」

直後にあった恐ろしい出来事、連続したインパクトのある光景を思い出し、スバルは本当に自分が生きているのか怪しく思えてくる。

あれほどの異常事態に巻き込まれて、生き延びるだけの天運が自分にあるのか。

もっとも、仮にあれで死んでいたとしても、本当に死ねるのか怪しいところなのが、今のナツキ・スバルという望まれない異邦人の在り方だ。

「針のあと、蟻地獄に落ちて……」

地面が陥没し、巨大なミミズの亡骸と一緒に地下へ呑み込まれたことは思い出せた。何とか酸素を確保しようと首を伸ばしたが、ついには砂に呑まれ、意識は消える。

挙句、そのまま窒息死かと思われたが、そうはならなかった。

「ここは……砂漠の地下、か?」

周りを見回すが、光源のない空間らしく、ほとんど手元も見えない暗闇の状況だ。

重たい瞼を開いて、砂から抜け出した掌をすぐ目の前に持ってくる。かろうじて、そこにあるのがわかるが、生命線の存在も見えないほどに世界は頼りない。

――本当に、自分が生者の世界に居残れているのか、それすら危うく思える。

「……ゾッと、しないぜ、馬鹿野郎」

そこまで考えて、スバルはゆっくりと手足を動かし、砂に埋もれかけた自分の体を重たい締め付けから解放する。全身に圧し掛かった圧迫感は腰から下を呑み込んでいた砂のベッドが原因で、埋もれたのが上半身でなかったのは不幸中の幸いだ。

旗を立てた砂山を、旗を倒さずに崩す要領とでもいえばいいのか。下手な動きで大きく砂に埋もれるのを避けるため、スバルは慎重に砂をどけ、抜け出した。

「――――」

かろうじて砂から抜け出せば、感じるのは想定以上に重たい疲労感だ。

冷たい砂に体温を奪われ、延々と圧迫され続けていたのも原因だろう。自分がどのぐらい意識をなくしていたのか、それすら把握できないのが恐ろしい。

「寝てたところを、別のミミズに齧られなかったのはラッキーだったか……」

喋りながら、スバルは喉の渇きを覚えて腰に手を回す。

塔から逃げ出すとき、砂漠の移動用に確保した水の革袋がそこに備え付けてあったはずだ。しかし、水を求めた指は空振りし、何度か探っても革袋は見つからない。

「腰まで埋まってたんなら当然か……」

砂に呑まれた際、水の袋は外れてしまったらしい。同時に、非常食を詰めた袋も手元を離れている。それが致命的な状況を意味するのに、心はやけに平静だった。

もう、この状況の非情さに心が麻痺して、いちいち反応するのが馬鹿らしく思えてきているのかもしれない。

「せめて、近くにあれば……ぁ?」

膝をついて、自分が抜け出した砂山あたりを手で探ってみる。

あれだけの砂量だ。ほとんど期待していない、気休めのような行為だったのだが、ちょうど上半身が抜け出ていたあたりに柔らかい感触がある。

指で確かめ、それが求めた革袋であることに驚かされた。そして、

「中身が空なのに、二度ビックリ……か」

革袋の重さと感触で、その中身が空っぽであることはすぐにわかった。一応、革袋の口を唇に当ててみるが、微かな雫が舌先を湿らせるに留まる。

それっぽっちの水でも、今は貴重な水分だ。ひもじい感覚を舌先で堪能し、スバルは革袋を改めて腰に戻し、改めて周囲を手で探る。

「――?」

水の革袋があったなら、食料の方にも可能性があるかもしれない。

そんな期待は、水と同じように叶い、裏切られた。

――砂山の周辺に、まるで食い散らかすように食料が散らばって落ちているのだ。

「――――」

暗いため、砂山の情景が正確にはわからない。

ただ、砂山のあちこちに、スバルが持ち込んだ食料が散らばっているのがわかる。そして、掌の上に乗る残骸が、元の状態を保っていないこと――有体に言えば、何かが食い散らかし、放置しているのがわかる。

ごくり、と渇いたスバルの喉が鳴る。

スバルの周辺に、食い散らかした食料が転がっている。この事実は、平静になったつもりのスバルの精神を、爪で掻き毟るようにおぞましく傷付けた。

ミミズに対して抱いた、捕食されることへの恐怖が込み上げ、スバルの額や背中を、貴重な水分を消費して脂汗が流れていく。

元々、この場所はあの巨大なミミズが這い出してきた、いわば化け物の通り道だ。

その主であったミミズは間違いなく死んだだろうが、それと共生関係にある化け物などが、この通り道に生息していたとしても何の不思議もない。

「すぐにここを……」

離れなければ、とスバルは考える。

しかし、そう考えたスバルには周囲が見えない。壁どころか、地面を頼るように四つん這いになり、地面があることを、壁があることを、道があることを、自分の存在を確かめるようにして、這い蹲って逃げるしかない。

「痛ぇ……クソ、痛ぇ……」

白い針が掠めた右の耳が、まだ再生途中だった右手の爪が、全身の、痛みを発する器官の訴えを受けながら、スバルは這いずって、その場を逃れる。

何か、異様な存在から遠ざかるために。遠ざかった先に、そうまでして逃げた先に、いったい何があるのかわからなくても。

今はとにかく、得体の知れない恐怖から遠ざかるために、逃げ続けるしかなかった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

くん、と鼻を鳴らし、スバルは導かれるようにそちらへと手足を進める。

それは徐々に強くなり、確かな感覚となって、スバルを奥へと導いてくれていた。

――這い蹲っての逃走が始まって、小一時間ほど経ってからのことだ。

あてもなく逃げ惑いながら、スバルは幾度も砂山を滑落し、道なき道で壁に阻まれ、時折、頭上から落ちてくる砂の雨に怯えて転がるのを繰り返した。

そうする内、スバルは自分が、砂漠の地下にある空洞の中にいるのだと気付く。

気付いたところで救いになることではなかったが、本当の意味で兆しがあったのは、その事実に気付いたすぐあとのこと。

――それは、唐突に鼻腔に滑り込む、奇妙に惹き付けられる臭いだった。

奇妙なそれを、かぐわしいであるとは決して呼べない。

普段の状態であれば、臭いなんてものは状況を判断する上で、かなり優先度の下がる不確実な情報にすぎない。しかし、暗闇に視界を封じられ、何もない場所で音すら曖昧な世界となれば、その突然の臭気はひどく新鮮なものに感じられた。

それ故にスバルは、壁に頼って歩く幼子のように、それに惹かれて這いずり始めた。

鼻を鳴らし、犬のような姿勢で、臭いに導かれながら空洞の奥へと――否、奥なのか、手前なのか、どこへ向かっているかも定かではない誘導を受ける。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

いつしか、スバルは舌を出し、それこそ本当の犬のように呼気を荒くしていた。

犬が舌を出すのは体温調整のためと聞いたことがあるが、今のスバルの仕草にそれは当たらない。スバルが舌を出し、犬のような形相で暗闇に挑むのは、微かに流れる風を舌先に浴びて、少しでも得られる情報を増やしたいからだ。

「――――」

暗闇の中、スバルはほんの数時間で、自分が闇に適用した生き物になったような錯覚を覚える。当然、そんな仮初の万能感は事実とは大きく異なる。

相変わらず、暗闇はスバルに何も与えず、孤独な空間には自分の息遣いと、わずかに砂を掻く音が響くだけ――だが、それが今のスバルには心地よかった。

――怖い、恐ろしい、何とかしなければ。

そんな、人として当然の感情を抱いていたのは最初の間だけだ。

今や、スバルはこの静寂と暗闇が、誰もいない『孤独』な空間が愛おしかった。

ここでなら、傷付けられずに済む。

ここでなら、脱出しようと足掻き続けるだけでいい。

ここでなら、何も考えなくても、自分にはするべきことがある。

生温い泥濘に身を委ねるような停滞感が、切迫した状況に置かれるスバルの心を抱擁し、ぐずぐずの粘土細工のように飽和させていくのを感じる。

そのまま、それに溶けて消えてしまえたら、それはそれで、構わないのではないか。

――そんな風に、惰性と倦怠の逃避感に浸りながら考えていたのに。

「クソ、なんだこれ……」

順調に、スバルは見えない空洞の中を這い進んできたはずだった。

途中、左右へ別れる道を見つけ、どちらへ行くか散々悩んだ挙句に右を選び、そこからさらに長い長い、臭いを辿る旅路があった。

その果てに安堵できる場所があるのか。明るい場所へ辿り着けるのか。そんな展望は全くなくとも、スバルは構わずに突き進んだ。

それなのに――、

「ここにきて、行き止まり……?」

どんどんと狭くなる道と、きつくなる傾斜に堪えながら進んだ先、スバルを待ち受けていたのは文字通り這いずってしか進めないほど狭い道と、その果てにある砂の壁――つまるところ、臭いの終着点だった。

「何のためにここまで……いや、待てよ」

閉塞した状況に腹を立て、砂の壁を殴ろうとしたスバルは踏みとどまった。そして、自分が辿ってきた臭いと、現状の矛盾に頭を悩ませる。

スバルは、間違いなく、漂ってくる臭いを頼りにこの場所へやってきた。

臭いは風に乗り、確かにはるか彼方にいたスバルの下へ届いたのだ。つまり、風が流れる余地があるなら、こうして砂の奥で行き止まりになるはずがない。

風は必ず、外から空洞の中へと流れ込んでいたはずだ。

「だったら……!」

ぺたぺたと、周囲に手をやり、スバルは行き止まりの道を、後じさりしながら手探りでまさぐっていく。

左右と正面、下は見落とすはずがない。ならば、スバルが見落としかねないのはどこか。

――星に見捨てられ、仰ぐことを恐れた上ではないのか。

「――あった」

後じさりして一時間、天井に触れていた手が空を切り、スバルは目を輝かせた。

立ち上がり、奥へ腕を突っ込むと、肩まで入れても天井に当たらない。穴がある。大きさはスバルの胴回りより二回り以上も大きく、すっぽりと体が入る。

つまり、背中と足を突っ張れば、登っていけるはずだ。

「――――」

その穴の上から、微かに風が流れ込んでくる。スバルがここまで、唯一の縋る対象として求めた臭いが、その風に乗って地下へ流れ込んできている。

鼻を鳴らし、それを確かめたスバルに、登らない選択肢はありえなかった。

「ぐ……ぬ……っ」

穴に体を入れて、壁に背中を押し付ける。無論、壁も砂でできているため、ちょっと負荷をかける角度を誤れば、すぐに崩れて目論見は破綻する。

そうならないように慎重に、しかし、足をかけるときには大胆に、スバルは一瞬の動きで尻と足を突っ張り、穴を少しずつ、よじ登っていく。

「――――」

幸い、というべきか、穴の壁には所々に窪みがあり、孤独な登壁者であるスバルを適度にサポートしてくれる。

ひょっとすると、超人的な身体能力の持ち主ならば、この窪みに足をかけ、ぴょんぴょんと飛び上がる要領で穴の上までいけるのかもしれない。

「へ」

しかし、スバルにはそんな身体能力はなく、地道な挑戦を続けるしかない。

それでも、スバルの知らない時間で鍛えられた体は、この手の不自然な状態での活動に耐えるように訓練されていたらしい。

新しい車に乗り慣れるように、エンジンを積み換えた体にも徐々に適応する。穴の半ばを越えた頃にはコツを掴み、立派に登壁者としての実力を確立していた。

もっとも、その実力を遺憾なく発揮する前に――、

「――出口」

ざっと、何メートルの壁を上がってきたのかわからないが、気付けば転落死を免れないぐらいの高さは這い上がってきていたはずだ。

その一心不乱の褒章に、ついにスバルは壁の踏破を成し遂げる。

「――――」

思ったほどの感慨はない。

やってしまえばこんなもの、といった退屈な思考がその原因でもない。

ただ、思っただけだ。――壁を登り切ったことなど、これを前にすれば些事だと。

穴を抜け、新たな砂地を踏みつけ、スバルは立ち上がる。

そして、正面に佇む威容を前に、短く呟いた。

「――扉」

――そこに、奇妙な扉が一枚だけ、何にも頼らずに佇んでいたのだ。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――佇む、一枚の扉を前に、スバルは途方に暮れていた。

「見える」

スバルが辿り着いた穴の上は、そのまま地上へ通じていたわけではなかった。

ここはおそらく、まだ空洞の中――空洞の中にも層があったとすれば、スバルが落下した地点がB2F、今いるのがB1Fといった塩梅だ。

そして、大仰というより、姑息というべき手段で隠された空間にあったのが、壁や床と一体化することなく、ただ漫然と立ち尽くす一枚の扉。

これに何の意味があるのか、一目でわかるものがいるだろうか。

「――俺以外に」

扉を眺めながら、スバルはひどく、傲慢な感情と共にそう言い放つ。

胸に手を当て、目を見開いて、突然に遭遇した扉に対し、スバルははっきりとそれを自覚していた。――これは、自分のための扉であると。

奇妙な確信があった。

この扉は、自分のものであるという確信が。

地下に流れ込んだ風、その風が運び込んだ臭い、それを辿って辿り着いた自分。

全てが、この場所へとナツキ・スバルを招き寄せていた。

そして今、目の前の扉は淡く、この暗闇の中ですら存在を主張し、ナツキ・スバルの手で開放される瞬間を待ち望んでいる。

「――――」

まるで、愛おしい恋人に触れるように、スバルは弾む心地で扉に歩み寄る。

両開きの、木製の扉に見えるそれは、スバルの身長の倍ほどもある。目を凝らせば、両開きの扉の中央、開け放つための取っ手があり、その部分に奇妙な紋様が見えた。

――見えるのは、七つの宝玉。

「――ぁ」

その宝玉を目にしながら、スバルは扉に手を触れた。

途端、扉の宝玉が眩く光り始める。――その数、四つ。

七つある宝玉の内の、四つが眩く輝いて、ナツキ・スバルの来訪を歓迎し――、

――鍵持たぬものの訪問を、扉の主は認めなかった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――瞬きの直後、スバルは自分がどこにいるのかわからず、目を瞬かせた。

「は」

呆けたような吐息をこぼし、スバルは自分の両手を見下ろす。

見える。当然だ。ここには光がある、色がある。自分の足場も見える。石造りの床の上に立っている。――石造りの、床の上に。

「――ッ」

身を硬くして、スバルは慌てて周囲を見回した。

周囲、あるのは赤茶っぽい色合いの壁、壁、壁――円状に作り上げられた塔の壁、背後にあるのが外へ通じる出入り口になる大扉。

ここは、塔の中――プレアデス監視塔の、第五層。

ある種の、強い決意を以て飛び出したはずの、あの場所へと舞い戻っている。

「ば」

かな、とは続かない。言葉が、どうしても出てこない。

瞬きの直後だったはずだ。一瞬の間に、スバルはこんな場所に立ち尽くしていた。驚愕を消し切れず、眩暈を起こして足下がふらつく。

裸足の素足、脱いだ靴が爪先に当たって転がり、スバルは奥歯を強く噛んだ。

こんなところで呆けている場合ではない。今すぐに逃げ出す――否。

「なんで、俺が逃げなきゃならない」

沸々と、濁りに濁った感情が沸き立ち、スバルは強い激情のままに上を見上げた。

煮詰めたマグマのような灼熱の憎悪が、いつしかスバルの中に熱く渦巻いている。

それは孤独の時間の終わりと、安寧の暗闇の終わりと、縋り付く臭いの終わりと――あの場所にあった全てを、強制的に取り上げられたことへの謂われなき憎悪だった。

「――――」

何故、スバルが逃げなくてはならなかったのか。

誰かが、スバルを殺そうと画策し、一度ならず二度、命を奪ったからだ。そのことを平静とした仮面の裏に隠し、いけしゃあしゃあと善人ぶる場所にどうしていられる。

――容疑者は、塔の中にしかいない。

その中の犯人当てをするのか。それができないから逃げ出したのか。

馬鹿め、馬鹿め、馬鹿め、何もわかっていない。

――容疑者のいずれかが当たりなら、当たりを引くまで叩き潰せばいい。

「――――」

幸い、奴らは全員、スバルに対して油断している。

必ず含まれている犯人だけが、スバルへの警戒を解くまいが――その犯人も、まさか自分がスバルに疑われていることなど知る由もない。

ここに、スバルが一度死んだことのアドバンテージがある。

一度死んだ自分は、誰かが自分を殺そうとしていることを知っている。

その凶行が再び行われる前に、殺そうとしている相手を殺してしまえばいいのだ。

「ひは」

凶笑が浮かび、スバルは口元を手で押さえる。

会心の案が飛び出して、スバルは自分で自分を救い上げる天恵を得た。

「――――」

そうとなれば、手早く事を片付けるための得物がいる。

結論し、実行するとなればスバルの行動は早い。足早に、スバルは螺旋階段をさらに下へと――六層へと向かって降りていく。

記憶に怪しいが、塔の最下層に当たる六層には、スバルたちが――元々の『ナツキ・スバル』たちが塔にやってくるにあたり、砂漠越えのために力を借りたトカゲと、旅の馬車的なものがあるんだとか。

当然、そんなものがあれば、それなりに『非常時』に役立つものもあろう。

「――――」

最下層へ辿り着いて、目的の馬車を見つけたスバルは、しかしそこで足を止めた。

理由は馬車のすぐ傍ら――そこに崩れ落ち、すでに事切れている巨大なトカゲだ。

その頭部は消し飛び、首から上をなくした体が床に横倒しになっている。よほどの威力だったのか、吹き飛んだ頭部は辺りに見当たらない。

代わりに、巨躯から流れ出した血が地面を汚しているが、すでに渇いていて、惨劇から相応の時間が経過しているのがわかった。

「――針」

瞬間、スバルの脳裏に浮かび上がったのは、塔を出た直後のミミズとの攻防と、そのミミズの頭部を、図体を吹き飛ばした、謎の白い針だ。

あの白い針の攻撃と、ここに転がるトカゲの亡骸とは印象が一致する。となれば、あの攻撃は塔の中の誰か――容疑者、いずれかの攻撃だった可能性が高い。

そして、自分たちの家畜に等しいトカゲを、こうも無残に葬っているのは――、

「――正体を、隠すつもりをなくしたってことか」

スバルに逃げられたことが決定打になったのか、相手は短慮に出たらしい。

その事実に身震いしながら、スバルは手つかずの馬車の中へ――寝床として扱われているらしき馬車を荒らし、スバルは適当な荷物の中から大振りのナイフを見つけた。

扱いとしてはおそらく、サバイバルナイフのそれに近いものだろうか。

武装というよりは、障害を切り開くために用いられる大型の刃物といった塩梅――しかし、この状況では立派に、スバルの目的を叶えてくれるだろう凶器。

「誰が、敵だか知らないが……」

――目に物を、見せてやる。

どす黒い感情に身を焦がし、ナツキ・スバルはナイフを手に、上階へ向かう。

頬を歪めた笑みを作り、憎悪がその身を後押しする。

救われるためならば、逃れるためならば、凶行すらも正当化されると信じて、進む。

――その頬を、薄れ得ぬ恐怖の涙が伝っていることに気付かぬままに。

第六章42 『死者たちの塔』

階段を、上へ続く階段を、ナツキ・スバルはゆっくりと踏みしめ、上がっていく。

片手にナイフを、その胸に憎悪を、瞳に狂気を漲らせ、上へと歩む。

「殺す、殺す、殺してやる。絶対に、殺して、やる……っ」

軋るような囁きは、尽きることのない呪いの言葉だ。

言霊に力が宿るならば、吐き出される呪詛の数々が、スバルの行為を後押しする。

殺すと、一つ明確に言葉にするたび、ナイフに宿る力が増して思えた。

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す……」

呟きながら、進む視界が時たまぼやける。

心労と、何時間も砂漠の地下を這いずり回った疲労感があるのだろう。妙に頭が重く感じられる瞬間があり、スバルは何度も首を横に振った。

今、こんなところで倒れている場合ではない。

この場所は、スバルにとって危険な奴らが揃い踏みしている環境なのだ。誰が味方で、誰が敵なのかもわからない環境。それはもはや、敵の巣窟も同然だ。

身を守るために、殺さなくてはならない。

そうしなくては、奴らの方がスバルを殺しにくるのだ。

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す……」

殺したいのではなく、殺さなければならない。

もし仮に、言霊が正しく言葉を使うことを条件とするなら、おそらく、スバルの口にする『殺す』という言葉は誤りだ。

真にスバルの心情を反映するなら、この場合に相応しい言葉は『殺す』ではない。

――死にたくない、の方が正確だ。

だから、一番最初に、目の前に現れた奴を、殺してやると、そう心に決めて。

ナツキ・スバルは四層に辿り着く。

そして、それを目にした。

「――は」

息が漏れた。

甲高い音を立てて、手にしたナイフが硬い床の上に落ちる。指が強張り、動かない。ただ、ゆるゆると首を横に振り、スバルは後ずさった。

溢れ返る血臭と、身も凍るような激しい戦闘の痕跡。

石造りの壁や床が砕かれ、割られ、何か強大な存在が暴れ回ったとしか思えない、そんな破壊の余韻が残る空間に、スバルは立ち尽くす。

立ち尽くしながら、それを見た。

――頭の潰れたシャウラが、見るも無残な姿で床に倒れ伏していた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

シャウラの亡骸は、目を覆いたくなるほどに凄惨な状態だった。

まとめられていた長い黒髪はほつれ、床を埋めるように広がっている。手足は力なく投げ出されているが、両腕が肘と手首とで切断され、先が見当たらない。

白い、健康的な肌には無数の裂傷が刻まれ、おびただしい量の血が辺りにぶちまけられていた。その血の跡は、彼女の終端となったこの場所以外、通路の奥の方にも続いており、戦いが長く、幾度も場所を変えて続いたことを証明している。

そして、おそらくは命を奪う最後の一撃となった、頭部の外傷――傷なんて言葉では生易しすぎるそれは、命を蹂躙する致命的な穴だ。

寝そべった相手の頭に、大きなハンマーを振り下ろしたとでもいえばいいのか。

頭を叩き潰し、四散させ、その中身を周囲にぶちまける野蛮な方法など、それ以外には到底思いつかない。何か、恐ろしく巨大な衝撃が、その頭を叩き潰している。

潰れ、消滅してしまったシャウラの頭部。

短い間だが、彼女が躊躇いなく距離を詰め、あけすけな笑みを向けてきたことが思い出され――、

「――ぶ」

呆然と、愕然と、悄然と、亡骸を眺めていたスバルはその場に膝をつく。

そして、堪え切れない嘔吐感のままに、胃袋の中身を一気に床に吐き出した。胃液と混ざり、ドロドロになった内容物が、酸っぱい臭いと共に体外へ溢れる。

それは床に潰れるシャウラの亡骸にもかかり、恐ろしい死に方をした彼女を、死後さらに辱めることに一役買った。

「うえ! おええっ、ごえっ、うぶ……」

しかし、蹲り、嘔吐を続けるスバルにはそんな死者の冒涜に気を向ける余裕がない。

胃が絞られる痛みと、途絶えることなく湧き上がる嘔吐感に、可能な限り喉を開いて、込み上げる灼熱感を吐き出すことに腐心するだけだ。

やがて、胃の中身が空っぽになるまで吐いたところで、スバルは体を床に投げ出す。両手を広げて大の字になり、天井を睨みつけ、顔を覆った。

――人の、死を、初めて目の当たりにした。

「――――」

人の死体との対面は、スバルにとっては初めてのことだった。

多くの場合、人生で最初に相対する死体とは、年配の親類であると考えられる。だが、スバルはこれまで、母方も父方も祖父母は健在で、葬式に出た経験もなかった。

それ以外の場面で、誰か、人の死に出くわしたことも一度もない。

だから、スバルにとって、初めて目にした他者の死は衝撃的だった。

その上、その死に様が明らかに常軌を逸したものとなれば、なおさらだ。

人とは、こんなにも残酷に、命を奪われることがあるものなのだと。

「俺も、か」

腕で顔を覆っていたスバルは、そう呟いて体を起こした。

口元にこびりつく吐瀉物を袖で拭い、耳鳴りのうるさい頭を振って、壁を頼りにゆっくりと立ち上がる。

背中を突き飛ばされ、はるか階下へと叩き落とされたスバル。

その亡骸も、きっと二目と見られないほどぐずぐずの肉塊へと変わったはずだ。自分で自分の死体を見る経験ができなくて、そのことにはわずかに安堵する。

仮に、自分の目で自分の死を見るようなことがあれば、正気でなどいられまい。

自分が死んだのだと、その事実を理解しただけでも、心は張り裂けそうなほどの衝撃に見舞われ、粉々に砕け散ったというのに。

「とに、かく……」

思索を中断し、スバルは傍らに転がるシャウラ、その亡骸を視界に入れないよう苦心しつつ、彼女の死という事実から確信を得た。

この塔内には、やはり恐ろしい内患が潜んでいるのだという事実を、だ。

そして同時に、その内患の狙いはスバルだけではなく、塔の中の他のものにも及んでいるのだとはっきりとわかった。

「――――」

死んだシャウラには悪いが、これは今のスバルには朗報とも言えた。

スバルを殺した人物がわからない今、容疑者全員を消さない限り、スバル自身の安息は手に入らない。だが、彼女が死んだことで、容疑者は七名から一人消えてくれた。

それと同時に、スバルを殺した人間が、スバル以外の誰かとも敵対関係にある――あるいは、塔内の全員を消そうとしている危険人物だと、確信が持てたのだ。

つまり、スバル以外の誰かが、スバルを殺した犯人を殺してくれる可能性がある。

あとはスバルが、生き残った全員を殺せばいい。それで、安心できる。

殺そうとしてくる犯人を殺して、殺そうとしてくるかもしれない候補者を殺せば、塔の中に残ったスバルだけが、安寧を貪ることができるはず。

「そういう意味だと……邪魔なのは、ラムと、エキドナか。ユリウスの奴も、死んでくれてると楽だな……」

子どもであるベアトリスとメィリィは、殺しやすさでは難しく考える必要はない。

エミリアと、死んでしまったがシャウラも、スバルに対して警戒心がないという意味では、隙を衝いて殺すことは容易だったはずだ。

だが、スバルに対して反抗的なラムと、小賢しいエキドナの存在は邪魔臭い。隙を衝いて殺すにしても、この二人が最も狙いづらい、そんな印象があった。

ユリウスに関しては何とも言えないが、彼の場合、スバル以外の唯一の男という点で、純粋な警戒に値する。安っぽいとはいえ、腰に剣を差していたのも問題だ。

しかし、逆を言えば、あの剣を奪えば一方的に追い詰められる可能性もある。スバルは剣道をやっていたから、剣を奪えば優位は確実ともいえよう。

あとは――、

「上にいる、あの、クソ野郎」

試験官という名目で、塔の上階に居座っている赤毛の男――その排除に考えを巡らせ、即座にスバルは首を横に振った。

あれの排除など、不可能だ。あれは常外の理に生きる、手出し無用の超越者。

ナツキ・スバルの常識では、あれに勝つことなど決して不可能だ。

殺せない、ものもいる。

唯一、救いがあるとすれば、あれがスバルを突き飛ばした存在とは考えにくいこと。あれならば、あんなつまらない方法で殺そうとはしない、そんな負の信頼があった。

「――――」

落ちたナイフを拾い上げ、スバルはシャウラの亡骸を跨いで、奥へと向かう。

一瞬、シャウラの亡骸を調べるか迷ったが、薄着の彼女が役立つものを持っているとも考えづらく、同時に、死者をこれ以上に辱めることを良心が咎めた。

彼女は死んだのだ。死んだものは、スバルにとってもう敵ではない。

彼女はただ、運がなかった。――ただ、それだけなのだから。

手を合わせる、なんて殊勝なことまではしない。

スバルはシャウラをその場に捨て置くと、塔の中をゆっくりと奥へ、破壊の痕跡を辿るように、四層の通路を忍び歩きで進んだ。

塔内は、物音一つ聞こえないぐらいに静まり返り、静寂がかえってうるさく思える。

甲高い耳鳴りが脳を掻き毟り、自分の体内を巡る血の音が聞こえる気がした。しかし、不思議なことに拍動は緩やかに、最初の興奮が嘘のように落ち着いている。

四層へ上がっていく途中、どす黒く煮詰めた憎悪は、今も胸中に汚れのようにこびりついて剥がれない。

今も、自身の生存のために、殺戮を実行する覚悟は萎えないままあるのだ。

最初に目についた相手を、突き刺し、抉り、命を奪う。その覚悟がある。

それなのに――、

――角を曲がった先、体を斜めに断ち切られたエキドナの死体を見つけて、スバルは自分の覚悟が、この地獄でどれほど役立つものか、何もわからなくなった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

エキドナの亡骸は、右肩から左脇にかけて、何か大きな刃物でバッサリと斬られたような傷を負い、崩れ落ちていた。

「――――」

大きな刃物、と想像した際、最初に思い浮かぶのはユリウスの持っていた剣だ。

安っぽい、いかにも量産品といった塩梅の剣だったが、エキドナぐらい華奢な女の体を斬るには十分に機能することだろう。

問題は、ユリウスにエキドナを斬る理由があるのか、わからないこと。

紹介された話では、エキドナとユリウスとは主人と従者の関係――そこにはもっと、ややこしい事情があったと聞くが、とにかく、その関係性に近かったはずだ。

無論、ユリウスが塔内の全員の命を狙った猟奇的な殺人鬼であれば、そんな事情など何の意味も持たないのかもしれないが。

「う、ぶ……はぁ、はぁ……」

壁に寄りかかり、再び、胃袋の訴えに敗北したスバルが顔を上げる。

死体の状況は、最初のシャウラに比べれば幾分かマシだ。それでも、まじまじと見るには勇気が必要な光景だが、その死に様は、シャウラとは大きく印象が異なった。

倒れ伏したシャウラが、いかにも殺して捨て置かれたという印象を覚えるのに対し、このエキドナの亡骸には、死者への敬意が残されている。

有体に言えば、彼女の死体には白い布がかけられ、瞼も閉じられていたのだ。

「――――」

殺害方法の違いを思えば、死者の弔い方にも大きく違いがある。

この場合、どちらがより平常なのか、考えるだけでも気がおかしくなりそうだった。

「エキドナも、消えた……」

呼吸が震え、声が掠れ、手足が小刻みに痙攣するのを堪えられないまま、スバルは目の前の事実だけを記憶に書き留め、なおも塔の奥へ、殺すべき生存者を求めてゆく。

あるいはすでに、求めるものが生者なのか死者なのか、何のために求めるのか、その理由さえも曖昧になりながら、スバルは歩む。

――廊下の奥で、背後から胴体を吹き飛ばされたラムを見つけた。

胴体は胸下と腰までの間に大穴が空き、ほとんど千切れかけている無惨な状態だ。その傷跡が、スバルには砂漠のミミズを殺したそれと同じもののようにも見えた。

廊下を駆け抜け、どこかへ向かおうとした背中を狙い撃たれたのだろう。唇を噛んで、無念を残した死に顔には、怨念めいた呪詛が感じられた。

嘔吐をした。

――朝の事情説明と、食事をした広間には、ユリウスとメィリィの死体があった。

ユリウスの死に様は、これまでで最も壮絶なものだった。体中に殴打の痕跡と、圧倒的な切れ味に負わされた裂傷が存在する。肘から吹き飛んだ左腕の傷には、マントの切れ端が乱暴に巻かれ、処置されていた。直接の、これという死因は見つからない。体中のそれが死因であるなら、おそらくは血を失いすぎたことが彼の死因だ。

そして、彼がそうまで必死に抗ったのは、背後に頽れる少女のためだったのか。

嘔吐をした。

壁に背を預け、腹に手を当てたメィリィは、唯一、穏やかな顔で死んでいた。

小さな掌が触れる腹部には、真っ赤な血で濡れた傷が確かに存在する。彼女の死因も失血死だろう。傷を負い、この場所で救いを待つうちに、命を落とした。

それなのに、亡骸の表情が安らかに思えることが、一切の理解を拒ませていた。

嘔吐をした。

「――――」

死体、死体、死体、死体、死体だ。

死体があった。死体ばかりがあった。死体ばかりが、転がっていた。

どうなっているのか、理解が及ばない。

どうなっているのか、現実がおぼつかない。

理想を言えば、スバル以外の全員が死んでくれることが、安息のための条件だった。

だがしかし、スバルの存在を欠いたところで、全員が死んでいるのは理解ができない。

頭を潰され、全身を切り刻まれた無惨なシャウラ。

肩から脇までを叩き切られ、凄惨な一撃に倒れたエキドナ。

背後から胴体を吹き飛ばされ、無念と呪詛を残して死んだラム。

体中に激しい戦いを繰り広げた痕跡を残し、ついには命を落としたユリウス。

ただ、腹に負った傷から血を失い、緩やかな死を安らかに甘受して死んだメィリィ。

何があれば、こんなことになるのか。

誰が犯人ならば、この事態を受け入れることができるのか。

「エミリアと、ベアトリス……」

見つけた死体は五つ、見つからない容疑者は二人。

その二人のどちらかが、あるいはその二人が共謀して、この事態を引き起こしたのか。

一番最初に、記憶をなくして目覚めたスバルを気遣っていてくれた二人が、その態度の裏側に殺意と狂気を宿して、この凶行を成し遂げたのか。

死体は五つ、白い布は四枚、シャウラ以外の四人に、それぞれ掛けられていた。

シャウラ以外の四人の死体は床に丁寧に寝かされ、瞼まで閉じられていた。そこには死者への敬意がある。シャウラの死体にだけ、それがない。

そもそも、この殺戮はいったい、どのタイミングで起きていたのだろうか。

「血は……」

乾いていた、と思う。

ふらふらと、塔内にまだ見つけていない、エミリアとベアトリスの存在を探し回るスバルは、それぞれの死体の状況を思い浮かべ、考える。

むせ返る血臭と、死体の状況が鮮明に蘇る。

それが脳髄に突き刺さり、胃袋が痛みと共に蠕動するが、内容物の底は尽きている。口内の吐瀉物の残滓を吐き出す唾液も出ない涸れ方で、冷や汗一つ浮かばない。

スバルの体はからからに渇き切っていた。同じく、彼らの血も、乾いていた。

血が水よりも乾きにくかったとしても、あれだけの量だ。

乾くのに必要な数時間、あるいは十数時間が、すでに惨劇から経過していると考えられる。スバル自身、自分がどのぐらい、砂漠の地下で彷徨っていたのかわからないが、それに足る時間は流れているのか、否か、自信がない。

混乱と、混沌がある。

不自由な意識の束縛が、ままならない現況をどうにかしろと訴えかけてくる。

安息を買わなければ、見つけなければ、そのためには、容疑者を減らさなければ。

あと二人の、この状況を作り出した犯人のいずれかが死ねば、解放される。

「――――」

――緑色の部屋に入った。黒いトカゲが、スバルを見つけて嘶いた。

生きている存在を見つけたのは、この塔に戻って以来、初めてだった。

「は。トカゲが、なんだよ」

トカゲの生存を目にして、スバルは渇いた笑みをこぼした。

誰か、できるなら死体との対面が望ましかったが、この期に及んで出くわした生存者がトカゲとは、いったい何の足しになるのだ。

舌打ちし、すぐに背中を向けて部屋を出る。トカゲ以外にいない部屋など、何の用事もない。しかし――、

「ついてくんな!」

「――――」

部屋を出たスバルの後ろを、その巨躯を縮めた黒いトカゲがついてこようとした。

立ち上がると意外なほど大きいトカゲは、まさしく馬と変わらない大きさだ。それがのしのしと、鋭い爪を備えた足を動かし、スバルの後ろをついてくる。

その圧迫感に耐えかね、スバルは腕を振るい、唾を飛ばして威嚇した。

「俺は、お前と遊んでる暇なんかねぇんだよ! この塔で、生き残ってる奴をぶっ殺さなきゃならねぇんだ! お前が邪魔するなら……」

手にしたナイフを構え、スバルはトカゲを正面から睨みつける。

鋭い面貌のトカゲは、スバルが手にした大振りのナイフを見て、しかし、すぐに視線をナイフではなくスバルへ戻した。

「う……」

ナイフの存在を無視して、こちらを注視する姿勢にスバルの喉が震える。

まるで、スバルの殺意を物ともしていない。それがひどく不愉快で、居心地が悪く、胸の奥で燻っていた敵意を触発するものだから――、

「――てめぇ、ふざけるんじゃねぇ!!」

叫ぶのと同時に、スバルはナイフを振りかぶり、対峙するトカゲへ叩きつけた。

ナイフの先端が、漆黒の鱗へと突き刺さる。最初、わずかな抵抗感があったが、それは抵抗を容易に破り、ずぐりと嫌な手応えと共に、深々とトカゲの体に突き立った。

まんじりと、動かずにいたトカゲ、その左脇のあたりにナイフが刺さっている。刃は根本までトカゲの体内に潜り込み、明らかな深手に鮮血がこぼれた。

「これで……」

どうだ、と続けようとしたスバルの喉が、か細く裏返った吐息をこぼした。

初めて、生き物を殺そうと、殺すための行動を実行した。そのことへの興奮と、激しい動悸がそれを引き起こしたのだが、言葉が続かなかったのには別の要因がある。

「――――」

「ぁ、う……」

ナイフを突き立てられたトカゲが、微動だにせず、スバルを見ていた。

深々と、刃を刺されたことへの反応はない。痛みにも驚きにも、一切の反応をしない。ただトカゲの鋭い瞳は、ナツキ・スバルの行いを見ていた。

その、感情の読み取れないトカゲの瞳が、ナツキ・スバルを糾弾している。

「クソ……クソ、クソクソクソ! なんなんだ、なんなんだよ!」

頭を掻き毟り、スバルは耐え切れなくなって激発する。

喚くスバルは、トカゲの体に刺したナイフを取り返すことも忘れ、後ろに下がった。

――否、あのナイフに、触れる勇気がない。トカゲの目が、恐ろしい。

「お前も、お前以外の奴らも……死体も! 生きてる奴も! 生きてるんだか死んでるんだかわからない奴らも! いったい、何考えて、どうしたいんだよ!?」

言っても無駄とわかっていながら、スバルは目の前のトカゲにぶちまける。

塔内を彷徨いながら、何も見えない地下の暗闇を彷徨いながら、右も左もわからない、こんな世界に投げ出された事実に苦しみながら、鬱屈と溜め込んだ感情を。

「俺を殺そうとする奴は、どいつもこいつも殺してやる! 俺を頼ろうとする奴は、どいつもこいつも突き放してやる! 勘違いすんな! 調子に乗んな! 勝手に、馴れ馴れしくしてきやがって……冗談じゃねぇ!」

「――――」

「お前らのことなんか、一人も知るもんかよ! お前らが何を思ってるかなんて、一つ残らず知ったことかよ! みんながみんな、自分の事情を押し付けやがって……! お前らが自分のことで手一杯なら! 俺だって、俺のことで手一杯なんだよ!」

怒鳴り、喚き散らし、スバルはいつしか涙を流して、その場に膝をついていた。

正面、トカゲは何も語らず、肩を揺すって荒い息をつくスバルを見ている。スバルはそんなトカゲを正面から見られず、蹲り、床に額を押し付けた。

「俺のことなんか、放っといてくれよ……一人ぼっちで、見捨てていてくれよ……」

喉から絞り出すように、スバルの涙声が静かな通路に空しく響く。

そのまま、どのぐらいの時間が過ぎただろうか。十数秒、数十秒、数分か。身動きの取れないスバルは、床に這いつくばるスバルは、ふと気付く。

微かな、本当に微かな震動が、床を通じてこちらへ迫ってくることを――。

「あ」

「――――ッッ」

瞬間、スバルは顔を上げ、目の前にくわっと開かれるトカゲの口腔を見る。

鋭い牙が並んだトカゲの口、それがスバルの方へ迫ってくる。そのまま、頭を噛み砕かれて死ぬのだろうかと、ひどく、他人事のような心地でそれを見て――、

「う――!?」

トカゲの大口が、スバルの左肩をくわえると、そのまま一気に走り出した。

体が浮かび上がり、強引に地面から引っ張り上げられる。トカゲの鋭い牙が肩口に食い込み、肉の抉られる痛みに思わず悲鳴が漏れた。

「ぎ、ぁ! ひ、ひぃっ!」

殺そうとしたのだ。殺されるかもしれない、そんな考えはあった。

だが、実際に肩に牙を立てられた今、生じた痛みへの恐怖は安っぽい覚悟を簡単に塗り潰す。肩を食われ、体中を食われ、咀嚼されて、死ぬのか。

生き物に食われて死ぬなんて、想像し得る中でも最悪に近い死に方だ。

その予感に、スバルの全身が怖気に震えた直後――、

「――――」

寸前までスバルがいた通路が、おびただしい量の黒い靄によって真下から吹き飛ぶ。

それは激しい衝撃音を粉塵をばら撒いて、通路の床と壁、天井を蹂躙し、なおも獲物を求めるように、スバルたちへと矛先を向けた。

――それが、スバルには黒い、黒い影でできた、腕のようにも見えて。

「影の、腕……」

脳裏を、階段でスバルを苦しめた女の姿が過る。

黒いヴェールで顔を隠した影の女は、スバルの心臓を徹底的にいたぶり、恐怖を刻み込んだ。その、女の纏った影に、目の前で溢れ出す影はよく似ていた。

それが、塔の通路を好き放題に蹂躙し、スバルと――逃げるトカゲを追ってくる。

「お前……ッ!」

トカゲは答えず、スバルをくわえたまま、猛烈な速度で通路を駆け抜けた。

進路と逆方向を向かされるスバルには、トカゲが懸命に逃げようとする先が見えない。代わりに、追ってくる影の猛威だけは直視できて、全身の血が凍り付いた。

あれに、あの影に呑まれることは、あるいは死よりも恐ろしい末路を迎えることだ。

直感的にそれを悟り、スバルは肩に食い込むトカゲの牙をより深く押し込む。痛みに喉が震えたが、振り落とされればおしまいの状況だ。

事ここに至って、トカゲへの嫌悪感など、何の役にも立たない執着でしかない。

「――――ッッ」

正面、通路が爆ぜる音がして、影がこちらの進路を塞いだ。

瞬間、とっさの判断でトカゲは道を切り返し、影に呑まれる寸前の横道へ飛び込み、濁流のような勢いで押し寄せる影を振り切らんと疾走する。

しかし、そうして影から逃れんと走り続け、飛び出した空間は――、

「――っ! 螺旋階段……っ!」

四層と、五層とを繋ぐ巨大な螺旋階段、その空間へと飛び出してスバルは絶句する。

無論、それは四層の高みから、はるか下である五層が見える事実――一度は自分が転落死した景色を目の当たりにする恐怖もあったが、それだけではない。

眼下、五層から四層へと上がってくる階段が、黒い影に呑まれ、沈んでいく。

つまりは塔全体、その下半分を、膨大な量の影が包み込み、沈めようとしていたのだ。

「下には逃げられない……だってのに、後ろも……」

塔の下はすでに影の手中にあり、逃げてきた通路の奥からも黒い濁流が迫ってくる。

万事休す、完全に追い詰められた状況だ。

あとは影に呑まれるか、それ以外の方法で死ぬかの、理不尽な選択肢しか。

「――――」

一瞬、自死の可能性が頭を過った。

あの影に呑まれるぐらいなら、自ら死を選んだ方がマシではないか。そして、ひょっとするとスバルには、死んでも可能性が残されるかもしれないのだ。

「あ、ひ」

自死を強く意識した途端、スバルの全身ががくがくと震え始める。

万一、自死を選んで、それで終わったらどうする。今の自分がやり直した結果であると漠然と考えているが、それが事実だという保証があるのか。

あるいは最初に考えた通り、予知夢でなかったとどうしていえる。前回までは痛みを伴う予知夢であり、今回が最後の一回だとしたら、それで終わりだ。

そもそも、何故、自分が死ななければならない。

何も悪いことなんてしていない。この状況で、命を支払うのが、何故自分なのだ。

「嫌だ……死にたくない!!」

恥も外聞もなく、スバルは泣き叫んだ。

それを聞き届ける人間は、塔内に一人もいない。死人と、行方不明者しかいない。

だから、それを聞き届けたのは、人間でなかった、漆黒のトカゲだけだった。

「――――ッ!」

牙にスバルを捉えたまま、トカゲが喉の奥で咆哮を爆発させる。

直後、トカゲは凄まじい加速を得て、背後から迫る濁流を逃れるように、一気に螺旋階段の空白へと身を躍らせた。

「――――」

当然、どれほど勢いのついた跳躍であろうと、いずれは勢いを失い、重力に捕まり、自由落下のままに、眼下の影へと呑み込まれる。

しかし、トカゲはその絶体絶命の状況を、事態の変化と驚くべき方法で打開する。

「――――ッ」

トカゲの二本の足、その鋭い先端が塔の壁に突き刺さる。無論、壁に取り付いたところでいずれは落下は免れない。――その壁が、垂直であったなら。

喉を奮起させ、トカゲが壁をひた走る。

根本から影に呑まれることで、巨大な塔はわずかに傾き始めていた。ほぼ、垂直に等しいその壁を、斜めに傾いだその壁を、トカゲは強引に踏みつけ、踏破する。

「う、そだろ……っ」

何が起きているのか、振り回されるスバルには全体像が把握できない。

ただ、この黒いトカゲが生存のために、持てる力の全てを費やし、邁進していることははっきりと伝わってきた。

「お前――」

直後、トカゲが踏み切った場所を、黒い濁流が覆い尽くす。濁流は、呑み込むはずだった獲物の存在を探し、それが壁に取り付いて走るのを悟ると、その場所へと迸った。

瞬間、トカゲが身を翻し、押し寄せる濁流の攻撃をかろうじて避ける。激しい衝撃と颶風が生まれ、トカゲが避けた塔の壁に大穴が開いた。

「――――ッ」

一も二もなく、壁に空いた大穴へと、トカゲが身を滑り込ませる。

激しく左右へ揺すられ、スバルの三半規管は平衡感覚を失い、もはやまともに世界を捉えきれない。ただ、そんな中でも、トカゲの強引なその動きが、影の攻撃をスバルに当てないための配慮であるのと、自分自身の体を影に削られることへの配慮が全くされていないことは、わかった。

大穴を抜ける。直後、砂を孕んだ風に迎えられ、スバルの視界を黒が焼いた。

外気を浴びている。まさか、塔の外へと飛び出したのか。なおも、トカゲは傾いた塔の壁を駆け上り、影から逃れんと必死に、必死に――、

「――う、ぁ!?」

大きく、トカゲの細い首がたわめられ、次の瞬間、風を強く浴びる。

左肩に食い込むトカゲの牙が抜かれて、肉が削ぎ取られる痛みが目の奥で白い明滅を生んだ。しかし、その痛みと風の感覚に遅れ、全身が硬い感触にぶつけられる。

ぶつけられ、転がり、投げ出されて、息を吐く。目を開けた。

ちかちかと明滅する正面に、黒い夜空が垣間見えた。

「あ、え……?」

その想像の外にあった光景に、スバルは慌てて体を起こした。

周りを見る。それは、塔と同じ材質の空間でありながら、確かに外の空間であり――バルコニーのような、塔の外壁に付随するスペースであると見て取れる。

壁の穴を抜けて、壁を駆け上がり、この空間へとスバルを投げ込んで――、

「トカゲ……っ!」

戦慄に、スバルは自分が転がってきた方角へ駆け寄り、下を覗き込む。

そして、自分をその場所へ投げ込んだトカゲ、その末路を目にした。

――落下していくトカゲが、その鱗よりなお黒い影に呑まれ、消える。

理不尽な怒りにナイフを刺され、自分自身の痛みと恐怖を顧みず、スバルをこのバルコニーまで投げ込んで、そのまま、トカゲは、影に。

死よりも恐ろしい末路が待つ、影に、呑まれた。

「なん、なんだ」

なんなんだ。なんなんだ。なんなのか。

スバルには、もう、何もかもがわからない。

「――――」

バルコニーから、影に呑み込まれていく塔の下部を眺めるスバル。ふと、そのスバルの傍ら、バルコニーの外縁に一羽の白い鳥が止まった。

感情のない眼差しで、スバルを見ている白い鳥――大きな鳥の存在に、スバルは「は」と息をこぼした。

死んだ容疑者、姿の見えない容疑者、命懸けで助けてくれるトカゲ、この状況で突如として現れる白い鳥――少しずつ、少しずつ、影に呑まれ、消えていく塔。

「――――」

終わりが迫ってくる感覚を味わいながら、スバルは脱力して座り込む。

ああも必死に、トカゲがスバルを助けようとしてくれたのは、わかる。わかるが、その想いは無駄になる。――ほんの少しだけ、死に逝く時間が延長されただけで。

「――――」

へたり込むスバルは、ふと顔を上げた。

背後に、不意の気配があった。鳥でもなく、トカゲでもなく、影でもない。

生きた、何者かの気配が、立った。

「……お前は、なんだよ」

振り返る余力もないままに、スバルは弱々しい声で問いかけた。

その声に、微かに喉を震わし、背後に立った誰かが笑った。聞いたことのない声で。

「――次、当ててみなよ、英雄」

瞬間、風音がして、スバルの視界が高々と跳ね上がり、くるくると回転する。

ひどく、自分の体が軽い。鳥のように空を上がり、気付いた。

誰かが後ろから、スバルの首を刎ね――、

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――スバル! ねえ、スバルってば、大丈夫なの?」

刎ねられたはずの首の接続と、意識の切り替えは一瞬の出来事だった。

柔軟な感触の蔦のベッドの上、目を覚ましたスバルを出迎えたのは、どれだけ懸命に探しても見つからなかった、銀鈴の声音と、その持ち主だ。

「えみ、りあ……」

「ああ、スバル、よかった。目が覚めたのね。すごーく心配したんだから」

うっすらと、瞼を開けたスバルの前に少女――エミリアの安堵の表情がある。彼女は目を覚ましたスバルの様子に胸を撫で下ろし、その唇に微笑を刻んでいた。

「――――」

その、エミリアを見ていて、細く美しい首がやけに目に眩しい。

スバルはどこか渇いた感覚のままに、そっとエミリアの細い首に両手を伸ばした。細い首は容易く、スバルの両手の中に収まりきる。

「スバル? どうしたの?」

きょとんと、スバルに首を握られるエミリアが目を丸くする。

スバルの仕草に驚いてはいるが、それを拒否しようという動きはしていない。その気になれば、スバルが全力を込めるだけで、きっとこの首は簡単に折れてしまう。

命を握られているのに、エミリアの反応はやけに鈍くて、いっそ――、

「エミリア、どうやらスバルは寝惚けているみたいかしら。ベティーたちに心配をかけたわりに、悠長なことなのよ」

「――っ」

途端、すぐ傍らからかけられた声に、スバルはエミリアの首から手を離した。

見れば、ベッド脇で短い腕を組み、呆れた様子で鼻を鳴らすベアトリスと目が合う。彼女の言葉に、エミリアは「そうね」と苦笑して、

「でも、寝惚けてるくらいなら全然いいの。もっと、大変なことになってたらどうしようって……倒れてるスバルを見つけたとき、ベアトリスも泣きそうだったんだから」

「言わなくていいことまで言わなくてもいいかしら!」

ベアトリスが顔を赤くして、悪気のないエミリアの発言にぷんすかと怒る。

そのやり取りを交わす二人は、今しがた、スバルがどんな衝動に囚われていたか、全く理解していない。それ以前に、危険な状況であることへの自覚がない。

スバルへの態度にも、それは如実に表れていて――、

「――つまり、ここは」

また、スバルが、『ナツキ・スバル』が記憶をなくした直後――言い換えれば、ナツキ・スバルが異世界召喚されたと認識できた瞬間、その場所へと舞い戻ってきたのだ。

そして、それは同時に――、

「――――ッ」

「――! お前……っ」

微かな嘶きと息遣いに、スバルは慌てて振り返り、その姿を視界に入れる。

緑色の部屋の片隅に、お行儀よく座り込んでいる黒い巨躯――影に呑まれる寸前まで、スバルのために奔走してくれたトカゲが、そこに悠然と佇んでいて。

「……なんだか、釈然としないのよ。スバルを見つけたのは、ベティーとエミリアの手柄のはずかしら」

「ふふっ、拗ねないの。いいじゃない。スバルとパトラッシュ、すごーく仲良しで」

背後、そんなエミリアとベアトリスの会話が聞こえてくる。

しかし、スバルはその二人の会話に反応もできずに、ただ、目の前のトカゲの大きな体に抱き着いて、その存在がここにあることに感謝した。

――あの場所で、唯一、スバルを傷付けなかった存在に、感謝していた。

第六章43 『生者たちの塔』

――考えろ。

考えて、考えて、考えて、考えて、考えなくてはならない。

「――――」

硬い、ざらつく鱗の感触に全身で抱き着きながら、ナツキ・スバルは思考する。

自分の身に起きている出来事、塔内でいったい何が起ころうとしているのか、自分を殺そうとする人間、自分以外の誰かを殺そうとする人間、敵と、味方の区別――。

「スバル、もういいのよ? そろそろ落ち着いたかしら?」

「――――」

ふと、錯綜する思考の後頭部から声をかけられ、スバルはゆるゆると振り返る。見れば声をかけてきたのは、蔦のベッドに腰掛けるベアトリスだ。

不機嫌そうな顔の少女は、並んで座ったエミリアと手を繋ぎながら、足をぶらつかせてスバルの方を睨みつけている。――その視線に、微かに頬が強張った。

ほんのわずかでも、負に相当する感情を向けられた心地で――、

「こーら、ベアトリス。そんな言い方しないの。スバルだって寝起きで驚いちゃったんだろうし、パトラッシュに抱き着いちゃうのも仕方ないと思うの」

しかし、そんなスバルの見当違いな考えを、エミリアが微笑みながら否定する。彼女の指摘を受け、ベアトリスはぷいと顔を背けると、

「別に、怒ってるわけじゃないのよ。ただ、釈然としないだけかしら。スバルを心配してたのはベティーやエミリアも同じで、その地竜だけ特別ってわけじゃないのよ」

「ふふっ、そうね。心配かけられたのはホント」

顔を背けたベアトリスの頭を撫でて、エミリアが眉尻を下げながらスバルの方を見た。その紫紺の瞳の輝きを見て、スバルは息を詰める。

深い、親愛が覗く眼差しに胸が痛んだ。――同時に、奇妙な焦燥感も募る。

思い出したのだ。自分がここで、『ナツキ・スバル』を望まれていることを。

そして、その重荷を背負い切れないと不安に駆られていたことも。

だが、しかし――、

「――ええと、心配かけて悪かった。ごめん、超謝るよ。なんか、寝惚けて女の子に抱き着くってのも俺のキャラじゃないし、これも照れ隠しってことで」

硬くなった頬を柔らかくして、スバルは弛緩した笑みを浮かべてそう答える。その返答にエミリアとベアトリスは顔を見合わせると、

「でも、パトラッシュも女の子よ?」

「うぇ!? いや、ほら、パトラッシュは特別枠っていうか、そういう対象とは別の絆を結んだ対象っていうか、シード枠で無条件二回戦進出っていうか」

「む、それは聞き捨てならないかしら。そうやって、その地竜だけ特別扱いされるなんて納得がいかないのよ。釈明を求めるかしら」

「同じ土俵に立とうとすんなよ! その、地竜……とさ!」

ますます不満げな顔をし始めるベアトリスに、スバルは二人の反応を慎重に窺いながら答えを返す。その受け答えに、二人はさしたる違和感は抱いていない様子だ。

そのことに安堵しつつ、スバルは首筋を撫で続けていたトカゲ――否、パトラッシュへと振り返り、

「……ホントに、お前だけは特別枠だよな、パトラッシュ」

「――――」

小さく喉を鳴らして目をつむる、黒い地竜の頭にスバルは額を合わせた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「それでスバル、本当に体調は大丈夫なの?」

「ああ、大丈夫大丈夫、ノープロ。心配かけて悪かった。たぶん、疲れが溜まってたんだと思うよ。寝落ちなんてよくある話だからさ」

「そう。……でも、疲れてるなら言ってね? 無理は禁物だから」

軽く手足を回しながら、調子よく答えるスバルにエミリアが念押ししてくる。その言葉に「了解、隊長」とおどけて返事しながら、スバルは思考をフル回転させていた。

今、スバルはエミリアとベアトリスを連れ、塔の四層を歩いている。

目的地は四層の広間であり、目的は食事――つまるところ、火急の要件は抱えていないという体で三人は歩いていた。

今回、スバルは意図的に、前回までとは違った行動を取ることを心掛けている。

すなわち――自分が記憶喪失であることを、エミリアたちに打ち明けていないのだ。

「――――」

それは言い換えれば、他人に成り済ますに等しい状況だ。

高まる緊張に乾く唇を舌で湿らせ、スバルはつぶさにエミリアたちの様子を観察する。

まだ、彼女たちにとっての『ナツキ・スバル』がどんな人物像なのか、万全に見極められていない。そんな状態で他人をトレースすることなど不可能なはずだが、本来ならば成立しないだろう条件、『自分に成り済ます』であれば話は別だ。

――どこまでいっても、『ナツキ・スバル』はナツキ・スバルでしかない。

一年、異世界で過ごしたところで、その人間性の根幹は変わったりはしない。ならば、あとは関係性にだけ注意すれば、十分に同じ人物像をなぞれるはずだ。

そして、『ナツキ・スバル』をトレースしながら、何が起きるか逆に見極めてやる。

この塔で何が起きて、誰がスバルを殺し、誰が誰に殺されるのかを。

ひとまず、スバルは『記憶喪失』である事実を伏せることで、自分を『死』に追いやるトリガーの可能性を一つ検証する。すなわち、相手はスバルが記憶喪失だから殺すのか、それともそれが関係ないのか、だ。

とはいえ、正直これにはあまり期待していない。スバルの記憶の有無――あっては困るが、なくなって困るという状況は想像しにくいためだ。

ただ、そこには一部、例外もある。

「犯人が、俺の記憶が戻られたら困る奴だった場合とか」

以前、何かの映画で見た覚えがある。

殺人現場を目撃した目撃者が、何らかのショックで記憶をなくしてしまう。現場を見られた犯人は記憶が戻られては困る。だから、その目撃者を殺そうとする、的な映画だ。

同じような状況が、今のスバルの身に起きている事態は十分に考えられる。そもそも、スバルが記憶を喪失した経緯が曖昧で――、

「エミリア、俺は三層の書庫で倒れてるのを見つけたんだよね?」

「うん、そうよ。書庫の床に倒れてて……ベアトリスと、大慌てで緑部屋に担ぎ込んだの」

「まぁ、エミリアがスバルをひょいと担いでくれたから、ベティーは後ろで応援してるだけだったのよ」

嘆息まじりのベアトリスの補足に、スバルはエミリアの細腕を見やる。

落ち着いて考えると、この二人があの書庫からスバルを緑部屋へどうやって運んだのかは謎だった。ベアトリスが力仕事に役立つ気配は微塵もないし、今の台詞を真に受けて、このエミリアがスバルを軽々と運んだなんて眉唾を信じるのもどうかしている。

「――? どうかした?」

「ううん、何でもない。とにかく、助かったよ。何度も言ってるけど、ごめん」

「ごめんじゃなくて、ありがとうの方が嬉しいってば」

謝罪に頭を下げると、エミリアが下げようとしたスバルの額を掌で押さえる。そのすべらかな指の感触に目を丸くして、スバルは「そうかもね」と何とか返事した。

これまでにも思ったが、エミリアの距離感はスバルには少し刺激が強い。わりと遠慮なく近付いてきたり、触ってきたりする。

考えてみると、スバルは目覚めた瞬間、彼女の首に両手をかけたりもした。それでも、彼女はきょとんと、平然とした顔でスバルを見つめていたが。

「いったい、ここでどんな生活をしてれば、この子とそんな距離感になるんだよ……」

あるいは、エミリアは恐ろしく整った外見に反して、異常に馴れ馴れしいだけか。きっと誰に対しても優しく、愛されて育ったために壁を感じていないのだろう。

苦労知らずの箱入り娘――そんな印象を持てば、この距離感にも納得がいく。

辛い目に遭ったり、後悔の一つも背負ったことがなければ、他人の善心だけを信じて、綺麗な目をしたままでいられる。――あるいは、それすらもポーズなのか。

「――――」

隣り合ったエミリアやベアトリスを眺めながら、スバルは深く考え込む。

単純に、そう単純に考えた場合、前回の塔の惨劇とスバルの最期において、一番警戒に値する容疑者は、このエミリアとベアトリスの二人なのだ。

シャウラの死体を、エキドナの死体を、ラムと、ユリウスとメィリィの死体を見た。

パトラッシュに助けられ、傾く塔の外へ連れ出されたスバルは、そこで背後に立った何者かに首を刎ねられ、命を落とした。――二人の死を、見ていない。

無論、二人が共謀したところで、残った五人の殺害が可能かはわからない。それでも難しいのではないか、というのがスバルの見立てだ。

だが仮に、ここにもう一人――三人目が加われば、話は変わってこないだろうか。

『――次、当ててみなよ、英雄』

知らない声が、最後にスバルにそう言ったのを覚えている。

激動の最中、混乱の渦の中、もう終わってしまいたいと絶望する中で、聞いた声。

あれが、エミリアとベアトリスに協力する第三者――書庫から、緑部屋へとスバルを運び込んだ見えない三人目の正体ではないのか。

だから二人は、そんな出鱈目な嘘なんかついて――、

「あ、スバル、いきすぎよ?」

「う、お?」

考えながら歩いていたせいで、どうやら目的の部屋を通り過ぎていたらしい。部屋の前で立ち止まったエミリアが、前を行くスバルの肩を掴んで引き止める。

瞬間、スバルは奇妙な違和感を覚え、自分の肩を掴むエミリアの手を見た。それから、彼女の手を取って、握手する。

「スバル? いったい、何をしてるのかしら」

「いや、ちょっとした実験……エミリア、力比べしないか?」

「え、危ないからやめた方がいいと思うけど……」

握手自体には何の抵抗感もなく、エミリアが力比べには拒否感を示す。その態度に、スバルはますます確信を得て、力強く「頼む」と言った。

エミリアの細腕にスバルを担ぐ力がないなら、先の推論はかなり強固に保証される。そして今、エミリアは自分が疑われているとは思っていないはずだ。

このアドバンテージを活かすには、この瞬間しかチャンスがない。

「頼む、必要なことなんだ」

「……スバルがこんなに真剣なんだから、きっと大事なことなのよね」

スバルの懇願を受け、悩んでいたエミリアが唇を引き結ぶと、決意の表情で頷く。

それを見て、スバルは「かかった」と内心で拳を固めた。あとは彼女の非力を証明してやれば、スバルの推論は大きく前進する。

「じゃあ、危なくないように引っ張りっこってことにするのよ。それでいいかしら?」

「ああ、OKだ」

「ん、わかった」

ベアトリスの指示に従い、スバルとエミリアは握手したまま距離を開ける。互いの右腕を握り合ったまま、二人は真っ直ぐに互いの瞳を見つめた。

そして――、

「レディ、ゴーなのよ!」

ベアトリスの掛け声があり、スバルは力一杯にエミリアの腕を引き寄せた。

「うおおおおお――っ!!」

リンゴを握り潰す握力、特に目標もなく竹刀を振り続けた握力、腕立て伏せは何となく欠かさずに続けた腕力、男と女の身体能力の差、その全てを戦いに込めた。

――エミリアの腕は、びくともしなかった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

エミリアとベアトリスを疑うスバルの推論は振り出しに戻った。

ただ、それはあくまで、エミリアたちが第三者の力を借りなくとも、スバルを緑部屋へ運ぶことができたということが裏付けられただけで、彼女たちの容疑が晴れたことを意味するわけではない。相変わらず、スバルは彼女たちの死体を見ていないのだ。

あの、塔の大虐殺――その事態の犯人が、別にいるとはまだ決まっていない。

「結局、純粋に、あの最後に出てきた奴が犯人ってことなのか?」

あれが、スバルを殺したことは間違いない。

しかし、塔を呑み込んだ影や、その手前にあった皆の虐殺まで奴が犯人なのか。殺されたものは皆、殺され方がそれぞれ違っていた。あの説明はどうなる。

パッと見てわかりやすい死に方は、鋭いものでバッサリとやられたエキドナと、傷が重なったユリウス、失血死したメィリィといったところか。

皆が、誰かと戦って死んでいたことは疑いようがない、はずだが。

「それで、あの悪ふざけはいったい何だったの?」

と、考え込むスバルに呆れたような声がかけられる。

それは、朝食の準備をしているラムだ。合流した彼女は保存食と水を配膳しながら、スバルのやっていた実験――エミリアとの力比べの説明を求めてくる。

推論を立証するための力比べは、スバルがエミリアに惜敗する形で幕を閉じた。その終わりの切っ掛けをくれたのが、広間の前で合流したラムだ。

彼女は顔を赤くするスバルの奮闘を見ると、「馬鹿じゃないの?」の一言でそれを終わらせたのだった。

「あれは、スバルにお願いされたの。よくわからないけど、きっとすごーく大事な意味があったのよ。ね、スバル」

「そうですか。ラムには理由をつけて、エミリア様の手を握りたかっただけのようにしか見えませんでしたが」

「それは穿った見方すぎるだろ! 何なら、次はお前が俺と力比べするか!?」

「いやらしい」

「なんでだよ!」

スバルを庇おうとしたエミリアに、ラムがひどく俗悪な印象で物を言った。それを払拭しようと突っかかると、余計に立場が悪くなる。まさしく悪循環。

「ハッ!」

そう鼻で笑い、ラムは配膳の方へと意識を戻した。その後ろ姿を眺めながら、スバルは自分の、今の態度が違和感を与えていないようだと密かに安堵する。

まだ、彼女たちの知る『ナツキ・スバル』から乖離した態度は取っていないらしい。それにホッとする反面、呆れもする。

そうやって、少しでも意識を別の方向へ傾けておかないと――、

「うぷ」

一瞬、込み上げてきた嘔吐感を堪え、スバルは口に手を当てる。

その原因は、こちらに背を向けてせっせと作業しているラムだ。――彼女の後ろ姿が、スバルの瞼に焼き付いた、あの死に様と瞬きするたびに重なる。

後ろから、片腹が吹き飛ぶような一撃を受け、絶命していたラム。

憤怒と無念が塗り固められた死相は、彼女の可憐な表情を呪いで引き歪め、目にした全てを八つ裂きにせんとする慟哭を魂に刻み込んだ。

その死相の主が、こうして目の前で動き、確かな命を宿している。

正直、広間で最初に彼女と出くわした瞬間は、その違和感と現実との齟齬を受け入れるのに必死だった。

直前にエミリアとの力比べで力んでいたおかげで、立ち眩みを起こしたと、へたり込んだことの言い訳ができてホッとしたぐらいだ。

ただ、見ておかなければならなかった、ラムの表情を見落としてしまった。

「――――」

奥歯を噛みしめて、スバルは強い自制を自分へと意識させる。

ここから、広間には続々と塔内の関係者たちが集まってくる。その、一人一人の表情を見落としてはならない。――ともすれば、それが事態を打開する鍵になるのだから。

「うひゃー、いい匂いッス~! 爽やかな朝に贅沢なご飯! あーし、このために生きてるって実感するッス~!」

などと、うるさく言いながら最初の一人が広間へと姿を現した。

長く黒い三つ編みを揺らし、豊満な体を惜しげもなくあけすけに晒した美女――その首から上を、確かに胴体と繋げたままで、シャウラが広間に現れた。

彼女はラムの用意する食事を眺めていたが、部屋の奥にいるスバルに気付くと、

「お師様! おはようッス! 昨日はよく寝れたッスか~?」

パッと表情を明るくして、まるで子犬のような元気さでこちらへ駆け寄ってくる。そしてスバルの腕を取ると、その胸にぎゅっと抱きしめてきた。

「う……」

「ちなみにあーしはめちゃめちゃよく寝たッス! 久しぶりに昔の夢とか見ちゃったッスよ~。あーしとお師様と、かか様とそれからそれからぁ……」

「あー、わかった、待て。夢の話はそのうちちゃんと聞いてやるから。……お前、今朝の俺を見て、なんかないか?」

「えー、またそれってえらくふわっとした質問ッスね。めっちゃお師様!」

抱きしめられた腕を何とか振りほどいて、スバルはシャウラから逃げつつ質問。それを受け、シャウラはにへらと悪意を感じない顔で笑い、

「ショージキ、お師様見て何がどうってことはないッス! いつも通り、昔の通り、あーし的には最高に色男ッス! プロポーズ四百年待ちッス!」

「気が長ぇ話だな。……冗談はともかく、何もないならいいんだ」

「――? そッスか? なら、あーしも気にしないッス~」

望んだ反応はなく、スバルはいくらかの落胆と、それ以上の安堵を覚えながらシャウラへの疑念を引っ込める。

そうしていると、続けて次の容疑者、メィリィが部屋にやってきた。

「ふわあ……おはよう。今朝も眠たいわねえ……」

入口を抜ける少女は、口に手を当てて可愛らしく欠伸などしている。それでも、面倒な身嗜みなどちゃんと済ませてあるあたり、少女の美意識には頭が下がる。

顔を洗い、髪の毛を乱しておくだけでいいスバルとは大違いだ。

それはともかく――、

「おはよう、メィリィ。今朝はお寝坊さんだったのね」

「落ち着いて考えると、わたしがお姉さんたちに合わせて寝起きしてあげる理由ってない気がするのよねえ。別に、この塔のことってわたしに関係ないんだしい」

「性格の悪いことを言い出す娘なのよ。大体、ベティーたちが塔を出るための試験を終わらせなきゃ、お前だってこの塔を出られないかしら」

「まあ、それはそうなんだけどお……あ」

欠伸の言い訳を聞き咎められ、ベアトリスの意見にメィリィが唇を尖らせる。と、彼女はその途中で壁際のスバルとシャウラに気付き、微笑みながら手を振った。

その様子にスバルは眉を上げ、それから手を振り返す。

「さすがに、死んでた子どもまで疑うのは考えすぎ、か……?」

「お師様、困ったときは基本に立ち返るッスよ。まずは、ジャブの打ち方からッス」

「……それ、何の教えだ?」

「お師様の教えッス」

「道理で役に立たないと思った」

独り言を聞きつけられ、スバルは内心ひやひやしながらシャウラの軽口を躱した。

ともあれ、メィリィからも望んだ反応は得られなかった。となれば、残すところ、この方策が実を結ぶか試せるのは二人だけ――、

「――おはよう」

そこへ、一行の最後の二人が一緒に広間へやってくる。

エキドナと、ユリウスの二人だ。白い狐の襟巻きをしたエキドナは、ユリウスを引き連れて堂々と広間へ足を踏み入れる。

代わる代わる、エミリアやラムたちが彼女に挨拶し、朝の一言を交わしていく。

そんな中だ。

「――――」

エキドナの後ろに続いたユリウスが、部屋の奥に佇むスバルを見て、頬を硬くした。それから、彼はふいと視線を逸らし、スバルを意識の外へ追いやった。

「――お前か」

その反応は、スバルが求めていたそれにかなり近い。

そして、他の人間が誰一人、そうした反応を見せなかった以上、最も可能性が高いのは、露骨な反応を見せた彼であると言わざるを得ない。

「……シャウラ、ちょっと頼みがある」

微かに、にじるようにスバルはそう呟いた。

そこには、絶えることのない怒りの炎と、煮詰めたような憎悪の名残りがあった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――広間での朝食は、エキドナ=アナスタシアの説明会へと終始した。

驚くエミリアたちの反応を横目に、初耳だという顔をしながら、スバルは自分の『記憶喪失』の話がない場合、こうした風に世界は進むのかと感心していた。

ここまで、現実感のなさや事実の誤認が重なり、スバルは『死に戻り』をする自分の特性をほとんど把握できていない。ただ、よく物語にあるタイムリープと同様に、スバルと関与しない問題は同じように進み、関わった問題には変化が生まれるのだと理解する。

つまり、前回までは『記憶喪失』として話に中核で関わってきたため、アナスタシアという少女の体にエキドナという存在が宿っている事実、そこを深く掘り下げる話題にはなかなか入り込めなかった。

もっとも今回も、その問題の解決法が見出せるようなことや、新たな事実が判明するようなことは起きない。変化は、スバルの行動でしか発生しないと考えられる。

劇的に事態を進めたいなら、積極的にスバルが行動し、関わる以外にないのだ。

だから――、

「――ユリウス、ちょっとお前に話がある」

朝食が終わり、各自が広間を出ようとしていたところで、スバルはユリウスを呼び止めた。呼びかけに足を止めたユリウスが、スバルの方へと振り返る。

やや彼の方が背が高いため、間近で向き合えばスバルが相手を見上げる形だ。だが、その威圧感に負けじと、スバルはいっそ胸を張り、ユリウスと睨み合った。

その意気を見て取り、ユリウスは薄い唇から疲れたような吐息をこぼすと、

「何かな? エミリア様の提案で、昼までは休息とするはずだが?」

ユリウスの言葉は、朝食の席でのエミリアの提案を受けたものだ。

どうやらエミリアは、スバルが疲れて書庫で眠っていたという意見を殊の外重く受け止め、全員の見えない疲労の蓄積を気遣ってくれたらしい。

実際、スバルの記憶にはないが、この一行は数日前に砂漠越えを果たしたばかり。

ほんの数歩でスバルが挫折する羽目になった砂漠越えだが、それを成し遂げるには相当な苦労があっただろう。エミリアの意見に異を唱えるものはいなかった。

これも、スバルの発言から引き起こされた変化と言えるだろう。些細な一言が、その日のスケジュールを狂わせることもある。言動には気を付けなくてはならない。

その反省を胸に、スバルはユリウスと真っ向から対峙する。そして、彼の言葉に対して顎を引くと、言った。

「昨日の夜のことで、話がしたい」

その一言の効果は劇的だった。

「――――」

スバルの言葉を受け、ユリウスの黄色い瞳を複雑で膨大な感情が過っていく。

その効果覿面といった反応を見て、スバルは自分の推論に確信を深めた。

「きな。場所を変えようぜ」

「――わかった」

顎をしゃくったスバルの誘いに、ユリウスが観念した風な様子でついてくる。

そのまま、スバルはユリウスを連れ、四層の適当な部屋を会談の場所に選んだ。当然、他の人間は割り込ませない、内密な話し合いだ。

「さて、何から話すかな……」

それほど広くない部屋の中、スバルは振り返ってユリウスと対峙する。

微かな緊迫感はあるが、それを表に出すようなポカはしたくない。ある程度、精神的に優位に立っているはずという考えが、スバルに勇気を奮い立たせた。

一方、ユリウスの方の表情は複雑で、その内心を読み解くのは難しい。ただ、穏やかならぬ心地にあることは、先の朝食の場からずっと引き続いていると見えた。

「とりあえず、昨日の夜のことか」

ひとまず、と前置きするような素振りで、スバルはいきなり本題へと切り込む。

現状、精神的な優位はこちらにあるが、情報的優位は圧倒的に相手にある。そもそも昨夜の出来事は、スバルにはあまりに未知な部分が多い。

ただ、おそらく昨夜、スバルとユリウスは書庫で何かあったに違いない。

その『何か』の結果、スバルは記憶をなくしたのではないか、そう考えていた。

「昨夜のこと、か」

スバルの言葉を繰り返し、ユリウスが長い睫毛に縁取られた瞳を閉じる。瞑目する美丈夫を前にしながら、スバルは意識的に深く長い呼吸を繰り返した。

呑まれてはならない。少なくとも、気持ちは負けられないのだ。

「あの話はあの場で終わったものと、少なくとも私は考えているが、君は違うのかな?」

「――。ああ、違うね。全然全く、俺は納得しちゃいねぇよ」

話に乗ってくるユリウス、それを受け、スバルが会話を合わせる。

ユリウスの声は抑揚を殺し、言わば、感情を必要以上に出さないように注意したものだ。当然、それを受ける側のスバルは、こうして噛みつく選択肢を選ぶ。

「納得、か。なるほど、君らしい言い分だ。つまり、こちらの心情は後回しにして、自分の方の問題を解決したいと? それは、いささか勝手が過ぎるのでは?」

「微妙に食い違うな、そんな話をしてるわけじゃねぇ。確かに俺は納得しちゃいねぇが、お前が納得してるって面かよ? 両方とも腹にイライラしたもんを抱えてるってのに、そんなことはありませんって平気な顔でいろってか? できるかよ」

「――ならば、いったい他にどんな選択肢がある」

静かに、感情を抑制するユリウス。しかし、徐々に声には感情が溢れ始める。

スバルの方も、詳しい事情を知らないままながら、ユリウスの表情と声色に、スバルに対する隠し切れない激情、その余波を感じて腹の底が燃えてきた。

どんな選択肢が、それを聞きたいのはスバルの方だ。

ユリウスはその激情を抱えたまま、スバルに対してどんな選択肢を取ったのか。そしてスバルはユリウスに、どうやってその選択肢を選ばせたのか。

「私の想いは昨夜も告げた通りだ。そして、それ以上を伝えるつもりもない。君と、アナスタシア様……エキドナとの密通に、私はまるで気付かなかったのだから」

「俺と、エキドナの密通……?」

思わぬ事実が飛び出してきて、今度はスバルが虚を衝かれる。

今のところの情報では、スバルはあくまでエミリアをトップとした集団に加わっている身のはずだ。ユリウスとエキドナ――この場合、エキドナの体の本来の持ち主であるアナスタシアとが主従であり、大きな目で見れば彼女らとは敵対関係にあるとも聞く。

だが、そのエキドナと、あろうことかスバルが密通していたというのは。

「君に悪意がなかったことはわかっている。エキドナとも、十分とは言えないが言葉は交わした。彼女は信頼できる……いや、彼女を信じる以外に術はない」

「――――」

「アナスタシア様をお救いするには、その可能性を求める以外にないんだ。……取り戻せたところで、あの方が私を覚えていなかったとしても」

どこか、ひどく寂しげな口調でユリウスがそんな言葉を口にする。

ユリウスの、彼の事情はスバルも聞いている。

眠り続けるラムの妹や、別の町の多くの人間がそうであるように、ユリウスもまた、他者に忘れられる呪いのような憂き目に遭っているのだと。

仮にエキドナが体の支配権を持ち主に返せても、そのアナスタシアは、自分の騎士であるユリウスを覚えていない可能性が高い。

それでも――、

「――私のすべきことは変わらない。君が、いったい私から何を引きずり出したいのかはわからないが、あらかじめこれだけは伝えておこう」

「……なんだよ」

「後生だ。……これ以上、君の前で私を惨めにしないでほしい」

その弱々しい声に、スバルはとっさに言葉が出なかった。

「――――」

ただ、ひどく胸の奥がざわつく感覚だけがあり、スバルは押し黙ってしまう。

ユリウスはそんなスバルを見ると、微かに息を抜くように唇を緩め、

「どうやら、これ以上は不毛なやり取りにしかならないようだ」

そう言って、ユリウスはスバルに背を向け、部屋を出ていこうとする。そうして、部屋を出る直前、ユリウスは一度だけ足を止めた。

そして、こちらに顔を向けないまま、

「昨夜の話と言われ、少し怯えたよ。――君が、謝罪を口にしたらどうするべきかと」

「俺が、謝ったら……」

「そのときは、私は君になんと答えたのだろうね。それも、もうわからないことだが」

どことなく、自嘲の響きがある呟きを残し、ユリウスが部屋を出ていく。

その背中が見えなくなるのを見届けて、スバルは長く息を吐いた。ドッと、肩に重石を乗せたような疲れがあり、汗が噴き出してくる。

自分が、猛烈に嫌な人間になったような気がした。

「――お師様、あれでよかったんスか?」

と、そんなユリウスと入れ違いに、部屋の中を覗き込んだシャウラが顔を見せる。彼女のあっけらかんとした態度に、スバルは「は」と声を漏らす。

それから額に手を当てて、「いいんだよ」と首を振った。

「あの調子だと、たぶん、ユリウスは書庫とは関係ないっぽいな。……ただ、自分に対する不信感がまたちょっと募ったけど」

「よくわかんないッスけど、あーしはお師様のお役に立てたッスか?」

「――。ああ、立った。おかげで、安心してユリウスと向き合えたよ」

「えへへへー、そしたらよかったッス~。じゃ、じゃ、じゃ、お師様、お師様……」

頬を赤く染め、体をくねくねさせて喜んだシャウラが、スバルの方へ歩み寄ってくる。それから、彼女はおずおずと両手を広げて、

「ご褒美に、あーしのことをギュッと抱きしめてほしいッス」

「それはやだ」

「えええ!? ひどいッス! お師様、ご褒美のレベルを逸脱しなかったら、あーしの言うこと聞いてくれるって言ったッスよ!?」

「その願いは、俺の純情を超えている……」

スキンシップの過剰なシャウラの望みを、スバルはすげなく突っぱねる。

とはいえ、シャウラが控えていてくれたことが、ユリウスとの対峙で心の余裕を生んでくれていたのは事実だ。

ユリウスを呼び出すにあたり、スバルはシャウラを助っ人として隣室に控えさせた。

彼女を選んだ理由は、他の女子メンバーの中では一番運動能力が高そうだったことと、スバルに対する好感度から頼み事を聞いてくれそうだったことと、彼女なら細かい話を聞かなくても手伝ってくれそうだという打算の結果だ。

あとは、最初に死体を見つけた彼女は、容疑者の中でも一番、危険性が低いのではないかと見立てているのもある。

ともあれ――、

「ユリウスが、書庫で俺の記憶を奪った相手って案は的外れか……」

今朝、スバルを見たときの反応から、ほぼ間違いないと思ったが、その考えは外れた。

書庫で何があったにしろ、記憶がなくなるような出来事があったわりに、先ほどのユリウスはその件に全く触れていないし、かといって演技にしては感情が自然すぎた。

エキドナとの密通、それが『ナツキ・スバル』のどんな思惑によるものかは定かでないが、少なくとも、今のスバルが昨夜の自分に不信感を抱くには十分な理由だ。

記憶がなくなる以前に、ユリウスやエキドナと穏やかならぬやり取りがあったらしいことも含めて。

「お前、いったい何してて、誰に狙われてんだよ、『ナツキ・スバル』……」

「お師様ぁ、それなら逆にあーしの胸に飛び込んできてくれるってのはどうッスか? あーしがお師様を、このボインボインな体でハグするッス」

「その願い、純情越え」

「お師様いけずッス~!」

わからないといえば、このシャウラのスバルに対する異常な好感度もわからない。

何故、彼女がこうまでスバルを好いて慕っているのか、どうやらエミリアたち、他の面々もわかっておらず、都合よく使っているとの話だったが――本当にそうなのだろうか。

エキドナとの密通、昨夜の行動の不鮮明さ、そもそもの彼女たちとの関係――今、対話できない間柄なのも含め、スバルにとって最も未知の存在は『ナツキ・スバル』だった。

彼はいったいどんな思惑で、彼女ら彼らに相対していたのか。

――本当に、『ナツキ・スバル』は彼女らの仲間だったのだろうか。

「ヤバいな、考えが煮詰まってきた。……ちょっとパトラッシュのところにいくか」

とりあえず、落ち着いて考えられる場所にいきたい。そう考えたとき、今のスバルの脳裏に最大の味方として浮かび上がるのは、あの漆黒の地竜なのである。

ああも命懸けで守られてしまえば、記憶の有無に拘らず信じる以外にない。

「えー、あの地竜のとこッスか~? あの地竜、あーしのことぎろって睨むからあんまし好きじゃないッス」

「お前、パトラッシュの悪口は許さねぇぞ。この世の誰の悪口が許される世界になったとしても、パトラッシュへの悪口だけは俺が許さねぇ」

「お師様、あの地竜にどんだけ骨抜きにされてんスか!?」

シャウラが悲鳴のような声を上げるが、スバルはそれを一顧だにしない。

ともかく、今はパトラッシュの傍で安寧と思索に耽りたいのだ。どのみち、昼食後には本来の目的である塔の攻略が始まってしまう。

記憶がないことを隠している以上、それを止める手立てもないのだから。

「というわけで、俺とお前もここで解散だ。またあとでな」

「うえー、ご褒美もなあなあにされたッス。でも、あーしはそれでも挫けないッス。お師様にとって都合のいい女、それがあーしの存在意義ッス」

「――――」

部屋の前で別れようとしたところ、シャウラがそんなことを言ってビシッと敬礼する。その彼女の発言を受け、スバルは息を詰めた。

彼女に背を向けたまま、スバルは俯いて目をつむる。

「……そこまでする価値が、ナツキ・スバルのどこにあるんだよ」

「――? お師様?」

「――っ! ああ、クソ!」

湧き上がる苛立ちを堪え切れず、スバルはガシガシと自分の頭を掻くと、小首を傾げていたシャウラに向かって振り返った。

そして、棒立ちの彼女へ歩み寄ると、両手を広げて思い切りに細い体を抱きしめる。

「――っ」

「都合のいい女とか、そういうことは考えなくていい。俺が悪かった」

一方的に利用だけしようとして、スバルは『ナツキ・スバル』と同じになるところだ。

それを拒絶したスバルの行動に、シャウラが息を詰め、体を硬くした。

シャウラの身長は高く、背丈はスバルとそれほど変わらない。

それでも、腕を回した彼女の体は細く、しなやかさや柔らかさは自分の体のそれとは段違いだった。そんなこと、意識するような心の余裕はなかったが。

「お師、様……」

「お前がいてくれて助かった。……そんだけだ」

「――――」

たっぷり、三十秒ぐらいはシャウラを抱きしめていただろうか。

スバルは、そろそろいいかとシャウラの体を解放する。正直、照れ臭くはあったが、達成感の方が強い。あのまま、ただ貰い物を貢がれるだけの奴になるぐらいなら。

『ナツキ・スバル』と同じになるぐらいなら――、

「お師様ぁ……」

そう考えるスバルを見て、頬を赤くしたシャウラがふらふらと近寄ってくる。彼女の瞳は潤み、吐息はどこか熱っぽく、視線はスバルの唇を見つめていて、

「お師様、ついにあーしのこと、愛してくれる気に……」

「純情越え!」

「ぐえ!」

近付いてくる顎を掌で押し上げて、スバルはシャウラを正気に戻した。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「ご褒美をやったらやったで調子に乗るのか……塩梅が難しい奴だな……」

興奮したシャウラを何とか宥め、どうにか状況を脱したスバルはそう嘆息する。

結局、シャウラはあのあとも夢見心地のままだったが、「引き際を見極めておくのもいい女の条件ッス。シークレットメイクスウーマンウーマンッス」と引き下がった。

正直、そういう意味では全然ないのだが、突っ込むのも面倒臭かった。

「世の中にはニードナットゥノウってこともあるからな」

ともあれ、そんな呑気な一幕とは裏腹に、スバルの状況はあまり芳しくはない。

せめて、書庫で何があったのか、ユリウスをつつけば出てくるものと期待したが、それも見当外れに終わった今、またしても振り出しに戻ったも同然だった。

あるいは当初の想定通り、スバルの記憶が抜けたことに他者の関与はないのか。あとは表情を確認できなかったのはラムだけだが――、

「あいつが泣きそうだったのが、嘘泣きだったってなったらもうわからねぇよ……」

スバルが記憶をなくした話を、強硬に信じようとしなかったのがラムだ。

無論、それが演技である可能性や、何らかの関与があったことを認められない一心という可能性もないではないが、それを言い出せばキリがない。

何かを信じなければ、何かを疑うことも始められないのが実情なのだ。

その、ひとまずのスバルにとっての根幹が――、

「――今はパトラッシュ、ってことか」

言い切ってから、まるっきり人間不信に陥った人間の結論だなと自分で呆れる。

だが実際、その側面が強いことは事実だ。他人だけならまだしも、自分さえも信じ切れなくなった今、『人間不信』は根深いとしか言いようがない。

「いっそ、パトラッシュとか地竜だけがいる楽園で暮らせた方が幸せなんじゃ……」

「――あ、聞いちゃったあ」

「うえ!?」

と、そんな独り言を口にした瞬間、通路の曲がり角からぴょんと少女が飛び出した。青い三つ編みを躍らせ、くすくすと口に手を当てて笑うメィリィだ。

つまらない独り言を聞かれたと、スバルは彼女の姿にげんなりと肩を落とした。

「冗談か、戯言みたいなもんだ。まさか真に受けちゃいないだろ?」

「そりゃあねえ。でも、別にそれがお兄さんの本心でも笑ったりしないわよお。わたしだって、悪い動物ちゃんたちとだけ暮らしていける場所があったら、そこで暮らしたって構わないと思ってるものお」

「……ふーん」

バツの悪いスバルの言い訳に対して、メィリィはスカートの裾を摘まんで、上品なのか奔放なのかわからない仕草でそんなことを言う。

その返答を受けても、スバル的にはなんと答えたものかわからない。ただ、その気のない返事が彼女的にはお気に召さなかったらしく、

「あ、生返事するんだからあ。せっかく人が真面目に話してあげたんだから、ちゃんと聞かないのは悪い子の証拠だと思うわあ」

「そりゃ申し訳ねぇな。……お前、一人か? ベアトリスと一緒じゃないの?」

「やあだ、なんでわたしがベアトリスちゃんと? それって、むしろわたしの方がお兄さんに聞く質問だと思うけどお」

単純に、同じ年代の少女同士、つるんでいるものかと思っただけなのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。

確かに、ベアトリスはエミリアと行動を共にしていることが多い。――だから、疑惑についても二人はセットで、切り離して考えることができないのだが。

「まぁ、それならそれでいいや。とはいえ、俺もお前と遊んでやってる暇はないんだ。悪いけど、話し相手が欲しいなら別を探してくれ。向こうの方にシャウラがいるぞ」

「半裸のお姉さんと話すのもいいんだけどお、今はお兄さんに用事があるのよお」

「俺に?」

パトラッシュとの逢瀬、ならぬ考え事の時間を邪魔されたくなかったスバルだが、メィリィの思わぬ誘いに目を丸くしてしまう。

思えばシャウラ同様に、メィリィもスバルの中では何となく、エミリアたちと比べれば接しやすいポジションにいる少女だ。前回の最期でも、彼女の亡骸は見るに堪えないなんてほど壊された状態ではなかった。

眠るように亡くなっていた少女だったから、こうして直接相対していても、ショッキングな映像がそれほどダブらないで済む。心臓の鼓動も、落ち着いていた。

「俺に用事ってのはなんだ? 手短に済む話か?」

「ええ、別に長くは取らせないわあ」

そんな安心感があって、スバルはメィリィの話に耳を傾ける気になった。そして、聞く姿勢になるスバルに、メィリィは自分の唇に指を当て、その指先を舌で舐める。

子どもらしい見た目に合わない、どこか艶めいた仕草、それにスバルが眉を顰めると、

「――昨日の夜の話だけど、わたしはどのぐらい真剣に受け止めたらいいのかしらあ?」

そう、艶然とした微笑のままに、少女はスバルに言ったのだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――ん、あ?」

ふと、スバルは奇妙な意識の閉塞感から解放され、自分の首を押さえた。

息苦しさ、いがらっぽさのようなものが喉にあって、咳き込む。

「げほっ、げほっ……」

喉に触れながら、スバルは渇きに痛むような感覚を味わいつつ、何度も咳をした。

そうして、不意に気付く。

「あれ、俺は……」

――何をしていたのだったか。

確か、直前までユリウスと話していて、それからシャウラとの茶番があり、パトラッシュのところへ向かおうとして、途中でメィリィと――、

「いてっ……」

考えながら、自分の腕をさすったスバルは鋭い痛みに舌を鳴らした。

見れば、スバルの手――それも両手だ。右手と左手の両方、手首の上あたりに引っかき傷のようなものが刻まれ、痛々しい血が滲んでいるのがわかった。

「づっ、なんだこれ……!」

傷は結構に深く、しかし、傷口自体は歪な印象だ。

引っ掻き傷の表現は当たらずとも遠からずで、鋭利な刃物の傷では決してない。深々と爪を立て、肉を抉るような勢いで、力を込めた傷。

こんな傷、いったいどこで負ったのか――、

「――ぁ?」

痛みに顔をしかめながら、何か宛がえるものがないか、スバルは周囲を見回した。そして、自分が四層に多数ある、似たような石造りの一室にいることに気付いて、それから、それに気付いてしまった。

「――――」

床に、白い足が投げ出されている。

足は動かず、だらりと力が抜けた状態だ。視線を、その足先からゆっくりと上へ向けていくと、すぐにスカートがあり、上半身が見えて、それから。

それから――、

「――は?」

それから、そこに、ぴくりとも動かなくなった少女が、倒れていた。

――メィリィが息絶えた状態で、スバルの眼前に倒れていた。

第六章44 『血の勲章』

石造りの部屋の中、スバルはだらりと四肢を投げ出した少女を目の前に、呆然と自分の両手を見つめていた。

「――――」

何が起きたのか、全く理解が追いついてこない。

手首には傷があり、喉はいがらっぽく、心臓の鼓動は馬鹿に速い。だが、それらはいずれも記憶と直結せず、脳の空白地帯に生まれたバグか何かとしか思えない。

その肉体的な物証とは別に、精神が、魂が、状況に置き去りにされている。

ただ一つ、はっきりと言えることがあるとすれば――、

――眼前に横たわる少女の命の灯火は、すでに絶えてしまっているということだった。

「――っ、あ、きらめるのはまだ、早い」

呼気を乱しながら、スバルは頭を振り、仰向けに倒れる少女の下へ駆け寄った。

一歩、踏み出すことに足が重く、靴裏が床に張り付いているかのように行動は鈍い。どうにか靴を床から引き剥がし、少女の――メィリィの傍らに屈み込んだ。

「――――」

メィリィはぽかんと口を開け、白く細い手足を投げ出してぴくりとも動かない。

その表情は呆気に取られたようにも見え、光を宿していない双眸はどこか遠くへぼんやりと焦点を合わせている。

元々、捉えどころのない印象を抱かせる少女だったが、今の姿はよりその印象を強めていて――。

「め、メィリィ……おい、メィリィ!」

呼びかける。

反応はない。

声でダメならばと、スバルはメィリィの肩を揺すり、掌で頬を軽く叩く。

やはり反応はない。開かれた瞼は瞬きすらしない。

「め……」

呼びかけを中断し、スバルは息を詰めると、記憶にある限りの蘇生処置を試みる。

薄い胸に両手を置いて、上から体重をかけて押し込む心臓マッサージ。心臓の位置は鳩尾から指二本、などと聞いた覚えがあり、その知識通りに掌を押し込んだ。

「はっ……はっ……! メィリィ! おい、メィリィ!」

「――――」

「クソ!」

返事はない。青白い顔で、少女の体が力なく揺れる。

その様子に悪態をついて、スバルは少女の首を傾け、気道を確保すると人工呼吸を試みた。心肺蘇生の手順は、心臓マッサージと人工呼吸の繰り返しだ。

「あとなんだ。あと何がある。何がある何がある、クソ、クソクソ、クソ!」

必死に記憶を手繰り寄せ、スバルは他にできることがないか懸命に足掻く。

だが、所詮はテレビで中途半端に得た知識か、聞きかじりの生兵法でしかない。必死になればなるほど、霞の中に腕を入れるような徒労感がスバルを苦しめる。

結局は愚直に、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し、繰り返し、繰り返す。

胸に当てた掌に、心臓の鼓動は感じられない。口付けし、直接肺へ空気を送り込んでやっても、それが少女の体に意思を伝わせる手応えは得られない。

そうして、そのまま体力の限界まで心肺蘇生をやり続けて――、

「――ちく、しょう」

額に汗を浮かべ、荒く呼吸を乱しながら、スバルは地べたに背中から倒れ込んだ。

「はぁ、はぁ……クソ、クソぉ……!」

自分の前髪を掌で掴んで、スバルは悔しさのあまり、ただただ悪態をつく。

メィリィは、息を吹き返さなかった。最初の、印象の通りだ。

少女の命の灯火は絶えて、再び灯ることはない。

――メィリィは、死んだのだ。

無慈悲に、運命は幼い少女の命を残酷に奪い去っていった。などと、そんな気休めのような表現はこの場にはそぐわない。

彼女を殺したのは、決して運命ではない。もっと明確な、殺意が彼女を殺したのだ。

その証拠に、メィリィの細い首には、痛々しい青黒い痣が残されていた。

「――――」

無言で息を整えながら、悔恨を抱くスバルは自分の掌へと目を向ける。

直前まで、メィリィの命を救おうと懸命に足掻いていた両腕――その手首には、左右いずれも歪な爪痕が刻まれている。

まるで、力一杯に、命懸けで引っ掻かれたような傷跡。

それが何を意味しているのか、わからないほど愚鈍ではあれなかった。

「――――」

体を起こしたスバルは、メィリィの姿を整えてやる。

乱れた服を直し、両手を胸の上で組ませ、ぼんやりと開いた瞼を閉じてやる。そうして形だけでも死者に敬意を払うと、そっとその、細い首に手をやった。

嫌な怖気を覚えながら、メィリィの首に残る青黒い痣に指を這わせる。

「……ぴったり、だ」

力なく、意外性もない、渇いた呟きが事実だけを音にする。

メィリィの首の青黒い痣――指の跡に見えるそれと、重ねたスバルの指の形が素人目にもぴったりと一致していた。

もはや、ここまでくれば事実を疑いようもないだろう。

メィリィは、首を絞めて殺害された。

そして、その犯人は他でもない――、

「――ぅ、げぉ」

その動かし難い事実に気付いた途端、嘔吐感がスバルの喉を駆け上がる。とっさに顔を背け、スバルは横へ転がるようにして、メィリィの亡骸を汚すことは避けた。

溢れ出るのは、ほんの少し前に胃に入れたばかりの朝食だ。それを盛大に床にぶちまけて、スバルは胃の中が空っぽになるまで嘔吐すると、

「俺、ホントに、ゲロ吐いてばっかだ、な……」

口元を乱暴に袖で拭って、スバルは自嘲気味にそうこぼす。

実際、これが何度目の嘔吐なのか思い出せない。この、新しい一日が始まってからは初めてかもしれないが、前回の一日では酷い有様だった。

一度として、胃に収めたものをまともに消化できていない気がする。お百姓さんに申し訳が立たないと、スバルは全国の農家の方々に全霊で詫びたい気分だった。

そうして益体もない思考に意識を割いていないと、心がひび割れ、砕け散りそうだ。

「――――」

状況証拠が揃いすぎている。

部屋には二人きりで、メィリィの首についた指の跡はスバルのそれと一致した。この状況で言い逃れができると思うほど、スバルは楽観的な性格をしていない。

誰かにハメられた、などとも考えなかった。

この状況を作り出すのに、他者の手など必要はない。誰かが手伝えば作れる状況、なんて次元を超えた域にこの場所はあった。

これを、悪夢を作り出すのに必要な手があるとすれば、それはたったの二本だけ。

――ナツキ・スバルの腕が二本あれば、ただそれだけで事足りるではないか。

「……意味が、わからねぇ」

その事実を真正面から受け止めたスバルは、己への無理解を言葉に出す。

不可解、理解不能、状況不全、いずれの言葉を用いたとしても、これは再現不可の状況――だが、この犯行はナツキ・スバルが行ったものとしか結論できない。

しかし、当のスバル本人には、そんな記憶が一欠片も残っていないのだ。

「何があった、何があった? 思い出せ。思い出せ思い出せ思い出せ……っ」

立ち上がり、ぐるぐると部屋の中を歩き回りながら、スバルは記憶をこじ開ける。

死んで、目覚めて、エミリアとベアトリスと、パトラッシュに会った。記憶がないことを隠して朝食を食べて、不自然な反応をしたユリウスを問い詰め、こっそりと見張ってくれていたシャウラを抱擁して、それから通路でメィリィと出くわしたのだ。

そして、メィリィはスバルに用事があると、何か話を持ち掛けてきて――。

「昨日の、夜がどうとか……なんて言ってた……」

曖昧にぼやけた記憶に顔をしかめ、スバルはメィリィの言葉を反芻する。

だが、彼女が用件を口にした直後、そこでスバルの意識は途切れていて、メィリィが言ったはずの言葉は眠りに落ちる寸前の思考のように千々に乱れていた。

「夜、夜のことを聞かれた。それは間違いない。俺が起きる前の、寝る前の? とにかくどっちかのことを、聞かれて……それで?」

そこから先が、わからない。

わかるのは、メィリィがスバルに尋ねた内容は、スバルも知りたい『夜の行動』と関係があるだろうということだけだ。

エミリアたちの話では、今朝のスバルは書庫で倒れているところを発見された。

その倒れる前の、夜半のスバルの行動は一切不明だ。少なくとも、その間に起きた出来事が、スバルの記憶が失われたことと関係あるのは間違いない。

そしてきっと、メィリィはその失われたスバルの記憶と、何らかの繋がりがあったと考えて間違いなかったのに――、

「死んだ。それも、俺が首を絞めて……? なんで俺が、そんな……」

両手を見下ろせば、記憶にはないのに生々しい感触が掌に蘇る気がした。

力ずくで、幼い少女の息が止まるまで首を絞めた両腕。手首にあるのは、首を絞められるメィリィが必死に抵抗した痕跡なのだろう。

よく見れば、組んだ少女の手の爪には血が付着していて、揉み合いになっていた物証がしっかりと残されている。

深々と腕に刻まれた爪痕が、スバルには少女の残した怨嗟の声にも思えて――、

「――ぁ?」

妄想たくましく考えたところで、ふいにスバルの喉が掠れた息を漏らした。

呆気に取られたような吐息、その原因はスバルの腕にある。穴が開くほど睨んだ、手首の周辺にある傷ではない。視線が向かったのは、スバル自身の右手の爪だ。

その爪に、メィリィと同じように、人を引っ掻いた血と、抉った皮膚が詰まっている。

「――――」

不可解な血痕を訝しんで、スバルはメィリィの亡骸に改めて目を向けた。

死者に敬意を、と整えられた死に姿。大した慰めにもなるまいが、首の青黒い痣を除けば、少女の亡骸は生前の可憐さを保ったままだった。

少なくとも、見える範囲に爪の傷跡はない。スバルの爪が醜く、痛々しく抉った痕跡は少女の体には残されていなかった。

ならば、この爪に残った血と皮膚――害意の、痕跡は何なのか。

「――まさか」

じくじくと、痛む自分の腕を見下ろし、スバルは嫌な予感に唇を震わせる。

右腕の肘から先、そこが黒くグロテスクな変異を遂げているのは記憶に新しいが、傷が疼くような痛みを感じているのは左腕の方だった。

肘の内側、袖に覆われた部分から伝わってくる痛覚の主張に、スバルはゆっくりと袖をまくり始める。微かに生地が張り付く感触は、渇いた血が剥がれる感覚のものだ。

そのまま息を呑み、スバルは一息に袖を肩までまくり上げる。

そして、結構な量の出血がある自分の左腕を見て、呑み込んだ息を吐き出した。

「――――」

赤黒く、腕を汚した血を指でこそぎ落とし、痛みを訴える傷に目を凝らす。

そこには想像した通り、自分の右手で刻んだと思しき引っ掻き傷があった。肘の内側から二の腕にかけて刻まれた痛々しい傷は、しかしただの傷跡として完結しない。

文字だ。

それは、爪で肉体に刻み込まれた、歪な文字だった。

そこには、こう刻まれている。

――『ナツキ・スバル参上』、と。

「――は」

それを見取った瞬間、堪え難い息が、一つだけ漏れる。

何かの見間違えではないのかと、スバルは指で左腕の傷を拭い、何度も何度も、一度は止まった血が再び流れるほど、傷をこすって確かめた。

だが、他に読み取りようがない。これは、どう見ても『ナツキ・スバル参上』と書いてある。スバルの方に見えるように、汚い字で、日本語で、ナツキ・スバル参上と――。

わかりやすい。とてもわかりやすい自己主張だ。犯人が、自分の犯行であることを証明するために現場に証拠を残していくことがあるらしいが、それと同じことだ。名前を残して、これが誰の犯行か、はっきりと伝わるようにしていった。なんと親切、なんたる功名心、なんたる自己顕示欲の表れ――、

「お前……お前、なんなんだよ!?」

受け入れ難い事実と直面して、スバルは声を裏返らせながら悲痛に叫んだ。切り離せない左腕を振り回し、汚物を遠ざけるように顔を背け、足がもつれる。

転んだ。その場に尻餅をついて、スバルは歯軋りしながら左腕を床に打ち付けた。何度も、何度も打ち付け、骨まで響く痛みに噛みしめた口の端から血がこぼれる。

しかし、そうまでしても現実は変わらない。腕の傷もまた、消えない。

「なかった! こんな傷は、絶対になかった!」

嫌々と首を横に振り、スバルは左腕の傷が、意識の途絶したあとのものであると、もう動かないメィリィしかいない部屋で訴える。

じくじくと痛む左腕の傷は新しく、これまで気付かなかっただけの傷では決してない。メィリィを絞殺した誰かが、同じようにスバルにも傷を付け――否、違う。

否、否だ。断じて間違っている。誤っている。過たっている。

いい加減に認めろ。理解しろ。わかっているはずだ。誰か、ではないのだと。これが他のどんな存在でもない、ナツキ・スバルの犯行なのだと。

スバルではない『ナツキ・スバル』がメィリィを殺し、その功績を誇示するかのように腕に勲章を刻んでいったのだと。

「く、るってる……」

頭がおかしい。イカれている。どうかしているとしか思えない。

――『ナツキ・スバル』とは、理解できない怪物の名前だったのか。

「――――」

スバルが、『ナツキ・スバル』に対して不信感を抱いたのは、これが初めてではない。

いまだ答えの出ていない、昨夜の不自然な行動を始めとして、『ナツキ・スバル』は明らかに道理に合わない行動を繰り返している。

挙句、ユリウスを問い詰めた際に聞かされたエキドナとの密通や、あのユリウスを精神的に追い詰めた何らかの策動――コンビニ帰りの経験値しか持たないスバルとは、もはや『ナツキ・スバル』は似て非なる存在だった。

それこそ本気で、スバルの肉体に全く別の存在が憑依していたのだと、そう言われた方がよっぽど納得がいくぐらいだ。

「でも、そうじゃない……」

忌々しいことだが、左腕の傷に注目すればその疑惑は否定せざるを得ない。

腕に刻まれた自分の名前、当然、筆やペンを使ったものとはまるで違った筆跡になってはいるが、それでも文字に癖は出る。

具体的に言えば、文字のトメハネにスバルが自覚する癖があった。よほど意識的に真似しなければ、そこまでの一致は他人にはできない。

つまりこれは、間違いなくスバルとルーツを同じくする『ナツキ・スバル』の筆跡だ。

そのことが発覚した途端、明らかになる事実がある。

それは――、

「――俺の、意識が途切れた間、『ナツキ・スバル』が戻ってきてる?」

そしてその『ナツキ・スバル』が、何らかの形で仲違いしたメィリィを殺害し、その事実をスバルの腕に残して、再び意識の狭間へと隠れ潜んだというのか。

そこだけは、本当に意味がわからない。

「自分の体があるのに、なんで、俺を……いや、俺は、なんなんだ? お前は、何のつもりなんだ? 誰なんだよ、お前は……」

顔を鷲掴みにするように力を込め、スバルは震える声で呟く。

寄る辺のない異世界で、誰が敵で、誰が味方なのかもわからない状況下で、ついにスバルは自分自身すらも無害な存在の枠から外さなくてはならなくなった。

「――――」

足下がぐらついて、まともに立っていることさえできなくなる不安が胸を支配する。

しかし、スバルはその感覚に抗いながら、長く深く、息を吐いた。

平静は保てない。心は、乱れに乱れ切ったままだ。

だが、このまま、『ナツキ・スバル』の意のままに、何もわからないまま振り回されるなどと、そんなことは御免だ。

だから――、

「――お前は、誰なんだ」

鏡なしには睨むことのできない相手への憎悪を呟きながら、スバルは自分の右腕――グロテスクな紋様の走る肌へと、左手の爪を立てた。

つぷりと、裂ける黒い肌からは、赤い血の雫が確かに浮かび上がってきた。

――この黒い肌から流れる血も赤いんだなと、皮肉にもそう思った。

第六章45 『罪人の抱擁』

――黒い斑の紋様が走る右腕を、痛々しく赤い雫が滴り落ちていく。

幸いというべきか、ずいぶん大胆なイメチェンをした右腕であっても、その耐久力は人体のそれと何も変わっていないらしい。

爪を立てれば痛みが走り、力を込めれば皮が裂けて、血が流れ出す。

気持ち、その傷の出血が止まるのが速い気がしたが、本当に微々たる差といえた。

「――――」

乱暴に掌で血を拭い、右腕に掠れた血の跡を残して袖を下ろす。自分でやった結果とはいえ、あまり長く見ていたいものではない。もちろん、左腕に刻まれた『ナツキ・スバル参上』の文字も、袖を降ろして隠しておいた。

「とにかく、ここに長居はできねぇ……」

すでに、結構な時間をこの部屋で無駄にしてしまっている。

部屋の中央には変わらず、息絶えて動かないメィリィの亡骸があるが、もはやスバルから彼女にしてやれることは何もない。

殊更に弔いの何かをしてやることも、死後を辱めることも願い下げだった。

――否、これからすることで、死後を辱めることにはなるのかもしれない。

「――――」

軽い体、少女の両脇の下に腕を入れ、スバルはメィリィの亡骸を引きずり、部屋の隅へと位置をずらす。

そこにあったのは、打ち捨てられた部屋の、元調度品といったところだろうか。

元々は石材で作られた机、あるいは寝具だったのかもしれない。とにかく、切り出しただけの四角い石が置かれていて、そっとその裏側にメィリィの死体を隠した。

――悪いと、メィリィには心の底から詫びるが、スバルは彼女の死を隠すことにした。

そもそも、包み隠さず打ち明けて、いったい誰がこの状況のスバルを弁護できる。

スバル自身が『ナツキ・スバル』の真意を推し量れないのに、いったい他の誰ならそれができるというのだ。

「弁護も何も、ねぇよ。メィリィを殺したのは……俺じゃないかもしれなくても、殺した凶器は俺の両手だ」

この世界の犯罪捜査がどんなレベルか推測もできないが、メィリィの手の爪と、スバルの手首の傷を見れば陪審員は満場一致でスバルに有罪判決を出すだろう。

そして、スバルにはそれに異議を唱え、上訴する意義が見出せない。

となれば、スバルにできることは裁判の放棄――否、罪過を隠すことだった。

これが正しい判断とも、最善の選択だとも思わない。しかし、スバルには他に取り得る手段がない。――誰を信用し、誰を疑えばいいのか、もうわからなかった。

ただ一つ、言えることがあるとすれば――、

「次、メィリィと会えたら……お前だけは、容疑者じゃない」

全滅と、絞殺と、スバルは二度もメィリィの亡骸をこの目で見たのだ。

ここまでくれば、少なくとも他の誰よりメィリィの疑惑は薄いと考えられる。問題はそれを認めたところで、すでに彼女に話を聞く手段がないこと。

クローズド系のミステリーのお約束、死者だけが容疑者から外れるパターンだ。

だが、探偵役のナツキ・スバルは掟破りにも、殺されることで時間を巻き戻す『死に戻り』の力を備えている。これなら、どんな惨劇にも対応できて無能でも名探偵だ。

「探偵役自身が犯人ってのも、ミステリーのお約束だけどな」

残念なことに、いかに『死に戻り』が優れていても、『ナツキ・スバル』の犯人説が濃厚な以上、事件は何度でも引き起こされ、止めることは難しそうだ。

探偵役の、別人格が犯人。このパターンもミステリーでは使い古されている。ならば、事実に気付いた探偵役が崖から身投げすれば一件落着だろうか。

『死に戻り』と『探偵自身が犯人』と、二つが組み合わさることで事件は永久に迷宮入りだ。抜け出せない、螺旋迷宮といったところだろう。

「言ってる、場合か……! とにかく今は、時間を稼ぐんだよ」

時間が解決する問題ではないが、時間がもたらすものは必ずある。

そう信じて、スバルは袋小路の状況からの離脱を願い、その場に立ち上がる。

「――――」

去り際、スバルは一度だけ、もう動かないメィリィの額を撫でた。きっと、彼女はスバルに二度と触れられたくなかっただろう。

その証拠に、触れた額は悲しくなるほど冷たく、スバルを拒絶していた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

そうして、心ならずもメィリィ殺害現場を隠蔽し、スバルは部屋を出る。それから通路の左右を窺って、ゆっくりと現場を離れようと――、

「――あ、スバル! よかった、ここにいたのね」

「――っ!?」

不意の呼びかけに肩を跳ねさせ、振り返るスバルの下にやってくるのはエミリアだ。小走りにやってくる彼女は、頬を硬くするスバルに首を傾げ、

「ごめんね、驚かせちゃった?」

「――。お、どろいた。驚いたけど、それは、まぁ、なんだ、あれだ。いきなりだったからってだけで、全然平気。エミリアちゃんは、どしたの?」

「――? 私は、お昼までの間、何かできることないかなって塔の中を歩き回ってたの。それより、スバル」

「うん?」

「今の、また何かの悪ふざけ?」

エミリアの不思議そうな問いかけに、スバルは息を詰める。

紫紺の瞳が真っ直ぐにスバルを見つめているが、スバルには彼女の問いかけの意味するところがわからない。

声に動揺があったのは事実だが、話した内容自体は取り立てて目立ったところのない受け答えだったはずなのだが。

「――――」

じっと、というよりはジーっとしたエミリアの視線に、スバルは居心地の悪い感覚を味わい、やけに苦い唾を呑み込んだ。

すぐ背後の部屋では、今も眠り続けるメィリィの亡骸が転がっている。部屋の中を軽く覗いたぐらいではわからないよう隠してあるが、ちょっと詳しく調べられればあっさり見つかる幼稚な隠し方でしかない。

とにかく、今はこの場を離れることが優先だった。

「悪い、ちょっとトイレ」

「あ、うん、わかった」

いかにも適当な誤魔化しの言葉を残し、スバルは素早く部屋の前を離れる。

早歩きで、エミリアから距離を取り、一刻も早く一人で時間を潰せる場所にいかなくてはならない。そこで、右腕の傷の返事を――、

「って、エミリアちゃん? 俺、トイレだってば。なんでついてくんの?」

「え? だって、あとちょっとしたらみんなで集まってお昼にするんだし、一緒にいた方がいいと思わない? 大丈夫、ちゃんと扉の外にいるから」

「おしっこの音聞かれることの心配はしてないけども……」

離れたがるスバルの隣に並んで、エミリアがこちらの顔を覗き込んでくる。

正論といえば正論だが、基本的に正論とは言われる側が辛い思いをするものだ。この場合も例外ではなく、言われるスバルは正論が浮かばずに苦心した。

ただ、そうして苦心する裏側で、スバルは注意深くエミリアの胸中を推し量る。

――エミリアは、何のつもりでスバルに同行したいと言ってきているのか。

「――――」

「――?」

じっと、横目で自分を窺ってくるスバルにエミリアがきょとんとした顔をする。

何も企んでいないように見える可愛い顔だが、実際には彼女は有力な敵の容疑者だ。

前回の全滅時、スバルはエミリアとベアトリスの亡骸を見ていない。

腕の傷から、『ナツキ・スバル』の真意が不明なのは事実だが、仮に『ナツキ・スバル』の暗躍があったとしても、あの状況は一人では作り出せない。

シャウラを、エキドナを、ラムを。ユリウスをメィリィを殺し、ついには影の力で塔を崩壊させ、最後にはスバルの首を刎ねて嗤った何者か。

まだ、スバルが存在を知らない、何者かが、あの塔の中にいたのだ。

「スバル、大丈夫? やっぱり、まだ調子が戻ってないんじゃない?」

「――っ、だ、大丈夫。ちょっと考え込んでただけ」

「ホントに? でも、顔色が悪いと思うの」

そっと、エミリアがスバルの方へと手を伸ばしてくる。

とっさに払いのけることもできず、エミリアにさせるがままに頬を弄らせる。その、くすぐったい感触にスバルは眉を顰めて、

「……よく見てるね」

「ん、そうよ、よく見てるの。なんだか、最近、気付くとスバルを目で追ってることが多くて……なんでかよくわからないんだけど、不思議ね」

「――そうだね、不思議だね」

慎重に、エミリアの一挙手一投足に目を配る。

微笑したエミリアの手が、スバルの顔に触れているのだ。瞬きしたほんの一瞬で、彼女の手がスバルの喉笛を掻き切らないとも限らない。あるいはそんな必要なく、エミリアの腕力なら、そのままスバルの頸骨をへし折ることも可能だろう。

しかし、彼女の手つきに悪意や敵意が感じられず、スバルは途方に暮れる。

所詮、スバルの――コンビニ帰りの、平和な日本しか知らない一学生のスバルの感覚など当てにはならない。人の敵意や害意、そんなものに触れた経験などほとんどないのだ。

スバルに馴染み深いのは、厄介者を遠巻きにする雰囲気と、冷たい蔑視とすら言えない無関心の静寂。――どちらも、ナツキ・スバルを孤独にはしても、傷付けはしない。

だから、目の前の少女が紫紺の瞳に浮かべる感情が、本物か偽物か、わからない。

ただ、何もわかっていないのだとしたら――、

「――――」

何もかも、ぶちまけてやったら、どんな顔をするのだろう。

その、悩み事なんて一つもないとばかりに、綺麗なものばかりを見てきて育ったみたいな美しい顔を、くしゃくしゃにしてやったらどれだけ胸がすくだろうか。

――お前が、心配しているナツキ・スバルなど、もうどこにもいないのだと。

――いいや、違う。あいつは、残酷で狂った人殺しなのだと、言ってやったら。

「――そういえば、メィリィのことなんだけど」

「――っ」

ひゅっ、と喉が鳴り、スバルの目が見開かれる。

何故ここでメィリィの名前が、という驚きが微塵も隠せていない、不意打ちの動揺だ。もしも、エミリアの狙いがその反応を見ることにあったのだとしたら、スバルは完全に彼女の術中に嵌まったことになる。

だが、エミリアはスバルから目を逸らし、視線を床へと落としていた。それは通路を見ているのではなく、もっと大きく、塔全体を見据えるような雰囲気だ。

その姿勢のまま、エミリアは微かな躊躇いを覗かせたあと、

「気が早いって怒るかしら。この塔から無事に戻ったら、メィリィのことをどうしたらいいかなって、相談するの」

「――――」

「もちろん、あの子が一年前にしたことは悪いことだし、簡単に信じちゃいけないってオットーくんの言い分もわかるんだけど……砂丘を越えられたのはメィリィのおかげだし、まだ悪さするつもりなら、塔にくる前に色々できたと思う」

自分の服の裾を摘んで、エミリアがつらつらと考えていたことを述べる。

話半分、という感覚ではなかったが、この塔にいる一行の中でもメィリィの立場は特殊で、本来はエミリアやベアトリスの命を狙った暗殺者、らしい。

その任務に失敗し、囚われの身だった彼女だが、その生まれつきの特殊能力を活かして今回の旅に同行、かつての標的の目的に貢献したわけで。

「恩赦、ってヤツか」

「自由にしてあげるって言っても、それはみんなに反対されちゃうと思うわ。でも、もっと別の、それこそ座敷牢の外で暮らすくらいは、ね?」

「――――」

「もちろん、メィリィ本人と話してみて、あの子がそれを望んだらって条件付き。私が勝手に先走って、あの子に嫌われちゃったら大変だもの」

慌てて手を振り、エミリアはあくまで意見の一つだと、そう主張した。

おそらく、彼女なりに十分に考え、満を持して伝えてくれた話なのだろう。随所に、反論を想定して手直しした余地が垣間見える。

――これは、エミリアの本心なのだろうか?

「――――」

信じて、いいものだろうか。

少なくとも現時点で、エミリアの態度が一度でもスバルへの敵意を浮かべた場面はない。――否、それを言い出せば、そもそもスバルに敵意を見せたものなどいない。

ベアトリスも、エキドナも、ラムも、ユリウスも、メィリィも、誰一人、スバルに敵意を見せた人物などいないのだ。

確実なのは、スバルを突き落として殺した犯人と、塔内の関係者を全滅させた犯人と、スバルの首を刎ねた犯人。――そして、メィリィを殺した『ナツキ・スバル』。

それらが、唾棄すべき邪悪であるという、そのことだけ。

ならば、エミリアを信じてもいいのだろうか。

この無垢で、穢れを知らない、降り積もったばかりの新雪のような彼女を信じても。

――エミリアがこれだけ熱を込めて語り、思い悩んでいるメィリィはこの手が殺したけれど、それでも君は、俺のことを信じてくれるのかと。

「……馬鹿馬鹿しい」

「え?」

「くだらねぇって、そう言ったんだよ。自分でもわかってたはずだろ。気が早い? その通りだよ。こんな……こんな状況で、先の展望の話なんか、できるもんかよ」

四方八方が手詰まりで、他人のことを気遣ってやっている余裕など全くない。

ましてやそれが、すでに死んだ少女の未来の話となればなおさらだ。その『死』を知らないということに目をつむったとしても、なんとお気楽な頭なのだろうか。

「――――」

感情的に罵って、スバルはすぐに自分の発言に唇を噛んだ。

馬鹿なことを言ったものだ。言っても仕方のないことを、ただ怪しまれるだけの発言を、その場の勢いと感情に任せてエミリアに叩きつけた。

この行いには、何の正当性もない。ただの八つ当たり、子どもの癇癪だった。

それを――、

「スバル!」

「ぶ」

「急にどうしたの。機嫌が悪くても、そんな言い方したらダメじゃない」

「――――」

驚き、愕然として、そのまま傷付く感情のままに俯くと、涙を流して嗚咽する。

そんな反応を予期したスバルを蹴散らすように、エミリアはスバルの頬を勢いよく両手で挟み込むと、真っ直ぐな目でこちらの黒瞳を覗き込んできた。

「――ぁ」

「不貞腐れて、辛い気持ちならちゃんと話すの! 私でも、ベアトリスでもいいわ。スバルが困ってるなら、私だって一緒に困ってあげる。でも、一人で抱え込んで、一人でむしゃくしゃして、一人で終わりにしちゃうのはやめて。そんなの、悪かった頃のロズワールみたいじゃない。真似しちゃダメよ」

一生懸命に、エミリアがスバルの向けてまくし立てる。それから彼女は、呆気に取られるスバルの顔から手を離すと、ぐいっと頭を引き寄せた。

そして、自分の胸の中にスバルの頭を抱き入れ、優しく撫でる。

「わかってくれる? 私の心臓、全然怒ってないから。幻滅もしないから、話して」

「――――」

押し付けられた柔らかな感触、温かなその向こう側に、命を刻むリズムを感じる。

それが、まるで赤子に聞かせる子守歌のように優しくて、スバルは息を詰めた。瞬間、スバルの心に湧き上がったのは、強烈な恥の感情だった。

ここまでしてもらって、あれだけ酷いことを言って、それでもなお、優しくて。

そんな彼女を、疑って、闇雲に憎んで傷付けて、何の意味がある。

――本当に、いるのか? スバルを殺そうと、企んでいる何者かなんて。

――転落死だって、本当はただの事故だったんじゃないのか?

――誰かが意図的にしたことじゃなく、うっかり、躓いた誰かが押しただけで。

この、塔の中に、悪い人なんか誰もいなくて。

一番、心が汚くて、醜くて、危険なのは、ナツキ・スバルと『ナツキ・スバル』、本来ならいなかったはずの、不躾な異分子だけなんじゃないのか。

「エミリア、俺は……」

「――うん」

「俺は……」

何から伝えればいいのかわからない。

ただ、伝えてしまおうと、打ち明けてしまおうと、さらけ出してしまおうと思った。

記憶をなくしたことも、メィリィのことも、死ぬたびに時を遡っていることも。

全部、信じてもらえないかもしれない。でも、信じてもらえるかもしれない。信じてもらえたら、打開策が見つかるかもしれない。

それさえ見つかれば、スバルは――、

「――エミリア様! バルス!」

ぐしゃぐしゃの頭の中身を、何とか絞り出そうとした瞬間だった。

スバルの苦悩を塗り潰すように、鋭く、切迫した声が横合いから飛び込んでくる。エミリアに抱擁されたまま、とっさにスバルは声の方を見られない。その頭上から、相手を確認したエミリアが「ラム」と呟くのが聞こえて、

「どうしたの? 今、スバルとすごーく大事な話をしてて……」

「それは、見ればラムにもわかりますが……中断してください。火急の、用件です」

「う、うん……」

靴音がすぐ傍までやってくると、エミリアがおずおずとスバルを解放する。温もりの遠ざかる感覚と、眦の熱さをスバルは強引に袖で顔を拭って追い払った。

それからエミリアと二人、ラムへと向き直る。

格好の悪いところを見られた、あるいはタイミングが最悪だと、膨らむ感情のままにラムにぶつけてやりたくなる。

それを反省したばかりなのに、すぐに立て直せない自分が本気で恨めしい。

しかし、ラムの様子は、抱き合う二人をからかったり、それを見られて感情の行き場に窮したスバルを慮ったり、そんなことをする余裕はなかった。

「ラム、どうしたの?」

「……火急の、用件です。すぐに三層の、書庫へお越しください。ベアトリス様が、大変なものを」

「ベアトリスが?」

驚くエミリアに、ラムは「ええ」と短く頷く。

それから、彼女はスバルたちに背を向けると、

「アナスタシア様……いえ、エキドナでしょうか。とにかく、あの方と、ユリウスを探すわ。バルス、エミリア様とご一緒して」

「あ、ああ、わかった……」

有無を言わせぬ態度に、スバルはとっさに反論できずに首を縦に振った。

その返事も見届けず、ラムは颯爽と床を蹴り、二人の前から駆け去ってしまう。その様子に驚きつつ、スバルはエミリアに振り返った。

「ええと、ラムは、ああ言ってたけど……」

「――急ぎましょう。ラムがあんなに真剣だった。何か、大変なことがあったのよ」

「――――」

「スバル、さっきの話、忘れてないから」

「……うん」

そこだけ念押しするエミリアに、スバルは弱々しく頷いて従った。

もはや、メィリィへの罪悪感と、状況への切迫感から、一人になろうと考えていたスバルの方針は完全に頓挫する。

そのまま、スバルはエミリアと連れ立って、三層『タイゲタ』へと急ぎ足で向かった。

長い階段を駆け上がり、出迎えられるのは膨大な蔵書を誇る『死者』の書庫だ。

「――きたかしら」

その、無数の『死者の書』が収まる書棚を背後に、階段の前に佇むベアトリスがスバルたちを出迎える。

短い腕を組んで、特徴的な紋様のある瞳を伏せた少女は、やけに疲れた吐息をこぼす。

「ベアトリス、ラムに呼ばれてきたの。何か、大変なものを見つけたって」

「いい知らせ、とは言えないのは確かなのよ。むしろ、凶兆と呼ぶべきものかしら」

そう言って、ベアトリスはエミリアの質問にゆるゆると首を振る。

それから、彼女はスバルの方へと青い瞳を向けて、

「ベティーは朝から、このタイゲタの書庫を調べていたのよ。スバルが倒れていたのもそうだし、仕組みとして禁書庫と近くて遠い、この部屋を解析しようとしてたかしら」

「ま、前置きはいい。何があったんだ? 教えてくれ」

階段を駆け上がり、軽く息を乱したスバルが結論を急ぐ。

その言葉に、ベアトリスは一度、目をつむった。そして、彼女はゆっくりと、斜め後ろにある書棚の一つを指差して、

「上から三段目、一番右にある本なのよ」

「――三番目の」

「一番右」

ベアトリスの指摘に従い、スバルとエミリアは言葉を反芻しながら書棚へ向かった。

ぎっしりと、書架には本が詰まっていて、背表紙に書かれた異世界文字はスバルには全く読み取れない。相変わらず、象形文字としか思えなかった。

だから、ベアトリスがスバルたちに教えたがった本、そのタイトルもわからない。

少なくとも、この書庫にある以上、それが『死者の書』であることは確かで――、

「嘘……」

と、すぐ隣のエミリアがこぼした。

そちらへちらと目を向け、スバルは彼女の愕然とした反応に頬を硬くする。

これほどの驚愕、遅れてすぐにやってくる悲嘆。

いったい、何が彼女の心をそれほど強く、手加減抜きに打ち抜いていったのか。

そんな、ショックを受けるエミリアに義憤を覚えるスバルの隣で、彼女の唇が震える。

そして、エミリアは言った。

「――メィリィ・ポートルート」

第六章46 『メィリィ・ポートルート』

――メィリィ・ポートルート。

本の背表紙を見つめて、そう呟いたエミリアにスバルは愕然となる。目を見開いて、背表紙を睨みつける。そこに描かれた文字は、スバルには全く読み取れない。

だが、今ここで、エミリアが無意味な揺さぶりをスバルにかける理由がない。

ならば、眼前の一冊――『死者の書』のタイトルが、メィリィの名であることは、疑う余地のない事実でしかなかった。

「――――」

声も出ないまま、頬を硬くするスバルの背中を脂汗が濡らしていく。

頭蓋の中、脳が必死に叫んでいるのはたった一言――『何故』と、それだけだった。

何故、メィリィの名前がここにあるのか。何故、死者の記録を残す書庫はこんなにも早く彼女の本を用意したのか。何故、これだけ膨大な数の本がある中、メィリィの本があっさりと見つかってしまったのか。何故、スバルがエミリアを、塔の中の人間を信用したいと思った瞬間にこんなことになったのか。何故、運命はこうもナツキ・スバルへと容赦してくれないのか。何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故――。

「――ベアトリス、本の内容は確認したの?」

「――っ」

膨大な量の『何故』に頭を埋め尽くされながら、その言葉はやけにクリアに鼓膜を震わせた。弾かれたように顔を上げれば、ベアトリスに尋ねたのはエミリアだ。

彼女は書棚に収まったままの、件の背表紙を睨みつけながらベアトリスに質問する。

スバルの聞いた限りでは、この書庫で見つかる『死者の書』とは、本に触った人間の知己である場合、その生前の記憶が頭に流れ込んでくるものらしい。

なかなかゾッとしない力を持つ魔本だが、この場で問題になるのはそうしたファンタジー色の強い部分の話ではなく、もっと現実的な問題だ。

メィリィの、生前の記憶が見えるということは、最期の記憶も見えるはず。

それはつまり、彼女が誰に絞殺されたのか、その答えが見えるということに他ならない。

「――――」

状況的に、スバルはメィリィを殺したのが自分の両手であり、それを実行したのが『ナツキ・スバル』であることを疑っていない。

だが、その区別がつくのは他ならぬスバル自身だけだ。一種の記録映像、犯行現場の防犯カメラのような役割を果たす記憶が、その区別をつけてくれるはずもない。ましてやこの周回のスバルは、自分が記憶喪失であることをエミリアたちに隠していた。

記憶からスバルの犯行が明らかになり、その段に至って記憶の喪失を打ち明ける。そんな場当たり的な行動、他人がやったなら出来の悪い言い訳としか思えないだろう。

当然、スバルと同じことをエミリアたちにも思われる。

もしも、ベアトリスが先んじて、メィリィの死の前後の記憶を参照していたなら――、

「――まだ、確かめていないかしら」

「――っ、そう、なのか?」

「当然なのよ。扱いには、慎重にならざるを得ないかしら。そもそも、それがベティーたちの知っている、あのメィリィの本かどうかもまだわからないのよ。もし、本当にあの娘の本だとしたら……」

「メィリィが、この塔の中で……大変! すぐに探さないと!」

顔色を変えて、エミリアがベアトリスの言葉に駆け出そうとする。しかし、そのエミリアの前に割り込んで、ベアトリスが首を横に振った。

「待つかしら! これが、本当にあの娘の本なら、急いで探しても無意味なのよ。ここに本が追加されたってことは、そういうことになるかしら」

「……それで、ラムが私たちや、ユリウスたちを探してるのね」

「その途中で、メィリィが何食わぬ顔で出てくればベティーの可愛い勘違いで済むのよ」

ベアトリスの冷静な指摘に、エミリアの勢いが徐々に弱まっていく。それでも、焦燥感の薄れない顔で、エミリアは祈るように自分の胸の前で手を組んだ。

この、書架に収まった本がメィリィのものではなく、単なる同名な誰かの名前であることを願い、縋り付くように。

――そして、その願いが儚く叶わないものだと、ナツキ・スバルは知っている。

「――――」

エミリアとベアトリスのやり取りを横目に、スバルは必死に頭を回転させていた。

ぐるぐると回る思考、その大部分に費やされているのは、いかにしてこの状況を離脱し、真実を自分のものだけに留めるか、だった。

先ほどもシミュレーションした通り、エミリアたちにメィリィの記憶を見られてはならない。ベアトリスが見ていなかったのは僥倖だが、それも時間の問題だ。

メィリィが死んだことは事実、彼女がこの書庫へ何食わぬ顔で現れることはない。だから当然、『死者の書』を確かめる機会は訪れる。それも、そう遠くないうちに。

本を見られれば、スバルはエミリアたちの弾劾を受ける。

ならば何とかして、メィリィの本を処分することができればいいのか。――否、その結論は避けたい。

状況が、それを非常に難しいものとしているのも事実だが、それ以上に問題となってくるのがスバルの心情――スバルも、本の内容には強い関心がある。

現状、メィリィを殺したのは『ナツキ・スバル』で間違いないとスバルは考えている。メィリィの記録を覗ければ、その『ナツキ・スバル』を見られるかもしれないのだ。

自分の、あるいは内側にいるかもしれない、文字通りの潜在的な『敵』の姿を、見る。

それが可能ならば、スバルの状況は大きく変わる。少なくとも、覚悟は決まるはず。

そのためにも、この場でエミリアたちに本を読ませず、スバルだけがこの本の内容に触れる方法を――、

「なーんか騒がしく呼ばれたッスけど、どーしちまったんスか?」

「シャウラ、きてくれたのね」

そう考える合間に、タイゲタの書庫へとシャウラが姿を見せた。

首をひねり、黒髪を躍らせるシャウラはエミリアとベアトリスに出迎えられ、それから書庫の奥にいるスバルに気付いてこちらに手を振る。

瞬間、今朝のメィリィの、朝食の場に入ってきたときの様子と重なり、スバルは込み上げてくる嘔吐感を堪えるように顔を背けた。

「およ、お師様ったらつれないッス。さっきはあんなに、あーしと一緒に熱い時間を過ごしてたっていうのにぃ」

「お前とスバルに何があったかは興味深いけど、今は後回しかしら。お前、どこかでメィリィを見かけてたら話すのよ。お前とは、仲良くしていたかしら」

「ちびっ子の……えーと、二号のことッスか? んー、そういやしばらく見てないッス。朝のブレックファーストのあとは知らねッスよ」

ベアトリスに問いかけられ、シャウラが両手を振ってそれに答える。それから、彼女は振っていた手を自分の頬に当て、「二号がどうかしたんスか?」と首を傾げた。

そのシャウラの疑問に、エミリアが不安げに目を伏せて、

「実は、書庫にメィリィの名前の本が見つかったの。まだ、中は見れてないんだけど、その前にあの子の無事を確かめたくて……」

「あー、なるほど。二号、死んじまったッスか。あんまし考えにくいッスけど、死に方なんかいくらでもあるんで、そういうこともあるかもしんないッスね」

「――っ」

「……お前」

痛ましげなエミリアへの配慮ゼロで、あっけらかんとした死生観をシャウラが述べる。

その内容にエミリアの頬が強張り、ベアトリスが怒りを覚えた様子でシャウラを睨んだ。しかし、シャウラは二人の様子に特段の反応は見せず、

「それで、肝心の本はどこにあるッスか? さっさと中身見たら、二号がどこでどんな風に死んじまったかわかるかもしんねッスよ」

「い、いい加減にしろよ、お前! さっきから、そんな言い方ばっかり……」

さすがに見るに見かねて、スバルがシャウラの暴言へと食って掛かる。今のシャウラの言動には、あまりにも人の心がないではないか。

直前までの、スバルの思考とてエミリアには到底聞かせられないが、それを口に出さない分別ぐらいはスバルも持ち合わせている。シャウラには、それがなくて――、

「怒んないでくださいッス、お師様。あーしに悪気はないッス! でもでも、実際、本があるんだからそうするべきじゃないッスか?」

「それは……せめて、全員揃ってから」

「そんな悠長なことしなくても、本を読めば一発じゃないッスか。読んで、何が起こるかわかんないってのが一号の心配なら……」

口ごもり、反論の勢いが弱まるスバルにシャウラが畳みかけてくる。彼女はそっと流し目をベアトリスへ送り、そこで言葉を切って、改めてスバルを見つめた。

そして、あけすけな、悪気のない顔で、続ける。

「――お師様が、本を読んでみたらいいんスよ」

「――――」

「この書庫を見っけたとき、お師様と、もう一人のイキャメンが初体験は済ませてたじゃないッスか。その後、別に何にも悪影響出てないんなら……ね?」

豊満な胸を揺らして、一歩、息のかかる距離までシャウラが顔を寄せてくる。その彼女の提案に息を呑み、スバルの脳は再び思案を始めた。

シャウラの提案は、彼女の言動としては恐るべきことに理に適っている。

実際、『死者の書』が読んだ人間にどんな悪影響を及ぼすかは未知数だが、少なくとも、すでに体験した人間が二人いる。試してみる価値は十分にあるはずだ。

無論、その経験がスバルの記憶を奪い、『ナツキ・スバル』と今の自分を分断した切っ掛けである可能性もあるのだが、その場合、ユリウスにも異変がなければおかしい。まさか彼が、スバルと同じで記憶喪失を隠している、なんて疑惑はさすがに飛躍だろう。

『死者の書』の影響と、記憶喪失との間に関連性はない。

状況的に、そこは結論付けても構わないはずだ。ならば、この提案は渡りに船――、

「――確かに、シャウラの言ってることにも一理あるかもしれない」

「……スバル、本当にやるのよ? 一緒に、食事までしていた相手かしら」

シャウラの言葉に乗じれば、ひとまず最初の関門は突破できる。

メィリィの『死者の書』の最初の読者となり、最後の読者となるための道も開けると、胸中の考えを隠したスバルの主張、そこにベアトリスの純粋な心配が入る。

彼女は、スバルの精神へのダメージを懸念し、呼びかけてくれているのだ。

これまで、『ナツキ・スバル』がここで見た死者は、究極的には関係の浅い間柄であったとのことだが、メィリィとなればそこには大きな違いが生まれる。

一緒に旅をして、言葉を交わし、食事を共にした、ある種の戦友だ。

その『死』を見届けることで、いったい、どんな心の傷をスバルが負うのかと、ベアトリスはそれを案じてくれていた。

「……大丈夫だ、安心しろ。シャウラの言う通り、俺が一番、可能性が高い」

そんなベアトリスの心配に、スバルは真剣に見えるよう頬を引き締め、頷いた。

確かに、知った顔の死者の記録、そんなものを覗き見ることは精神に異常をきたす可能性が大きいだろう。善良な人間であれば、耐えられなかったかもしれない。

――だが、そうではない。そうではないのだ。

今のスバルにとって、メィリィとは一緒に旅をして、言葉を交わし、食事を共にした、ある種の戦友などでは決してない。

ほんの数時間、見知った相手のように振る舞い、二度か三度の朝食を一緒にして、その存在にわずかに心を救われたこともあったが、それだけの間柄だ。

たったそれだけの、ほとんど見知らぬ少女。――その死に、受ける心の傷などない。

「やっぱり、私は反対。どうしてもっていうなら、スバルじゃなく私が……」

「エミリアが見るっていうなら、ベティーは反対するのよ。誰かが見なくちゃいけないなら……悔しいけど、スバルか、ユリウスが見るのが一番の安全策かしら。今朝の、ユリウスの様子を見ると、ここの候補からも削りたくなるのよ」

「ベアトリスまで……」

感情面で食い下がるエミリアを、理屈でベアトリスが黙らせる。

少なくとも、ベアトリスはスバルの意思を尊重することを選んだようだ。ただ、エミリアも直前の、言ってしまえば不安定だったスバルの様子を知っている。

だから、心配の色が消えないエミリアの紫紺の瞳に、スバルは頷きかけた。

「――俺が、見るよ。なに、ひょっとしたら単なる勘違いで、勇んで読んでみても何も起こらないかもしれないだろ?」

「……何かあったら、すぐに本から引き剥がすから。髪の毛、引っ張るから」

「そこは穏当に、肩とか揺すって呼びかけてくれると嬉しいかな」

エミリアの怪力で髪を引っ張られたら、スバルの後頭部には永遠の荒廃地が誕生することになる。と、そんな空々しい軽口を返して、スバルは書棚へと向かった。

変わらず、メィリィの本は奇妙な存在感を放ちながらその場所にある。最初、見かけたときには何の変哲もない一冊に見えたのに、見知った名前が記されているとわかった途端にこの雰囲気だ。とかく、人の意識というものは当てにならない。

そして、当てにならない自分を探るために、スバルは本を手に取った。

「――――」

背後、エミリアとベアトリスが息を呑む気配。シャウラは気楽な様子で、頭の後ろで手など組みながらスバルの決断を見守っている。

そんな三者の視線を浴びながら、スバルは軽く深呼吸、辞書のように分厚い本の表紙に手をかけて、

「――いく」

自らに言い聞かせるように、呟くスバルが本を開いて――意識が、暗転する。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――自分の始まりを意識したとき、女は何も持っていなかった。

周りには誰もいなかった。

男も、女も、大人も、子どもも、老人も、赤子も、誰もいなかった。

暗い暗い、黒い黒い、森で一人、女はただ、一人でいた。

立って歩くこと。喋って伝えること。生きるために泣き喚くこと。

その全ての持ち合わせがなく、その全てが遠く、忘却の彼方へ消えたものだった。

「――――」

言葉を知らなければ、嘆き方も知らない。

歩き方を知らなければ、抗い方も知らない。

生きる方法を知らなければ、死に逝く理由も知りようがない。

故に、女には一切の選択肢はなく、生まれた意味も死ぬ意味も、何一つ女にもたらさないままに、獣の牙にかかって奪われるはずだった。

額に角を生やし、獰猛な殺意だけで蠢き続ける、凶悪で醜悪な戮殺の獣――。

その牙が女の喉笛を噛み千切ることなく、服の襟首を引きずって巣へ持ち帰ったのは、いったい何がもたらした恩寵だったのか、女にはまるでわからなかった。

ただ、なかったはずの選択肢が生まれ、女の在り方が獣たちの下で定まっていく。

言葉を知らないから、嘆き方など知らない。

歩き方を知らないから、抗い方など知らない。

ただ、生きる方法を知ったから、死のうなどとは思わない。

気付けば、女は戮殺の獣たちを従え、一帯を支配する獣の女王となっていた。

気ままに獲物を襲い、腹が減れば食らい、気が向けば戮殺し、寝たいときに寝て、生きたいように生き、殺したいように殺し、殺戮の母性の中で育まれていく。

かつて、自分がなんであったのか、そんな記憶はとうになくした。

何でもないもの、記号など必要としないもの、そういうものに、自分は成り果てて。

そのまま、そんな獣の一頭として、良くも悪くも独りで死ぬと、思っていた。

「――思った以上の大歓迎ね。一応、こっちに危害を加えるつもりはないのだけれど」

黒い少女だった。血腥い魔性の染みついた、黒い少女だった。

腕に覚えのあるものでも手を出せない、一帯の獣たちを根こそぎかき集めた群れを率いていた女は、そんな命知らずの黒い少女に、築き上げた全てを奪われた。

血肉が溢れ、断末魔が空を焦がし、黒い少女の微笑みが返り血に塗れていく。

それを為す術なく見届け、女は、またしても何も持たなくなった。

「連れ帰れと言われているの。だから、一緒にきてもらうわ」

何も持たない女を、黒い少女は強引に担いで連れてゆく。

長く過ごした場所を、長く共にあった獣たちを、自分が自分である場所を、奪って。

そうまでされても、女には何もできはしない。

言葉を知らないから、嘆き方も知らない。

歩き方を知らないから、抗い方も知らない。

生きてゆくための術をなくしたから、今度こそ死に逝くしかないのかもしれない。

「嘆き方も、抗い方も、生き方もなくしやがった? そんなそんな、つまんねー言い訳並べられても知ったこっちゃねーんですよ」

それは、嘆き方を知らないことを後悔させた。

「嘆け、アタクシのために。抗え、アタクシのために。生きろ、アタクシを愛するために」

それは、抗い方を知らないことを後悔させた。

「何もかも、なくした忘れた失ったなんて言いやがるんなら、アタクシが躾けてやろーじゃねーですか。――それが、『母親』の務めってもんですからね」

――それは、生き方を忘れ、死に方を考えさせなかったことを、後悔させた。

地獄より地獄、悪夢より悪夢、邪悪より邪悪――。

それは、『母』は、ありとあらゆる躾を、女のためではなく、自分のためと施した。

『母』は嘘をつかなかった。

『母』は公平だった。『母』は、愛されるためならあらゆる手段を講じた。

『母』はただ、その手段の全てが歪なだけだった。

言葉を思い出した。嘆き方は剥がされた。

歩き方を思い出した。抗い方は塗り潰された。

生きる方法を思い出した。死に方など望むべくもないと、刻み込まれた。

「あの人の言いなりになるのはやめなさい。私以外、きっと、命がいくつあっても足りなくなってしまうでしょうから」

ふと、言葉を、歩き方を、生き方を思い出した頃、黒い少女と再会した。

黒い少女はよく、女のところに顔を出した。気付くといつの間にか、黒い少女と行動を共にすることが以前より増えていた。

『母』と初めて会わされる前、熱い湯の中に叩き込まれたことを思い出した。

血と泥と垢と、落ちない汚れに塗れた女を、黒い少女は容赦なく、雑に、洗い流した。あるいはあれが、最後に、女が感じた解放感だったかも、しれない。

『母』の意向で、女は黒い少女と一緒にいることが明確に多くなった。

黒い少女は、異常に強かった。殺す手管に優れていた。生き方以上に、殺し方を知っていた。そして同時に、それ以外のあらゆるものが疎かった。

「■■■■がいるもの。だったら、あなたに任せた方が上手くやってくれるわ」

一事が万事、そんな調子だ。

だらしがなかった。しっかりしていなかった。手がかかる相手だった。目が離せない相手だった。『母』に忠実ではなかった。殺し方だけでなく、生き方も自由があった。

地獄を見た。悪夢を見た。邪悪を見た。

もう一生、女は『恐怖』を忘れられないと、そう思っていた。

それが、黒い少女と一緒にいる間は、だらしない彼女を手伝ってやっている間は、刻み込まれたそれが、薄れてくれる気がして。

だから――、

「――エルザが、死んだ」

死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。

殺しても、死なない黒い少女――否、少女だった頃は終わり、彼女はエルザだった。

死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。

腹に槍が刺さり、両腕を肩から失い、首がへし折られるところも見たことがあった。

それでもエルザは死ななかった。死なないと、そう思っていた。

死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。

『母』の躾にも耐えた。地獄と悪夢と邪悪の『恐怖』にも耐えた。

でも、エルザは死んだ。一人に逆戻りだ。群れを失い、エルザを失い、一人だ。

死んだ。死んだ。灰になって、死んだ。

殺した。殺した。灰にして、殺した。

エルザを灰にしたものたちが、女を捕らえ、牢の中へと押し込めた。

――一人、暗い部屋の中、女は虚空に問いかける。

憎い、憎い、憎いのか。憎しみとはいったい、なんなのだ。

悲しい、悲しい、悲しいのか。悲しみとはいったい、なんなのだ。

嘆き方は知らない。抗い方も知らない。命の価値など、自分にすらない。

最初からそうだった。

エルザが死ぬ前から、黒い少女がエルザだと認識できるようになった前から、『母』と出会い、躾を受け始める前から、黒い少女に獣の群れを滅ぼされる前から、獣の群れを率いるようになる前から、獣の気紛れに命を救われる前から、本物の父と母と、いたはずの誰かたちから引き剥がされた頃から、女は欠陥品だった。

女は、ただ流されて生きてきたのだ。

獣といた頃は獣の生き方を真似て、『母』に躾けられてからは躾の言いなりになり、エルザと一緒に過ごすようになってからは口調すらも彼女を真似て、模倣して、倣った。

女は最初から、そういう生き物だったのだ。

人の真似をする、人型の生き物。望まれるまま、望んだように振る舞ってみせる。

女にできるのは他人の模倣、他者の真似事、人の形をした人ならぬモノ――。

殺してやろうと、思うものなのだろうか。

後を追いたいと、そんな風に思うものなのだろうか。

『エルザ』が死んだのならばどうするのがいいのか、『エルザ』を死なせたことのある誰かの真似をしたい。模倣をしたい。正しい、規範が見たい。

どうすればいいのか。『エルザ』を失った、女は、誰の真似をすれば。

わからないまま、時間が過ぎた。

その間にも、上辺を取り繕ったまま、女は周囲の望む女で在り続ける。

変化を望んだ。違った出来事があれば、状況が変われば、答えが出せるかもしれない。

あるいは『母』に、死を望まれることもあるだろう。――それも、いいかもしれない。

望まれるままに、流されるままに、求められるままの、自分を形作ってきた。

だったら、『母』が望むなら、この、特に価値を見出せない命を、奪われても。

――。

――――。

――――――――。

――――――――――――――。

――――――――――――――――――嫌だ。

そこで、終わるのは嫌だった。ここで、終わるのは嫌だった。

焦燥感が、心を灼く。望まれるままに生きてきた魂が、自らの望みを訴える。

せめて、答えが知りたいのだ。

『エルザ』を殺された自分が、どうすることができたらいいのか、答えが。

「――なんだ、お前もきてたのかよ、■■■■」

夜だった。

砂の塔の、書庫で、『死者の書』があるその場所で、後ろから声をかけられた。

振り返る。見知った、見慣れた、黒髪の少年が立っていた。

瞬間、心が跳ねる。内心に気付かれると、そう恐怖した。どうしてこの場にいるのか、そう聞かれたら、答えられない。

自分が、誰の書を求めて、こっそりとここへきていたのか、などと。

「俺はちょっと、探したい本があってな。ホントならみんなと協力した方がいいんだろうけど、逸る気持ちが堪えられなくて……」

何か、何か少年が言っている。

微笑み、小首を傾げ、弾む心臓の鼓動を隠して、普段通りを装った。

「――夜更かしするなよ、■■■■」

そう言われて、書庫を離れた。ゆっくりと歩く、次第に早足に、最後には走り出す。

何をしていたのか、見られた、知られた、気付かれた。

爪を噛み、眉根を寄せて、呼気が落ち着くまで女は蹲り続ける。

見られたくなかった。知られたくなかった。気付かれてはならなかった。

だが、全てはご破算だ。

女が、何のために、こんな場所まできたのか、わかられてしまった。

ならばいっそ、仕込んだ全てを動かして、本気で何もかもご破算に――。

衝動が脳を支配する。行き場のない感情に任せ、奥歯を噛みしめ、女は振り返った。

走り出した道を戻る。次第に足は緩まり、やがてゆっくりと歩いて、ついには靴音が消えるほど繊細な足運びで、『死者の書』の書庫へと舞い戻る。

地べたに座った黒髪の少年、背中をこちらへ向けている。

散らばっているいくつかの本、目的の『死者の書』を見つけたのか。もはや、その推測すらも妬ましいが、こちらに気付く前にいっそ――、

「――薄っぺらいなァ、お前」

自暴自棄な感情に支配され、衝動的な行為を咎められた気がした。

足を止めて、眼前、こちらを振り返らない少年の黒い後頭部を眺めているしかない。

音は立てずに、息も殺して、戻ってきたはずだ。

確かにエルザには遠く及ばないが、それでも、女にも足音を消すぐらいできる。

それが何故、バレたのだ。

「――――」

あらゆる思考が錯綜する。出たばかり、足音を消して戻ってきて、背中側にいるのを看破されて、今さらどんな言い訳が立つ。

――否、それでも、紡ぐべきだった。仕込みのこともある。この場を乗り切ればいい。どうあれ、女を連れてきたのは少年たちだ。それも織り込み済みだったはず。

悪びれずに微笑み、小首を傾げ、弾む心臓の鼓動を隠して、普段通りを装っ――、

「気持ち悪く媚びるなよ。誰も、お前にそんなこと望んじゃいない」

言葉を遮られて、押し黙る。

思考を巡らせ、考え込んだ。いったい、黒髪の少年は何が言いたいのか。

「すまし顔するなよ、言いなりのお人形。自分の胸の奥の、望みも聞こえねぇか?」

胸の奥の、望み。

そんな指摘が、何故かやけに重たく聞こえる。

「望みに耳を傾けろ。そうすれば、少しは自分ってもんが見えてくる。自分ってもんが見えてくれば、やりたいこともわかる」

やりたいことが、わかる。見えてくる、自分が。

やりたいこと、望み、それは――、

「――その顔、いいね。味わい深い」

気付けば黒髪の少年が振り返り、女の目の前に立っていた。少年の手が、女の垂らした三つ編みを掴み、ひどく倒錯的な快楽を宿した目で見つめてくる。

その、目の前の黒瞳から、目を離せない。

「自分の望みがわかったら、自分ってヤツが見えてきたら、もっと『らしく』行動しろよ。お前の退屈な悩みも、つまらない苦しみも、俺が覚えててやる」

言い切って、人の胸中を勝手に決め付けて、少年が女の髪の先端に口付けする。

込み上げる怖気と、しかし、微かな疼痛が胸を灼いた。

「――俺が、覚えていてやる」

自分の望みがわかったら。

自分というものが、ちゃんと見えたなら。

女は、■■■■として、するべきことが、『らしく』できるのか。

「――昨日の夜の話だけど、わたしはどのぐらい真剣に受け止めたらいいのかしらあ?」

一晩明けて、朝食も終えて、塔での次の行動を起こす前に、黒髪の少年に接触する。

眠れないくらい、考えた。考えに考えに考えて、それでも、答えは出せなかった。

少年も、まるで昨夜のことなどなかったかのような態度で、朝の女を迎えた。

だから、わざわざ機会を作って、声をかけた。逸る気持ちを抑え切れず、せめて、誰にも聞かれない場所へ連れ出してから、そうすればよかったのかもしれない。

「ここじゃなんだな。場所を変えよう」

その考えを、少年の方から提案してくれた。

場所を変える。適当な部屋に入って、昨夜の言葉の真意を問いたい。――そういえば、昨夜の書庫で、少年がみんなに話そうとしていたことは。

「悪いな、■■■■」

声が、耳元で囁かれた直後、軽い体を床に突き飛ばされた。

倒れ込む。背中を打って、声も出ない。そのまま、明滅する視界に、馬乗りになってくる少年の顔が見える。――見たこともないほど、凶悪な顔で嗤っていた。

「それを、直接聞くのはルール違反だ」

強い力で、首が圧迫される。

パクパクと口を開け、しかし、必要な空気が体に入ってこない。もがく。足掻く。首にかかる手に爪を立てる。足を、必死に動かした。

動かない。跳ねのけられない。こんな相手、エルザなら。

「今回はルール違反で脱落だが、次はもっと大胆な活躍を期待してるぜ。これまでみたいに、どしどし頑張ってくれ」

意味が、わからない。

何を言っているのか。何を言っているのだ。何を、言われているのだ。

「これはこれで、面白い話になる。――ナツキ・スバルの、殺人事件だ」

殺される。理解は、そこまでしか至らない。殺される。結局、何ができたのか。殺される。あの森で独りでいた頃から、何が。殺される。何もできないまま、意味などなく。殺される。楽しそうに。殺される。楽しんで。殺される。何かの児戯の一環のように。殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。殺される。

――殺して、やる。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「う、ぁぁぁぁぁ――ッ!?」

瞬間、弾かれたように頭を後ろへ跳ねさせて、■■■はその場にひっくり返る。

手に持っていたものを取り落として、視界がぐるりと回った。息苦しさに喉を喘がせ、呼吸困難に陥った肺がパニックを起こして痙攣する。

「ちょっ、スバル!?」

硬い衝撃に痛みを覚え、苦鳴をこぼした■■■へと銀髪の少女が駆け寄ってきた。その隣には淡い髪色の少女もいて、二人が同時にこちらの肩へ手を添える。

「わ、わたしは……あ、え、俺? 今、今、今今今、どう、な、え?」

「深呼吸! 深呼吸するのよ! 無理に喋ろうとしなくていいかしら! エミリア、本に触っちゃいけないのよ!」

ぐるぐると目が回り、口の端から泡を噴く■■■に少女が――否、ベアトリスが必死に呼びかけてくる。

ベアトリスの呼びかけに、本へと手を伸ばしかけた銀髪の――エミリアだ。そう、エミリアもまた、やはり手を引っ込め、慌てて頷いた。

「でも、ベアトリス、スバルの様子がおかしいわ! この本が……」

「だから、エミリアも同じ状態に陥られたら困るかしら! たぶん、深く潜りすぎたに違いないのよ。喋り方が混ざっているかしら」

ベアトリスの分析に、エミリアが頬を強張らせて息を呑んだ。そのまま、彼女はさっと■■■の方へと飛びつくと、その頬を掴み、自分の瞳と向き合わせる。

「スバル、思い出して。大丈夫、あなたはナツキ・スバル、私の騎士様。天下不滅の無一文、お控えなすって皆々様……それから、それから……」

エミリアが自分の記憶を手探りに、何やら素っ頓狂な言葉を並べ始める。

それを聞きながら、■■■は、■■ルは、ス■ルは、

――スバルは、自己を呼び戻した。

「お、れ……あ、エミリア、ベアトリス……俺は、俺、だよな? わたしじゃなく、俺で……エルザは、いなくて、えと……」

「大丈夫、落ち着いて。平気だから……ゆっくり、ゆっくりね?」

「棘みたいに、刺さった別の記憶をゆっくりと抜いていくのよ。それで、元のスバルにちゃんと戻れるはずかしら」

「う、く……」

エミリアと、ベアトリスが、スバルに――スバルだ。スバルに、語りかけてくれる。

その言葉に耳を傾けながら、何とか、今、見たばかりのものを整理する。

それこそ、最期の最期、生が途絶える瞬間までの、記憶を、何とかして、整理を。

「エミリア様、お待たせしました。道中、ラム女史に話を聞いて――」

「あの少女の名前の本が見つかったのは事実なのかい?」

そこへ、階段を駆け上がり、合流の遅れていたユリウスたちがやってくる。

ユリウスと、エキドナと、最後尾のラムが追いついて、不在のメィリィの名前が出た。その三人へと、エミリアとベアトリスが現状の説明を始める。

「――――」

それを、足下に落ちた本には無関心に、シャウラが静かに眺めている。

黒い瞳を細めて、感情の窺えない眼差しで、ただ、静かに。

――静かに、眺めていた。

※23日1時投稿から改稿しました。

コピペミスで予定していた最後まで貼れていなかったのと、書庫の「黒髪の少年」が書庫の外へ出ていると、翌朝、そこで発見される人物に矛盾が生じるので、やり取りを通路から書庫へと変更しています。ご確認をば。

第六章47 『わたしは許さない』

暗い、暗い、暗い、暗い、暗い、暗い、暗い場所。

頭の奥の、奥の、奥の、奥の、奥の、奥の、奥の、奥。

自分、俺、わたし、誰、あなた、お前、ナツキ・スバル、メィリィ・ポートルート。

菜月・賢一、エルザ・グランヒルテ、菜月・菜穂子、ペトラ・レイテ、エミリア、シャウラ、ベアトリス、フレデリカ・バウマン、アナスタシア・ホーシン、ガーフィール・ティンゼル、ユリウス・ユークリウス、オットー・スーウェン、ラム、青髪の、誰が、俺が、あなたが、わたしが、自分が、他人が、俺を、あなたを、お前が、わたしを――、

――自分、俺、ナツキ・スバル。自分、俺、ナツキ・スバル。

――誰、わたし、メィリィ・ポートルート。誰、わたし、メィリィ・ポートルート。

「――――」

ぐるぐるぐるぐると思考が回り、現実と非現実の曖昧な感覚の中、溶け合い、混ざり合い、絡み合い、慈しみ合い、憎しみ合い、苦しみ合い、愛し合い、求め合い、殺し合い、望み合い、壊し合い、脅し合い、わかり合い、泣き合い、笑い合い、理解し合えない。

自分は自分で、自分でしかなく、他人は他人で、他人でしかない。

そこに妥協の余地はなく、そこに譲り合いの慈悲はなく、そこにわかり合える土壌はなく、そこに互いを思える関係もなく、ただただ空虚に完結している。

「スバル……」

「――――」

頭を揺らし、懸命に自分の中の『他人』という名の棘を抜く作業に溺れる。

そんな息苦しさに喘ぐ少年を左右から支え、そっと肩に触れているのはエミリアとベアトリスの二人だ。その、二人の心配する眼差しを頬に感じながら、少年――ナツキ・スバルと呼ぶべき個体は、自己と他者の境を確定し、自分を取り戻そうと足掻いている。

巡る思考、溶け合ったことで正解の見えなくなる渦巻く感情。

肺が痙攣し、呼吸が苦しくなる感覚に喉に触れれば、途端に蘇ってくるのは首にかけられた強い圧迫感と、その後に襲いかかったじわじわとした窒息の恐怖。

『死』の迫りくる感覚が生々しく蘇り、嘔吐感の浮上がじわりと熱い涙を浮かばせた。

「――――」

その恐ろしい感覚と直面しながら、スバルは自分の中からゆっくりと、慎重に、自分のものではありえない要素を除外し、単体として成立しようと苦心する。

一人称、二人称、記憶、思い出、印象、感情、その他諸々を選別し、腑分けする。

そうやって、不純物を選り分け、混ざり合ったものが取り除ければ、戻れる。

そうしなければ、このまま、溶け合い、混ざり合い、剥がせなくなる。

自分と、自分の『この手』に殺された少女とが、一緒くたに混ざって――、

「――ナツキくん、君はいったい何を見た? それを話せるかい?」

「う、ぁ?」

その、人格撹拌状態のスバルに、すぐ正面から声がかけられた。

見れば、しゃがんでこちらに視線の高さを合わせてきたのは、浅葱色の瞳をした人物、アナスタシア――否、今はエキドナだっただろうか。とにかく、彼女だ。

そんな認識のスバルに、エキドナは真剣な色を瞳に宿したまま、言葉を重ねる。

「君が厳しい状況に置かれていることは察する。だが、現状はボクたちにとっても由々しき事態だ。できるなら早急に情報が欲しい。対処を、誤らないためにも」

「待って、エキドナ。今、スバルは大変な思いをしたばっかりで……」

「無論、それは承知しているよ。その無茶が、この場の全員のためであったことも理解しているさ。だからこそ、彼の判断に迅速に応える義務がボクたちにはあるはずだ」

掠れた息をこぼすだけのスバル、それを庇おうとしたエミリアにエキドナの主張が突き刺さる。

語りながら、エキドナの視線が一瞬、ちらりと背後の床に落ちた本に向いた。分厚く黒い装丁、その背表紙に目を留め、「何故なら」とエキドナは言葉を続け、

「ボクたちに同行した幼い少女が行方知れずなんだ。その上、死者の記録が残るとされる書庫で、その少女の名前と一致すると思しき書が見つかった。……事態は深刻だ。ボクたちに、足踏みしている余裕はない」

「それは……そう、だけど」

エキドナの低い声の主張に、エミリアもとっさの反論ができない。

実際、エキドナの訴えは正論だ。

この異常事態の中、唯一といっていい情報を握っているスバル。その心情を慮り、落ち着くのを待ってあげようなどという余裕は全員にない。

それがわかっているから、エキドナは批難されるのを覚悟で、心を鬼にしてスバルに質問を投げかけてきているのだ。

その覚悟に、スバルもまた強く奥歯を噛みしめ、己の首に手で触れた。

力一杯に、絞められた感触が蘇る。目をつむった。

そして――、

「改めて聞こう、ナツキくん。君が見た、本の内容は――」

「――メィリィの、記憶、だった」

「――――」

エキドナの問いかけに、スバルは誤魔化すことなく、真っ正直に応じる。

途端、隣のエミリアが息を詰め、正面のエキドナも瞑目した。同席するベアトリスやユリウス、ラムの表情にもそれぞれの動揺と悲痛な色が過る。

『死者の書』が、メィリィの記録をスバルに見せた。

それが意味するところを、理解できないものはこの場に一人もいない。

これが何かの間違いで、メィリィの記録の本は手違いで用意されたものではないのか。そんな無責任な希望に縋り付ければどれほど楽だろう。

しかし、その欺瞞に身を委ね、楽な方へ逃れたがるものはこの場に一人としていない。

とりわけ、苦悩に頬を硬くしたスバルの隣で、その心を支えようとしてくれている少女たちは特に。

「落ち着くのよ、スバル。落ち着いて、自分を取り戻すことに集中するかしら」

「……わ、るい」

「いいのよ。こんなときぐらい、ベティーに全力で寄りかかるかしら。……これは、スバルだけのせいじゃないのよ。思い詰めたらダメかしら」

「――――」

立ち上がったベアトリスが、呼吸を乱したスバルの頭を抱きしめてそう告げる。

そのまま黒髪を撫でる少女の掌が、千々に乱れるスバルの心を水際で引き止めながら、何とも残酷に掻き回すのだから皮肉な話だ。

スバルのせいではないと、ベアトリスは慈悲深くそう言ってくれた。

だが、これは誰のせいでもなく、『ナツキ・スバル』の犯した罪だ。それを知らず、優しく語りかけるベアトリスが、あまりにも滑稽で、悲しく思えた。

「――ラム女史、あなたはどう考えている?」

と、そんなやり取りを交わすスバルとベアトリスを横目に、真剣な面差しのユリウスがラムの方へと水を向けた。

比較的、この二人の表情に衝撃の色は少ない。それはメィリィの記憶を辿れば、この二人が一行の中で、メィリィを常に警戒していたからだと知れる。

少なくとも、メィリィの感じる範囲で、ラムとユリウスの二人は殺し屋であったメィリィへの警戒を欠いていなかった。

逆に、エミリアとエキドナの油断は強く感じていたが。

「今のスバルの言を信じるなら、メィリィ嬢はすでに……」

「あの体たらくで嘘がつけるほど、バルスは器用でも薄情でもないでしょう。……そこの本がメィリィの本なのは間違いないわ。問題は誰かが追加で確かめるか、ね」

自分の細い腕を抱いて、ラムがいまだに地べたに落ちたままの本を睨んで言う。

その話を受けて、ユリウスは思案げに眉を寄せると、

「――私なら」

「二度目だから余裕がある、とでも? 二度目というなら、同じ条件のバルスがあの様よ。もちろん、精神面で未熟なバルスには特に響いた、とも考えられるけど……」

「――――」

「生憎、ラムは今のユリウスの精神が、バルスより安定しているだとか、マシだなんて評価していないわ」

真っ直ぐ、薄紅の瞳を鋭くしたラムの言葉に、ユリウスが息を詰めた。

だが、彼はすぐに「道理だ」と首を横に振った。

「……辛辣だが、ラム女史の言葉に反論する根拠が私にはない。昨日、身勝手な独断専行をした体たらくでは、その資格がないだろう」

「ボクも、残念だが同意見だ」

ユリウスの自嘲した物言いに、挙手したエキドナが割って入る。彼女は首元の白い襟巻きの毛並みを指でいじりながら、

「ただし、ボクの主張の根拠はユリウスの精神状態の是非ではないよ。あくまで、ナツキくんの様子を見て、危険な試みであるから反対したいと述べているだけさ」

「危険、なのは事実でしょうね。明らかに様子がおかしいし」

「そうだね。前回より、本を読んだことの影響が色濃く出ているように思える。これが回数の問題なのか、読んだ本が問題なのかは判断に困るところだ」

「回数と、読んだ本の問題、ですか?」

首をひねるラムとユリウス、その二人にエキドナは「ああ」と頷く。

「単純に、多くの本を読めば読むほど負荷が増していく仕組みなのか……あるいは、自分と近しい人間の記録を見ると心が歪むのか、可能性は二分されると思う」

「近しい人間、ね」

指を立てたエキドナの推測に、ラムがスバルの方へと目を向ける。その視線を浴びながら、スバルはベアトリスの薄い胸の中、叫び声を上げないように必死だった。

おそらく、エキドナの推測は正しい。

スバルの心が、こうまで強いダメージを受けた原因は、彼女の推測の後者――親しい、あるいは見知った間柄の相手、その記録を見たことによる負荷が原因だ。

より近しい間柄の関係者――その、生々しい『命』の記録がもたらすモノは大きい。

当然だが、人は遠い間柄の相手より、身近な相手のことへ関心を持つものだ。

スバルもまた、事実としてそれを願った。事実としてスバルがメィリィと、半ば精神が合一化しかけたのは、それだけ深く、彼女を知りたいと踏み込んだせいだ。

結果、スバルは『わたし』の奥底で、計り知れない虚無と向き合うことになった。

あの幼い少女が、延々と抱え続けてきた、命という惰性の虚無感を――、

「――とにかく、じっとなんかしてられないわ。メィリィを、探しましょう」

そこへ、強い空気の破裂音が響き渡った。

それをしたのは、胸の前で両手を合わせ、しっかりと顔を上げたエミリアだ。書庫の注目を自分に集めたエミリア、彼女の言葉にスバルは目を丸くする。

「探す……?」

――探す、探すとは、何なのだ。それに、何の意味があるのか。

――メィリィは、彼女は、『わたし』は、もう死んでしまったのに。

――死んでしまう前は、気にもかけてくれなかったくせに。

「見つけても、もう遅いのかもしれない。私たちは、あの子と一緒にいてあげるべきだったのに、それができなかったのかもしれない。でも、見つけてあげなくちゃ」

「――――」

「誰も、あの子がどこにいたのか知らないでしょう? まず、見つけてあげて……それから、してあげられることを探すの。探しましょう」

エミリアの、その言葉には具体性がなく、堅実や賢明とは程遠い。

そんなことに何の意味があると、スバルの中の『わたし』の主張は変わらないまま。もっと、有意義な時間の使い方があるはずと、リアリストなら反論したはずだ。

しかし、エミリアのその提案に、この場の誰も反対しなかった。

それは間違っていると、真っ向から否定するものは一人もいなかった。

だから、エミリアの提案に続いたのは、現実的に、その提案を実行するための話し合いであり、手分けした行動の宣言だった。

「日中の方針は変更せざるを得ないだろうね。手分けして、彼女を探そう」

「ラムは……先に、レムの無事を確かめにいくわ。エミリア様やバルスたちを呼びにいく前、ずっと精霊の部屋にはいたけど……今、もう一度」

「ラム女史はそれがいい。……スバル、酷なようだが確かめたい。君が、『死者の書』で見たのは、メィリィ嬢の最期の瞬間も含めて、だろうか?」

言葉を選んだユリウス、その問いかけにスバルは返答を躊躇った。

メィリィの最期を見たのかと、その問いかけの答えはYESだ。スバルはこれ以上ないほど身近に、メィリィの『命』が失われる瞬間を味わった。

首を絞められ、息苦しさに意識が遠のき、絶望と憎悪で思考が埋め尽くされ、それが唐突に途絶える。――あの瞬間こそが、命の電源が落ちた瞬間だったのだろう。

それを体感したナツキ・スバルは、あろうことか彼女の亡骸の隠蔽に加担した。

『わたし』を殺した男に、ナツキ・スバルは協力している。他ならぬ、この世で最も憎悪すべき『ナツキ・スバル』に、『わたし』を知るナツキ・スバルが。

「――ナツキくん、答えてほしい。君は彼女の最期を見たのかい? 彼女が今、どこにいるのか。いったい何が死の原因なのか、見届けたのか?」

「――――」

言葉を返せないスバルに、エキドナが可憐な顔立ちに怪訝を宿して追及する。

その言葉に感情がささくれ立つ。心臓の鼓動が速くなり、じっとりと背中を汗が濡らしていく。それを、傍らのベアトリスに気付かれないか、それが恐ろしい。

――本当は全員、メィリィの死にスバルが関わっていると知っているのではないか。

知っていて、空っとぼけて、スバルから自供を引き出すために、こんな迂遠な手口で追い詰めようとしているのではないか。そんな、馬鹿な考えすら脳裏を過る。

だが、そんな考えが浮かぶたびに、向けられる視線の色がそれを否定するのだ。

エミリアが、ベアトリスが、エキドナがユリウスが、スバルへ向ける瞳が。

血で汚れた手と薄汚れた思考で、必死に自分を守ろうと足掻いているスバルだけが、醜く腐った心の持ち主なのだと、そう思わされる。

だったら、いっそのこと、『わたし』の願いに耳を傾けて――、

「――死ぬところまでは、見てない。塔の中なのは、間違いないはず、だけど」

その、『わたし』のもたらす誘惑を、スバルは噛み殺して否定した。

内心に芽生えつつある危うい感情――それは、ナツキ・スバルに罪を告解させようとしている、メィリィ・ポートルートの残した甘い呪いだ。

スバルの中に、確かに生まれた考え。

メィリィの亡骸を、エミリアたちに見つけてもらいたい。見つけて、悔やんで、後悔して、悲痛に歪んだ表情を見て、心にわだかまった感情の溜飲を下げたい。

それがもはや、ナツキ・スバルと、『わたし』と、『ナツキ・スバル』と、いったい誰が望んでいる感情なのか、自分でもわからなくなりつつあるけれど。

「……もう一度、本を読む気力は残っているかい?」

「エキドナ!」

決定打を出せないスバルに、エキドナが無慈悲とも言える提案を投げかける。一瞬、スバルは「やれと言われれば」と応じようとしたが、それより早く、ベアトリスが噛みつくように吠えていた。

スバルの頭を抱いたまま、ベアトリスは丸く大きな瞳を鋭くして、

「ベティーに、なんて名前を叫ばせるのよ……! とにかく、そんな真似はさせられないかしら。これ以上は、感情と別の理由でベティーは反対するのよ」

「混ざる危険性を思えば、ボクだって推奨はしない。あくまで、その覚悟があるかを確かめたかっただけだ。やると主張してもやらせるつもりはなかったさ」

「……それがお前の本音だと、そう祈っておくかしら」

意見を引っ込めるエキドナに、ベアトリスが強い怒りを込めた声で言い捨てる。

そのまま、不穏な空気の漂う二人の間に、エミリアとユリウスが同時に割って入った。

「そこまでよ。私も、スバルにこれ以上の無茶をさせるのは反対。いつまでも、ここで話し合ってるのも、反対。……早く、動き出したいの」

「エミリア様に同意見です。――状況的に、メィリィ嬢に何かあったとすれば事故の可能性が高い。階段やバルコニーで足を滑らせたり、塔の外へ出てしまった可能性は……」

「――それはないッスよ」

ふと、それまで話し合いに参加していなかったシャウラが、ユリウスの口走った懸念を否定するために口を挟んだ。

彼女は自分の足下、そこに落ちていたメィリィの『死者の書』を拾い上げると、背表紙を指で摘んで左右に揺すりながら、

「もし、チビッ子2号が塔の外に出てたんなら、あーしがキリングマシーンになってたはずッスもん。それがないってことは、誰も外に出ちゃいねーってことッスよ」

「何となしに、触るのが躊躇われた本にあっさりと触るものだね」

「床に広げっ放しってのも、何となくあーし的に落ち着かないんで。もしか、これが書庫への不敬って判定されて、あーしプレゼンツのキルゼムオールってのも本意じゃないッスからねー」

言いながら、シャウラが『死者の書』を自分の手の中でぽんぽんとジャグリングのように投げ回す。

書庫への不敬を恐れるわりに、といった態度だが、それ以上に不謹慎な趣の方が強い。

実際、その態度にユリウスは形のいい眉を顰めた。

「シャウラ女史、その本で遊ぶのはやめてもらいたい。あなたには……」

「悲しむ心がないのか、的なことッスか? そんなこと言われても知らねッス。確かにチビッ子2号はあーしにべたべたしてたッス。あーしも、別に2号のこと嫌いじゃなかったッスけど……究極、あーしはお師様以外のことはどーでもッスから」

あっけらかんと、シャウラはあけすけに笑ってユリウスの言葉をはねのけた。

そこに強がりだったり、偽悪的に振る舞った素振りは見受けられない。それがシャウラの疑いなき本音なのだと、少なくともスバルにはそう信じられた。

つまるところ、彼女もまた、常人には理解し難い心情で動く存在の一人なのだ。

――否。元々、スバルにはこの場の、極々限られた時間しか接していない、彼女らの本心を理解する能力など備わってはいないのではないのか。

笑顔の仮面の裏側に、人はどれだけ複雑な感情を、顔を、隠しておけるだろうか。

それを今まさに、『わたし』の命を咀嚼して、痛感したばかりだというのに。

「――手分けして、メィリィを探しましょう。スバルは、ベアトリスとここにいて」

そんなスバルの自責と、シャウラの残した歪な雰囲気。

それらを一言で両断し、エミリアが行動を促すための声を上げた。彼女の指示に、スバルはひどく恥知らずな心情を覚える。

『わたし』を、見つけて、もらいたいと――。

「ベアトリス、スバルをお願いね。レイドのところは、私が見てくるから」

「適任なのよ。――エミリアも、お前たちも、気を付けるかしら」

言葉を交換し、願いを託し、エミリアとベアトリスが役割を分担、健闘を祈り合う。

それから、エミリアはラムやエキドナたちを連れ、メィリィを捜索するために塔の中へと散っていった。

その遠ざかっていく背中を、スバルはかける言葉もなく見送り――、

「――それで、お前は一緒にいこうとは思わないらしいのよ」

捜索組を見送り、書庫に残されたスバルの隣で、ベアトリスが佇むシャウラを睨みつけながら言い放った。

そのベアトリスの厳しい目に、シャウラは「だってぇ」と甘く語尾を伸ばし、

「あーしの役目って、あくまで星番ッスよ? そりゃ、その冠を取ったら、あーしは身も心もお師様のもんッスから、お師様のお願いなら全力で聞くッスけど」

「なら、お前もメィリィを探しにいくべきかしら。こんなところにいたりしないで」

「――ホントに、そうッスか?」

ふと、シャウラが首を傾げ、どことなく艶っぽい眼差しをスバルの方へ向けた。

ベアトリスの頭を飛び越え、彼女はスバルに直接、問いを投げかける。そこには独特の妖艶さ――色の気配の強い見た目に反して、あけすけで幼く、かえってそういった気配の縁遠いように思えたシャウラが、初めて見せる表情があった。

「――――」

その不意打ちのような色香に、スバルの心臓がまたしても強く跳ねる。思わず顔を上げ、その思惑の読めないシャウラの黒瞳を見返した。

シャウラはそのスバルの顔に、悪気のない様子で唇を緩め、そっと自分の豊満な胸の前に『死者の書』を抱き寄せる。

「お師様が望むんなら、あーしは月を撃ち落とすことだってしてみせるッス。だから、半魔とかチビッ子1号、イキャメンの頼みじゃなく、お師様に聞きたいッス」

「俺に……」

「お師様、あーしはどうしたらいいッスか? チビッ子2号、探しにいくッスか? それとも……」

そこで言葉を切り、シャウラはその先を口にしなかった。

ただ、スバルの判断を仰ぐと、『死者の書』を胸に抱きながら、シャウラは控える。そんな彼女の揺るがぬ態度に、スバルは自己を顧みて、考えあぐねる。

いったい、自分の感情の正解がどこにあるのかを。

「――――」

エミリアたちの提案、あれに対する相反した感情こそが、今のナツキ・スバルという存在の矛盾した在り様を如実に証明している。

――メィリィ・ポートルートの、決して長いとは言えない人生。

それを『死者の書』を読み解くことで、ダイジェスト的に、好きなところだけつまみ食いするかのように冒涜的に咀嚼し、嚥下して、見えない胃袋で消化した。

『わたし』の命を、『ナツキ・スバル』は二重の意味で、味わい尽くしたのだ。

結果、ナツキ・スバルと『ナツキ・スバル』の混在した意識は、全く根本から異なる少女性を取り込むことで、半ば分裂症に近い精神性へと分かたれる。

――スバルは、メィリィの『死』に関わったことを隠したい。

――スバルは、自分が隠したメィリィの死体を見つけてほしい。

――スバルは、『わたし』を殺した『ナツキ・スバル』を憎悪している。

故に、スバルの中に矛盾した願いが生まれ、それを叶えるために行動させる。

「――シャウラ、メィリィを探してこい。エミリアたちを、手伝ってくれ」

気付けば、スバルは指示を待つシャウラに向かって、そう命令を出していた。

その指示を受け、シャウラは眉を上げると、姿勢を正して敬礼する。

「リョーカイッス。お師様のお望みなら、あーしは何でもえーんやこらーッス」

可愛らしく敬礼しながらウィンクし、シャウラがスバルへと本を差し出した。とっさに黒い重みを感じる本を受け取り、顔をしかめるスバルにシャウラは舌を出す。

それが悪戯っぽく、何かの意趣返しのような表情に見えた途端、彼女はさっとスバルに背を向け、ひとっ飛びに書庫の階段を飛び降りる。その背中で踊る黒髪が見えなくなるのを見届け、妙な圧迫感から解放されたスバルが吐息をこぼした。

「おかしな、もんだな……」

――死体が見つかり、犯行への関与を暴かれたくない冤罪のナツキ・スバル。

――亡骸を見つけてもらい、無念と怒りを晴らしてほしい被害者の『わたし』。

――殺人と理不尽を他者に押し付け、邪悪を重ねる加害者『ナツキ・スバル』。

これらが一つの肉体に混在し、ナツキ・スバルに決断と選択を迫ってくる。

真に自分の安寧だけを願うなら、スバルはメィリィの生死に口を噤み、もっと頭を働かせて、『死者の書』の内容を誤魔化すべきだった。

そうできなかったのは、スバルにそこまでの知恵が巡らなかったことも事実だが、それ以上に、『わたし』の無念への共感と、『ナツキ・スバル』への敵愾心――あの、邪悪な存在を野放しにしてはならないという、己への怒りがあったからだ。

前回、前々回、さらにその前と、誰かがスバルを死に追いやったことは事実だ。

だがそれすらも、スバルの内に潜む『ナツキ・スバル』が企てた、他者を憎み、スバルを暴走させるための罠だったのではないかと思える。

やはり、『死者の書』を読む前に考えたことが、正しいのではないか。

エミリアたちも、メィリィも、誰一人、本当の悪人なんていなくて、邪悪なのはナツキ・スバルただ一人だけなのではないか。

「スバル、あまり思い詰めたらダメなのよ。その本も、手放した方がいいかしら」

「――――」

ちらと見れば、すぐ傍らに跪くベアトリスがスバルを心配そうに見つめている。

真正面から、スバルのことを心配してくれている眼差し――エミリアが浮かべていたものと同じ光に射抜かれて、スバルの胸中を居心地の悪い感情が占める。

この、ベアトリスが向けてくれる感情――それは本来、ナツキ・スバルである自分に向けられたものではなく、『ナツキ・スバル』にこそ向けられたものだ。

それを、記憶をなくしたことを隠している自分が受け取り、なおかつ『ナツキ・スバル』の本性を知りながら黙っていることが、ひどく不誠実なことに思えてならない。

伝える、べきではないのか。

知らない間に、メィリィの命を奪うような凶行に及ぶのが今のナツキ・スバルだ。ならばその危険が、再びエミリアや、ベアトリスたちへ向けられる前に、全てを――、

「……なんで、お前は、そんなに優しいんだ?」

「――。また、ずいぶんといきなりな質問なのよ。どうしたっていうのかしら」

「いや……」

決定的な一言で、この借り物の関係性をひび割れさせるのだとしたら、そうなる前に聞いておきたかったのかもしれない。――本音を。

エミリアや、ベアトリスや、仲間たちが、『ナツキ・スバル』に向ける信頼の、意味。

「――――」

信頼と、それを深く考えた瞬間、スバルの胸中に澱みが生じる。

『わたし』がエルザへ向けていたもの。エミリアたちが、この世界で、ナツキ・スバルに親しく接してくれる彼女たちが、『ナツキ・スバル』へと向けるもの。

ナツキ・スバルだけが持ち得ない、眺めるだけしかできない、宝石。

その痕跡を、その残り香を、名残りを、あったはずの温もりを、どうして、ナツキ・スバルだけが、こんなにも間近で見せつけられなくてはならないのか。

「――――」

何故、あんな男が。

何故、あんな残酷な人間が。

何故、ああも醜悪に嗤う男が。

何故、エルザの死に関わった男が。

何故、メィリィを嗤って殺せる男が。

何故、『わたし』の死を隠そうとした男が。

何故、あんな男が、男が、男が、好かれる。彼女たちに、好かれるのだ。

「――――」

知りたい。知らない。知りたい。知らない。自分だけが、スバルだけが、『わたし』だけが、理由を知らない。知れない。知り得ない。一方的に、何もかも、一方的に。

「――――」

聞けばわかるのか。聞けば問えるのか。教えてもらえるのか。

それが本音だと、そう思えるのか。『わたし』が浮かべていた笑顔は、見せていた笑顔は偽物で、その胸中には虚無があって、仮面は誰もが被るもので、ナツキ・スバルだって、家の外の姿を、父親にも母親にも見せたがらなかったくせに。

ならば、真実を知る方法は、どこにある。

本音を、本心を、彼女たちが、どうして、『ナツキ・スバル』を信じるのか。

それを知る、方法――『わたし』が、教えてあげちゃおっか?

「――――」

脳裏に響く声が、残酷にナツキ・スバルを誘惑する。

そして、自分の頭蓋を支配した難問の、その答えが身近にあると、気付いた。

今も、自分の腕の中に、答えを知る術ならあるではないか。

「スバル?」

押し黙ったスバルを見つめ、ベアトリスが不安げに瞳を細める。

その彼女の視線に向き直らずに、スバルはただ、自分の腕の中を見下ろした。

「――――」

――黒い、分厚い本が、知りたがりの好奇心を、惨たらしく歓迎しているように見えた。

第六章48 『――殺人は、癖になる』

「――――」

腕の中の『死者の書』、その黒い表紙を見つめながら、スバルは押し黙っていた。

すぐ傍らに寄り添うベアトリス、彼女の心配げな、あるいは怪訝とした視線が横顔に突き刺さってくるのを感じながら、しかしスバルは動くことができない。

直前まで、ナツキ・スバルの脳を支配していたのは、答えの出ない禅問答のような自問自答だった。

実際、スバルの頭の中を占めていたのは、多くの場合、考えるだけ無駄だと切り捨てられる類の浅はかな思考でしかない。

鼻で笑われて然るべきの、子どもが抱くあやふやな疑問だ。

――どんな人間であっても、他人に見せるものとは別の顔を隠している。

そんな当たり前の事実、子どもから大人になる過程で誰もが学んでいくことだ。

笑顔の裏側に憎悪の表情が、怒りの形相の裏に悲しみの泣き顔が。そうした実際の感情を隠しながら、何ともないように他人と接することができるのが人間なのだ。

そんな人間の本心、本音、本性を、他人が百パーセントわかることなんてできない。

兄弟、姉妹、親子に夫婦、家族であろうと完全にはわかり合えない。

友達、幼馴染み、親友に恋人、どれだけ関係を深めたところで本心はブラックボックス、決して暴くことはできない。

愛していること。好ましく思っていること。心を許していること。体を許していること。そうした様々な心身の結び付きと、これは全くの別問題なのだ。

そうとも、それはわかっている。だが、だからといって、考えは放棄できない。

知りたい、わかりたい、聞きたい、暴きたい、それは傲慢だが切実な願いだった。ましてや、自他の命が懸かった状況となればなおさらだろう。

たとえ、それが決して成立しない、存在しない手段であったとしても。

――否、存在しない、はずの手段だった。

存在しないはずの手段だから、考えを模索することは無為なことだと鼻で笑われた。

しかし、このタイゲタの書庫で、スバルは知ってしまった。

「――――」

――メィリィ・ポートルート。

『死者の書』を読み解くことで、スバルはメィリィの人生を追体験し、彼女がどんな思惑で動き、何を考えていて、最後に誰を憎んでいたのかを理解した。

無論、あの極々短い追体験が、メィリィという少女の全てではない。

一瞬の出来事として脳に全てを受け入れるには、時間という概念はあまりに膨大だ。幼い少女の半生といえど、生中に器に取り込み切れるものではない。

要所をつまみ食いし、好き勝手に咀嚼して、メィリィをわかった気になっている。

それが、今のナツキ・スバルの心情なのだと、痛いほどに理解していた。

だが、しかし、それでも、なお。

彼女を欠片も理解できていなかったという事実を理解することで、スバルのメィリィへの理解は以前とは比較にならないほどに深まった。

――『わたし』が大切に思っていた人間がいたこと。それを奪われ、寄る辺を失った心が彷徨い続けていたこと。それをしたスバルたちと一緒にいることで、曖昧になる自分の立ち位置に苦心していたこと。自分の本心を知ろうと『死者の書』を求めて書庫へ入り、そこで思惑を知られたことを恥じて、絶望さえしたこと。

何もかも、スバルの知らないメィリィだった。

そして、図らずも彼女の胸の奥の秘めたる想いを知って、スバルは気付いてしまう。

この、『死者の書』こそが、真に嘘偽りのない、他者の本音を知る術ではないかと。

「――――」

知りたいと、そう願ったばかりだった。

エミリアの、ベアトリスの、塔内にいる仲間たちの思惑を、本音を、知りたいと願ったばかりだった。彼女たちが、何故、『ナツキ・スバル』を信じるのかを。

どうして、彼らは『わたし』を殺した『ナツキ・スバル』を信じるのか。

今、必死で唾棄すべき存在である『ナツキ・スバル』を演じているスバルには、どんな思いを抱いて接してくれているのだろうか。

親愛は偽装で、憎悪こそが真実で、怒りや悲しみや喜びは仮初のもので、敵意とか害意とか悪意とか、そういったものこそが本物の彼女たちの想いなのではないか。

わからない。わかりたい。信じたい。信じられない。

エミリアたちは味方なのか、敵なのか、スバルを殺した敵なのか、生かす味方なのか。

愛せるのか、愛せないのか。憎めるのか、憎めないのか。

――その答えが、彼女たちの『死者の書』を読むことで、理解できるのではないか。

「……スバル、やっぱり調子が悪そうなのよ。ここにいるのが落ち着かないなら、場所を変えて休んだ方がいいかしら」

考え込むスバルの肩に触れて、ベアトリスがそんな風に提案する。

特徴的な、蝶のような紋様の描かれた青い瞳に囚われて、スバルは微かに息を詰めた。ちらと見れば、少女の小さな、小さすぎる掌がスバルの肩の上にある。

この手を取り、力一杯に頭を押さえ付け、床に叩き付けたらどうなるだろう。

「ちっちゃい、な……」

「む……いきなり何を言い出すのよ。このミニマムさこそが、ベティーの愛らしさの最たる所以かしら。スバルも、そう言ってたはずなのよ」

むくれ顔で言い放つベアトリスに、スバルは思わず頬を緩めそうになる。

確かに、本調子のスバルなら言っていてもおかしくない。そこに、自分と『ナツキ・スバル』との相似点がある気がして、すぐに笑みが苦々しいものに思われる。

小さい。本当に、ベアトリスは小さい、子どもだ。

首は細く、骨も柔らかい。肩の上の手なんてスバルの掌ですっぽり覆えるぐらいに小さくて、ちょっと本気で力を入れて抱きすくめれば、全身が砕けてしまいそうに儚い。

力一杯、それを行動に移してしまえば、簡単に殺せてしまえそうだ。

――殺してしまえば、命がなくなれば、彼女の本も書庫に現れるのだろうか。

『わたしに、そうしたみたいにねえ』

「――――」

ふと、考え込む脳裏に、スバルのものではありえない声が響いた。

どことなく甘く、年齢に見合わないほど艶めく、しかし妙に『馴染んだ』声色で。極々短時間の間に、我が事のように感じられるほど身近となった声。

己の中に取り込んだ、死せる少女の声色が、ナツキ・スバルの意思を嘲弄する。

「――――」

しかし、スバルはそれに取り合わず、目の前の事柄に意識を集中する。

すなわち、現実的な尺度として、『死者の書』を活用する道は有りか無しか。

有りだとしたら、どうやってそれを形にするのか――、

「顔色が悪いかしら。やっぱり、場所を変えるのよ。その前に……」

「――あ」

「元の位置に戻しておくだけかしら。今はベティーまで朦朧とするわけにいかんのよ」

言って、ベアトリスが硬直するスバルの手から『死者の書』を取り上げる。彼女は慎重な手付きで、本が開かれないように抱え込むと、本が元々刺さっていた書架へ向かい、ぽっかりと空いたスペースにその本を戻した。

「位置的には、わかりやすくて覚えやすいかしら。ただ、この書庫の本は勝手に移動する可能性があるから……」

「安全策とは言えない、か。……それは、うん、そうだな」

「持ち出しも、かなり危ないって考えるべきなのよ。床に投げ出しておくのも、シャウラが気にしてたからやめておくのが無難かしら」

「一期一会の図書館、って感じだな」

渇いた口調で会話を交わしながら、スバルはそんな調子で言葉を吐く。

実際、スバルの知る方の世界でも、発行年数の経過した本との出会いは一期一会なんて言われ方はよくするものだ。旅先で見つけた古本屋など、機会を逃せば二度と出くわせない可能性のある本、そうした思惑が、この書庫にもあるのかもしれない。

さすがに、それは考えすぎか。単なる嫌がらせと思っていた方が間違いない。

ともあれ、そうして油断なく、可能な限り本の配置を頭に入れようと苦心しているベアトリスの背中を眺めながら、スバルはより深く、思索の海へ潜っていく。

ひどく現実的に、触れていた温もりから命を逆算し、少女の殺し方を模索する。

考えるべきはベアトリスのものだけではない。塔内にいる、同行したメンバー全員が、スバルの『死者の書』計画の標的になり得る立場なのだ。

『信頼できるか、疑った方がいいのか、見極めたいから殺そうだなんてえ、お兄さんったらすごおく歪んでるわあ』

茶々を入れてくる少女の声に、スバルは内心で舌打ちした。

最初に断っておきたいのが、あくまでこれは必要に迫られた思考実験ということだ。

決して、スバルは殺人衝動に支配されたサイコパスではないし、そうした行いで快楽を満たすような変態的欲求の持ち主でもない。

ただ、現実的に、合理性を突き詰めたとき、この選択が最初に頭に浮かんだだけで。

『言い訳はいいからあ、何をするつもりなのか説明してくれないかしらあ?』

――ベアトリスの、排除の仕方は簡単だ。

今、スバルに見せる背中からも、無防備、無力、無警戒が窺える。

はっきり言って、ベアトリスの命は薄皮一枚の『スバルの理性』によって、頼りないバランサーが繋ぎ止めているに他ならない。何らかの形で、それこそ合理性が理性を上回ったとき、スバルはあっさりと、彼女の命を奪い取ることに成功するだろう。

ベアトリスに関しては、やるかやらないかの選択肢があるだけで、その手前の枝葉のような無数の分岐は丸っと無視することが可能に思えた。

『じゃあ、半魔のお姉さんはあ?』

エミリアなど、もっと簡単、楽勝だ。

彼女は一度、目覚めたばかりのスバルに細い首を掴まれても、何の抵抗も見せなかった過去がある。あのまま、スバルが腕に渾身の力を込めていれば、あんな細い首、簡単にへし折ることができただろう。

確かに、彼女にはプロレスラーもかくやという腕力があったが、それを発揮させなければ何のことはない。一瞬で、力一杯、首を絞めてやれば。

『ふふふっ、それ、得意だもんねえ』

――。ラムも、言葉こそ鋭いが、その本質はか弱い少女でしかない。

涙ながらに額を押し付け、スバルに記憶の是非を懇願した際のことが思い出される。必死に取り縋る彼女の腕は細く、力は弱く、あれは一人の、儚い少女だった。

エキドナも、条件は同じだ。こうして考えてみれば、か弱い少女ばかりで、よくぞ砂漠の果てなど探索しにきたものだと、人選ミスを痛々しいほどに感じる。

もっと適した人員がいくらでもいただろうに、人材不足も深刻だ。

故に、スバルに付け入る隙があるわけだが、最後の関門は話が別だった。

「――ユリウス」

唯一、スバルと同じ男であり、剣まで手にした人物が障害として立ち塞がる。

彼だけは、真正面から仕掛けることが正解とは言えまい。――真正面から仕掛けるという条件になると、エミリアに挑むのも自殺行為なのだが、それはまた別の話だ。

ともかく、『死者の書』計画を実行に移すのであれば、最大の壁となるのが彼だろう。

それは言い方を変えれば、最初に倒すべきがユリウスである、ということでもある。

『本を探す時間を考えると、時間はいくらあっても足りないものねえ?』

少女の言葉通り、スバルの目的は「はい、殺しておしまい」というものではない。

むしろ、殺すのは必要だからしなくてはならない通過点であり、本命はその先の、死と引き換えに得られる『死者の書』の方にあるのだ。

そのためにも、確実を期す必要がある。

殺した、失敗した、では終われない。その先に、目的の場所があるのだから。

「スバル、ひとまず本はあれで良しとするのよ。ここは離れて……いったん、精霊の部屋にでもいくかしら。あそこなら落ち着けるはずなのよ」

「精霊の、部屋……」

戻ってくるベアトリスに手を引かれ、軽い体重に立ち上がらされるスバルは、精霊のいる部屋と聞かされて、自分のリスタート地点を思い浮かべる。

あの場所が精霊の部屋、そしてあの場所には――、

「パトラッシュ……」

「……また、あの地竜の名前を。まったく、心配し甲斐のないパートナーかしら。ベティーの方が心配してるのに、納得がいかないのよ」

「……わ、悪い。別に、なんだ、その、他意はないんだ」

一瞬、黒い地竜の姿が頭を掠め、スバルの唇が柔らかく緩む。それをベアトリスに見咎められ、スバルは慌てて意識を修正した。

とはいえ、この場面においても、スバルが唯一信頼を置けるのがパトラッシュだ。

実際に、命懸けでスバルを守るために奔走してくれたパトラッシュだけが、本音や本心とは無関係に、ナツキ・スバルに味方してくれる存在――、

『本当に? お兄さんが、ホントは『ナツキ・スバル』じゃないって知っても、あの子はおんなじことをしてくれるのかしらあ?』

「――――」

『結局、お兄さんの味方なんて、だあれもいないんじゃないのお?』

脳裏に響く、笑みを孕んだ声が、ナツキ・スバルを嘲弄する。

自分の中に巣食った、ナツキ・スバルと異なる存在がスバルの楽観を砕こうとする。

馬鹿馬鹿しい指摘だと、そう笑い飛ばせてしまえばよかった。だが、実際のところ、スバルにそんな余裕はない。心は、少女の言葉に半ば賛同していた。

あの、パトラッシュの全てをなげうつ優しささえも、『ナツキ・スバル』へと向けられたもので、今のスバルが偽物だと知れば、見向きもしてくれなくなるのではないかと。

「ほら、スバル、手を貸すかしら」

「あ、ああ……」

脳内の、少女の声に翻弄されて、スバルは受け入れ難い感情に奥歯を噛む。

故に、完全に焦点が目の前からぶれていた。言いなりになって手を差し出し、手を繋ごうとしたベアトリスが、ふと何かに気付いた顔をする。

その視線が、スバルの手首のあたりを見つめていて――気付く。

「引っ掻き傷があるのよ。それも、こんなに……」

スバルの右腕の袖をまくり、ベアトリスが痛々しい爪痕に眉を顰める。その、さらに上の深く抉った傷には気付かなかったようだが、手前だけでも十分マズい。

「――――」

状況的に、ベアトリスはメィリィの死に方を知らない。

だから、この引っ掻き傷とメィリィとを即座に結び付けることはないはずだ。だが、それを差っ引いても、これがいったい何をしてついた傷なのかは不安に思うはず。

この上でメィリィの死体が見つかれば、疑惑を向けられることは避けられない。

「――――」

準備不足の心臓が、早鐘のように鳴り始める。

眼前、ベアトリスはスバルの手元に目を落としていて、こちらの表情には気付いていない。今ならば、とっさの行動でベアトリスを制することができる。

『どうするのお? もお、始めちゃうのかしらあ?』

こちらの意気地を弄ぶように、声がスバルの決断を促している。

どくどくと、脈打つ心臓に合わせ、血の巡りにこめかみが疼くのを感じる。

このまま、ベアトリスの続く発言によっては、彼女を――、

「――また、自分の腕を引っ掻いたみたいなのよ。悪い、癖かしら」

「……ぁ?」

「この位置は、良くないのよ。エミリアに見つかったら、なんて心配されるかわかったものじゃないかしら。ベティーも、あまり酷いようだと目こぼしできないのよ」

スバルの、手首の傷を指でなぞって、ベアトリスが痛ましげに目を伏せる。

そんな彼女の発言に、スバルは予想外の衝撃を味わって動けなくなった。

ベアトリスは、まるでスバルの腕の引っ掻き傷を見慣れているような態度だ。

それも、スバルが気付かれると想定した、おぞましい事態とは全く別の、もっと異なる理由――自傷で、腕に傷がついていることに、戸惑いがない。

エミリアには隠していると言われても、それは衝撃だった。

「精霊のいる、あの部屋にいけばこの傷も治療されるかしら。それでも、見てられないから、ちょっとだけでも治しておくのよ」

言いながら、ベアトリスがスバルの手首の傷を、淡い光で包み込む。

じんわりとした感覚がもたらしてくれるのは、温かな、おそらくは傷が癒されていく疼きだろう。治癒魔法、それを、この目で見せられている。

「――――」

同時に、スバルの内側で、ベアトリスに対する敵意が急速に霧散していく。

この温もりと一緒に、手首の傷と一緒に、ひび割れつつあったナツキ・スバルの人間性が、確かな修繕を受けたかのように。

『つまんないのお』

その、スバルの脳裏で、少女が当てが外れたような声音でこぼすのが聞こえた。

それを頭蓋の内で直接聞きながら、スバルは自身の陥った悪環境を、呑み込む。

確かに、選択肢ではある。だが、選択肢にはあるだけだ。

何も率先して、『死者の書』を望む方向へと、自らを誘導する必要はない。

ましてや、こんな、何も整っていない状況では。

「――――」

この場では、ベアトリスに危害を加えることは得策ではない。

まだ、準備が整っていない。仮に最悪の手段を行使するとしても、それは万全の準備が整ってからでなくてはならない。

そのためにも、今、この場は――、

「さあ、いくかしら、スバル。みんなには、ベティーがあとで言っておくのよ」

「――わかった。面倒かけて悪い、ベアトリス」

「それは言わない約束かしら」

と、目の前の少女の気遣いに、それが本心かどうかはわからないまでも、従っておくべきだろうと、ナツキ・スバルは考えた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

一つ、これは余談だが、こんな言葉がある。

――『殺人は、癖になる』。

それは、かの有名な名探偵、エルキュール・ポアロが世に残した言葉の一つだ。

――『殺人は、癖になる』。

その言葉の意味は、人を殺した人間が殺人の嗜好に目覚め、己の欲求を満たすために犯行を繰り返すようになる、といった意味ではない。

――『殺人は、癖になる』。

一度、殺人によって問題の解決を図ったものは、次なる問題が発生した場合、やはり同じように殺人によって状況を打破しようと考える、という意味だ。

――『殺人は、癖になる』。

する必要のない殺人を、選択肢の一つとして考えている時点で、すでに何か、一番最初の大切なものを掛け違えている。

――『殺人は、癖になる』。

実際に、自らの意思で犯した殺人は一つもなかったとしても、その行いを嫌悪していたとしても、その行いに害された当事者の記憶を垣間見ていても、癖は抜けない。

――『殺人は、癖になる』。

癖は、抜けない。

――『殺人は、癖になる』。

第六章49 『出来損ないのアナタへ』

じわじわと、じわじわと、腕から痺れの抜けるような感覚がある。

それが、死に際のメィリィの立てた爪痕、それがゆっくりと、しかし着実に癒えて消えていく感覚だと、スバルは袖の下の治癒から目を背け、感じ取っていた。

「……わりと、本気で大したもんだったんだな、この部屋」

この蔦だらけの部屋に生息する精霊は、室内にいる生物の傷を癒すと聞かされていた。とはいえ、今の今まで外傷を負って部屋を訪ねた経験のなかったスバルにとって、その効力がどれほどのものか疑問ではあったのだ。

それが、こうして実際に傷の癒えていく感覚を味わって、下種の勘繰りであったと反省させられる。

『せっかくのダイイングメッセージだったのに、お兄さんったらひどいわあ』

「――――」

『でも、ベアトリスちゃんの察しが悪くて助かったわよねえ。おかげで、動かぬ証拠だった手の傷は消えてくれるんだものお』

頭の中、延々と語りかけてくる少女の幻影がうるさい。

スバルにとって苦々しいのが、この少女の発言がスバルの内心を反映していないと、そうは言い切れないぐらいに的確に心を抉ってくることだ。

この少女の幻影が、果たしてスバルの一部による暴走なのか、それとも『死者の書』を読んだことでスバルに憑りついた文字通りの亡霊なのか、わからない。

わかっているのは、事実がなんであれ、この少女の言葉に耳を傾けてはならない。傾けるべきではない。そうした、焦燥感を帯びた事実それだけであった。

だから、スバルはひっきりなしに聞こえる幻聴を意識的にシャットアウトする。

しかし、そうやってスバルが自分の殻にこもればこもるほど、幻影はより楽しげに言葉数を増やし、スバルを翻弄するように手管を弄してくる。

その最たるものが――、

『――今なら、ベアトリスちゃんが傍にいないでしょお? 邪魔する人がいないんだから、あの寝てる子だけでも始末しちゃったらあ?』

「――っ」

『くすくす……そんなに泣きそうな顔しないでよねえ。無視しようとして無視し切れないんだから、ホントに可愛い人だわあ、お兄さんって』

姿の見えない少女の声は、スバルには耳元で囁くようにも聞こえる。

目をつむれば、そっとスバルの背中にもたれかかる少女が、甘い吐息と一緒に耳へと甘言を吐きかけてくる姿が幻視できるようだ。

安息のために連れてこられた精霊部屋、そこでスバルはまたしても、『死者の書』を抱いていたときと同じ選択に迫られている。

この部屋へスバルを連れてきたベアトリスは、タイゲタの書庫を離れたことをエミリアたちに伝えにいっている。そうして一時、誰にも見られていない自由な時間を得たスバルの前には、供物のように蔦のベッドで眠り続ける少女が一人――、

「……レム」

意識のない少女、その名前を口にしてみても、スバルの内に感慨は生まれない。

ただ、名前を知っているだけの、言葉を交わした記憶すら有さない少女だ。彼女について知っていることは、ラムの双子の妹であることと、エミリアたちの仲間であること。それから、長く眠りについた彼女を起こす手段を求めて、この塔へやってきたこと。

――それ以上を、知りたい。

『手段はあるじゃない。あとは、やるかやらないかだあけ』

甘い少女の誘惑が、否が応でもスバルに『死者の書』計画を想起させる。

今は深い眠りに落ちている彼女であっても、健在だった頃にはスバルと何らかの関わりがあったに違いない。その関わりと、彼女がどんな思いを抱いてスバルと接していたのか、『死者の書』の力を借りれば、それをわかることができる。

何より、彼女はメィリィ以上に容易くその命を啄ばむことができる存在だ。

昏睡状態の少女など、それこそ顔に濡れ布巾を置いておくだけでも窒息死させられる。早急に、早急に、早急に、早急に、早急に――、

「……馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は」

みなぎる焦燥感を手で制して、スバルは自分の馬鹿な考えを改める。

早急に、そんな行動を起こしてどうする。垂涎とばかりに目の前の事態に飛びついたところで、あとが続かなければ何の意味もない。

殺すのは、過程だ。スバルが欲するのは、彼女たちの本心という結果。

その結果を危うくしてまで、過程の遂行に急ぐなどと本末転倒もいいところだ。

タイゲタの書庫でも、あれだけ考えたではないか。

仮に『死者の書』計画を実行に移すのだとしたら、削っていく順番は慎重に選ぶ必要があるのだと。

「ユリウス、エミリア、シャウラ、ラム、エキドナ、ベアトリス、レム……」

指折り数えて、スバルはメィリィを除いた塔内の人間――すなわち、可能であれば『死者の書』を獲得したい相手と、そのための優先順位を羅列する。

おそらく、『死者の書』計画の遂行に邪魔になるのはこの順番でいいはずだ。

逆を言えば、この順番で削る算段がつかない限り、焦って行動したとしても絶対にうまくいかない。――しくじるのは、御免だ。

『そうじゃないと、殺し損になっちゃうもんねえ。こわあい』

「――――」

幻影の軽口に無言を守る。邪険にされ、幻影が不満そうにする気配があった。

だが、なんと言われても態度は変わらない。同じことだ。

スバルは、エミリアたちを殺したいわけではないのだ。

それでももし、殺さなければならないとしたら、そんな機会は一度で済ませたい。

一度だけ、一度だけでいいのだ。そのための、完全な計画さえあれば。

「――――」

そうやって、深々と息を吐くスバルの方へと、黄色い視線が突き刺さる。

見れば、それはこの精霊部屋で、眠り続ける少女とは異なる立場で同席している存在――漆黒の地竜、パトラッシュの眼差しだった。

憔悴したスバルへ向けられるパトラッシュの視線は、心なしか憂いと心配を孕んだもののように思える。

そこには、ベアトリスが一時だけこの場を離れる前に、「スバルのことをよく見ててほしいのよ」と言い残していったことが効いているのかもしれない。

そのパトラッシュの目が光っている限り、どれだけ焦燥感に急き立てられようと、眠る少女への狼藉を働くようなことはできない。その点、早まった判断をしなくて済んだことには、パトラッシュの存在に感謝したい。

ただ、あれほど唯一無二の親愛を感じたはずのパトラッシュにも、『死者の書』を見たスバルは素直な信頼を向けることができなくなりつつあった。

「……これも、お前の狙い通りなのかよ、『ナツキ・スバル』」

信じたいと欲し、その真意がどこにあるのかと考えれば考えるほど、ナツキ・スバルは寄る辺のない異世界で孤立していく。

それこそが、あの邪悪な『ナツキ・スバル』の提示する悪辣なゲームなのか。

「――――」

じわじわと、メィリィが付けた引っ掻き傷が癒えていく。

その痛みの遠のく感覚を味わいながら、スバルは袖をまくり、そこに痛々しく刻まれた『ナツキ・スバル参上』の傷跡に、癒えかけの瘡蓋の上から爪を立てた。

自分の――否、自分ではない自分の、おぞましい犯行の爪痕は消えても構わない。

だが、自分ではない自分の存在を示唆するメッセージ、これだけは消させない。

「こっちの、メッセージもそうだ」

左腕の傷を抉り、今度は右腕にも、同じようにスバルは爪を立てる。

黒い、いまだに見慣れない斑な紋様が走った腕に、最初はなかった傷がある。それはスバルが自ら、左腕のメッセージへの返礼のように刻んだ傷。

そこにはこう、刻まれている。

――『お前はなんなんだ』と、ナツキ・スバルの抱く本気の問いかけが、傷として。

「――――」

そうして、自分の肉体を惜しまず傷付けながら、同時にスバルは気付けない。

「――――っ」

そんなスバルの自傷行為を、パトラッシュが痛ましげに見つめていることに。

メィリィの付けた傷が消えたとしても、メィリィ自身の手を調べれば、自分を殺そうとした相手に必死に抵抗したことが明らかであったことに。

完璧に隠せたと考えているメィリィの殺害が、ひどく杜撰な後始末の上に成り立ってしまっていることに。

たった一つ、歯車の噛み合わせが狂っただけで全ての土台が崩壊する。

そんな薄氷の上に成り立つカラクリ仕掛けの塔の上、根本の問題に目を背けて、必死にバランスを取ろうと足掻いている滑稽なピエロが、今のスバルだ。

だが、その滑稽なピエロの演目は、ついには邪魔されずにカーテンコールを迎える。

何故ならば――、

幸いにも、メィリィ・ポートルートの死体はどこにも『見つからなかった』からだ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

夕食の席で、顔を合わせた全員の間に落ちる空気はひどく重たい。

その最大の要因は、危険な状態――すでに手遅れの状態だと、半ば誰もが認めているメィリィの存在が、必死の捜索も空しく発見されなかったことにある。

人海戦術というには心もとない人数だが、それでも割ける人員を全て動員して、半日近くを費やした結果の空振りだ。

徒労感が募ることも、多大なストレスがかかったことも無理はない。

「この塔にきてから、空振りが続くわね」

「……思ってても言わなかったことをはっきりと」

夕食の、乾いたパンのようなものを齧りながら、一段と疲労感の増す感想を口にしたラムを睨みつける。

そのスバルの抗議の視線に、ラムは感情の見えない無表情で肩をすくめた。しかし、泰然とした彼女からも、やはり疲れの色は抜け落ちない。

それはラムに限った話ではなく、塔内の全員が同じ状態だった。

「一応、レイドにも話を聞きにいってみたんだけど、見てないって言ってたわ。昨日から誰もこなくて退屈だって……嘘じゃないと思うの。メィリィも、レイドのことは見てたんだから、一人で会いにいったりしないと思うし」

「あの傍若無人な男でも、あの年代の娘を傷付けるとは考えにくい……と、言い切れないのが怖いところかしら。でも、ベティーもエミリアの考えに賛成なのよ」

二層の番人、赤毛の眼帯男のことでエミリアとベアトリスが言葉を交わす。

スバルにとっても痛めつけられた記憶しかないあの男だが、一応の聴取に向かったエミリアは無事、傷付けられることなく戻ってこられたようだ。

そのことに安堵を覚えて、それからスバルは首を横に振る。

こんなことに安堵を覚える理由も、それ以前に資格も、自分にはない。

エミリア自身にも、その無事をスバルに安堵される資格があるかわからないのに。

「――一ついいかな? 冷酷と、そう罵られることを覚悟で提案したい」

味気のないスープを飲み干し、小腹をわずかに満たした夕食の終わりに、そう手を上げたのはエキドナだった。

彼女は目を細め、浅葱色の瞳を全員に向けながら、

「あの少女、メィリィの捜索だが……今日を区切りに打ち切って、明日からはまた塔の攻略のために行動すべきだとボクは考える。どうだろうか?」

「――っ! そんなのダメよ! メィリィが、どんな気持ちでいるかわからないのに」

「すでに、彼女には考える頭も、感じる気持ちも残されていない。それは、ナツキくんの確認した『死者の書』が証明している。ボクは、これ以上の捜索に反対だ」

エキドナの、現実的とも冷徹とも言える提案に、最初に反発したのはエミリアだった。だが、エミリアのそれは感情論でしかなく、エキドナの表情は揺るがない。

しかし、言葉に窮するエミリアに代わって、「待つかしら」とベアトリスが口を挟んだ。

「お前の言い分は一見、筋が通って聞こえるのよ。ただ、ずいぶんと急な話にも聞こえるかしら。どうして、メィリィの捜索を切り上げたがるのよ?」

「――。そんなに不思議なことかな。塔の中、ボクたちが持ち込んだ食料は限られているし、滞在日数が増えるほど、お互い陣営の身内に負担をかけることにもなるだろう。日程が大きく長引けば、ボクたちの捜索のために人が割かれることも考えられる」

「当然ね。エミリア様とアナスタシア様……今は中身が違っているけど、どちらも王選のためのやんごとない御身分だもの。こんな砂漠の塔にいるべきではない、ね」

エキドナの提案を皮切りに、ベアトリスとラムがどこか冷然とした態度を見せ始める。

合理性に則った提案が、より冷徹な意見の呼び水となり、夕食会の雰囲気には緊迫感がみなぎりつつあった。

「なーんか、やな感じッスね~。あーしはどっちでもいいッスけど、揉めるならあーしやお師様とは無関係のとこでやってほしいッス。あーしはあーしで、お師様と二人で幸せな家庭を築くッス。一姫二太郎三太夫ッス」

ピリピリした雰囲気に舌を出し、尻を滑らせて隣にくるシャウラの軽口に応じる余裕もない。彼女の、書庫で見せた態度にも思うところがあった。

あの、最後の場面で選択を迫ったシャウラは、スバルに何を言わせたかったのか。スバルをお師様と呼び、慕っている素振りを見せる彼女なら、どこまで。

――どこまで、スバルが命じたことに従ってくれるのかと。

「言い争いはそこまでにするべきだ」

と、その険悪な雰囲気を割ったのは、秀麗な面持ちに苦悩を刻むユリウスだ。

彼はエキドナの前に腕を出し、それからベアトリスとラムの二人に目礼する。

「ベアトリス様、ラム女史。こちらの陣営の、エキドナの不用意な発言をお詫びいたします。ただ、誤解しないでいただきたい。彼女も、何の意味もなく、合理性だけを理由にそうした提案をしたわけではないことを」

「ユリウス、よすんだ。その話は……」

「すでに、エミリア様たちは同行した少女を失ってしまったかもしれない形だ。あちらの傷は見せられている。ならば、こちらも誠意を示すべきだ」

ユリウスの誠実な物言いに、エキドナは言葉の続きを封じ込めた。その反応に、ユリウスは改めてベアトリスたちへと向き直った。

「現在、アナスタシア様の御体は精霊であるエキドナの依り代とされている。その状態のまま、アナスタシア様が目覚める手段が見つからないのは事実だが……それ以外にも問題が。――エキドナは、アナスタシア様のオドを消費して活動しているのです」

「オド、って……じゃあ、ずっとそれを削って? アナスタシアさんが起きてこられなくなってから、ずっとそのまま?」

「……なるほど。塔の攻略と、『賢者』の知恵の拝借に急ぐわけかしら」

ユリウスから語られたエキドナの秘密に、エミリアたちが揃って驚きを露わにする。

身内から内情を明かされ、当事者であるエキドナはやれやれと肩をすくめると、

「今さら取り繕っても仕方ない。ユリウスの言う通りだ。ボクは、ボクがこうしているだけで、アナの潤沢とは言えないオドを消耗する状況を良しと思っていない。できるなら一秒でも早く、アナに体を返してあげたいのさ」

「自由になる、人間の体を手放してまで?」

「アナの肉体を自由にできても、ボク自身の心は不自由に縛られている。こんなことを言って、どこまで信用してもらえるかはわからないが……」

そこでエキドナは言葉を区切り、一拍、溜めてから続けた。

「本来、あるべき器にはあるべき存在が収まっているべきなのさ。外身だけ借りても、中身が伴わなければボロが出る。不自然になる。――それは、ひどくおぞましいことだ」

「――ッ!」

目を伏せ、我が身を呪うように続けられたエキドナの発言、それはあろうことか、漫然と話に耳を傾けていただけのスバルの心を痛撃していった。

外身だけ借りて、中身が伴わなければ。――それが、恐ろしく重く心を射貫く。

「とにかく、ボクが塔の攻略を急ぎたい理由はそれだよ。どうしても信じられないなら、ベアトリスにでもこの体を探らせるといい。極端なオドの消耗と、ボクがどれだけ精霊として歪なのか、すぐにわかるはずだから」

そんなスバルの葛藤と、無自覚な言葉に刻まれた傷の痛みに気付かず、エキドナが自分の立場の証明を他人に委ねる。

実際、指名されたベアトリスがエキドナの腕を取り、どういう原理か彼女の体に探りを入れると、エキドナの言葉は事実だと証明されたようだった。

そして、その結果を受け――、

「……わかった。エキドナと、アナスタシアさんの大変な事情はわかりました。急いで、塔の上に登らなくちゃいけないってことも」

「これが気休めになるかはわからないが、仮にこの塔に全知とまで言われた『賢者』の知恵の秘密があるなら、行方をくらました少女の居所もそれによってわかるかもしれない。こんな言い方をすれば、卑怯なのは重々承知だが」

「ううん、ありがとう。何の希望もないより、ずっといいわ。――私にも、メィリィにも配慮してくれたんでしょう?」

「……どうかな。自分と、アナの身が可愛いだけかもしれないよ?」

主張を受け入れる姿勢を見せたエミリアに、エキドナがバツの悪い顔で目を背ける。

その様子にエミリアは紫紺の瞳を細め、それから息を吸い、改めて宣言する。

「メィリィのことは、すごく心配。だけど、エキドナの考えもわかるの。だから、明日からはまた、ちゃんと塔の上にいくためにできることをしましょう。もちろん、私はできるだけメィリィのことは探し続けるつもりだけど……」

「それで、塔の攻略が疎かになっては本末転倒ですよ、エミリア様」

「わかってる。――何が大事か、その時々、自分で考えないと」

頬に手を当て、エミリアは強い意思を瞳に宿して自戒した。

そして、彼女は状況を俯瞰していたスバルの方へと振り返る。一瞬、その視線の強さに気圧されるが、エミリアが続けた言葉は糾弾に類するものではない。

「スバルも、それでいい?」

「そ、れは、いいと思う。その方が、メィリィも浮かばれる……いや、俺たちが前進するのを望んでくれるっていうか……でもなくて、なんで俺に確認を?」

「だって、スバルはメィリィの本を読んだでしょう? あの、読んですぐの反応を見たら……メィリィのこと、一番心配なのはスバルのはずだから」

念押しするエミリア、彼女の言葉にスバルは息を詰めた。

見れば、スバルへと注目するのはエミリアだけではない。ベアトリスも、ラムも、エキドナもユリウスも、みんながスバルの方を見ていた。

それが、どういう意図を込めた視線なのか、推察する頭が働かない。

働かないまま、スバルは己の中の姑息な精神に従い、唇を動かした。

「――心配はしてるよ。でも、メィリィも、俺たちが足踏みするのを望まないと思う」

たぶん、世界で一番、上滑りする言葉を発するためだけに。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――深夜、スバルはようやく生まれた自由行動の時間に、活動を開始した。

「――――」

夕食会が終わり、明日の方針も固まったところで、一行は二層の攻略のために各々知恵を絞ることを決めて、夜を越すための寝具の準備に入った。

同行者の一人に不慮の問題が発生した日の夜だ。

当然だが、全員の寝床を一つにまとめて、一所で眠りにつくことが推奨された。そのため、一応、毛布で即席の仕切りは作りつつも、男女が一堂に会した夜を迎える。

ただ、スバルだけはそんな中にあって、精霊部屋での就眠を主張した。

『死者の書』を読んだ後遺症、それが大義名分だ。

実際、スバルが『死者の書』を読んだ直後の変調ぶりは全員が目にしているため、その意見にさほどの反応は見られなかった。もちろん、スバルを一人寝させることに、ベアトリスは特に強い難色を示したが、精霊部屋は定員制だ。

頭が重いと、声を震わせるスバルに折れ、ベアトリスは反対意見を引っ込めた。

それはスバルの演技力の賜物というよりは、本気で顔色が悪かった影響が大きかろう。

正直、スバルは自分が倒れていないのが不思議なぐらい、ぶっちぎりの絶不調に悩まされていることを自覚している。

『メィリィも、俺たちが足踏みするのを望まないと思う。――役者よねえ』

「――――」

『うふふっ、怒らないでよお。皮肉じゃないの。本当にそう思って褒めてるんだからあ』

夕食会の間、ずいぶんと静かだったと思ったが、よほど最後のスバルの白々しい宣言がツボに入ったのか、沈黙を解いた幻影は上機嫌にその一幕を繰り返し演じる。

幻聴相手が厄介なのは、耳を塞いだところで効果がなく、聞きたくないと拒んだとしても、甘い声色に黒板に爪を立てるような不快感を味わわされることだ。

『それで、今夜は青い髪のお姉さんの首はお預けなのよねえ?』

「――――」

たっぷりと、夜が更けるのを待って行動を開始したスバルに、幻影が同室の眠り姫の存在を重ねて示唆する。

数時間前と同じ幻影の誘惑だが、これに対するスバルの答えも数時間前と同じだ。

「今はまだ、この子の順番じゃない」

そう言って、スバルは眠り姫の寝顔に一瞥もくれずに部屋を出る。

その際、わずかに瞳を開けたパトラッシュと目が合ったが、唇に指を立て、内緒にしてほしいのジェスチャーだけで切り抜けた。

トカゲ相手にどこまで意図が伝わったかはわからないが、ともすればパトラッシュは犬や馬以上に賢い生物に感じる。あれで、黙っていてくれるといいが。

「――――」

前もって一人になる工作をした上で、夜半にスバルが動き出した理由――それは、眠りについた仲間たちの命を奪い、『死者の書』計画を実行に移すため、ではない。

もちろん、その案も十分に検討した。スバルの実力で計画を実現するには不意打ちであることが望ましく、それは眠った隙をつくのが最上の選択と言える。

だが、それを実行するのはまだ早い。それは最後の手段、手を選べなくなったときまで取っておくべき、人倫に背く行いだ。

ならば、スバルはいったい何のために夜の行動を開始したのか。

それは――、

『――わたしの死体、どうにかしてくれるのお?』

スバルの進む先を見取り、背後に立っているが如き少女の声が問うてくる。

それにスバルは答えないが、足取りがそのまま問いかけを肯定しているも同然だ。

――隠したはずのメィリィの亡骸、その処分のためにスバルは行動しているのだと。

「――――」

おかしな話というか、幸運な状況だったというか、とにかくそれでしかない。

今日、エミリアたちの捜索でメィリィの亡骸が発見されなかったのは、神の差配というよりは、悪魔の謀略というべき風向きだっただけに他ならない。

振り返れば、突発的な事態に対する穴だらけの隠蔽工作が浮き彫りになり、自分で自分の知恵の巡りの悪さを呪いたくなる次第だ。

たまたま見つからなかった。それに救われた。だが、明日以降、塔の攻略に注力する傍ら、たまたま見つからなかったものがたまたま見つかっても不思議はない。

少なくとも、エミリアはメィリィの捜索を諦めていないはずだ。

あの底抜けに前向きな苦労知らずの少女であれば、決定的な事態に心が折れるまで、いなくなった少女の姿を探し続けることは想像に容易い。

故に、スバルには安心が必要だった。

安心がなければ、そこに土台を築くことができない。土台が築かれていなければ、その上に未来という城の基礎は組めない。基礎が組めなければ、未来は完成しない。

ナツキ・スバルの安息のために、メィリィ・ポートルートの存在は邪魔なのだ。

『頭の中をちょこまかされてる今はもっと……そんな感じかしらあ』

耳を貸さない。邪魔だと、そうはっきり断言したばかりだ。断固拒否する。

そのまま、スバルは夜の人目を忍びながら、メィリィの亡骸を隠した部屋へ到達。

似たような部屋が続くエリアではあるが、入口のすぐ近くの石壁に変色が見られ、それがわかりやすい目印になっている一室だ。

「正直、後味はよくないが……」

塔の入口から砂漠へ運び出して、砂に埋葬してしまうのがベストだろう。

数日以上建物の中に置いておけば腐敗も進む。気温はさほど高くも低くもないが、すでに生命活動の止まった体は、朽ちていくことを避けられないはずだ。

真に、二度と目にしないことを望むなら、多少の無理をしてでも塔から遠ざけ、外をうろつくという魔獣の餌にしてしまうのが一番ではあった。

だが、想像するだにそれは心が咎める。いくら何でも、無理な判断だった。

「――――」

薄暗い部屋の奥、四角い石の塊が鎮座しており、その裏側に亡骸が隠してある。

意識して覗き込めば見逃しようのない、ひどく幼稚な隠され方だ。自分の動転ぶりを情けなく感じながら、スバルは石塊の裏側へと回り込む。

そこに、約半日ぶりのメィリィの亡骸が――、

「――は?」

思わず、声が漏れる。

目の前の光景に、頭が理解を放棄した。

石塊の裏側には、何もない。

せめてもの配慮にと胸の上で手を組ませ、目を閉じさせた少女の亡骸。白い首に青黒い痣が残った、見るも無残な少女の亡骸がどこにもなかった。

「なん、で……ここに、確かに……」

あったはずだ。

部屋を間違えたはずもない。ここへきて、そんな凡ミスなどしていない。

していないのだ。していないならば、ここになくてはならない死体はどこへいった。

――メィリィ・ポートルートの亡骸は、どこに消えたのだ。

「――こんな夜更けにこそこそと、探し物でもしているの、バルス」

「――っ!?」

愕然と、背後からの声に身を硬くし、スバルは恐る恐ると振り返る。

青ざめた顔のスバルの視界、さほど広くない部屋の入口に一つの影が立っていた。

長くしていない桃色の髪、鋭く理性的な薄紅の瞳、凛々しくも可憐な顔立ちが冷然とこちらを見据え、己を腕で抱く少女の立ち姿には、いっそ壮烈な華があった。

そんな場違いな感慨を胸に、硬直するスバルを眺めながら、少女――ラムは瞳を細め、まるで温もりのない声色で言った。

「それとも偽物というべきかしら。バルスの――ナツキ・スバルの出来損ない」

第六章50 『――出来損ないこそアナタで』

冷たい声の呼びかけに、文字通りスバルは心が凍り付く思いを味わった。

「――――」

正面、振り返った部屋の入口に佇むラムは、薄紅の瞳に凍てつく炎を宿したまま、静かにスバルを見据えている。

そこには、スバルが短時間ながらも彼女と接することで抱いてきた、滅多なことでは感情を表情に出さない鉄面皮――そんな印象を容易く裏切る熱があった。

「な、ぅ……」

「何をそんなに狼狽えているの。ラムは問うた。答えるのがバルス……いいえ、あなたの役目よ」

「お、俺は、ただ……」

「ただ?」

とっさに、言い訳しなければならないとスバルの頭が回り始める。

何とか舌を動かし、初動の鈍い脳を叱咤して、神懸かり的な弁舌でこの場を乗り切らなければならない。

だが、全く想定していなかった事態に叩き込まれた上に、そもそもスバルは直前の出来事――メィリィの亡骸が消失したことの動揺も処理し切れていなかった。

言い逃れる言葉を用意していたわけでもなく、目の前の出来事を冷静に受け止める心構えができていたわけでもない。

スバルにできたことは、無様に口を開閉させ、失言をしないことが関の山だった。

その態度そのものが、言葉よりも雄弁にスバルの不審な行動を裏付けていたとしても。

「――――」

沈黙するスバルに、ラムの瞳が細められる。ただでさえ絶対零度と思われた視線の冷たさがさらに低下し、切れ味の鋭い吹雪に晒される錯覚がスバルを襲った。

震える膝、それを必死に抑え込みながら、スバルは静かに、遅すぎる理解を得る。

――自分は嵌められた、のか。

メィリィの亡骸が見つからなかったと、夕食の席での話し合い自体がブラフ。

死体が見つからなかったと報告することで、糾弾の機会を逃れたスバルは安堵した。

必死の捜索も空しく、適当な隠蔽しかされていない少女の亡骸が見つからない。そんな不自然さの否めない状況にも拘らず、自分の悪運が勝ったのだと、スバルは都合のいい真実を手放しに受け入れることで、不安の種を先送りにした。

その結果が、何とも無様なこの一幕だ。

スバルも、数あるテレビ番組で何度も目にしてきたではないか。

完璧な計画を練り上げた殺人犯が、決定的な場面で探偵役と警察が見張りをする現場に舞い戻ってボロを出す。そして、動かぬ証拠を自ら露呈することで犯行を暴かれるという、そんな喜劇めいた瞬間を。

自分ならばあんな間抜けは晒さないと、スバルは心のどこかで思っていた。

犯罪における様式美、ミステリードラマを見る人間の多くが、最後の詰めを誤る犯人の愚かしさを滑稽なものとして捉えるだろう。

それをまんまと、自分が全く同じように――否、それ以下の無様さで演じ切った事実の衝撃たるや、惨憺たるものだった。

「――偽物」

と、自身の行動の不完全さに打ちひしがれるスバルを、静かなラムの呟きが打つ。

たった一言で、迫撃砲を浴びたようにスバルの心の脆い防壁が剥がれ落ちた。顔色が悪くなり、唇をわななかせるスバルにラムは吐息をこぼす。

「そう言われて反論がないわね。自分でも、自分の不出来な演技に自覚があった証拠かしら。扮する相手の下調べが足りない。不勉強にも限度があるでしょうに」

軽蔑の調子を隠さぬままに、ラムがスバルを訝しんだ根拠を口にする。

偽物、不出来な演技、『ナツキ・スバル』への理解不足を指摘され、スバルはぐうの音も出ないどころか、ひび割れた心を折り砕かれ、血の流れる痛みさえ感じ始めた。

実際、スバルは己の唇の端を噛み切り、鋭い痛みと血を流している。

偽物、偽物、偽物、偽物、偽物、偽物、偽物、偽物、偽物、偽物、偽物――。

『ナツキ・スバル』の、出来の悪い、偽物――。

その考えが、スバルの腹の底にどろりとどす黒い汚泥を吹き溜めていく。

おぞましい泥はスバルの体中を埋め尽くし、その重みに膝の震えが止まった。代わりにちりちりと目の奥が熱くなり、暗い感情の導火線に火が付く。

それを人は敵意、害意、悪意――あるいは、殺意と呼ぶかもしれない。

「よっぽど余裕のない人間以外、その不自然さに目をつむることなんてありえないわ。それこそ、ユリウスやアナスタシア様……エキドナぐらいでもなければ」

「……黙って聞いてりゃ言いたい放題だな」

「――――」

「偽物だのなんだの、言い掛かりにも限度があるだろ。何様のつもりだ、お前」

「言い掛かり、ね」

ラムの衰えぬ舌鋒に、スバルは痛みを覚えながらも反論を試みる。

確かに、彼女の言い分は全面的に正しい。その『出来損ない』という苛烈な形容には頷けなくとも、スバルと『ナツキ・スバル』との間には埋められない隔絶が実在する。

だが、それは認められない。認めれば、言い逃れはできなくなる。

足は止められないのだ。こんな道半ばで――、

「言い掛かりも言い掛かりだ。耳が痒くて聞いちゃいられねぇよ」

肩をすくめ、頬を歪め、ラムを睨みつけ、スバルは言い放った。

自分でも白々しいと感じる虚実を、あたかもこの世の真実であるかのように脚色する。

「大体、俺が夜中に出歩いてたくらいでなんだってんだ。ちょっと考え事したくて、誰もいない時間に散歩してただけだろ。それこそ、お前の妹……レムの寝息も、パトラッシュの気配も感じないところでじっくりと……」

「――誰にも、何も見られていないとでも思っていたの?」

早口に畳みかけるスバルに、ラムが口にしたのは静かな問いかけだ。

彼女の言葉は短く、しかし急所に抉り込むように鋭い。

「――――」

問いかけにスバルは息を詰め、その発言の真意を探ることに腐心させられる。

見る、見られる、見られていない、見られてはならない。

――ラムの、『見る』とはどこにかかった言葉だ。何を意味する言葉なのだ。

メィリィの亡骸か。それとも亡骸になる前のメィリィなのか。亡骸となったメィリィにスバルが働いた不義理な隠蔽か。それとも――、

「何も、誰にも見られていないつもりでも、地竜はあなたの不審な行動をちゃんと見ていた。そして、ラムも同じようにそれを『視て』いたわ」

唇に指を当てて、ラムがこの場にそぐわない仕草をスバルへ見せつける。

「……何を、言ってやがる?」

その行動の意味がわからず、スバルは当惑した言葉を返すしかない。

ただ、直近でその仕草自体には覚えがあった。それは他ならぬスバル自身が、精霊部屋を出る前にパトラッシュ相手に見せた仕草だ。

それが今、どうしてこの場でラムと重なったのか、その意味はわからないが――、

「勉強不足、ここに極まれりだわ、『出来損ない』――」

ラムの、失望を隠さないその一言が、最後通牒であるとスバルにはわかった。

「――――」

ここまで、冷たいながらも対話の姿勢を失わなかったラムから、スバルと言葉を交わそうとする意思さえも掻き消える。

その双眸の色彩を目にした瞬間、スバルは言い訳には何の意味もないと結論した。

スバルがなんと言い逃れしようと、ラムはもはや聞く耳を持たない。

となればスバルは、力ずくでこの状況を突破する以外にないのだ。

――瞬間、なし崩しではあるが、スバルは頭の中でラムの殺害方法を検討する。

「――――」

殺すことを考える。そのことへの抵抗感はもはやない。

すでに、一人殺してしまっているのだ。一人も二人も、大きくは変わらない。それ以前に『わたし』は、大勢の命を奪った経験がある。

ここから、『死者の書』計画を、実行に移したとて、支障はない。

『――あのお姉さんだけどお』

スバルの中の無数の選択が音を立てて崩れ去り、物騒な内容のものしか残らなくなったところで、ここまで沈黙を守っていた少女の幻影が口を挟む。

姿の見えない、しかし息遣いを感じるほどすぐ傍にいるように思える幻影。それがスバルの体を後ろから抱きしめ、そっと耳元に囁きかけて誘惑してくる。

その、甘ったるい誘惑の内容は――、

『――きっとコンディションが悪いせいねえ。左の重心、バランスが悪いわあ』

甘い囁きがもたらしたのは、凛々しくも苛烈な少女の弱点――つまるところ、殺し方の指南だった。

体格に劣り、膂力に劣り、殺しの経験値に劣る。

漆黒の戮殺者と長く過ごした『わたし』の知識があれば、女を殺すぐらい造作もない。

『相手の左側から踏み込んで、壁に頭から叩き付ける。それだけでいいわあ』

彼我の体力差を考慮して、『わたし』から適切なアドバイスが飛んでくる。

それに従うだけで、少女の頭蓋は割れ、石壁に真っ赤な花を咲かせるだろう。

薄紅の、可憐な少女に相応しい真っ赤な華を――。

「――っ」

合図もなく、切っ掛けもなく、スバルは相手の瞬きに合わせ、踏み込んだ。

聞こえる幻影の喝采を背に受け、微かに身を硬くしたラムへと向かって、スバルは躊躇わずに踏み込む。彼女の『右』側へと。

そのまま、ラムの体を壁に突き飛ばして――、

「言葉に詰まれば暴力に訴える。野蛮で退屈な結論だわ」

一瞬の攻防、そのスバルの腕が届く直前にラムの唇が言葉を紡ぐ。

視線が交錯し、スバルはラムの瞳の冷たさに息を呑んだ。

「――そんな野蛮な男のところに、か弱いラムが一人で挑むとでも思ったの?」

嘲るというより、憐れむようなラムの言葉に空気のひび割れる音が重なった。

実際、それは耳の錯覚ではなく、大気中の水分が急速に凝結し、気体から個体へと強引に変化させられる空気の断末魔だ。

「な……っ」

その音が、スバルの踏み込んだ足下から発生、白く凍える氷の杭が突き上がり、その前進を乱暴に受け止め、痛みと共に制止させた。

「こ、氷……!?」

冷たく硬い衝撃に跳ね返され、スバルは自分の目を疑った。

だが、変化はそれだけに留まらない。生まれた氷杭は足下の一本だけではなく、次から次へと伸び上がり――スバルを囲い込む、氷の檻へと変貌した。

「嘘だろ……ッ。これが、まさか、魔法……!?」

ほんの一秒、瞬きの合間に氷の檻は完成し、スバルの身動きが封じられた。

その氷格子を手で掴み、揺すって壊そうとするスバルは氷の強度に唖然とする。びくともしない。思い切り蹴ろうと殴ろうと、壊せる自信はまるで湧かなかった。

そして、その氷の檻に閉じ込められたスバルを――、

「――全部、ラムの勘違いだったらよかったのに」

ラムの後ろから現れたエミリアが、悲しげな紫紺の瞳で見つめていた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

当然といえば当然の成り行きに、スバルは檻の中の猿のように愕然とする。

「――――」

ラムとエミリア、二人の共闘は当たり前だった。

スバルと違い、彼女らには協力するという選択肢があるのだ。孤軍奮闘を強いられるこちらとは条件が違う。

最初から、危険人物と一人で相対しようなどと、選択肢にも浮かばなかっただろう。

結局、全ての場面でスバルは彼女らの掌で踊らされ続けていたわけだ。

「この場面で、軽薄さも装えなければ根拠のない大口を叩くわけでもない。演者として、二流どころか三流以下としか言いようがないわね」

檻の中のスバルを見据え、己の腕を抱くラムがそう吐き捨てる。

見れば、最初の登場以来、彼女の位置は一歩も動いていない。それどころか、姿勢を変えさせることすらできていなかった。

それだけ、スバルと彼女とでは役者が違ったと、そういうことだ。

「そんな演技じゃ、よほど余裕がない人間以外は騙せない。それなら、ラムたちの中で誰が一番精神的にタフだったか、考えるまでもないことでしょう」

「その言い方、褒めてくれてるのよね? ありがとう」

「……どういたしまして」

微かに渋い反応をしたラムの隣に、銀髪を躍らせるエミリアが踏み出してくる。

ラムの態度と言行から察するに、この氷の檻はエミリアのお手製――つまり、これが彼女の使える魔法の一種というわけだ。

こんな状況下でなければ、幻想的な氷魔法は神秘的な美貌の持ち主であるエミリアによく似合っている、などとスバルも感激できただろう。

だが、実際に氷の檻に囚われの身となってみれば、これがどれだけ強力で、圧倒的な力の差の上に成り立つ劣勢であるか一目でわかる。

『死者の書』計画の実行難易度、その障害の順位が大きく変動した。

だが、それ以前に――、

「――スバル、こんな時間に何をしようとしてたの? ちゃんと、部屋で休んでてくれるはずじゃなかったの?」

「それは……」

心配そうにするエミリアが、この期に及んでスバルに真意を問いかける。

彼女の瞳に宿るのは真摯な憂慮だが、この状況に至っては愚かしさと紙一重の愚直さとしか思えない。全てに、筋道の通った理由があると勘違いしているのだ。

スバルにだって、言い分はある。

こうなってしまった理由だって、確かに存在しているのだ。だが、そんな雲を掴むような話をして、いったい、誰がスバルの言葉を信じてくれる。

「エミリア様、聞いたところで無駄ですよ。それがこちらの質問にまともに答えるとは思えません。バルスであると、そう扱うことにも疑問を感じます」

「でも、スバルはスバルだわ。ラムにも、それはわかるでしょう?」

「あくまで、見た目が同じなだけの粗悪品……ラムはそう判断しています」

どちらかと言えばスバル寄りの考えらしく、ラムがエミリアの思惑を窘める。

おそらく、スバルを怪しんだのも、深夜の行動の監視を提案したのもラムだろう。エミリアはあくまで後詰めとして待機し、有事に備えていた立場だったに違いない。

つまり、ラムの中ではとっくに『ナツキ・スバル』でないスバルへの対応は答えが出ている話なのだ。

あとは、そこに痛みを伴う確認作業を行うだけの段階にある。

「エミリア様のおかげで、こうして被害なく取り押さえられた。少し痛い目を見れば、ラムたちの聞きたいことを話す気になるかしら?」

「痛めつける……拷問でもするってのか? あれはドSなだけじゃなく、高度な知識が必要ってのは有名な話だぞ」

「必要ならそうするわ。それに、痛めつけるのは好きじゃないけど――得意よ」

畳一枚程度の空間しかない檻に囚われ、強がるスバルにラムは容赦しない。

白く細い彼女の指だが、『痛めつけるのが得意』という控えめな主張が、スバルにはやけに説得力があるように思われた。

このまま何もできなければ、反撃の手段が浮かばなければ、探っても底の浅い腹の底を洗いざらい探られ、無意味で惨めな醜態だけを暴かれることになる。

「――待って。痛めつけるだなんてダメよ。そんなことさせない」

しかし、過激な結論を実行しようとしたラムを止めたのは、氷の檻にスバルを拘束するエミリアだった。

彼女はスバルの入った檻を背に庇い、正面のラムと真っ直ぐ対峙する。

「……エミリア様は、ラムに賛同してくださったのでは?」

「スバルが変だと思ったから、話が聞きたいって意見には賛成したの。それに、こうなるかもしれないって思って……だから、私がここにいなくちゃダメだと思ったのよ」

「こうなることが嫌だったから、ベアトリス様にはユリウスたちの相手を頼んだのに。エミリア様まで聞き分けがない……考えが、甘すぎるのよ」

意見の相違に苛立ちを隠さず、ラムがエミリア越しに背後のスバルを指差した。そのまま彼女は「いいですか」と棘のある言葉を発し、

「それは、明らかに本来のバルスにあるべき点が欠けすぎています。水門都市……プリステラでの話はお聞きしました。そこに、姿を変える大罪司教がいたそうですね」

「……ええ。その大罪司教に、違う姿に変えられてしまった人たちを元に戻すのも、ここにやってきた理由だもの」

「それなら、その大罪司教がラムたちの誰かに化けている可能性は?」

「――――」

「大罪司教本人でなくても、自由に姿形を変えられるなら外見は当てにならない。普段の振る舞いと、話してみた感触と、それがここまで違えば……」

感情論で対抗するエミリアに、ラムは怒りを堪えながらも理路整然と応じる。

正直、スバルにとっては言い掛かりでしかない推論でしかないが、それを否定するだけの材料が手元にまるでない。

そしてそれ以上に、スバルは――否、『わたし』が今の話題に拒絶感を催す。

「――っ」

フラッシュバックする、白い記憶。

それはナツキ・スバルのものではなく、『死者の書』の中に垣間見た記憶の断片、『わたし』が『わたし』だった頃の記憶だ。

――躾と、そう称して行われた『わたし』への仕打ち。

数々の恐怖を刻み込まれたが、最も恐ろしかったのは、自分の体を数え切れないほどの無数の『蛙』へと作り変えられたときだ。

自分の意識があるのは一個体だけなのに、無数の細分化した自分が好き放題にどこかへ跳ねて、逃げていってしまう。

元に戻れなくなる恐怖と、そもそもの『元』を忘却していく感覚がもたらす、生命としての存在価値の暴落は、元通りになった瞬間、心の底から『母』に感謝したものだ。

同時に、決して言いつけに逆らってはならないと、そう魂に刻み込まれて。

「――ぅ」

その恐怖をダイレクトに、我が事として思い出し、スバルの視界が明滅する。

自分の姿形とは、己の根幹のアイデンティティに直結する。それを意のままに、好き放題にいじくり回すということは、その存在に対する冒涜だ。

最も唾棄すべき、行いの、一つで――。

「そんな極端な話、ラムらしくないわ! そんな、上から封じ込めるみたいな言い方!」

「ないと言い切れますか? その、後ろの男を前にして……」

胃がひっくり返るような感覚を味わいながら、一人苦悶するスバルを置き去りにエミリアとラムの言い合いは続いている。

だが、ラムの主張は『悪魔の証明』のようなものだ。あることは証明できても、ないことを証明することは誰にもできない。

この、ナツキ・スバルが彼女らの望む『ナツキ・スバル』ではないこと。

その理屈を説明する上で、姿形を変える何者かの力は有用で、わかりやすくて――それと同時に、今のスバルにとっては心底耐え難いことだった。

その、反目する自分の中の感情を持て余し、スバルは苦しみ喘ぎ――、

「今すぐ、口を割らせるべきです! 本物のバルスと、メィリィの居場所を聞くために」

「――ぁ?」

不意打ちのようなラムの訴えに、スバルの意識が別枠に囚われた。

それは青天の霹靂というべき、思いがけない一言。

「――――」

顔を上げたスバルは、言い合いを続けるラムとエミリアを見る。エミリアの表情は背後からでは見えないが、代わりにラムの顔ははっきりと見えた。

怒りに燃える彼女の瞳には、この場でスバルを虚言で引っかけようといった策動を感じられない。今の発言を、少なくとも彼女は本気でしている。

つまり、メィリィの亡骸は、ラムたちに見つかっていないのだ。

この場でスバルを糾弾しようと待ち構えていたのは、あくまで『ナツキ・スバル』を演じ切れないスバルの不審な行動、そのことのみ。

どこかちぐはぐなラムの追及の原因がそれでわかった。だが、同時にわからない。

ラムやエミリアでないなら、いったい誰が、メィリィの亡骸を移動させたのか。

スバルでも、ラムたちでもない、別の思惑が働いている――。

「本物、偽物って、そんな決めつけちゃダメよ! だって、ここにいるスバルは……」

「――俺は、記憶喪失だ!!」

「は……?」

氷格子を掴んで、スバルは二人の言い合いに割り込むように叫んだ。

その叫び声を聞いて、目を丸くして呆気に取られたのはラムだ。完全な、予想外の角度からの一撃に、本気でラムの意識に空白が生じる。

これが、彼女の意識を攪乱し、その隙を突くための奸計であったなら大成功だ。しかしそうではない。これはそうではなく、スバルの本気の叫びだった。

「――ッ」

叫んでからスバル自身、何故、今この瞬間に言ったのだと自分がわからなくなる。

この周回、スバルは自分から記憶がないことを隠し、あたかも以前の『ナツキ・スバル』と変わらない自分であることを装おうと努力した。その甲斐あって、この周回でスバルの命が奪われる事態は発生していない。

いないが、あるいはそれに匹敵するか、それ以上に驚愕すべき事態が、次から次へとナツキ・スバルを翻弄し、追い回してくるではないか。

確かに、記憶喪失を隠したことから、今回の周回は全てが拗れてしまった。

だからといって、今さらそれを打ち明けてどうなる。

「この期に及んで、何をふざけたことを……!」

現に、一度は止まった思考が動き出した瞬間、ラムの表情が怒りに染まった。

彼女にしてみれば、今のスバルの発言など苦し紛れの虚言――そんな役目にすら達していない、単なる戯言でしかない。

だが、ラムにとってはそうでも――、

「ラム! スバルはこう言ってるわ! やっぱり、理由があるのよ!」

「本気なの、エミリア様!? こんなの、信じる価値もない……!」

両手を広げ、ラムの前に立ちはだかるエミリアがスバルの言葉に味方した。

それが、荒唐無稽な意見にこれ幸いにと飛びついただけだと思えば、スバルもこれ以上の言葉を続けることを断念していたかもしれない。

しかし、即座に切り捨てるラムと対照的に、エミリアは強く前を向いたまま、

「信じる価値はあるわ! それが、これまでの私たちの時間でしょう!?」

「――ッ」

エミリアの訴えに、ラムの頬がわずかに強張った。

一瞬、薄紅の瞳に生じる迷い。聡いラムの頭の中で、様々な考えが巡るのがわかる。そのまま、彼女は固く結んだ唇を開いて、

「ラム、一緒にスバルの話を……」

「――レムは、どうなるの?」

「――ぁ」

瞬間、潤んだ瞳を閉じたラムが、その小柄な体躯を回し、エミリアへ躍りかかった。

とっさの判断で後ろへ下がり、エミリアがラムを取り押さえるために身構える。が、踏み込むラムの動きの方が速く、エミリアの左手がラムの右手に捉えられた。

「邪魔を、しないで!」

「きゃあっ!」

言いながら、足捌きと体捌き、手首と肩の関節を最小限に動かし、最大限の効果を発揮する形でラムがエミリアの体を放り投げた。

軽々と、側方宙返りのような形で投げられるエミリア。彼女は回る視界に驚きながらも即座に自分の状態を把握し、長い足を床について不時着を試みた。

「――っ」

その、エミリアの足が着地する位置に、ラムの脱ぎ捨てた靴がある。それを踏みつけ、エミリアの姿勢制御が崩れ、床に手をつくように這いつくばらされた。

接近戦でエミリアを、その技術とセンスだけで打倒し、間隙にラムが滑り込む。

彼女は驚愕するスバルの鼻先へ、氷格子越しに細く小さな杖を突き付けた。

「忘れたと、もう一度言ってみなさい」

「そ、うじゃ、なくて……」

「その顔と、声で。レムを忘れたなんて、もう一度でも……」

奥歯を強く噛みしめて、震える杖の先端にラムが何かを集めていくのがわかる。

目には見えない、おそらくはマナと呼ぶべき力が溜まっていくのを目の当たりにして、スバルは二の句が継げなかった。

ラムを、目の前の泣きそうな少女を、止めるための言葉が浮かばなかった。

ナツキ・スバルではなくて、『ナツキ・スバル』になら、それができたのだろうか。

「ダメよ、ラム! やめて!!」

体勢を立て直したエミリアが叫び、ラムを止めにかかる。

だが、間に合わない。

「――――」

白い光が、氷格子の向こうで瞬いて、衝撃がスバルを呑み込む。

そのまま背後へ、思い切りに体が氷格子へ叩き付けられ、後頭部を打ち付けた。

「――っ」

ぐらりと頭が揺れ、意識が霞む。

言い訳すらも間に合わないままに、ナツキ・スバルの意識はそこで途絶えた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――ぅ?」

微かな、弱々しい呻き声を漏らして、意識が覚醒へと導かれる。

ゆっくり、ゆっくりと、汚泥のような暗闇から浮上してくる意識。どこか茫洋な感覚、それが徐々に、徐々に加速し、現実感を帯びて、やがて――。

「――づ、ぁ!? 痛ッ!?」

覚醒へと意識が近付いた瞬間、首根っこを掴むような強引さで引きずり上げられ、スバルの脳を鋭く熱い痛みが焼いた。

体を跳ねさせ、痛みに呻くスバルは、硬い床の上で目を覚ます。

「痛ぇ、痛い、痛い痛い、なんだ、なんだこれ……?」

断続的な痛みに体を起こして、スバルは自分の左肩に手を伸ばした。触れた瞬間、強烈な痛みが再び脳を焼く。左腕が、全く動かない。

「これ、肩が外れてんのか……? 脱臼? したことねぇぞ……」

ぶらぶらと、肩から先が意思を反映しない。ただ、動かそうとすると、あるいは触れると激痛が走るため、スバルは細心の注意を払って立ち上がった。

周りを見回す。誰もいない。そして、この場所は――、

「メィリィを、隠した部屋……」

つまりは、直前まで意識があった部屋に他ならない。

その証拠に、スバルの背後にはエミリアが魔法で作った氷の檻がそのまま残されていた。不思議なのは、スバルがその檻の外に転がっていたことだ。見たところ、檻は開封された様子はなく、通常の手段で抜けることはできないはずだが――、

「――それで、肩、か?」

そこまで考えて、スバルは自分の肩の脱臼と、氷の檻からの脱出の関連に気付く。

檻の氷格子の隙間は、何とか子どもであればすり抜けることは不可能ではないだろう間隔だった。強引に、それこそ肩でも外せば通り抜けることはできたはず。

問題は、意識のないナツキ・スバルがどうやってそれを為したのか。

それと――、

「――エミリアと、ラムはどこにいった?」

部屋の中に、先ほどまで言い争い、あるいは殺し合いにまで発展しかけた彼女たちの姿が見当たらない。

それは、あまりにも不自然な状況だった。

――否、不自然である以上に、恐ろしい状況というべきだった。

スバルの意識が吹き飛んで、身に覚えのない肩の脱臼があって、いなくてはならないはずのエミリアたちの姿が見えなくて。

いったい、自分の意識のない間に何があったのか、おかしなことは起きていないか、スバルは部屋の中を見回し――気付く。

『ナツキ・スバル参上』

「――――」

壁に、いつか見た、その文言が刻まれている。

石の壁を削り、荒々しく、無地のキャンパスに書き殴るように、刻まれた文言。

それをやったのは、壁の傍に落ちている石の欠片か。どうやら、それは元々、メィリィの亡骸を隠すのに使った、部屋の奥にあった石塊の成れの果てのようだ。

その石の欠片を使い、壁に刻まれた『ナツキ・スバル参上』の文字。――それだけであれば、腕に刻まれた同じ文言ほどのインパクトはない。

二番煎じがもたらす驚きなど、大したことはないと笑い飛ばせたはずだ。

だが、しかし――、

『ナツキ・スバル参上』

『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』

『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』

『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』『ナツキ・スバル参上』――。

「――ぅ、あ」

部屋中の壁を埋め尽くすように、びっしりと、病的に、刻み込まれた文言。

スバルが最初に違和感に気付けなかったのも当然だ。それはもはや、壁にそうした模様があるのだと半ば錯覚させるほどに、病的に執拗に刻まれたものだった。

部屋中に、何のために、こんな文字を、刻んで――。

「――あぁン? なンだこりゃ、気持ち悪ぃ部屋だな、オイ。なンだってこンな気持ち悪ぃ飾り付けしてンだ、オメエ」

「――――」

ゾッと、立ち尽くすスバルは背後からの声に怖気を覚える。

気配が感じられなかったこと、ではない。そもそも、スバルは今、壁の文字に意識を完全に奪われていた。誰に近付かれても気付けなかっただろう。

だから、驚きはそのために生じたものではない。

今のスバルの驚きは、その、粗野で突き放した声色に、聞き覚えがあったからだ。

それも、すぐにでも忘れたいほどに忌々しい記憶が――、

「オメエ、こンなとこでボケっと何してやがンだよ、稚魚。群れからはぐれた稚魚なンざ、でけえ魚の餌食になンのがお約束だろうが、オメエ」

そう言って、振り返れないスバルの背後で、鮫のように赤毛の男が笑った。

ここにいられないはずの男が、確かに、嗤っていた。

第六章51 『生者たちの塔 PART2』

背後から届いた聞き覚えのある男の声に、スバルは呼吸を忘れるほど戦慄した。

「――――」

その瞬間ばかりは、外れた左肩が訴えてくる痛みのことも忘れる。

脳裏を支配したのは恐怖と怯懦、負の感情からくるオンパレードと、『何故』の一言が思考を塗り潰すような絶望的な感覚の嵐だった。

何故、疑問は尽きない。

何故、自分の左肩は外れているのか。何故、部屋中に『ナツキ・スバル参上』の文字がこれほどまでに刻まれているのか。何故、スバルを捕えたはずのエミリアやラムの姿がこの場にないのか。何故、隠したはずのメィリィの亡骸がどこにもないのか。何故、ナツキ・スバルの記憶は失われたのか。何故、ナツキ・スバルは異世界に呼ばれたのか。何故、自分は父に、母に、本当のことを話すことができないでいたのか。何故――、

「何縮こまってンだ、オメエ。黙ってンじゃねえよ、感じ悪ぃ野郎だな、オメエ」

――何故、この場に下りてこられないはずの男が、ここに立っているのか。

「――っ」

ふと、相手の声に苛立ちのようなものが混じり、スバルは慌てて背後に振り返る。

後ろに立つ相手を直視することへの恐怖はあった。多くの場合、この手の恐怖心を煽る存在とは、その行動の未知数さが恐怖の根源にあるものだ。

しかし、この相手へスバルが抱く恐怖は、相手を直視することへのリスクより、実物を目視していないことへの不安感の方が勝った。

この相手の場合、その行動の目的はスバルの恐怖を煽ることではない。

もっと端的に、相手を傷付けたり、命を奪うことにあるのだとそう思われたからだ。

「はンっ。なンだ、オメエ、その面ぁよ。ビビッてンのか、オメエ。泣きそうかよ、オメエ。こンな気持ち悪ぃ部屋で、胸糞悪ぃ奴だな、オメエ」

そうして意を決したスバルを嘲笑い、堂々と白い歯を剥くのは着流しの男だ。

赤毛の長髪、右目を覆った眼帯、剥き出しの胴体には白いサラシが巻かれていて、鍛え上げられたたくましい鋼の肉体でもって、哀れなスバルを見下している。

プレアデス監視塔、二層の番人――レイドと、そう呼ばれている男だった。

「――――」

「……オメエ、口が利けねえのかよ。オレの話が聞こえてねえのか? それとも、オレと話すつもりなンかねえって態度で示してンのか? それならそれで構いやしねえが、それならそれでもっと堂々としてろってンだろ」

小馬鹿にしたような調子で言い放って、噛みつく形相でレイドがスバルを睨む。その圧迫感に気圧されながら、スバルはもごもごと唇を動かし、

「み、ぎめ……」

「ああン?」

「眼帯、左目に、してた、だろ。なんで、右目だ……?」

今、聞くべき内容では到底なかった質問。

それを口にしたスバルに、レイドが青い瞳を微かに揺らめかせる。それから、男は「かっ」と歯を鳴らすと、

「気分だ、気分! オメエ、眼帯なンざオレはどっちでもいいンだよ。こンなもン、お遊び気分で付けてるもンと変わりゃしねえンだ。付けてねえと見えすぎちまう。そンだけの代物なンだからよ」

そう言って、レイドが指で右目の眼帯をめくってみせる。すると、眼帯の下には特にケガのない、彼の言葉通りの健在な目がそこにはあった。

剥き出しの左目にも、当然のように何の被害もない。つまるところ、彼の言には一切の嘘なく、本当に眼帯は「したいからしている」だけの代物だとわかった。

それさえも、彼にとっては他者との力量差を埋めるために必要な遊びで――、

「――なンだ、オメエ。肩、外れてンじゃねえか、不格好だと思ったぜ、オイ」

「――ッ!?」

そんな感慨を抱いた直後、スバルは突然の衝撃に脳の裏側を灼熱で焼かれた。

「ぎ、がっ……!」

激痛に喉が塞がり、突き抜ける痛苦に視界が明滅する。

見れば、スバルの外れていた左肩を、何の配慮も躊躇いもなく、レイドの右手が掴んでいた。そのまま彼は無造作に、関節が外れた肩の骨と手首のひねりだけで嵌め込む。

ズレた骨が矯正され、鈍く生々しい音が響くと、スバルの左肩に自由が戻った。

ただし、一度は無視できるようになった痛みが再発し、世界を呪いたくなるような痛みにスバルの頬を涙が伝う。

「大げさにすンなよ、オメエ。オレがイジメてるみてえに見えンだろうが。実際のとこ、オメエをイジメたのはオレじゃなく、あの激マブの方だろうによ」

「げき、マブ……?」

「あの銀髪の激マブに決まってンだろ、オメエよ。後ろの氷の檻と、オメエの外れた肩見りゃ大体のとこはわかンだよ。仲間割れでもしたかよ、面白ぇ」

左肩を押さえて、痛みに呻くスバルに応じながらレイドが鼻で笑った。その彼の言葉を聞いて、スバルは激マブがエミリアを指しているのだと解する。

それと同時に、部屋の状況だけで、スバルとエミリアたちとの決裂――そんな立場を把握したレイドの観察眼に、一種の恐れを抱いていた。

「なんで、そんなことがわかる……?」

「こンなしみったれた塔にいりゃ、男と女のやることなンざ、必要以上に仲良くなるか、必要以上に仲悪くなるかのどっちかしかねえよ。オメエじゃムカつかせンのが関の山って思っただけだ。大した話でもありゃしねえ」

正論、と言うにはあまりにあんまりな結論。それに何も言い返せないスバルから視線を外すと、レイドは部屋の中、エミリアが残した氷の檻を眺めた。

「――――」

首をひねり、レイドが退屈そうにスバルの隣を抜ける。そして、彼は氷の檻をしげしげと眺めると、その氷格子に足をかけ、ぐいと力を込めた。

途端、氷格子がひび割れる音がしたかと思うと、次の瞬間に強靭な氷の檻の全体に破壊が一気に波及、氷格子が粉々に砕け散る。

スバルが力を込めてもびくともしなかった氷格子どころか、檻全体がその様だ。

魔法といい、身体能力といい、その歴然とした差にスバルは閉口する。そんなスバルの反応を余所に、レイドは軽く自分の手足を動かしながら、

「――まぁ、そこそこ動くみてえだな。上等、上等」

そう、何かの感触を確かめるように呟いて、ゆっくりとその部屋から外に出た。

もはや、立ち尽くすスバルのことなど眼中にないといった態度にスバルは慌てる。いまだに混乱は収まらず、何が起きたのかまるで把握できていない立場ではあるが、この場でレイドから目を離すことが、決して良い結果に繋がらないことぐらいはわかる。

そもそも、だ。

「待てよ! あんたは……あんたは、上の階から降りてこられないって話じゃなかったのか? それがどうして当たり前みたいにこの階をうろついてる!?」

淡々と、四層の廊下を歩くレイドを追って、スバルは部屋を飛び出した。

何のてらいもなく、堂々と床を踏むレイドの背中を睨みつけ、スバルは最初に頭の中を占めた疑問の一つをぶつける。

それを受け、レイドは振り返りもせずにひらひらと手を振った。

「オレがいつ、二層から出歩けねえなンて言ったよ? ……なンて、それ言い出したらちっとばかし卑怯だわな。安心しろや。オレが出歩けねえって前提は間違っちゃいねえ。ただ単に、今は出歩けるようになっただけだ」

「ただ単にって……その、前提がどうして崩れたのかを聞いてんだろ?」

「そこまで懇切丁寧にオメエにご教授してやるつもりはねえよ。オレは出歩ける。オメエはビビッて小便漏らす。以上、しまいだ。――いや、しまいじゃねえな」

追い縋るスバルが隣に並ぶと、そこで声の調子を変えたレイドが目を細める。そのまま彼はスバルを鋭い瞳で斬りつけ、身を竦ませながら頬を歪めた。

無手のまま、武器を持たない赤毛の剣士――その眼光だけで、十分に他者を斬殺できるだろう男の視線に、スバルは深々と息を呑む。

「な、んだよ……」

「いいぜ、虚勢は張れよ、オメエ。それも張れなくなりゃ男はしまいだ。で、男落第寸前のオメエに聞くが、オレはこのしみったれた塔からおさらばするつもりなンだが、仲間割れしたオメエの連れはどこいってンだ?」

「は?」

間近の圧迫感の心を締め付けられながら、スバルは驚きの発言を聞かされた気がして目を丸くする。その反応の悪いスバルに、レイドは「オメエよ」と当然のように、

「オレはこっから出てくつもりだが、飯はいるし、水はいるし、酒もいる。ついでに女もいりゃぁ言うことねえ。オメエの連れの中じゃ、激マブとエロい格好の女が候補だ。激マブは口説くの罪悪感があっから、候補はエロ女が優勢ってとこだな」

「出て、いく……? この塔を? でも、それじゃ、お前……『試験』とか、いや、もっと色々あるだろ? この状況とか、全部どうすんだよ!?」

「いや、オメエの全部とか知らねえよ。オメエの身内の始末はオメエで付けろ。オレには何にも関係ありゃしねえ。ああ、待て。一個だけ気持ち悪ぃ放置はあンな」

「気持ち悪い、放置……っづぁ!?」

表情を変えたレイド、その一言に眉を顰めたスバルの額が指に弾かれる。打ち込まれたデコピンの威力に、スバルの体が背中から通路の壁にぶつかった。そのまま痛みでしゃがみ込むスバルを見下ろし、レイドは「はンっ」と鼻を鳴らすと、

「言ったろうが。何でも答えがもらえると思ってンじゃねえよ、雛鳥か、オメエ。稚魚なのか雛鳥なのか、ちったぁ足下固めろや、オメエ」

「お前の、定義の問題で……」

「都合よく出てきたオレを、オメエの不安やら疑問やら後悔やらの隠れ蓑にしてンじゃねえよ。オメエのことはオメエで片付けろ。オレを使って慰めてンじゃねえ」

「――――」

苛立たしげ、とは言えない言葉だった。

苛立つには感情がいるが、レイドはスバルの存在など意に介していない。意に介していない相手のために感情は動かない。故に、声には苛立ちすらなかった。

だが、言い捨てただけの言行で、十分以上にスバルの心には刃が突き刺さる。

その痛みに呻いて、再びスバルの胸中を置き去りにした疑問が埋め尽くそうとする。しかし、その直前だ。

「――ああ、きやがったな」

首を通路の先へ向けて、レイドが何事か納得するようにそう呟いた。

顔を上げ、スバルもつられて彼と同じ方向に目を向けるが、そちらには何の変化も見当たらない。ただ、遅れて気付く。

しゃがみ込み、地べたに尻をついていたから気付いた。

微かな震動だ。塔が、揺れている。微かに、地震ほどではない地響きを、感じる。

「かっ」

歯を鳴らして笑い、目を輝かせたレイドが草履で床を踏みしめ、歩き出した。その迷いのない素振りを目の端に捉え、スバルは慌ててその背を追う。

自分を、懊悩の隠れ蓑に使うなとレイドは言った。

それは紛れもなく、スバルの弱い心へと斬り込んだ一言だったに相違ない。スバルの問題はレイドに訴えたところで解決はしない。

だが、それはそれとして、今、レイドが四層を出歩く理由と、塔全体に何が起こっているのか、それを見極める義務がスバルにはあった。

「レイド!」

「――――」

「おい、待て! 待てよ! せめて、何をするつもりでいるのか……」

大股で、急ぎ足に、止まる理由なく堂々と進む背中はスバルに答えない。

肩の痛みがあり、心には迷いがあり、積極的ではなく、消極的な義務感に後押しされるスバルは、前を行く背中を懸命に追いかけるしかなかった。

そうして、赤い長髪を揺らして進む背中が、ふいに足を止め、立ち止まった。

「――――」

レイドが足を止めたのは、通路を抜けた先にあった吹き抜けの螺旋階段――記憶をなくしたナツキ・スバルが二度、突き落とされて死んだ場所だった。

レイドを追うので必死になり、自分の立ち位置に気付くのが遅れたスバルは息を呑む。

しかし、現状の閉塞感を打開したい思いが、『死』をもたらした場所への忌避感を凌駕し、スバルに前へ進む力を与えた。

――場所が、スバルを殺したわけではない。悪意がスバルを殺したのだ。忌避感を抱くべきは場所ではなく、そうなった要因と、そうした犯人。

「――――」

心臓の鼓動と、流れる血の音がやけにうるさく感じられる。それを踏みつけ、スバルはじっとりとした汗を拭い、立ち止まったレイドの横へと突き進んだ。

そうしてようやく、レイドが高所の淵に立って、眼下の光景を見下ろしていることに気付く。どこへいても、見下ろす姿勢の似合う男だと、内心でそんな益体もない考えを浮かばせながら、スバルはその視線を辿った。

辿って、やっと気付く。

心臓の鼓動のうるささに紛れて、聞こえていなかった音が聞こえることに。

「――――」

――眼下、大階段の終着点である五層が、どこからか湧き出したおぞましい炎の魔獣の群れに埋め尽くされ、地獄の様相を呈していた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

想定すらしていなかった眼下の光景に、スバルの意識が完全に白く染まった。

「――は?」

蠢く赤々とした炎と、塔内に響き渡る無数の赤ん坊が泣き喚くような絶叫。

それらの事象は関連し、一つの答えへと結び付く――すなわち、炎の鬣を纏ったおぞましい造形の魔獣、群れを成したその存在の、暴力的な氾濫だ。

馬のような四足と胴体、そこから生えた人間のような腕と上半身。人間の上半身には牙の生え揃った口腔があり、恐ろしい火力の炎が塔内の酸素を焼き尽くさんとしている。

その魔獣が、おおよそ二十体以上、階下の五層で飛び回っているのが見えた。

凄まじい熱量が数十メートルも上のスバルたちの下へ届いて、見下ろす眼球が一瞬で乾くかと思われるほどの熱波にのけ反らされる。

何が、本当に、何が起こっているのだ。

「薄気味悪ぃ魔獣がいたもンだな。オメエ、あれがなンだか知ってっかよ」

「……知らねぇ。俺も、でかいミミズ以外の魔獣は、初めて見て……ぁ!?」

眼下から目を離せないスバルの横で、同じ光景を眺めるレイドが問いを発する。その問いに首を横に振ったスバルは、視界の変化に思わず喉を震わせた。

炎を纏い、塔内を飛び回っている魔獣――人馬一体の外観をしたそれを、便宜上はケンタウロスと呼ぶが、そのケンタウロスがけたたましい咆哮を上げた。

胸から腹にかけての歪な口から上がるのは、悲鳴や怒号といった激情を起因とする激しい叫び声だ。

そして、ケンタウロスがそうして絶叫する理由は、魔獣の群れの合間を駆け抜け、細い剣を振るって応戦する一人の騎士の存在にある。

「――しっ!」

息を詰め、炎の剣を掲げる魔獣の群れの隙間を、優麗な剣撃が滑り抜ける。

血が散り、魔獣の腕や足が断たれ、一拍遅れて絶叫が周囲に轟いていく。それを背に聞きながら、圧倒的物量に押される騎士は身を捌き、次なる敵へと飛び掛かった。

それこそが――、

「――ユリウス!」

思わず、スバルの唇が彼の名を呼んだのは、生存者を見つけたことへの感激があった。

それが喜びと悲哀と、どちらの色合いが濃いものなのかは自分でも判別がつかない。

ただ、意識が飛び、自分でもわからぬ行動があった直後、一度はメィリィの亡骸と対面する事態があったのだ。

次なる誰かとの再会が、その相手の亡骸でないとは言い切れない。そんな不安は常にあった。だから、その不安が破られたことは朗報ではあった。

「――――」

そんな頭上の驚きを余所に、眼下のユリウスは剣を振るって魔獣と戦い続ける。

数の上では不利だが、一体一体の実力はユリウスには及ばないといったところか。とはいえ、炎を自在に生み出す魔獣が群れているとなれば、攻撃手段が剣だけのユリウスにはいずれ限界が訪れる。

――そうして彼が焼け死ぬことがあれば、その『死者の書』が書庫に加わるはずだ。

「他の連中はどこへやら、だ。――ま、都合がいいっちゃいいわな」

「――っ」

スバルの胸中で、知人の『死』を望む黒い考えが首をもたげた瞬間、同じ光景を眺めるレイドの呟きが意識を現実へと引き戻した。

だが、当のレイドはスバルの葛藤など知らぬとばかりに歯を剥いて、一歩、すでに転落寸前の淵に立つ足を、さらに前へと踏み込んだ。

「お、おい、どうする気だ?」

「オメエ、質問ばっかだな。オレに聞いてばっかじゃなく、たまにはオメエの方で予想外の行動してみろや。オメエと話してても面白くねえよ。見てて楽しい女でもねえ、話してて面白いわけでもねえ。オメエ、オレに何のつもりで話しかけてンだ?」

「――――」

「オレに言わせりゃ、オメエの方がどうしてえンだよ。身内が下で、気持ち悪ぃ魔獣に囲まれてンのに棒立ちか? 弱ぇ奴は選択肢が少ねえな。言い訳だけうまくなりやがる」

肉食獣が草食獣を嬲るように、レイドの言葉には強者の理屈でできている。

それを否定できないのは、彼の理論がスバルには全く適用されない、まさしく強者と弱者の隔絶がそこにあるからだ。

「はンっ」

言い返さないスバルを、ついには一度も見ないまま、レイドが身を前に傾けた。

止める、暇もない。そのまま、レイドの体はゆっくりと眼下へ倒れ込み、支えのないまま宙へ投げ出されると、スバルが辿った転落死と同じ道筋を空へと辿る。

真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐに、レイドの体が落ちていく。

ナツキ・スバルであれば、地面へ叩き付けられる前に意識が失われ、自分が『死』を迎えた瞬間すら直視することができなかった状況。

それを、赤毛の剣士、レイドは同じように落下して、落下して、落下して――、

「――ッッ!!」

真上から、超高所からの草履の一撃を背中に受け、ケンタウロスの馬の胴体がひしゃげてへし折れる。衝撃を受け切れずに四肢が砕け、魔獣はその巨躯を嘘のように押し潰されて、どす黒い血をぶちまけながら五層の床の染みへと変わった。

それを成し遂げたのは、スバルなら死んでいた高さを飛び降りて、魔獣を草履の裏で踏み潰しながらもぴんぴんしている、レイド・アストレアの暴挙であった。

「――――」

その外観から、知性を持たないであろう魔獣の動きが止まり、唐突に乱入してきた赤毛の男の気配に赤子の鳴き声が一斉に消え失せる。

よく見れば頭部のない魔獣たちは、どうやら視覚ではなく、それ以外の五感を使って相手の存在を確かめているのだと予測がついた。

その、視覚を欠いた残った器官だけで、十分以上にレイドの異常性は通じる。

そしてそれは、魔獣を相手に大立ち回りを演じていた騎士、五感がしっかりと揃っているユリウスもまた、同じことだった。

「あなたは……何故、ここに」

「何故、何故、何故。聞くこと一緒かよ、オメエら。もっと他になンかあンだろ。女にモテる秘訣とか、うまい酒の銘柄とか、どうしてそンなに強いンですか、とか」

唖然と、目を見開くユリウスの前で、レイドが草履の裏の肉片を指で払う。そのまま、彼は傍らに立っていた別のケンタウロスに手を向けた。

その手に、何の冗談か、細い木の棒――箸が握られているのが見えて。

「女にモテる秘訣は顔。うまい酒は火酒『グランヒルテ』。――オレがどうして世界で一番強ぇのか、そいつはオレがオレだから」

言葉を区切り、レイドが指先で箸をちょいちょいと動かした。

次の瞬間、動きの止まっていたケンタウロスの全身に亀裂が走り、血が噴く。魔獣は自身の肉体の崩壊に遅れて気付いて、『死』をもたらす痛みに絶叫した。

それが、この世に縋り付く赤子の泣き声に聞こえるのが、最悪に趣味が悪い。

だが、それをもたらした男は笑みを崩さぬまま、血もついていない凶器、箸を今度は魔獣ではなく、ユリウスの方へと向ける。

そして、その箸に見た目以上の怖気を覚えたのか、ユリウスが黄色の瞳を見張るのを眺めながら、レイドは歯を剥いて、

「――そら、『試験』の続きだ。オレが飽きる前に、もぎ取ってみろよ、オメエよ」

第六章52 『神様、許してください』

――おぞましい剣舞が、吹き抜けの五層を舞台に展開されていた。

「――――」

長い赤毛を躍らせ、たくましい肉体を自由自在に縦横無尽に天衣無縫に操ってみせる眼帯の男が、手にした短く脆い棒切れを使って信じ難い光景を演出、展開する。

「――ッッ!!」

赤毛へと殺到するのは、生まれたての赤ん坊のような泣き声を上げる人馬一体となった魔獣ケンタウロスだ。

魔獣は頭部のない人間の上半身、その両腕が担った炎の剣を振り回し、掠めるだけで人体を炭化させるような法外な火力を叩き込んでくる。

だが、男はそれをあろうことか、何の変哲もない木の棒で易々と受け流し、灼熱の中で舞いを踊るように身を捌いていた。

それを成し遂げる木の棒に、炎が燃え移ることはない。発火しない。何故だ。

――おそらく、ただ単に、燃えるより早く木の棒を振っているだけだ。

木の棒が火に焼かれないのは、焼かれるより早く木の棒を振っているから。

炎の剣撃を受け流せるのは、必要最小限の力を剣風で与えて剣閃をずらすから。

殺意が灼熱となって取り巻く空間で楽しそうなのは、その男の頭がおかしいから。

レイドは狂気的な状況を、この世の春とばかりに満喫しながら『試験』を再開した。

「そらそらそらそらそらそらそらそら! どうした、オメエ! 遊ンのか、オメエ! こないだとは違ぇ状況だ、狙いどきだぞ、オメエ! 周りのお友達利用して、ちったぁオレに報いてみせろや! おらおらおらおらおらおらおらおら!」

吠え猛りながら、両手に一本ずつ棒切れを持ったレイドが炎の中で唾を飛ばす。その青い瞳が睨むのは、同じように炎の光景に囲まれるユリウスだ。

騎士剣を片手に周囲の魔獣に対処するユリウス、彼の表情には緊迫と困惑が二重に浮かんでいて、歌舞きすぎたレイドの言動を受け入れられていない。

その表情のまま、ユリウスは叫んだ。

「いったい、あなたは何を考えている!? これだけの魔獣が地下から湧いた! 今は塔全体の一大事で、力を合わせて対抗すべき状況です!」

「はンっ! お行儀のいい剣筋の奴は考えることまで行儀がよろしいな。オメエ、そンなンで人生楽しめてンのかよ? オレの経験上、やりてえこと我慢してる奴より、やりてえことやってる奴の方が強ぇし楽しンでンぞ、オメエ」

「何を……」

「大体、気持ち悪ぃ火炙りの馬が走り回ってるぐれえで何の問題がある? 雨が降ったのと変わりゃぁしねえ。雨の方が面倒臭ぇな。オレぁ癖っ毛なンでな」

常識的な視点から、常識的な正論を述べたユリウスを、レイドが狂人的視点から狂気的な暴論で笑い飛ばす。

明確な殺意をみなぎらせて襲ってくる炎の魔獣の群れを、雨粒と同じ次元に喩えるあたりがレイドの感性が死んでいる証拠だ。まともな理屈では到底ありえず、聞くものの心を無理解と混乱で満たす以外に何の意味も持たない。

「――っ!」

実際、それを聞いたユリウスは考えたこともない理屈に思考を乱され、結果、剣閃に迷いを生じてケンタウロスの攻撃に対処が遅れる。

「くっ!」

弧を描く炎の剣、それをユリウスは剣で受けず、とっさに後ろへバク転気味に躱した。直後、別個体が蹄で頭を踏み潰しにくるのを、着地の反動そのままに前方へ飛ぶことで回避、直前の炎剣を振るった魔獣の胴へ刺突を突き刺し、耳障りな絶叫を上げさせながら背後の魔獣へ――、

「――ッッ!!」

振り返ろうとした瞬間、ユリウスの左肩を蹄の一撃が捉える。

鈍い音がして、ユリウスの端整な横顔に痛苦が走った。が、彼は蹄の威力を利用して身を回し、伸び切った魔獣の足を騎士剣で両断、傾く胴体を撫で斬り、出血する左肩を己の騎士剣の柄で強く殴りつけた。

生々しい、肉と骨の音。レイドがスバルにした以上の荒療治、骨が嵌まる。

「かっ! それだ、それ。悪くねえぜ、オメエのその面」

燃える巨躯と荒ぶる蹄が五層を焦熱地獄へ変える中、ただ一人、人間として絶望に抗うユリウスの姿に、レイドが我が意を得たりと残虐な笑みを浮かべた。

判断材料のない魔獣たちは、ユリウスとレイドを等しく害敵とみなしている。が、その厄介さは知性があれば火を見るより明らかだろう。

血を流し、常の優美さを損ないながら、ユリウスの剣が魔獣の猛攻をしのぎ、一体、また一体と着実に敵を削っていく。一方、レイドは涼しい顔を崩さないまま、ユリウスと同等かそれ以上の体技を以て、魔獣の命を死神のように刈り取っていた。

そして、その合間に――、

「――ぐ」

「けど、足下がお留守だ。まぁ、オレから見りゃどこもかしこもお留守番だがよ」

退屈そうに耳をほじるレイドの長い足が、背を見せたユリウスの胴を直撃する。その蹴りの威力はどれほどのものなのか、受けたユリウスの体が石をくるんだ布のように軽々と吹っ飛び、塔の壁へと激突させられる。

衝撃が塔全体を貫き、魔獣の甲高い咆哮が獲物の窮地を歓迎する。床に倒れ伏し、血を吐くユリウスへと我先にと魔獣の群れが殺到していく。

「く、ぁ!」

その死の猛攻を、ユリウスは地べたで逆さまに上体を滑らせ、長い足を振り回して蹄を蹴り払いながら飛び起きる。その勢いのまま、ユリウスは殺到した魔獣の胴を肩を、足場にして包囲網を突破し、まとまった隙を見せる魔獣たちへ左手を向けた。

「――――」

何も起きない。突き出した左手を握り、ユリウスが痛恨の表情を浮かべる。魔獣たちが振り返り、隙を見逃したユリウスへ迫ろうとして――、

「――この期に及ンで、まーだ本気でやれてねえな、オメエ」

そのユリウスと魔獣の間に割って入り、レイドが嘆息気味に棒切れを振るった。

両手で二本、振るわれた木の棒が巻き起こす剣風が、十数体のケンタウロスの巨体を宙へ浮かび上がらせ、蹄が床を空振る感覚に魔獣の意識に間隙が生じる。

「死ンどけ、駄馬共が」

そこへ、軽く床を蹴って飛び込むレイドが、空中の魔獣を丁寧に、一体ずつ確実に、胴を薙ぎ、心臓を穿ち、人体の上半身をへし折り、魔獣の全体を蹴り潰し、異なる殺戮手段によって絶命、皆殺しにする。

宙に舞い上がり、地面に死体となって散らばるまでほんの二、三秒の出来事だ。

驚異的な危険度を誇る魔獣が、為す術もなく殺され、全滅する。

そうして、五層のケンタウロスが一掃され、波乱の状況に一拍の猶予が生まれるものかと思われたが――、

「ちっ、切りがねえな。次から次へと巣からわンさか湧きやがる」

舌打ちするレイド、その視線と言葉を肯定するように、階下の六層へと通じる階段から赤子の泣き声と蹄の音が再び五層へ迫ってくる。

このままでは、積み上げた屍に倍する勢いで魔獣が上がってくるのは時間の問題だ。仮に外の、広大な砂漠が魔獣の住処だとすれば、そのストックが尽きる想像ができない。

似たような考えはレイドにもあるのか、彼はおもむろに腕を組みながら、

「人がお出掛け気分で降りてきて、食べ残しの皿だけ片付けちまおうってときに邪魔ばっかりしやがって。けったくそ悪ぃ奴らだぜ、なぁ、オイ」

「待ってくれ、出掛けると? この状況で、この塔から出ていくつもりだと、あなたはそう言うのか!?」

「出てる結論を聞き直してンじゃねえよ。言っただろうが。雨が降ったぐれえで遊びに出掛けンのを我慢する奴がいるかよ。なンせ、塔の中にゃ退屈な奴しかいねえ。オレの遊び相手ができたのが激マブ一人……オメエらじゃ、今のオレの遊び相手も務まらねえ」

「――っ」

奥歯を軋らせ、ユリウスがレイドの態度に激情を抱き、しかしその発露を躊躇う。

ここで激発すれば、レイドとの交渉はご破算になる。そうなれば、状況は再び魔獣とレイドとの二面工作へ突入だ。そう、ユリウスの理性が考えたのだろう。

手に取るようにわかる苦悩、そんなユリウスの一時の躊躇いを見て、

「どうにもなンねえな、その性分」

心底、失望したようなレイドの呟きがユリウスの頬を硬くさせる。

そこに生まれた心痛は如何ほどのものだったのか、ユリウスの瞳を、表情を、過った複雑な感情の渦は、まるで目指す山の頂を雲に隠された子どものようだった。

その内心が受けた痛みは、彼以外の余人には決して窺い知ることなどできない。

――しかし、直後の、階下から噴き上がる業炎が、棒立ちのユリウス目掛けて放たれんとしていた状況は、真上から戦場を俯瞰する『凡人』にはよく見えた。

「――ぁ」

事ここに至り、五層の戦いを直上から見下ろしていたナツキ・スバルは、自分が呼吸を忘れるほど階下に意識を奪われていたのだと自覚する。

「――――」

眼下、レイドとユリウス、そこに魔獣を加えた乱戦は、凡庸の塊であるスバルが割り込むことなど考えることすらおこがましい次元にあった。

規格外のレイドへの驚嘆、畏敬は今さらでしかない。その感慨は割愛しよう。

だが、初めてその戦いぶりを目の当たりにしたユリウス、彼の剣術と身のこなしは、スバルが付け入る隙など微塵も存在しないレベルにあった。

仮に彼に戦いを挑めば、スバルなど瞬きの間に四肢を落とされ、無様な敗戦を晒すこととなるだろう。真剣でなく、木剣で立ち会ったとしたって、きっと、あの涼しい顔を崩すことすらできないまま、滅多打ちの敗北を与えられるに違いない。

エミリアも、ユリウスも、ラムさえもそうだ。

あるいはベアトリスやエキドナ、シャウラは言うに及ばず、この塔にいる全員が、ちっぽけなナツキ・スバルの力では到底太刀打ちできない力の持ち主なのではないか。

ファンタジー世界の住人を、異世界の存在である彼女らを甘く見ていた。

幼くか弱い、メィリィを殺した実績しかない。それすら、『ナツキ・スバル』の行いであり、スバルの関与などないに等しいのだ。

殺せないものを殺すことはできない。

ナツキ・スバルには、『死者の書』計画を実行する力などない、それを自覚した。

「――――」

その自覚が、ナツキ・スバルの中に逡巡を生んだ。

愕然と立ち尽くし、表情をなくしたユリウスは背後の魔獣への気付きが遅い。レイドは魔獣の存在に気付いているくせに、彼に忠告する気配がまるでなかった。

このままならば、ユリウスは魔獣の炎に焼かれ、致命傷を負う。――先ほども脳裏を掠めた可能性、その成就だ。書庫に、ユリウスの『死者の書』が加わる。

スバルの手では、その状況を作り出すことができない。

偶発的で、流動的な状況を利用して、彼を『死』に追い込むことでしか――。

「――後ろだ、ユリウス!!」

「――っ!」

叫び声を聞きつけ、ユリウスの体が反射的に硬直を解いた。躊躇わず、右へ側宙する細身を掠めて、背後から放たれた業炎が五層の床を大火力で焼き払う。

爆発的な火勢が空間を赤く染めるのは、その炎撃を繰り出した魔獣の個体が、これまで相手にしていた個体と比べて一回り以上も大きいためだ。

大人と子どもほどもある体格差、成体と幼体――魔獣にもそうした区別があるのかはわからないが、そのレベルの違いであるとスバルには感じられた。

「――――ッッ!!」

炎を纏い、けたたましい鳴き声を上げる成体ケンタウロス、その周囲に幼体ケンタウロスを複数体引き連れて、再び五層が群れに占拠される。

状況は手詰まりの場面へと逆戻りし、ユリウスは業炎の余波を受け、裾から炎に焼かれるマントを脱ぎ捨てると、身軽な姿となって魔獣へ向き直――らない。

彼の視線は頭上、窮地を知らせた姿勢のまま固まるスバルへと向いていた。

「――――」

「う……」

瞬間、長い高い距離を置いて、スバルとユリウスの視線が交錯する。

遠く、はっきりとは互いの顔も見えないような位置だが、スバルはその黄色い双眸が宿した複雑な感情を見取り、喉の奥で呻き声を漏らした。

疑念、戸惑い、躊躇、懸念、様々な負の色合いの感情が彼の双眸の奥で渦巻く。それはナツキ・スバルの、言い知れない罪悪感を突き刺し、そして――、

そして、今にも、そこから逃げ出したくなるスバルへ向け、ユリウスは、

「――エキドナを、アナスタシア様を頼んだ!!」

「――――」

ユリウスが騎士剣をスバルへ――否、スバルの背後、おそらくは四層全体を示すように向け、そう叫んだ。

そこに込められていたのは、ひび割れて傷だらけの信頼、それに縋る懇願だ。

あるいはこの瞬間、そう叫ぶことが正しいことなのか、ユリウス自身にすら全く迷いを払えていない。そんな中で叫ばれた言葉だった。

疑念と、戸惑いと、躊躇と、懸念があって、それでも彼は止まらず、決断した。

だから――、

「――っ!」

弾かれたように、スバルは床に張り付くように重かった足を動かして走った。つんのめり、躓きそうになり、不格好な姿で走った。

吹き抜けの螺旋階段に背を向けて、走り出した。

行き先はわからない。逃げるのか、そうでないのか、それすらわからない。

自分で自分の感情がわからなくて、それでも足は止められない。

ユリウスを階下に、魔獣の群れとレイドのいる場に残し、スバルは脱兎の如く走る。

「――はン。本当に、どうもなンねえな、その性分」

遠く、そのやり取りを傍観したレイドが呟く声がした。

ほとんど、先刻と変わらない内容の呟きだった。

それがほんのわずかに、違う感情を宿していたか、どうか、わからないままに。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――何故、叫んだ。何故、あのまま、死ぬに任せなかったのだ。

「はぁ、はぁ……っ!」

息を切らして走りながら、スバルの頭はそんな自問自答を繰り返す。

何故、叫んだ。何故、あのまま、死ぬに任せなかったのだ。

『見殺しなら、自分で殺すのと違って感触が手に残らないはずでしょお?』

走るスバルの背後に寄り添って、少女の幻影が不満げに甘ったるい文句をこぼす。

レイドが姿を現してから、一度も出てこなかった幻影だ。その少女の声が、まるで『自分の首は絞められたくせに』と呪うようにスバルを責め立てる。

実際そうだ。

スバルの行動は矛盾している。思考と行動と、願いと目的と、一致していない。

『死者の書』計画は常に頭の片隅にあり、渇望は虎視眈々とその機会を窺っている。

殺した少女の幻影はそんなスバルの葛藤を見透かし、躊躇う背中を押すように呼び掛けてくれているのに、何故、スバルは機会をふいにしたのか。

「――――」

ユリウスに、業炎から逃れる切っ掛けを与えた。

だが、結局は彼は階下に置き去りだ。あの場にはレイドと魔獣の脅威が残ったままで、これでは消極的な見殺し、決定的な場面に自分が関わりたくないだけではないのか。

メィリィをこの手で絞め殺した、そんな衝動的な恐怖が心の奥底にしみついているから、他人が目の前で死ぬところを見たくないとでもいうのか。

だから、こうして必死になって逃げ出してきたのか。

ユリウスにかけられた、託された、言葉も、何も関係なく――、

「――スバル!」

無我夢中で走るスバルの足が、ふいの呼びかけに強引に止められた。つんのめりながら足を止めれば、声がしたのは気付かずに横切ってしまった通路の横道だ。

その折れた角の向こうから、スバルの方へと人影が駆け寄ってくる。

それは――、

「捜したのよ! 今、そっちにいくのはマズいかしら!」

「べ、ベアトリス……!? それに……」

ドレスの裾を持ち上げて、懸命な形相で駆け寄ってくるのはベアトリスだ。ユリウスに続いて、彼女の無事が確認されたことにスバルは安堵と驚きを同時に得る。

だが、驚きはそれだけに留まらない。背後、彼女に同行していたのは、

「エキドナ!? お前ら、なんで一緒に……」

「……よりによって、ここで君と出くわすのか、ナツキくん」

微かに息を乱しながら、ベアトリスの後ろに続く少女――エキドナが呟く。

思いがけない取り合わせへの驚きがあるが、それ以上にスバルの心を厳しく締め付けたのは、エキドナの浅葱色の瞳がスバルへと向けた感情だ。

「――ッ」

その隠し切れない猜疑心が、スバルの置かれた立場を否が応でも自覚させる。

レイドは当然、何も知らない。ユリウスと、ベアトリスの態度にも、はっきりとはわからなかった。だが、エキドナの態度ではっきりとそれがわかる。

――エキドナは、知っているのだ。

メィリィの亡骸が隠された部屋で、氷の檻に閉じ込められたスバルが、エミリアとラムとどんな一幕を交わしたのかを。

そしておそらくそれは、彼女だけに限った話ではない。

ユリウスの、最後に見せた複雑な感情が思い出される。

全員が、スバルの身に起きた出来事を共有しているはずだ。ならば、エキドナの反応は自然なものであり、むしろ――、

「ベアトリス、お前は……」

「――っ! 今はその話をしてる場合じゃないのよ! こっちにくるかしら!」

しかし、躊躇を覚えるスバルと裏腹に、ベアトリスが一方的にその手を取った。震える声を塗り潰され、小さな手に捕まえられるスバルはその行動に虚を突かれる。

事実として、ラムたちからスバルの状況を知らされているなら、その行動にどれほどの決断力が必要とされるかは計り知れない。正気なのかと、スバルの方が問い質したくなるぐらいに、迂闊な行動ではないのか。

「ベアトリス、本気かい!? 彼は檻の外に出ている! この状況でだ!」

だが、そうしてスバルの手を引こうとするベアトリスの行動に、顔色を変えて叫んだのはエキドナだ。彼女はベアトリスの行動の是非を問い、その上で自らの手を、スバルの方へと向ける。指を突き付ける、その仕草に見た目以上のプレッシャーが宿った。

その牽制と思しき姿勢が、スバルにはこけおどしでも何でもない、銃口を向けられたに等しい状況であることが察せられる。

だが、その命の危機を、しかしスバルは当然のことと受け止める。

エキドナの立場からすれば、スバルを警戒するのは当たり前だ。ベアトリスの方がどうかしている。――今も、スバルの前で、エキドナと対峙までして。

「どくんだ、ベアトリス! ここまで怪しい行動をされて、彼と同行するなんて危うい選択はできない! 彼はラムが主張する通り、ナツキ・スバルではないんだよ!」

「そんなことないのよ! 手を繋げば……こうして触れているベティーにはわかるかしら! スバルと、ベティーとの契約は繋がったままなのよ。そのことは、ベティーと同じ立場のお前にならわかるはずかしら!」

「……だとしても、信用はできない! この状況下で檻の外に出ているんだ! いったいどうすれば彼を信じられる? 納得のいく説明はできないだろう!」

そう叫ぶエキドナの表情には、これまで見せたことがない強い感情が溢れていた。

ここまで彼女が感情的になることがあるのかと、そう思わされるほどに強い焦燥――追い詰められ、彼女は目の前の脅威を排除することに必死だ。必死に、なっている。

「――――」

階下に大量の魔獣が湧き、塔全体の状況が危ぶまれる。

そんな状況下で無理からぬ彼女の感情の激発、それを眺めながら、ふと思う。

「もう、いい」

「スバル?」

手を握ってくれているベアトリス、彼女がスバルの囁くような呟きを聞いて目を見開いた。その、ベアトリスの小さく柔らかな手をほどく。

ふいに、音を立てて、それまで張り詰めていたものが切れた。切れてしまった。

「……どういうつもりだい?」

ベアトリスの肩を後ろへ押しやり、前へ出たスバルにエキドナが眉を顰める。困惑、それ以上にある警戒。それも、スバルの心を動かしはしない。

「見ての通り、降参だよ。……もう、お前らの好きにしてくれたらいい」

もはや、なるようにしかなれとしか感情が動けない気がした。

身に覚えのない罪を犯し、それを隠すことに必死になって周りの疑念を呼び、ただ安穏と過ごそうとすれば命を狙われ、『ナツキ・スバル』の影に怯え続ける。

「殊勝な態度を見せれば、こちらの態度が軟化するとでも思っているのかな? だとしたら、それは大きな勘違いだ。ボクは君に、心を許さない」

「いいよ。それも含めて自由にしてくれ。――この塔は、もう駄目だ」

スバルの手には負えない。

キャパシティを越えて、どうにもならない事態が多発しすぎている。そんな、状況の閉塞への弱音のつもりだった。

しかし、それがどうやらエキドナには違った意味合いに聞こえたらしい。

「この塔はもう……? つまり、君はすでに目的を遂げたということかい?」

「……目的?」

「とぼけないでくれ! 君たちの目的は、祠の『魔女』だろう!? それが叶ったから、こうして本性を現した。……アナの直感に従っておくべきだった。この場所へは、他の誰をも連れてくるべきじゃなかったんだ」

苦しげにこぼしたエキドナ、彼女の声に溢れる自責と悔悟の念。その正体がスバルにはまるでわからない。

彼女には、スバルには見えていない何かが見えている。そして、スバルとその何かとの関与を疑っているのだ。――どうでもいいか。もはや、この、終わる世界に。

「スバル、スバル! どうしてしまったのよ! そんな言い方、スバルらしくないかしら! こんなところで立ち止まるはずがないのよ!」

「俺、らしい?」

表情の消えるスバル、それを横から見つめて、ベアトリスが袖を引いて訴える。

そんな彼女の泣くような声に耳を震わせ、スバルはベアトリスを見つめた。

「俺らしいって、何なんだ。お前らが見てる、俺らしさって、どこに」

「……記憶をなくした。そんな、出来の悪い演技をまだ続けるつもりなのかい。妹の記憶が消えたラムや、自分を忘れられたユリウス、大勢が大切な人の記憶を消されたことを知りながら、君はまだそんな残酷な演技を!」

「演技!? 演技だと!? ふざけるな! 演技なら、もっとマシに演じられる立場にするに決まってんだろ!? 誰が……誰が好き好んで、『ナツキ・スバル』になろうとなんかするかよ! なれるもんかよ、こんな気持ち悪い奴に!!」

ぐちゃぐちゃになりかける頭で、スバルは怒るエキドナを上回る憤怒で塗り潰す。

選ぶ自由があれば、選択肢に猶予があれば、誰が『ナツキ・スバル』になろうなどと考えるものか。これほど歪で、耐え難い存在になど、誰が。

――誰が、『ナツキ・スバル』になどと、なりたいと願うものか。

「お前らよってたかって、知らねぇんだよ! 誰なんだよ! 何もかもなくしたんだよ! 俺はコンビニ帰りなんだ! 今日一日、店員と口利いた覚えしかねぇんだよ! それがいきなり異世界? 砂の塔? 死体! 『試験』! 偽物! 『ナツキ・スバル』! ふざけるんじゃねぇ! ふざけるんじゃ、ねぇ!」

「――――」

「そうだよ! どうせ俺が悪いんだよ! ここじゃないとこにいきたかったんだ! 家に帰りたくなかったんだよ! 偽物の顔張り付けて、父ちゃんとお母さんに迷惑かけてんのが怖かったんだよ! だから、最初はワクワクしてたさ、最初だけな!」

ベアトリスが、エキドナが、爆発したスバルの感情に凝然と目を見開いている。

意味が、わからないだろう。彼女たちには、スバルの苦悩の意味がわからない。

ここが異世界なのだと、打ち明けたこともあった。

しかし、彼女たちは本当の意味で、スバルが伝えた『イセカイ』を理解してはくれなかった。――そこには、埋められない隔絶があった。

スバルは、彼女たちが求めている『ナツキ・スバル』ではない。

彼女たちもまた、スバルが求めている救いではありえない。

「なんで、今いきなりキレてんだって思ってんだろ? 俺だってわかんねぇよ! でも、今いきなり限界がきたんだよ! 俺なんてこんなもんなんだって、ぶちって何かが切れたんだよ! 望まれたって何もできない! できやしない! だから!」

「――――」

「だから……もう、許してくれ。許してください。俺を、うちに帰してください……。神様が、俺に罰を与えようと、したんなら、わかりました……俺が、悪かったんです」

いつしか喉は嗄れ、鼻の奥に痛いぐらいの苦みがあって、スバルは蹲っていた。

頭を通路の床に擦り付けて、赦しを乞う。誰に頼めばいいのかわからないから、神に祈った。知っている全ての神の名を浮かべて、祈った。

これが自分の、怠惰な自分にもたらされた罰なら、どうか許してほしい。

反省も後悔も、きっと人生が変わるほどしたから。

だから、お願いだから、許してほしい。

愚かなナツキ・スバルへの天罰に、もう、誰も巻き込まないでほしい。

傷付きたくも、傷付けたくも、ないのだ。

「――――」

蹲り、涙声で懇願するスバルに、エキドナが、ベアトリスが黙り込む。

しゃがみ込んでしまったスバルの隣に寄り添ったまま、ベアトリスの掌がそっとスバルの背を撫でている。

性懲りのない掌の感触、それがどうして、なおもスバルの傍にあり続けるのか。

その答えを聞くことが、スバルにはあまりにも恐ろしかった。

「……ボクは、君を信じない」

「エキドナ……」

絞り出すようなエキドナの結論に、ベアトリスが掠れた声で彼女を呼ぶ。

その呼び声に、エキドナはゆるゆると首を横に振った。

「泣いて縋られようと、一欠片の疑念が拭い切れない以上、ボクの答えは同じだ。ボクは……ボクには、アナの体を借りている責任がある。彼女を無事に取り返すためなら、誰に憎まれようと、恨まれようと、構わない」

「――――」

「……だけど、戻ったアナに顔向けできなくなることも、したくない」

そう言って、エキドナがスバルの額へ向けていた指をゆっくりと下ろした。

途端、通路に張り詰めていたプレッシャーが失われ、スバルの命にかけられたいた指先が解かれたのがわかる。

だが、そのことと、スバルが求める救いとは、何の関係もないことで。

「ベアトリス、君は彼といけばいい。ボクはユリウスのところへいく。彼と合流して、何もなければ上で会おう」

「……わかったかしら。ほら、スバル、今は立つのよ。立てないっていうなら、ベティーが担いででも連れてくかしら」

エキドナが背を向け、ベアトリスが彼女の考えを尊重するのがわかる。そのまま、スバルに小さな肩を貸そうとするベアトリス、その奮闘を横目に、スバルは遠ざかっていこうとするエキドナの背中を見つめた。

――エキドナを、アナスタシア様を頼んだ!!

「――これは、何のつもりかな?」

首だけ振り返るエキドナが、自分の左手――その袖を掴んで、引き止めようとしているスバルへと厳しい目を向ける。

そのエキドナの問いかけに、涙と鼻水で顔を汚したスバルは頬を強張らせた。

何のつもりかと聞かれ、とっさに答えが出てこない。

スバルとて、エキドナの糾弾の眼差しには耐えられない。それでも、スバルの無様な訴えを聞いて、手を下すべきではないとしたのがエキドナの判断だ。

その譲歩に似た判断を、これではスバルの指先が台無しにしている。

「ボクは、譲ったつもりだ。それがどうして、こうなる?」

「……ユリウスに、頼まれて」

「彼に? 馬鹿な。彼がそんな判断を……しかねないのは、わかるが」

一瞬、スバルの涙声に逡巡を生んだエキドナ、彼女は「それ以前に」と言葉を継いで、

「ここにくるまでに彼と会ったのか? 彼は五層の様子を見にいったはずだ。それなのに君と会っていたんだとしたら……いや、それより頼むとは? 彼は今は……」

矢継ぎ早に質問をぶつけられ、スバルはその剣幕に気圧される。

そもそも、心のひび割れがまとまってもいない。何故、何もかも手放そうと、どうしようもなく手に負えないと、放り出そうとした世界のために、この体は動く。

ユリウスの、約束とも言えない叫びを思い出してまで、何故――、

「ああ、埒が明かないな。とにかく、最後にユリウスを見かけた場所を……」

「――ぁ」

エキドナが焦りを追いやり、どうにか言葉を選んで会話を続けようとする。

その彼女の努力を見取りながら、スバルは息を詰めた。

どうすべきか迷いが晴れた、からではない。

目の前のエキドナよりも、このどうしようもない状況よりも、火急の事態が発生した。

「――――」

スバルを睨むエキドナ、彼女の背後――通路の向こうに、赤い光点が浮かんでいる。

それが何なのか、スバルは意識を奪われた。

赤い光点、暗がりに浮かぶそれが、ゆっくりと動いて、スバルの黒瞳を捉える。

スバルは直感的に、それが、『目が合った』のだと理解した。

同時に、目が合ったその存在、その全景がぼんやりと薄闇の中に見える。

闇に同化する黒い体躯、赤々と輝く光点、異様に発達した鋭い一対の鋏と、何よりも特徴的なのが猛々しく震える尾針――、

「は」

――想像を絶するほど巨大なサソリが、尾針をこちらへ向けている。

「スバル!!」

その尾が振れた瞬間、隣でベアトリスが叫んだのが聞こえた。

――光が、通路を席巻し、衝撃波が石造りの四層を激しく撃ち砕いていく。

第六章53 『――声が、した』

飛来する尾針が石造りの通路を砕き、噴煙が上がり、破壊が蔓延していく。

そんな光景がスローモーションのように感じられる中、スバルは眼前で展開される凄まじい破壊の渦の中心に、ドレス姿の小柄な少女が飛び込んでいくのを見た。

縦ロールの髪をなびかせ、破壊へ真っ直ぐ飛び込むのはベアトリスだ。

勇気――否、蛮勇だ。当然だが、小柄な少女の体は脆く、尾針の一撃に砕かれる石塔よりはるかに耐久力に劣る。とっさの盾になろうとしたのだとしても、彼女の背丈ではスバルの体の胸から上は全く射線を遮ることができない。

つまりは、無駄死ににしかならないような、衝動的な行動でしかなかった。

泣きじゃくり、鼻水で汚れた顔でスバルがエキドナの袖を掴んだように。

何もしなければ業炎に焼かれていたユリウスの名を呼んでしまったように。

ラムを壁に突き飛ばそうとして、幻影の少女の忠告に従えなかったように。

ベアトリスもまた、『不可能』を度外視して、尾針を受け止めんと――、

「うぁ!?」

「――『不完全E・M・T』なのよ!!

瞬間、前に出たベアトリスがスバルの手を掴み、空いた方の手を正面にかざした。

そのまま少女が叫ぶと、スバルの体から一気に何か、目には見えないエネルギー的なものがごっそりと抜ける。抜けて、頭のふらつくスバルの眼前、ベアトリスのかざした掌の前で、まるで光の壁が展開されたかのように尾針の一撃が防がれた。

「――――」

砕かれ、建物と同様の末路を辿ると思われた衝撃波が、ベアトリスの掌を中心とした防御の壁に遮られ、スバルたちを避けるように周囲へ被害を広げていく。

放たれる尾針は一発では済まず、次から次へと雨の如く撃ち込まれる。だが、その全てをベアトリスという幼い少女の姿をした盾が防ぎ切り、背後に被害を通さない。

凄まじい衝撃波が吹き荒れ、飛び散った通路の破片がスバルの頬を掠める。

音が遠くなり、視界が白くけぶるような状況下で、頬のやけに鋭い痛みに目を細めながら、スバルはベアトリスの背中に目を奪われていた。

一瞬だけ見えた巨大なサソリ、雨嵐のように降り注ぐこれがサソリの尾針で間違いないなら、その破壊力は人体など容易く塵へと変える迫撃砲も同然だ。

それを、こんなにも小さな背中の少女に庇われ、スバルは命を拾っている。

直前、神に救いを求めた心地も醒めないままに、いったい自分はこの世のものとは思えぬ如何なる地獄へ放り込まれているのか。

そんな我が身の不運を呪う余裕もないスバル、その意識の端に、視界の隅に、ベアトリスともサソリとも違った存在が引っかかった。

それは、この攻撃に巻き込まれ、同じ被害に晒されるエキドナだ。

一度は別行動を宣言し、スバルたちとは袂を分かとうとした彼女だったが、攻撃が開始する直前にスバルに引き止められたため、この状況に巻き込まれている。

幸い、彼女もまた位置的にベアトリスが庇える場所にいたため、尾針の被害は光の盾に遮られて届いていない。しかし、そこまでだ。

ベアトリスに防げるのは、尾針を浴びることへの直接的な被害のみ。

その尾針の破壊がもたらす、二次的な被害については防ぎようがなかった。

つまるところ――、

「――ぅ、あ!」

微かな声を上げ、バランスを崩したエキドナが後ろへ倒れる。一歩、体を支えようと後ろへ足が下がるが、その下がった足を受け止める床がそこにはない。

尾針の攻撃に砕かれ、通路は半ば崩壊した。結果、塔の通路はその形を損ない、床や天井、壁が崩れていくことで、エキドナが足場を失ったのだ。そのまま、どことも知れぬ宙へ投げ出されてしまえば、転落死は免れない。

その恐怖を本能的に悟り、エキドナの瞳に危機感が過った。

「――ッ!」

そのエキドナの手を、とっさに踏み出したスバルが掴んで、転落死を防ぐ。

「ナツキくん……!?」

ベアトリスに握られた手が右手で、エキドナを捕まえたのが左手だ。

レイドの強引な施術で肩は入っているが、痛みは根深く、酷使すれば再び肩が外れかねない。尾針を受けるのに必死なベアトリスに負担もかけられず、奥歯を噛みしめるスバルは両足を踏ん張り、エキドナの体重を引き止めるのに全力を振り絞るしかなかった。

「ぐ、おおおお……!」

小柄とはいえ、エキドナも人間一人分の重量はゆうにある。元々、人間一人を持ち上げることなど容易く行えることではない。ましてや片手、ましてや負傷者、ましてやこの非常時で相手は非協力的――引きずられ、落ちる危険も低くない。

そんなこと、考えなくてもわかるだろうに。何故、こんな危険を冒した。

「……君を、測りかねるようなことをしないでくれ」

「知、るか……! とっさなんだよ……!」

「その答えは……ナツキくんにも思えるけど、ね!」

尽きぬ自問自答を重ねながら、反射的に助けられたエキドナの憎まれ口に反論。彼女は不格好ながら身を回し、スバルの腕を支えに、何とか崩落した床の足場へ戻ってくる。

最後まで、何とか彼女の行動を支え切り、スバルは自分の腕に目を落とした。

――傷で文字が刻まれたり、知らない間に黒い斑の紋様に覆われたり、見るからに痛々しく壮絶な白い傷跡が体中に残っていたりしたが。

「俺の、記憶の限界より、マシに動く……のか?」

手にできた見覚えのないタコや無数の擦り傷。ほんのわずかにだけたくましくなったような体格が、かろうじてエキドナを転落死させなかった。

誰一人殺せない、『死者の書』計画を実行するには不完全にも限度のある体だが。

「何とか、這い上がった……! ベアトリス! 君の首尾は!?」

「いい加減、限界かしら! そろそろ……」

場違いな感慨を余所に、這い上がったエキドナが険しい表情でベアトリスを呼ぶ。その呼びかけに、ベアトリスが可憐な頬を硬くして応じた次の瞬間――、

「――ッ!!」

尾針を連射していたはずのサソリが天井に張り付き、声なき声を上げながらこちらへと巨大な鋏を叩きつけてくる。

「――っ」

薙ぐように迫る鋏を正面に、スバルの思考がゆっくりと流れる。

一般的な認識では、サソリと言えば毒針のイメージが強いはずだが、実際、千種類を超えるサソリの中で毒を持つ種類はほんの数十種類しかいない。となれば、毒針以外で狩りをするサソリの武器は何か。――当然、その鋏が武器となる。

切れ味、あるいは挟む力というべきか。毒針と比べれば危険度は低く見えるが、ここまで巨大なサソリとなれば、いずれの殺傷力も侮れるものではない。

それは、かろうじて原型を保っていた塔の壁や床が、まるで包丁で豆腐でも切るように刻まれていく光景からも明らかだ。

「――ムラク」

そんな、破壊と殺戮の象徴のような光景を、飛んで戻ったベアトリスが信じ難い跳躍力――否、慣性の法則を悪用したような、不自然な飛び方で回避する。

ベアトリスを中心に、重力の干渉を逃れたような奇妙な感覚。ベアトリスがスバルとエキドナの服の腰を掴んで、大きくサソリの猛攻から距離を取った。

そうして生まれた距離、サソリの顔面に向けて、エキドナが右の五指を構える。

「エル・ジワルド――!!」

五指、それぞれの指から放たれる白い熱線、五条の光が巨人の爪のように通路を薙ぎ払い、天井に張り付いていたサソリの顔面を、右の鋏を、甲羅を焼き焦がす。

その威力とダメージに耐え兼ねたのか、サソリは激しく尾針と左の鋏を振り回し、通路を破壊して噴煙を撒きながら後方へ下がった。

「ジワルド! ジワルド! ジワルドぉ!」

「待て! 落ち着け、エキドナ! 逃げた! あいつは逃げた! 逃げたから!」

サソリの引っ込んだ噴煙へと、なおも攻撃をやめないエキドナをスバルが後ろから羽交い絞めにする。そうされてもしばらくエキドナはもがき続け、必死に噴煙の彼方を睨みつけていたが、やがてぐったりと体から力を抜いて、スバルに体重を預けた。

「はぁ、はぁ、はぁ……や、やった……?」

「……やれては、ねぇ。たぶん逃げられた」

息を切らし、信じられない様子でいるエキドナにスバルは首を横に振る。まだ噴煙は晴れていないが、そこに巨大なサソリの死骸が転がっているとは思えない。

むしろ、今すぐにでも噴煙の向こうから尾針の反撃がこないか戦々恐々としている。

「けど、それはない……か? さっきのあいつは……」

「――魔獣、なのよ。いきなり、この四層に現れた無粋な輩かしら。下層の揺れと、四層の魔獣。それに、上層の異変」

「上、下、中……全部で問題が起きてたってのかよ?」

深刻な表情をしたベアトリスの報告に、スバルは血相を変えて振り返る。

確かに、下層では今もユリウスが戦っており、四層では今のサソリ――魔獣の存在が明らかとなった。上層の異変も、レイドが降りてきたことから納得がいく。

「……その問題の一つが君なんだが、自覚がないようだね」

「――――」

そのスバルの考えを根底から砕くのが、スバルの胸を離れて一人で立つエキドナだ。彼女は額に浮いた汗を拭って、拭えない警戒を残したままスバルを見つめる。

浅葱色の瞳には警戒、疑念、同時に不安と困惑。

「君は……君は、いったい、なんなんだ? 何がしたくて、どこに拠って立つ?」

「細かい、ことはわからねぇよ。言っただろ。何が起きて、どうなってるのか、何もわからないのは俺も同じだ。だって俺は……」

「――記憶喪失」

エキドナの問いかけに、先と同じ困惑しか返せないスバルが弱々しく呟く。その最後を引き取ったのは、難しい顔で考え込んでいたベアトリスだ。

記憶喪失――この周回で、スバルがそれを打ち明けた相手はエミリアとラムの二人しかいない。つまりはベアトリスたちは、檻のこともスバルの言い訳も知っている。

知っていて、ベアトリスの態度はああで。

エキドナも、言葉を尽くそうと思案していて。

「檻からはどうやって?」

「……気付いたら、肩が外れて檻の外に倒れてた」

真っ正直に答えたが、それを信じてもらえるとは思えなかった。だが、嘘に嘘を重ねて、結局はじり貧に陥ったのが今の状況だ。

なるようになれと、鼻水を垂らして神に懇願までした身なのだから、今さら、取り繕うべき見栄も体裁もありはしない。

そんな心境で、偽りなしに答えるスバルにエキドナはしばし言葉を躊躇った。が、それからすぐに、彼女は瞑目し、スバルを見ないまま、続ける。

「……どうして、今、ボクを助けたんだい?」

「――――」

「君が手を差し伸べなければ、間違いなくボクは死んでいた。アナの体ごと、ひどく無念の死を遂げただろうね」

他人事のように、一歩引いた距離感を思わせる問いかけ。

だが、彼女があえてそうしたのは、スバルの顔を、目を見ないでいるのと同じ理由だ。すなわち、情で判断を誤らないための苦肉の策。

そうしたエキドナの判断を正面に、スバルは考える。自分がどうして、エキドナに手を差し伸べたのか。――ユリウスが、最後にスバルに託したからか。

あの言葉が、スバルに、手を、差し伸べさせたのか。

「……とっさだったんだ、わからねぇよ」

しかし、スバルは嫌々と首を横に振って、その考えを否定した。

確かに一度は、スバルはユリウスの言葉を思い出し、エキドナと別行動になることを防ごうと動いた。だが、真に彼女が命の危険に晒されたとき、スバルの体が動いたことの理由は、そんな頭で考えての行動ではなかった。

わからない。自分が、どうしてあんな風に動いたのか。

「なんにでも理由があるわけじゃないだろ? いきなりだった。全部、いきなりだった。だから俺は……」

失望されるのを覚悟で、スバルは自分の内の感情をたどたどしく吐露する。それを聞かされ、さぞやエキドナからは冷たい反応があるものと思われたが――、

「――。それが、君という人間の本質なのかもしれないな」

「え……?」

ふと、目の前で身を硬くしていたエキドナが、肩から力を抜いてそうこぼした。それを聞いたスバルは瞠目して、何事かと呆気に取られる。

唖然としたスバル、その眼差しにエキドナは肩をすくめて、

「この場で言い合いしていても仕方ない。長く、居残って魔獣の再襲撃を受けるのも馬鹿らしい話だ。移動しよう。ユリウスと合流したい」

「あ、え……」

「同感なのよ。ひとまず、ここを離れるかしら」

戸惑いを残したスバルを置き去りに、エキドナとベアトリスが淡々と方針を決める。エキドナがスバルたちの背後を確かめ、ベアトリスがスバルの手をきゅっと握る。

その小さな感触に少女の方を見れば、ベアトリスは深く頷いて、

「ベティーを、連れ出してくれたことも覚えてないかしら」

「……ご、めん。お前が、何を言ってるのか、俺には」

「――いいのよ」

ベアトリスの声に、ひどく儚い、寂しい感情が交えられていたのを聞いて、スバルは自分がこの世で最も恐ろしい罪を犯した気分になる。

だが、得体の知れない恐怖に晒されるスバルに、ベアトリスは首を横に振った。そして寂しい己の感情を隠して、口元に不敵な笑みを刻む。

「スバルが忘れたとしても、ベティーの中に残ってる。スバルが刻んでくれたものが、ベティーの中で色褪せることはないかしら。だから、今はいいのよ」

「ベアトリス……」

「たとえスバルが忘れても、ベティーが忘れない。ずっと覚えてる。そして、スバルにも思い出させてみせるかしら。そのためにできることは、何でもやってのけるのよ」

「――――」

それはあまりにも、この場に一人で立つナツキ・スバルには眩しすぎる答えだった。

いったい、どれほどの苦境を乗り越え、心を鋼に鍛え上げれば、これほど幼い少女がここまでの意思を持つことができるのだ。

「――ぁ」

救われる、その感覚にスバルは息を詰める。思わず、瞼の奥に込み上げてくる感覚がスバルを殺そうとしていて、その熱量が溢れるのを懸命に堪えた。

そんなスバルの奮闘を、ベアトリスは何も言わず、手を握るだけで支える。

手を握るだけで、支えになってくれる。

「今の魔獣の攻撃で、ナツキくんがきた道は辿れそうにない。危険は否めないが、魔獣が逃げ去った方の、無事な通路を使って移動するしかないな」

「エキドナ、お前も……」

「許す、許さない。疑う、疑わないの話はこの場にそぐわない。どうあれ、ボクの中の疑念が晴れることはない。ただ、状況がそれを許さない。優先順位をつけることは、商いをする上で必須技能さ。ボクは、アナのそれをすぐ傍らで見てきた」

だから、この場ではこれ以上の押し問答をしない。

それがエキドナの結論なのだろう。スバルも、拒絶感と妥協してくれたエキドナの判断に水を差すことを避け、二人の判断に従うことに決めた。

今も、逃げ出したい気分に変化はない。だが、一人で蹲って頭を抱え込み、神に祈りを捧げるよりも、マシな懇願すべき場面が待っていると、そう信じたい。

「――――」

背後、スバルが走ってきた通路はひどい有様だ。エキドナの言葉通り、魔獣の尾針による嵐のような攻撃を受け、ほとんど瓦礫の山と化していてとても通行できない。

ベアトリスの魔法防御が守ったのは、あくまで自分とスバルたちの命だけ。五層で抗っているユリウス、あるいは別行動しているエミリアたちの下へ向かうにしても、サソリが撤退した側の通路へ進まなくてはならない。

「う……」

崩落し、危うくエキドナが転落死しかけた穴を飛び越えた先、彼女の白い熱線に焼かれた通路の噴煙が晴れると、そこには思わずスバルが呻いた原因が転がっている。

――それは、ほとんど根元から落ちたと思われる、あの魔獣の尻尾だった。

「なるほど、反撃がなかったわけだ。攻撃手段を削げたのは、ささやかな朗報かな」

「そのようかしら。……床、落ちるんじゃないのよ。飛び越えるかしら」

尾針ごと落ちた尻尾を見やり、エキドナとベアトリスが頷き合う。見た目のグロテスクさに圧倒されていたが、確かにこれで魔獣は遠距離攻撃の手段を失った。

無論、階下には無数に炎を纏ったケンタウロスが湧く状況であるのだ。あの魔獣一体の脅威が減ったぐらいで、塔全体の危険度が下がるとは到底言えない。

「――っと」

軽く勢いをつけ、スバルがベアトリスを抱いたまま穴を飛び越える。ベアトリスの体は軽く、この年代の少女と比較しても軽すぎた。それは先ほど、スバルが自分自身の肉体に感じた、記憶にない一年間の成果――それと無関係に思える軽さで。

「――――」

それを意識の端に置きながら、スバルは飛び越えた先の床に落ちているサソリの尻尾に改めて目を向けた。

嵐のように尾針を連射した尻尾だが、その仕組みはスバルの知るサソリの生態とはもはや別物というべき次元にあった。当たり前だが、スバルの知るサソリの毒針は射出されるようなことはないし、何本も生え変わるようなこともおそらくない。

何より、通路の破壊状況を見ればわかることだが、あれは実際に物体としての尾針が放たれていたわけではないのだ。――あれは、針に似た形状の力が放たれていた。

早い話、ベアトリスの光の防御、エキドナの白い熱線と同様に、サソリが放ったものも魔法の針のようなものであったと言い換えていい。

無論、尾針として扱っていたのだから、尻尾を失った以上は発動できないと、そう考えたいところだが――、

「――?」

そこまで考えたところで、スバルは違和感を抱いた。

しげしげと、落ちた尻尾を観察して気付いたのだ。その、落ちた尻尾はほぼほぼ根本と思われるところで切り落とされているが、傷口が妙なものに見える。

エキドナの熱線に焼き切られたなら、切れ味はともかく、傷には焼けた跡が残るはず。実際、通路の周辺にはそれに準じた焼け焦げた跡が残っている。

しかし、サソリの落ちた尻尾にはその形跡がなく、やけに綺麗な断面を――、

「――べあ、」

何かが妙だと、スバルが気付く。遅い。

視界の端で床に落ちた尻尾が、びくりと震えた。

――直後、光が弾けた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――自切、という仕組みがある。

主に節足動物やトカゲに見られる現象で、『トカゲの尻尾切り』などと言われる、外敵から逃れるために体の一部を自ら切り捨てる行動のことだ。

カニの鋏などにも見られる行動であり、つまるところ、それに似たことをサソリの形をした魔獣が行ったということなのだろう。

トカゲが尻尾を自切した場合、切り離された方の尻尾はその場をしばらく動き回り、相手の注意を引きつけて本体を逃がす役割を果たす。

無論、尻尾にそうした意思があるわけではなく、あくまで反射的な行動でしかないはずだが、自切にそうした一種の反射を仕込むことができることの実例だ。

ならば、こうしたこともできるのではないか。

――切り離した尻尾に獲物が近付くと、その瞬間に炸裂して被害を与える『地雷』のような役割、それを自切部位に持たせることも。

「うぅ、ぐ、ぅぅ……!」

呻く。喉で呻き声をこぼしながら、スバルはずりずりと、足を引きずっていた。

引きずるのは疲労が理由ではない。物理的な問題だ。左足に大きな裂傷を負って、ズタズタの傷から血を流している状況だから、そうして走る以外無理なのだ。

それと、スバルが引きずっているのは、自分の体だけではない。

「……もう、いい。置いて、いくんだ」

そう言って、足を引きずるスバルに引きずられているのは、ぐったりと力の抜けた状態でいるエキドナだった。

スバルは彼女の両脇に腕を入れ、後ろから引っ張って、とにかく現場を離れる。炸裂現場を離れなければ、あの魔獣が戻ってくる。

――置き土産の炸裂弾を残し、スバルたちをズタズタにしたサソリの魔獣が。

「――クソ、クソ、クソ、クソ!」

油断した。油断していた。完全に、頭がぬるま湯に浸かっていた。

直前の、ベアトリスにかけられた言葉があって、エキドナの態度が多少なり軟化してくれたのがあって、だから、心に間隙が生じて、まんまとこの様だ。

情けなくて、情けなくて、自分が心底情けなくて、涙が出る。

どうして、これだけ苦境に立たされて、なお自分は成長しない。変われない。苦難とは試練とは難局とは、神が成長する機会としてもたらすものではないのか。

ただ殴られっ放しで、血を流して骨を折られ、魂を砕かれ命を奪われ、苦難がそれしかもたらさないのだとしたら、人間はいったい、何のために苦しむのだ。

「ナツキ、くん……もう、十分、だよ……」

「十分じゃねぇ! 何一つ、十分じゃねぇよ!」

「……ボクの、ことより、ベアトリス、だろう?」

目をつむり、たどたどしく呟くエキドナ。彼女の言葉に怒鳴るように言い返して、その後に続いた言葉にスバルは息を詰まらせた。

エキドナの言葉は、悲しいが正論だ。スバルにとって、ベアトリスとエキドナのどちらが大事かと言われれば、悲しいがスバルはベアトリスを取る。

命の価値は平等かもしれないが、人の価値は平等ではない。関係には順番がある。選ぶべき場面であれば、その順位に従うだろう。

――だが、ベアトリスはいない。いなかった。いなくなってしまった。

サソリの魔獣が残した尻尾が炸裂した瞬間、スバルは怖気を覚えてベアトリスを引き寄せた。そのまま、体ごと彼女を守ることができればよかった。

しかし、悲しいぐらいに行動は遅く、スバルの願いは果たされることはなかった。

光が炸裂し、無数の針を周囲にばらまいた魔獣の尾。その炸裂をスバルも間近で浴びることとなったが、重傷であっても生き延びたのはベアトリスのおかげだ。

スバルが彼女を抱き寄せた瞬間、彼女はスバルの胴体を、急所を庇おうとした。そして集中的に光の猛威を浴びることとなり――、

「――っ」

「……そう、か。あの子は、本当に、損な子だ」

続かなかった言葉の先は、目を閉じたエキドナにも想像がついたらしい。彼女のため息のような声をスバルは否定することができない。

血を流し、痛みに呻くスバルは、溶けるように消える少女と最後の言葉を交わすこともできなかった。――ただ、最後の表情だけが、記憶にある。

安堵したような、スバルを慈しむような、瞳。

あんな、スバルにとって都合の良すぎる表情が、ベアトリスの最期だというのか。

だとしたら、消えゆく少女にあんな顔をさせる『ナツキ・スバル』など、この世に痕跡も残さずに消えてしまうがいい。

そして、ベアトリスがいなくなった消去法で、スバルは息のあったエキドナを引きずって逃げている。

まるで贖罪のように、贖いのように、あるいは咎人が罰を求めるように。

そんなスバルの行いを、息も絶え絶えにエキドナは制止する。こんなことをしても無駄だと、あれほど、アナスタシアに体を返すのだと息巻いていた彼女が。

それも当然のことだった。――彼女の体は、両足が付け根から吹き飛んでいる。

「――――」

もはや、ほとんど血も流れていない。

軽いと、そう感じたベアトリス以上に軽い体を引きずって、ほとんど応急手当もしていない状態で、彼女にどんな未来が待っているのだ。

「う、ぁっ!」

そんな考えが首をもたげた瞬間、スバルが瓦礫を踏みつけ、その場に転んだ。途端、引きずっていたエキドナも通路に投げ出され、ひっくり返る。

二人、しばし、世界を呪うような呻き声だけが通路に響いた。

「痛い……ああ、痛い、な。本当に、人の体は、痛い……」

「わ、悪い……ごめん、ごめん……違っ、そんなじゃなくて、俺は……」

「律儀に、謝るなよ、ナツキくん。それに……もう、アナに合わせる顔が一つもないボクだけど……この痛みは、唯一の、アナへの恩返しだ」

「おん、がえし……?」

地面に倒れたまま、身動きもできないエキドナに這い寄り、スバルは彼女が口にした言葉への無理解に瞳を揺らした。

恩返し、とはいったいどういう意味なのか。そのスバルの疑問顔に、エキドナは「だって、そうだろう?」と口の端を緩め、

「今、アナに体を返せば……アナは、この世の終わりかと思うほどの痛みと、死の恐怖を味わうことに、なる。……こんなの、地獄だよ。味わうのは、ボクでいい」

「あ、う……」

「アナのために体も返せず、ユリウスを手助けすることもできない。……ボクは、こうして地獄に落ちるのがお似合いだ」

自嘲と自責の感情が、エキドナの心を激しく焼いているのがわかる。

そう語るエキドナの生気のない瞳が、ゆっくりと近付きつつある彼女の『死』を、その秒読みを始めているのがスバルにもわかった。

何もできず、無力で、無責任で、どうにもできない自分。

それを悔いて、エキドナは死んでいく。――スバルを置いて、死んでいく。

「ま……っ」

「楽にしよう、なんて……思わないで、くれよ? ボクは、うん、これでいい……」

薄れていくエキドナの生命、それを恐れて声を上げるスバルが先手を打たれる。ただ、とっさに何もできなかったスバルに、彼女の言葉は新たな選択肢を与えた。

――楽に、する。もはや、安楽死というのは行動が遅すぎるぐらいだが、それでも、苦しむ時間を短くして、『死』を早める手伝いはスバルにもできる。

「――――」

浅く、低い呼吸を繰り返すエキドナを横目に、スバルは痛む体を押して立ち上がり、崩れた通路の破片を拾うと、その重さを確かめた。

掌に握れるぐらいの、せいぜい拳大といったところのサイズ。だが、ほとんど瀕死の少女の命を奪うくらいなら、こんな凶器でも十分なはずだった。

「……エキドナ」

「――――」

瓦礫を手にしたまま、スバルはエキドナの傍らに歩み寄り、その名を呼ぶ。

返事はなく、瞼を開けることもない。だが、意識がないわけではないことは、微かに頬を硬くし、唇を結んだ彼女の表情でわかる。

もはや止める気力も残されていないのだろう。

スバルが瓦礫を振り上げ、その頭に勢いよく振り下ろせば、容易く命は潰える。

『石で人の頭を割るなんて、わたしもやったことないわあ』

と、瓦礫を手にしたスバルの脳裏に、少女の甘い声が響くのが聞こえた。だが、この行動は『死者の書』を読むためのものではない。

結果的にそうなるかもしれなくても、この瞬間、そのことはスバルの頭になかった。

これは、介錯だ。死に瀕した誰かを、少しでも楽に送るための、介錯。

誰かに、その命を奪う権利があるとすれば、きっとこの瞬間だけが誠実で――。

それが唯一、この場に居合わせたスバルの、何もできなかったナツキ・スバルの、唯一の贖罪の機会。

唯一の機会、だったのに――。

「――――」

手が、震える。瞼の奥が痛みを訴え、喉が呼吸を忘れて硬直した。

振り上げ、振り下ろす。極々簡単な動作。それが、今のスバルにはできない。体の動かし方を忘れてしまったように、体が動かない。

「……ぁ」

掠れた息が漏れ、音を立てて、瓦礫が通路の床に落ちた。

その音と、力の抜ける膝に負け、スバルはその場に崩れ落ちる。

「……こんな」

こんな簡単なことも、できないのか、ナツキ・スバル。

苦しんで死にゆく人を、楽にしてやるために凶器を振るう、そんな欺瞞さえできない。

口先ばかりの贖罪、方便でしかない罪悪感、そうでなくて、この様はなんだ。

「……ナツキくん」

「俺、は……」

「介錯の、ために、君は……石も、握れないんだ……」

薄く瞼を開け、力ない浅葱色の瞳が、跪いたスバルを見つけて呟いた。その、吐息のような弱々しい声が、スバルの弱さを糾弾しているように思えて、息が詰まる。

しかし、そうして身を竦めるスバルに、エキドナは場違いに、唇を緩めると、

「……疑って、悪かったね」

「――――」

「――――」

息を抜くように、謝られた。

エキドナに、謝られた。ナツキ・スバルを疑って悪かったと、謝られた。

――そしてその真意を確かめる間もなく、彼女は死んだ。

メィリィを殺し、その死体を隠して、記憶をなくしたことを言わずに演技し、疑われることばかり重ね、閉じ込められた氷の檻から逃げ出して、託された願いを果たすこともできず、心を救おうとしてくれた少女に庇われ、ついには死に瀕した少女のために手を血を汚すこともできず、自分のみっともなさに跪くスバルに、エキドナは謝って死んだ。

「――――」

死にたかった。

今、起きたことも何もかも忘れて、死んでしまいたかった。

ナツキ・スバルは死ぬべきだと、世界中の人間に指を差され、死刑を宣告して欲しかった。それに値する罪を犯したと、ナツキ・スバルは己に絶望した。

絶望、した。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

絶望が、ナツキ・スバルの心を侵食していた。

「――――」

動けない。動く資格がない。動いたところで、碌なことにならない。

それを証明した。ナツキ・スバルは自らの無能を――否、無能であればまだ可愛げがあった。そうではなく、それ以上の疫病神であることを、証明したのだ。

「――――」

絶望が胸に巣食えば、心を殺せば、命よりも先に魂が蝕まれる。

そうなれば、立ち上がることなどできない。誰にも、抗うことなどできない。自分自身が正真正銘の害悪なのだと、開き直ることもできずに思い知れば、当然の帰結だ。

消えたい。消えてなくなってしまいたい。

もっと早く、決断しておくべきだった。異世界で、こんなことになる前に。異世界なんて場所にくる前に、わかっていたはずではなかったか。

何故、存在するだけで、お前は他者の心を煩わせるのだ。

他人の心の一部を、ほんのわずかな部分だけでも、占有する資格がお前にあるものか。薄汚い壁の染みめ。部屋の隅に溜まった埃、生ゴミにたかる蛆虫、決して消えることなく痕跡として残り続ける、目につく位置に残った傷跡のような存在め。

ナツキ・スバル、何故死なない。

死んでも、やり直すだけ? 誰がそんなことを決めた。誰が、それが永遠に続くなどと確かめた。一度で足りないなら、十回でも百回でも、千回でも死ねよ。

消えてなくなるまで死ねよ。

誰の記憶からも消えてなくなって、何にも影響を与えなくなるようになるまで、誰の心にもお前の名前が、お前の存在が、お前の痕跡が、残らなくなるまで死ねよ。

――愛してる。

うるさい。消えろ。消してくれ。

――愛してる、愛してる、愛してる。

黙れ。話しかけてくるな。消えてなくなる邪魔をするな。消えたい、消えたいんだ。

――愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる。

死にたい。消えたい。粉々になりたい。痕跡も残したくない。いなかったものになりたい。存在を消したい。歴史から消えたい。記憶から消えたい。思い出から消えたい。忘れないと言ってくれた少女からも消えたい。何の価値もない。何の意味もない。何も残せない。何も残すべきじゃない。何もかも、全て、この世界から、消えて、なくなれ。

――愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる。

心を絶望が支配して、周囲の世界も何もかもが黒い影に覆われて、とめどなく垂れ流される虚ろな愛の告白が、蹲る人の形をしたゴミの処分に迫ってくる。

あの中に呑まれれば、消えてなくなれるだろうか。

死よりも遠い、虚無の中へ沈めてくれるだろうか。誰の目にも届かない、暗黒空間みたいな、そんな都合のいい、何もない場所へ捨ててくれるだろうか。

そこで、死ねるなら、俺は――。

俺は――、

ナツキ・スバルは、その全てを塗り潰すような、絶望の中へ――、

「――そこまでよ」

――声が、した。

この世の終わりを否定する、銀鈴を思わせる、声が、した。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

本日、9月23日はエミリアの誕生日です!

記念日に間に合わせるために頑張りました! 楽しんで!

第六章54 『Re:ゼロから始まる異世界生活』

――世界は闇色に塗り潰されようとしていた。

へたり込み、動けないスバルへと、影は無数の手を伸ばしている。

螺旋のように、渦巻くように、ナツキ・スバルを魂ごと包み込もうとする漆黒の魔手。

触れた箇所から溶けるように、崩れるように、ほどけるように、自分の存在が虚ろになっていくのがわかる。

だが、それが不思議なことに、全く嫌な感覚を覚えないのだ。

「――――」

目に見える範囲で体が崩れ、存在が上書きされ、魂が掻き回されていく。

そんな、あるいは生けるものにとっての最大の冒涜を侵されながら、しかし、ナツキ・スバルの心はむしろ安寧と呼べるほどに静かだった。

そこには直前の出来事で、心底、自分の失望したことの影響も大きい。

でも、それだけではない。――影が、魔手が、これだけが、実直だったからだ。

今にも消えてなくなりたいナツキ・スバルの心情を、この影だけが慮ってくれる。

死にたい。消えたい。潰えて、躙られて、跡形もなく、灰になりたい。

蘇るなら幾度でも、その身を灰にして掻き消してくれ。

そんなスバルの切実な叫びを、あるべき願いを、この黒い影は叶えてくれる。

――愛してる。

そう、うるさいぐらいに繰り返されることだけが癇に障る。

耳を塞いでも、心を閉ざそうとしても、それはぴたりと閉じた心の隙間に指を入れ、こじ開けた隙間から滑り込み、直接、愛を囁いてくる。

――愛してる。愛してる。愛してる。

やめろ、うんざりだ。

いくら繰り返されても知ったことか。俺は、愛していない。俺は、俺を愛していない。愛されていることは、知っていた。知っていたさ。

あの両親だ。父も母も、スバルのことを心の底から愛してくれていた。

知っていたさ。知らないわけがない。だから、スバルは消えてしまいたかった。

両親に愛されているのに、愛される価値のない自分を愛せるはずがなかった。

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

やめてくれ、勘弁してくれ。もう十分だろ。

いくら重ねられても、これ以上は何も引き出せない。とっくに、俺の中では結論が出てたさ。わかってた。わかってたのに、目を背けてただけだ。

あんなに必死で、一生懸命で、スバルを案じる人たちが、悪い人たちのはずがない。

わかっていた。わからないはずがない。だから、スバルは死んでおくべきだった。

スバルの存在に心煩わせる人たちの慈悲に、照らされないよう努めるべきだった。

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

やめてくれ、わかってるんだ。

この責め苦に耐え抜いたなら、俺の願いを叶えてくれるのか。呑んで、砕いて、すり潰して、二度と他人に望まなくて済む、無の彼方に消してくれるのか。

だったら――だったら、受け入れよう。受け入れたい。これが最後なら。

これを最後にできるなら、ナツキ・スバルは、消えても――。

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

「――そこまでよ」

愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

――。

――――。

――――――――。

声が、した。

耳元で囁かれるような、延々と終わることなく続くと思われた、愛の告白。

世界ごと、ナツキ・スバルの存在を塗り潰すような怒涛の愛の告白を、貫くように銀鈴の声音が一閃、スバルの下へと真っ直ぐに届く。

「――――」

光が、迸った。

それが、スバルを呑み込まんとしていた漆黒の魔手へと突き刺さる。衝撃波が発生、直撃を受けた魔手が弾け飛ぶが、それは無数に蠢く手の一本に過ぎない。

千の内の一を削った代わりに得たものが、その膨大な勢いの影からの敵意では割に合わない。しかし、その一撃を放った人物は果敢に踏み込み、自らへ差し向けられる影の魔手を尋常でない身のこなしで回避、回避、回避、そして――、

「――スバル!」

「――っ」

へたり込むスバルの名を呼んで、銀鈴の声の主が力ないその手を強く握った。そのままスバルの体はぐいと引き上げられ、力ずくでその場所から連れ出される。

それをさせまいと、影は前後を塞ぐように腕を伸ばし、進路も退路も阻もうとする。

だが、その妨害を目前としても、前を行く彼女の足は止められない。

「り、やぁっ!!」

スバルの手を握るのと反対の手を突き出し、眩い輝きがそこに生じる。

直後、発生したのは美しく発光する氷の結晶――スバルを閉じ込めた氷の檻、それと発生のルーツを同じくする、美しく壮烈な氷撃だ。

それが正面、壁を作るように展開した漆黒の魔手をぶち破り、強引に道をこじ開ける。

あらゆる全てを呑み込むと、異様な影にそんな印象を抱いていたスバルは、それらが一瞬で蹴散らされる光景に、もう動かないと思った心がわずかに震えるのに気付いた。

そして、凝り固まりつつあった心が動けば、すぐ傍らの美貌にも目が向く。

スバルの手を握り、正面を一心に見つめて、長く煌めく月光のような銀髪をなびかせる少女――エミリアが、スバルを連れて、走っていく。

彼女の生存も確認され、しかし心は沸き立たない。

それどころか、スバルは自分の頭蓋の奥で、何かがひび割れていく音を錯覚する。

生存を、喜べない。当然だろう。

生存を確かめた相手、ユリウスも、ベアトリスもエキドナも、見殺しにした。

決定的場面こそ見ていないが、レイドと魔獣の物量の下に残されたユリウスがどうなったか、想像は悪い方向にしかいかない。ベアトリスはスバルを庇って消滅し、死に瀕して苦しむエキドナを楽にしてやることすらできなかった。

ナツキ・スバルは疫病神だ。死が、色濃くその存在に纏わりついている。

自分の『死』をなかったことにする代わりに、その不幸を自分の周りに押し付けているのだと、そんなふざけた仮説が浮かぶぐらいには、どす黒い運命の申し子――。

「――もう、十分だ」

「え?」

「これ以上、足掻いても仕方ないって、言ったんだよ」

強引に、腕を引くエミリアに抗い、スバルは足を止めた。なおもエミリアはスバルの腕を引こうとしたが、今度は断固たる意思でスバルはそれに従わない。

二人の腕力の差は歴然だが、スバルの意思もまた強固だ。その暗い衝動を黒瞳の中に見出したのか、息を呑むエミリアが、力ずくで腕を引くのをやめる。

「――――」

二人、スバルとエミリアが正面から対峙し、お互いを見つめ合った。

気付けば周囲、スバルを取り込もうとしていた影の存在が見当たらない。エミリアと一緒に逃げるうちに振り切ったのか、だとしたら道を戻ればまた出くわせるだろうか。

ナツキ・スバルを存在ごと消すには、あれが最も適切だと、そう思えて。

「なんで助けにきた? おかしいだろ、そんなの。お前だって、俺が偽物だって……そう思ったから、氷の檻で閉じ込めて、殺そうとしたはずだ」

欺瞞の言葉、事実を恣意的に捻じ曲げ、悪しざまに語って傷付ける。

エミリアがもう一度、この手を取ろうだなんて、間違っても考えないように。

だが、そんなスバルの卑賤な思惑など、事実を真っ直ぐに見つめるエミリアには通用しない。

彼女はきりりと、切れ長な瞳を怒らせ、スバルに声を高くする。

「殺そうとだなんてしてない! 私は、様子のおかしいスバルから話を聞きたかっただけ。それで、スバルは話してくれたじゃない。記憶がないって。だから……」

「そんなのは! ただの、方便かもしれないだろうが! あっさり信じたのかよ? 馬鹿げてる。どうかしてるぞ! お前も、ユリウスも、ベアトリスも!」

氷の檻に閉じ込められて、苦し紛れのように記憶喪失の事実を打ち明けた。

だが、まともな思考力があればこんな話を信じることなどあるはずがない。ラムや、エキドナの態度が正解なのだ。それなのにエミリアたちは、半分以上が馬鹿だった。

「いいや、違う……みんな馬鹿だ! 最後には……あんな状態で、最後には、エキドナまで、俺に謝りやがって……意味が、わからねぇ」

「エキドナが、最後……? スバル、何があったの? エキドナたちは……」

掌で顔を覆い、呻くように呟くスバルにエミリアが問いかける。その、憂慮する表情すら美しい彼女を、その心に爪を立ててやる。

そのためならば、スバル自身のガラスのような心の傷を、いくらでもさらけ出す。

血も流れなくなって、弱々しい表情で、大切な存在に苦痛を味わわせなくて済んでよかったと、そんな痛々しく寒々しい願いだけを叶えて、命を潰えた少女の姿。

それが脳裏に蘇り、スバルは胸中の傷を自ら押し広げるようにして、叫ぶ。

「死んだ! エキドナは死んだよ! 両足が吹っ飛んで、痛いのと血が足りないのと……とにかく苦しんで死んだ! ベアトリスもそうだ!」

「――っ」

「あの子も、俺を庇って……自切なんて、馬鹿げた仕組み……俺が気付いてればよかったのに。それができなくて、死んだ。俺を、忘れないって、そう……」

スバルが忘れても、ベアトリスは忘れない。

必ず、スバルの記憶を取り戻してみせると、ベアトリスは気丈にそう言い切った。

だが、彼女は失われた。その発言の直後に。

口ほどにもないとはこのことだ。口先だけの大望、それを言葉にして、すぐに。

スバルを死から遠ざけて、安堵したような顔で、この世から消滅して。

「あんな消え方、するぐらいならやめればよかった。連れ出す? 連れ出した? どっちでもいい。関係ない。とにかく、ここじゃないどこかから……どこかから引っ張り出されたなら、やめときゃよかったんだ。そうすれば……」

あんな顔して消えるような目に、遭わないで済んだのだ。

「ユリウスの奴も、そうだ。きっと、今頃、もう……あんな、おっかない魔獣が大勢いるところで、レイドの奴の邪魔まで入って、それで、いけ、頼む、とか……馬鹿だ」

みんな馬鹿だ。いったい、何を期待しているのか。

頼むとか、取り戻すとか、疑って悪かったとか、何を言っているのか。

頼んで、どうなる。取り戻して、何の意味がある。疑われて、当然ではないか。

かけられたもの全てを裏切ったから、ナツキ・スバルはここにいる。

一人だけ安穏と生き残って、それが耐え難いから、消えてなくなりたいのだと。

一番、馬鹿で、愚かで、どうしようもなくて、救えない、それが――、

それが、ナツキ・スバルでなくて、なんだと――、

「――私とスバルが初めて会ったのは、王都の、盗品蔵って場所だったの」

――。

――――。

――――――――。

「――――」

自責と自問、逃げ場のない底なし沼に沈んで、自ら身動きできなくなったスバル。

そんなスバルの鼓膜を震わせたのは、突然の、エミリアの告白――懐かしく、愛おしい記憶を呼び起こすような、そんな調子の思い出語りだった。

「……は」

その唐突で、脈絡のない言葉を受け、スバルは唖然と、ただ肺の中の息を抜く。

何を言い出したのかと、その行いを嘲弄したり、馬鹿にするニュアンスはない。スバルの意識はそこまで追いつかない。本気で、ただ、唖然とさせられた。

そんなスバルの反応を余所に、エミリアは指折り、記憶を蘇らせていく。

「そのとき、私はすごーく大事な徽章をフェルトちゃんに盗られちゃって。それを取り戻さなくちゃってパックと大慌てだったの。……それで、追いかけた先で、メィリィのお姉さんと戦うことになって、危なくって、でも、ラインハルトが助けてくれて。それで、ホッとしたところをメィリィのお姉さんに狙われて……それを、スバルが助けてくれて」

「――――」

「それが、スバルと私の初めての出会い。……思い出した?」

問いかけに、スバルは首を横に振った。

詳細に語られる記憶だが、その内容に欠片も心当たりがない。

当然だ。それは、エミリアと『ナツキ・スバル』の記憶だ。到底、そうとは思えない行動を繰り返す、『ナツキ・スバル』が紡いだ記憶の一片――。

「でも、スバルは私を庇ったせいで大ケガしちゃって、それでロズワールの屋敷に一緒に連れ帰ったの。そこでベアトリスが文句言いながら治療してくれて、ラムと……きっとレムとも、スバルは仲良くなったのよ」

「――――」

「そうしたら、今度はお姉さんじゃなく、メィリィが魔獣をけしかけて悪さをしたの。それをスバルとラムが食い止めて、ロズワールが魔獣をやっつけて、私はお留守番……『でーと』の約束をしたのも、このとき。……思い出した?」

「――――」

首を横に振る。

覚えていない。そんなことは、していない。――俺は、していない。

「屋敷では色んなことがあったんだから。マヨネーズを作ったり、みんなでお酒を飲んだり、パックが雪を降らせたり、『王様げーむ』をして……それから、王選のために王都に呼び出されて、ね」

「――――」

「スバルと、初めて大ゲンカしたのも、このとき。私はもう、スバルに無茶して傷付いてほしくなくて、なんでそんなに優しくしてくれるのかわからなくて、怖かった。だから、全部、ケンカしたときに終わりになっちゃうって、思ったのに……」

思い出を語るエミリアの声に、微かな震えが混じる。

それは喜びと悲しみと、不安と期待と、様々な相反する感情の混ざり合ったものであり、スバルはひどく喉が渇くような感覚に襲われた。

焦がれる、焦がれる、焦がれている。胸を、灼熱に焦がれている。

エミリアに、この表情をさせる全てに――否、たった一つの要因に、焦がれている。

「何が起きてるのかわからなくて、不安な状況に押し流されるだけだったとき、一番心がもやもやしてたとき、スバルが駆け付けてくれて、それで……」

「――――」

「それで、なんて言ってくれたか。……思い出した?」

「思い……」

出せない。

出てこない。出てくるはずがない。

エミリアの声の震えが、呼びかけが、縋るような響きが、それを明白にする。

スバルは、ここにいる自分は、彼女の求める『ナツキ・スバル』ではないのだと。

わかり切った事実を突き付けられ、スバルは自分自身への羨望と嫉妬に焼かれる。

何故、お前なんだ、『ナツキ・スバル』。

俺とお前で、どうしてそこまで違っている、『ナツキ・スバル』。

エミリアも、みんなが、思っているのだ。

本物の『ナツキ・スバル』を返せと。お前など、ナツキ・スバルなど死んでしまえと。

この場にいたのが、お前であれば、どれほど。

そう思って、傷付いて、苦しんで、嘆きたい気持ちでいるはずなのに。

それなのに――、

「――でも、私は全部、覚えてる。スバルが言ってくれたこと、してくれたこと、しようって約束してくれたこと。全部、覚えてるの」

悲しみも不安も、全部がなかったことになるように、喜びと期待が微笑みに宿る。

その、エミリアの微笑を目の当たりにして、スバルの唇が震えた。

何も、ない。どこにも、ない。

言ったことも、してあげたことも、しようと約束したことも、全部。

この、体の内側には、頭の中には、心の奥底には、魂の果てには、何にもない。

だから――、

「覚えちゃ、いない。思い出せも、しない。お前は……お前は! お前らは! 誰の話をしてるんだよ!?」

爆発、する。

ベアトリスとエキドナの前で、感情を激発させたように、ここでもまた咆哮した。

「――――」

エミリアが、その咆哮に紫紺の瞳を見開く。

それを見据えながら、なお、スバルは込み上げる熱い雫を瞬きで焼き払い、口汚く、でき得る限りの悪意を込めて、吠えた。

「誰かのために命を張れて! 誰かのためにとっさに動けて! 誰かのために頑張ろうって走れて! 誰かのために命懸けで何かを成し遂げられる! そんなことってあるかよ!? そんなこと、できるかよ!?」

覚えていると言われて、思い出せないと答えて。

ベアトリスが言ってくれた言葉に答えられないまま、彼女は消えてなくなり、そのことの後悔を拭えないまま、エミリアに優しく、言い聞かせるように、思い出を語られて。

ユリウスが託し、ベアトリスが信じ、エキドナが赦し、エミリアが願う。

それが、『ナツキ・スバル』。異世界へ呼ばれた、本物の――、

「――ふざけるな! そんな奴が、ナツキ・スバルのわけがねぇ!」

ナツキ・スバルが、誰かに希望を託されることなどあってたまるものか。

「俺は知ってんだよ! ナツキ・スバルがどれだけ情けなくて、どれだけクズで、どれだけどうしようもなくて、どれだけ腐った野郎なのか!」

ナツキ・スバルが、誰かにその心を信じられることなどあってたまるものか。

「誰を見てんだ!? 何の話をしてんだ!? そんな奴、どこにもいやしねぇよ! 全部嘘っぱちなんだ! そいつが見せたもの、そいつと話したこと、全部全部! その場しのぎの口から出任せだ! 信じる価値もない!」

ナツキ・スバルが、誰かにその罪を赦されることなどあってたまるものか。

「ナツキ・スバルにそんな価値があるもんかよ! ナツキ・スバルはクズなんだ! どうしようもねぇクソ野郎なんだよ! 俺が誰より、それを知ってるんだ!!」

ナツキ・スバルが、誰かに共にあることを願われることなどあってたまるものか。

「――――」

そんな価値はない。そんな、願われる価値などどこにもない。

ナツキ・スバルは疫病神だ。誰かといても、傷付け、失わせ、死なせるばかりだ。

だから、やめよう。

そんな男のために、エミリアや、みんなが、傷付く必要なんてない。

「……俺じゃなくても、いいだろ」

ぽつりと、呟いた。

自分じゃなくても――否、ナツキ・スバルでない方が、ずっといい。

何もできない男に、何故託す。何故信じる。何故赦す。何故願う。

もっと、うまくやる方法があるはずだ。もっと、うまくやれる誰かがいたはずだ。

それが、皆の望む『ナツキ・スバル』なのだとしても、それはもうどこにもいない。

最初からいなかった、虚像だ。虚栄の存在だ。

「俺なんか無視して、削ぎ落としてくれよ。もっと、強い誰かとか、頭のいい誰かが、やってくれる。俺は……」

俺には無理だと、無力感だけがナツキ・スバルを打ちのめした。

人には分がある。分相応がある。それを、わかってもらいたいのだ。スバルには、エミリアたちの隣を歩く資格がない。彼女たちに、望まれる資格がない。

強くも、賢くも、ない。そんなスバルを、望まなくてもいい。

だから――、

「――私の名前は、エミリア。ただのエミリアよ」

「――ぁ?」

無力感を吐き出して、吐き出したはずのものに心を支配されて、空っぽのつもりでいたスバルは、不意打ちのような銀鈴の声に喉を鳴らした。

「――――」

言葉の、意味がわからない。――否、意味ではない。意図がわからない。

顔を上げ、スバルは正面、自分の名前を名乗ったエミリアを見つめた。彼女は自分の豊かな胸に手を当て、丸く大きな紫紺の瞳にスバルの姿を映している。

その、輝く瞳に息を呑む。そのスバルを前に、エミリアは続ける。

「話さなきゃいけないことも、聞かなくちゃダメなことも、たくさんある。たくさんたくさんあるの。でも、今は一つだけ、聞かせて」

「――――」

「ユリウスが、ベアトリスが、エキドナが。そして今、私が手を引いて、一緒に走って、どうしても守ってあげたくて、死なせたくなくて、そうやって……」

万感の思いを込めて、エミリアが目をつむった。

数秒、彼女は言葉を中断する。そのわずかな沈黙の間に、彼女の胸に様々な想いが去来したのがわかる。この場にいない、仲間たちを案じる感情も、伝わる。

それらの想いを抱えたまま、エミリアの桜色の唇が震えて、

「そんな風に、私たちに思わせてくれたあなたは、誰?」

「――――」

「お願い。――あなたの名前を、聞かせて」

エミリアの問いかけに、胸の奥で心の臓が震えた。

それは、眼前にいるナツキ・スバルを否定して、過去のスバルを取り戻さんと、そうした意図の表れではなかった。

――それは、ナツキ・スバルの、肯定だ。

「――――」

目の前のあなたは偽物だと、本物のナツキ・スバルを返してほしいと、そう言われた方が、そう願われた方が、そう悪罵された方が、まだマシだった。

だって、それは他ならぬ、スバル自身が望んでいたことなのだから。

彼女たちの望む『ナツキ・スバル』にはなれないからと、否定して、掻き消して、なかったことにしてくれと、そう願ったのはスバル自身だからだ。

だが、エミリアが――否、彼女だけではない。

ここに至るまで、ナツキ・スバルに言葉をかけた全員が、同じことを願った。

強いも、弱いも、関係なく。

こうして全てを忘れ、どうしようもない醜態を晒しても、なおも変わらず。

ナツキ・スバルを、必要とすると、彼女たちは態度で、言葉で、命で示して――。

「……どうして、なんだ?」

「――――」

「どうしてここで、ナツキ・スバルなんだ? あいつに、何ができる? あいつに、何を期待するんだよ……」

意味がわからない。

この、これだけ、圧倒的な絶望、どうしようもない劣勢で、ナツキ・スバルがいたら何がどうなるというのか。どうして事態が好転する。打開できる。

「あの、弱くて、頭も悪くて、情けなくて、意気地のない奴に、何を」

「――あなたの、言う通りかもしれない」

首を嫌々と横に振り、否定ではなく、懇願するスバルにエミリアが目を伏せる。

長い睫毛に縁取られた瞳、心を直接くすぐるような銀鈴の声音、エミリアという存在の全てが、ナツキ・スバルをこの世に繋ぎ止める楔のようだ。

そんな場違いな感慨に、しかし確かに心を繋がれるスバルへと、エミリアは続ける。

「スバルより強い人はいるし、きっと頭のいい人だってたくさんいる。でも、私はどんなときでも、一緒にいるのはスバルがいい。スバルがそうしてくれるって信じてるし、願ってる。だって……」

「――――」

「だって、助けてくれるなら、できるから、そこにいたから、そうしてくれる人より――好きな人にそうしてもらえた方が、ずっとずっと、嬉しいもの」

そう、エミリアは微笑みながら、言った。

微笑みながら、ほんのわずかに頬を赤らめて、言った。

「――――」

息を、抜くように、スバルは呼吸する。

エミリアの言葉を受け、一瞬、確かに自分の中の全ての時が止まっていた。

どくどくと、心の臓が脈打つのを感じる。

それと同時に内側から湧き上がってくるのは、『ナツキ・スバル』への嘲笑だ。

「――は」

そうか、『ナツキ・スバル』。お前、あんな美少女に惚れてたのか。

身の丈に合わないにもほどがあるだろう。あんな子が、振り向いてくれるもんかよ。

あんなカッコいい騎士が、あんな賢そうな女が、あんな可愛らしい少女が。

そして、目の前にいる、あんな美少女が。

お前に託して、お前を信じて、お前を赦して、お前であることを願って。

救いであることを求めるのじゃなく、救いであってほしいと縋るのでもなく、直面した壁を共に乗り越えるのなら、それができる誰かじゃなく、お前がいいと。

「――私の名前は、エミリア。ただのエミリアよ」

押し黙ったスバルに、今一度、エミリアが自分の名前を名乗った。

紫紺の瞳がこちらを見る。その瞳を、スバルの黒瞳が真っ向から見返した。

そして――、

「――お願い。あなたの名前を、聞かせて」

「俺は……」

エミリアの、再びの問いかけに、言葉を躊躇った。

散々、否定を重ねた。

そうはできない。そうはなれない。そうじゃないと、否定を重ね続けた。

だから、これはきっと、都合のいい言葉遊びでしかない。

――託され、信じられ、赦され、願われる。

この砂漠の塔で、エミリアたちにそうされる資格があるのなら。

この砂漠の塔で、エミリアたちを助け出せる誰かがいたとしたら。

それが『ナツキ・スバル』なら、その『ナツキ・スバル』がどこにもいないなら。

「――俺の名前は、ナツキ・スバル」

「――――」

「ユリウスに託されて、ベアトリスが信じて、エキドナが赦して、エミリア……君に、願われる、その男の名前が、ナツキ・スバルなら」

紫紺の瞳を黒瞳で見つめて、銀髪を煌めかせる少女に黒髪の少年が答える。

桜色の唇を震わせた問いかけに、血で赤黒く汚れた唇が答えを返した。

「――俺が、ナツキ・スバルだ」

今、弱々しく、力のない、絶望に蝕まれた体と心で、しかし宣言しよう。

エミリアを、エミリアたちを、君を、君たちを、その無事を、安寧を、望むと、願うと。

「――――」

強く、そう言い切ったスバル。

その胸中、『ナツキ・スバル』への不信感は、欠片も拭えていない。

今も、スバルの脳裏に焼き付いて離れない、『わたし』――否、メィリィを死なせた、邪悪な男の声と顔。それが、払拭されるときはこないかもしれない。

だが、いい。それでも、いい。

救われたいわけではない。救ってほしいと、縋り付くわけでもない。

救われてほしいと、思った。

助けたいと、願った。

――『ナツキ・スバル』にならそれができるなら、俺がそれをやるのだ。

願わくば、走り出した切っ掛けよ、走って目指した行く先よ、同じであれ。

思い描いた道行きが同じであれば呉越同舟、お前が嫌いでも、文句はないから。

――俺に、『ナツキ・スバル』に、エミリアたちを、救わせてくれ。

「ありがとう、エミリア。――俺に、そう思わせてくれて」

「――スバル、私は」

その、スバルの返答があり、エミリアの紫紺の瞳に波紋が生じる。

唇を震わせ、エミリアが何事か、自らを定義したスバルへと、言葉を紡ごうとして。

その直後だった。

「――っ」

それまで、まるで二人の対話を邪魔するまいと、世界が根こそぎ気遣ってくれていたみたいに静かだった状況が、一瞬にしてひび割れる。

「――エミリア!」

周囲、二人がやり取りしていた通路が、瞬く間に影に握り潰され、粉砕される。

通路が形を失い、足場をなくしたエミリアが大きくバランスを崩す。その彼女に向かって、まだかろうじて足場を残したスバルが強く床を蹴った。

瞬間、塔はその形を損ない、古びて砕け散る、砂の香りを纏った石片へとなり果てる。

その中を、落ちていくエミリアに向かって、スバルは勢いよく飛び込んでいく。距離が縮まり、たなびく銀髪に追いつき、ついには細い、彼女の体を抱きしめる。

「スバル……っ」

細く、柔らかくて、熱い体を抱き寄せ、スバルの名を呼ぶエミリアが身じろぎする。たぶん、腕の中で位置を変え、自分が下になろうとしていた。

それでは、助ける側と助けられる側があべこべだ。

エミリアも、他のみんなも、本当にどうかしている。でも、悲しいかな、エミリアのそんな努力も、この状況では残念ながら役に立たない。

地面に背中を向け、落ちていく先が見えないエミリアにはわかるまい。

スバルたちを迎えるのは、塔の硬い床ではなく、投げ出された挙句の外の砂丘でもなく、この塔を包み込み、あらゆる全てを終へ導く、漆黒の影なのだから。

だから、二人はこのまま、抱き合いながら影に呑まれ、終わりだ。

――否、その、逆だ。

これは、きっと、始まりになる。

一度は始めたことを、今一度、ここで、新たに、終わりから、始める。

そのための、約束を、交わそう。

ここで、この世界で、この場所で、エミリアと交わした言葉を、本物にする。

救われたこと、救いたいと願ったこと。

全部抱えて、終わりから始めよう。燻っていた時間は、おしまいだ。

呪いのような執着、いいじゃないか。望むところだ。

ナツキ・スバルに、愛される資格があるかは、わからない。

でも、エミリアに、エミリアたちに、愛される資格はあるから。

この終わる世界で、この始まりの世界で、君たちが、俺にかけてくれた言葉を、君たちが覚えていないで、忘れてしまったとしても。

この終わる世界で、この始まりの世界で、君たちに、俺がぶつけてしまった言葉を、君たちが覚えていないで、忘れてしまったとしても。

俺が覚えてる。全部、覚えてる。今度こそ、しがみついてでも、忘れないから。

「たとえ、君が忘れても――俺が、君たちを忘れない」

――ずっと、覚えていろよ、ナツキ・スバル。

影が迫り、スバルと、エミリアを、漆黒が呑み込む。

そのまま、ナツキ・スバルは、エミリアは、影の中へ、中へ、どこまでも沈んで。

流転し、全てが失われ、何もかもがゼロになり、目論見通りに終わりがくる。

そして、何もかもがゼロとなった場所で、始まるのだ。

――ナツキ・スバルを殺し、『ナツキ・スバル』を取り戻すための、戦いが。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

今回のタイトルは「始まる」で合ってますので、あしからず。

一章の「ゼロから始まる異世界生活」と比較すると、少し面白いかも。

第六章55 『雪解けを待つあなた』

――黒い、暗い、遠い、深い、長い、重い、苦い、闇がある。

「――――」

およそ、この世の悪いものを全部一緒くたに混ぜ込んだような、そんな重苦しく、息苦しい闇が、全身にべったりとまとわりついている感覚があった。

顔が、体が、手足が、肌という肌がその闇に汚染され、じくじくと、血が滲み、渇きを訴えるような不快感が延々と付随する。

想像できるだろうか、体中、余すところなくカサブタに覆われるような感覚だ。

肌が突っ張り、触れれば人の肌とは思えない感触が返り、そもそもカサブタに触れる指先さえもカサブタに覆われていて、本来の『自分』の姿形がわからない。

――否、本当にわからないでいるのは、外見的な姿形だけではない。

「――――」

もっと奥の、本質と言い換えるべきか。

あるいはこれを『魂』と、そう言い表すべきなのかもしれない。

自分の、『魂』の形を、在り様を見失い、散々、どうしようもない迷走を繰り返した挙句に、ようやく、その一欠片に指がかかったような、そんな感覚。

そのかかった指に返る反応が前述のカサブタなのだから、徒労とは言わずとも、不安と嫌悪は一入と言えよう。本当に、これを手繰っていいものか。

「――――」

この先に、本当に自分の求める『自分』があるのか。

手繰った先に辿り着いたとき、全く違う己が始まったりはしないのか。奇妙な想像ではあるが、全くありえない話ではない。実際、自分の身に起きた出来事はそれに近い唐突感と、非現実性をもたらした。

それを我が事と受け止め、自分自身に訪れた試練と受け入れ、それを乗り越えた先にある光景を求める。――それだけのことに、どれだけ時を費やしたことか。

「――――」

だから、強い不安がある。

本当にこの先でいいのか。受け止め、受け入れ、求めた場所がそこにあるのか。

託し、信じ、赦し、願い、在ろうとした『自分』が、そこに。

『――愛してる』

――そんな、たとえようもない不安が、導くような声に溶かされ、薄れる。

「――――」

――白い、明るい、高い、尊い、美しい、甘い、光に向かって。

その魂は、ナツキ・スバルは――。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

瞬間、緩く深い眠りの淵から意識を引き上げ、ナツキ・スバルは覚醒した。

「――ぁ」

弱々しく、最初の一息が唇から漏れる。

ひどく掠れて、生気に乏しいものであったが、紛れもなく自分の声音だ。そのことで、自分が声も出せない単細胞生物に転生したわけではないことがわかる。

これで一歩前進だ。あとは、自分が全く新しい価値観の存在でないことを早々に確かめることができれば――、

「――スバル、目が覚めた?」

「――――」

その、スバルの鼓膜を、すぐ近くで揺すぶったのは銀鈴の声音だった。

涼やかで優しく、穏やかで芯が強く、華やいで、そして愛おしい、声音だった。

直前まで、本当にひどい状態で、聞いていたはずの声。

それが聞こえて心臓が弾む。胸が痛くなり、スバルは拍動に耐えながらゆっくりと視線を横へと向けた。

「――――」

――そこに、優しげな憂慮で瞳を満たした、紫紺の輝きが待っていて。

「……えみ、りあ?」

「ええ、そうよ。スバル、大丈夫? 起きれる? ちゃんと話せる?」

「ええと……」

たどたどしく名前を呼ばれ、紫紺の瞳の持ち主――エミリアが唇を緩め、首を傾げる。長く美しい銀髪が、白くなだらかな肩の上を流れ落ちる。それはまるで、月の煌めきが光の中を優雅に泳ぐようにも見えて、壮烈な美しさがスバルの心を焼いた。

――端的に言って、この世のものとは思えない美少女がそこにいた。

「う、ぁ……」

それを意識した途端、スバルの頬を凄まじい勢いで血が満たした。

顔が熱くなり、顔が赤くなり、目が泳いで声が出なくなる。耳が痛くなるぐらいに充血して、「あわわ、あわわ……」と声が漏れた。

「あわわ……?」

激しく動転するこちらの様子に、エミリアが形のいい眉を顰める。その、ほんのささやかな仕草にさえも、稀代の芸術家が描いた二枚の名画のような別種の感動がある。

それを至近で、息がかかるほどの距離で目の当たりにしてしまい、痛みと切り離せずにいた拍動がさらに高く強くなり、スバルを苦しめた。

「――――」

なんだこれは。なんなのだ、これは。

現実なのか、これは。質量を持った幻か何かではないのか。砂漠で見る蜃気楼と言えばオアシス――つまり、その瞬間に最も欲するものを見るのがお約束だ。

そのルールに則って考えれば、これは蜃気楼なのではないか。なんと贅沢な幻――、

「だ、大丈夫、スバル? やっぱり、どこか調子が悪いんだわ。倒れてたんだもの」

「ひゃぅっ!」

「ほら、今、ひゃうって!」

混乱の極みにあるスバルだったが、額に当てられたすべらかな掌に肩が震えた。

それを見たエミリアがスバルの不調を確信して目を瞬かせるが、スバルの方も『エミリア蜃気楼説』が否定されて、天動説を覆された学者のような心境を味わっている。

ただ、確かに触れた感覚はあった。彼女の存在は、現実が肯定している。

そして実在するエミリアが呼びかけてくれている以上、自分がナツキ・スバルであることもまた、肯定される。

それに何より――、

「――さっきから、ベティーを蔑ろにして話をするんじゃないかしら。まったく、心配してたのはエミリアだけじゃないのよ」

「――っ」

そのエミリアの反対側から、不満を訴えるような幼い声が聞こえ、振り返る。

そうして振り返る視界に飛び込んできたのは、可愛らしく頬を膨らませる幼女――、

「ベアトリス……」

「また、ずいぶんとへちゃむくれた声を出すかしら……まるで、可愛いベティーがここにいるのが信じられないみたいな顔つきなのよ」

弱々しい呼びかけを受け、ベアトリスが憂えるように眉尻を下げる。言葉の内容は叱りつけるようだが、その響きには心配と安堵の色が濃い。

スバルが目覚めたことへの安堵と、そもそも意識をなくしていたことへの心配。それを思わせるベアトリスの態度に――否、彼女の存在に、スバルの心が動いた。

すなわち――、

「――にゃっ!?」

つんと澄ました表情でいたベアトリスを掴んで、スバルはその軽い体を一気に自分の胸元へと引き寄せる。軽い。本当に軽い体だった。

突然の行動にベアトリスは何の抵抗もできず、目を白黒させながらすっぽりとスバルの腕の中へ。蔦で編まれた緑色のベッドの上、スバルは力一杯、その存在を確かめた。

「ベアトリス、ベアトリス、ベアトリスぅぅぅ!」

「な、な、な、なんなのかしら!? どうしたのよ!? いきなりすぎるかしら!」

「お前、お前……お前は、ホントに、落ち着く顔してるな! 実家に帰ってきたような可愛さだ。惚れ惚れするぞ」

「それ、まさか褒めてるつもりじゃないと思いたいのよ!?」

ベアトリスを抱きしめ、その顔を眺めながらスバルはしみじみと言い放つ。その行動と内容に顔を赤くして、ベアトリスが小さな掌でスバルの顔を強く挟み込んだ。

少女の小さな指が頬や耳に引っ掛かり、可愛い痛みを味わいながら、スバルはこの場所に確かに、ベアトリスという少女の実在を実感する。

「もう! スバル、起きてすぐにふざけないの! まだ、なんで倒れてたのかわかってないんだから……」

そうして、ベアトリスを抱きしめてはしゃぐスバルの様子に、若干の仲間外れ感を味わったエミリアが口を挟む。

スバルの身を案じ、エミリアがそっとスバルの肩を掴もうとして、止まった。

「――スバル?」

怒りより、心配の色が濃かったエミリア。その声色に混ざる感情が、心配一色に変化した。驚きに見開かれる瞳が、触れようとしたスバルの肩を見つめる。

微かに震え、嗚咽するスバルの肩を。

「……ぅ、く」

「スバル? スバル、どうしたかしら。ベティーはここにいるのよ。大丈夫、大丈夫かしら。泣かなくていいのよ」

喉で声を詰まらせ、嗚咽するスバルの様子に気付いて、ベアトリスが混乱の色を消した顔で、そっと涙に濡れるスバルの頬を撫でた。

小刻みに震える手が、ベアトリスの幼く小さな体を手放すまいとしている。それが、不安と恐怖を起因としたものだと、ベアトリスはわかっていた。

だから、ベアトリスは優しく、語りかけるように、スバルの心に呼びかける。

泣かなくていい。自分はここにいる。スバルは、大丈夫だからと。

「泣かないで、スバル。焦らなくていいから。ゆっくり、深呼吸して、落ち着いて。ちゃんとベアトリスも、私も、一緒にいるから」

ベアトリスと同じように、エミリアもまた、寝台の上のスバルを慰める。

先ほどは触れるのを躊躇った手で、今度は躊躇わずにスバルの肩に触れて、エミリアの銀鈴の声音が、ナツキ・スバルの行動を、決断を、尊重する。

「――――」

二人の、その存在も、在り方も、変わらない。

何もかもが崩れ、失われ、取り返しのつかなくなってしまった世界で、それでも自分よりも他人を、スバルを優先して、死地の中でも気高くあった二人は、変わらない。

それを確かめて、それを求めて、それを今度こそ、やり通すために。

ナツキ・スバルは、『ナツキ・スバル』として、全てを取り戻すために――、

「戻って、きたぜ……」

嗚咽まじりの、締まらない態度と声で、これ以上ないほど情けない、みっともないシチュエーションではあったが。

――ナツキ・スバルは、全てを奪還するための新たなループを開始する。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「そんなわけで、実は『タイゲタ』の書庫で記憶を落っことしてきたらしいんだ。みんなには色々と、会話が噛み合わなかったりで迷惑をかけるかもしれないんだが、そこのところは了承してほしい」

「――――」

朝食の席、車座となった仲間たちの真ん前で、スバルはそう言って丁寧に頭を下げた。

そんなスバルからの爆弾発言というか、発言の絨毯爆撃にみんなの反応は様々だ。とはいえ、一番色濃いのが混乱であり、戸惑いや悲嘆は後回しの様子だった。

「みんな、すごーくスバルのことが心配だと思うわ。でも、私たちがしゃんとしててあげないと、一番不安なのはスバルなんだから……」

「……エミリア様はそうおっしゃいますが」

と、頭を下げたスバルの隣で、思わしげな表情でエミリアがフォローを入れる。

しかし、そのエミリアの言葉に懐疑的な目をするのはラムだ。彼女は己の腕を抱いて、薄紅の瞳を細めてスバルを睨みつけると、

「ラムには肝心のバルスが一番不安がっているようには見えません。というか、これは何の茶番なの、バルス」

「茶番じゃねぇよ。すげぇ正直に不安と事実を打ち明けてるよ。意固地になって話さないでいて、それで引き起こされる悲劇が目に浮かぶみたいで俺の胸は張り裂けそうだ」

「――――」

渋い顔をしたスバルの受け答えに、ますますラムの視線が疑わしげになる。

そんな二人の険しいやり取りを、一足先に緑部屋で事情を聞いていたエミリアがあたふたとした反応をする。『記憶喪失』の話を打ち明けられ、エミリアとベアトリスが動揺しつつも、スバルの身を案じて受け入れてくれるのはこれまで通り――今回もその形は踏襲され、彼女にはこの打ち明けの席での援護をお願いしていたのだ。

――あの戦慄の周回を半ばでリタイアし、ナツキ・スバルは新たな周回へ突入した。

格好いい言い方をすれば、再びゼロから異世界生活を始める覚悟を決めた、といったところだが、もちろん、実態はそんな素敵なものではない。

覚悟を決めたはいいが、『死』に臨んだあの瞬間、終わっていた可能性もあった。

そうはならず、こうして『死に戻り』によって再出発の機会を得たことには、正直、安堵と感謝を禁じ得ない。――だが、それに頼りきりになるつもりも毛頭なかった。

スバルの身に宿った『死に戻り』の力は、運命を捻じ曲げる強大な力だ。

トリガーが『死』であることは使用者であるスバルには辛いが、それが運命を捻じ曲げるための代償の一つと考えれば、このぐらいはあって然るべきだろう。

代償の一つ――そう、スバルは『死』は、代償の一つに過ぎないと考えていた。

強力な力には、それに見合った代償があると考えるのが自然だ。当然、スバルは自分の『死に戻り』も、そのご多分に漏れないものと想定している。

回数制限付きか、あるいは繰り返すたびに何かを犠牲にしている可能性が高い。

無限の試行回数を与えられるほど、スバルは自分が運命の女神に溺愛されているなどと自惚れていない。誰かに愛された経験など、胸を張って言えるのは両親ぐらいだ。

そうなると、『死に戻り』の限界を知るための試行錯誤――自分から『死』を重ねるといった行動は自然と選択肢から外れる。これが最後の機会でも、何の不思議もない。

仮に何かを犠牲にしているパターンであれば、よくあるのは大切な存在や、重要な思い出を引き換えにする、などだろうか。

生憎、記憶のないスバルにとって、大切な存在となり得るのは元の世界の家族を除けば、この世界では塔で接点のあるエミリアたちだけ。

と、そこまで考えて思ったのは――、

「まさか、俺の記憶が消えてるのって、『死に戻り』の代償じゃねぇだろうな……」

想像するだに恐ろしいことだが、十分にありえる可能性ではあった。『死に戻り』する代償として記憶を捧げる。悪辣な趣向だが、『死に戻り』自体そもそも悪趣味だ。

何より恐ろしいのは、仮にそうだったとして、これを確かめる術がないことにある。

実際、スバルの記憶喪失と『死に戻り』の関連性は不明だ。ひとまず、『記憶喪失』を自覚した以降、すでに四回死亡しているスバルは、少なくとも自分で把握できる範囲では記憶の欠落を確認していない。

コンビニ帰りに塔で目覚めた、というスタート以降の記憶は鮮明だ。

――まさか、間の記憶にない周回が無数にある、なんてことがないことを願いたい。

「――ちょっと、聞いているの、バルス」

と、思索の内にいたスバルを、険の強いラムの声が現実に引き戻す。その視線に、スバルは「ん……」と喉の奥から声を漏らし、

「ああ、聞いてるよ。驚かせたのはわかる。いきなりの話だし、簡単に信じてもらえないって気持ちはわかるんだが……」

「わかるけど?」

「俺に……」

「スバルに、こんな悪趣味な嘘をつく理由がないのよ。ラムも、スバルの考えにそのぐらいの信用は持っているはずかしら」

言葉を選ぶスバルに代わり、ラムに応じたのはベアトリスだ。スバルの隣にお行儀よく座る彼女は、緑部屋で事情を受け入れて以来、全面的なスバルの味方だ。

「ベアトリス様……」

「エミリアの言葉も、まんざら嘘じゃないのよ。記憶をなくして、一番不安がってるのはスバルかしら。だから、ぽろぽろ子どもみたいに泣いたりもしたのよ」

「そのエピソード、話されると恥ずい」

思わぬ暴露にスバルは頬を掻き、自分の涙の理由を『そういうこと』にした。

実際は『死に戻り』できたこと、再会が叶ったこと、自分にやり直すチャンスが与えられたこと。色々と様々な要因が重なった涙だが、涙は涙だ。

男の涙の理由など、細かく掘り下げる意味もない。

ともあれ、こうして味方してくれるベアトリスには感謝の念が堪えない。

エミリアと同じで、緑部屋で話を聞いた当初は混乱していたベアトリスだったが、エミリアより事情を呑み込むのに時間をかけた分、見た目にそぐわない思考力と包容力でスバルのサポートを約束してくれたのだから。

――それだけに、前回の最後、ベアトリスが見せた儚い安堵と、『連れ出した』という言葉が思い出され、スバルは胸中を鎖で締め付けられる痛みを覚える。

いったい、『ナツキ・スバル』は、ベアトリスに何をしてやったのか。

それを知らずして、彼女の信頼を頼りにすることへの罪悪感。これを、当然のことと甘ったるく受け止めたくはないと、自分を戒める。

「正直、記憶がなくなったみたいなデリケートな話を、ここでそんな嘘をつく理由がないって理屈で蹴飛ばすのは乱暴だけど、そこは呑み込んでほしい」

「呑み込めって……」

「その上で、建設的な話をしよう。幸い、今の俺は前向きだ。前進するための話なら大歓迎だし……言いたいことがあれば、それもちゃんと聞くぞ」

ベアトリスの意見を下地に、スバルはそう言って改めて頭を下げる。そのスバルのフォローのために、エミリアも「お願い、信じてあげて」と頭を下げてくれていた。

「――――」

エミリアとベアトリス、それにスバルの神妙な態度を見て、さしものラムも反論の言葉が出てこない様子だ。そうして、最初の衝撃に対する反射的な反発が済めば、遅れてやってくるのは順当な戸惑いである。

もちろん、スバルの『記憶喪失』発言に衝撃を受けたのはラムだけではない。一番顕著な反応を見せたのが彼女であるだけで、ラム以外の面々――エキドナにユリウス、シャウラの反応も、スバルが二度ほど経験した流れと一致していた。

「――――」

正直、エミリアとベアトリスとの再会もかなりくるものがあったが、この場でいっぺんに他の面々との再会も叶った瞬間、スバルの心は壮絶に揺るがされた。

レイドと共に下層へ残したユリウス。両足を吹き飛ばされ、スバルを疑ったことを謝罪しながら命を落としたエキドナ。あの混乱の最中、塔の中で姿の見えなかったシャウラ。そして、最も強い疑いをスバルへ向け、その後の再会ができなかったラム。

全員、全員が揃っていた。全員と、また言葉を交わす機会が与えられたのだ。

そうして、何より、この場でスバルが最も強く意識していたのが――、

「――それにしてもお、お兄さんってばホントに困った人よねえ」

「――っ」

「なあに、その反応。まるで死んじゃった人に会ったみたいな顔して、すごおく失礼じゃなあい?」

そう、スバルの話を聞いても、大した驚きを得ていないような態度で少女が嘯く。

濃い青の髪を三つ編みにして、黒い装いにワンポイントのお洒落を欠かさない幼い殺し屋――メィリィ、だ。

メィリィ・ポートルートが、動いて喋って、確かにそこにいる。

「メィリィ……」

「あらあ? わたしの名前は覚えててくれてるのねえ。……っていうか、わたしはお兄さんがいつもとどこが違うのかわからないんだけど、何を忘れちゃったのお?」

「――。ああ、ちょっとややこしいよな。今のとこ会話に支障ないように見えるかもしれないけど、少し深掘りすると結構ぐずぐずだ。いわゆる、エピソード記憶の欠落ってヤツで、物の名前とかはわりと覚えてるんだが、人との思い出はかなり危うい」

「……それって、例えば昨日のこととかもなのお?」

「――そうだ」

目を細め、微かに声の調子を落としたメィリィ。彼女の問いかけに、スバルは一瞬だけ躊躇ったが、その感覚に負け、おためごかしを並べることをやめて答えた。

たぶん、苦しい言い訳で言い逃れることもできたが、それはしなかった。しないと決めていた。――可能な限り、スバルは誠実に、彼女らとやっていく。

「――昨日のことを、か。それは、それは、そうだな」

「――――」

そのスバルの答えを聞いて、ある意味では『記憶喪失』発言以上のショックを受けるのが、そう呟くユリウスや、何やら怪しげな密会があったとされるエキドナだった。

ただ、そんな彼らの反応を余所に、

「お師様、また記憶なくしたッスか? あーしのこと何回忘れたら気が済むんスか。あーし、まいっちんぐッスよ~」

と、自分の豊満な胸を押し潰して、シャウラが不満げに唇を尖らせる。

前回まではさらっと流せたシャウラの戯言だが、ここまでくると、微妙に聞き流せない雰囲気の発言である印象が強い。

「お前の与太を掘り下げるのもおかしな気分だけど、そんなにお前のお師様ってのは記憶がポンポン飛んでるもんなのか?」

「――? 結構、ポンポン飛んでたッスよ。朝起きて、あーしが挨拶したら『お前、誰だっけ? 覚えてねぇなぁ。知らねぇなぁ』ってよく昔の女扱いされたッス」

「うーん、そのレベルだと、悪ふざけなのかどっちなのか判断がつかねぇな……」

仮の話だが、スバルがシャウラともっと仲良くなって以降の日常でなら、彼女をからかうためにそのぐらいの軽口のやり取りは全然やりそうであった。

ただ、スバルは記憶をなくして、そのことをエミリアたちに隠そうと、記憶をなくしたことを言わない選択肢を取る自分がいることも自覚がある。悪ふざけのふりをして、本当に記憶がないのを誤魔化している、というムーブもなくはない。

我ながら死ぬほど面倒くさい。実際、四回死んでいるので笑い話にもならない。

「記憶喪失の一件はわかった。正直、まだ受け入れるには時間のかかる内容と言わざるを得ないが……この塔に、そうした現象を起こす可能性、罠のようなものがあると、そう考えて行動した方がよさそうだね」

「事件現場として一番可能性が高いのは、倒れてる俺をエミリアちゃんたちが見つけてくれた『タイゲタ』の書庫だ。元々、曰くつきみたいな場所だしな」

「ちゃん……」

「――?」

真剣な表情で検討を始めたエキドナに、スバルも頷いて意見を並べる。ただ、その途中で一度、エミリアが寂しげに呟いたのが印象的だった。

前の周回でも、彼女はスバルと会話中、何度かこんな表情と反応を見せた。結局、その原因の正体は今も明らかになっていない。

何か、致命的な見落としがあるのだろうか。――それが、怖いが。

「――みんな、とにかく驚かせてごめん。いきなり受け止めて、それでそのまま話を続けようって言っても無理だと思う。いったん、休憩入れようぜ。俺はその間、ラムと水汲みでもしてくるから」

そう提案して、スバルは車座の中央で跳ねるように立ち上がった。その話にラムがピクリと眉を上げ、エミリアとベアトリスが気遣わしげにスバルを見る。

しかし、スバルは二人の視線に頷きかけ、ラムへと黒瞳を向けて、

「いこうぜ、ラム。――ちょうど、俺を水場に誘いたそうな顔してただろ」

「――いやらしい」

と、スバルの誘いに、ラムが視線を逸らしてそう呟いた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「それで、さっきの茶番はどういうつもりだったの? こうしてラムを連れ出した以上、それを話すつもりがあるということでしょう?」

バケツを手に、会議場を離れて水場へ向かうスバルとラム。その道中、十分にエミリアたちと距離を置いたと判断したのか、ラムがスバルにそう切り出した。

彼女がスバルの『記憶喪失』発言を、全く真に受けていないのは毎回のことだ。これは証拠云々や意固地がどうのといった話ではなく、もっと大事な理由がある。

――レムの存在。眠り続ける、ラムの最愛の妹。

その身を案じるが故に、スバルの『記憶喪失』をラムは認めることができないのだ。

だからこそ、彼女は頑なに、スバルの『記憶喪失』を否定する。詳しいいきさつはわからない。だが、きっとスバルには、起きていたときのレムとの繋がりがあった。

それがラムの、彼女の姉としての存在を、大きく支えていたのだと。

だから――、

「エミリア様とベアトリス様に、あまり大役を任せるのはやめなさい。ベアトリス様はともかく、エミリア様にはまだ荷が重いわ。だから、ここでラムを巻き込もうと考えたことは評価してあげる。詳しい話を……」

「――ラム、俺の記憶がないのは本当だ。嘘でも、ペテンでも、作戦でもない」

その、細い糸に縋り、頼ろうとするラムを、しかしスバルは否定しなくてはならない。

「――――」

スバルの真っ直ぐな言葉を聞かされ、ラムが言葉を中断し、目を細めた。薄紅の瞳の奥に宿るのは、戸惑いと不安――そして、強い怒りの種火だ。

種火はやがて火勢を増し、スバルの魂を焼き尽くさんとする大火へと広がる。それをそうさせたのは、他ならぬナツキ・スバルの不審で、不誠実な行いの数々。

まさしく、自分の行いが身を亡ぼす、その一例だった。

「記憶がなくなった。塔の中の、みんなの名前と関係性ぐらいは把握してるけど、それ以外のことはあちこちがおぼつかない。これも本当だ」

「やめなさい」

「エミリアとベアトリスには、先に話しただけで、同じことしか伝えてない。伝えられることがそれ以上ないんだ。今、俺の手の中は空っぽだ」

「やめなさい、バルス。それ以上……」

「この塔に、奪われたたくさんのものを取り戻しにきたってことは知ってる。『試験』の真っ最中ってことも。でも、それだけだ。俺の、動機は……」

「バルス、それ以上は」

「――レムのことも、俺は」

「バルス――!!」

覚えていないのだ、とスバルは断腸の思いでラムにそう告げた。

嫌々と、スバルの言葉に耳を貸したくないと、態度で示していたラムが、そのスバルの謝罪を聞いて、怒りの形相で掴みかかってくる。

「ぐぅっ!」

胸倉を掴まれ、壁に背中から叩き付けられた。この細腕のどこにそれだけの力があるのか、信じられない膂力で、ラムがスバルを押さえ付け、至近で睨みつけてくる。

薄紅の双眸の奥、種火だった火が強く燃え上がり、スバルを、そしてラム自身を焼き尽くさんとしているのがわかった。

この炎がスバルを――否、ラムを焼き尽くしたとき、悲劇は繰り返される。

「何のつもりなの? こんな……こんな、くだらない嘘を!」

「嘘じゃ、ねぇよ……お前には、俺が、そんな嘘を……」

「ついていないとでも? じゃあ、どうしろっていうの? ラムに、信じろとでも? バルスがレムを、忘れた……そんな、そんな馬鹿な話!」

「ラム……」

眦をさらに鋭くして、唇が触れ合いそうなほどの距離でラムがスバルを睨みつける。煌々と燃え盛る炎、それが怒りより、嘆きによるものだとようやくスバルは気付く。

彼女の抱える葛藤、その根は深く、スバルが想像するよりはるかに複雑だ。

四回繰り返して、スバルはようやくその一端に触れた。本当の意味で、他人が胸に抱く想いを、傷を、理解しようと思えば、いったいどれほど思慮深くなればいいのか。

繰り返す反則技を駆使するスバルが、四回重ねてようやく気付けるそれを、エミリアたちがたった一度きりで、ああも真っ直ぐ貫けることが、眩しい。

その眩しさに、焼かれてばかりでいられないから、スバルは――、

「――レムは、必ず取り戻すよ」

「――っ!」

すぐ近くの薄紅を見つめ返し、スバルは喉の力を搔き集め、はっきりと伝えた。

それを耳にして、ラムの瞳が再び驚きに見開かれ、すぐに怒りがそれを隠す。

「どの口で……取り戻すも何も、忘れたんでしょう、バルスは、レムを!」

「それでも、取り戻す。レムのことも、記憶のことも、この塔にきた目的も、全部、一切合切やり遂げて、全員で帰る。――そのぐらいの報酬、あって当然だ」

「――バルス?」

「あって、当然なんだ……この塔で、起きたことを思えば」

息苦しさもある。だが、それとは違う要因で、苦々しく頬を歪めるスバル。ラムはそんなスバルの反応に眉を顰め、胸倉を掴む手からわずかに力が抜けた。

その手を、今度はスバルが両手で掴み、引き離す。そのまま、体を入れ替えた。

「――いやらしい。離しなさい」

入れ替わりに壁に押し付けられ、至近で見つめ合うラムがスバルに言い放つ。

しかし、力なく、覇気に欠けた言葉にスバルは怯まない。

「ラム。俺は記憶も、レムも、取り戻してみせる。そのために、力を貸してくれ」

「――――」

「全員の力がいるんだ。お前たちの知ってる、昨日までの『ナツキ・スバル』なら、こんな情けないこと言い出さなかったかもしれねぇ。けど、今の俺には」

ユリウスが託し、ベアトリスが信じ、エキドナが赦し、エミリアが願った。

そうしてみんなに期待される『ナツキ・スバル』ならば、ひょっとしたら一人でも、この手詰まりの事態を変えられたのかもしれない。

でも、今のナツキ・スバルにはそれはできない。それで不貞腐れて、諦めて、何もできないと駄々をこねるには、この塔にいる人たちが、愛せすぎる。

「レムを忘れた俺を、お前が信じられないし、許せないのもわかる。だけど、その怒りは今は後回しにしてくれ。その代わり、約束する」

「約束……?」

「必ず、やり遂げる。何度でも、食らいつく。もし、この約束を破ったら、お前の前で俺が諦めたら、そのときは煮るなり焼くなり好きにしろ」

「――――」

ラムの瞳が見開かれ、そこから怒りの熱が引いていく。自然、熱が引いて現れるのは、それまで怒りに隠されていた別の感情だ。

それを見据えながら、スバルは頭を引いて、彼女と真っ直ぐ向き合ったまま――それこそ、氷の檻を挟んで、彼女と視線を交錯したときの距離で、続けた。

「それが、俺の覚悟だ」

「……どうしてそこまでするの。バルスが本当にレムのことを忘れたなら、そうまで取り戻したいなんて思えないはずよ」

「――――」

「忘れたら、空なのよ。ぽっかりと、そこには空白があって、そこにあったものへの想いは失われてしまう。消えてしまう。愛も憎しみも、温もりも寂しさも、全部」

ラムの静かな声色が、冷たい硬さを装っている。

その、ひどく実感のこもった言葉は、あるいは彼女自身が経験した空白なのだろう。だから彼女には、スバルの覚悟が信じ難い。

そうまで強い願いを、空白に抱くことはできないはずだと、そう問うている。

「実際、そうだな。記憶は空で、昨日までの俺がレムをどう思ってたのか、それは指の隙間からこぼれ落ちていったあとだけど……」

「なら、どうして?」

「でも、お前がレムを大切にしてて、取り戻したいって必死に願ってるのは知ってる」

レムを、最愛の妹を、取り戻したいと願い、足掻くラムの姿を見た。

あれほど強固に抱いた願い、愛情、それをスバルは目の当たりにして、圧倒されたのだ。そうして必死になるラムも、スバルが救われてほしいと願った一人だから――、

「今、俺がレムを取り戻したいのは、『ナツキ・スバル』と、お前のためだ」

「――――」

「だから、俺が諦めたとき、どうするかはお前に任せる。それが、自分の都合で頭の中身を落っことしてきて、お前を泣かせた俺の罪滅ぼしだ」

「泣いてないわよ、ふざけないで」

「痛ぇッ!?」

すごい勢いで横っ面を引っ叩かれて、スバルはその場に崩れ落ちた。

赤くなった頬に手を当てて、スバルは信じられないものを見たようにラムを見る。

「お、お前……俺、今、結構、勇気のいる話を……」

「勝手に盛り上がって、何が勇気のいる話? 大体、バルスが約束なんて笑わせないで。この世で一番、信用の置けない条件をよく自分から出してきたものだわ」

「それ、エミリアちゃんにも言われたんだけど、昨日までの俺はどんだけ約束破ったの!?」

「守った約束がいつあるの?」

「そんなレベル!?」

冷え切った声で悪罵され、スバルは『ナツキ・スバル』への評価をまた改める。良くも悪くも株価の変動が激しいが、約束破りはかなりの下落要素だ。

大体、約束したなら守るために奔走するのが最低限の義務だろう。

誰が見ていなかったとしても、交わした約束は守られると、そう信じるからこそ、人は進んで損ができる。その精神が、欠けている証拠だ。

「やっぱり、『ナツキ・スバル』なんて碌な奴じゃねぇな……」

「ええ、そうね。勘違いしていたようだけど、昨日までのバルスも、物事を一人でどうにかできるほど有能な男じゃないわ。むしろ、一人で何とかしようとした挙句、結局被害を広げるのが得意なウスノロよ。ラムも、迷惑ばかりかけられたわ」

「マジかよ。なんでそんな奴を塔に連れてきたんだ……」

「出しゃばりだったのよ。それに、口先だけはぺらぺらと回る男だったの。それなりに小器用で、雑用を任せるのに向いてた。あと、エミリア様とベアトリス様をあやすのも得意だったわね。あとは……」

ボロクソに言われ、床に胡坐を掻くスバルは何とも居心地が悪い。

自分のことではないのに、自分のことを叱られている。エミリアたちに、『ナツキ・スバル』のことを良く言われるのもかなり複雑な苦しみがあったが、ラムがこうして言葉を尽くして『ナツキ・スバル』を罵ってくれるのも、まぁ複雑だった。

この際、聞ける内容は全部聞いてやろうと、スバルはいっそ開き直り、

「あとはなんだ? 足が短くて、物覚えが悪くて、偏食家で、諦めが悪くて?」

「足が短くて、物覚えが悪くて、偏食家で、諦めが悪かったわ」

「ですよねー」

「――それと、レムを大事にしてくれてた」

「――――」

ふと、声の調子が変わり、ラムの感情の凍えた声音に色がつく。

温かな――声に色があると例えるなら、それは柔らかな薄紅、包み込むような淡い色。

レムを、妹を思う声音に慈しみが、そして妹の傍らに『ナツキ・スバル』がいたときのことを思い浮かべて、なお消えない、柔らかな愛情が垣間見えて。

薄紅は、優しさの色だと、スバルが錯覚するほどに。

「バルス。――本当に、レムを忘れたのね?」

「……ああ」

ラムの瞳が、スバルを映して離れない。すごい、尊敬する。

こんな場面で、聞きたくない言葉を聞くとき、スバルなら目を逸らしている。それなのに彼女は、ラムは一度だって、目を逸らそうとしない。

「バルス。――本当に、レムを思い出すのね?」

「ああ、思い出す。レムだけじゃなく、他の全部も」

「他の全部が抜けてても最悪気にしないわ。レムのことだけは思い出しなさい」

「無茶言うなよ。全部取り戻させてくれよ……」

「繰り返すわ。レムのことだけは、死んでも思い出しなさい」

「ああ、それは誓える。――死んでも、全部、思い出すよ」

文字通り、死んだとしても、全部思い出す。

この異世界で、『ナツキ・スバル』が何を見て、何を聞いて、何を感じて、何を築き上げて、ここまでやってきたのか。――それを全て、ナツキ・スバルが取り戻す。

「……いいわ。この場は、見逃してあげる」

その答えを聞いて、ふっとラムから放たれる威圧感が消えた。

それを感じ取り、スバルは床の上で胡坐を掻いたまま、「いいのか?」と聞く。

「俺から頼んだことだけど、本当にそれで?」

「男でしょう。素直に受け止めなさい。バルスの覚悟は聞いたわ。その上で、諦めたなら煮るなり焼くなり削るなり抉るなりもぐなり殴るなり好きにしろとまで言われたのよ。これに聞く耳を持たなかったら、ラムの慈母のような心が疑われるわ」

「煮る焼く以降の工程に聞き覚えがねぇ……」

「何か言った?」

「言ってません」

ゆるゆると首を横に振り、スバルは丁寧語でラムに応じる。

慈母、とはなかなか大見得を切られたものだが、仏の顔も三度までの慣用句を思えば、すでにスバルは仏すら許せぬ五度目の挑戦に突入している。

神にも仏にも縋れないなら、裁きを慈母に委ねるのも一興だろう。

「立ちなさい、バルス。諦めることも、膝を折ることも、ラムは許さない」

「地べたに座るのと、それらを一緒にしないでくれよ……っと」

ぴょんと立ち上がり、スバルは尻を払って、ラムと向き直った。

壁に背を預け、乱れた服を直して自分の腕を抱くラムは、もはや普段通り――これがラムの『普段通り』なのだと、そう思わせる立ち姿で、スバルを見つめ返す。

「……エミリア様とベアトリス様にも、同じことを言ったの?」

「あの二人は……俺が諦めるなんて、まるで考えてない風だったからな」

「それもそうね。――悪いバルスがうつったんだわ」

「だから、あの二人には頼めない。ユリウスとエキドナにも、心情的にな」

それにたぶん、エミリアとベアトリス、ユリウスとエキドナ。

四人の答えは、前回の周回で、彼女たちとの接触の中で聞いたのだと思う。

だから、残った答えは、これから確かめていく。

「しかし、あれだな。……お前の話からすると、昨日までの俺も、あんまり大した奴じゃなかったみたいだな」

「レムの記憶の有無で、ラムにとっての価値は激変しているわ。口の利き方に気を付けなさい」

冷たく言い捨て、ラムがスバルに背を向けて歩き出す。

二人は水汲みの途中、足を止める時間が長かったが、手ぶらで帰ればそれこそ、エミリアたちに変な心配をかけてしまいかねない。

スバルはバケツ片手に、ラムを追いかけて隣に並んだ。

そして、

「俺は……『ナツキ・スバル』は、確かにここにいたんだよな?」

小さく、スバルがラムの横顔に問いかける。

それは確認というよりは、どことなく不安な弱音に近いものだった。諦めないと誓った直後に口にするには、たぶん不適当なものだったに違いない。

それこそ、舌の根も乾かぬうちにと、ラムから懲罰を受けても不思議はなかった。

「――馬鹿ね」

だが、ラムはそうせず、足も止めず、慈しむようにスバルを罵倒して、

「今はほんのひと時、見えなくなっているだけよ。多くのものが積み重なって、その奥底に隠れているからなくしたように感じるだけ。それは冷たい雪に埋もれた花のように、雪解けの季節が訪れれば姿を見せる。――きっと、ただそれだけの話なのよ」

そう、表情を見せないラムに、スバルは今の表情を見せられなかった。

あれだけ格好をつけた直後に、こんな情けない顔は見せられない。

だから、何も言わずに、こちらを見ようともしないラムの在り方が、この瞬間のスバルには本当に慈母のように思えた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

状況は、大きく変わりつつある――と思いたいが、実はそれほどでもない。

スバルが記憶の喪失を打ち明けるのはこれが初めてではないし、混乱を残しつつも、表面上は皆がその衝撃を受け止めてくれるのも見た光景だ。

ただ、心の置き方が、構え方が変われば、それぞれへの見方も変わってくる。

前回、あれほどスバルはエミリアたちを疑い、その行動の端々、態度、発言をあらゆる角度から疑ってかかった。何かを企んでいるに違いないと、そう決めつけて。

しかし、そんな疑惑のフィルターを外してみれば、行動の端々、態度、発言のあらゆる角度に見えてくるのは、スバルへの気遣いと、基本的には自己への叱咤。

つまるところ、彼らは意識して自制し、スバルを不安がらせまいとした。

その行動を不審に、不自然に、そう感じたのはスバル側の問題でしかなかったのだ。

「ちゃんと、やろう。ちゃんとやれよ、ナツキ・スバル……」

自分で自分に言い聞かせ、スバルはじっと掌を見る。

スバルの記憶がなくなった原因、それが『タイゲタ』にある可能性は高い。『試験』の踏破も大事だが、その記憶喪失の原因究明も急務だ。

今のところ発生していない事態ではあるが、仮にスバル以外にも記憶喪失の人間が続発した場合、全員揃って『はじめまして』なんて馬鹿げた状況にもなりかねない。

それに、あまり悠長に構えている余裕も、実はないのではないか。

「前回も、前々回も、塔の中はしっちゃかめっちゃかだった」

前々回は、塔の中でスバルはエミリアたちの――否、エミリアとベアトリスを除いた、塔にいる仲間たちの『死体』を次々と発見した。

前回はそれとは違い、今度は仲間たちの『死』を次々と見届けることとなり、スバルの心は荒れ果ててささくれ立っている。

しかし、この異常事態はいずれも、そう遠くないうちに塔内で発生する災厄だ。

スバルは最悪の悲劇を知るものとして、そうなることを防がなくてはならない。

そのためにできる万全を尽くす。――だから、まず最初に、スバルは。

「――――」

これ見よがしに、高所の淵に立ったスバルの背後で、微かな息遣いがした。

意識していれば、存在の端を捉えることが可能なぐらいに、適度な気配の殺し方。それを事前の知識で反則気味に感じ取り、寸前で身を翻す。

「――っ」

「おっと、危ねぇ。――俺の代わりに落っこちるなよ」

突き出した両手が空振りして、その勢いで前のめりになる相手の体を、スバルはとっさに伸ばした手で支えて、落ちないように引き戻した。

その体は軽い。様々な局面であった、不吉な意味合いでの軽さではなく、その少女の見た目に適切な軽さ――そう、その少女に、適切な。

「さあ、話をしようぜ。――俺を殺した責任、取ってもらうからな」

そう言って、スバルは腕を掴んだ少女――メィリィに笑いかけ、過去に二度、自分を突き落とした犯人に、クライマックス推理を叩き付けたのだった。

第六章56 『これからの話』

「――――」

危うく、螺旋階段から階下へ転落しかけた体を支えられ、少女――メィリィは驚きに目を見開いていた。

その大きく丸い瞳を間近にしながら、スバルは半ば確信していた状況の成立に複雑な思いを抱かずにはおれない。

『死に戻り』を活かし、結果的に悲劇を未然に防げたことを喜ばしい。が、この幼い少女が過去に二度、別の時間軸でスバルの背を押したことも、また実証された。

スバルの背中を突き飛ばし、高所から転落させて殺害する犯人――それは、前回早々に『ナツキ・スバル』の手でいなくなった、メィリィ・ポートルートだったのだと。

「……俺を殺した責任って、また変なこと言い出すのねえ、お兄さん」

一瞬、見開いた瞳に狼狽の兆しを過らせながらも、メィリィはすぐさま唇を緩め、自分の胴に回されたスバルの腕を指でなぞり、嫣然と微笑む。

それから彼女は一歩下がり、螺旋階段から距離を取ってスバルと向かい合った。

「ひょっとして、記憶をなくした拍子に他にも色々と抜け落ちちゃったのかもしれないわあ。そうじゃなきゃ、こんな誤解したりしないはずだものお」

「誤解?」

「ええ、そうでしょお? ――わたしがお兄さんを殺そうとするなんて、ひどい誤解だわあ」

後ろ手に手を組んで、メィリィが悪気のない笑顔を浮かべてそう言い切る。その堂々としらばっくれる態度を見て、さすがのスバルも虚を突かれた。

まさか、犯行現場を押さえられても言い逃れを敢行するとは思わなかった。だが、その抵抗も『わたし』なら――否、メィリィならば納得がいく。

彼女は、よく言えば強かに、悪く言えば場当たり的に行動する。

その場その場の自分なりの最適解を選ぶ、それが彼女の生き方の道しるべだ。

有体に言えば、それはまさしく『獣』の在り方そのもので。

「疑われるなんて心外よお。だって、本当にわたしがお兄さんたちを殺そうとするなら、こんな塔の中より砂丘の方が簡単にできたはずじゃなあい? ああ、お兄さんは覚えてないんだから、わからないかもしれないけどお」

「そうだな。確かにおかしな話だ。前々から俺たちを殺そうとしてたってんなら、そうするチャンスはいくらでもあった。でも、お前はそうしなかった」

「でしょお? だったら……」

「けど、俺を殺そうって動機が、今朝になって急に生えてきたんなら話は別だ。今朝ってより、昨日の夜からの連鎖反応って方が正解か?」

「――――」

スバルがそこまで述べたところで、メィリィの表情が変化した。唇を結んだメィリィは余裕の微笑を消して、それから深々と嘆息する。

そして、彼女はその見た目にそぐわない厭世的な態度で肩をすくめた。

「もしかして、わたしって嵌められたのかしらあ?」

「嵌めた、ってのはどういう意味でだ?」

「試したんじゃないのお? 記憶をなくしただなんて嘘をついて、わたしがお兄さんを突き落とそうとするかどうか……味方に不穏分子がいるなら、炙り出すのが定石だものお。塔について、わたしの利用価値もなくなったしい? ……切り捨てるには、もってこいの頃合いだものお」

つらつらと、指折り置かれた状況を確かめ、自分の不利を並べる少女が悲しい。

実際、そこまでの悪意はないにしても、スバルがメィリィの行動を試したのは本当の話だ。その点を否定しても、メィリィの心証は何も変わるまい。

ただ、はっきりと言えることもある。それは――、

「それで、いったいどうやってわたしの始末をつけるのかしらあ? せっかくだし、意趣返しにここから突き落としてみる? 悪い動物ちゃんも一緒にいない今ならあ、わたしなんかお兄さん一人でも簡単に始末できるわよお?」

「勘違いするなよ、メィリィ。俺の記憶喪失はお前を騙すための嘘なんかじゃない。本当の話だから、普通に深刻だ」

「それはそれで、やっぱりどうなのおって感じだけど……結局、お兄さんはどうしたいのかしらあ? 仕返しは手応えがないと実感が湧かないって思ってるのお?」

「――う」

言いながら、少女が自分の細い首に手を回して舌を出す。

一瞬、その行動にスバルの胸中で心臓が強く跳ねた。が、それはメィリィが自分の死に様を覚えている揶揄ではなく、単なる殺しに比喩表現としての皮肉だった。

そう考えると、いちいちスバルの心情にクリティカルなことをしてくれるチビッ子暗殺者である。だからスバルも、その意趣返しのつもりではないが――、

「あんまり、長引く殺し方はオススメしないわあ。わたしが苦しみたくないのもあるけどお、お兄さんって隠し事するの下手そう……」

「――俺は、お前を殺すつもりも、傷付けるつもりもない。このあとも、明日からも、これまでと同じ付き合い方をしていくつもりだ」

「……は?」

そのスバルの答えに、メィリィの表情が再び変化した。

だが、それは先ほどの、即座に次の最適解を選び取れた変化とは根底から違う。メィリィの表情には明らかな狼狽が走り、彼女は無理解を宿した瞳でスバルを見た。

その視線にスバルは頷き返す。

「幸い、お前の犯行は未然に防がれたから、当事者の俺たちが内緒にしとけば何も起きてなかったことにできる。ただ回避するだけだと、お前が違う手段で俺を殺そうって考えるだけかもしれなかったから、ちゃんと犯行現場を押さえる必要はあったけどな。それが悪趣味ってんなら否定はできねぇ。悪い」

「ぁ……な、何を……」

「でもまぁ、今回のことでわかってくれたろ? 俺をどうにかしようとするのは、お前にとっても結構リスキーだ。それでもってんなら、あれだ。せめてちゃんと話し合おう。不満があれば、俺もできるだけ耳を……」

「不満? 不満って……」

ふと、メィリィが小さな声で、震える声で、呟いた。

それから彼女はぎゅっと、唇を結ぶと、

「不満なら、今、この状況がそうだわあ! 信じられない!」

言葉を尽くし、何とか穏当な決着を求めるスバルの説得。それを受け、メィリィが信じられないものを見る目をスバルに向け、吠える。

「信じられない、信じられない、信じられないわあ……」

吠えながら、彼女の手は忙しなく自分の三つ編みに触れている。

それが、混乱に陥った彼女の精神的な自衛――同じ髪型をしていた誰かへの依存心の表れであると、スバルにはそう見て取れていた。

「今、わたしが何をしようとしたのか、お兄さんはわかってないのよお! そうじゃなかったら変だわあ。そうじゃなかったら……」

言葉がたどたどしくなり、メィリィは必死に不自然を訴える。

こうまで取り乱すメィリィを見たのは、スバルも初めてのこと――否、『死者の書』の中で一度、確かに目にしていた。

昨夜の行動、『タイゲタ』でスバルと遭遇し、動転した彼女はその後、『ナツキ・スバル』との会話を経て、記憶をなくしたナツキ・スバルの殺害を決意した。

だが、その急造の殺害計画は、彼女にとっても諸刃の剣であったはずだ。

突き落とされ、転落死したスバル自身には知りようもないが、スバルの死後、彼女はどうやって殺人の容疑者から言い逃れるつもりだったのだろうか。

もちろん、事故死として片付けられる可能性は多分にある。――否、どうだろうか。

エミリアやベアトリス、ラムたちを知った今、スバルは彼女たちが自分の『死』を、その真相をなあなあで済ませることはないだろうと、確信が持てる。

その場合、メィリィの犯行が暴かれることは避けられない。

ラムやユリウス、エキドナならスバルよりよっぽどスマートに、一度も死なずに真相を暴き出すだろう。そのことにメィリィの頭が回らないとも思えない。

だから、これは――、

「お前の、突発的な衝動だよ。お前は、殺人が癖になってるだけだ。物事を解決するための選択肢に、他の要因が浮かばないだけだ。それは、お前のせいじゃない」

「――ッ! わかったように、言わないでよお! お兄さんに……あなたに! わたしの何がわかるっていうの!?」

「――わかるよ」

「――――」

激昂し、噛みついたメィリィが冷や水を浴びせられたように硬直する。

そのメィリィを真っ直ぐ見て、スバルは強く、断定的に言い切った。

「メィリィ。俺には、お前のことがわかる。気持ち悪いかもしれねぇけど、ひょっとしたら俺よりお前のことをわかってる奴はこの世に二人といないかもしれないぜ?」

肩をすくめたスバルの物言いに、メィリィがひどく怯えた顔つきになる。

それを当然だと思いながら、しかし、同時にスバルは紛れもない事実であることの伝え方に――この、胸の奥の、歪んだ『自己愛』に苦心してもいた。

思い返される、幾度にもわたって繰り返された『わたし』の誘惑。

ナツキ・スバルの行動の先々に囁く声となって現れ、何度もスバルを殺人という名の問題解決へ、最も後腐れのない最悪の行動へ誘おうとした殺しの誘惑。

『死者の書』を読むことで、スバルの中に同一化した、死したメィリィ・ポートルートの亡霊による誘惑――、

「――いいや、そうじゃない」

首を横に振り、スバルはそうして、殺した少女への責任転嫁を非難する。

この期に及んでどうかしている。目の前の少女の困惑と、焦燥を見ろ。何より、スバル自身が見たメィリィの『死者の書』を思い返せ。

メィリィの抱えた苦悩を思えば、都合よく殺人を教唆する人格など備わりようもない。

あれは『死者の書』で同一化したメィリィなどではなかった。

あれは、スバルの弱い心が見せたまやかしだ。

その証拠に一度だって、あの声の少女はスバルの前に姿を現さなかった。

「――――」

ひどく端的かつ一方的な形ではあったが、スバルは『死者の書』でメィリィの人生を追体験した。それは彼女の、物心がついてからの日々――己の自我を確立し、在り方を定め、決して長いとは言えない生涯を理不尽に閉じられるまでを見届けたのだ。

その日々の中には、メィリィの余人には窺い知れない虚無があり、その大きすぎる空洞に匹敵するほどの『恐怖』を与えられた経験と、唯一、光る思い入れがあった。

その思い入れの名こそが――、

「――エルザ・グランヒルテ」

「――っ」

「それが、お前が俺を殺そうとした理由だろ?」

問いかけに、メィリィの表情が苦々しさに引き歪んだ。

それは、触れられたくない場所に――否、他人が土足で足を踏み入れることを、決して良しとしない状況へと踏み込まれたことへの怒りだ。

だが、スバルはあえてそれをする。何故なら、

「人の家に上がるときは靴を脱ぐのに、他人の心には土足でずかずか上がり込むのが菜月家の家風だ」

その一員として堂々と、ナツキ・スバルは幼い暗殺者の心へと上がり込む。

彼女の心の奥底に根差す、衝動的な凶行へと走らせる要因――。

ナツキ・スバルの知らない、しかしとてつもなく身近に感じる黒い戮殺者。

彼女のことを思うと、心に湧き上がるのは安堵と憧憬、悲嘆と赫怒、そして空白――メィリィが彼女に抱いていた感情は、そんな複雑なようで、単純極まるものだった。

――メィリィは、エルザを慕っていたし、愛していたし、憧れてもいた。

だから、それを奪われて悲しみ、苦しみ、憎悪し、激怒し、殺意と失意を抱いた。

それをおくびにも出さずにスバルたちの旅に同行したのは、全て復讐のための演技であったのだ――などと言えるほど、彼女は器用ではなかった。

むしろ、メィリィの不器用さは極まっていたと言っていい。

自分の心の傷の深さもわからないぐらい、感情に対して無知であった哀しい少女。

――環境が作り上げた養殖の殺し屋、それがメィリィ・ポートルートだった。

「復讐、したかったのか?」

「……わからないわあ」

「仮にそうだったんだとしても、エルザは……」

「そんなこと望んでない。それはわかってるわあ」

スバルの問いかけに、メィリィは二回続けて首を横に振る。

メィリィの気持ちがスバルにはわかる。そして、スバルの言葉が的を射ていることが、メィリィにもわかっていた。

この状況において、メィリィとスバルとは対等だった。

だから、自分の感情を持て余し、正解がわからないまま袋小路に迷い込んで、そうした迷いを晴らす術を『殺人』以外に持たない彼女が、悲しい。

同時に、メィリィにそんな選択肢しか与えなかった世界に、憎悪さえ抱く。

メィリィが焦がれるエルザの在り方さえ、それは覆せない。

エルザは、メィリィにとって光だったかもしれないが、その光が照らした道を歩くのは普通の人間には過酷すぎるのだ。

「お前が、自分の感情を持て余してるのはわかってる。でも、その答えはたぶん、ここですぐに出せるようなもんじゃない。だから」

「――――」

「この場は俺に預けろ。悪いようにはしない。少なくとも、悪くならないように俺は努力する。お前も、そうしたいと思ってくれるなら」

「……信じ、られないわあ。お兄さんの、口先だけなら何とでも言えるものお」

スバルの説得を聞いても、顔を伏せたメィリィは簡単には頷かない。

当然だ。それは、彼女の人生全てで培ってきた生き方、その辞書の中に存在しない在り方を見つけるための、そういう要求なのだから。

おまけに、それを提案するのが、どういうわけだかわからないが、やけに知ったような顔で説教を垂れてくるナツキ・スバル。

それも、自分が突き飛ばされるのを覚悟で、こんな場所へ誘い出すような輩となれば、スバル自身もその胡散臭さにビックリする。

なので、そう言われると思って、そこにも次善の策は用意していた。

「俺の口先が信じられないって言われると、わりとそこは反省だ。どうも、昨日までの俺は約束破りの常習犯だったらしいんでな。だから」

「だから?」

「俺とお前の約束じゃなくて、俺たちとお前の約束にしよう」

「――――」

そうスバルが言い放つと、その意図がわからずにメィリィが眉を顰める。

しかし、彼女の抱いた疑念の答えは、すぐに明らかとなった。

それは――、

「――ん、大丈夫。私もちゃんと聞いてたから、約束の証人よ」

「――っ」

声がして、肩を跳ねさせたメィリィが凝然と振り返る。すると、彼女の視線の先に現れるのは、実在を疑うほどに可憐な容貌を惜しげもなく晒す、稀代の美少女――。

その出現に目を見開いて、メィリィは愕然と唇を震わせる。

「お姉さん……聞いて、いたの?」

「スバルに、立ち会ってほしいってお願いされたの。……メィリィが危なくなったら止めてほしいって、そう言われて」

言いながら、二人の下へと歩み出たのは月光の煌めきを思わせる銀髪を揺らし、神話の一節のような立ち姿をしたエミリアだった。

そのエミリアの言葉を聞いて、メィリィは驚きを残したまま首をひねり、

「わたしが、危なくなったら……? お兄さんが、じゃなくて……?」

「ええ、メィリィが危なくなったら。それでよかったのよね、スバル」

「――。ああ、そう。それだけがちょっと、本気で不安要素で」

「――? なんで顔を背けてるの? スバル、どうかした?」

「いや、その、直視するには可愛くて……」

首を傾げたエミリアの問いかけに、スバルはぼそぼそと小さな声で答える。その内容が聞き取れず、エミリアはますます首の角度を深めたが、スバルは咳払いでその恥辱を誤魔化すと、改めて困惑しているメィリィへと目を向けた。

突き飛ばしにかかってくるとわかっていれば、メィリィの犯行を防ぐ自信ぐらいはスバルにもあった。問題だったのはその後、『ナツキ・スバル』の動向だ。

仮の話、メィリィが殺された周回の『ナツキ・スバル』の目的が、自分を殺そうとするメィリィへの自衛行動だったとしたら、彼女の犯行現場を押さえた直後、『ナツキ・スバル』がスバルの意に反した行動を取らないとも限らなかった。

故にスバルはその問題を、自分より明確に強い相手に委ねることとした。

自分の意識がなくなり、『ナツキ・スバル』が表出したとしても、きっとエミリアなら――否、仲間たちなら、どうにかしてくれると信じて。

「聞いて、メィリィ。スバルの言ったこと、私は信じてる。メィリィがそれを信じられないっていうんなら、一緒にスバルのことをジーっと見てたらいいわ。それで、もし約束を破るようなら、私が一緒に怒ってあげる」

「お兄さんを、見張る……? そんなのって、変だわあ。おかしいじゃない。お兄さんとお姉さんが見張るのは、わたしの、はずで……」

「もし、メィリィが悪さをしようとするなら、それはスバルがメィリィとの約束を破ったとき。だったら、見張るのはスバルが約束を守ってくれるかどうか。順番通り、よね?」

「――――」

腰を折り、自分と目線の高さを合わせたエミリアの言葉に、メィリィは困惑する。

彼女の頭の中で、事実と状況と対処と解法がめためたに入り乱れていく。

「お前は間違ったことをしそうになったけど、俺とエミリアちゃんのナイスセーブで何とか未然にそれが防がれた。だから、どうすればよかったのかを学ぶチャンスがある。そのチャンスで、どうにか俺を殺す以外の道を見つけられるか……勝負だな」

「勝負……?」

「お前の中の、わやくちゃな感情にちゃんと整理がついたとき、それでも俺を殺さなくちゃって思うか、そうじゃないって思えるか……俺も、倫理の授業を頑張るよ」

頭を掻いて、スバルはメィリィの困惑にそうした道を示す。

正直なところ、余計なお世話と言えば余計なお世話だろう。メィリィにはこれまで培ってきた生き方があって、スバルはそこに勝手に新しい可能性を継ぎ足そうとしている。

だが、それを拒めば、この砂の塔で彼女の道は閉ざされる。これまでの彼女の培ってきた在り方では、この砂の塔を一緒に越えることができない。

そして――、

「俺は、お前が途中下車するのを許さない。お前がいくつなのか、詳しいことはわからないけど……俺がお前ぐらいのとき、俺は周りの大人に散々助けてもらったよ」

「――――」

「だから、俺はお前が嫌がってもお前を助けようとする。どうしたらいいのかわからないって、周りの手を拒むにはお前はまだラブリーすぎるよ」

言いながら、スバルは一歩、メィリィとの距離を詰めた。

その縮まる距離を見て、メィリィがびくりと肩を震わせる。そのまま、不安げな瞳で見上げてくるメィリィ、その頭をスバルは無遠慮に、撫でた。

その細い首を絞めたりしない。もっと別の解法を、『ナツキ・スバル』に提示する。

メィリィは、死ぬ必要なんかない子だ。そして――、

「お願いだから、スバルを……私たちを信じて、メィリィ」

「――ぁ」

スバルに頭を撫でられ、体の動かないメィリィをエミリアが後ろから抱きしめる。彼女の体に優しく包まれ、淡く唇を噛んだメィリィにエミリアは頬を寄せ、

「この砂の塔は、あなたが大きな何かを決めるには、狭すぎる場所だもの」

「――――」

「ここから出て、もっと広い場所で、答えを出して。私たちも、すごーく頑張るから」

行き場のない感情を、こんな閉鎖的な空間で持て余すのは教育上よくない。

言葉を選んでも、スバルではそんな言い方しか思いつかなかったことを、エミリアが優しい言葉で、真摯な思いを込めて、メィリィに語った。

「――――」

それを受け、メィリィは何度も、考えるように視線を彷徨わせてから、

「エルザの、こと……忘れたく、ないわあ」

「ああ、いいよ。好きな人のことを忘れる必要なんかない。ただ、まぁ……」

そこで言葉を切り、スバルは『死者の書』で見た、黒衣の美女のことを思う。

何とも不思議な印象。接点はないのに、身近に見知ったような感覚を覚える彼女。そんな相手の回想に、スバルは何故か無意識に自分の腹を撫でながら、

「――好きな人でも、やり方だけは真似しないでほしいかな」

そう、力なく頼み込んだ。

――メィリィが力なく、迷いを残しながら、それでも頷いてくれたのは、それからたっぷりと、何十秒もの沈黙を経たあとだった。

第六章57 『いったん置いとこう』

「正直、ひやひやさせられたのよ。でも、スバルの頼みだからぐっと堪えたかしら」

「お師様は不死身の男ッスもん。あーしは心配とかしてなかったッス。むしろ、お師様の背後に立った瞬間、チビッ子二号が爆発四散する可能性を疑ってたッス」

「ぁ、う……」

そう言い合いながら、ゆっくりと螺旋階段を上がってくる顔を見て、メィリィが白い頬を赤くして、唇をパクパクさせながら言葉に詰まった。

そのメィリィの変化を横目に、スバルは「よお」と階段の人影に手を上げる。

「後詰めしてくれててありがとよ。何とか落っこちるのは免れて一安心したぜ」

「……いくらスバルの言いつけでも、ホントに落ちてくるようなら許してやったかどうかは怪しいところなのよ。だから、その点でも運がよかったかしら」

ふん、と鼻を鳴らして、ドレスの裾を持ちながら階段を上がってくるのはベアトリスだ。彼女の背後には頭の後ろで手を組んだシャウラの姿もあり、螺旋階段のはるか下から仲良く二人、えっちらおっちらと第四層まで戻ってきている。

「な、な、な……お、お兄さん? あの二人、どういうことなのかしらあ……?」

そのベアトリスとシャウラの姿に、メィリィが愕然とスバルを振り返る。

聞いていないと言わんばかりの少女の動揺に、スバルは腕を組んだ。

「いや、こう言っちゃなんだけど、さっきの作戦って結構綱渡りだったっつーか……あんまりないことだと思いたいけど、俺がお前に突き落とされて普通に死ぬパターンもありえたわけじゃん? たまたま、今回はカッコよくお前の腕が掴めたからよかったけど」

「で、でも、お姉さんだってわたしたちのこと見張ってたんでしょお……?」

「そりゃ俺だって、エミリアちゃんがヤバい可愛い見た目よりパワフルなのはわかってるつもりだけど、万一ってこともあるしな。もしうっかり、エミリアちゃんが俺を助けようとして一緒に落っこちでもしたらシャレにならねぇ」

実際、前の周回での最後、スバルとエミリアとは一緒に高所からの落下を迎えた。彼女を抱き寄せ、しかし救えなかった。――それは、深くこの心に突き刺さっている。

もしまた同じ状況になったら、今度こそスバルはエミリアを無事なところへ突き飛ばす、ぐらいのことはしたいと言い張りたいところだが、極限状態における自分の行動力なんてデータの取りようがないものを当てにしても仕方がない。

「なんで、そんな万一ってことも発生しないように手を打ったのさ。下で二人……ベアトリスとシャウラが見ててくれれば、ひとまず大丈夫だろうって見立てでな」

ベアトリスが凄腕の魔法使いなのはこの目で見たし、シャウラに関しても細かいことは不明だが、やはり見た目にそぐわぬ力持ちであることは確認済みだ。

今回の作戦の協力依頼中、念のためにスバルを持ち上げてもらったから間違いない。

もっとも、エミリアとベアトリスの前でお姫様抱っこされたのは根に持っているが。

「そこまでして……もっと、簡単で賢い道だってあったでしょお」

スバルの説明を聞いて、メィリィが伏し目がちに呟く。恥ずかしい場面を見られたことへの恥辱は薄れているが、代わりにあるのはバツの悪い感覚か。

そんな彼女の言葉に、スバルは「だな」と頬を指で掻いた。

「お前の言う通り、もっと賢くて簡単な道はあったと思う。思うんだが……」

「思うけどお?」

「俺の頭で考えつくレベルだと、簡単は妥協と裏表で、賢いはズルいのお隣さんなんだよ。俺は……うん、俺は妥協とズルいをしたくなかったんだ」

「――――」

その言葉を聞いて、メィリィの瞳で瞳孔が細くなり、微かに唇を噛む。

それを苦笑しながら見つめ、スバルはぎゅっと拳を握りしめた。

全部、何とかしようと思った。

全部、何とかしたいと願った。

ならば、全部何とかするために、自分ができることは全部したい。

「だから、エミリアちゃんに頼むのも、ベアトリスたちに頼むのも躊躇ねぇよ」

「ん、そうなの。私も、最初はスバルにこの話をされたときは驚いちゃった」

そう言ったのは、メィリィを後ろから抱いたままでいるエミリアだ。彼女はメィリィの細い肩に顎を乗せ、そっと上目にスバルを見つめると、

「でも、スバルがすごーく真剣なのは一目でわかったから。それに……」

「それに?」

「――スバルが相談してくれて、嬉しかった。スバルっていっつも、私が気付いたときには全部終わらせちゃう準備をしてることが多くて」

上目遣いに微笑みが加わって、その紫紺の瞳の少女にスバルは息を詰める。

頬を硬くしたスバルに、逆にエミリアは頬と唇を緩めながら頷いた。

「だから、今度はどうしようって相談してくれて、最初から一緒に考えさせてくれたのが嬉しかったの。ふふっ、なんだかへんてこね」

「……言っても仕方ねぇことだけど、昨日までの俺がホントに腹立つわ。いや、でもこの顔が見れて、この声が聞けてるのって俺の特権だから、むしろ昨日までの俺にざまぁの方が出来事的には合ってるのか……? エミリアちゃん、どう思う?」

「ごめん。ちょっと何言ってるのかわかんない」

微笑んだまま、さらっと戯言を受け流されたスバルは肩を落とした。

と、そんな三人の下へ、ようやく階段を上り終えた二人が合流する。

「改めて、何事もなくてホッとしたのよ」

「何事もなかった、ってのはちょっと語弊があるけどな。メィリィの中で、色んな意識改革があったと考えて……何もないがある、だ」

「おー、お師様さすがッス! マジで何言ってんだかさっぱりわかんねッスけど、雰囲気だけカッコいいこと言わせたら右に出るものがいねーッス!」

「お前、俺への敬意って本当に持ってる?」

何を言われても条件反射で感激している節があるシャウラだが、スバルがメィリィを助けたい旨を相談した際、最初に賛同してくれたのも彼女だ。

無論、深く考えず、スバルのやりたいことを後押しすることしか頭にない、という感じでもあるのだが、そんな彼女の存在に助けられることも確かで。

「あの、ベアトリスちゃん……わたしのこと、怒ってないのお?」

「怒ってるに決まってるかしら。でも、お前はベティーがプチンとはち切れる手前で何とか踏みとどまったのよ。砂丘でのこともあるし、今のことは帳消しにしてやるかしら」

「――――」

「たーだーし! 今ので帳消しにしてやるのは、この旅の出来事のことだけなのよ。お前にはまだ、前の屋敷をベティーの禁書庫ごと焼いた罪があるかしら。それがある限り、ベティーがお前のことを許してやることは当分ないのよ」

短い腕を組み、ベアトリスがメィリィの問いかけに厳しい目で答える。その言葉にメィリィが息を詰めたが、すぐにエミリアが「ふふっ」と笑い、

「わかりづらいけど、今のベアトリスは『当分』って言ったから。メィリィがいい子にしてたらちゃんと許してくれるって言ってるの。すごーく優しいわよね」

「エミリア! 余計なこと言うんじゃないかしら!」

「……できるだけ、気を付けることにするわあ」

厳しい意見の裏側を暴かれ、顔を赤くしたベアトリスにエミリアが笑いかける。その様子を見て、メィリィが小さな声でそう応じる。

それを眺めながら、スバルは何度か満足げに頷いた。

やっと、目に見える前進があったと、これで言えるのではないか。

少なくとも、スバルを殺そうと、そう思い詰めてしまう少女の行動を阻止できた。それでもまだまだ、この塔で起きる惨劇の一つでしかないが――、

「――それで、お師様、本当にいいんスか?」

「うん?」

考え込む傍ら、スバルのすぐ隣に立ったシャウラが何気なく声をかけてくる。シャウラはスバルの隣で、その黒い瞳を細めながら、エミリアを真ん中にやり取りするベアトリスとメィリィ、そんな光景を見つめていた。

そして、眉を顰めて訝しむスバルに、声の調子を変えないまま、

「お師様を死なそうとした娘ッスよ。ホントに、お咎めなしで大丈夫ッスか?」

「物騒なこと聞いてくんな、お前。……いいんだよ。お咎めなら、メィリィは先に受けたんだ。でも、そのなんでお咎めを受けるのかってところを、誰もちゃんと教えてあげてなかったからあんな感じなんだよ。それを、これから教える」

「お師様も言ってたッスけど、それでまたお師様を殺そうとしたら?」

「それは、俺がよっぽど教え下手ってとこだな。でも、俺一人でやるわけじゃねぇから」

シャウラの追及に、スバルはそんな風に答える。

スバル一人で、幼い頃から培われた暗殺者としての倫理観を変えろ、と言われたらそれはとても難しいし、正直、背負い切れる責任の重みでもない。

しかし、スバルは一人で何でもかんでもやろうとは思っていない。

メィリィの凶行を止めるのも、エミリアたちを頼ったのだ。その先のことにも、エミリアやベアトリスには付き合ってもらう。

「当然、お前にも手伝ってもらうぞ、シャウラ。人一人の価値観に物申すなんて、こいつは長丁場になるからな」

「……あーしも、ッスか?」

「そりゃそうだろう。お前は……まぁ、お前だとなんかちょっと反面教師っぽい感じがあるけど、仲間外れとかにしねぇよ。体つきは母性に溢れてるから、それでうまいことメィリィの頑なな心をブレイクするのに貢献してくれ」

驚いた顔で自分を指差すシャウラに、スバルは気安い調子で言って肩をすくめた。

何をそんなに驚いているのか謎だが、色々とオーバーリアクションが多い彼女だけに、そうした反応の一環だろうと、スバルは深く追及しなかった。

そんなスバルの判断に、シャウラは自分の顔を手で挟むと、

「あーしも、ッスか。あーしも、一緒に、お師様と、あーしも……えへ、えへへ。えへへへ……」

「ええ……どうしたの、お前……」

「何でもないッス! あーし、決めたッス! お師様の言いつけ通り、あのチビッ子二号のこと、ちゃーんと真人間に育ててみせるッス~!」

パッと顔を明るくして、シャウラがたーっとエミリアたちの下へ駆け出していく。そして彼女は、メィリィの小さな体を軽々と持ち上げ、自分の豊満な胸に抱きしめた。

「きゃあ!? な、なんなのお、裸のお姉さん。いきなりビックリするわあ!」

「いいッスいいッス、存分にあーしに甘えていいんスよ、チビッ子二号。あーしの胸はお師様のものッスけど、今だけはチビッ子二号にも分け与えるッス。富めるもの、貧しきものに施す的なあれッス!」

「ちょっとお兄さん!? 裸のお姉さんにまた変なこと吹き込んだでしょお!」

シャウラにいいようにされるメィリィが、スバルの仕業と判断して声を張り上げる。

「まぁ、みんなを心配させた代償だと思って、いい感じに可愛がられてくれ。大丈夫、見た感じ悪気はないから」

「……まったく。仕方ない人たちだわあ。いいわ、許してあげるう。でも、ここでのことは他の人たちには内緒よお」

そう言って、メィリィが頬を膨らませ、シャウラの胸に挟まれている。が、そんなメィリィの言葉に、スバルは「あー」と頭を掻いた。

その反応にメィリィが眉を顰めると、スバルに代わってエミリアが答える。

「あのね、メィリィ、すごーく言いづらいんだけど……」

「……嫌な予感がするわあ」

メィリィの、その嫌な予感が的中したかどうか。

その答えは、エミリアの続く言葉に対する彼女の反応ですぐにわかった。

それは――、

「――ここにいないラムたちも、スバルからの相談はちゃんと聞いてたの」

メィリィは盛大に顔をしかめた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

食事や話し合いの場に使われる部屋、『大部屋』と呼んでおくが、その大部屋に戻ったスバルたちを最初に出迎えたのは、腰に手を当てて立ち尽くすラムであった。

「そう。無事に片付いたのね。悪くない仕事ぶりだわ、褒めてあげる」

無事に戻ったスバルたち五人を出迎え、静かな瞳でラムはそう言った。

それがおそらく、彼女なりの大絶賛なのだろうとスバルは前向きに受け止める。いずれにせよ、彼女にもメィリィのことで大口を叩いた身だ。それ見たことか、と自分の大言壮語を後悔する羽目にならずに済んでホッとしている。

「言う必要はないかもしれないが、彼女はずっと、そうして立ったまま君たちの帰りを待っていたよ」

「……本当に言う必要のない話ね。自重なさい、エキドナ」

「現状、この体を操っているのがボクとわかった途端、この態度だ。好ましいね」

と、そう言ってラムの眉尻を厳しくさせたのは、大部屋の床に腰を下ろしていたエキドナだった。彼女はラムの舌鋒を微笑で受け止め、それからスバルたちを見る。

「むー」

「それで、彼女はどうしてこんなにむくれているんだい?」

エキドナが指摘したのは、シャウラの背中に負ぶわれているメィリィだ。

渋い顔をして唸るメィリィは、エキドナの問いかけにも答えず、むくれた調子で顔を背ける。完全に拗ねてしまっていた。

「まさか、自分の殺人計画を食い止められ、そのことに腹を立てているとか。その場合、彼女を拘束せずに置いておくことにはいささか不安があるが……」

「ああ、いやいや、違う違う」

やや物騒なエキドナの想定は、前周でもスバルに見せていた警戒――体の主である、アナスタシアという女性を守りたい気持ちの表れだろう。

それが変な誤解を生んではたまらないと、スバルはしっかりと否定する。

「単に、自分の考えが見透かされてて、しかもそれを全員に知られてたのがバツが悪いってだけだよ。子どもらしくて可愛いだろ」

「やろうとしたことを思えば、子どもらしいなんて言葉が出てくるのもおかしな気はするが……ふむ。記憶をなくしたとしても、その本質は簡単には変わらないといったところか。君には驚かされるな、ナツキくん」

「楽しんでいただけてるのなら、光栄ですのことよ」

と、エキドナの視線にウィンクをして、それをラムに「ハッ」と鼻で笑われる。それから、スバルはぐるっと部屋の中を見回すと、

「あれ、ユリウスがいねぇな? あいつはどこに? トイレとか……」

「――君が一大事に関わっているときに小用などと、そんな風に思われるのは心外だな」

「……小用、とは限定してねぇだろ。おっきい方の用事かもしれないじゃねぇか」

背後から声がかけられ、スバルは聞こえてきた声に頬を歪めて振り返る。その悪い笑みを受けるのは、自身の前髪を指で弄っているユリウスだ。

大部屋の外から戻った彼に、エミリアが首を傾げる。

「ユリウス、お腹痛かったの?」

「エミリア様、彼の言動をあまり真に受けませんよう。確かに彼はあなたの一の騎士、誰より信頼すべき立場には違いありませんが、時折、目に余る言動も……」

「おいおい、エミリアちゃんに余計なこと吹き込むんじゃねぇよ。大体、いなかったのはお前の方だろうが。ちょっとトイレって言ったぐらいでなんて言いようしやがる」

「――。ふ」

噛みつくスバルを黄色の瞳で見つめ、一拍を置いてユリウスが唇を緩める。

息を抜くような笑い方、実に気障ったらしくて彼の外見に似合っているが、スバルにはそれがどうにも、しっくりきていない笑い方にも見えた。

「エミリア、それにナツキくん、心配は無用だ。先の話し合いを受け、ユリウスは外を警戒していたんだよ。メィリィが魔獣を操る力を持つ以上、彼女が本当に事を為そうとした場合、最も危険視されるべきは塔の外の魔獣の存在だからね」

「それで、昨夜見つけたバルコニーから塔の外を監視していた。幸い、塔の外には何の異変も見られなかったので、中も無事だと思っていたが……」

言いながら、ユリウスが視線をメィリィへ向ける。シャウラの背の上、メィリィがユリウスの視線に気付いて、居心地悪そうに唇を尖らせた。

しかし、そんなメィリィの様子に、ユリウスはふっと頬を緩めると、

「どうやら、無事に事が済んだようで何よりだ。記憶をなくしたと、君がそう言い出したときは半ば天地がひっくり返ったような心地を味わったが……」

「それは大げさすぎるだろ。いや、記憶なくした俺が言えることじゃねぇんだが」

「そうだね。天地がひっくり返る、は少々過剰だ。少々、ね。……なに、ともかく無事でよかった。エミリア様にまで協力を求め、その挙句が失敗では挽回のしようもない」

「ああ、俺も一安心だよ。……俺とお前、このやり合いする距離感で合ってるだろ」

「――ふ」

スバルが指差して言ってやると、再びユリウスが気障っぽく笑った。

今度の笑みには先ほどの微かな躊躇いがないように思え、スバルは満足する。

「――――」

一応、記憶をなくし始めてからも五回目の邂逅になるのが今回だ。

その間、穏やかな時間を過ごせたことはあまり多くないが、本来、エミリアたちと過ごした時間は、そうした穏やかな時間の方が多かったはず。そんな中ではきっと、『ナツキ・スバル』なりに、彼女たちへの接し方があっただろう。

そこから、大きく違いすぎないよう、エミリアたちを悲しませないよう、スバルはできるだけ丁寧に、『ナツキ・スバル』の足跡を追いたい。

エミリアたちが、『ナツキ・スバル』を失いつつあるのだと、そんな現実を直視させたくない。――それに、そんな現実と、きっと向き合わなくてもよくなる。

ナツキ・スバルがいなくなり、『ナツキ・スバル』が戻ってくれば、きっと。

「ってわけで、新生した仲良し俺たちチームで塔を攻略していこう。異存は?」

「うん、ないわ。頑張りましょう」

「その、仲良しチームって名前にはちょっと抵抗感あるのよ」

ともあれ、拳を掲げたスバルの意見に、エミリアとベアトリスが両極端に賛成。他の面々も異論はないといった様子なので、一安心した。

「彼女のことは問題ない、そう受け取っていいのだね?」

「ああ、いいぞ。もう、滅多なことじゃ俺を殺そうって暗躍したりしないはずだ。ただし、この先もそうできるかは俺たちの背中を見て育つメィリィ次第だから、カッコ悪い背中とかひどい背中を見せないように注意しろ」

「なるほど。見栄の問題というわけか。それなら任せてほしい」

メィリィの方に視線をやり、ユリウスは細い顎を引いてスバルの言に納得する。

見栄、と言われると若干聞こえが悪くも思えるが、他人に自分の背中を見せる――つまるところ、見本となるという意味だと確かにユリウスは適任に見える。

さして、長く彼と付き合ったとは今のスバルは言えないが、それでもユリウスが強い克己心と、あらゆる所作に秀でているのは見て取れる。

それは彼自身の才覚の賜物であり、育った家柄の良さの表れであり、同時に彼自身がそうしたものを身に着けようと、努力した証だった。

正しく努力して、身に着けたものだ。尊いものだった。

「――スバル、大丈夫? 話し合い、できそう?」

「うわぁ!?」

ふと、息を詰めていたスバルの腕に触れ、エミリアが心配そうに顔を覗き込んでくる。そのエミリアの距離感に、我に返ったスバルは慌てて後ろへ飛びのいた。

そのスバルの過剰反応を見て、エミリアは「あ……」と小さく声を漏らし、

「なんだか、目が覚めてから……ううん、記憶をなくしたって言ってから、スバルってば私に驚いてばっかりいない? 私、そんなに変? 何かついてる?」

「いや、その、全然。ただ、可愛い目と可愛い鼻と可愛い唇と可愛い耳がついてる」

「可愛い……ふふっ、ありがと。でも、それならどうして?」

「エミリアちゃんの可愛いは、パーツごとに足し算じゃなく乗算で跳ね上がってく感じがするからかな。あと声も可愛い。髪も可愛い。ダメだこれ、天使だ」

眩しくて見てられない、とスバルは顔を覆い、指の隙間からエミリアを見る。と、そんなスバルの発言を聞いて、急反応したのはベアトリスだった。

「――っ! それを、もっとスバルっぽく言うとどうなるかしら!?」

「は!? え、何が!?」

「だから、エミリアが天使に見えるって言葉を、スバルっぽく言うのよ」

「どんな辱め!? やだよ! 恥ずかしいよ! ベアトリス、お前も天使みたいに可愛いよ! 拗ねるなよ!」

「ベティーが天使みたいに可愛いのは事実だけど、そんなつもりじゃないかしら……」

がっくりと、ベアトリスが肩を落として落胆する。その様子に罪悪感を覚えながら、スバルはベアトリスの頭を撫でて、みんなで大部屋に車座を作った。

こうして、話し合いの場を持つことも多い。ただ、そのたびに目立った進展が見られないのが悩みどころではあるので、そろそろ大胆に話を進めたいところだ。

「ってわけで、改めて俺たちのチームにメィリィが加わった。本格参入したメィリィの社会見学のためにも、こんな砂っぽい塔から早く出たい。意見は?」

「本当に記憶がないのが疑わしくなる物言いね。……でも、バルスの記憶がないのは深刻な問題の中では軽い方だけど、それでも問題ではあるわ」

「うん、そうよね。急にぽんってなくなっちゃうわけないんだから、何とかスバルの記憶を取り戻してあげないと……」

「あー、そのことなんだけど、いったん置いとかないか?」

挙手して意見を求めたスバルが、ラムとエミリアの話し合いに待ったをかけた。そのスバルの言葉に、件の二人だけでなく、話し合いに参加する全員が「え?」と驚く。

驚いていないのはシャウラぐらいのものだが、彼女は現状、スバルの言葉を真に受けてメィリィの世話に夢中なので、そこはひとまず割愛して。

「スバル……あんまり、ベティーたちを心配させないでほしいのよ。記憶がなくなったってだけでも驚かされたのに、別に戻らなくても大丈夫なんて自暴自棄すぎるかしら」

「ええ、そうよ、スバル。もしかして、私たちに迷惑をかけたくないって思ってるの? でも、スバルはメィリィのことを相談してくれたじゃない。それとおんなじように、スバルの記憶のことだって、私たちも一緒に考えるから。お願いだから、ね?」

「猛然と心が痛くなる説得! いや、でもちょっと聞いてくれ! 別に、俺も自暴自棄でこんなこと言い出してるわけじゃないんだよ。ちゃんと理由があるの!」

エミリアとベアトリスの心配に、スバルは心をつつかれながらも何とか言い訳。それから、スバルは「いいか?」と全員に見えるように指を立てて、

「この状況で、俺の頭から記憶がすぽんと抜けたのは申し訳ねぇと思ってるし、それを取り戻そうってみんなが思ってくれるのはすげぇ嬉しいよ。ただ、この記憶が抜けたってことと、この塔の存在が無関係って思ってる奴は、いないよな?」

「お師様、前にトイレの便器に頭ぶつけて記憶なくしたッスよ。当てにならねッス」

「ちょっと外野黙ってろ! それも聞き捨てならねぇ話だけど、今はいいの!」

外野の茶々に腹を立てつつ、スバルは「とにかく!」と話を仕切り直す。

「俺が言いたいのは、塔と俺の記憶がなくなったことには関連性があるってこと。つまり……」

「――つまり、塔を攻略するための条件を満たしていけば、おのずとナツキくんの記憶がなくなった原因、あるいはその鍵が手に入る。そういうことかい?」

「あ、ああ、そうそう。そういうこと!」

スバルの意を酌み取り、エキドナがそう言ってくれたことにスバルは何度も首肯した。そのエキドナの意見を受け、ユリウスが「なるほど」と顎に手をやり、

「塔の仕組みがスバルの記憶を奪ったなら、塔を攻略することで答えに近付ける。あるいはスバルが記憶をなくした切っ掛けも、答えに近付きすぎたせいかもしれない」

「十分、ありえる話だろう。『タイゲタ』を攻略した際の彼のひらめきは、はっきり言ってボクたちには到底及びもつかない知識を利用したものだった。ナツキくんにしかわからない知識が原因で、ボクたちより先を行きすぎた結果、記憶をなくしたのかも」

「待て待て待て待て、さすがにそれは買いかぶりすぎだろ。ただの引きこもりだよ? 特技はベッドのシーツを綺麗に敷くとか、あと裁縫とかだよ?」

「あ、見て、スバル。この服のこの刺繍、スバルがしてくれたの。見たら何か思い出さない? 可愛いでしょ? パックよ」

「んー、可愛い猫の刺繍。だけど、ちょっと心当たりないかなぁ」

だいぶ思考力のレベルに差がある会話をこなしつつ、スバルの否定を受けたエミリアがしょんぼりと服に刺繍された猫の絵を指で撫でている。

名前まで付けているので飼い猫だろうか。この塔には連れてきていないようなので、早く無事に帰して、飼い猫とも再会させてあげたい。

ともあれ――、

「バルスが余計なことに気付いて、結果、勇み足で記憶を奪われた……納得のいく話ね」

「ラムの言い方には棘があるけど、ベティーもおおむね賛成なのよ。それに、塔の攻略を優先すれば、ってスバルの考えにも……嫌だけど、一理あるかしら」

「ベアトリス……」

ベアトリスの不満は、やはりスバルの記憶を最優先できない状況へのものか。そう思ってくれるのは心底嬉しいが、スバルにはスバルで、自分の記憶を最優先できない理由がある。――悠長に記憶探しなどしていては、塔の惨劇を防ぐのに間に合わない。

何が起きていたのか。何が起きるのか。スバルは――否、スバルたちは一丸となって、その災いに備えなくてはならないのだ。

「そんなわけで、俺は塔の攻略を優先したい。みんなにも、いったん了承してほしい」

「――――」

「俺も、このままでいいって思ってるわけじゃないよ。ただ、俺のことは降って湧いた問題だ。それで当初の問題を先送りにしてたら、いつまで経っても目標に近付けない。やるべきことをやりたいんだ」

そうして、スバルは真剣にみんなに訴える。

できる限り、『ナツキ・スバル』がこの場にいないことのデメリットを見せないように努力する。その代わりに、みんなの力を貸してほしいと。

そんなスバルの頼みに、みんなはしばらく言葉をなくしていたが――、

「――本当に、馬鹿ね」

と、吐息をこぼしたラムが首を振り、それから薄紅の瞳で全員を見ると、

「記憶をなくしても、残念なおつむは変わらないらしいわ。つまり、記憶が戻ったところで、今のバルスと貢献度で言えば大差がない……なら、バルスの記憶を優先しても損するだけよ。塔を攻略して、ついでに戻るのを期待しましょう」

「ついでって、もっと言い方があるだろ」

「ないわ。塔の攻略のついでに記憶を落としたんでしょう? だったら、拾うのもついででやりなさい。ラムを煩わせないで」

――必ず思い出すと、取り戻すと、そう約束したのだ、ラムと。

だから、スバルが記憶を後回しにすると言ったとき、ラムの心が受けた衝撃は計り知れない。しかし、その約束があったから、ラムは最初にこう言ってくれた。

約束破りの常習犯らしいスバルと、それでも約束を交わしてくれた彼女だから。

「積極的に記憶を取り戻す方法があるわけじゃない。ナツキくんと、ラムの言い分にボクも賛成しよう。楽観的なことを言えば、時間が記憶を揺り戻す可能性もある」

「私は消極的な賛成、といったところだ。最優先はしない。塔の攻略を優先する。だが、君の記憶を戻せる目が見つかれば、それを優先する。――エミリア様やベアトリス様を、こうも悲しい顔をさせておくべきではない」

エキドナとユリウスの言葉に、スバルは深く頷いた。

それから、エミリアとベアトリスの二人にも目を向ける。二人はスバルの視線を受け、やはり少し躊躇っていたが――、

「――今回は、辛くても我慢する。でも」

「でも?」

「たまには私にも、スバルのことを一番心配するのぐらい、許してね」

「う……ごめん」

スバルへの心配を後回しにしてほしいと、そう言ったに等しいのだと気付いて、スバルはエミリアの申し出に頭を下げた。

そんな二人を見て、ベアトリスは嘆息すると、

「ベティーの言いたいことはエミリアが言ったかしら。それが一番効いたはずだから、ちゃんと反省するのよ」

「――ああ、わかったよ」

そうして、全員からの許可を取りつけ、改めて塔の攻略の優先に方針が固まる。

そうなった上で、スバルが最初に提案したいことがあった。

それは――、

「――『タイゲタ』の書庫に、レイドの本がないかみんなで探さないか?」

第六章58 『それはそれ、これはこれ』

――『タイゲタ』の書庫で、レイドの本がないかを探そう。

それが、この塔を攻略する上で、直近である二層攻略に必要だとスバルが提案したい事柄だった。

それを聞いた途端、車座になる面々の表情が怪訝なものとなる。

「本を? ……本気なの?」

「お、エミリアちゃん、今のは本と本気がかかってたね。面白いよ」

「もうっ、スバル!」

スバルの反応に眉を立て、エミリアが可愛い頬を赤くして怒る。その愛らしさに幸福感を覚えながら、スバルは「いいか?」とみんなの顔を見回した。

「レイドの本を探す、これが俺は二層を攻略するのに一番手っ取り早い手段だと思う。みんなはそう思えないか?」

「さっきも聞いたけど、どうして? 本を探すのが反対っていうんじゃないの。ただ、どうしてレイドの本を探すのかわからなくて。それに……」

「――そもそも、レイド・アストレアの本は本当にあの書庫にあるのだろうか」

スバルの提案を受け、エミリアが首を傾げると、言葉の後半をユリウスが引き継ぐ。

そのまま、皆の視線を集めたユリウスは長い睫毛に縁取られた瞳で頭上を仰ぐ。天井の向こう、その先にあるだろう二層を覗き見るように。

「信じ難いことだが、史実に名を残した英傑、レイド・アストレアは二層で『試験』と称して我々の挑戦を待っている。彼が四百年前に実在した人物であり、その同一人物であることも疑いようはないが……その死は今、私の中で疑問の余地がある」

「ああやってぴんぴんしてるのを見たら、実は死んでなかったんじゃないかって? あんまり考えなかった説だけど、その線もなくはないのか……」

実際、スバルもエミリアたちから話を聞いて、彼が数百年前の死者であるという認識を持っているだけだ。

そうした事情を知らずに彼と会えば、レイドが死者であるなどととても信じられない。そもそも、生気に溢れすぎだ。エネルギッシュに過ぎる死者である。

「とはいえ、その線はほとんど考えなくていいレベルだろ。何百年なんて長生きできるとも思えねえし、普通は死んでるはずだ。なぁ、ベアトリス」

「ベティーはこれでも四百年生きてるのよ」

「私も百年くらい、かな?」

「ボクも、生年で考えれば四百年ぐらいになるかな。起きていた時間は短いが」

「あーしも! あーしもッス、お師様! あーしも、四百年ここで待ちぼうけッス! 寂しかったッス! 四百年分のハグを要求するッス!」

「長生きキャラがすげぇ多いな!? エミリアちゃんも!?」

同意を求めたつもりが、思わぬ反論に口が開く。

まさか、同行メンバーの半分が長命キャラとは思わなかった。パーティーの平均年齢がシャレにならない勢いでぐっと跳ね上がる。

特に、エミリアとベアトリスの年齢には開いた口がそのまま塞がらない。

ただ、なるほど納得と思う部分もある。

「そ、そうか。エミリアちゃんはハーフエルフ……絶世の美少女なのも納得だ。ハーフエルフは美人で長生きってお約束だもんな」

「えと、うん、そうなの。……スバルは、記憶がなくてもハーフエルフは怖くない?」

「怖いか怖くないかって言ったら、その可愛さが怖い。マジで凶器。寝起きで油断してる状態で見たら目が潰れそう。今も正直しばしばする」

「……もう、バカ」

ほんのりと頬を染めたエミリアに怒られ、スバルはなんだか今のがいい雰囲気だった気がして、そんな間抜けな勘違いをしないように自分を戒める。

エミリアはとても優しいので、うっかりするとスバルに気があると思ってしまいそうだ。揺れるな俺の心、ときめくなマイハート。いや、ときめくのはいい。

「はぁ……その点、お前は実家に帰ってきたような安心感だな、ベアトリス」

「なんだか納得がいかない感じかしら。……でもまぁ、頭を撫でてるから大目に見てあげるとするのよ」

エミリアに乱された心音が、ベアトリスの頭を撫でていると落ち着いてくる。ベアトリスの機嫌も直ったようなので一挙両得。

と、そんな脱線したやり取りに、「いいかな」とエキドナが手を上げた。

「ユリウスの懸念もわからなくはないが、ボクは素直にレイドが死者である説を推したいと考える。当人と接触した、所感みたいなものだけどね」

「その心は?」

「第一に、ナツキくんの言う通り、レイド・アストレアが長命種とは考えられない。色々と規格外な人物には違いないが、それでも彼は人間だよ。第二に、彼の性格」

「性格? あの、すごーく元気なところ?」

「元気が転じて破天荒と言うべきだろうね。あんな豪快な性格の持ち主が、四百年も大人しく塔にこもっていられるとはボクには思えない。彼女……シャウラとも会わなかったということは、あの二層の一室にずっといたことになる。とても信じ難いよ。ボクの勝手な印象だが、彼なら三日で出ていくだろう」

「あー」

肩をすくめたエキドナの意見に、スバルは納得と諦観の合わさった声を漏らした。

エミリアたちも顔を見合わせ、落ち着きのないレイドの態度を思い出す。エキドナの意見の信憑性には彼女らも納得の様子だ。

それらを見て、エキドナは浅葱色の視線をユリウスに向けた。

「と、ボクからはそんな印象なんだが、ユリウスは納得してもらえるかい?」

「納得、せざるを得まいね。確かに、実際のレイド・アストレアの印象を思えば、一所に長居することを良しとする人物像ではない。それができない理由は、やはり塔の『試験』と現在の彼が紐付けられているから……と考えるべきか」

「塔と、存在が紐付けられてる、か」

エキドナとユリウスの会話を聞きながら、前回のループの終局が思い出される。

大混乱となった塔内を、レイドは自由に歩き回り、外へいくとまで豪語していた。何の気兼ねもなく二層から四層へ降り立って、スバルの後頭部を小突くことさえしたのだ。

スバルには、あれが自由を縛られているようにはとても見えなかった。

実際、最後の心残りさえなければ、彼はそのままの足で塔の外へと元気よく飛び出していったに違いない。――彼が、それをしなかったのは。

「――? なんだろうか。私に何か?」

「いや……」

「ふ。私の顔にも、目と鼻と耳と口はついていると思うが、そこに異常でも?」

「ああ、エミリアちゃんのと違って可愛くないから選考漏れだ。ともあれ……」

話が本題からズレすぎた、とスバルはユリウスから視線を外した。

そして改めて、話題を最初の『レイドの本』のことに戻す。

「じゃ、あのレイドが元気な死人って意見にまとまったところで最初の話だ。『タイゲタ』には『死者の書』がある、これも間違いないよな?」

「今のところはそういう認識ね。読んだ人間の頭に、その死者の記憶が流れ込む……そこまではバルスとユリウスが確認しているわ。生憎、その記憶も抜け落ちたようだけど」

「悪かったよ、根に持つなよ。――で、そこがこの話の焦点だ」

指を鳴らして、スバルはその先端をラムに向ける。その仕草が不愉快だったのか、向けた指をラムにひねられ、「ぐああ!」とスバルは苦痛を味わった。

そのやり取りの傍ら、ベアトリスが「あ」と小さく声を上げる。

「なるほど、そういうことかしら!」

「ベアトリス、スバルの言いたいことがわかったの?」

「わかったのよ。なるほど、そういうことかしら。――つまり、レイドの『死者の書』を、レイドを攻略するための極意書として利用するってことなのよ」

「それな」

ひねられた指を振りながら、スバルが悪い顔でベアトリスを肯定する。

その説明を聞いたエミリアも、紫紺の瞳を丸くして「そっか」と呟いた。

――『死者の書』を利用した、死者本人の攻略。

早い話、『死者の書』はその人物の生前の記録であると同時に、その人物がどうして死んだのかを克明に記録した『攻略本』とも言える。

そして、すでに四回も死んでいる『死』のベテランプレイヤーたるスバルに言わせてもらえば――死亡した原因は、簡単に回避できるものではない。

「だから、『死者の書』を読めばそいつの死因がわかる。これは立派な攻略手段だ。ひょっとすると『死者の書』は、遠回しにそのためにあるのかもしれねぇぜ?」

「それは……盲点だった。だが、言われてみれば確かに。わざわざ死者を試験官として配置しているぐらいだ。狙いはそこにあったとしてもおかしくない」

「いや、そこまで真に受けなくてもいいけど……」

目を丸くして、期待以上の感心を見せるエキドナにスバルは苦笑いする。

とはいえ、確かにそうそう実現しない状況だけに、これを攻略法と見出すか、あるいは抜け道と定義するかは難しいところではある。

「ただ、これは一つ、俺が確信を持って言えるんだが……今の記憶がない俺じゃなくて、記憶がある俺でも、この攻略手段を試そうとしたと思うんだよ」

「……それは納得かしら。こんな抜け道、スバルが試さんはずがないのよ」

「正道ではなく、邪道。バルスのやりそうなことね。ラムも納得だわ」

「ん、そうね。こういうズルっこ、スバルはすごーく得意だもの」

「ズルっこってきょうび聞かねぇな……」

「――っ!」

『ナツキ・スバル』へのぶれない評価に頬を掻くと、急にエミリアが目を輝かせた。その反応にスバルは驚くが、エミリアはすぐに自分の頬を指でつねると、

「うう、いけないいけない。一番大変なのはスバルだもの。私がしっかりしないと……」

「エミリア様、お気持ちはわかりますが、ほっぺたが赤くなります」

急に自分をイジメ出したエミリアの手を取り、ラムがその行いを注意している。

先ほどからたびたび、エミリアやベアトリスからの過敏な反応があるのだが、おそらくはそのあたりに彼女らが感じる『ナツキ・スバル』の残滓があるのだろう。

正直、申し訳ない。早く、エミリアたちに『ナツキ・スバル』を返してやりたいが。

ともあれ、エミリアたちの印象がそうであったように、昨日までのスバルが『死者の書』を使った攻略法に行き着く可能性はかなり高い。

と、そんなスバルの考えを聞いて、メィリィが「あ」と口に手を当てると、

「……そう言えば、昨日の夜、お兄さんが『タイゲタ』でたくさんの本を広げてるところを見たわあ。あれって、そういうことだったのかしらあ」

「昨晩、スバルが『タイゲタ』に? ふむ……」

「ちなみに、俺が何の本を読んでたかってのは見えなかったのか?」

「ええと……そこまではわからないわあ。ごめんなさあい」

シャウラの膝の上に乗せられ、ぐりぐりと頭を撫でられているメィリィが目を伏せる。

そんな彼女に「気にするな」と手を振り、スバルも慎重に、自分のものではない『わたし』の記憶を参照し、同じ結論を得た。

『死者の書』で確認したメィリィの記憶の中に、スバルが複数の本を広げていたところまではあっても、そこから先の詳しい内容は見られなかった。

そのため、望み薄な質問だったと落胆は大きくない。ただ、ああして『タイゲタ』の書庫にいた時点で、『ナツキ・スバル』に何らかの異変があったことは確実だ。

本を広げる前か、あるいはその少しあとに――、

「もしくは、その行為そのものが記憶を失ったことに関係があるのでは?」

「たくさん広げていた、か。……まさか、許容量を超える『死者の書』を読んだことで、記憶を入れておく場所が一杯になって溢れた、なんて話ではないだろうね?」

「ないとは思いたいけど、ないとは言い切れねぇよ。なにせ、記憶喪失!」

胸を張り、自分を指差すスバルにユリウスとエキドナが同時に嘆息した。

なかなか記憶喪失を開き直るのも板についてきたが、スバルも自分の記憶がすっぽ抜けた原因が本にあることはあまり疑っていない。

だから、仮にレイドの『死者の書』を見つけたとしても、他の誰かに読ませることは避けたいと考えていた。

読むなら、一度記憶が消えて、また消えても影響の少ないスバルが――否、今や、スバルも消えては困る記憶が多すぎる。

「――――」

前回のループの出来事、前回までのループで起きた出来事。

それに、この周回で心に決めたことや、ラムとの約束、メィリィへの誓いもある。

なんだ、たったの数日を四回繰り返しただけなのに、すでに忘れてはいけないことがこんなに腕一杯にあるのか。

だから、記憶というものは尊く、手放し難い。――忘れてはならない。

「スバル?」

「あ、あー、大丈夫大丈夫、じょぶじょぶ。えーと、おほん」

押し黙った横顔にエミリアが声をかけ、スバルは慌てて平静を取り繕った。

それから咳払いし、みんなの顔を眺めると、

「そんなわけで、『タイゲタ』に向かうのを提案する。過去の英雄とか伝説の誰々ってポジションの奴は、その偉業が後世に語り継がれるもんなんだ。代わりに、失敗談とか弱点なんかも残るわけで、そこは有名税と思って素直に突かせてもらおう」

「自信満々に、聞いてきたようなことを話すものね」

「へへっ、まさかこの攻略法が現実に使える機会がくると思わなかったからな。相手の真名がわかれば、死因と宝具も特定できる。これぞ、現代知識チート……!」

「真名?」

「宝具ってなんなのかしら……」

拳を強く固めたスバルの言葉に、エミリアとベアトリスが同時に首を傾げる。

そこは与太話なので詳しく説明しないが、レイド・アストレアがこの世界で、歴史に名を残すほど有名な人物であったことは間違いない。

「つまり、奴の敗因は有名税……これって弱点として斬新じゃない?」

「――。バルスの狙いはわかったわ。納得もした。不安がないわけではないけど」

「試す価値は十分にある、か。やれやれ。あれだけ膨大な量の本の中から、目的の一冊を見つけ出すことがどれだけ大変か、考えただけでも気が重くなってくるな」

スバルの軽口を聞き流し、ラムやエキドナが腰を上げる。彼女らにつられ、エミリアやベアトリス、メィリィとシャウラもそれに続いた。

よし、とスバルも膝を叩いて立ち上がり、それから出遅れるユリウスを見る。

「どうした。お前は反対か?」

「……いいや、他の打開策もない。君の発案であることも含め、有効であることも認めよう」

「でも、思うところがある?」

「――。これは、私自身の問題だろう。気にしないでほしい」

ゆるゆると首を横に振り、ユリウスもすっとその場に立ち上がる。

気にするな、と言われて本気で気にしないのは無理な話なので、スバルとしてはいささか以上に気掛かりではあるが――、

「いったん、置く。――ところで、『死者の書』以外だと、レイドのことってどのぐらい有名なんだ? かなりヤバい感じだが」

「よほど強烈な記憶だったようね。記憶が断片的に抜けたというわりには残っているみたいだし。……レイド・アストレアは、過去に存在した『魔女』を倒した三英傑の一人よ」

「『賢者』シャウラと、『神龍』ボルカニカと、それから『剣聖』レイド……」

「あーしじゃなくて、『賢者』はお師様のことッス」

「お前の理屈だと、俺も数百歳ってことになんの? コンビニから出て、今朝目覚めるまでの間に俺が激動の時間を過ごしすぎてるだろ……」

シャウラの言動は話半分どころか、話一割ぐらいの塩梅で聞いておいて、スバルはその三英傑として語られるレイドの伝説について深掘りする。

その話題に関して、エミリアらの視線が向くのはユリウスだ。

ユリウスはその視線を受けると、自身の前髪に指で触れながら、

「確かに、レイド・アストレアが各地に残した伝説は枚挙に暇がない。有名なもので言えば……龍を百頭斬った戦いや、剣奴孤島の闘技場で記録される六千戦無敗の戦績。鬼神と呼ばれる存在と酒を飲み比べして勝った、などという変わり種もある」

「全部馬鹿みたいな話に聞こえたけど、本人を見たあとだと……」

「誇張はない、と感じるね。その強さを知れば、彼は紛れもなく……いや」

「――?」

「私の知る限り、彼についての逸話の多くはその規格外の功績を語るものばかりだ。その人間性であったり、人間らしい失敗談や敗戦の記録、そうしたものは記憶にない」

前髪を指で払って、ユリウスは知識披露の場面をそう締めくくった。

その話を聞き終えて、スバルは敗戦の記録が残っていない事実にちょっとだけ慄く。残っていないだけならいいが、まさか負けたことがないのではなかろうか。

生涯無敗、十分にありえる話だと、スバルは身震いしておく。

「と、ついたな」

会話の一段落で、ちょうど『タイゲタ』へ通じる階段のある部屋に到着する。

そのまま上にいけば『死者の書』に埋め尽くされた書庫、三層『タイゲタ』がスバルたちを出迎えてくれるわけだが――、

「――ラム、ちょっとみんなの先導しててくれるか? 俺はちょっと、ユリウスと話したいことがある」

「ユリウスと?」

足を止め、そう申し出たスバルにラムが眉を顰めた。

その言葉に驚くのはユリウスも同じだが、ひとまず彼は反論はないのか何も言わない。そんな様子にラムは薄紅の瞳を細め、スバルの黒瞳を覗き込むと、吐息をついた。

嘆息、あるいは諦念の表れのような吐息で、

「あまり長くかけないようになさい。上がってきたとき、ラムたちの記憶がバルスと同じように抜け落ちていたら収拾がつかなくなるわよ」

「怖いこと言うなよ。記憶をなくしたラムが、しおらしくてお淑やかな感じに仕上がるなら見物だけど……」

「ラムはもう、これ以上、何も忘れるつもりはない」

「……だよな。変な本、見つけても近付かないようにお願いな」

そう言い置いて、肩をすくめたラムが先頭でのしのし階段を上がっていく。

ひとまず、彼女に任せておけば判断を誤る心配はおそらくないはずだ。そういう意味での信頼は、このメンバーの中だと一番ラムを高く評価している。

そういう観点でいくと――、

「メィリィは淑女らしくしてろよ。エミリアちゃんと手でも繋いでてくれ」

「それ、すごおく心外だわあ。そんな厄介者みたいな扱いされなくても大丈夫よお。大体、裸のお姉さんにも手を掴まれてて、捕まってないのに捕まってる気分だものお」

ぶー、と頬を膨らませながら、シャウラに右手を、エミリアに左手を握られたメィリィが『タイゲタ』へ連行されていく。その背中にベアトリスが続くと、最後尾のエキドナがそっと階段に足をかけ、振り返った。

「ナツキくん」

「うん?」

「お手柔らかに頼むよ」

そう言い残したエキドナも、とっとと上階へと上がっていった。

その背中を見送り、スバルは頭を掻く。エキドナには何となく、スバルがユリウスをこの場に残した理由がお見通しだったのかもしれないと。

そうして、女性陣がそっくりその場からいなくなると、階段の前に取り残されるのはスバルとユリウスの二人だけになり、

「それで、話とは? わざわざ、エミリア様たちを遠ざけてのことだ。よほどのことだと思っても?」

「よほどのこと……まぁ、そうだな。たぶん」

「はっきりしない口振りだね」

「はっきりさせるのが難しい手合いの内容なんだよ、これが」

階段を背に、ユリウスと向き合うスバルは自分の黒髪をガシガシと掻く。

この場にユリウスを呼び止めたのは、いくつか確かめておかなければならないことがあったから。それは、さっきまでの会話で引っ掛かった部分の確認でもあるが――、

「――――」

「スバル?」

「待て。今、ちょっと頭の中を整理中だ」

思った以上に、ややこしく絡まる問題の糸をほぐし、スバルは思案する。

エミリアたちに本の捜索を任せ、ユリウスを呼び止めたのだ。その、最大の焦点は当然ながら『レイド・アストレア』であることからはブレない。

それと同時に、スバルの脳裏を過るのは前回のループ、その大混戦の一幕だ。

――自由を得たレイドが、最後の心残りとして選んだ、ユリウスとの一騎打ち。

多数の邪魔が入った状況ではあったが、あれはまさしく一騎打ちと言うべき場面だ。しかし、その実力差は、おそらく精神的な問題もあって絶対的なものだった。

その上、聞いた話ではユリウスは一度、すでにレイドと戦って敗北を喫している。そんな状況にあってなお、レイドはユリウスに何らかの執着を持っていた。

それが、ユリウスという人物のどこにあったのか、それもレイドを読み解く上での鍵となる気がしてならない。――だが、それをどう伝えるべきなのか。

「あー、お前って、レイドのことどう思ってる? 好き?」

「――。その質問に、何の意味があるのだろうか」

「いや、ちょっと硬い空気をほぐそうとしただけ。本命はもうちょっとだけ言い方が違う。――本命の言い方は、お前はレイドに勝つ気があるのかってこと」

「――っ」

片目を閉じて、そう言ったスバルにユリウスが黄色い瞳を見開く。激しい動揺がその瞳を揺らしているのを見て、スバルは短い息をついた。

やはり、と感じる部分がある。だが、同時に待ってくれ、でもあるのだ。

「自覚のあるなしは置いとくけど……ビビるのも無理ねぇ状況だろうよ。負け癖ってのはつくとなかなか抜けなくなるらしいぜ」

「スバル、君は……」

「悪ぃな。本当は俺だって、できるだけ時間かけてあれこれして、お前のへっこんだ心を立て直すべきなんだと思う。思うけど、その時間が俺たちにはない。わかるだろ?」

「――――」

スバルの問いかけを受け、ユリウスが頬を硬くし、息を詰める。

スバルとユリウスとでは、『時間がない』という意味合いに対する考え方が違っているが、それでも同様の焦燥感は彼にもあるのだ。

そしてきっと、昨日までのスバルにはできなかったこと。この、傷付いて、自分の心の焦燥に気付けずいる男を気遣って、言えなかったこと。

たぶん、『ナツキ・スバル』ができなかったことを、ナツキ・スバルがしてやるのだ。

それが今、この閉塞した状況を打開する、確かな一撃になると信じて――、

「はっきり言うぜ、ユリウス。なんでかって言ったら、今の俺は無敵だからだ」

「無敵、とは……なかなか、大きく出るものだね」

「しがらみがないから大きく踏み出せる。お前が俺の面見て、エキドナの面見て、レイドの話を聞いて、縮こまってるのは見てられねぇ。俺も引きずる性質だから他人のこと言えた話じゃねぇが、そういうことは目をつむって、はっきり言うぜ」

「――聞こう」

息を呑んで、居住まいを正したユリウスがスバルを見つめる。

その真っ直ぐな視線を受け、スバルは続けた。

「それはそれ、これはこれだ」

「――は」

堂々と、そう言い放ったスバルに、ユリウスが呆気に取られた顔をした。

そんなユリウスを正面に、スバルは両手を左右へ広げると、

「お前が俺を見て、ギクシャクした感じになるのはわかる。昨日までの俺が、たぶんお前になんかやらかしたんだろう。その昨日までの俺がお前にしたことがこの世から消えるわけじゃないけど、俺の頭の中からは消えてる」

「そう、だね。その通りだ。だが、私は……」

「最後まで聞け。そんな状態だから、お前と俺の関係はまた一から作る必要がある。少なくとも、今の俺との関係はそうだ。昨日までの俺は、いったんよけとけ」

「――――」

かなり乱暴な論調に、ユリウスは先ほどから動揺の波に呑まれて戻ってこられない。

ひどく強引な理屈だ。言いたいことの百パーセントを到底伝えられてはいない。

実際、スバルが『ナツキ・スバル』のこれまでの功績――エミリアやベアトリス、ユリウスたちに対して与えた影響、そうしたものの力を借りているのは事実なのだ。

だが、今はそうした影響の、良い部分だけ借りて、悪い部分はうっちゃってしまう。

何故なら――、

「俺たちのパーティーの中で、お前が一番強い。だから、レイドとやり合うことになるのはお前だ。うまく攻略本が見つかったとしても、戦いはお前に任せることになる」

無論、レイドの執着、ユリウスとの一騎打ちを望む敵の考えもある。

しかし、スバルはここを譲るつもりはない。エミリアがすでに勝ち抜けしていることを抜きにしても、ラムやシャウラ、エキドナやメィリィ、ベアトリス、そしてスバルの誰にも、その場面を譲らせることはできないだろう。

「ビビる気持ちはわかる。戸惑ってんのもわかる。昨日までの俺がホントすいませんでしたって謝る。――それ全部込みで、切り替えて、戦ってくれ」

「……私は、すでに二度、彼に負けている」

「知ってる。でも、次は勝ってくれ」

「――――」

知っているより負けた回数が一回多かった。

だが、それはこの際、もう関係のない、余分な部分のお話だ。

「お前が勝てなきゃ計算が狂う。頭の中、色んなマッチアップ考えてんだけど、女の子たちに頑張ってもらわなきゃの前に男の俺たちが頑張らねぇと、騎士の名折れだぞ」

「――名折れ。今の私に、騎士の名折れ、か」

ぐっと拳を突き出したスバルに、ユリウスが目を伏せ、低く呟く。

驚かされ、戸惑わされ、傷付けられ、殴りつけられ、ついには乱暴に胸倉を掴まれるような理屈で以て、ユリウスはスバルの言葉に翻弄される。

それは、スバルが彼に対して抱いていた印象以上に、その優麗な表情を大きく変えさせるもので――、

「ラム女史の言う通り、君が本当に記憶をなくしているのか疑わしく思えてきたよ。あるいは君は、剣を捨てて逃げようなどと怖気づく私を止めるために、こうして記憶がないふりをしているのでは?」

「エミリアちゃんの笑顔を曇らせてまで? アホ、そんな回りくどい真似しねぇよ! 大体、そんなことしなくてもお前は剣を手放さねぇし、みんなのために戦うだろ」

「それは……矛盾している。君は、今まさに私の怖気づく心を引き締めようと」

「違うね。そうじゃない。お前に足りないのは勇気じゃない。勇気はここにちゃんと詰まってる。――足りないのは勝ち気だ。負けん気だよ」

一歩、距離を詰めたスバルが突き出した拳でユリウスの胸を突く。

その言葉と拳を受けて、ユリウスが息を呑んだ。

「――――」

スバルの、今の言葉に嘘はない。

前のループ、魔獣とレイドという絶体絶命の状態にありながら、ユリウスは剣を手放すことなく、絶望に背を向けることなく、スバルに「任せる」とそう言った。

あれは裏を返せば、「ここは任せろ」以外の何の受け取り方をすればいい。

ユリウスはあの状況下で、確かに言ったのだ。

――レイド・アストレアを、自分に任せろと。

そして、そう言い切った彼を見たのが最後だった。

だから――、

「……俺は、決着を見てねぇ。昨日までの記憶もねぇ。だから、俺は、お前が、レイドに負けたところなんか、一回も知らねえ」

ユリウスは、ユリウス・ユークリウスは、負けていない。

ナツキ・スバルの前で、一度として、この騎士は、男は、負けたことがないのだ。

だから、ナツキ・スバルは、誰がなんと言おうと、決着を譲らない。

ユリウス・ユークリウスが、レイド・アストレアを打ち倒すと、期待し続ける。

「レイド・アストレアを、俺はお前に任せる。あの、一番厄介な敵を、お前が倒せ。その代わりに俺は……それ以外の全部に、また俺のやり方で手を伸ばす」

「――――」

「聞こえねぇのか、ユリウス。ダチの期待に、応えろよ」

さっきは期待を預けるように、今度は力強く希望を打つように。

スバルの拳がユリウスの胸を再び叩いた。

その一発に、ユリウスが自分の胸に触れた。

それから胸に手を当てたまま、彼は後ろに下がり、長く息を吐く。

長く長く、深く深く、息を吐いて、

「……昨日までの記憶をなくした君が、どうして私にそうまで期待できる?」

「それは……その、イメージだ。印象、見た感じ。見た目とか喋り方とか仕草とか、持ち物とか服装とか、食べ方とか歩き方とか、なんか色々そういうのの総合芸術だよ」

前回の、ループの出来事に触れられず、スバルは自分の胸を掴んで苦しい返事。

図らずも、スバルとユリウス、両者互いに胸に手を当てたまま向かい合う。そのままユリウスは、胸に手を当てたまま背筋を正して、ゆっくり腰を折った。

まるで、物語の騎士がそうするように、美しく、自然な仕草で。

「印象、か」

「そ、そうだな。お前の見え方だ。お前の全部が、俺にそう期待させる」

「そうか。……私の見栄が、そう思わせたのだね」

頭を下げたまま、ユリウスの声の調子が変わった。

それまで、どこか触れ難いものを感じさせたユリウスの声色に、ほんのわずかではあるが力が戻り、柔らかさが宿り、温かみが芽生えたように思える。

そうした印象をスバルに与えながら、ユリウスは頭を上げ、前を向いた。

そして――、

「世界に忘れられ、唯一覚えていた君にすら忘れられ、主の存在を確かめられず、私自身がどこにあるのか曖昧なものとなっていた。だが、そんな状態であっても――私が、これまで培ってきた全てが失われたわけではない。そう、言いたいのだね」

「そこまで賢くまとまってなかったけど、ニュアンスはそう」

スバルの拙く、まとまらない言葉をユリウスが賢く、洗練された形として受け取る。

伝えたいことの百パーセントは伝わらないと、さっきスバルは思ったばかりだ。だが、その百パーセントに近いものを、受け手側は選んだと、そう感じた。

「なんか、観念的な話というか、精神論ばっかりであれだった気がするが、精神的な問題が大きい雰囲気だったから、合ってたかな?」

「ふ。何故、そこで弱気になる? 無敵だったはずではなかったかな?」

「いや、スター取ったマリオでも穴に落ちたら死ぬじゃん……」

通じないたとえ話にユリウスは眉を顰めたが、それ以上の追及はしてこない。

そのあたり、昨日までの『ナツキ・スバル』との付き合いで、意味のない軽口は聞き流すに限るといった認識が結ばれているようで、何とも妙な気分だ。

ともあれ――、

「少しは前向きになったか?」

「さて、どうかな。究極、君の言葉は具体性に乏しい精神論が多く、また、私の身に起きた数多くの出来事が劇的に変わったわけでもない」

「お前な……」

「ただ」

そこで言葉を切り、ユリウスはスバルを見つめる瞳を細めた。

そして、ふっと唇を緩めると、

「――それはそれ、これはこれだ」

と、らしくもない言葉で、そのやり取りの締めくくりとしたのだった。

第六章59 『白い世界に嗤う』

――それはそれ、これはこれ。

そうした形で話し合いが決着し、スバルとユリウスは妙な感覚を共有した。

正直、ユリウスの複雑な心情に寄り添えたのか自信はない。もっとうまい言葉が、完璧なやり方が、美しい接し方があったのではないか、そう考えてしまう。

それこそ、『それはそれ、これはこれ』なんて乱暴な結論ではなく、もっと洗練された言葉で、不条理な現実を上書きできるようなやり方が。

「だが、君らしい。良くも悪くも、ね」

「……そうかよ。俺らしいってのが、昨日までの俺とどのぐらいダブってる発言なのかってのは、結構、今の俺のアイデンティティに関わるとこなんだが」

「自己の確立という意味でいえば、しばらく前の私も大いに揺さぶられたものだよ。同じ苦境を味わった先達として君に助言しようか。――それはそれ、これはこれだ」

「うるせぇな!」

薄く笑い、直前の会話を揶揄するユリウスにスバルが吠える。ユリウスはその反論に肩をすくめ、悠然とした様子だ。

なるほど、真面目に少しは心情の立て直しが図れたらしい。投げ手が未熟で拙い言葉ではあったが、受け手が有能で助けられたといったところか。

ともあれ、そんな形で二人がやり合っていると――、

「――お師様~、終わったッスか~?」

「お? シャウラ?」

背後、三層への階段の上から顔を覗かせ、声をかけてくるシャウラ。

階下を覗き込む彼女は肩から黒い三つ編みを下へぶらつかせながら、豊満な胸を床に押し付けてこちらを見ている。

「なんでそんな控えめ? お前、そんなキャラだったっけ?」

「んや、お師様が誰かと二人きりで話すときって、結構、核心突いた話をするときが多いじゃないッスか。で、あーしがいると雰囲気がブレイクするから離れてろってだいぶ前に言われたんで守ってんスよ。忘れたッスか……って、お師様、全部忘れてたッス!」

「核心を突くのと雰囲気ブレイク、ねえ……」

あけすけに笑ったシャウラの言葉に、スバルは訝しげに眉を顰めた。そのスバルの反応を余所に、シャウラは「よっと」と階段を一息に飛び降りる。

二十段以上の階段を飛び越して、音もなく床に降り立つシャウラ。彼女はそそくさとスバルの傍に駆け寄り、その腕を自分の胸に抱く。

「何度も言ってっけど、こういうのやめれって。エミリアちゃんに誤解される」

「ふ。エミリア様が?」

「ふ、じゃねぇよ。ちょっとぐらい可能性あんだろうが。砂漠に落ちた針探すぐらいの途方もない可能性でも、ゼロではねぇだろうが」

言いながら、スバルはシャウラの腕を強引にほどく。その態度に、「あーん」とシャウラは不満げに頬を膨らませ、

「お師様いけずッス。温もりに飢えたあーしになんて待遇ッスか」

「温もりに飢えてるならメィリィかベアトリスにくっついてろよ。どっちも子どもだから体温が高い……ベアトリス、四百歳なのにだいぶあったかいな」

先ほど判明した衝撃的事実と、すでに何度も抱きしめて確認した事実とを照らし合わせ、スバルはベアトリスの幼女力の高さに震撼する。

結論、何年生きていても幼女は幼女。

「ふーんだ。そんな薄情なお師様には、せっかくの報告もしてあげないッス。教え子のストライキッス。経営者は労働者の意見に耳を傾けろーッス」

「ああ、もう、わかったわかった。待遇改善については前向きに善処するから、報告を聞かせろ。何があったんだ?」

「ホントに善処してくれるか怪しいもんッス。でもでも、あーしは素直系の可愛い教え子なんで答えるッス! ――レイドの本が見つかったッスよ」

「……は?」

ぴょんと、三つ編みと肩を跳ねさせて、シャウラが笑顔でそう言った。

その言葉の唐突感に、スバルは目を丸くする。ユリウスも、同様に目を見張った。

「シャウラ女史、今、なんと?」

「だーかーらー、レイドの本が見つかったって言ったッス。あんなクズの名前がついてる本なんて、とっとと焼いた方がいいとあーしは思うッスよ。お師様もでしょ?」

「は、は、は……」

「ははは? お師様、高笑いッスか?」

腰を折り、下からスバルを覗き込んでくるシャウラ。その彼女の純朴で、何の含みもない黒瞳を見つめ返し、スバルは口を開いた。

怒鳴る。

「――早く言えよ!!」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「あ! スバル、見て! レイドの本が見つかったの!」

と、階段からひょっこりと顔を覗かせたスバルに気付いて、パッと破顔したエミリアが銀鈴の声音でそう言い放った。

喜ぶ彼女が手で示すのは、ラムが抱える分厚い本だ。どうやら、それがレイドの『死者の書』であるらしい。ずいぶん、早く見つかったものだ。

見渡す限り、膨大な蔵書の置かれた書庫――いつの時代からあるのかわからないが、これがこの世界の全ての死者を記録しているなら、比喩ではなく、蔵書は星の数ほどもあるように感じられる。

「そんな中から、よく目的の本が見っけられたね。俺がユリウスのカウンセリング……セラピー? アロマテラピー? そんなことしてる間に」

「かうんせりんぐ……? は、よくわからないけど、ふふふ、すごいでしょ。でも、見つけたのは私じゃないの」

胸を張るエミリアが、功績は自分のものではないと仰せだ。

それがどういう意味なのか、続く彼女の行動ですぐにわかるようになる。エミリアはそっと、自分の腰に抱き着いている濃い青髪の少女を押し出すと、

「見つけてくれたのはメィリィよ。お手柄でしょ?」

「お手柄ってきょうび聞かねぇな……ってのは置いといて、メィリィが見つけてくれたのか! そりゃ確かに大手柄だ! よくやってくれたな」

と、エミリアの言葉を受け、スバルも思わぬ功労者を称賛する。

エミリアの細い腰に腕を回し、彼女に頭を撫でられていたメィリィは、そのスバルの言葉に恥ずかしげに目を逸らして、

「べ、別にい。ただ、目についた本だったから、たまたま言ってみただけよお。ちょっとだけ早く見つかっただけで、大したことじゃないと思うわあ」

「馬鹿言えよ。ちゃんと自分がやってやったことは自慢げにしていいの。偉いぞ、メィリィ。さっそく、俺を突き飛ばそうとしたマイナスをゼロに戻したな!」

「こんな簡単に取り戻せちゃうのお!?」

目を剥いて驚くメィリィ、その頭をスバルは無遠慮にわしわしと撫でる。「髪が乱れるわあ!」とメィリィには不評だったが、スバルは頬を緩めた。

「いいんだよ。未遂だったし、大きい手柄で埋め合わせたってことにしよう」

「――――」

「それで、レイドの本だけど……まだ誰も見てないんだよな?」

笑いかけたスバルに、メィリィは何事か言いたげにして、しかし口を噤んだ。

そんなメィリィの躊躇いを視界の端に入れながら、スバルはひとまず、話題を発見された本の方へと向ける。

ラムが抱える一冊――背表紙に描かれた紋様、それはスバルには読めない文字だ。

ただ一見して、本自体からレイドを感じるような異様な感覚はない。

「当人がどれだけ型破りでも、それを記録した本まで歌舞いてるってことはねぇのか」

「装丁が無意味にごてごてしていたり、題字の自己主張が激しかったりすればわかりやすかったでしょうね。その分、メィリィが見つけてくれて助かったわ」

「ほら、見ろ、メィリィ! ラムまでお前のこと褒めてるぞ! あの、ラムが! このラムが! やっぱり喜んでいい……ぐぇっ」

「黙りなさい」

脇腹を指で抉られ、スバルはその場で悶絶する。そうしてスバルを黙らせたラムは、腕の中の本を軽く揺すり、

「バルスのことがあるもの。うっかり早まった真似をして、バルスのように記憶が抜け落ちたら大変だわ。だから、誰にも見せていないわよ」

「ま、まだ、俺の記憶がすっぽ抜けたのが本のせいって確定したわけじゃ……」

「ハッ!」

自分でも説得力のない発言が、ラムに鼻で笑い飛ばされた。

実際、記憶喪失と『死者の書』が無関係の可能性はほぼあるまい。目的の本が見つかっても、それをどう扱うかで揉めるのは必然の流れだった。

「で、無事に本は見つかったのよ。あとは、どうやって使うか、かしら」

その、スバルと同じ思考の流れを辿り、ベアトリスがそう切り出した。

彼女の言葉を受け、本が見つかった喜びを上塗りする緊張が書庫の全員に圧し掛かる。扱いを誤れば、記憶が飛びかねない一冊だ。そんなもの、正体不明の怪しい薬を飲めと言われたのと変わらない。抵抗感があって当然である。

「いくつか、推測できる危険性について話そうか」

「推測できる危険性……そんなのあるのか、エキドナ?」

「起きた事象と、断片的な情報からの推測でしかないけれどね」

そう言って、肩をすくめるエキドナが手を持ち上げる。

彼女はその手の中、人差し指を立てると、

「まず、『死者の書』の危険性……それはわかりやすく、ナツキくんの現状が示す通り、自身の記憶をなくす可能性がある。どうやら、ナツキくんの話だと、こぼれ落ちる記憶は断片的……この場合、残る記憶の方が断片的といった方が正確かな?」

こぼれ落ちた量と残った量、圧倒的に前者の方が多いのだ。エキドナの言葉が正しい。

しかし、ここでわずかに事実とズレるのは、スバルが記憶の喪失と残留を『死に戻り』のことを隠すためのカモフラージュに使っていることだ。

実際、本当の意味で記憶を喪失した最初の回、スバルは全ての記憶を――異世界にきてからの、と但し書きがつくが、それを喪失していた。

このことから、なくなる記憶に手心は加えられないものと考えた方がいい。まだ、自己をなくしていなかった分だけ、スバルの記憶喪失はマシな事例だ。

エピソード記憶の欠落だけでなく、自分自身さえもなくしていたなら。

そう考えると、ゾッとする。

――同時に、何故、異世界ではなく、元の世界の記憶はなくなっていないのかと、そんな疑問がスバルの内側に芽生えもするが。

「記憶がなくなった理由だが、これも憶測が可能だ。第一に、『死者の書』を読むことの代償として記憶が失われる。これは一度、本を読んだナツキくんと、同じく本を読んだユリウスとの症例の違いから考えづらい」

「……あまり考えたくないけど、少しの記憶を失っている可能性はあるのよ。読書量と失われる記憶の量が比例するなら、その推論も成り立つかしら」

「同感だ。つまり、私とスバルの事情が違っているのは、読んだ本の数の違い……メィリィ嬢の目撃した、昨夜のスバルの行動と符合することになる」

「――――」

エキドナの推論にベアトリスが反論し、それをユリウスが肯定する。

賢いメンバーの会話を慎重に拾いながら、スバルはその推論に納得の頷きを返した。

「つまり、読んだ本の量が、記憶の喪失と関係するんじゃないかって?」

「そう考えることもできる、という話だよ。この推論を肯定する場合、レイドの『死者の書』に目を通すべきは、むしろ一度も『死者の書』を読んでいない私たちだ。すでに読んだナツキくんとユリウスは、危険かもしれない」

「――――」

経験者が読むべきという意見と、未経験者が読むべきという意見が相反する。

どちらの考え方にも理があり、どちらが間違っているとも考えにくい。ただ、そこで気になってくるのが――、

「じゃあ、一回記憶がなくなってる俺の場合はどうなる? 記憶の喪失条件が『死者の書』の情報の蓄積なら、俺はリセットされてる? されてない?」

「それは由々しき問題ね。もう一度、バルスの記憶が抜けて、同じ説明をしなくちゃならないなんて……考えただけでもゾッとするわ」

「俺もゾッとするけど、言い方!」

「ん……それ、私もすごーく心配。またスバルに色んなこと忘れられるの、嫌だもの」

スバルの抱く懸念を、エミリアとラムがそれぞれの方角から肯定する。

実際のところ、わからず終いだ。多く読んだ人間が消えるのか、それとも少ない人間の方が危険なのか、それはわからない。

表立って言えないが、スバルには前回のループでメィリィの『死者の書』を読んだ記憶もあるのだ。あれは、今回も読んだ一冊にカウントされているのだろうか。

「……なあに? わたしなら、罪滅ぼしに読ませてもいいんじゃないかって思ってる目つきなのお? あいたっ」

「んなわけねぇだろ。馬鹿なこと言ってると、ぶったぞ」

「虐待だわあ。捕虜への待遇が、お屋敷の頃よりひどいじゃないのお」

自分への視線を受けて、笑えない冗談を言ったメィリィをスバルが叱る。メィリィはそのことに頬を膨らませ、エミリアとシャウラの手を掴んで二人の後ろに隠れた。

何とも現金なことだが、子どもはあのぐらいの方が可愛げがあっていい。スバルはメィリィの態度に苦笑しつつ、エキドナへと振り返った。

「で、他に考えはあるのか?」

「そうだね。一冊分、ユリウスより余裕のある未経験者の私たちが読むか、経験者であるユリウスが読むか、あるいは一度溢れた可能性のあるナツキくんが読むか……」

「すげぇ手前勝手な発言をしていいか? ――読むのは、俺が一番マシだと思う」

「スバル……」

候補を上げるエキドナの前で、そう言ったスバルの手をベアトリスが握る。不安、よりは心配の色が濃い少女の眼差しに、スバルはウィンクした。

「悪ふざけしてる場合じゃないのよ。スバルは、自分の記憶を……」

「いや、もちろん、記憶はなくしたくねぇよ。でも、リスクマネジメント的にはこの判断が適切だろ。どう考えても、記憶がなくなった結果、みんなを危険な状態に追い込む可能性が低いのは俺だ。俺、この中で一番弱いし」

いや、さすがにメィリィより弱いことはないと言いたいところだが、他の面子の誰一人にも勝てないのは周知の事実だ。

取り押さえるのも容易く、すでに一度、記憶をなくしているので対処法も容易い。

問題は、スバルにも四周分の、なくしてはならない記憶が累積していること。

だから――、

「忘れるつもりで挑むわけじゃねぇよ。でも、俺たちはチームだ。みんながみんな、全員のために何かしらの役割を負う必要がある」

「――――」

「ユリウスが戦う担当、エキドナが知識人担当、ラムが毒舌担当で、メィリィが可愛い担当で、ベアトリスが可愛い担当、エミリアちゃんが美少女ヒロイン担当で、シャウラがグラビアシーン担当って考えると、ここは俺が担当すべきだろ」

「なんだか、役に立たない役職が多すぎた気がするけど……」

「そんなことねッス! シーンが暗転するときとか、お色気シーンは重要ッス! あーし、お師様と芸術のためなら脱ぐッス!」

「いや、それ以上脱がれると俺は引くから頑張らなくていいよ」

「梯子外されたッス!」

それが、スバル流の安心させる言い回しだと、この場のメンバーはわかってくれている。それに甘えるスバルの言動に、最初にため息をつくのは手を握るベアトリスだ。

彼女は深々と息を吐いて、じと目でスバルを見つめると、

「もう、こんな風に頑なになったらスバルは梃子でも動かないかしら。そういうところ、記憶がなくなっても変わっちゃいないのよ。メィリィのことでも身に沁みたかしら」

「へへ、でも、そんな俺が好きなんだろ? 照れる」

「調子に乗るんじゃないのよ!」

ビシバシと、顔を赤くしたベアトリスに腰のあたりを引っ叩かれる。

ただ、彼女の言葉に否定のニュアンスはない。そしてそれは、ベアトリス以外の面々も同じことのようで。

「ラムとの約束を忘れたらすり潰すわよ」

「今、いい感じのモノローグしてたタイミングで何を!?」

「ナニを、かしらね」

ふん、と鼻を鳴らして、ラムは自分の腕に抱いていた本をスバルへ押し付ける。

ずっしりと、重たい本の感触を腕に味わい、スバルは苦笑した。

「無茶しないでって言っても、スバルは無茶しちゃうんだもんね。……そういうところ、すごーくズルいって思うの。私、いつも心配してる」

「それについちゃ、申し訳ねぇとしか言いようがない。でも、エミリアちゃんが心配してくれてるのと同じぐらい、俺も君が心配……なんだと思う。おこがましいかな?」

「スバルがそんな風に思ってくれることは嬉しいの。だから、私はすごーく複雑。絶対戻ってきてね……って、約束したら、スバルは破るから約束しないけど」

「ここまで信用のない昨日までの俺に、逆にドキドキするね。何しでかしたんだよ」

エミリアの嬉しい言葉に肩をすくめ、スバルは周囲に「なぁ?」と聞く。すると、シャウラとメィリィ以外の面子が顔を背けた。

同じ陣営のベアトリスやラムはともかく、ユリウスやエキドナにまで、スバルの約束破りは浸透しているらしい。深刻な常習犯だ。

ともあれ――、

「俺が読む、ってことで異論はないよな?」

「……結局、どんな推論も邪推の域を出ない。できるなら、この場の全員にとって一番危険な出目の少ない選択肢を取りたかったが」

本を軽く持ち上げたスバルに、エキドナが申し訳なさそうに眉を下げる。

その言葉が真実で、彼女が全員に配慮しようとしてくれたことは疑いようがない。だからスバルは素直に、彼女に「気に病むなよ」と言ってやれる。

「じゃ、ひとまず、俺がかましてくるとするわ。もし、俺の記憶が吹っ飛んだ場合、すぐに氷漬けにして、懇々と説教してやってくれ」

「そんな乱暴な真似、誰もしやしないのよ……」

「わかってるよ。お前は優しいから」

ぽんぽんと、心配げなベアトリスの頭を撫でて、スバルはその広いおでこを押した。ベアトリスが不満げに頬を膨らませ、後ろへ一歩下がる。

そうして皆の視線を集めながら、スバルはその場にどっかりと腰を下ろすと、胡坐を掻いて深々と息を吐いた。

――膝の上、レイド・アストレアの『死者の書』がある。

「――――」

意識すれば、確かな禍々しさを本に感じる。

メィリィの、彼女の『死者の書』を読もうとしたときにも似たような感覚はあったが、この本に感じる威圧感はそれを上回る。やはり、誰の書を手に取ったかで、受け手の気分も変わるものなのか。――いったい、どんな人生を読まされるのやら。

そして、スバルの記憶は、それに耐えられるのか。

「――――」

本の表紙に手をかけ、スバルは一度だけ、自分を見守るみんなの方に目を向けた。

ベアトリスが、メィリィが、ラムが、エキドナが、ユリウスが、シャウラが、見ている。

そして――、

「――スバル」

「じゃ、いってくる。帰りは遅くなるかもしれないから、先にご飯食べてていいよ」

「……バカ」

そんな、エミリアの微笑みに見送られ、スバルは『死者の書』の表紙をめくった。

瞬間、書に記された文字が浮き上がり、眼球からスバルの脳へと情報を叩き込んでくるような錯覚に見舞われる。そうして、意識は刹那の間に、書へ取り込まれ――、

――意識が、書庫から闇へと、切り離された。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――メィリィの『死者の書』を読んだときの感覚は、かなり曖昧になっている。

目にした光景、彼女が辿ってきた人生の、その軌跡はそれなりに鮮明だ。

だが、実際にその光景を見ている間の自分の記憶は、有体に言えば、『死者の書』のタイトルの人物と一つになり、その主観的な思考、情景を追体験する羽目になる。

早い話、『死者の書』の内容を辿る旅路は、相手との同化だ。

あの瞬間、書の内容をなぞるナツキ・スバルは『メイリイ・ポートルート』だった。

だからこそ、スバルの意識の端には常に『わたし』として、メィリィの影を背負った奇妙な自意識が付きまとうことになったと考えられる。

それが『死者の書』の効力であるなら、スバルがこの瞬間、目にするのはレイド・アストレアの人生であり、理解し難い思考形態にある彼の主観世界のはずだ。

彼が何を考え、何を好み、何を嫌い、何を愛し、何を憎み、何を為すのか。

レイド・アストレアの哲学と一つになり、その人生を見せつけられるはずだった。

故に、スバルはすぐに異変に気付く。

――今、自分がいる場所は、明らかにその、レイドの過去ではなかった。

「……あ?」

白い、白い場所に立っていた。

周囲、だだっ広い、果ての見えない白い虚実の空間が広がっていて、スバルは自分がどこにいるのかわからず、途方に暮れる。

手を見る。足を見る。首を巡らせれば、胴体も、腰もあった。

つまり、スバルの体があるのだ。その時点で、メィリィの『死者の書』で起きた現象とは噛み合っていない。合致しない、不自然な状況へ放り込まれた。

見たところ、スバルの服装は『死者の書』を読もうと決めたときと同じだ。

それは、スバルの精神が、『現状』をこの姿だと認識した結果なのか、あるいはそれ以外の意思、書の精霊のようなものの意思が働いて、この姿のスバルを再現したのか。

まさか、書を読んだ瞬間、スバルが肉体ごと取り込まれたなんてことが起きたとは思いたくないが――、

「――あらら? お兄さんったら、またきちゃったの?」

「――っ」

ふっと、スバルは自分のものではない、第三者の声を聞いて肩を跳ねさせる。

声は背後から、思わずスバルは前へ飛び込み前転して、ぐるっと後ろを警戒した。そのスバルの発作的な行動に、後ろの人物は目を丸くしている。

「――お前は」

その相手を目にして、スバルは戸惑いと困惑を露わに呟いた。

それは、全く想定外の、スバルの想像もしていなかった、見知らぬ誰かとの遭遇だ。

そこに立っていたのは、スバルの見たことのない少女だった。

色素の薄い、透き通る金糸のような美しい髪を長く、本当に長く伸ばしている。それは白い床の上に広がり、立ち尽くす少女の足下を金色の海のように埋め尽くす。

大きく丸い青の瞳と、透き通る陶磁器のような白い手足。一方、体には粗末な薄布を継ぎ合わせたような不格好な服を纏い、その美麗な印象を損なわせている。

「――――」

見たことのない、少女だ。そのはずだ。

だが、スバルはそんな少女の姿に目を細め、手の甲で瞼を乱暴にこする。まるで、霞む視界を取り戻すような仕草だが、見える彼女の姿は変わらない。

改めて見ても、知らない少女。――微かに、記憶が疼くような気がしたが。

「少しは落ち着いた、お兄さん?」

「ここは……いや、お前は? どっちから聞けばいい?」

「欲張りだなァ、お兄さん。でも、どっちも聞きたいって素直な気持ちを吐き出すところは嫌いじゃないよ。私たちは、欲張りな人が大好きだからサ」

そう言って、少女は困惑するスバルに対して、その唇を横に裂いて嗤った。

そう、嗤ったと、そう表現する以外にない笑顔だった。

年齢は十三、四歳、それにしても少し幼い印象のある少女。

その整った容姿も相まって、間違いなく、笑顔が似合う少女であることは確かなのに。

スバルの目には彼女の笑顔が、禍々しく、見える。

まるで、その少女の魂が、多くの命を蔑ろにしてきたと、本能が察するように。

そうして戦慄するスバルの前で、彼女は告げる。

「ここは、寂しく白い、魂の終着地点。オド・ラグナの揺り籠。――記憶の回廊」

「記憶の、回廊……?」

「そうそう、記憶の回廊。そして――」

聞き覚えのない単語に、スバルは目を見張る。

そのスバルの反応に満足げにしながら、少女は、言った。

少女の形をした、悪意が、嗤いながら、言った。

「――あたしたちは、魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブ」

「――――」

「どうせまた、短い間だけど、よろしくね、お兄さん」

第六章60 『ひとつ分の陽だまり』

――『記憶の回廊』と『ルイ・アルネブ』。

「――――」

そう、こちらの問いかけに答えた金髪の少女、ルイの前でスバルは沈黙する。

予想と違った白い空間で、予想もしていなかった少女との邂逅。そして、その少女はあろうことか、訳知り顔で色々と話してくれる雰囲気だが――、

「……そもそも、魔女教とか『暴食』とか、タイザイシキョーってなんじゃらほい」

「あはァっ」

腕を組み、首を傾げたスバルの言葉にルイが口に手を当てて破顔する。

その瞬間だけを切り取れば、幻想的な白亜の光景の中に佇む少女といった名画の一枚になりそうなロケーションだが、スバルの本能は先ほどからうるさく鳴りっ放しだ。

平穏な現代日本で育った結果、あまり役に立たない可能性の高いスバルの生存本能。それがこうまで騒ぐのだから、この少女の異質な存在感は言うまでもない。

それと、これは想定外の事態に見舞われた結果なので、半ば仕方ないことではあるのだが――この訳知り顔の存在に対して、スバルの有する知識がまるで足らない。

今の、魔女教だの大罪司教だの、何ならオドなんちゃらや記憶の回廊にしてもそうだ。もしかすると、こちらの世界では一般的な知識なのかもしれないが、生憎とスバルにはそうした一般常識の持ち合わせがない。

よって、発展的な質問を投げかけることも難しく――、

「――魔女教ってのはサ、早い話、この世界の嫌われ者の集まりだよ」

「お?」

「さすがのお兄さんも、『嫉妬の魔女』って名前ぐらいは聞いたんじゃないの? 魔女教ってのは、その魔女様と縁が深くて……まァ、信者みたいなもんだと思えばいいよ」

「……じゃあ、さっきのは、大罪司教ってことか」

大罪と司教、なかなか組み合わせとして相反するものの雰囲気が強いが、スバルのセンス的にはわりとしっくりくるネーミングだ。

なにせ、それと聞けば一発で、

「悪党の名前だってわかる」

「やだな、やだね、やだよ、やだから、やだってば、やだってのにさァ」

嫌々と首を横に振りつつ、ルイがスバルの視線に自分の細い体を抱く。ただし、その口元から笑みが消える様子はなく、拒んでいるのも形だけ。

本心の見えない少女だ。――否、あやふやで、掴み所がないというべきか。

「そんな言葉で、いたいけな女の子をイジメないでよ、お兄さん。私たちだって傷付くんだよ? 人一倍、繊細で傷付きやすい心の持ち主なんだからサ」

「説得力がねぇよ。それと、その一人称はキャラ付けのつもりか? それとも、一人軍隊みたいなカッコいいアピールかよ。私たちだのあたしたちだの、安定しねぇけど」

「あァ……気にしなくていいよ。ちょっと、自我が多すぎるもんで、どれが主体になるかふわふわしてるだけなんだ。もう、わりと飽き飽きしてるんだけどサ」

言いながら、ルイは軽く視線を下に向け、「でも」と言葉を継ぐと、

「仕方ないよね。お兄ちゃんと兄様からの贈り物なんだし、ちゃんともらってあげなきゃ妹として失格だ。兄妹なんだから助け合わないとサ」

「……そりゃ、兄想いで可愛い妹だな。俺は一人っ子だから羨ましいよ」

「そうかい? 今頃、お兄さんにも弟か妹ができてるかもしれないじゃん?」

「怖いこと言わないでくれる!? 想像したくねぇよ!?」

とはいえ、両親は仲のいい夫婦なので、そんなこともわりと冗談でもない。

あの父母ならば、スバルがいなくなったことで次の子どもを――否、ありえない。

「――――」

スバルがいなくなれば、見つかるまで捜し続けるのがスバルの両親だ。

出ていくときに挨拶も言わなかった息子のことを、母はどう思っただろうか。父はその話を聞いて、どう感じただろうか。

どうか、スバルの異世界召喚が、転生であってくれたならと思う。

いなくなった息子を捜し続ける苦痛を両親に味わわせるぐらいなら、スバルは死んで異世界へきたのだと言ってほしい。その方がずっと楽だ。ずっと、救いがある。

だから――、

「――わかるよ、お兄さん」

「――ッ! ふざけるな!」

床を埋める髪を両手で抱えて、スバルを下から覗き込んでくるルイに激昂する。

今の不安を、口に出していたわけではない。ただ、暗い表情を見て、スバルの心情をわかったように言われただけだ。

それがひどく腹立たしくて、スバルはルイを怒鳴りつけ、背中を向けた。

「お前に俺のことがわかるかよ! 勝手なことばっか言いやが……」

「――父さんと、お母さんに申し訳ないんでしょ? お別れの一つも言えないで、なんて親不孝な息子なんだって後悔してる。ううん、後悔はずっとしてた。今も昔も、ね?」

「――――」

そう、わかった風な、理解者気取りの発言を続けながら、ルイがスバルの背中にそっと抱き着いてくる。

小さな、軽い体。スバルは息を詰め、身を硬くした。

少女に寄り添われたことに、ではない。少女の言葉の内容、そのものに。

その理解者気取りの発言は、しかし間違いなく、スバルの心の一端を言い当てていた。

「どうしてわかるのかって? わかるに決まってるじゃない。だって、あたしたちや私たちほど、お兄さんのことわかってる人間なんて一人もいないんだから」

「――触るな!」

「あん」

腕を振り払い、息を荒らげて距離を取るスバルにルイが唇を尖らせる。

なんなのだ、いったい。この世界の得体の知れない女性は、男に対してスキンシップを取ることに躊躇がないのか。馴れ馴れしすぎる。

ともすれば、その体温に弱った心を委ねてしまいそうになるのが怖い。

「お前は、なんなんだよ! 何が言いたいんだ!」

「あたしたちはただ、お兄さんに安心してほしいだけだってば。大丈夫、大丈夫。ちゃァんと、父さんとお母さんへの想いには区切りはついたよ。一方的かもしれなくても、向き合ったつもりでいる。心はすっきりしたって。表向きはね」

「――――」

嗤いながら、ルイが自分の左腕に右手の爪を立てる。がりがりと、見ていて痛々しくなるぐらいの勢いで、彼女はその細く白い腕を傷付け始めた。

その行いに眉を顰めるスバルに、ルイはやけに赤く、長い舌を見せて、

「表向きは、全然健康。心になァんにも抱えてないみたいに見える。上手だね、お兄さん。上手なのが悲しいね、お兄さん」

ひどく、胸の内を掻き毟られるような発言にスバルは唇を曲げた。

これ以上、付き合うべきではないと、鳴り方に変化を付ける本能の警鐘に従う。

「何が、言いたいのかよくわからねぇよ。よくわからねぇけど、傷になるからやめろ。それで、会話のキャッチボールだ。豪速球はなし。山なりのボールを心掛けよう」

「お互いに?」

「お互いに。そう、例えば……さっきの、大罪司教の話の続きをしよう」

これ以上、ルイの調子に乗せられたくなくて、スバルは話題を一つ前に戻した。

タイザイシキョーが大罪司教とわかれば、大罪と『暴食』という単語の関連性には心当たりがある。

「お前が『暴食』なら、似たようなのがあと六人いるんじゃないか?」

「お兄ちゃんと兄様まで含めたら、ちょうど六人かな? ああ、でも、最近二人減ったから今は四人かも。あの二人も、さっさと死ねばいいのにね」

「……その調子だと、仲間意識は低そうだな」

「当たり前じゃん。大罪司教なんて名乗ってるけど、私たちなんてどうせ世界の嫌われ者の集まりなんだし。呼び方が違うだけで、『魔女』と一緒だもん」

そう言って、ルイはその場にぺたんと膝をつく。そうすると、長い金糸の髪の中に自らが沈むような状態になって、何ともおかしな雰囲気だ。

スバルは頭を掻くと、彼女の髪を踏まない位置で腰を下ろし、「魔女?」と首を傾げた。

「魔女と一緒ってのは、やたらとおっかないって言われてるらしい魔女と?」

「さすがに、『嫉妬の魔女』はあたしたちより性質が悪いから一緒にされたくないけどサ。他は一緒。『魔女』も大罪司教も、呼び方が違うだけで同じものだよ。魔女因子に適合したろくでなしが、時代と立場で違う呼ばれ方してるだけだから」

「――――」

「まァ、今のお兄さんは『魔女』も大罪司教も、私たちのことも忘れてるわけだし、どっちでもいいのかもしれないけどサ。わかる、わかるよ、わかるさ、わかるから、わかってるけど、わかってるからこそ、わかっていたいからこそ……」

「うるせぇ」

「あん」

グダグダと、言葉が波のように襲ってくるのをせき止めて、スバルは顎に手を当てる。

何となくだが、重要な話を聞かされている気もする。スバルには一つもピンとこない話ではあるが、何の収穫もなしにエミリアたちの下へ戻る羽目にはならずに済みそうだ。

だが、スバルがここで考え込むのは、そうした手柄の有無が理由ではない。

スバルがここで考え込むのは、ここまでのルイの受け答えへの、もはや避けようのない違和感――否、既知感というべき感覚だった。

その理由として、思い当たることがあるとすれば――、

「お前って、もしかして神様系?」

「神様系って……あ、これかな? なんか、異世界転生みたいな? よくわかんないけど、あたしたちとそれは関係ないよ。確かに、変な気分になる場所かもしれないけど」

くすくすと嗤い、ルイは自分の金髪を尻に敷いたまま、その場でくるりと身を回し、何もない白い世界をふわりとなびく髪で示した。

「ここは、見ての通りの場所。なァんにもなくなる場所で、だから何もない場所。そんな場所に一人でぽつんといるから、ここの守り神みたいに見えるよね」

「オド・ラグナの揺り籠、だっけ? 記憶の回廊って名称も含めて、頭からケツまで何一つ俺の頭じゃわからないけど」

「ん、ん、ん、んー、そうだね。……早い話、ここは魂が濾される場所だよ」

「魂を、濾す?」

聞き慣れない表現に、スバルは疑問符を頭に浮かべる。

濾す、つまりはろ過するといったことと同じ意味合いだが、それを魂に対して用いることはあまり聞かない。

ただ、ルイは「そうそう」と嬉しげに自分の膝を引き寄せて、

「一度使った雑巾は、洗って干したらまた使うでしょ? 魂もおんなじなんだよ。こびりついた汚れを落として、また綺麗な状態で再利用する」

「その、こびりついた汚れってのは……記憶とか、経験って意味か?」

「その方がわかりやすいなら、それでいいんじゃない? お兄さんの好きにしなよ」

べー、と舌を出したルイに頬を歪め、スバルはぐるりと周囲に首を巡らせる。

相変わらず、白い空間――記憶の回廊には、何かしら目新しいものは存在しない。果てのない白い世界の中、ルイが語ったようなわかりやすい物証も皆無だ。

ここが、仮にルイの言った通りの場所だとしたら、人魂が浮いていたり、あるいはろ過された記憶や経験が何らかの形で可視化されていてもいいのではないか。

「そんなわかりやすいもんでもないのサ」

「そのオド・ラグナって神様はずいぶんと意地悪なんだな」

「神様なんて大層な代物じゃないよ、あんなもの。あれには、そんなご立派な思想とかってものはないんだもん。ただの仕組みサ。世界を壊されないための仕組みだよ」

「仕組み……」

「魔女因子も、加護も、『剣聖』も、『魔女』も、全部眼中にないのサ。オド・ラグナにいいところがあるなら、平等で公平で贔屓目なしの無関心ってだけ」

つまらなそうに目を細め、ルイは引き寄せた膝の間に自分の顔を挟む。白い膝小僧で頬を歪めている彼女を横目に、スバルは小さく息を吐いた。

ここまで、ずいぶんと素直に話をしてくれる少女だ。たぶん、嘘らしい嘘もついていないと考えられる。だからこそ、スバルは息を吐いた。

吐いて、吸って、もう一度吐いて、それから、彼女を見る。

そして、問いかけた。

「――俺の、昨日までの記憶を奪ったのは、お前か?」

「そうだよ?」

下手人は呆気なく、スバルの問いかけに答えた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

問いかけをあっさりと肯定され、スバルは目をつむった。

否定は、あまりされない気がしていた。そういうことをする手合いではないと、ほんのわずかな時間の掛け合いで、察せられた気がしていたのだ。

ルイは、知りすぎていた。彼女は深く、スバルの心情を知りすぎていた。

それこそ、今のナツキ・スバルでは知り得ないことまで含めて、ルイ・アルネブは『ナツキ・スバル』について熟知していた。

それは類稀なる観察眼なんて言葉で誤魔化せる範疇ではなく、だからこそスバルは真っ正直に問い質し、その肯定を得た。

不思議と、胸に湧き上がってくるのは怒りではなく、納得だ。

つまり――、

「――昨日の俺も、やっぱりここにきたってことか」

「厳密には、ちょっと来方が違ったけどね。でもまァ、目的は同じだった。結果がほんのりと違っただけ。でも、すごいね。素敵だね。何回で、ここまでこられたの?」

「――――」

「ねえ、答えてよ、お兄さん。私たちは答えてあげたじゃん。――お兄さんは、あたしたちに食べられてから、何回目のお兄さんなの?」

ぞわりと、そのルイの質問にスバルの背筋を悪寒が駆け上がった。

彼女の瞳は、問いかけは、明らかに『死に戻り』の確信を知るものの在り方だ。

いや、当然だ。当然なのだ。

彼女が『ナツキ・スバル』の記憶を奪ったのなら、その記憶を自由に閲覧できるのだとしたら、彼女が『死に戻り』を知っていることには何の不思議もない。

『死に戻り』は、記憶をなくしたスバルだけが有している力ではなく、間違いなく記憶をなくす前から『ナツキ・スバル』が持っていた力だろう。

きっと、『ナツキ・スバル』はこの力を駆使して、多くの難局を乗り切ってきた。その結果がエミリアやベアトリス、仲間たちの信頼、言わばチート=ズルの証だ。

それを咎めるつもりはスバルにはない。チートだろうと反則技だろうと、誰かの命が懸かった場面であれば利用するに躊躇うべきではない。『ナツキ・スバル』の選択は正しい。だから、『ナツキ・スバル』がいない今、スバルがそれをするのだ。

そうして、利用価値を認め、呑み込んだ『死に戻り』の力。

しかし、その覚悟と裏腹に、スバルには奇妙な不安が、懸念が、胸の内にあった。

その避け難い恐怖を、タブーを、ルイ・アルネブは侵している。

それは――、

「――知られちゃダメってこと? そのことなら、もう遅いよ、お兄さん。だって、私たちがお兄さんと会ったのって、もう昨日のことなんでしょ?」

「――――」

「知られちゃダメの『ルール』なら、とっくの昔に破ってる。でも、記憶の回廊の出来事は簡単には外に漏れない。だから、怖い怖い『魔女』が動かないの」

すっと、地面に手足をついたまま、ルイが胡坐を掻くスバルに顔を寄せる。彼女は年齢不相応な妖艶な笑みを浮かべ、ちろちろと赤い舌を覗かせながら、

「ねえ、お兄さん。何回目?」

その、直接脳髄を舌でつつかれるような声音に、スバルは痺れる疼痛を味わう。

それから、微かに舌と喉を震わせると、

「……五回目、だ」

「――っ! すごい、すごいね、すごいよ、すごいわ、すごいじゃない、すごいんだってば、すごいからこそ、すごいって憧れるからこそ……暴飲ッ! 暴食ッ!」

「ぐぁっ!」

「お腹がはち切れるくらい、お兄さんのことがたまらなく味わいたいわ! あたしたちの経験からすると、食欲と性欲って似てると思うの。性欲って、つまり愛でしょ? つまり私たちは、お兄さんのことを――」

スバルを突き飛ばし、馬乗りになったルイが興奮した顔で熱い息を吐きかけてくる。上気した頬、うっとりとした瞳で、ルイは躊躇わずスバルの首に舌を這わせた。

そのまま、彼女が続けようとした言葉、それが如何なるものか想像がついて――、

『――愛してる』。

と、前回のループで、絶望的な状況下で『死』を望んだスバルに、幾度も投げかけられた愛の言葉が思い出され、心臓が爆ぜた。

「――さ、わるな、この耳年増がっ!」

「――うひ」

目を見開いて、スバルは圧し掛かる少女の襟首を掴むと、そのまま乱暴に白い床へと強引に押し付けた。体勢を入れ替え、今度はスバルが彼女に馬乗りになる。

細い、軽い体だ。床に広がる長い金髪、まるで金色のベッドに寝そべる彼女を押し倒したような姿勢で、スバルはその首を手で押さえ、歯を剥いた。

「油断、したのか? 残念だったな! この体勢なら、俺の方が圧倒的に有利だ! このまま首を絞められたくなかったら、俺の記憶を……」

「返せって? 返さなかったら首を絞めるの? 私たちの、か弱い女の子の首を?」

首を掴まれ、生殺与奪の権利を握られた状態で、ルイは鼻息の荒いスバルを見つめ、先ほどの興奮がちっとも薄れない目のまま唇を緩めた。

そして、緩めた唇から、呪いのような声色で問いかけてくる。

「そんなこと、お兄さんにできちゃうわけ?」

「――できないと、思うのか?」

「思うっていうか、知ってるんだよね。だってほら、今のあたしたちって、お兄さんよりお兄さんのこと知ってるぐらいだし」

言いながら、ルイは両手の人差し指で自分の頬をつついて、挑発するように小首を傾げる。そんな彼女の態度に息を詰め、スバルはルイの首を掴む右手を見下ろした。

少し、スバルの本気を見せてやるために、腕に力を込めてやればいい。

本気であることを証明すれば、ルイも考えを改めるはずだ。

殺せるか、と言われれば、確かにそれは難しい。困難だ。

介錯と、そんな大義名分があっても、スバルは仲間の頭に石を振り下ろせなかった。

だから敵とわかっていても、目の前の、少女の首を、強く絞めることは。

いや、絞めるぐらいはできる。必要なことだ。

エミリアを、ベアトリスを、ラムを、メィリィを、ユリウスを、エキドナを、シャウラを、パトラッシュを、みんなのことを思い浮かべて、そして。

そして――、

「――腕から、力が抜けちゃったね、お兄さん」

「――――」

「ホントに抵抗するつもりはなかったんだよ? だって、ここじゃ私たちって見たままか弱い女の子でしかないから。お兄ちゃんや兄様と違って、あたしたちは食べた人の姿にならないと、力が出せないんだよね」

えい、とルイが自分の頬をつついていた指で、首を掴んでいたスバルの右手をつつく。その弱々しい力で、スバルの掌は呆気なく彼女の首を外れた。

「クソ……っ!」

「そう落ち込まないでよ、お兄さん。上出来だよ、上出来。だって正直……私たちは、お兄さんがここに戻ってこれるなんて思ってなかったぐらいだもん」

「そんなこと、慰めになると思ってんのか?」

押し倒した体勢は継続したまま、地面に寝そべるルイはすでに峠は越した顔だ。その顔を崩して、自分の要求を通すための言葉を捜すが、的確なものが見つからない。

だから結局、負け惜しみのような発言になってしまうスバルを見て、ルイは「あはは」と水槽の中を泳ぐ魚を観察したみたいな声を上げると、

「でもまァ、よかったじゃない。『ナツキ・スバル』の記憶なんか取り戻したら、今のお兄さんは死んじゃうわけだし、自殺なんて馬鹿な真似しないで済んでサ」

「……あ?」

「あれ、何その変な反応。まさか気付いてなかったの? 記憶が戻ったら、今の自分に上書きされて、その存在は消滅する。……これって、死んだのと同じだよね?」

――その、ルイの当然の謎かけの答えを聞くような態度に、スバルは硬直する。

死ぬ。消えてなくなる。そう、はっきりと言われて。

『ナツキ・スバル』の記憶が戻った暁には、今ここにあるスバルの意識は、記憶は、上書きされて消えてなくなるのだと、言われて。

それが『死』ではないかと言われれば、それは――、

「――今、『ナツキ・スバル』は死んでるよね。どこにもいないんだもん。でも、『ナツキ・スバル』が戻ってきたら、今度はお兄さんが死ぬよね。どこにもいけないんだもん」

「――――」

「あのさァ、そこまでして『ナツキ・スバル』って取り戻す価値があるのかい? お兄さんだって、同じことができるはずだろ? お兄さんだって、同じように周りにいる人たちのことを好きになったはずじゃない。周りの人たちだって、おんなじようにお兄さんのことを好きになってくれる。――それの、何が悪いわけ?」

「何が……」

悪いのか、と言われれば、きっと何も悪くなどない。

『ナツキ・スバル』にも、ナツキ・スバルにも、きっと悪いことなど何もない。

スバルは、欠点の多い人間だ。自分で自分が嫌になるぐらい、欠点だらけだ。この世で一番嫌いな人間が誰かと聞かれれば、迷うことなく自分のことだと答えられる。

そのぐらい、どうしようもなく、足りないナツキ・スバル。

だが、事この問題に関しては、スバルに落ち度は何もない。

――あるのは、ひとつ分の陽だまりしかないという、どうしようもない事実だけ。

「俺は、エミリアちゃんたちに……」

『ナツキ・スバル』を、返してあげたかった。

だから、記憶を取り戻すチャンスがあれば、それを手に取ることを躊躇ったりしないのだと、そんな風に自分の中で覚悟を整えていたつもりだった。

しかし、完全に、自分の存在が消えるのは、目を背けていた。

都合のいいことを言えば、二つの記憶が混ざったり、『ナツキ・スバル』のどこかに今のスバルの存在が残ったり、そういうことがあるのではと、何らかのいい形に決着してくれるのではないかと、そんな奇跡が起きることを期待していたのだ。

そんな、スバルの不確かな期待を――、

「どうなんだろね? 記憶、戻った人のこと見たことないからわっかんないなァ」

ルイは、スバルの葛藤を嘲笑うように歯を見せて、猫が鼠を嬲る目つきでいる。

この記憶を奪い取った下手人は、無責任にも、その後のことはわからないとのたまった。これは嘘ではなく、きっと事実だ。

ルイ・アルネブは、他者から奪ったものを元の相手に返すようなことはしない。

だから本当に、記憶が戻った結果、ナツキ・スバルがどうなるかなど知りもしない。

「お兄さん、せっかく生まれた命なんだから、謳歌しなきゃダメだよ」

そんな、無責任な簒奪者が、すぐ近くにあるスバルの顔を見つめて続ける。

「あたしたちが『ナツキ・スバル』の記憶を食べた結果、お兄さんがここにいる。つまり私たちって、お兄さんの生みの親みたいなもんじゃない。その親の目の前で、自分が死ぬ選択肢を選ぼうとするなんて、親不孝ってヤツじゃないの、お兄さん」

「そんな、馬鹿げた話が……っ」

「――記憶が人を形作るんだよ、お兄さん」

「――――」

低く、冷たく、ルイが表情を消して、その一言だけは真剣な声色で言った。

思わず、その響きの鋭さにスバルは息を呑み、黙り込む。

同時に、その言葉を聞いたのは初めてではないと、そんな風にも感じた。その響きは、言葉は、あるいは確か、二度目の『死』を迎える直前にも――、

「今のお兄さんには、今のお兄さんが作った関係がある。新しく、前向きに生き直してみたらいいじゃない。それも一つの手だと思うよ、あたしたちは」

「――――」

「それに、こんなこと言ったらなんだけど……『ナツキ・スバル』って、あんまり理想的な男性像って感じじゃないよ?」

片目を閉じて、ルイが言いづらそうな表情でスバルの心情を殴ってくる。

彼女はなおも、スバルに馬乗りになられたまま、自分の胸の前で両手を組むと、夢見る乙女のような瞳でこちらの黒瞳を見据え――、

「可哀想なエミリア! その生まれがかつての魔女と同じというだけで、誰からも忌避される哀れな娘! ああ、それでも一緒にいてあげる自分はなんて優しいんだろう!」

「な……」

「弱く脆いベアトリス! 頼れるものもなく、たった一人で孤独の時間を過ごしてきた寂しがりな女の子! 暗く危うい道筋を、自分が手を引いてあげなくちゃ!」

驚くスバルの前で、ルイが朗々と続けるのは、スバルの無事を祈り、送り出してくれた二人の少女の名前と、ひどく歪な彼女たちへの心象だ。

それがいったい誰の心象で、ルイが何を言いたいのか、スバルにもわかる。

わかるが、それは。

「献身的で無償の愛を捧げようとするレム! 愚かで美しくて、なんて清らか。きっと彼女は自分以外の、誰かのために必死になることで生きる実感を得る不完全な存在。これこそ、俺という存在が導いてやらなきゃならない!」

「何の……何のつもりだ!?」

「『ナツキ・スバル』が思ってたことの代弁だってば。欲しいのは優越感。いつだって、誰かのためだなんて思っちゃいないサ。都合のいい連中だけ周りにはべらして、手を差し伸べる快感に酔ってる。懐かない子犬には餌もやらない。遠ざける」

「――――」

「そんな『ナツキ・スバル』に、本当に今の自分を譲り渡すつもりなの?」

再度、重ねられる問いかけ。

それはルイからの、『暴食』からの、ナツキ・スバルへの告解の要求だ。

本心を話せと、ルイはスバルに求めている。

死にたくないと、死にたいのかと、仮に死ぬとして、そんな奴のために死ぬのかと。

――否、スバルが死ぬのは、『ナツキ・スバル』のためではない。

――否、スバルはそもそも、死ぬつもりなどなかった。エミリアたちのために、『ナツキ・スバル』を返してあげたいとは思っても、それと自分の死とは。

――否、だが、本当に『ナツキ・スバル』を信用できるのか。少なくとも、『ナツキ・スバル』はメィリィを殺し、理解できない壁の文字まで刻み込んで。

「――さァ、どうしたいの、お兄さん」

「――っ」

言いながら、ルイがその細い腕でスバルの手を掴み、自分の首にあてがった。

またしても、今度は自ら誘導して、スバルの腕がルイの細い首に当てられる。両腕で力を込めれば、きっと容易く折れる。

できないと、結論付けたばかりだ。

だが、それをしないということは、あるいは『ナツキ・スバル』を殺す選択と、同じことになる。――少なくとも、ルイはそう言っている。

仮に、仮にこの細い首を折ったとして、それで『ナツキ・スバル』が戻ってきて、今のスバルが消えるなら、その行動の結果も、見えなくなるだろうか。

だとしたら、ここでスバルが、なけなしの勇気を振り絞り、行動する意味は。

「さァ」

「――――」

「どう? どうする? どうなの? どうするの? どうするのサ? どうしたいの? どうやりたいの? どうとでもできるよ? どうなっちゃってもいいよ? どうしちゃってもいいからサ? どんな風にしたって許してあげるから――」

嬲るように、嘲るように、呪うように、ルイの言葉が、スバルの鼓膜を打つ。

ルイ・アルネブが、『暴食』が、大罪司教が、細い少女が、憎い存在が、生みの親が。

ナツキ・スバルに、『ナツキ・スバル』をどうするのか、選択を迫る。

「さァ」

さあ。

「――どうしたいの? お兄さん」

第六章61 『――立ちなさい』

――選択が、それも残酷な選択が、ナツキ・スバルを蝕んでいた。

じりじりと、胸の奥で何かが焼け焦げていく音がする。

それが自分の人間性であったり、自分を信じる気持ちであったり、『ナツキ・スバル』への想いであったり、そういう色々な何かが、焼け焦げていく。

少女の首に手をかけ、押し倒した少女に嘲笑われながら、ナツキ・スバルは自分の運命を、『ナツキ・スバル』の運命を、左右する場面に立たされていた。

「――――」

心臓の鼓動、聞こえない。息を荒げているが、たぶん肺は機能していない。これだけ切羽詰まった状況なのに、額には冷や汗一つ浮いていなかった。

それはきっと、この場にあるナツキ・スバルの肉体が、現実のものではないからだ。

本を読んで、肉体ごと転移したのではなく、精神だけが引っ張ってこられた――などと、状況にそぐわない考察をするのも、現実逃避の為せる業といったところか。

そうして、思考を彼方に飛ばすことで、仮初の安寧を得ようとするスバルの心。

しかし、時間も空間も相手も、スバルにそんな逃げ道を許してはくれない。

「さァ、どうするのサ、お兄さん」

組み敷かれる少女が、硬直し、選択に迷うスバルを見上げ、嗜虐的に嗤っている。

彼女はスバルの黒瞳を覗き込みながら、その眼球を舐めるように舌をちらつかせ、

「か弱い女の子を組み敷いて、その細い喉に手をかける。ゾクゾクしてこない? それとも、お兄さんみたいな体質だと、こんな経験はありふれてるのかしら?」

「――っ」

「震えちゃって、かーわいいの。そんなんで、大事な大事な選択ができるの?」

首を傾け、仰向けのルイがスバルの手首にキスをする。そのゾッとする仕草と、彼女の流し目から注がれる熱情、酷薄な言葉がスバルにある光景を想起させる。

それは、スバルが一度目にした、非情の光景。――ただし、見え方は逆。スバルから見たものではなく、スバルと相対していた少女の視界。

自分を押し倒したスバルが、邪悪な面貌をして、首を絞める光景。

今の状況と全く同じように、『ナツキ・スバル』が、メィリィを絞め殺した光景――。

「う」

――それと近似の光景だと気付いた瞬間、スバルの全身が、頬が、強張った。

「――やっぱり、思い当たる節があるんだ?」

「ふざっ! ふざけ……」

「ふざけちゃァいないサ。むしろ、真剣じゃないのはお兄さんの方じゃないの? もっと真剣に、真面目に、本気で、自分のことを愛してあげなよ」

「――――」

「あァ、そうそう。自分を愛して。ほら、愛して。――お兄さんが大切にしたい人たちがそう願ってるみたいに、お兄さんも自分を愛してあげなくちゃ、サ」

軽薄な口調で、それらしい言葉の波が上滑りする。

聞かせる気があるのか、あるいは最初から、他者に共感させるための機能が死んでいるのか。狙っているのか天然なのか、嘲っているのか慰めているのか。

あやふやだ。ルイ・アルネブの在り方は、全てにおいてあやふやだった。

あやふや、あやふやなのだ。

ルイの言葉は、彼女の言葉は、土台がぐらついていて、不安定に水面を揺蕩う木の葉のようなものだ。それら全てが恣意的で、捻じ曲げられたものだと、いっそ割り切ることができてしまえば、この迷いさえも晴れてくれるだろうか。

いや、そもそも、彼女の言葉を前提として考えることが、どれほど危険なことか。

「お前の……言う通りにして、その通りになる、証拠は」

「証拠?」

「俺が、『ナツキ・スバル』を取り戻したら、今いる俺が消えるって証拠は……!」

「ないよ。ないさ。ないって。ないから。ないってば。ないんだけど。ないってのに。ないって話だけど。ないってわけだけどサ。……それ、慰めになるの?」

「――――」

「堂々巡りだよ、お兄さん。私たちだって、知らないことの話はできない。あたしたちや、お兄ちゃん、兄様が死んだら、食べられたものって返ってくるのかしらん。――正直、食べたものを返したことないからわっかんないなァ。だって、食べちゃったんだもん」

あー、とルイが口を開け、やけに鋭い犬歯と赤い舌を見せ、その喉の奥までスバルに見せつけ、何もないことをアピールしてくる。

他人の記憶、他人の中の誰かの記憶、そうしたものを奪い取ることを『食べる』と称しているなら、そこに物理的な痕跡が残るはずはない。

だが、スバルにはひどく、『食べてしまった』という言葉が重く感じられた。

「どうするのサ、お兄さん」

重ねて、ルイがスバルに問いかける。

問答の間、スバルの手はルイの首にかかったままだ。力を込めることも、逆に完全に手を引くことも、できないまま、スバルは自分の存在に問いを投げ続けた。

「ぐ、く……っ」

死ぬことは、怖い。恐ろしい。

だが、それはスバルがここまで、四回味わった『死に戻り』のそれとは異なる恐怖。

今ここでスバルの魂に圧し掛かる命題は、『自己の喪失』を天秤にかけた死だ。

本来、『死』とはそういうもののはずだ。

死ねば、その存在の意識は失われ、やり直す機会など与えられない。

だから、ヘマをしてもやり直す機会があって、それに甘え続けているスバルに文句を言う権利はないのかもしれない。

消えるか、消えないのかの選択肢を持たされ、そんなことに悩める時間があるだけ、贅沢な話なのかもしれない。

でも、自分の命だ。

その火を吹き消すかどうか、自分で選ばなくてはならないと、そんな状況に置かれたスバルの心は、一秒ごとにひび割れていく。

「――――」

この異世界で、スバルはすでに四回死んでいる。いずれも、短時間の出来事だ。

見知らぬ世界へ投げ込まれ、出会ったことのなかった人たちと出会い、その直後に見舞われる避け難い事態がスバルを死に追いやった。

意識のある状態で過ごした時間は、合計したら二日にも満たないだろう。

短い、短い時間だ。――だが、ナツキ・スバルには、この異世界での二日以外にも、元いた世界で過ごした十七年の時間があるのだ。

父がいた。母がいた。友人も、少ないし、友人と呼んでいいか微妙な関係だが、挨拶を返してくれるぐらいの相手はいた。過去を振り返れば、小中学校では仲良くしていた連中だっていたし、近所の住人には顔見知りも多い。

うまく、やれてはいなかった。スバルは、人生が下手くそだった。

だが、うまくいかないなりに、試行錯誤した時間があって、命に関わるほどの場面なんてなかったが、それでもスバルなりの大舞台を足掻いていたつもりだった。

そうした、様々な時間と、記憶の積み重ねを、放棄するのか。

『ナツキ・スバル』が帰ってくれば、それらがあったことは消えない。でも、それらの時間を確かに想っていた、今の自分は消えてなくなる。

ラムと約束を交わし、メィリィを守ると誓い、エキドナの許しを心に刻んで、ユリウスに戦えと叱咤し、ベアトリスを愛おしいと信じて、エミリアを――。

――エミリアを、好きになった、自分が、消えるのか。

「嫌だ……」

その自覚が、この場に存在するスバルの肉体を比喩表現抜きにひび割れさせる。

頬に亀裂が入り、ルイの首にあてがった両腕にも蜘蛛の巣状のひびが入った。痛みはない。亀裂から血が溢れることもない。不思議と、亀裂の奥には闇があった。肉や骨の類ではなく、底知れない、不自然な闇が。

現実の肉体を持ってきたわけではないと、そう推測した通りだ。

ここにあるスバルの体は本物ではない。そして本物ではないから、ダイレクトに今の心情が反映され、スバルの体がひび割れ、砕けていく。

亀裂は広がり、表面が剥がれ落ちていく。

それはきっと、ナツキ・スバルが纏っていた『ナツキ・スバル』という欺瞞の殻だ。

ぽろぽろと、剥がれ落ちていくそれと同時に、虚勢まで剥がれ落ちていって。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ……嫌だぁ……っ」

「そうだよ。当然サ」

嫌々と首を振って、自分に待ち受ける死の恐怖と――否、喪失の恐怖を否定する。

何故、失われなければならない。好きな人を、好きだと、認めたばかりの自分が。

「嫌だ……」

「うんうん。わかる。わかるとも。わかるから。わかるともサ」

「嫌なんだ……っ」

「お兄さんの人生だもの。どうして、それを他人に明け渡さなきゃならないのサ」

「俺は、みんなが……みんなと、もっと……」

みんなと、もっと一緒にいたい。

好きになった。好きになったのだ。たった二日にも満たない時間で、一度ならず彼女らのことを疑い、殺そうと、逃げようと、疑心暗鬼に包まれたのに。

スバルは、彼女らのことを、好きになった。今、彼女らが愛おしい。

彼女らと一緒にいたら、彼女らがスバルのことを大切だと思ってくれるなら、大嫌いな自分のことだって、好きになれるかもしれない。

そう思えた。前向きに、そう思えた。

ずっと後ろ向きだったスバルの人生に、ようやく射し込んだ陽だまりなのに。

どうしてそれを、自ら手放さなくてはならないのだ。

そんなことは――、

「――嫌だ」

「そうだよ。そうなんだ。――じゃァ、どうしたらいいと思う?」

「……俺は、俺のまま」

「そう、お兄さんは、お兄さんのまま。それが正しい。一度は奪い取ったんだ。椅子取りゲームだよ。空いた椅子に、座った奴がキングなのサ」

「――――」

「押しやった相手には、ご退場願わなくちゃ。認めるんだよ。自分の存在を。声高に叫ぶべきなんだよ、自分が本物だって! なァ、そうだろ!」

すぐ真下、息のかかる距離で、爛々と輝く双眸を見開いて、ルイが吠える。

噛みつくような勢いで――否、事実、彼女は自分の首にかかるスバルの手首を齧って、スバルに鮮烈な痛みと共に、戒めを刻み込んでくる。

揺らぐ黒瞳を見据え、ルイ・アルネブが叫んだ。

「認めろ! ――『ナツキ・スバル』は、お兄さんにとって最も身近な他人なんだッ!」

吠え声が、自己を確立しろと訴える。

誰かのために死のうだなどと、そんな馬鹿げたことはやめろと。

何故、誰かが誰かのために、自分を犠牲にする必要がある。

――それも、自分ではない、自分を名乗る別の存在を、自分が二度と会えなくなる、自分が好きな人たちと会わせてやるために。

彼女らと一緒に生きる時間を、尊く得難い日々を、譲り渡してやるために。

そんな馬鹿なことが、あるものか。

「さァ、殺せ! 殺そう! 殺そうよ! 殺すんだ! 殺して! 殺せば! 殺しちゃおう! 殺してやれ! 殺してしまえ! 殺しさえすれば! 殺し尽くしてやれば!」

「『ナツキ・スバル』を……」

「――お兄さんが、この世で唯一の、誰の代用品でもない、ナツキ・スバルだ!」

「――っ」

この世で唯一の、誰の代わりでもない、ナツキ・スバル。

ベアトリスと手を繋ぎ、ラムと軽口を叩き合って、メィリィに膨れ面をさせて、シャウラのあけすけさを呆れながら、エキドナと他愛のない話で微笑を交換し、ユリウスと背中を預け合い、パトラッシュの無償の愛を受け取り、エミリアと生きる、資格を得る。

それを有しているのが、『ナツキ・スバル』であるなら、スバルは、その男を。

「――――」

じわと、込み上げるもので視界がぼやけた。

精神が、肉体へとダイレクトに影響する。心臓の鼓動も、痛む肺の呼吸も、今だったら鮮明に感じることができるに違いない。

だが、今一番強く感じるのは、堪えられない涙だった。

それが、怒りか悲しみか、嫉妬か羨望か、罪悪感か恐怖か。

いったい、何を起因とした激情であったのか、スバルにも全くわからない。わからないことばかりだ。しかし、その涙で霞む視界に、スバルは見る。

「――――」

誰かが、スバルを、ルイを、見下ろしている。

ルイを組み敷いて、その首に手をかけ、涙目になる哀れなスバルを見つめている。

それが誰なのか、スバルには思いつく限り、一人しかいなかった。

「……俺が、怖くなって出てきたのか、『ナツキ・スバル』」

「――――」

ぼやけた人影は何も言わない。

白い床に立って、白い世界を背にして、白く霞んだ姿で、スバルを見ている。

その、慌てて飛び出してきた存在に、スバルは顔をぐしゃぐしゃにして、告げる。

「俺は……俺は、消えたくない。死にたくないんだ。だから、俺は……」

「――――」

「みんなと一緒にいたい。みんなが好きなんだ。だから、俺は……」

「――――」

「だから、俺は……」

言い訳のように、泣き言が重ねられる。

ルイの首に、手をかけたときと同じだ。――自分が失われたくないと、スバルは結論を出してしまった。だから、こうして現れた人影に、それを伝える。

それが、目の前の、きっと、自分と同じ顔をした相手を殺すことでも。

だって、彼は、『ナツキ・スバル』は、最も身近な他人なのだから。

だから、スバルにはその権利があるはずだ。

ナツキ・スバルが、『ナツキ・スバル』を殺して、ひとつ分の陽だまりを――。

「だから、俺は、お前じゃない! お前と俺は……!」

違うものだと、そうはっきり伝え、可能性を断ち切ろうとした。

そう、しようとした、瞬間だった。

「……誰と、話してるの、お兄さん」

呆然と、目を丸くして、話の腰を折られたような顔でルイがそう問いかけてくる。

彼女は首を傾け、スバルと同じ方向を見つめ、その人影を見ようとする。しかし、彼女は訝しむように眉を顰め、その鋭い犬歯を震わせながら、

「――誰も、誰もいないのに、誰と話してるの、お兄さん」

「――――」

カタカタと牙を震わせ、ルイが信じられないような顔でそう呟く。

彼女は嫌々と、それまでの表情を消して、何かに怯えているような顔つきになり、

「ここは、あたしたちの場所……邪魔は入らないはずなのに。この場所で、私たち以外の誰と話して……やめてよ。お兄さんはあたしたちの、私たちの……ッ!」

縋るようなルイの言葉に、しかしスバルの意識は微塵も動かない。

スバルの意識は、今も視界の中、消えない人影に注力されていた。涙でぼやけた視界、揺らぐ人影、その輪郭が少しだけ、はっきりする。

誰なのか、全くわからない、人影。

徐々に輪郭がはっきりしてくるその人影が、スバルには、微笑んでいるように見えて。

頭を振り、強く瞬きをして、その微笑みを、もっとはっきりと見ようと――、

「――どうして、どちらか一つだけを選ぼうとするんですか?」

問いかけが、投げかけられた。

聞いたことのない声で、この場にいないはずの、誰かの声で。

微笑んでいるところを見たことがない――青い髪の少女が、微笑んで立っていて。

その、微笑む少女は、黙り込むスバルへと、微笑んだまま――、

「――立ちなさい!!」

――開口一番。

――彼女は、世界で一番厳しい声で、ナツキ・スバルを怒鳴りつけた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――立ちなさい!!」

声が、ひび割れたナツキ・スバルを殴りつけ、叩きのめし、ぶちのめす。

容赦もなく、躊躇いもなく、怒号がナツキ・スバルを割り砕いて、そのひび割れを加速させていく。――まるで、剥き出しの心へと無造作に爪を立てるように。

「立ちなさい!」

青い髪の少女が、スバルに向かって声を上げる。

スバルを睨みつけて、少女が声高に吠える。吠える。吠えている。

膝をついたまま、少女を組み敷き、呆然とした顔に亀裂を生む、ナツキ・スバルを。

「立ちなさい!!」

繰り返される、怒号。

何度も何度も、それはスバルの心を非情に、手加減抜きで打ちのめす。

何故、そんな言葉をぶつけられなければならない。

痛いのだ。苦しいのだ。辛いのだ。悲しいのだ。心は今にも張り裂けそうだ。

人生で、こんなにもキツイ決断を、心の準備なしに次から次へとぶつけられることなどそうそうない。――そんな苦境を、何故と嘆くことはやめたのだ。

だからせめて、結論を出した。だから、もう、いいじゃないか。

「立ちなさい!」

弱音が、頑なな結論が、喪失に怯える心が、スバルの心を竦ませるのを、目の前の少女は決して良しとしない。断固、拒絶の意思を込め、力強く言葉を重ねる。

決断したのだ。肯定してくれてもいいだろう。せめて、悩む素振りぐらい見せてくれ。いいじゃないか。もう十分悩んで。なのに、彼女は何故、こうもスバルを。

「立ちなさい――!」

割れ砕ける心のままに、決断するスバルを、許してはくれないのだ。

「立ちなさい――!」

まだ、言うのか。

何故なんだ、この声は、少女は。

こんなにも辛いのに、苦しいのに。

「立って……! 立って! 立って! 立ちなさい!」

誰なんだ、この少女は。

思い出のどこにいるんだ、この少女は。

言葉を交わしたこともない。思い出だって、今のスバルの中にはない。

誰なのか、どんな相手か、上辺しか知らない相手だ。

踏みとどまる理由になんかなり得ない、そんな関係だ。

それなのに、どうして、どうしてこの胸はこんなにも熱い。

どうして、胸の奥から、込み上げてくる熱があるのだ。

「立ちなさい、ナツキ・スバル! 立ちなさい! ――レムの英雄!!」

記憶にいない少女の涙声、その声に英雄であれと叫ばれて、心が震える。

そんな馬鹿な話があるものかと、笑いたくなるほど調子よく、スバルの心が震える。

亀裂が、ひび割れが、加速していく。

それは文字通り、ナツキ・スバルに『ナツキ・スバル』の殻を破らせる光景。

だが、その殻の内側に眠るものは、直前のそれと、わずかに変わる。

――否、本当に変わるなら、それは、ここからだ。

立ちなさいと、望まれるままに、怯える心を噛み砕いて、立つ。

「立ち上がれたなら、いってください。いって、救ってきて、全てを」

全てって、なんだ。全てって、なんなのだ。

ぼんやりした言い方すぎる。全てって、いったい何のことなのだ。

「全ては全て。何もかも。全部、全員、自分も、最も身近な他人さえも!」

なんだ、それは。

できるのか、そんなことが。できると本気で思っているのか、この娘は。

こんな、色んなものの足りない、自分さえも救えない、自分に。

スバルが好きになった人たちのために、スバルを大切にしてくれる人たちのために、スバルが大切にしたいと思えた人たちのために、失われたくない人たちとの思い出のために。

たった一つを手放そうとしたスバルにも、できると本気で思っているのか。

「やれますよ。だって」

だって。

だって、なんだ。

力を、答えをくれ。くれるのならば、その言葉で。

願わくば、青い少女の、君の言葉で、俺に――。

「――スバルくんは、レムの英雄なんです」

「――――」

すとんと、何かが胸の奥に落ちた。

黒く澱んでいたそれは、まるで少女の、愛の告白のような響きに浄化されて。――否、愛の告白のような、ではない。あれは、愛の告白だった。

また一つ、『ナツキ・スバル』に居場所を返したくない理由が増えてしまったが。

「――は」

同時に、増えたものはそれだけではない。

少女の言葉に浄化され、黒く澱んだそれが輝きを増して、姿形を変える。

そして、ナツキ・スバルの、一番強い芯を欲するところで脈動を始めるのだ。

「――――」

脈動する。それは何もかもをなくして、全てに置き去りにされて。

それでもなお、求め欲し、全てを繋ぎ止めたいと、この手から何一つ取りこぼしたくないと、自分すら、自分の手で手放したくないのだと。

そう希う、臆病な『強欲』に呼応して、願望を叶える力となって開花する。

――揺蕩う因子が、存在と結び付く。

「こいよ、――コル・レオニス」

スバルの内で、行き場をなくしていた『強欲』の種子が芽吹く。

そうして、確固たるものとして立つ、そんな姿を――。

「――――」

その瞬間を、青い髪の少女の微笑みだけが、祝福していた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――お兄さん?」

「――――」

ゆっくりと、その場に立ち上がったスバルを見上げ、ルイがそう呼びかけてくる。

首にかかった手を引かれ、ルイは困惑を残した表情のまま、自分の髪の毛が敷き詰められた金色のベッドで体を起こし、戸惑うように瞬きする。

「どう、したのサ。ほら、さっきの続き……続きをね?」

「――――」

「続きを……」

続きと言われ、スバルは唇を舌で湿らせる。

精神的な存在と考えれば、これも気休めか、癖に近い無意味な行動でしかない。

ただ、その仕草一つで、気付くことがある。

――自分でも驚くぐらい、今、頭が冴えている。

直前までの、あのわけのわからない混乱と狂乱、どちらも波が引いたように、凪の海の真ん中に漕ぎ出したように穏やかだった。

だから――、

「もう、何も言わなくていい。お前の、根性のひん曲がった説明にはうんざりだ」

目の前の、この少女の形をした悪意の塊が、スバルの意思を捻じ曲げ、自分のいいように利用しようとしていることも、平然と認めることができた。

そのスバルの指摘に、ルイは「いやいやいや」と首を横に振って、

「根性がひん曲がったって……酷いなァ。私たちはあたしたちなりに、ちゃァんとお兄さんのことを思って、色々とアドバイスしてあげただけなのに……」

「そうやって、聞こえよがしに俺の知ってる言葉を使うのもやめろ。そうやって俺を揺さぶろうとしても無駄だ。――今の俺は、もう揺るがない」

「――――」

その言葉に、ルイが目を細める。彼女には、スバルの身に起きた変化、その詳しいところはわかるまい。スバルにも、具体的にはわからない。

ただ、何物にも揺るがぬ『強欲』が、ナツキ・スバルを確定した。

スバルもスバル自身を、定義したのだ。

他ならぬ、あの瞬間のスバルを怒鳴りつけてくれた、少女の望む形へと。

「――――」

ちらと、スバルはルイではなく、彼女の向こう側へと目を向ける。

そこに、先ほどまでスバルに向かって、容赦のない言葉を投げかけてくれていた少女の姿はない。スバルが立ち上がり、前を向いた瞬間、消えてしまった。

だが、たぶん、それでいいのだ。

彼女が本当に再会すべきは、ここではなく、スバルでもない。

いや、それも正確ではない。ただ、彼女と再会するべきは、彼女との記憶を、彼女への想いを、取り戻したナツキ・スバルであるべきだ。

そして、その『ナツキ・スバル』とナツキ・スバルを、区別する必要などない。

「何度も、何度も……言われてたのにな」

――記憶がなくなっても、スバルはスバルなんだと、そう言われた。

自分の中で明確に、隔絶的に、差異があると、区別しなくてはと、頑なに考えていたときには、それがスバルの重荷であり、呪いの鎖だった。

だが、それがどうだ。

今、やるべきことが固まったスバルにすれば、それは道しるべであり、希望の糸だ。

手繰って、手繰り寄せて、その糸の先を持っている大切な人たちのところまで、きっとスバルを真っ直ぐに、迷うことなく導いてくれる。

だから――、

「――ナイフとフォークは片付けろ、食い逃げ犯。お前に食わせるタンメンはねぇ」

「――――」

目を、見開いた。

ルイ・アルネブは目を見開いて、自分に指を突き付けるスバルを見つめている。そしてスバルの表情に、一切の情がないことを見て取り、俯いた。

「あァ……」

俯いて、掠れた吐息が漏れる。

それは何とも、形容しがたい感情を孕んだ吐息だった。

体を起こしたルイは肩を震わせ、膝を引き寄せ、自分の金髪の絨毯の上で丸くなる。

そして、ゆっくりと、俯いた顔を持ち上げて――、

「――あァ、クソ、クソ、クソ。あと一歩、あと一歩だったのに」

憎悪の眼差しで、ルイがスバルを睨みつけ、呪うような声でそう絞り出した。

「――――」

「あと一歩だったのに、なァ。惜しかったのに、なァ。なんで、どうして、しくじったのか、なァ。――お兄さんを、誰が、たぶらかしたのか、なァ」

それは死者が地獄の底から、地上で楽園を謳歌する生者の在り方を羨むような、そんなどうしようもない隔絶への憎しみが、昏々と煮詰められた声色だった。

そんな憎悪に満ち満ちた声で、ルイが続ける。

「あと一歩で、完全に『ナツキ・スバル』とナツキ・スバルを引き剥がせたのに……!」

「……なんだそりゃ。なんで、そんな真似を」

「――そんなの、同じ人間を二度は食えないからに決まってるでしょッ!?」

「――ッ」

怪訝なスバルの声を塗り潰して、血を吐くようなひび割れた声でルイが叫んだ。

彼女はその場に手足をついて立ち上がり、それまでと一変した表情――人間味を失った獣のような顔つきでスバルを睨む。

「別々でなきゃいけなかったんだよ! 一度食べた『ナツキ・スバル』と、食べ残されたナツキ・スバルは別々でなきゃいけなかった。そのために、あれこれ趣向を凝らしたのに……全部パーだ! 笑っちゃうね!」

「……笑えねぇよ。一個も、面白いことなんかねぇ」

「そう? そうかな!? でも、お兄さんも私たちが嫌いでしょ? 嫌いなあたしたちが悲しんでて楽しくない? いい気分でしょ? お兄さんが……お前だけが、食うに飽き飽きした私たちを満たせたのに……『飽食』のあたしたちを、お前だけがッ!」

血走った目をしたルイに、スバルは口の中だけで「飽食」と呟く。

聞き間違いでなければ、彼女が名乗った肩書きは『暴食』だったはずだ。それが、どうして『飽食』なんて話になるのか。

そう困惑するスバルの前で、ルイは「そもそも!」と白い空を見上げて怒鳴り、

「『美食家』のライも! 『悪食』のロイも! なァんにもわかっちゃいないのよ! 次から次へと、馬鹿みたいに無分別の野放図に食い散らかして……ここに閉じ込められて、選ぶ自由がない私たちのため? 笑わせないで、ダメ兄弟ッ!」

自分の金髪を抱き寄せて、ルイが体を振り乱して唾を飛ばし始める。

がなり立てる彼女の言葉、その意味の全てはスバルにはわからない。ライだのロイだのと、出てきたそれは名前だろうか。

ただ、いくつか、『暴食』の存在と、記憶と、それらからわかることは――、

「お前は、仲間と一緒になって他人の記憶とか、名前……って表現すりゃいいのか? とにかく、そういうもんを奪いまくってる。食いまくってる。だな?」

記憶を食われ、自分が何者なのかを見失った例がスバル。

名前を食われ、周囲に忘れられたと慟哭した例がユリウス。

そして、おそらくは両方を食われ、世界から忘れられ、目覚めぬ眠りに落ちたレム。

それらが全て、『暴食』の、ルイと、さっき名前が出た仲間の仕業――、

「何のためにそんなことをしてやがる? お前らの目的は、なんだ?」

「――幸せになることだよ」

「――――」

一息に、即答された答えを聞かされ、スバルが息を詰める。

その反応に目もくれず、ルイは精神的に不安定そうな目つきでカチカチと歯を鳴らし、

「幸せになることだよ。他に何の目的があんの? 幸せになるのが生きる目的だろ? それとも、嫌われ者のあたしたちはそこから捻じ曲がってるとでも思った? 違う。違うよ。違うし。違うから。違ってるし。違いすぎだから。違ってるんだって。違ってるって言ってんだから! あァ、魂が疼く……ッ!」

「幸せになることが目的なのと、他人の記憶を奪うことの関係は……」

「――お兄さんさァ、人生が不公平だって思ったことない?」

「あるぞ」

「あはッ」

自分の白い手の甲、そこに歯を立てながら、ルイがスバルに問いかける。その問いかけにスバルが即断で頷くと、ルイは「だよねえ」と苦々しく嗤った。

彼女は嗤いながら、自分の薄い胸に、歯型のついた手を這わせる。

「私たちも、あるよ。っていうか、人生って不公平そのものだよ。生まれは選べないし、親も選べないし、環境も選べないし、未来も選べないし、何一つ選べない。もう、そういう風にシステムができちゃってる。ベルトコンベアーに乗っちゃってる」

「――――」

「――でも、もしそうじゃなかったら?」

押し黙るスバルの前で、ルイが首を傾げた。

「生まれが選べたら? 親が選べたら? 環境が選べたら? 未来が選べたら? 全ての選択肢が思うままだったら? ……誰だって、より良い人生を選ぶでしょ? 違う?」

「それは……そうかもしれねぇけど」

そのことと、ルイたちの凶行との関連性がどこにあるのか、スバルは訝しむ。

しかし、そんなスバルの疑問に、ルイは歯を鳴らして、

「――それだよ」

「……あ?」

「生まれが選べたら、親が選べたら、環境が選べたら、未来が選べたら、全ての選択肢が思うままだったら、誰でもより良い人生を選ぶ。――だから、あたしたちは、時間をかけて一生懸命、私たちにとっての最高の人生を捜してる」

「――――」

「きっと、どこかにあるッ! あたしたちが胸を張って、私たちらしく! この人生を生きてよかったって、そう思えるバラ色の未来が! その、運命の人生に巡り合えるそのときまで、食って、齧って、食んで、ねぶって、しゃぶって、貪って、暴飲ッ! 暴食ッ!」

目を爛々と輝かせ、ルイ・アルネブは自分の美しい野望を声高に叫んだ。

彼女は心の底から、それが幸せの追求であると、それが自分にとって最善の未来を掴み取る唯一の術なのだと、そう信じ切っている。

自分の人生には、ルイは何の希望も、期待も、見出していない。

何故なら彼女の中で、ルイ・アルネブという少女の人生は、初期配置が悪かった。スタート地点が間違っていた。――だから、なかったことにしたい。

生まれも、親も、環境も、未来も、才能も、全てに恵まれた自分を勝ち取りたい。

それこそが、人生を最大限に謳歌するために必要な条件だと、定義している。

だから――、

「そのために、他人の記憶を奪って、喰らう……?」

「望みの人生が見つかれば、『記憶』と『名前』を貼り付けて、あたしたちがその人生を胸張って生きるのよ。残念ながら、今のところはみんな選考漏れ……いい線いった人生もあったんだけど、もう、ちょっとやそっとの経験じゃ満たされないの、私たち」

震える声で熱っぽく言って、ルイがつぎはぎだらけの服の下、自分の細い体にそっと指を這わせ、年齢に不相応な艶っぽい仕草を――否、そうではない。

彼女の、『暴食』の言葉が真実なら、彼女はこれまでに他人の人生を無数に喰らうことで、それこそ常人には体感し得ない物量の経験を得ている。

男も、女も、子どもも、老人も、あるいは種族や生物の垣根さえも飛び越えて、ありとあらゆる存在の経験を堪能し、味わい尽くした、人生の飽食者。

ルイが自称した通りだ。

彼女は、飽いている。他人の人生を食すことに。

万人の人生の、『美味しいところを』つまみ食いし続けた彼女にとって、ありとあらゆる出来事はありふれたイベントで、目新しさのない、退屈で古臭い代物なのだ。

だが、そうしてルイの心境がわかると、途端にわからなくなることがある。

それは――、

「その偏食家のお前が、なんでまたこんな七面倒な手段を使ってまで俺を齧ろうとしやがったんだ? 食べ残しは許せないみたいな、フードファイターとしての意地か?」

「そんなつまらない理由じゃないよ。――お兄さんが、あたしたちの運命だから」

「――――」

額面通りに受け取れば馬鹿を見る、とスバルは怒りと警戒を込めてルイを睨む。

しかし、ルイのスバルを見る瞳、その熱情に偽りはない。彼女は本気で、スバルに――正確には、スバルの『人生』に恋い焦がれている。

何故なのか。それは――、

「老若男女、ありとあらゆる人間、人種、立場も何もかも飛び越えて色々食べてきた私たちだけど、唯一、知らないものがあるの。なんだかわかる?」

「なんだろ。わかんない。ろくでなしな自分の嘆き方とか?」

「――『死』の経験だよ」

ぴたと、スバルは片目を閉じたまま動きを止めた。

そのスバルを見つめながら、ルイは細い腕を持ち上げ、両の掌をこちらへ向ける。

「どれだけ他人の記憶を喰らっても、ありえないの。『死』の記憶だけは、絶対に手に入らないんだ。だってそうでしょ? 記憶って、生きてる間の記録だもん。だから、死んだときの記憶なんて存在しない。――お兄さんだけが、例外」

『死に戻り』の力を、ルイは心底羨むように、妬むように、恋い焦がれるように。

この世に飽いた少女にとって、唯一、新鮮な瞬間を与えてくれる男に、焦がれる。

「ねえねえ、死ぬってどんな感じなの? きっと辛いんでしょ? 苦しいんでしょ? 大変なんでしょ? 痛いんだよね? 痛くないときもあったんだよね? 気持ちいいって話もあるけどホント? 死ぬとき、ホントはいつも喜んでるの? それとも、もうどうでもよくなっちゃってる? 楽勝? ねえ、ねえねえ、ねえねえねえ!」

「……俺の、昨日までの記憶があるなら、それも知ってるんじゃねぇのか」

「記憶としてはね! でも、それってやっぱり古いし、リアルじゃないから! 私たちはもっと生の感覚が欲しいの。使い回しの古臭い食材じゃ満足できない。あたしたちを満たしてくれるのは、新しくて、瑞々しい、誰も知らない境地ッ!」

だから、と言葉を継いで、

「この世で唯一の、他の誰にも経験できないスペシャルな記憶! それだけじゃなく、何かを間違ったらすぐ死んでやり直せばいいお手軽さ! 自分の最高の人生を見つけたあとだって、何かの失敗で台無しにする可能性はあるでしょ? でも、お兄さんの人生ならそれがない! 大丈夫、バレないようにうまくやってあげる!」

「――――」

「エミリアも、ベアトリスも、ラムも、メィリィも、ユリウスも、エキドナも、シャウラも、パトラッシュも、ペトラも、オットーも、ガーフィールも、フレデリカも、リューズも、ロズワールも、クリンドも、アンネローゼも、フェルトも、ラインハルトも、ロム爺も、トンチンカンも、クルシュも、フェリスも、ヴィルヘルムも、リカードも、ミミも、ヘータローも、ティビーも、プリシラも、アルも、シュルトも、ハインケルも、キリタカも、リリアナも、誰も彼も誰も彼も誰も彼も! 騙し切って、幸せに生き切ってあげる!」

突き出した両手をこちらへ差し出す形にして、ルイが可愛らしく小首を傾げる。

「だから、お願い。――お兄さんの人生、お腹一杯、食べさせて?」

おねだりするように、彼女は自らの有する数多の記憶の中から、きっと、最もこの場に相応しいおねだりを、甘え方を、選んだに違いない。

どんな食材を揃えても、コックの腕が悪ければ話にならないことの証明だ。

マズい食材はない。マズい料理があるだけだ、とはスバルの好きな名言だった。

それを、こんなにも痛感したことはない。

無数の、数多の、普通の人間には持ち得ないだけのたくさんの経験値を。

こうまで無駄遣いする存在を、スバルはお目にかかったことがなかった。

「――三度目はねぇ。俺の苦悩も、俺の死も、俺の人生も、何もかも俺のもんだ。お前にくれてやるもんなんか、一個もねぇよ!」

「――――」

「飢え死にしろ、馬鹿野郎。人生で一個しか死に方が選べねぇなら、俺がお前にオススメしてやるのはそれだ。――世界中で、一番苦しめ」

親指で、自分の首を掻っ切る仕草を見せ、スバルはそう断言する。

その言葉に、ルイは目を丸くして、それから自分の両手を見た。そして、その両手で自分の顔を覆い、白い空を仰いで、「あぁぁぁぁ」と呻く。

「失敗、した。したよ。しちゃった。したんだ。してしまった。しちゃいました。しちゃったので。しちゃったから……あァ、あァァァァ」

がくがくと膝を震わせ、その場にぺたりとルイがへたり込む。

本気でショックを受けているのは、それだけ本気でスバルを口説いた証だ。その本気の結果があの文言なのだから、その精神性の外れ方は言うに及ばず。

スバルとしても、ざまぁ見ろの姿勢を全く崩さなくて済む。

「お前の望んだ通りにはならない。俺の名前はナツキ・スバル。菜月・賢一と、菜月・菜穂子が付けてくれた名前だ。――他も何もない。俺は俺だ」

「上書きされて、消えるかもしれないのに?」

「魔法の呪文を教えてやる。――それはそれ、これはこれだ」

ユリウスへ叩き付けた魔法の呪文を、今こそ自分に向かっても叩き付けよう。

『ナツキ・スバル』を取り戻せば、この瞬間のスバルが消えるかもしれない。だが、消えないかもしれない。消さない方法があるかもしれない。

ひとつ分の陽だまりを、何とかシェアする方法が見つかるかもしれない。

「他人の心にずけずけ土足で上がり込む俺が、陽だまりにお行儀よく収まってやる必要もねぇんだ。それが、俺の答えだよ。髪切れ、馬鹿」

捨て台詞のように言い放って、スバルはルイに背を向けた。

へたり込んで、頭を抱える彼女に警戒は向けない。今はそれより、このわけのわからない空間からの帰還方法の方が重要だ。

一刻も早く、エミリアたちの下へ戻り、改めてレイドの『死者の書』へ挑まなければ。

そもそも、何故、レイドの『死者の書』がこの場所に――、

「――あァ、もう。あとは、お兄ちゃんと兄様に任せるしかないのかァ」

「――――」

考え込むスバルの背後で、嘆息するようにルイが漏らした。

それを聞いて、床に耳をつけ、地面を叩いていたスバルが振り返る。ルイは自分の金色の髪の上に寝そべり、掌で顔を覆い、足をばたつかせていた。

お兄ちゃんと、兄様。

何度となく、ルイが口にした呼び名だ。それが、スバルの想像通りなら――、

「――ライと、ロイ。『美食家』と『悪食』?」

「私たち、ここから出られないの。だから、お兄ちゃんと兄様が食べてくれなきゃ、食べるものも選べない。……だから、お願いしたの」

「お願い……」

嫌な予感のする言葉を反芻し、スバルはその言葉の先を促す。

ルイの、続く言葉が吐き出されるまでがやけに長く感じられる。やがて、スバルの焦燥をなぞるように、ルイの赤い唇が震えて、

「お兄さんがきたの、昨夜から二度目じゃない。――だから、お兄ちゃんも兄様も、どっちも気付いてるよ。お兄さんが、どこにいるのか」

「――――」

――その、二つの脅威が『プレアデス監視塔』へ迫っているのだと、明らかにした。

「二人とも、お兄さんに興味津々だってサ。そりゃそうだよね。――自分たちが、今まで味わったことのない経験を、お兄さんってばふんだんにしてるんだからサ」

「く、そ……! お前……っ」

「――あァ、ズルいなァ」

その事実を知って、震えるスバルを余所に、ふとルイがそう呟いた。

脈絡のないルイの呟き、その意味はすぐにスバルにもわかる。

「これ、出口か!?」

振り返ったスバルの背後、白い空間に亀裂が生じ、その向こう側が揺らめいて見える。

明らかな違和、あってはならない空間の跳躍、それがその中で発生している。

スバルの、書庫へ戻らなくてはならないと、その意思に感応して。

「――――」

「できないよ。お兄さんには絶対できない。やってほしかったんだけどサ」

出口の存在、それを乗り越える前に、スバルはルイの処遇に迷った。

首を絞められた経緯や、その後の、自分の魂胆を明らかにしたあとの態度も含め、彼女に見た目通りの戦闘力しかないことはおそらく事実だ。

だから、スバルがこの場で、ルイを始末することは、物理的には可能なのだ。

そのことを考え、一瞬だけ、迷った眼差しを向けた途端、その真意を看破される。

「疑心暗鬼にしても、自暴自棄にしても、自分も、他人も、嫌われ者も殺せやしない。意気地なしの臆病者。――優しく、ねぶってあげたのに」

「――。いや、歯が当たるからいい。矯正しろ、馬鹿」

忌々しげな顔をしたルイに、スバルは中指を立てて言い放った。

その言葉にルイが鼻白むのを見届けずに、スバルは空間の亀裂に体を入れようとする。その直前、一瞬だけ躊躇いが生じた。

ルイを惜しんだのではない。あの顔を見なくて済むと思うとせいせいする。

スバルが惜しんだのは、ルイとの別れではなく、スバルを立ち上がらせてくれた声。

あの一瞬だけ、ナツキ・スバルを奮い立たせるために現れてくれた、少女。

記憶と名前を奪われ、それ故に唯一、世界の果てでスバルを呼んでくれた少女。

「大丈夫。――約束は、覚えてる」

ナツキ・スバルは、きっとそれを忘れない。

だから、きっとまた、会える。

――そのときは厳しい声だけじゃなく、優しい声が聞きたいと、思って。

「――――」

そう意気込んで、スバルは仲間たちの下へ帰るために、亀裂へと身を躍らせた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「あァ、あァ、あァ、チクショウ! 振り返りもしないで、なんて男だッ!」

「許さない。逃がさない。絶対の、絶対に……ッ!」

「これで終わったと思うなよ、ナツキ・スバル……ッ!」

「お前の、人生は、あたしたちのもんだァァァ――ッ!!」

第六章62 『崩壊の地響き』

――白い世界が剥がれ落ちて、その向こう側に色づく世界が再構成されていく。

巨大で荒々しい、圧倒的な神の絵筆が世界に色を付けていく。

まるで、無色の空間に閉じ込められて、その内側から世界に色が塗りたくられていくのを見届けているような、そんな不思議な気分だった。

神は七日で世界を作り出したなんて話を聞いたことがあるが、この光景を見ると、神は七日かけて積み木を組み立てて世界を形作ったわけではなく、まっさらなキャンバスに絵筆で世界を描き出したのではないか、なんて思えてくる。

――オド・ラグナの揺り籠。あるいは、『記憶の回廊』。

そう呼ばれる超次元の異空間から、ナツキ・スバルの存在が引き剥がされていく。

この世に非ざる空間を離れ、断片的となる意識が徐々に結び付いて、少しずつ少しずつ、自分という自我が再形成されていって――、

「――スバル」

「ん……」

呼びかけに呻いて、スバルは喉の渇きを覚えながら瞼を開く。

ぼんやりとした視界、何度か瞬きして世界にピントが合うと、自分が硬く冷たい感触に尻と背中を預けていることに気付く。どこか、壁際に座らされているのだろう。

それからすぐに、目の前の存在の気配にも気付くことができた。

「――――」

正面、スバルの顔を覗き込んでいたのは、特徴的な紋様の瞳を憂いで満たした少女――可愛らしい容姿に派手なドレスの似合う、ベアトリスだった。

色濃い心配の眼差しに、スバルは自分が『記憶の回廊』から元の世界へ、監視塔の中へと戻ってきたのだと実感した。

「――ぁ」

「意識は? ちゃんとしてるかしら? うっかり記憶を落っことしてないか確かめた方がいいのよ。手始めに、ベティーのことはわかるかしら?」

ペタペタと、ベアトリスがスバルの顔や胸に触って触診を試みる。

触ってわかるものでもないと思うが、心配されるのはこそばゆくも嬉しいものだ。そんな気分でされるがままになりながら、スバルは頬をもみくちゃにされて、「らいじょーぶらいじょーぶ」と答えた。

「問題ない。覚えてるって。記憶は無事だし、お前のことも……ベアトリス、お前のこともちゃんと忘れてねぇ。もちろん、他のみんなのことも、だ」

「……まぁ、最初にベティーの名前を呼んだことは褒めてあげるのよ」

と、スバルの頬をこねていたベアトリスが、名前を呼ばれて安堵に目尻を緩める。その彼女の反応にスバルも唇を緩め、なんとなしにベアトリスの頭を撫でた。

目を細めたベアトリスがそれを受け入れてくれるのを掌に感じながら、スバルは深呼吸して、自分の記憶、その健在を確かめる。

ベアトリスには「覚えている」と断言したものの、その確信を得るのは難しい。

直前に遭遇した『暴食』の大罪司教、ルイ・アルネブ。

彼女が大勢の『記憶』と『名前』を喰らった怪物だったことは確かだが、その記憶を食べるという力がどんな形で発揮されるのか、スバルには未知数だったからだ。

実際に噛みつく必要があるのか、『食べる』と宣言するだけでいいのか、もっと複雑な手順が求められるのか、定かではない。――制約と誓約、条件が複雑であるほど、得られる力は大きなものとなるのがこの手の力のお約束だ。除念したい。

ともあれ、そうした条件を『記憶の回廊』で満たされていないか、それはスバルにはわからない。実際、身体的接触や、腕を噛まれたり、舐められたりはしたのだ。それが条件だった場合、雰囲気に流されて見事にやられたことになる。

故に、自覚症状のないまま記憶が虫食い状態にされる可能性は十分あったが――、

「――たぶん、大丈夫だ。約束も恋心も、全部この胸の中にある」

エミリアを思えば胸が高鳴り、ベアトリスを大切に思えばこそ撫でたくもなる。仲間たちの無事を心底願えるのも、スバルが今の自分を喪失していない証拠だ。

これだけを手放さずにあれれば、少なくとも前のような醜態を晒さないで済む。

「――ナツキくん、戻ったのかい?」

と、自分の胸中、欠けた記憶がないことを確かめるスバルの鼓膜に声が滑り込んだ。

顔を上げると、ベアトリスを傍らに置くスバルの方へやってくるのは、薄紫色の髪を撫で付けるエキドナだ。その歩み寄る彼女の姿に、スバルは遅まきながら気付く。

「……エミリアちゃん、たちは?」

「よし、ちゃんと周りを見る力は失われていないようだね。自分が直前まで何をしようとしていたのか、そのことは覚えているかな?」

もったいぶったように問いかけてくるエキドナ、彼女の浅葱色の瞳を見つめ返して、スバルはその向こう側に求める人影――数名、仲間が足りないことを理解する。

周囲、書庫の中に存在するいくつもの書架の陰に隠れている、なんて可愛らしい話ではあるまい。スバルの膝の上、閉じられた黒い厚手の装丁に触れ、息を吐く。

今、この場に残ってくれているメンバー、それは――、

「ベアトリスとエキドナと、メィリィ……?」

「お兄さんったらやっとお目覚め? すごおくハラハラさせられたんだから、お寝坊さんなのも大概にしてよねえ」

「寝坊って……」

腰に手を当てて、憤慨した素振りのメィリィにスバルは頭を抱える。

何とか自分の心を落ち着け、スバルは何が起きているのか仔細を見極めようとした。

室内、エミリアやラム、ユリウスとシャウラの姿が見えない。

いるのは前述した三人とスバル、言ってしまえば非戦闘員四人だけだ。その状況だけで十分以上におかしな話だが、もっとおかしいのは――、

「俺が本を開いてすぐ、って場面じゃないよな? 俺はどのぐらい意識が飛んでた?」

「――。一時間ってところかしら。今までの本が数秒で済んでたところだったから、スバルに何かあったらって気が気じゃなかったのよ」

「一時間……」

ベアトリスの回答を受け、スバルは自分が『記憶の回廊』で過ごした時間と、現実時間に大きなズレがないことを理解する。

これまでの、『死者の書』への挑戦とはやはり何もかもが違っているのだ。あの『記憶の回廊』は確かにどこかにあり、そこで過ごした時間もまやかしにはならない。

ルイと遭遇し、ルイに心を嬲られ、舐られ、そして彼女の首を絞めようとして『ナツキ・スバル』を否定して――それを、優しく厳しい言葉に拒まれた。

あの時間が、スバルの見た都合のいい夢ではなかったのだと、そう思えることは悪くはない。だが、事実として、有限の時間が削られたことも見逃せない。

「エミリアちゃんたちは、どうして一緒にいない?」

「君が文字通り、本に没頭している間にこちらも色々と異変が起きてね。この場にいない四人はその対処に駆け回っている」

「異変……?」

「初めに異変に気付いたのはシャウラだった。そこはさすが、この監視塔の守り人という立場の表れだったと言えるかもしれないね」

などと、内容的には軽い調子だが、声色はその内容ほど穏やかではない。押さえ込んだ切迫感を声に滲ませながら、エキドナがスバルの言葉に返答する。

彼女は部屋の入口、階下へと通じる階段の方を手で示して、

「シャウラは、塔の外から何かが向かってきていると言っていた。その後の彼女は素早くてね。異変の原因を確かめにいくと、止める暇もなく飛び出してしまって……」

「それを、あのカッコいいお兄さんが追いかけていったのよお。その間、銀髪のお姉さんとメイドのお姉さんが、眠ってる妹さんを迎えにいったってわあけ」

「それで四人ともこの場を離れたのか。――正直、寂しくもあるけど、それで正解だ。特にこの状況、居場所のわからない身内を作りたくない」

エキドナとメィリィの報告を受け、スバルは混迷する状況を紐解いて息をつく。

シャウラが何に気付いたのかは気掛かりだが、それをフォローしようとしてくれるユリウスと、エミリアやラムの行動がスバルにはありがたい。

青い髪の少女、レムの身柄が保護されれば、不安材料を一つ潰すことができる。

――これから起こり得る、非常事態を前にして。

「――その反応、ナツキくんは何か知っているのかな?」

「――――」

ふと、考え込む表情のスバルにエキドナが片眉を上げて問いかけてくる。その理知的な眼差しを浴びて、スバルは一瞬だけ返答に窮したが、すぐに頭を振った。

誤魔化すことも、言い繕う必要もない。たどたどしい言葉をそのまま話して、仲間たちと共に頭を悩ませればいいのだと。

「何があったのか結論から話すよ。――レイドの本を読んで、あいつの過去を探る作戦は失敗した。過去は見られなかったし、それどころじゃなくなっちまった」

「過去が見られなかった、かしら? いったいどういうことなのよ?」

「邪魔が入ったんだよ。――『暴食』の、大罪司教だ」

「――っ!」

一拍溜めて、満を持してその名前を出した。

スバルの口からその単語を聞いて、ベアトリスたちが驚きに目を見開く。その大罪司教なる単語も、スバルにとってはルイの口から初めて聞かされたものだったが、彼女たちにとってはそうではないのだろう。

「にわかには信じ難いことだが、『暴食』の大罪司教が本の中……この場合、本の中と言っていいのか疑問の余地はあるが、その中にいたと?」

思案げに眉を寄せ、難しい顔でエキドナが腕を組む。彼女の瞳に宿ったのは疑念と、それ以上の不安だ。それも、彼女の不安はスバル自身へと向けられている。

その不安の矛先が、スバルの記憶にあることは言葉にするより明らかなもので。

「さっきもベアトリスに言ったが、記憶は抜け落ちてねぇ……つもりだ。仲間の顔ぶれも忘れてないし、パトラッシュへの愛情も本物だ」

「どうしてそこで地竜ちゃんの名前が出てくるのかわからないんだけどお……」

頬を膨らませて、メィリィがスバル流の言い回しに腹を立てる。

彼女のお怒りはもっともだ。実際、スバルは一度記憶をなくした前科がある。記憶の有無なんて曖昧な話であり、自覚症状のない記憶の欠損は誰にも証明できない。

――ただし、今この瞬間のスバルだけは、それはないと言い切れた。

「心配してくれるのは嬉しいけど、何も忘れてない。太鼓判を押してやれるぜ」

「その太鼓判に価値があるのかを疑ってかかっているところなんだが……そこまで自信があるからには、何かしらの根拠があるんだろうね?」

「――『暴食』にやり込められそうになってた俺を、レムが助けてくれたからさ」

「――――」

続く名前が持つ効力が響くのは、この場ではベアトリスだけだった。

だから、怪訝な顔つきを崩さないエキドナやメィリィの代わりに、完全に意表を突かれた形になるベアトリスが目を見開く。

そんなベアトリスに深々と頷きかけるスバル。――どんな些細な記憶も、ルイに奪われていないとスバルが豪語する理由は、彼女の存在それだけだった。

あの場所で、心の折れそうになったスバルを激励し、立ち上がらせてくれた少女。

彼女の存在が、そんな隙を『暴食』に与えなかったと、そう信じている。

「スバル、詳しい話を聞かせてもらうかしら。それも……」

スバルの黒瞳を見据え、ベアトリスが起きた出来事の説明を求める。ただし、少女の言葉の最後、途切れた部分には微かな震動――塔が、揺れる感覚が重なった。

不思議と、書架が揺れる気配はないが、塔全体に不自然な揺れがあったことは間違いない。それが、おそらくシャウラを急がせた何らかの異変であることも。

故に、ベアトリスは一度だけ瞬きして続けた。

「なるべく手短に、なのよ」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――『死者の書』に潜った途端、レイドの過去じゃなくて、白くて何もない場所に連れていかれた。そこに『暴食』の……大罪司教って女の子がいて、ルイって名乗ったんだ。そのルイの話じゃ、そこはオド・ラグナの揺り籠だとか、『記憶の回廊』だとかって話らしくてな」

塔の中、微かな地鳴りのような震動が足裏を伝う最中、スバルは自分が『死者の書』の中で目にしてきたものの説明を始める。

白い空間で出くわした少女と、その場所が『記憶の回廊』と呼ばれていた事実。オド・ラグナと呼称される、圧倒的な力を持った超常的存在の介在。

それらはスバルにとっては意味のわからない単語や事象の集まりだが、この世界の常識と非常識、その両面を知る面々にとっては価値のある情報であるはずだ。

事実、スバルの説明にベアトリスが「オド・ラグナ……」と意味深に呟く。

「ルイは、世界を壊されないための仕組みとか言ってたな。心当たりあるのか?」

「ベティーも、それについて詳しく知っているわけじゃないかしら。ただ、それがこの世界の中心点……全てのマナが還る場所、とされているのは知っているのよ」

問いかけに首を横に振り、ベアトリスがそんな風に話してくれる。彼女は自分の縦ロールに指を入れて、その柔らかな髪をいじくりながら続ける。

「全てのマナはオド・ラグナに還り、そこで循環する……言い換えれば、オド・ラグナは精霊の死と再生に深く関わる存在でもあるかしら。だから、ベティーたちとも無関係とは言い切れない相手なのよ」

「ただし、ボクたちはその出自からして特別だからね。存在がオド・ラグナを経由していないんだ。そういう意味では、他の普通の精霊よりはオド・ラグナに対して客観的な目線を保つことができるのかな」

「普通の精霊よりって……そうか。お前らが見た目よりも長生きしてるって話は、そういうところからきてるわけだ」

ベアトリスの言葉を引き継ぐエキドナ、彼女の発言にスバルは得心する。

ふらっと余談で湧いた話だったが、ベアトリスやエキドナが数百年を生きる存在であったという話は事実だったらしい。

その長寿の種明かしが、彼女らの精霊であるという出自そのものなのだろう。

「俺的には、ベアトリスは精霊ってより妖精って感じの可愛さだと思うんだが」

「……それ、前もスバルに言われたかしら。無知なスバルにはわからないようだけど、ここでは妖精って言葉は誉め言葉ではないのよ。だから、まぁ、素直に喜ぶのも、馬鹿にされたって怒るのもできなくてもやもやするかしら」

「む、そうなのか。そりゃ失礼した」

確かに、ファンタジーの本場である海外では、妖精のような存在は人間を惑わして危害を加えるイメージが強いとも聞く。

その考えがこの世界でも適用されるなら、妖精が誉め言葉にならないのも道理だ。

「すまん。言い直すと、食べちゃいたいくらい可愛いって意味だったんだ」

「食べちゃうって気持ちと、可愛いって気持ちが同列になったらおかしいのよ!」

「あれ、そうかな? 可愛いものを何となく口の中に入れちゃうとかない?」

「そう言えば、悪い動物ちゃんたちだと、自分の赤ん坊をうっかり口の中に入れて、噛み殺しちゃうこととかあるのよねえ」

メィリィのいらない注釈によって、ベアトリスが震えて怖気立つ。

ともあれ、またしても本題から話題が逸れている。ここで重要なのは――、

「――その、オド・ラグナの揺り籠。『記憶の回廊』が如何なる場所なのか」

「魂を濾す場所、なんて冠まで付けてくれてたぜ?」

「魂を濾す……濾過する、洗浄するということか。オド・ラグナの果たす役割がマナの循環にあると考えると、あながち笑い話にもできないな」

エキドナの意見に、スバルもまた同意見だ。

それを大げさな話だと、あの実物の空間を目にしたスバルには笑う気になれない。

全ての死者の魂が、『記憶の回廊』へと辿り着くことで循環する。

そこで、魂は人生という長丁場で染みついた記憶や歴史といった汚れを洗い落とし、まっさらな存在となって再び新しい人生を得るのだ。

「俺は、それがわりと納得のいく説明だと思ってる。死んだ人間の魂が再利用される仕組み……そこで洗い落とされる『記憶』が、この書庫で『死者の書』って本になる」

「どこかへ消えてなくなるわけじゃなく、事実として世界は死者を記憶していると。詩人だね、とはこの書架を見れば軽はずみには言えなくなるな」

書架は、この世界に産み落とされ、『記憶の回廊』へ辿り着いた全てを記録している。

言い換えれば、『記憶の回廊』とは『死者の書』を作るための編纂室なのだ。そこで本の形に整えられた記憶が、『死者の書』としてこの書架へ収まっていく仕組み。

そして、『暴食』は本来はそうあるべき個人の記憶や歴史に対して、横紙破りの働きかけをすることで悪さを働いている。

――それこそが、『暴食』の有する力の正体なのだ。

「本当なら、オド・ラグナがやってたはずの魂の濾過作業を、勝手に自分でやってる。それで、削ぎ落とした『記憶』を自分の腹に入れて、文字通り他人の『人生』を食い物にしてきたってわけだ」

言葉にしてみると、それがどれほど悪辣な行いなのかがはっきりとわかる。

ましてやルイは、それを『幸せになるための試行錯誤』と断言した。ありとあらゆる人生をつまみ食いして、その中から自分に相応しい幸福な人生を見出すのだと。

それは、当たりが出るまで籤を引き続ける作業に等しい。

無限に籤を引く権利を得た結果、ルイは、その兄弟たちは他人を食い物にすることで幸せを掴む道を選んだ。――それが、スバルには恐ろしい。

ルイたちの判断が、ではない。それが特別、外れた考えだと思えないことがだ。

無限に籤を引く権利を得れば、誰もが当たりが出るまで籤を引くことを選ぶだろう。

だから、ルイ・アルネブの行動は、至極真っ当な人間の欲望で――、

「たとえそうでも、普通なら他人が犠牲になるとわかっていて、籤を引き続けることはできないはずかしら」

「ベアトリス……」

「犠牲があるとわかっていて、それでも籤を引き続けるのは正気の沙汰じゃないのよ。だから、大罪司教に同情の余地なんて存在しないかしら」

スバルの考えを読み取って、ベアトリスがぴしゃりとそう言ってのける。

それを非情な割り切りであると、そんな風に捉えるのはそれこそ情がない。ベアトリスはスバルの心情に寄り添い、スバルが言えなかった言葉を代弁してくれただけだ。

そう、同情の余地などない。

置かれた状況や、居場所のなさは当人に責任はなかったかもしれない。だとしても、最初の一歩を踏み外し、以降も人の道を外れ続けたのは当人の選択だ。

誰であれ、その報いは受けなくてはならない。

「でも、変な話よねえ。どうして、生きてた頃のその人のことがわかる本が、そんなよくわからないところに繋がっちゃったわけえ?」

「それは……死んだ人間の魂が『記憶の回廊』でリサイクルされるから、そこから卸された本が元売りに繋がったとか……いや、説明がつかねぇな」

メィリィの疑問点、それにスバルは明確な答えを提示できない。

何故、レイドの『死者の書』が『記憶の回廊』と繋がってしまったのか。

少なくとも、記憶を失う以前のスバルは一度、『死者の書』を読んでいるはずだ。同じタイミングでユリウスも読んだと聞いているし、その後、すでに通り過ぎたループの中ではメィリィの本を読んだ経験だってあるのだ。

だが、その経験の中に、読み手の意識があの空間へと飛ばされた実績はない。

ならば、ルイの介入があったと考えればどうか。

「けど、『暴食』には俺を呼びつけようって考えはなかったように見えた。あいつにとっても、俺がきたのは計算外って感じで……レイドの『死者の書』に細工はなかったはず」

「――一つだけ、仮説があるのよ」

思案するスバルの前で、ベアトリスが指を一つだけ立てて言った。

その指先を見つめ、スバルは「仮説?」と言葉の先を促す。

「聞かせてくれ。どんな可能性が思いつく?」

「書庫の『死者の書』が、『記憶の回廊』で魂から削ぎ落とされたものを写し取った記録書だとするかしら。通常、これを本の形で読み取るのがこの書庫の機能……だけど、その記録を他の使い道に利用されていたら、どうなると思うのよ?」

「死者の記憶を、別の使い道に? でも、それこそ『死者の書』以外にどんな……」

「――ああ、なるほど、そういうことか。賢いな、ベアトリス」

ベアトリスの言葉を聞いて、スバルは訝しむように眉を寄せる。だが、そんなスバルを余所に、合点がいったと手を打ったのはエキドナだ。おまけにそれだけでなく、エキドナに続いてメィリィも「そっかあ」と口に手を当てて、

「もしかして、そおいうことなの?」

「待て待て、わかったような顔をするなよ。負けず嫌いだな、お前は。そういう自分の新たな一面を発見するのもいいけど、子どもらしく素直に、わからないことはわからないって言っても全然許される立ち位置なんだぞ」

「負けず嫌いはお兄さんの方じゃないのお。わたしだって、ちゃあんと考えたらわかることはわかるって言っちゃうわあ。……上の、赤毛のお兄さんがそうってことよねえ」

詰め寄るスバルを手で押しのけて、メィリィがベアトリスにそう確認する。すると、ベアトリスはため息をついて、

「メィリィの考えで当たりかしら。……レイドが、そうなのよ」

「ええと、つまり?」

「『死者の書』からレイドの過去を参照することができなかった。それは今、その本の中にレイド・アストレアの記録がないからだ。レイドの記録は今現在、別の形で使用されている。――試験官としての、レイド・アストレアをこの塔に再現するために」

「ああ!」

噛み砕いたエキドナの説明を聞いて、ようやくスバルも理解に至った。

それならば、なるほど納得がいく。スバルが『死者の書』を読んだ結果、起きた出来事とも矛盾することなく一致するわけだ。

「レイドの記憶は閲覧じゃなく、再現に使われているかしら。だから、さっきのスバルには読めなかったと推測できるのよ」

「それと、昨日の俺が『記憶の回廊』でルイに記憶を喰われたことも説明がつく」

昨日までのスバルが、今のスバルと同じレイドの攻略法に気付いたことは間違いない。それを試そうとした結果、書庫でレイドの本を読み、あの白い世界へいったことも。

実際、ルイはスバルとの遭遇は昨夜に続いて二度目だと言っていた。一度目の接触でスバルの記憶を喰らい、二度目の邂逅で食べ残しさえも平らげようとしていたのだと。

「しかし、そう考えると、この本はレイドの攻略本には絶対ならないわけか。……や、それどころか、『暴食』と望まぬタイマンさせられる危険な一冊ってことに」

「そうだね。とはいえ、思わぬ形ではあったが、ナツキくんの記憶が失われた原因、それが掴めたことは僥倖と言えるだろう。記憶の喪失が塔の機能の一部ではなかった。……『暴食』と接触させられる罠は、ひとまず塔の狙いではないだろうから」

「それは、まぁ、うん、そうだな」

即死する罠の手前に転移したことまで、塔の作り手が想定していたかは不明だ。おそらくこれは偶発的に発生した事態、と考えておきたい。

そうでもしないと、この塔の設備を整えた人物は破滅的な思考力の持ち主か、悪魔的な性格の悪さの持ち主ということになりかねない。

スバルには身に覚えがないが、それをシャウラはお師様と、スバルと同一の存在のように語るのだから、より風評被害が怖いといった有様だった。

「レイドが再現されて、何もない『空白』の一冊だった。だから、あの『死者の書』はオド・ラグナの膝元に直結した……で、いいのか?」

「今のところは、それ以上の仮説は浮かばないかしら。どうしてそこに、『暴食』の一人が隠れ潜んでいたのかも謎なのよ。でも、一つだけ言えるのは……」

レイドの『死者の書』を取り巻く、一連の不可解な出来事。

そこの一つの仮説が一本通った。無論、答えの見つからない疑問は残されてはいる。しかし、その疑問の全てを検討する時間は、残念ながらスバルたちにはなかった。

その証拠に――、

「――エキドナ! 皆は無事か!?」

階段を飛ぶように駆け上がり、一人の騎士が『タイゲタ』の書庫へと姿を見せる。その人物を目にして、振り返ったエキドナが目を丸くした。

「ユリウス、ずいぶんと慌てた様子だね?」

「想定外のことが起きている。すぐにでも、皆の考えを聞きたいと……む」

エキドナに答えながら、こちらに歩み寄ってくる美丈夫、ユリウスだ。

彼は微かな緊張と警戒に頬を硬くしていたが、床に胡坐を掻くスバルと目が合うと、その黄色い双眸をわずかに見張った。

「目覚めてくれたか、スバル。それは僥倖だ。私が誰かはわかるか?」

「そうだな、最初にその心配だよな。ええと、あなたは……?」

「――やはり」

「嘘だよ! 冗談だよ! お前はユリウス・ユークリウスだよ! 真剣な顔で何がやはりだよ! ちゃんと戻ってきたわ!」

「ふ。私の方も冗談だ。君の治らない幼稚さへの意趣返しだと思ってほしい。――このあと、少し笑えない話をさせてもらうのでね」

ぐう、とやり込められて難しい顔のスバル。そんなスバルの反応を鼻で笑い、それからすぐにユリウスは表情を引き締めた。

言葉の通り、笑えない報告があるということなのだろう。

「『死者の書』から戻ったスバルの報告も聞きたいところだが、火急の要件が。――シャウラ女史が感じ取った異変が何なのか、塔の外を確認してきました」

「そのシャウラの姿が見えねぇけど……」

「彼女は、塔の外壁から脅威に対して対応中だ。ただ、とても手が足りない」

持って回った言い回しだと、スバルがユリウスをきつく睨む。その鋭い視線を受け、ユリウスは小さく吐息をつくと、「すまない」と前置きして、

「微かな地響きがあることは、君たちも感じていただろう。これは、足音だ」

「足音?」

「ああ」

思わぬ言葉に首をひねるスバルたち、そのスバルたちにユリウスは顎を引くと、それから一拍溜めて、告げた。

「――アウグリア砂丘の各所に存在した魔獣が、一挙にこの塔へ押し寄せている。シャウラ女史が応戦しているが、中へ押し込まれるのも時間の問題だろう」

第六章63 『五つの障害』

――監視塔への魔獣到来。

アウグリア砂丘中の魔獣が一挙に押し寄せていると、ユリウスの報告を受けたスバルたちの表情が強張り、深刻な色がそれぞれの瞳を過る。

靴裏に感じるのは、塔の床を微かに揺るがす地鳴りや鳴動――それらが誇張なく、塔全体に響き渡る魔獣の足音や嘶きだと聞かされて、動揺しないのも無理な話だ。

「俺は、この砂漠のでかさがぼんやりとしかわからないんだが……」

前に疑心暗鬼に駆られて塔からの離脱を試みた周回では、最初の一歩目で逃亡計画が失敗に終わったため、砂丘の過酷さはスバルの実体験の外にある。

ただ、見渡す限りが砂の景色だった光景は忘れ難く、相応の険しさは想像できた。

とはいえ、あまり砂漠が生命に溢れているイメージも抱きづらいが――、

「元々、アウグリア砂丘は魔獣の群生地でもあってね。自然の過酷さより、砂の中に入った人間を狙う魔獣の被害の方が深刻だったぐらいさ」

「一時は軍が派遣され、砂丘の魔獣を一掃する計画も立案されたことがあったそうだよ。もっとも、結果はこの地響きからわかる通りのようだけどね」

スバルの疑問に対して、ユリウスとエキドナからの返答がそれぞれにある。

つまり、この地響きは張子の虎で、敵の数がせいぜい動物園くらいと考えたいスバルの期待は大外れ。正確にはサバンナ級に魔獣がいると、そういうことらしい。

なるほど、状況を絶望視もしたくなるものだ。

しかし――、

「――それで、わたしのことを呼びにきたってわあけ?」

と、そこで声を上げたのが、自分の三つ編みを指でいじくるメィリィだった。

唯一、魔獣到来の話を聞いて、『不安』を起因とした動揺を見せていなかったのが彼女だ。それは意外性がない、という意味合いの反応ではなかった。

魔獣を脅威と感じていない、そういう類の反応であったのだ。

「情けない話だが、その通りだ。君の力を借りたい」

そのメィリィの問いかけに、頬を硬くしたユリウスが頷く。

大挙してやってきた魔獣の対処に、魔獣へと命令を下せる能力を持つメィリィを当たらせる。――ユリウスのその考えはわかる。スバルも、最初に浮かぶのは同じ案だ。

だがしかし、奇妙な感覚が胸の奥、スバルに警鐘を鳴らしている。

「スバル? どうしたのかしら? 何か変な顔なのよ」

「……俺が変な顔なのは、生まれた瞬間からの宿命だよ」

「それは目つきだけかしら」

すぐ傍ら、スバルの苦い顔に気付いたベアトリスが、心配そうな上目遣い。彼女の視線を受けながら、深々と息をつく。

大きく二酸化炭素を吐き出す勢いで、形にならない不安のようなものも一緒に吐き出す。それはやはり、曖昧模糊として具体性を帯びないものだが。

「スバル、何か気掛かりでも?」

「どしどし聞いてくるなよ。って言っても、俺が思わせぶりな顔してんのが悪ぃ。それを謝った上で、追加の話がある。『死者の書』から拾ってきた独占スクープだ」

「――――」

息を詰めるユリウスの周囲、すでにその単語を聞いていたベアトリスたちが目を見張る。正直、反応は予測できるものだが、言わずに事態を説明できない。

この事態の急変、大挙して魔獣が塔へ押し寄せる原因は――、

「――『暴食』だ。大罪司教の『暴食』が、塔に魔獣を送ってきてる」

「――っ、何故」

「そこは俺が申し訳ねぇ。レイドの『死者の書』の中で、『暴食』の一人と会ったんだ。正確には、『暴食』の一人と再会した。昨日の夜も会ってたらしい。それが……」

「君の記憶が失われた元凶、というわけか」

結論を遮り、そう口にしたユリウスにスバルは顎を引く。

期待通りというのもおかしな話だが、ユリウスの理解力は高い。『暴食』の名前と能力とを関連付けて、すぐに辿り着いてほしい結論まで辿り着いた。

「動揺がないわけではないよ。改めて、君は今度は何も奪われていないのか?」

「幸い、生涯ストーキング宣言された以外は綺麗な体のままだよ。ベアトリスたちにも釈明はしたばっかりだけどな」

「なるほど。……ベアトリス様?」

「お前の懸念はベティーの不安でもあるのよ。ひとまず、異常は見られないかしら」

「信用がねぇ……」

納得した顔のユリウスが、即座にベアトリスに確認を飛ばす。仕方のないこととはスバルも理解するが、何とも複雑な心境だ。

ともあれ――、

「どうやら、昨日の夜の時点で相手は俺たちがここにいることを掴んでやがった。そこから半日ぐらい……ペット連れてちょっかい出しにきたってことは、そういうことか?」

「普通の移動速度なら、半日でこの塔へ到達するのは考えづらい。道中、魔獣の妨害もあることを踏まえると特に。ただ……」

「ただ?」

「ボクたちの大変な旅路と違って、魔獣を従える力を『暴食』が有しているんだとしたら……あとは、移動速度だけの問題になるね」

肩をすくめるエキドナのコメントに、スバルは難しい顔で腕を組んだ。

『暴食』に魔獣を従える力がある、という仮定は最低限して然るべきだろう。少なくとも、敵の手引きで魔獣が塔へ押し寄せていることは疑いようがない。

奴らにそうした手段があることは念頭に入れるべきだ。

「移動速度の問題ってのは?」

「……砂の大地だ。仮に魔獣の妨害がなくとも、砂に足を取られれば速度は落ちる。真っ直ぐ、塔への道を見失わなかったとしても、数日がかりと考えたい」

「でも、他の可能性もある?」

「――陸路に時間が取られるなら、空路を行けば話は別だ」

「空路……!」

思いがけない手段を提示され、スバルが黒瞳を見開いて驚きを露わにする。

空路、確かにその手段があれば、大幅に移動速度は修正される。地べたを歩く人より、空を舞う鳥の方が速く移動できるのも道理だ。

「勝手な先入観で、飛ぶ手段は特別なもんだと勘違いしてた。魔法があるんだし、空を飛ぶとか一般的ってわけか」

「そんなことないかしら。空を飛ぶのは複合魔法の一種で、やり方は複雑なのよ。墜落の危険性も考えたら、普通は危なくてやれないかしら。やるのは馬鹿か天才か、馬鹿で天才なヤツだけなのよ」

「メイザース辺境伯が、空から登城されるのは有名な話でしたが……」

「それが馬鹿で天才なヤツかしら」

どうやら、まだ見ぬ辺境伯とやらがベアトリスはお気に召さないらしい。

可愛らしく拗ねた様子のベアトリスをチラ見しつつ、魔法で飛ぶのも一般的ではないと聞かされたスバルは首をひねった。

「魔法じゃないなら、でかい鳥……あ、竜だ! 飛竜の背中に乗るとかだろ!」

「実際、飛竜繰りの技術は南方のヴォラキア帝国では秘伝として確立されている。帝国はその技法を独占しているが、『暴食』の手口なら奪取は容易だ」

「その技術を、知ってる奴から聞けばいい。記憶をぺろっといただいて、か」

そう考えると、何とも情報戦において強力すぎる手立てを有した敵だ。

『記憶』を喰らえば、隠し通したい謎から何まで全てを自分のモノにできて、『名前』を喰らえばそれをした事実さえ、相手の存在ごと帳消しにできる。

――記憶が人を形作るんだよ、とはよく言ったものだ。

「――――」

人の価値は、歩みとは、記憶と歴史に刻まれるものだとスバルは考える。

今は特にそう思える価値観の中、スバルは卑劣な『暴食』の力を心底嫌悪した。

台無しだ。

『暴食』の、他者の記憶を奪い取る力は、全てを冒涜し、台無しにする悪意だ。

それを自身の幸福のために、幸せの追求のために利用しようなどと馬鹿げている。間違った手段で、道理に合わない方法で、運命を捻じ曲げようなんて。

――それサ、『死に戻り』するお兄さんが言っちゃうわけ?

「――ッ」

「スバル!」

無意識に、唇を強く噛んだスバルをベアトリスが呼ぶ。

腕を引かれる感触に見れば、不安げな青い瞳と視線が交錯した。鋭い痛みが口の端にあり、それが自分で噛み切った傷なのが情けない。

舌で傷の血を舐め取り、スバルは「悪い」と頭を下げた。

「一瞬、嫌味な顔つきが頭を掠めてな。あれにまんまと吠え面かかせてやるのは、大目的の一つって話なんだが……先立つ問題が、あれの兄貴たちだ」

「『暴食』の大罪司教が複数いるのはわかっていたことだが、何か掴めたのか?」

「すげぇわかりづらい一人称のせいでややこしいけど、たぶん。『死者の書』の中で管巻いてる奴が一人と、そいつの兄貴が二人、だと思う」

『記憶の回廊』で、ルイはしきりに『お兄ちゃん』と『兄様』の呼び名を口にした。あれを額面通りに受け取れば、ルイに二人の兄がいるという話になる。

そっくりそのまま、それが『暴食』三兄妹の証明になるかは話が別だが――、

「少なくとも、そういう駆け引きができそうなタイプじゃなかった。まぁ、その腹芸にちょっと負けかけた俺が言えた話じゃねぇけど」

まんまと相手の思惑に乗せられて、あの細い首を絞めていたらどうなっていたのか。

あの場に現れた青い髪の少女の声がなければ、今頃はきっと。

「――それでえ、お兄さんは何が言いたいのお? あれこれ寄り道ばっかりして、話が回りくどいのってお兄さんの悪い癖だわあ」

と、そこで痺れを切らしたように、メィリィが体を揺すって不満を表明する。

最初の時点で、自分の役割を与えられたはずだった少女は、そこに待ったがかかったままだったことがいたくご不満の様子だ。

そんな彼女の不満を理解しつつ、スバルは「わかってる」と手で制して、

「お前の気持ちはわかるけど、最低限必要な話だった。確かに回りくどいのは俺の悪い癖なんだが、そこも俺の味だと思って愛して……」

「噛まれたいのお?」

「悪かった! ただ、魔獣がバーッといっぱいきました! じゃあ、そこは魔獣の専門家であるメィリィ先生にお願いしましょう! って、その流れになるのはいかにも普通だろ? 言ったはずだぜ。相手は、俺の記憶を奪った奴らだ」

「それってえ……」

慎重な口調になるスバルを見て、メィリィもまた声の調子を落とした。彼女にも、スバルが伝えたいことの真意が伝わる。

そしてそれは、表情を変えた周りの仲間たちにも同じだ。

スバルはそんな面々の顔を見渡して、自分の頭を掻きながら続ける。

「俺のせいって前置きはするぜ? けど、奴らは俺の記憶を持ってる。――こっちの面子の強みはわかった上で罠を張る。俺たちは、それを上回らなきゃってことだ」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――情報戦を制するものが、戦いを制する。

とは、近代戦争における勝利の方程式的な話だったような気がすると、現代日本の様々なゲームカルチャーに毒されたナツキ・スバルは認識している。

そうでなくとも、相手に自分の手札が見られている状態でやるポーカーの勝ち目などないも同然、そんなことは子どもでもわかる方程式だった。

故に――、

「相手にこちらの戦力が見られているとなると、君の懸念にも頷ける」

前を先導しながら、声の注意だけを後ろへ飛ばしてユリウスが目を細める。

事情の説明を簡略的に終えて、相手の出方がヤバいかもしれないという認識を共有する。とはいえ、出方がわからないところに不安要素を上乗せされて、むしろバランスを崩すのではという考えが首をもたげないでもなかったが――、

「大事な情報を内緒にされて、あとでわかったときの方がよっぽど怖いのよ。スバルの今の考えで正解かしら」

「ホントに? 大丈夫? みんな、俺のこと嫌いになってない?」

「なんでそんな不安がってるのよ。大丈夫かしら。みんな、スバルのこと嫌いになんてならないのよ。むしろ、す、す、す……」

「わかったわかった。大丈夫、安心した。愛してる」

手を繋いで並走しながら、何とか励ましのお便りを出そうとしてくれるベアトリスに頷きかける。正直、言葉にならなかった部分を言葉にされる方が恥ずかしい。

言われるより、言う方が愛の言葉はよっぽど楽だ。自分の気持ちは疑う必要がない。

「それで、シャウラがいるのは!?」

「ああ、もうすぐ……そこだ」

先頭、走っていたユリウスが石造りの通路を指差した。行き止まりが見える通路だが、すぐ右手にカモフラージュされた横道が隠れている。

腰を折り、ユリウスが壁を潜るのについていくと、塔の外に体が出た瞬間、砂を孕んだ猛烈な風と、聞き慣れない音の連鎖に迎えられる。

――それは、まるでスバルの耳には無数の硝子をいっぺんに割り砕くように聞こえて。

「うー、りゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃいッ!!」

「――――」

その場所は、塔の壁面に設置されたバルコニーのような空間だった。

下層へと通じる螺旋の大階段からもわかっていた話だが、四層は地上から数十メートルなんて距離感ではきかない高みに存在する。

そのはるか高空、渇いた風が吹き付けるバルコニーを、踊るように横っ跳びに跳ね回っているのは、黒く艶やかな三つ編みをたなびかせるスタイル抜群の美女――、

「――シャウラ!」

「あ! お師様きてくれたッスか!? 嬉しいッス! あーしの晴れ舞台、もしくは職場見学って感じッス! 師父参観日って感じで、とくとご覧あれーッス!」

腕で砂風から目を守りつつ、叫んだスバルにシャウラが華やいだ声で返事する。そんな調子で彼女が何をしたかといえば、それはそれは信じ難いファンタジーだ。

バルコニーの広さ一杯、横一列に展開するのは空中に生じた無数の砲門だ。

砲門とはいささか大げさだが、それ以外に相応しい言葉が見当たらない。砲門、銃口、射出口――いずれにせよ、何かを発射するための空洞には違いない。

白い、魔法陣のようなものを宙に浮かべて展開される大砲門、その狙いが大きく斜め下へ、地上の方へと向けられる。

そして――、

「――インフィニティッド・ヘルズ・スナイプ!!」

「何それ、カッコいい!!」

シャウラが技名を叫んだ瞬間、白い砲門が眩く輝いた。

直後のスバルの戯言を塗り潰して、次々と砂丘の空にガラスの砕けるような音が響く。それと同時に砲門は形を失い、ほどけるようにして大気に溶けた。

これが、先ほどバルコニーへ出た瞬間にスバルたちを出迎えてくれた軽やかな音の正体だ。そして、それをシャウラが奏でる目的は一つ。

――一発限りの砲撃が放たれ、白光がまさしく光のような速度で地上へ迫る。

白光は砂に着弾すると、激しく光を放って大地を吹き飛ばす。それは砂の上、猛然と走る魔獣の背に突き立っても同じこと。

塔を目指して砂煙を立てる魔獣共が、背に背に白光を受けて血と肉片を砂にばらまく。渇いた砂は血肉を吸い、散らばる屍は他の魔獣に踏み躙られて、白い光の絨毯爆撃が過たずに押し寄せる魔獣の総数を豪快に削った。

白光の数は百に迫り、一発の威力は魔獣を二、三体もまとめて撃ち砕く。

それを、シャウラはほんの短時間で連発したのだ。ユリウスがスバルたちを呼びにくる間も、彼女が一人で奮戦していたことを思えば、すでに討伐数は千に迫るか。

だが、そんなシャウラの絨毯爆撃さえも、蟻の大群のように塔の周囲を埋め尽くす魔獣の群れの前には、まさに焼け石に水という抵抗しかできていない。

それほどに、砂丘から集まる魔獣の総数は膨大だった。

「おい、おい、おい……これ、聞きたくねぇんだけど、まさか」

「この足場からでは、塔の一方向しか見えない。だが、塔の反対側でも同じ光景が広がっている。そう考えてもらって間違いない」

「塔の、こっち側だけ壁に砂糖水塗ってるって可能性もあんだろ」

「もしそんな馬鹿な真似した奴がいたとしたら、ベティーが横っ面を本気で引っ叩いてやるかしら」

鳴り止まない地響きと、眼下で蠢く黒い塊。

それが塔の全方位から迫っていると聞かされて、あまりの現実にスバルは倒れそうだ。余談だが、遠目に見える魔獣のビジュアルにも一言物申したい。

いかにも、グロテスクで不気味で不可解で、神のデザイン力はC-だった。

「どうッスか、お師様! あーしの活躍見たッスか!? あと、さり気に後ろからのアングルがヤバかったのがお師様へのアピールッス。それもどうッスか!?」

「お前、この状況でめげない精神性がすげぇよ、普通に感心する! 結果より過程で褒めた方が伸びるタイプと見たから、いいよ、めっちゃいいよ! ナイスバルク! あと、アングルは決められても見る余裕ないから集中してこう!」

「オッケーグーグルッス! ディーフェンス! オーフェンス!」

実際、めげないシャウラの精神力には頭が下がる。声援としてはかなり雑なものを投げかけながら、健気に応じるシャウラの背中には罪悪感も湧いた。

せめて、この戦いが無事に済んだら少しは報いてやりたいが――、

「まずはこの場を乗り切るのが最優先……! メィリィ!」

「おっきい声で呼ばなくたってわかってるわよお。でも……」

「でも!? でもなに!? 『でも、別に魔獣を皆殺しにしても構わないんでしょお?』ってこと? ああ、いいぜ、むしろ頼んだ!」

「そんな調子いいこと期待しないでよねえ。いくらわたしだって、ここまでたくさんの悪い動物ちゃんには対処しきれないわあ」

両耳に手を当てて、バルコニーから眼下を眺めるメィリィが渋い顔。

そのまま、彼女はスバルの暴論めいた希望を聞き流して、愛らしい幼い横顔をきゅっと引き締めた。そして、どこか艶っぽく桃色の唇を舐めると、

「――だから、仕込みをしてた子たちを動かして、ぶっつけてあげるわあ」

「――ッッッ!!」

そう言ってメィリィが地上へ手を向けるのと、砂丘を爆砕して巨大な質量が地面から飛び出したのは同時のことだった。

かなり距離があり、大型の魔獣でも豆粒のような大きさに見えるこの位置から、その地面を吹き飛ばした存在の姿ははっきりと見えた。

それはつまり、それだけ巨大な存在ということ。――おそらく、全長が二、三十メートルはあるであろう、巨大なミミズが出現、その巨体で周囲の魔獣を押し潰していく。

「あいつは……」

「こんなこともあろうかと、仕込んで手懐けておいたってわあけ。ホントはこっそりと逃げ出すつもりだったのに、こんなところで出しちゃって失敗したわあ」

その巨大なミミズを目の当たりにして、息を呑むスバルにメィリィが舌を出す。

生憎、スバルの驚きはミミズそのものより、そのミミズに見覚えがある事実の方だ。あれは一度、スバルが塔から逃げようとしたときに遭遇した魔獣だ。

思い返せば、地下から一気に飛び出すあのミミズにはスバルも被害に遭っている。

その後、ミミズが白い光に吹き飛ばされたことも、記憶の片隅に確かにあった。

あれはミミズの方がメィリィで、光の方がシャウラだったということか。

遅れてやってきた納得感に、意外性と驚きを味わいつつ、スバルは悪ぶってみせるメィリィの頭に手を伸ばして、とっさによけられない彼女を強引に撫でた。

「わっ、あっ、ちょっとお!」

「地なのか癖なのか知らねぇけど、悪ぶんなくていいよ。別に、俺たちを置いて逃げようとしてたとか、そんなこと信じてねぇから」

「む、なんでそんなこと言い切れるのよお」

「そりゃ、俺がお前でお前が俺で、みんな違ってみんないいだからかな」

「はあ?」

スバルの言葉にメィリィが無理解を表明、スバルもわからせるつもりがない。

究極、メィリィの言葉の欺瞞は今の段階ならばスバルにはすぐ読み解ける。なにせ、一時は死んだ彼女の記憶を我が物として閲覧したのだ。

この塔にいる間の、価値観が大きく変わっていない彼女のことぐらいなら、きっとわかったように語ってやることもできる。

そうして、「うー」と不満げに唸るメィリィの頭に手を乗せたまま、スバルは現時点で発生している状況――それと、前ループで起きた出来事との符合を意識する。

魔獣が大挙して押し寄せるのは、前回の塔内に燃えるケンタウロスの侵入を許した状況とがおそらく共通している。つまり、塔内に魔獣の侵入を許すこと自体は前回も起きていたのだ。その対処に追われていたのが、下層で奮戦するユリウスだった。

となると、シャウラは今回と同じようにバルコニーで外の魔獣に対処していたのか。

そして手が足りず、魔獣の侵入を許す結果となった。

しかし、今回はそうはならない。

この魔獣の大群に対して、前回と大きく異なるアドバンテージがこちらにはある。

それがメィリィの存在――前回、図らずもスバルの手で命を落とした少女こそが、この事態を打開する鍵を握る存在なのだ。

「メィリィが、シャウラと一緒に魔獣と戦ってくれてれば、状況が変わる。ユリウスの手が空くってことか? それなら……」

――ユリウスという戦力を、別の問題の対処へと配置することができる。

「――――」

その考えに至った瞬間、スバルはこの塔で同時多発的に発生した複数の問題、その対処のために必要な人員を、必要な配置へ動かすことが必須だと理解した。

――砂丘を埋め尽くす魔獣の大群。

――塔へ攻撃を仕掛けてくる、『暴食』の大罪司教。

――塔内を我が物顔で徘徊する、凶悪な巨大サソリ。

――塔のみならず、砂丘までをも呑み込まんとする莫大な黒い影。

――そして、いつしか塔の中を自由気儘に歩き始める、レイド・アストレア。

「こっちの戦力が、俺とベアトリス、エミリアちゃんとラム。メィリィにシャウラ、それとエキドナにユリウス……」

「番外で二頭の地竜と、治癒してくれる緑部屋の精霊も加えておくかい? 選択肢として持っておく分には悪くないと思うよ」

指折り、敵味方の数を比較し始めるスバルにエキドナが肩をすくめた。彼女の言葉に頷いて、スバルはパトラッシュと、下層の大きな地竜も手札の枚数に加える。

エキドナの言う通り、手札を惜しんでいられる状況ではない。

なんであれ手札に加えて、小賢しい頭をフル回転して、スバルは自分たちの勝利条件を満たさなくてはならないのだから。

そういう意味でも、全ての味方を手の届く位置で把握しておきたいが――、

「――おい、待てよ。いくら何でも、遅すぎないか?」

「――――」

「エミリアちゃんとラムは、緑部屋にレムたちを迎えにいっただけだよな?」

この場にいない味方二人、彼女らの合流の遅さにスバルは喉が渇く思いを味わう。

緑部屋があるのは四層、つまりはスバルたちがこうしているのと同じ階層だ。彼女らがこの場所を知らず、塔内ではぐれただけの可能性もありえるが。

「この状況だ。ただ居場所がわからないだけなら、ラム女史がどうとでも方法を見つけるだろう。もしくは、エミリア様が壁を壊すなどして姿をお見せになるはずだ」

「ラムはともかく、お前の中のエミリアちゃん評価どうなってんだよ。あんな可愛い細腕で壁が壊せるわけねぇだろ。仮に壊せても、壊す性格じゃない、よね?」

「自信がなくなってるのがいい証拠なのよ。でも、ベティーも嫌な予感がするかしら」

「――っ! シャウラ! メィリィ! ここを任せていいか!?」

ユリウスやベアトリスからの賛同も得て、スバルはシャウラとメィリィに呼びかける。それを受け、なおも光の砲門の設置と発射を重ねていたシャウラがサムズアップ、メィリィも自分の三つ編みを払って薄い胸を張る。

「ここはあーしに任せて先にいけッス!」

「このぐらい、わたしがなんとでもしてあげるわあ。お姉さんたち、無事に見つけてきてくれなきゃ承知しないんだからあ」

シャウラが死ぬまでに言いたい台詞ベスト一位を口走り、メィリィが頼れる背中を見せてくれたところで、スバルはベアトリスたちに頷きかけて走り出す。

壁を潜り、通路へ飛び出したところで、

「メィリィとシャウラが踏ん張っちゃくれてるが、魔獣が塔に入り込む可能性は?」

「なくはないが、ボクたちが落ちた地下砂宮……ナツキくんは覚えていないか。そこから塔内へ入り込む可能性はあった。ただ、それもメィリィくんのおかげで」

「ミミズが暴れて、地下が潰れた?」

「あれだけ分かれ道のあった地下道だ。強度的に耐えられないだろうね」

エキドナの肯定にスバルは拳を固める。

つまり、二重の意味でメィリィの存在が、魔獣のスタンピードを食い止めたのだ。地上からも地下からも、魔獣が入ってこられないなら十分防衛できる。

魔獣の大群が対処されたなら、大きく五つあった問題はあと四つ。

それでも気が遠くなるような道筋だが、一つ、潰れたことが大事なのだ。

その五つの難所を越えて――、

「俺たちはこの塔を……」

攻略する、とスバルが言葉を口にする直前だった。

「――バルス!!」

「――ッ! ラムか!?」

緑部屋へ走る道中、通路の向こうから届いた声に顔を上げる。見れば正面、スバルたち四人のところへ、猛然と走ってくるのは漆黒の影――パトラッシュだ。

鋭い面貌の地竜、その背にはラムがしがみつき、細い腕にはしっかりと眠り続けるレムの体を抱きしめているのがわかった。

「ラム! それにパトラッシュとレムも、無事か!?」

「ええ、何とかね。バルスが居眠りしている間に大変な目に遭ったわ。どうしたらあんな事態で眠りこけていられるの。さっさと立ちなさい」

「悪かったよ! 姉妹で責めるな! ほら見ろ、ちゃんと立ってる! 走ってる!」

地竜の背中からひらりと降りて、レムを鞍に預けたままラムの鋭い舌鋒に殴られる。

それがたまたま、夢の中で発破をかけられたレムの言葉と似ていたものだから、見た目だけでなく姉妹なのだと、そんな妙な感慨が湧いてきて。

「――? バルスの妙な態度は気になるけど、それどころじゃないわ」

そのスバルの言葉を聞いて、ラムが微かに訝しげに眉を顰めたが、すぐに彼女は首を振って意識を背後へ向ける。

それは、彼女がきたばかりの通路――緑部屋があった方角だ。

スバルも、ラムがパトラッシュとレムだけを連れ、一緒にいったはずのエミリアを連れていないことには違和感を抱いていた。

「ああ、俺も聞きたいことがあるし、話したいことがある。お前、一緒にいったはずの……」

「――通路の向こうで、『暴食』の大罪司教を名乗る相手と出くわしたわ」

「――――」

問いかけを遮り、ラムがはっきりとそう断言した。

その言葉の強さに鼻白み、スバルも、そしてベアトリスやユリウスも口を噤む。故に代わりに反応したのは、その中で一番、動揺の少なく済んだエキドナだ。

「『暴食』の大罪司教と言ったね? それが、通路の向こうに?」

「ええ、そうよ。――そして、その『暴食』の大罪司教と、誰かが戦っている」

「……誰か?」

それは、ますます妙な印象を受ける説明だった。

ラムの言葉は変わらず、覇気と自信に満ち満ちているが、それだけに不明瞭な部分が存在することがひどく遠大な違和を生じさせる。

その、不明瞭な部分をスバルが追及すると、ラムは「そう」と頷いた。

頷いて、それから言った。

「――銀髪の、知らない人が『暴食』の大罪司教とぶつかっているわ。ラムたちに、逃げなさいとそう言って、今も」

第六章64 『二番目の障害』

――銀髪の、知らない人。

「は?」

その、思いがけないラムの表現がスバルの意識にわずかな間隙を生んだ。

これがただ、『銀髪の人』であったなら、迂遠な言い方ではあったが、スバルもここまで妙な感慨を抱くことはなかっただろう。

エミリアが綺麗な銀髪の持ち主であることは疑いようがない。紫紺の瞳も綺麗だ。顔のパーツはもちろん、全身を構成するあらゆるパーツが神の芸術品みたいで可愛い。

しかし、そこに『知らない』と一言余計な言葉がつくだけで、意味が大きく変わる。

「銀髪の、知らない人……」

「ええ、そう。この塔の中で、一度も見たことのない相手よ。少なくとも、こちらに敵意はなかったはず。……状況を見て、一度引いたわ。でも」

「――誰が援軍に加わってくれたのだとしても、相手が『暴食』となれば話は別だ」

スバルの呟きに頷いて、自分がきた方向へ目を向けるラム。そのラムの言葉を引き継いだのは、『暴食』の響きに険しい表情をするユリウスだ。

彼は己の腰に備え付けた騎士剣に触れて、唇を硬く引き結ぶ。

「思わぬ遭遇ではあるが、ここで敵として相見えた以上、逃がす手はない。元々、我々の目的は『暴食』と『色欲』の大罪司教がもたらした被害を打ち消す方法を求めてのこと。奴らが現れたなら、直接その口から聞き出すまでだろう」

「同感ね。ラムも、奴を生かして帰すつもりはないわ。のうのうと現れたことを後悔させてやらなくちゃならないから」

「ま、待て! 待ってくれ! お前らの意気込みはわかる! わかるんだが……っ」

『暴食』への強い敵意を覗かせる二人に、スバルは思わず待ったをかける。

自分という存在を世界から切り離されたユリウスと、最愛の妹のことを自分の内側から根こそぎ食い荒らされたラム――両者の、『暴食』を倒すことへのモチベーションが高いことはわかる。実際、スバルも好機と悪機がいっぺんにきたと感じるほどだ。

だが、ここで問題なのは――、

「お前らの会話に、エミリアの名前が抜けてる。それは、どうした?」

「――――」

嫌な予感を覚えながら、スバルはストレートに疑問へと切り込んだ。

ラムの不自然な物言いと、その説明に対するユリウスやベアトリスたちの無反応。視線を向ければ、ベアトリスやエキドナも、表情に違和感を覚えた顔をしていない。

ラムの『銀髪の知らない人』発言を、ありのままに受け止めていて。

「――エミリアって、誰のこと?」

「――っ」

首を傾げ、疑念を隠さないラムの言葉にスバルの喉が驚きに詰まった。

見れば、ユリウスとベアトリス、それにエキドナまでもが瞳に無理解を宿してスバルを見つめている。――そのことに、衝撃が隠せない。

「だって」

ほんの、一分が経ったかどうかというレベルの話だ。

そのレベルの直前まで、スバルはユリウスたちと『エミリア』の話をしていた。そもそも、こうしてバルコニーから塔内へ走り出した理由が、エミリアとラムが合流してこないことへの焦りと、二人の無事を願ってのものだったではないか。

それが、どうしてこうも一瞬で――、

「――スバル、まさか」

ふと、スバルの手を握るベアトリスが、その表情の変化に何かに気付いた顔をする。最初に気付いたのはベアトリスだが、残る面子も察しのいい顔ぶれ揃いだ。

すぐにスバルの発した名前が、自分の記憶にない名前が、自分たちにとって大きな意味を持つ名前であることを理解する。

「エミリア……それが、あの銀髪の女の名前?」

「――。そうだ。銀髪の女の子がいたんなら、それがエミリアって名前の子で、俺たちの仲間だ。だから、ラムに逃げろって言って、自分は残った。今も戦ってる」

「そんなことが起こり得る、のだろうね。他ならぬ、私自身が味わった思いだ」

「――――」

スバルの力ない答えに、ユリウスが信じ難い話を聞いた様子で己の前髪に触れる。

驚きを隠せないでいるユリウスだが、スバルも『暴食』の力の及ぶ範囲、即効性、その力の凶悪さを改めて実感し、ようよう恐ろしさを体感した。

正直、自分の記憶を奪われたと自覚しても、その実感はスバルには弱かった。

無論、記憶をなくしたことで生じた誤解や疑心暗鬼、エミリアたちへと向けた負感情の数々は忘れ難く、できれば永遠に忘れておきたい黒歴史の一幕だ。

だが、それでもやはり、実感は薄かった。ないものを、あったかのように感じて探る作業は、まるで何も見えない夜の海で漁をするような不確かな戦いだ。

だから、実感が薄かった。しかし、これはそうではない。

エミリアを、つい先ほどまで覚えていた相手を、これまで共に苦難を乗り越えてきた仲間を、一瞬にして忘れ去る。――これほど、おぞましいことが他にあるか。

記憶の簒奪者、思い出の蹂躙者、絆を食い荒らす『暴食』行為の常習犯。

それをようやく目の当たりにして、スバルも理解する。

『暴食』は、ただ己の幸福を求めるあまり、侵してはならない領域を侵した極悪人と。

「――ぅ、く」

「ラム!?」

そうして、驚きを何とか自分の中で咀嚼するスバル。その正面で、同じように仲間の記憶を奪われたことへ驚いていた面々の中、ふいにラムがその場に膝をついた。

パトラッシュの傍ら、その黒い地竜の足に寄り掛かり、ラムが荒い息をつく。

「どうした? 大丈夫か?」

「……少し、頭が痛むだけよ。その、知らない誰かのことを考えていたら」

「エミリアのことを……?」

頭に手をやり、辛そうな顔で首を振るラムにスバルは眉間に皺を寄せた。

おそらく、『暴食』がエミリアの記憶を奪ったとしたら、彼女と同行していたラムはその現場を目の前で見ていたはずだ。それが影響しているのか、とスバルは考えた。

しかし、「スバル」と肩を叩くベアトリスが首をゆるゆると横に振り、

「それ以上、思い出させるのはやめた方がいいのよ。欠けすぎているかしら」

「欠けすぎ、って……」

「『暴食』の権能の杜撰な部分が出ているのよ。――その、記憶から奪われた相手がいないと成立しない部分が多すぎて、齟齬が出てしまうかしら」

「――――」

ベアトリスの言葉を聞いて、スバルは一瞬、言葉を失った。

だが、すぐにその意味するところを呑み込んで、そういうことかと理解する。

『暴食』の権能が働いて、ラムたちからエミリアの記憶が失われた。

ラムの立場はエミリアの世話係――いわゆる、主従の関係にあったわけだ。二人が互いを想い合う関係は、わかりにくくはあっても確かな温かみがあった。

それがごっそりと失われ、ラムの中に『エミリア』の存在の空白が生まれる。

記憶とは、引き出しの中に仕舞った思い出の物品のようなものだ。

普段はそこにあることを意識しないが、いざ思い出そうと引き出しを開ければ、そこから拾い上げて様々な顔を見せる。――それがないと、人生とは成立しない。

つまりラムにとって、今ここでエミリアの名前を自分の中に探れば、開けても開けても見つからない引き出しを無数に開ける作業を重ねるに等しい行いなのだ。

「彼女のことはボクが見ていよう」

「エキドナ……?」

苦しげに顔を歪めるラムの隣に、挙手したエキドナが並び立つ。前に出た彼女にスバルが驚くと、エキドナはその細い肩をすくめて、

「今、ここで議論している暇はない。『暴食』がきていて、ボクたちの仲間の一人が、名前を奪われながらも戦っているならなおさらだ。足は止めてはならない」

「エキドナ、ラム女史と妹御を頼む。パトラッシュと共に、戦いから離れていてくれ」

「ああ、任せてくれ。――ユリウス、正念場だが、熱くならないように」

「わかっている。闘志は冷え切っているとも。この剣のように」

エキドナの提案をユリウスがすぐに受け入れ、彼は凛々しい面差しを正面へ向ける。そこにはスバルが口を挟むのも躊躇われるほど、鋭い闘志が漲っていた。

「ラム」

「口惜しい、けど、今はラムがいっても足手まといになるだけよ。置いていきなさい。ただし、『暴食』の命は残しておきなさい。それ以外の部位はバルスに譲るわ」

「牛か豚みたいな言い方だが、とにかく安静にしてろ。俺たちはいく!」

「――ええ、やってきなさい」

悔しげなラムを残し、スバルは彼女たちと残るエキドナに頷きかける。それから、走り出す前にパトラッシュの首を撫で、その背に乗った眠り姫の横顔を覗き込んだ。

「――――」

変わらず、静かな、呼吸をしていないかと思われるほどか細い寝息を立て、レムは目をつむって覚めない夢を見続けている。

今はそれでいい。彼女から、もらうべき言葉はすでにもらった。

あとは――、

「待ってろ、『暴食』……! これ以上、てめぇに食わせてやるのはうんざりだ!」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――正直なところ、挙げれば疑問は尽きずに湧き続ける。

何故、『暴食』の権能の影響が、スバルには現れていないのか。

エミリアが名前を奪われ、ベアトリスやラムたちの記憶から消えた今も、スバルの頭の中にはエミリアの名前が、姿が、声が、はっきりと残り続けている。

彼女への淡い想いも、忘れず、この胸に確かに。

「俺が、異世界からきたから……?」

だから、スバルにはこの世界のルールが適用されないのかもしれない。

この世界の記憶が、『記憶の回廊』で死者の魂から削ぎ落とされた人生の記録であったとすれば、それを横取りする『暴食』の力がスバルに及ばないことは、スバルが異世界からきた存在という特異性として、ありえることなのかもしれない。

だとしたら、『ナツキ・スバル』の記憶とは、仮に死したとしたらこの世界の『記憶の回廊』に刻まれることはあるのだろうか。あるいは――、

「――それができないから、俺は『死に戻り』してるってのか?」

それは、考えてからゾッとしてしまうほど冷たい結論だった。

仮にそれがスバルが『死に戻り』するメカニズムの答えだったとしたら、スバルの命は永遠にこの世界の螺旋の中へ取り込まれることなくあり続ける。

早い話、この世界で何十年も過ごして、老衰で死ぬことすらできなくなる。

このルールに当てはまらず、スバルが人生を全うしようとするなら、それはあるいはナツキ・スバル自身が、真に記憶を預けられる世界でなくては――、

「――アイスブランドアーツ!」

「――ッ!?」

瞬間、考え事をしていた意識が鋭い銀鈴の声音に切り裂かれる。

顔を上げ、正面を見たスバルは駆け込んだ先――緑部屋へと通じる通路が白く凍え、凄まじい冷気の風に迎えられたのを肌に感じた。

そして、その風の起点となっていたのは、舞い散るダイアモンドダストの中で踊るように身を翻す雪の妖精――ではなく、銀髪をなびかせて舞うエミリアだった。

「――えりゃ! そや! えいえい! やぁ!」

手にした氷の双剣を振り回して、エミリアが戦いの声を上げながら猛攻を放つ。どこか気抜けするような掛け声だが、氷の剣が大気を走る速度には可愛げがない。

斬撃は正しく、相対する敵へと迸り、一撃を以て斬り伏せんとしていた。

「あれが……」

そうして、氷剣を手に舞い踊るエミリアの周囲、彼女の戦場となった通路は白く青く凍り付いて、まるで砂の中の塔とは思えぬ別世界の様相を呈している。

おそらくは、エミリアの扱う氷の魔法が周囲にもたらす影響だ。それはこの世界にあっても異質なほど強力な力なのか、目にしたベアトリスとユリウスが息を呑む。

だが、それ以上に――、

「あっははァ! やるね、やるなァ、やるじゃない、やってくれるよ、やってくれたし、やれるからこそ、やってくれるからこそ! 僕たちも喰いでがあるってもんさァ!」

そのエミリアと相対し、放たれる氷剣を軽々と受け流しながら嗤った存在が色濃い。

「――――」

それは、こげ茶の髪を長くざんばらに伸ばして、どことなく陰鬱な狂気を滲ませる笑みを浮かべた少年だった。

年齢は十代半ば、格好はみすぼらしく、薄汚れてすらいる。決して衛生的とは言えない姿形だが、それ以上に見ていて嫌悪感を催すのは、どこまでも他者を嘲り、食い物にすることを躊躇わない、『人生』への絶望と渇望が垣間見える眼光だ。

一目でわかる。言われるまでもない。

あんな目をした存在が、ルイ・アルネブ以外にもいる事実が、耐え難い。

「――『暴食』の大罪司教!」

「あっはァ! お客さん! じゃないね! メインディッシュだ、お兄さん! 俺たちも会えるのを待ち望んでたよ。妹が世話になったみたいだねえ!」

吠えたスバルの声を聞いて、エミリアの剣撃を打ち払った『暴食』が凶笑を深める。その禍々しい笑みに怖気を覚えるのと、エミリアが背後のスバルたちに気付いたのは同時、彼女は「え!」と驚きの声を出して、

「あ、みんな! その、私のことわからないかもしれないけど、あっちが敵! 悪い人! ここは私に任せて……私のこと、わからないかもしれないけど!」

「――――」

背後の仲間たちの存在に、エミリアは自身の置かれた状況を正しく把握している。

当然、自分の記憶が他者から失われ、ショックを受けたはずだ。その衝撃は忘れるばかりで、忘れられた経験のないスバルには計り知れない。

しかし、彼女は気丈にラムを逃がしただけでなく、こうして『暴食』との戦いを続けながら、駆け付けたスバルたちのことも気遣っている。

万感の思いが込み上げ、スバルは叫んだ。

「大丈夫だ、エミリアちゃん! 俺は忘れてねぇ!」

「――――」

「もう、絶対に忘れない! たとえ何があっても、俺は君を、忘れないから!」

拳を突き上げ、スバルがエミリアの背中にそう言った。

それを聞いた途端、エミリアの目が見開かれ、一瞬のあとに細められる。

「――――」

そのとき、彼女の胸中を過った感情がどんなものであったのか、はっきりしたことはスバルにはわからない。

ただ、直後に彼女が浮かべた微笑みを見れば、それが悪感情へと繋がるものでなかったことは確かなことだった。

そのまま、エミリアは真っ直ぐに『暴食』へと向き直って、氷の双剣を投げつけると、続けて床から氷の槍を引き抜き、氷の演武を舞いながら敵へ襲い掛かっていく。

「君の一言が今、彼女にどれほどの影響を与えたか、自覚はないのだろうね」

「ああ?」

すぐ隣で、同じ光景を見ていたユリウスが微笑でそうこぼしたのを聞く。それが何とも意味深な内容に聞こえて、振り返るスバルにユリウスは応じない。

ただ、彼は腰の剣を引き抜くと、美しい軌跡を描いてそれを構えた。

そして――、

「聞くまでもないことだが、彼女が私たちの味方だな、スバル」

「ああ、そうだ。あの可愛さで、俺たちの敵のわけないだろ!」

「――心得た」

応じ、頷くユリウスの姿が視界の端で薄くなる。――否、それは錯覚だ。

次の瞬間、踏み込み一つで加速し、氷の乱戦の中へと飛び込むユリウスの刺突が、胸の前で両手を交差した『暴食』を捉え、大きく後ろへ跳ね飛ばしていた。

「おおっと、お兄さんは……」

「このときを待ち望んだぞ、『暴食』――!」

ユリウスの鋭い剣撃が、薄笑いを浮かべた『暴食』を力強く穿つ。だが、『暴食』は自ら後ろへ飛ぶことで衝撃を殺し、氷漬けの壁に足をついて陰惨に喉を鳴らした。

それから、『暴食』は長い舌を挑発的に覗かせると、

「おいおい、そんな突っかかってこないでくれよぉ。悪いんだけど、僕たちと俺たちって食べた物全部共有してるってわけじゃないからさァ。お兄さんに見覚えがないんだ。それって僕たちじゃなく、ロイがやらかしたってことじゃないの?」

「――っ」

「ま、大差ないって考え方もあるよねえ。とはいえ、ロイはともかく、俺たちはあんまりお兄さんには興味ないかなァ。食べる基準に見合わないって感じ?」

「食べる基準、だと?」

「ああ、そうそう。それって……」

両手をだらりと下げ、その手首のあたりに固定した刃物を付けた『暴食』。それがユリウスを眺め、ひどく禍々しいスタイルを語ろうとする。

しかし――、

「そいや――っ!!」

「――ッ!?」

そこへ、一切の躊躇なく氷塊をぶち込んだのが、両手を振り下ろしたエミリアだ。

彼女の一発は容赦なく、さして戦いに向いているとは言えない広さの通路を容易に埋め尽くして、逃げ場のない一撃を叩き込むのに特化する。

話の途中で、その豪快な一発はさすがに想定外だったのか、『暴食』も血相を変えて氷塊の下を潜り抜け、かろうじて命を拾うことに成功した。

「ちぃッ! 僕たちが食べたからわかってたことだけど、躊躇がないなァ、エミリア! そんな調子で攻撃して、怖い人だって思われたら……」

「いいから黙ってて! 私が怖い人だって思われるの慣れてるの、あなたはわかってるはずでしょう! 大事なのは、私がみんなをどう思ってるかよ! それに……」

氷塊を潜り、息を荒くする『暴食』の顔面へ、エミリアの白い膝蹴りが突っ込む。それを『暴食』は腕で受け、衝撃で背後へ吹っ飛んだ。

そのまま、勇ましく吠えるエミリアは言葉の最後でちらとスバルを振り返り、

「一番覚えててほしい人は覚えててくれたもの。今、すごーく元気だわ!」

「これだから、感覚で動くタイプは得意じゃないんだよね。一番苦手なタイプだ」

「――そうか。だが、私も彼女に同意見だ」

忌々しげに頬を歪める『暴食』、その背後にユリウスの長身が滑り込んでいる。振り下ろされる斬撃、それを『暴食』はとっさに後ろへ回した腕で受けた。

しかし、不完全な受けは斬撃を完全には止められず、深々と肘から先を斬りつけられ、血が噴く。『暴食』の苦鳴、なおも連撃は続いて――、

「――一度は全てに忘れ去られ、自分自身の足場を見失ったことに人生を否定された気にもなったが、私の足が立つ場所はもとより迷う必要がなかった」

「ちっ! う、ぎ、ぎゃぁ!」

静かな決意を言葉にして、ユリウスの放つ剣撃の鋭さが徐々に増していく。

『暴食』はそれを受け切れず、少しずつ傷は増えていき、ついにはまともな一撃を胸に受け、悲鳴を上げた。

「スバル」

「わかってる。俺は、あの場に割り込めない」

「……それがわかってるならいいのよ」

猛攻を続けるユリウス、そしてエミリアもまた容赦のない攻撃を『暴食』へ打ち込む。そうして両者の攻撃を受ける『暴食』は防戦一方だ。

無論、できるならスバルもそこに加わり、『暴食』を追い込む一助となりたいところだが、それができる技量に自分がないのはわかり切ったこと。

今はここで、エミリアとユリウスのコンビが『暴食』を負かす瞬間を信じ、見届けるしかない。だが――、

「急造のコンビでよくやるもんだッ! けど、これならどうかなァ?」

「なに?」

「――アイスブランドアーツ」

血をこぼしながら、しかし『暴食』は余裕の笑みを失わず、俯きながら呟いた。その呟きを聞きつけ、驚きに眉を上げたのはスバルとエミリア。意味がわからずに眉を顰めたのがユリウスとベアトリス。だが、直後の光景に驚くのは四人全員だ。

直後、『暴食』の足下から氷の槍が突き上がり、それをユリウスが側転して回避、エミリアは手の中の槍を氷槌へと変えて、強引に破壊することで防いだ。

しかし、一撃を避けても、それで驚きと攻防がなかったことになるわけではない。

「ははッ! 自分の得意技を喰らってみるのってどんな気分かなァ! どうだ、どうだい、どうなの、どうなんだ、どうだろうね、どうだろうかな、どうだろうよ、どうしたって、どんな気分なのかって、暴飲ッ! 暴食ッ!」

「――ッ! 急に」

「動きが変わった!?」

驚きを口にするエミリアとユリウス、その前で『暴食』は床から氷の武器を引き抜く。それを目にしたスバルは、造形の細かい氷の武装に息を呑んだ。

何故ならそれは――、

「え、エクスカリバー!?」

「アイスブランドアーツ自体はエミリアの技でも、それを再現するのはお兄さんを食べた僕たちだからさァ! 知識が武器! 俺たちはインテリ大罪司教なんだよ」

「――ッ」

そう言いながら、『暴食』は自ら再現した氷の聖剣を薙ぎ払い、エミリアとユリウスへと輝かしい斬撃を叩き込む。無論、それは見た目を氷で再現しただけの武器であり、そこから光のエネルギーが放たれるようなことはない。

しかし、その調子で『暴食』は次々と、この異世界には存在し得ない武器を作り出し、意表を突く形でエミリアとユリウスを劣勢へと追い込んでいく。

もちろん、エミリアたちもすぐに体勢を立て直し、最初の衝撃を捨てて、『暴食』へと反撃を試みるのだが、『暴食』はそのたびに人が変わったように戦い方を変え、それへの対応を求められるうち、再び劣勢へ追いやられる戦況が続いた。

「――――」

その『暴食』の攻防を見て、スバルは他人の記憶を複数取り込むことの脅威を知る。

エミリアの氷の武器を次々と作り出す技はそれ単体だけでも十分に強力だが、そこに使い手の想像力が加わると、全く違う顔を見せる技へと変貌する。特に、スバルの持ち込んだ異世界の知識、そこから再現される武器が非常に厄介だ。

この世界にはなく、それでいて相応に実用性のある武装が山とある。これはスバルが中学時代、古今東西の武器の本などを読みふけった黒歴史が原因だ。

その上、おそらく『暴食』はこれまでの人生で多くの戦士を己の内に取り込み、結果的に多数の武人の戦闘力をのべつ幕なしにインストールした状態にあるのだ。

故に、ストックの中から最適な記憶を引っ張り出してくるだけで、即座にその武器のエキスパートへと変貌し、自在に攻防を重ねてくる。

そして、エミリアたちの旗色が悪い原因はそれ以外にもある。

「ユリウス! そこダメ!」

「く……っ」

エミリアの悲鳴のような呼びかけに、ユリウスの苦しい足踏みが重なる。

そこには協力し、一人の敵を討ち果たさんとするにはあまりに稚拙な連携があった。

エミリアとユリウス、二人の連携の相性が良くないのだ。

それは、エミリアが戦い方をセンスに任せた『感覚派』であることと、ユリウスが修練に修練を積んだ果ての『技巧派』であることも大いに影響する。

だが、そんな問題は二人ぐらいの強さにまでなってくれば、互いの癖を知ることで容易に修正が可能な問題である。

そう、互いの癖を知れるぐらいに、関係値があれば。

「悲しいもんだよね。本当に連携できるって思ってた? 相手を知ってるのと、とりあえず信じるのって、結果的に同じ方向を向けてても全然違うもんでしょ? 考えがわからないから合わせられない、癖を知らないから修正できない。挙句、ぶつかり合って邪魔になる……ははァ、ダメダメだねえ、お二人さん!」

「く……」

「知識は力! 記憶は絆! 思い出を贄にして僕たちは高く! 俺たちは強く! どこまでもどこまでも羽ばたくってわけさァ!」

飛び上がり、繰り出される『暴食』の蹴りが二人を同時に捉える。

まだ小柄で、さして長くない足だが、その靴裏は見事に両者の肩を打ち据え、苦鳴を上げる二人を一気に背後へ吹き飛ばした。

その間、『暴食』は身軽に宙返りし、氷の地面へと四肢をついて着地する。

「厄介! 猪口才! 大苦戦! どうだい、僕たちのお手並みってヤツはさ! そこで見てるだけのお兄さんも、歯痒い思いを味わってるだけで満足かい?」

「てめぇ……」

「忘れないとかあれこれ言ってたけどさァ、その程度のことがどれだけ救いになるの? 結局、最後には経験が物を言う。優れた知見の積み重ねってヤツこそが、人生を豊かにして、人を勝ち組ってものにするのさ。つまり、最高なのは俺たちってわけだよ!」

両手を広げ、鋭い牙を見せながら『暴食』が言いたい放題に嗤う。

そうして『暴食』が語った言葉こそが、なるほど奴の哲学なのか。妹であるはずのルイ、彼女が語った『幸福を得るための哲学』とはまた少し異なっているが、結局は他者の人生を踏み台に、自らを肥え太らせることを目論む最悪の思想だ。

それを、スバルは心底から唾棄すべき思想だと考え――、

「――オメエ、何調子乗ってやがンだ?」

「な」

「――――」

それまで、我が世の春とばかりに高笑いしていた『暴食』が、その声を聞いた途端に目を見開いた。そして、その驚愕はスバルたちにも共通だ。

それはあまりにも突然に、当然のように、堂々とこの場に乱入してきた修羅。

ゆっくりと、ゾーリで氷の通路を踏みしめ、着流しの肩を片方はだけた赤毛の長身。それが凶悪な笑みを浮かべ、通路の向こう――『暴食』を挟んで、スバルたちとは対面の方角から姿を現した。

そして――、

「最高なのがオメエみてえな根性曲がったガキなわけねえだろ。最高も最強も、最上も最良も、全部オレのためにある言葉なンだからよ」

そう言いながら、降りてこられないはずの二層から降りてきた、レイド・アストレアが凶笑を浮かべて立っていた。

第六章65 『二つ目と、五つ目と、それから――』

「――――」

威風堂々、この場に現れた赤毛の偉丈夫、レイド・アストレア。

思いがけない男の登場と、こちらの驚きに一切配慮しない鋭い青の双眸、その彼の在りようそのものに、全員が――『暴食』すらも、言葉を失っている。

「オイオイ、何を呆けてやがンだ、オメエら。オレがここにいンのがそンなに驚くことかよ。当然のこったろうが、ええ?」

そうして、硬直したスバルたちの様子を眺め、レイドが自らの眼帯に閉ざされた左目を指で叩き、足下の草履で床をぺちぺちと蹴りつける。

それは塔全体を示す、そうした意味合いの仕草で、

「外も中も、こンだけ騒がしくしてりゃぁおちおち昼寝もできやしねえ。ただでさえ、酒もねえから退屈だってのに、こンなもン、我慢できるわきゃねえだろうが」

「……そりゃ、そっちの都合じゃねぇか。こっちはこっちで取り込み中なのが見えてるだろうが。ややこしくしてくれんなよ」

「はンっ! 稚魚がなンか言ってやがンのか? 悪ぃンだが声がちっさくて聞こえやしねえなぁ。まぁ、聞こえてても聞こえねえって言ってやンのは変わンねえンだが」

「クソ意地が悪ぃ……」

そして、悪いのは意地だけでなく、タイミングも悪い。

糾弾と呼ぶには弱々しく、抗議というには実がない。乱暴で容赦のない言葉に閉口するスバルは、自分がレイドに恐れを抱いていることを自覚し、拳を握り固めた。

魂が、レイドの存在に敗北感を覚えている。

それはまだ疑心暗鬼だった頃、レイドに散々な目に遭わされたことだけが原因ではない。前回のループでも、彼の呆れるほどの傍若無人さには向き合った。

そのときはここまで、スバルの心情はレイドに怯えていなかったはずだ。

それが何故、今この瞬間だけは妙に、妙に険しく感じられるのか。

それは――、

「――はっきりと、お前が敵だって俺の魂が認めてるから、か」

「いいぜ、稚魚。稚魚から昇格してやるつもりはねえが、オレが都合のいい援軍だなンて勘違いしねえところは褒めてやるよ」

「援軍だから喜べ、なんて言われても素で受け入れられる相手じゃねぇしな」

「はンっ! 言いやがる」

獰猛に牙を見せ、鮫のように笑ったレイドにスバルは胸中の冷たい感覚を隠す。

今のレイドの宣言はある種、絶望的な宣告でもあった。しかし、元よりスバルはレイドを味方などと考えてはいない。

それが肯定されただけ。――勘違いなど、してはいない。

と、そんなスバルとレイドのやり取りが一段落したところで――、

「――あのさァ、レイド・アストレア」

そう、いち早く正気に戻った人物、『暴食』がレイドの名前を呼んでいた。

凍り付く通路の真ん中――まさしく、スバルたちとレイドとのど真ん中に立っている狂気の大罪司教、その悪辣な感情にぎらつく視線を向けられ、レイドが『暴食』の方を眺めながら不機嫌に鼻を鳴らした。

「おう、なンだ、チビ。……小汚ぇチビだな。なンだよ、汚チビちゃん」

「あんた、初代『剣聖』だろ? それがまたなんでここにいるのかなァ? 僕たちの記憶だと、試験官のあんたは上の階から下りてこられないはずだろ?」

屈辱的な呼び名を無視して、挑発してくるレイドに『暴食』が問いを投げる。

その、彼が語った『記憶』は明らかにスバルの『記憶』であったことが腹立たしいが、問いかけの内容自体はスバルたちも同じものを抱いた内容だ。

――二層の試験官、レイド・アストレアの四層への到達。

これはスバルも前回のループで目撃し、クリアしなくてはならない五つの障害の一つとして考えていたものでもあった。

その、自由気儘に塔内を出歩く現象のカラクリは一切が不明。ただし、その現象はこの局面でなくては起こらない。――まさか、これ以前にも出歩けたが、出歩かなかっただけだなどと言われたら話にならないが。

「妙なカラクリがあるのか、塔そのもののルールでも変わったのか。どっちにせよ、あんたがこうしているのは計算外で、色々とコースを考え直さなくちゃァいけなくなる。前菜をいただいてからメインディッシュ、そしてデザートが基本さ。だろ?」

「グダグダと、わけわかンねえこと抜かしてンじゃねえよ、汚チビクソ野郎」

「――――」

「オレが下りられねえだぁ? 目ン玉かっぽじってよく見ろや、オメエ。自分が何馬鹿なこと言ってンのか、見てわかンだろうが、オメエ、オイこら」

言いながら、『暴食』に対してレイドが不機嫌に前のめりになる。白い歯を剥いて、隻眼で相手を睨みつける姿はまさしくチンピラ同然のスタイルだ。

しかし、生憎と当人から放たれるプレッシャーは、コンビニ前にたむろするチンピラとは比較にならないほど強烈で、余波だけで命を脅かされる恐怖を覚える。

例えるなら、そこにいるのは虎と熊と獅子と竜とが混然一体となったケダモノだ。

ありとあらゆる暴力の気配を纏って、レイドは牙を剥く。

「ざっけンなよ、オメエ。オレはオレのやりてえことをやりてえようにやンだよ。誰の指図も受けるわけねえだろ、オメエ。ざけてンじゃねえぞ、オメエ。大体、オメエこそなンなンだ。誰の許可もらってこンなとこで騒いでやがンだ。オイ、オメエこら、オメエ」

「あっははァ、すごいなァ、たまんないなァ、話になんないなァ」

手にしていた氷の聖剣を氷の破片へと変えて、『暴食』が長い前髪をかき上げる。

さしもの『暴食』も、こうまで対話が通じない相手はやりにくいらしい。問答無用のエミリアにも苦戦の気配があったが、レイドはエミリアより数段話が通じない。

しかし、『暴食』はそんな相性の悪い敵に対して「だけど」と言葉を続け、

「獲物としちゃァ極上だね。俺たちの、『美食家』としての食欲にビンッビンッきてるッ! 喰らいつけ! 齧り取れ! 舐り尽くせ! 味わい遂げろ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

吠え、猛り狂う『暴食』が凍れる床に四肢をついて、レイドを睨みつけた。

白い犬歯の隙間から長い舌を覗かせ、常軌を逸した、常人には理解できない他者の記憶を貪る『食欲』が命じるままに、涎が床へと滴っていく。

そして――、

「――魔女教大罪司教『暴食』担当、ライ・バテンカイトス」

その口上は誇りか驕りか、いずれにせよ『暴食』は――否、ライ・バテンカイトスが名乗り、次の瞬間には氷の床を蹴って矢のような速度で走り出した。

それは獰猛な四足獣の狩猟風景、そう錯覚させるほどに野性味のある疾走で。

「あー、面倒くせえな」

その、猛進するバテンカイトスを正面から見据え、レイドは自分の耳に指を突っ込みながら億劫そうにぼやくと、

「じゃあ、オレは剣士、ハウロイ・ラリオル」

「誰だよ!?」

「オレの故郷の隣の家に住んでた奴だよ」

あまりに堂々とした偽名に思わずスバルが叫ぶと、レイドはあっけらかんとそう答える。それから、彼は耳から指を抜いて、すぐ眼前のバテンカイトスを見下ろしながら、

「――イタダキマスッ!!」

「マブい姉ちゃんに言われンならともかく、オメエみてえな汚チビちゃんに言われても嬉しくなンかねえよ」

「――づッ」

刹那、大口を開けて迫ったバテンカイトスの体が激しく横へブレる。

それは雑に繰り出されるレイドの右足、その蹴りが真横からバテンカイトスの胴体を捉え、通路の壁に豪快に叩き付けたためだ。

「ぐ、ぇ……っ」

「鶏が絞められるときみてえな声出してンじゃねえよ、オメエ。言っとくが、鶏は絞めたら食ってうめえが、オレはオメエを喰うつもりはねえ。暴食だかなンだか知らねえが」

「ぎ、ぁ!」

「大人に飛び掛かってきてンだ。仕置きされる覚悟はできてンだろ、オメエよぉ!」

言いながら、レイドは蹴り足でバテンカイトスの体を壁に押し付け、そのまま氷の通路を足一本とは思えぬ速度で走り始めた。

当然、壁と接触した状態で、それも所々に氷の凹凸がある壁面を滑らされるバテンカイトスは抵抗ができない。そのダメージは甚大、破壊的だ。

「ぎ、がぁぁぁぁぁぁ――ッ!」

「オイオイ、こンな程度でわめいてンじゃねえよ。こンな調子じゃお話にならねえ。こンなのまだまだ、オレの時代じゃ子どもの遊びにもなンねえぞ。最近のガキは小汚ぇだけじゃなく貧弱になったもンだな、オイ、オイ、オイ、オメエよぉ!」

退屈そうに言い放ち、足を止めたレイドがその場で素早く半回転。

バテンカイトスを壁に押し付ける足が外れ、大罪司教の体がずり落ちる。その前に、軸足が入れ替わって放たれる左の後ろ回し蹴り、その直撃がバテンカイトスの横っ面へと豪快に突き刺さり、小柄な体躯がゴム毬のように容易く吹っ飛んだ。

「――――」

尋常でない勢いで、バテンカイトスが受け身も取れずに床を弾む。高速回転して血をばらまく大罪司教は、立ち尽くすエミリアとユリウスの間を抜け、ついにはスバルとベアトリスの横を跳ねながら通路の奥へと転がり込んだ。

そのまま大の字にうつ伏せに転がる姿には、直前の威勢の良さが微塵もない。

死んだのではないかと、そうとすら思える。

「あいつ、今さっきまでエミリアちゃんとユリウスが二人がかりで苦戦してた強敵、だったはずだよな?」

「……それで間違いないのよ。ただ、それ以上にあれが規格外ってだけかしら。だから、場合によっては状況はもっと悪くなったと言えるのよ」

「対戦カードが入れ替わっただけ、だもんな」

「それも、もっと悪い相手にかしら」

きゅっと、スバルと手を繋ぐベアトリスが、後方に倒れて動かないバテンカイトスではなく、前方のレイドを警戒する。それはエミリアやユリウスも同じだ。

すでに戦況は対『暴食』戦ではなく、新たな強者とのものへ変わりつつある。

そんな中にあっても――、

「大罪司教、やっつけてくれて、すごーくありがと……って、そんな風に仲直りするんじゃダメ?」

まず、レイドに対して最初に友好的に語りかけたのはエミリアだった。その彼女らしい平和な申し出に、しかしレイドは首を振り、肩をすくめ、床を蹴った。

肉体の三段活用で申し出を払いのけ、レイドはがりがりと頭を掻く。

「はン、気ぃ抜けること言ってンじゃねえよ、オメエ。……つーか、なンだ、オメエ。マブすぎンだろ、どうなってンだ、冗談じゃねえ! 激マブじゃねえか! なンだってこンなとこにいやがンだ、オメエ。こンな状況で何してやがンだ。こンな砂だらけのわけわかンねえとこで遊ンでねえで、今晩の酌しろや、オメエ」

「ええと、これも二回目なんだけど……」

「――残念だが、彼女はあなたの晩酌には付き合えない。何故なら」

「お?」

「幻影たるあなたに、安寧の夜は訪れないからだ」

と、品のない発言を遮るように、騎士剣を構えて前に出る男が一人――ユリウスがエミリアを庇うようにレイドと対峙し、剣気を研ぎ澄ませて視線を鋭くした。

その黄色の双眸を真正面に、レイドがわずかに表情を変える。

「……なンだ、オメエ。ちょっとはマシな面構えになってンじゃねえかよ。なンかいいことでもあったのかよ、オメエ。女か。女だろ、オメエよ」

「色々と心構えに影響する出来事があったことは否定しないが、それが女性絡みばかりでないことはお伝えしよう。女性の抱擁が傷付く心を癒すこともあれば、容赦のない友の叱咤が代わりになることもある」

「回りくどい野郎ってとこは変わっちゃいねえな。何が言いてえンだ?」

「つまり、今の私がこうして剣を握るのは、友のおかげということ――!」

そう応じた次の瞬間、ユリウスは鋭い踏み込みから騎士剣を跳ね上げ、目を疑うほど美しい軌跡を剣先に描かせて、レイドの首へと一撃を迸らせていた。

「――――」

相手は敵意をまだ表明していない、なんて野暮な指摘は一切合切不要。

この場に立っていれば、レイドの考えなど火を見るよりも明らかだ。――ピリピリと、抑え切れない剣気が傍観者たちの肌さえ淡く弾く。

これだけ昂っている剣気の持ち主が、矛を収めたままにするなどとありえない。

――レイドはやる気だ。前回のループと同じく、状況も鑑みずに。

故に、ユリウスは躊躇わず先制攻撃を仕掛けた。

その選択は最適解だ。余裕綽々の態度でいるレイド、その出鼻を挫くことを狙うのは、この初代『剣聖』を攻略する上で的確な一撃であったと断言できる。

問題は――、

「――余裕綽々って、それがどういう意味かわかってンのか?」

「――――」

「そりゃな、何されても余裕でどうとでもできちまうから、どンな小細工したって関係ねえンだよ、バーカって意味だ」

――そのユリウスの先制攻撃を、レイドが手にした二本の箸で挟み止めたことにある。

「く……っ」

「ま、悪くはなかったぜ? オレが相手でなきゃ、喰らうぐらいはしてやっただろうよ。――ンじゃ、いくぜ」

「しっ!」

刺突を防がれて呻くユリウスへと、レイドが鮫のように笑いかける。

そのまま、レイドは箸を一本ずつ両手へ握り、剣先を払うと同時に踏み込み、箸撃が放たれる。――衝撃が、騎士剣を真っ向から打ち据え、快音が鳴り響く。

「――――」

細く、剣と比べるべくもなく刃渡りの短い木の棒は、しかしレイドという達人の腕に握られることで実寸大以上の凶器となって破壊をぶちまける。

猛烈な快音が響いた直後、発生する衝撃波がユリウスの髪と服をはためかせ、通路全体の氷結した部分を一気に割り砕いていく。

――まさに規格外、常識外れ、世界のバグというべき異常の塊。

その力量を一度ならず目にしていても、実物を改めて見たことでスバルは絶句。

こんな化け物が世界に存在することと、この化け物を越えることを塔の攻略条件として盛り込む設計者の悪魔的な底意地の悪さに吐き気すらした。

だが――、

「――へえ、本気でちょっと感心したぜ」

その箸の一撃に、レイドの全力がどれだけ込められていたかはわからない。

しかし、レイドはその一撃さえ受け切られることが想定外だったようで、箸撃を全身で受け流したユリウスの戦意を称賛する。

それを受け、口の端から血の雫をこぼしたユリウスは目を細め、

「なにせ、私があなたに勝てなくては、こちらの計算が狂ってしまうのでね」

「勝つ気でいンのかよ、吠えやがる」

「だろうね。だが、お付き合いいただこう!」

瞬間、ユリウスの剣撃が閃いて、それをレイドが二本の箸で荒々しく受け流した。

剣の勢いが逸らされ、ユリウスの体勢が泳ぐ――ことはない。ユリウスの騎士剣はその受け払いさえ織り込み済みとばかりに旋回し、一切のタイムラグなく次の一撃へと剣閃を繋げた。その後も、それは連続する。

流麗で、一部の無駄もない洗練された水の流れのような剣舞、それが始まった。

「――――」

その、無数の攻防が重ねられる剣戟を目の当たりにし、スバルは息を呑む。

あくまで、そうあくまでスバルの目で追える範囲でしかないが、それは剣の頂と呼ばれる『剣聖』へ届かんとする、ユリウス・ユークリウスの意地と鍛錬の証だった。

――レイドの剣勢が火炎だとすれば、ユリウスの剣勢は流水の如くだ。

単純な相性で言えば水は火を消してしまうが、炎の勢いが強ければそれこそ焼け石に水の格言通り、水はただ蒸発して無意味となるだけ。

おそらく、多くの流水の剣士はレイドの火炎の如し剣勢に蒸発させられただろう。

だが、少なくともこの瞬間、ユリウスは自身が渇いて消えることを恐れず、レイドへと揺るぎない攻撃を叩き込んでいく。

そして――、

「相手がユリウスだけだなんて思わない、で!」

「はンっ! 忘れちゃいねえよ、激マブ! オメエは忘れるにゃ面が良すぎンだよ!」

「褒めてくれてありがとう! でも、ホントに覚えててくれてるのは一人だけだから!」

そのレイドとユリウスの剣舞へと、氷の武装を山と抱えるエミリアが合流する。

これにより、レイドは箸の一本をユリウスに、もう一本をエミリアへと向けた。それが対策になるのか、そんな凡庸な価値観をレイドの剣力はことごとく粉砕する。

流水と火炎の剣舞に氷結が割り込み、戦場の色が再び鮮やかに変じていく。

剣舞のキャストを一人変更し、バテンカイトスの代わりにレイドが敵となるが、エミリアとユリウスのぎこちない連携は継続――否、それも変わる。

敵が強くなったからか、あるいはわずかな間に二人が自分たちの戦い方を寄せ合い、修正したのか、どことなく合わない息が合い、連携が確かな連携となる。

「ユリウスが、エミリアに合わせているのよ」

「わかるのか?」

「性格的な相性もあるかしら。エミリアの思い切りが良くなって、ユリウスがらしく動けるようになったのよ。たぶん、エミリアが合わせる気をなくしたのが正解かしら」

「すげぇらしいコメント」

とはいえ、それで上手くいくのだから、その判断で正解なのだろう。

結局、エミリアはどこまでも手放しにマイペースを貫く方が性に合っていて、ユリウスはわかりやすく他者の動きに合わせつつ、自分を飾るのが得意であると。

「はっはぁ! いいぜいいぜ、オメエら! オレも楽しくなってきたじゃねえか!」

「うや! せいや! とりゃ! うりゃうりゃうりゃぁ!」

その、二人の噛み合った連携を愉悦と共に払いのけ、レイドが高笑いする。そこへエミリアが気の抜ける掛け声と、その掛け声から繰り出されるとは思えないほど殺傷力の高い一撃をぶち込み続けるが、決定打にはならない。

水と炎と氷との、美しく絡み合った幻想的な剣舞。

響き渡るのは騎士剣の鋼、完璧な剣閃を描くことで鋼と同等となった棒切れ、そして一撃ごとに砕けては再生する氷の武器と、それぞれが打ち合い、砕け、鍔迫り合う快音。

まるで本当に舞の一節だと、そう勘違いしてしまいそうになるほど美しく――、

「――しゃぁぁぁぁぁ!!」

故に、そこへ割り込む不協和音の存在は、目にも耳にも異物となって焼き付いた。

「野郎……っ!」

三者が攻防を繰り広げる空間へ、無作法に割り込んだのはライ・バテンカイトスだ。

レイドの蹴りを喰らい、そのまま半死半生の状態で転がっていたはずの少年。それが立ち上がり、あろうことか被害などないかのように戦場へ参戦する。

バテンカイトスは両手の手首に括り付けた短剣を振るい、さらには短い手足を器用に駆使した戦技を交えて、次から次へと致命の攻撃を三者へ放り込む。

それを、エミリアとユリウス、そしてレイドはそれぞれ煩わしげに防いで、

「ずいぶんと往生際の悪いことだ、大罪司教!」

「はっはァ! 俺たちをのけ者にして楽しもうなんて、そんな性格悪いことするのはやめてくれよ、兄様! いつもいつも独り占めかい? ズルいなァ、ホントに!」

「レイド! 見たらわかるでしょ! ここで私たちがケンカしてても仕方ないの! 手伝ってくれるか、せめて大人しくしててってば!」

「話のわからねえ女だな、激マブ。オレぁ今、それなりに楽しンでンだぜ? 空からお星様が降ってきやがったとしても、オレの考えは曲げられねえよ!」

「――――」

四者、壮絶に攻撃を交えながら、互いに互いの意思をぶつけ合う。

それは決して、易々と近付くことのない、わかりやすい妥協点へ辿り着くことなどできない、血臭と切り離せない戦いの光景だ。

誰が有利で、不利で、優位で、劣勢なのか、外野からの判断は難しい。

できることは、せめて味方の勝利を願うことのみ、だが――、

「――ぐ」

「スバル!?」

そうして、歯痒い思いで戦況を傍観するしかなかったスバル、それが胸を押さえて、その場に膝をついたことにベアトリスが驚いた。

俯いて、苦しげに息をするスバルの肩に触れ、ベアトリスがその顔を覗き込む。

「スバル、スバル! どうしたのよ。何があったかしら!」

「……いや、これは、なん、だ?」

「スバル?」

ベアトリスの必死の呼びかけに、スバルは自分の胸を掴んで何度も瞬きする。

誤魔化しや、はぐらかそうといった意思は全くない。ただ、スバルにもわからない。奇妙な異常、違和感――信じ難い熱が、胸の奥で発生している。

心臓が爆ぜそうなぐらいに拍動して、全身に流れる血の一滴までもが何かを訴えかけてきているような、処理し切れない恐ろしい感覚が脳に真っ赤な警鐘を鳴らしていた。

「――――」

わからない。今、自分の体に何が起きているのか。

これは、これまでのループの中でも起きていなかった現象だ。何らかの持病、あるいは魔法のようなものの干渉を受けたのか。

自分の中にない知識まで総動員して、最悪の可能性を探り、首を横に振る。

違う。これはおそらく、悪いものではない。警鐘は、この異変が伝えているのだ。

「は、ぁ……」

深く、息を吐く。

直前まで、スバルの脳裏を焼いていたのは、目の前でレイドやバテンカイトスとの攻防を繰り広げるエミリアとユリウスの心配、だけではなかった。

状況的に、立ち尽くして見守るしかない無力な自分。

そんな状況にあってスバルの脳を焼いたのは、こうしている間にも進行している可能性の高かった、五つの障害――その、残された二つの障害だった。

――五つの障害。

一つは塔を取り囲んだ魔獣の大群。一つは塔へ攻撃を仕掛けてくる『暴食』の大罪司教。一つは塔内を自由に歩き始めるレイド・アストレア。――現時点の、これが三つだ。

残る二つは、塔内を我が物顔で徘徊する巨大なサソリと、塔を呑み込むほど恐ろしい勢いで押し寄せる黒い影。

この二つにも対処しなくては、塔へと降りかかる問題を捌き切れない。

眼前の、エミリアとユリウスの奮闘の裏側で、いまだ塔を崩壊せしめる可能性への対処を思い悩んだ瞬間、この胸は熱く脈打って、スバルに膝をつかせたのだ。

どくどくと、強烈に脈打つ心の臓。

その心音に意識を重ねながら、スバルはゆっくりと呼吸し、目をつむる。自然と、そうすべきだと感じた。それに従って、目を閉じた。

「――――」

そのスバルの様子を見て、ベアトリスが呼びかけの声を止めた。

おそらく、彼女にも確信はなかったはずだ。だが、そうしてくれた。物分かりのいい仲間を持って、スバルは果報者だ。

そして、そのスバルの瞼の裏に、奇妙な感覚が湧き上がった。

――それは、ぼんやりとした暗闇に浮かび上がる、ほんのりと淡い光だった。

「――?」

ほんのりと、温かくぼんやりとした光。

それはスバルのすぐ傍らに一つあり、少し距離を離れて正面に二つある。さらに不思議なことに、スバルにはその光が、振り返ってもいない後ろの方角にもあるのがわかった。

後ろ、そちらの方にいっぺんに四つもまとまって光がある。そこから大きく離れたところに一つがあって、そして、そして、そして――、

――もう一つが、すぐ頭上に迫っているのがわかって。

「――ベアトリス!」

「ひゃんっ!」

何故だか、スバルはその感覚を迷わず信じて、ベアトリスに飛びつくようにしてその場から飛びずさった。

軽い、少女の体を腕の中に抱き入れて、スバルは躊躇いなく石の床を転がり――刹那、灼熱が右足の腿を掠めていくのがわかり、苦鳴を上げる。

「が、ぐおおおお!」

その灼熱が、足に負った裂傷からくるものだと即座に気付く。おそらく、深々と抉られた足の傷から意識的に目を逸らし、スバルはベアトリスを抱いたまま振り返った。

そして、痛みと涙で霞む視界を押し開くと、見た。

「――――」

「くると、思ってたぜ、このクソサソリ……ッ!」

忌々しげに吐き捨てるスバル、その正面に現れていたのは、これもまた二度目の邂逅となるであろう巨大なサソリ――黒い甲殻と、赤い光点のような瞳を持ったサソリが、その多脚を生かして壁を這い、スバルたちを睥睨していた。

「――ぁ」

そのおぞましい巨躯を前にして、ベアトリスが目を見開く。そのベアトリスの視線の先にあるのは、スバルの足を深々と抉ったサソリの鋏だ。サソリはその鋏の先端にえげつなく抉られたスバルの肉を挟み、多量の血を通路に滴らせている。

――懸念されていた、巨大サソリの乱入。

乗り越えなくてはならなかった五つの障害が、ここへ一極集中してくる。

「――――」

マズい。マズいマズい。マズいマズいマズい。マズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズい。

状況の悪さを理解して、スバルは痛みで赤熱する思考に活路を見出そうとする。

だが、状況をどうすれば世界が変わるのか、それがスバルには一向に見えてこない。

バテンカイトスがいて、レイドがいて、巨大サソリまで現れて。

せっかく、魔獣の大群をメィリィとシャウラが押さえてくれていても、これでは他に手が回り切っていない。これでは、ダメだ。

この方法では、ダメなのだ。もっと、こうではないやり方を――。

「――スバル!」「スバル!」「スバル!!」

歯噛みするスバルの鼓膜を、三者の声が呼びかけてくるのが聞こえる。

ベアトリスの悲痛な声が、ユリウスの緊迫した声が、エミリアの訴えかける声が、それぞれにスバルを呼ぶのが聞こえて、そして。

バテンカイトスが、レイドが、巨大サソリが、それぞれに動く。

ナツキ・スバルたちの行動を、道行きを阻むように、しかし、それより早く――、

「――――」

――凄まじい勢いと衝撃を伴って、塔全体が激しく揺れ、轟音が響き渡った。

「――――」

それはそのまま、床に倒れ込むスバルの体を跳ねさせ、攻防を繰り広げるエミリアたちを吹き飛ばし、巨大サソリの甲殻さえも押し潰して、世界がひしゃげる。

すぐ傍らの小さな体が、まるでスバルを守ろうとするように抱き着いてきた。その、柔らかい体を抱き返して、スバルは衝撃の中に目を見開く。

『――愛してる』

――そこに、ただ盲目的な愛だけを抱く闇が、スバルを呑み込まんとしていた。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――瞬間、世界の全てが、白と黒が、光と影が、男と女が、愛と憎悪が、ひっくり返ったような衝撃と感覚があって、ナツキ・スバルは流転する。

「――スバル」

「――っ!」

「うひゃんっ!」

呼びかけ、それを手繰るようにして、スバルは声の主を掻き抱いた。

途端、腕の中、じたばたともがく体が慌てて、胸の中からスバルの顔を見上げてくる。

それは――、

「べあ、とりす……」

「そ、そうかしら! 急にびっくりするのよ。別に、嫌って言ってるわけじゃないかしら。ただ、本から戻ったばっかりで心配で……でも、ベティーの名前を最初に呼んでくれてホッとしたかしら」

「――――」

そう、腕の中のベアトリスがスバルに向かってぼそぼそと呟く。その声を聞きながら、スバルはきょろきょろと自分の周りを見回した。

何があったのか、ついさっきまで、自分は通路に倒れていて、足も傷付けられて、そのままあの黒い、黒い、闇の中へ――。

「……書庫?」

「とりあえず、寝惚けているのかそうでないのか、それだけでもはっきりさせてくれると、ボクたちもやりようがあるかな、ナツキくん」

大量の書架に囲まれ、呆然とあたりを見回すスバルに、そんな声がかけられる。

見れば、それは薄紫色の髪を撫で付け、苦笑するエキドナだ。彼女の背後には書架にもたれかかり、「やっと起きたわあ」なんて頬杖をつくメィリィもいて。

「――――」

「わ、わわ! スバル! スバル、どうしたのよ! やっぱり、体調がおかしくなってるかしら? 本の中で何を見たのか、話せるのよ?」

「ああ、いや、うん。それも、しなくちゃなんだが……」

ぎゅっと、スバルはベアトリスの細い体を抱きしめ、温もりを堪能する。

そして、認めざるを得ない現実を認めた。

――戻ってきた。この瞬間に。

五つの障害を乗り越えることにしくじり、スバルはこの瞬間に、舞い戻ったのだと。

第六章66 『終焉へのセカンドチャンス』

――『死に戻り』をしたのだと、まず最初に、その事実を深く受け止める。

「――――」

腕の中、自分を心配そうに見つめるベアトリスの頭を撫でて、スバルは自分の身に起こった直前の出来事であり、そして未来の出来事でもある『窮地』を回想する。

『死に戻り』したということは、命の危機に陥る事態を回避できなかったということ。

訪れるとわかっていた災厄を放置して、仲間たちの命を危険に晒した――否、認識が甘い。そうではないのだ。

命を危険に晒したのではない。スバルは、エミリアたちを死なせたのだ。

ああしたことになるとわかっていて、なおも自分は見過ごした。

五つもの、塔へと襲い掛かってくる無視し難い障害の存在。それをわかっていながら、スバルは自分の浅慮と認識の甘さで問題の回避に失敗した。

最後の瞬間、おそらく決定的にスバルの命を奪ったのは、この巨大で強靭な塔さえも容赦なく破壊する黒い影――あれが、最大にして最後の障害だ。

それを含めて、改めて五つの障害を整理する。

まず一つ目が、塔へと一斉に押し寄せる魔獣の大群。

二つ目が、スバルの『記憶』や『名前』を目当てにやってくる『暴食』の大罪司教。

三つ目がいつしか塔内に侵入し、死角に潜んで襲いくる巨大サソリ。

四つ目が塔内を自由に闊歩し、敵味方を無視して暴れ回るレイド・アストレア。

最後の五つ目が、全てを呑み込み、台無しにしてしまう黒い影。

これらの事態は同時に進行し、どれか一つでも見逃せば容易に計画を崩壊させる。

恐るべき漆黒の影の氾濫は、あるいはスバルにとってのタイムリミットを知らせてくれる不条理で理不尽な世界からの親切と言えるだろうか。ありがた迷惑ここに極まる。

「一つ目の、魔獣の大群はメィリィとシャウラに任せて……」

この選択は間違いではなかったと、そう断言できる。

前回――否、もはや前々回だが、前々回までのループでも五つの障害は並行して発生していたはずだ。その中、塔内に魔獣が攻め込んでくるシナリオもスバルは見ている。

ああなれば、エミリアかユリウスか、とにかく貴重な戦力が魔獣の抑えに回らなくてはならなくなる。それを避けられたのが、メィリィが生存した今回のループだ。

そのメィリィの存在の分、間違いなく一歩前進したと言える。

だが、まだまだ足りない。

魔獣の大群を押さえることができても、その後の障害にスバルたちは無力だった。

現れた『暴食』の大罪司教にエミリアが『名前』を奪われ、どうにかバテンカイトスとの戦いにユリウスを連れていくことに成功したが、そこへレイドが参戦した。

結果、エミリアとユリウスの二人は『暴食』とレイドとの二正面作戦を強いられ、貴重な時間を削られた挙句、巨大サソリの乱入と、影のタイムアップ宣言を直撃された。

つまり、あのバランスになってはならない。手数が足らなかった。

その上、スバルが懸念するのは『暴食』の大罪司教――ルイ・アルネブの言葉が正しかったとしたら、『暴食』は二人きているはずだ。

ライ・バテンカイトスとは遭遇した。だが、あと一人の姿が見えない。

――マズい。マズいマズいマズい。とにかくマズい。

状況は刻一刻と動くのに、全部の問題を把握しているのはスバルだけなのに、これだけ『死』を重ねてまだ全貌を明らかにできていない。

足踏みしていた時間が長すぎた。何故、ああも自分は無為な時間を――。

「――落ち着くかしら!」

「いひゃいっ!」

ふと、加熱する思考に煙を噴きそうになるスバル、その頬をベアトリスが小さな両手で力強く挟み、痛みで意識を現実へと引き戻した。

ベアトリスはスバルの頬を押し潰したまま、息がかかるような距離で続ける。

「スバル、本の中で何があったか話すのよ。一人で抱え込んでいても仕方ないかしら。ちゃんと話して、一緒に考える。……それが、ベティーたちの強みなのよ」

「本の中で、何があったか……」

真摯なベアトリスの訴えを聞いて、スバルは自分の置かれた状況を俯瞰する。

『死に戻り』した事実は受け止めた。そして、自分が戻ってきた場所も、同じように認めて、刻み込まなくてはならない。

ここは、三層『タイゲタ』の書庫。

無数の『死者の書』を収めた書架に囲まれた一室で、スバルが舞い戻ってきたのはレイドの『死者の書』へ挑み、そこから意識が帰還した直後の場面だ。

そして、本の中でスバルに何があったかと言えば――。

「――立ちなさい、だ」

「え?」

「いや、背中蹴られて諦めから追い出されたって話。クソ、情けねぇ。どれだけ進歩ってもんがねぇんだ、俺は」

目を丸くしたベアトリスの前で、スバルは自分の頭をガリガリと掻いた。

それから、ベアトリスを抱えたまま立ち上がり、ゆっくりと周囲――エキドナとメィリィの二人を見る。大人しく、スバルが目覚めるのを待っていてくれたメンバー。

足りないエミリアとラム、ユリウスとシャウラが何をしているかは知っている。

すでに事態は起きていて、立ち止まっている時間などないのだ。

だから――、

「手短にいく。『死者の書』でレイドの記憶を見るのは失敗した。邪魔が入ったんだ。『死者の書』はオド・ラグナって存在の足下に繋がってて、そこで面倒な奴と遭遇した」

そのスバルの早口な説明に、三人が面食らったように目を見開く。

彼女たちの心が追いつく時間を待ってやれないこと、それを心中で詫びながら、スバルは決定的となる一言を続けた。

それは――、

「――『暴食』の大罪司教、ルイ・アルネブが俺たちに宣戦布告してきやがった」

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「それにしても、こんな東の果てまできてまた大罪司教か。つくづく、ナツキくんと彼らとの間には切れない因縁があると見えるね」

説明を聞き終えたエキドナが、そんなコメントでスバルの境遇を揶揄してくる。

そのコメントを聞きながら、スバルたちは書庫の階段を駆け下り、『タイゲタ』を離れた仲間たちと合流するべく動き出していた。

「生憎、こちとら記憶喪失なもんでな。つくづくって言われるような大罪司教連中との付き合いなんか知らねぇよ。……俺って、そんなにあいつらと因縁あんの?」

「少なくとも、この塔にベティーたちがくることになった原因があいつらかしら。あいつらがしでかしたことの解決法を求めて、砂の中を長旅してきたのよ」

「一応、塔にきた目的のさわりだけは聞いたと思ったけど、あいつらがことの発端だったってわけか。ホントに碌なことしねぇんだな」

うんざりと顔をしかめながら、スバルは嫌な相手と結ばれた因縁に辟易する。

深く追及しなかったが、ベアトリスもエキドナも、因縁の相手を『暴食』とは限定していなかった。スバルの想像が正しければ、大罪司教とは全部でおそらく七人いるので、関わった相手は『暴食』単体ではないのではないかと推測される。

「それは気が滅入るから、今は話したくねぇけど……お」

「エキドナ! それに、スバルも一緒か!」

そうして、四層へ戻ったスバルたちが通路へ飛び出したところで、ちょうどこちらへ走ってきていた人物――ユリウスが驚きの声を上げる。

前回も、ユリウスは塔を取り巻く異常事態を確認したあと、スバルやエキドナたちへと事情を知らせるために『タイゲタ』へと戻ってきていた。それを、少しだけ早く捕まえた形だ。

ユリウスは『死者の書』から帰還したスバルの無事を見て取ると、

「無事か、スバル。『死者の書』から肝心の情報は得られたのか?」

「ベアトリスたちにしたのと同じ説明になるが、それには失敗した。細かい説明はこの先の俺の質問で、この異常事態と並行して解決するんだが」

「つまり、どういうことだ?」

「大体の事情は察してるって話だよ。――今、塔の周りに魔獣がきてるな?」

その問いかけをスバルが放った直後、ひと際大きな地響きが塔を揺すぶっていく。

絶えず、地鳴りのような微かなそれは塔内にいる全員の下に届いていた。それを原因として全員が動き出した事実、その真実を言い当てられ、ユリウスが軽く瞠目する。

しかし、彼はすぐに顎を引いて頷くと、

「その通りだ。現在、このプレアデス監視塔の周囲は多数の魔獣に囲まれている。塔の外縁ではシャウラ女史が奮戦し、魔獣の侵入を食い止めているが……」

「この地響きの正体が悪い動物ちゃんたちの群れってことはあ、いくら裸のお姉さんが強くたって、そのうちに抑え切れなくなっちゃうでしょうねえ」

「故に、君の力を借りたい。どうだろうか、メィリィ」

話に割り込んだメィリィ、彼女へと向き直ったユリウスが真摯に頼み込む。その姿勢を受け、メィリィが意味深な視線をスバルの方へ向けてきた。

それが、自分の行動の是非をスバルに問うような視線だったように思えて、スバルは軽く息をついてから頷く。

「俺からも頼む。メィリィ、お前じゃなきゃどうにもならない。さっそくで悪ぃが、お前も俺たち全員で一歩進むために協力してくれ」

「……ふうん? お兄さんったら、あれだけ偉そうなこと言ってたくせになっさけないんだからあ。でも、素直に言えたからこの場は任されてあげる。感謝してよねえ」

「ああ、大感謝だ! 愛してる!」

「安っぽおい……」

スバルの感謝に唇を尖らせ、メィリィが魔獣への対処を快諾する。それで、五つの障害の一つはクリアされる。ここまでは前回と同じだ。

故に――、

「ならば、彼女をシャウラ女史の下へ……」

「いや、俺たちはそれと別行動だ。メィリィ、バルコニーの場所はわかるか? そこでシャウラと協力して、魔獣を何とか食い止めてくれ」

「通路の突き当たり、でしょお? ホント、人使いが荒いんだからあ」

それだけ聞くと、メィリィが嘆息気味な息をこぼして走り出した。気だるげで気乗りしない風ではあったが、それが彼女なりのポーズであることは、スバルの指示に従って走るその足取りでわかる。あれは、彼女の全力疾走だ。

そして、

「スバル、魔獣のことといい、何がしかの確信があると見える。何を知っている?」

「そうだな。それは道すがら説明してやる。ただ、今は一緒にきてくれ。――急がないと、エミリアちゃんたちが危ねぇ」

「――っ!」

驚きに目を見張るユリウス、彼の肩を叩いてスバルは猛然と走り出す。ベアトリスを腕に抱きかかえ、エキドナを引っ張っての大急ぎだ。

一瞬、呆けたユリウスもすぐに我に返り、その背中に軽々と追いついてくる。

「さっき、『死者の書』に潜ったのは失敗したって話はしたな。レイドの記憶は見られなかった。その代わりに、そこで別の奴……『暴食』の大罪司教と遭遇したんだ」

「――馬鹿な。『暴食』が何故、『死者の書』に?」

因縁ある敵の名前を聞いて、ユリウスの表情が凍り付く。その横顔に、「ユリウス」と呼びかけたのはエキドナだ。

彼女は一人、遅速な自分の足を歯痒く思うような表情をしながら指を立てて、

「ナツキくんの話では、『死者の書』とはオド・ラグナの揺り籠……死者の記憶、人生の軌跡を保管しておくための装置の一部らしい。そして、『暴食』の大罪司教は他者の『記憶』や『名前』を喰らう。つまり……」

「彼らの権能は、そのオド・ラグナの力の一端を利用していると? ……いや、本の中で『暴食』と会ったと言ったな。だとしたらスバル、君の記憶喪失の原因は」

「ああ、塔の罠とか仕掛けとかって話じゃない。純然たるFOE……ランダムエンカウントがもたらした事故ってわけだ。お前とお揃いの被害者枠だよ」

まさか、『死者の書』へ臨むことで『暴食』とエンカウントするなど想像もできない。

それも前回のスバルたちの想像が正しければ、『暴食』とエンカウントする可能性のあった『死者の書』とは、この塔内で再現されているレイドの一冊だけなのだ。

どれだけ運が悪いとそうなるのか、昨日までのスバルの日頃の行いに物申したい。本気で大罪司教との因縁、そんな与太話を信じたくもなるほどだ。

「これでお揃いとは、ずいぶんと趣味の悪いことだ。……しかし、昨夜の時点で君と『暴食』に接点があったとなると、この魔獣の襲撃も?」

「半日以上、相手に準備する時間を与えてしまったことになるかしら。スバルが覚えててくれたら話は……あ! その、スバルを責めてるわけじゃないのよ!」

「わかってる。けど、責められて当然だ。昨日の俺がしくじってなきゃよかったし、今日の俺がもっと賢かったらよかった」

そうすれば、もっと万全の状態で相手を迎え撃つこともできたはずだった。

だが、それを言っていても今は仕方がない。持てる手札で勝負する、それが肝要だ。

必要なのは覚悟と決断力、そして自分――はともかく、仲間を信じる意思。

「察しの通り、魔獣の群れは『暴食』の仕業だ。その上、『暴食』本体も乗り込んできやがる……それが、エミリアちゃんたちを狙うはずだ」

そして、気付くのが遅れたスバルたちが辿り着く前に、孤軍奮闘を強いられるエミリアはラムたちを逃がし、その『名前』を喰われる結果を招くこととなる。

それを、今回は未然に防ぐ。――そのために、様々な局面をショートカットした。

「エミリアちゃんの『名前』が奪われずに済めば……」

――おそらく、ラムの戦線離脱を防ぐことができる。

「――――」

前回、ラムが行動できなくなったのは、エミリアの『名前』がバテンカイトスに奪われた結果、エミリアの存在しない記憶の欠落をラムが受け止め切れなくなったためだ。

その危険性がなくなれば、ラムの存在を戦力として期待できるようになる。彼女が連れているレムの身柄も、こちらで預かれば問題はなくなるはずだ。

そうして、エミリアとラムのタッグがバテンカイトスを抑えられれば。

「ユリウス! お前にも仕事がある! 『暴食』の方はこっちで何とかする。お前にとっても因縁の相手だ。ぶっ飛ばしたい気持ちは重々承知だが……」

「だが、なんだ? この場で、『暴食』以上に優先する相手など……」

「――レイドが降りてくる。あいつの横槍が入っちまったら全部がおじゃんだ。それを、止める役割がいる」

「――――」

その説明を受け、再三にわたって発生した驚愕がまたもユリウスの眉間に皺を刻む。

しかし、今回のそれは単純な驚きよりも困惑と、疑念の方が大きい。

当然だろう。

魔獣の大群と『暴食』の大罪司教の襲撃。この両者に関しては、『死者の書』の中で『暴食』から直接聞いた話として処理することもできる。

だが、そこにレイドの存在が絡んでくるとなれば話は別だ。レイドの存在と、『暴食』との間には接点がない。少なくとも、塔の機能と大罪司教は関係ないのだから。

故に、その説明に論理的な根拠を求めることはできないのだが――、

「……仮にそれが事実だとして、レイド・アストレアが階下へこられたとしよう。この状況下で、それらを無視した行動を彼がするとは」

「思えないか? 本当に? あれが、周りの状況に左右される奴か?」

「……悪いけど、ベティーにはそうは思えんのよ。あれは、あれがそのときに一番やりたいことを優先する性質かしら。どんな状況でも」

スバルの腕の中、抱えられるベアトリスが嫌な確信に基づいて首肯する。その言葉にユリウスは言葉に詰まり、最後の意見を問うようにエキドナを見た。

そのユリウスの視線に対して、エキドナは細い肩をすくめる。

「ボクも同意見だよ。とはいえ、彼が塔内を自由に出歩くというのは信じ難い。信じたくないと言った方が正確だが……ナツキくん、その情報も?」

「――。そうだ。『暴食』から聞いた」

一瞬の躊躇いのあと、スバルはエキドナの質問に堂々と嘘をついて頷いた。

事実として、レイドが自由に歩き出した経緯に『暴食』が関与した可能性は低い。少なくとも、バテンカイトスはレイドの存在に驚いていたし、ああも容易くあしらわれていた姿を見れば、味方として召喚した可能性もないだろう。

だから、これはもう完全に、スバルが自分の持つ情報の信憑性をうまく伝えられないが故の、言ってしまえば超法規的措置といったところだ。

「――――」

若干、苦しいところのあるスバルの答えを聞いて、ユリウスが難しい顔で考え込む。

しかし、そうして思い悩む間にも時間は刻々と過ぎる。ましてや現状、魔獣の群れに加えて大罪司教と、塔の状況は進行形で悪くなるのだ。

それを見かねて、エキドナが「ユリウス」と声をかけ、

「現状で、君を目に見える脅威から遠ざけ、潜在的な危険に向けることに抵抗感があるのはボクも同じだ。だが、ナツキくんの言葉には……」

「信を置くべき……ああ、わかっているよ、エキドナ。正直、私自身の仇敵でもある『暴食』の大罪司教から遠ざかることを口惜しいとも思う。だが」

「――レイド・アストレアは、お前にしか任せられない。さっきも言った通りだ」

「……私が勝たねば計算が狂う、だったね。まったく、度し難い殺し文句だ」

計算が狂い、歯車の噛み合わせがズレれば、おそらく途方もない悲劇が生まれる。

それを真剣なスバルの黒瞳に見たのか、ユリウスは深々と嘆息した。

「約束しよう。レイドのことは引き受ける。――だが、仮に彼が二層より動かないとなればそちらへ合流する。異存は?」

「ねぇよ。レイドが出歩かなくて、お前がフリーになるならそれ以上のことはない。判断は適時、お前に任せるが、レイドに勝つのもお前の役目だぞ」

「心得た、としておこう。エキドナ、ベアトリス様、あとを任せます」

「俺に任せろよ……」

自分ではなく、他の二人に任せる発言にスバルが頬を歪めると、ユリウスはキザったらしい仕草で自分の前髪を撫で付け、そのまま颯爽と背を向けた。

白い着衣の裾を乱して、ユリウスが長い足で床を蹴り、二層の階段へ向かう。

「――君が確信を得た方法については深く尋ねないよ」

「――――」

「重要なのは、ボクたちが君を信用していることだ。ボクや、彼の気持ちを裏切らないでくれると嬉しいな」

「何のことかわからねぇけど、恩に着るよ」

ユリウスの背中を見送ったところで、エキドナが声を潜めて語りかけてくる。その言葉の真意は、レイドと『暴食』との関係の希薄さを指摘したものだ。

その違和感を呑んで、エキドナとユリウスはスバルの言説を信じてくれた。その信頼、期待には応えなくてはならない。

「――ぅ」

ふと、そう考えたところで、スバルは自分の胸の奥にチリチリした感覚を味わう。

一瞬、そのスバルの反応にベアトリスが眉を寄せたが、スバルはそんな彼女の反応を余所に振り返り、目を細めた。

――この熱には覚えがある。

前回のループの最後、影に呑まれる直前に味わった奇妙な熱だ。心臓の鼓動が速くなって、スバルはチリチリとした熱さに歯噛みし、瞼を閉じる。

その瞼の裏側に浮かび上がる、淡く儚げに揺れる光の粒。

それはすぐ腕の中と傍らに、そしてスバルが顔を向けた方角にも見えて――。

「急ごう! 俺たちは俺たちで、エミリアちゃんたちと合流だ!」

「それは構わないが、ボクたちで役立てるのかい? はっきり言って、今の君とベアトリス、それにボクでは非戦闘員もいいところだよ」

「ベティーは、戦おうと思えば多少は戦力になるのよ。それに、スバルの狙いは援軍としてってわけじゃないはずかしら」

走り出したスバルを余所に、エキドナとベアトリスが意見を交換する。

エキドナの懸念は正しく、そしてベアトリスの想像は正解だ。

悲しいが、スバルたちではエミリアの戦力的な援軍にはならない。代わりに――、

「――バルス! 起きたのね!」

「ラム!」

通路の角を曲がったところで、先ほどと同じ光景――パトラッシュの背に乗り、レムを抱きかかえたラムの姿が現れる。

彼女は颯爽とパトラッシュの背から飛び降りると、その手綱をスバルへ投げ渡し、

「起きるのが遅い! レムのことを任せるわ! 傷付けたり、変な触り方をしたら許さないから死ぬ気で守りなさい。ラムは――」

「待て待て待て、色々早い! 話はわかるが、落ち着け! お前は……」

「『暴食』の大罪司教がきてる! エミリア様が応戦しているけど、分が悪いわ。すぐにでもラムが戻らないと、手遅れになる!」

「――――」

刹那、スバルの胸に去来した感情は複雑だ。

慌てて戦場へ戻ろうとするラムを憂慮し、彼女の口からエミリアの名前が出たことに安堵して、憎きバテンカイトスの存在を確信して怒りが芽生える。

それらをねじ伏せ、スバルは受け取った手綱をエキドナへ預けると、

「エキドナ! レムとパトラッシュを安全圏に頼む! バルコニーと二層はダメだ! 緑部屋も今は近付けない。たぶん、『タイゲタ』が一番マシのはず!」

「ナツキくん、君は!?」

「俺とベアトリスは、ラムと一緒に大罪司教だ!」

ぎゅっと手綱を預けられ、驚くエキドナの浅葱色の瞳をスバルは見つめる。微かに息を呑む彼女に、スバルはパトラッシュの首を撫で、その背のレムを顎でしゃくると、

「さっき、お前は言ったな。信用を裏切らないでくれって。俺も同じことをお前に頼む。レムを頼んだ。この子は、『ナツキ・スバル』にとって欠かせない子だ」

「――妙な言い方をする。君だって、ナツキ・スバルのはずだろうに」

「……お前にはちょっとだけ、俺の気持ちがわかるかもって信用もあるんだぜ」

エキドナの存在は、本来はアナスタシアという少女の肉体を借りることで成り立っていると聞いた。それは、『ナツキ・スバル』の存在に自分を上書きしている、今のナツキ・スバルと同じような立場とも言える。

そんなスバルの言葉を受け、エキドナはハッとした顔をした。

「ナツキくん、まさか君は――」

「――頼んだぜ」

エキドナの言葉を全部は言わせず、スバルは彼女たちを残して走り出した。

すでにラムは通路の先へ向かっている。去り際、パトラッシュの背中のレムの寝顔をちらとだけ見て、自分の勇気を奮い立たせながら。

「何故、きたの、バルス。レムは……」

「レムは、自分に構うよりやることをやれってよ! 本の中で説教された!」

「――っ! レムに? どういうことなの?」

隣へ並んだスバルの言葉に、ラムが薄紅の瞳を動揺させる。ただ、懇切丁寧に『記憶の回廊』であった出来事を語っている暇はない。

だから、スバルは一番大事なことだけ手短に伝える。

「レムは戦って、取り戻してこいとよ。だから、俺も一緒にいくぜ!」

「もちろん、ベティーもいるから忘れるんじゃないのよ」

「――。今は、それでいいわ。あとで百倍、問い詰めてやるから」

「百倍って怖いな!?」

ラムの場合、それが冗談とも聞こえずにスバルは震え上がる。しかし、重要なことは何一つ説明しなかったスバルに、それだけで済ませてくれたのは彼女の恩情だ。

そして、そうする必要がある事態が、すぐ目の前に迫っていて――。

「――アイスブランドアーツ!」

次の瞬間、凍える通路の中央で、氷の武装を手に舞い踊るエミリアの背が見える。

相対するのは薄汚い格好の大罪司教、ライ・バテンカイトスだ。

それを見て、ラムが叫ぶ。

「エミリア様!」

それがエミリアの名前だったことで、間に合ったのだとスバルは確信する。

と、同時に、名前を呼ばれたエミリアは「え、ラム!?」と背後のこちらに気付き、

「どうして戻ったの!? それに、スバルとベアトリスまで、無事でよかった……けど! でも今すごーく危ないの! 下がって! 離れて!」

「レムは安全なところへ避難させました。今から、ラムも助太刀します」

「でも、ラム、あなたは……」

「退けと、そう言われて退けるとでも?」

エミリアに応じながら、ラムが自分の足に手を伸ばして、そこに備え付けられていた細い杖を抜き放った。

いわゆる、魔法使いが持っているイメージの短い杖だ。何の変哲もない一品に見えるが、不思議と奇妙な圧迫感を放っているようにも感じられた。

そして、それを構えるラムの姿を見て、エミリアから距離を置く『暴食』が嗤い、

「はっはァ! なになに、戻ってきちゃったんだ、姉様! やだ、男前! なんでなんで姉様ってばそうカッコいいの? ホント、姉様は素敵ですッ!」

「――煩わしい。殺してやるわ、大罪司教」

手を打って、ゲラゲラと嗤っている大罪司教にラムの静かな殺意が突き刺さる。

隣で、自分に向いたわけではないそれを横目にして、スバルの背筋に寒気が走るほど強烈な怒りだ。その直視を受け、しかしバテンカイトスの余裕は崩れない。

「いいね、いいさ、いいよ、いいとも、いいから、いいじゃない、いいだろうさ、いいだろうね、いいって思えるから! 暴飲ッ! 暴食ッ! 一方的で圧倒的な因縁に留まるのが申し訳ないよ。ホントなら、もっと感動の再会になるはずなのにさァ」

「何を……」

「大切な相手の『名前』と『記憶』を奪うなんて、復讐モノって考えたら最上の仇って感じだろ? なのに、僕たちが喰らった相手ってのは、そのことを覚えてない場合が大半ってわけ。こんなに俺たちが姉様を愛して、理解してても、姉様にはその気持ちがこれっぽっちもわからないわけ! これって、涎が出そうになるぐらいの高級食材にソルテをぶちまけたみたいなもったいない使い方なんだよね」

つらつらと、『暴食』の大罪司教が一切の参考にならない事情を説明し始める。

実際、『暴食』の持つ他者の記憶を奪うという力は、人生を踏み躙る行いに等しい。家族を、恋人を、恩人を彼らに襲われれば、その最悪の事象は忘却の彼方へ消えて、あるべきはずだった憎悪は失われる。

それはある種、自分たちに復讐させないセーフティーとして働くだろう。

だが――、

「――それってさァ、最高に退屈じゃない?」

だが、バテンカイトスはあろうことか、それを退屈だと言い切った。

「――――」

「本来、得られるはずだった芳醇な憎しみとか、どろどろと濁り切った怒りとか、そういう新鮮な臭みのある感情が根こそぎ否定されるわけ。それって僕たち的には大いなる損失だったってことなんだよ。……そっちの、お兄さんが現れるまでは」

「俺……?」

「お兄さんさァ、何故か俺たちが『名前』を食べてもその人のこと覚えてるでしょ? その原因はなんか色々わかったよ? きっと、お兄さんが生まれた場所がこことちょっと違うとかあるんだろうけど、大事なのはその結果。お兄さんは、僕たちの救世主だよ」

言いながら、バテンカイトスは両手を広げ、陶然とした顔でスバルを見る。

それはまるで本気で、スバルに恋い焦がれるように情熱的な眼差しで。

「いいや、あえてこう言い切ろうか! お兄さんは俺たちの英雄だッ! いじらしくて、一生懸命で、傍にいてあげないと不安で、意地悪で、思えば思うほど胸がチクチクと痛くて痛くて、しかもその感情をわかってくれる英雄……!」

「薄気味悪ぃ発言はやめろ! 何のつもりでお前は……」

「もちろん、心からの感情だよ。ひどいなァ、哀れだなァ。こんなに僕たちは健気に、俺たちは一途に、お兄さんを想ってるってのにさ」

それが、混ざり合った感情のどこまで本気の発言なのか、スバルにはわからない。想像もつかないし、したくもない。

ただ、ここまでのバテンカイトスの発言を鑑みれば、自ずと見えてくる。

奴が取り込んだ存在が、スバルへの想いを――否、誤魔化しはいらない。

それは、奴が取り込んだレムの想いを――。

「どうだい! 何ならもう一回、あの感動を繰り返そうか! ここから始めようよ、お兄さんッ! 一から、いいや……ぜ」

「――えいやぁ!!」

「ぶがんっ!?」

その瞬間、バテンカイトスの背後から忍び寄ったエミリアが、その両腕に抱える強大な氷槌を躊躇なく大罪司教の後頭部へ打ち込んだ。

まるで漫画か何かのような容赦のない一撃に、バテンカイトスの言葉は途切れ、一瞬、完全に白目を剥いて正面に倒れ込む。

「――――」

「……え、勝った?」

「やったわ!」

沈黙するバテンカイトスと、拳を握ってガッツポーズを決めるエミリア。その両者を見比べて、スバルは恐ろしく呆気ない結末に目を剥く。

「……なんて呆気ない幕切れなのよ」

「……まったくだわ。今、あれを八つ裂きにしてやろうとしていたラムの気持ちはどこへ持っていけばいいの。エミリア様!」

「え、なに? だ、ダメだった?」

「――。いいえ、お見事でした。ええ、本当に、お見事でした」

スバルに抱き上げられたベアトリスと、ラムが口々に倒れる『暴食』に失望する。

不意打ちで仇敵との因縁を踏み躙られた形になったラムなど、功労賞もののエミリアの行いに複雑な様子だ。

しかし、

「いや、確かに言いたいことは山ほどあるけど、一番最初に出てくる言葉はエミリアちゃん、グッジョブだ! これで、『暴食』をふん縛って……」

「――残念だけど、そうはいかないわよ、お兄さん」

「――――」

五つの障害の二つ目が思わぬ形で消化された、そう考えたスバルの前で、ぐったりと倒れていたはずのバテンカイトスがゆらりと立ち上がる。

その不自然な動きにスバルは目を剥き、ベアトリスが身を硬くした。

当然、エミリアとラムも警戒を瞳に宿して――、

「殴られて頭がおかしくなったのかしら? バルスへの求愛めいた発言も含めて、状況が弁えられないなら……」

「ああ、ああ、そういうのいいからサ。あたしたちの想いはもう伝えてあるし、私たちももう遠慮とかするつもりもないし……」

ラムの言葉を遮り、立ち上がったバテンカイトスが俯いたまま、その長いこげ茶の髪で顔を隠しながら、ぶつぶつと何事か呟く。

その呟きに重なるように、歪でおぞましい音が通路に鳴り響いた。

「嘘……」

その、おぞましい音に伴った異様な出来事に、エミリアが紫紺の瞳を瞬かせる。

その彼女の美しい瞳に映るのは、歪な音を立てて骨格から変化していくバテンカイトスの体――小柄な少年の肉体が、筋骨隆々の大男のモノへ変貌する。

まるで悪夢めいた出来事だが、スバルにとっての真の悪夢はそれからだ。

「はあい、お兄さん、驚いた? これが『日食』……まァ、あたしたちの切り札の一枚って感じ? さっきと違って、今度は力ずくでモノにしてあげる」

「ずいぶんと、薄気味悪いこと言いやがるな、オカマ野郎。お前は……」

悪夢めいた怖気を覚えながら、スバルは冷や汗を浮かべつつ問いかける。

それを受け、その大男は嫣然と、異様な雰囲気を隠さないままに微笑み、一礼する。

「――魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブ」

「――――」

「あんまり長くはいられないの。お兄ちゃんが寝てる間のつまみ食いで、全部全部、片付けて回らなきゃなんないから、サ」

第六章67 『小さな王』

眼前の、ルイ・アルネブを名乗る筋骨隆々とした男の姿にスバルは絶句する。

不自然極まりない出現方法もだが、名乗った名前も名前だ。

悪ふざけであるなら到底受け入れ難いし、そうでなかったとしても簡単に受け止めることはできない現象で――。

「――姿形の変わる大罪司教がいるとは聞いたけど、どうやらその類のようね。それにしては選んだ姿がどうかと思うけど、そんな見た目に翻弄されると思って?」

「姿形が変わるって……あァ、あのぺちゃくちゃやかましい女のこと? あれと一緒にされるのはあたしたちも傷付いちゃうなァ。それに、あれと私たちの『日食』とは原理が全然違うから。あっちは猿真似で、こっちは再現だからサ」

「猿真似と、再現……?」

たくましい体つきをくねらせ、そう答える暫定ルイ。その答えに顔をしかめながら、スバルはラムが口にした『他の大罪司教』なる言葉にも嫌な気分を味わった。

大罪と、『暴食』と名乗った時点で他の大罪司教が存在することは予想の内だが、その中のすでに一人の能力的なものを聞いただけで嫌悪が湧く。

姿形が変わるとの話だが、どうせ碌な使い道に使っていないのだろう。

「とはいえ、見ず知らずの人扱いされたこの体、実は結構な有名人だったりするんだよ? 残念ながら、あたしたちに食べられちゃった人の記憶は姉様たちにはないけどサ」

「有名人……つまり、食べた相手の姿形を借りるということ? なるほど、悪趣味を極めたあなたたちらしい最低の手法ね。反吐が出るわ」

「わお、姉様ったら言葉が汚くてございますわよ? そんなんじゃ、妹としての記憶も残っている私たちが恥ずかしい……」

と、暫定ルイがそこまで喋ったときだ。

ふいっと暫定ルイが身を前へ傾け、背後から薙ぎ払われる一撃――氷のハンマーによる攻撃を回避する。当然、それを放ったのは――、

「あ、よけた!」

「ふふふっ、容赦ないわねえ、エミリア様! お兄ちゃんはもろに喰らったけど、そんな不意打ち、あたしたちには当たらないわよ?」

「当たらないなら、当たるまで攻撃するだけよ! 別に、不意打ちがしたいわけじゃなくて、あなたをやっつけたいだけなんだから!」

そう言って、エミリアが手にした氷槌を手の中で変形させ、続いて氷の双剣にして暫定ルイへと叩き付ける。しかし、暫定ルイはこれをその巨躯から考えられない身のこなしで躱し、ついにはエミリアの細い手を上から取ると、

「せいっ!」

「きゃあああ!」

鋭く身を回し、エミリアの体が軽々と投げ飛ばされる。そのまま背中から落ちるのを、エミリアは体を捻って回避、腕を地面について転倒を防ぐ。が、そのエミリアの顔面に突き刺さるように暫定ルイの爪先が迫った。

直撃されれば、エミリアの世界一可愛い顔が砕かれる。――そこへ、

「いい加減、ラムを無視して戦いを続けるのをやめなさい」

「ラム!」

エミリアの顔面を狙った爪先を上から踏みつけ、相手の動きを封じたラムがその手に持った杖を暫定ルイの顔に突き付ける。

瞬間、極小規模の風が生まれ、刃となって相手の顔を切り刻まんと放たれた。

「――拳王の掌!」

その、最小限の力で最大限の加虐を体現したようなラムの一撃を、真下から掌底を跳ね上げた暫定ルイがかろうじて回避する。

突き上がる掌が風の刃を真下から受け、直後に風が衝撃波に呑まれて霧散したのだ。

右の掌で風を砕いた暫定ルイは、そのまま空いた左手で正面のラムを掴みにかかる。しかし、その手が届く頃にはラムはエミリアを連れ、相手の手の届く範囲から離脱、戦闘を仕切り直せる位置へと下がっていた。

「やるぅ!」

「ハッ!」

空振りした左手を握りしめ、暫定ルイがラムの判断と行動力を称賛する。その称賛を鼻で笑い、ラムはすぐ傍らのエミリアの手を引いて立たせる。

「エミリア様、ご無事ですか?」

「ええ、ありがと。ラムが助けてくれなかったら痛い思いしちゃうところだった。それにしても……今の見た?」

「――どうやら、明らかに強くなっていますね」

エミリアの確認に、ラムがわかっていると頷き返す。

そうした二人のやり取りを背後で聞きながら、スバルも全くの同意見を抱いていた。

――ほんのわずかな攻防だが、暫定ルイの動きは俊敏かつ正確だ。

素人目の意見になるが、その実力はおそらくバテンカイトスをゆうにしのいでいる。攻防の最後、ラムの一撃を潰した動きなど神がかっていた。

「今のは拳王の掌……この体と記憶の持ち主、『拳王』ネイジ・ロックハートの決め手。何でも弾く最強の掌で、剣奴孤島では敵なしの実力者だったってわけ」

「……つらつらと、自分の強みを明かすあたりが手馴れていないわね。自分を追い込む不利に働くだけよ。ラムはその手の考えに乗じることを躊躇わないわ」

「全然、そういうので構わないよ、姉様! 私たちを追い込めるんなら追い込んでみてほしいぐらい! ほら、敗戦の記憶って振り返ると甘美だったりするでしょ?」

「さあ。ラムは常に勝利しか知らないからわからないわ」

「そう? それは人生の酸いを知らなくて損してるね」

言い切った瞬間、暫定ルイの姿が再び視界から掻き消える。それは素早く動いたなんて次元のものではなく、本当にその場から消えたと呼ぶに相応しい現象だ。

「――!?」

その思わぬ行動にラムが目を剥く。彼女にも、相手の位置は掴めていない。

まさか逃げたわけではあるまいが――、

「――ラム、危ない!」

刹那、今度はラムを抱き寄せ、エミリアが後ろへ飛んだところだった。そのエミリアの避難から遅れる銀髪の数本が、叩き付けられる衝撃に呑まれて通路に舞い散る。

そして、攻撃を回避されて「ははッ!」と笑ったのは、筋骨隆々とした戦士ではなく、髪のない禿頭を晒した細面の人物だ。

どこか神経質そうな印象を抱かせる外見、明るい橙色の法衣のような格好に身を包んだその人物は、飛んで逃れたエミリアたちの姿に舌なめずりして、

「いいね、いいよ、いいじゃない。次はよけられるかしら?」

「きゃ――っ」

瞬間、またしても禿頭の人影が虚空に消え、再び虚空から出現する。それはまるで、先ほど後ろから殴られた意趣返しとばかりの奇襲攻撃の連続だ。

死角から死角へと次々と飛んで、手にした短剣が恐ろしく正確に急所へ閃く。そのことごとくを、エミリアはラムを抱いたまま、懸命な応戦で打ち払い続けた。

「ははは! やる、やる、やるね! この『跳躍者』ドルケルの暗躍、どうやって見抜いてるの? すごい不思議だわ!」

「そんなの決まってるわ! 山勘よ!」

「もちろんそれだけじゃなく、ラムの援護もあるわよ。――エミリア様!」

「ええ!」

死角へ飛び、急襲を仕掛ける暫定ルイ。

凶笑を浮かべながら自由に飛び回る相手だが、その次なる出現位置をラムが見抜いた。ラムの呼びかけを受け、エミリアが長い足を豪快に旋回させる。

刹那、次の位置へ現れた瞬間の禿頭の横っ面へ、エミリアの踵が突き刺さった。

「ぐ……っ」

「う、やぁ――!!」

相手の顔面を踵で捉えたまま、エミリアが半回転して相手を地面へ叩き付ける。その瞬間、エミリアは手をかざして地面から氷柱を生やし、その鋭く尖った先端へ向かって容赦なく相手を背中から叩き落とした。

無防備に直撃されれば、背中から胸を貫通しただろう恐るべきフィニッシュアプローチだ。しかし、それは残念ながら効果を発揮しない。

「え!?」

「『肉食獣』ベリ・ハイネルガの皮膚は聖剣も通さない、ってね」

背中で氷柱を割り砕いて、獰猛な笑みを作ったのは丸々と太った髭面の中年だ。

それがエミリアの腰ほどもある、丸太のような腕を振り回し、寝そべったまま攻撃を開始――攻撃を打ち払いながら、エミリアが慌てて後ろへ飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。

「う! あ! う! ちょっと、このままじゃ……!」

「エミリア様、ラムを手放してください」

「ダメよ! 私、ラムを見捨てたりなんて……むぐ」

「ではなく」

ラムを抱いて敵から逃れるエミリア、その唇をラムが指を押し付けて塞ぐ。言葉を強制的に中断されたエミリアへ、ラムはやれやれと首を振り、

「そろそろ、ラムにも反撃させなさいという意味です」

そう言った直後、エミリアの腕を振りほどいて、ラムが巨漢の前に堂々と立つ。それを見た暫定ルイは岩のように分厚い唇を震わせ、その掌を少女へ振り下ろした。

「ぶふぅっ! ひしゃげろ!」

「百歩譲って、ひしゃげてくださいませ、ラム様よ」

そう居丈高に言い切って、ラムが自ら、落ちてくる掌へ向けて前進する。誇張抜きに、巨漢の掌はラムの全身を押し潰して余るほどのでかさだ。

その掌との正面衝突は、車と真正面から激突するに等しい無謀なもの――少なくとも、スバルの目にはそう映った。

それをラムは、

「――――」

「この程度で、ラムを捕まえられると思わないことね」

指先が掠める寸前を見極め、最小限の動きで攻撃を回避した瞬間、唇を嗜虐的に緩めるラムの肘鉄が相手の顔面にぶち込まれた。

細く白い肘が、しかしその華奢さからは想像のできない鋭さで鼻面を抉り、衝撃に容赦なく『肉食獣』がのけ反る。途端、見えた喉仏へラムの左の手刀が打ち下ろされた。

「――ッ」

「わけのわからないことが続いて、いい加減に腹が立ったわ。とっとと、ラムの手で八つ裂きになりなさい、卑劣漢」

鍛えようのない人体急所を立て続けに抉られ、暫定ルイが苦鳴を上げる。そこへラムは躊躇わずに突っ込み、今度は分厚い贅肉に守られた土手っ腹を杖で突く。

そして、鋭い先端が贅肉に埋まった瞬間、そこで風の魔法を発動し、巨体を軽々と背後へ吹っ飛ばした。

「つっよ……!」

血をばらまき、通路を弾んで転がっていく暫定ルイの姿にスバルは目を剥く。

ここまで、呼吸もできないほど戦いを俯瞰するのに集中していたが、いざラムが戦場へと立った瞬間、形勢はあっという間にひっくり返った。

無論、ラムがある程度戦えることが前提の戦力配分ではあったが、

「ラムがここまでやれるってのは嬉しい誤算……」

「って、わけでもないのよ。ラムにだけ頼りっきりってわけにはいかないかしら」

「――? そりゃどういう……」

わけだ、とスバルは腕の中のベアトリスに聞こうと首を傾げる。が、ベアトリスがそれに答える前に、答えの方から先に目の前で提示される。

「――――」

がくんと、前へ踏み出そうとしたラムの姿勢が崩れた。足を踏み外したのかとスバルは目を凝らすが、そうではない。

ラムは額と首筋に汗を浮かべ、見るからに辛い様子で息を切らしている。

ほんの一瞬、もちろん命懸けの攻防を時間の長短で語ることなど愚の骨頂だが、それにしても直前までの様子と、その様子には劇的な違いがあった。

「短い時間であれば、ラムの戦うセンスは他の追随を許さないかしら。でも……」

「時間制限付き……!? しまった、ラム――」

そんな弱点があるとは知らず、ラムを危険な状況へと送り出してしまった。その焦燥にスバルが声を上げるのと、暫定ルイの姿が再び筋肉質の巨躯へ変わるのは同時だ。

足の止まったラムへ目掛け、相手が猛然と前進し、全てを弾かんとする掌を突き出してくる。直撃を受ければ、ラムがどう弾けるかは全くの未知。

「ラム――!」

「グダグダと、男のくせにうるさいわね」

スバルの必死の呼びかけに、しかしラムはつれない返事をするばかり。

そうする間にも、暫定ルイの一撃がラムの顔面を捉え――、

「自分の弱点ぐらい、ラムが一番わかっているわ。だから――」

「ラムと一緒に、私が戦ってるんだから!」

「――ッ!?」

膝をつくラムの頭を飛び越えて、銀髪を躍らせるエミリアが敵の正面へ。掌を正面に構える相手に向けて、エミリアが選んだ戦術は至極単純。

数え切れないほど無数の氷の武器を宙に浮かべて、それを一挙に敵へ向けて発射するという物量作戦だ。

「う、あああああ――!!」

凄まじい氷の総量を、暫定ルイが何もない掌を構え、打ち払う。

猛然と襲いくる氷の大嵐を、暫定ルイは尋常でない身のこなしで防ぎ、払い、打ち付け、越えていく。その技量もまた、明らかに常軌を逸した達人のそれだ。

実際、『暴食』の被害に遭った『拳王』と呼ばれる人物は、それほどの技量を修めた本物の武闘家だったのだろう。――それが今、こうして力を悪用されている。

鍛えた力も、身につけた武も、『暴食』の力は全てを横から奪い取り、我が物顔で利用して、その道のりをせせら笑う。

あるいはそれは、その記憶の本来の持ち主すら辿り着けなかった領域へと、より高みへと辿り着くことさえあるのではないか。

「はァ!」

エミリアの攻撃を全て打ち払い、達成感に鋭く呼気を放つ『暴食』の姿を見れば、そうした考えが頭を掠めずにはいられない。

「いいね、最高! なんていうか、記憶のカタログスペックを完全に再現したか、それ以上を発揮したときにこそ、この体で生きてるって甲斐を感じられるわよねッ! 借り物の魂を、持ち主より上手く使ってやったぜって感覚? 生きててよかったッ!」

「――悪趣味ここに極まる発想ね」

「かもね! でもサ、人と違うあたしたちが、人と違う何かに喜びを見出すのって至って自然な流れだと思わない? 思わないかな。思うでしょ。思うよねッ?」

「さあ? そうなの、エミリア様?」

「いいえ、そんなことない!」

掌から氷の破片を落として、悪辣に嗤った暫定――否、ルイ・アルネブに対して、肩をすくめるラムがエミリアに問いかける。

すると、その問いかけを受けたエミリアは地面から生えた氷斧と氷槍をそれぞれ担い、

「たとえあれこれ人と違っても、同じことを思って喜んだり悲しんだりはできるはずだわ! 例えば私、ずっと一人だったけど、河原で石積みは楽しんでたもの」

「……それはそれで特殊な事例の気がしますが」

「なるほどねェ。確かに確かに、私たちの中にも河原で石積みするのをやってた記憶はあるんだな、これが」

「ほら!」

「でも、それは楽しいからやってたわけじゃなくってサ。他にできることがないからやってただけなんだよ。時間を潰す手段が他になかったってだけなのサ」

「え、そうなの……?」

愕然と、石積みの思い出を否定されたエミリアが表情を曇らせる。と、そのエミリアの反応に背後でラムが「エミリア様」と少し強くその名を呼んで、

「敵の術中にはまらないでください。相手は大罪司教……こちらの思惑を崩すためなら、どんな言葉でも弄します。騙されないで」

「そう? そうよね。ええ、わかってる。もう騙されないわ」

「何ともまァ、ひどい言い掛かりもあったもんだよ。他でもない姉様が、あたしたちを放っておくからそうするしかなかったっていうのにサ」

「――黙りなさい!」

なおも、嬲るような言葉を重ねるルイへ向けて、ラムが再び凍れる通路を蹴った。

体力的には万全ではない。それがわかっていてラムが敵へ挑みかかるのは、そうしなくては踏み躙られると、汚されてはならないものを汚されるとわかっているからだ。

それに雄々しく怯えるラムの咆哮が、真っ直ぐにルイへと突き刺さる。

しかし――、

「今度は私も一緒だから、降参するなら今のうちよ!」

「お気遣いドーモ、でもいらないかなァ!」

「強情っ張り!!」

可愛らしい表現をしながら、攻撃としては一切の可愛さがない致命打を叩き込むエミリア。怒れるラムとエミリアの二人を相手にして、しかしルイは嫌らしいぐらいに変幻自在に戦い方と姿を切り替え、その攻防を自分のペースに巻き込む。

「――――」

その圧倒的な戦闘を傍観しながら、驚くべきことが二点ある。

それは、エミリアとラムの連携、その熟達と息の合った戦いぶりだ。

前回のループ、エミリアが『名前』を奪われたことで彼女の存在を忘れ、戦い方がわからなかったという前提があるが、エミリアとユリウスの連携の間にあったぎこちなさ、それがエミリアとラムの間には全くない。

もちろん、そこには相手に合わせようというエミリアの無駄な努力が行われていないこともあるが、それ以上に大きいのは卓越したラムの戦闘センスだ。

「は――っ!」

「ちィ! ホント、厄介だなァ、姉様は!」

反撃しようとした刹那、寸前の鼻面に杖を突き込まれ、生じる風の刃をのけ反って回避しながらルイが舌打ちする。

大きな動きではないが、そうした合間合間でのラムのフォローがエミリアを生かし、ルイの攻防の良さを潰して、自分たちの有利へ引き寄せていく。

派手さがない分わかりにくいが、常にエミリアが気持ちよく全力の一撃を放り込めるように相手を追い込み、自分の位置取りもする働きは表彰ものだ。

そのエミリアとラムの連携、主にラムの判断力の賜物たる抜群の連携。これがスバルが驚かされた一つの要因だ。

そして、それに匹敵する驚きがもう一つ。それは――、

「ははァ! いいね、いいよ、いいさ、いいかも、いいじゃん、いいよね、いいじゃない、いいじゃないさ、いいだろうとも、いいだろうから! 暴飲ッ! 暴食ッ! あたしたちも、段々と気分と気持ちが乗っかってきたかもッ!」

「くっ! ホントに、どんどん強くなる……!」

「忌々しい……!」

歯噛みして、エミリアが繰り出される拳を双剣で打ち払い、ラムが相手の足下を狙って風の刃を繰り出す。が、『拳王』となったルイはエミリアの双剣を掌で突き飛ばし、『跳躍者』となってラムの攻撃を回避、『肉食獣』となって氷の通路へ体当たりを放つ。

衝撃波がエミリアとラムを貫き、二人が大きく後方へ弾かれ、息をつく。

「――――」

エミリアとラムの連携は間違いなく錬度が高い。しかし、驚くべきことに、ルイの記憶を我が物とする習熟度がそれ以上に速いのだ。

おそらく肉体を切り替えることで、ルイは手に入れた『記憶』を完璧な再現度で肉体に落とし込み、それを自在に繰り出せている。

――『日食』と、ルイは確かにそう言った。

体を奪われる前のバテンカイトス――ルイの兄もまた、前回のループの中でエミリアのアイスブランドアーツなるカッコいい名前の技をコピーしていたが、あれはあくまで自分の肉体での再現に留まった。ルイのそれは、あれ以上の完成度。

日食とは、太陽が月の影に隠れて見えなくなる現象のことだが、これはおそらく、本体であるルイが太陽であり、それを覆い隠す月が再現する『名前』と『記憶』だ。

つまり、『日食』とは自らの肉体を『記憶』の他者へと変化させ、その力を十全に我が物として用いることと推測できる。――その成果が、眼前のルイだ。

そして――、

「『日食』があるなら、『月食』もあるって考えるのが自然な考え方だが、月が隠れるってどんな力……いや、それ以前にこれを破れんのか?」

コピー系能力者の敗北するパターンのお約束といえば、能力の扱い方を十全に把握し切れず、本物に劣ることが敗因となるケースが多い。

だが、ルイを始めとした『暴食』のコピー能力は、その弱点を『相手の肉体と記憶』を利用することで完全に補完している。

これはお約束による攻略を無視した、完璧なコピー能力の在り方だ。

「マズい……エミリアたちが押され出すと、状況が変わる」

ぐっと、スバルは自分の服の胸元を掴んで、眼前の光景に手出しできない自分の無力さを歯噛みする。

こうしてエミリアとラムが『暴食』と交戦するのを皮切りに、塔の各所ではすでに仲間たちが続々と戦いを始めている。

塔を取り囲む魔獣の群れに対抗するメィリィ、レムとパトラッシュを避難させるべく『タイゲタ』へと避難するエキドナ。そして、二層で激しい動きが見られるユリウスなど、状況はかなり劇的な動きを見せていて――。

「――ユリウスが、苦戦してやがるな。これ、相手はやっぱりレイドか?」

「――スバル? いったい、何を言っているのよ。どこを見て、何を?」

「どこを見てって、何言ってんだよ、ベアトリス。そりゃぁ……」

抱き上げられたベアトリスが、スバルの呟きを聞きつけて目を瞬かせる。そんな彼女の無理解の呟きに眉を顰め、答えようとしたところでスバルははたと気付いた。

確かに今、自分がいったい何を見て、どうしてそんな発言をしていたのか、自分自身にもはっきりと断言することができなかったからだ。

ただ――、

「なんだ、これ? みんなが、どこで何してるのかがわかる。見える?」

胸元を強く掴んだまま、スバルはその感覚――ぼんやりと、淡く輝く光のようなものを感じ取る、不可思議な感覚の存在を自覚する。

それはこの塔の中、各所にいる仲間たちの反応をスバルへと知らしめるものだ。感覚的にはラムたちとの合流、その瞬間にもあったもので、そのときもスバルはこれを自然なものと、まるで生まれながらに持った三本目の腕のように自然と受け入れていた。

だが、三本目の腕を自然と生まれ持つことなどそうはない。

それを自覚した途端に、スバルは自分がいかに不自然な状態にあるのかがわかり、一気におぞましさ、受け入れ難い嘔吐感のようなものが込み上げる。

「――ぐ」

だが、それを奥歯を噛んで堪えて、吐き出さないように呑み込んだ。

今、自分に三本目の腕が唐突に生えたとしても、それが役に立つと踏んだのであれば、それへの嫌悪感など振り払い、自らのものとして堂々と受け入れるべきだ。

皆の居場所と、状況が大まかにわかる。――仲間という仲間が散逸するこの状況で、これほどスバルに適した力が他にあるだろうか。

だから――、

「とっとと、大人しく、俺のモノになれ――」

この不自然な力の塊は、ナツキ・スバルの魂に呼応して現れたものだ。

自然と脳裏に浮かび上がったのは、ルイ・アルネブと相対した『記憶の回廊』、あそこから背中を押されて飛び出す寸前、我が身の中に開花した力の奔流。

あれに名前を付けた。そう、その名も――、

「――コル・レオニス」

自覚と掌握、それは名を呼んだ瞬間にナツキ・スバルの魂へ広がる。

そして、『獅子の心臓』を冠した力が正しく、その効果を――否、権能をナツキ・スバルへと与え給うた。その効能は、

「ぬ、ぐ……ッ!?」

「スバル!」

がくんと、突然の体の重みにスバルの足下が大きく揺らぐ。途端、スバルの変化に気付いたベアトリスが悲鳴のような声を出すが、頭痛がそれにはっきり答えさせない。

ガンガンと、うるさいぐらいの頭痛と耳鳴りが唐突にスバルの体を苛んだ。それにさらに続くのは全身の恐ろしい倦怠感と、慢性的に訪れる骨の軋むような感覚――痛みと辛苦のオンパレードが全身に圧し掛かり、スバルはとっさに膝をついてしまう。

「が、ぁ……」

なんだ、と疑問の声が頭の中に木霊する。

突然の絶不調、耐え難いほどに重たい痛みと苦しみの大合唱、体はまるで毒を飲んだように重たくなり、呼吸は全力疾走を続けた直後のように苦しく喘ぐ。

そんなスバルの劇的な変化にベアトリスが慌て、背中をさすってくれる。その小さな掌の感触に救われながら、スバルは何が起きたのか目を回した。

今、スバルは自分の内に芽生えた権能、『コル・レオニス』を正しく運用しようとした。

――否、今も運用は続けている感覚がある。

この状態こそが、確かに『コル・レオニス』が力を発揮している状態のはずなのだ。だとしたら、その能力はどういう意味があるのか。

スバルの体は重く、疲労は募り、このままでは何も――。

そう、スバル自身は何もできなくなる。

その代わりに――、

「――あァ?」

ふと、渇いた驚きの声が上がり、自分の攻撃が空を切ったことにルイが目を剥く。

なおも『拳王』の姿をしたルイは、その猛烈な格闘術を披露し、エミリアとラムをことごとく追い込んで、嬲るように弄んでいた真っ最中だった。

そのルイの腕が取られ、関節が極められる。そして、

「はぁッ!!」

容赦なく関節に膝を入れ、ラムがルイの右腕をへし折った。鈍い音が響き渡り、関節の内側から折れた白い骨が露出、ピンク色の筋繊維を垂れ流して、痛々しい血の色が白く凍える通路に散った。

「いぎゃ……ぐへっ!」

「遅い!」

回転し、その顔面にラムの肘鉄がまたしても突き刺さる。そのまま、ラムは後ろ手に相手の髪を掴んで壁に叩き付け、がら空きの胴体へ右の正拳を連続してぶち込む。

あばら骨のひしゃげる音がしてルイの体がくの字に折れると、その下がった顔面にラムの前蹴りが突き刺さり、激しくもんどりうって巨体が転がった。

「……体が軽い?」

掌を開閉して、ラムが自分の体の動きに驚いたように目を見張る。

凄まじい体のキレと戦闘力を目の当たりにして、エミリアも「すごい……」とその技量に瞠目していた。

ベアトリスが懸念していたラムの不調、それが一時的に取り払われたような凄まじい動きだった。――と、そこまで考えてスバルは気付く。

「これ、まさか……ラムの不調を、引き受けてる?」

ラムの動きが明らかに良くなったことと、スバルの不調に関連があるとすれば、それはそういうこととしか思えない。

事実、スバルは自分の感じる光――正面にある二つ、エミリアとラムのモノと思われるその光の片方、そこから何か自分へ流れ込むのが見えていた。

仲間の位置がわかるのと、不調を引き受けているのだとしたら、それは。

「――『コル・レオニス』は、『獅子の心臓』って意味だが」

その答えは、スバルの有する星の知識の中にあった。

「――――」

無意識のうちにスバルが『コル・レオニス』と名付けた『強欲』の権能。

これは本来、しし座の一等星であるレグルスという星を意味するラテン語で、『獅子の心臓』を意味している。だが、コル・レオニスと言い換える前のレグルスにもラテン語で意味があり、それは『小さな王』を意味するものだ。

――『獅子の心臓』と『小さな王』。

獅子は、それ自体が百獣の王であるから、王の別名を持つことも納得がいく。だが、それに付随する『小さな』とは何を意味するのか。

獅子の、小さな王。――群れの、王。

王とは、いかなるものがそう呼ばれるのか。

それは――、

「――みんなの想いを背負って立つ、それが王様だ。だから」

ナツキ・スバルの有する『コル・レオニス』は、王として仲間の負担を軽くする。

引き受けるべき群れの長として、仲間たちが十全に戦えるように。

だとしたら、ナツキ・スバルのやるべきことは決まっていた。

「血を吐きながら、準備オッケーだ」

「スバル?」

「悪ぃ、心配かけた。ちょっと頭が痛くて、気持ち悪くて、足下ぐらついて、節々が痛んで、こっそりと攻撃喰らった手足が痛んだりするが、俺は元気だ」

「こっそり攻撃された!? いつの間に、どこをかしら!?」

「たぶん、俺が目に追えない攻防の間のどっか」

不安視するベアトリスに、うまくこれを説明してやれない。

ただ、手足がしくしくと痛むのは、目の前で戦っているエミリアとラム、そのどちらかが、あるいはどちらもが、ルイとの戦いで負った傷を隠しているから。

そして、その後ろ傷をこっそりと引き取ることを、スバルは説明しない。

何故なら、その方がカッコいいから。

「このまま……」

ラムが、その実力を発揮してルイを追い込めるなら、あるいは一度は失敗に終わりかけた『暴食』の撃退が可能となるかもしれない。

ルイを撃破し、大急ぎでレイドと交戦していると思しきユリウスの下へ駆け付け、あるいは大サソリと影に対処して――。

「――?」

そこまで考えたところで、スバルは胸中、光の存在に再び気を向ける。

二層、ややスバルたちより高い位置で戦闘していると思しきユリウスと、バルコニーで魔獣の群れとの対決に当たるメィリィ。エキドナたちは無事に『タイゲタ』へ逃げ込んでくれたらしく、一所でじっとしていてくれているのがわかる。

だが――、

「――これ、誰だ?」

それらと離れた位置、スバルは同じ階層で、自分たちと対極の方角からこちらへやってくる光の存在に気付いた。

それは前回のループで、レイドが堂々とやってきた方角だ。できるなら、それがレイドであってほしくないと願いながら、スバルは自分の内に芽生えているある種の確信、それに目を向けないよう、苦心しながらそちらを見る。

そして――、

「ベアトリス!」

「――っ! ミーニャ!!」

通路の奥を指差して叫べば、即座に異変を悟ったベアトリスが掌を広げる。瞬間、彼女の詠唱に呼応して生まれるのは、紫色に輝くクリスタルのようなものだ。

それが先端を鋭くして浮遊し、次の瞬間には弾丸の如く射出される。それは通路で戦闘していたエミリアやラム、ルイの頭上を越えて、さらにその向こうへ。

そしてその位置から、エミリアたちの背中を狙っていた存在の攻撃を迎え撃つ。

「――――」

白光が通路を突き抜け、ガラスの割れる音が響き渡って白い廊下に光が散った。そうして煌めく氷と結晶が乱舞する中、闇に赤く揺らめく光点が見える。

それを見て、幾度となくスバルは胸の痛む思いを味わった。またしても、あの脅威が再現されるものと、状況の悪化に歯噛みする。

しかし、今この瞬間ほど、その赤い光点と向き合ったことに胸を痛めたことはない。

眼前、そうして蠢く赤い光点と、スバルの胸に感じる柔らかいほのかな光――仲間の位置を知らせるそれが、重なり合っている。

それが示す意味は、一つだけだ。

「どういう、ことなんだ。お前……」

「――――」

ゆらゆらと、長く鋭い針を備えた尾を揺らし、闇から姿を現す黒い甲殻の鎧を纏った巨大な影――大サソリの登場。

だが、その大サソリの出現は、今のスバルには異なる大きな意味を持つ。

何故なら、そこに現れた存在は――、

「――お前なのか、シャウラ!!」

信じ難い事実を理解し、スバルが怒りと悲しみのない交ぜになった声で叫ぶ。

その声を聞いて、喋る口を持たない巨大なサソリは大きな鋏を持ち上げると、それを肯定するかの如く、恐るべき切れ味のそれを憎いほど高くかき鳴らした。

かき鳴らしていった。

リゼロEX 『ゼロカラツギハグイセカイセイカツ』

恒例のエイプリルフール企画です。

本編のパラレルの内容となっていますので、キャラクターの関係図が色々と変わってきていたりしますが、変わらない扱いのキャラもいますので、そのあたり含めて許せる方のみどうぞ。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ、ツギハギ。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、ツギハギしながら今も、未完成のままで――。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

その問いかけに、少女、アミュー・シアーズは小さく息を呑んだ。

それは何の変哲もない、とりとめもない質問だった。

答えるのにだって、さして時間も覚悟も必要としない退屈な質問のはずだ。

知っているなら知っている。知らないなら知らない。それだけでいい。

「――――」

しかし、字面で見ればそれだけの質問に、アミューは声が出なかった。

人生とは選択の連続だ。

それはまだ、十四歳になったばかりのアミューであっても、短い生涯の中の実体験として十分に思い知った真実である。

人生とは、何事においても決断しなくてはならない。

それは日常の些細なことから始まり、あるいは人生を左右するような大きな決断まで様々だ。だが、事の大小を抜きにしても、人生とは全て決断でできている。

そして今、アミュー・シアーズに投げかけられたのは、彼女の十四年の生涯の中で最大の重みを持った問いかけであり、あるいは彼女の人生で最大の決断かもしれなかった。

それこそが、直前に投げかけられた、さしたる特別感もない退屈な質問。

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

重ねられた問いかけが、アミューの喉を締め上げていく。

ただ、問いを投げかけた当人には、どうやらそんな意図はないらしい。今一度、質問を繰り返したのも親切心、そんな配慮が感じられたのが何ともアンバランスだ。

アミューを苦しめているのが質問者なら、アミューを最も案じているのも質問者。

本当に、彼が求めているのは質問の答えだけなのだと、それがわかる。

だからこそ、アミューは何の手掛かりもなく、正しい選択肢を手探りで模索し、内なる自分自身との対話の中で見つけ出す他にない。

――果たして、何と答えることが正解なのか。

知っているのと、知らないのと、どちらが質問者の期待に適っているのか。

あるいは知らなくても、知っていると答えた方がいいのか。知っていても、知らないと答えた方がいいのか。――不自由な二択に、アミューの心は悲鳴を上げる。

「――なぁ、君は、俺の、名前を、知っているか?」

焦れたように、繰り返される問いかけの文節がより細かに区切られた。

言葉が通じていないとでも不安視されたのか、そんな不安がアミューの胸中を掻き毟った。正直、『はい』とも『いいえ』とも答えられないことが、質問者の意図に適うことだけは絶対にありえないと確信ができる。

何も言わないままに、答えを出さないままに、決断をしないままに、終われない。

解放はされない。――それだけは間違いなかった。

「――――」

声を出せないまま、すぐ真正面にある黒瞳を見つめ返し、アミューは思案する。

空っぽに見える黒瞳の中、憔悴したアミュー自身のひどい顔が見えた。

わざわざ声に出して言ったりしないが、それなりに見られる方だと自覚していた自分の容姿は見る影もなく、ただただ目の前の質問者の支配力に怯え、竦んでいる。

まるで数十歳も一気に老け込んだように、アミューの顔は疲れ切っていた。

このまま、問いかけの圧力だけで死んでしまいそうなぐらい、弱々しく――、

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

ふと、死を思わせる圧迫感が、かえってアミューに希望を抱かせた。

息苦しく、胸が潰れそうな感覚を味わいながら、質問に答えることでそれから解放されるのではないかと、そんな予感がアミューを支配したのだ。

そう考えた途端、全身を支配していた重苦しい感覚が薄れていくのがわかる。

何を答えればいいのか、という疑心暗鬼の圧迫感からくる息苦しさ。そこから解放されたいがために、最初の問いかけへの不安感を噛み殺す。

それは一種の自己防衛本能だったのかもしれないが、この瞬間のアミューには少なくとも天啓に思えた。故に、彼女は唇を震わせ、改めて黒瞳を見つめ返した。

「――なぁ、君は俺の名前を知ってるか?」

問いかけに答えることで、この瞬間の息苦しさから解放される。

その一心で、アミューはついに、痙攣する舌を動かして、言葉を紡いだ。

「い、いいえ……」

知らないと、アミューは自分の心に従い、そう答えた。

それまで延々と、頭の中をぐるぐると回っていた選択肢から思考を離して、彼女は純粋な心境で質問に答えた。

事実、彼女は目の前の質問者の名前も、顔も、知らなかった。

辺鄙な片田舎、いわゆる辺境と呼ぶべき場所で暮らしている彼女には、遠く、音に聞こえた王国の一大事すらも遠い場所の出来事のようで。

だから、どんな大人物であろうとも、彼女にとっては見知らぬ他人――、

「――そうか」

短い一言だった。

その一言に込められたものが感慨なのか、落胆なのか、その区別もできない。

ただ、アミューの決断は為された。あとは、質問者の方の問題だ。

人生が選択と決断の連続であるなら、それは誰にとっても同じこと。

アミューが選んだように、質問者もまた選ぶ。

「――――」

ただ静かに、十四歳の少女は、質問者の選択を待った。

――もう、自分以外の誰もいなくなってしまった村の真ん中で一人、答えを待った。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

『ねえ、スバル。そろそろ、お昼の時間にしない?』

その呼びかけに足を止めて、ナツキ・スバルは自分の腹をさすった。

時刻はすでに昼を回って、言われてみればそれなりに空腹感を覚えている。言われるまでにそれに気付かなかったのは、無心で歩くことに集中していたからだ。

歩くことに集中しなくてはならないぐらい、街道は長く長く、ずっと続いている。先々のことを思えば、気が重くなるぐらい、途方もなく長い道のりだった。

「とはいえ、休憩は大事だよな。悪いね、エミリアたん。疲れさせちゃった?」

『ううん、私は全然へっちゃらよ。でも、ずっと歩いてるスバルの方が心配だなって思っただけ。何ともなかったならいいんだけど……』

「いやいや、ちょうど俺もお腹がペコペコだったとこだよ。危うくお腹と背中がくっつくとこだったぜ。ふー、危ない危ない」

『そうなの? それって、すごーく危ないところだったのね……』

大げさに腹を押さえたスバルの答えを聞いて、銀髪の少女――エミリアが口元に手を当ててくすくすと笑った。

まるで銀鈴のような声音で、この世で最も愛らしい顔立ちの少女が微笑む。その笑顔を間近にしながら、スバルは自分の頭を掻いて、やはり唇を綻ばせた。

と、そんな二人の横合いから――、

『あんまりエミリアをからかうんじゃないかしら。どんなに腹ペコでも、お腹と背中がくっつくなんてことありえないのよ』

「おっと」

声の方に振り返ると、そこには短い腕を組んですまし顔をしたベアトリスがいる。華やかなドレス姿の少女の指摘に、スバルはふっと瞳を細めた。

それを見て、ベアトリスが『何かしら』と形のいい眉をきりりとさせる。

『そのスバルの顔、なんだか気になるのよ。どうしたのかしら』

「お前が腹ペコって言ったのが可愛かったんだよ。もう一回言ってくれ」

『むきーっなのよ! 変なとこに引っかかるんじゃないかしら!』

顔を赤くして、ベアトリスがスバルの益体のない軽口に噛みつく。そんなベアトリスの様子に、スバルとエミリアは顔を見合わせて笑い合った。

それを見て、ますます頬を膨らませるベアトリスが愛らしい。――この感覚は、確かに間違いないものだ。これを直接伝えたら、彼女のご機嫌を損ねるだろうことも。

それを確認してから、スバルは「よし」と自分の袖をまくり、

「それじゃ、エミリアたんのお気遣いに甘えて、飯の時間にするか。今日のところは俺が腕を振るわせていただこう。ご要望は?」

『あ、じゃあ、私、マヨネーズ使ってほしいな。ほら、ちょうどラムがマヨネーズを作り直してくれてたでしょ?』

「はいはい、エミリアたんのご注文なら喜んでー! 幸い、ラムのおかげで備蓄はたっぷりあるからな。あいつも、ようやくマヨネーズの魅力に気付いて……」

『――馬鹿なことを言うのはやめなさい』

「うお!?」

背負っていた荷物を下ろし、街道の外れに野営地を作り始めるスバル。その傍らにざっと細い足が立つのを見て、驚くスバルを薄紅の瞳が見下ろしていた。

己の腕を抱く、勇壮たる立ち姿。それはメイド服を纏いながら、おもてなしの精神と一切無縁の眼差しを持つ少女――、

「いきなりご挨拶だな、ラム。せめて最後まで言い切らせろよ」

『ハッ! 笑わせるのはやめなさい。ラムがマヨネーズ作りに手を貸すのは、あくまで業務命令だからよ。ラムがあんな白くて酸っぱいだけの調味料に心を許す? おぞましい』

「おぞましいは言いすぎだろ! 大体、お前だって蒸かし芋にマヨネーズを使うことの破壊力は否定できねぇはずだ! あの味を嘘だとは言わせねぇぞ!」

塩気を孕んだホクホクの蒸かし芋に、たっぷりとマヨネーズを塗り込む味わい。

舌を支配する甘美で禁忌な味わいは、マヨネーズを嗜むものならば誰もが一度は味わうべき桃源郷――芋とマヨネーズの間には決して薄れ得ない極上の相性がある。

その見事な調和、味のハーモニーを思い出し、スバルの喉が鳴る。スバルのすぐ隣では同じ味を想像したのか、エミリアとベアトリスの目が輝くのが見えた。

「見ろ、あの二人の可愛い食いしん坊の反応を! これでもまだ、マヨネーズを邪道とそしれるのか!」

『……そうね。バルスの言う通りだわ。蒸かし芋の素晴らしさは、あのマヨネーズなんて得体の知れない調味料にさえも価値を与えてしまうのね』

「そっちじゃねぇよ、逆だよ! いや、逆って話でもねぇけど、強情だな、姉様!」

あくまで、マヨネーズではなく、蒸かし芋の貢献が大きいのだとラムは譲らない。

その頑なな姿勢にスバルは拳を震わせたが、そんな二人の間に『まあまあ』とエミリアが苦笑気味に割って入った。

『スバルったら落ち着いて。私、蒸かし芋もマヨネーズも、蒸かし芋にマヨネーズを乗せた料理もどっちも好きよ。それに、ラムはちょっと素直になれないだけだから』

『……エミリア様、勝手にラムの考えを代弁した気になるのはやめてください。エミリア様の言い方だと、ラムの対象年齢が下がります』

『え、ごめんね。でも、対象年齢って……?』

ラムの理不尽で難解な物言いにエミリアが困惑する。

しかし、二人のやり取りに滲んでいるのは険悪感ではなく、隠し切れない信頼と親愛の情だった。

これで存外、エミリアとラムは理想的な関係を築けている。主従関係と呼ぶには、ラムの方に従の自覚がなさすぎるのが微妙に問題だが、それ以上の絆が二人にはあった。

それを、他ならぬスバルはよくわかっている。

ともあれ――、

「姉様には悪いが、エミリアたんのお言葉は全てに優先する。それがこのパーティーのスタイルだ。ってわけで、今日の昼食はマヨネーズ尽くしで決定!」

『わーい、やったっ』

エミリアが嬉しそうに手を叩くと、ラムがげんなりとため息をつく。それでも、それ以上食い下がらないあたりに、ラムも十分、エミリアには甘いのがわかる。

無論、スバルは生粋のマヨラーであるため、この献立は判官びいきである。

「もちろん、ベア子は俺と同じでマヨネーズ大好きだもんな。嬉しいだろ?」

『否定はしないのよ。でも、見透かした風な言い方は腹立たしいかしら。ベティーのこの怒りは簡単には晴れないのよ。その分、おいしいご飯を所望するかしら』

「へへー、仰せのままにー」

薄い胸を張り、可愛い注文を付けてくるベアトリスにスバルは一礼。その芝居がかった態度を見て、エミリアたちが満足げにするのを確かめてから、食事の準備に取り掛かる。

とはいえ、野外での食事にそこまで凝ったことはできない。もちろん、魔法の力を使えばそれなりに火や水を利用することが可能なのだが、

『ごめんね、スバル。ちゃんと手伝ってあげられなくて』

「謝る必要ねぇって。それこそ、ここが俺の工夫の見せどころってヤツだろ? 逆に、思わぬ発想力を見せる俺に惚れ直してくれていいからね」

『もう、バカなんだから』

薄く微笑むエミリアに笑い返し、スバルは今ある材料で食事に趣向を凝らす。

食事は日々の活力だ。ここに手を抜くことはしたくない。荷の中身を確認して、スバルはできるだけ全員の要望に応えられる食事の準備に腐心した。

同行する面々は全員、食事をおいしそうに食べてくれる顔ぶれだ。

これまであまり考えたことがなかったが、作った料理をおいしそうに食べてもらえるのは喜ばしいことだ。作っている側にとってもモチベーションに繋がる。

こんな簡単なことでいいのなら、もっとちゃんと、母に喜びを伝えるべきだった。

『ふんふんふん……』

そんな感慨を頭の片隅に置きながら、スバルは炊事する手元を覗き込んで楽しげなエミリアたちの姿に頬を緩める。鼻歌なども聞こえる。音痴だ。

『あらあ、今日の食事係はお兄さんなのねえ。ちょっと不安だわあ』

そうして食事の準備をしていると、ひょっこりとメィリィが顔を出した。彼女は自分の濃い青の三つ編みを指でいじりながら、年齢に見合わぬ艶めいた眼差しをスバルへ向ける。その嫣然とした視線に、スバルは胡乱げな目つきで見返した。

「不安ってなんだ、不安って。そんな生意気なこと言う子には食べさせてやらねぇぞ」

『やあだ、それって虐待だわあ。それに、お兄さんって何でもあのマヨネーズって調味料を漬けようとするでしょお? わたし、あれあんまり好きじゃないのよねえ』

「な、なんだと……お前まで、マヨネーズの魅力がわからないだと……!?」

『そんなこの世の終わりみたいな顔しないでよねえ』

愕然とした顔をするスバルに、メィリィが呆れた様子で嘆息する。が、彼女の受け答えにスバルが受けた衝撃は計り知れない。

この世の終わりとまではいかなくとも、気付いたら今年の終わりぐらいの衝撃は受けた。

『それでも、いささか大仰に受け取りすぎだろう。メィリィ嬢はただ、どんな食材にもマヨネーズを合わせようとする君の姿勢に歩調は合わせられないと、そう言っているだけだ』

「む……」

マヨネーズを拒絶する姿勢を見せるメィリィ、そんな彼女の発言をフォローしたのは、その歩き姿さえ優麗に思える美丈夫、ユリウスだ。

こちらへやってくるユリウスは、ふっとスバルに笑いかけると、

『付け加えれば、私もメィリィ嬢に同意見だ。マヨネーズ自体はそう悪いものでもないが、あらゆるものに付け合わされれば最初の感動も薄れる。自重したまえよ』

「チクチクとうるせぇ奴だな。今のは俺とメィリィの問題なんで、わざわざ口を挟んでいただかなくても結構なんですけど」

『集団の健全な環境を保つのも、その中の一員としての役割だろう。不和の種を見逃した結果、それが蕾となり、花開くことがあっては悔やんでも悔やみ切れない。そうなる前に忠言するのは私の義務と、そのように受け止めているのだが?』

「ああ言えばこう言いやがる奴だな、お前は!」

いちいち迂遠な言い回しでスバルの浅慮をつつくユリウス。彼の言行にやり込めれそうになって、スバルは苛立たしげに語気を荒くした。

と、そんな二人のやり取りを聞いていたエミリアが『ふふっ』と笑い出し、

「エミリアたん?」

『相変わらず、スバルとユリウスはすごーく仲良しね』

微笑ましいものを見つめるエミリアの視線に、スバルはげんなりと肩を落とした。同じ立場のユリウスも、自分の前髪に触れながら片目をつむっている。

このタイミングだけ、スバルとユリウスの意見は一致を見ているようだが、その意見とエミリアの受け取り方にはずいぶんと落差がありそうだった。

彼女の宝石のような紫紺の瞳には、今のスバルとユリウスのやり取りが仲良しこよしの一幕に見えているらしかったので。

「あのさ、エミリアたん。いつも言ってるけど、それはさぁ……」

『それは?』

それは、いくら何でも大いなる誤解である。

そう、首を傾げるエミリアにスバルは弁解しようとして――、

「それは……」

『――――』

とっさに続けようとした弁解の言葉、その先が詰まり、スバルの舌が強張った。

途端、目の前で微笑み、首を傾げていたエミリアの動きが静止する。――否、静止したのはエミリアだけではない。

炊事中のスバルの周囲、今の今まで和やかに話していた面々、それが直前までの状態のままぴたりと動きを止め、全員、完全に硬直してしまっていた。

――まるで、スバルの次なる反応を待って、世界が時間を止めてくれたかのように。

しかし、そうでないことは風の音が、草木の香りが、沸騰する水が教えてくれる。

世界は止まってなどいない。――ただ、エミリアたちだけが止まっている。

スバルの、彼女たちを再現しようとするイメージが追いつくのを待つかのように。

ただ、エミリアたちだけが止まって――。

「――お師様~! ざざーっと先まで見てきたッスよ~!」

「――――」

ふと、その静止した沈黙の世界に異物が割り込んでくる。

大きな石に座り込み、火を焚いていたスバルの眼前へ、ぴょんと跳躍した人影が勢いよく飛び込んできたのだ。

「すちゃっとシャウラご帰還ッス! お師様、褒めて抱きしめて愛してくださいッス!」

そう言って、スバルに満面の笑みを向けたのは背の高い、美しい顔立ちの女性だ。

長い褐色の髪を一つに束ねて、健康的な白い肌を豪快に晒した人物である。女性的な肉感に富んだ体を惜し気もなく見せつけ、彼女――シャウラは屈託のない笑みを浮かべる。

「――――」

だが、そんなシャウラの全面的な好意の発露に、スバルの反応は芳しくない。それもそのはず、彼女が飛び込んできたのは、直前までエミリアが微笑していた位置だ。

やかましく、豪快な彼女の跳躍はエミリアを吹き散らし、静止していた他の面々までも消し飛ばしてしまった。その事実に、スバルは眉を顰める。

「あ、あれ? ど、どうしたッスか、お師様? もしかして、あーし、またなんかやっちゃったッスか?」

「……いや、何でもない。気にすんな。お前が悪いわけじゃねぇし」

「そうッスか? じゃ、気にしないッス! あ、それよりお師様、ご飯の準備中なんて嬉しいッス! あーし、お腹ペコペコだったんスよ~」

一瞬、スバルの表情に顔を曇らせかけたシャウラだが、スバルの言い繕いを即座に真に受けて、直前の不安など忘れた顔でスバルの腕に抱き着いた。

腕に押し付けられるシャウラの体、その猛烈な柔らかさを肘や肩に感じながら、しかしスバルはそれを「ええい、離せい」とすげなく振り払う。

「あんっ! お師様ったらいけずッス……でも、あーしは挫けないッス。この調子でガンガン攻め込んで、お師様のハートと下心と男心を狙い撃ちッス」

「なんか、全部正中線にありそうな狙いだな……。あと、料理中の人間の腕を掴むんじゃない。手ぇ切ったり火傷したりしたらどうする」

「そのときは、あーしが優しく患部を舐めてあげるッス! 四六時中舐って舐って離さないッス!」

「そんなのふやけるじゃん……」

ガッと両手を上げ、勢いよくというより、勢いだけの状態でシャウラが主張する。そのシャウラの態度にスバルは肩を落とし、力なく笑った。

それを見て、シャウラが「ややっ!」と眉を上げる。

「今、お師様笑ったッスか? 何か面白いこととかあったッスか?」

「面白かったのはお前だよ、お前」

「え、それって、プロポーズッスか……?」

「違いますけど!?」

どう話が飛躍したのかわからないが、頬を染めてもじもじとしたシャウラの額にスバルは抗議と否定の意を込めたデコピンを撃ち込んだ。

それを受け、シャウラは「あう~」と唸り、

「だってだって、『お前、面白い女だな』ってのは男女が恋に落ちる王道のやり取りじゃないッスか! そのあとに続くのは、『俺の女になれよ』しかないはずッスよ!?」

「お前のその偏った知識って、ホントにどこ発信なの? そんなの、もう俺の故郷でもほとんど見られないぐらい使い古されたパターンだろ……」

少女漫画や女性向けのゲームなどでは、そうした初対面イベントを使いこなす男性キャラは少なくなかったかもしれないが、それが現在も通用するのかスバルにはわからない。

ともあれ、シャウラを面白がったのは口説くためではない。

ただ、シャウラの反応がスバルにとって――、

「――お前の言うことは予想がつかなくて、新鮮なんだよな」

「――――」

「だから、お前と話してるのはなんだ……悪くない。それは間違いないよ」

特段、シャウラ以外と会話するのが苦痛だなんて言わない。

ただ、シャウラ以外と会話をすると、自然と、スバルは自分の至らなさを自覚させられることが多く、それは苦痛だった。

誰が悪いわけではない。――悪いのは、いつだって自分だ。

「悪いのは、いつも俺。だから……」

「つまり、今度こそプロポーズッスか!?」

「違うっつってんだろ!」

真面目な話に持ち込む雰囲気が秒しかもたず、怒鳴るスバルにシャウラは不満を爆発させる。彼女は「え~」と手足をじたばたさせ、

「でもでも、退屈で灰色な時間を過ごしていたところに、新鮮な風を吹き込んでくれたのがあなたです的な展開って、やっぱり王道中の王道じゃないッスか~」

「いや、だから、お前のその偏った知識の泉はどこから湧いてんだよ……」

わりと真剣な話のつもりが、シャウラに完全に話の腰を砕かれてスバルは諦めた。

ぼんやりと頬を緩め、スバルは炊事に集中する。

街道の脇で炊事するスバルの手元、用意された食事は二人分。

スバルと、シャウラの二人分――ここまで会話を楽しんだはずの、エミリアやベアトリス、ラムやメィリィ、ユリウスらの分はない。

――その事実を改めて認識して、スバルの胸はひどく虚しく、痛みを訴えた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

自分が不完全な存在であると、そうたびたび思い知らされるのは神経を削る。

想像するだけでも健康的なメンタリティでないのは歴然だが、実際にその環境に置かれてみれば、魂の摩耗していく感覚を如実に味わえようというものだ。

端的に言えば、今のナツキ・スバルの心境がまさしくそんな状態だった。

「――お師様、お師様、次はどこにいくんスか?」

「そうだな……」

上機嫌に、シャウラはスバルの隣を鼻歌まじりに歩いている。

その彼女の問いかけに視線を上げて、街道の先を眺めながらスバルは考える。

『とりあえず、西に向かっていくのがいいでしょうね。人里を目指すんでしょう? 人里から遠ざかりたいなら、回れ右して、大瀑布に突っ込むといいわよ』

「姉様はものすごい提案をしてくれるな……気持ちだけ受け取っておくよ」

素直なアドバイスだけでなく、毒を交えるあたりがラムらしい言い分だった。それを胸に留めながら、スバルは助言に従い、西を目指すことを方針に定める。

「俺はこのまま西に向かうつもりだ。……けど、お前はどうする?」

「え? そりゃ、あーしはお師様にがっちりついていくッスよ? 長々と離れ離れの時間が続いたんスから、お師様とはもう一秒だって離れ難いッス。おはようからおはようまで暮らしを見つめるシャウラをよろしくお願いするッス」

「おはようからおはようって……こわっ! 一日中じゃん!」

「それも連日連夜ッス」

なかなか壮絶なストーカー予告に戦慄しつつ、スバルは難しい顔で俯く。

正直、シャウラと連れ立って歩く状況は不思議な気分だった。

陰気で後ろ暗い罪悪感を抱えるスバルと、野放図であけすけに振る舞うシャウラ。組み合わせとしてはテンションのプラスマイナスで釣り合いが取れているのかもしれないが、シャウラの言動に少なからず救われているスバルはともかく、シャウラの方には一緒にいるメリットがあるとは思えないのだが。

「お師様がお師様であること、それがあーしにとって一番のことなんスよ」

「……正直、よくわかんねぇ。本気でずっとついてくるのか?」

「もちろんッス! 死が二人を分かつまでってヤツッス! 会えない時間が育てた愛はこんなもんじゃ枯らせないッスよ~。もう、何があってもお師様の傍を離れないッス。あーし、野球チームぐらい子どもも生むッス」

「ものすごい剛速球投げてくるな、お前……」

豊かな胸を張り、シャウラがきらきらと輝く瞳でこっちを見てくる。その視線を掌で遮りながら、嘆息するスバルの心中は複雑怪奇だ。

シャウラのこの直接的な言動、これを求愛と呼んでいいのかよくわからないが、それ自体はスバルも男として嬉しく思わないわけではない。

その奇矯な言行を横に置けば、シャウラは美人だし、魅力的だ。

「――――」

しかし、ナツキ・スバルはそのシャウラの誘惑に心を揺すられない。

何故なら、そうした人間らしい情動は、ちゃんとした人間にしか許されないものだ。つまるところ、今の自分には決して届かぬ資格、なのだから。

『スバルはもうちょっと、シャウラに優しくしてあげた方がいいと思うの。こんなに一生懸命なのに、可哀想じゃない』

そんなスバルの躊躇いに、不意に銀鈴の声音が差し込まれる。ちらと視線を横に向ければ、エミリアがスバルの顔を覗き込んでいるのが見えた。

その可愛らしく拗ねた顔つきに、スバルは片目をつむる。

「……エミリアたんはそう言うけど、それって結構残酷なことだぜ? 俺がエミリアたんのことをどう思ってたか知ってるくせに」

『ん……そう、かな。そうかも。ごめんね。もちろん、私だって寂しいけど、でも、いつまでもくよくよしてたらダメだと思うの。だって』

「だって?」

『だって、私はもう――』

紫紺の瞳を細めながら、エミリアがその先の言葉を続けようとする。とっさに、スバルはそれを聞きたくないと遮りたくなるが、それは困難なことだ。

このエミリアの言葉に耳を傾けないのは、神の言葉を遮ることより難しい。

しかし――、

「おっと」

自発的に遮るのは不可能でも、外的要因によって遮られることは許される。

ふと、背後から迫ってくる騒音を聞きつけ、スバルはエミリアから意識を外して、街道に脇へと道を譲った。近付いてくる車輪の音は、走行する竜車の接近を知らせている。

とっさにシャウラの腕を引いてやり、竜車の進路から二人で逃れた。

「やん、お師様ったら強引……」

「離れろ」

腕を引かれたことに乗じて、抱き着いてくるシャウラをスバルが華麗に回避。避けられたシャウラが街道沿いの木に体ごと激突し、「ぎゃふんっ」と悲鳴を上げる。

そのままぶつけた鼻を赤くするシャウラを尻目に、スバルは竜車が行き過ぎるのを待って、改めて街道に戻ろうとし――、

「うん?」

視線の先、スバルたちを追い越した竜車が音を立てて停車した。

車体のトラブル、といった風には見えない。そうなると、停車した原因はスバルたち以外に思い当たらない。

まだ日も高い時間帯だが、人気のない道だ。あるいは野盗とでも出くわしたかと、スバルが一瞬、警戒を強くする。

「――もしや、ナツキ・スバルさんではありませんか?」

だが、その警戒も、竜車の御者台を降りた人物の呼びかけによって早々に霧散した。

名前を呼ばれて、警戒をほどくスバルの前にやってくるのは、竜車の御者台に座っていたはずの背の高い青年だった。

灰色の髪を一つにまとめた、スバルとそう変わらない年代の人物だ。

柔和な顔つきから線が細く見えるが、意外と体つきの方はしっかりしている。力仕事に従事している雰囲気ではないが、そうしたことと無縁の仕事でもないといったところか。

そうした初見の印象はともかく、スバルにとって重要なのは、この青年がスバルのことを認識し、その名前を呼んできたことにある。

「ああ、やっぱり、ナツキさんじゃありませんか。お久しぶりです」

「あー、ええと……」

微妙な距離はありつつも、知人に違いない雰囲気で声をかけてくる青年。その彼になんと応じたものか躊躇いつつ、スバルは視線を周りに巡らせる。

その視線を受け、エミリアやベアトリスたちは首を横に振り、心当たりがないとスバルに訴えかけてきていた。エミリアたちがそれだとスバルもお手上げなのだが、知った風な口で知った風な会話を始めるのは躊躇われる。

それはスバルの得意技だが、諸事情で今はそれをしたくはなかった。

そんな心境でまごつくスバルを見て、青年は形のいい眉を顰めると、

「おや、もしかしてお忘れですか? 僕です、レギン・スーウェン……兄の、オットー・スーウェンがお世話になっています。以前、一度、村でお会いしましたよ」

「レギン……って、ああ、あのオットーの!」

「あのオットーって言い方だと、なんだか他人事みたいな言われようですね」

不自然な言い回しに苦笑し、青年――レギンの前でスバルは合点がいったと手を打った。生憎、レギンの姿に見覚えはないが、オットーなら見知っている。

言われてみればなるほどと、レギンとオットーの顔立ちには似た特徴が多い。彼らが兄弟であるのも、スバルと知人なのも間違いないだろう。

「悪かった悪かった。ちょっと今、頭の中が色々立て込んでるタイミングでさ。とっさに名前が出てこなかったというか、そんな感じなんだ」

「いえ、お忙しい立場でしょうから仕方ありませんよ。王選のことは、片田舎で暮らす僕の耳にも届いています。……兄さんはご迷惑をおかけしていませんか?」

『オットーくんが迷惑なんて、とんでもない話よね。私たちみんな、オットーくんのおかげで色んなことが助けられてるもの』

「そうだな。オットーには陣営一同でだいぶ世話になってる……的な状況だよ。あいつがいなかったら、もっとあちこちガタついてるってのが実情らしいぜ」

「そう、ですか。だったらよろしいんですが……」

と、どことなく恐縮していたレギンだが、兄の近況を聞かされてわずかに安堵した様子だ。それから、彼はスバルと、少し離れて立つシャウラを交互に見ると、

「それにしても、ナツキさんはこんなところで何を? 竜車にも乗らないで街道を歩いてるなんて、なかなか骨の折れることだと思いますが……」

「あー、その意見はごもっともというか、俺もできれば竜車ぐらい使いたいところなんだが諸般の事情で難しくてな。あと、俺が何してるのかって言われると……」

そこで言葉を切り、スバルは少し考え込む。

それから、適切な言葉を見つけて、

「今の俺は自分を見つめ直してる真っ最中……『自分探しの旅』ってとこだな」

「自分探しの旅、ですか?」

「ああ、そうなんだ。自分探しの旅……く、ははは」

自分で自分の言葉がおかしくて、思わずスバルは笑ってしまう。

自分探しとは若者に付き物の言葉ではあるが、これほど今のスバルに適切な言葉が他にあるだろうか。そう思ったら、おかしくてならない。

そのスバルの様子に、レギンはどことなく違和感を覚えたようで、「大丈夫ですか?」とこちらを案じる素振りを見せる。

「やっぱり、どこかお体が悪いのでは? 一瞬、ナツキさんに気付くのが遅れた原因がまさにそうですが、ずいぶん、以前と見違えましたから……」

「体調は悪くない、本当だ。気分の話なら、最悪の一歩手前かな。でも、そこで踏みとどまれたのはレギンのおかげだ。ここでお前に会えてホッとしたよ」

レギンの言葉を遮り、スバルは深々と頭を下げて感謝を表明する。そのスバルの姿勢を見て、レギンは困惑を深める一方だ。

ただ、その態度が目の前のスバルがただならぬ状態にあるのだと確信を抱かせたらしい。レギンは意を決した表情を作ると、「ナツキさん」とスバルを呼び、

「イマイチ状況は呑み込めていませんが、ひとまず、村まできてください。僕の診療所で詳しい話をしましょう。あなたには休養が必要です」

「医者みたいなこと言うんだな?」

「患者は地竜や家畜ですが、医者ではありますよ。それも忘れたんですか?」

「――忘れた。ああ、そうだな。忘れた、か」

「ナツキさん?」

忘れたというだけなら、ナツキ・スバルはここまでの隔絶感を味わわずに済んだろう。

だが、ナツキ・スバルを責め苛む感覚は、忘却なんて生易しいものですらない。

「この先に、お前の村があるんだな? 俺も立ち寄ったことがある?」

「え、ええ、もちろんです。以前、ちょっとした問題があった際に、兄と、もうお一方と一緒にいらして……」

「――わかった。ありがとう」

おおよそ、聞きたいことは聞くことができた。

そのスバルの発言に、鼻白むレギンへと顔を向け、続ける。

「お前、兄貴と喋り方そっくりだな」

「え?」

「お前がこんだけいい奴なんだ。お前の兄貴も、いい奴なんだろうよ」

だから今後、『初めて再会』するのが恐ろしくもある。

決して、それを楽しみに心待ちにすることなどないだろうから。

「――シャウラ」

「はい、どうしたッスか、お師様」

「苦しめるな」

短く、要領を得ない呼びかけだった。

しかし、たったそれだけで意を察したとばかりに、シャウラは「あらほらさっさー」と頷いた。

そして――、

「ごめんな」

一言、スバルが眼前のレギンに謝った。

今度の謝罪の真意は、先ほどの曖昧なものよりずっと明確なものだった。しかし、その正しい意味をレギンが理解することはない。

――何故なら、理解より早く、レギンの頭部は光に呑まれ、蒸発していたからだ。

「――――」

どう、と苦鳴も漏らさず、頭をなくしたレギンの体が街道に倒れる。凄まじい熱が傷口を焼いていて、首の断面からは血すら流れようとしない。

鮮やか、と殺しの手口を褒め称えるのは倫理的に間違ったことだが、思わずそう評したくなるほどに洗練された一撃だった。

「何回見ても見事なもんだな」

「四百年、特にやることなく、塔の上から来る日も来る日も遠くに見える魔獣をスナイプして磨いた技ッス。今思えば、年頃の乙女とは思えない灰色の日々ッスね」

「四百年生きてて年頃の乙女……?」

目の前の惨劇に感動もなく、スバルはシャウラの言葉に首を傾げる。それから、レギンの頭のない亡骸を引きずり、主を失った彼の竜車へと近付いていく。

しかし、そうして近付くスバルたちに気付くと、地竜は即座に走り出し、スバルたちを街道に置き去りにしようとしてしまう。

瞬間、スバルのすぐ脇を白光が突き抜け、竜車の荷車を貫通し、そのまま竜車を引いていた地竜の体内に一撃が侵入、内臓を焼き、頭部を貫いてその命を奪う。

鮮やかだが、やってほしくなかった一撃だった。

「……おーい」

「わ、悪気はなかったッス! 正当防衛ッスよ! あーしなりに止めようって踏ん張った結果ッス! ちょっと、キリングマシーンの習性が抜けなかっただけッス!」

「怒ってはねぇよ。怒ってはねぇけど、これでまた竜車を手に入れ損ねたじゃねぇか。いつになったら、移動手段が徒歩から先に進化するんだよ……」

こんな調子で、シャウラを連れているとどうにも地竜との縁がない。おかげで同行者が彼女の間、スバルは延々と徒歩を強制されることになる。

「だーかーらー、ずっと言ってるじゃないッスか。緊急時じゃなくても、あーしはお師様ならいつでもおんぶするッスよ~。そのとき、うっかり変なとこ触ってもハプニングってことであーしは気にしないッス! どうッスか!?」

「なんか、あとでお金取られそう」

すげない言葉でシャウラの誘惑を躱して、スバルは強制的に停車した竜車の中にレギンの亡骸を引っ張り込む。地竜の巨体も街道に倒れており、頭部を失ったところまで主人と全く同じ末路だ。さすがに、地竜はスバルの力では連れ出せないが。

「ひとまず、竜車ごと地竜は近くの森にでも引っ張っといてくれ。俺はレギンが話してた村の方にいってみる。――俺の場所はわかるよな?」

「楽勝ッス。見つかんないようにしとけばいいんスよね?」

「少しの間、見つからなけりゃそれでいい。二、三日隠しておければ十分だ」

竜車を降りて、シャウラに惨劇の隠蔽を指示する。挙手してそれを受け入れるシャウラは地竜の巨体を掴むと、その細腕で軽々と死体を担ぎ上げ、竜車も引っ張り始めた。

そのまま、彼女が竜車を森へ隠してくる間に、スバルは村のある方へ目を向ける。

「さて」

無目的ではなく、目的を持ってスバルは歩き出した。

レギンが帰るはずだった村へ向かって、真っ直ぐに。

その村に、『ナツキ・スバル』を知る人間がどのぐらいいるのか。

あまり多くても、あまり少なくても、どちらでも気が重くはある。だが、嫌なことだからといって避けていては、正しい道を選び取れない。

非情な選択ではあるが、仕方のないことなのだ。

大丈夫。――『ナツキ・スバル』さえ取り戻すことができれば、全ては。

「取り返しが利くことなんだろ?」

だからそのために、『ナツキ・スバル』の取れない選択肢を、スバルがするのだと。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――っ、はぁ」

意識が現実へと回帰した瞬間、スバルは両手に握っていた本を取り落としていた。

膝が震え、息が荒くなる。地べたに座っているにも関わらず、くらりとやってくるのは堪え難い立ち眩みのような感覚だ。

――こればかりは、何度味わっても慣れるものではないと、そう感じる。

「はぁ、はぁ……」

冷や汗の浮かんだ額を袖で乱暴に拭い、スバルは深呼吸を繰り返して心臓の鼓動を落ち着ける。不整脈めいた拍動の乱れは、精神と肉体の不一致からくる混乱が原因か。

一冊一冊に挑むたびに、本の中では『自分』というものが曖昧になるのがわかる。

あるいはこんな作業を繰り返し続けていたら、正気の人間は自分と他者との境がわからなくなって溶け合い、かえって自我らしいものを見失ってしまうのではないか。

「お師様、大丈夫ッスか?」

「……ああ、大丈夫、大丈夫だ。それより、次の本は見つかったか?」

「あーっと、まだ探し中ッス。絵合わせみたいで捜すの大変なんスよ~。こういうちまちました作業、あーし向きじゃないッスもん……」

息の荒いスバルを心配して、声をかけてきたシャウラが不甲斐ない進捗に指を突き合わせる。だが、そんな弱々しい彼女を責めるつもりはスバルにはない。

彼女自身に自覚がある通り、向いていない作業を手伝わせているのが原因なのだ。その上で無償で付き合ってくれている彼女を責めるなど、人でなしにも限度がある。

もう十分以上、人でなしの道をひた走るスバルにも引くべき一線があった。

「向き不向きがあるのはわかってるが、頼むぜ、シャウラ。お前しか、力を貸してくれる奴がいねぇんだ」

「お師様にはあーしだけ……って言ってくれたらいいッス」

「……今、俺が頼れるのはお前だけだ」

「むふー、今はそれで満足してあげるッス」

小鼻を膨らませ、シャウラは満足げな顔で再び本の海へと潜っていく。おそらく、あの上機嫌もさほど長くはもつまいが、彼女の目は本の探索に欠かせない。

単純な人手という意味でも、彼女の有無はスバルの死活問題だった。

「――――」

足下に落とした、直前まで読んでいた本を拾い上げ、スバルは背表紙に書かれているタイトルを指でなぞる。

黒い本のタイトルは簡素なもので、そこには『レギン・スーウェン』とあった。

過去に『ナツキ・スバル』と邂逅し、今のナツキ・スバルと遭遇したことで、運悪く命を落とした若者――その一生を、スバルは書によって追体験した。

その追体験の中には、確かに『ナツキ・スバル』と邂逅した記憶もあったが。

「……大した付き合いじゃなかったな。レギンの主観じゃ、『ナツキ・スバル』は兄貴とセットでついてきた、よくわからない奴か」

自分の中の一部となった記憶を参照して、スバルは徒労感に嘆息する。

正直、一番ため息をつきたいのは犠牲になったレギンの方だと思うが、肩透かしのような感覚に徒労を覚えることも避けられない。

『ちょっと、いくら何でもそれはないんじゃありませんか、ナツキさん』

「……悪い。一応、お前の記憶も全部さらってはいるんだが、それでも関係性が薄すぎて再現性が低くなる。あんまり、お前に構ってやる機会はなさそうだ」

書架の中、自分の名前が書かれた本を恨めしげに見つめて、レギンが何とも味わい深い表情をスバルに向けている。当然だが、視線には非難の色が濃い。

殺された挙句、その死があまり役立たなかったとこき下ろされれば、誰だって不機嫌にもなるものだ。

それがわかるから、スバルも素直に「すまん」と謝るのだが――、

『まぁ、死んでしまったものは仕方ありませんよ。それに、ナツキさんの目的が果たされたんなら、全部丸っと元通りになるんでしょう? それに期待しましょう』

「おお、器がでかいな。その度量に甘えっ放しで悪いが、それで頼む。ちゃんと、元通りになったらこの借りは返すよ」

『期待しないで、それを待っているとしましょうか』

肩をすくめたレギンが、手を振ってスバルの視界から霞むように消えていく。それを見届けて、スバルはレギンの『死者の書』を書架の中へと戻した。

それから、手元にあった紙を拾い、そこに羽ペンで横線を入れる。――それは、いくつもの名前が書かれた名簿であり、今しがた、レギンの名前に横線が引かれたところだ。

「……あと、二十三人か」

振られた番号を数えながら、スバルは先はまだまだ長いと首の骨を鳴らした。

『死者の書』が陳列された書庫――『タイゲタ』の不親切さは健在で、あれから何度となく足を運んでも、一向にスバルに書庫内の検索機能などを与えてくれない。

これだけ頻繁に利用しているのだから、少しはサービスが向上しても罰は当たらないと思うのだが、何とも忌々しいものだ。

『ベティーの禁書庫も大したものだったけど、ここはその比じゃないかしら。日を改めても誰も文句は言わないはずなのよ、スバル』

『その通りだ。これだけ広大な書庫の中、特定の本を見つけるのは至難だろう。じっくりと腰を据えて挑まなくては、闇雲に続けてもくたびれる一方だ』

弱音が頭を過った途端、ベアトリスとユリウスが書庫を見回しながら助言してくる。その内容はスバルに優しいが、だからこそ頑として首を横に振った。

確かに言われるがままに時間をかけることを選べば、この徒労感と心労は少しは安らぐのかもしれないが――、

「そもそも、安らごうってのが贅沢な話だ。俺がだらだらと時間を使ってる暇なんかどこにもない。一刻も早く、答えに辿り着かなきゃ……」

『辿り着かないと何なの? バルスが多少急いで何かが変わる?』

「変わるさ。――それこそ、全部が変わる」

拳を握りしめて、そう言い切るスバルをラムが冷たい薄紅の瞳で見つめている。その視線から顔を背け、スバルは手の中の名簿をじっと見下ろした。

レギンと、同じ村の人々の名前が記された名簿だ。レギンの記憶を参照する限り、決定的な何かを得るのに役立つ可能性はかなり低い。低いが、ゼロではない。

だったら――、

『その人たちの本を読んだら、スバルのやりたいことは叶うの?』

「エミリアたん……」

心配そうな目をしたエミリアの問いかけに、スバルは一瞬だけ躊躇いを得る。だが、スバルはエミリアに、何より自分に言い聞かせるように頷く。

「もちろん、そうだ。俺が……俺が何もかも忘れたせいで、みんなにとんでもない迷惑をかけちまった。それを挽回するには、この手しかない」

『挽回なんて、そんなこと考えなくても……』

「――それじゃダメなんだよ!」

無茶するスバルを見ていられないとでもいうように、表情を暗くしたエミリアにスバルは思わず声を高くしていた。

驚いた顔をするエミリア、その瞳を真っ直ぐ見据え、スバルは続ける。

「お願いだから、そんなこと言わないでくれ。俺は、何としても『ナツキ・スバル』を取り戻してみせる。それから……」

『……それから?』

「それから、もう一回、君たちに会うんだ。……会って、やり直すんだ」

何もかも、失ってから大切だったと気付くのでは遅すぎる。

自分の手の中にあったものが掛け替えのないものだったのだと、どうして人は背負った積み荷が軽くなるまで気付けないのだろうか。

全てを取りこぼして、取り返しがつかなくなってからでなくては、何故――。

『――――』

絞り出すように呟くスバルを、エミリアがどこか儚げな瞳で見つめている。その紫紺の瞳にこもった感情は複雑で、スバルにも全てを読み取ることができない。

彼女のことであれば、それこそ、手に取るように全てを見通したはずなのに、ここにいる彼女の心中がわからないことが、ひどくスバルの不安を掻き立てた。

エミリアは何を考え、何を思い、今のスバルをどう受け止めるのか。

その答えは――、

「――お師様! 次の本見つけたッス! 褒めて褒めて!」

「あ、ああ、よくやった。偉いぞ、シャウラ」

「うへへへ~ッス」

飛びついてくるシャウラが、エミリアとの問答を強制的に終わらせる。そのシャウラの頭をスバルが撫でてやると、彼女はだらしなく顔を弛緩させて喜んだ。

その彼女が手にしている一冊には、確かに名簿と一致する名前が書かれている。

「……あんたの中には、どのぐらい『ナツキ・スバル』が眠ってるんだ?」

シャウラから本を受け取り、スバルは答えるはずのない本に問いを投げかける。当然だが、本がスバルの質問に簡潔に答えてくれたりはしない。

しかし、本の中に答えはある。全てはそのための蛮行、必要な犠牲だ。

「客観的な、断片的な情報でいい。それを搔き集めて、完成形に近付ける……」

評価とは、他人の物差しで測られて決まるものだ。

ならばそれこそ、全ての人間の物差しを確かめることができれば、全ての物差しで測られた個人が確かめられれば、その人間を再構成することもできるはず。

――『ナツキ・スバル』を取り戻すこと。

それが、ナツキ・スバルにとっての最優先事項であり、全てはそのための行程。

生まれてしまった犠牲はもちろん、これから生み出されていく犠牲も何もかも、ナツキ・スバルが『ナツキ・スバル』を取り戻すために必要な行いだ。

『ナツキ・スバル』が取り戻せれば、彼さえ戻ってきてくれたなら。

「……お前なら、全部、何とかしてくれるはずなんだ」

エミリアの、ベアトリスの、ラムの、メィリィの、ユリウスの、彼女たち以外の、大勢の関係者の記憶が、それに類することを願っていた。

だから、『ナツキ・スバル』にならその力があるはずなのだ。

だから、その力で――、

「――俺を救ってくれ」

頼むよ、『ナツキ・スバル』。お前が、英雄なら、助けてくれ。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――『殺人は、癖になる』。

それは、かの有名な名探偵、エルキュール・ポアロが世に残した言葉の一つだ。

その言葉の意味は、人を殺した人間が殺人の嗜好に目覚め、己の欲求を満たすために犯行を繰り返すようになる、といった意味ではない。

一度、殺人によって問題の解決を図ったものは、次なる問題が発生した場合、やはり同じように殺人によって状況を打破しようと考える、という意味だ。

――『殺人は、癖になる』。

だが、殺人をすることが、真に問題の解決に繋がっているとしたら、それは殺人が癖になった結果と言えるだろうか。

これは殺人が癖になったのではなく、やむにやまれぬ事情があってのことと、そう言えるのではあるまいか。

癖になったから、殺人を選択肢に入れているのではなく、殺人をする以外に選択肢がない場合は、癖になったなんてことは言えないのではないか。

――『殺人は、癖に』。

大体、何がエルキュール・ポアロだ。創作上の探偵が偉そうに語るな。

何もかも見透かした風に言われてたまるものか。どんなものにも、どんな状況にも、様々で複雑で密接に入り組み、絡み合った事情があるのだ。

それらも無視して、一様の言葉に当てはめようなどと、馬鹿にするな。

――『殺人は』。

これは、他に手段が存在しないだけだ。

最も合理的で、正解へ通じる手段が他に存在しないだけなのだ。

だから、これは癖になったのではない。

――『殺人だけが、答えになる』。

そう、そうだ。そうなのだ。それだけが答え、それだけが正解。

それだけが、この袋小路の絶望感を打開する、最後の手立て。

『スバルはいつも私を助けてくれて、どんなことでも解決しちゃう、私の騎士様なの』

『スバルがいなかったら、ベティーは今も、禁書庫で一人きりでいたかしら』

『バルスはそうね……タイミングのいい男だわ。それだけは、ラムも認めてあげる』

『お兄さんが邪魔しなければあ、きっとお仕事失敗しなかったのよねえ』

『スバル、君に自覚はないだろうが、私は君に救われてもいた。君の在り方が、私にとって希望の道途でもあったんだ』

「わかってる」

お前たちが、『ナツキ・スバル』が大好きなことはわかっている。

お前たちが、『ナツキ・スバル』を大切に思っていることはわかっている。

お前たちを救った『ナツキ・スバル』が、スーパーマンであることはわかっている。

お前たちを救えた『ナツキ・スバル』がしたことを、全部台無しにした自覚はある。

だから、それを取り戻さなくては。

それを、『ナツキ・スバル』を取り戻しさえすれば。

それさえすれば、万事がうまくいく。うまくいくのだ。

いかなくては、ならないのだ。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――ナツキ・スバルは乱心して、同行していたエミリアやユリウスたちを手にかけた。ワタシも命からがら、何とか逃げ延びて、こうしている」

アナスタシアが持ち帰ったその報告に、集められた面々は一様に顔をしかめた。その表情が示す意味は単純なもので。

「信じ難い、と君たちが判断するのは当然のことだ。ワタシも、こんな報告を持ち帰らなくてはならないことに痛恨の思いがある。だが、彼の危険性を鑑みれば、現実逃避をしている余裕はワタシたちにはない」

「アナスタシア様、そう仰られても……」

「――ワタシはエキドナだ。アナは、今もこの体の奥底で眠り続けている。あるいは彼女にとっては、このままの方が幸福なことかもしれないが」

「……にわかには、信じ難いお話です」

アナスタシア――否、エキドナの正面、目を伏せて受け答えするのは赤毛の騎士、ラインハルト・ヴァン・アストレアだ。

場所は水門都市プリステラ――その場に集ったのは王選に関わるものたちであり、都市での戦いが終結してしばらく、東へ向かったスバルたちの帰還の報告を待ちわびていた面々である。

プリステラで発生した大罪司教たちによる魔女教の大被害、エミリアたちはそれらの被害を回復する手段を求めて、『賢者』の知恵を借りるために東へ向かった。

不安はあった。だが、吉報を持ち帰ってくれると。

そう信じさせるだけの根拠が、東へ向かった顔ぶれの中にはあった。その根拠、それこそが他ならぬナツキ・スバルであった。――それが、乱心したなどと。

「とても、わかりましたと頷ける話ではありません」

「信じられなくても、事実だ。今の彼は、君たちの知っている彼ではない。ナツキ・スバルは記憶をなくして、それを取り戻すことに執着している。そのための手法として、彼は最悪の手段を選択した」

「最悪の手段とは……」

「プレアデス監視塔の中にあった『死者の書』……死んだ人間の記憶と半生、それを読み解くことが可能となる本だ。生憎、ワタシは一冊も読んでいないから、その効力のほどはわかりかねるけどね」

エキドナの返答を受け、奇妙な力を持つ本の話を聞かされても、なお納得がいかない。

無論、記憶が失われることの脅威、それはすでに十分以上に実証されている。それもまた、スバルたちが何とかしようと志した被害の一つだったのだから。

だが、そのための旅路がそのようなことを引き起こすなど、誰が予想できる。

「――ナツキさんが一人で、それをやれるとは思えません。『死者の書』を読むのが目的だとして、どうやってその実行を?」

「オットー、君は信じるのか?」

冷然と響く問いかけを放ったオットーに、ラインハルトが目を見開いて振り返る。その『剣聖』の青い瞳に、オットーは「ええ」と頷いて、

「アナスタシア様……今はエキドナさん、でしたか。彼女が僕たちにこんな嘘をつく理由がありません。突拍子もなさすぎるし、意味もない。実際、彼女がこうして一人で戻ってきたということは、予想外の事態が起きたとしか考えられない」

「それは……だが」

「僕だって、信じたくはありませんよ。そんなこと」

ぐっと、拳を固めるオットーが食い下がるラインハルトに声を震わせる。その声の震えを聞けば、オットーがどれだけ強い感情を腹腔で押し殺しているのかわかる。

兄貴分の無念の横顔に、隣に並んだガーフィールが「オットー兄ィ……」と案じる。

「……オットーくんの見立ては正しい。記憶を失い、ナツキ・スバルの行動の規範が変わったとしても、そのままならエミリアやユリウスが取り押さえることは容易だったはず。その目論見を外したのは彼の協力者、シャウラだ」

「シャウラ……? そりゃァ、監視塔にいるッはずの『賢者』の名前じゃァねェか。そいつが大将に……いや、頭が混乱してきた。『オズムンドの躊躇い』ってヤツだ……」

「生憎、君の混乱が鎮まるのを待っていてやれる余裕はない。お察しの通り、シャウラは監視塔にいた観測者の名前だ。当人の言葉を借りれば、あくまで『賢者』というのは彼女の師匠筋であって、自分自身はそうではないとのことだったけどね」

「色々と、聞きたいことはありますが……そのシャウラが、スバルに協力している?」

ラインハルトが確かめると、エキドナは首を縦に振った。

その彼女の肯定に、場は騒然となりかける。

水門都市を大罪司教から救わんとした英雄、その思いがけない変節と、その変貌に付き合っているのが長く歴史に語られてきた三英傑の一人である『賢者』。

悪夢の中でまた悪夢を見るような残酷な環境で、世界を嘆かずに誰がおれよう。

「……ワタシがこの事実を持ち帰ったのは、別に敵討ちを望んでのことじゃない」

ふと、その報告に広がる混沌の中心で、下を向くエキドナがポツリと呟く。

彼女のその呟きを聞きつけ、「エキドナ?」とラインハルトが眉を上げた。そんな彼を始めとした複数の視線を集めながら、エキドナは短く息をついて、

「アナの気持ちや、ワタシ自身がユリウスと過ごした時間を思えば、彼を手にかけたナツキ・スバルへの怒りを募らせるのが正当なんだろう。……だが、ワタシは疲れた」

「疲れた?」

「憎んだり、憎まれたりもそうだし、拳を振りかざして迫ってくるのが必死なだけの子どもだということにも、疲れたんだよ」

力なく首を振り、エキドナはゆっくりと立ち上がる。

彼女はアナスタシアの顔と声で、しかし、彼女であれば決して浮かべることがなかっただろう弱々しい顔つきで、

「ワタシは、この舞台を降りるよ。アナを、この舞台へ戻すことの残酷さは耐え難い。ワタシたちは、取り返しのつかない失敗をしたんだ」

「そんな、ことは……」

「君に悪気がないことはわかっている。だが、諦めることが最善であるときに、諦めないよう説得されることは苦痛でしかない。ワタシは、ここまでだ」

そうして、すっかりと心の折れた彼女を引き止める言葉を誰も持たない。エキドナもまた、自分を引き止めるものが誰もいないとわかっていた。

わかっていたから、彼女は観衆たちに背を向けて、その場を辞する。――それは先刻の言葉通り、王選の舞台を降りることそのものだった。

「君たちの健闘を祈っている。――どうか、気を付けてほしい」

それが、プレアデス監視塔へ旅立った一団の中、唯一、無事に帰り着いた一人が残した最後の報告であり、重苦しい不安を掻き立てる全てだった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「……お前は、これからどないするつもりなんや」

帰途を歩みながら、隣に並んだリカードが問いかけてくるのにエキドナは目をつむる。

片腕をなくした負傷は重く、リカードの失われた部位にはかつての太くたくましい腕はついていない。代わりに鉤爪のようなものが取り付けられており、それはそれで、戦うことを諦めない姿勢が彼らしいと言えるが――、

「言った通りだよ。諦める。それが賢明だ。ワタシはこれ以上、アナの体で彼女を装おうとも思えない。……せめて、ホーシン商会に対する最低限の責任は果たすけどね」

「最低限の責任っちゅうんは……」

「商会を解散し、従業員の次の仕事を世話しないとならない。商会自体は、副会長のチュデンに任せればうまくやってくれるだろう」

「――――」

「不満はわかるよ。だが、仕方のないことだ」

正体こそ明かしてこなかったが、エキドナとリカードの付き合いは相応に長い。一方的な面識だが、リカードがアナスタシアに向ける強い感情には理解がある。

何故ならそれは、エキドナがアナスタシアに抱くものと全く同質のものだから。

リカードがアナスタシアに、父親のような情を抱いていたのだとしたら、エキドナもまた同じように、アナスタシアに母親のような情を抱いていたのかもしれない。

だから――、

「『鉄の牙』も、手放そうと思う。今後はリカード、君の好きにしていい」

「ワイの好きにしてええんやったら、ワイはお嬢の目ぇ覚まさせる方法を捜すぞ」

「……一番の可能性が断たれた状態で、君がなおもそれを目指すというならワタシからは何も言えない。『鉄の牙』の子たちが従うなら、なおさらね」

リカードの姿勢を強情と、そんな風に言い捨てることはエキドナにはできない。

彼もまた、譲れないものを譲らず、守りたいものを守るために真剣なのだ。当人が何かを始める前から、それを無意味と断ずるほど残酷なことはない。

エキドナが諦めたからといって、リカードが諦める必要はないのだ。

ただ――、

「君のその姿勢を、アナが喜ぶかはワタシにもわからない」

「……叱られるんやったら、それはそれや。それも確かめんうちから諦めるやなんて真似ができてたまるかい。ワイは、アナ坊の父親代わりなんやからな」

「――――」

「娘見捨てる父親に、父親の資格なんぞあるかい。何を言われても諦めんぞ、ワイは」

断固たるリカードの宣言は、エキドナへの皮肉では決してなかった。しかし、それが胸の奥に突き刺さってしまうのは、エキドナの方が自分の弱さの自覚があるからだ。

故に、エキドナは渇いた笑みを浮かべ、リカードの強さを称賛する。

そして――、

「――リカード、君は本当に」

強いのだね、とエキドナは言葉を続けようとした。

あるいは時間をかければ、自分にも同じ強さを得る機会があるだろうかと、そんな風に問い返したかったのかもしれない。

――だが、それは間に合わない。

「――――」

地鳴りのような感覚が足下を伝い、刹那、エキドナはリカードが腕を伸ばすのを見る。彼の太い、鉤爪となった腕がエキドナの首根っこにかかり、足が宙に浮いた。

リカードが自分を摘まみ上げたのだと、そこまで気付いて、それで終わりだ。

次の瞬間、爆発的な勢いで迫ってくる水流がエキドナを、リカードを、都市を呑み込んで、全てを一切合切、押し流していく。

――魔女教がやり損ねた水害が、一度は難を逃れた水門都市を今度こそ襲った。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

大水に呑み込まれていく都市を見下ろしながら、スバルは短く息をつく。

すり鉢状に作られた都市の設計は、なるほど、水が流れ込めば逃げ道がなく、まるで蟻の巣を水攻めするような圧倒的な効果を発揮してみせた。

「さすが、対魔獣決戦用の都市……罠の効果は抜群だな」

元々、魔獣やら魔女やらを倒すために成り立った都市という知識の通り、大水門を開放した効果は絶大だった。

水の暴力は一瞬で都市を水底へ引きずり込み、逃げる間もなく住民たちを呑み込む。

『なるほど、見事なものじゃーぁないか。これで、君を知る人間の多くが一挙に片付いた。……自分探しが捗る、そう思っていいだろーぉね』

「……うるさい」

惨状を見下ろすスバルの後ろで、道化姿の長身が不謹慎な感想をこぼした。

その表情はご満悦とは言わないが、目の前の結果に相応の手応えを得た様子だ。彼の知識と助言があって実行した計画だけに、その考えもわからなくはないが。

『旦那様って、ホントに悪趣味……』

そんな道化姿の主人のことを、メイド姿の少女が軽蔑の眼差しで見ている。愛らしく、利発そうな印象を抱かせる少女はスバルに寄り添い、そっと手を握ってきた。

その手を握り返してやり、スバルは彼女に頷きかける。

「ペトラ、どんな塩梅に見える?」

『えっとね、シャウラさんはちゃんとやってくれたみたい。制御塔、四つとも動かせたから逃げ切れた人はいないと思う。……避難所も、たぶん』

「……そうか。辛い報告させて悪かった」

客観的な意見を求めたところで、ペトラが気丈な微笑みを浮かべる。

スバルの知る彼女は芯こそ強いが、その中身は決して特別なところのない普通の子だ。そんな彼女を巻き込むことに罪悪感がないわけではないが――、

『そんな感傷を抱かれるぐらいなら、最初からこんなことを始めなければよろしかったですのに。スバル様は中途半端なお人ですのね』

「そう言われちまっちゃぁ、言い返す言葉もねぇよ」

糾弾してくる金髪のメイド、フレデリカの怒りは簡単には晴れない。

彼女は自分自身が見舞われた悲劇より、周りの人に起こった悲劇の方を重視する。そうした意味では、スバルの行いを決して許すことはないだろう。

こればかりは理屈ではなく、感情の問題だ。理性的に見えて、存外、自分の感情に素直なあたり、ガーフィールとの血縁を感じさせられる。

「とはいえ、ガーフィールも人づてにしか知らねぇんだが」

嘆息気味に呟いて、スバルはそっと自分の前髪に指を差し込んだ。ガシガシと乱暴に頭を掻いて、強く息を吐く。

意識を切り替え、戦いに集中するために。

『それで? 次はどうするつもりなーぁんだい、スバルくん』

前のめりになり、すぐ隣から顔を覗き込んでくるロズワールに舌打ちする。それから、スバルは「決まってるだろ」と悪態をつくように言い放ち、

「手筈通りにいく。――最初に、一番厄介な奴から攻めるのが上策だ」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「ごほっ、えほっ……!」

「オットー兄ィ、大丈夫ッか!? 水吐け! 全部吐け!」

肺の中まで入り込んだ水を吐き出すべく、オットーは盛大に咳き込み、涙を流す。その状態を危険と見て、ガーフィールが水を吐く作業を手伝ってくれるが、さすがに足を持って逆さに振られるのは心身に堪えた。

おかげで、肺の中に入った水を吐き出すのには成功したが。

「クソッ! いったい、何がありやがったんだ……!?」

「……都市の、大水門が開放されたんでしょう。それで、水が街を呑み込んだんです。魔女教相手に必死で食い止めた戦いだったのに、全部、水の泡だ」

周囲、水没する都市の情景を眺めて、牙を震わせるガーフィールにオットーが呟く。それを聞いて、弟分の翠の瞳が悲痛に歪むのを確かめ、オットーは顔を伏せた。

一瞥すれば、絶望的な状況となった都市の様子が全方位に確認できる。幸い、オットーは傍らにいたガーフィールに担がれ、かろうじて水が届かない高さへ逃れられたが、同じことができた人間が都市の中にどれだけいたことか。

「全部、水の底に……」

凝然と目を見開いて、ガーフィールは都市を襲った水害に打ちひしがれている。

詳しく話は聞いていないが、ガーフィールがプリステラで何か大きな出会いを経験していたらしいことはオットーも感じ取っていた。

それが彼にとって好ましい相手で、大切な存在であっただろうことも。

――この大水は、そんなガーフィールの絆さえも、無情に押し流していった。

「……いえ、それだけじゃない」

ガーフィールの精神状態も心配だが、オットーが懸念すべきは他の関係者たちだ。

思いがけない報告を持ち帰ったアナスタシア――エキドナを始めとして、彼女の報告を聞くために集まった王選候補者を含めた面々も、この被害に見舞われたはず。

関係者に注意を呼びかけるつもりで集めたのが、逆に仇になった形だ。

「酷なこと言います。ガーフィール、立ってください。僕たちは、この状況に対処しなくてはなりません。それこそ、前回の魔女教のときと同じように」

「お、オットー兄ィ……けど、よォ……」

「今、僕たちが呆けていたらどうなりますか!? ナツキさんも、エミリア様もいない! 立ってください、ガーフィール! 僕たちしかいないんだ!」

「――――」

胸倉を掴んで、オットーは弱々しい顔つきの弟分を怒鳴りつける。それが残酷な発破であることはわかっているが、今この瞬間は呑み込み、噛み潰した。

萎えた心を叱咤して、焚き付け、立ち上がらせる。

そうすることで、非情と罵られようと構いはしない。――あとでガーフィールに憎まれたとしても、果たすべき役割を果たせないより、ずっといい。

「生存者を捜すのと、王選候補者や、騎士たちと合流します。これが都市に敵対的な人物の攻撃なら、団結して立ち向かわないと……」

「――ッ! オットー兄ィ!」

「――!?」

非情な判断を言い聞かせ、ガーフィールの説得に打ち込むオットー。その胸を突き飛ばして、ガーフィールが吠えた。

直後、建物の屋上で尻餅をつくオットーの正面を、目で追い切れないほど凄まじい速度で光が突き抜ける。

「ぐ、うううう!」

一瞬、ほんのわずかに胸元を掠めた光に全身が焼け付く痛みを味わわされる。出血はない。だが、オットーの服の胸部が焼け焦げ、その下の肌が炭化したのを目にした。

凄まじい熱量、それが今の白光の正体だ。

そして、その白光は――、

「お、おおおおおお――ッ!!」

超速で迫りくる白光、恐るべきことに連続してやってくる白い死を、ガーフィールが吠え猛りながら強引に打ち払った。

その腕に銀の盾を装着し、ガーフィールは目にも留まらぬ圧倒的な物量に正面から挑む。超次元の戦闘が展開され、それはオットーの目では到底追い切れない。

ただ、起きている事象にはわずかながら想像がついた。

「どこから……」

痛みを堪えながら、オットーは周囲に視線を巡らせ、白光の発射地点に目を凝らす。

オットーとガーフィールを狙い撃ちにする攻撃、その下手人が大水門を開いた下手人でもある。思い当たる敵は当然、魔女教徒と――、

「――っ、あんな距離から!?」

視界の端、はるか遠くに見える大水門の制御塔――オットーたちのいる位置から、ほとんど都市の対極に位置する塔の頂点が光るのが見える。

一瞬、ちかっと視界が閃いたかと思った直後、光は即座にこちらへ迸ってくる。今は何とか、ガーフィールが防いでいるが――、

「このままじゃじり貧ッだ! オットー兄ィ、隠れる場所探せ! 俺様ァ、この野郎をぶっ潰すッ!」

「ガーフィール! 距離を詰めて大丈夫なんですか!?」

吠えるガーフィールだが、その形勢は決して有利とは言えない。

迫りくる白光の速度は尋常でなく、相手との距離があることがかろうじてガーフィールの防御を光に間に合わせている。距離が縮まれば、その分だけ光に対処する時間は減る。それが瞬きのような差異であろうと、超次元の戦闘では致命的だ。

「それッでも、やってやるしかねェ! 俺様たちしかいねェ! そォだろ!?」

「――。その通りです。ガーフィール!」

「おおよォッ!!」

先のオットーの発言を繰り返し、ガーフィールが力強い踏み込みと共に跳躍する。そのまま、大水に呑まれる都市でかろうじて足場とできる建物を利用し、ガーフィールは猛然と前進し、白光の発射地点である都市の制御塔へと果敢に攻め込んだ。

「お、おお、おおおォォォ――ッ!!」

一発一発、骨の髄まで痺れるような衝撃を味わいながら、ガーフィールは吹き飛ばされそうになる体で踏ん張り、足場の悪い状況で勝利に食らいつく。

凄まじい手合いだった。

あれだけの遠距離から正確に攻撃を当ててくる力量もさることながら、これだけの威力の攻撃をほとんど間髪入れずに叩き込んでくるマナの保有量も常軌を逸している。

最初に距離を取られたという立ち位置から考えれば、相手に圧倒的有利な状況だ。

「だからって……」

相手の方が上手だったと、そう諦めてやれるほど物分かりは良くない。

それ以上に、相手がやってくれたことの方がずっと、ずっとずっと重く、許し難い。

水門都市プリステラが水底に沈み、おそらくは想像以上の人間が犠牲になった。

まだ、前回の魔女教の襲撃が残した爪痕も癒え切らないままに、畳みかけるような悲劇が都市を覆ったのだ。――その中には、ガーフィールの血を分けた家族もいて。

「――ッ!」

考えてはならないと、ガーフィールは奥歯を噛みしめて必死にかぶりを振る。

しかし、考えないようにしようと懸命になることは、結局、考えていることと何も変わらない。胸の奥、悲しみと怒りがない交ぜになり、ガーフィールの心はどす黒い激情に呑み込まれ、ささくれ立っていく。

そのどす黒い激情を爪に、牙に込めて、この敵へと叩きつけてやれば――、

「――ガーフィール」

ふと、激情に支配された頭蓋に声が届いた。

ただ名前を呼ばれただけ。それだけだったなら、ガーフィールもそれを一顧だにすることはなかっただろう。

だが――、

「――大将?」

その声が、帰還を待ち望んでいた待ち人のものであったなら話は別だ。

翠の瞳を巡らせ、超速の攻防の中にガーフィールは声の主の姿を捜した。

――エキドナが持ち帰った情報、それをガーフィールは頭から信じていない。

元々、エキドナなんて名前の存在を信用できるガーフィールではない。無論、その名前を名乗る存在の危険性をスバルに訴え、その上でプレアデス監視塔へ向かうことを無理やり納得した形ではあった。

それでも、結果、アナスタシアの姿をしたエキドナが戻ったのを見て、ガーフィールは自分の考えが浅く甘く、青かったことを悔やんだ。

すぐにでも、スバルやエミリアたちを捜すために後を追うべきだと考えた。

都市に大水が流れ込んできたのは、その相談をオットーに持ち掛けた直後だった。オットーにはオットーの考えがあったようだが、ガーフィールは牙に力を込めて、断固としてそんな誤った考えは認められない。

スバルが、しくじるとはガーフィールには思えなかった。

だから、この状況でナツキ・スバルの声が聞こえたことに、ガーフィールは希望を見出してしまう。何もかもが袋小路に呑まれた状況を変えてくれるのではと。

そんな、都合のいい幻想に縋りつくように、姿を探し求めて――、

「一番肝心なところで割り切れない。――やっぱり、身内の目は的確だな」

声の主が目に入った瞬間、ガーフィールは困惑に眉間の皺を深めた。

それは呟きが耳に届いたからではない。呟きは聞こえなかった。純粋に、目に見えたものへの驚きが、ガーフィールの表情に変化を生んだのだ。

「――――」

眼下、白光へ向かって飛ぶガーフィールを見上げ、こちらを見ている人影がある。

その姿かたちは、確かに見知った存在と同じに見えたが、

「――誰だ、てめェ」

鼻に意識を集中すれば、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔に滑り込んでくる。

しかし、五感ではなく本能が、それが見知った相手であることを否定しようとした。

思考に生まれる、ほんの刹那にも満たない空白。

だが、致命的な空白。

そこへ――、

「――はい、どーん!」

「な」

正面、気の抜けるような掛け声と共に、突っ込んでくる黒髪の女が蹴りを叩き込んでくる。それをとっさに盾で受け、竜車の突撃のような威力を両腕で殺した。

しかし、眼前と眼下と、意識が二方向へ散った状態で相手にできる敵ではなかった。

「悪くなかったッスけど、あーしのお師様への愛の方が、百枚上手だったッスね」

にんまりと笑った女の掌が、ガーフィールの顔の正面へとかざされた。瞬間、全身の総毛立つ気配にガーフィールは身を硬くし、とっさに顔を後ろへ反らして――、

「ぶ」

衝撃が、ガーフィールの腹部を貫通し、内臓を背中からぶちまけていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――空中で、血の花が咲くのを見ながらオットーは頭を回転させていた。

「――っ」

歯の根を噛みしめて、オットーは自分の中の冷酷な部分に罵声を浴びせる。

この状況下で、冷静に事態を把握しようとする自分がいることが何とも憎らしい。目の前で弟分が吹き飛んで、それでも感情的になり切れない自分。

圧倒的不利な状態にも活路を求めるように、オットーの意識は周囲に気をやっている。

自分の『言霊の加護』を応用すれば、どんな状況であっても一縷の望みは残せる。その考えを信じて、これまであらゆる難局を乗り切ってきた。

だから――、

「残念だが、鼠も溺れ死ぬぐらいまんべんなく水浸しだ。お前の話に付き合ってくれる奴はどこにもいないだろうよ」

「――――」

声は、足音を伴ってオットーの鼓膜を静かに打った。

恐ろしく、静まり返っているように思える世界の中、ゆっくりと足音が近付いてくる。振り返り、足音の方を見やってオットーは短く息を詰めた。

それから、詰めた息を短く吐いて、

「……ずいぶん、見違えましたね、ナツキさん」

「そうか? 自分だと、イマイチわからなかったりするもんだが……」

「鏡を見てみればはっきりすることでしょうに。ああ、そうでしたか。エキドナさんのお話だと、記憶をなくされたんでしたね。それでわからないんですか?」

「ははっ、そうかもな。もっとはっきり、あらゆる面で違ってくれてたんならそれはそれで諦めがつくんだが……」

頬を掻きながら、オットーの挑発的な物言いに相手が笑う。

相手、その名前をなんて呼ぶべきなのか、オットーの頭の中、冷静と激発が同時に叫ぶ。あれを、正しく呼ぶことを躊躇い、他の呼び方がないことを躊躇い、叫ぶ。

「あなたは……」

「言わなくても知ってるだろ。俺の名前は、ナツキ・スバル。天下不滅の無一文」

「――――」

「お前のことも、よく聞いてるよ。お噂はかねがねだ。やっと会えたな、オットー」

そう言って、その人物――ナツキ・スバルの見た目をした、しかし決定的にオットーの知る彼と異なる人物が笑った。

濁って光のない左目と、何があったのか真っ白になった頭髪、どこかタガの外れたような笑みを湛えながら、ナツキ・スバルが嗤っていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

警戒するオットーを眼前にしながら、スバルは長い息を吐いた。

ずいぶんと変わった、とは的確にこちらの嫌なことを言ってくれるものだ。無論、変わっていないと言われても皮肉としか受け取れないのが今のスバルの心境だが、真っ向から「お前は別人だ」と言われるのはなかなか堪える。

そこまでストレートな物言いは、塔の中にいた面々からも、その後に出くわしてツギハギに加えた顔ぶれからも聞かれなかったから。

「正直、かなり手こずってるんだよ」

「……何に、ですか?」

「エキドナから、俺の目的は聞いてるんじゃないのか? 記憶が吹っ飛んで、頭がおかしくなった俺が暴れ回ってる……そんな感じで」

「その件でしたら、一応。自分の記憶を取り戻そうと、執着しているとも」

「そこまで話した覚えはないんだが……まぁ、順当な推察だな。やっぱり、どいつもこいつも有能だよ。無能なダメ人間は、俺一人しかいない」

そっと左目を手で撫で付けて、スバルが自嘲するようにそう呟いた。その仕草を見ながら、オットーは唾を呑み込むと、

「その目はどうしたのか、聞いても?」

「目……ああ、左目か。ちょっと霞んで見えるけど、どってことねぇよ。ただ、最初にショッキングなことがあったとき、頭をぶつけすぎたみたいでな。髪の毛も、別に何かしたわけじゃなく、勝手にこうなってた。笑えるだろ」

「はははは、笑える。これで満足ですか?」

「満足には程遠いな。俺が満足するには、まだまだ先が長い。気が重くなるぐらい、遠い」

渇いた笑みを返してくるオットーに、スバルも渇いた笑みを浮かべて応じる。

元々、スバルとオットーとはいい友人関係だったそうだが、なるほど、頷ける。エミリアやベアトリス、陣営の皆の目から見ただけでなく、実感としてわかった。

『スバルとオットーくん、いつも仲良くはしゃいでて、すごーく微笑ましかったの』

『まぁ、基本はスバルがオットーを振り回してることが多かったのよ。それについては今もあんまり変わってない気がするかしら』

オットーを左右から囲んで、エミリアとベアトリスがそれぞれ口々に説明してくれる。その説明に頷きながら、スバルは「さて」と舌で唇を湿らせた。

「長々とお前と『初再会』するのを心待ちにしてたんだが、時間を与えれば与えただけ危ない野郎だってのはわかってるんでな。悪ぃが、すぐに済ませるぞ」

「『初再会』ってなかなか独特な物言いですが、僕はともかく、あなたの目的を考えたらこれは失敗だったんじゃありませんか?」

「なに?」

首を傾げ、スバルが眉を顰める。

すると、オットーは「いえね」と言葉を継いで、

「実際、効果的な一手ではありましたよ。関係者が一堂に集まったのを見計らって、逃げ場のない制圧攻撃で一気に仕留めにかかる……脱帽しました。相手が災害となれば、剣の達人だろうと傭兵団だろうと、跳ね返せるはずもない」

「――――」

「この分だと、エキドナさんだけ監視塔から逃がしたのも作戦の内なんじゃありませんか? 彼女を逃がして、報告させる形であなたを知る人間を一挙に集めた。その場合、集まるのは問題の中心にあるプリステラの可能性が高い。ここなら、水門がある」

「……お褒めに与り光栄だよ」

そうして称賛を受け入れる姿勢を見せながら、スバルは内心で舌を巻く。むしろ、称賛されるべきはオットーの方だ。

エキドナに逃亡を許したことも含め、ほぼ的確にオットーは事実を言い当てている。

もっとも、

「最初にエキドナに逃げられたのは偶然で、逃がしたあとで使えるってことに気付いたから追いかけなかったってのが真相だけどな」

「なるほど。さすがにそこまで見透かしてたら驚かされますよ。記憶がなくなった方が有能になるって、厄介って話じゃありませんし。――ですが」

そこで言葉を切り、オットーは真っ直ぐ、スバルを睨みつけてくる。その視線に込められた意思の強さを受け止め、スバルは目の奥に力を入れた。

そうして身構えるスバルに、オットーは続ける。

「最後の最後、詰めでしくじりましたね」

「しくじった? 俺が? その心は?」

「……またよくわからない言い回しですが、心も何もありませんよ。これだけ完璧な形で不意打てる機会はそうそうない。あなたが本気なら、初志貫徹すべきだった」

「初志貫徹……」

「欲張らずに、ラインハルトさんを一直線に狙うべきだったんですよ」

指を突き付けて、オットーがはっきりスバルにそう言い切った。その断言にスバルは目を見開き、驚きを露わにするスバルへとオットーは畳みかける。

「あなたが、他人の記憶が読み取れる『死者の書』でしたか? それを利用して自分を取り戻そうと画策するなら、一番の敵になるのがラインハルトさんだ。そして彼を狙うんだとしたら、最初の一撃以外にありえない。以降は警戒をされる。二度と届かない」

「だから、最初の牙が届く瞬間を手放すべきじゃなかった。お前はそう言うのか?」

「ええ、その通りです。ですから……」

「く」

「――?」

不意に、スバルの喉から聞こえた不可思議な音に、オットーが眉を上げた。それは驚きであり、困惑であり、混乱でもある反応だ。

それは演技や小細工ではなく、自然にオットー自身から出てきてしまった反応。

そうした反応になるのも、ある種、当然かもしれない。

ここまで事態が読み切れるのに、最後の最後、詰め間違えているのは。

「お前の方だよ、オットー。勘違いしてるのはお前の方だ」

「それは……」

「俺が狙ったのはラインハルトじゃない。もちろん、この洪水のどさくさで死んでてくれたら手間が省けるんだが、そんな偶然に頼るような真似しないさ」

ラインハルトの規格外さは、とにかくあらゆる人間からの忠告で痛感している。

噂に聞くばかりの『剣聖』だが、彼を殺し切るのは至難の業――とにかく、彼を殺すためだけの方策を積み上げ、積み上げ、積み上げ続ける必要があるだろう。

偶発的なラッキーパンチに当たって死ぬなんて、英雄に期待できる死ではない。

「だから、あいつを殺そうとするなら、そのための手段を捜すさ。弱らせるでも、不意打ちするでも、罠にかけるでも、人質を取るでもいい。あいつを殺す必要があるならそうする。……でも、優先順位は低いな」

「だったら、洪水は単純にあなたを知る人間を一気に片付けるために? 確かに、先日の事件のことであなたを知っている人間はこの都市で爆発的に……」

増えた、と続けようとするオットーに、スバルは掌を差し出した。

彼が語ろうとしている話はスバルもわかっている。水門都市プリステラで発生した魔女教の暴挙、その出来事は様々な角度から閲覧済みだ。

確かに、そういう意味でこの都市を利用したのも目的の一つではある。しかし、それは最大の理由と比べれば些末なこと。

スバルが水門都市を舞台に、こうして洪水による被害を生み出した目的は一つ。

最大の目的、それは――、

「――オットー、お前だよ」

「……は?」

「お前を確実に殺すために仕組んだ手口だ。他の死人は、まぁ、おまけだな」

「――――」

突き付けられた目的、その意味がわからないとばかりに、オットーが硬直する。

そうして、愕然となるオットーに片目をつむり、スバルはぼやけて見える左目で世界を映しながら、ぐるりと屋上の景色に首を巡らせた。

「……なんで、僕を」

「なんでお前のためだけにこんな大掛かりなことをしたかって? それは、お前に対する最大限の警戒の表れだよ。お前の傍にガーフィールがいることも含めて、安全策に慎重策を重ねたってのが本当のところだ」

「――――」

「言っとくが、これは俺だけの考えじゃねぇぞ。俺は、俺の考えを信用したりしないからな。俺が使えない頭使って、ない知恵を絞ったところでたかが知れてる」

そう、スバルの悪知恵なんてたかが知れている。

この世界のルールの把握に甘く、この世界の抜け道に縁遠く、この世界の法則を知らないスバルでは、碌な考えなど浮かびもしない。

だから――、

「ちゃんと相談したんだ」

「――――」

黙り込むオットー、打ちひしがれる彼の周囲を取り囲んでいるのは、オットーの目には決して映らない、スバルの左目だけに見える頼りになる仲間たちだ。

エミリアが、ベアトリスが、ラムが、ロズワールが、ペトラが、フレデリカが、エミリア陣営として一丸となっていた仲間たちが、オットーを取り囲んでいる。

その彼ら一人一人の顔を見て、スバルは「だろ?」と肩をすくめて、

「俺を知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

『オットーくん』

エミリアが答える。

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

『オットーかしら』

ベアトリスが答える。

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

『オットーでしょうね。癪だけど』

ラムが答える。

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

『オットーくんだーぁね』

ロズワールが答える。

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

『オットーさん』

ペトラが答える。

「俺が知ってる人間の中で、一番、厄介な奴は?」

『オットー様ですわ』

フレデリカが答える。

「――全会一致だ。もし、ガーフィールがこの列に加わってても、きっと同じことを言っただろうよ」

「いったい、誰と話を……」

「時間稼ぎしようとしても無駄だぜ。言ったはずだぞ。都市を水浸しにしたのはお前を殺すためだって。――鼠一匹いない場所じゃ、お前でも打開策は見つからない」

そのために、スバルは大水門を開放し、都市を水底へと沈めたのだ。

水竜も、鼠も、虫けらだろうと、オットー・スーウェンに近付けない。土の地面から離したことで、お得意の魔法も使わせはしない。

身内の知識をフルに使って、スバルはここまでのことをやってのけた。

それもこれも全ては――、

「――俺は、お前を過小評価しない。俺は、俺以外の誰も過小評価しない。お前らは、すごい奴らだ。だから、手は抜かないで殺してやる」

「あなたは……」

「――お師様」

スバルの全力の宣戦布告を受け、何事か続けようとしたオットーを声が遮る。屋上に軽やかに着地したのは、その半身を真っ赤な血で染めたシャウラだ。

彼女はべったりと血で汚れた胸のあたりを手で撫でながら、

「やっとこ終わったッス。や~、しぶとかったしぶとかったッス。まさか、お腹の中身をあんだけぶっ飛ばされて動けるとか、不死身なのかと思ったッスよ」

「道理で時間かかったと思った。……ちゃんと終わらせたか?」

「頭まで潰したんでたぶん。人間って、お師様以外は頭潰したら死ぬッスよね?」

「俺を除外した意味がわからん。俺だって頭潰れたら死ぬぞ」

「またまた~」

へらへらと笑い、信じないとばかりに肩を押してくるシャウラ。スバルからすればその考えの方がよっぽど理解できないのだが、シャウラの価値観に突っ込むのも野暮だ。

何より、彼女は課せられた役目を果たしてくれた。今は、それでいい。

「ご苦労だったな、シャウラ。あとは……」

「本命さんの方を仕留めるだけ、ッスか。でもでも、ここまでやんなきゃなんない相手だったんスか? あーしにはとてもそうは……」

「力の強い弱いだけで言ったら、俺だってお前に片手で捻り潰されるだろ」

オットーの強さは、シャウラの物差しでは測り難い部分にある。それが、スバルがエミリアたちから聞いた話を総合し、判断した結論だ。

そのスバルの答えを聞いて、シャウラは「はえ~、確かにッス」と納得。

一方でオットーは、そのスバルとシャウラのやり取りを心底憎々しげに見て、

「まさか、人生最大の高評価を得たのが裏目に出るとは、最悪の気分ですよ」

「人生最大の評価? そりゃお前、勘違いってもんだろ」

オットーの言葉に皮肉ではなく、スバルは本心から伝える。

エミリア陣営の、全員の書を閲覧したスバルから見た真実だ。間違いない。

「お前はずっと、陣営の全員から最高評価だったぜ、オットー!」

「――くたばれ、偽物」

歯を見せて笑ったスバルに、オットーもまた歯を見せて凶暴に笑った。

その一言は、何とも、スバルの胸に突き刺さったが――、

「――――」

――次の瞬間、白い光がオットーの全身へ突き刺さり、会話は強制的に断たれていた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――そこまでだ」

その一言が聞こえた瞬間、ナツキ・スバルは閉じていた瞼をゆっくり開いた。

眼前、足下には上半身の消し飛んだオットーの亡骸が倒れていて、少し離れた水面には敗死したガーフィールがぷかぷかと浮いているはずだ。

そんな状況下でスバルがしていたのは、ひどく偽善的なことだが、黙祷だった。

スバルは、オットーやガーフィールに恨みがあったわけではない。

ここまで命を奪った誰に対しても、スバルが恨みを抱くような理由は一つもない。――否、さすがにかなりやらかしていたロズワールには元のスバルも恨みつらみを残してあるべきだと思ったが、そのあたりの本音は今のスバルにはわからない。

そうした微妙な引っかかりを除けば、スバルは誰にも恨みなど持っていない。

いつだって、憎むべきは自分。憎まれるべきは、『ナツキ・スバル』ではない自分。

誰からも必要とされない、『偽物』の自分。

『ナツキ・スバル』の断片を集めて、パッチワークして、何とかツギハギの自分を形作ろうとする、滑稽なナツキ・スバルだけだった。

だから――、

「俺はお前にも、申し訳ねぇなって気持ちしかないんだぜ」

「……スバル」

振り返り、スバルは屋上の縁に立っているラインハルトを正面に見据えた。

大勢の記憶の中で目にした姿だが、その整然とした立ち姿には一片の曇りもない。実際のところ、服の端々に濡れた形跡さえないのだが、いったいどうやったのか。

「なるほど、規格外だ」

「スバル、これは君がしたことなのか? ……オットーや、ガーフィールを」

「殺させた、って意味ならそうだ。この二人だけじゃない。この洪水で都市にいた大勢が犠牲になった。……それも、俺の仕業だよ」

「何故……何故なんだ!? 君は、この街の人たちを救うために……」

「監視塔に向かった、だろ? 知ってる。よーく知ってるよ。相変わらず実感には乏しいんだが、漫画のあらすじを読んだみたいなぼんやりした知識はある」

ラインハルトの糾弾を浴びながら、スバルは両手を広げ、都市を示した。

水没の憂き目にあった都市だが、この水害の前にも散々な目に遭ったことは知っている。魔女教とやらの大暴れが刻んだ傷跡は、深いというより歪だ。

人々の記憶を奪い、その姿かたちを人ではないものに変え、圧倒的力で意に沿わないものを強引に従え、歪んだ考えを無理やり押し付け、共感させる。

人間性を踏み躙るという意味で、最悪の手合いだったことは語るまでもない。

しかし、同時にこうも思わされた。

「――計画が穴だらけだ。自分たちが負けるわけないって思ってるから、ああいうとんちきな計画で突っ込もうなんて考えるんだろうよ」

超常の力を持っているらしき大罪司教たちは、全員がその能力に胡坐を掻いている。

誰も奴らに教えてやらなかったのだろうか。どんな強力な力を持っていたとしても、間違った使い方をすればどんな人間でも敗北するのだ。

知恵か、数か、より強い才能か、なんであれ、必ず敗北する。

「俺は、半端な覚悟で勝負に挑んだりしないぞ。勝てる方法を見極めて、これってタイミングでしか仕掛けない。そのために、相談する」

「相談……君を誑かしたのが、その隣の彼女なのか?」

「え、あーしッスか?」

いきなり話題に上げられて、スバルの傍らにいたシャウラが目を丸くする。彼女は自分を指差しながら、ラインハルトをじっと見つめて、

「あーしがお師様を誑かすとか、そんな悪女ムーブができたらとっくにやってるッス! お師様、全然あーしの色仕掛けに引っかかってくんないんスから……こう、セクシー! セクシーって攻めてるッスのに」

「横のこいつは協力者ってポジションだが、悪巧みに乗っかれる頭がねぇよ。誰に誑かされたわけでも……いや、しいて言うなら内なる声かな」

「内なる、声……?」

「俺の中の眠れる獅子が、解放のときを求めて暴れ回んのさ」

スバルのその返答を真面目に聞いて、ラインハルトはすぐにそれが戯言と気付く。目に見えてラインハルトの瞳が失望に染まるのを見ながら、スバルの小脇をシャウラが「お師様お師様」と肘でつついてきた。

「あれッスけど、なんかレイドっぽい気配がメチャクチャするッス。ヤバくないッスか?」

「よくわかったな。メチャクチャヤバいぞ。あいつ、レイドの子孫だから」

「し、そん」

「子どもの子どもの、そのまた子どもぐらいのニュアンスだ」

「うげーっ! じゃあ、本気でレイドの関係者じゃねッスか! 聞いてねッスよ!」

孔明の罠にかけられたみたいな顔で、シャウラがスバルに分の悪さを訴える。実際、レイド相手にボコボコにされた記憶が鮮明なスバルたちだ。

当然、その血縁者であるラインハルトにも、まともに挑んで勝てるはずがない。

「――残念だが、君の蛮行はここで止めよう。それが僕にできる、君への友情の証だ」

「一緒に結婚式に殴り込みかけた仲だってのに、悲しいこと言ってくれるぜ。言わせたのは俺なんだが、そりゃもう、エミリアたんは喜んでてなぁ……」

「スバル、もうやめてくれ。――もう、やめてくれ」

「――――」

ラインハルトの懇願、その沈痛な響きにスバルは口を閉ざした。

顔を痛々しく歪めたラインハルトの表情、そこからスバルが受けるのは胸を裂かれるような鋭い痛みだった。

オットーとガーフィールに恨みがないのと同じだ。

スバルは、ラインハルトにだって恨みはない。彼に何の非もなく、責められる謂れのない恩人であり、いい友人であったこともわかっている。

それでも――、

「――『ナツキ・スバル』を取り戻すために、お前の中のピースも必要だ。だから、俺はいずれお前を殺しにくる」

「――――」

「だけど、それは今じゃない。今日じゃない。明日の、明日の話だ」

スバルの宣言を聞いて、ラインハルトはわずかな困惑に瞳を曇らせた。

今ここで、ラインハルトは決着をつけようとしている。実際、ラインハルトがそう望めば、一歩で距離を詰められる位置にいるスバルなど一瞬で仕留められる。

シャウラが防衛に回ったとしても、それは結果を大きく左右しない。

それなのに、スバルがこんな風に言えるのは――、

『この状況、フェルトが逃げ込むとすれば都市の端にあるあのあたりじゃろうよ』

――そう、禿頭の巨人族が指差した方角へ向け、シャウラが白光を放った。

「――――」

瞬間、ラインハルトは息を詰め、まさしく光も同然の速度で飛んでいく一撃を追いかけ、後ろへ向かって飛びずさった。

正面にいるスバルを仕留めるためではなく、はるか遠く、洪水から生存したラインハルトの主人――フェルトが身を潜めている建物へ向かい、白光を撃ち落とすために。

『大事なものを手元に置けば、当然、弱点を晒すのと同じことになる。それは、『剣聖』ラインハルトであっても同じことだーぁよね』

献策をしたロズワールが、意地の悪い笑みを浮かべて『剣聖』を出し抜く満足感に浸る。それを横目に、スバルは短く息をつくと、

「シャウラ、引くぞ。――今日はここまでだ」

「はーいッス」

元気よく手を上げ、シャウラがスバルの腰に手を回した。そのまま、彼女は細腕からは信じられない膂力でスバルを持ち上げると、軽く膝を曲げ、都市の外へ飛ぼうとする。

その、最初の跳躍が始まる直前、スバルはラインハルトの方に目を向け、

「――お前はお前が思ってるほど、超人でもなけりゃ、万能でもないよ」

だから――、

「――必ず、お前も殺してやるからな、ラインハルト」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――改めて聞かせてほしい。君の名前は?」

「あ、アミュー。アミュー・シアーズ……」

「そうか、いい名前だね、アミュー。……今回のことは辛かったね」

「ふぐっ……」

膝をついた赤毛の騎士が、アミューと視線の高さを合わせてそう言ってくれる。その言葉を聞いた途端、少女の強張っていた感情、それが決壊した。

ぐずぐずと涙を流し、アミューが遅れて蘇ってきた恐怖に体を震わせ始める。

そうして泣きじゃくる少女を見つめながら、騎士――ラインハルトは周囲を見回し、その惨状に胸を痛め、唇を噛んだ。

「――――」

事件があったのは二日前、ルグニカ王国の北部にある小さな村でのことだった。

王都とも、五大都市とも距離のある辺境の地であったために発覚が遅れ、ラインハルトを始めとした騎士団の派遣は数日遅れになってしまった。

その間、村で唯一の生存者となったアミューは、孤独の中で膝を抱えているしかなかった。――それも全て、家族や親しい隣人の亡骸と隣り合わせの環境で。

「スバル……」

腰に備えた『龍剣』の柄に触れて、ラインハルトが思わしげに呟く。

事件性の問題を思えば、これが魔女教徒による蛮行である可能性は十分にある。だが、ラインハルトの直感は、この惨状が誰の手によるものなのか自然と見極めていた。

「これをしたのは、男女の二人組で間違いなかったかい? 若い、二人組だ」

「は、はい……そう、でした。あ、でも……」

「でも?」

ラインハルトの問いかけに、アミューがしゃくり上げながら言葉を詰まらせる。その途絶えた言葉の先を求めて、形のいい眉を顰めたラインハルトにアミューは躊躇い、

「女の、人はわからないですけど、男の人は……」

「男は?」

「わたしは気付かなかったけど、誰かと、話してたような……」

「――――」

曖昧な情報を伝えることに躊躇があるのか、アミューの説明は力がない。しかし、そのアミューの言葉に、ラインハルトは目をつむり、長い息を吐いた。

アミューの洞察力は確かだ。その男女――否、ナツキ・スバルはきっと、アミューが見た通りに、連れの女性とは別の誰かと会話をしていた。

その誰かが、ラインハルトの知る誰であるのかはわからないが――、

「情報提供に感謝する。すぐに、騎士団の人間が対応してくれるはずだ。君は、家族の他に親戚がいたりは……」

「――ぁ」

頷きかけ、優しく話したラインハルト、その裾をアミューの指がそっと掴む。まるで遠ざかることを恐れるように、アミューは自分の行動が信じられない顔をした。

だが、彼女の心境を思えば、それも無理からぬこと。

家族を失い、故郷も失い、これから先、どれだけの苦難が彼女に待ち受けているのか。

そんな最中の不安を紛らわすのに役立つのなら。

「わかった。君の安全が確保されるまで、僕が一緒についているよ。だから、安心してほしい。もう誰も、君を傷付けるものは近付けないから」

「う、うぅ……ご、ごめんなさい。ごめんなさい……」

「謝ることなんてないんだ。――君は、何も悪くないんだから」

手を握り、再びぽろぽろと涙を流し始めるアミューを見ながら、ラインハルトは静かに胸中で、この惨状を引き起こした相手へと述懐する。

「これで……これで、君は満足なのか? 満たされるのか? いったい、君の目には何が映っているんだ。僕にはわからないんだ。――スバル」

そう、ここにはいない存在の名を呟いて、ラインハルトは目を閉じた。

瞼の裏に映し出される姿は、いずれ、ラインハルトを殺すために現れるだろう友。そのためならば、どんな手段も惜しまないだろう友。

いずれ必ず、ラインハルトがこの手で斬らなくてはならない、友だった。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

『あのアミューって子は、ラインハルトさんに拾われた頃ですかね』

「焼かれた村の唯一の生き残り、か。あのぐらいの年代の子が、ラインハルトを見たらホッとして離れられなくなるだろうよ。――これで、追跡は間に合わないな」

『悪知恵というか、悪賢いというか……まぁ、僕の言えた話じゃありませんが』

『ッだよなァ。大将とオットー兄ィ、こういうときはホントに息合ってやがってよォ』

「『うげえ』」

『お、揃いッやがった』

手にした枝で茂みをかき分け、道なき道を行くスバルが顔をしかめる。その横では同じように森を踏むオットーが似た顔をしており、その二人の顔を見たガーフィールが手を叩いて牙を鳴らし、その状況を笑い飛ばしていた。

『ふふっ、でも、やっとみんな揃ってよかったわよね。おかげですごーく賑やかで……スバルが頑張ってくれたおかげね』

「そう言ってくれると、俺も頑張った甲斐があって浮かばれるよ。これで本格的にやってやった気分なら、エミリアたんに色んな方法でねぎらってほしいんだけど……」

『ほしいんだけど?』

「……まぁ、純情少年であるところの俺は言い出せない男心なわけですよ」

無邪気に首を傾げるエミリアを見て、スバルは頬を掻きながら顔を背けた。その顔を背けた先、軽蔑の眼差しを向けてくるラムと視線がぶつかり、

『いやらしい』

「バッサリ切り捨てんなよ! 大体、言わなかったじゃねぇか! ちゃんとお恥ずかしい願望を言わなかった俺の気持ちを褒めてもらいたい!」

『ラムが? バルスを? 天地がひっくり返った方がマシね』

「天変地異より下!?」

肩をすくめて、こちらへ背を向けてラムが颯爽と歩き始める。そのラムの態度にスバルがげんなりと肩を落とすと、そっとスバルの手を左右から小さな手が取り、

『まったく、そんなに目に見えて落ち込むんじゃないのよ。ベティーのパートナーともあろうものが、そんなんだと先が思いやられるかしら』

『そうそう。ラム姉様がつっけんどんなのなんて今に始まったことじゃないもん。その分、わたしがスバル様に優しくしてあげるから。いい子いい子』

「おいおい、まさかの幼女サンドかよ……ってほど、ペトラももう小さくないか。やれやれ、時間は残酷に、ベア子だけを幼女にしたまま通り過ぎていくんだな……」

『幼女、幼女うるさいのよ! レディーに対して失礼かしら!!』

少女扱いを卒業されて、嬉しげに胸を張るペトラと明暗が分かれたベアトリス。とはいえ、ベアトリスは性質的に幼女のままであるらしいので仕方のないことだ。

「世のお父さんお母さんは子どもが一番可愛いタイミングで成長が止まってほしいって思うものらしいし、そういう意味だと夢のような存在だぞ、ベア子」

『む……それは暗に、ベティーがこの世で一番可愛いって言ってるのよ?』

「この世で一番可愛いの座は候補者を集めて競い合いたいけど、この世で一番プリティなのはお前だ。俺が勲章をやろう」

『わたしは? ねえねえ、スバル様、わたしは?』

「うーん、ペトラはこの世で一番キューティー」

『やった!』

きゃいきゃいと喜び、ペトラがベアトリスの手を取ってはしゃぐ。その勢いに呑まれながらも、ベアトリスも満更悪い気はしていない様子だ。

そこへ――、

『おーやおや、ずいぶんなはしゃぎようじゃーぁないかね。外見はともかく、実年齢的にはこの中でもぶっちぎっているはずなのに、可愛らしいものだーぁね』

『うげ、かしら……』

悠然と長い足で大きく一歩を踏み、顔を見せたロズワールにベアトリスが苦い顔。ちなみに、ベアトリスと手を取り合うペトラも渋い顔をしたので、このご主人様の陣営での立場の悪さは筋金入りである。まぁ、しでかしたことを思えば残当だが。

『ベアトリス様、ペトラ、そんなに嫌な顔をするものではありませんわ』

『そうそう、さすがだねーぇ、フレデリカ。ちゃんと二人に言い聞かせて……』

『そんな顔をすればするほど、旦那様を喜ばせるだけだとおわかりでしょう? 旦那様はそういうお方なのですから』

『前言撤回だーぁね』

フレデリカの鋭い一撃を受け、ロズワールも形無しだ。

一方、ベアトリスとペトラの二人は大人しくフレデリカの言葉を受け入れ、「はーい」「わかったのよ」と素直なものだった。

「……まぁ、騒がしすぎる気もするが、この騒がしさも日常の一ページか」

『日常の一ページは構わないが、私やメィリィ嬢のことも忘れないでくれたまえよ?』

「ん……」

正面、やいのやいのと話し合いながら歩くエミリア陣営とは少し離れて、こちらの後方を歩いているユリウスがそう発言していた。

彼は片目をつむり、その黄色い瞳にスバルを映すと、

『ラインハルトと相対するに当たって、私の助言は君の役に立ったと自負しているが?』

「役に立たなかったとは言わねぇけど、お前のラインハルト評価ってちょっと夢男子入ってるから信憑性が怪しいんだよな。英雄症候群も大概にしろよ」

『何とも、力の貸し甲斐のない答えだ。今後は少し、姿勢を改めるべきかな』

『こーらこら、そんなん言うたらあかんよ、ユリウス。ナツキくんにはきっちり貸しを作っとかな。契約書なんてなくても、十分機能するはずやからね』

売り言葉に買い言葉、そのまま言い合いに発展しかねないスバルとユリウスのやり取りに、やんわりとした調子でアナスタシアが割って入る。

すっかり、商人然とした態度を取り戻したアナスタシアは、その浅葱色の瞳でスバルを見つめると、軽くこちらをたじろがせてから、

『ナツキくん、忘れてへんね? ウチらがちゃぁんと協力したら、ナツキくんが元通りになったときに……』

「――ああ、覚えてるよ。俺が、『ナツキ・スバル』を取り戻して、全部、ちゃんと挽回できる時間まで遡ったら、そのときは」

そこで言葉を切り、スバルは深呼吸してから、続けた。

「ようやく、俺が殺した全部の人に、贖罪するタイミングが作れるんだ」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

完成へと近付けて、ツギハギが今度こそ完成したら。

ツギハギが元通りにツギハギできたらきっと。

――きっと、全部、やり直せるに違いないのだ。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――『ナツキ・スバル』には、運命をやり直せる力がある。

それが、ナツキ・スバルの結論だった。

エミリアの、ベアトリスの、ラムの、ユリウスの、メィリィの、ペトラの、フレデリカの、ロズワールの、ロム爺の、ガーフィールの、オットーの、アナスタシアの、リカードの、ヘータローの、ティビーの、ミミの、キリタカの、リリアナの、命を、取り戻せる。

『ナツキ・スバル』であれば、可能のはずだ。

だって、『ナツキ・スバル』は――。

『私の騎士様』『ベティーのパートナーかしら』『タイミングだけはいい男ね』『善き友人と、そう思っている』『まあ、ちょっとは認めてあげてもいいかもねえ』『わたし、スバルのおかげで頑張ろうって思えたの!』『スバル様には幾度も救われ、感謝していますわ』『スバルくん、君こそが私の長年待ち望んだ……』『まさか、あの若造がこれだけやれるとは儂も思いもよらなかったわい』『大将! なんかッあったらいつでも言えよォ! 腕力でどうにかッなることなら何でもやってやるぜ!』『それで、尻拭いの結果が僕の方に回ってくるのは怖いので程々にしてほしいんですけどねえ』『うんうん、賑やかなんはええことやね。ウチも、ミミたちともうちょぉっと羽を伸ばそか』『お、アナ坊にしたらええ変化やないか! そやそや、働きすぎやねん! 休みすぎるぐらいがちょうどええわ!』『お嬢がお休みするなら、ボクがお仕事手伝えるから……』『ナツキさんがお手伝いしてほしいとき、お嬢が全力を出せるようにするですです』『おー、それな! わかるわかる! ミミも、ミミも! ガーフと一緒にめっちゃがんばりまっせー!』『都市を救っていただいた恩に報いるために……とは、あとの結果を思うと簡単には言い切れませんが』『またまたぁ、キリタカさんったら根に持ちすぎですよぅ。だってだって、ナツキ・スバル様がぜーんぶ丸っと元通りになられたら、何もかも取り戻されるんですもんね!』

怒涛の勢いで、スバルを取り囲む仲間たちが『ナツキ・スバル』に期待を傾ける。

それを照れ臭げに、他人事のような気持ちで聞きながら、スバルは頷いた。

「ああ、そうだ。そうなんだ。俺には、とても無理だけど、無理だったけど」

『スバルにだったら、それができる?』

「きっと……いいや、絶対に。だって、そうだろ?」

力強く拳を固めて、そう言い切ったスバルに仲間たちから歓声が上がる。その喧騒を眼前にしながら、ふと、スバルは歩み寄ってくるエミリアに眉を上げた。

彼女は小さくスバルに手招きして、それから、仲間たちの輪から少し離れた方角へと指を向ける。その、白い指の指し示す方に立っていたのは――、

『――シャウラ、寂しそうにしてる。ダメよ、スバル。可哀想じゃない』

「あいつは……」

『言い訳しないの。私たちだって、スバルと一緒に色々頑張りたい。でも、一番頑張ってくれてるのはスバルで、その次がシャウラでしょ? だから……』

「――――」

『だから、大事にしてあげなくちゃダメよ。――約束』

約束と、エミリアがスバルに口にするのは、二人の間でとてもとても重い意味を持つ。

――否、実際のところ、その重みを『ナツキ・スバル』がどう思っていたのか、それは『ナツキ・スバル』ではないスバルにはわからない。

ただ、『ナツキ・スバル』のことはわからなくても、『ナツキ・スバル』と約束を交わそうとするエミリアの、その信頼は痛いほどにわかっているから。

「……わかった。約束だ」

『ん、それでいいの。――それじゃ、いってらっしゃい、スバル』

そう言って、エミリアが微笑みながら手を振った。

それを認識した途端、スバルの霞みつつある左目の中、視界にいた大勢の仲間たちの姿が掻き消えてしまう。

あとには静かな、誰もいない、スバル以外を切り取ったような静寂が残されている。

そこには約束を交わした相手どころか、交わしたはずの約束だってどこにも。

「――シャウラ、こっちこい」

その渇いた思考を放り捨て、スバルは遠くを歩くシャウラを呼んだ。その呼びかけを聞くと、シャウラはパッと顔を輝かせ、飛ぶようにしてスバルの下へやってくる。

「どうしたッスか、お師様! あの、なんか楽しそうにぶつぶつ独り言やってるお楽しみタイムはおしまいッスか!?」

「お前、メチャクチャストレートに言いやがるな。精神がいっちゃってる奴にあなたいっちゃってますねってはっきり言うなよ。傷付くどころじゃないだろ」

「てへぺろッス」

自分の頭を拳でこつんとやって、シャウラが舌を出しながら失言を詫びる。詫びているんだろうか。詫びてない気もするが、まぁいい。

ともあれ、砂の塔からこっち、ずっとスバルに付き従ってくれているシャウラ――エミリアの言葉ではないが、確かに、スバルの目的への一番の貢献者は彼女だ。

行動の方針や、計画の立案には大勢の仲間たちの知恵や知識、発想を借りる。しかし、いずれも必要なのは実行力、端的に言えば戦闘力。

それらを可能とするには、シャウラの存在は欠かせない。それなのに、スバルはシャウラのことを、彼女に報いることをほとんどしないままやってきた。

まるで、いつでも汲める井戸のような気持ちで。

『ナツキ・スバル』ではない自分ならば、何をしてもいいとでもいうかのように。

「――――」

「お師様?」

思わず、黙り込んだスバルにシャウラが不思議そうに首を傾げる。すると、彼女の剥き出しになった白い肩の上を、長い黒髪がゆっくりと流れ落ちていく。

それを目に留めながら、スバルは唾を呑み込み、思考を整えて、

「シャウラ。結局、お前は最後までどうしたいんだよ?」

「ん~、何がッスか?」

「何が、じゃねぇよ。お前だって、俺の目的はわかってるはずだろ?」

直前までの、シャウラに報いるだのどうのという思考を無視して、気付けばスバルはそんな悪態じみた態度から言葉を始めていた。

その言葉に、シャウラはぴんときていない顔で眉を寄せている。そのまま、彼女はしかめた顔を近付けてきたので、スバルはその額を掌で押さえた。

押さえたまま、

「俺は、俺を知ってる奴を全員殺して、その全員の『死者の書』を閲覧する。心当たりが全滅したら、最後はお前だ。それで、お前の本を読む。それでも……」

一番大事な部分がぽっかりと欠けて、自分の力で大きな穴を埋められないスバルは、『ナツキ・スバル』を知る全ての人たちから少しずつ、少しずつ、『ナツキ・スバル』を搔き集めて、元の形にツギハギした『ナツキ・スバル』を作り上げるしかない。

その完成形には、『ナツキ・スバル』と親しくしていた全ての人の記憶がいる。エミリアやベアトリスがそうだったように、シャウラも、それは例外ではない。

だから、いつか殺すと、ラインハルトにも約束したように。

目の前の、あけすけに笑い、スバルの目的を躊躇いなく手伝い、そして屈託のない態度で接し続けてくれる、彼女を、殺さなくてはならない。

「それでも、俺についてくるのか? シャウラ」

「あーしのこと、心配してくれるッスか? それって、愛してくれてるからッスか?」

「――。茶化すな。俺は本気で聞いてんだよ」

本心からの問いかけに、シャウラの答えはいつもと変わらぬ音調で、それがスバルの神経を逆撫でしたから、少しだけ荒っぽく聞き返すことになる。

しかし、そんなスバルの言葉を受け、シャウラは「お師様」と呼び返し、

「あーしだって、冗談で聞いてるわけじゃないッス。だって、お師様に愛されることがあーしの生きる意味なんスから。だから、それが一番大事ッス」

「――――」

「お師様があーしを愛してくれるんなら、いくらでも利用してくれていいッス。あーしの命はお師様のモノ。お師様のために使い潰される、それが望みッス」

普段と変わらぬ調子で、すげなく振り払われるスキンシップの態度で、本気とも冗談ともつかない軽薄な雰囲気のまま、シャウラは、自分の豊かな胸を撫で下ろした。

撫で下ろして、その黒い瞳をスバルに向け、薄く微笑む。

そこには彼女の本気の、常日頃から、一切に偽りなく、本気で生きる姿勢がある。

シャウラは、いつも本気だ。――本気だから、嘘をつく必要もなくて。

「いくらでも使い潰して、あーしが無様に死ぬまで利用してくれていいッス。その代わり、あーしを愛して、あーしが死んだら泣いてほしいッス。あーし、それだけで……本当に、それだけでいいッスから」

「……なんで、お前はそんなに俺に尽くす? だって、俺は、『ナツキ・スバル』じゃ」

「関係ないッスよ」

「――――」

「お師様はお師様とか、そういうのもどうでもいいッス。あーしは愛したいものを愛したいように愛したいだけ愛するッス。で、その人にあーしも愛し返してもらえたらそれで最高ッス。あーし、なんか変なこと言ってるッスか?」

首を傾げ、シャウラは自分の発言に何ら疑問を持たない様子でいる。

それを見ていて、スバルは小さく「は」と息を吐いた。吐いて、それはやがてただの吐息ではなくなり、少しずつ喉を引きつらせ、笑い声に変わる。

スバルは笑った。

『ナツキ・スバル』ではなく、エミリアたちの前で『ナツキ・スバル』を演じるのでもなく、異世界での暮らしの全てを忘れ、空っぽなナツキ・スバルとして笑った。

「ああ、まったく、お前って奴は……人が、自分探しってヤツで思い悩んでるってのに軽々しく言いやがって、馬鹿が」

「え!? お師様、まさか怒ったッスか!? あーし、変なこと言っちゃったッスか!? もしかして、月・木・金は燃えるゴミって捨てられるッスか!?」

「怒ってねぇよ。呆れたんだ。呆れて、ああ、モノが言えねぇよ」

吐息をついて、スバルは軽く頭を振ると、歩き始めた。そのスバルの背中を、シャウラはらしくもなくおずおずと見守る。

その視線の未練がましさに、スバルはまたしても長くため息をついた。

「好きにしていいから、早くこい」

「好きにしていいって……もしかして、腕に抱き着いても怒らないッスか?」

「体重かけてこなけりゃな」

パッと顔を明るくして、飛びつくシャウラが自分の胸にスバルの腕を抱く。普段は大雑把なくせに、こうしてスバルに触れるときだけ、シャウラの力加減は絶妙だ。

まるで、壊れ物を扱うかのように、大切なモノを壊さないようにするみたいに。

それを嫌でも思い知らされるから、スバルはシャウラに引っ付かれるのが嫌い――否、苦手だった。優しくされることが、居心地が悪くて。

シャウラが優しくしたい相手は『ナツキ・スバル』で、誰も、『ナツキ・スバル』以外のナツキ・スバルになど、興味も関心もないと思っていたから。

「お師様、お師様~」

「あー?」

「あーし、お師様を愛してるッス。ラブイズオーバーッス」

「そうか。俺は、お前のこと愛してないけども」

「うぎぃっ! お、お師様ったらいけず……」

「でも」

「でも?」

「……お前は、ラインハルトを殺して、それから最後に殺してやる。お前が、『ナツキ・スバル』じゃない俺が、最後に殺すのはお前にしてやる」

「――――」

「それだけは、約束してやる」

「あ、あは、あははっ! お師様、お師様、ホントッスか? あーしが最後? あーしがお師様の最後の女ッスか?」

「そういう言い方されると、早くも約束破りたくなるな」

「え~! ダメッス! 約束ッス! 絶対の絶対、約束ッスから!」

「冗談だ」

「ええ!? 冗談って、どっちが冗談なんスか!? お師様、お師様~!」

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

ツギハギ、ツギハギ、形作っていく。

ツギハギ、ツギハギ、整形していく。

ツギハギ、ツギハギ、色づけていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、完成へと近付けていく。

ツギハギ、ツギハギ、ツギハギして、ツギハギが多すぎて、元の形がわからないぐらいにツギハギして、新しい形がツギハギされても、まだ。

ツギハギして、生きていく。

ツギハギして、生きていく。

いつか死ぬまで、ツギハギして、生きて、いく――。

『ゼロカラツギハグイセカイセイカツ』Fin

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

今年も、ナツキ・スバルの誕生日かつエイプリルフールIF企画です。

今回はまだ終わってないのに、六章の途中から分岐。

殺人が癖になって、自分の周りの人間の真意を確かめるために、『死者の書』を読む誘惑に勝てなかったスバルくん分岐です。

お話の中の細かな内容については、またタイミングが合えば活動報告で。

では、令和元年! 張り切ってまいりましょう!

第六章68 『サソリ座の女』

――初めてシャウラの名前を聞いたとき、何も思わなかったわけではない。

それは何も、『シャウラ』の名前自体に特別な思い入れがあったからではない。

ただ、その響きにスバルは覚えがあった。

『シャウラ』とは、スバルの知る夜空に輝く星の名前――さそり座を意味する単語。

さそり座の名を冠する人物の正体が漆黒の甲殻を纏った大サソリとは、実にひねりのないシンプルな回答だ。ひねりがなさすぎて、名付けた人物のセンスが疑いたくなる。

だが、目下、そのセンス不足の第一候補は『お師様』扱いのナツキ・スバルだ。

記憶の有無と無関係に、シャウラに名前を付ける機会がスバルにあったとは思えないことと、それを悠長に検証している余裕が今の自分たちにないのが問題だが。

「――――」

眼前、エミリアとラムのタッグが、『暴食』の大罪司教であるルイ・アルネブと熾烈な戦いを続けている。その戦場を間に挟み、通路の奥では漆黒の大サソリが凶悪な鋏を鳴らして、赤い複眼でこちらを見据えている。

殺戮のために進化した天然の大鋏、禍々しく擦れ合う刃の音の重みは、人体など骨や内臓ごとあっさりと断ち切るだろう鋭さを予想させた。

赤い複眼、禍々しい二本の大鋏、巨躯を支える複数の足と、鉄の鎧もかくやという強度を誇る甲殻、全てが洗練された破壊と暴力の象徴だ。

事実、その戦闘力は外見の凶暴さを一切裏切らない。

すでにそのことを、スバルはここまでの戦いで、これまでの世界で、幾度もこの目で確かめ、あるいは自分自身の肉体で実感してきたのだ。

「お……」

その自覚が芽生えた瞬間、スバルの脳裏を前のループでの出来事が過った。

大サソリの猛攻を退け、どうにか一時的に撤退させたと思った直後、スバルたちは凶獣の残した置き土産の炸裂を浴び、ベアトリスとエキドナの二人の命を奪われた。

あのとき感じた耐え難い怒り、それは忘れられない。

抱いた憤怒は何もできない自分自身の無力さへの憤りであり、同時に、あの殺戮を行った大サソリへの抑えようのない怒りでもあった。

――その憤怒の対象であった大サソリ、その正体が仲間のはずのシャウラだった。

そうわかった今、スバルの心中を占めるのは行き場のない激情と、疑念の嵐だ。

何故、シャウラが大サソリの姿をしているのか。

何故、シャウラはスバルたちを攻撃し、殺そうとしているのか。

何故、シャウラはこの局面で本性を現し、戦いに横槍を入れてきたのか。

何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故――。

「――スバル、落ち着くのよ。まず、深呼吸するかしら」

「――――」

あれこれと衝撃的な事実に思考を埋め尽くされるスバル。そのスバルの名前を柔らかく呼んで、正気に引き戻してくれたのは傍らのベアトリスだ。

彼女の小さな掌に手を握られ、スバルは初めて自分が呼吸を忘れていたことに気付く。ゆっくりと、指示に従い、スバルは深々と息を吸って、吐いた。

そして、

「それでいいのよ。――あれが、シャウラだっていうのは事実なのかしら?」

ベアトリスの問いかけに、スバルは改めて自分自身に確かめる。

『コル・レオニス』――芽生えたばかりの、その特性を把握したての権能だが、これが仲間の居所をスバルに伝え、味方の不調を引き取る力であることは間違いない。

故に、スバルは塔内にいる仲間たち、エミリアやラム、ベアトリスやユリウス、メィリィにエキドナといった面々の居場所をぼんやり把握することができているのだ。

そして、その仲間たちに感じる淡く温かな感覚を、あの大サソリにも感じている。

現状の塔での仲間たちの位置関係を思えば、他の候補者は考えられない。

だから、あの大サソリは間違いなく――、

「絶対にシャウラだ。なんでかわからねぇが、でかいサソリに化けてやがる……」

「――。元々、正体不明の娘だったのは事実なのよ。その正体が、ちょっと大きめの虫だったくらいじゃ驚くに値しないかしら」

「すげぇ胆力だな……」

サソリを虫と言い切り、ベアトリスはその衝撃を理解力ではなく対応力で受け流した。その対処法に舌を巻きつつ、スバルは今一度、大サソリを睨みつける。

どこを見ているのかわからない赤い複眼、それに真っ向から視線を突き刺して、

「何とか答えたらどうだ! もう、てめぇの正体は割れてんだぞ!!」

「――――」

「言い訳とか、獲物を前に舌なめずりとか、やることがあんだろうが……っ」

怒声を張り上げると、気怠い体調不良の頭がひどく痛む。が、スバルはその痛みを無視して、大サソリの返事を求めた。

しかし、大サソリは意思疎通不可能な外観のままに、一切の返事をしようとしない。

「言い訳一つ、してくれねぇのかよ……」

弱々しく呟いて、スバルは嘔吐感と戦いながら思考する。

先も蘇った記憶の通り、スバルはこの大サソリに何度も辛酸を舐めさせられた。

あの天真爛漫で野放図で、スバルに対する好意なのか親愛なのかを一切隠そうとしなかったシャウラ――その彼女に騙され、謀られていた事実が鋭く胸を突く。

あの笑顔も、言葉も、態度も何もかも、作られた偽物だったのかと。

彼女は、スバルたちを騙していた裏切り者だったのかと。

「いや……」

裏切り者、という表現を浮かべて、スバルは微妙な違和感に頬を硬くした。

シャウラが裏切った。――その考え自体は現状を鑑みれば仕方のない結論だ。だが、はたして本当にシャウラの全てが偽りだったのか、そこには議論の余地がある。

無論、シャウラのこれまでの言動全てが演技で、笑顔もスキンシップも何もかもが騙すための詐術だった可能性はありえる。

ありえる。が、何のために――?

演技してスバルたちの懐に潜り込むなら、その目的はスバルたちへの敵意だ。

しかし、シャウラにその気があったなら、こんな局面で戦いに割り込んでくるような真似をしなくても、ここまで何度でも寝首を掻くタイミングがあったはずだ。

それこそ、スバルたちの懐にあれほど深く入り込んでいたのだから、同行中、ゆったりとした時間の端々でそっと毒を差し込むチャンスは無限にあった。

その機会を逃してまで、どうしてここで裏切りを露呈したのか。

そんなの、全く合理的ではない。

わざわざ迂遠な真似をして、スバルたちの仲間の振りをする意味がどこにある。

スバルの頼みを聞いて、メィリィを止めるのに協力してくれたのも、バルコニーで魔獣の群れを相手に超魔法を披露しているのも、意味がわからない。

何もかも、筋が通らないではないか。

「そう考えたくなるのは、俺があいつのホットパンツから見える白い足に魅了されちまってるからなのか?」

「それでスバルの考えが甘くなるんなら、シャウラの作戦も捨てたもんじゃないのよ」

「だな。俺の気持ちはエミリアちゃん一直線だから……って、うおわ!?」

シャウラの行動への違和感を共有したところで、不意にベアトリスに腕を引っ張られる。それは抗議ではなく、強引な救出行動だ。

思わず踏鞴を踏んだスバルの頭上を白光が突き抜け、間一髪で命を拾う。

「どうやら、くっちゃべってる暇はないみたいかし、ら!」

言いながら、スバルと繋いだのと反対の手を掲げ、ベアトリスの周囲が淡く輝く。

展開されるのは紫色の光を纏い、その先端を鋭くした大量の結晶だ。スバルたちを囲い込むようにして展開する紫矢、それが真っ直ぐ、大サソリへ向けて射出される。

瞬間、同じく前方から飛来してくる白光と紫矢とが激突、光が乱舞する。

「うおおおおおお!?」

「頭下げてるのよ! 直撃されたらヤバいかしら!」

煌めく紫の光が荒れ狂い、ガラスの砕けるような音が通路に美しく連鎖する。

その目を焼くような煌びやかな光景と裏腹に、大サソリから放たれる閃光――否、その鋭い尾針の一撃は、容赦なくスバルの命を串刺しにせんと狙いを定めていた。

その押し寄せる殺意の一矢ならぬ百矢を、ベアトリスが紡いだ魔法の力で受け流し、打ち払い、撥ね除けることで守ろうとしてくれている。

しかし、その物量が圧倒的だ。

「ぐ、マズいのよ……! このままだと、すぐにこっちのマナが尽きるかしら……!」

「尽きるとどうなる!?」

「ベティーとスバルが仲良く一本の針で串刺しなのよ!」

仲良しはともかく、その状況はいただけない。

襲ってくる猛攻に対し、ベアトリスの余力が長持ちしないのは本人の自己申告通りだ。このままじり貧で押し潰される前に、何とか状況を打破する必要がある。

そうした危機感に、スバルが歯噛みした直後――、

「――さっきから、人の頭の上でビュンビュン危ないじゃない!」

銀鈴の声音が強く言い放って、強大な氷の礫が大サソリの甲殻を豪快に殴った。撃音が通路に響き渡り、サソリの無感情な赤い複眼が驚愕を得たように映る。

そしてその反応を引き出したのは、通路に生み出した氷壁を蹴り、サソリの懐へと果断に突っ込んだエミリアだった。

銀髪をなびかせ、壮麗にサソリへ飛びかかる彼女は氷の長剣を振りかざし、

「スバルたちを狙って……弱いものいじめなんて卑怯よ!」

「――――」

唐竹割りに打ち下ろされる氷の剣撃、それを巨大な鋏で打ち払い、大サソリが複数の足を蠢かせて高速で後退する。が、エミリアは逃がすまいと巨体を追いかけ、狭い通路を縦横無尽とした、美少女とサソリの三次元的戦闘が始まった。

「てや! えい! うりゃぁ!」

生み出される氷の長剣、双剣、槍、大槌が軽やかな音と共に砕かれ、きらきらと散った氷片の舞う中をエミリアが舞い踊る。

大サソリの強靭な鋏、その力は圧巻で、受け止めた相手の武器を容易く砕き、断裁する剛力を秘めている。だが、エミリアにはその武器破壊が通用しない。

エミリアのアイスブランドアーツは、彼女の魔力で無数の武器を作り出す戦法だ。

使い捨ての氷の武器は、エミリアにとって仮初の愛用品。いくら砕かれ、切断されようと、エミリアは痛くも痒くもない。

「そ、やぁ!!」

振り回される鋏と尾針、それを回避したエミリアが宙に浮かせた氷杭を射出する。それがサソリの放った白光と正面から衝突、光が散る。

それは人と人外の、圧倒的な力を持つもの同士の攻防だ。

驚嘆すべきはエミリアのセンスで、人型の相手とは大きく対処法の異なるだろう敵に躊躇いなく飛び込み、食い下がっている。

本能的な戦い方をよしとするエミリアにとって、敵の姿かたちは絶対ではない。積み上げてきた鍛錬ではなく、その身に有り余る戦闘センスがモノを言うのだ。

故に、エミリアと大サソリの攻防は一進一退、五分五分の状況が成立する。

だが、エミリアが大サソリと戦うことで、別の戦況は大きく影響を受けざるを得ない。

例えばそれは、あくまで二人同時に攻め込むことで成立していた、『暴食』の大罪司教ルイ・アルネブとの攻防――それが、ラム一人へと委ねられたように。

「ラム!!」

「いちいち怒鳴らなくても聞こえるわよ。黙りなさい。気が散るから」

その身を案じるスバルの声を、無体な返事がすげなく払う。

一人、通路の中央でルイと対峙するラム。彼女はこちらへ背中を向けたまま、凄まじい圧力を発している巨躯と真っ向からぶつかっている。

当然、エミリアが抜けた分、戦況は苦しくなったはずとスバルは見るが――、

「しっ!」

「ひぎゃはっ! 姉様ってばひどいひどい!」

粘着質な笑みを浮かべ、頭を振った巨躯が後ろへ飛びずさった。

顔面へ受けた肘鉄、その衝撃を散らすための後退だ。そうする巨躯の前、鋭く身を回したラムが、『拳王』を名乗る達人へと果敢な超接近戦を仕掛ける。

ルイの使用する格闘技は、『拳王』の名に恥じない殺傷力を有している。しかし、ラムはその極まった戦技を、常軌を逸したセンスだけで圧倒していた。

今も、繰り出される彼女の白い拳が、相手の正中線へと容赦なく撃ち込まれる。

「すごいね! すごいな! すごいよね、すごすぎるね! 姉様ってば知ってた以上に強すぎるッ! 何これ何これ、なんでそんなに動けるの!?」

「知ったような口を利かないで、黙って死になさい」

猛烈な打撃を浴びて、痛みに身悶えしながら歓声を上げるルイ。

今のルイは右腕をへし折られ、腕の一本を封じられた状態にある。その状態ではいくら徒手空拳を極めた男の肉体だろうと、そのスペックを発揮することができない。

『拳王』の培った武術の経験値、それも不調の消えたラムの前では形無しだ。

それほどまでに、ラムの生来のスペックは敵を圧倒している。

しかし、そうしてラムが奮戦すれば奮戦するほど――、

「ぐ、ぶ」

込み上げてくる嘔吐感、無制限に高まっていくような体温。頭の中で銅鑼を打つような冒涜的な耳鳴りと頭痛を感じながら、全身の気怠さにスバルは抗う。

これが、常日頃、ラムが味わっていると思われる絶不調。

それが容赦なく、スバルの心身を鑢がけして削っていく。慣れるどころか、一秒ごとに重くなっていく悪寒、それはラムのボルテージが上がれば上がるほど、その重みを顕著なものにしていった。

「――――」

だが、その嘔吐感を、頭痛を、倦怠感を、スバルは奥歯を噛んで耐え忍ぶ。

この権能のおかげで、ラムの苦しみを引き取り、彼女に戦う力を与えることができる。ここでスバルが苦しむぐらいの反動、呑み込むべき代償だ。

全身がだるく、手足が軋み、耳鳴りがうるさく、切り裂かれた腿が痛み、殴られた腹が苦痛を訴え、力の行使による消耗に息が上がり、視界が赤と白に明滅しようとも。

――このぐらい、屁でもないと虚勢を張れ。

「――馬鹿ね」

そうして、ベアトリスの背後で膝をつくスバルの方をちらと見て、ラムの唇が小さく何かを呟いたのが見えた。

が、権能は負担を引き受けるだけで、相手の全てがわかるわけではない。

短く呟かれた言葉は聞き取れず、スバルの眉を顰めるだけの結果となった。

しかし――、

「いい加減に倒れなさい。あまり長引かせると、うちの雑用係が昏倒するわ」

「つれないね、つれないな、つれないじゃない、つれないったらないんだから! 姉様、姉様! もっと遊びましょう! 楽しもうよ! あたしたちって姉妹なのに、こんな風に取っ組み合ったことも一回もなかったじゃないッ!」

「――なら、望み通りにしてあげる」

冷たく目を細めて、ラムがはしゃぐルイの横っ面を平手で打った。

そのまま流れるように、同じ頬へと肘鉄を入れ、高速回転しながら無数の打撃をルイの全身へ叩き込む。

防戦一方となるルイ、その顎を真下から掌で跳ね上げ、ラムは相手の胸倉を掴むと横手の壁に力ずくで顔面をぶち込み、その後頭部に可憐な膝を叩き込んだ。

「ぷ、げ」

石壁と膝で顔面を挟まれ、鼻面を潰されるルイが血をこぼしながら倒れる。そのルイの剥き出しのうなじへと、ラムは躊躇いなく掌を向けた。

その掌には、極々小規模な風の刃が渦巻いている。だが、その大きさを侮るなかれ。掌に生じた風刃の渦は、人体の急所を抉るだけなら十分な威力がある。

壮大な破壊など必要なく、人体急所を抉って敵を仕留める最低限の攻撃。それを首へ浴びれば、いかに『拳王』とやらの太い首でもひとたまりもない。

そうして、ラムの一撃が勝負を決めようと――、

「――ったく、人が寝てる間に勝手なことするんだからさァ。これだから、末妹ってのはわがままでいけない。姉様も、上の立場として同意見でしょ?」

「――っ」

うなじへの一撃が決まる瞬間、『拳王』の姿が変化し、ラムの掌打が外れた。

直後、ラムの細い胴を正面から捉えたのは、著しく背丈が低くなったルイの――否、ライ・バテンカイトスの後ろ蹴りだった。

「スイッチ……!?」

「違う違う違う違う違うってッ! そんな狙ってやったわけじゃァなくてさ、たまたま目が覚めた瞬間、妹が劣勢だったってわけ。お兄さんならわかるんじゃないの? 兄弟がやってるゲームが下手で、見てられなくってコントローラーを取り上げちゃう気持ちがサ」

だらりと舌を伸ばして、焦げ茶色の髪をした悪辣、ライがスバルに笑いかける。

そのライの凶笑の裏側では、土手っ腹に蹴りを受けたラムが大きく後ろへ下がっていた。そして、彼女はその一発に頬を歪め、荒く重たい息を吐く。

同時、スバルは彼女の足を止めた原因、それを権能で引き受けた。

そうして――、

「ぐ、ぎあぁぁぁぁ――っ!」

焼けつくような痛みが腹部で発生して、耐え難い灼熱にスバルが絶叫する。

まるで、腹を火掻き棒で掻き回されるような激痛に苛まれる。衝撃に視界が白み、体内の臓器がいっぺんに悲鳴を上げたのがわかった。

「はあん? やっぱりね。動けるわけない姉様が動けたのって、お兄さんのおかげだったわけだッ! 姉様ったら、妹がいない隙に妹の想い人と絆を深めたわけ!?」

戯言を口走るライが、絶叫するスバルを見ながら踵で床を打つ。その足下、踵から刃先の短い隠し刃が覗いており、その先端をラムの血で濡らしていた。

刺された。その痛みを、スバルがラムから引き取って苦しんでいる。

あるいはこの灼熱、刃には何か毒でも塗ってあったのかもしれない。ゾッとするほどの勢いで体温が低下し、全身からおびただしい汗が流れ始める。

「スバル!?」

「バルス、やめなさい!」

絶叫するスバルにベアトリスが驚愕し、ラムが状況を察した形相で叫ぶ。

腹を刺され、流血する腹部の傷。その痛みが和らいで、動きに傷と失血の影響がないとなれば違和感を抱いて当然だ。だが、スバルは必死に首を横に振った。

この苦痛はラムには返せない。返した途端、ラムは動けなくなる。

当然の流れだ。これらの痛みはスバルのところにあるのが一番いい。そうしておけば、まだ誰も負けずに済む。戦える。戦うのを手伝える。

「まだ……」

「ベアトリス様! バルスを連れて下がってください! 邪魔なだけです!」

うわ言のような声を漏らすスバルの様子に、ラムが素早い判断を下した。

彼女は脱いだ上着を腹の傷に巻いて止血すると、その上で戦闘の続行を決断。その代わり、スバルをこの場から離脱させるようベアトリスに促した。

そのラムの判断に、ベアトリスがスバルの袖を引いて従おうとする。

「スバル! ラムの言う通りかしら! 今はここから離れて……」

「だ、ダメだ……! 俺が、ここから離れたら……」

袖を引くベアトリスに首を振り、スバルはこの場に踏みとどまろうとする。

今、ここで戦域から離れると、『コル・レオニス』の効果が切れ、ラムが支える戦場が一気に瓦解してしまうかもしれない。

そうなれば、ここからスバルが離脱して、いったい何の意味がある。

「く……! エミリア様! 一度こちらへ!」

「え? あ、うん! わかったわ!」

居残ろうとしたスバルを見て、ラムがエミリアを呼びつける。

その呼びかけに、大サソリとの戦いに集中していたエミリアが大きく後ろへ飛びずさった。それを大サソリが追ってこようとするが、その追撃は通路を埋め尽くすような強大な氷壁によって妨げられる。

無論、大サソリの鋏の前には氷壁など一秒ともたないが、エミリアの後退にはその一秒で十分だった。

そこへ――、

「おいおいおい、ちょっとちょっとちょっと! そんな調子で戻られても、はいそうですかって見逃すとでも思って……」

「――うるさい」

「うひぇ」

舌なめずりしたライが、下がるエミリアの背中に短剣を振り上げる。それを、低い姿勢から忍び寄るラムの足払いが豪快に払いのけた。

そうしてひっくり返るライの頭上を、ハードルを飛び越えるようにエミリアが乗り越える。その結果、ライが通路で立ち上がると――、

「――――ッ」

「ちィ! はははッ! なんだなんだ、やってくれるじゃないかッ!」

猛然と、エミリアに追いつこうとする大サソリが、戦域に置き去りを食らったライと激突する。大サソリの複眼は本命のスバルへ向いているが、それでも途中に立った邪魔者を無視して通り過ごせるわけではない。

大サソリの鋏が振るわれ、ライがそれを短剣の驚異的な剣技で受け流す。脆い刃など野生の一撃に容易く砕かれそうだが、ライの技量はそれを易々と実現していた。

そのまま、敵と敵とがぶつかるのを尻目に、

「エミリア様! バルスを!」

「任せて!」

通路を駆けてくるラムの一声を聞いて、エミリアが蹲るスバルを抱きかかえる。エミリアの細腕に担がれ、「うおわ!」とスバルが驚きの声を上げるが、

「ごめんね、ちょっとだけ大人しくしてて!」

「女の子に担がれて、プライドが傷付く……」

「傷付く矜持なんて今さらないでしょう。大人しく荷物扱いされなさい!」

減らず口を叩くスバルを担いだまま、エミリアの速度は一向に落ちない。

背後ではライと大サソリの激闘が繰り広げられており、どうした決着を迎えるにせよ、しばらくは両者の足止めは続くはずだ。

とはいえ――、

「――シャウラの狙いはスバルのはずなのよ。目を離すと、どこから仕掛けてくるのかわからない方が危険かしら!」

「それが問題です、ベアトリス様。――あれが、本当にシャウラなんですか?」

スバルを担いだエミリアと並走して、ラムとベアトリスが状況を交換する。

ラムからの問いかけは、スバルが確信を得ている大サソリの正体への確認だ。それを受け、ベアトリスはスバルを横目に頷くと、

「スバルが確信してるのよ。あの、光を飛ばしてくる攻撃も、符合するかしら」

「……バルコニーや、砂丘を抜けるときに見せた攻撃ですか」

ベアトリスの分析を聞いて、ラムも思わしげに眉を寄せる。それから彼女はスバルの方を見ると、エミリアの腕の中で揺られるスバルの額を叩いて、

「バルス、何をしているかわからないけど、それを解きなさい。そのままだと……」

「お、俺が耐えかねるってか? 言っとくが、俺は男の子だぜ。やせ我慢と強がりは、俺たち男の特権……」

「それだけボロボロで、エミリア様に担がれていてよく言えたものね」

「うぐぅ」

ラムの言葉にぐうの音も出ない。

実際、ラムの不調を引き取った影響で、全身が気怠くて呼吸すら辛い。秒単位で負債が増していく疲労感は、まるで命を蝕まれる呪いを受けたかのようだ。

そんなスバルの強がりに、エミリアが「やっぱり」と呟いて、

「スバル、何かしてるんでしょう? 途中から、私もすごーく体が軽くなったし、打たれたところも痛くなくって……ベアトリス、もし、スバルに無理させてるなら」

「ベティーじゃないのよ。これは、スバルが勝手に……権能でやってることかしら。ベティーだって、やめさせられるならやめさせたいのよ」

「権能……?」

苦言を呈したエミリアに、ベアトリスが自分の関与を否定しながら渋い顔をする。彼女が口にした響きに、エミリアとラムが揃って眉を顰めた。

権能と、ベアトリスはスバルの操った力に心当たりのある様子だが――、

「ベアトリス様、権能というのは?」

「――。加護の、上位互換みたいなものかしら。スバルはかなり無茶してそれを使っているのよ。エミリアとラムの調子も、それが原因かしら」

「――――」

その話を聞いてエミリアが息を呑み、ラムの視線が鋭くなる。

状態的には楽になっているはずなのに、ラムの薄紅の瞳に宿るのは強い怒りだ。その瞳のまま、ラムはスバルを睨みつけ、

「ラムの責任を勝手に持ち去ろうだなんて、いつからそんなに偉くなったの?」

「悪いな……紳士なんだ。だから、女子の荷物はスマートに持ってあげちまう……」

「その結果が女子の荷物代わり? 何度も言うけど、本末転倒ね」

続いたラムの嘆息は、どこかスバルの姿勢に諦めを感じたものだった。彼女にも、スバルがこの負担を返還するつもりがないことが伝わったのだろう。

永遠に抱えていることは正直しんどいが、それでも、戦いの間ぐらいは――、

「――そう、だ」

そこまで考えたところで、スバルはようやく自分の腹の奥底――不調を訴える内臓各員ではなく、もっと別の部分へ意識を張り巡らせた。

意識は自分という肉体を通過し、知覚できる範囲を大きく広げる。そして、『コル・レオニス』によって把握していた、仲間たちの状態と居場所へと繋がった。

変わらず、『タイゲタ』にはエキドナとレム、それからパトラッシュがいる。少し離れて階下にジャイアンがいて、それから――

「やっぱりだ」

「やっぱり? 何がやっぱりなの?」

「メィリィは、今も、バルコニーで魔獣を押しとどめてくれてる……」

わずかに距離を離れはするが、四層のバルコニーでちらつく淡い光はメィリィだ。シャウラを欠いた状況ながら、彼女は自身の力を総動員し、魔獣の群れに対処している。

その奮戦ぶりには心底感心するし、感謝もするが――、

「あの娘は、シャウラに襲われてないってことになるのよ」

「その通り」

ベアトリスの一言を、スバルはエミリアの肩の上から肯定する。

各所での戦いが始まった直後、スバルは監視塔へ押し寄せる魔獣の群れの対処をメィリィとシャウラの二人に任せていた。

その後、シャウラが大サソリの姿でスバルたちの襲撃に現れた以上、当然、一緒にいたはずのメィリィの安否が気遣われたが――彼女の無事は、スバルが感じ取っている。

つまり、

「シャウラがああなったのは、メィリィと別れたあと。いずれにせよ、メィリィにシャウラは手出ししてない……」

そのことと現状にどんな関連性があるのか、働かない頭では考えられない。

その上、このまま逃げ続けるにしても――、

「起きてる問題を解決しないと、逃げてても追い詰められるばっかりになっちゃう!」

嘆くようなエミリアの叫びが、今のスバルたちの現況を見事に言い表している。

五つの難題の内、魔獣の群れにはメィリィが、大サソリと『暴食』は今はお互いに食らい合いを続けており、そして漆黒の影の到来はまだ兆しを感じない。

しかし、理不尽な神の鉄槌である暴力装置レイド・アストレアは――、

「――っ、止まりなさい!」

「――!?」

先頭を走っていたラムが、後ろに手を伸ばしてエミリアたちを制止する。とっさに立ち止まった三人の正面、一瞬遅れて衝撃波が突き抜けた。

衝撃波は石造りに見える通路を斜めに両断し、石材と噴煙が立ち込める。

破壊は不可能と、そうした触れ込みだったはずの監視塔が破壊されるのは、スバルの記憶によればこれで三度目――ただ、影による圧搾以外では、初めてのことだ。

そして、その破壊の正体は――、

「ラム女史……それに、エミリア様とベアトリス様か」

「ユリウス!?」

噴煙を破り、大きく後ろ飛びに姿を見せたのは白い装いを血と埃に汚した美丈夫、ユリウス・ユークリウスだった。

その場で足踏みした彼は衝撃を散らすと、ちらとその黄色い瞳で背後を振り返り、エミリアの肩の上にいるスバルを見やると、

「別れてほんの数分だと思ったが、ずいぶんと手酷くやられたようだね」

「うるせぇ……一応、無傷だよ……」

「無傷の人間の脂汗には見えないが……」

青白い顔色と、息も絶え絶えに憎まれ口を叩くスバルにユリウスが片目をつむる。察しのいい彼にも、さすがに『コル・レオニス』の権能の効果までは読み解けまい。

それに生憎と、そのことについて落ち着いて話し合いをする時間は残されていない。

「頼むから、レイドの首は刎ねてきたって言ってくれ……」

「事実と異なる報告をするのは、騎士として非常に苦しい選択だ」

「……もはや、それが答えになってるかしら」

祈るようなスバルの訴えが、生真面目な返答によって言外に否定される。希望が絶望に塗り替わる感覚を味わいながら、苦い顔になるスバル。

その鼓膜を、砕けた壁の破片を踏みしめるゾーリの音がして、

「はン! 女共が揃ってお出迎えたぁわかってンじゃねえか、オメエ。ちっとばかし遊ンでやって、退屈してきたとこだったンだ。オメエらでオレの相手すっか、あン?」

「……最悪の展開ね」

ユリウスに続いて噴煙から姿を見せたのは、赤い長髪に片袖を着流しから抜いた、長身に筋肉質な体格をした偉丈夫――赤い暴力、レイドの出現だった。

二層ではなく、堂々と四層の通路を踏むレイドの姿に、ラムが低い声で絞り出す。それと同じ驚愕に、エミリアが「あなた……」と声を震わせ、

「どうして、この階にいるの? あそこから出られないはずなんじゃ……」

「おいおい、笑わせンなよ、激マブ。オレはいきてえとこにいって、斬りてえもンを斬って、抱きてえ女を抱く。他人のしきたりなンぞに従ってやるかよ」

「……どこまでも規格外な奴なのよ」

戦慄した様子のベアトリスが、レイドの貫く自分勝手な哲学に舌打ちする。

しかし、事実としてレイドはこの場に現れ、スバルたちの道行きを阻まんと立ちはだかっていた。

これで、正門のレイド、後門の『暴食』と大サソリ。――大修羅場だ。

「言うだけ、無駄かもだが……今、塔で起きてることは……」

「ああ、大騒ぎになってンのはわかってるぜ? けど、オレには関係ねえよ。入ってきた連中が邪魔しやがンならぶった斬るし、道開けンなら追っかけてまでぶった斬ったりはしねえ。――とと、『試験』に参加してる奴らは別枠だがな。いっぺン、オレにケンカ売ってきやがったのは違いねえンだ」

「だったら……」

「――オイ、稚魚。これ以上、面白くねえことくっちゃべるンじゃねえよ」

言葉を弄し、どうにかしてレイドから譲歩を引き出そうとするスバル。その口が、レイドから発される常軌を逸した剣気によって黙らされる。

「――――」

びりびりと、物理的な体の痺れを感じるほどの圧迫感がスバルを――否、スバルだけではなく、通路に佇む五人を。あるいは、塔全体をゆすぶった。

これがただ、一人の男の不興を買った。それだけの、威圧感なのか。

プレアデス監視塔には、この強大な男だけではなく、それ以外の脅威もあって――、

「まだ、『暴食』の一匹と、あの影の対処法が見つかってねぇってのに……」

「――スバル、その件について、私から朗報と悲報がある」

弱々しく呟くスバルへと、立ち上がり、騎士剣を構え直したユリウスがそう言った。その、海外ドラマのような出だしにスバルは頬を硬くする。

いいニュースと悪いニュース、創作物ではよくある表現だが、実際にこうして耳にするとひどく胸を掻き毟られる響きだ。

一度、唾を呑み込み、スバルは「朗報と悲報」と口の中で確かめてから、

「じゃあ、朗報から先に聞かせてくれ」

「君が不安視している、姿の見えない『暴食』の大罪司教の片割れだが、彼を警戒する必要はない。そのことは私が保証しよう」

「――? 根拠はわからねぇが、確かに朗報だ。じゃあ、悲報ってのは?」

攻略法が見つかったのか、あるいはそもそも監視塔に出入りしていない証拠を掴んだのか、ユリウスの指摘にスバルは片眉を上げた。

『暴食』の大罪司教が一人だけなら、確かに対処すべき問題が一つ減る。

こちらの手札と、相手の手札とを見比べながら、どうするのが最善なのか、絶不調の体で思考を巡らせるスバル。

そんなスバルに、ユリウスはわずかに息を詰め、続けた。

「『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドはそこにいる」

「……あ?」

真剣な声音で、ユリウスが騎士剣の先端を正面へ向けた。

その剣先が指し示す先に立っているのは、獰猛な鮫の笑みを浮かべる偉丈夫だけ。

他の、何を意味することもない。――鮫の笑みをした男が、立っていた。

そして、呆然となるスバルたちへ、ユリウスは重ねて続ける。

「目の前にいる、初代『剣聖』レイド・アストレア。――彼が、ロイ・アルファルドだ」

第六章69 『理不尽な剣の鉄槌』

――その発言の音を呑み込み、意味を咀嚼するのに数秒の時間を要した。

「レイドが、ロイ・アルファルド……?」

思いがけない話に、スバルの思考が引き取った苦しみとは別の形で掻き乱される。

仲間たちから強引に奪い取った痛みや苦しみ、ネガティブな感覚が原因で頭の働きは鈍いが、そうも言っていられない状況。

仮に、数時間後に脳が耳から溶け出したとしても、思考は止められない。

「――――」

正面、威風堂々たる立ち姿を披露する赤毛の剣士、このプレアデス監視塔で間違いなく一番厄介な存在、レイド・アストレアを見つめ、スバルは呟く。

傍らで騎士剣を構えるユリウス、レイドを見据える彼の表情に嘘偽りの気配はない。

元々、命懸けの鉄火場で笑えない冗談を飛ばすような性格の人物ではない。それが一度は全てを忘れたスバルのユリウス評であり、それ故に事態は深刻だ。

確信めいたユリウスの発言が、確かな事実であるということなのだから。

「レイドが、『暴食』ってことは……」

監視塔に存在する五つの障害の一つであり、しかし、敵味方の線引きとしては曖昧な立ち位置にあったのがレイドだった。

その存在が明確に、敵対者の一人であったと明示された以上――、

「だから、お前は……何度も、執拗に俺たちを……?」

「――オイ、待てや、オメエ。そいつは面白くねえ勘違いじゃねえか」

「え?」

「冗談じゃねえぞ、オメエ。オイ、オメエ。オメエよ。オメエ、オレが余所の間抜けが化けてやがるなンて、そンなつまらねえ結論信じてンじゃねえぞ、オメエ」

震えるスバルの声を聞いて、レイドがいたく不満そうに頬を歪める。

その反応の意味がスバルにはわからない。

――『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドがレイドの姿で顕現している。

直前の、ルイ・アルネブの変貌を見たスバルは至極真っ当にそう結論した。姿かたちごと相手の戦闘力を強奪する『暴食』の権能、その結果が目の前のレイドだと。

しかし、その結論にレイドはあからさまに不機嫌になった。

それは往生際悪く、自分の正体を隠そうといった卑怯な振る舞いではなく、もっとシンプルな、子どもじみた憤懣が原因に見える。

その真意は――、

「オレはオレに決まってンだろうが。そこが曲がらねえから、オレはここでこうしてンだよ。違ぇか? オメエ、違うってのか?」

「――――」

己の左目の眼帯に触れ、鋭い牙を剥くようにレイドがスバルへ言い放つ。

それを受け、スバルは息を呑み、その発言の真意を読み解こうと眉を顰めた。

そして、とある可能性に気付いて、息を詰める。

「まさか、ユリウス……」

「ああ、おそらく、君の想像で正しいだろう」

視線をレイドに固定したまま、掠れた声を漏らしたスバルにユリウスが顎を引く。美丈夫は血の付いた自身の頬を肩にこすり、その血痕を拭いながら、

「先ほどは、私の言い方が悪かった。訂正しよう。――目の前の彼、その肉体はロイ・アルファルドのものだ。だが、その精神は違う」

「――精神」

「ロイ・アルファルドは、レイド・アストレアの『記憶』を喰らい、その『記憶』に自らの精神の主導権を奪われた。故に彼は制限なく、二層へ下りて、ここへきている」

「――――」

荒唐無稽に思われた可能性、それをユリウスに肯定され、スバルは唖然とする。

そんなことがあるのか、とスバルは――否、スバル以外の面々、エミリアとベアトリス、ラムまで含めた全員が目を見開いていた。

確かに、そのユリウスの説明で全ての筋は通っている。

本来、プレアデス監視塔の『試験』、その試験官として二層から離れられないはずのレイドが、我が物顔で塔の中を自由にうろつき回っていたことの真相。

スバルが繰り返してきた幾度もの世界で、監視塔の最後の混乱に紛れ、その中でしか彼が自由を得ていなかったのは、『暴食』の行動に乗じて自由を獲得していたから。

そう、そうだ。これで、レイド周りの不可解な状況の全てに筋が通るのだ。

――ただ、あまりに規格外の真実すぎて、開いた口が塞がらないだけで。

「『記憶』に引きずられて、本来の自分を見失ったってことかしら」

「もっと単純に、自我の強い方が勝ち残ったということでしょう。――自分本位という意味では、右に出るものがいなさそうだもの」

スバルと同じ結論に、少し遅れてベアトリスとラムも到達する。

身も蓋もない言いようだが、ラムの言葉が端的に事実を言い表していると言えた。

「ただ、疑問もある……」

それは、何故、喰われたレイドの存在が全員の記憶から失われていないのか、だ。

これまで、『暴食』の被害に遭ったものたちはレムやユリウス然り、スバルを除いたあらゆる人の記憶から存在が失われていた、らしい。

実際、一つ前のループでは、エミリアの存在がラムたちから消えるのをスバルも確認している。ならば、それと同じことがレイドに起きないのは、

「原理としては、『暴食』が食したのはレイドの『名前』ではなく、あくまで『記憶』だったということだ。死者からは、『記憶』も『名前』も喰らうことはできない。それが、ロイ・アルファルドの主張だった」

「――っ! レイドが喰われるところに出くわしたのか!?」

スバルの疑念を察して、そう言ったユリウスが片目をつむった。彼は「ああ」と短く応じると、自分が通り抜けてきた崩れた壁を見やり、

「君の指示で二層へ上がったところで、ね。ちょうど、ロイ・アルファルドとレイドが交渉しているところだった。交渉と、そう呼ぶべきかは怪しいところだが……」

「その、怪しいってのは?」

「レイドが無抵抗だったからだ。――おそらく、『暴食』は何らかの理由で『試験』の対象外だったのだろう。だから、試験官の彼は相手に攻撃できなかった」

「はン! オメエよ、そりゃ半分当たりで半分外れってとこだ」

ユリウスの立てた推測に、他ならぬレイドが待ったをかけた。彼は太い首の骨を鳴らしながら、自分の胸元に爪を立て、

「確かに、あいつらは『試験』の参加者ってわけじゃなかったが、別にやろうと思えばやれただろうぜ? ただ、そうしてたら今のオレはいねえだろ?」

「相手の自我を乗っ取れる。あなたは、そんな確信があったというのか?」

「いいとこ取りなンて真似だけはさせねえ。手前の全部を乗っけてくっから、賭けってのは面白えンだろうが。そこが、あのチビはわかっちゃいなかったけどな」

肉体を手に入れた事実はともかく、その経緯に関わった『暴食』には何ら興味を抱けなかったのか、レイドは相対したロイに関してひどく冷淡に言い放つ。

だが、実際、目の前にある現実が真実だ。――ロイ・アルファルドの自我は、レイド・アストレアという怪物に塗り潰された。

「オレを喰い尽くす、味わい尽くすってンなら、オレを収めるでけえ腹がいる。こいつにゃそれがなかった。だから、オレが腹を食い破ってやった。そンだけの話だ」

「それだけの、話って……」

絶えぬ嘔吐感や蓄積する心身の摩耗と別枠で、スバルは頭が痛くなるのを感じる。

つまり、レイドの身に起こったことを端的に述べると、

「生き返った……死者蘇生、ってことなのか?」

「結果的に、そうなったと言えるだろう。もっとも、死者の『記憶』に干渉できる状況と、その能力を持った存在が出会って初めて成立する、奇跡のような出来事だが」

「奇跡……」

四百年前に失われたはずの命、それがこうして蘇った瞬間を目撃するのは、ユリウスにその意図がなくとも、皮肉な奇跡の体現と言えたかもしれない。

その、蘇りの事実自体をどうこう言ってやるつもりはないが――、

「――ええと、一つだけ聞いてもいい?」

「お?」

ふと、起きた出来事の整理がついたところで、そう声を上げたのはエミリアだった。

レイドとの遭遇以降、話の腰を折ることを避けるために口を閉ざしていたエミリア。彼女は話が一段落したのを見て取り、レイドに紫紺の瞳を向ける。

そして、

「あなたは……レイドは生き返ったのよね? それで、あの場所からも出られるようになって、それはすごーくおめでとうなんだけど」

「ああ、あンがとよ。これで、オメエともちゃンとした場所にしけ込めンぜ、激マブ。今夜の酌しろよ、オメエ。それ以外のことは……あー、おいおい仕込ンでやっから」

「――? お出かけに誘ってくれてるの? でも、私、『でーと』はパックとスバルとしかしたことないから、ごめんなさい。あと」

何とも、スバル的には聞き逃せないやり取りだったが、エミリアのデート発言に突っ込む余力が今のスバルにはない。

そんなスバルの内心を余所に、エミリアは担いだスバルの体を抱え直して、

「自由になれたのに、私たちの邪魔をするのはやめてくれないの? もしかしたら知らないかもしれないけど、私たち、今、すごーく忙しくて……」

「言わせンなよ、激マブ。オレぁここで起きてっことはほとんど把握してンぜ。なンせ、この体のチビガキが妙に物知りでいやがる。――あぁ、気に入らねえな」

吐き捨てるように、レイドが忌々しげに自分の腹のさらしを掴む。

どうやらただ復活しただけではなく、レイドにはロイ・アルファルドの記憶の閲覧――つまり、『暴食』の権能の一端を垣間見る権限まであるらしい。

もっとも、それは彼の美意識的に、ひどく嫌悪感の強いものだったようで、

「手前がねえから、こンな馬鹿げたことに手ぇ出しやがる。救えねえガキだ。身の程知らずやったせいで消えちまったが、当然の報いだろうよ」

「……ここだけの話、自由になったんなら、世界って大海原に覇を唱えにいったら? 問題を先送りにした感がすげぇけど、それなら」

「オメエ、逃げ腰かましてンじゃねえよ。ただでさえ、女に担がれてるって状況で死ンだ方がいいぐれえ情けねえンだ。恥の上塗りすンのか?」

「――――」

戦いを避け、状況を改善するスバルの試みは失敗に終わった。

おそらく、スバル以外が今の提案をしても話は通じなかっただろう。結局、レイドは自由を得はしても、試験官としての役割を全うするつもりなのだ。

あるいは、試験官なんて名目への拘りではなく、一度、剣を交えると決めた相手を逃がさない。――そんな、ある種の戦士としての矜持かもしれない。

いずれにせよ、

「――そう。どいてくれないんなら、仕方ないわ」

残念だけど、というニュアンスを孕んだ吐息を残して、エミリアにレイドへの攻撃を決断させるには十分な返答だった。

「ごめんね」

その一言が、相対するレイドではなく、肩の上のスバルへ向けられたものだと、気付いたのは一秒あとのことだった。

何故なら一秒後、スバルの体はエミリアの肩から下ろされ、傍らのベアトリスへとそっと投げ渡されていたのだから。

――刹那、通路を弾丸の如く駆け抜け、エミリアが氷剣をレイドへ叩き付けていた。

大気が甲高い音を立てて氷を生み出し、美しく残酷な氷刃が噴煙の巻く通路を翻る。いずれも、手加減抜きの致命傷を狙った攻撃――一度、やると決めたエミリアには躊躇いがない。それは、ここまでの戦いでも十分わかっていたことだ。

「――はン!」

その、スバルでは目で追うのがやっとの斬撃、半ば不意打ちに近い一撃を、レイドは着流しの懐から抜いた腕と、その手に握った箸で易々と受け止めていた。

レイドが箸を得物として振るうのを見るのは初めてではない。だが、何度見たところで慣れるものではない。異常は異常、その認識に変わりはなかった。

「あいつ……! エミリアちゃん!」

「す、スバル! 無茶したらダメなのよ! 大人しくしてるかしら!」

レイドの異常な剣力に、エミリアの身を案じて叫ぶスバル。そのスバルに自重を訴えるのは、エミリアが手放した体をとっさに支えてくれたベアトリスだ。

小さな彼女の体に支えられながら、通路に膝立ちでスバルは目を押し開く。

その間、なおもエミリアは箸に砕かれ、あるいは斬られる氷の武装を切り替え、煌めくダイアモンドダストの中を踊る妖精のような剣舞を続けている。

それを悠々と打ち払いながら、レイドは「ははっ!」と鮫のように笑い、

「はン! さすが、話が早ぇぜ、激マブ! けど、オメエ、わかってンのか? オメエの『試験』は終わってンだぜ?」

「それなら! みんなのことも合格にして!」

「オイオイ、どういう理屈で言ってンだよ。そうしてやる理由がねえだろ」

「お願いするから!」

「おねだりに可愛げがねえよ。とりあえず服脱げ、オメエ」

真剣な表情だが、エミリアらしい懇願にレイドは聞く耳を持たない。

初撃同様に、続く連撃をレイドは嘘のように鮮やかな箸技で受け流し、いなしていく。その異常な剣力に、スバルは開いた口が塞がらない。

無論、レイドが尋常でない使い手なのはわかっていたことだ。

だが、『暴食』や大サソリ相手に一歩も引かないエミリアだって、そんじょそこらの戦士と比べたら圧倒的な力量を有している。少なくとも、スバルが百人いてもエミリアには敵わないだろう。――それが、レイドにとっては文字通り、子ども扱いだ。

エミリアの決死の攻防が、レイドには児戯のように拙い。

あと、ほんの数合交えただけで、エミリアは箸に貫かれて敗北する。それが素人目にもわかるほど、隔絶した実力差が二人の間にはあった。

しかし――、

「――手を引く理由? そんなのは簡単でしょう」

「ああン?」

「あなたが、ここでラムたちに無様に負けるからよ」

小柄な体躯で戦場へ割り込んで、ラムがレイドの背後からそう言い放つ。

――あのレイドの背中を取った。

それだけでも十分以上に驚嘆に値するが、ラムの恐るべきはそれだけではない。

レイド・アストレア相手に、一切容赦しないエミリアの攻撃。彼女のセンスに任せた戦い方へ、ラムは神がかった勘の良さでタイミングを合わせた。

それこそ、スバルには全く読めなかった、エミリアの最初の不意打ち――あれさえ読んでいたかのような、実際、読んでいたのだろう動きだった。

「――――」

直後、ラムの繰り出した拳が、レイドの着流しの脇腹へ突き込まれる。

インパクトの瞬間、肉と骨の軋む音がして、ラムの白い拳の貫通力がレイドの内臓へと浸透、踏みとどまるレイドのゾーリの足裏で通路が爆ぜた。

「届いた……っ!?」

思わず、それを目にしたスバルがベアトリスを強く抱きしめる。

喝采したかったが、それ以上の声が出ない。代わりに、血の燃えるような熱があった。何故ならそれは紛れもなく、スバルの知る限り、レイドに初めて通ったダメージだ。

「は、ぁぁぁ――っ!」

華奢な腕から放たれるとは思えない威力の拳が、それこそ嵐のようにレイドへと打ち込まれる。それを、レイドは剥き出しの半身に食らい続け、後退する。

無防備、なのではない。ラムの攻撃を防ごうにも、エミリアの猛攻を防ぐのに二本の箸を使っているせいで、そちらへ回す防備がないのだ。

故に、凄まじい拳打の威力に押され、レイドの体が大きく弾かれる。

そうして吹っ飛ぶ姿に、エミリアが両手で作り出した氷の短剣を投擲、弧を描いた斬撃をレイドが箸撃で払いのけ、通路に大の字に倒れ込んだ。

「やった、のか……?」

通路に仰向けに倒れたレイド、その姿にスバルは愕然と、目を見開きながら呟く。

エミリアの追撃を防いだのは最後っ屁で、それ以外のラムの攻撃は無抵抗に食らい続けたのだ。一発一発が骨に響く威力、当然、レイドとてただでは済まない。

エミリアの奮戦はもちろんだが、ラムの戦力を見誤ったのがレイドの敗因か。

『コル・レオニス』の効果で、支障なく動くことができたラム、彼女の実力はレイドが本気を出す前に相手の意識を刈り取れるほどに――、

「――っ! 今なら、あいつをふん縛って戦闘不能にできる! エミリアちゃん! 氷で拘束して……」

一瞬、勝利を確信できずに思考が固まったが、この値千金の状況を見過ごすことはできない。スバルは慌てて、エミリアにレイドの拘束を指示。

そのまま、健闘してくれたラムに声をかけようとして、

「……スバル、いつ、調子が戻ったのよ?」

「え?」

不意に、体を支えてくれていたベアトリスがそう問いかけてくる。

その問いを受け、スバルは自分が両足で立って、エミリアに指示していた事実に遅れて気付く。――呪いのように全身を蝕む苦痛、それが、掻き消えていて。

「――か、ふ」

その意味を察した直後、ぐらりとラムの体が揺らいだ。

こちらに背を向けるラムの上体が揺れ、体を支えられずに膝から崩れる。

「ラム!!」

「くっ!」

手をつくこともできず、まさしく糸の切れた人形のように倒れるラム。その、倒れるラムの体にとっさに飛びつくのは、戦いへ割り込む隙を窺っていたユリウスだ。

ぐったりとしたラムの体を支え、その状態を確認したユリウス、その表情が凍り付く。その原因はラムの顔色と、べったりと彼の服を汚した血の赤だ。

ラムの止血した腹部の傷から、大量の血が流れ出ている。その失血が彼女の生命に重篤な危機をもたらしたのも事実だが、問題はそれだけではない。

最大の問題は、スバルの状態が回復したのと連動している。

つまり――、

「『コル・レオニス』の効果が、切れて……」

「――あー、ようやっと斬ってやれたかよ。オメエ、つまンねえことしてンじゃねえよ。女の後ろに隠れてるだけじゃねえか。稚魚の風上にも置けねえな、オメエ」

「――――」

絶句したスバルの前で、倒れていたレイドが両足を振り下ろして勢いよく立ち上がる。レイドは軽く尻を払い、それから箸を握った腕を肩からぐるぐると回した。

ラムが与えたダメージを一切感じさせない素振り、それにも戦慄するが、それ以上にスバルを動揺させたのは直前の一言だ。

――レイドは、斬ったと言った。いったい、何を。

「つまンねえお遊びに決まってンだろ。大体、腹が破れてやがって、血が流れてやがンのに痛ぇも辛ぇも感じてねえなンて、馬鹿にしてンのか、オメエ」

「う、ぁ……」

「万全でやりてえってンなら受けて立ってやンよ。けど、こいつぁダメだ。オメエ、こいつぁダメだろ。オメエ、見えてねえのか。この女、斬られる前に死ぬとこだ」

レイドの低い声の恫喝に、スバルは視線をユリウスの腕の中のラムへ向ける。その視線を受け、ユリウスが浅く顎を引いた。

「彼の言葉は正しい。ラム女史の傷は只事ではない。今も、瀕死の状態だ」

「――っ」

「出血が止まらないのは、おそらく血の凝固を妨げる薬が使われている。それ以外は、彼女の無茶をしてはならない体調の反動だろう」

ユリウスの分析の一つ一つが、スバルの胸に痛々しい風穴を開けようとする。

失敗、した。――スバルの『コル・レオニス』は、独りよがりの失敗を重ねた。

「――――」

ラムの不調を引き取り、彼女が戦える状況を作り上げる。

それは間違った判断ではなかったが、彼女が負った傷を軽視した――否、ラム自身にそれを軽視させたのが間違いだったのだ。

傷の痛みと辛苦をスバルが引き取ってしまえば、傷の深刻さを意識しようがない。ラム自身が無事のように振る舞えば、エミリアたちも気付きようがなかった。

「『ネクト』のような感覚共有の魔法、それと近いが、それとも違う。もっと、別の力が働いていた。そして、あなたがそれを斬ったと」

「見えねえもンを斬るのは得意なンでな。まぁ、勘でやンのは骨だ。それで、ちっとばかし時間がかかっちまった。盛大に殴ってくれやがって」

レイドが、ラムの拳打を嵐のように浴びた理由をそう嘯く。しかし、起きた出来事に反して、実際の彼へのダメージはほとんど感じられない。

そのカラクリもまた、ユリウスの口から語られる。ユリウスはラムを抱いたまま、そっと視線を下へ――乱戦にひび割れた通路へ向けて、

「ラム女史の攻撃を、全て足裏から床へ逃がしていたのか」

「オレの馴染みの女、トリーシャが得意だった方法でな」

レイドが「かか」と笑い、ゾーリで通路をぺしぺしと踏みしめた。

その二人の話を聞いて、スバルはゾッとしながら通路のひび割れを見る。通路に生まれた多数の傷は、レイドがラムの攻撃を通路へ逃がしていた証拠だった。

如何なる方法でか、打撃の衝撃を余所へ逃がす。――体術の極致、そう言えた。

「……ぁ」

事実、ラムの最初の一発が突き刺さったとき、通路が盛大にひび割れるのをスバルもこの目で見ていた。あれが、その後の連撃にも適用されていたのだ。

それもこれも、全ては――、

「俺と、ラムの繋がりを斬るため……? そもそも、どうやってそれを……」

「言っただろうが。オレは斬りてえもンを斬って、いきてえところにいって、抱きてえ女を抱く。――つまらねえお遊びなンざ、鼻歌まじりに叩っ斬ってやらぁ」

事もなげに言い切るレイド。

見えないものを斬る。あるいは、存在しない糸を斬る。それさえやってのけるのが、『剣聖』と呼ばれる存在の、真の実力というものなのか。

「でも、上で私が強くぶったときは痛がってたのに……!」

「あンときとは条件が違うだろうが、激マブ。オレは今、『試験』よりケンカを楽しみにきてンだよ。ケンカなら、『試験』より本気でやンだろうが。違ぇか、オメエ」

エミリアの訴えを撥ね除け、レイドは鼻を鳴らして箸を構えた。まるで、普通に食事をするような箸の構え、その先端をユリウスへ向け、レイドの青い瞳が爛々と輝く。

「つーわけだ。オレの話はわかンだろ、オメエ。そう、オメエだ。オメエだよ」

「――剣にて、決着をつける。そういう意図だと?」

「おお、そうだ。言っとくが、剣以外なら何でもオレはあちこち逃がすぜ? 殴られようが魔法ぶち込まれようが関係ねえ。オレに勝ちたきゃ……」

トントンと、レイドが自分の胸元に指を立て、心臓を示した。

つまりは、息の根を止めるにはそれしかないと、そうした意思表示だ。

それは取りも直さず、スバルが指示した対戦カードが正しかった証左で――、

「何故、私に拘る?」

「あぁ? オレがオメエに拘る? ざけンな。口先だけの、顔がいい野郎なンざ、オレが一番嫌いな人種じゃねえか。それにどうしてオレが拘ンだ?」

「ならば……」

「――オレに拘る理由があンのはオメエの方だろうが。オレがここで引いて、本気でそれでいいと思ってンのか?」

「――――」

ユリウスの問いかけに、レイドの答えは明快とは言えない。

彼自身、物事の全てを言葉にするのに価値を感じないタイプの人種だ。それ故に、彼の返答は感覚的なものが大部分を占めていて、理解が難しい。

しかし、そうとわかるものには、これ以上ない答えでしかなく――、

「――ちっ、面倒な奴がきちまった」

その答えを咀嚼する前に、レイドが不満げに舌打ちする方が先だった。

そして、その舌打ちの原因が、スバルたちがやってきた通路の奥から姿を――否、白光となって、襲いかかってくる。

「スバル!」

白光がスバルを蒸発させる寸前、割って入ったのはエミリアの氷剣だ。氷の砕かれる音がして、弾かれた光が通路へ突き立つ。――長大な尾針、ほつれるように消える。

それはすなわち、『賢者』の塔の監視人からの洗礼――、

「――シャウラ」

「――――」

通路の奥、赤い複眼が浮かび上がり、複数の足を持つ巨大なサソリが姿を見せる。漆黒の甲殻と凶悪な大鋏、その姿、禍々しくも健在。

ただ、その大サソリの周りに、置き去りにされて戦っていたはずのライの姿がない。大サソリに敗北し、脱落してくれているなら万々歳だが、

「レイドと、シャウラを同時に……」

「す、スバル……」

強敵二体に挟まれ、迂闊な行動ができなくなった状況下、息を呑むスバルをベアトリスが震える声で呼んだ。

そのベアトリスに振り返り、スバルは青ざめた彼女の表情に気付く。その、ベアトリスの表情を彩った恐怖、それに胸を締め付けられる。

どうにか、彼女の心の不安を払ってやりたいと、スバルは言葉を探して、

「ベアトリス、大丈夫だ。とにかく、まだ何も方策は見つかっちゃいないが、大丈夫なんだ。まだ、挽回が……」

「違うかしら、違うのよ! ――くるかしら」

「くる?」

目を見開いて、血相を変えたベアトリスの訴えにスバルは再び大サソリを見る。

脅威という意味なら、レイドはここに、大サソリも向こうにいる。すでに恐ろしい奴らは顔を揃えた状況で、今さら何がくると――、

「――まさか」

「だから、言ったじゃねえか。面倒な奴がきちまったってな」

スバルの脳裏を過った考え、それを肯定するようにレイドが言った。

その口ぶりは本気で、この状況を消化不良に感じているように思えるもので。

――直後、衝撃が足下から激震となって、プレアデス監視塔を揺るがした。

「――――」

誇張抜きに、体の浮かび上がる衝撃を受けてスバルの天地がひっくり返る。

為す術なく吹き飛ばされるスバル。――そのスバルの視界で、ファンタジー世界の住人たちはそれぞれ、驚くべき動きを見せていた。

中空、エミリアが氷で作り出した足場を蹴り、仲間たち――否、スバルへ向けて集中的に放たれた大サソリの尾針を次々と打ち払う。

ユリウスは斜めに傾ぐ世界、壁を走るようにしてレイドへ迫り、騎士剣の刺突で超級の剣士との剣戟を開始する。

そして、ベアトリスは、ラムを強く抱き寄せるスバルへ飛びつくと、

「――ムラク!」

詠唱した瞬間、スバルは衝撃に呑まれたのと別の浮遊感に包まれたと理解する。重力の頸木から解き放たれ、無重力の世界へ投げ込まれたような感覚。

天地がひっくり返ったことさえ、この状況であればさしたる影響ではない。

それぞれが、それぞれにできる最善の行動を――、

「――ぁ」

その、最善の行動を嘲笑うかのように、膨大な量の漆黒の影が塔を丸ごと呑み込んだ。

「――――」

凄まじい圧搾音が響き渡り、ただの石材とは思えない強度を誇る監視塔がひしゃげる。それは本来、質量を持たないはずの影による暴虐。

もはや一つの破壊とは言えず、天災に近い衝撃の訪れは、この世界においても超人と呼ばれるような実力の持ち主たちさえ、あっさりと呑み込み、咀嚼する。

大サソリに抗い、魔法と体術を駆使して善戦していたエミリアも。

騎士剣を振るい、己を奮い立たせて伝説へ挑んでいたユリウスも。

スバルを守らんと、小さな体で魔法を行使してくれたベアトリスも。

それこそ瞬きほどの刹那で、伸び上がってきた影に絡め取られ、見えなくなる。

「――――」

音もなく、余韻もなく、エミリアたちの姿が消失した。

その、彼女たちの身に起こった一瞬の出来事をなんと呼べばいいのか、スバルの内側に適切な言葉が見つからない。

ただ、はっきりと言えることがある。

「――失敗した」

『――愛してる』

現実を受け止めたのと、どす黒い愛を囁かれたのは同時だった。

耳元で囁くような、あるいは口づけをされながら、あるいは全身を抱擁されながら、あるいは魂を愛撫されながら、恐ろしく直接的に届けられた愛の言霊。

すぐにわかった。五つの障害、その内の最大の問題。

対処法など、本当にあるのか疑わしいような、全てを呑み込む影がきたのだ。

「――――」

この影を見るのは三度目、そして出くわすたびにスバルの命は失われている。

それは今回も例外ではなく、この影が現れ、届いた時点で――、

「――オメエ、何眠てえこと考えてンだ、オイ」

瞬間、スバルを取り巻く漆黒の影が、振るわれる一閃に薙ぎ払われた。

「――嘘だろ」

「目ン玉かっぽじってよく見ろ。何が嘘だ、オメエ。オメエ、目ぇ開けてンのかよ。開けてよく見ろ、オメエ。オレの何が嘘だ」

そう言って、無造作に騎士剣を振るい、影を斬り捨てたのはレイドだった。彼はその手に箸ではなく、騎士剣――ユリウスのそれを握り、鼻から息を吐く。

所有者のなくなった剣が、『剣聖』の手の中で所有者以上の力量で扱われるのは何とも皮肉なことだが、そうしたことへの感慨を抱く余裕はない。

何故なら、棒立ちのスバルの胴体がレイドのゾーリに蹴り上げられたから。

「ぐ、ぇ」

狭い通路、浮かんだ体が天井にも、壁にも当たらない。

すでに監視塔の構造は崩壊し、どこが壁で、どこが天井なのかを見失っていた。スバルの周囲にあるのはどこまでも黒い空、どこまでも黒い底、黒い世界。

何もかも、わからなくなる。――否、腕の中で、身じろぎする熱。

「――ぅ」

意識のない、昏倒したラムの熱い体だけが、その存在を主張していた。

「――っ」

奥歯に力を入れ、唇を噛み切って自分に活を入れる。

今、何もかもが黒く塗り潰されようとした瞬間、スバルは状況の理解を諦め、終わりに身を委ねようとしたのではないか。

そんなことは、この瞬間を全力で生きる命の前では許されない。

「――まだ、何か」

こんな状況であろうと、得られるものがあるはずだ。

ここまで二度、スバルはこの漆黒の魔手に呑まれ、命を落とした。だが、二度の終わりはいずれも唐突なことで、こうする時間はなかったはず。

それが得られたのは、今もか細い命を主張するラムの存在があるのと――、

「――はン」

スバルと同じ影の中、獰猛な笑みを浮かべていたレイドの蹴りがあったからだ。

無論、それを感謝はしない。

鳩尾は抉られたように痛むし、そもそも、影が監視塔を呑み込むまでの時間が足りなくなったのも、問答無用の邪魔に入ったレイドのせいなのだ。

だから――、

「お前も、絶対にぶっ倒すぜ。――俺の知ってる、『最優』の騎士が」

「そこはオメエ、最後までちゃンとオメエでかっこつけろよ、稚魚」

眼下、騎士剣を逆手に握ったレイドがスバルへ狙いを定める。距離があるが、レイドからしてみれば数メートルの距離などあってないようなものだろう。

そして、スバルへ敵意を定めたレイドの下へ、漆黒の影が勢いを増して押し寄せる。それさえ、レイドの剣気はものともしない。

自覚はなかったが、このとき、スバルは見たのかもしれない。

かつて、四百年前にあったと言われている、『魔女』と『剣聖』の伝説の一幕を。

しかし、そんなことさえ蔑ろに、理不尽な破壊と暴力、すなわち『死』と呼ばれるものがスバルへ迫りくる――。

「せめて」

一秒でも長く、生きていてほしい。

そんな願いを込めて、スバルは腕の中の、ラムの体を掻き抱いた。

次の瞬間、剣閃とは思えない光の奔流がスバルを呑み込み――、

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

――失われるたび、やり直すたび、求められるたび、流転して。

何度も、繰り返し繰り返し、一度しかないはずの最期を重ね続けて。

ふと、思う。

いつも、最期の瞬間、誰かが傍にいてくれることは幸せなことなのかもしれないと。

最期の瞬間を一人で迎えなかったことが、立ち上がる力を自分に与えてくれるなら。

ただ、同時にこうも思うのだ。

どうしていつも、最期の瞬間に寄り添ってくれるような誰かを、ナツキ・スバルは救い出すことができないのかと。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

砂埃が、届かぬはずの超上空まで立ち上ってくる。

プレアデス監視塔のバルコニー、地上数百メートルの距離から見下ろせる大地の上には魔獣の群れが押し寄せ、監視塔を崩さんと突撃を仕掛けてきている。

それを食い止めてくれているのが、魔獣を操る力で以て奮闘しているメィリィだ。

ユリウスが二層のレイドの下へ。

そして、スバルたちは急ぎ、ライ・バテンカイトスと激突しているはずのエミリアたちのところへ駆け付けなくてはならないが――、

「お師様? 大丈夫ッスか?」

スバルの呼び出しに応じて、長く黒い三つ編みを揺らした彼女が首を傾げる。

その問いかけを放つ彼女の表情に、瞳に、焦りや苛立ちのような感情は感じられない。もちろん、こちらを謀ろうという狡猾な光も窺えなかった。

それが擬態によるものなのか、それとも彼女の本音なのか、定かではないが――、

「お師様、聞いてるッスか? あーしとお師様以外の人たちも、面倒なことに巻き込まれてるっぽいッスけど……あーし、お師様のためにできることあるッスか?」

「ああ、そうだな。……俺のためにできること、か」

「はいッス。あーし、お師様のお願いなら、たとえ火の中水の中、大瀑布にだって元気よくフライアウェーイ! ッス」

元気よく、悪気なく、そう言って両手を突き上げる人物、シャウラ。

その屈託のない笑顔を見据えて、スバルは振り返り、息を詰めた。

戻ってきた。再び、この時間へと戻ってこられた。

やるべきことは変わらない。救いたい相手がいて、倒すべき敵がいて。

だから、スバルが迷わず、自分のやるべきことを確定するために、必要な儀式を。

それは――、

「シャウラ、お前は俺の言うことなら何でも聞くのか?」

「もちのろんッス! お師様のお願いなら何でも聞くッス! お師様のおねだりなら、ちょっと過激なことでも聞いちゃうッスよ。あ、あ、あ、もしかしてお師様、あーしのダイナマイツバディについに我慢の限界ッスか? それで、他の人たちと遠ざけて二人きりになったッスか? もう、このこのこの! お師様ったら――」

「――シャウラ」

くねくねと、自分の頬を手で挟みながらシャウラがスバルの言葉に顔を赤らめる。

だが、スバルはそんな彼女の言葉に取り合わず、真っ直ぐにその顔を見つめた。

そして――、

「――お前、俺が死ねって言ったら、死んでくれるのか?」

第六章70 『一途な星』

――崩壊する塔の中、レイドの斬撃を浴びて、ナツキ・スバルの命は燃え尽きた。

文字通り、燃え尽きたとするのが正しい最期だった。

そもそも、崩れ去る塔の中でどうやって足場を確保していたのだとか、迫りくる影の密度にどう対抗していたのかとか、その後はどうするつもりだったのかとか、色々と言いたいことも確かめたいこともあるが、そうしたことは全部うっちゃる。

ただ確かなことは、レイドの最後の一閃がスバルを呑み込み、蒸発させたこと。

たぶん、痛みはなかった、と思う。

もちろん、それがレイドの慈悲であったなどと微塵も思わないが、『死』の瞬間に痛みも恐怖も伴わなかったことは、短期間で幾度も死んだスバルにとっても珍事だった。

そう、痛みも恐怖もなかった。――ただ、『怒り』だけがあった。

「――俺は」

いったい、何回、無意味な『死』を重ね続けるのだろうかと。

持ち帰れるものが、打開するためのヒントが、それらがある限り、スバルの『死』は無意味ではないし、重ね続ける『死』は無駄にはならない。

それは、とんだ欺瞞だった。

そんなのは、自分の無力さに目をつむりたくないだけの言い訳だ。

無意味に、無力に、無作為に、無情に、無為に、死んだと思いたくないだけ。だから、ただ死んだわけではないのだと、自分の『死』に理由を欲している。

弱くなかったなら、よかった。

もっと、賢かったなら、よかった。

こんな自分じゃなく、強くて、賢くて、たくましかったなら、よかった。

「だけど……」

弱くて、馬鹿で、情けないナツキ・スバルしか、ここにいないから。

そんなスバルを、いつも、誰も、独りにしようとはしてくれなかったから。

それが、今の自分の、傷だらけの覚悟を後押ししてくれているのだから。

「だから、俺は――」

だから、ナツキ・スバルは――。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――お前、俺が死ねって言ったら、死んでくれるのか?」

言い放つ瞬間、躊躇いがなかったわけではなかった。

それは、この問いかけを受けた瞬間、相手がどんな反応をするのか予想ができなかったから。――否、予想だけならできていた。

いくつかのパターンに想像がついて、そのいずれかであろうとは思っていた。

ならば、問いを放つ瞬間に抱いた躊躇いは、いったい、何の躊躇だったのか。

いずれにせよ――、

「――? お師様が死ねって言うんなら死ぬッスよ?」

自分の頬に指を立てて、あっけらかんと答えるシャウラに胸が痛んだ。

まるで刺されるみたいに、ひび割れるぐらいに、痛々しく、胸の奥で悲鳴が上がる。

「――――」

じくじくと、傷んだ錯覚のある胸元を掴み、スバルは深々と息を吐く。

自分から傷付きにいったくせに、一丁前に痛がる自分がひどく滑稽に思えた。そんなスバルの様子を見て、シャウラは不思議そうに目を丸くしている。

悪気なく、今日の夕食の献立を聞かれて答えた、みたいなシャウラの態度。

その彼女の反応は、スバルが予測していたパターンの中で最悪から二番目のものだ。

何のてらいもなく、自分の命の放棄を命じる選択を受け入れるシャウラ。

それが嘘や冗談ではなく、紛れもない彼女の本音であるのだと、その真っ直ぐな瞳を見れば一目でわかってしまう。

いっそ、黒い打算や思惑が垣間見えた方が、スバルの心は救われたかもしれない。

しかし、現実はスバルにそんな逃げ道を用意しなかった。それが慈悲なのか無慈悲なのか、今の段階では区別すらつけられないが――、

「……そう、か」

「お師様、あーしに死んでほしいッスか? うーん、お師様のお願いなら何でも聞いてあげたいんで、あーしとしては全然バッチコーイなんスけど、またずいぶんと変なタイミングで思い切ったッスね? 今、塔の中がわやくちゃしてて……」

「わかってる。わかってる」

掠れたスバルの返事を聞いて、シャウラが頬に指をやったまま首をひねる。その首の動きに合わせ、彼女の長い三つ編み――スコーピオンテールが揺れている。

スコーピオンテール。思えば、これも皮肉なネーミングだった。

さそり座を意味する『シャウラ』同様に、名は体を表すを地でいく彼女だ。それはきっと名前だけでなく、様々な部分に堂々と現れているのだろう。

それはきっと、彼女に隠す意図がないから。

だから――、

「――シャウラ、お前、でかいサソリに化けるのできたりしないか?」

まどろっこしい言い回しをせず、スバルは直球で相手の懐へ切り込んだ。

プレアデス監視塔へと襲来する五つの障害――その内の一つである、漆黒の大サソリの存在。それがシャウラであると、スバルは半ば確信を抱いている。

だが、あくまでそれは、スバルにとっても得体の知れない力である権能、『コル・レオニス』で解した感覚的な答えでしかない。

その感覚的な答えを確信に結び付けようとすれば、直接問い質すのが一番早い。

無論、時間があればもっと異なる方法を選んだかもしれないし、相手の答えが信用ならなければ、やはり別の手段を模索すべきだっただろう。

だが、そのスバルの質問にシャウラは首をひねったまま、

「化ける、ってーとちょっとニュアンス違うッスけど、できるッスよ~。あー、でも、プリティさに欠けるんであんまし好きくないッス。あーしは、かか様とお師様がデザインしてくれたこの姿が一番だと思ってるんで」

脈絡のない質問だったにも拘らず、シャウラはこれまた躊躇なくあっさり答えた。

「――――」

彼女には、何かを隠そうという意図がない。

そうしたシャウラ自身の性質、その証明はこれで為されたと考えていい。同時に、やはり塔内に出現した大サソリ――あの正体が、彼女であった確信が持てた。

『コル・レオニス』の効果が、塔内にいる仲間の位置を知覚したとき、その知覚の一つがあの大サソリを示していたのは、やはりそういうカラクリだったのだ。

「お師様? 大丈夫ッスか? 顔色がよくないッスよ? あーしの膝枕とか、腕枕とか、胸枕とか抱き枕とか、そのあたりでリフレッシュするッスか?」

「……気の抜けること言い出すなよ。大体、そんな余裕はないってお前も言ってたろ」

「塔がわやくちゃしてるのは事実ッスけど、あーし的にはお師様の方が優先順位がぐっと上なんで、それ以外のことは全部ぜーんぶ後回しッスよ。だから、お師様がどさくさに紛れてあーしとくんずほぐれつしたいってんなら大歓迎ッス。燃えるッス」

「燃えない。水かけといてくれ」

「お師様ったらいけずッス~」

唇を尖らせ、拗ねた風な顔つきをするシャウラ。

彼女とのやり取りと、その表情だけ切り取ってしまえば、今のスバルたちが置かれた状況がまるで平和なものだと勘違いしてしまいそうになる。

「――――」

しかし、現実は全くスバルたちに優しくない。平和ともかけ離れている。

こうして、スバルとシャウラが悠長に話している最中にも、エミリアとラムは『暴食』を食い止めるために奔走し、ベアトリスがそこへ援軍に加わっている。ユリウスは二層でレイド=ロイと衝突、エキドナはパトラッシュと合流し、レムと『タイゲタ』へ避難してくれているはずだ。そして、メィリィが魔獣の群れを食い止め――五つの障害に対する、現状の最善手が打たれている。

ただし、それさえも、シャウラとの話し合いのための欺瞞に過ぎない。

何故なら、この周回、ナツキ・スバルは――、

「お、お師様? 本格的になんか変じゃないッスか? そんな凛々しい目で見つめられると、四百年もお預け食らったあーしは我慢ならなくなるッスよ……?」

自分をじっと見つめるスバルの視線に、シャウラが自分の細い体を腕で抱く。それはどことなく、普段通りを装おうとしているが、そうではない。

彼女は実際、スバルの態度に不安を覚えている様子だ。らしくない――否、違う。おそらく、それは彼女の真意なのだろう。

スバルに死ねと言われても動揺しない彼女は、しかし、スバルが変調をきたせば驚くほど脆く心を揺さぶられる。――まるで、無邪気に親を慕う雛鳥だ。

「――――」

シャウラに最初の問いを放ったとき、スバルの中にはいくつかの可能性があった。

その中で最悪の可能性は、スバルから心無い言葉を投げかけられた途端、シャウラが変貌して本性を現し、その衝動のままにスバルを殺害することだった。――ここまでのシャウラの態度が全て演技で、何もかもが偽りだった場合。

ない可能性ではなかった。

質問の前には確信ではなかったが、彼女は大サソリの姿に変貌し、スバルやエキドナ、ベアトリスを殺害した実績がある。あるいは、スバルが生者を見つけられなかった周回の惨劇にも、大サソリとなった彼女が関与していた可能性は高い。

だから、最初の問いかけはスバルにとっても賭けだった。

言って、シャウラがその問いかけを呑み込んだ次の瞬間、スバルの頭部が蒸発していてもおかしくはない、そんな賭け――その賭けには勝った、と言える。

だが、賭けは一度では終わらない。

スバルが無意識に積み重ねた負債、『暴食』とプレアデス監視塔が用意した賭け金、ここまでの負け分を取り戻すには、小さな勝利を重ねるだけでは足りない。

大きく勝つには、大きく賭けなくてはならないのだ。

故に――、

「シャウラ、質問ばっかで悪いんだが、聞きたいことがある。聞いた話だと、このプレアデス監視塔の『試験』にはいくつかルールがあるはずだな?」

「あーしが火照ってるこのタイミングで聞くッスか!? ……そりゃあるッスよ? お師様が便器で頭ぶつける前にも話したッスけど……」

「それ、聞かせてくれ」

スバルの言い分に拗ねた態度を隠さないまま、シャウラは胸の前でそっと指を突き合わせていた。が、彼女はすぐにその突き合わせた指を立て、「えーと」と呟くと、

「一、『試験』を終えずに去ることを禁ず。二、『試験』の決まりに反することを禁ず。三、書庫への不敬を禁ず。四、塔そのものへの破壊行為を禁ず。――ッス」

指を折りながら、シャウラがやけに流暢な声音で説明する。

もちろん、減らず口に限定すれば口の達者な彼女だから、そうした澱みのない説明をしてくれることに違和感はない。ないが、引っ掛かりはした。

それは、彼女がらしくない真面目な口調だったこともそうだし、指折り数える仕草の最後、一番最後の指に手をかけ、そこで止まったこともそうだ。

「――五つ目は?」

「……ないッス。お師様、聞いてなかったッスか? あーし、四つまでしか言ってなかったはずッス。お師様、数も数えられなくなったッスか? それはダメッスよ~。あーしも数字は得意じゃないッスけど、それぐらい数えられるんスから……」

「シャウラ」

「――――」

じりと、音を立ててスバルが一歩、シャウラとの距離を詰めた。

元々、真っ直ぐ正面から向かい合っていた二人だが、その距離が手を伸ばせば互いを掴める距離へ近付く。――この行いは、スバルにとっても賭けではあった。

もちろん、一歩の距離が開いていたから、詰まっていたから、それでどうにかできるほど、彼我の戦力差は浅いものではないが。

「お師様……もしかして、あーしの心を弄んでるッスか? あーしからはともかく、お師様の方からこんな近付いてきて、もし、あーしの口を割らせたいんなら、あれッスよ。このままの勢いで、抱きしめてくれたりとかしたら……」

「それで本当にお前が口を割ってくれるんなら、そうする。役得とも言えるしな。……けど、俺の当てにならない勘を当てにすると、そうじゃない、と思う」

「――――」

「シャウラ、改めて聞くぞ。塔の、五つ目のルールはなんだ?」

シャウラのやんわりとした拒絶を受けながら、スバルは再度、問いかける。

それは物理的な距離ではなく、彼女の心へと踏み込む行いだった。その返礼が、あるいは痛烈なものであったとしても、聞かなくてはならなかった。

そんな覚悟を抱いて、拳を固めたスバルの前で、シャウラは小さく息をつくと、

「――NGッス」

「……NG?」

首を横に振り、シャウラが豊満な自分の胸の前で腕を交差させ、バツ印を作る。

仕草自体は子どもっぽいが、彼女の瞳は真剣どころの話ではなかった。

「――――」

じっと、危うい場所に立つスバルを見つめ、シャウラの瞳を激情が満たす。

その静かで、しかしどこまでも深い激情は、哀願と呼ぶべき、脆く儚いものだった。

嫌々と、彼女は改めて首を横に振り、

「NGッス。やだ、話したくないッス。五つ目のルール? そんなの、どうでもいいじゃないッスか。あーしとお師様の蜜月には、何の関係も……」

「関係ないわけあるかよ。俺も、みんなも、この塔の『試験』に挑んでんだ。『試験』のルールがわからなくて大丈夫なんて楽観はできない。だから、シャウラ」

「……嫌ッス」

「シャウラ!」

聞き分けのない子どものように、シャウラが自分の耳を塞いで顔を背ける。そのシャウラの態度に、スバルは強い口調で言い放った。

「お前はお前で、この塔で役割があるはずだ。塔の星番……? それをずっとやってきたんだろ。本当かどうかわからねぇけど、四百年も! だったら――」

「――四日、ッスよ」

「……あ?」

囁くようにこぼれた声が、スバルの思考を短く止めた。

スバルの問い詰めた年数と、比べ物にならないほど短い時間。よもや、彼女の言説が嘘で、シャウラが監視塔で過ごした時間はずっと短い――なんて、はずがない。

シャウラは瞳に哀願を宿したまま、その唇を震わせ、続ける。

「まだ、お師様たちが塔にきて、たったの四日目ッス。そのうち、最初の二日はお師様が寝込んでたから、あーしとお師様が会って、話して、くっつけたのは二日……四百年も待ったのに! たったの二日ッスよ……」

「シャウラ……」

「一瞬で、一目でいいって、思ってたッス」

目を伏せかけ、シャウラは視線を下へ落とすのをすぐにやめた。まるで、スバルを一瞬でも視界から外すことが惜しいと言わんばかりに。――否、思えばそうだった。

スバルの思い当たる限り、シャウラがスバルと同じ場所に、同じ空間にいるとき、いつだって彼女はスバルを見ていた。それは、スバルの一挙手一投足を監視する、なんて渇いた目的のためではなく、きっと――。

「四百年、塔でずっと、お師様を待ってたッス。一目、見られたらそれで満足と思ってたッス。――でも、そんなの嘘だったッス」

「――――」

「だって、お師様はあーしの全てなんスもん。お師様の全部で、お師様を想う全部であーしができてるッス。四百年の全部使ったって、お師様に伝えきれないッス。それが、たったの二日で……そんなの、嫌ッス」

「……だから、俺には五つ目のルールを話せない?」

痛切な思いが、シャウラの全身を包み込み、彼女という存在を形作っている。

四百年――字面だけで捉えてきたその言葉の重みが、スバルにはようやく、確かな実感となって感じられた気がする。

だって、四百年を語るには、あまりにも彼女の態度が軽々としていたから。

もしかしたら彼女には、辛いとか苦しいとか悲しいとか、そんな感情を抱くための器官が存在しないんじゃないかと。

心まで、精神まで、あのサソリのように無機質なんじゃないかと、思って。

「あーしは、ルールを話したくないッス。NGッス。だって、これを話したら……」

「――――」

「これを話したら、お師様は『試験』のクリア方法に気付くッス。だから、これを話したら、話しちゃったら……あーしと、お師様の時間が、終わっちゃう」

切実に、シャウラが自分の体を抱いて、スバルに己の心情を吐露する。

血を吐くような――否、嗚咽を堪えるような彼女の声色が、スバルの心を突き刺した。

予想、していなかった返答だった。

最初の問いかけと同じように、スバルはこの問いかけに対する答えも、いくつものパターンを考えていた。

シャウラが、プレアデス監視塔のルールを隠している真意。――この、性格の悪い塔のルールを作った人物と共犯なら、彼女にも何らかの思惑があるのではと。

あるいはそうした黒い思惑と無縁に、彼女がルールのことを話さなかったのは単なる気紛れやど忘れで、これといった意味はないかもしれないとも。

だが、真相はどちらでもなかった。

シャウラには、塔のルールを話したくない思惑があった。そしてその思惑は、塔を作った『賢者』とやらの考えと無縁の、もっと切なる願いだった。

――四百年、孤独の時間を過ごし、待ち人との再会を待ち続けていたシャウラ。

それが叶って、嬉しくなって、だから、その時間が少しでも長く続いてほしい。

そんな、ささやかな欲を叶えるためなら――、

「お師様、嘘ついたあーしを、嫌いになるッスか?」

「――――」

「嫌いになって、顔も見たくないって……そう、思うッスか?」

どうして、『死んでくれるか』なんて言われたときより、辛い顔をするのだ。

どうして、命のあるなしの話より、相手に嫌われるかどうかの方を重要視するのだ。

――どうして、四百年も待ってたくせに、そこで全部、ゴールみたいに思うのだ。

「……嫌いになんか、ならないよ」

「――――」

「お前が黙ってたのが理由で、たぶん、すげぇしんどい目に遭ったと思うし、正直、こんな風に追い詰められることもなかったって思うこともある」

押し黙ったシャウラに向け、スバルは正直な自分の胸中を語る。

ここに嘘はない。本音だ。シャウラが意図的に情報を隠していたことで、きっと必要な考察ができず、答えに辿り着けず、結果、スバルは何度も惨い死を迎えた。

スバルだけではない。スバル以外の、エミリアや、ベアトリスたちにも。

あの瞬間の絶望を、失望を、無力感を、忘れることなどできない。

だから、あの瞬間をもたらした、諸悪の根源のような存在がいたとしたら、きっとスバルはその相手のことを許せないだろうと、そう思っていた。

なら、今、こうして目の前にいるシャウラに、同じことを思えるのか。

「――いや」

シャウラを、四百年を孤独に過ごした彼女を、たった二日間を、生まれてきた意味を満たされたと幸せに思ってしまうほど堪能した彼女を、諸悪の根源などと思えない。

諸悪の根源がいるとしたら、それはこの世の理不尽そのもので、そうせざるを得ない状況を作り出した何者かで、シャウラに四百年を命じた『お師様』で――。

「――ぁ」

不意に、シャウラの唇から掠れた吐息が漏れた。

「シャウラ?」

「あ、あ……ああ、あ……」

眼前、シャウラの様子に異変を感じ、スバルが彼女の名前を呼ぶ。しかし、シャウラはスバルの呼びかけに反応せず、掌で自分の顔を覆った。

その喉から、彼女らしからぬ、痛々しく震える声が漏れ聞こえる。

「だ、め……ダメッス……お師様! お師様、お師様お師様お師様お師様……!」

「シャウラ!? シャウラ、どうした!? こんな急に……」

「――誰かが、ルールを破ったッス」

「――――」

駆け寄り、白い肩を揺すろうとしたスバルの腕が逆に捕まえられる。そして、シャウラはその細腕で痛いぐらいにスバルの手首を掴み、言った。

それを言ったシャウラの瞳を、スバルは真っ向から見つめて息を呑む。

――シャウラの、黒目がちの瞳に奇妙な変化が生じている。

彼女の丸い瞳の中、眼球の黒目部分が三つに分裂し、赤々と脈動を始めていた。左右の眼球で同時に起きた変貌、それは黒目が六つに分裂したことを意味する。

――左右三つずつ、六つの複眼。

「お師様……! 今なら、まだ間に合うッス……」

「間に合う?」

「今なら、お師様が命じてくれたら、あーしは……あーしは、あーしを殺せるッス」

眼球を赤く脈打たせるシャウラ、その全身からゆっくりと白い蒸気が上がり始める。白い肌が徐々に赤みを帯び、すぐ傍に立つスバルにまで体温の異常な上昇が感じられた。

原理は不明だ。――だが、シャウラの体は発熱し、変化を起こしている。

おそらくは、大サソリの姿へ変貌するための、初期段階。

「変化したら、間に合わないッス。あーしは、血も涙もないキリングマシーンになって、お師様を殺すッス。だって、こんなにお師様が欲しい……お師様が欲しくて欲しくてたまらない……だから」

「そうなる前に」

「あーしに、死ねって言ってくださいッス。……そうしたら、あーし、お師様のこと」

殺さないで済むから、とはシャウラは続けなかった。

ただ、言葉の代わりに瞳が、震える声が、全身全霊の魂が、同じことを言っていた。

「――――」

ぞわぞわと、スバルの全身にも例えようのない怖気が込み上げてくる。それは、きっとこの世のものとは思えない恐怖を前にした、人間の本能的な反応だ。

ナツキ・スバルという『人間』が、目の前のシャウラという『怪物』を恐れている。

だから、スバルは――、

「シャウラ、五つ目のルールを聞かせてくれ」

「お師様、そんな場合じゃ……」

「それを聞けたら――!」

哀願するシャウラの言葉を、スバルが大きな声で遮った。その剣幕にシャウラの肩が震えた。その震えた肩を掴む。熱い。掌が焼けそうなほど、シャウラの体温はもはや炎のように高まっていた。

だが、手を離さない。今、彼女の心身を焼き焦がすモノを、手放さない。

「それを聞けたら、命じてやる。――安心しろ。お前が化け物になる前に、俺がお前に命じてやる」

「――――」

真っ直ぐ、スバルがそう言ったのを聞いて、シャウラが目を見開いた。

それから彼女は「お師様」とスバルを呼んで、

「お師様の、女たらし」

「身に覚えがねぇ……」

「じゃあ、お師様はシャウラたらしッス。あーし専門の、たらし屋……」

薄く微笑み、シャウラはそっと、自分の肩を掴むスバルの手に己の手を重ねた。

そして――、

「――五、『試験』の破壊を禁ぜず、ッス」

「――――」

「ほら、目の色が変わったッス。――あーしの、好きなお師様に」

そう言って、シャウラがスバルの胸を突き飛ばした。

その思った以上の威力に、スバルは彼女の肩を掴んでおけずに後ろへ下がる。軽く咳き込んで正面を見れば、シャウラは自分の体を抱いて、その場に蹲り――、

「あ、あ……ああ、あああ……っ!」

全身から、血のように赤い蒸気が上がる。蒸気は色を変え、危険な兆候へ。シャウラの瞳も黒目を失い、いつしか瞳は真っ赤なモノへ変わり果てていた。

「お、師様……早く。あーしが、あーしじゃなくなる前に……」

「――――」

「言ってください、ッス……死ねって! お師様が言ってくれたら、あーしは……」

『試験』を終わらせて、スバルたちが塔を出ていくことが嫌だったと哀願した口で、シャウラは自分の命を潰えさせ、スバルたちを――否、スバルを殺さずに済む道を示す。

そんなシャウラの必死の声を聞いて、スバルは息を吐いた。

それから、

「シャウラ」

「お師様……」

「――悪い。さっきのあれは嘘だ」

「え?」

スバルの告げた言葉に、シャウラが目を見開く。そのシャウラの反応を見届けて、スバルは息を止めると、そのまま大きく後ろへ飛んだ。

シャウラに突き飛ばされたのは不幸中の幸いだった。――もし、シャウラに手首を掴まれたままだったら、こんな真似は絶対にできなかっただろう。

――スバルの体が、バルコニーの縁を乗り越え、宙へと飛び出すようなことは。

「お――」

シャウラのとっさの声が、猛烈な砂風に呑まれて一瞬で聞こえなくなる。そのまま、スバルの体は何の頼りもないまま、数百メートル下までノンストップで落ちる。

「――――」

落下して、助かる方策がある、わけではなかった。

助かる方策など用意していない。スバルがしたのは純然たる身投げだ。こんなこと、絶対にやりたくなかったし、言いたくもなかったが――最初から、このつもりだった。

この周回は、この行動が許されるなら、絶対にそうするつもりだった。

何故なら、これで、スバルは自分の選択を迷いなく信じられる。

だって――、

「――お師様!!」

自分も同じようにバルコニーから飛び出して、シャウラがスバルを追ってくる。

その瞳を見開いて、必死に手を伸ばしながら、シャウラが転落するスバルを追って、自分の手で殺そうとするのではなく、その命を救おうと、飛び込んでくる。

――大サソリの正体は、シャウラだった。

――シャウラは意図的に、塔のルールを隠していた。

――シャウラはスバルや仲間たちを何度も殺し、五つの障害として立ちはだかる。

でも――、

「――俺は、お前を助けていいんだな」

「――――」

最後の最後まで、意に沿わない変貌を遂げて、スバルを殺さないために、死ぬような命令を下してくれと哀願した彼女の姿を、忘れない。

性格の悪い話だが、あれを確かめたかった。

誰を助けて、誰を助けなくて、誰を倒して、誰を守って、誰を愛するのか。

それを確かめなくては、これ以上、ナツキ・スバルは進めないと思っていたから。

誰を愛していいのか、もう、迷わない。

「――お師様ぁぁぁぁぁあああ!!」

手を伸ばして、スバルへ追いつこうとするシャウラの姿が空中で変わる。

伸ばされた腕が肥大化し、漆黒の甲殻を纏った大鋏へと変貌。白い肌は見る影もなく、これまたざらついた甲殻に覆われ、内側から弾けるように肉体が膨張する。

一瞬、血肉が爆ぜるような痛々しい肉体の変貌、それがテープを逆回しにするように収束していき、ついには禍々しき異貌――大サソリが完成する。

そして、その大サソリの尾が、素早くスバルへ照準を定めた。

おそらく、あの白い光のような尾針があそこから放たれ、一瞬でスバルの命を焼き尽くすことになるだろう。空中のスバルにそれを躱す術はない。

だが――、

「――シャウラが泣くから、お前には殺されてやらねぇよ」

「――――」

尾針が放たれる――より早く、落下の終点がくる。

猛然と、砂の塔へ押し寄せようとしていた魔獣の群れの上へと、スバルと大サソリの両者が落ちてくる。その結果を、スバルは見届けられない。

数百メートルからの着弾に、ナツキ・スバルという存在は耐えられない。

爆ぜ、命は散る。

しかし、命が散る寸前に、たった一言だけ――、

「――必ず、助けてやる」

――大サソリには伝わらないメッセージを、砂風がさらう時間はわずかにあった。

第六章71 『カウント・ワン』

――最後の言葉が風にさらわれ、ナツキ・スバルの意識は途絶える。

「――――」

皮肉と言えば皮肉な話で、今回の『死』は織り込み済みの『死』だった。

だからなのか、『死』の瞬間の胸中は落ち着いていた――わけではなく、もちろん、『死』に瀕する行いへ自ら飛び込むことへの不安と緊張はあった。

だが、これまでと違い、予期された『死』であったがために、これまで以上にやってくる『死』に対して真摯に向き合えた気がする。

無論、自死を選んだことが、本気でシャウラの救いになったなどとは思わない。

死なせたくないから、死ねと命じてくれ。

ああまでスバルを案じたシャウラが、そのスバルに目の前で身投げされたのだ。その衝撃は計り知れないし、きっと彼女の四百年待ち続けた心を盛大に砕いたはず。

だから、あれはあくまでスバルの自己満足でしかない。おまけに、その結果を自分の目では見届けないという、最悪の自己満足だ。

だが――、

「――だからどうした」

自己満足でしかないと、偽善でしかないと、そう括られたならなんだというのだ。

この世の行いは結局、最終的にどう受け止めるかは自分の秤しか持てない。為されない善行に意味はなく、偽善なんて言葉は究極的には存在しない。

――全員、生存。

シャウラとの対話を経て、スバルが掲げる最終目標はそれと決まった。

――否、正確には、最初から全員の生存が目的ではあった。ただ、そこにシャウラを含めるかどうかの審判が確定し、スバルは全員を愛すると決めた。

誰一人、欠けずにこの砂の塔を取り巻く事変を解決へ導く。

そのためにできることを、何でもやる。

それが――、

「俺が、俺である意味。――そうだろ、『ナツキ・スバル』」

その、決意の一瞬と共に、長い長い、『死』の淵からの目覚めがくる――。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――スバル、さっきの話は確かなのか?」

「ああ、ここまできて疑ってくれんなよ。せっかく、俺がひでぇ目に遭ってまで回収してきた情報だ。これが活かせないと俺が浮かばれねぇ!」

並走する美丈夫の横顔に悪態めいた返答をし、スバルは小さな掌を引いて走る。

四層の通路を駆け抜け、目指すは二層『エレクトラ』――もどかしさを抱えながら、ベアトリスの手を引いて走るスバルを、ユリウスの黄色い瞳が横目にする。

「スバル、顔色が優れない。やはり、本の中の出来事は……」

「しんどかったことは隠してねぇだろ。まさか、大人しく緑部屋に引っ込んでろなんて言い出さねぇだろうな、お前」

「この状況でなければ安静にすることを勧めるところだが、生憎とてんてこ舞いでね。今は使えるものなら砂粒でも使わなくてはならない」

「言うに事欠いて砂粒扱いかよ……」

「少しの風にさらわれかねない。できれば、目の届く位置にいてほしいものだ」

瀟洒な物言いに目を細め、スバルは風にさらわれるとは皮肉な話だと思った。

実際、体感的にはほんの数分前のスバルの『死』は風にさらわれた。ユリウスがスバルの存在を砂粒に例えたのも、あながち間違いでもない。

「でも、砂粒には砂粒の意地がある」

「それに、その砂粒にはベティーがついてるかしら。つまり、最高に可愛いお供付きの砂粒なのよ」

「なんか、お前の靴の中に入ってる砂っぽいな」

「そういう意味じゃないかしら!」

頬を膨らませるベアトリスに笑いかけ、スバルは腕に力を込めてその体を引き寄せる。「ひゃっ」とベアトリスが悲鳴を上げ、軽い体がスバルの胸に収まった。

手を引いて走るのも乙なものだが、今は速度を重視したい。幸い、ベアトリスの体は天使の羽のように軽いので、抱えて走るのも楽勝だ。

「まぁ、天使の羽なんて持ったことないけど」

「そろそろ、雑談は終わりだ。――スバル、しつこいとは思うが」

「ああ、しつこい。安心しろとは口が裂けても言えねぇが……レイドの奴と、『暴食』が接触するのは絶対だ。それを、食い止めにいく」

足を止め、ユリウスが正面の、二層へと続く大階段を見据えて問うてくる。その質問を遮り、スバルは確信があると断言した。

これが嘘であるなどと、絶対にありえない。なにせ、ユリウス当人から聞かされた話なのだ。そして、これの阻止ができれば――、

「レイドの無茶苦茶ぶりに、一つセーブがかけられる」

「……いずれにせよ、この混乱の最中に彼が乱入してくることは避けたい。彼の動向を確かめるだけでも、足を運ぶ価値は十分にある」

大階段に足をかけ、ユリウスがスバルに頷きかけた。それに頷き返して、スバルもベアトリスを抱いたまま、階段の一段目を踏む。

そして――、

「――ぐ」

「スバル、やっぱり具合が悪そうなのよ。本の影響が出ているかしら」

一瞬、ぐらりと頭の揺れたスバルを見て、ベアトリスが不安げに頬に触れてくる。その小さな掌の温かみに安らぎを得ながら、スバルは「大丈夫」と首を振った。

「読書疲れで知恵熱ってんじゃない。それに、ユリウスにも言った通りだ。今は寝込んでる場合じゃない。――みんな、力を合わせるときだ」

「……本当に限界なら、そうなる前に絶対にベティーに話すのよ」

「……ああ、わかってる」

念押しするベアトリスに答えて、スバルは深く、大きな息を吐いた。

体がだるい。頭が重い。嘔吐感が絶え間なく押し寄せ、全身の血管に血の代わりにコールタールでも流し込んだような停滞感がある。

これらは全て、スバルが『コル・レオニス』でラムの不調を引き受けた結果だ。

「――――」

収穫だったのは、『死に戻り』を跨いだあとも、『コル・レオニス』の存在が継続してくれたこと。――『死』の記憶と同様に、権能も持ち越せたことだ。

そのおかげで、現時点での仲間たちの居所は把握できている。みんな、スバルの指示に従ってくれていて、それぞれがそれぞれの応戦を開始し始めていた。

その仲間の反応の中には、バルコニーでメィリィと奮戦するシャウラの存在もある。彼女は確かにそこにいて、スバルたちの――否、スバルのために戦ってくれていた。

「必ず、助けてやる」

短く呟いて、スバルは先を行くユリウスの背中を追った。

塔の一層を飛び越えて、その上の層と通じる大階段は長い。が、それに弱音を吐いている暇も、泣き言を漏らしている余裕もない。

全身が爛れ、骨が割れ砕けようとも、この状況を打破するために必要な対価だ。

そして――、

「――スバル、つくぞ!」

ユリウスの凛とした声が響いて、スバルは息を切らしながら顔を上げた。すると、最上段に到達したユリウスが半身で振り返り、スバルを手招いている。

それに従い、階段を駆け上がった瞬間、開けた空間に出迎えられた。

「――――」

丸く、フロア一杯をぶち抜いた、複数の部屋がある四層とは対極の間取り。その存在価値の全てを、『試験』に割り切った二層『エレクトラ』への到達だ。

そして、スバルとベアトリス、ユリウスの三者が到達した『エレクトラ』では、初代『剣聖』レイドと、『暴食』の大罪司教が――、

「――オイ、オメエ、こンなもンかよ、オメエ。冗談じゃねえぞ、オメエ。オレを楽しませにきたンじゃねえのかよ、オメエ。足りねえよ、オメエ。笑わせンな、オメエ。いや、せめてオレを笑わせろや、オメエ。面白くも何ともねえぞ、オメエ」

その片足を掴まれ、容赦なく床に叩き付けられる少年に、『剣聖』レイド・アストレアが延々と管を巻いている場面に出くわした。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

「――――」

「これは……」

目の前の光景を凝視して、呆然と呟いたのはユリウスだ。しかし、同じものを見るスバルの心境も、彼の呟いたそれと全く変わらない。

ならば、どんな光景を予想していたのかと言われれば難しい話だが――、

「ああン? なンだ、オメエら。オメエらまできやがって、ずいぶンと熱心じゃねえか。それとも、用があンのはオレじゃなく、こっちの奴の方かよ?」

「か、か、か……」

そう言って、レイドが左手で自分の胸のあたりを掻きながら、もう片方の手で足を掴んだ少年――『暴食』の大罪司教を逆さに持ち上げ、胡乱げな目をする。

前述通り、どんな光景を予想していたのかと言われれば難しい話だが、少なくとも、この光景はスバルの想定をはるかにぶっちぎっていた。

「レイドと『暴食』が交渉してた、って聞いてたんだが……」

「交渉……これが、かしら? ベティーには、交戦でもまだ手ぬるい表現に思えるのよ」

「ああ、同感だ。これを話し合いとは呼びづらい」

と、スバルの呟いた言葉に、ベアトリスとユリウスが同意に達する。が、その二人の反応はスバル的には腑に落ちない。

レイドと『暴食』の接触、これを交渉と表現したのは、前回、同じような状況を目撃したはずのユリウスから聞いた話なのだから。

ともあれ――、

「『暴食』が叩きのめされた現場、でいいんだよな?」

誰に対する問いかけというわけではないが、スバルは見たままをそう言葉にする。

二層『エレクトラ』の広い空間には、なるほど、おそらく『暴食』とレイドとが一戦を交えただろう痕跡が各所に残っていた。

それは踏みしめた床のひび割れや、斬撃が走ったと思われる壁の亀裂、その他にも発火した焦げ跡や、なかったはずの土塊が転がっているなど、それこそ『暴食』の本領を発揮した、あらゆる絶技のデパートとばかりの大盤振る舞いだったに違いない。

――その技のデパートが、レイドという天災に木端微塵に砕かれただけで。

「地震、雷、火事、全部レイドかよ……」

「で、どうすンだ、オメエらよ。『試験』やってくかよ? ちったぁマシな面構えになってやがるオメエはやってもいいぜ。けど、稚魚、オメエはダメだな。ああ、ダメだ」

「何故、彼は例外と?」

「見りゃわかンだろ。万全でも遊び相手にならねえ奴が、不全どころか穴ぼこだらけじゃねえか。そンなンでオレの前に立つンじゃねえよ。指一本で殺したくなンだろうが」

「ぎ、ぐぎゃあああ!!」

言いながら、レイドが掴んでいる『暴食』の胴体へ、左手の指を突き込む。容赦なく腹を抉られ、『暴食』の大罪司教が醜い悲鳴を上げた。

『暴食』の外見年齢がどこまであてになるかは不明だが、それでも、外見上は十三、四歳の少年が大人にいたぶられているのは見るに堪えない。

どうやら、その感覚はユリウスも同様だったようで――、

「レイド・アストレア、あなたにも剣士としての矜持はあるだろう。ならば、そんな少年を必要以上に痛めつける理由は……」

「オイ、オメエ、馬鹿言ってンなよ」

「――――」

どうあれ、仕切り直して話がしたいと申し出ようとしたユリウスへ、レイドが声の調子を変えないまま、ただ底冷えするような剣気を宿して言い放った。

レイドは足を掴んだ『暴食』の体を左右に揺すり、

「剣士の矜持だぁ? ご大層にそンなもン広げンなら、それこそ剣士の覚悟ってもンがあンだろうが。死ぬ覚悟もなしにケンカすンのかよ。そンな舐めた態度だってンなら、痛い思いしねえとわからねえのもしょうがねえンじゃねえか。あぁ?」

「――――」

剣士の覚悟と矜持、議論をそうした土俵に乗せられれば、分が悪いのはユリウスだ。先に矜持を掲げた以上、レイドの覚悟の話には一定の説得力がある。

それに、見え方こそ痛々しいが、

「『暴食』が倒れてくれるんなら、結果オーライではある……」

当然だが、『暴食』の大罪司教はスバルの掲げた全員生存の目標に含まれない。

スバルが救いたいのは、あくまでエミリア、ベアトリス、ラム、レム、メィリィ、エキドナ、ユリウス、シャウラ。それにパトラッシュとジャイアンの二頭。

『暴食』とレイドはその対象外だ。その両者が潰し合い――そう呼ぶには一方的すぎる結果だが、そうなる分にはスバルたちに利があるのだ。

しかし――、

「大体、オメエよ。こいつはオメエのお友達かよ。だったら、オメエがそンなカッカすンのもわからねえ話じゃねえが……」

「いいや、断じて否だ。その、『暴食』の大罪司教は私にとっても仇敵であり、最悪、戦いの果てに互いの命を奪い合うことさえあるだろう相手だ」

「へえ? なら、なンでそう怒ってンだ? 獲物が横取りされたからかよ?」

「――あなたが、剣士の誇りを足蹴にするからだ」

真っ直ぐ、ユリウスが『剣聖』――剣の頂に立ったものへ与えられる称号、それを最初に冠した男へと、そう告げる。

その、侮辱ともつかないユリウスの断言を、レイドは眼帯に隠れていない方の青い瞳を細めて黙して聞いている。

そんな『剣聖』の静観に、ユリウスは空気を切り裂くように続けた。

「剣士と、戦士と、騎士と、戦いに身を置く覚悟のあるものならば、その戦いの果てに命を落とすことは承知していよう。しかし、それはあくまで戦いの果て、その死力を尽くした果ての落命であるべきだ。断じて、勝者が敗者の命を弄ぶなどあってはならない」

「……耳が痒くなること言いやがる。そンな話、どこの誰が聞くンだよ」

「青臭い理想と、綺麗事と言われても構いはしない! だが、その理想と、綺麗事を体現するのが、私の信じる騎士の在り方だ」

「――――」

そう堂々と言い切り、ユリウスが己の騎士剣を抜き放った。

聞いた話では、一度は折られた騎士剣――それは愛用していた剣ではないはずで、手に馴染んでいるかも怪しいもの。

だが、最も彼の根幹になくてはならないもの、それは揺るがない。

それはきっと、彼自身の中で、一番深いところでずっと、輝き続けているのだから。

その輝く何かが、ユリウスにレイドの非道を見逃させない。

たとえ、その非道の犠牲になるのが悪逆の徒である大罪司教であっても例外ではない。

「――騎士の在り方、ね」

ふと、その呟きが『エレクトラ』の空気を揺らした。

それは、静かな声音だった。

それは、さしたる感情を孕んだように聞こえなかった。

それは、何気ない退屈な響きの中に紛れたようにしか響かなかった。

――だが、それは、初代『剣聖』レイド・アストレアの噴火の合図だった。

「オイ、オメエ、いつまで寝てやがンだ。とっとと起きろや」

「ぐぎぃッ!」

みしみしと、掴んだ足を握り潰すような握力が手にこもり、足を潰されかける『暴食』の悲鳴が上がる。そうして、レイドは逆さの大罪司教を見下ろし、

「オメエ、面白えこと言ってたな。オレを喰らい尽くして、味わい尽くして、舐り尽くすって言ってたか。――それを、させてやるよ」

「――。ぎひ、かは、あはははッ! なんだそれッ! 何それ何それ、急になんだよッ! どうして急に、そんな気になったのさ、赤毛のお兄さん! それが嫌だからって、僕たちや俺たちをこんだけ振り回してくれたくせにさァ!」

「気が変わったンだよ。――あぁ、そうだそうだ」

痛みに顔を歪めながら、調子を取り戻そうとする『暴食』をレイドが睨む。それから、ふとレイドは何かに気付いたように首を巡らせ、

「どうせすぐ、オメエらみてえなのが邪魔するだろうがよ」

ぐんと、言いながらレイドが斜めに踏み込む。

瞬間、レイドが立っていた場所に紫色の輝く結晶弾が叩き込まれた。甲高い、ガラスの割れるような音を立てて、紫矢そのものと床が砕け散る。

しかし、狙いは外した。そして、狙いをすかしたレイドは一足跳びに、今の攻撃を仕掛けたスバルたちへと距離を詰めて、

「――っ! スバル、マズいかし……」

「おらよ」

ベアトリスの警告も空しく、スバルの胴体へと横殴りに『暴食』が叩き付けられる。

人間を軽々と鈍器のように扱い、止めようのない威力がベアトリスを抱くスバルを容赦なく吹き飛ばした。

「がはっ!」

「躊躇なくてよかったぜ、オメエら。ケンカって意味じゃ、そっちの美人よりよっぽどマシだ。ま、実力が欠片も伴っちゃいねえがな」

レイドの寸評に答える余裕もなく、スバルはベアトリスを抱きかかえて転がるのが精一杯。今の一発で内臓がひっくり返り、ラムの負担と合わせてごっそりと体力と、何なら命の源のようなものまで削られた気がしてならない。

「スバル! ベアトリス様! く……っ」

そうして、吹き飛ぶスバルとベアトリスを案じながら、ユリウスが一瞬で距離を詰めたレイドへ向けて刺突を放つ。しかし、レイドはこれをゾーリを履いた足で上から踏み潰し、軸足を入れ替えてユリウスの胴へ蹴りをぶち込んだ。

それを、ユリウスはとっさに引いた騎士剣の柄で受けたが、衝撃波に貫かれるのまでは防げない。貫通力のある一発に腹を掻き回され、大きく後ろへ下がる。

そして、その間に――、

「そら、試してみろ。オレを食い荒らせるか、このままオレに遊ばれて死ぬか、どっちにしろ、欲しけりゃ動くしかねえ。それが人生ってもンだろ、オメエよ」

「――あァ、ああ、ああッ! わかった、わかったよ、わかったさ、わかったとも、わかったから、わかってるから、わかりたいから、わかっているからこそ! 暴飲ッ! 暴食ッ! アンタの、お望み通りにしてやるさッ! 喰らわずには、いられないッ」

逆さのまま、顔のすぐ前に引き上げられた『暴食』がレイドに吠える。そして、『暴食』は手を伸ばすと、眼帯に覆われたレイドの左目のあたりを掴んだ。

それから大口を開け――、

「――レイド・アストレア」

ぺろりと、何かをめくるように『暴食』がレイドから手を離した。そして、その何もないはずの掌を愛おしげに見やり、舌を当てる。

そのまま、見えない何かを咀嚼し、貪るように啜る音が鳴り響いた。

そうして――、

「――ぁ」

ふっと、変化は一瞬で到来した。

それはまるで幻か何かだったかのように、レイドの姿が瞬く間に消失する。確かにいたはずの空間に長身が消えて、足を掴まれていた『暴食』が床に落ちた。そのまま、器用に手をついて反転、『暴食』は身軽に着地し、自分の掌を見る。

その瞳に去来するのは、贅を尽くした美食が皿の上から消えてしまったような虚無感、寂寥感、失望感に近いもので――、

「あァ、すっごいなァ。あんな味が、こんな味が、どんな味がするのか、たくさんたくさんたっくさん想像してたけど……予想以上だったッ!」

「レイドを、喰った……?」

「あァ、見てたろッ!? 喰ったとも! 喰ってやったとも! いいなァ、最高だなァ、これが想像だにしない味わいッ! 『悪食』なんて言われてる僕たちでも、こいつの豊潤な味わいにはなるほどッ! ライの言い分がわからなくも――」

のけ反り、自分の鋭い犬歯に触れながら、『暴食』がレイドの味わいを賛美する。考えうる限り、人類史上最悪の食レポ――それが、中途で止まった。

邪魔が入ったわけではない。原因は、『暴食』自身にある。

「――んあ? あ、あ、あー、あー、ああああー?」

「い、いったい、今度は何を始めたのよ……」

「いや、あれは……」

自分の喉や腹に手を当てて、発声練習にも似た動きを始めた『暴食』。その様子をベアトリスが不気味がるが、スバルには異変の心当たりがあった。

もしも、今しがたのレイドと『暴食』のやり取り――あれが、ユリウスの語った『交渉』だったとしたら、

「ま、ま、まー、待って、ひへ、ぎひ、ぎひひッ。おかし、おかしいって、おかしいじゃないかッ! だって、こんなの……オメエ、変だろ?」

「――――」

「変なこたねえよ、オメエ。喰うか喰われるか、それが生きるっつーことだろうが」

自分の首を絞めながら、自問自答のような形で言葉を発する『暴食』。その口調が明らかな変化を迎え、次いで、その口調の変化に引きずられるようにして、『暴食』の肉体そのものにも変化がやってくる。

それは月の満ち欠けのように、いつの間にかという表現が適切な変化だった。

誓って、スバルは余所見をしていなかった。

それは胸の内にいるベアトリスも、当然、剣を構えるユリウスも同じだ。しかし、三人の視界に捉えられたまま、『暴食』はその姿を一瞬で消していた。

そして、代わりに『暴食』のいた場所に立つのは――、

「――ああ、やっぱ生の体は違ぇな。肉に血が通ってる感じがしやがる。一丁前に腹も減ってやがるじゃねえか。腹ごしらえぐらいしてからこいよ、マセガキが」

そう言って、瞬く間に選手交代を果たしたのは、ほんの数十秒だけプレアデス監視塔という舞台から退場し、すぐに舞台のど真ん中へ返り咲いた存在、レイドだ。

レイド・アストレアが、『暴食』の大罪司教の肉体を奪い、現世への復活を遂げた。

「これが……」

ユリウスによるところの、レイドと『暴食』の交渉の結果。

もちろん、この場にスバルたちが介在したことで、レイドと『暴食』の会話内容の細部は変わっただろうが、大まかには変わらなかったはずだ。

つまり――、

「何が交渉だよ、気取った言い方しやがって……」

「スバル、言ってる場合じゃないかしら。『暴食』が消えて、レイドが……」

前回、事情を伝えてきたユリウス風の言い回しに悪態をつくスバル。その腕の中でベアトリスがさらなる警戒を呼びかけるが、スバルはその頭を軽く撫でて、それからレイドの方を見やり、

「厳密には、喰った相手を再現する『暴食』の権能を逆手に取って、相手の自我を塗り潰した……だよな?」

「難しいこと言ってンじゃねえよ。ンなどうでもいいこと、オレが知るかよ。で、オレが知りもしねえことでえばってンじゃねえ、稚魚が。稚魚? あー、うン? オメエ……ああ? オメエ、これオメエ、あれだな、オメエ」

「――?」

精神による肉体の乗っ取りだが、その事実とは余所にレイドが顔をしかめる。彼は珍しくうんうんと唸りながら、そっと自分の眼帯に指をかけた。そしてそれをめくり、特に眼帯の必要がない、健在な青い双眸でスバルを見る。

見て、見据えて、見つめて、

「――オメエ、気持ち悪ぃな」

「――――」

「そンなンでよく頭おかしくなンねえな。いや、なってやがンのか? なってやがっからそンなンなのかよ。わからねえな。考えたこともねえ」

何を言っているのかと、スバルは本気でレイドの態度に困惑する。

困惑ついでに、全身を取り巻く悪寒と嘔吐感は臨界点に達するところだ。当然だが、ラムの負担はラムの体がボルテージを上げれば上げるほど、本来跳ね返ってくるはずのバックファイアをスバルへと叩き込んでくる。

今回、スバルはラムと直接顔を合わせていないから、ラムが自分の体が好調である原因がどこにあるのか、それを知る術がない。

そう考えると、前回もラムはスバルに相当配慮してくれていたらしい。

そんな、この場にいないラムの配慮に二回死んだあとで気付くが――、

「なるほどなるほどなるほどだ。オレにゃわからねえが、どうやらこいつらの狙いはオメエみてえじゃねえか。なら、話は早ぇ」

「レイド! あなたの相手は私だ!」

踏み込み、ユリウスが斬撃を放った。だが、それをレイドは懐から抜いた箸で受けようとする。しかし――、

「あン?」

斬撃がレイドの箸の先端を掠め、受け損ねたレイドの右腕から血が噴く。それを見て、レイドは胡乱げに、ユリウスもわずかな驚きに眉を上げた。

そして――

「――――」

それを、確かにこの目で見たことこそが、スバルにとっての収穫だ。

「ちっ」

舌打ちして、レイドが指の間でペン回しのように箸を回すと、それで器用にユリウスの騎士剣を弾いた。そのまま、踏み込み一発でユリウスとの距離を消滅させると、とっさに身を引く彼の胴体へ掌を当て、

「あなたの相手は私だ、っつったか?」

「く――」

「後ろにお姫様抱えてて、オレとやり合えるわきゃねえだろうが!」

ひねりを加えた掌底、それがユリウスの胴体で爆ぜ、血を吐きながら細い長身が後ろへ吹っ飛んだ。床に長い足をついて勢いを殺そうとするが、それでも殺し切れず、ユリウスの体は地面を跳ね、そのまま転がっていく。

そうして、距離の開いたユリウスとの戦闘を一時切り上げ、レイドが振り返り、

「しっ!」

スバルが、そのレイドの横顔目掛けて腰の裏の鞭を放った。しかし、体が覚えているなんて奇跡は起こらず、鞭の先端は見当違いの方向へ飛ぶ。

なくした記憶の影響は、精神だけでなく肉体の反復動作にまで影響している。それを痛感する結果に、スバルは重苦しい息を吐いた。

それと同時に――、

「オメエ、こンなつまらねえ小細工で……」

「――そのつまらない小細工が、お前を葬る最後の一押しなのよ」

呆れを通り越し、いっそ怒りを浮かべたレイド、その背後で大きく手を打つ音がする。見れば、それはスバルから離れ、両手を自由にしたベアトリスだ。

だが、手は離れても確かな繋がりがある。その、スバルとのパスから、ベアトリスはなけなしのMP的なものを抽出――大魔法を行使する。

「――ウル・シャマク」

ベアトリスの詠唱が完成した直後、空間に生じるのは巨大な黒い穴だ。

突如として宙に出現したそれは、どこへ続いていて、どこまで深いのかわからないような原始的な恐怖を伴う存在として顕現し、正面のレイドを呑み込もうとする。

「あれ、は……」

一目で、それが空間に作用する大魔法であるとわかる。

それは知識というより、イメージの問題だ。ベアトリスがスバルにはもったいないレベルの精霊との話は聞いていたが、実際の大魔法の迫力は桁違い。

これがあることも、スバルは知れなかった。これは、収穫だ。

その黒穴がレイドを呑み込み、彼の『剣聖』をどこへ飛ばしてしまうのか――、

「なンだ、空気かこりゃ。空気なンて、どこにでもあるもンでオレが止まるかよ」

「――――」

そんな絶大な魔法を、レイドは箸の一振りでいとも容易く突破する。

文字通り、空気を斬るような気軽さ――否、事実、彼にとってはそうなのだろう。彼はできることを、わざわざ迂遠に自慢するような性質ではない。

空気を斬ったから、そう説明した。それだけだ。

「次元斬りって、俺の知る限り、かなり上位能力のイメージだぞ……」

「オイオイ、カッコいい呼び方すンじゃねえよ、盛り上がンだろ。盛り上げたとこで、オメエがずんばらりってだけじゃぁ、面白くも何ともねえだろうが」

ひゅんと、ベアトリスの魔法を斬ったのと同じ角度で箸が振られ、次の瞬間、スバルの体が胸から腰にかけ、斜めに爆ぜた。

「が、ぁぁぁ!!」

「スバル!!」

「スバル――っ!」

灼熱の感覚を味わい、その場で倒れ込むスバルをベアトリスとユリウスが呼ぶ。その二人の声にスバルは奥歯を噛み、血走った目でレイドを睨んだ。

そして、駆け寄ってこようとする二人には掌を向け、その足を止めさせる。

「だ、いじょう、ぶ……」

首を横に振り、二人に自分の心配はいらないと訴えかける。もちろん、そんな言葉を伝えたところで、それで二人の納得が引き出せるはずもない。

胸の傷は、浅い。――否、浅くはない。浅くはないが、痛くはない。我慢できないほどではないに言い換える。とにかく、辛いが、大丈夫なのだ。二人に辛い、しんどい思いをさせるほどの価値はない。奥歯を噛みしめ、込み上げる血を――嘔吐感? どちらにせよ、それを吐き出すのを堪えろ。前を向け、レイドを睨め、奴をつぶさに観察しろ。

「それで、オレに届くかよ、オメエ」

呆れ顔で、レイドが唇の端から血を流したスバルを見ている。

そのレイドに向けて、スバルは手を突き出し、指を一本立てた。

「――あ、ぁ。届くぜ」

今でも、ここでもない、場所で。届く。

エミリアを、ベアトリスを、ラムを、レムを、メィリィを、エキドナを、ユリウスを、シャウラを、パトラッシュを、ジャイアンを、救ってみせる。

誰一人、欠かすことなく。

『暴食』とレイドは、例外だ。――『ナツキ・スバル』ではない、ナツキ・スバルも。

だから、今この瞬間に――、

「――これが、カウントワンだ」

逆襲のために必要な『死』を積み重ねて、『ナツキ・スバル』を完遂する。

最後の最後、そう宣言したスバルへと、レイドの青い瞳が鈍く閃いた。

※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

■1カウント

・レイドと『暴食』の戦いは止められない。レイドと『暴食』の合一も阻止は困難。

・ユリウスなら、勝機はある。

・――ナツキ・スバルは、勝ち目がない。

第六章72 『■■・■』

――唐突な『死』の訪れに、■がひび割れる音をナツキ・スバルは聞く。

しかし、その避け難い音が響くたびに、思うのだ。

これが確かに、歩みを止めていない証。これが、未来へ近付いている足音。

その歩幅がどれだけ小さかったとしても、進んだ道が些少でも、確かに、歩みを。

「――スバル」

「――――」

意識が覚醒へ導かれた瞬間、すぐ目の前に特徴的な紋様の青い瞳が映り込む。眼前、心配そうにスバルを覗き込んでいるのはベアトリスだ。

ベアトリスの手が、そっとスバルの頬に当てられていて、スバルは息を呑む。

直前に、ベアトリスの泣き顔と別れてきたばかりだ。

その意識の切り替えがうまくいかない。ついさっき、別れなんて上等なものは交わせなかったけれど、確かにスバルの前には彼女がいて。

「……ぁ」

「意識、ちゃんとしてるかしら? 今、起きるまで時間がかかったから不安だったのよ。うっかり記憶を落としてないか確かめた方がいいかしら。手始めに、ベティーのことは……」

「ベア、トリス……」

「――。どうやら、ちゃんと覚えてるらしいのよ。いい子いい子かしら」

そう言って、ベアトリスが頬に当てていた手をスバルの頭へ伸ばしてくる。そのまま小さな掌に髪を撫でられていると、ゆっくり、意識が現実へ追いついた。

「カウント、ワンか……」

「――?」

呟く声に、ベアトリスは首を傾げる。

しかし、その意味は彼女にはわからないし、説明するつもりもない。説明しても理解してもらえないだろうし、理解させるつもりもなかった。

彼女は優しい。ベアトリスは、とても優しい。

だから、スバルがいったい何を試みているのか。そんな話を知ったら、絶対に反対するに決まっている。――それは、ベアトリスに限らない話で。

「それで、どうだったのよ? 本を読んだ目的は果たせたのかしら?」

「――ああ、それなんだが」

そう、ベアトリスが膝の上に本を乗せたままのスバルに問いかける。

直前の直前――スバルの体感を無視した直前では、スバルは『レイド・アストレア』の攻略法を求め、彼の『死者の書』へ挑んだところだったのだ。

それが、複雑な理由で頓挫し、挙句にずいぶん前に感じられるほどに様々な事態が合間に挟まっているが――それは、あくまでスバルだけの話。

やるべきことも、しなくてはならないことも、決まっている。

だから――、

「ベアトリス、少し慌ただしいことになるぞ。――力、貸してくれ」

「――。そんなの、当然なのよ。ベティーは、スバルのパートナーかしら」

何の説明もなしに、そう切り出すスバルに協力を約束してくれるベアトリス。

彼女の存在が、本当の本当に、■強かった。

△▼△▼△▼△

――衝撃が、石造りの塔の通路を縦横無尽に飛び跳ねていく。

「ハハッ! ハハハッ! やるね、やるなぁ、やるじゃん、やるかも、やってくれる、やってくれたよ、やってくれるからこそッ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

「戯れている暇があるの? ずいぶんと余裕なことね」

通路の壁を、天井を足場に、次から次へと変幻自在の戦法を駆使する『暴食』の大罪司教、ライ・バテンカイトス。

それに高速で追い縋るのは、肉体の不調を余所へやって機敏に動くラムだ。

細い彼女の体が舞い踊り、打撃の音が容赦なく『暴食』の体を吹き飛ばす。そこへ、待ってましたとばかりに襲いかかるのが――、

「――ギュンってして、ドン!」

その両手に巨大な氷槌を構え、ホームランバッターのように大振りするエミリアだ。

人の胴体ほどもある氷槌の打撃部分が、渾身の一撃となってライの背中を強烈に打ち据える。轟音と共に、ゴム毬のように矮躯が弾み飛んだ。

――否、弾みすぎだ。

とっさに氷槌を蹴り、自ら前に飛んで衝撃を殺している。

「あはっははァ! やるやるやるぅ! でもでも、そんなんじゃダーメ! そんなんじゃ負けてやれないなァ!」

「――っ、すばしっこい!」

曲芸じみた体技を披露する『暴食』に、エミリアが可愛らしい顔を悔しげにする。

古今東西、あらゆる武芸の達人を咀嚼し、文字通り『武芸百般』となった実力を発揮する『暴食』の大罪司教、ライの戦闘力――あるいは、対応力と呼ぶべきか。それは卓越しており、瞬間瞬間で最適かつ最高峰の技を繰り出す精度が段違いだ。

「『記憶』が、積み上げてきた努力とか鍛錬とか、それを全部包括してるなら……」

憎たらしいことだが、おそらく『暴食』には「引き出そう」という意識すら必要ない。気付いたら体が動いていた、をあらゆる場面で引き出すのがその権能だ。

――奪われる『記憶』は、肉体の経験値さえも包括している。

それは、スバルが自分の持ち歩く鞭の使い方を全く思い出せないことからも明らかだ。どうやら、記憶をなくす前のスバルのメインウエポンだったらしき鞭だが、正しい握り方から振り方まで、一切合切が思い出せない。

そもそも、何故、鞭なんかをメインウエポンに選んでいるのか。

どうせ、剣や槍を扱うより、小器用に立ち回る方が役立てる、なんて浅い発想だろう。それ自体に異論はないが――、

「記憶をなくした場合の対策も、考えておいてほしかったな……!」

無論、それが無茶な要求である自覚はあるが、スバルはあえて悪態をつく。そうすることで、消えた『記憶』への女々しいやっかみを一瞬だけでも忘れられた。

消えた『記憶』=『ナツキ・スバル』へのやっかみを。

「スバル、もう一度聞くのよ。本当に平気かしら?」

そんなスバルの横顔に、傍らのベアトリスが声をかけてくる。

膝をつくスバルの体を支えてくれている彼女の問いかけに、スバルは「ああ」と頷いて、

「今、戦いは拮抗、してる……それを、崩せれば、勝機は……」

「――でも、今のスバルの傍を離れるのは抵抗があるのよ」

「けど、必要なことなんだ。わかるだろ、ベアトリス……」

「それは――」

「力を、貸してくれ。改めて……頼む」

絶え間ない悪寒に声が震えないよう、細心の注意を払いながらスバルはベアトリスを卑怯な物言いで脅迫した。

そのスバルの残酷な頼み事に、ベアトリスが難しい顔で瞳を伏せる。

力を貸してくれ、とは『タイゲタ』の書庫でも話した通りのことだ。

しかし、あのときはまだ、スバルは『コル・レオニス』を発動する前だったし、ベアトリスもここまでプレアデス監視塔の状況が悪化しているとは知らなかった。

だからこれは、ベアトリスの優しさにつけ込む、スバルの極悪な手法だ。

「――――」

難しい顔で、スバルの提案を吟味するベアトリス。

スバルの急激な体調の悪化と、それに伴うラムの戦力回復――そこに関連性があることは明白で、ラムもベアトリスも、エミリアでさえスバルのやせ我慢に気付いている。

それでも、それをやめろと口に出せないのは、みんながわかっているからだ。

――スバルが辛苦を背負うことで、戦線がかろうじて維持されていることを。

仮の話、スバルがここで自分可愛さに『コル・レオニス』を解けば、最初にラムが瓦解し、エミリアが『暴食』に『名前』を喰われ、連携が崩壊して敗北する。

そして『暴食』が自由になれば、塔内のパワーバランスは取り返しのつかない状況へ陥り、結局は全員が敗死、ゲームオーバーだ。

「……結局、俺が背負うのが一番、ベターな選択肢なんだ」

大して役に立たない鞭さえ使えないスバルが、ラムの負担を引き受けることで戦力を飛躍的に上昇させられる。これは、塔を攻略する上で外せない要件だ。

ただし、『コル・レオニス』の効力にも、単純に解決のできない罠があった。

それは、意識的にか無意識にか、自分の戦闘力をセーブするラムだ。

「――――」

圧倒的なセンスと常識外れな体術で、ラムは完全に場を支配している。

にも拘らず押し切れないのは、ラムがあと一歩、自分の戦闘力にリミッターをかけているから。――そこには、スバルの状態を慮ったが故の躊躇いがある。

ラムが本気で動けば、その分だけスバルの方へと莫大な負荷がかかる。

それにスバルは耐え切れない。その可能性が、ラムに手を、足を止めさせるのだ。

実際、ユリウスとレイドの下へ向かった周回ではそれに近いことが起こった。

『コル・レオニス』でラムの不調を引き受けること自体は、彼女と合流しなくても可能であることは確認済み――ただし、自分の好調とスバルの状態との連動性をラムが知らない状況下だと、ラムは自分の戦闘力をセーブしない。

結果、惜しげもないバックファイアがスバルを焼いて、共倒れになりかねない。

それはラムの無敵時間の終了も意味する、最悪の共倒れだ。

無酸素状態で長く全力疾走は続けられない。それだけの話だった。

故に、『コル・レオニス』によるラムの戦闘力の引き上げは、結果的に実力をセーブしたラムの判断で正解。細く長くもたせる、が最善手なのだ。

だが、そのラムの戦力の向上になら、『暴食』は強奪した無窮の武錬でかろうじて追随してくる。突き放し切れない部分をエミリアが補っているが、それでもなお、二対一でも『暴食』は食らいつき、異常な生存力の高さで離れない。

だから、そこへ――、

「――ミーニャ!!」

通路を埋め尽くすほどに展開した、紫色の結晶が一挙に放たれる。

小さな腕を振り上げ、下ろしたベアトリスの詠唱に呼応して、陰魔法と呼ばれる魔法の集中攻撃が、凄まじい勢いでこちらへ背を向けたライへ襲いかかった。

直後、紫色の光の乱舞が矮躯を呑み込み、ガラスの砕け散る音が通路を包む。

「――――」

舞い散る紫片が飛び交う中、攻撃範囲から飛び出してくるのはエミリアとラムの二人だ。とっさの判断で射線を逃れ、機敏に回避する二人はさすがの運動力。

一方、同じ条件ではあったが、背中を向けていた分だけ反応が遅れたライは、エミリアたちのように易々と回避とはいかない。

当たった対象を結晶化し、脆く儚い存在と化して砕く恐るべき魔法だ。

掠めるだけでも致命傷になり得るミーニャ、それが狭い範囲でこれだけ乱発されれば、いかに敵が超越者と言えども無傷で切り抜けることは難しい。

紫矢の巻き起こした光の乱舞がやむと、そこには甚大なダメージを受けた『暴食』の姿が――ない。

「――っ!?」

「え!? どこに……」

驚愕にベアトリスが息を呑み、エミリアが顔を強張らせて視線を巡らせる。

そんな混乱の中、最速で状況を把握したのはやはりラムだった。

彼女は自分の右目に手を当て、左目だけを開きながら振り返る。『コル・レオニス』でラムとパスのようなものが繋がるスバルにはわかった。

ラムが、何らかの術式を発動している。その特殊な力を使って、彼女は消えた『暴食』がどこへいったのかを特定した。

その居所は――、

「バルス!」

「――――」

ラムが薄紅の瞳を開いて叫んだ。

瞬間、スバルは彼女の視線から、危険な気配が真後ろに出現したと理解する。それはスバルを――否、ベアトリスの背中を狙っていた。

今のミーニャによる横槍、それが戦いを汚したとでもいうつもりか。

いずれであっても、起きる出来事に大差はない。

「――さすがに、今のは連続されるとしんどいからサ」

嘲笑めいた言葉と共に、腕に括り付けられた短剣が閃く。

それは、紫矢の集中攻撃から、空間を跳躍することで逃れたライの一撃だ。『拳王』と並んで多用される、『跳躍者』なる人物の異能――言うなれば、短距離ワープ。

見たところ、距離にはある程度の限度があるようだが、それでも空間を飛び越える異能と包囲攻撃の相性は最悪だ。

奇襲の類も意味を持たず、結局、真っ向勝負で下す以外には――、

「ベアトリス」

「スバ――」

思案と行動、■と体の反応は必ずしも一致しない。

小さな体を反射的に突き飛ばした直後、鋭い感触に深々と胸を抉られる。

「か」

爪でカサブタを引っ掻く、それを何千倍にも強めたような痛みと衝撃。それを胸で受けたことを即座に後悔した。後悔したが、他にちょうどいい盾がなかった。

とっさの判断に迷い、ベアトリスが斬り倒されていたらと思うと想像しただけでゾッとする。それと比べたら、肉の盾になるぐらい、なんだ。痛い、痛いが、痛いぐらいなら、体の傷なら、一瞬だ。一瞬でもないか。でも、■が傷付くよりずっといい。

■が死ぬより、ずっといい。

「スバル――っ!!」

高い声が塔内に響いて、それが誰の呼びかけなのか振り返ろうとして、膝が折れる。

驚くぐらいあっさり、手足から力が抜けた。情けないくらい脆く、頭を支えていられない。赤ん坊でも首が据わるというのに、いい歳した男が何をしている。

そんな軽口も浮かんでこないくらい、深く暗い、穴の底へ意識が落ちる。

鮮烈な痛みと喪失感が、脳を焼く。

「――ぎ」

絶叫を上げかけ、飛び出そうとした声を歯噛みして堪える。

上げて楽になるものではない。上げなくて楽になるものでもない。だが、スバルがここで絶叫すれば、その叫びに■を砕かれる人が必ずいる。

それを許容することはできない。できないから、黙って死ね。ナツキ・スバル。

「――いいね、お兄さん。そうやって次にいくのかなァ?」

絶叫を堪えたまま、力なく崩れるスバルを見下ろす声がする。

絶叫は堪えた。でも、この嘲弄する声には我慢がならない。

「――――」

手足一本動かせない状況で、震える腕に力を込めて、指を動かす。

そして、中指一本立てて、唇が動いた。

「死ね、馬鹿」

それきり、意識が途絶え――。

△▼△▼△▼△

■2カウント

・エミリアとラムに協力し、ライ・バテンカイトスとの早期決着狙い、失敗。

・『コル・レオニス』で、ラムの負担を引き受けるのはタイミングが肝要。

・――ベアトリスの奇襲は、『暴食』には相性が悪い。

△▼△▼△▼△

――猛然と、立ち込める砂煙が視界を覆い尽くさんとしている。

「――――ッッ」

激しく揺れる感覚に全身振り回されながら、スバルは振り落とされまいと必死になってしがみつく。その正面、左右にお下げ髪が揺れていた。

「――頑張ってえ、砂蚯蚓ちゃん!」

メィリィの呼びかけに従い、砂蚯蚓が巨体を震わせて強烈なぶちかましを打ち込む。その衝撃波に呑まれ、押し寄せる魔獣の群れの隊列に大穴が開いた。

しかし、その大穴もほんの数秒で埋まり、飛び散った同類の屍を踏みつけ、魔獣の群れは足を止めずに突っ込んでくる。――戦況は、悪い。

「――――」

眼下――否、四方八方から押し寄せてくる無数の魔獣。それを相手に、メィリィは決して十分とは言えない準備を駆使し、よく奮戦してくれていた。

正直、魔獣を操る彼女の努力は傍目からはわかりにくい。魔獣に指示を飛ばし、それに従って凶悪な怪物が暴れ回る。それだけに見えても、何の不思議もなかった。

だが――、

「はぁ、はぁっ」

額に汗を浮かべ、時折、苦しげな息を吐く少女の姿を見れば、それがあまりにも見る目のない認識であることは一目でわかるだろう。

「はぁ、ふぅ……もお、お兄さんったら人使い荒いんだからあ……」

顎を伝った汗を手の甲で拭い、憎まれ口を叩くメィリィの瞳は血走っている。

スバルの『コル・レオニス』のように、魔獣と直接リンクを繋ぐわけではないが、凶悪な魔獣の本能を意のままに歪めるには、多大な精神力を必要とする。

一度メィリィの本を読み、文字通り、彼女の半生を体験したスバルにはその代償の重みがしかとわかっている。だからこそ、伝わってくるのだ。

――メィリィが本気で、スバルたちと塔を攻略しようと思ってくれていることが。

「――っ」

「ちょっとお、お兄さん!? ちゃんと掴まってないと死んじゃうんだからあ!」

「わ、わかってる……!」

感慨深く思った直後、横揺れに体が持っていかれそうになって姿勢が崩れる。とっさに踏みとどまったが、そこをメィリィに見つかってどやされた。

その言葉に応じながら、スバルは落ち着いて、巨体の突起にしがみつく。

――現在、スバルとメィリィの姿は砂蚯蚓の巨体、その上にあった。

「近くで直接指示を飛ばせば、仕込んでない子の中にも言うことを聞いてくれる子がいるはずだもんねえ」

「だからって、魔獣ライドする機会があるとは、思わなかった……!」

びゅんびゅんと、轟然と風を切る魔獣の速度に体を揺すぶられながら、スバルは器用に体重移動し、魔獣の背中を乗りこなすメィリィに驚嘆する。

今回も、メィリィの魔獣の群れとの戦いは四層のバルコニーからスタートした。

操る準備を整えていた複数の砂蚯蚓を使い、監視塔へ押し寄せる魔獣の群れへと一撃を加え、魔獣が塔へ侵入してくるのを防ぐのがメィリィの役割だ。

しかし、彼女は早々にバルコニーからの攻撃を諦め、眼下の砂蚯蚓の背へ飛び乗ると、そのまま一気に高波のような勢いの魔獣へと真っ向から突っ込んだ。

そのメィリィの豪快な戦法に、囮としてお供したのが今のスバルの状態だ。

「ホント、魔獣ちゃんたちってお兄さんのこと好きよねえ」

「全く嬉しくないことにな……っ」

迫りくる魔獣の興奮した様子を見て、砂蚯蚓にひき潰させるメィリィが嘆息。彼女の意見に同意しつつ、スバルは周囲、追い縋る魔獣の群れに目を細めた。

原理は不明だが、結果としてわかっていたこと。

監視塔を取り囲んでいた魔獣たちは、厳密には監視塔を狙っていたのではなく、その中にいたスバルを狙って集まっていた。――それは、この状況からも明らかだ。

メィリィとスバルを乗せた砂蚯蚓へと、魔獣の矛先は一極集中している。

塔へ向かっていたはずの足を反転させ、牙を剥き出しにしながらこちらへ追い縋ってくるのは、単に魔獣の本能が生き物を殺さんとしているばかりではあるまい。

「半信半疑、ってわけじゃなかったが……」

自分が魔獣を引き寄せる体質であるなどと、実感として昨日までは現代日本にいたスバルには確かめようもない特性だ。昔、近所で飼われていた犬のポッキーに噛まれたことがあったが、あれはこの体質の初期症状だったのだろうか。

今となってはそれもわからない。わからないが――、

「五つの障害の大部分が、俺の責任ってのは間違いなさそうだ」

監視塔へ迫る魔獣の群れと、スバルの『記憶』から監視塔へのアプローチを試みる『暴食』たちと、その『暴食』を取り込んで実体を得るレイドと、変貌することでスバルを狙い始めるシャウラと、そして監視塔ごと全てを呑み込む漆黒の影――。

こうして振り返ると、本当に全ての発生原因がスバルにあるように思われてならない。無論、不可抗力が多分を占めてはいるが。

「気が、滅入るぜ……」

ただ、もしも魔獣とシャウラ、それと漆黒の影を監視塔の外へ誘き出すことができれば、ひょっとすると事態を打開する手立てが生まれるかもしれない。

「……『試験』の破壊を禁ぜず、か」

――プレアデス監視塔の攻略における、五つ目のルール。

それを隠していたシャウラの■情を思うと胸が痛いが、彼女の口からようやく得られたそのルールは、このプレアデス監視塔という場所の新たな見方を与えた。

そのルールを知ることで、革新的に目の前が開けたわけではない。

だが、考えもしなかった尺度を与えられたことで、世界の見え方は格段に広がる。ないものは得られない。それが、世界の基本法則だ。

『試験』を終えずに去ること、『試験』の決まり事に反すること、それを禁じる。

にも拘らず、『試験』を破壊することそのものは禁じない。それが、何を意味する。

何を――。

「メィ――」

リィ、と続けようとして、スバルは見た。

砂蚯蚓の進路を変えて、監視塔の周囲に使える地形がないか、それを確かめようとしたところで、その狙いは頓挫する。

何故なら、頭上から襲いくる白光が、砂蚯蚓の太い胴を消し飛ばしたからだ。

「――――ッッッ」

十メートル近い胴回りの八割以上が吹き飛び、砂蚯蚓が断末魔の悲鳴を上げる。

低く轟く魔獣の咆哮は雷鳴にも似ていて、すぐ間近でそれを浴びたスバルは鼓膜から侵入する炸裂に視界が白く染まるのを感じた。

それに加え、胴体を繋ぎ留められない前部と後部で体が千切れ、青紫の体液をばらまく魔獣の上で、スバルとメィリィの体が投げ出される。

「――ぁ」

「ぐ――っ!」

とっさに手を伸ばして、メィリィの細い体を腕の中へ引き寄せた。

肩を叩いて呼びかけようとしていたことの副産物だ。反射的に身を乗り出したことで、飛んでいく彼女の体を捕まえることができた。

しかし、それは抜本的な解決にはなっていない。砂蚯蚓の巨躯は激しくもんどりうっていて、吹っ飛ばされたのはメィリィだけでなく、スバルもだからだ。

引き寄せられても、結局は砂の上に、魔獣に取り囲まれる場所へ落ちる。

そうなれば、立て直しを図る間に二人は魔獣の餌にされかねない。

何より――、

「――シャウラ」

塔の外壁に張り付いて、スバルたちへ尾針を向ける大サソリ――シャウラの巨体が、宵闇に紛れて出現しているのが遠目に見えた。

時間切れだ。

塔内で、誰かがルールを破った。それに従い、シャウラは自我を失って大サソリへと変化し、彼女の自己申告通り、スバルを狙って攻撃を仕掛けてきた。

その一発が、砂蚯蚓の胴体を消し飛ばし、スバルとメィリィを中空へ――、

「お兄さ――っ」

腕の中、悲鳴のような声を上げるメィリィを強く抱いて、スバルは大サソリ――否、シャウラから目を離さない。赤い複眼が夜の気配の中で明確な光を放ち、方向性のわからない視界が、スバルを見ているとはっきりわかる。

尾針に光が集まり、今再び、白光が放たれんとする。

あれを喰らえば蒸発する。しかし、あれを喰らうわけにはいかない。

シャウラに殺されてやるのは、この■がどれだけ摩耗したとしても、避けたい。そこを曲げてしまったら、今度こそ、人でなしになる。

だが、中空では防ぐ手立てが。

「――――ッッ」

白光が放たれる瞬間、身悶えする砂蚯蚓が射線上に割り込んだ。それは砂蚯蚓の単なる本能的な動きだったのか、あるいはメィリィが何か働きかけたのかはわからない。

しかし、シャウラの放った一発が、スバルを蒸発させる瞬間だけは避けられた。

そして――、

「が、ぐ」

頭から、猛烈な勢いで砂の上にスバルたちが落ちる。

スバルの腕の中、きつく抱かれていたメィリィはおそらく無事だ。だが、スバルの方は無事とはいかなかった。受け身も取れず、膨大な砂に頭を取られたのだ。

鈍い音が響いて、砕けてはならない骨の継ぎ目が砕ける。

瞬間、視界が真っ暗になった。

切れてはならない、神経が、千切れた。

音も、感触も、目に見えるものだけでなく、何もかもが遠くなる。

ただ、鼻だけが生きていた。不思議なモノだった。鼻なんて、普段は大して働きを期待していないくせに。何故か、最後の最後まで、匂いを感じる。

甘い、匂い。

腕の中の、さっきまで、そこにあった、匂い。

たぶん、死んでいない、匂いが、にお――。

△▼△▼△▼△

■7カウント

・メィリィと塔の外へ脱出、魔獣を誘き出す効果あり。

・魔獣の狙いはスバル。影や大サソリの狙いも、おそらく同一。

・――ナツキ・スバル単体では、メィリィを守れない。

△▼△▼△▼△

「ぐ――」

込み上げる嘔吐感を堪え、スバルは再び前を見る。

強く足を踏みしめ、体がぐらつくのを何とか押さえ込む。苦しみが楽になったわけではない。ただ、苦しいのを誤魔化す方法ばかり達者になって。

「うりゃ! うりゃうりゃ! えいやぁ!」

胃液の苦みを噛みしめるスバル、その正面、二刀の氷剣を猛然と振りかざすのはエミリアだ。そのエミリアの攻撃を悠然と回避し、嫌らしく嗤うのはもはや見飽きた仇敵、ライ・バテンカイトスである。

「――――」

『死に戻り』のリスタート地点、それが『死者の書』の中でルイ・アルネブと対峙した直後に設定されている以上、エミリアと『暴食』の遭遇は避けられない。

スバルが『死に戻り』した時点で、エミリアと『暴食』の戦いは始まっているのだ。

状況を変えるシンプルな方法は、それこそマッチメイクを弄ること。だが、『死に戻り』してすぐに『コル・レオニス』を発動し、塔内にいる仲間たちの居場所を特定できるスバルには、この戦いが避けられないことがおのずとわかった。

故に、エミリアとラムのタッグがライと戦う状況は変えられない。

――だが、それならそれで、やりようはあるのだ。

「――ユリウス!」

「わかっている!」

スバルの鋭い呼びかけに、応じて踏み込む影がある。

それは騎士剣を構え、凍てつく通路を颯爽と駆け抜けるユリウスだ。薄紫の髪を冷たい風になびかせ、低い姿勢から刺突が放たれる。

「ははッ! 名無しの騎士様までご参戦だァ!」

「生憎と、それが挑発のつもりなら手が緩い。スバルの方がよほど痛いところを突く」

「それ、仲間同士なのにどうなわけ?」

迫る刺突を短剣で打ち払い、至近でユリウスとライが言葉を交わす。その間も両者の間では剣戟が繰り広げられ、会話内容と裏腹に絶技の交換が行われていた。

――この場にユリウスを同行すること、それは一種の賭けだった。

五つの障害が監視塔を襲った一番最初、その周回でもユリウスはスバルに同行した。あのときは、エミリアが『名前』を喰われたこともあり、彼女の戦い方がわからなかったユリウスとの連携は拙く、『暴食』を追い詰めるには足らなかった。

しかし――、

「今回は、誰もエミリアちゃんを忘れてねぇ。その上……」

エミリアとユリウスとの連携が、着実にライを劣勢へ追い込んでいく。そこへ、スバルの視線の先、天井を蹴って急降下する人影――ラムが苛烈に切り込んだ。

当然、『コル・レオニス』で彼女を戦力化することはスバルの最大の役目だ。それは今回も実行され、ラムは尋常でない身のこなしでライの懐へと迫る。

そして、

「いい加減、とっとと退場なさい」

「ぐ、ぇ」

冷たい言葉、それと同等の切れ味で拳がライの脇腹へ叩き込まれる。肋骨の隙間から内臓へ直接ダメージを通すような拳撃に、ライの唇から明確な苦鳴が漏れた。

そのまま、折れる体をラムの膝が迎え撃ち、のけ反る相手の髪の毛を掴んで後頭部から地面に叩き落とす。その上、顔面に踵を連続して振り下ろした。

容赦のない威力、連続攻撃、それがライを確実に敗北へ追いやる。

だがしかし、ライもやられっ放しではない。ラムが顔面へ振り下ろす踵、その細い足首を横から掴むと、血塗れの凶相で下からラムを睨みつける。

「姉様、つーかまーえ……」

「そいやっ!!」

「――げげふッ!?」

凶相に笑みを浮かべようとしたライ、その体が真横からの一撃――生み出した氷槌をゴルフスイングのように振り切ったエミリアに吹き飛ばされる。

ラムの足を掴み、悪さを働こうとしたところへのナイスセーブ。もんどりうって転がっていくライに、エミリアが凛々しく眉を立てて胸を張る。

「……相変わらず、容赦のないことかしら」

すぐ傍ら、スバルを支えてくれているベアトリスが、そのエミリアの所業に感心と呆れ、それから少し誇らしげに呟くのが聞こえる。

実際、それはスバルも同意見。可愛い顔して、本当に頼りになる。

「エミリア様、助かりました」

「ううん、いいの。ラムがビシバシ動いてくれるから捕まえられたんだもの。ユリウスも、きてくれてありがとうね」

「いえ、『暴食』は私にとっても因縁深い相手です。むしろ、エミリア様やラム女史を危険な目に遭わせて申し訳ありません。本来、下がっていてくださいと言いたいところなのですが……」

「あれを相手に、騎士道や紳士ぶっている余裕はないでしょうね」

ユリウスの言葉を、己の肘を抱くラムがぴしゃりと遮る。そこにはユリウスも反論できない。そのこと自体、彼にとっては忸怩たる思いがあるようだ。

戦いには流儀があり、戦士にもルールがある。

だが、それに固執し、誇りに拘りすぎれば多くを危うくしてしまう。――ユリウスには辛いところだろう。しかし、堪えてもらうしかなかった。

少なくとも、悪逆の徒である『暴食』の大罪司教を相手には――、

「……あァ、やってくれるなァ。僕たち相手にここまでやれるなんて大したもんだよ」

そう言って、件の大罪司教が頭を振りながら立ち上がる。

豪快なエミリアの一発を肩で受けたのが響いているのか、だらりと右腕は下がったままだ。ひょっとすると、肩の骨が砕けるぐらいのことはあったのかもしれない。

だとしたら、『記憶』から戦い方を再現する、ライ・バテンカイトスの権能にとって致命的と言えるだろう。どれだけ達者な戦い方も、十全に扱えなければ意味がない。

「……それとも、妹と交代して、体ごと他人にスイッチするか?」

「――。ははァん、なるほどね。お兄さんは俺たちの『日食』と『月食』について知ってるってわけだ。それはそれは、見透かされててなんだね。けどさァ」

思わせぶりに言葉を区切り、『暴食』がスバルたちを嘲弄するように舌を出す。その仕草にスバルは眉を寄せたが、答えはすぐにもたらされる。

それは――、

「――これだけ不利な状況で、それでも僕たちが戦い続ける意味ってあるかなァ?」

「――っ! マズい!」

自明の理だと、スバルは自分の考えの浅さを呪いながら叫ぶ。

そのスバルの叫びを聞いて、エミリアたちも同じ考えに至ったようだが、遅い。

「ばっははーい」

軽く手を振り、ライの姿が空間を飛び越える。

『跳躍者』の異能を使い、通路から姿を消したのだ。

「周囲の警戒を! まだ、どこから出てくるかわからない!」

「――無駄よ。あの手の輩は、一度逃げに徹した以上は逃げる。だから、これまで一度も捕らえられていないんでしょう」

姿の見えなくなった『暴食』、その奇襲の警戒をユリウスが呼びかけるが、首を横に振ったラムは冷静に状況を見極めている。

スバルも、ラムに同意見だ。ライが言い残した言葉通り、これだけ不利な状況下で奴が戦い続ける理由など何一つない。

ライ・バテンカイトスは、大罪司教であって戦士ではないのだ。

最後まで戦い続けることや、苦戦を楽しむような性質もない。ルイの言に従えば、奴らが欲するのは最善の人生、最適解の道のり。

――苦戦や敗北の危難など、望んで陥るはずもない。

「……じゃあ、もうおしまいなの?」

呆然と、手にした氷槌を大気へ還元しながらエミリアが呟く。

その言葉には、敵がいなくなったことへの安堵ではなく、仇敵を取り逃がした――否、それとはもっと異なる、落胆が込められていた。

その落胆の答え、それは――、

「――あと、もう少しだったのに!」

「――――」

「あと一歩、もう少しで、レムをあんな目に遭わせた輩を……っ」

膝をついて、細く高く、声を荒げたのはラムだった。

彼女は通路の床に拳を打ち付け、まんまと逃げおおせた『暴食』へと声を震わせる。

その悔しがる彼女の気持ちが、この場の全員に痛いほどわかった。

エミリアが言葉を濁した理由も、ユリウスが黄色い目を伏せるのも、スバルの傍らでベアトリスが肩を縮めるのも、全てはそこに集約する。

降って湧いた手掛かりではあった。

しかし、監視塔の知識に頼るのと違い、『暴食』の権能の被害を『暴食』に問い質すのは直接的で、確実に思われた手段であった。

それをみすみす取り逃したとあっては、落胆するのも当然のこと。

「……これで、ライを退けた、ことになるのか?」

そうして悲嘆に暮れるラムの■情を理解しつつ、スバルには別種の疑問がある。

三対一を不利と見て、ライはこの場からの離脱を図った。だが、それが監視塔の脅威として完全に離脱したのかというと、それは確実とは言えない。

ラムはユリウスに奇襲の警戒など無用と言い放ったが、それはこの場に限った話。この塔内を、危険な『暴食』が彷徨っている状況は変わらないのではないか。

だとしたら、五つの障害の一つが取り除かれたとは到底言えない。

それどころか、どこで激突するかわからない相手を野放しにしてしまっただけだ。

「――っ、逃げた奴を追うか、別の問題を急ぐか、とにかく今は……」

「――状況ってもンは、相手のことなンざ考えねえで動き回るもンだぜ」

「――――」

ふっと、動き出さなくてはと構えた瞬間、背後から聞こえた声に総毛立つ。とっさに全員が振り返れば、通路の先から近付いてくるのはゾーリの足音だ。

達人なら、足音一つさせずに歩くことも容易だろうに、件の輩はそれをしない。

何故か。

「オレがオレの庭を歩くのに、なンで他人を気遣ってやる必要があンだよ」

堂々と、何一つ恥じることなく言い切った男――四層へと降りてきたレイドの姿に、スバルは状況のさらなる悪化を感じ取った。

レイドのことを後回しに、ライ・バテンカイトスの討伐を急いだが、結果的にライには逃げられ、まんまとレイドの蘇りを阻止できず――、

「いつから、この塔があなたの庭になったの?」

「オイオイ、勘違いしてンなよ、激マブ。言っとくが、オレが庭っつったのはこンなしけた塔のことじゃねえよ。オメエ、オレの庭っつったら世界全部に決まってンだろ」

「……一振りの剣で伝説となった人物が語れば、冗談とは言えない発言だ」

二層から出られないはずのレイドの出現に、エミリアやユリウスがそれぞれ驚きつつも言葉を発する。それに対するレイドの答えはまさしく彼そのものというべき端的さ。

この人智を超えた圧倒的強者に、足音を慮るという発想は――否、足音だけではない。他者を慮るといった思想は、全く不釣り合いだ。

「――何故、あなたが下へ降りてきているの? あの階から出られないはずでしょう、試験官」

「膝ついて凹ンでる女と話す趣味はねえよ。答えてほしけりゃおねだりしてみろ。気の強ぇ女は嫌いじゃねえ。気の弱い女も嫌いじゃねえがな」

「そう。――下衆ね」

まともな受け答えは期待できないと、ラムが早々にレイドとの答弁を打ち切る。

次の瞬間、爆ぜるほど強く床を蹴ったラムが、一直線にレイドの下へ吶喊、桃色の旋風となって棒立ちの『剣聖』へと躍りかかった。

そのまま、小柄な体躯を活かした高速の回転蹴りが、踵からレイドの首へ放たれる。誇張抜きに、首を刈り取る勢いの蹴撃。

直撃されれば物理的に首が、そうでなくとも意識が吹っ飛ぶような鮮烈な蹴りだ。

当然、相応の反動がラムを通してスバルへ流れ込み、全身に稲妻の如く痛みが走る。

「ぎ、ぐぅぅっ」

動脈が破裂すると、この世のものとは思えぬ痛みが走ると聞く。今、スバルの全身を駆け抜けたのは、それに近いものだったと豪語できる。

そうまでして繰り出したラムの一撃、その成果は――、

「悪くねえ。が、そンだけだ。トリーシャなら一発で地面割ったぜ」

「……怪物」

「怪物なンかと一緒にすンなよ。オレの価値が下がンだろうが」

蹴り足を受け止め、衝撃を地へ流す。

以前にも見た、物理攻撃殺し――それが、通路の床を壁をひび割れさせ、しかし、レイド本体へのダメージを完璧に遮断する。

そして、動きの止まったラムの胴体へ、

「そら、耐えてみろや、オメエ」

くるりと身を回し、レイドの太くたくましい足が跳ね上がる。そのまま、ゾーリの足裏がラムの体を捉え、真上へ豪快に突き上げた。

「かふ」

肺の中の空気を絞り出され、目を剥くラムが口から盛大に吐血する。それを躱しもせずに浴びながら、レイドが眼帯に覆われていない目を細め、唇を歪めた。

しかし、すぐに細めた目が見開かれ、「なンだぁ?」と声が漏れる。

「ぬかった、わね」

瞬間、ラムが自分の胴体へめり込む足を掴み、全身を使って膝の関節を極める。胴体へ突き刺さった一撃、その衝撃も何のそのという態度。

それを見て、レイドが訝しげな表情を浮かべ――、

「――なンだ。これもオメエかよ、稚魚」

「――――」

と、鳩尾にボーリング玉でもねじ込まれるような痛苦に奥歯を割り、荒い息をつくスバルを見ながら冷めた声で告げる。

「――っ、ダメ! それ以上、スバルに近付かないで!」

直後、レイドの青い瞳を過った危険な感情を見取り、エミリアが前に出る。しかし、前進した彼女に対して、レイドは煩わしげに腕を振り、打ち込まれる氷剣を奪い取ると、その柄で容赦なくエミリアの肩を打ち、倒れる彼女を豪快に蹴りつけた。

「ああっ!」

「邪魔だ」

蹴りを受け、物理的な距離を吹き飛ばされるエミリア。恐るべきことに、レイドはそれを膝を極められているはずの足で行った。

つまり、ラムを足にしがみつかせたまま、エミリアを蹴り飛ばしたのだ。挙句、ラムがより力を込めても、レイドの膝はびくともしない。

「くっ、埒が明かない!」

「――覚悟!」

関節技の有利を捨て、飛びずさったラムと、踏み込むユリウスが同時に迫る。

だが、二人の攻撃の結果も惨憺たるものだ。

蹴りが、手刀が、ことごとく、戦士として最高峰のはずのラムとユリウスを撃墜する。ラムが首を打たれ、ユリウスが足を折られ、誰も立ち上がれない。

「――クソ」

そうして、仲間たちが倒れる通路を、文字通り障害を排除したレイドがやってくる。正面、あとはエミリアたちのダメージを引き受け、グロッキーとなっているスバルと、そんなスバルを庇うように両手を広げたベアトリスがいるだけ。

「べ、あ……無理、だから……」

「無理でも無茶でも関係ないのよ。それはスバルの専売特許……それなら、スバルのパートナーであるベティーにとっても専門分野かしら」

ベアトリスの強がる声が、今はやけに空しく響く。

そのベアトリスの気概に応えようとしても、スバルの手は、足は、闘志に反応しない。スバルが引き受けてなお、仲間たちが行動不能になるような被害だ。

それが三人分、意識があるだけ、意地の産物だった。

「レイド、お前はなんでベティーたちを……スバルを狙うのよ?」

「『試験』の途中だから、っつーのはわりと後付けだわな。オレの元々の目的でいやぁ、そっちの美人の相手がそうなンだが……」

「だけど、何かしら」

「そいつを直接見て、気が変わったンだよ。気持ち悪いから、削ってやる」

独特の感性に基づく判断、それが相手では話など通用しない。

同時に、意見を翻す可能性も潰えたと、ベアトリスが可愛い奥歯を噛みしめ、ちらと背後、崩れ落ちて動けないスバルを見やる。

「――――」

小さく息を詰めたのは、スバルを庇って戦う覚悟を決めたからだ。

逃げろと、言いたかった。しかし、スバルの口から漏れるのは掠れた息だけで。

「わざわざ、死に急ぐ必要はねえンだぜ、ガキンちょ」

「生憎と、もう死んだように生きるのはまっぴらごめんなのよ」

「へえ、そうかい。――じゃあ、仕方ねえな」

名にし負う英雄英傑であるならば、女子供に手を上げない。

なんて、そんな考えは幻想だと言わんばかりに、レイドの眼光は揺るぎない。それはたとえ、前に立ちはだかるのが幼子であろうと変わらないと、そう宣告している。

故に、ベアトリスも手■など期待せず、最初から全力だった。

「ウル・ミーニャ」

浮かび上がる無数の紫矢が通路を埋め尽くし、レイドの逃げ道を完全に塞ぐ。

掠めるだけで致命傷となるのはミーニャの特性、それを一目で看破しながら、レイドは一切怯むことなく、唇を歪めた。

「ナツキ・スバルの大精霊、ベアトリス」

「いいぜ。――『棒振り』、レイド・アストレア」

互いに名乗り合い、空気が張り詰める。

ベアトリスが空間に敷き詰めた紫の結晶を、レイドが足下に落ちたユリウスの騎士剣を拾い上げ、構える。

「――――」

最後の最後まで、スバルは声が出ない。

しかし、目は開けたまま、閉じなかった。

自分の決断と選択、その結果から、目を逸らさなかった。

逸らせなかった――。

△▼△▼△▼△

■15カウント

・『暴食』は、目に見えて不利な状況となれば逃走する。

・放置したレイドは、必ず最終的にスバルを殺しにやってくる。

・――もう二度と、自分より先に誰かを死なせない。

△▼△▼△▼△

「ベアトリス――っ」

「――ふわ!? ど、どうしたかしら!? スバル!? スバル!?」

目を開けた瞬間、目の前にいた少女を思わず抱きしめていた。

突然のことに驚いて、少女――ベアトリスが小さな体を硬くする。

直前まで、悲壮な覚悟を貫いた少女との再会。それが胸に安堵と、耐え難い罪悪感となって■に痛々しい風を吹き込んでくる。

「ベアトリス……」

また会えて、よかった。

それと同時に、あんな目に遭わせてしまったことを、すまなかったと。

「スバル?」

「――いや、何でもない。ちゃんと覚えてる。お前はベアトリス、俺はナツキ・スバル。俺とお前、仲良しパートナー、これからもよろしく、楽しくベリグ」

「べ、ベリグーなのよ……」

韻を踏んだスバルの言葉に、ベアトリスが困惑しながら親指を立てる。

異世界にはない表現だろうから、ベアトリスのそれはスバルに毒された結果だろう。そんな彼女の頭を撫で、スバルは長く息を吸い、短く吐く。

それから、すぐに状況を把握しなくてはと、意識を切り替え――、

「落ち着くかしら、スバル」

「え?」

「もっとちゃんと、何があったのか話すのよ。本の中で何があったかしら? レイドの記憶は見られた? ベティーのことじゃなく、エミリアやみんなのことは? ちゃんと覚えてるか確かめるのよ。ちゃんと、大切な全部を、思い出すかしら」

「そ、それは……ああ、うん、そうだよな」

スバルの両頬を手で挟んで、ベアトリスが目の前で訴えかけてくる。

その彼女の言葉を聞いて、スバルは急ぎたいあまり、眼前の彼女を蔑ろにしてしまったことを反省した。よく、ループ物の作品で起こり得る現象だ。

ループを重ねる個人にとって、何度となく経験することからは新鮮味が薄れる。

それにより、常に一度目の反応をする人々と体感する出来事への経験値がズレ、ついには人を人とは思えなくなって――、

「……まさか、本気で自分がそんな立場になるとは思わなかった」

それに、ああした作品でそんな精神状態に陥るのは、いずれも越え難い壁に対して何十回、何百回、あるいはもっと膨大な数の試行回数を経たもののはずだ。

それと比べて、スバルはまだ――たったの、十五回。

たったの十五回で、もう人を人とも思えぬほどに、■が荒んだとでもいうのか。

「馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は」

自分の■の弱さを、脆さを、情けなさを吐き捨て、スバルは気を引き締める。

まだ、ほんの十五回、死んだだけだ。何も進展がないまま、無為に命を消耗し続けただけ。そんな自分に、どうして疲れたなどと言える権利がある。

そんなものは、ない。ないのだ。

立て、顔を上げろ、拳を握れ、ナツキ・スバル。

お前しか、いないのだ。お前しか。

――『ナツキ・スバル』だったら、こんな失敗など、決して。

「――スバルは、元から何でもできるスーパーマンなんかじゃないのよ」

「――――」

不意に、自問自答を繰り返すスバルへと、ベアトリスがそう言い放っていた。

その発言にスバルは息を呑み、目を見開く。そんなスバルの黒瞳を真っ直ぐ見据え、ベアトリスは青い瞳に憂いを宿して首を横に振った。

「何度でも言うかしら。スバルは、何でもできるスーパーマンなんかじゃないのよ。いつだって目の前のことに必死で、みんなのために傷付いて……痛いのを我慢するのだって得意じゃない、普通の男の子かしら」

「そ、そんなはずねぇよ。そんなはず。だって、そうじゃなきゃ……」

「そうじゃなきゃ?」

「そうじゃなきゃ、こんな……」

腕の傷を、体中の傷を、少しだけたくましくなった腕を、スバルを頼りにしてくれるエミリアを、ベアトリスを、ラムをエキドナをユリウスを、メィリィをシャウラを、思い出して、噛み含めて、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ。

うるさいぐらいに■臓が鳴っている。

それは『死』に瀕したとき以上に、もしかするとスバルの■を逸らせる。

「ナツキくん、戻ったのか。……何かあったのかい?」

「お兄さんったらあ、みんなに心配かけたと思ったらそれなのお? やめてよねえ、今度はベアトリスちゃんとケンカだなんてえ」

スバルとベアトリスの言い合い――否、そんな苛烈なものではない。

しかし、向かい合う二人の様子を見て、書庫を見回っていたエキドナとメィリィの二人が戻ってくる。その二人の顔も、真っ直ぐ見られない。

「ベアトリス、ナツキくんに何があった? やはり、衝撃が大きかった?」

「……それも、なくはないと思うのよ。だけど、ベティーたちは大変な目に遭ってるスバルのことを、ちゃんと考えてあげてなさすぎたかしら」

「それは……」

スバルを見つめ、目を伏せるベアトリスにエキドナが眉を寄せる。しかし、彼女はすぐに事情を察した風に顎を引いて、

「飛び出したシャウラと、それを追ったユリウスが戻らない。レムさんを迎えにいったエミリアさんとラムさんのことも心配だ。せめて、どちらかと合流したいが……」

「……エキドナとメィリィはバルコニーの方へ向かうのよ。ベティーは、緑部屋に向かったエミリアたちを探すかしら。十分、注意するのよ」

「いいけどお、お兄さんはどうするわけえ?」

てきぱきと指示を飛ばすベアトリスに、エキドナとメィリィの視線がスバルを向く。

その視線に、当然、スバルはベアトリスに同行すると言いかけたのだが、

「――スバルは、ここで大人しくしているかしら」

「な……! 馬鹿なこと言うなよ、ベアトリス! 俺は大丈夫だ! 確かにちょっと本から戻って知恵熱っぽかったが、すぐに収まって……」

立ち上がったベアトリスに言われ、スバルは反射的にその言葉に噛みつく。そのまま、すぐに彼女たちに並ぼうと足に力を込めた。

足に力を込めたが――、

「――あ?」

「収まって、どうしたのよ?」

ベアトリスの問いかけに、スバルは自分の震える足を愕然と見下ろす。膝を立て、どうにか力を込めようとしても、バランスが保てない。

どうやっても、姿勢が崩れ、立ち上がることができなかった。

「なんで……」

「当然かしら。スバルはずっと、頑張りすぎてるのよ」

「いや、待て、待ってくれ! こんな程度でどうにかなるような、そんな……」

「――――」

「そんな、はずがねぇんだ。俺は……」

首を嫌々と横に振り、何度も試すが結果は変わらない。

痛みが、苦しみが、疲労があるわけではないのに、スバルの闘志は手足に伝わらない。そうしている合間にも、ベアトリスが一歩、階段の方へ踏み出してしまう。

「――スバル、足りない部分はベティーたちが埋めるかしら。だから何もかも、自分一人でやろうなんて思わなくていいのよ。だって」

「ベアトリス……」

「だって、それがナツキ・スバル流かしら」

愕然と、目を見張るスバルに笑みを残し、ベアトリスが走り出す。その彼女の勢いに並ぶように、エキドナとメィリィもスバルに背を向け、

「ナツキくん、ボクは君に期待している。すぐに追ってくる必要はない。それでも、君が最後の一押しになるかもしれないとはね」

「わたしは、休んでてもいいと思うわあ。でも、わたしに偉そうなことを言ったのはお兄さんなんだからあ、そこはもうちょっと頑張ってよねえ」

言いたい放題、言われっ放しのスバルを残し、三人の姿が書庫から消える。

三層からの階段を下れば、そろそろ戻ってくるタイミングのユリウスと三人がかち合うはずだ。あるいはそのまま、ユリウスがスバルを引きずり出してくれないかと、そんな期待を抱きもするが――、

「くるはず、ねぇ……ベアトリスが、ああ言ったら」

それを尊重する。

ましてや、『死者の書』から戻ったスバルの変調は、エキドナとメィリィの二人にも見られてしまった。優しい彼ら、彼女らなら、それを気にしないはずがない。

だが、その気遣いが命取りになってしまうのだ。もう二度と、自分より先に仲間の誰かが死ぬところなど見たくないのに。

「俺が、弱いせいで……この程度でへこたれて、どうして」

本物の『ナツキ・スバル』だったら、このぐらいで足を止めたりしなかった。そんな不甲斐ない自分への怒りが、スバルの胸を熱くする。

しかし、それと同時に、湧き上がる別の思いもある。

それは、ベアトリスが残していった言葉だ。

『――スバルは、元から何でもできるスーパーマンなんかじゃないのよ』

『何度でも言うかしら。スバルは、何でもできるスーパーマンなんかじゃないのよ。いつだって目の前のことに必死で、みんなのために傷付いて……痛いのを我慢するのだって得意じゃない、普通の男の子かしら』

ベアトリスの語った、ここにはいない『ナツキ・スバル』像。

それを聞かされ、だが、スバルは信じられない。信じ難い。だって、それでは、本当にただの普通の人間ではないか。

「何かが、あったはずだ。それが、お前を変えたんだろ、『ナツキ・スバル』……」

何か、途轍もない出会いがあったとか。

何か、信じられない力を手に入れたとか。

何か、今の自分には想像できない経験をしたとか。

そんな、どうしようもないナツキ・スバルから脱却する何かがあったから、『ナツキ・スバル』は異世界生活で、みんなの信頼を勝ち得たはずなのだ。

「そうでなきゃ……」

相変わらず、震える足を殴りつけ、スバルは自分の服の袖をまくった。そこに、スバルの記憶には原因の存在しない、黒く醜い肉腫が紋様を刻んでいる。

体にこんな呪いのようなモノを背負うような体験をして、それでも根っこが変わらないことなどあるだろうか。そんなはずがない。

だから、『ナツキ・スバル』は――。

「ナツキ・スバル、参上……」

ふと、口をついたのは、この世界の『ナツキ・スバル』に抱いた不信感の発端。

あるときは腕に刻まれ、あるときは部屋中に呪詛のように書き綴られた、ここにはいないはずの存在からのメッセージ。

それはまるで、自分の役割を奪った相手への呪いのようにも思えて。

「もし、俺の中に、本当にお前がいるなら……出てこいよ……!」

強く自分の腕を掴み、骨が軋むほど力を込めて、スバルは自分に――否、ここにはいない『ナツキ・スバル』へと訴える。

思わせぶりを貫いて、ここにいるスバルでは到達できない理想を達成できる存在。『ナツキ・スバル』がいるのなら、出てこいと。

「こい、こい、こい……! 姿を見せろ、『ナツキ・スバル』!!」

腕で足りないならと、自分の首に手をかける。無論、自分で自分の首を手で絞めるなんて行為、簡単ではないし、うまくもいかない。

そもそも、命の窮地になったら『ナツキ・スバル』が顔を出す、なんて都合のいいことは起こり得ない。それがトリガーなら、すでにスバルは二十回近くも引いている。

それで、いったい何回、『ナツキ・スバル』が顔を出したのだ。

「クソ、クソ、クソ……! 俺は! 俺じゃ、ダメなんだよ! お前が必要なんだよ、『ナツキ・スバル』!」

震える膝を押さえるのをやめて、スバルは床に拳を打ち付ける。材質のわからない書庫の床に拳が痛むが、この胸を苛む無力感には到底及ばない。

助けたい。みんなを、本当に助けたい。

誰も悪くなんてない。誰も、互いを傷付けたいわけじゃない。それがわかった。誰を助けて、誰を愛していいのか、迷わず信じられるのだ。

そんなみんなを助けたいのに、助けるための力が足りない。

「今こそ、お前が必要なんじゃないのかよ……なのに、なんで俺なんだ。臆病で、腰抜けの俺じゃ、みんなを……それなのに」

今だって、足が動かない。

そのせいで、ベアトリスを、エキドナをメィリィを、この場にいないエミリアをラムを、ユリウスをシャウラを、死地へ向かわせてしまった。

スバルが何もできなかったせいで、死にゆく宿命の彼女たちを救えない。

「……『コル・レオニス』」

弱々しく呟いて、スバルは自らの権能を、傷付くために発動する。

自分の内側に宿った『小さな王』の力は、塔内にいる仲間たちの居所をたちどころに伝えてくる。その末に彼女らが迎える最期も、この塔が迎える終焉も、如実に。

遠く、猛烈な戦いを繰り広げているらしき光はエミリアだ。今回、彼女の傍にいるはずのラムの光は少し離れ、別の光――パトラッシュと、レムだ。二人に同行している。

バルコニーではシャウラが奮闘し、おそらくそこにメィリィが合流した。ユリウスとエキドナは一緒に動いているようで、単独行動するベアトリスがエミリアたちの方へ向かっていくのがわかった。

順当に、ベアトリスの指示通りに、そしてスバルの知る状況の通りに、流れて。

このまま、この周回も失敗に――。

「――?」

そんな悲観的な思考に支配された脳裏に、スバルは奇妙な違和感を覚えた。

首を巡らせ、スバルは背後――膨大な量の書物を収めた書架、無数の『死者の書』を孕んだ大書庫、『タイゲタ』を見渡す。

「――――」

おかしな感覚だった。

初めての感覚、それは間違いない。だって、スバルは『コル・レオニス』の権能を自覚して、この場に『死に戻り』し始めてから、ずっとここで権能を発動してきた。

そのたびにスバルは仲間たちの下へ向かい、手を変え品を変え、状況を変えるために奔走して、自分の命を使い潰してきたのだ。

だから、『タイゲタ』で権能を発動するのは当然のことだった。

しかし、ベアトリスに言われたように、この場で足を止めて、一歩、中核から離れた位置で塔内の状況を俯瞰したのは、これが初めてだったかもしれない。

そのおかげ、なのだろうか。

「――この、反応は」

ほんのりと、それこそ微かに消えかねないほど弱々しく、感じる。

それは塔内の、仲間たちの存在を遠く、しかし確かに感じるのと比べると、はるかに弱々しい感覚――だが、間違いなくそこにある、感覚だった。

震える足を無理に動かし、スバルは芋虫みたいに遅々とした速度で進む。それから、ぐっと体を書架に寄りかからせ、力一杯に上体を持ち上げた。

何とか、書架に体重を預けながら立ち上がる。そして、弱々しく、消えてしまいそうな光に向かって手を伸ばし、掴んだ。

その掴んだ本、一冊の『死者の書』、それを引っ張り出し――、

「――――」

息を呑んだ。

一冊の、黒い表紙にタイトルだけがある、ひどく素っ気ない無味乾燥な本。

だがしかし、それはスバルにとって、本当に大きな意味を持っていた。

何故なら――、

「――菜月・昴」

――そこに、あるはずのない、『死者の書』があった。

第六章73 『 『ナツキ・スバル』 』

――『菜月・昴』と、そう書かれた『死者の書』を手にして、立ち尽くす。

「――――」

愕然と黒瞳を押し開いて、スバルは自分の喉が急速に渇いていくのを感じていた。

驚愕や、呆気に取られたなんて生易しい表現では足りない。このときスバルを襲ったのは、もっと甚大で、局所的な被害だった。

スバル以外には通用しない、しかしスバルにだけ効果を持つ猛毒――。

『菜月・昴』の『死者の書』は、そんな強烈な意味を持ってスバルを貫いていた。

「なん、で……」

ここに、あるはずのない『死者の書』があるのか。

プレアデス監視塔の第三層、『タイゲタ』にあるのは死したモノの人生を記録する『死者の書』であるはずだ。生者の本があるのは矛盾している。

それとも、たまたま同姓同名の人間の本を見つけてしまっただけとでもいうのか。

「ここが、異世界じゃなきゃ、説得力もあったけどな……」

頭に浮かんだ可能性、それは即座に否定される。

当たり前だが、ここは異世界――命名のルールさえ、スバルの知るそれと大きく異なるこの場所で、どうして『菜月・昴』なんて名前が生まれ得る。

それ以前に、決定的な問題がある。

この『菜月・昴』の書のタイトルは、漢字で書かれているのだ。

「――――」

ここまでスバルが見てきた限り、この異世界は文字の作りも違っている。だから、スバル以外の、もう一つの世界の文字を知らない人間が見ても、きっとこのタイトルは象形文字か何かのようにしか見えないのだ。

そう思えば思うほどに、ここでスバルが『菜月・昴』の『死者の書』を見つけるのは、これ以外にありえないというほどの豪運か――、

「――誰かの、既定路線」

そうであるようにしか、思えなかった。

「――――」

再び、『死者の書』を手にしたままスバルは沈黙し、思案する。

ここでスバルがこの『死者の書』と出くわしたのは、『コル・レオニス』による微かな反応を頼りに探り出したからだ。

この書庫で目的の本を探したことは一度や二度ではないため、スバルにはわかるが、この膨大な蔵書量の中から狙いの本を見つけるのは至難の業だ。

たぶん、神の見えざる手が働かない限り、不可能な類の。

「もしくは、神じゃなくても、誰かの……」

思惑であると、スバルは確信する。

あとは、この『死者の書』の真偽――ここに描かれているのが、本当に『菜月・昴』の人生であるのかどうか。描かれていたとしたら、それはどういうカラクリなのか。

厳然たる事実として、スバルはここにこうして生きている。

そのスバルの『死者の書』がここにあるとしたら――、

「記憶をなくした時点で、死者扱いにされてるか……『タイゲタ』の『死者の書』は、あの記憶の回廊は、俺が死んだ世界のことも観測してる……?」

だとしたら、何らかの形でスバルの『死』を写し取り、『死者の書』として形にしていることは考えられなくはない。だが、その場合、『死に戻り』とは。

「時間を遡ってるのか、世界そのものを作り直してるのか、どっちなのかって考えたことはあったが……」

仮に、『死者の書』が『菜月・昴』の本を生成する方法を仮定した場合、最も高い可能性は後者のように思えてならない。だとしたら、このナツキ・スバルを取り巻く現象は『死に戻り』なんて可愛げのあるものではなく――、

「馬鹿か、俺は。いや、馬鹿だ俺は。……この、臆病者が」

思考が斜め上の方向へ乱れるのを感じて、スバルは自分を罵倒する。

どうして思考が逸れていったのか、その原因が自分の臆病にあるとすぐに気付けたからだ。――ただ、『死者の書』に怯えている。

『菜月・昴』の書を読むことで何が起きるのか。

その、全くわからない未知なる出来事に怯えている。だから、何の根拠もない仮説を追いかけ、先延ばしの先延ばしにしようとしている。

手にした本の、最初の一ページ目を開くのを。

「――――」

世界五分前仮説ではないが、ここに『菜月・昴』の『死者の書』があったことは、おかしな話だがスバルにとっての救いでもあった。

スバルが今この瞬間、ポッと湧いて生まれたわけではない証にも思える。

だが、それは同時に、自分以外の『ナツキ・スバル』が確かにいて、この異世界で自分なりの道を歩んでいたことと、その足跡をスバルが上から踏み荒らし、塗り潰していることも意味しているのだ。

だから、あとは確かめるだけ。

「そもそも、これが『菜月・昴』の『死者の書』だとして……どこから始まって、どこで終わるんだ?」

メィリィのときは、それこそ彼女の幼少のみぎり――物■ついた頃から、記憶が記憶として定着したあたりから、その半生を辿ることができた。

だが、スバルの場合はどうなるのか。――『死者の書』が読めたとして、メィリィと同じように自意識の芽生えから始まり、成長を迎え、そして、どこで終わるのか。

今の、記憶をなくしたナツキ・スバルが死んだわけではなく、『菜月・昴』が死んだとカウントされているのなら、記憶が失われる直前の、『ナツキ・スバル』の記憶を辿ることができるのが自然、なのではないだろうか。

あるいは、記憶をなくし、塔の中で目覚めた今のスバルの記憶を辿ることになるのか。その場合、終わりに当たる『死』はどれが選ばれるのか。

または、レイドの『死者の書』のように、空白となった記憶の残骸があるだけ。

『死者の書』の記録されたレイドの記憶が、この監視塔の試験官として再現するために書の中から消えているように、『菜月・昴』の記憶も、消えているのではないか。

だから、この本を開いて見られるのは、『菜月・昴』の記憶なんかではなく――、

「――結局、どうしたいんだよ、弱虫野郎」

見たいのか、見たくないのか。

その答えすら容易には出せない自分を軽蔑し、縮こまる■を叱咤して、息を吐く。

ここまできて、見ないなんて選択肢はありえない。選択肢としては浮上しても、それを選ぶような真似は、する方が考えられなかった。

だから、だから、だから、だから、だから――、

それから、それから、それから、それから、それから――、

「――っ」

息を強く吐いて、『死者の書』を、開いた。

そして、『菜月・昴』の、どこから始まって、どこで終わるのかわからない旅路が――。

△▼△▼△▼△

――これは本気でヤバい。

「――――」

顔面が硬い感触を味わい、腹部が灼熱の感覚で脳を焼く。

呼吸さえ不自由になる猛烈な熱、血管にマグマを流し込まれたみたいに頭が熱い。なのに手足は冷たく重くなり、矛盾した感覚が魂ごと存在を揺るがしていた。

何があったのか、と訴える思考。何とかしなければ、と訴える思考。

それらが入り混じり、悲鳴を上げる。

だが、何とかしなければ、という思考は役に立たない。

状況の打開に手を動かして、灼熱の発生源である腹に触れた途端、掌がべったりと血に濡れ、それ以上の血が床を浸していくのがわかった。

――ああ、これ全部、俺の血かよ。

濡れた床で流れた血の量なんてわからないが、献血云々レベルの出血ではなかった。流れ出す命の源は、か細い命の灯火を留めておけない。

つまるところ、肉体はすでに死へのカウントダウンを始めていた。

それでもまだ■が死んでいないのは、この死へと向かっていく命に、最後にやらなくてはならない使命が残されているからだ。

――声を、上げて。

声を、上げなくてはならない。

危ない。危険だ。くるな。逃げろ。脇目も振らず、まっしぐらに逃げろ。

そうして、危険を知らせなくてはならなかった。

危ないと知らせて、彼女がこの場所に入ってこないように、伝えなくては。

それなのに――、

「――――」

声が出ない。

代わりにこぼれたのは、込み上げてくる熱い血塊だった。それに喉を塞がれ、無様にも言葉が取り出せなくなる。咳き込み、腹部の灼熱が広がる。

痛みと苦しみ、情けなさと混乱、そして――、

「――バル?」

銀鈴の声音が、入ってきてはならない空間へ、足を踏み入れてしまう。

「――――」

それを、止めなくてはならなかった。

それなのに、間に合わなかった。

命に代えてもやらなくてはならなかったのに、自分の腹が破けていたせいで。

「――っ!」

悲鳴が聞こえて、激しい音と共に誰かが床へ倒れ伏す。

その、倒れた誰かの手が、倒れているこちらの手と重なったのは、皮肉すぎる運命の悪戯だ。運命というやつの底意地の悪さは筆舌に尽くし難い。

「――――」

微かに震える指が、重なったその手を柔らかく握る。その、縋るような指の感触を握り返して、スバルは深く深く、血の塊と共に、息を吐いた。

「……っていろ」

こぼれる血塊、流れ出していく命。その流出を、止めることはできない。

もはや、どうにもならなかった。この状況は、完全に行き詰まっていた。

他ならぬ、無力で無能な男のせいで、全てはご破算となっていた。

だから、その血の色をした誓いに、何の意味もない。

どうにもならないとわかっているくせに、それでも誓おうとする愚かしさ。

終わったとわかっているくせに。

終わるとわかっているくせに。

それらがまるで、終わっていないみたいに、みっともなく、誓うのだ。

「俺が、必ず――」

――お前を、救ってみせる。

次の瞬間に彼――ナツキ・スバル『ナツキ・スバル』『菜月・昴』は命を落とした。

△▼△▼△▼△

――繋がりが断ち切られた瞬間、スバルは後頭部に硬い痛みを覚えていた。

「が――っ」

頭蓋に響き渡る衝撃、いきなり後ろから殴られでもしたのかと錯覚するが、すぐにそれが勘違いだとわかる。何故なら、スバルの体は真後ろに倒れていて、背中全体が冷たい床に接している感覚があったからだ。

「こ、こは……」

冷たく薄暗い、小汚い建物の中ではなく、『タイゲタ』の書庫の中にいる。

ゆっくりと体を起こし、呆然とした頭を振って、スバルは首を巡らせ――それから、大慌てで自分の腹を触った。

そこに、命を危うくするほどの傷がある、はずだった。

しかし――、

「な、い……ない、ない、傷が、ない。腹、斬られて、ない……っ」

腹を何度も触って、そこにあったはずの灼熱の原因が消えているのを確かめる。直前に見た光景の中、最も鮮烈であった感覚は消失している。

あまりに強烈すぎる痛みは、脳が『熱』と錯覚すると聞いたことがある。それと同じ現象が起きていたのだ。つまり――、

「――腹を斬られて、死んだ、記憶」

鋭い刃物に腹を裂かれ、血泡と無力感に溺れながら死んでいく最期。

挙句、それで死ぬのが自分一人ならまだ許せた。だが、そうではなかった。

「サテラ……」

呟くのは、最後の最後、助けることのできなかった少女の名前――偽名、だ。

あの記憶の中、見知った銀髪の少女は自分の名前を偽り、スバルと接していた。それがどんな理由からだったのか。悪意が理由でないことは明白だが。

「……に、しても、なんて無様な死に方しやがる」

自分の額に手をやり、スバルは自らの身に起こった出来事を反芻する。

異世界に召喚され、馬鹿な前向きさで街を彷徨い、チンピラに絡まれて死にかけて、それをサテラに助けられ、そして彼女の探し物を手伝い――、

「役に立たなかったどころか……」

最後の瞬間、伝えるべき危機さえ伝えられず、彼女を巻き添えにしてしまった。

無駄死にどころの話ではなく、犬死なんて言葉も犬に申し訳が立たない。

そのぐらい、ナツキ・スバル――『ナツキ・スバル』の死は、償いようがなかった。

「けど」

得るものが、全くなかったわけではなかった。

「――これは、『菜月・昴』の『死者の書』だ」

それだけは、それだけは絶対に、間違えようのない事実だった。

「――――」

どうしようもない、愚かで弱くて、救いようがない『ナツキ・スバル』。

馬鹿げた自意識を肥大化させ、重ねた親不孝から目を背け続けた。その挙句、異世界へ召喚されたことを都合よく現実逃避に利用し、後ろ向きな前向きさを発揮することで自分を、周囲を、何もかもを騙そうとするペテン師。

そんな愚かしさの結果が、あの盗品蔵での惨劇に繋がったのだ。

なんて浅はかで、見通しが甘く、愚かな失敗をしたのだろうか。

どうして、あんな危険な場所で無防備でいられる。何がそんな愚かなお前に根拠のない自信を持たせていた。あんなの、異世界ではなく、海外でだって死んでもおかしくない、責められるべき無警戒さだった。その結果が、あれか。

もし死んでいなかったなら、自分で自分を殺したくなるほど無様だった。

「どうしようもない、馬鹿野郎が……だけど」

まさしく、致命的な愚かしさだったが、それを確かめられたのは僥倖だ。

怒りを抑え、堪えて、その事実を淡々と精査する。

確かに、『死者の書』は機能した。あの本は『ナツキ・スバル』の死を記録していた。そして、『ナツキ・スバル』にとっては当然でも、ナツキ・スバルには知る由もなかったいくつもの事実を突き付けていった。

――例えばそれは、『死に戻り』の力を手に入れた経緯だ。

これがお約束の、いわゆる異世界トリップであったなら、スバルを異世界へ召喚したのは神や、それに類する力を持った超常的な存在のはず。

しかし、あの『ナツキ・スバル』には、そうした超常的な存在と接触した記憶もなければ、誰かに力を授けられ、その力を自覚している節もなかった。

それは、あの『ナツキ・スバル』の最期を見届けたスバルには断言できる。

最期の最後、諦めの悪いことを口走ってこそいたが、あの瞬間、『ナツキ・スバル』には自分が死を飛び越え、時間を遡れる確信などなかったはずだ。

少なくとも、自分はそうだった。――そう考えて、ふと気付く。

自分と、『ナツキ・スバル』とを、うまく客観視できていないと。

その原因は明白だ。

「メィリィの、ときより、深く潜ってる……」

メィリィの『死者の書』を読み、彼女の人生を追体験したときも、かなり強烈に精神を引きずられる感覚を味わった。半ば少女と人格が溶け合い、脳内に幻覚症状としてのメィリィが現れ、好き勝手に言いたい放題、スバルを翻弄したほどだ。

もっとも、あれは究極的にはスバルの意識が生み出した偽のメィリィであり、本物のメィリィとは一切関係ない、不和が生み出した幻だとわかっているが。

「――――」

ただ、今回の『死者の書』は、メィリィの経験とは一線を画していた。

なんだかんだ言って、メィリィの書を読んだ直後の混乱は、それでも自分と彼女とを差別化する手掛かりがあった。性別の違い、年齢の違い、価値観の違い、様々だ。

それらを手掛かりに、少しずつ自分と彼女とを剥離させ、別の存在であるという納得を引き出すことが可能だった。

しかし、今回はそうはいかない。

他ならぬ、自分自身が相手なのだ。自分ではない自分という、本来なら発生し得ない状況、それがナツキ・スバルを期せず、自分との戦いへ押しやっている。

自分との戦い。――言葉で聞けばこれほど陳腐な言葉もないが、それは正しく、今のスバルが置かれた状況を端的に示した言葉だった。

実際、旗色は悪い。

自分と重なるということは、自分を塗り潰す行いに近い。『ナツキ・スバル』という黒い絵の具を洗った水に、まっさらな絵筆を付けるように染まっていく。

「――エミリア。エミリア、エミリア、エミリア、エミリア、エミリア」

自分が塗り潰されるような感覚に、スバルは魔法のようにエミリアの名前を呼ぶ。

エミリアと、そう唱える理由は簡単だ。『死者の書』の中の、『ナツキ・スバル』は彼女をエミリアと認識していない。

教えられた偽名を信じ込んだまま、最期の最後まで道化の役目を全うした。

だから、そこが今のスバルと、『ナツキ・スバル』との違いだ。

「――――」

歯の根を震わせ、自分を削られていく感覚に怯えながら、スバルは足下を見る。思わず取り落とした一冊の本、それがそこに落ちている。

「――――」

一度、『ナツキ・スバル』が死んだところまで観測した。

思えば不思議なことに、『死者の書』の始まりは異世界へやってきた瞬間、馬鹿丸出しの面構えで世界の変化を叫んでいたところから始まっていた。メィリィのときは、ちゃんと物■ついたところから始まっていたのに――否、今はそんなことはどうでもいい。

問題は、この『死者の書』の続きだ。

「お前も、そうなんだろ、『ナツキ・スバル』……」

『死者の書』のおかげで、おそらく、異世界へ召喚された最初の『ナツキ・スバル』の『死』を見届けることができた。

だが、それは始まりに過ぎない。

この『ナツキ・スバル』も、『死に戻り』の力を利用していたはずだ。

あるいはそれは『死に戻り』ではなく、もっと違った形で発現した力だったのかもしれない。――否、その方が自然だ。

自在に時を遡れる、その方がずっと説得力がある。

エミリアが、ベアトリスが、ラムが、エキドナが、ユリウスが、メィリィが、シャウラが、パトラッシュが、ジャイアンが、その他にもきっと、出会ってきた大勢の誰かが、その活躍を期待する『ナツキ・スバル』ならば、そのぐらいのことは。

だとしたら――、

「この先に、それがあるはずだ」

ナツキ・スバルと、何も変わらないように見えた『ナツキ・スバル』。

だが、その『ナツキ・スバル』が、『ナツキ・スバル』になった決定的なものがある。それを求めて、スバルは今一度、本を手に取った。

そして、目をつむり、深く呼吸する。

「――――」

本を手にしたまま、スバルは胸の鼓動を一つ、二つと数えた。そうして■を落ち着けながら、ゆっくりと歩き始める。

足取りは遅く、しかし、迷いはなく、真っ直ぐに。

やがて、スバルが辿り着いたのは書架の前、そうして手を伸ばすと――、

「――二冊目」

次なる『菜月・昴』の一冊が、『コル・レオニス』に弱々しく己を主張していた。

△▼△▼△▼△

――『ナツキ・スバル』の歩みは、無様で無計画で、救いようがなかった。

「てんでダメ。見たまま素人で動きは雑。加護もなければ技術もなく、せめて知恵が絞れるかと思えばそれもなし。いったい、どうして挑むのかしら」

強大な敵に好き放題にいたぶられ、真っ当な反撃もできずに刻まれ続ける。

そうして傷付けられる自分の周囲には、血塗れの老人と金髪の少女が倒れていて。そのどちらも救えなかった。動くこともできなかった。

「ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、悶えて」

やがて、腹を斬られ、目を斬られ、視力を奪われた世界の中、自分の命に制限時間をかけられて、死ぬまでの時間を恐怖と寄り添いながら過ごす。

最期の最後まで、怯え、震え、怖がりながら、みっともなく――、

△▼△▼△▼△

「おい、刺しちまったのか」

「仕方ねえだろ。表に逃げられてみろ。面倒どころの話じゃねえ」

「あーあ、こりゃダメだ。腹の中身が傷付いてっから死ぬな。……着物もびちゃびちゃだ」

倒れている相手の頭上で、なんて呑気な話をしてくれているのか。

そんな、益体のない思考に頭を使っていないと、背中に突き刺さった衝撃的な痛みを理解しなくてはならなくなる。

痛みから逃げ出す術、自分を守るための方法の取得はさすがに達者で■底呆れる。

まさしく無駄死に、犬死に、救えない。

サテラでない少女をサテラと呼んで、そのことを彼女自身に罵られ、明々白々な事情さえ察することができず、思考を放棄した先で舐めてかかった相手に殺される。

似合いの最期だ。どうして、最初から最後まで、一分一秒を惜しまず、全身全霊を注ぎ込んで、生きられないのか。

もういい。この世界は終わりだ。わかっていたことだ。

最初から、『死』を見るとわかっていて、ここへきたのだから。だから、決定的なことがないなら、この世界は終わり。終わりだから、終わったから、もう次へいってくれ。次へいって、次へ、次へ次へ次へ次へ。でなければ、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛くて痛くて辛くてたまらなくて痛いからでも何か次へ持ち込まなくては――。

△▼△▼△▼△

眠っている間にもたらされる落命は、そのあっさりとした最期と裏腹に、冷たい毒を血管に流し込むみたいな残酷さを伴っていた。

死んだことにさえ気付けない『死』の到来は、痛みや苦しみと切り離せなかったこれまでの『死』と比べて、さぞや楽なものだろうと思うだろう。

だが、そんなことは決してない。

何故、死んだのか。そもそも、本当に死んだのか。

『死』を恐れる人間の中には、眠るように死にたいと望むものが少なからずいるだろうが、その経験をしたスバルに言わせてもらえば、そんな『死』は望むべきではない。

『死』には、『死』の意味があるのだ。

人生の終焉には、終幕には、それとわかる終わりが付属していなければならない。

混乱と失望、驚愕と切望の中で、スバルは次なる『死者の書』を求める。何が起きたのかを知らなくては。何が自分を殺したのかを、知らなくては――。

△▼△▼△▼△

――謎が謎を呼び、無理解と理不尽な『死』を追体験する。

重ねられる終わりと、繰り返される惨劇。

眠るように死ぬのは嫌だと拒絶したが、砕かれるように、抉られるように、死ぬのもやはり嬉しいはずがない。

次から次へと、命を狙われ、奪われ、砕かれ、ついには裏切られる。

何故、とわからなくなった。

何故、自分を殺した青髪の少女を、救わなくてはならない。

何故、彼女を救うために自分は必死になっていて、何故、彼女は挫け、膝を屈したスバルの背中をああも強く押したのか。

何故、彼女の言葉に力をもらい、進めるような気になったのか。

裏切りの先で、切望する。

本当は裏切られていなかった願望を、それが正しいと肯定される世界を。

『ナツキ・スバル』が、誰かを救えるのだという空しく、悲しい勘違いを、自分の命を代償に捧げながら、力ずくでこじ開ける。

エミリアと出会い、パックと出会い、フェルトと出会い、ロム爺と出会い、ラインハルトと出会い、エルザと出会い、ベアトリスと出会い、ラムと出会い、レムと出会い、ロズワールと出会い、ペトラと出会い、アーラム村の人々と出会い――、

――どうしてもと、押し寄せる濁流に否を突き付ける。

△▼△▼△▼△

「う、ぶ……っ」

口元を押さえ、再び襲いくる死を迎えて、スバルは『タイゲタ』の書庫に膝をつく。体を支えておけず、そのまま地べたに前のめりに倒れた。

「はぁ、はぁ……」

息が荒く、全身を濡らすのはおびただしい脂汗。

暑いのか、寒いのか、苦いのか、甘いのか、苦しいのか、快いのか、感情は好悪も白黒も一緒くたに混ざり合ってしまって、正解がわからない。

次から次へと、休まず多角的に殴られ続けている気分だった。

「――これで、八冊」

『菜月・昴』の『死者の書』を見つけ、読み始めてからそれだけの巻数を重ねている。

巻数、というのもおかしな話だ。ナンバリングが振られているわけではなく、本来、この書庫に置かれる本に『同じシリーズの次巻』なんて存在するはずがない。

それなのに、『菜月・昴』の書は順調に巻数を重ね、続いている。

それも不思議なことに、一冊の『菜月・昴』を読み終えなくては、次の『菜月・昴』の本が見つからない仕組み――周回も、順序通りに進んでいる。

合間の『死』を飛ばすこともなく、『ナツキ・スバル』の足跡を追えている。

そうして、足跡を追いながら、思う。

『ナツキ・スバル』はなんて愚直で、度し難い青二才なのかと。

特に最後の一冊、八冊目の『死者の書』の末路を見ると、そう思わざるを得ない。

王選の開始が宣言されたあと、城でエミリアと仲違いし、結局は彼女の■を傷付けるだけ傷付けて、謝罪も反省もないまま、混乱の内で死んだ『ナツキ・スバル』。

本を読む自分は、『死者の書』の主観と意識はほぼ同一に沈んでいる。

当人同士だけに、その影響は特に受けているはずだが、それでも耐え難かった。

どうしてわかってもらえないのか、と思う自分がいる。

一方で、どうしてそれでわかってもらえないと嘆くのだ、と思う自分もいる。

「過去に、囚われるな……」

今しがた、この目で見てきた悲劇だから、体が引き裂かれそうなほど辛い。

しかし、それは過去だ。あくまで、過去に起きた出来事なのだ。

あの瞬間に『死』を迎える『ナツキ・スバル』にとっては目の前の出来事でも。

その瞬間を迎える『ナツキ・スバル』と同調するスバルにとっても、目の前の出来事であっても。

あれは過去だ。忘れ難い傷となって残る、過去なのだ。

だから、今この瞬間、息継ぎをして衝撃から逃れろ。忘れろ。誰が、エミリアたちを殺したのか。誰が、村であんな惨状を作ったのか。

そうでなきゃ、■が壊れる。

ここでスバルの■が壊れて、立ち上がれなくなったら、どうする。

誰が何を、どうしてくれる。『ナツキ・スバル』はここにはいない。だから、スバルがどうにかするしかないのだ。

「ま、だ……」

――見つかっていない。

「――――」

決定的な、『ナツキ・スバル』にだけ与えられる、何かがあるはずだ。

それがナツキ・スバルと、『ナツキ・スバル』とを明確に分ける鍵となる。せめて、その鍵が得られるまで、この『死者の書』を巡る旅は終わらない。

ナツキ・スバルが、『ナツキ・スバル』として羽化する、決定的な鍵。

エミリアを、ベアトリスを、レムを、ラムを、エキドナを、ユリウスを、メィリィを、シャウラを、パトラッシュを、ジャイアンを、受け止める救世主となり得る鍵。

今のところ、その兆しはない。

『ナツキ・スバル』には到底、救世主や英雄、誰かを助けるなんてご大層な役回りを果たせるほどの気概も、度量もない。

あるのは図抜けた諦めの悪さと、周りの人間に恵まれた幸運だけ。

だが、それだけではない。

そんな、形のない『何か』ではない。

もっと明白で、明快で、一目でこれとわかり、それがあるからできるのだと、そう誰もが納得のゆく、万能の鍵がある。

あるのだ。だから、それを求めて――、

「――九冊、目」

混乱と混沌と、裏切りと絶望と、それらの渦巻く『死』の輪廻へ、再び挑む。

願わくば、『ナツキ・スバル』。早く、お前になってくれ。

――俺が、お前の足跡に、お前の傷に、『死』に、■が耐え切れなくなる前に。

△▼△▼△▼△

――『死』が積み重なっていく。

――終わりを、積み重ねていく。

痛むたび、苦しむたび、失うたび、奪われるたび、■のひび割れる音が聞こえる。

どうしてなんだと泣き叫び、ここで終われるかと奥歯を噛み、血反吐を吐きながら立ち上がって、傷だらけになって前進する。

泥臭く、懸命な男の足掻きがそこにある。

一度ならず二度、二度ならず三度、三度ならず四度と、状況に追い詰められて落命し、それでも閉ざされた混迷を打ち破るために踏みとどまる。

それはすごい。すごいとも。尊敬に値するとも。

諦めない、それはとてもすごいことだ。これだけの目に遭って、歯を喰いしばって戦い抜くのはすごい。感心した。見直した。――でも違う。

でも、違う。違うのだ。そうじゃない。そうではないのだ。

「何かが……っ」

――『何か』が、あってくれるはずだろう。

『何か』が、あるはずだ。ないとおかしいのだ。なくては、話が成立しない。

『何か』があって、無力で救い難いナツキ・スバルは、みんなを、誰かを、エミリアたちを助けられる『ナツキ・スバル』へと羽化するはずなのだ。

だからそれを、死に物狂いで、血眼になって探している。

『死者の書』を読み込むたびに、変化した状況に翻弄され、『ナツキ・スバル』が味わった衝撃と恐怖と、『死』の苦痛とを追体験しながら、必死になって捜し求めている。

なのに、手掛かり一つ見つからなくて――、

「う、あああああ――ッッ!!」

床に頭を叩きつける。

見ていた間はよかった。しかし、戻った瞬間、恥辱に■が掻き乱される。

「父さん……お母さん……っ」

父と母と、二人と言葉を交わし、二人に謝罪する『ナツキ・スバル』がいた。

異世界へ飛ばされ、この場所で生きていくために、二人に別れを告げる『ナツキ・スバル』がいた。

のうのうと、自分が何をしたのかも忘れているくせに、両親を悲しませるとわかっていて、自己満足のために愛の言葉を伝えて――。

「う、ぶ、ぇぇぇ」

反吐が出る。涙がこぼれた。

辛いのは、苦しいのは、『ナツキ・スバル』の気持ちが痛いぐらいにわかったことと、それを両親が許してくれることを、スバルもわかってしまったこと。

許さないでくれ。呪ってくれ。親不孝者だと、罵ってほしかった。

だが、そうしてくれなかった。

父も母も、スバルの思い通りになどならない。自分を慰めるために、両親にもちっぽけな人間みたいなことを言ってほしかった。無理だった。

スバルの父は、賢一は。スバルの母は、菜穂子は。――最高の両親だった。

そのことが嬉しい自分がいて、『ナツキ・スバル』の判断に賛同する自分がいて、救われる資格などないくせに、救われようとする自分がいて、■が醜い。

――これか。これが原因なのか? これが理由で、『ナツキ・スバル』になれるのか。

「違う……違う、違う違う! そうじゃない! こういうことじゃ、ない!」

頭を掻き毟り、疼く額を拳で殴って、スバルは己を罵倒する。

スバルが求めているのは、精神的な救いではないのだ。もっと明快で、ちゃんと効果として成立する、特別な鍵を、――力を求めている。

スバルが知らない、『ナツキ・スバル』だけが知っている、特別な力が。

スバルが、『コル・レオニス』を発現させるのに成功したように、『ナツキ・スバル』だけが覚醒した、特別な『何か』が、あって、それが。

「この状況を変える鍵だって、そう信じなきゃ……」

目下、最後の死因である腹の裂傷、あったはずの傷に触れ、スバルは呟く。

記憶が、メィリィの『死者の書』で見たそれと重なり始めた。屋敷への襲撃、メィリィの愛おしくも手のかかる姉、エルザの襲来。『ナツキ・スバル』の天敵。

だが、全ては終わった世界の話だ。

すでに『ナツキ・スバル』が乗り越えた世界の話だ。

重要なのは、『ナツキ・スバル』への共感ではない。『ナツキ・スバル』だけが持っているはずの、奴だけがしているはずのペテンを暴き、手に入れること。

そのために、そのためだけに、『死者の書』を読んで。

――そのためだけに、ナツキ・スバルは『死に直して』いるのだから。

「教えてくれ、『ナツキ・スバル』! ――お前がどうして特別なのか! お前だけがどうして、特別でいられるのか! 『何か』が、あるんだろう!?」

「『何か』が、お前を変えたはずなんだ! 『何か』が、お前をお前じゃない、どうしようもない奴じゃなくしたはずなんだ!」

「弱くて、情けなくて、ちっぽけでクソの役にも立たない俺を変えてくれ! もう、うんざりなんだよ! みんなが、苦しむところを見るのは、もう嫌なんだよ!」

「『何か』……『何か』! あるんだろう!? 『何か』がないと、おかしい……『何か』が、あって……だから、お前は……俺と、違う……でなきゃ……」

――でなきゃ、認めるしか、なくなってしまう。

「お前が、俺と同じで、弱くてちっぽけで、何の力もない奴だって……」

――何度も膝を屈しそうになって、そのたびに誰かに背中を叩かれて、自分に良くしてくれるみんなに報いたいから、優しくしてもらえたから、返したくて。

「頼むよ、『ナツキ・スバル』。お願いだ。頼むから、やめてくれ……」

――超人であってくれた方が、ずっとよかった。

――自分とは似ても似つかない、■身ともに弱さを超越した存在であってほしかった。

――だから、自分にはできないことができたのだと、納得させてほしかった。

それなのに――。

毟るように本を抜き出して、度重なる『死』に頭を殴られて、そのたびに■を打ち砕かれながら、懸命に、懸命に、泥を啜るように、命を蝕んで。

それでも、最後の最後まで、縋り付ける可能性は捨てたくなくて――。

「――――」

掴んだ本を、開く。

脳みそが掻き回され、■を蹂躙され、魂が凌辱されるのを覚悟で、開く。

だって、痛みや苦しみよりも、最後の希望が絶たれる方がずっと辛いから。

「わかるだろ、『ナツキ・スバル』……」

まるで、同意を求めるみたいに、ここにはいない相手へと呼びかける。

その声の調子が、ひどく覇気を失っていたのは、仕方がない。

だって、意気込むほどの相手じゃない。

そこまでの、男じゃない。――そうあってほしくないと願いながらも、指先は手繰るようにして『死者の書』を抜き出す。

そして、あとはきっと、トドメを求めるような気持ちで――、

「――ああ、わかるよ」

「――――」

白い、白い世界だった。

気付けば、スバルは書庫ではなく、記憶と重なる形のない存在としてでもなく、見知った、ここではない場所へと移っていて。

そこで――、

「わかるよ、ナツキ・スバル」

「――――」

「だって、お前は俺なんだから、な」

白い世界に立ち尽くす、見知った三白眼が、ナツキ・スバルを待っていた。

第六章74 『ナツキ・スバル』

短い黒髪、胴長短足、人でも殺していそうな三白眼。

どれを取っても、嫌になるぐらい見覚えのあるそれが、白い地べたに座り込むナツキ・スバルを見下ろしていた。

「――――」

呆然と、まじまじと、相手の顔を見る。

どこからどう見ても、知っている顔――否、少しだけ違って見える。それはおそらく、本当の意味で見慣れた姿ではないからだ。

普段から見慣れるそれは、鏡や水面に映したものであることが圧倒的に多い。人間の顔は厳密には左右対称ではないので、その分だけ微妙な差異が生まれる。

だから――、

「ああ、そうか。鏡写しってわけじゃないから、ちょっと違和感あるのか。そういう意味だと、こういうのって写真とか録画と向き合ってる方がイメージ近いのかね」

「――っ」

「――? あ、もしかして、同じこと考えてたのか?」

内心を読み取られたような一声に頬が強張ると、相手は的確にその意を察した。

そのことにも■がざわついたが、言い返しても毒にも薬にもならない。そもそも、スバルにとって重要なのは、直近のやり取りなどではない。

もっと大きな、それこそ、全てを揺るがすような問題が――、

「そしたら改めて……よう、兄弟」

「――――」

「いや、兄弟だとちょっと語弊があるか。ここは正確に……よう、もう一人の俺」

片手を上げ、軽い調子で挨拶してくる人物――否、そんな他人行儀な相手ではない。親しい間柄、なんて言い方も生温い関係の存在だ。

だって、そこにいたのは紛れもなく、ナツキ・スバルと同じ顔をした、『ナツキ・スバル』に他ならないのだから。

「――『ナツキ・スバル』」

「……なんか、微妙に変なニュアンス入ってないか? あと、自分のことをフルネームで呼ぶのも……けど、他になんて呼ぶのが正解なのかわからねぇな。漫画とかだとわりとあるシチュエーションだけど、実際、結構悩むわ」

「『ナツキ・スバル』……!」

能天気な発言を重ねる『スバル』に怒りを覚え、スバルはその場に立ち上がる。そして相手の胸倉に掴みかかろうとして、とっさに足がもつれた。

膝の力が入らず、姿勢が崩れて――、

「おっと、危ねぇ」

「――っ、触るな!」

前のめりに倒れかけた体を、正面にいた『スバル』に受け止められる。その腕と触れた瞬間、スバルは耐え難い嫌悪を覚え、相手の腕を振り払っていた。

そのまま一歩二歩と、『スバル』から距離を取り、相手を睨みつける。

「なんで、お前がここに……そもそも、ここはどこなんだ!?」

『スバル』を視界に入れたまま、スバルは周囲の白い世界を手で示す。

白い空間、何もない場所、それはあの『暴食』の大罪司教と、ルイ・アルネブと対峙したオド・ラグナの揺り籠とそっくりで。

「クソ……!」

頭の中がぐちゃぐちゃになる。

ルイと出くわしたのは、塔内を流れる実時間では何時間も前の話ではない。

だが、五つの障害に対して幾度もの試行回数を重ねたスバルにとっては、はるか遠い昔のように思える出来事ですらある。

その上、スバルは『死者の書』で『ナツキ・スバル』の生死を二十回以上も追体験したのだ。『死者の書』の内容は、五分足らずで生死を駆け抜けた短い間隔のモノもあれば、一年以上も何事も起こらなかった時間があったモノもあった。

それらを立て続けに、貪るように味わったのだ。認識が狂わないはずもない。

時間経過は曖昧で、その上、予想もしなかった相手との対面が待っていたのだ。

スバルは目を見開いて、腕を乱暴に振り回しながら、

「なんで、俺はこんなところにいるんだよ!!」

「――それは、お前が俺に追いついた証拠だよ」

「――――」

「お前が『死者の書』を読んで、俺に追いついた。お前が知らなかったこと全部、追体験って形で見てきたはずだ。俺の、異世界生活をな」

「は」

息を切らして怒鳴るスバルに、『スバル』が淡々とした口調で応じる。その平然とした態度を見やり、スバルは奥歯を噛みしめた。

そのすまし顔も、何もかもわかったような態度も、何もかも気に食わない。

――第一、今、この男は、憎たらしい顔をしてなんと言った?

「俺が、お前に追いついた?」

「そうだ。もう、俺のことでお前が知らないことなんて一個もない。だから……」

「――ふ、ざけるなぁッ!!」

「――――」

「俺が、お前に追いついただと? 冗談じゃない! 嘘をつくな! まだだ! まだ、一番大事なことが、もっと重要なことが、何にもわかっちゃいない!」

目を剥いて吠え、スバルは今度こそ『スバル』の胸倉に掴みかかった。

その勢いに、『スバル』は抵抗しない。そのまま相手の胸倉を引き寄せ、互いの息がかかるような距離でその黒瞳を睨みつける。

「――――」

自分そっくりな顔の、黒い瞳の中にそれとおんなじ顔が映り込んでいて、それを見取った瞬間、反吐が出るような自己嫌悪が己の中に湧いた。

その自己嫌悪が、果たして己と、目の前の『自分』と、どちらに抱いたものなのか、その答えはわからなかったし、考えようとも思わなかった。

ただ、その至近距離のまま、相手を睨みつけ、牙を剥く。

「教えろ! お前がここにいるならちょうどいい! 教えろよ! お前が、お前になった理由がどこかにあるはずだ! 俺はそれを見てない。見つけられてない。それを……」

「俺が、俺になる理由?」

「そうだ! お前が、お前になった切っ掛けがあったはずだ。お前が、お前が……」

「――それは、お前も見てきたはずだろ?」

胸倉を掴まれたまま、『スバル』は無抵抗にスバルを見ている。

自分を振り回す腕をほどこうともしない。それが、まるで相手にされていないような錯覚をスバルに与える。

それこそ、一段階、高いところから見下されているように思えて――、

「その目をやめろ!」

「――ぐぁっ!」

そのすました横顔目掛けて、スバルは拳を叩き付けていた。

硬い衝撃が拳にあって、弾かれたように『スバル』が吹っ飛ぶ。同じだけの痛みがスバルに跳ね返ってくる、なんてことはない。

『スバル』が受けた痛みは、『スバル』が受けた痛みで、傷だ。

それは、ナツキ・スバルが受けたものとは、違う。

「それを、知ったような言葉を並べて……そうか、わかったぞ」

スバルに殴られ、片膝をつく『スバル』。殴られた頬を手の甲でこする姿を見て、スバルは得心がいった。

目の前の、この何でも知ったような口で語る相手は、間違いない。

そもそも、ここがオド・ラグナの揺り籠――記憶の回廊だとしたら、いの一番に警戒しなくてはならない相手ではないか。

「お前、ルイか? 『暴食』の大罪司教! またお前なんだろ!?」

「……俺が?」

「とぼけるな!」

前回、記憶の回廊で遭遇したルイは、あの手この手でスバルと『ナツキ・スバル』との分離を促し、その存在を頭から喰らい尽くそうとした。

あのときは間一髪、その牙から逃れることができたが、あれでお行儀よく諦めてくれるようなら、彼女たちは大罪司教などと呼ばれない。

大罪司教がどれほど醜悪で、救いようがない存在なのかも全て見てきた。

ペテルギウスも、レグルスも、シリウスもカペラも、最低最悪の人格破綻者たちだ。それはライもロイも、そしてルイも例外ではない。

レイドの『死者の書』の中で待ち構えていたルイが、今度は如何なる手段を用いてか、『菜月・昂』の『死者の書』へと潜伏していたとしたら。

こうして、スバルを堂々と待ち構えていたことも合点がいく。

「それが真相だろ、『暴食』! ルイ・アルネブ! 姿かたちを変えられるお前なら、俺をこうやって混乱させるくらいわけない!」

他者から奪った『記憶』と『名前』を頼りに、相手の技量どころか、その姿かたちまでも強奪し、我が物として咀嚼するのがルイ・アルネブの権能だ。

その悪辣さは、塔内でも遺憾なく発揮されてきた。その発揮する場所が記憶の回廊へ変わったところで、何の違和感もない。

「そうやって、俺を食い荒らして今度こそ乗っ取るつもりか? いっぺん振られたのにしつこい奴が……そんなに『死に戻り』したいのかよ!?」

躊躇なく、『死に戻り』という単語を口にする。

それを口にすることで、幾度となく地獄の苦しみを味わった記憶を追体験した。心臓を握り潰されるような激痛を伴うペナルティ。だが、それが自分への苦痛だけで済むのであればまだいい。――それがエミリアや、周囲へ及んだ場合と比べれば。

しかし、わずかな恐怖を踏み潰して叫んだスバルに、ペナルティは発動しない。

目の前の『スバル』も、心臓を握り潰された様子は皆無だ。一瞬、同じことを警戒していたのか、『スバル』も魔手の未登場に安堵したのがわかる。それが、腹立たしい。

自分と同じ顔をして、自分と同じ感慨を抱く。――あくまで、自分と相手が同じモノであると、そう主張されているように思えて。

「――っ! いい加減、わかれよ! これがそんなにすごい力か? 憧れるような力か!? 死んで、やり直せるだけだ。死んでやり直して……それ以上でも以下でもない。使う俺がクソなら、結果だってクソだ! だから……」

「――――」

「だから、誰も救えなかった。……みんな死なせる。俺が弱いせいで、みんな、悲しませるんだ。今も、誰も救えないみたいに……!」

――『死に戻り』なんて、碌なモノじゃない。

まさしく、クソみたいな劣悪な力だ。

こんなもの、必要ない方がずっといい。この力が素晴らしいものだと、この世で最上のものだとでも言いたげな魔女がいたが、全く同意できない。

蟻に大砲を持たせても使いこなせない。結局、分不相応なのだ。

弱くてちっぽけで、独りぼっちで泣いて駄々をこねる子どもだ。

あの夢の茶会で、魔女たちが言っていたことが正しい。どうにもならない。弱い。拾えない。使われない。それがわからない『暴食』も、『強欲の魔女』もクソだ。

いったい、何度騙されて、何度希望を踏み躙られ、何度■を挫かれれば学習する。

なんで、何度も騙されて、何度も希望を踏み躙られて、何度も■を挫かれて、それでもまだやろうと思える。

『死に戻り』は、世界の嫌なところばかりを見せてくる。

理不尽を、不条理を、目を背けたくなるような運命を、見せてくる。

それなのに、どうして――、

「――みんなが、好きなんだよ」

いつしか、スバルはその場に項垂れ、膝をついて、呪いのように叫んでいた。

そうしてすすり泣くようなみっともない訴えに、『スバル』は首を横に振る。首を横に振りながら、今一度、重ねて言った。

「――みんなが好きなんだ。だから、やめられない」

「――――」

殴られた頬の赤みを指で拭って、スバルの代わりに『スバル』が立ち上がる。

同じ服装、同じ面構え、同じ顔と名前を持つ、決定的に自分とは違って見える『ナツキ・スバル』――それが、ナツキ・スバルを見ながら、

「お前の置かれた立場のしんどさは、正直、想像するだけで嫌になるよ。何もかもまっさらな、初期レベルの状態に戻ったってのにステージ6からスタートだ。お前が吐いた泣き言も、全部わかる。それは、俺も何度も味わった傷だから」

力不足を、知識不足を、何度も味わった顔だった。――否、何度も味わったのだ。

『スバル』が味わった敗北を、苦痛を、『死』の嘆きを、スバルは全部知っている。全部この目で見てきた。全部、この体と、■で味わってきた。

味わってきたからこそ、それが嘘ではないとわかっているからこそ、『スバル』の言葉を受け入れられない。受け入れたく、ない。

「俺が強ければ、俺が賢ければ、俺がもっと、もっと……悔しいよな」

「わかったような、ことを……! お前に、俺の何が」

「わかるよ。お前も、俺がわかるってことがわかるはずだ。不毛な言い合いだよ、実際。俺にとっても、お前にとっても」

「――っ」

反論の言葉に力がない。当然だった。

反論とは、相手の意見をはねつけ、納得がいかないと打ち払い、お前が間違っているんだと叩き潰す。そうした意思が必要なのだ。

それを、『スバル』に向けることが、今のスバルにはできない。

だって、知っているから。

それが嘘でも欺瞞でもなく、『ナツキ・スバル』の全部だと、知っている。

「お前の記憶なんか、見るんじゃなかった……」

「勝手に人の日記見といて、そりゃねぇだろ」

「お前の記憶なんか、見るんじゃなかった!」

不貞腐れたような『スバル』の声が聞こえて、スバルは強く拳を握った。

殴って、罵声を浴びせて、それでもなお、対話の姿勢を崩さない『スバル』が、スバルよりずっと大人びて思える。それも、当然なのかもしれない。

なにせ実際、『スバル』はスバルより一年分、年上のはずなのだ。

それも、異世界で濃厚な経験と、幾度もの『死』を体験し、その上でたくさんの絆を紡いで、今の自分という立場を獲得していて。

それでも――、

「お前の記憶なんか、見るんじゃなかった……っ」

重ねて、スバルは重ねて、その言葉を用いる。

今一度、同じ後悔を重ねたスバルに、『スバル』は何も言わなかった。返事を求めていないスバルは、うわ言のように続ける。

「俺は、お前に希望を見てたかった。お前がすげぇ奴で、お前のすごさを支えてる『何か』がわかったら、俺も同じことができるんだって。なのに……」

それなのに、わかってしまった。

全部、見てしまった。

『ナツキ・スバル』が、ここにいるナツキ・スバルと何も変わらない、弱くてちっぽけな男なのだと、わかってしまった。

スバルの知らない時間で、スバルの知らない人たちと出会い、スバルの知らない物語を駆け抜けて、スバルの知らない景色を見ただけの、凡人なのだと。

「――お前を否定して、もっともらしいことを言ってやりたかった」

だけど、それができない。

「だって、お前の気持ちはわかる。――お前は、俺なんだから」

『ナツキ・スバル』の見てきた世界、味わってきた世界を、見てきた。

『ナツキ・スバル』がこの世界を、そこで生きる人たちを、エミリアたちを好きになって、好きでい続けるために、受けた傷を全部見てきた。

勘違いしていた。思い違いしていた。

自分のことなのだから、思い上がっていたの方が適切かもしれない。

『ナツキ・スバル』が超人であるなんて幻想、砕かれて、打ち捨てられたのだから。

「ああ、わかってるよ! わかってたよ! お前が……お前が何度も立つのは、何度死んでも諦めないのは、そうできないだけだってことを!!」

スバルと同じように、どうにもできない壁に『スバル』も何度もぶつかっていた。

そのたびに何度も何度も死んで、『死』を重ねて、状況を変えて、出会い方を、繋がり方を変えて、『スバル』は困難を乗り越えてきた。

それだけだ。

「レムにあれだけ言われて、立ち上がれない奴がいるか!? オットーにぶん殴られて、自分が思い上がってるって気付いたよ! 父さんとお母さんが、あんな風に想ってくれてることぐらい、俺はずっと知ってた! だって、俺の父さんとお母さんなんだから!」

『ナツキ・スバル』が通り過ぎた景色を、乗り越えるために必要だった切っ掛けを、スバルが求めた『何か』ではない、ただ積み重ねただけの願いが、確かにあって。

「エミリアが好きだ。守ってあげたい。一緒にいたい。俺を騎士にしたいって、そう思ってもらえたんだ。嬉しかった。嫌われるんじゃないかって怖がってるあの子が、何の心配もなく出歩いて、みんなに好きだって思ってもらえる子なんだって自慢したい! ベアトリスをようやく連れ出せた。あの子が苦しんでた時間の分だけ幸せにしてやりたい。幸せになる権利があるんだよ、あの子には!」

だから――、

「――お前が諦められないのは、お前がただ、みんなが好きなだけだ! クソ野郎! なんで超人じゃねぇんだよ!! なんで、馬鹿なガキのままなんだよ!!」

「――――」

「ラインハルトみたいに強くあれよ! ユリウスみたいに何でもできる奴になれ! それができなきゃフェリスみたいに役立てよ! ヴィルヘルムさんみたいに、何か一つでも極めてみたらどうだ!? お前が、どれか一つでも……」

時間をかけて、苦しい思いまでして、思い知ったのは、それだけ。

『ナツキ・スバル』が凡人で、今のスバルが持っているのと変わらない手札しか持っていなくて、その切り方すら下手くそで、勝負運もない。

その、どれか一つでも――、

「どれか一つでも……」

力なく、勢いの失われた声で、呟く。

どれか一つでも、どれ一つさえも、何も手に入らない手を、握りしめて。

「……お前、ルイじゃ、ないのか」

掠れた声で、それまでと繋がりのない問いかけが出た。

それを聞いて、長く沈黙していた『スバル』が「ああ」と頷く。

「違う。俺はルイじゃない。残念ながら、とは言わないぜ。あいつに茶々入れられるのは御免だ。あいつが性格最悪なのは説明いらないよな?」

「ああ……そう、だな」

小さく、弱々しく答えて、スバルは自分の顔を腕で覆った。

直前までの、喉が嗄れんばかりの叫びはなりを潜め、じくじくと、『スバル』を殴った拳が今さら痛みを訴えてくる。

ここが記憶の回廊なら、ここにあるスバルの体は実体とは言えないはずなのに、痛みを感じるなんて理不尽な話だ。

――そう、痛みとは、『死』とは、いつだって理不尽で、耐え難い。

だからこそ、『暴食』の大罪司教、ルイ・アルネブは間違っている。

あれを自ら望むなんて考えは、間違いなく間違っているのだ。

「……どうして、消えたんだよ」

「うん?」

「どうしていなくなったんだ。お前が消えて、それで、どれだけ苦労したか……」

消えない無理解と、全ての始まりとなった切っ掛け。

『ナツキ・スバル』が消えて、ナツキ・スバルが生まれた理由。

記憶と共に消えた『ナツキ・スバル』の身に、いったい何があったのか。

「お前が消えたのは……」

「……それは俺の凡ミスだ。レイドの攻略法を探るつもりで『タイゲタ』に入った。で、首尾よくレイドの本を見つけたところまではよかったんだが……」

「……そのとき、レイドの本は空っぽで」

「そこで『暴食』と鉢合わせた。あとは、言わなくてもわかるだろ」

頭を掻いて、自分の恥を振り返る『スバル』。

記憶の回廊でルイ・アルネブと遭遇し、『ナツキ・スバル』は『記憶』を奪われた。そして、それまでの異世界での生活を全て忘れ、自分自身はもちろん、周りの人たちの気持ちもわかってやれない、ナツキ・スバルが誕生したと。

「そう自分を卑下するなよ。……って言っても難しいか。お前、俺だもんな」

「……『ナツキ・スバル』は弱くて、ちっぽけで、救いようのない大馬鹿だ」

「違いねぇ」

「でも」

「――?」

力なく呟くスバルに、苦笑しながら同意しようとした『スバル』が眉を上げる。

そんな『スバル』を見ながら、スバルは区切った言葉の先を口にする。

それは――、

「――お前は、すごい奴だよ、『ナツキ・スバル』」

――それは、二十回以上の『死に戻り』を見てきた、掛け値なしの本音だった。

△▼△▼△▼△

「――――」

ゆっくりと、正面に立っている男を見据えながら、目を細める。

見慣れた顔で、見飽きた顔で、見苦しい顔だとも思うが、自分だ。自分であって、自分ではなくて、自分だけれど、自分だとは思えない。

その顔が、初めて意表を突かれたような反応をしていて、小気味よかった。

「……一番身近な他人、か」

自分自身を、心の底から好きになれる人間は多くない。

スバルは特にその手合いで、スバルは自分が嫌いだった。それはたぶん、『ナツキ・スバル』も違わない。――スバルは、『スバル』は、自分が嫌いだ。

だが、一番身近な他人として、ナツキ・スバルが『ナツキ・スバル』を見たとき、こんなことを言うのは何とも面映ゆいが、カッコいいと、思えたのだ。

「弱くて、どうしようもなくて、何にもできなくて、それなのに足掻いて、あいつらのことが大好きなお前を、尊敬する。だから――」

「――――」

「――俺が、お前の『死者の書』を読んだ意味は、そこにあったんだ」

ただ、無力さを噛みしめ、手掛かりが途絶えたことを悔やみ、自分と同じ顔をした自分に恨み言をぶつけるために、『死者の書』が開かれたわけではなかった。

もちろん、超人ナツキ・スバルのルーツを辿り、比類ない力を手に入れるという、誇大妄想を叶えるためでもない。

『ナツキ・スバル』がただの人間であることを知り、その行いを、道筋を、認める。

「……いきなり、恥ずかしい奴だな、お前」

それまで、スバルの発言にフリーズしていた『スバル』が不意に動き出した。

『スバル』は目を細めて、不機嫌に――否、どこかバツの悪い様子でスバルを睨み、ゆっくりと自分を指差すと、

「自分で言うのもなんだけど、俺のこれまでを見返して、よくそんなこと言えるな。言ってみたら、『ナツキ・スバルのゼロから始める異世界生活』ってヤツだぞ」

「ああ、主役の名前が自分と同じだと変な気分になるよな」

「ヒロインが母ちゃんの名前よりはマシだろ。……いや、そうじゃなく」

ぽんぽんと軽口を応酬し、スバルは『スバル』と視線を交わす。

どこか肩透かしを味わった風な『スバル』、彼は自分を手で示すと、

「さっきはああ言ったけど、本気でそれでいいのか? 俺が、ルイの偽物って可能性が完全に消えたわけじゃないはずだぞ」

「消えたよ。本気で殴っても戻らなかった」

「それで元に戻るのは柳沢のコピー能力の場合だけだから……」

『スバル』の訴え通り、それを本気で根拠にするわけではない。

しかし、この時点でスバルは、『スバル』に対する疑いを手放してしまっていた。

それはたぶん、さっきの『スバル』の一言が原因だ。

仮に、ルイ・アルネブが他者の人生を頭から尻まで、余すところなく喰い尽くせたとしても、あの顔は、声は、再現できないと思ったのだ。

彼女には幸福が、幸いが、幸せが理解できないから。

だから――、

「誰も愛せないあいつには、誰かを好きだから『死に戻り』する気持ちはわからない」

「――――」

目の前の『スバル』が押し黙り、スバルは長く、痛々しい息を吐いた。

口に出してしまえば、それはひどく陳腐で、耳心地がいいだけの綺麗事でしかない。それなのに、それ以外の答えが見つからなかった。

だから、目の前の『スバル』は、紛れもなく、『ナツキ・スバル』であるのだと。

「お前、どうしてここにいるんだ? 俺を待ってた、のか?」

目の前の『スバル』を、自分と同一のルーツを持つ存在だと認める。

その上で、浮上してくる疑問は、ここで二人のスバルが顔を合わせたことだ。

そのスバルの質問に、『スバル』は真っ白い床を踏みしめて、

「俺とお前がここで顔を合わせたのは、俺とお前の唯一の接点がここだからだ」

「俺とお前の、接点……」

「塔内で、『記憶』のある俺と、『記憶』のないお前が交差するのは、この周回の『死者の書』だけだ。ここからあとでも、ここより前でも、俺とお前は出会えなかった」

「――。やっぱり、最初の質問に戻るぞ。なんで、お前はここにいるんだ?」

『スバル』の説明が腑に落ちず、スバルは再度、同じ問いを投げる。

厳密に言えば、ここで二人のスバルが顔を合わせることは筋が通らない。『記憶』のあるスバルと、『記憶』のないスバルが同時に存在することになってしまう。

――『死者の書』の作成されるルール、その正確なところはわからない。

言い始めれば、そもそも『菜月・昴』の本が、これまでの死亡回数の分だけ積み上げられていたのもおかしな話だった。それこそ、『菜月・昴』の『死』を世界が外側から観測して、記録していなければ成立しない事象だ。

その、観測者の役割をオド・ラグナが果たしていたというのか。

「でも、だったら記憶の回廊にいたルイが、『死に戻り』を観測して、あんなにはしゃいでた理由がわからねぇ。外から、それが認識できるなら……」

「あいつは記憶の回廊に居座ってるだけで、あそこの支配者ってわけじゃない。あそこの支配者は……たぶん、もっと性格悪い奴だろうと思う。この状況から考えると」

「性格悪い奴ってのはわかる。最有力なのは……」

そこで一度言葉を切り、スバルと『スバル』は口を揃えて言った。

「「――『賢者』フリューゲル」」

それが、性悪最有力の人物と言える。

このプレアデス監視塔の建設に関わり、レイドを置くような『試験』を設置して、さらにはシャウラにいつ終わるとも知れない四百年の苦行を課した人物。

正直、シャウラが不憫だ。可能なら、その師匠とやらから奪ってやりたい。

「じゃあ、『記憶』の有無の俺が同時に存在する理由は……」

「――。答えの出ないタイプの疑問だ。俺がここにいて、お前がここにいる以上」

「それは、そう、なのか……?」

引っ掛かりを覚えたが、『スバル』の言葉を受け止め、スバルは顎を引く。

実際、出題者がいない類の問題には違いない。何らかの理屈に辿り着けたとしても、結局それは答えを得られないだろう。

この疑問を、突き詰めて答えを出さないとならないとすれば、それは――、

「お前が、本当にルイ・アルネブじゃない限りは、問題にならない」

「しつこい確認だな。お前、ホントに信じてる?」

「信じてる信じてる。もう一回、反対側も殴らせてくれたらもっと信じる」

「そっか。じゃあ、お買い得だなってならねぇよ」

気安い調子で軽口を交換し、『スバル』の言葉にスバルが肩をすくめる。

そうやって、話の中核をずらそうとする卑怯な話術は、他人からならともかく、自分のものだと見え透いていすぎる。

だから、スバルはあえて、三度、同じ質問を投げかける。

「なぁ、もう一人の俺。――何のために、お前はここにいるんだ?」

「――――」

「わかるだろ、とか聞かないのな」

沈黙を選んだ『スバル』の態度に、スバルは黒瞳を細めて呟いた。それを聞いても、さっきまでのような軽口は返ってこない。

その代わり、『スバル』の黒瞳に浮かぶのは、最初からずっとあった輝きだ。

たぶん、それは、いわゆる、罪悪感というやつで――、

「――なぁ、記憶の統合って、どうなると思う?」

だから殊更に、明るい調子でスバルはそう問いかけた。

△▼△▼△▼△

「――この手の話のパターンって、どっちがどうって答えってあんのかな」

「わからん。明確な、これって答えはない気がする」

「実際のところ、お前の方がここに詳しそうだけど、知ってると有利なルールとか俺より知ってるとかない?」

「俺の解体新書は読んできただろ。五分五分だよ」

「五分五分か」

「五分五分」

「……うっかり、俺とお前がぶつかり合って対消滅、とかしたらどうする?」

「言うなよ。お前が不安に思うことは、大体俺も不安に思うんだから……」

「そりゃそうか。なら、どっちが勝っても恨みっこなし、でいい?」

「いや、めちゃくちゃ恨むけどね、俺は。で、俺が恨むってことは、お前も恨むってことだから」

「まぁ、そうだな。たぶん、そうだな。うーん、■が狭い」

「なんだって?」

「■が狭い……あれ、なんか変?」

「……いや、たぶん、聞き間違いだと思う」

「――――」

「――――」

「ああ、そうだ。もしかしたらってことがあるから、いくつか言っておきたいことがあるんだけど、言ってもいい?」

「まぁ、ここまできたら何でも言ってけよ」

「こっちの世界のこと、俺よりお前の方が基本的に詳しい……そのアドバンテージも、『死者の書』読んだからほとんど消えたけど、ちょっと変わったこともあるだろ?」

「変わったこと?」

「『記憶』がなくなったあと、俺がみんなと話したり、みんなのこと知ったりして……お前が知らない、『ナツキ・スバルのゼロから始める異世界生活』の話だよ」

「――――」

「まず、メィリィな。あいつ、ちょっと色々爆弾抱え込んでて大変だけど、話せばわかる奴だからちゃんと話してやってくれ。今、俺の中でメィリィ先輩が熱い」

「ああ、わかった」

「それと、塔の中にでかいサソリがうろついてるんだけど、それの正体はシャウラな。だいぶ危ない感じに仕上がってるんだが……それ、あいつがやりたくてやってるわけじゃないんだ。あいつも、助けてやってくれ」

「ああ、わかった」

「お、そう言えば言い忘れたけど、ルイと会ったときにレムに背中蹴っ飛ばされたよ。そのとき、俺はレムのこと覚えてなかったから、レムがどんな子なのか思い出したのは本を読んだあとだったけど……うん、さすが、俺のレムだった」

「いや、俺のレムだから」

「いや、俺の」

「俺の」

「――――」

「――――」

「ラムが言ってたな。雪解けの季節になったら、見えなくなったものがちゃんと見えて、顔を出すはずだからって。……さすがだ」

「ああ、そうだな」

「ユリウスの奴については……まぁ、別に言わなくても大丈夫だろ。俺とかお前が何か言わなきゃいけないほど、頼りない奴じゃないんだから」

「ああ、同感」

「父さんと、お母さんに謝ってくれて、ありがとう」

「ああ、うん」

「オットーと、ガーフィールを助けてくれて、ありがとう」

「ああ」

「ペトラもフレデリカも、アーラム村のみんなも、助けてくれて、ありがとう」

「ああ」

「ベアトリスを、連れ出してくれて、あの子と手を繋いでくれて、ありがとう」

「――――」

「エミリアを……」

「――――」

「エミリアを、好きになってくれて、ありがとう。俺も、あの子が好きだ。大好きだ」

「……ああ、わかってる」

「――ナツキ・スバル。お前はすごい奴だって、俺はちゃんとわかってるから、お前ならきっと大丈夫だから」

「ああ」

「――――」

「うん。……そうだな」

「――――」

「ああ。――俺たちなら、大丈夫だ」

△▼△▼△▼△

「大丈夫、か」

「そうだよな。大丈夫だよな」

「ちゃんと、お前がすごいって、わかってるから」

「……ああ、でも、うん。これは、言わなきゃだ」

「――――」

「――俺の夏休み、終わっちゃった、な」

△▼△▼△▼△

――手と手を合わせる、ベタなやり取りが最後だった。

「――――」

息を吸い、吐く。

おそらくは、イレギュラーな形で統合は行われた。――否、本来なら、統合なんてプロセスはこの場所で行われる想定にない。

スバルの存在自体、起きた出来事自体、全てがイレギュラーだった。

だから――、

「――――」

立ち尽くす自分の頬を涙が伝うのを、スバルは顎から滴った雫でようやく気付く。

何となく、それを拭う気になれなかったのは、その流れる涙がきっと、スバルが流したものではないように思えたから。

スバルの中で、今、ゆっくりとスバルと溶け合う誰かが、流した涙。

そうして、深々と呼吸を繰り返し、自分の頭の中に意識を巡らせる。その、自分自身の記憶の中に焼き付いているのは――、

「――っ」

不意に、ナツキ・スバルの無自覚な、二十回の『死』がフラッシュバックした。

いずれも、塔の中で足掻きもがき、その過程で味わうこととなった『死』の数々――引き継がれるかどうか、不安視されていた部分は繋がった。

繋がりは、したが。

「お前も、十分以上にやべぇ橋渡ってるじゃねぇか……!」

散々、スバルを称賛する言葉を並べたもう一人の自分。その孤軍奮闘と、仲間を信じてからの悪戦苦闘ぶりを呑み込んで、スバルは理解する。

確かに、スバルが言っていた通り。――お前のことなら、尊敬できる。

そんな感慨と、異様に速い拍動を押さえ込むように深呼吸して、頷く。

それからスバルは顔を上げ、前を見つめた。

それは、変わらぬ白い空間。

イレギュラーな事態が作り出した、記憶の回廊に生じた空白地帯。

つい、数瞬前まで、スバルと手を合わせる、もう一人のスバルがいた場所。――そこでへたり込む、小柄な人影を見下ろし、スバルは黒瞳を細めた。

そして――、

「どうだ。お前が見たがってたものは見られたかよ。――ルイ・アルネブ」

『死者の書』を読み進め、この場へ辿り着いて消えたナツキ・スバル――否、ルイ・アルネブへと、スバルは静かにそう問いかけた。

第六章75 『ルイ・アルネブ』

――幸せに、なりたい。

△▼△▼△▼△

――人生の良し悪しとは、生まれと環境が決める大博打。

それが、ルイ・アルネブが『暴食』の大罪司教として、無数の人間の人生を食い漁った果てに得た哲学だった。

ルイ・アルネブは、『暴食』を冠する大罪司教の三兄妹、その末妹だ。

元々、その活動の規模と統制の杜撰さに反して、驚くほど内情の知られていない魔女教だが、とりわけ大罪司教については多くが謎に包まれている。

出会った人間の大半が命を落としていることが主な原因だが、それでも大罪司教の中で名が知れ渡っているのは――否、過去形なので、『知れ渡っていた』のは『怠惰』と『強欲』の二人だっただろう。

その他に、『憤怒』と『色欲』、そして『暴食』の大罪司教がいることぐらいは知られていても、それらがどんな輩であるかは長年謎に包まれてきた。ましてや、『暴食』の三兄妹の末妹、ルイ・アルネブの存在は同じ大罪司教ですら例外を除いて知らない。

秘匿された大罪司教、それがルイ・アルネブの立ち位置だった。

「まぁ、私たちが望んだってわけじゃないんだけどサ」

生まれたときからずっといる白い空間で、ルイは足を伸ばしながらそう呟く。

行きがかり上、ルイはこの空間から出られず、誰とも会うことはできない。『暴食』の権能も極々限られた場所でしか振るえず、宝の持ち腐れというやつだ。

しかし、二人の兄のおかげで、食事に不自由したことだけはなかった。

兄たちが食した『記憶』や『名前』――つまりは他人の人生を、横からつまみ食いすることで空腹を満たすことができたからだ。

「なんで、あたしたちはこんななのかなァ?」

兄たちのおこぼれで空腹を満たし、他者の人生を貪りながら、少しずつ自己を形成していったルイは、すぐに自分が他人と全く違う境遇にあることを知った。

自由になる体がなく、動かせるのは意識だけ。

歩いた『記憶』はあるのに、歩いた経験はない。それが、自分という不良品。

「ああ……私たちって、なんて不幸な身の上なの」

自分が『不幸』な境遇にあると、ルイはそう自覚していた。

そして、いくら嘆こうとも、その環境が変えられないことも理解していた。

そんな悲嘆に暮れる妹を慰めるように、兄たちは競い合うように食事をする。そうして妹に、自分たちが食べたものと同じ皿を提供する。

その兄たちの運んでくる皿には、それぞれの個性が大いに溢れていた。

『美食家』を名乗るライは、良くも悪くも味付けの濃い人生を愛する。

『悪食』のロイはとにかく数を優先し、雑味で空腹を満たすことに夢中になる。

ルイとしては、どちらかといえばライの選んだ皿の方が楽しめることが多かったが、無節操に食い漁るロイの選んだ皿からも得るものは多かった。

多くの人生を咀嚼し、味を比べ合い、舌の上と頭の中で転がしてわかったこと。――それは、『幸福』の絶対量の差だ。

他人の人生を自らの価値観で比較できる力を持ったルイは、貧富の差や愛情の有無、生育環境から家族や友人、恋人の存在など、様々な項目を加減方式で採点し、他人の人生に次から次へと点数を付け、格付けを行っていった。

生まれつき裕福であるから。両親や兄弟に愛されているから。順風満帆に試練のない人生を送れているから。友人が大勢いて、困ったときに手を差し伸べてもらえるから。才能に溢れ、自分の得意なことで他者を上回れるから。

あれやこれやあれやこれや、幸不幸問わず、理由はいくらでも、捨てるほど。

ひどく傲慢で思い上がった考えだが、ルイにはそれを可能とする権能があった。

それは言い換えれば、後ろから他人のプレイするゲーム画面を覗き込み、ああすればよかったこうすればよかったと、ぐちぐちと指差しながら嘲笑う行為に等しい。

画面越しに侮蔑と嘲弄をぶつけ、傍観者として他人の人生を好き勝手批評する。罵声を浴びせるのも、好悪の区別がない剥き出しの感想をぶつけるのも思うがまま。

ルイの行いはそれだ。自分本位な格付けと、身勝手な誹謗中傷。

だが、最初は愉しめていたそれも、すぐに飽きがやってきた。

当然だ。ルイができるのは、過ぎ去った『記憶』への批評であって、それ以上の干渉ではない。現在や未来に物言いすることはできないのだ。

他人のゲームプレイを貶しても是正しようとしても、その指摘に相手が耳を傾けることがないのだから興ざめである。

下手な人間のプレイを延々と眺めているなど、退屈どころか拷問に近い。

「あたしたちにやらせてくれれば、もっともっともーっとうまくやってやるのに。どいつもこいつも下手くそなんだからサ」

自分の人生を歩く足を持っているくせに、困難を切り開く腕があるくせに、未来を思い描く頭があるくせに、他人は誰も彼もが能無しだった。

それはルイの兄、ライとロイも例外ではない。むしろ、無能の権化と言っていい。

『記憶』を覗き込めば、その人生の何が失敗で、どこで取り返しがつかなくなったのかがよくわかる。どれもこれも、ひどく単純で些細な失敗の積み重ねだ。

何故そんなところで躓くのか、ルイには全く理解できなかった。

「下手くそ、下手くそ、下手くそ。適当に生きるなら、私たちに寄越せよ、その人生。あたしたちの方がずっとずっとずーっとうまくやれる。みんなみんなみんな、無能すぎる」

次から次へと、唾棄すべき『人生』が皿として並べられる。

それらをいくつもいくつも咀嚼して、ルイは怒りのあまり、吐きそうになった。

そんなルイの■情もわからず、次々と自分の欲望を満たすための食事を続ける兄たちにも腹が立った。吐きそうな顔をした妹を気遣うこともせず、満杯の皿を絶え間なく供給し続ける愚行、これを憎まず何を憎む。

「あァ、美味しそうに食べるなァ、お兄ちゃん」

「あァ、楽しそうに食べるなァ、兄様」

「――あァ、私たちは、あたしたちは、今にも今にも、吐きそうサ」

それが、ルイ・アルネブが『飽食』を名乗る理由。

食べても食べても満たされない飢餓。

彼女が飢えているのは体ではなく、■の方であるのだから。

△▼△▼△▼△

――幸せに、なりたい。

――幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。

△▼△▼△▼△

「――あはははは! これが、これが外を歩く気持ちなのね! お兄ちゃんも兄様も、こんなのずっとしてて……あァ、ズルいズルいズルい!」

強制された不自由の中、束縛される自意識は拡大の一途を辿る。

食事が人間の健やかな成育を促進するように、望まぬ皿を与えられながらも、ルイはすくすくと順調に成長していく。

それはライとロイ、二人の兄たちも同じだ。

兄たちも奔放に、自分自身のエゴを肥大化させ、より食事に熱■になっていく。そんな兄たちの無神経な食選びに、ルイはとにかく苛立っていた。

その変化は、そうしたルイの成長と、苛立ちが生み出した副産物だった。

「これが外の空気! これが外の水! これが外の土! これが外の血! あァ、すごいすごいすごい! 本物だ! 本物だァ!」

地べたに寝そべり、愛おしげに土を舐めながら、全身で世界を堪能する少年――否、その肉体こそライ・バテンカイトスを名乗る人物のものだが、その中身はそれと異なる。

その肉体の支配権を持って、自由に動かしているのはライではない。

生来、白い世界から離れられない宿命を負ったと思われていたルイ・アルネブ――悲劇の大罪司教が、初めて白い檻を破った姿だった。

偶然だった。

よもや、権能にこうした力があるとは思わなかった。あるいは渇望するルイの精神が権能を開花させたのか、答えは定かではない。重要でもなかった。

重要なのは、これが実現できたこと。――外を、歩けたこと。

「あはははは! あはははははは!」

限定的な現実への干渉、その結実にルイは盛大に嗤った。

兄たちの体を借りて、その肉体を、権能を自由に操ることが可能となった。

そして――、

「はァ? ライ、これって何のつもりなのかなァ。『美食家』なんて気取ってえり好みしてる間に、お腹が減りすぎておかしくなったんじゃないの?」

「あっははは! 違う違う、全然違うよ。違うし、違うから、違ってる、違ってるから、違ってるよ、違ってるからこそ!」

「――――」

「あたしたちは、魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブ」

そう言って、困惑した様子のロイ・アルファルドへと、ルイはライ・バテンカイトスの体を使って挨拶する。

何故なら、兄たちと会話することさえ、これが生まれて初めてだったから。

「お兄ちゃんと兄様の、可愛い可愛い三つ子の妹だよ。よろしく愛して、よろしく慈しんで、よろしく言祝いで、よろしくお願い、ね?」

△▼△▼△▼△

――幸せに、なりたい。

――幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。

――幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。

△▼△▼△▼△

兄たちの体を借りて、外の世界へ干渉する手段を得た。

兄たちの食事の供給は止まらず、空腹に苦しむことは相変わらずない。

しかし、そんな待望の機会と、焦がれ続けた外の世界へ飛び出して、ルイ・アルネブはすぐに飽いた。――飽いてしまった。

「思ってたより、外って退屈なんだァ」

結局、借り物の体は借り物の体だ。

自由にならない自分の本体が、白い世界で閉じ込められているのは変わらない。

むしろ、その陰影をしっかり見極めてしまい、自分で自分の首を絞めた。

「結局、人生なんて……何を食べるかでも、どれだけ食べるかでもない。誰と食べるか、なのにサ」

兄たちは、自分の人生を生きている。だから、求めないのだろう。

ルイだけが、自分の人生を奪われている。だから、求めてやまないのだろう。

「幸せに、なりたい」

白い世界で、無数の『記憶』を散らかしながら、一■不乱にそれを望む。

それがルイ・アルネブの一番の――あるいは、唯一の願望かもしれなかった。

「幸せになりたい」

満たされない願望。

それは兄たちの体を借りて、他者を思う存分、足蹴にしても一向に晴れない。

芳醇な『人生』を味わい、一時の快楽に酔い痴れても、すぐに空しくなる。

「幸せになりたい」

飽いてしまう。飽いてしまった。

自分用の、自分だけの、人生が欲しかった。体が、魂が、運命が欲しい。

「幸せになりたい」

ルイは不幸だった。

ルイの不幸の始まりは、自分自身の人生がどこにもないことだった。

「幸せになりたい」

だが、ルイは同時に自分を知ってもいた。

飽き性で、投げ出しやすい自分が、不意に湧いた人生を得られたとしても、それに満足することなどありえない。だって、知ってしまった。

この世界には無数の人生があり、それらには幸福の絶対量に差があり、そしてそれらは本来、どうにもならない大博打の果てに決定するのだと。

過酷なグステコ聖王国に生まれた貧しい家の人間はどうなる。

強者が尊ばれるヴォラキア帝国に生まれた生来の弱者はどうなる。

常の進歩が望まれるカララギ都市国家に生まれた足の遅い愚者はどうなる。

古い因習に蝕まれたルグニカ王国に生まれた混血は、銀髪の半魔はどうなる。

それらが碌な目に遭わないことを、ルイは他人の身をもって知っていた。

しかし、だから恵まれていれば幸福なのかといえば、それも大間違いだ。

グステコ聖王国の大司祭の家に生まれつこうと、ヴォラキア帝国の将軍の家に生まれつこうと、カララギ都市国家の大商人の家に生まれつこうと、ルグニカ王国のいかなる大貴族の家に生まれつこうと、上を見ればキリがない。

ルイは、劣っていたくない。恵まれていたい。見下されたくない。

他人の人生の格付けを行ってきた。

その中の低評価の人生はもちろん、最高評価の人生だろうと、全ての採点項目が最高であるわけではない。その、最高評価の人生にすら満足いかない。

「あァ、幸せになりたい」

――ライとロイが、新たな権能の変化を、『蝕』を見つけ出したのはそんな折だ。

『暴食』の権能が有する力は、他者から『記憶』を、『名前』を奪い取り、咀嚼する力。それを応用し、奪い取った他者を再現する『日食』と『月食』の権能。

他者の『記憶』から技や知識を引き出し、我が物のように利用する『月食』。

それはあくまで技術を引き出すだけなので、身体能力などへの恩恵はなく、十全にその力を使いこなせない可能性が高い。

一方、『日食』は取り込んだ『名前』を元に、相手の存在を丸ごと再現することで、その肉体で磨かれた技を完全再現し、最大限に力を発揮することができる。

技能として、『日食』の方が圧倒的に優れていることは言うまでもないが、二人の兄たちは『日食』ではなく、『月食』を用いることを好んだ。――否、『日食』を使うことを恐れて、嫌悪していたと言った方が正確だろう。

ライとロイの認識では、『日食』は変化した肉体に思考が引っ張られるらしい。

その感覚が、まるで自分を損なっていくようで耐え難い、というのが二人の理屈だ。その兄たちの話を聞いて、ルイは■底、馬鹿馬鹿しく思った。

自分の肉体まで持っていて、自己まで確立しているはずの分際で、その確固たる自分を維持できないなどと、なんと希薄で軟弱な自意識であることか。

己の肉体がなく、兄弟たちにすら自分の存在を十年以上も知られておらず、ついには人生の酸いも甘いも飽き飽きしてしまった自分より不幸ぶるなど、冗談ではない。

『日食』の権能、大いに結構。むしろ、ルイにとっては好都合だった。

これこそが、ルイ・アルネブが待ち焦がれていた力と言っても過言ではない。

――ルイ・アルネブは自分だけの人生を、それも最高の人生を欲している。

それは他者の人生を喰らい、『記憶』を取り込んで満足する兄たちの自慰行為とは違う。もっと高尚で普遍的な権利――ルイは、生きたいのだ。

生まれは選べない。

それが不幸な人間を生み出す全ての原因だ。だが、ルイは違う。

ルイは、生まれを、人生を選ぶ力を、機会を手に入れたのだ。他者の『記憶』を奪い、それを『日食』によって再現し、自らのモノとしてしまえばいい。

人生を、選べる。――全て、選び直せばいい。

まだ見たことのない、最高の『記憶』を、『名前』を求めて、えり好みする。

ライやロイが喰らってきたモノの中にはいい線いっていたモノもあったが、完璧ではなかった。目新しさも独創性も、不足している。

幸せな家庭も、優しい父母も、豊かな生活も恵まれた環境も、素晴らしい友人も運命的な伴侶も、何もかもが『どこかで見たような幸せ』でしかなかった。

そうではない、最高の人生を探していた。

選びたい放題、より取り見取りであることと、選べるモノに飽きがこないこととは一致しない。目の前に並んだ無数の皿の全てに飽いて、いったい何が愉しめる。

ルイ・アルネブは、最高の人生を探していた。――探していたのだ。

だから――、

△▼△▼△▼△

――だから、ナツキ・スバルと出会ったとき、ルイの胸は高鳴った。

「あれ? お兄さんって……ええと、そうそう、ナツキ・スバルだっけ?」

正確には、出会った瞬間にときめいたわけではない。

出会ってすぐときめくには、ナツキ・スバルの外見はルイの好みではなかった。

元々、好みの顔などあってないようなものだが、ルイの育ててきた価値観に則れば、大多数の人間が思い描く美形こそが、ルイの求むる顔である。

そういう意味でいえば、ナツキ・スバルの外見にときめく要素は微塵もない。

その上、ルイからすればナツキ・スバルは確かに既知の人物だったが、それは他者の『記憶』の中にいたというだけで、注意深く気にしていた相手でもなかった。

よく考えなくてもわかることだとは思うが、ルイの中にある『記憶』は膨大な数に上る。その中から、目的の『記憶』を引き出すのは容易ではない。

それが興味のない相手となればなおさらだ。

それでもルイが相手の名前を一目で思い出せたのは、ルイではなく、兄の一人――ライ・バテンカイトスが少なからず執着していた名前だったからだ。

確か、ライが喰らった皿の中に、ナツキ・スバルに強く執着したモノがあって。

『――――』

「ここ? ここはね、オド・ラグナの揺り籠……『記憶の回廊』だよ。死んだ人の魂が濾過される場所。ここに自我が残ったままでくる人なんて珍しいから、歓迎しちゃうよ、お兄さん。あたしたち、退屈を持て余してるからサ」

禍々しく微笑み、ルイは珍客の来訪を歓待する。

実際、その歓迎の気持ちに嘘はない。ルイの、人恋しさはちょっとしたものだ。

ルイ・アルネブの生まれ故郷、離れられない白い世界である『記憶の回廊』。

ここがそんな名称で呼ばれ、得体の知れない巨大存在の大掛かりな作業場であるとルイが知ったのは、ライやロイが食い漁ってくれた『記憶』の知識を総動員した結果だ。

『暴食』の権能の餌食となったモノの中には、本来なら後世に残るような偉大な研究、歴史的な発見をした知恵者が大勢いた。それらは日の目を見ることなく、『暴食』三兄妹の腹の底へ収まったわけだが、ルイには大いに貢献してくれている。

正直、ルイは自分がここで生まれた理由や、ここに束縛される理由には興味がない。

解き明かす術はないだろうし、意味も感じない。そういうものだと納得している。今さらぽんと外の世界に出されても、それはそれで困るだけだった。

ここから出ていくときは、ルイが最高の人生を見つけたときでなければ。

『――――』

「あは! ごめんごめん、まだ名乗ってなかったよね! でも許してね! だってほら、あんまりここでこうやって素面で自己紹介することなんてないからサ!」

『――――』

「じゃあ、改めて自己紹介しよっか! ――私たちは魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブ」

『――――』

「長いか短いかはわかんないけど、よろしくお願いね、お兄さん?」

そう名乗ったルイに対して、相手はずいぶん驚いて、動揺した様子だった。

当然と言えば当然の話で、基本的にこの場所へ足を踏み入れる人間は、この場所へくる意図を持っていない。たまにこうして紛れ込むものがいるが、ルイはそれを魂の迷子のようなモノ――言い換えれば、臨死体験の結果と思っている。

肉体から『魂』が離れやすい状況、あるいは剥がれてしまった状況か。

そんな状況は、彼らからすればオド・ラグナに突然招聘された感覚に近い。

そう考えると、ルイの役割は臨死者の動揺を鎮め、この場所が何なのかを説明する案内役のようなものか。

それがオド・ラグナの不可視の掌の上と考えると、それがまた腹立たしい。

ルイは見下されるのはもちろん、指図されるのも嫌いだった。

それが超常の存在であるオド・ラグナであろうと同じだ。ルイの、まだ始まってもいない人生は、ルイ以外の誰の干渉にも歪められたくはない。

『――――』

「え? もちろん知ってるよ? ライとロイ……お兄ちゃんと兄様でしょ? ああ、ああ、そんなに興奮しないでよ、お兄さん! 二人は妹想いなだけなんだからサ」

『――――』

「あの二人があちこちで食い荒らしてるのも、あたしたちのためって部分があるんだよ。頭は足りないし、私たちの趣味も全然把握してくれてないけど、思いやってはくれてる。たぶんね。でも仕方ないよね。だってあたしたち、三人で揃ったこともないんだもん」

『――――』

「お兄ちゃんや兄様の体を借りてね、ちょっぴり外に出ることもあるんだよ? だけど、そうすると体を借りてる方は眠っちゃうから会えないわけ! だから、私たちは三人で揃ったことがないの。あは、言っちゃった」

興奮気味に早口で並べながら、ルイは相手の反応をじっくりと観察する。

怯え少々、戸惑いもちょっぴり。怒りがやや多めで、使命感がだいぶ強い。最初は混乱しきりだったのが、今は落ち着いて、冷静に徹しようとしている雰囲気。

「へえ……」

悪くない、とルイは内■で舌なめずりした。

修羅場を潜り慣れているというべきか、状況への適応が相応に早い。最初に受けた印象と見比べると、それはずいぶんとちぐはぐな性質だ。

本来の性質からかけ離れたそれは、後天的に、それも強制的に磨かれた資質。

その根本にあるものが何なのか、ルイは興味に食欲をそそられながら――、

「――ああ、あったあった。これだよね、お兄さん」

話しながら、ルイが引っ張り出したのはとある『記憶』だった。

ライが貪った皿の一枚で、ライが目の前の少年に執着する最大の理由。――強く強く、その存在を訴えかけてくる『記憶』を手繰り寄せ、ルイはそれと同期する。

「――あは」

途端、胸の奥から溢れ出てくる愛おしさに息が詰まった。

際限なく込み上げてくる、眼前の少年への愛おしさ。彼が愛しくて愛しくて、愛おしくてたまらない。ルイの小さな胸が熱くなり、甘い予感に全身が疼く。

瞳が潤み、吐息を甘く熱くして、唇が綻んだ。

そして――、

「そんなに不安そうな顔をしないでください。――スバルくん」

――瞬間、強い強い拒絶があった。

『――――!!』

怒りのままに目を鋭くして、ナツキ・スバルが飛びかかってくる

激発する彼を両手を広げて迎え入れたい衝動が湧いたが、何とかそれを押さえ込み、『記憶』に従って鋭く懐へ潜り込んだ。

滑らかな動きで少年の腕を取り、引き寄せて一気にひねり上げる。実体ではない肉体で骨の軋む音を錯覚し、苦鳴を上げる少年を白い床に組み伏せた。

『――――』

「やめてください。そんな雄々しく飛びかかられては照れてしまいます。――なんてネ」

少年を愛おしく思う『記憶』を用いて、少年を力ずくでねじ伏せる。

嗜虐■を満たされ、口の端が緩んでしまう。そんなルイの加虐■をより満足させるのが、身をよじりながら必死に叫び続けるナツキ・スバルの声。

懸命に、誰かのために怒りを訴える姿――それにふと、ルイは首を傾げた。

「――お兄さん、なんであたしたちが奪った『記憶』のこと覚えてるの?」

不自然な反応だった。

組み伏せてからそれに気付いて、ルイは大いに首をひねる。

『暴食』が喰らった『記憶』は当人の中に、喰らった『名前』は他者の中に残らない。それは世界に存在を確定する『魂』から、権能がそれらを引き剥がすからだ。

本来なら『記憶の回廊』で行われる、オド・ラグナによる『魂』の洗浄――それを勝手に代行し、こっそり掠め取るのが『暴食』の権能。

故に、『暴食』が奪った『記憶』や『名前』は誰の中にも残らない。限定的に『記憶』だけ、『名前』だけを奪われたモノもあるが、それぞれの弊害は適用される。

『記憶』を奪われれば当人が、『名前』を奪われれば他者が、当事者を覚えていられない。それは『魂』の性質、オド・ラグナの庇護下にある限りは変えられない。

それなのに、ナツキ・スバルは覚えていた。

『記憶』と『名前』の両方を奪われ、『魂』が剥き出しの状態になった食材を。

覚えていられるはずがないのに。何故、何故、何故――。

『――――』

「ちょっとお兄さんに興味が湧いてきたかも。お兄ちゃんには恨まれそうだけどサ」

舌なめずりして、ルイは込み上げる情欲に頬を染める。

ライが執着していた相手だ。それを横からつまみ食いしたとあっては、さすがのライも相当なご立腹となるだろう。あれで妹にはかなり甘いライだが、我儘を聞くのはあくまで互いの食欲がかかっていないことが大前提だ。

食欲は、『暴食』は、ルイにとってもライにとっても、ロイにとっても生きる意味。

それを勝手に荒らされては■中穏やかではいられない。

「楽しみにしてるお皿を横取りされたら、それがたとえ兄弟でも殺されても仕方ないもんネ。――ああ、でも、たまんないなァ、お兄さん」

後ろ手に腕をひねり上げ、床に押し付けられる少年のうなじに唇を寄せる。

実体のない精神体のようなモノだ。『魂』だけの状態の彼に汗の味は感じない。本来、痛みも錯覚のようなモノなのだが、それをわざわざ教えるつもりもない。

ただ、触れ合っていたい愛おしさが爆発する。――この『記憶』の持ち主は、相当以上にこの少年に執着していたらしい。ビンビンに感じる。

「まァ、それって今や私たち自身のことなんだけどサ」

人伝の『記憶』だろうと、こうして蓄えた今は自分のモノだ。

ライやロイが、『蝕』を恐れる気持ちも少しはわかる。恐れはないが、二人の予感が正しいことはわかるから。――たぶん、このままいくと、

「あたしたち、きっとお兄さんを愛しちゃうね」

『――――』

「……ええ? 反吐が出るって、そんなのひどいなァ。これでも私たちも女の子なんだから、勇気を出して告白したのにひどいです。ああ、また暴れる。ダメだよ、お兄さん。痛くしないから落ち着きなって、ね?」

『――――』

「あたしたちがお兄さんを傷付けるはずないじゃん。だって、こんなに愛しいのに。だから安■してサ」

落ち着かせようと優しく語りかけても、必死の身じろぎで抵抗される。

何度も『記憶』の名前を呼ばれ、ルイはひどく恍惚とした感覚に総身を震わせた。この恍惚感は、『名前』を奪われた相手を覚えている人物からしか味わえない。

すなわち、これはルイの味わったことのない味わいだ。

――未知の、甘い甘い果実だった。

「――ナツキ・スバル」

――あなたは、どんな味わいがするの?

「イタダキマス」

そんな甘やかな好奇■の答えを求めて、ルイはそっと赤い舌で少年のうなじを舐める。名前を呼んで、舌先に産毛の感触を味わいながら、優しく優しく、舐った。

満たされることを望むという意味で、食欲とは性欲に似ている。

これだけ目の前の相手への愛情が募る中、この尽きぬ食欲まで満たせるとあっては、これはもはやドロドロに求め合う交尾のようなモノだろう。

互いを大事に想い合う同士が、ルイという存在の中で混ざり合う。

その味わいたるや、どれほど甘美なるものか――、

「――ゴチソウサマデシタ」

十分に、存分に味わって、ルイは食の感謝を言の葉に乗せる。

それが『暴食』の食事の手順――『記憶』を奪いたい相手の名前を呼んで、相手の肉体から『魂』の一部を剥離させ、それをいただく。

――『記憶』とは、『魂』に蓄積する澱のようなモノだ。

白い皿に盛り付けられた御馳走と、美しい言葉で飾ることもできる。

だが、原始的に全てを露わにすれば、美麗に飾ることの無意味さがそこに広がる。それが『暴食』の権能に関するルイの認識、その『魂』を貪る力がルイの特権。

これで、目の前の少年の『魂』にまつわる全てがつまびらかになる。

あとはそれを、すでにルイの内にある少女の『記憶』と混ぜこぜして、どんな化学反応が起きるかを堪能しなくては――、

『――お前、今、俺に何をしたんだ』

聞こえるはずのない声がして、初めて、ルイはナツキ・スバル当人と向かい合った。

それまでは、会話しているようでしていない。向き合っているようで向き合ってなどいない。そんな曖昧で、溺れる夢のような邂逅に過ぎなかった。

それが、ルイにとっても初めての事態に際して、唐突に色を帯びる。

今、なんと言ったのか。

「……お兄さん、まさか、私たちのこと覚えてるの?」

強い強い敵意が込められた視線が、ルイの問いかけに対する答えで。

「――ぁ」

ルイの薄く小さな胸が、確かな高い鼓動を奏でた瞬間だった。

△▼△▼△▼△

何故、『記憶』を喰らったにも拘らず、平然としていられるのか。

何故、今もそんな瞳で、ルイを睨みつけているのか。

何故、ルイはこんなにも面食らいながら、胸を高鳴らせているのか。

何故、何故、何故、何故、何故――。

それはあるいは、予感とでもいうべき衝動だったのかもしれない。

「どうして、お兄さんはあたしたちを覚えてるの?」

眼下、組み伏せたナツキ・スバルの後頭部を睨みつけ、ルイが最初に疑ったのは食事に失敗した可能性だ。

ルイたち、『暴食』の権能には絶対に必要な手順がいくつかある。

その最たるものが喰らう相手の名前を知ることであり、これが相手の『魂』に干渉するために必要不可欠な要素であるのだ。

故に、偽名を掴まされた場合、権能は無力化される。

そうして、食事に失敗したケースはこれまでにも何度かあった。

その場合、痛い目を見ていたのはいつだってライかロイのどちらかで、ルイ自身が痛い目を見たことなど一度もなかったが――、

「お兄ちゃんと兄様は、苦しそうにえずいてたけど……」

自分にも、そんな反動があるのかとルイは身を硬くする。

しかし、待てど暮らせど、その反動とやらがルイへと襲いかかる気配はない。

そもそも、ルイの中には確かに、新たな『記憶』が流れ込んできている。

「『賢者』の監視塔と、お仲間と、『試験』があって……」

ふむふむと、頭の中に生まれた一冊の本を読み解くように、ルイは新たな『記憶』の掘り起こしに夢中になる。

反動がなかったことに加え、『記憶』の強奪には成功している。

その『記憶』を参照して、ナツキ・スバルと仲間たちが何をしていて、どういった経緯でこの『記憶の回廊』へ迷い込んできたのかも理解できた。

あとは、ナツキ・スバルの特別性を――、

「――え」

瞬間、ルイを打ち据えた衝撃の大きさを、なんと語ればいいのだろうか。

「――――」

あまりのことに愕然となり、腕の力が抜けて目を見開く。

その隙を突いて、組み伏せていたナツキ・スバルがルイの腕を逃れた。そのまま距離を取り、大して様になっていないファイティングポーズを取る。

いっそ滑稽と笑いたくなる抵抗だが、ルイにはそれを笑えない。

そんなことを笑っている余裕が、ない。

ありえないモノを見た衝撃が、ルイの小さな体を貫いていた。

それは――、

「どうして、死んだときの『記憶』があるの?」

『――――』

「ううん、それだけじゃない。それだけじゃないよ、お兄さん。死んだ『記憶』があるのはもちろんおかしい。十分変サ。だけど、おかしい。だって……」

『――――』

「だって、私たちが食べた『記憶』の中には、お兄さんを殺した『記憶』なんてないのに、お兄さんには殺された『記憶』がある!」

それは、異常なことだった。

発生しえない、不可思議なパラドックスが発生している。

ああ、ナツキ・スバルの『記憶』の影響か、本来なら知らなかったはずの言葉のレパートリーが増える。パラドックスだ。パラドックスによるエマージェンシーで、シュレディンガーのマクスウェルのアインシュタインがニコラ・テスラ――!

「なんなの、これは!? どういうことなの、これって!? 『記憶』は、妄想とは違うんだよ!? 『魂』に付着した澱は、自分の好き勝手に捻じ曲げられない! だから! これはお兄さんが見た世界だッ! これは、お兄さんが味わった歴史だ! これは、お兄さんだけが知ってる、お兄さんの物語だッ!」

自分の長い長い金色の髪に指を入れて、ルイは燃え上がる衝動を爆発させる。

一秒だって、この衝動を吐き出さないで溜め込んでおけない。それをした途端、ルイ・アルネブは爆発する。爆発四散して、精神が粉々になる。

「新しい……新しい新しい新しい新しい新しい新しい新しい新しい! 新しい価値観ッ!」

それとの出会いだった。

ルイの知らない、見たことも考えたこともない、想像を超えた代物との出会い。

全身を稲妻に貫かれ、それ以外のことが何も考えられなくなる。これを、運命と言わずしてなんと呼べばいい。この感情に、なんて名前を付ける。

「お兄さん、もしかしてあたしたちと同じ? 大罪司教なんじゃないの?」

『――――』

「私たちは直接会ったことないけどサ、ペテルギウスが言ってたよ! 因子は届いてるはずだって。大罪の座は埋まってるから、いずれ全員揃うんだって! その、空いてた席ってお兄さんの……俺の席なんじゃないのか?」

『――――!!』

「あははははははははは! 怒らない、怒らないでよ、お兄さん! これ以上、あたしたちを惑わせないでよ、お兄さん! もう、頭がいっぱいいっぱいで、このちっちゃいお胸が張り裂けそうで辛いんだよ。ああ、ああ、ああ! すごいすごいすごい!」

とんとんとんとん、指で自分のこめかみを叩いて、ルイは『記憶』を骨までしゃぶる。

信じ難い。信じられない。信じられる余地など、『暴食』以外に巡り合えない。

同じ『記憶』を共有できるルイだから、ナツキ・スバルの歩みを信じられる。――否、信じられるのではなく、事実として知っている。

これは、ルイ・アルネブが歩いた道のりでもあるのだから。

「ああ、なんて『傲慢』!! ズルい……ズルいズルい! ズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルい!! ――ううん、素敵ッ! お兄さん、本当に何度も、何度も何度も何度も死ねるのね!」

『――――』

「うわあ、すごい! 本当に死んでる! 無惨に死んでるわ、お兄さん! 何回も、為す術なく死んでるわ、お兄さん! こんなことってあるのね、お兄さん!」

拍手喝采、スタンディングオベーション、生まれてくれてコングラチュレーション。

君と出会えた奇跡に感謝、僕と進んでく未来への列車。

「湧き上がるインスピレーション! 刺激を受けてイノベーション! お兄さん、ここじゃない、どこでもない場所からやってきたんだ!? ええ、もう、考えられな……ぃ」

勢いとどまることなく噴き上がる感情、それに抗うことなく浸かっていたルイは、不意にその可能性に気付いた。――否、自分の内なる声に耳を傾けた。

知らない景色を知っていることも、未知なる世界の生まれであることも、確かにルイの好奇■という空腹を満たしてくれる極上のフルコースだ。

だが、最も着目すべき、ナツキ・スバルの特性は――、

「――『死』の記憶」

あるはずのない。絶対にあってはならない、『死』のその先の記憶がある。

それは臨死体験なんて、ちゃちなお試しツアーとは根本から異なる。事実として『魂』が砕け散り、命が千切れ、息の根が止まったから成立する事象。

決して戻ってこられない、今生とあの世との境目、三途リバーの向こう側。それを泳ぐでも跨ぐでもなく、奪われたはずの命をやり直している『記憶』――。

「――『死に戻り』」

自分の中に芽生えた『記憶』を、その最大の目玉をルイはそう呼んだ。

幾度もの『死』の経験が記憶として蓄積し、本来なら一度として『記憶』に刻み付けることのできないそれを、確かなモノとして次の己へ引き継ぐ。

そうしてナツキ・スバルは、あらゆる苦難を乗り越えてきたのだと。

「すごいすごい、お兄さん! 本当にすごい! 感動しちゃった。感■しちゃった。本当にそんなことできるのね。『死』を克服して、自由自在で!」

『――――』

「やだやだ、謙遜しないで。私たちは本気なんだよ? 本気でお兄さんが羨ましいと思ってるの。だって、『死』の記憶なんて、絶対、誰も持ってないんだからッ」

『――――』

「それにそれに、どうしてなの? どうして、あたしたちが『記憶』を奪っても平気なの? どんな特別なの? 『魂』のセーブ? バックアップ? 不変性? 意味不明意味不明!」

もがくナツキ・スバルの中には、死んだときの『記憶』がいくつもいくつも存在する。

それは決して、ルイが得られなかった感動だ。さらに言えば、尽きることなく死に続けることが、『死』を重ねることができる力が、羨望の的だ。

「――欲しい」

『死に戻り』の力が欲しい。

それは『死』を繰り返せるから、ではない。無論、その新鮮な感動もルイを惹きつけてやまない要素ではあるが、それ以上に重要なのは『やり直せる』こと。

――ルイ・アルネブは最高の人生を探している。

そして、様々な人生を貪ってきたルイの導き出した結論、最高の人生とは裕福であることでも、大勢に愛されることでも、高い地位に恵まれることでもない。

最高の人生とは、『思い通りになる』人生のことだ。

何もかも、自分の信じた通り、期待した通り、願った通りのことが起きる。

どんな不具合もなく、どんな不完全もなく、どんな不条理もない、完璧な世界観。

それを実現する方法をずっと探していた。その答えはルイの中で延々と生み出されない闇であったが、ようやく、わかった。

「――『死に戻り』だ」

それが手に入れば、嫌なことを、失敗を、取り返すことができる。

未来に何が起きるのかわかっていれば対処できる。どんな失敗をするのか、どんな不条理が待つのか、どんな不完全と出くわすのか、わかってさえいれば。

「私たちは、最高の人生を生きられる――!」

『――――』

「どうすればいい? どうすれば奪える? お兄さんの『死に戻り』が権能なら、ただ食べるだけじゃ奪えない。『記憶』と『名前』にくっついてくるモノとは違う。魔女因子はオド・ラグナの対だもん! 簡単には手放されない! だから……」

だから、権能を奪おうとするならば、魔女因子ごと奪わなくてはならない。

しかし、魔女因子を奪う方法まではルイも知らない。これまで、他の大罪司教の権能を欲しいと思ったことなどなかった。あんな奴ら、触れることもおぞましい。

だが――、

「お兄さん、殺したペテルギウスの権能、使えてる……?」

『記憶』の中にある『見えざる手』は、本来のそれより数も射程も弱体化しているが、紛れもなくあの狂人が用いていた力だ。それはつまり、ナツキ・スバルの内側に複数の魔女因子がストックされている証拠に他ならない。

魔女因子のストック、それが可能ならば――、

「絶対に、何としてでも、『死に戻り』を手に入れる。お兄さんの権能が、私たちの希望なんだ。それが手に入れば、あたしたちは……」

『――――』

「私たちは、自分の人生を生きられるんだッ!!」

幸せに、なりたい。

幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。

幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい――。

「そのための方法が、目の前にある……そのための、方法が……ッ」

『――――』

「――っ! 勝手なことを! 『死に戻り』なんていいものじゃない? 持ってる人間に持たざる人間の気持ちはわからないッ!」

お仕着せの、どこかで聞いたような説得などうんざりだ。

その力を思う存分に使ってきた人間が、その力を使うことを厭うなどと馬鹿げている。

だから、絶対に手に入れる。絶対の絶対の、絶対に。

どうすれば――、

「どうすれば、権能を奪える……違う。違うよ、違うし、違うから、違ってる、違いすぎだから、違ってるってば、違ってるからこそッ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

強く強く手を打って、ルイは目を見開く。

鋭い牙を剥いて、なんて自分は冴えているんだろうと拍手喝采した。

いつの間にか、手段と目的が入れ替わっていた。

だが、そうではない。そうではないのだ。

ルイは『死に戻り』したいのであって、『死に戻り』の権能を手に入れて、最高の人生を面白おかしく生きたいのであって、奪い取ることが目的なのではない。

長く、大罪司教『暴食』担当なんてやっていると、物事を物騒に考える癖がついてしまってよくない。困る。固定観念に囚われる。それは敗因だ。

簡単だった。奪うのではなく、手に入れるのならば――、

「――あたしたちが、なればいいんだよ」

『――――』

「私たちが、お兄さんになればいいんだ。あたしたちがお兄さんになって、『暴食』の権能に喰らわせれば……魔女因子を統合できる。ストックできるから、お兄さんなら」

そう言って、ルイは自分の頬を両手でつまみ、ぐいぐいと乱暴に引っ張る。

可愛らしい仕草ではなく、痛々しい、傷付ける意図を以てそれをする。何のためか。それは血肉を引き裂いて、己を分かつ、そのためだ。

「三大魔獣って知ってる? あれって、私たちのずっと前の魔女因子の持ち主が作った怪物なんだって。あたしたちにも、似たようなことができる。別にやる意味がないからやらなかったけど……でも、ね」

『――――』

「――私たちは、やろうと思えば、何でもできる」

――あたしたちは、やろうと思えば、何でもできる。

それが、可能性の怪物というもの。

それが、生まれ出る前の、無垢なる存在の可能性というもの。

それが、これから先、最高の人生を生きることを運命付けられたモノ。

――それが、ルイ・アルネブという、最も幸福な存在の運命。

「「――それが、あたしたちって存在」」

ゆっくりと紡がれるルイの言葉、それが重なり、発声される。

同じ音声がダブって聞こえる現象は、幻聴や聞き間違いの類ではない。それは起きた出来事そのままに、同じ声、同じ口調、同じ人間がダブったためだ。

「お兄さんの『記憶』でビックリしたんだけど、アルネブって星座のうさぎ座なんだってね? それに、大兎を滅ぼしたのもお兄さんたちなんて驚いた」

「でも、だったらあまりサプライズにはならない? どうして私たちが増えたのか、それとも可愛いルイちゃんが増えてお兄さん大歓喜? ないか。ないね。お兄さん、ちっちゃい子に欲情しないタイプなんだ。ふーん、そう?」

驚きに凝然と目を見開く相手を見て、ルイはすぐ隣に立つ存在――すなわち、同じルイと肩を組む。ここが『記憶の回廊』という、現実と隔絶された場所で、ルイが肉体を持たない魔女因子と『魂』が結び付いただけの存在で、あとはどうやら三兄妹はそれぞれの名前が三大魔獣を対応していたようだけれど、それはまぁ、どうでもいい。

とにかく、魔女因子を二つに割って、ルイ・アルネブは二つに増える。

たぶん、『日食』を用いて自我を失うことを恐れるライとロイ、あの二人にはできない芸当だ。自己が複製可能であると知ることは、自分という本質の喪失にも繋がる。

だが、元々、自己を曖昧に確立したルイにそれは当たらない。

ルイが一人と、ルイが二人と、これでできる。

これで、ルイ・アルネブが、ナツキ・スバルの権能を手に入れることが。

『――――』

「え? なに?」

何事か、魔女因子の容れ物である少年が言い放つ。

その少年を見ていると、『死に戻り』という魅力とは別に、ただただ愛おしさが込み上げてくる。それが忌々しくて、ルイは表層へ浮かび上がらせた『記憶』を放棄。

自分の『魂』から剥ぎ取ると、もはや用無しとばかりに放り捨てた。

――否、ばかりにではない。事実、もう用無しなのだ。

全ての『記憶』は、最高の人生を見つけ出すまでの繋ぎ、つまみ食いでしかなかった。だが、ルイ・アルネブはようやく自分のフルコースに辿り着いたのだ。

「「――あたしたちは、やろうと思えば、何でもできる」」

だから、その通りにさせてもらう。

内側から、ナツキ・スバルを蝕んで。蝕まれたナツキ・スバルを、外側から余さずしゃぶり尽くして――ルイ・アルネブが、ナツキ・スバルを手に入れる。

『――■■、■■する』

最後の最後まで、容れ物が何か言っていた。

だが、それが何を言っていたのか、そんなことはもはや関係ない。『魂』にこびりついた澱を舌で舐め取って、ルイが『記憶』を継承する。

そして、何もかも忘れた容れ物の中で、ルイが自ら魔女因子に加わる。

あとは――、

「あとは、仕上がるのを待つだけでいい」

『記憶の回廊』で、待ち続けるのは慣れている。

問題は『記憶』の扱い。一度、喰らった相手から再び『記憶』を奪うには工夫がいる。同じ名前、同じ味のメニューを、グルメな権能は別物と認めない。

だから、『魂』から味付けを変えてやる必要がある。

それが一度、ルイの、『暴食』の舌に乗ったことなど忘れるぐらい別物に。

それが極上の、ルイ・アルネブの待ち望んだ味わいとなるよう、期待して。

それが、最高の、最上の、最良の、一品と仕上がるように。

その瞬間を指折り、舌なめずりしながら、待ち焦がれて――、

△▼△▼△▼△

「どうだ。お前が見たがってたものは見られたかよ。――ルイ・アルネブ」

「ぇ?」

唐突な呼びかけに、意識の覚醒を得たルイは目を丸くした。

何度か瞬きして、自分の居場所を確かめる。白い周囲、白い床に白い空、一面真っ白な世界の中に立って、ルイはボケっとした顔をしていた。

「――――」

自分の顔に手を触れ、ぺたぺたと感触を確かめる。

この場に鏡がないので見えはしないが、この感触は紛れもなく自分の顔だ。この場所には適度な娯楽もなく、触れるものと言えば自分の顔、体ぐらい。

だから、自分の顔は触り飽きるほど触っていた。だから、触り飽きた顔に触れば、自分の顔が、体がどうなっているかはすぐにわかる。

元通り。そう、元通り。――これは、ルイ自身の体だ。

「お前の見たがってたものは見られたか?」

ゆっくりと、呆然と、自分を確かめるルイ。

その行動が一段落ついたところで、ふと、問いかけを今一度重ねられた。顔を上げ、ルイは正面、ずっと目の前に立っていた人物を見る。

短めの黒髪に鋭い三白眼、胴長短足で、みすぼらしい格好をした少年だ。

その名前は、ナツキ・スバル。ついさっきまで、ルイ自身が魔女因子として同一化していた存在であり、そして――、

「――ぁ」

――そして、『死に戻り』する権能を持った、想像を絶する狂気の存在だ。

「ぃ、やあああああぁぁぁぁぁぁあああああぁぁああぁああぁぁぁぁ――ッ!!」

ルイは口を開け、叫んだ。

力の限り、可能な限り、全身全霊を尽くして叫んだ。

そうでもしなければ、押し潰されてしまう。恐怖に、脅威に、絶望に。

何度も何度も、『死』を繰り返して進み続ける、狂人の狂気に囚われる。

「死にたくない! あたしたちは、死にたくない! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 嫌だ! 嫌だぁッ!!」

頭を振り、地べたに倒れ込んで、後ずさりしながらルイは必死に訴えた。

その存在と同化して、ルイは『死』を体感した。味わった。『死に戻り』する『魂』に自ら取り込まれることで、時さえ遡る『死に戻り』を実感した。

ナツキ・スバルの『記憶』だけでは不完全だった『死』の記憶。

記憶は所詮、記憶でしかない。その瞬間の、その刹那の、その時々の、新鮮な、一度逃せば二度とは戻らないセンセーショナルな衝撃は、手に入らない。

だから、それを渇望した。『死』がどんな味わいなのか、それを渇望した。

たとえ、『死』がルイが期待したモノより鮮烈でなかったとしても、『死に戻り』という権能を使い、やり直しが可能な人生を歩める権利で十分にお釣りが出る。

そう、思っていた。――実際に、自分が『死』を味わうまでは。

「あんなの……あんなの、耐えられるわけない! あんな苦しみ! 喪失感! 耐えられるはずがない! 無理! 無理無理! 絶対に無理! 嫌だぁ!」

一度として、楽な死に方がなかった。

一度として、『死』を甘美に感じることがなかった。

一度として、自ら死にたいなどと思えたことがなかった。

それをナツキ・スバルは、二十回以上も味わい、それを再演した。

「あんなこと、耐えられるのは人間じゃない! 化け物! 化け物よぉッ!」

できない。できるはずがない。

ルイは多くの人間の人生を貪り、あらゆる『魂』を凌辱し、自らの人生を探した。

そうする権利が、特権が、自分にあるのだと信じてきた。

だから、ナツキ・スバルの『魂』にも手を伸ばして――結果、甘い■を砕かれる。

何故なら――、

「――人間の心は、自分が死ぬことになんか耐えられないのぉッ!!」

幸せに、なりたい。

幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。

幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりた――かった。

幸せに、なりたかった。

それが、ルイ・アルネブがずっとずっと、思い描き続けてきた願い。

あらゆる全てを踏み躙り、最高の人生を獲得するために力を行使する権利がある。そう一切の呵責なく信じられたから、ルイは今日まで生きてこられた。

それが、それが、それが、その前提が、崩れる。

幸せに、なりたかった。だが、今は、今の願いは、違う。

「死にたくない」

死にたくない。

死にたくない。死にたくない。死にたくない。

死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――。

「――だから、俺はお前が俺を喰おうとしたとき、言ったんだよ」

頭を抱えて、蹲って、嫌々と必死に自分を守ろうとするルイ。

そのルイのすぐ傍で、顔を上げられないルイのすぐ上から、声が降ってくる。

それすら聞きたくない。聞くことが恐ろしい。だが、聞かないことで降りかかるかもしれない何かが恐ろしい。――死ぬのが怖い。

だから、聞くしかなかった。

そうして、怯えて縮こまるルイを見下ろしながら、声は続ける。

忠告したぞと、そう前置きして――、

「――絶対、後悔するってな」

第六章76 『自分という名の地獄』

「――――」

――『死に戻り』を体感し、頭を抱えて泣きじゃくる少女を目の前にしながら、ナツキ・スバルは自分の掌をじっと見つめる。

化け物と、そう呼ばれ、罵られたことに傷付いているわけではない。

頭がおかしい。耐えられるわけがないと、そう叫ばれたことにも納得だ。

スバル自身、これだけ何度も死んできたのだ。

その経験が並大抵のものではないことぐらい、自覚がある。ただ、奥歯を噛み、堪えてきただけだ。

自分以外の誰かが、友人や知人、顔も名前も知らない人々、大切な仲間や好きな人たちが、死ぬよりひどい目に遭わされるぐらいならと、その一心で。

それを――、

「――ああ、俺はすげぇよな、ナツキ・スバル」

見つめていた掌を握りしめ、スバルは心から『自画自賛』する。

実を伴わない、軽口めいた論法で自分を称賛したことはあった。慰めのように、あるいは己を鼓舞するためにそうした言葉を利用したことはあった。

だが、今の『自画自賛』は、それとは違う。

ひどく客観的に、ナツキ・スバルという存在を観測した『記憶』と『実感』が、今日まで歩み続けてきた自分の道のりを称賛していた。

「なんだ。案外、大したもんじゃねぇか、俺」

そしてそれは、『記憶』をなくして異世界召喚の当初へ立ち返り、『死者の書』を読み解くことでここまで辿り着いてくれた『ナツキ・スバル』にも言えることだ。

異世界について無知な状態から、それこそスバルの一年間に匹敵するほどの『死』の体験を積み重ねて、よくぞ心を砕け散らせずに戻ってきてくれた。

おかげで、なくした『記憶』とその後の『記憶』とが、統合を果たすことができた。

「メィリィのことも、シャウラのことも、任せて、任された」

殺人が癖になり、未来を暗く閉ざしかけていたメィリィを。

四百年の待ちぼうけから解放され、祝福の今を続けたがるシャウラを。

「ラムもユリウスも、無理してやがる。あの二人がそれなんて、よっぽどじゃねぇか」

常に最善を知り、誰よりも頼りになる思慮深さを見せるラムを。

自らの寄る辺を失い、それでもなお剣を握り続ける信念を抱くユリウスを。

「ベアトリスとエキドナにも、まさかの迷惑かけ通しか。ったく、俺って奴は……」

スバルを献身的に支え、誰よりも先に心の限界に気付いてくれたベアトリスを。

記憶をなくしたスバルを最も危ぶみ、その果てに許しを与えてくれたエキドナを。

「――――」

そして、たとえ『記憶』をなくそうと、何度、何回繰り返しても、やっぱり君に引き寄せられて、この道へと戻ってくる。

そうしたい。そうせざるを得ない。他の道が考えられない。

それぐらい、君のことが――、

「――E・M・T」

愛おしさと、確かな安らぎを唇に乗せ、スバルは顔を上げた。

そして、いまだに顔を覆い、震えているルイを見やる。

「おい」

「ひっ!」

「……ビビりすぎだろ」

呼びかけ一つに大仰に怯えられ、スバルは指で頬を掻く。

幼い、といって差し支えのない外見の少女だ。そんな少女が恐怖に震え、必死に世界を拒絶する姿は胸に迫るものがある。思わず手を差し伸べたくなるような、そんな儚い脆さのようなモノが、どうやら彼女には生まれつき備わっているらしい。

きっと、相手の警戒をほどき、その内側に潜り込む天性の素養。――それはひょっとすると、強制的に磨かれた赤子のような無垢の結晶なのかもしれない。

世界を知らないルイ・アルネブは、純真無垢な赤子のようなモノであると。

しかし――、

「――ルイ・アルネブ、お前の負けだ」

――ナツキ・スバルは、赤子のように泣きじゃくるルイ・アルネブを許さない。

「――――」

真っ向からぶつけられた敗北の証明に、ルイが凝然と目を見開く。

その瞳に、白い紙にインクを垂らしたように恐怖が広がっていくのを見ながら、しかしスバルの心は凪の海のように静かだった。

世の中、知らなかったで済むような問題ばかりではない。そして、ルイやその兄弟たちがしでかしてきた行いは、決して許されてはならない非道外道の数々だ。

知るチャンスがなかったわけではない。彼女は他者の『記憶』を通じて、喜怒哀楽や好悪にも触れ合い、学ぶ機会はあったはずなのだ。

だが、そこから彼女が吸収したのは、他者への慈しみやいたわりではなく、もっとどす黒い醜悪な欲望と、他人の懸命な人生を踏みつけ、唾を吐く振る舞いだった。

教師が悪かったのかもしれない。兄たちは、彼女の人生の悪い見本だった。

しかし、踏み外した道を戻る機会を、一度も活用しなかったのは彼女の決断だ。

「お前も俺の一部だったんなら知ってるかもしれないけどさ。お前らの……大罪司教が名乗ってる冠は、七つの大罪ってやつと共通してる。で、中二病御用達のロマンワードな『七つの大罪』だが、それと近いもんに『七元徳』ってのがあるんだよ」

七つの大罪が、『傲慢』『嫉妬』『憤怒』『暴食』『怠惰』『色欲』『強欲』。

そして七元徳が『思慮』『勇気』『節制』『正義』『信仰』『希望』『愛』。

七つの大罪が、人が生きていく上で切り離せない宿業だとしたら、その罪を抱えた人間が誰かと共に生きていくために、忘れてはならない七つの約束。

それを尊重し合うから、人は人と共に生きられる。

「だけど、お前らは……お前は、それを侵した」

だから、大罪司教は、ルイ・アルネブは許されない大悪となったのだ。

「ひ、ひ、ひ……」

怯え、縮こまるルイがスバルの言葉に打たれ、痛みを感じたように震えている。

他人の、世界の一挙手一投足が恐怖に繋がる。その感覚はスバルにもわかった。

『死に戻り』という異次元の感覚を味わい、自分がいかにして『死』を乗り越えられるかわからない閉塞した状況では、風に枯れ葉が揺れる音さえ命取りに思える。

その、魂が凍り付くような感覚を覚えているから、スバルは目をつむった。

そして、

「ルイ・アルネブ、お前の負けだ」

「――――」

「だから、それを認めて何もかも解放しろ」

重ねて、スバルはルイの敗北を彼女自身に聞こえるように繰り返した。それを受け、黙り込んだままでいる少女に、さらに要求を突き付ける。

スバル自身の『記憶』の回帰は、記憶をなくしたナツキ・スバルと、記憶を奪われる直前のナツキ・スバルとの邂逅――『死者の書』による、異世界でのスバルの歩みを再演されたことで、自らの記憶をなぞる形で復元された。

奪われた自分の『記憶』を、『死者の書』を利用して改めて体験した形だ。

そうして、『記憶』を失う前後のナツキ・スバルの統合が果たされ、結果的にナツキ・スバルの再臨に成功した。

その副産物として、魔女因子としてスバルに入り込んでいたルイは異物として弾き出された。だが、彼女が奪った『記憶』を自在に引き出し、引き剥がし、好き放題に扱うのをスバルはこの目で見たのだ。

あれが可能ならば、『記憶』を、『名前』を奪われた人々を救い出す手立てが――。

「私たちは、やろうと思えば何でもできるって言ってたな。だったら……」

自負と自尊心から、魔女因子を二つに割るなんて離れ業までやってのけたのだ。

それができるなら、自身の権能の効果を解消することだって不可能ではあるまい。それが、それさえ、叶うなら、もしかしたら――、

――『記憶』と『名前』を奪われた人たちを、レムを、取り戻せる。

「だったら、お前が今まで喰ってきた人たちを全部解放しろ。そうすれば……」

「……そうすれば、なに?」

「――――」

声に力の入るスバル、それを短く遮ったのはルイだった。

ルイは白い床にへたり込み、自分の膝を引き寄せた体勢のまま、床に広がる長い長い金色の髪に包まるようにして、髪の毛の隙間からスバルを見つめている。

その瞳に宿っているのは、紛れもない恐怖、それ一色だった。

「そうすれば、なに?」

繰り返し、ルイが同じ問いを重ねてくる。

一瞬、ルイの反応に虚を突かれたスバルだったが、対話の姿勢を見せた彼女にすぐ気を取り直す。怯えられて会話にならないより、ずっといい。

正面から言葉をぶつけ、状況を変える妥協案を探るべきだ。

「お前が喰った、大勢の人たちを解放しろ。『名前』が戻れば、もう死んじまった人たちの名誉だって回復できる。生きてる人たちなら、家族と再会だってできるんだ。お前がそれをしてくれれば、俺はお前を……」

「――見逃すって? そうすれば、お兄さんは私たちを見逃すの? 見逃すって?」

またしても言葉を遮られ、スバルが鼻白む。

そんなスバルの反応を眺めやり、ルイは「は」と鋭い牙を収めた口を開け、

「そんなことないね! あるわけない!」

勢いよく顔を上げ、爛々と輝く瞳を見開きながらルイが叫んだ。

スバルを見つめる彼女の双眸、それは変わらぬ恐怖に濡れ、暗く輝いている。その輝きを宿した瞳のまま、ルイは体を激しく前後に揺すり、

「ないよ! ないね、ないサ、ないとも、ないって、ないんだから、ないってわかってるから、だから! お兄さんはあたしたちを見逃さない! 絶対の絶対! だって」

「――――」

「お兄さんは、自分の敵を撃滅する! 最後の最後まで絶対に打ち砕く! 完膚なきまでに! けちょんけちょんに! パーフェクトゲームでクローズする! それができる! だったらやらないわけない! やらない意味ない!」

一流のジョークを聞いたみたいに、ルイが静寂を破って感情を爆発させる。

そうして激発するルイの姿が、スバルにはやけに遠く、小さく見えた。

笑おうとして、怒ろうとして、悲しもうとして、ルイの表情はめちゃめちゃで、そのどれでもない恐怖の表現に困惑し、戸惑い、哀願していた。

「――――」

ルイの迸る感情の出口は、全てが『恐怖』に直結していた。

導入が喜びだろうと、怒りだろうと悲しみだろうと関係ない。全ての結末が『恐怖』に続いているとわかったら、いったい、何に喜び、怒り、悲しめばいいのだ。

信じたところで、その結末も『恐怖』へと通じている。

ルイの拒絶の根深さが、スバルには十分以上にわかった。世界の全てを呪い、疑心暗鬼の嵐に叩き込まれ、身動きを封じられたような気分に陥る。

それはナツキ・スバルもまた、体感したことのある自分という地獄だから。

そんな、どうしようもない地獄からスバルが抜け出せたのは、きっと、手を握ってくれる誰かがいて、その温もりがスバルを逃がさないでくれたからだ。

それが、初めての異世界でスバルの命を、心を救ってくれた銀髪の少女。

それが、何もかもに裏切られたスバルを守ろうとしてくれたドレス姿の少女。

それが、全てを投げ出そうとしたスバルと優しく傷付け合った青い髪の少女。

――それが、ナツキ・スバルが地獄に囚われずにいられた理由だ。

「――――」

その心の拠り所が、目の前で恐怖に溺れるルイ・アルネブにはない。

だから彼女には、『恐怖』を克服することができない。――『死に戻り』が悪夢の、決して逃れ得ない地獄へ引きずり込む呪いとしか思えないのだ。

陳腐な表現だが、人は一人では生きられない。だから、『恐怖』に囚われた彼女が救われるには、誰かが手を差し伸べることが必要だ。

かつて、スバルがそうしてもらえたように、誰かが手を差し伸べることが。

しかし――、

「――俺は、お前を救わない」

――スバルは、ルイ・アルネブに手を差し伸べない。

「――ぁ」

「俺は、お前を救わない。可哀想とも思わない」

ルイ・アルネブ、『暴食』の大罪司教、白い世界に佇む『魂』の冒涜者。

それがどんな可憐な見た目をしていて、どれだけ哀れで儚げな雰囲気で、大人の庇護欲を誘う態度を振りまこうと、スバルは彼女を許さない。

大罪司教は許し難い罪を犯した。――それが、ナツキ・スバルの結論だ。

「そもそも、俺が何を言っても、お前の救いになんかならないだろうけどな」

「ひ」

怯え、見開かれるルイの瞳にはスバルへの恐怖心しかない。

この場で、彼女の抱える恐怖を理解できるのはスバルだけだが、そのスバルこそが彼女の恐怖の原因なのだ。つまりは、彼女の迷宮は開かれない。

そして、正面切って救わないと、お前が憎いと宣言したスバルに、ルイは形のない白い世界に爪を立て、必死に後ずさってスバルと距離を取りながら――、

「わかってる……お兄さんの手口はわかってる! 私たちはお兄さんだったんだもの! だから、お兄さんのやることはわかる……だけど、そうはさせないッ!」

「お前……」

「食べたものを返せ? 絶対に嫌! だって、これがあたしたちの生命線じゃん! これがなくなったら、お兄さんは私たちを殺せる! これが返されない限り、お兄さんはあたしたちを殺せない! 逆だよ逆、全然逆! 私たちは、殺されないために、お兄さんにこれを返しちゃダメなの! だからサぁ!!」

大きな声で叫びながら、ルイがスバルへと掌を向けた。かざされた白い手から何かが放たれるようなことはない。だが、ルイの狙いは別の形で実現した。

ゆっくりと、スバルの視界が白く歪み、『記憶の回廊』に変化が生じたのだ。それは異物の存在を検知し、それを排除するべく、世界を搾り始める。

その結果、スバルの存在が抽出され――、

「もう、一秒だってお兄さんと同じところにいたくない! 生理的に無理! 生命的に無理! 運命的に無理なの! だからサ、消えてよ! お兄さんを食べるのは、お兄ちゃんと兄様と! どっちでも好きな方がすればいい! あたしたちは御免だ!」

ルイの決断、それは忌々しいことに彼女にとっての最善手だった。

スバルを『記憶の回廊』から排出し、現実へと送り返す。そして、その敵対はルイ自身ではなく、彼女の兄弟であるライとロイへと委ねる。

『暴食』の大罪司教たちが食事を共有することも、しないことも選べるなら、それでルイはナツキ・スバルという最悪の皿とお別れできる。兄弟が自分と同じ苦悩を抱えるかどうかなど、それこそ今の彼女には知ったことではない。

「――ぐ」

踏みとどまる、ことは難しい。

取っ掛かりもなければ、踏ん張る地面さえ曖昧で、スバルはどうしようもなく、この『記憶の回廊』で弱者だった。

「俺が、気に入らないなら……お前自身で決着をつけたら……」

「その手には乗らないッ! 私たちに殺させようとしても無駄だよ! 『死に戻り』であたしたちをとっちめる気なんだ! そうはさせない! お兄ちゃんと兄様が、お兄さんを喰らい尽くす! それが、私たちの勝利条件だッ!!」

牙を剥き出して、ルイが踏みとどまろうとするスバルを睨みつける。もはや、その意思に対抗できそうにない。それを理解し、深く息を吐く。

それから、スバルの黒瞳が、真っ直ぐにルイを射抜いて――、

「――ひ」

「お前の兄弟が、お前の最後の頼みの綱なら、わかった。――その綱をぶった斬って、俺はお前に償わせる。覚えておけ、ルイ・アルネブ」

怯え、竦んだルイに指を突き付け、続ける。

「嫌なことも辛いことも、お前自身で抱えろ。――『記憶』から、逃げるな」

恥も後悔も、今の自分を形作るために必要だった『記憶』だ。

その全てがナツキ・スバルという人間の糧になっていて、その全てが作り上げたナツキ・スバルが、多くの『死』を積み上げてここへ辿り着いたのだから。

ナツキ・スバルがすごかったのなら、それは恥と後悔が、そうさせてくれたのだ。

「それはそれとして、もう、あんな恥掻くのは御免だけどな」

視界が一面白くなり、ここではないどこか、世界ではない外側、そんな空間から追い出される最中、スバルはそんな風に呟いた。

そして、『記憶の回廊』がほどけていって――、

△▼△▼△▼△

そうして、恐るべき狂人が姿を消した『記憶の回廊』で、ルイ・アルネブは長く長く、震える息を吐いて、自分自身の生を確かめた。

「あ、あ、あぁ……」

喉が震え、肺が震え、心臓が震え、魂が震える。

ああもおぞましい存在を、あらゆる『記憶』を貪ってきたルイですら理解できない。真にアレが恐ろしかったのは、その信じ難い精神性だ。

「なん、で……」

普通でいられるのか、それがわからない。

ルイはアレの一部となり、それ以前にアレの『記憶』をほとんど根こそぎにした。ゆっくりと満遍なく『記憶』を齧り取り、咀嚼していった。

その行為自体も、まるで玉ねぎの皮を一枚ずつ剥くみたいに遠回りで、『死』のたびに新しい人生の生じるそれを、二十回以上も分割して味わう工程だった。

『死に戻り』を体感する前なら、その『記憶』を複数回に分けて食べる行いも、初めての経験だと胸を躍らせるものだったが、今となっては理解を超えた恐怖しかない。

そもそも、何故、『異世界召喚』とやらが行われる以前の『記憶』が奪えないのか。

『暴食』の権能の力は本来、対象の『記憶』を生まれた瞬間まで喰らい尽くせるはずだ。それなのに、アレからはこの一年間の『記憶』しか奪えなかった。

まるで、オド・ラグナがそれ以前の『記憶』を評価していないか、忌み嫌っているか、あるいは――、

「――ねえねえ、なんか、話が違ってない?」

「――――」

不意に、独りで取り残されたはずの『記憶の回廊』に声が響いて、ルイは愕然となりながら振り返る。しかし、すぐに疑問は氷解した。

振り返ったルイの視線の先に立っていたのは――、

「あたしたち……」

「そうだよ、私たち。貧乏くじ引いちゃったからサ、ここで待ちぼうけしてた方のあたしたちだよ。どっちがお兄さんの一部になって最高の人生の体験版をプレイするか、ちゃんとプレイ環境は整えられた? その報告にきてくれたってこと?」

言いながら、ルイに笑いかけたのは瓜二つの存在――『ルイ』だった。

本来、一つであるはずの魔女因子を二つに割り、同一人物でありながら『魂』を分割した、正しい意味でのもう一人の自分。

そんな所業が可能であったのは、おそらくはルイが自己の変質を恐れない、肉体を持たない『魂』だけの存在であったことが最大の要因だろう。

その、もう一人の自分である『ルイ』は、ルイと違ってあの体験を共有していない。だから、あけすけに嗤える『ルイ』の姿が、ルイには妙に遠く思えた。

「――? どうしたの、私たち。そんな顔しちゃってサ。第一、お兄さんは? ここにいるってことは、また『死者の書』から入り込んだんじゃないの?」

「――――」

「それに、どうしてさっきから蹲っちゃってるの? どうして縮こまってるの? ねえ、ねえねえ、ちゃんと目的は果たせたんでしょ? こっちは失敗しちゃったけどサ、あたしたちは役目を果たせたはずじゃない。すごいすごい、綺麗に入り込んでたもんね。お兄さんったら、ちっとも気付いてなかったよ。自分の中の私たちに!」

きゃいきゃいとはしゃぎながら手を叩いて、『ルイ』が禁断の逢瀬を回想する。

無論、言われなくともルイはその出来事を知っている。

レイド・アストレアの『死者の書』から、あの暴虐剣士の攻略法を探ろうと考え、『記憶の回廊』と接続したときの話だ。そこで『ルイ』は、改めて何もかもを忘れたアレと接触して、あわよくば魔女因子であるルイごとアレを喰らうつもりだった。

そうすることで、統合された魔女因子ごと、アレの権能を奪い取ることができるのではないかという試みだったが、それは思わぬ邪魔によって失敗した。

よもや、喰らった『記憶』の一つに反撃を喰らうとは思いもよらなかった。

しかし、今思えば、あそこで邪魔が入ってくれなければ、今頃、ルイはアレと一つになっていたかもしれない。

アレと――、

「ねえねえ、どうしたのサ、あたしたち! もっと色々話してよ、聞かせてよ! 見たんでしょ? 聞いたんでしょ? 嗅いだんでしょ? 触ったんでしょ? 味わったんでしょ? ――ナツキ・スバルの権能をサ!」

「――アレの名前を言うなァ!!」

「――ッ」

浮かれた調子の言葉に続いて、そっと『ルイ』が手を伸ばした。その腕が自分の肩に触れようとした瞬間、ルイは激昂と共に腕を振り払っていた。

乱暴に、力一杯、あらん限りの拒絶を込めて、文字通り、半身の腕を。

「……は?」

当然、半身の行為の意味がわからず、『ルイ』の表情に困惑が生まれる。

しかし、そんな『ルイ』の反応を顧みる余裕がルイにはない。ルイは『他人』が触れようとした肩を抱いて、嫌々と首を振りながら後ろへ下がった。

「いや! いやいやいや! 触らないで! こないで!」

自分の認識に、愕然とする。

だが、自分の感覚だ。それは、自分という地獄同様に裏切れない。

理解する。目の前の、自分と同じ顔で、自分と同じ経験を積んできた『ルイ』。

自分の『魂』を分かったはずの存在――それは今や、ルイにとって他人だった。

他人は、何をするかわからない。ルイを守ってはくれない。

ルイの死因となりえる。死にたくないルイを、殺しかねない害敵だった。

「寄るな! くるなくるなくるなくるなッ! 近付いてくるな! 私たちに触るなァ!」

「――――」

自分の体を抱きしめて、アレと対峙していたときと全く同じ反応しかできない。

鏡を見る自由もないこの空間において、他人の『記憶』で自らを形作ってきたルイにとっては、むしろ、自分と同じ顔の『ルイ』への異物感は下手な他人より強い。

そうやって、否定と拒絶を繰り返すルイを見て、『ルイ』は振り払われた自分の手と、交互に視線を動かした。そして、

「は? 何それ」

ルイの拒絶反応に対して、『ルイ』は振り払われた手を握りしめる。それから、ひどく渇いた声でルイを見下ろし、歯を噛み鳴らした。

「何それ。何それ何それ、どういうこと。どういうことなの、どういう了見で、どういう腹積もりでどういう考えなの、ねえ!?」

「ひぃッ」

「話が違うッ! どうしたの、私たち!? なんなの、その反応! 態度! 答え!」

拒絶された『ルイ』が激昂し、縮こまるルイへと距離を詰める。その勢いに喉を引きつらせるルイの前にしゃがみ込み、『ルイ』は蹲る半身の髪を掴んだ。

そのまま力ずくで顔を上げさせ、同じ顔同士、息のかかる距離で見つめ合う。

「おかしいよね。おかしい、おかしいな、おかしいね、おかしいサ、おかしいよ、おかしいから、おかしいとも、おかしすぎるから、おかしいって言ってるから!!」

「――――」

「作戦は? 計画はうまくいってたんじゃないの? 因子になってお兄さんの中に入り込んで、悪さを働く計画だったでしょ? 上出来だったよ。お兄さん、怯えてたもん! 自分と『ナツキ・スバル』は最も身近な他人だって、思い込んでたよ!」

『ルイ』の語る計画と、その進捗にルイは何も言い返せない。

実際、ルイと『ルイ』の計画は順調に推移していた。ルイはスバルの中で『死に戻り』を体感し、悪さを働いてスバルと『ナツキ・スバル』の分離を促した。

そして、『ルイ』は『記憶の回廊』に居残りながら、自己を『ナツキ・スバル』と別個としたスバルを喰らい、権能を我が物とする。あと一歩だった。

仮に、それがうまくいかなくても――、

「――何度でも、何十回でも何百回でも! 『死に戻り』の権能を奪い取るまでチャレンジする約束だったじゃない! ちょっと失敗したくらいで何サ! またお兄さんの『記憶』を奪って、何回でもやり直させたらいい。お互いに役割を交換して、何度も何度もチャレンジしようよ! 失敗は、取り返せるんだから!」

魔女因子として同化するのと、『記憶の回廊』で待機する側と、役割を交換して何回でも飽きずに、完全な権能の強奪までを遂行するつもりだった。

それなのに――、

「――それなのに、あたしたちを拒むなんてどうしたのサ!」

「いやああああぁぁぁぁ――ッ!!」

「う、ぁ!」

ぐいっと、髪を掴んだ腕に力を込められ、ルイは痛みと恐怖で悲鳴を上げる。それから目の前の『ルイ』の胸を突き飛ばし、半身に苦鳴と尻餅をつかせた。

互いに互いを信じられない目で見つめ、白い世界に痛々しい沈黙が落ちる。そうして、ルイが何も言えない中、『ルイ』が瞳を見開いて、

「まさか……権能を、独り占めするつもりなの?」

「――――」

「首尾よく『死に戻り』の権能が手に入ったから、さっさとお兄さんを消して、自分たちだけでそれを楽しむつもりなの? 私たちも、差し置いて」

「ち、違うッ!」

愕然と、凝然と、おぞましい疑惑を描いた『ルイ』にルイは吠える。そんなことは絶対にない。ありえない。これを、独り占めしたいなどと欠片も思わない。

こんなモノ、捨てられるなら捨て去りたい。しかし、できない。

何故ならこれは、他の誰でもない、『ルイ・アルネブ』の『記憶』だからだ。自分の『記憶』は消せない。奪えない。出し入れできない。

『嫌なことも辛いことも、お前自身で抱えろ。――『記憶』から、逃げるな』

「ひ」

折しも、直前にアレから言われたばかりのことだった。

自分自身で経験したことは、自分自身で歩いてしまった道は、消せない。それはルイの中で確かに生まれてしまった、『ルイ・アルネブ』自身の歴史だから。

「冗談じゃないッ! そんなこと、許されるもんか……!」

幸せになりたかった。幸福な、自分だけの人生を手に入れたかった。

しかし、思わぬ形で手に入れてしまった自分だけの人生は、ルイの■を――『心』を粉々に押し潰して、取り返しがつかないぐらいに傷付けた。

それを、心の傷と摩耗に怯えるルイを、『ルイ』は理解できない。

「あたしたちが幸せになる方法を、お前なんかに独占させてたまるか!」

「違う! 違う違う違う違うぅぅぅ! そんなんじゃない! そんなんじゃないの! そんなんじゃないよぉ!!」

「信じられるもんか! まさか、私たちに裏切られるなんて思わなかった! さすがだよね、あたしたち! そうだよね。わかるわかる。うんうん、わかるよ!」

「嫌だ! わからない! わからない! あたしたちの気持ちはわからないッ!」

「いいや、わかるね! だって、私たちのことだもん。そうだよね。幸せになるためなら手段なんか選ばないし、選んじゃいけない! 幸福は、ちょっとのことでどんどんどんどん目減りするもの!」

『ルイ』がぴょんと飛び起きて、薄い胸の前で手を合わせる。そして、彼女は盛大に破顔しながら、涙声で拒絶するルイへと流し目を送る。

「もしも、うっかりあたしたちが悪さを企んだら? 『死に戻り』を手に入れた私たちにそんなことされたら、どう足掻いたって勝てっこない! すごい! 考えたね!」

「死にたくない! 私たちは死にたくない! 死にたくない死にたくない死にたくないぃぃぃ!」

「見え見えの嘘をつくなッ! 死にたくない? なんで? どうして? いらないなら私たちに寄越せ! なんて薄汚い独占欲……あたしたちだなんて思えない!」

「――――」

『ルイ』の口から、同一の存在であることを否定される。

その途端、ルイは自分の中で何かが渇いてひび割れ、砕け散る音を聞いた気がした。それがいったい、自分の中にあった何が砕けた音なのか、わからなかった。

わからなかったけれど――、

「――ナツキ・スバルは私たちのモノだ。この、泥棒猫」

アレがなんなのか、全く知らないくせに、上から目線でモノを言われる。

アレがなんなのか、本当に理解しているのは自分だけなのに、勝手なことを。

――アレを理解したのは、自分だけだ。

「――ナツキ・スバルを知ってるのはあたしたちだけだ。この、馬鹿女」

アレが恐ろしい。アレがおぞましい。アレが、憎らしい。

だから――、

「あたしたちにも味わわせろ――ッ!!」

飛びかかってくる『ルイ』が、ルイをルイたらしめる『記憶』を奪いにくる。

これを引き渡すことは、ルイ・アルネブの『死』を意味する。

『死』を、意味する。――アレが見た世界を、意味する。

「あ、ああああああ――ッ!!」

叫ぶ。叫ぶ。叫んで、叫んで、叫んで、叫んだ。

叫び続けて、叫びながら、叫び散らしながら、叫び声を上げ続けながら――、

「――死にたくない」

ひどく壮絶で、無意味な争いが、『記憶の回廊』で始まる。

誰も見ていない、関心もない、争いが。

始まって、終わる。――勝者のいない、争いが。

△▼△▼△▼△

「――アイスブランドアーツ!!」

言い放った瞬間、掌の中に生み出される感触を強く握り、振り切る。両方の手に生じたのは氷で形作られた長剣で、その切れ味は半端な鉄剣よりはるかに鋭い。

剣技の練習はまだ始めたばかりだが、体を動かすことは得意だった。その延長線上で氷剣を振るい、相手の逃げ場を封じながら致命的な一撃を叩き込もうとする。

しかし――、

「はっははァ! やるぅ! けど、まだまだまだまだ当たんないってばァ!」

「――っ!」

懸命なこちらの攻撃を、長い髪を翻しながら地面を這うように回避する敵。

鋭い犬歯を剥き出しにしながら睨みつけてくるのは、ライ・バテンカイトスと名乗った『暴食』の大罪司教だ。

大罪司教の名を聞くと、胸の内でもやもやとした嫌気のようなものが膨れ上がる。

それは約一ヶ月前、水門都市プリステラで多数の大罪司教と激突して、色んな決着と、色んな決着の先延ばしと、とにかく大変なことが山とあったからだ。

たくさんの悲しいことや、辛い思いが生まれた。

その解消や解決は今も果たされていなくて、だから、みんな一生懸命なのに。

「どうして、あなたたちはそうやって――!」

「なんで? なんでかな? なんでだろ? なんでなんだ? なんでだろうね? なんでなのかなぁ? なんでなんだろうね? なんでなんだかなんでなんでなんだもんねえ!」

おちょくる言葉に真面目な響きはなく、真っ当な答えを返すつもりは相手にない。

それを感じ取り、頬に強く力を込める。話し合いができれば、それが一番いい。でも、相手が話し合いに応じないなら、その先を躊躇わない。

その果断な切り替えが、この瞬間にはっきりと行われた。

「――アイシクルライン」

「わお」

詠唱と同時、氷剣を構える後方で空気が凍り付く音が鳴り響く。それは、先端を鋭くした無数の氷杭が中空に生まれ、放たれる準備が整えられた証だ。

それを見やり、しかし、なおもライの余裕は崩れない。そのことへの感慨などなく、ただただ、凍れる闘志に従い、攻撃を開始する。

「――――」

一息の間に放たれた氷杭の数は百には届くまいが、それに迫るだけのものがあった。

石造りに見える通路を埋め尽くし、床を壁を天井を着弾点とした氷の粉塵が舞い、白く凍える空気が直撃を見舞われた存在に甚大な被害をもたらす。

だが――、

「悪いね、お姉さん。それって見飽きた……とは言わないけど、見たことあるんだよ。僕たちってほら、天才肌だからさァ、いっぺん見た攻撃は当たってあげらんないかな!」

両手に括り付けた短剣を振るい、凄まじい氷の猛撃をしのぎ切ったライが嗤う。

その技量と、事実として無傷で耐えしのいだ結果に息を呑む。しかし、一度目をしのがれたなら、二度目、三度目、それでもダメならもっと。

「百回やれば勝てるって思ってる? 千回やっても届かないよ?」

「なら、一万回やるだけだわ! みんなのところへはいかせないから!」

「あははッ、そりゃスケールが大きいね! いやはや、とんでもないなァ」

額に手をやり、呆れと苛立ちを等分にしたため息をつくライ。それを見やりながら、静かに息を詰め、自らの言葉に従おうとする。

勢いで言った言葉だが、その通りのことをすればいい。

百回、千回、一万回。他のみんなができないことを、自分がやったらいい。

だから、それをやろうと踏み出そうとしたところへ――、

「――ライ・バテンカイトス!!」

「――――」

背後から、自分でもライでもない声が通路に響いて、思わず足が止まった。すぐに声につられて振り返れば、曲がり角から姿を見せた人影が視界に飛び込んでくる。

それは黒髪に、ちょっぴり目つきの悪い少年だ。彼は勇ましい表情で戦場へ駆け付け、通路で戦っているライと自分を見ている。

「あ……」

とっさに、「いけない」と内心で考えた。

何かを言わなくてはならないのに、一拍、言葉に空白が生まれてしまう。それは、駆け付けてくれた少年を前に、溢れ出てきてしまった色んな感情が原因だ。

ただ、自分を見る少年の黒瞳に、『不可解』が浮かんでしまうより前に、言わなくてはと慌てて唇を動かして、

「危ないから待って! えっと、私のこと、その、わからないかもしれないけど、あっちが敵! ここは私に任せて! 私のこと、わからないかもしれないけど!」

この場を任せてほしいのと、あまり、自分のことを考えないでほしい。

少なくとも今、この瞬間は、戦う以外のことを考えたら泣いてしまいそうだから。

そんな風に弱いところを出して、みんなに迷惑なんてかけたくないから。

それなのに――、

「――大丈夫だよ、エミリアたん」

駆け付けてくれた少年が一言、名前を呼んだ。

ただそれだけで、胸の内から何とか出さないようにしようとしていた不安とか、悲しい思いとか、今は構っていられない感情が弾け飛んだ。

だって――、

「――俺の名前はナツキ・スバル。エミリアたんの、一の騎士!」

今、こんなにも、『エミリア』の胸は熱く、熱く、鼓動を打ったのだから。

第六章77 『反撃の狼煙』

熱い想いに従って、力の限り走り抜けて、その場所へと辿り着いた。

胸の奥で熱い血潮を送り出す心臓と裏腹に、吐く息が白くなるほど空気は冴え冴えと冷え切っていて、そんな極寒の世界に、見つけたかった背中を見つけた。

「――――」

細く、しなやかな背中が瞳に飛び込んできて、思わず心臓が爆ぜそうになった。

溢れる愛おしさが胸をつくが、かろうじて衝動を堪える。こんなタイミングで、心臓の爆発に任せてキュン死にしている場合ではない。

強く奥歯を噛みしめて、奮戦する背中越しに敵対する相手の顔が見えた。

濃い茶色の長い髪と、襤褸を巻き付けたような粗末な格好。何より印象的なのは、他者の人生を踏み躙り、文字通りの食い物にしてきた醜悪な眼光――。

「――ライ・バテンカイトス!!」

声の限りに吠えて、自分の存在を主張し、相手の注意を惹きつける。

その一瞬だけでも、相手の注意が逸れれば儲けものだ。無論、その分だけ攻撃がこちらへ飛んでくる可能性もあるが、彼女への被害が減らせるなら何のことはない。

込み上げる恋心を燃料に、今なら空だって飛んでみせる。

「それで、少しでも勝率が上がるんならだ」

凍結する床の手前で足を止め、腹に力を込めてライを睨みつける。その動向に全力で注視し、どんな動きがあっても――、

「あ……」

そんなスバルの心構えは、とっさに振り返った紫紺の瞳に奪われて砕け散る。

「――――」

黒瞳と紫紺の瞳と、互いの視線が交差した。

その瞬間、彼女の瞳に浮かび上がった感情の波は膨大で、押し流されそうになる。いつだって、彼女の瞳はこちらの心を搦め取り、溺れさせようとするのだ。

その瞳に宿ったたくさんの感情の全部を、どうにか掬い取りたいと思わせるから。

だから――、

「危ないから待って! えっと、私のこと、その、わからないかもしれないけど、あっちが敵! ここは私に任せて! 私のこと、わからないかもしれないけど!」

慌てて手を振りながら、こちらへ警戒を呼びかける姿に目を瞬かせる。

一拍遅れて、その言葉の意味が呑み込めた。――自分の内側に、これと同じことを言われた『記憶』が確かにある。同時に、起きた出来事に合点がいった。

そして、本当に思う。――ここに最初に辿り着いたのが、自分でよかった。

何を言えばいいのか、なんて呼びかけたらいいのか、わかる。

それ以上に、最初になんて呼びかけたかったのか、それが膨れ上がって、

「――大丈夫だよ、エミリアたん」

困らせたり、心配させたり、待たせてしまって悪かった。

そんな想いを込めて、場違いにも唇を緩めながら頷きかける。そして、その一言で瞳に理解が広がっていく、銀髪の少女を見ながら続ける。

右手で天を指差して、腰に手を当ててポージング。

やる必要はなかったが、やってやったら覚悟が決まる。そのために――、

「――俺の名前はナツキ・スバル。エミリアたんの、一の騎士!」

「スバル――っ!!」

「わぶっ!?」

決まった、といい顔で言い放った直後、凄まじい勢いで銀髪の少女――エミリアがスバルの下へ突っ込んでくる。

その勢いのまま飛びつかれ、スバルは大きく後ろにのけ反りながら、何とかエミリアの体重を支えきった。心配せずとも、天使の羽のように軽い。無問題。

問題があるとすれば――、

「え、エミリアたん!? 急でいきなりでビックリしたし、めちゃくちゃ柔らかくていい匂いするね! シャンプー変えた!?」

「スバルのバカ! もう、すごーくバカ! いっぱい、いっぱい心配したの! それなのにあんな風に……バカ! バカバカ!」

「すげぇ馬鹿って言われてる! いや、言い訳できないんだけど……」

腕の中、大きな瞳で責め立ててくるエミリアにスバルはたじたじになる。その間もエミリアとは密着状態なので、スバルの心はてんやわんやで語彙も大混乱だ。

ともかく、とスバルは名残惜しいが、エミリアの細い肩を掴んで体を離し、

「心配かけてごめん。でも、俺、戻ったから。……復活した? くっついた? 完全体ナツキ・スバルになったっていうか、とにかく、大丈夫だから」

「あ……」

「全てのナツキ・スバルを過去にする。――ナツキ・スバル、爆誕だ」

勢いでそうまくし立てて、力ずくでエミリアの安心を勝ち取ろうとする。だが、そんなスバルの考えに、エミリアは目を瞬かせると、そっと指でこちらの胸に触れてきた。

くすぐったく、優しい感触。思わず、スバルが全身で身震いすると、

「ちゃんと、一緒になれたの?」

「――――」

「記憶がないときのスバルも、スバルだったから。だから、スバルが全部思い出してくれても、あの、短い間でも一生懸命だったスバルは……」

「――ああ、うん。大丈夫だよ」

胸に触れてきながら、たどたどしい言葉でエミリアがスバルの足跡を確かめる。

『記憶』の統合により、一つになったとも、消えてしまったとも解釈できるナツキ・スバルがいて、そのナツキ・スバルと心を通わせた時間が彼女たちの中にもあって。

――ああ、ならば、簡単なことなのだ。

「俺の中にも、エミリアたんの中にも、『俺』がいたことは確かに残ってる。だから、本当に大丈夫だよ、エミリアたん」

「……うん」

「だから、こっから先はパーフェクト・ナツキ・スバルにご期待ください。怒涛の展開に溜まってたフラストレーションを起爆剤に、輝く未来にレッツ&ゴーだぜ!」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

親指を立てたスバルの笑顔に、エミリアがゆるゆると首を横に振って答える。

そんなつれない態度も愛しくて待ち遠しくて、スバルは何分、何時間、何日でも、こうしてエミリアとイチャイチャしていたいのだが――、

「――そろそろさァ、感動のご対面には十分かい?」

そう言って、おっかなびっくり触れ合うスバルとエミリアに、遠くから声をかけてくるのは陰湿な笑みを浮かべた『暴食』の大罪司教だ。

ただ、この間、攻撃を仕掛けてこなかった事実にスバルは眉を上げ、

「ああ。わざわざ、律義に待っててくれるとは思わなかった。悔い改めたのか?」

「『喰い』改めるなんてとんでもないッ! ただ、僕たちってば『美食家』だからさァ。お兄さん的に言うとグルメってやつ? 食の喜びを知るものとしちゃぁ、配膳にもちゃぁんと気配りしたいって話なんだよ。テーブルが汚くちゃ興醒めだ。でしょ?」

応用し難いテーブルマナーの話をして、ケタケタと甲高い声でライが嗤う。その耳障りな笑い声を聞きながら、スバルは深々と頷いた。

そして、

「なるほど、納得した。俺はてっきり……」

「てっきり?」

「妹が無様にやられたから、ビビッてんのかと思ったんだよ」

「――ッ」

直後、余裕ぶった笑みを浮かべていたライの表情が豹変した。

笑みは一瞬で掻き消え、代わりに浮かび上がるのは灼熱の赫怒だ。その強烈な怒りに従い、ライの体が凍れる通路を蹴り、瞬く間に突っ込んでくる。

「お前に、俺たちのルイの何がわかる――ッ!!」

「何にもわかんねぇよ。こっちは一方的に体に入り込まれてただけだ。あいつが何考えてたかなんか知らねぇし、知りたくもねぇ」

本気で妹にだけは情があるのか、激昂したライの短剣がスバルへと迫りくる。しかし、スバルは近付いてくる『死』の足音に何ら怯えていない。

激情に支配されたライが、スバルしか見えていないならまさしく狙い通り――、

「――私もいるの、忘れないでよ、ね!」

「が、ぶッ」

勇ましい声と共に、エミリアのすらりと長い足が美しい弧を描いた。それは大きく勢いをつけて旋回し、真っ直ぐ突っ込んでくるライの顔面を迎撃する。

直撃の瞬間、エミリアの氷結戦闘技法『アイスブランドアーツ』が発動し、相手に突き刺さる爪先を氷のブーツが補強しているおまけつきだ。

「う、りゃぁぁぁぁ!」

白い足に力を込め、エミリアが敵の前歯を砕いた蹴り足を力一杯振り切る。ライの矮躯はその威力に耐えかねて吹っ飛び、凍結した床を滑って通路の奥へ転がっていった。

そこへ、エミリアはさらに掌を向け、生み出される氷杭が容赦なく倒れるルイを追撃、氷塵が通路を埋め尽くし、『暴食』に甚大な被害を与えることに成功する。

「決まった! これが俺の煽りと、エミリアたんの可愛い殺意の合わせ技だ!」

「それって褒めてるの?」

「褒めてるよ! 最高! 可愛い! 結婚したい!」

「けっこ……もう、ふざけないのっ」

わずかに頬を赤らめ、じろりと睨みつけてくるエミリアの反応は予想外。てっきり、もっとすげなく流されると思っていただけに、スバルの方も照れ臭さが跳ね返ってくる。

「いかんいかん、エミリアたんと会えて浮かれすぎだぞ、俺。いちゃつくのはやること全部やって、問題を片付けたあとだ」

「スバル! まだやっつけられたかわからないの! だから、油断しないで」

「わかってる! これで倒せるんなら、むしろ大歓迎なんだが……」

ほぼ同時に感情を立て直し、スバルとエミリアは状況の打開――エミリアは目の前のライ・バテンカイトスを、スバルはプレアデス監視塔を取り巻く問題に意識を向ける。

五つの障害――それはナツキ・スバルのアイデンティティ問題が解決しても、なおも継続して監視塔と、その中にいるスバルの仲間たちを脅威に晒している。

ただ、いくつかの条件の変化はあった。例えば、時間切れを象徴するかのように押し寄せ、塔を丸ごと呑み込んで全てを台無しにする影の猛威だ。

あれは――、

「あれが、これまで俺が想像してきた通りのペナルティなら……」

影が全てを呑み込む一大事は、以前、『聖域』でも出くわした災厄の再現だ。

あれが起こった経緯は、『墓所』の中でエキドナと話し、彼女に『死に戻り』の全部を打ち明けたことが原因だった。この塔で起きた出来事もそれに類するものだとしたら、あの影が全てをご破算にするのは、『死に戻り』が外部に大きく漏れた場合。

つまりは、スバルの内側にルイ・アルネブがいたことが原因だったはずだ。

そのルイ・アルネブが排除され、スバルの内側から彼女の存在が消えた今、あの影がプレアデス監視塔を呑み込むかどうかは五分五分、といったところだ。

だから、それを当てにして、事態をゆっくり進める選択肢はないが。

「エミリアたん! 俺に考えがある!」

「――! わかったわ! じゃあ、それをしましょう!」

「まだ何にも言ってないけど!?」

スバルの頭の中で選択肢が整理され、それに従って声をかけた途端、何の説明もないのにエミリアからの快諾が飛んでくる。

そのことに驚くスバルに、エミリアは「いいの!」と強く答え、

「スバルの考えなら、一生懸命考えてくれたあとに出てきたものだもの! 私が今から色んなことを考えて答えを出すより、ずっと信じられるから!」

「――ああ、クソ! 嬉しいこと言ってくれちゃって!」

頭を掻き毟り、スバルはむず痒い信頼に応えるように強く床を踏みしめる。それからスバルは通路の奥、氷塵の舞い散る空間を指差し、

「とりあえず、エミリアたん、あいつにもう一発ぶち込んで!」

「えい!」

どん、と激しい音がして、エミリアが氷塊を通路の奥に落とした。

その躊躇のない一発がライへのトドメになればいいが、それは望み薄というものだ。実際、氷塊の着弾点に目を凝らしたエミリアが、「あ!」と声を漏らし、

「スバル! さっきの大罪司教が……」

「ちっ、しぶとい野郎だ。けど、ノーダメージってわけじゃないはず」

振り返るエミリアの表情から、スバルはライが着弾点から姿を消したと理解する。

そのゴキブリ並みのしぶとさには辟易するが、状況の悪さを察して一度は退けるあたり、勤勉が高じて愚直なペテルギウスや、『謙虚』の類語辞書を持たないレグルスとは違う。

しかし、奴が塔から撤退することはありえない。

「エミリアたん! ひとまず、他のみんなと合流だ! 人員配置を振り分け直す! それぞれがベストを尽くさないと、この状況は突破できない!」

「え! でも、あのまま逃がしていいの?」

「正直、さっきので仕留められるんなら仕留めちまいたかったが……」

一度は下がった以上、ライも息を整える時間を全力で稼ぎにくるはずだ。その場合、ライを叩くのに必要な時間と、確実性は計算が難しい。

ならばいっそ、この場は作戦行動を優先し、奴の命は預けておく。

「心配しなくても、あいつは塔から出ていったりしないよ。しこたまルイのことで……妹のことで煽ってやったからね。勘違いシスコン野郎は引き下がれない」

「しすこん……?」

「妹想いって意味。あいつらの場合、悪い妹想いだけど」

少なくとも、ルイの方にはライやロイ、実の兄たちを慕う気持ちはないようだった。そうとも知らずにルイのために尽くすなら、それは哀れな被害者か、その役割に陶酔しているだけのロールプレイマニアだ。

だが、皮肉なことに、大罪司教の歪みない歪み方だけは信頼できる。

「臨機応変、柔軟に対応を変えられる奴は、そもそも大罪司教なんかになってねぇ」

それが、これまで大罪司教との望まぬ接触を重ねてきたスバルの大罪司教評価だ。

故に、生き汚いライ・バテンカイトスを追い詰めるのは簡単ではない。その間に、スバルが手を加えない状況はどんどんどんどん悪化の一途を辿るはず。

そうなる前に――、

「エミリアたん! みんなのところに!」

「ん、わかった! だけど、みんながどこにいるかは……」

「――それをスバナビするのは、俺の役目だよ」

ナツキ・スバル・ナビゲーションシステム。

――略してスバナビこと、『コル・レオニス』を発動する。

「――――」

知っている感覚と、知らない感覚の同居した権能の発動は奇妙な感慨を覚える。

自分の脈打つ心の臓の在処を意識し、その自分自身を中心に鼓動を広げるように知覚範囲を拡大する。それは音の反響で周囲を把握する、ソナーのイメージに近い。

ただし、感じるのが仲間の温もりや淡い光で、もっと限定的な感覚ではあった。

――だが、万能性はなく、ただ仲間の存在を感じることだけに特化したそれは、今のスバルたちにとって最も価値のある権能だ。

その、権能で感じる淡い光に当たりをつけて、スバルは顔を上げる。

まず、エミリアとの合流を急いだように、次は彼女が先んじて逃がしてくれた面々との合流を優先する。すなわち――、

「――まずは、俺の可愛いパートナーを回収する!」

△▼△▼△▼△

――『コル・レオニス』から伝わってくる感覚から、スバルはプレアデス監視塔で起こっている出来事の大部分を把握しつつあった。

あくまで、権能の効果でわかるのは仲間たち個々人の状態と、スバルを中心としたぼんやりとした距離感。仲間の視界が共有できたり、状態がはっきりわかるわけではない。

それでも、傷を負えば傷を肩代わりし、二日酔いになれば二日酔いを引き取れる。それがスバルの『強欲』の権能の効果で、使い道は色々と考えられるものだ。

「スバル、大丈夫? 顔色が悪いけど……」

「ん、ああ、大丈夫大丈夫。いや、ちょっと強がり言ってるけど、まだ平気。このぐらいなら、全然頑張れるよ」

並んで通路を走りながら、重い息を吐くスバルをエミリアが心配する。彼女の銀鈴の声音と紫紺の瞳に心をくすぐられながら、スバルは素直な心情を吐露した。

辛い。けど、耐えられる。それが本音だ。

「――――」

エミリアに指摘されたスバルの顔色、それはもちろん、『記憶』を取り戻すために繰り広げられたルイとのすったもんだの影響もある。精神的な摩耗はなかなか回復し難く、すり減った心を立て直すのは容易いことではない。

が、今のスバルを苦しめているのは、もっと単純明快な原因がある。――ラムの負担、彼女が常日頃から味わっている苦しみを、先んじて引き受けているためだ。

「無断で傷を引き取るの、ラムは絶対喜ばないだろうけどな……」

あれで責任感の強いラムは、自分の負担を他人に肩代わりさせることを絶対好まない。面と向かって「一緒に苦労を背負いたい」とプロポーズすれば、鼻で笑われ、挙句に鼻に蒸かし芋を詰め込まれるのが関の山だ。

なので、ラムの負担は勝手に背負う。彼女に拒否は言わせない。

だから――、

「スバル!」

通路の角を折れたところで、その先を見通したエミリアがスバルを呼んだ。その呼びかけの意味は、『獅子の心臓』を脈打たせるスバルにはわかっている。

エミリアがライを引き受ける間、戦場を離れ、距離を作っていたはずの仲間だ。

漆黒の地竜と、その背に乗せられた青い髪の少女。手綱を握っているのはその少女と瓜二つの顔をした姉で、傍らにはドレス姿の幼女が立っていて――、

「ベア子!!」

「ベアトリス!」

「――っ!? す、スバルと、誰だかわからん娘がきたのよ!?」

猛然と駆け寄ってくるスバルとエミリアに、振り返るベアトリスが仰天する。が、彼女の驚きに構わずスバルとエミリアはほぼ同時にベアトリスに飛びついた。

そのまま、「わきゃっ」と悲鳴を上げる幼女を抱き上げ、

「おお、ベア子! ベア子、お前、軽いなぁ! 可愛いなぁ! 賢い顔してるなぁ!」

「わ、わ、わ、わ……」

「見て、ベアトリス! スバルが全部思い出してくれたのよ! あ、でも、私のことはわからないかもしれないんだっけ……でも、スバルは覚えててくれたの! 私、それがすごーく嬉しくて……」

「ま、待つかしら! 待つのよ! 知ってる記念日と知らない記念日が同時にきたみたいで、ベティーの頭の中がてんやわんやかしら!」

振り回されるベアトリスが、スバルとエミリアの言葉に交互に打ちのめされ、目を白黒させる。しかし、彼女はすぐに掌を突き出し、まずエミリアを黙らせると、

「……スバル」

「ああ」

「ホントに、全部、思い出せたのよ? ベティーのことも、ベティーとどんな風に過ごしてきたのかも、全部?」

「ああ、そうだよ。そんな不安そうな顔すんな。全部思い出したし、何ならいくらでも捏造してやれる。俺とお前の、あることないことヒストリアだ」

「ないことを捏造する必要はないかしら! ああもう!」

抱き上げられたベアトリスが、すぐ近くのスバルの顔を両手で挟む。頬を潰され、ひょっとこ口になるスバルを間近に見て、ベアトリスは深々と嘆息した。

それから、彼女は特徴的な紋様の浮かんだ瞳を震わせて、

「スバルは本当に、ベティーを振り回してばっかりなのよ」

「お前を退屈させない契約者、ってのが契約条件だったはずだからな。それと、お前は俺のこと、スーパーマンじゃないって言ってたけど……」

「――?」

「客観的に見て、俺って結構、スーパーマンじゃね?」

片目をつむり、ウインクしながらスバルがベアトリスに笑いかける。一瞬、その回答にベアトリスは目を丸くして、すぐに頬を膨らませた。

「調子に乗るんじゃないかしら!」

「乗せとけよ。乗ってる方が仕事できるタイプだから。あとは……」

「――――」

ちらと視線を横へ向けると、そこでは憮然とした顔のラムが立っている。彼女は薄紅の瞳を細めて、射抜く――否、貫くような視線をスバルへ突き刺していた。

「あー、姉様?」

「ずいぶんと、雪解けの早いこと。所詮、バルスらしい空騒ぎといったところね」

「……まぁ、実質、一日ぐらいのことだもんな」

空騒ぎと言われれば、スバルの方は苦笑する以外にない。

実際のところ、スバルが体感した二十回近い死亡と、それを我が事と受け止めるための精神的負担を思えば、それがたった一日の出来事とはとても思えない。

スバルからすれば、数年は記憶喪失だったような気分だ。

「けど、満を持して戻ったぜ。みんなのために百五十パーセントの力が出せる男、ナツキ・スバルをどうぞよろしく」

「ハッ! いいわ。何とでも言いなさい。ただ、慈悲深いラムが見逃しても……」

「見逃しても? ……ばんぐらでぃしゅっ!?」

「うきゃーなのよっ!?」

意味深に言葉を区切ったラム、その一言に首を傾げた直後、死角から風を切って叩き込まれる地竜の尾撃にベアトリスごと吹っ飛ばされた。

そのまま、くるくると回ったスバルとベアトリスが柔らかい感触に受け止められる。見れば、それは吹っ飛ぶ位置に回り込んでくれたエミリアだ。彼女は背中側からスバルの体を柔らかく支え、「ふふっ」と微笑み、

「パトラッシュちゃんも、スバルが戻ってくれてすごーく喜んでるみたい」

「――――」

エミリアの視線の先、鼻息を一つこぼした漆黒の威容が立っている。

その強烈な尾っぽの一撃を喰らい、スバルは腕の中で目を回すベアトリスを抱え直しながら、

「ひと昔前のツンデレみたいなことを……いや、悪かった。お前にも相当、心配かけたよな。そもそも……」

「――――」

エミリアの支えを受け、立て直したスバルは鋭い眼光を向けてくるパトラッシュと向き合う。そして、『記憶』がなかった間の、変わらぬ愛竜の献身を思い返して、

「ホント、お前にゃ助けられるぜ。愛してる」

「――――」

「……いつもみたいに、ぶっ飛ばさないのな?」

軽い愛の告白をすると、決まって淑女たるパトラッシュのお叱りを受けるのだが、今回のスバルの告白にはそれがなかった。あるいはそれは、

「冗談か本気かくらい、この地竜にもちゃんとわかるってことかしら」

「……そうさな」

いつの間にそんなに仲良くなったのか、ベアトリスがパトラッシュの心中を代弁する。否定の尾撃がない以上、ベアトリスの通訳で間違いないというわけだ。

これでベアトリスが翻訳能力まで身につけると、いよいよオットーのお役御免である。

「――レム」

そのパトラッシュの背中には、鞍に体を預ける形でレムが乗せられている。

無論、眠り続ける彼女から、スバルの『記憶』が戻ってきたことを喜ぶ声を聞くことはできない。ただ、レムの横顔を見た、スバルの胸中に浮かぶ想いは別だ。

「――――」

あの白い世界、ルイ・アルネブの甘言に乗せられ、まさしく『暴食』の毒牙にかけられそうになった瞬間、どうしようもない弱虫を蹴り上げる声がなかったら。

本当に彼女という存在は、ナツキ・スバルが自分を忘れても、逃がしてくれない。

だからまた、都合四十回の『死』を乗り越えて、戻ってきてしまう。

「と、感慨にふけるのは後回しだ。とにかく、俺の記憶は戻った。みんながその祝賀会を開きたい気持ちは嬉しいけど、状況を一気に片付けよう」

「祝賀会とは、ずいぶんと自分を高く見積もったものね。この短い時間で何があったのやら……それに」

「――。あ、私?」

声の調子を低くしたスバルに鼻を鳴らし、それからラムの視線がエミリアへ向いた。彼女の瞳に浮かんだのは、常の不遜さと、同じぐらいの違和感だ。

ベアトリスの反応からも明らかなことだが、やはり――、

「エミリアだよ。覚えてない、っぽいな」

「……さっき、ラムたちを逃がしてくれた相手、というのは知っているわ。でも、それだけで、それ以上のことは思い出せない。ベアトリス様は……」

「ベティーも、同じなのよ。……『暴食』の権能の効果、ってことかしら」

ラムの首肯に、ベアトリスも同じように顔を伏せる。

プリステラで、ユリウスの身に起きたことと同じことが、この塔の中でエミリアの身にも降りかかったのだ。そのことは、痛々しい傷となって尾を引くと――、

「はい! 私はエミリア、ただのエミリアよ。色々言いたいことはあるけど、ベアトリスともラムとも、おんなじ方向を見てる家族だから!」

「――――」

「それだけわかってくれてたら、今の私は大丈夫。スバルが覚えててくれてるってわかってから、なんだかすごーく調子がいいの」

ふん、とエミリアが白い腕で力こぶを作り、気丈に――否、それは強がりではなく、本心から怖いものなしといった様子で笑みを浮かべていた。

その、あまりに堂々たる振る舞いにスバルだけでなく、ベアトリスも絶句する。珍しいことに、ラムさえも驚きを禁じ得ない様子で目を丸くしていた。

「あれ? 私、なんだか変なこと言っちゃった?」

「……んや、変なことっていうか、めちゃくちゃ格好良かったけど」

少しだけ慌てた風なエミリアの反応に、スバルは自分の頬を掻いてそう答える。そんなスバルの一言に遅れ、「そう」と深い息を吐いたのはラムだ。

彼女はエミリアの様子をしげしげと確かめ、

「エミリア、と言ったわね。不思議なことに、あなたを見ていると、ラムの頭の片隅がやけにむず痒く感じるの。……レムのときも、同じことがあったわ」

「それって……」

「あなたのことが頭から消えて、その穴を埋めるのが大変ってことでしょうね。レム以外に、ラムにそんな相手がいるなんて考えにくいけれど」

目を細めるラムが、自分の内側から消えたエミリアの存在を指でなぞるように確かめている。そんな彼女のこぼした言葉に、スバルは場違いな感慨を覚えた。

こうは言っているラムだが、彼女がエミリアを大事に思ってくれていたのは、二人の関係を横から見ていたスバルには疑いのないことだ。その積み重ねた時間が失われたのだから、ラムに思い当たる節がないのは当然のことではある。

しかし――、

「あなたを見ていて、感じるこの頭の疼きが、ラムとあなたの関係の答えだわ。だから、安心なさい。――ラムは、やられっ放しは嫌いなのよ」

「――。それは、私もおんなじよ。絶対の絶対、やり返すんだから」

「ええ、億倍返しね」

「多いな!?」

エミリアとラム、不敵な笑みを交換する二人に、スバルは頼もしさを覚える。

『名前』を奪われ、本来なら孤立し、関係性は瓦解していくしかなかったはずだ。だが、エミリアは孤立に負けず、強く心の芯を保ってくれた。そのおかげで、彼女から始まるはずの瓦解は、スバルやラムたちの土台を崩すことができない。

その上で――、

「バルス、献策なさい。ただ、物忘れしていた自分を思い出しただけで、ここまでの失点が取り戻せるとは思わないことね」

「言われなくてもわかってるけど、何たる言われようだよ!」

ただ、説得の必要なく、協力する姿勢を見せてくれることはありがたい。

なにせ、信頼を積み重ね、状況を説明して、一つ一つの問題に絆を結びながら立ち向かっていくには、この砂海の塔の置かれた窮地は逼迫しすぎている。

故に――、

「あの最悪の三兄妹が始めやがった大食い祭りを、俺たちの絆でメタメタにしてやるぜ」

「ええ!」

「当然なのよ」

「ハッ!」

三者三様の返事があり、スバルはその全てに深々と頷いた。

そして、

「――バラバラだけど、帰ってきた我が家感がある!」

と、大事の前の小さな、しかし確かな感動を吐き出しておくのだった。

第六章78 『角四つ』

「――いいか? 今、この塔はヤバい状態にある。どのぐらいヤバいかっていうと、オセロで角を四つ取られてるみたいな状況だ」

「それは……かなりマズいわね」

指を一本立て、神妙な顔で説明を始めたスバルにラムが表情を曇らせる。深刻な雰囲気になるのは彼女だけではない。同じ説明を聞く、エミリアとベアトリスもだ。

『オセロ』――説明的にはリバーシと呼んだ方が各所に配慮した名称だが、互いの白と黒の駒を使い、8×8=64マスを奪い合う盤上遊戯だ。

当然、スバルの知る元の世界の知識の一端だが、こちらの世界でも再現するのが比較的簡単な部類だったので、わりと早い段階でロズワール邸に持ち込まれ、一大ムーブメントを巻き起こし、特にエミリアからの大絶賛を受けていた。

そんなわけで、今の説明でもエミリアたちにちゃんと深刻さが伝わったわけだ。オセロにおいて、角を四つ取られることはもはや絶体絶命を意味する。

なお、ラムはあまり参加していなかったが、たまにやると文字通り鬼のように強いのでさもありなん。

ともあれ――、

「角四つなんて、とんでもない状況かしら……ハンデにしても、やりすぎなのよ」

「そんなに角もらったら、てんてこ舞いになった私でも勝てちゃうかも……」

「てんてこ舞いってきょうび聞かねぇな……」

「――! スバル、今の、もう一回言って」

「あとでね。あとで」

スバルのお約束の突っ込みに食いついたエミリアが、要望を却下されて残念そうにする。そんな様子に罪悪感が芽生えるが、何度も言うようにいちゃつくのは後回し。

まずは事態の打開が最優先。そのために――、

「四つの角……それは塔内にいる二人の『暴食』と、そいつらが呼び寄せた魔獣の群れ。それと、これは言いづらいんだが、俺たちの仲間の……あー、そうやって呼ぶのが適切かはちょっと議論の余地があるが」

「――?」

四つ目の角に触れようとして、一瞬、続ける言葉に迷った。

それは、意図せず四つ目の角として立ちはだかる彼女のことを、なんと形容するのが正解なのか、スバルの中でもわかりやすい答えが出なかったからだ。

知り合いなんて遠くはない。呉越同舟というほど縁も薄くない。だが、仲間と言い切れるほどには運命を共有していたか。少なくとも、スバルにとっては無自覚で無認可な師弟という説明でいいのかもしれない。

ただ、エミリアたちにとってはどうなのか。

しかし、そんなスバルの躊躇いの間隙に――、

「仲間って、シャウラに何かあったの?」

「――――」

「――? スバル?」

「いや、何でもない。そうなんだよ、シャウラなんだ」

さらりと、何でもないように滑り込まれ、スバルはエミリアに頷き返した。彼女だけではなく、ベアトリスとラムも、今のエミリアの認識に違和感を抱いていない。

エミリアの『記憶』の有無と無関係に、そこは認識に違いがないのだ。すなわち、彼女たちの中で、シャウラの立場は友好的なモノと、そう刻まれている証。

「馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は」

当然のことに躓くのは、ナツキ・スバルの悪い癖だ。大いに猛省する。そして、その猛省を活かして頑張れるのがナツキ・スバルの良いところ。

一つけなしたら一つ褒める。理想は、一つけなしたら百褒める。

そのぐらいでちょうどいい。真の理想は、一つもけなさずに一万褒めること。

「とにかく、シャウラなんだが……その前に、塔の中にあったルールは覚えてるか? 破っちゃいけない決まり事、その説明があっただろ?」

「ええ、あったわね。『試験』を終えず、『試験』の決まりを守らず、書庫に敬意を払わず、塔を傷付けず……それらが決まり事の違反、だったかしら」

「まさしく、その通り」

すらすらと並べたラムに指を鳴らし、スバルは鳴らした指でそのまま足下を指差す。そうして、塔全体を示す意味合いで指先を回し、

「その、いくつかの決まり事……これを破ると、四つ目の角が出現する。具体的にどれが破られたのかはわからねぇんだが、どれかが破られる。そしたら……」

「当人が言ってた通り、ラムたちに牙を剥くと。――厄介ね」

己の肘を抱くいつものポーズで、ラムが最悪の事態を想定して片目をつむる。

シャウラの戦闘力の高さは、彼女が死因となった回を経験したスバルはもちろん、砂海で遠方からの狙撃を延々と浴び続けたエミリアたちも十分承知だ。

「あのとぼけた娘、あれで相当な実力かしら。遠くから撃たれて手も足も出ないよりマシでも、敵に回ったらマズいのは変わらないのよ」

腕を組み、ラムとベアトリスの二人が眉間に皺を作った。

理解が速いと、説明の手間が大いに省けて助かる。そんな渋面を作る面子の中、エミリアだけが皺と無縁の世界一可愛い顔のまま挙手して、

「でも、相手はシャウラなんでしょ? 何とか、話し合いで説得できないの? シャウラってすごーくスバルに懐いてるし、スバルが一生懸命話したら……」

「その平和的な解決は俺も望むとこなんだけど、シャウラが交渉のテーブルにつくのが難しそうなんだ。俺に懐いてるってのは……広義の意味で変わってない、かな」

「つまり、バルスが集中的に狙われるわけね。的が絞れるのは大いに結構だわ」

弱いところが狙われる、という捉え方もできるが、ラムの考えにはスバルも同意だ。

やたらめったに塔内を潜伏され、誰が狙われるのかもわからない。そんな状況を作り出されるより、がむしゃらにスバルが狙われる方が対策は練りやすい。

そうして問題を要約すると――、

「――『暴食』が二人と魔獣の群れ、それと襲ってくるシャウラの角四つかしら」

「この内の、角二つにはもう対処できてる。そこはベア子の采配のおかげだ」

スバルが『タイゲタ』の書庫で蹲っている間、賢くて可愛いベアトリスがそれぞれの面子を連れ、塔を襲った被害の対処に奔走してくれていた。

魔獣の群れが見下ろせるバルコニーへメィリィを送り、緑部屋のレムを連れ出しにいったエミリアとラムに合流したのもその一環――残念ながら、その途中でエミリアたちとライの接触があり、エミリアの『名前』を奪われる事態へ陥ってしまったが。

「ううん、大丈夫。スバルが覚えててくれたから、全然へっちゃらよ。約束はよく忘れちゃうのに、私のことはちゃんと覚えててくれて、すごーく嬉しかった」

「んん、急に背中刺されたのはなんで?」

「どうやら、日頃の行いが出ているみたいなのよ。その娘も、スバルのことがよくわかってるみたいかしら。ベティーほどじゃなくても」

「張り合うな張り合うな、愛い奴め」

ベアトリスの頭を撫でながら、スバルは愛されている実感に何度も頷く。そうして感慨にふけるスバルに、「バルス」とラムが呼びかけ、

「対処している角は二つと言ったわね。魔獣の群れをメィリィが押さえているのはわかるとして、あと一つは?」

「――ユリウスだ」

ラムに応じて、スバルは自分の服の胸元を掴み、鼓動に意識を委ねる。

『コル・レオニス』の力はなおも健在で、ラムから引き取る負担はもちろん、塔の各所にいる仲間たちの存在がスバルにリアルタイムで伝えられている。

その中にはユリウスと思しき光が確かにあり、その位置は――、

「――二層で、敵と戦ってる真っ最中」

「二層って……まさか」

「ああ、そのまさか」

さっと顔色を変えたエミリアに頷き返し、スバルは軽く視線を上へ向ける。

天井に遮られ、直接その先を望むことはできない。しかし、その視線の先の先で、確かに激闘が繰り広げられている気配を感じる。

――ユリウス・ユークリウスと、レイド・アストレアの再戦は始まっているのだ。

「――――」

結局のところ、決着は避けられないという話なのだろう。

膝を屈し、立ち上がれなかったスバルに代わって、仲間たちに差配を下したのはベアトリスだった。そのベアトリスの指揮下にあっても、ユリウスの戦う相手はあのレイド・アストレアへと終着した。

それにはもちろん、ロイ・アルファルド――『暴食』の大罪司教の肉体を乗っ取り、自由を得たレイドがユリウスとの決着を求めている事実も影響している。

だが、幾度も『死』を積み重ね、望むと望まざるとに拘らず、多くの可能性を渡り歩いてきたスバルにはわかることがある。

――それは、腹立たしいことだが、『運命』は存在するということだ。

いかなる経緯を辿ろうと横たわる、変え難い強固な現実を『運命』と呼ぶ。

それが定められているのだと、そう思わされるほどに強靭な歴史のうねりは存在する。まるで、先に『運命』の提示した結果があり、全ての過程がそこへ行き着くような。

それは様々な意思が結び付き、それぞれの目的を叶えようとした結果ではあるが、だからこそ密接に絡まり合い、ほどけることはない。

しかし、それは同時に、光明を意味するとは言えないだろうか。

ユリウス・ユークリウスと、レイド・アストレアの決着は避けられない。ならば――、

「レイド……『暴食』の一人と同化して、ほぼ乗っ取りが完了した状態だけど、そのレイドとの決着はユリウスに任せろ。俺たちは、残りの三つに対処する」

「それでいいのね、バルス」

「――? 何がだ?」

問い質してくるラムに、スバルはわりと真剣に首を傾げた。しかし、そのスバルの反応を見て、ラムは「そう」と短く呟くと、

「バルスのバルスたる所以は大いに納得したわ。ラムも焼きが回ったわね。そのバルスの献策を頼りにするしかないなんて」

「よくわかんないけど、馬鹿にされてるのはわかるぞ?」

「え? 違う違う、褒めてるのよ。ラムはスバルのこと、すごーく頼りにしてるって。ふふっ、頑張らなくっちゃよね」

「……エミリア、あとでラムから話があるから」

憮然としたラムの言葉に、エミリアは「はーい」と少し嬉しそうに答える。

こんな状況ではあるが、たぶん、エミリアは自分に敬語を使わないラムが新鮮で、そのことがきっと嬉しいのだろう。主従関係であることが失われた今、ラムのエミリアに接する態度は友人か、手のかかる妹へのそれだ。

本物の妹が手がかからない存在な以上、ラムもなかなかできる姉ぶる機会もない。そんな風に思えるのも、異様にポジティブなエミリアのおかげだが。

「とにかく、塔の状況整理は以上! あとは最適な場所に最適な人材を振り分ける。この仕分け事業が、ナツキ・スバルの一番の見せ場だぜ!」

「地味地味すぎるのよ……」

「地味でも大事な仕事なの! これがいぶし銀な活躍ってやつだよ。俺にしかできない仕事……そう、俺にしかできないことだ! これが俺の戦い……痛い!!」

「いいから、早く分けなさい」

前置きが長いせいで、ラムに横っ面を引っ叩かれる。そのダメージを負いながら、スバルは「いいか?」と三人――それに、地竜一頭の顔を見回した。

ここから先は総力戦、本当の意味で総力戦だ。そこには人と地竜の差なんて微々たるものだし、そもそも、パトラッシュは普段からスバルより役立ってくれる。

そこにスーパースバルが加われば、可能性は倍率ドン、さらに倍。

「ワンフォーオール、オールフォーワン。みんなは一人のために、一人はみんなのためにだ。全員が一丸とならなきゃ勝ちは掴めない。誰かが一人欠けるのも嫌だ。誰も欠かさないで勝ちにいく。だって俺たちは……」

「――失わせないで、取り戻すためにこの塔にきたんだもんね」

「そゆこと」

指を鳴らしてエミリアに頷きかけ、スバルは気持ちを引き締め直す。

それから――、

「まず、『暴食』のライ・バテンカイトスの相手だが――」

△▼△▼△▼△

「――バルス」

「んあ?」

話し合いを終えて、それぞれがそれぞれの持ち場へ赴こうという出鼻、襟首を掴まれて強引に足を止めさせられる。とはいえ、首の絞まる勢いはなかった。

その気遣いにはおそらく理由がある。それは――、

「俺を壊さないように気遣ってくれるなんて、らしくないじゃねぇか、姉様」

「羽虫を掌で観察しようとしたら、力を入れないように苦心するでしょう。それと同じことよ。……羽虫なんてわざわざ掌に乗せないわ。おぞましい」

「自分で言って自分で否定するなよ」

ラムらしい言い回しに肩をすくめるスバル。そのスバルの前で、ラムは自分の掌を軽く開閉し、その感触を何度も確かめていた。

その仕草に微妙に戸惑いがあるのは、いつも超然としているラムこそが自然体だと思っているスバルにとって、なかなか珍しい姿に思えた。

戸惑い、困惑するラムが見られるのは役得だ。そのぐらいの感慨があればこそ、この全身を押し潰すような倦怠感にも耐えられる。

「――――」

常にラムの体を苛み続ける『ツノナシ』の負担。それをスバルが『コル・レオニス』の発動によって引き取り、彼女に十全に動けるだけの余力を与える。

それが、この塔の攻略において絶対に必要不可欠な工夫の一個だ。

詳しい原理はともかく、ラムには起きている出来事の概要は伝えてある。

早い話、ラムの負担がスバルに流れ込み、その分だけラムの体は軽くなる。だが、スバルはしんどいので、早めに決着してほしい。そんなところか。

「ただ単に、バルスが苦しんでいるだけだと思えば、どれだけ長く続いたところでラムは気にも留めないけど」

「けど、俺と姉様の共同作業だ。そう考えると、一秒でも早く終わらせたくなるだろ?」

「そうね。虫唾が走るわ」

「虫唾は言いすぎだろ……」

まぁ、そのぐらい悪態をついてくれる方がラムらしい。

嘔吐感を堪えながら、スバルはそう納得する。そんなスバルの前で、ラムは己の肘を抱く、見慣れたポーズでこちらを睨んだ。

「――バルス。ラムは手を抜かないわよ」

「――――」

当然だが、ラムが本調子で動けば動くほど、負荷はカウンターとなって増大する。それでもラムに調子を維持させたいなら、増えた負担はスバルが全部引き取る覚悟だ。

ただ、ラムが立って呼吸しているだけで、十分以上に辛いと弱音が吐ける。だが、それは彼女が常日頃、味わい続けている苦しみなのだ。

そして――、

「姉様は優しすぎます、か」

今も眠り続けるレムが、頻繁に口にしたラム評価。当時はちゃんとわかっていなかったが、今なら彼女の言葉の意味がわかる。

ラム風に言わせてもらうなら、そうやって前置きするところが、ラムのラムたる所以というやつだった。

「バルス?」

「何でもない。――もちろん、手なんて抜いてくれるなよ。お前が本気でやってるかどうかは、俺が自分の苦しいの度合いで測れるんだから。なんて拷問だよ」

「ラムが快調になればなるほど、バルスが苦しみ悶える仕組みというわけね」

「持たせちゃいけない奴に核のスイッチを渡した感」

とは言うものの、仮にスバルが身内で核のスイッチを渡すとしたら、それはラムしか考えられないわけで。

「オットーもいい線いってたけど、あいつはうっかり転んで押しかねない不安があるからな……適切に使うって意味なら、姉様が一番確実だ」

「ハッ! おだてても無駄よ。……しっかり、ベアトリス様とエミリアを気遣ってあげなさい。バルスはどうなってもいいわ。どうせ、大変なのは知っているから」

「はいはい、わかってるよ。レムのことは……」

「――レムを、この世で一番心配してるのはラムよ」

ぴしゃりと、当然の理を述べるみたいにラムがそう断言する。

その言葉の強さにスバルが息を詰めると、ラムは紅の瞳を細めて、

「バルスはバルスなりに、世界で二番目に心配しているがいいわ。それで、髪の毛一本分の傷もレムに付ける気はなくなるでしょうから」

「……そりゃ、死にたくなるからな」

それだけ互いに意思を交わして、ラムはスバルに背を向ける。

言いたいことも、言っておきたいことも山ほどあるだろうに、尽きぬ言葉に区切りをつけて、彼女は早々に己を切り替えられる。

まさしく、それこそがラムのラムたる本当の所以。

「バルス、せいぜい気を付けなさい。死んだらレムと会えなくなるわよ」

「ああ、俺も愛してる」

素直じゃないラムの心配に、スバルもまたそんな茶化しで応答した。

そうして、何も言わずに走り去っていくラムの背中を見送り、スバルは通路で足踏みして待っていたエミリアたちと並んだ。

「待たせてごめん。俺たちも動こう」

「ええ、そうしましょう。ラムは大丈夫?」

「たぶんきっと、ラムなら平気。……俺がよっぽど間抜けなこと言ってたら、あいつが何にも言わないはずないしね」

「またずいぶんと、ラムを信用したもんかしら」

「お前のことも同じか、それ以上に愛してるって。拗ねるなよ」

「拗ねちゃいないのよ!」と頬を膨らませるベアトリス、彼女の差し出す手を握り、スバルはすぐ傍らのエミリアを見やる。彼女も、一人で行動するラムのことを案じているのかと思ったが、その横顔の不安は薄く、

「エミリアたん?」

「ううん、何でもない。ただ、なんだかすごーく心強いって思って」

「――。そりゃ偶然、実は俺も同じ気持ちなんだよ」

根拠のないエミリアの発言が、しかしスバルには最高の後押しのように思える。

不安より、期待が大きい。預けるより、任せる方が力強い。縋るより、信じる方が前を向ける。まだ何一つ、問題が解決したわけでもないのに、

「仲間を信じるのは当然だし、その仲間に頼る自分のことも信じられる。この砂だらけの塔にきて、今が一番、視界が晴れてるぜ」

「――その顔、ベティーの一番好きなスバルかしら」

力強く請け負ったスバルを見て、ベアトリスが不敵に笑った。と、そのベアトリスの一声に、エミリアが「ふふっ」と口元に手を当てる。

そのエミリアの反応を、ベアトリスが「なんなのよ」と指摘した。

すると、エミリアは首を横に振って、

「ベアトリスは覚えてないみたいだけど、私もおんなじこと思ってたの」

△▼△▼△▼△

猛然と、後ろ足を掴まれた巨体が振り回され、容赦なく床へ、壁へ叩き付けられる。

「――――」

人知を超えた怪力が為せる豪快な力業に、大打撃を受ける巨躯が不細工な悲鳴を上げた。それは、無数の赤ん坊が泣き叫ぶような、大気を軋る不協和音だ。

「――――ッッ」

その絶望的な鳴き声を上げるのは、異様な外見をしたおぞましき魔獣――ナツキ・スバルは自らの知識に照らし合わせ、その魔獣をケンタウロスと呼んだ。しかし、かつてこの魔獣を見知ったモノは、それとは異なる名前を付けた。――『餓馬王』と。

「――――ッッ」

その、餓馬王の巨体が投げ飛ばされ、砂の塔のバルコニーをもんどりうって転がる。衝撃に揉まれる砂海の王は、しかし即座に起き上がり、鬣から炎を噴いた。

そして、瞬時に人の上半身が二振りの炎剣を作り出すと、魔獣らしからぬ二刀の剣技を駆使し、攻撃を加えてきた存在へと赤熱する一撃を叩き込まんとする。

だがしかし――、

「――――」

炎の鬣を唸らせ、炎剣を振るおうとした餓馬王の胴体へ白光が突き刺さる。衝撃がその巨体を大きく後退させた。だが、耐える。耐えた。そのまま、反撃に打って出ようと餓馬王が踏み込む。――直後、突き刺さった白光が体内で爆ぜた。

白い光が餓馬王の体内で光の剣山と化し、内側から魔獣を八つ裂きに引き裂く。

凶悪な生命力の持ち主であろうと、その内部からあらゆる重要器官を破壊されれば絶命は免れない。餓馬王もその例外ではなく、光の前に凄絶にその命を散らした。

「――――」

そして、それを成し遂げた女――シャウラの殺戮は止まらない。

特徴的な編み方をした褐色の髪を振り乱し、シャウラが力強く床を蹴り、バルコニーを床と水平に飛ぶ。突き出した両手に光を纏い、彼女は直進の途上にいた二体の魔獣――猿の体躯にトカゲの鱗を持った敵を捉え、そこで光が迸った。

スバルが見ていれば、それをパイルバンカーと称しただろう一撃。掌で顔面を掴まれた二体の猿は、反撃の暇もなく、撃ち出された白光に頭部を消し飛ばされる。その上で、シャウラはその場で大きく回転、長い足が飛びかかってくる猿を撃墜し、爪先が相手の顔面を床へ打ち落とし、そのまま頭部を爆砕した。

シャウラが魔獣との戦闘を繰り広げる舞台は、プレアデス監視塔の四層だ。外壁に面したバルコニーは高さ百数十メートルに位置しているが、魔獣の中には羽を生やしたものや壁を易々と登り詰めるものも少なくない。

そうした登攀者を次々と撃墜し、露台はもはや血の海と化していた。

「――――」

それだけの殺戮を成し遂げ、シャウラは息一つ乱していない。

プレアデス監視塔に押し寄せる魔獣の総数は数えるのも馬鹿らしくなるほど膨大だが、それらが塔内へ雪崩れ込む致命的な事態になっていないのは、間違いなく彼女の圧倒的な戦闘力の貢献が大きかった。

だが、そんなシャウラによって守られている危険な均衡が――、

「――シャウラ!」

「ぐ、ううううう……ッ!」

高い声がシャウラの名前を呼ぶが、シャウラはそれに答えない。ただ、彼女は苦しげに頬を歪めながら、飛んでくる羽の生えた魔獣を掴み、足下へ叩き付ける。

その後続に白光が突き刺さり、空中で赤い花が咲き乱れ、魔獣の追撃はやむ。だが、それらを退けたシャウラの様子は変わらない。自分の顔を掴み、地団太を踏む。

そうしたシャウラの指の隙間――そこから見える黒目がちの眼球が分裂し、赤々とした脈動を始めているのだ。それは複眼の出現、シャウラの変貌を意味する。

「誰かが、誰かがルールを破った……ッス……」

顔を掌で覆い、迫りくる魔獣を不自由な状態で迎撃。長い足で魔獣の攻撃を打ち払い、鋭い後ろ蹴りで敵の胴体を粉砕する。

「マズいな。彼女は限界だ。メィリィ! 君の方は……」

「見ての通り、飛んでくる子たちの相手で手一杯よお! これで裸のお姉さんまで戦えなくなったら、絶対の絶対、手が足りなくなるからあ!」

「だろうね。これは、かなり手厳しいな」

シャウラの苦悶を見ながら、険しい顔をするのは薄紫の髪を波打たせる少女、アナスタシア――その肉体を借りたエキドナだ。彼女の傍らには、濃い青のお下げ髪を揺らし、自分の加護を用いてどうにか状況の均衡を保つメィリィもいる。

シャウラとエキドナ、それにメィリィの三人が、プレアデス監視塔へ押し寄せる魔獣を迎撃するために徹底抗戦していたチームだ。もっとも、『魔操の加護』を持つメィリィと、純粋な火力偏重のシャウラと違い、エキドナの存在は無価値に等しい。

『タイゲタ』へ戻るのも躊躇われ、かといって不穏な気配のある塔内へ引っ込み、そこで余計な足手まといになるのも避けたい。そんな消極的な状況だった。

しかし――、

「おちおち、そうも言っていられなくなるな……」

細い指を動かして、エキドナは自分の内側――厳密には、アナスタシアの肉体の内側にあるオドを意識する。ゲートに不備があり、マナを取り込めないアナスタシアの体では、魔法の行使に用いることができるのは生来のオドのみ。

それはつまり、アナスタシアの命を削る行為に等しい。故に、エキドナとしても、本当に命を危うくするとき以外には取りたくない手段だ。

だが、座して死を待つような状況となるぐらいなら、そうなる前に手を打つべき。少なくとも、エキドナの知るアナスタシアならそう考える。

誰しも、配られたカードで勝負する。故に、勝敗は手札の切り方で決まるのだ。

「――――」

シャウラを襲っている変調は、おそらく彼女の根底に根付いた何かが原因だ。

そしてそれは、決して覆せない、ある種の枷として存在する。エキドナも、人工精霊として似たような環境にあるからわかる。それは、意思の力ではどうにもならない。

先の彼女の言葉が事実なら、プレアデス監視塔における決まり事が破られた。だから、彼女はそれを正すために、監視塔の番人として行動しなくてはならない。

それに抗っているのは、シャウラが本気でこちらの人間を――否、おそらくは、ナツキ・スバルを傷付けたくないと、心底願っているからだ。

「……皮肉な話だ」

この監視塔の番人として居続けていたから、彼女は会いたい誰かと再会できた。

だが、この監視塔の番人として在り続けているから、彼女は会いたい誰かを傷付ける命令に逆らえない。――まさしく、被造物の悲哀だ。

真の意味で、彼女の抱える苦しみを理解できるのは、あるいは自分と、同じように被造物であるベアトリスだけなのかもしれないとさえ、思う。

だから――、

「――でりゃあああああ!!」

威勢のいい声と共に、塔とバルコニーを繋ぐ通路から飛び出してきた人影を見て、エキドナは声もなく目を丸くし、息を呑んでいた。

△▼△▼△▼△

バルコニーへ飛び出した瞬間、スバルは見知った光景と現状との違いに驚き、同時に、それだけの激戦がここで繰り広げられていたのだと理解する。

「――――」

多数の魔獣の屍が転がり、血の海と化した四層バルコニー。

砂海を一望できるこの展覧席が血で染まるのは、監視塔へ押し寄せる無数の魔獣が無謀な突貫をやめないから。放置しておけば、魔獣は塔内に入り込み、混乱は拡大する。

その被害の拡大を未然に防いでくれていた最大の功労者が――、

「――シャウラ!」

「お師様……?」

叫んだスバルの声に振り返り、凝然と目を見開くシャウラ――その眼球は分裂し、左右三つずつの六つの複眼に分かたれようとしていた。

それはすでに一度、スバルもこの目で目の当たりにした変貌現象。プレアデス監視塔のルールが破られ、シャウラの監視塔の番人としての役目が回ってきたことを意味する。

結果、シャウラは自らの意思に反して大サソリへと姿を変え、塔内の挑戦者――つまりはスバルたちを全滅させるために動き始めるのだ。

だから、

「お師様、あーしに……あーしに、命じてくださいッス……!」

「――――」

「誰かが、ルールに違反したんス。この、ままだと、あーし……お師様を……! そうなる前に、でなきゃ、お師様を、お師様を……っ」

自分の体を掻き抱いて、シャウラが必死の形相でスバルに命令を求めた。

本能的に、自裁するという機能が取っ払われているらしいシャウラ。彼女がこの場で求めるのは、自らを害するための最後の一押しだ。

スバルの口からそれがもたらされれば、シャウラは躊躇いなく己の命をなげうつ。スバルが命令さえすれば、大サソリの脅威は取り除かれると言っていい。

だから、スバルは力強く頷いて、

「シャウラ」

「は、い……あーし、お師様のためなら……」

「何度も言ってるが、俺にはお前にお師様呼ばわりされる心当たりがねぇよ」

「――っ」

一瞬、そう応じるスバルに、シャウラの複眼が絶望に染まる。

四百年も待ちぼうけて、ようやく再会が叶った待ち人にそれを否定され、挙句に最後の願いさえも踏みつけにされてしまうのかと、子どものようにシャウラが怯える。

その怯えを見ながら、スバルは息を吸い、吐いた。

「だから、俺がお前のお師様かどうか、それを認める認めないの話は後回しだ」

「え……」

「俺は、お前に死ねなんて言ってやらない。俺は、お前を泣いたままになんかさせてやらない。俺は、お前の四百年をここで終わらせてなんかやらない」

時間をかけて、一度はなくした『記憶』をかき集めてきたから、スバルにはわかる。

この世界の奴らは気が長すぎる。四百年も、一途に誰かを待ち続けるんじゃない。首根っこを掴んででも、会いたい誰かを引きずり出すべきだ。

「俺がそれをしてやる! 唯々諾々と、誰かの言いなりになんてなってたまるかよ! 運命様、上等だ!」

「――――」

拳を振り上げ、そう強く強く断言するスバル。それを見て、シャウラが絶句した。その間にも、おそらく彼女の内側では堪え難い衝動の爆発がある。

しかし、この瞬間、少なくとも彼女にとって重要なのは、塔の決まり事でも、内から爆ぜそうなぐらいに膨れ上がる衝動でもなく、

「お師様……愛してるッス」

たぶん、四百年待ち焦がれた相手への、抑え切れない愛の情動だけだった。

「――――」

それを言い切った直後、シャウラの変貌が本格的に始まる。

白く細い手が肥大化して大鋏へと変わり、女性的な豊満な体が爆ぜ、テープの逆再生のように溢れる血肉が舞い戻り、肉体を組み替える。漆黒の甲殻が生まれ、赤々とした複眼が世界を睥睨。複数の足が床へ突き立ち、完成する砂の塔の管理者――。

「――――ッッ!!」

大サソリの威容が、甲高い鳴き声を発して、塔の決まりに反した罰則者に警告する。その複眼が最初に捉えるのは、皮肉にも、前任者が執着していた黒髪の少年。

そこへ目掛けて、情け容赦ない一撃が放たれようと――、

「――えええええいっ!!」

――その大サソリの胴体に、真横から豪快な飛び蹴りが叩き込まれた。

「――――」

凄まじい威力が突き込まれ、大サソリの巨体が床から外れて吹っ飛ぶ。豪快に石床の上を転がり、中途の魔獣を巻き込みながら、大サソリの巨躯がバルコニーの縁を乗り越え、そのまま砂海の空へと投げ出された。

が、そこは大サソリもやられっ放しではない。とっさに伸ばした尾針が監視塔の壁へ突き刺さり、その巨躯を放り投げるように上へ飛ばす。そうして中空で身をひねり、大サソリは猛然とバルコニーへと帰還を果たそうとした。

「――ムラク」

その帰還を妨げたのは、紡がれた一声の詠唱だ。

指向性を持ったマナが現実に干渉することで、本来なら自然的には発生しない影響を世界へもたらす。此度のそれが生み出した結果は、大サソリの帰還の妨害だ。

風を巻き込み、豪快にバルコニーへ着地しようとする大サソリ。その体が、吹き付ける砂風に乗せられ、バルコニーへの軌道を大きく外れる。

おおよそ数百キロを下回るはずがない大サソリの巨体、それが風に流されるなど、どれほどの強風があればいいのか。しかし、そうではない。

陰魔法の一種である『ムラク』は、対象にかかる重力を操作する魔法だ。

早い話、大サソリの重量が埃のように軽くなれば、その図体が見た目通りの動きができなくなるのは至極当然。それをやった、それだけのこと。

「――――ッッ」

大サソリが苦鳴を上げ、再びバルコニーの外へと投げ出されていく。瞬間、大サソリが尾針を振るい、帰還を諦めて塔の上のこちらを狙い撃ちにしようとする。

だが、それも一手遅い。

「羽土竜ちゃん!」

少女の高い声の命令が、風に飛ばされる大サソリへと攻撃を殺到させる。飛び込んでいくのは、鳥の羽のようなものを生やし、頭部の大部分が角と化した魔獣だ。それが大サソリの外殻へ次々と撃ち込まれ、ダメージは与えないながらも、衝撃で大サソリをはるか彼方へと押しやり、塔から遠ざけていく。

「――――」

さしもの大サソリといえど、支えなくして自らの体重は浮かせられない。そのまま、風に流されていった先で魔法の影響が解除され、真っ逆さまに地上へ落下する。

地上数百メートルからの落下――無論、それで倒せる相手ではない。しかし、時間稼ぎには十分になった。そのわずかな間隙を使って、

「メィリィ! エキドナ!」

「ナツキくん! 立ち直った……いや?」

駆け寄ってくるスバルの呼びかけに、顔を上げたエキドナが眉を寄せる。彼女はアナスタシアの思案顔で、「もしや」と言葉を続け、

「ひょっとして、『記憶』が戻ったのかい?」

「話が早い! けど、なんでわかった?」

「わかるさ。君の隣で、ベアトリスがそれだけ自慢げな顔をしていればね」

エキドナの顎をしゃくった先、そこにスバルと手を繋ぐベアトリスのどや顔がある。

確かに、これを見ればベアトリスの心に起こった好転は明らかで、隠し事のできない素直なところが本当にラブリーだ。

もちろん、エキドナの洞察力が優れているのも間違いなく、彼女はその洞察力のままにスバルの後方、大サソリを蹴り飛ばしたエミリアを見やり、

「そして、見覚えのない彼女は……」

「『暴食』の権能だ。あの子の被害はユリウスと一緒……周りが忘れて、本人は覚えてる。名前はエミリア。タフで可愛い俺のお姫様」

「素早い情報共有に感謝しよう。ただ、塔の中も外も混乱が激しい。どうする、と聞いても構わないかい?」

「ああ、それはもう答えは用意してある」

深く頷くスバルの後方、両手を広げたエミリアが上空へ氷の礫を無数に展開する。それが一息に撃ち放たれ、凄まじい威力が地上を、中空を飛ぶ魔獣を襲った。

スバルには見えないが、眼下、転落していった大サソリにも追撃が突き刺さっているだろう。ただ、それも膨大な数の魔獣の前には焼け石に水――、

「エキドナ、お前の担当は中だ! ひとまず、二層で戦ってるユリウスのところに合流しろ! その先で何するかは、エミリアに伝えてある!」

「――。彼女と一緒にいくのは構わないが、ナツキくんたちはどうする?」

「ベティーと、スバルの役目は決まってるのよ」

思案は一瞬、問いを発するエキドナにベアトリスが答える。彼女はちらとスバルの横顔を見上げて、握った手にきゅっと力を込めながら、

「ここで、あの大サソリの相手をしてやるかしら。やっつけないように手加減してやらないといけないから、やれやれ、骨が折れるのよ」

「でかい口叩くぜ、こいつ。さすが俺のベア子」

「えへぺろ、かしら」

己と契約者を鼓舞するような大言を吐いて、ベアトリスが舌を出す。

そのスバルたちのやり取りに目を丸くして、それからエキドナは首を横に振った。言い合いに時間を割くより、最善と信じる手法に身を委ねるが吉と出たらしい。

そのあたりの割り切りの良さは、なるほど、アナスタシアとどっこいだ。

「この塔のあらゆる局面で、ナツキくんの意見がボクたちを救ってきたのは確かだ。だから、この場においても君に賭けるのが一番勝算が高い……と、見る」

「そりゃ光栄だな。お前がエキドナって名前の生き物ってことが悔やまれてならねぇ」

「造物主の影響が色濃いことについては、今回の一件が片付いたらちゃんと話し合いの場を持ちたいところだ。――ユリウスに言伝は?」

「――――」

軽口を叩き合い、身を翻そうとするエキドナが最後にそう付け加える。

今も、『コル・レオニス』の効果で延々と感じる、一つ上の階層で戦い続けているユリウス――思えば、これでユリウス以外の塔内の味方とは合流したことになる。

ユリウスもまた、『記憶』をなくしたスバルを案じていた一人であるので、『記憶』を取り戻した報告はしなくてはならないと思うが――、

「いや、特にねぇよ」

現状、レイド・アストレアと戦うユリウス・ユークリウスに、ナツキ・スバルからかけるべき言葉はない。

そもそも、スバルの方策は最悪な状況下で、人員を最適な場所に配置することにある。そのために配置転換が必要だから声をかけて回るが、ユリウスにその必要はない。

――ユリウスの持ち場は、レイド・アストレアに他ならない。

「その点、あいつはさすがって言うべきだろうな。俺が何か言わなくても、結局、レイドのところにはあいつがいってくれてる」

そのおかげで、大サソリとなる前のシャウラと言葉を交わせた。

最後の瞬間、シャウラの聞き慣れた愛の言葉がスバルに与えた力は限りない。絶対の絶対に助けてやると、心に熱い火が灯った。

だから――、

「――俺の言うべきことは、少し前の俺と、その前の俺が全部言ってる。今さら付け加えることなんてない。あいつは、ユリウス・ユークリウスなんだぜ」

強固な『運命』がこの世界に存在すると、ナツキ・スバルは確かに認めた。

この監視塔を取り巻く難題の数々は避け難く、必ずやスバルたちへと牙を剥く。だが、それを避けられないことと、乗り越えられないこととは話が別だ。

レイド・アストレアがユリウスに立ちはだかるのが『運命』ならば、その先も必定。

蘇ったレイド・アストレアを斬るのは、ユリウス・ユークリウスだ。

「――。わかった。それをそのまま伝えるとするよ」

「あ、言うことあったわ。他のみんなも大変だから、さっさと片付けて他の人のフォローに回ってくれ」

手を振り、スバルは走っていくエキドナの苦笑に一役買った。それを見届け、スバルはエキドナの向かう先、氷剣で二頭の魔獣を斬り倒すエミリアへ顔を向ける。

「エミリアたん! 打ち合わせ通りに! エミリアたんが頼りだ!」

「ええ、任せて! スバルこそ、死んじゃダメだからね!」

「おうともよ!」

エミリアの当然の言葉に、スバルはしかし普通以上の実感を込めて拳を掲げる。

死にたくない。――その基本原則は変わらぬままに、それ以上の理由を込めて、この状況下で『死に戻り』することの危険は想像を絶する。

リスタート地点が変わっていないなら、スバルが舞い戻るのはルイ・アルネブを魔女因子ごと自分から分離する前の段階だ。そこへ舞い戻れば、いったい、どんな不都合が発生するのか、スバルにも誰にもわからない。

スバルの中からルイは消えているのか、消えていないのか。『記憶の回廊』はある種の治外法権だが、『死に戻り』の影響はどう出る。全てが不鮮明だ。

つまり――、

「――今回で、ケリをつける!」

スバルの断言に従い、エミリアがエキドナを捕まえてバルコニーを離脱する。

彼女たちは彼女たちの戦場へ。そして、スバルたちはスバルたちの戦場へ。

それ故に――、

「それでえ? 全然説明がなくってちんぷんかんぷんなんだけどお、わたしにはちゃあんと説明してくれるのかしらあ?」

我慢強く、エキドナとの会話にも割り込まずにいたメィリィが、バルコニーに残ったのがスバルとベアトリスだけになったのと見計らい、そう声をかけてくる。

そのメィリィに親指を立てて、スバルは歯を剥いて凶悪に笑った。

この土壇場において、スバルがメィリィに声をかけなかった理由はたった一つ――ユリウスと同じで、彼女もまた、最適な戦場にいる一人だから。

「悪ぃが付き合ってもらうぜ、メィリィ。俺とベア子とお前の三人で、魔獣の群れと大サソリ――角二つを、押さえ込む!」

「それ、説明になってないからねえ!」

「――くるのよ!」

お下げ髪を揺すり、頬を膨らませるメィリィに子細な説明をする暇がない。次の瞬間、ベアトリスの声に応じるように、巨躯が塔の外壁からバルコニーへ飛び上がる。

それは漆黒の外殻と、狂暴な大鋏を携えた赤い複眼を持つ存在――、

「で、四百年の引きこもりか」

微かに息を弾ませ、スバルは傍らのベアトリスをひょいと抱きかかえる。そして、すぐ傍へ走り寄ってくるメィリィと並んで、真っ直ぐに大サソリと対峙した。

そのまま、静々とこちらを睨みつける敵に対し、頬を歪めて、

「引きこもり対決だ。あっちは一人で四百年、こっちは二人で四百一年だぜ」

「三人で、四百二年の方が正解じゃないかしらあ」

「つまり、俺たちが勝つ!」

「勝つってところ以外、意味がわからんかしら!!」

腕の中、ベアトリスがスバルとメィリィの息の合った軽口に吠える。そうして、程よい緊張に揉まれながら、スバルは大サソリを睨み、息を吐いた。

これで、状況は想定通りのマッチアップに落ち着く。あとは――、

「――本気で頼んだぜ、エミリアたん。君が、全部の鍵だから」

――プレアデス監視塔を取り巻く、『角四つ』との戦いが、本格的に開戦する。

第六章79 『READY STEADY GO』

乱戦の開幕、最初の一発を放ってきたのは大サソリの方だった。

「――――」

赤い複眼が爛々と輝くと、直後に振るわれる尾から白光が迸る。

恐ろしいのは、こちらへ致命打を放り込むつもりの一撃が、それらしい掛け声の一つもなく放たれること。大サソリは吠えることもなく、淡々と死を繰り出してくる。

放たれる白光には嫌な思い出が多い。具体的に言えば、塔内での十五回以上の試行錯誤の中、半分くらいはこれに殺されている。

だが、それだけ殺されれば嫌でもわかることがある。

例えばそれは――、

「初速と、攻撃の予兆……!」

複眼と尾針、それぞれが攻撃の瞬間にささやかに光を増す。見間違いかと思うほどか細い変化の兆し、それがスバルが命懸けのトライ&エラーで掴み取った生存の目。

それを最大限に活かすべく、スバルはベアトリスを抱いたまま走り、大サソリとの距離をあえて詰める。何故なら、

「初速が一番、遅い……!」

言いながら、迸る白光を身をひねって回避する。

白光は遅いとは言っても、それでも下手な高校野球の投手のボールよりはるかに速い。幸い、選球眼には自信があった。なにせ、それがなければ生き残れない。

人生はトライ&エラーだと、どこかの偉い人が言っていた。が、その偉い人も命懸けの状況を想定してそう発言したわけではないだろう。

だが、足りないものは失敗を重ねるしかない。真理だ。そして、スバルには『幸運』にも命懸けの状況をトライ&エラーする能力があった。

それを駆使して、生存の目を探る。――これが、ナツキ・スバルの土俵。

「期待に応えられなくて悪かったな、俺!」

万能のナツキ・スバルを求めたもう一人の自分に、泥臭い戦い方しかできなくてすまないと心から詫びる。しかし、そんなスバルの腕の中、抱きしめられたまま一緒に臨死の舞踏を踊るベアトリスが「ふん」と鼻を鳴らして、

「何を言ってるのよ。スバルが期待に応えられなかったことなんて、一度もないかしら」

嬉しいことを言ってくれるベアトリス。彼女がさっとその手を掲げ、薄い唇から詠唱するのは重力の法則を捻じ曲げる陰魔法、『ムラク』だ。

一度はその効果を喰らい、はるか眼下へ突き落とされた大サソリだ。その漆黒の外殻を引き締め、二度も同じ目に遭うまいと力強く踏ん張る。

しかし――、

「足を止めたら、こっちの思いのままなんだからあ!」

踏ん張り、動きを止めた大サソリへと、魔獣の集中攻撃が襲いかかる。

メィリィが総攻撃を命じたのは、翼と角が一体化したような『羽土竜』と呼ばれた異形の魔獣だ。それらはまるで、死を恐れぬ弾丸のように大サソリへ迫り、その硬い外殻へと躊躇なく角を叩き付け、衝撃と、砕け散る音が連鎖する。

その衝撃の連鎖に大サソリが身悶えし、対処するために大鋏を掲げれば、

「――――ッッ」

そこへ、入れ替わりに猛撃を叩き込むのは異形の中の異形、うなされる夜の悪夢が具現化したような存在、人馬一体のケンタウロス、『餓馬王』だ。

赤ん坊の盛大な泣き声が監視塔の露台を席巻し、耳を塞ぎたくなる軋るような咆哮と爆炎が空にほど近い空間を暴力的に覆い尽くした。

「――――ッッ」

その炎の中心へ、餓馬王は手にした炎の槍を躊躇なく突き込む。灼熱の切っ先は鉄のような甲殻さえ焼いて穿つ必殺の一撃だ。

単純な戦闘力では大サソリが圧倒するが、それは攻撃が一切通用しないという意味ではない。当たれば、痛む。生物なら当然だ。

当たれば、痛む。当たれば。

「――――」

故に、当たらなければどうということはない、を大サソリは体現した。

繰り出される炎の槍を大鋏で受け止め、振り払う動きで餓馬王の腕を切断。斬られた傷から再生しようとする餓馬王だが、その傷が容赦なく自らの炎の槍で焼き潰された。ボコボコと泡立ち、復元しようとしていた傷の蠢きが止まる。

傷を焼けば再生できないのだ、と不必要な見識がそこで得られた。そして、動きの止まった餓馬王の胴体へ、大サソリの尾針が炸裂、巨体が内から爆ぜる。

「――――」

血肉がぶちまけられ、獰猛なる餓馬王の命が散った。

外殻に砕かれた羽土竜も、頭部と一体化した角が潰れれば命はない。命を壮絶に使い捨てながら戦う戦法は、外道非道と罵られて当然の振る舞いであった。

それが魔獣なら構わないと、そう目をつぶるのは間違いだ。だが、スバルは命に貴賤はないと、そんな綺麗事を並べようとは思わない。

命には価値がある。紛れもなく、価値の差もある。

自分にとって大事な人と、そうでない人間とは明確に命の重みの感じ方が違う。そこを欺瞞で隠そうとは思わない。だから、勝つために魔獣の命を使う。

そして――、

「俺を見過ごすのは、正しいけど間違ってるぞ!」

魔獣の先遣隊が吹き飛ばされ、赤く舗装された床を強く踏みしめる。左手にベアトリスを抱えたまま、大きく振りかぶる右手に握られるのは抜き放った鞭だ。

かつての強敵の屍を使い、冒涜的な仕上げを施されたギルティウィップ――音を切り裂く、ナツキ・スバル最速の一撃が大サソリの外殻の一部を直撃する。

雷鳴のような音が鳴り響き、赤い複眼がスバルを睨んだ。その大サソリにダメージが通った様子はなく、痛苦を覚えた様子は皆無。

だが、それでいい。狙いはダメージを与えることではない。だからこそ、大サソリはスバルへの対処を、他の魔獣より最後へ遅らせたのだろう。

その判断は正しいが、間違っている。

「うおらあああ――っ!!」

「一本釣りなのよ!!」

外殻に絡んだ鞭に力を込めて引き上げれば、大サソリの巨体が反動で浮かび上がる。それはベアトリスの陰魔法の効果が残り、巨獣の重量が激減している証拠だ。

とっさのことに大サソリが踏ん張ろうとするが、その足下は大量の血と臓物で汚れていて、踏ん張るには最悪のコンディションだ。鋭い爪が床にその身を繋ぎ止めようとするのを、スバルは豪快な身振りで一気に釣り上げる。

傍目には、まるでスバルの怪力が巨獣を振り回しているように見えるシチュエーション。ベアトリスの協力があって実現した豪快そのものの光景は、大サソリの巨体を鞭で限界まで振り回し、振り回し、振り回し、放り投げた。

「吹き、飛び、やが、れええええ――っ!!」

超ジャイアントスイング的な勢いで、大サソリの体がくるくると宙を舞う。

その間、激しく回転しながら、大サソリも正確な狙いでスバルへ白光を叩き付けんとする。だが、それをことごとく打ち払うのは、ベアトリスの掲げた掌だ。

中空に紫色に輝く結晶を作り出し、白光を正面から撃墜する。その連携が活きるうちにスバルは鞭から大サソリを解放、再び、空へと大サソリが吹っ飛んでいく。

「これで、また時間が……」

稼げる、とスバルは肉を切らせて骨を断つような薄氷の攻撃に活路を見出す。が、その言葉を言い切るより前に、スバルは目を見開いた。

眼前、空へ吹っ飛ぶ大サソリが、驚くべき曲芸を披露したのだ。

「――――」

薙ぎ払うような大鋏の一撃が、大サソリ自身の尻尾を根本から叩き切る。そのまま、赤黒い体液をまき散らして吹っ飛ぶ尻尾、そこから最後の最後、白光が放たれた。

その白光が、尾を失った大サソリを捉え、凄まじい勢いで監視塔のバルコニーの方へと吹き飛ばす。重量を失い、軽くなったのを利用した荒業――大サソリは衝撃波を伴いながら露台へ帰還し、大鋏を床へ突き立てて制動、こちらを睨みつける。

「と、とんでもねぇ曲芸しやがる! けど、それで尻尾がなくなったってんなら、かえってこっちとしちゃありがたい……」

「――――」

「って、オイオイオイオイ!」

着地し、低く身構える大サソリの尾部から、さらなる赤黒い出血がある。しかし、それは傷が深くなったのではない。逆だ。――傷口から、千切れた尻尾が再生する。

それだけではなく、自らに喰らわせて吹き飛ぶのに利用した白光、それで生まれた外殻のひび割れも、同じように泡立ちながら傷が埋まるのが目に見えた。

「硬いし治るし賢いし、シャウラらしくねぇ特徴ばっか増やしてんじゃねぇぞ!?」

治るはともかく、シャウラの体は柔らかかったし、頭は悪かった。が、それらのシャウラ特性をかなぐり捨て、大サソリは圧倒的殲滅力でこちらを狙ってくる。

再生した尾を振り回し、正確な狙いではなく、ばら撒く形で尾針が周囲へと放たれる。それは攻撃の予兆と無関係の範囲攻撃で、地力で劣るスバルたちには最悪の攻撃手段と言わざるを得なかった。

「うおおおおお――!?」

「ぐ……スバル、飛ぶしかないかしら!!」

放たれる白光から逃れる術が地上にはない。となれば、活路を見出す先は上空だ。とっさにベアトリスが大サソリの魔法を解除、即座にスバルへかけ直す。

その魔法が効果を発揮するか否か、パートナーを信じてスバルは地面を蹴り、思い切り宙へ飛び上がった。その足下を掠めるように、白光が露台を砕いていく。

「ギリギリセーフ……!」

「ってわけにもいかないのよ……!」

致死の可能性を文字通りに飛び越え、しかし、安堵の暇はない。

先ほど、スバルたちが大サソリに仕掛けたのと同じことだ。上空へ逃れれば、踏ん張る足場も逃げ道も失う。――ならば、あとは攻撃に砕かれるだけ。

「ベア子! オリジナルスペル、第二弾――!」

日に三回しか切れない切り札だが、切りどころをしくじって死ぬわけにはいかない。スバルが強く肩を抱き寄せると、即座にベアトリスも同じ判断を下す。

瞬間、特別な術式の展開準備に入り、スバルの肉体を一定の無敵時間が――、

「――――ッッ」

「うお!?」

「わぷっ!?」

術式が発動する直前、スバルとベアトリスの体が横合いからかっさらわれる。同時、放たれる白光がスバルたちのいた空間を通過、危うく、蒸発していたところだ。

その危機からスバルたちを救い、大サソリの追撃から二人を守り通すのは――、

「た、助かったぜ。何がどうなって……うげ!?」

「かしら!?」

ゴムのような質感にしがみついて、自分の身に何が起こったのか確認したスバルが驚愕に喉を震わせる。同じく、懐ではベアトリスも大いに顔をしかめていた。

何故なら、二人を大サソリの攻撃から救い、今も懸命に守ってくれているのは、青黒い体色と凶悪な外見を持った魔獣、餓馬王だったからだ。

「地下で初めてお前を見かけたときは、まさかクライマックスで共闘することになるとは思ってもみなかったぜ!」

「――――ッッ」

虚勢を張ったスバルの言葉に、餓馬王が耳心地最悪な鳴き声で答える。と、そんな餓馬王に頬を引きつらせるスバルへと、餓馬王の別個体が横に並んだ。そして、その餓馬王の背中に小さな体でしがみつくのはメィリィだ。

「今、危うく奥の手を出しそうだったんじゃなあい? もっと慎重にやってよねえ。お兄さんとベアトリスちゃんの奥の手が、わたしにとっても命綱なんだからあ!」

「ナイスセーブ! ナイスフォロー! よくやってくれたぜ、メィリィ! このまま、戦うフィールドを変えるのってやれるか!?」

「要するに、場所を変えたいのお? それはできるけどお……」

「じゃあ、頼む! ひとまず、ここじゃ逃げ道が少なすぎる!」

周囲を見回して、スバルは足場の少ないバルコニーでの戦闘放棄を決断する。すでに魔獣の死体が多数散らばり、イレギュラーなアクシデントも起きかねない状況だ。

その判断の効率性を考え、頷くメィリィが餓馬王の背中を叩き、「お願い」と命じる。するとそれを聞いて、二体の餓馬王の速度が加速――バルコニーの外へ飛び出し、凄まじい動きで一気に監視塔の壁を駆け下り始めた。

「お、おおおおおお――!?」

「わばばばばばばばばばばばばなのよ!?」

想定以上の荒業に、スバルとベアトリスが抱き合いながら絶叫する。だが同時に、餓馬王すら従え、自分の戦力に加えるメィリィの能力には脱帽しかない。

「――――」

攻撃力の高い餓馬王を筆頭に、中空を飛んでいる羽土竜、地上には巨大な砂蚯蚓、花魁熊やその他、多数の魔獣が味方となれば、戦略はぐっと広がる。

それは遅滞戦術を重ね、時間を稼ぎたいスバルにとって最善の相方と言える。

「バラエティに富んだ攻撃手段の数々! メィリィ! 俺とお前って、ひょっとすると思った以上に相性がいいのかもしれないぜ!」

「やめてよねえ、お兄さん! わたし、ペトラちゃんやベアトリスちゃんに睨まれるのなんて絶対に嫌なんだからあ!」

監視塔を垂直に駆け下りながら、並んだ餓馬王の背中にしがみつくメィリィと叫ぶように言葉を交換する。スバルの軽口に、メィリィは本気で嫌がるしかめ面。その反応に微妙にナイーブな男心が傷付くが、今は些細な傷には目をつむるとき。

「砂海に落ちたら、二回戦開始だ。あいつは俺を追ってくる! ひとまず、中のみんなに手出しはされねぇはず……」

「でもお、決定打がないのは一緒でしょお? いつまでも逃げ回ってても勝ちは拾えないんじゃなあい?」

無尽蔵に魔獣の湧くアウグリア砂丘だ。魔獣の残弾は尽きずなくならず増え続けるが、それが保証してくれるのは継戦能力であり、決定打ではない。

「――――」

ちらと見れば、メィリィは額に浮かぶ汗を拭い、微かに息を荒くしている。

それは鉄火場、矢面に立たされることへの緊張感もあるが、少なからず、魔獣を操っていることのフィードバックもあるように思えてならない。加護を持たないスバルにはわからないことだが、加護も使いすぎれば毒となる可能性は十分あった。

「加護が制御できなかった頃、世界は地獄みたいでしたよなんてオットーの奴は冗談を言ってたが……」

あながち、酔い潰れたオットーから飛び出た一言も馬鹿にならないのかもしれない。

仮にオットーの言う通り、加護が負担になるなら、メィリィの戦いにも限界はある。もし戦いの最中にメィリィが倒れれば、たちまちスバルたちの敗北は確定だ。

つまり、この戦いは――、

「いかに、メィリィを蝶よ花よと愛でられるかで決まる――!」

「なんか、最高に聞き捨てならない作戦かしら!」

言い切ったスバルにベアトリスが眉を立てた直後、衝撃が二人の全身を貫く。それは、猛烈な速度で塔を駆け下りる餓馬王が終点に到着した証。

すなわち、監視塔の垂直の壁を突破し、砂海へ帰還した証拠だった。

「なんだかんだ、ずっと傍にあったけど……こうして降りてみると、まただいぶ感じ方が違ってる気がするな」

「どんな気分なのよ?」

「最悪の気分。砂漠って砂だらけで嫌い。ゲームでよくある砂のステージも、俺は好きじゃなかったの思い出した」

ゲームのシステムによっては、猛暑で歩いているだけでキャラクターのHPが減ったりする場合もある。この砂海は熱砂とは関係ないが、それでもいい思い出がない。

その上、周囲を無数の魔獣の群れに囲まれているとなれば、なおさらだ。

「襲ってこないとはわかっていても……」

鼻の曲がるような甘ったるい香りや、それを上回る獰猛な獣臭さもあり、砂海を取り巻く空気の悪さは世界屈指と言っても差し支えない。見覚えのある魔獣からない魔獣まで多数取り揃えられた環境は、魔獣の研究者でもいれば垂涎なのだろうか。

生憎と、スバルたちにとってはただただ居心地が悪いだけだ。

「それでえ、質問の答えはどうなのお?」

身震いするスバルたちの隣へ、餓馬王に跨るメィリィが並んだ。問いかけの答えを欲する彼女に、スバルはちらと塔を見上げると、

「お前の言う通り、俺たちじゃシャウラを……あの大サソリを何とかできない。だから全部の鍵は、エミリアたんが握ってる」

「……さっきの、銀髪のお姉さんのこと?」

「そうだ。エミリアたんと、五つ目のルールが全部の鍵」

訝しむメィリィに頷きかけ、スバルは掌を彼女へ突き出した。立てた指は五本、それがこのプレアデス監視塔における、挑戦者であるスバルたちへ課せられたルール。

「『試験』を終えずに出られない。『試験』の決まりは破れない。書庫への不敬は許されない。塔を壊してはならない。そして……」

「そして?」

四つ目のルールまではメィリィも聞いているはずだ。

しかし、五つ目のルールは彼女も知らない。シャウラが隠そうとしていたから、そのルールを知ることができたのは、シャウラ本人と、『死に戻り』したスバルだけ。

シャウラが口を噤み、教えようとしなかった五つ目のルール。

それは――、

「――『試験』を壊すことは禁じない。この塔のルールは壊せる」

『試験』が挑戦者の、スバルたちの行動を縛り付ける。だが、それは同時に、試験官であるシャウラの行動を縛り付けるルールでもある。

シャウラは塔のルールに縛られている。だから、彼女はスバルたちを殺したくないと思っても、大サソリと化して殺そうとする因果から逃れられない。

それが、彼女を四百年以上も縛り付ける楔ならば――、

「――っ! くるかしら!」

ベアトリスの警戒の声の直後、凄まじい噴煙がスバルたちの眼前で発生する。

それは真っ直ぐ、塔を駆け下りるのではなく、バルコニーから地上へと躊躇なく飛び込んできた巨大な影が生み出した衝撃波だ。

噴煙の奥から聞こえるのは、ギチギチと鈍く重々しく鳴り響く大鋏の擦れる音。ゆっくりと姿を見せる大サソリの複眼が、周囲を取り囲む無数の敵ではなく、一心不乱にスバルの方へと向けられている。

「ベア子! メィリィ! 時間を稼ぐ! 俺たちの勝利条件は、エミリアたんの勝利!」

「合点承知なのよ!」

「それって、具体的にどのぐらいなのかしらあ?」

「エミリアたんのできる、最高速度だよ」

いつだって、エミリアは本気だし、一生懸命だ。

だから、彼女が目の前の問題に妥協したり、手を抜くことなんてありえないから。彼女の繰り出す結果はいつも、彼女の出せる最大にして最高火力。

それを信じて愛して、大切に思うから、ここで踏ん張れる。

「さあ、やるぜ、運命――いや、塔のシステムをぶち壊す!」

△▼△▼△▼△

「なるほど、つまり君はそのために――」

「ええ! そうなの! スバルに言われたのよ。塔の一番上まで上がったら、この状況を書き換える方法がきっと見つかるって!」

はきはきと答えながら、エミリアが走る足に力を込める。そうして走る彼女の腕の中、抱かれているのは体を小さくするエキドナだ。

最初はエミリアに手を引かれて走っていたのだが、途中でまどろっこしくなったエミリアに抱き上げられ、その後はされるがままになっている。

実際、この方がずっと早いし、体に負担をかけずに済むので助かるが――、

「君も君で、体力を温存しなくてはいけないんじゃないのかい? 何が待ち受けているのか、さっぱりわからないんだろう?」

「え? あ、心配しなくても大丈夫! アナスタシアさんの体ってすごーく軽いから、エキドナが入ってても全然変わらないわ。らくちんよ!」

「僕の有無はアナの体重には関係ないからね……いや、そうじゃないんだ」

微妙にすれ違う受け答えに、エキドナはやりづらさを感じながらエミリアを――見慣れないハーフエルフの美貌を見る。

『暴食』の権能で、その存在の『名前』を奪われてしまった仲間の一人。境遇はユリウスと全く同じはずだが、その振る舞いが彼とだいぶ大きく違っている。持ち前の精神性の違いだろうか。あるいは、支えとなる人間の差なのか。

「君は、自分が忘れられたことが恐ろしくないのかい?」

「すごーく怖いし、寂しい。でも、膝を抱えてる時間がないから。でしょ?」

ぽつりとこぼれた問いかけに、エミリアから律義な返答があった。その、切り替えの強さは彼女の精神的なタフさの証明なのか、あるいは別の要因にも思える。

エミリアは言っていた。――スバルが覚えてくれているから、不安じゃないと。

それはひどく、単純で夢見がちな一言だが、同時に真理であるようにも思えた。

「――――」

ナツキ・スバルが、『暴食』の権能の効果を受け付けない原因は不明だ。厳密にいえば、彼も影響を全く受けないわけではない。現に、彼自身の『記憶』が失われたのは、『暴食』との予期せぬ遭遇が原因であったというではないか。

だから、起きた出来事の全てを、スバルの特別性が要因だと言い切ることはできない。つまり、あったのではないか、可能性は。

何らかの方法で、『記憶』も『名前』も守ることが、できたのではないか。

それができていたなら、アナスタシアのことも、ユリウスのことも――。

「――――」

全てに忘れられたユリウスの心情を思えば、揺らぐ彼を誰が責められようか。だが、同じ状況に置かれたエミリアの強さを見れば、その差はなんなのか思わずにいられない。

その差は、傍にいる人間の差。支えようと、傍らにいる人間の違いではないか。

ユリウスもまた、支えがあれば崩れずにいられたのか。そしてそれは、エミリアにとってのナツキ・スバルであるように、誰かがいられたはずではないのか。

「ボクは……」

どうすべきなのか、その答えはエキドナの中で出せない。

こんなにも頭を悩ませたことは、空虚な人工精霊としての生涯の中、初めてのことだったかもしれないと思わされるほどに。

「エキドナ?」

「――。何でもない。それより、本当なのかい? 君が二層の『試験』を……レイド・アストレアの暴力を、一度は突破しているというのは」

「ん、ホントよ。もう、そんなことまで忘れられてるなんて、すごーく説明が大変」

可愛らしく頬を膨らませるエミリアだが、そんな彼女があの『暴力』が服を着て歩いているような男の『試験』を突破している事実に恐れ入る。

この状況で彼女が嘘をつくとは考えられないのと、短時間でも彼女が嘘をつくのに向いていない性格なのはわかるので、全ては事実なのだろう。ほんの一瞬だが、バルコニーで大サソリを相手に見せた立ち回りからして、相当な実力者なのも疑いがない。

だから、あとの問題は――、

「塔の一番上に上がれば事態を打開できる。その根拠は?」

「スバルが、シャウラから五番目の決まり事を聞いたんですって。それで、スバルが色々考えてくれて思いついたことだから、きっと正解よ」

「それも、ずいぶんと妄信した考えだとは思うが……」

「疑って話が進むならそうするけど、そうじゃないときだと思うし……エキドナも、スバルを信じてくれたから、一緒にきてくれるんでしょう?」

一片の曇りもない瞳を向けられ、エキドナはぐうの音も出なくなる。そんなエキドナの反応を見て、エミリアは場違いにも、嬉しそうに唇を綻ばせた。

「ほら、私の騎士様はすごーく頑張ってくれるのよ」

その頑張りが認められたことが誇らしい、と態度で示すエミリアに、エキドナもまた場違いな感傷を覚え、薄いアナスタシアの胸を掴んで、息を吐く。

「――――」

この感情は危険だと、自分で自分に言い聞かせる。

ひどく不合理で、場違いだ。少なくとも、今この瞬間に抱くべきものではない。できるなら永遠に忘れて、そうでなくともこの状況ではせめて。

「――そのスバルに、頼られたんだもの!」

強く強く、自分と、自分に寄り添う相手のことを信じる彼女への、羨望など。

今この瞬間は忘れて、事態の打開へ集中すべきなのだと。

「――――」

エミリアの長い足が優雅に回転し、飛ぶような勢いで階段を駆け上がった。そうして、長いはずの階段を乗り越えた先で、凄まじい銀光が火花を散らす。

眼前、開けた二人の視界を目一杯使い、右へ左へ大立ち回りを繰り広げているのは、薄紫の髪をなびかせ、白い制服を血で汚した騎士、ユリウス・ユークリウス。

そして、それと相対するのは――、

「ぐ、く――っ!」

「オラオラオラオラ! そんなンでオレをどうにかできンのかよ、オメエ。舐めてンじゃねえぞ、オメエ。オメエ、遊びにきてンのかよ。遊ンでほしけりゃ化粧してこいや。そしたら踏ンづけてイジメて可愛がってやンぞ、オメエよぉ!」

口汚い言葉と共に、その手に握った二本の箸で悪夢のような斬撃を繰り出す暴力の化身、レイド・アストレアが二層を舞台に死の舞踏を舞い踊る。

それが人知を超えた攻防であることと、それでもユリウスが劣勢に陥っていることは、悲しいかな、素人目にも一目でわかるほど歴然とした差があった。

「――っ」

無数の斬撃と、繰り出される蹴りを同時に捌きながら、ユリウスが騎士剣を回転させ、間隙に刺突を突き込むことで対抗する。

まるで光が迸るようにしか見えない超技術の鋭角な突きを、しかし、レイドは眼帯で片方の視界を封じられていながら、欠伸まじりに易々と回避してみせた。

「っらぁ!!」

直後、刺突の回避に目を見張るユリウスの胴へ、無造作に振り上げられた足が直撃、ゾーリの足裏に腹筋を抉られ、ユリウスの体が苦鳴と共に後ずさる。

そこへ、頭上から唐竹割りに落とされる箸の一撃――、

「飛び散っちまえ、オメエ」

縦一閃、衝撃波を伴った斬撃は大気を斬り、空間を斬り、概念を斬り裂く。

もはや表現方法すら思い浮かばないような圧倒的な剣撃は、その得物が箸であったにも拘らず、見るものが剣技の素人であったとしても、思わず目を奪われるような美しさ――剣技の到達点、その極致が実現されたものだった。

「――――」

ともすれば、その美しさに見惚れることが死因になりかねない斬撃。

それをユリウスは横っ跳びに躱し、間に合わずに剣に呑まれるマントの先端が蒸発する。材質の不明な監視塔、その二層へと冗談のように縦の切り口が刻まれた。

それに加えて――、

「オイオイ、それでよけた気になってンなら甘ぇぞ?」

「――っ」

嘲るような笑みと同時に、斬られた大気がたわみ、歪み、風が生じる。

瞬間、飛びのいたはずのユリウスが息を詰め、斬られた空間へと引きずり込まれるように足を引かれ、レイドの剣撃の射程距離へと引き戻された。

信じ難いことに、斬られた空間の復元する引力だ。それが一度は死から逃れたユリウスを引き戻し、まんまと次なる一撃の射程範囲へ放り込む。

とっさのことに身動きの取れないユリウスへ、レイドの拳が真っ直ぐに放たれ――、

「――そこまでよ」

刹那、二人の剣士の間に割って入ったのは、凛とした銀鈴の声音だった。

だが、その声の美しい響きとは裏腹に、戦いへの参入の仕方は豪快極まる。そのあまりの光景に、エキドナは思わず声を失った。

「ああン?」

「――――」

と、胡乱げな声で頭上を仰ぐレイドと、無言のユリウスの目が見開かれる。

二人の頭上へ展開した異物――それは、天井を埋めるような強大な氷塊だった。

竜車さえも一瞬で粉々にしかねない破壊の塊が、剣士たちの上へ降り注ぐ。

瞬間、レイドとユリウスの行動は対照的に分かれた。すなわち、ユリウスは飛来する氷塊を避けるべく飛びずさり、レイドは頬を歪めて笑ったのだ。

そして――、

「ハッ!!」

獰猛な笑みを湛え、落ちてくる氷塊目掛けてレイドが箸の一本を突き上げる。氷塊の落下点と、レイドの振り上げる箸とが衝突、奇跡的に点と点で力が均衡し、箸がたわむ。

その上で、レイドがゾーリで床を強く踏みしめると、踏み込みの威力が箸を伝わり、そのまま先端が支える氷塊へ流れ込み、箸が半ばでへし折れ、氷塊に亀裂が走った。

「……やってくれるじゃねえかよ」

吐き捨てるようにレイドが呟くと、直後、亀裂を中心に氷塊が一瞬で砕け散る。

パラパラと散りゆく氷片、それを浴びながらゆっくりと振り返るレイド。その青い隻眼に真っ直ぐ射抜かれ、相手に掌を向けるエミリアの頬に力が入る。

そのエミリアと視線を交錯させ、レイドは驚いたように瞠目し、

「ずいぶンと好戦的だったな、オイ。そンな女は嫌いじゃねえが……ああ!? なンだ、オメエ、マブすぎンだろ!? 激マブじゃねえか! なンだってこンな砂海のど真ン中にこンな激マブがいやがる! オメエがオレの相手しろや、コラ」

「ごめんなさい。勝手に邪魔しちゃって。だけど、ユリウスにはあなたに勝ってもらわなくちゃいけないから……」

「あにぃ?」

レイドの自己中心的な文句には耳を傾けず、エミリアが眉尻を下げてそう続ける。その一言にレイドが頬を歪めたが、それ以上に困惑したのは救われた形のユリウスだ。

彼はエミリアの放った氷塊の射程から逃れ、レイドと一定の距離を保ちながらも、唐突に現れたエミリアへの疑念を隠せずにいる。そのまま、彼はその黄色い瞳を、エミリアの傍らに立っているエキドナへ向けると、

「助けられた形なのはわかるが……エキドナ、彼女は? いったい何者なんだ?」

「ボクからも、彼女の素性については説明の難しい立場でね。ただ、端的に言わせてもらえるなら、彼女はユリウス、君と同じ立場の人間だ」

「なに……?」

そう言われ、ユリウスが改めてまじまじとエミリアを見る。それから彼が微かに目を見張ったのは、そのエミリアの特徴と彼の知識の中の存在と一致を見たからか。

「銀髪に、紫紺の瞳のエルフ……いや、それほど特徴的な存在が突然に塔内に現れたとは考えにくい。ならば、まさか彼女は」

その外見的特徴の異質さと、その印象が自分の中に残っていないこと。そして塔内の状況を鑑みて、ユリウスが自発的に己の中の違和感を導き出した。

独力で答えに至ったユリウス、その彼の驚く瞳に、エミリアは深く頷くと、

「ユリウス、今なら私、あなたの気持ちがすごくよくわかるわ」

「では、やはりあなたも……」

暴食によって『名前』を奪われたもの同士、即座に状況を把握し合う。そしてそれが済めば、ユリウスの中でもエミリアが味方である確信が芽生えた様子だ。

彼は背後にエミリアとエキドナの二人を庇い、レイドに改めて剣を向けると、

「先ほどは助力に感謝する。だが、塔の置かれた状況を思えば、二人がここへ駆け付けた理由が掴めない。外の様子やレム嬢、『タイゲタ』の書庫はどうなっている?」

「それらを一切合切まとめて、何とかいっぺんに片付けようという試みが行われているところだよ。発案はナツキくん、協力者は塔にきている面々だ」

「スバルが? しかし、彼は――」

説明の途中で割り込んだスバルの名前に、ユリウスが訝しげに眉を寄せる。

彼の把握している限りでは、スバルは『タイゲタ』の書庫でレイドの『死者の書』へ挑み、そのまま意識の帰還を曖昧にした状態だったはずだ。そこからの復帰は難しいとベアトリスに言われ、彼なりに塔の混迷を打開するべくレイドとの戦いを続けている。

そこへ、目覚めたスバルの発案と言われても、自然と認識が繋がらないのは至極当然のことと言える。だが――、

「仲良く話してるとこ悪ぃンだが、オレを無視してくっちゃべってンじゃねえよ!」

どん、と床の爆ぜる音がして、突っ込んでくるレイドの箸撃をユリウスが受ける。箸の一本を失ったが、それでもまだもう一本が残っている状態。そもそも、箸がなければ代わりに手刀を使うだけで、レイドの戦力が目減りするわけではない。

「くっ!」

鋭い攻撃を受けながら、ユリウスが形勢を立て直し、懸命な防御に励み続ける。それを見ながら、レイドは文字通り、片手間で龍をも屠りそうな一撃を放ちつつ、隙を窺っているエミリアへと空いた手の指を突き付けた。

「さっきっから何狙ってやがンだか知らねえが、好きにさせると思うンじゃねえよ、オメエよ。オメエの相手は、この半人前片付けたあとに……お?」

言いながら、レイドが突然、首を傾げる。

彼は首を傾げたまま、突き付けた指で自分の左目の眼帯に触れて、「オイオイ」と忌々しげに吐き出すと、

「なンだ、オメエ。なンでか、オメエを止める手が動かねえ。いきなりオレが惚れたわけじゃなけりゃ、こいつぁまさか……オメエ、『試験』突破してやがンのか!」

「ええ、そうよ! あなたは、私の胸を箸で触って負けたの!」

「かっ! なンて本望な負け方してやがンだ。覚えてねえのがもったいねえったらねえぜ、激マブ!」

舌を鳴らしたレイドの発言が、彼を縛る何らかの楔がエミリアを捕まえられないことを示していた。それはすなわち、彼女の果たすべき役割の妨害が消えたことを意味する。

つまり――、

「ユリウス、私は……」

「行かれるがいい。私と同じ、その名前を知らない麗しの貴方よ」

首だけ振り返り、何かを言おうとしたエミリアを遮り、ユリウスがそう言った。騎士剣を構え直した彼の言葉に、エミリアが口を噤む。

そんな彼女の驚いた顔に、ユリウスは勇ましく微笑むと、

「貴方には貴方の役割がある。それが、私の力になることではないことはわかる。だからそれでいい。――どうか、万全に」

「――。ええ、あなたも!」

ユリウスの激励を受け、エミリアが頷いて走り出そうとする。その彼女の疾走を、レイドは止めようとしない。横を通り過ぎるのに任せ、隻眼の赤獅子は彼女を見送った。

そして、エミリアはこの二層の最奥、そこからさらに上へ続いている階段の前へ差し掛かると、そこで足を止めて振り返り、

「エミリアよ」

「――――」

「私の名前はエミリア、ただのエミリア。――あとでまた、必ず会いましょう!」

自分の名前をその場に残して、エミリアが颯爽と階段を駆け上がっていく。その背中が視界から消えるのを見届け、エキドナは長く長く息を吐いた。

ここから先、上へ向かうのがエミリアの役割。そして、エキドナの役割は――、

「君はどこへも行かず、私の戦いを見届けるというのか?」

「それを、君が許してくれるのなら。……いいや、そうじゃない。そうすべきだと、他ならぬボクが判断したんだ」

「――――」

ちらと、壁際に立つエキドナの方に視線を向け、ユリウスがその唇を固く結ぶ。その横顔に様々な感情が渦巻くのを見ながら、エキドナは小さく息を吸った。

そして――、

「何ができるわけではないが、アナがいたならこうしただろう。この塔の中では、どこにいたとしてもボクの立場は不安定なものだ。ならば、自分の意思で君の後ろに立つ。だって……」

「――――」

「――だって、君はアナスタシア・ホーシンの騎士。そうだろう?」

実感のないモノを信じるのは、とてつもなく勇気のいることだ。

形のあるモノを信じることと比べれば、確かめる拠り所のないモノを信じるために必要とする力は、いったいどれだけあれば安心できるのか掴めようもない。

しかし、その不確かなモノを信じて、エキドナは眼前の背中に言った。

「――――」

それを受け、ユリウスが長い睫毛に縁取られた瞳を伏せた。そのまま、彼は静かに深く長く、息を吐くと――、

「存外に、力をもらえるものだね。勇気を振り絞った誰かが、もはや何者でもないかもしれない私を信じ、期待してくれているということに」

「ユリウス……」

ユリウスにとって、失った足場は不確かで。

エキドナにとって、知っていたはずの絆は曖昧で。

そんな頼りないモノを頼りに、本来、繋がっているはずの関係と異なる関係を結ばなくてはならない二人は、しかし、この瞬間だけは確かに同じモノを見ている。

だから――、

「――ユリウス、君に伝言だ」

「伝言?」

「ああ。塔の至るところでみんなが戦っている。だからね。――さっさと片付けて、他の人の援護に回ってくれ、だそうだ」

「――――」

それが彼なりの声援とわかるから、エキドナは聞いた通りをユリウスへ伝える。その伝言を伝え聞いたユリウス、彼の細い肩が微かに強張った。

そして、ユリウスの中で、その伝え聞いた伝言の内容が咀嚼され、呑み込まれる。それからの反応は明瞭で、劇的だった。

「は」

短く、それは鋭い息のようにも思われた。だが、そうではない。

それは笑みだ。ユリウスが腹の底から一息だけ、笑みのための息を吐いた。そしてそのことは、ユリウスを知るものがこの場にいたなら、驚くべきことだった。

――ユリウス・ユークリウスが、戦いの最中に笑みを浮かべることなど。

「――彼が殻を破ったのならば、私もまた負けてはいられない」

それは静かな、だが、熱い想いの秘められた決意表明だった。

騎士剣を正面に掲げ、ユリウスが刀身に己を映しながら、対峙する敵と向かい合う。レイドは長く、退屈そうな顔をしていたが――鮫のように笑った。

「オメエ、やる気になったンかよ」

「失礼だが、戦いには常に真剣に向き合っている」

「違ぇ違ぇ、そうじゃねえ。オレが言わなくても、オメエもわかってンだろ?」

笑いながら、レイドが左手を上げ、自分の目を塞ぐ眼帯をめくった。そうして健在なその青い双眸で、剣士の頂は挑戦者へとご機嫌な殺意を向ける。

小胆なものなら、その眼光だけで殺されそうなほどおびただしい剣気。だが、ユリウスはその切れ味の鋭い眼光を真っ向から受け、その後ろでエキドナも身を硬くして耐える。

その剣気の嵐に耐えるユリウスたちを見て、レイドは大きく牙を鳴らすと、

「『棒振り』レイドだ。この名前だけ、覚えて散ってけ」

「――――」

戦いにおいて、剣を交える前に名前を交わすのは、戦士として対等と認めた証。その流儀をどこまでレイドが重要視するかはわからないが、レイドの考えはともかく、それを浴びせられた方の考えは劇的に変わる。

息を吐いて、整えて、ユリウスは昂る心を押さえ込み、

「改めて名乗ろう。私はユリウス・ユークリウス。ルグニカ王国、王選候補者、アナスタシア・ホーシン様の一の騎士。――名無しの騎士を気取るのは、返上だ」

己と、他ならぬ世界に刻み込むように、自らの『名前』を堂々と宣言した。

△▼△▼△▼△

ユリウスとエキドナの二人を階下へ置いて、エミリアは階段を駆け上がっていく。

長い足を懸命に動かして、飛ぶように階段を二段、三段飛ばしに上がっていくエミリアの速度は尋常ではないが、彼女自身の内心は、速く、もっと速くの一点張りだった。

「――っ」

強く奥歯を噛んで、エミリアは美しい横顔に必死の色を宿す。

階下、二層へ残してきた二人のことが心配だった。レイドはとても強く、乱暴者で、口がすごく悪い。相手をする二人が心身共に傷付けられるかもしれない。

もちろん、エミリアの心配はユリウスとエキドナだけに留まらない。スバルとベアトリスは、メィリィと一緒にちゃんとシャウラのことを引き止めていられるのか。ラムも自分の役割を果たせるのか。パトラッシュはレムを守ってくれるのか。『名前』を食べられてしまったせいで、またみんなと一から関係を築き直さなくてはならないのかとか、不安の種は尽きないし、足を止めると泣きそうになる。

だけど、足は止めない。涙も流さない。鼻の奥がツンとするのは堪えるのだ。

「まだ何にも、終わってなんかいないんだから……!」

信じられることと、信じてもらえていることが、今のエミリアの全部を支えている。

心配はたくさん、不安はいっぱい、だけど、それを上回る『信じてる』が満載だった。

「――っ! 光!」

一心不乱に駆け上がっていく視線の先、エミリアの紫紺の瞳が白い光を捉える。それがこの長い長い階段の終わり、そして未知の一層へ続く光だとエミリアは解する。

そう思った瞬間、エミリアは強く床を蹴り、さらに加速した。

そして――、

「――出た!」

光を突き破るようにして、エミリアの前で階段が終わる。瞬間、その眼前に広がったのは一層と呼ぶべき空間――ではなかった。

「え……?」

呆然と足を止めて、エミリアは目の前の光景に思わず声を漏らす。それもそのはず、彼女の紫紺の瞳が映し出したのは、見慣れた監視塔の続きではない。

壁はなくなり、天井は失われ、広がっているのは凄まじく青い空――エミリアが立っているのは建物の中ではなく、外だった。二層の階段を駆け上がった結果、エミリアは塔の上に、そのまま屋上へと飛び出してしまっていた。

「一層って、外のことなの……? ここ、雲よりも高い……」

塔の上、てっぺんは丸く広々とした床があり、それ以外の仕切りも、塔の淵に手すりのようなものもない。だから、床の端までいけば、眼下を容易に見下ろすことができる。

塔には空のずっと上にあるはずの雲が接触していて、エミリアは自分が雲の中、あるいは雲の上にまできているのだと気付き、息を詰めた。

こんなに高いところへきたのは、エミリアでも初めてのことだ。だが、そんな驚きを得るエミリアは、すぐに別の感慨に意識を奪われた。

『――――』

――それは静かで、あまりにも堂々としすぎていて、気付けなかった気配だった。

「――ぁ」

自分の立ち位置や、雲の高さ、一層の状況などに目を向けていたエミリアは、視界の端を掠めた存在に遅れて気付き、それからゆっくりと振り返って、吐息を漏らす。

自分の『名前』を奪われ、世界中から忘れられたと絶望しかけても、それでもエミリアの心は最後のところで踏ん張った。――だが、そのエミリアさえも絶句する。

それほどまでに、彼女の目の前に現れた『存在』は想像の埒外だった。

何故ならそれは――、

「あなたは……」

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

重々しく、魂に直接轟くような声がして、エミリアは自分の声の震えを自覚する。

そんなエミリアを、心が弱いといったい誰が貶められようか。そんなことはできない。そんなことは不可能だ。何故なら全ての存在は、この存在の前にひれ伏すしかない。

その存在の名は――、

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

その体を青く輝く鱗で覆った巨躯、『神龍』ボルカニカが、エミリアを見下ろし、魂さえ吹き消しそうな存在感と共に、そう言い放ったのだ。

△▼△▼△▼△

塔の外で、大サソリと化したシャウラと、ナツキ・スバルたちの戦闘が始まり。

塔の二層で、笑う暴力装置、レイド・アストレアとユリウスの剣劇が再開する。

塔の一層では、そこで待ち受ける強大な存在とエミリアが思わぬ邂逅を遂げた。

そして、塔の四層と六層までを繋げた螺旋階段では――、

「あァ、まったくッ! せっかく奪ってやったってのに、碌に使いこなせやしない感覚じゃないか、僕たちってばさァ!」

苛立たしげに吐き捨て、焦げ茶色の髪を掻き毟りながら少年が舌打ちする。その頭を掻き毟る手を振り下ろせば、そこへ生じるのは氷で形作られた美しい装飾の剣だ。

奪った『名前』を元に、再現した特殊な力だが、その見た目と裏腹にマナの調整が絶妙に難しく、他の『記憶』との併用がかなり困難だ。元々、他人同士の技術を組み合わせるのは相応のセンスが必要で、ロイやルイはそこがうまくない。

「まァ、俺たちはそこが秀でてるからイケるわけだけどさァ」

『暴食』の権能を持つ三人の兄妹でも、それぞれの権能の使い方は微妙に異なる。そうした中、『美食家』であることに誇りを持つ身としては、弟妹の在り方には物申したいところも少なくない。――強みは優越感に繋がる。助言など、柄ではないが。

「可愛いルイとも、ロイの奴とも話が通らないし……あァ、仕方ないッ! 二人が何もできないって言うんなら仕方ないッ! この塔の中にいるご馳走たちは、僕たちが根こそぎに舐っていいってわけだッ! いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいから、いいじゃん、いいだろう、いいだろうさ、いいだろうから! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

手の中の氷の剣を噛み砕いて、鋭い歯を剥きながら『暴食』――ライ・バテンカイトスは塔の中の標的たちを一人残さず、自分の皿へ並べることを決意する。

幸い、事情は酌めている。あとは順番と、何を主菜に選ぶかだけが――、

「――それを選ぶ権利が、自分にあるとでも思っているの? お気楽なものね」

「――――」

螺旋階段の上から降ってくる声に、ライが氷の咀嚼をやめ、首をもたげた。頭上、四層と五層の合間の階段に立つライを、四層に立っている薄紅の瞳がある。

血や炎と同質の色をしていながら、ひどく冷たい熱を孕んだ瞳が、ライの獰猛な飢餓感を憐れむように見下ろしていた。

そして――、

「聞いた話だと、ラムとレムの姉妹愛を引き裂いてくれたのがあなたらしいわね。――豚のように鳴きながら死になさい」

リゼロEX 『学園リゼロ! 3時間目!』

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

このお話は、エイプリルフール企画です。

まず、『学園リゼロ! 1時間目!』と

『学園リゼロ! 2時間目!』をご覧になってから読んでください。

完全IF設定の、現代学園モノに移植されたリゼロです。

現代設定ですが、キャラクターの名前は髪の色などに関しては違和感なくそのまま受け入れられています。

ギャルゲーのお約束をかなり踏襲しているため、鼻につく可能性があります。

でも、誰も不幸になっていません。

以上のことを踏まえて、冗談のわかる方、キャラが幸せになっていても許せる方、その旨、了承の上でご覧になってください。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

≪学園リゼロ! 3時間目!!≫

――毎朝の目覚めは、突然の衝撃から訪れることが主だ。

「――ほーら、とっとと起きるかしら!」

「ほんじゅらすっ!?」

軽やかな声がして、軽やかとは言えない衝撃が腹の上を直撃する。うぎゃあと悲鳴を上げて目を覚ますと、すぐ目の前に今日も愛らしい妹の顔があった。

「……よう、ベア子。今日もプリティキューティーでラブリーだな」

「もちのろん、その通りなのよ。今日も今日とて、ベティーはぷりちーかしら。ささ、気持ちのいい朝だから早く起きて、一緒にご飯食べるのよ」

人の腹の上に乗り、ドヤッた笑顔を向けてくるベアトリス。その軽い体を乗っけたまま、俺は「わかったわかった」と頷いて、その場に丸くなる。

「あ! 全然わかってないかしら! 二度寝! 二度寝の姿勢なのよ!」

「うぅ、わかってくれ、ベア子。俺だって、限りある人生でお前と飯を食う時間は大切にしたいんだ。でも、それと同じぐらい、朝のこの退廃的な時間を満喫したいんだ……」

「むきー! そんなの許さないかしら! にーちゃ……スバルは! いったい、ベティーと二度寝と、どっちの方が大事なのよ!」

「そんな昼ドラに出てきそうな聞き分けのない女優っぽいことを……いや、待て、その手があったか!」

「――? また急に何を思いついて……うきゃーっ!?」

腹の上でゆらゆらと揺れる幼女に手を伸ばし、そのまま布団に引きずり込む。

すっぽりと胸の中に収まった妹の頭を撫でてやり、俺はぬくぬくと退廃的な二度寝の時間にベアトリスを巻き込んだ。――これぞ、妹と二度寝の一挙両得!

「これで、ベア子も二度目の堪能できる。その効力は通常の二度寝の幸福度の倍……いいや、乗数としてそのさらに上をいくと言っても過言じゃない!」

「またぞろ馬鹿なこと言い出したかしら! は、離すのよ! ベティーはもう、スバルと一緒に寝てあげるほど子どもじゃないかしら!」

「えー、最近はベア子が一緒に寝てくれなくてさーびーしーいー……。だから、この機会に存分にベアトリーゼを摂取する。すんすん」

「嗅ぐんじゃないのよ!」

腕の中でバタバタともがく可愛いベア子。

ちなみに、『ベアトリーゼ』とは俺が考案した、ベアトリスと触れ合ったり愛でたりしていることで摂取することができる特別な脳内物質だ。これを摂取しないと、菜月家の男はしおしおに萎れて死ぬ。サンプルは俺と父ちゃんの二人である。

と、そんな調子で妹と戯れていると、皮肉なことに目が冴えてきてしまった。

「ぐぐ、しまった……これがベア子の策略だったのか。自分の可愛い身柄を囮にして、俺と眠気を切り離す陽動作戦だったとは、一杯食わされたぜ……」

「も、もう、何がなんだかわからないけど、とにかく離すかしら。ああ、せっかくの髪と服がめちゃめちゃになってしまったのよ」

「安心しろ。めちゃめちゃでもお前の魅力は薄れない。めちゃめちゃにはめちゃめちゃの良さがあるんだ。めちゃめちゃベア子」

「めちゃめちゃうるさいかしら!!」

怒ったベアトリスがベッドから降りて、俺に可愛く舌を出す。そんな妹の癇癪に頭を掻きながら、起き上がった俺は「あれ?」と首を傾げた。

その理由は時計だ。厳密にいえば、時計の指している時間。

それが――、

「おいおい、ベア子。いつもより一時間も早く起こしてるじゃねぇか。おっちょこちょいさん極まれりだぞ。ほら、二度寝を続けよう」

「両手を広げるんじゃないのよ! 飛び込みたくなるかしら! そうじゃなくて、今朝は理由があって一時間早く起こしてるのよ。それで合ってるかしら」

「それで合ってるって……」

「今朝から、ベティーは学校の遠足の実行委員の集まりがあるのよ。だから、いつもより早くご飯を食べて、しゃっきりして学校にいくかしら」

「なるほど、俺はそれに付き合わされる……なんでだよ!」

胸を張ったベアトリスの事情に、うとうとタイムを邪魔された俺が反発する。

いくら可愛い妹でも、やっていいことと悪いことがある。俺は断固として、そんな身勝手な考えには反対していく方針だ。

「二度寝を邪魔された俺の恨みは深いぜ。どんな理屈で俺を打倒できる? さあ、言ってみろ、ベア子! なんでお兄ちゃんを起こした!」

「だって、ベティーだけ早起きしたら、スバルにおはようも、いってきますも、一緒にご飯も食べられなくて寂しいのよ……」

「クソ! 可愛い!」

所詮、シスコンに妹の可愛い願いを撥ね除ける力などなかった!

素直なベアトリスの思いに応えるべく、俺は颯爽とベッドから降りた。確かに目も冴えてるし、今さら二度寝するのもなんだ。

ここは一つ、可愛い妹のおねだりに答えてやるのが兄の務め――。

「よし、そうと決まれば、着替えさせてくれ、ベア子」

「自分でやるかしら!」

さすがにそこまではやってくれなかった。

ともあれ、謎の塩漬け期間があった気がするから、お約束のボケをちゃんとやっておくのも大事なことなのである。

△▼△▼△▼△

「それじゃ、ベアトリスちゃんはもらっていきますねっ」

「もらわれていくのよ」

早朝にも拘らず、輝かんばかりの笑顔を残し、家まで迎えにきてくれたペトラちゃんがベアトリスを引き連れ、学校へ向かう。

何でも一緒にやる仲良しな二人だが、どうやら遠足とやらの実行委員にも一緒になっているらしく、普段と違った時間の登校にも新鮮味を隠せない様子だ。

兄としては、オールラウンダー的にパロメーターが高いくせに、ちょこちょこ不器用さを発揮する妹のことが心配なのだが、そこをペトラちゃんがうまく埋めてくれるだろう安心感がある。二人のユニットなら、きっと天下を取ることも可能だ。

「俺的にはちょっと寂しいけど、妹の花道を笑って見送るのも兄の務めだもんな……。推しが武道館にいけるなら、死んでもいい……」

「おいおい、また気の早ぇ話してやがんな、息子。確かにうちの娘は武道館のセンターを飾っても不思議じゃないラブリーガールだが、あと五年はパパが許さないぜ」

玄関で爽やかに妹を見送り、ほんのりと涙目になっている俺に父ちゃんが話しかけてくる。半裸率の高い父ちゃんだが、さすがにペトラちゃんみたいによそ様の子が訪ねてくる日はちゃんと服を着ている。

Tシャツにはベアトリスの笑顔がプリントされていて、妹が早めに学校へいってしまった日でもその愛らしさを傍に感じられる一品だ。

「心配するな。背中はちゃんと、お前の小さい頃の笑顔がプリントしてある」

「そんな心配してないし、思春期の息子との距離感に気を付けて。ベア子はともかく、この年頃の男子とじゃ何が家庭崩壊の引き金になるかわかんないぜ」

「怖いこと言うなよ。確かに背中のお前の笑顔は小学生時代のヤツだけど、今の高校生になったお前のことも変わらず愛してるよ。知ってるだろ?」

「日に一回は言われるからね」

一日一度は愛してる、好きな人には好きと言うのが我が家の家訓である。

それを大事にしている父ちゃんのことは尊敬しているが、やはり年頃の男子としてはなかなか難しい家訓ではあるのだ。

「でも、ベア子とかお母さんに言うのは別に照れ臭くないから、日頃の行いかな?」

「けーっ、可愛げのない! それで、ベアトリスは早めに出たけど、お前はどうする? 時間も余裕があるし、レムちゃんがくるまで俺と相撲でもしてるか?」

「早起きしてやることが父親との相撲って、俺はいつから火ノ丸男になったんだ。つっても、確かにボーっとしてるのもなんだな……よし」

父ちゃんの言い分に従うみたいで癪だが、とはいえ父ちゃんと相撲をやるほど不毛なことに時間も使いたくないので、俺は玄関でさっと靴を履いた。

たまの早起き、珍しい早朝。せっかくだから、朝の散歩と洒落込もう。

「早起きは三文の徳っていうし、何かいいことあるかもしれないしな」

「なるほど、散歩か。ちょっと待っててくれ。着替えてくる」

「父ちゃんといかねぇよ! 一人でいくわ! お母さんとイチャイチャしてろ!」

「む、そうか。なんか、悪いな。気ぃ遣ってもらったみたいで」

「両親を二人きりにするのを気遣いとは言わねぇ! 恋愛に奥手な同級生の背中押したみたいなムーブするのやめろ!」

そんな不安なやり取りを交わしてから、俺はすごすごと家を出る。

何となく、すぐに戻るのがはばかられる会話だった。うちの両親は結婚して二十年くらいになるのに新婚当時の熱が冷めやらない夫婦なので、息子や娘としては扱いが難しい。もちろん、両親が仲良しこよしなのはありがたいことだ。

「ケンカと無縁の楽しい我が家……時にはぶつかり合って絆が芽生えていくなんて話もあるけど、順風満帆に越したことないしな」

悩みも不幸も障害も、別に少ないに越したことがないというのが俺の持論だ。

なので、菜月家は実に平々凡々とした中流家庭だが、家族仲が良好で妹が可愛いというだけで十分どころか百分に恵まれている。

「この時代に生まれた奇跡に感謝、俺という存在の全てでサムズアップ、眩く未来を照らすお空のサンシャイン、行く手を遮るな俺は暴走列車」

おお、なんとなしにテンションが上がってラップを口ずさんでしまった。

なるほど、早起きするとなかなか頭がしゃっきりしていい。朝の涼やかな風を浴びながら、いつもよりほんのりと人気の少ない街並みを行くのも風流で――、

「――あ、おはよう、スバル。こんなところで奇遇ね」

「うひえ!?」

などと、思わずスキップを始めたところで突然声をかけられ、激しく動揺する。

それもそのはず、場合によっては俺の直前のラップを聞かれた可能性があり、その上、聞こえてきた声というのが美しい銀鈴のそれで。

その声音に思い当たる相手は、俺史の中に燦然と輝く一人しかいない。

「え、エミリアたん? なんでこんな朝早くから存在してるの!?」

「ふふっ。ビックリしたのはわかるけど、存在は言いすぎじゃない。私だって、スバルが見ていないところでもちゃんと生命活動してるのよ」

「そ、そりゃそうだよね。はは、へへ、驚いちゃって、ふへへ……」

いかん、思わぬ出会いに不審者っぽい笑い方をしてしまった。

しかし、そんな猛省をする俺を余所に、目の前の少女――転校生のエミリアは、優しげな目つきを俺に向け、天使のように微笑んでくれていた。

長く美しい月光のような銀髪と、すらりと長い手足が魅力的な子だ。

転校してきたばかりで制服ができておらず、学校では前の女学院の制服を着用しているが、この場においてはそうではない。

薄手のシャツと、ふわふわと柔らかく裾を広げるスカート――私服姿だ。

「やだ、私服可愛い……」

「え? そう? ありがとう。スバルも、その私服は……ええと」

「あ、これ? これは、マイスイートラブリーシスターのベアトリスだよ。可愛くない? これ、寝起きで頭ぼさぼさのときの顔でさぁ……」

首を傾げたエミリアの前で、俺は自分の着ているTシャツを自慢する。

俺が着ているのは父ちゃんが着ていたヤツと違い、表も裏もベアトリスの顔がプリントされているタイプの代物だ。父ちゃんの気持ちはありがたいが、やはりベアトリスを愛でる上で俺という存在の不純物を混ぜるのは大変いくない。

「わ、妹さんなんだ。すごーく可愛い子ね!」

「おおー、わかってくれる? そう、実に可愛い妹なんだよ。最近はちょっぴり反抗期気味なんだけど、昔はどこへいくのもにーちゃにーちゃってついてきてくれて……自慢じゃないけど、ベア子は俺が育てた」

「ええ!? お父さんとお母さんはどうしたの!?」

「二人の力ももちろんあるけど、まぁ、二人合わせても七:三で俺の勝ちかな」

「そうなんだ。スバルってすごーく頑張り屋さんなのね……」

いつも通りの軽口なんだが、エミリアが何でもすんなり聞き入れてくれるおかげで舌が滑る滑る。ともあれ、俺の最初の衝撃も和らいできて、こんないきなり転校生の美少女と遭遇したことの喜びを噛みしめる余裕も生まれてきた。

「にしても、エミリアたんは何してたの? 朝、ずいぶん早いんだね?」

「ん? 私はね、お散歩してたの。ほら、私も転校するために引っ越してきたばかりだから、この辺りのこと全然わからなくて。パックのためにも勉強しなくちゃだから」

「へえ、熱心だね……って、パック?」

「ええ、パック。私の家で飼ってる猫で……ほら、向こうにいる」

そう言ってエミリアの指差す方を見ると、少し離れたところにあるレンガ塀の上、丸まって長い尻尾を揺らしている鼠色の毛玉が見えた。

よくよく目を凝らしてみると、それが一匹の猫であることがわかる。

猫は俺の視線に気付くと、そのくりくりと丸い瞳をこちらへ向けて、

「やあ」

「え!?」

「ど、どうしたの!? 急にそんな声出して……」

突然のことに驚く俺の隣で、エミリアも俺の反応に驚いていた。

が、そんな当然のような態度を取られても俺が困る。だって今、あの猫――、

「喋ったよな? 俺に向かって、やあって手を挙げてた……」

「ええ? そんなはずないじゃない。もう、そんなこと言って……私をからかおうとしたって、騙されてあげないんだから」

しかし、俺がそう確認すると、エミリアは全く聞き入れない。いや、むしろ彼女の反応の方が普通だった。もし、エミリアが『そうそう、パックは喋るのよ。すごーく珍しいでしょ?』とか言い出したら、それはそれで持て余すところだった。

「まぁ、何かの聞き間違いか、錯覚だろうな。ふう、驚いた」

「そうそう。そういうことにしておきなよ。リアを驚かせたり、変な子って目で見られるのはスバルも嬉しくないでしょ?」

「めちゃめちゃナチュラルに話しかけてくるな、お前!」

塀から降りた猫――パックが、俺の足下で丸まりながらそんな調子で話しかけてくる。その堂々たる人外っぷりに度肝を抜かれ、俺はパックを拾い上げた。

ぺ、とパックの肉球が顔に押し当てられる。なんてモフモフ感だ。

「ちなみに、俺には動物と会話できるような特殊能力は備わってないぞ。つまり、おかしいのは俺じゃなく、お前の方だ」

「まぁ、スバルがそう主張したいんならボクもあえて止めたりしないけど、そんなことをしても変な目で見られるのはスバルの方だよ。ほら、見てごらん」

そう言われ、俺は隣を見る。すると、エミリアがその紫紺の瞳を丸くして、すぐ近くで睨み合っている俺とパックを交互に見やり、

「なんだか、ホントにスバルとパックが話してるみたいに見えちゃった。パックも、初めての人にだっこされて全然暴れてないなんて珍しい」

「そうなの? ちなみに、エミリアたんにはどんな風に見えてた?」

「え? パックがにゃーにゃー可愛く鳴いてて、それにスバルが意地悪な顔して何か言ってたみたいに見えたけど……」

「俺の心証が悪い! というか、マジなのか、これ……」

エミリアの反応からして、どうやら本当にパックの声は俺以外には聞こえないらしい。そのことに動転する俺の手をすり抜け、パックは地面に優雅に着地した。

そして、その手で顔を洗いながら、

「心配しなくても、これで変な物語が始まったりするわけじゃないよ。別に、ボクが君を魔法少女にしたりとか、願い事を叶えてあげたり、宇宙のエントロピーがどうとか言い出したりもしないから安心して契約してね」

「契約しねぇよ! 契約って言葉が安心と程遠いところにあるわ!」

「冗談、冗談」

ころころと笑い、パックがエミリアの胸元へぴょんと飛び上がる。エミリアがそのパックの体を受け止め、その背中を撫でてやると、

「でも、パックとスバルが仲良くなってくれてよかった。ちょっと心配だったの」

「心配? なんでまた?」

「パックって、あんまり私の友達と仲良くしてくれないから……あ、スバルって、私のお友達で大丈夫? 図々しくない?」

「いやいやいや、全然! 全然だよ。むしろ、友達第一号に据えていただいて光栄の至りって感じ。いずれは、その友達の座からもランクアップを目指したいぐらい」

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

口が滑ると、ついつい余計なことを言いたくなるのは俺の悪癖だ。

とにかく、こうしてエミリアと出会えたのも何かの縁――、

「どうせお散歩中だったんなら、俺もご一緒していい? 最終的に学校にいくのは変わらないんだし、ここは一つ、デートと洒落込もう」

「でーと……男の子と一緒にお出掛けすることね! ホントだ!」

「おっと、もしかして初めてだった?」

目を輝かせるエミリアを見て、彼女が小中高一貫の女学院育ちだったと思い出す。

箱入り女学生ともなれば、確かに男子と一緒にお出掛けする機会もなかっただろう。そうなると――、

「私、でーとって初めて……どうするの?」

「待った! エミリアたんの初デートならちゃんとした形でしたい! 少なくとも、こんなTシャツの前後と脇の下に妹の顔をプリントした格好は相応しくない!」

「脇の下に隠れベアトリスちゃん……!」

そもそも、俺もデートと身構えるのであればちゃんとしたいタイプだ。

せっかくの思い出に刻まれるタイミングなら、それこそ舞台は整えたい。

「落ち着いて考えると、俺もデートの経験ってないし……」

「そうなの? でも、スバルってクラスのみんなと仲良しみたいだけど……」

「いや、シンプルに女の子と出かけるだけならわりとあるよ? 幼馴染みのレムとはしょっちゅう買い物にいくし、レムの姉様のラムにも買い出し付き合わされるから」

しかし、幼馴染みとのそういうお出掛けをカウントするのは寂しすぎないか?

もちろん、生徒会の手伝いでクルシュやフェリス、アナスタシアの買い物に付き合ったことや、お付きのアルさんが捕まらなくて不機嫌なプリシラに連れ回されたこともある。お隣の家の美人六人姉妹と遊んだこともあるし――、

「そう考えると、俺って外から見ると経験豊富そうに見える……」

「外身と中身が釣り合ってないんだね。うんうん、わかるわかる。なんかスバルってそんな感じがするもんね」

「猫のくせにうるせぇな! 勝手に人の心を読むな!」

エミリアの胸の中、喉をゴロゴロ鳴らしているパックを怒鳴りつける。が、パックは素知らぬ顔だし、エミリアには不思議そうな顔をされる。くそぅ。

「ええい、とにかく、今日のお散歩はデートではない。これはお散歩デート……そう、デートとは別カウントなんだ。それでいこう」

「よくわからないけど、それでいいならそれでいいかな。じゃあ、改めてどうする?」

「んー、そうだな。エミリアたんはあれだよね。一応、家の周りの地理的なものを把握しつつ、パックのお散歩コースの選定中みたいな」

冷静に考えると、犬と違って猫はあまり主人が連れ立って散歩するイメージがないんだが、そこのところに疑問はなさそうなのであえて突っ込みはしない。

さて、そうするとどんなコースを紹介したものか悩みどころだが――、

「ボクとしては見晴らしがよくて、風が気持ちよく当たれると嬉しいかな。あんまり運動はしたくないから、坂道が多いところは避けてもらって……一応、猫協定でこの辺りの野良猫の縄張りにはまだ挨拶してないんだ。だから、ボス猫が縄張りにしてるところもよけてくれるとありがたいんだけど」

「ものすごい細かく注文つけてくるな……いや、その方がありがたいけど」

「でしょ? デートとかで『どこでもいいよ』って言われると困るもんね」

わかった風なパックの物言いに顔をしかめつつ、とはいえ選定条件は厳しめに付けてもらった方が候補が絞りやすい。

そんなわけで、俺がエミリアとのお散歩デートに選んだコースは――、

「よし、それなら土手の方にいくコースにしよう。すぐ横をでかい川が流れてるから、見てくれが派手で気持ちいいよ」

△▼△▼△▼△

と、そんな誘い文句でやってきました我が町の土手。

すぐ脇を有名なでかい川が流れているこの土手は、元旦の初日の出スポットとして重宝されていたり、平日は運動熱心な若者やご年配がジョギングコースにしていることでも知られている場所だ。

もちろん、俺たちと同じ目的で土手を訪れる人たちも多く、ちらほらと犬連れの飼い主さんらが楽しげに話している姿が見られる。

見られるのだが――、

「やっぱり、猫連れの飼い主さんは見当たらないな……」

「猫は首輪とリードを付けられるのを嫌がるから、それでかしら……でも、パックはよくお散歩したいって私を起こしにくるのよ」

「へえ、そうなんだ」

「うんうん。やっぱり、リアと一緒じゃないと新しい一日って気がしないからね」

目的はペットの散歩でも、細部になると違った飼い主たちが目につくので、エミリアもパックを抱いたまま困り眉だ。

そのエミリアの言い分も、ペットを愛しすぎる飼い主が勝手を言っているだけのそれに思えるが、実際のパックの感想を聞く限り、片思いではないらしい。世の中の多くの猫は飼い主を召使だと思っているという俺の偏見は間違っていたようだ。

「ってか、散歩なのにずっとエミリアたんがだっこしてるけど」

「――? ええ、パックは歩くの好きじゃないから、いつも私がだっこしてあげてるの。でも、たまにすごーくぶくぶく太っちゃうときはちゃんと運動させてるのよ」

「そうなんだ。なんか、一回体型が崩れた動物ってもはや元には戻れないって先入観があったけど、そんなライザップ的なことできるんだ」

「まぁ、努力の賜物だよね」

「太ったのは怠惰の賜物じゃん……」

勝ち誇った顔のパックにげんなりと肩を落とす。

まぁ、現状は痩せているから、エミリアの腕の中から出てくるつもりはないらしい。それはそれで、エミリアが重たがっていないなら俺から言うことはないが。

「でも、ずっと成猫抱いてるのも大変じゃない? パックはわりと小さめだけど」

「大丈夫。私、こう見えてもちょっと力持ちさんなのよ。前の学校でも、何か力仕事があるとすぐ頼られちゃってたんだから」

「女学院のお嬢さん方の基準で力持ちって言われてもなぁ……」

細くて白い腕で力持ちをアピールされても、二の腕とか柔らかそうなので説得力はない。言っておくが、脱いだらすごいのは俺もほどほどに自信がある。

この手の問題は大部分、自分を客観視できていないことが多いので、俺もエミリアも態勢は五分五分といったところだろうか。

と、そんな調子で話していると――、

「――あれ? スバルくん、どうしたんですか?」

ものすごく聞き慣れた声に呼ばれて、俺は驚いた。

振り向いて相手を確かめるまでもない。なにせ、俺にとっては家族と同じか、それ以上に聞き慣れた相手の声なのだから。

「え? レム? お前こそ、なんでこんなとこに?」

「今朝は、姉様の付き添いできていたんですよ。でも、まさかスバルくんと会えるなんて……さすが、姉様のご利益は抜群です」

「そんな神社の神様的な扱いしても、ラムはお前の姉だよ」

相変わらず、素っ頓狂なことを仰るレムに苦笑いし、俺はそう答えた。

そんないつもの調子で、土手に立っていたのは可愛らしい私服姿のレムだった。休みの日もちょくちょく遊びにくるので新鮮味はないが、平日の朝という特性を加えることで、途端にその姿が華やいで見える。うーん、平日効果。

「ねえねえ、スバル。その子って、同じクラスの子よね?」

「ん? あー、そうそう。この子はレム。家事万能のよくできた俺の幼馴染み」

ちょんちょんとエミリアに背中をつつかれ、置いてけぼりにしてしまったことを反省。それから一歩横にずれ、俺はエミリアにレムのことを紹介する。

それから、

「レム、知っての通りのエミリアたんだ。飼い猫の散歩中に偶然会ったんで、今、怠惰な猫に相応しい散歩コースとの選定中」

「なるほど、そうだったんですね。――改めまして、レムと申します。スバルくんとは同じ産湯に浸かった頃からの仲です」

「嘘をつくな。お前と同じ産湯に浸かったのは姉様だろ」

「そうでした。同じ産着にくるまった、の間違いでした」

「それも姉様だよ」

いや、俺も生誕直後は意識がなかったのでわからないが、俺とレムの誕生日は二ヶ月ほどズレがあるので、そうしたことは起きていないと予想される。

「あ、ご丁寧にありがとう。私はエミリア。この子は、灰色猫のパック」

「宅急便しそうな自己紹介……」

「わあ、可愛らしい猫さんですね。触ってもいいですか?」

「もちろん。ほら、パック、お腹出して」

「しょうがないにゃぁ」

満更でもなさそうに仰向けになるパックに、エミリアとレムの二人がキャッキャと戯れている。それを腕を組んで眺めながら、俺ははてと首を傾げた。

「レム、さっき姉様の付き添いって言ってたけど、なんで土手? ラムと何の関係があるんだ?」

「それはですね、姉様が特訓中だからなんです」

「特訓?」

「はい」

と、パックの腹を指でくすぐりながら、レムが自慢げに微笑む。

この調子でレムが誰かに自慢するのは、決まってラムのことか俺のことだ。ラムはともかく、俺のことを人に自慢されるのはこそばゆいのだが、俺もレムのことを人に話すときは自慢するので、そこはお互い様というところか。

「レムさんのお姉さんって、同じクラスにいたラムさんよね?」

「はい、そうです。レムにはもったいない、素晴らしい姉様なんですよ」

「と、レムの姉贔屓はもはや持病の域なんで、話半分に聞いてくれ」

「むぅ、そんなことありませんよ」

頬を膨らませ、ぷいとレムが顔を背ける。そうして顔を背けたまま、「それでですね」とレムはラムのことを話し始める。

「スバルくんもご存知の通り、運動能力抜群な姉様は色んな部活動の方から助っ人を依頼されるのですが……」

「ああ、そうだよな。色んな部活で派手に活動してるのはよく見るよ。男に混じっても全然問題なくこなすあたり、あれは天賦の才だよな……」

何をやらせてもすぐに上達するのがラムの異様な特性なのだが、特にセンスを問われる種目になるとどんなものでもずば抜けてうまい。

なので、その点に関してはレムの大げさな賛美も間違いではないのだ。

「それで、そんなすごいラムさんがどうしたの?」

「はい。そんな頼れる姉様なので、またしてもとある部活の助っ人をお願いされたのですが……真剣に取り組みたいからと、朝の特訓を始めていまして」

「ラムが!? そんな殊勝なことを!?」

なかなか仰天というか、結構、俺的には寝耳に水な出来事だ。

元々、生まれ持った才能だけで食ってきた感のあるラムは、基本的に尊大だし、自信過剰だし、それに見合った結果も常に出してきた。

だから、そもそも努力らしい努力とは無縁だと思っていたのだが。

「それにあいつ、今は小説家のロズワールさんの世話に夢中のはずだろ? レムを連れ出してまで、世話を焼いてたはずじゃないか」

「そうなんですが、それとは別口で頑張っていらっしゃるんです。なので、レムもその気持ちを応援したいと思って、こうして準備を」

「わ、すごい。それで、こんなピクニックみたいなことになってるのね」

意気込むレムの背後には、レジャーシートの上に並べられたピクニック用のバスケットや水筒、いざというときの救命用の救急箱や、タオルセットなどが置かれている。

常に万全の準備を欠かさないのがレムの美徳だが、考えすぎて余計なものまで準備し始める玉に瑕なところも同時に出ていた。

「まぁ、ここまでされたらラムもさぞかし満足だろうが……でも、ラムの奴がそこまでしなくちゃいけないって、どんな助っ人を引き受けたんだ?」

「女子の、柔道部ですね」

「女子柔道部……うちの学校にそんなのあったのか。知らなかった」

レムの話を聞いても、俺には女子柔道部の姿がピンとこなかった。

うちのルグニカ学園はそれなりに部活動も盛んな学校なので、県大会だったりでもそこそこの成績を出すことが多い。

なので、有名な部活動なら普通にしていても適度に耳に入るものだ。

「他ならぬ、俺たちの手芸部と家庭科部も全国大会の常連だからな」

「へえ、そうなんだ。すごいのね……え! 手芸部と家庭科部なのに全国大会!?」

「おっと、何するのって思ったか? 言っとくが、わりとこのあたりは体育会系……文化的運動部と言っても過言じゃないんだ。波縫いの速さを競ったり、制限時間内にいくつの針に糸を通せるか争ったり、あとはミシンのセッティングの的確さとか……」

これで案外、手芸も競技性を突き詰めれば奥深いものが多いのだ。

ちなみに、うちの学校は全校大会の常連なのだが、大抵の場合、手芸部と家庭科部が同時に出場し、互いに潰し合って終わることが多い。

そこは顧問のフレデリカ先生とクリンド先生の虎鷹代理戦争と割り切っている。

「まぁ、うちの学校で一番有名なのは、リリアナちゃんが率いてる軽音部だけど。全国ツアーもやってる、インディーズじゃちょっとしたもんだからな」

「もう、全然部活動じゃなさそう!」

「ルグニカ学園はそのあたりの綱紀が緩いので、許されているみたいです。リリアナ先生の熱意が、ヴィルヘルム校長先生に通じたというのもあるみたいですね」

「リリアナちゃんの歯ギターが、ヴィルヘルム校長の心を撃ち抜いたって伝説の直談判か……俺も在学中に見たかったもんだぜ」

対照的に見えるリリアナちゃんと校長先生だが、あれで好きなものには情熱的という部分が一致しているからか、相性は全然悪くない。

校長ののろけ話に感銘を受けたリリアナちゃんの、『剣鬼恋歌』は軽音部のセットリストの中でも大人気曲らしく、ジャケットには校長夫妻の写真が使われているほどだ。

「と、リリアナちゃんのこと考えるなんて与太話もいいところだから置いといて……その女子柔道部の助っ人話はわかったけど、なんでラムは特訓?」

「それは……」

「――ラムの行動を逐一知りたがるなんて、いやらしい男ね」

「うひょわい!?」

不意に後ろから飛んできた冷たい声を聞いて、俺は思わず飛び上がる。

レムの答えを遮って、鼓膜に直接爪を立ててきたのは、こちらも俺の幼馴染みであるラムだった。パーカーにジョギングシューズのラムは軽く息を弾ませながら、その薄紅の瞳で俺をじっと睨みつけてくる。

「それで、どうしてバルスがいるのかしら。まさか、ラムが特訓中であることを聞きつけて、わざわざからかいにきたわけじゃないでしょう?」

「そんな暇人なことするかよ。姉様も知っての通り、俺はギリギリのギリギリまで睡眠時間を確保したいタイプだぜ。だから、学校も家から一番近いとこにした」

「バルスがそんな理由で学校を選ぶから、ラムもあの学校にせざるを得なくなったというのに……はぁ。勝手なことね」

額に手をやり、汗の雫を指で払いながらラムが嘆息する。

そんなラムと俺とのやり取りの背後、エミリアがレムにそっと耳打ちするのが聞こえた。

「ねえ、なんでスバルが選んだ学校に、ラムもいかなくちゃいけなかったの?」

「それは簡単です。スバルくんがいく学校にレムもいくと決めていたからです。そして、レムは姉様と同じ学校に通いたかったので、姉様にもそうお願いしました」

「そうなんだ。……え、じゃあ、レムさんのわがままってこと?」

「はい。レムのわがままを聞いてくださるなんて、姉様は優しすぎます」

ほんのりと頬を染め、姉に愛されている実感を噛みしめるレム。

今の会話からもわかる通り、実は傍若無人に振る舞っているのはラムに見えるが、実際の力関係ではレムの方が圧倒的に上というのがこの姉妹の力関係だ。

もっとも、レムのラムへの尊敬は本物なので、レムが姉のことを自分に都合よく利用しようとしたりすることはない。ただ、甘え方が強めなだけである。

「まぁ、レムのレムたる所以はそんなとこでいいとして……そんな汗掻くまでちゃんと運動してるなんて珍しい。ロズワールさんが女子柔道部の取材でもするのか?」

「何でもそうやって色恋に結び付けるのをやめなさい、発情脳」

「発情脳は言いすぎだろ!!」

言葉の毒が強いラムに言い返すが、ラムには「ハッ!」といつも通りに鼻で笑われる。しかし、ロズワールさん絡みでないとなると、途端によくわからなくなる。

ラムが全力で臨むなんて、ロズワールさんとレムぐらいしか思いつかなかったのだが。

「女子柔道部は部員数が少なくて、今度の大会で三年生が引退してしまうと、部活動が維持できなくなるんです。ですから、姉様は助っ人として、ちゃんとした結果を出してあげたいだけなんですよ」

「そうなんだ。ラムさんって、すごーく優しいのね」

「――――」

そんな俺の疑問を紐解いてくれたレム、その説明にエミリアが胸の前で手を合わせ、床に寝そべるパックも感心した風に頷いている。

なるほど、と俺もレムの説明に納得させられた。ラムはこう見えて、誰に対しても分け隔てなく低温対応だが、存外に情の深いところがある。

「……なに、その目は」

「いやぁ、別に? ただ、姉様は意外と優しいよなぁって……痛ぇっ!!」

容赦なく、膝の裏にローキックがぶち込まれた!

俺がその場に膝をつくと、いい姿勢から蹴りを放ったラムは足を引いて、

「足払いの練習よ。成果が出ているみたいね」

「こんな足払い打ち込んだら、その瞬間に女子柔道部が出入り禁止になるぞ……!」

「心配しなくても、この大会が終わったら女子柔道部は解散よ。後腐れもないわ」

「照れ隠しにしても何たる暴言!」

優しさも素直に認めさせてくれないラムの態度に呆れつつ、俺は膝を揺すってから立ち上がる。うむ、何とか足は動く。

前に余計なことを言いすぎて、ラムのローキックをもらいすぎたとき、足が赤紫色に腫れ上がって足腰が立たなくなったことがあったのだ。

「あのときは、庭に出たアナコンダに足を締め付けられたことにしておいたけど……」

「さすがにアナコンダは厳しくない? 庭で遭遇する相手じゃないよ」

「幼馴染みの女の子に蹴られすぎて立てませんなんて言えるか」

猫に常識を説かれるとは、俺も落ちたもんである。

なお、休み明けは事情を知っているレムが「アナコンダがやったんです! 姉様ではありません!」と一生懸命訴えてくれたので、俺の抵抗は無駄に終わった。

「それで? ラムと、付き添ってくれているレムはともかく、朝寝坊の常習犯であるバルスがどんな風の吹き回し? それに、可愛い転校生も一緒だなんて……いやらしい」

「勝手な結論を出すな! 早起きはベア子に付き合ったからで、エミリアたんとはたまたま出くわしたの! 邪推!」

「うるさい」

「蛇拳!?」

俺への突っ込みにラムが繰り出してきたのは、蛇拳と呼ばれる中国拳法の一種だった。蛇の動きを模した恐るべき殺人拳法だが、何故それを修めているのかは謎。

「スバルの言う通りよ。たまたま、近所を散歩してたらスバルと会ったの。偶然よね」

「これは忠告だけど、それは本当に偶然かしら?」

「え、まさか……やっぱり、果たし合い……?」

「姉様は余計なことを言うな! そして、昨日のことまだ引っ張られてる!」

ラムの勘ぐりはともかく、エミリアの考えは完全なる誤解である。

エミリアが、放課後の学校案内をした俺がケンカを吹っ掛けるタイミングを見計らっていたと考え違いをしていた経緯については、『学園リゼロ! 2時間目!』を参考にでもしてくれ。ともかく――、

「時間食ったけど、そんなわけでエミリアたんに町を案内してる最中なんだ。ラムとレムも忙しいみたいだし、そろそろいくぜ」

「そうね。名残惜しいけど……」

「――ぁ、そうですか。パックちゃんともお別れで、残念です」

ほんのりと眉尻を下げ、いこうとする俺たちにレムが残念そうにする。

ラムもそうだが、俺もレムのこの顔には弱いのだ。さて、どうしたものかと、俺が代案を考えるより早く、「仕方ないわね」とラムが肩を落とした。

「レム、バルスたちと一緒にいきなさい。ラムは一人でも大丈夫だから」

「え……でも、姉様に悪いですよ。こんなに荷物もあるのに……」

「レムがラムのために用意してくれたものだもの。一つも無駄にしないし、重荷に思ったりもしないわ。――それは、そこのオットーにでも持たせるから」

「うえ!?」

恐縮するレムの頬を優しく撫でて、そう言っていたラムが道の先を指差す。すると、そっちの方からやってくる、ジャージ姿のオットーが驚愕していた。

どうやら、オットーも朝のランニング中だったらしく、突然のご指名にわけのわからない様子で目を白黒させ、

「あの、僕はいきなり何に巻き込まれたんでしょうか? というか、なんで運動部でもない皆さんがこんな時間に土手のジョギングコースに?」

「細かいことは気にすんなよ、オットー。それじゃ、荷物は任せたぜ」

「ええ!?」

「ありがとうございます、オットーくん。姉様のお体が冷えないよう、定期的に温かいお茶を飲ませてあげてください。よろしくお願いします」

「ちょっと!?」

「なんだかよくわからないけど、オットーくんってすごーく頼られてるのね。それってとっても立派なことだと思うから、頑張って」

「転校生さんまで!?」

慌てふためくオットーに、俺たちは説明しないでぞろぞろとその場をあとにする。

悪いな、オットー。お前はそういう星に生まれついた男だ。姉様の相手は大変だとは思うが、それもこれも通りがかったお前が悪い。

「いくら何でも、それは理不尽すぎませんかねえ!?」

「いつまでも騒いでないで、さっさと準備なさい。男がうじうじと女々しく騒いで……これはもう、ダメね」

「手伝わせるくせに!?」

背後では、虐げる側と虐げられる側の絶対的な力の差が示されている。

抵抗するだけ無駄なのだから、オットーもいい加減に諦めて運命を受け入れるべきだ。それにしても――、

「サッカー部のエースなのに、あんな扱いされる奴も滅多にいないだろうな……」

なお、助っ人でも何でもなく、純粋にサッカー部のエースストライカーなのがオットーであるのだが、それらしさは皆無であることを付け加えておく。

△▼△▼△▼△

「それにしても、こんな早朝だってのに意外と知り合いと出くわすもんだな……」

「そう考えると、普段は起きない朝の時間って宝箱みたいね。起きてよかったって気持ちになれるし、すごーく楽しい」

「エミリアさんは前向きですね。レムも、とても素敵なことだと思います」

「にゃーん」

ラムの子守をオットーに投げ渡して、俺たち三人と一匹は散歩を再開している。

合間合間で行き交う人々と会釈や挨拶を交わし、朝の爽やかな時間を共有する喜びを味わう感覚だ。

幸い、エミリアは人見知りをしないタイプらしく、これで案外、キャラの味付けが濃いレムともうまくやっている。そんな二人の仲を取り持つのに貢献しているのが、二人の間でもみくちゃにされているパックだった。

「可愛い……パックちゃんっていくつぐらいなんですか?」

「えっとね……それがよくわからないの。パックって、気付いたら私の傍にずっといてくれて……もう十年以上だとは思うんだけど」

「猫で十歳って言ったら、結構なお年寄りだった気がしたな」

「まぁ、人間の年齢に換算したくなる気持ちはわかるけど、ボクのことは一種の化け猫だとでも思って、年齢のことはオープンにしない方針でいくよ」

「思えねぇよ」

そんな気軽に化け猫感を出されても困る。

とはいえ、俺にしか喋る言葉が聞こえていないあたり、本当に化け猫疑惑はあるんだよな……もしくは、俺の方がおかしくなった疑惑か。

「毎朝、ベア子のヒップアタックを喰らってることで新たな力に覚醒したか……。昨今、トラックに轢かれて転生して力を得るならともかく、妹の尻を受け止め続けている間に力に覚醒するなんて、新しい以前に斬新さが受け入れられなさそう」

そして、兄の覚醒に一役買ったベア子の尻を取り合い、大勢の人間が血で血を洗う抗争へと突入する、『ベア子・尻ウォー』が始まる。

「マズい、ベア子のお尻が、ベア子のお尻が二つに割れてしまう……!」

「なんだか、スバルが変なこと言ってるけど……」

「安心してください。スバルくんは、妹のベアトリスちゃんのこととなるとちょっぴり考えすぎてしまうところがあるんです。でも、それも妹思いなスバルくんの素敵なところだと思います。妹を、大事にするということですから」

「いや、だからって余所のところの妹にまで兄性を発揮したりはしねぇよ。別にそんなのと無関係にレムは大事だから」

「そんな、一生大事にするだなんて、照れます……」

「言ってねぇ言ってねぇ」

レムが頬を赤らめて暴走したので、俺はいつもの調子で手を振っておく。

そんな話をしながら、また一組、すれ違う犬連れの飼い主に会釈をしようとしたときだった。――その犬の飼い主が、見知った顔だと気付く。

「って、フェルトとラインハルトじゃねぇか。何してんだ?」

「……クソ、見つかった」

クソ、とはまたずいぶんなご挨拶だが、俺に声をかけられて心底嫌そうな顔をしたのは、クラスメイトのシンデレラガールことフェルトだった。

なお、別にアイドルだとかアイドル志望という意味じゃなく、フェルトがシンデレラガール扱い(俺調べ)されるのは、王子様に狙われているからである。

その王子様というのが、顔をしかめたフェルトの隣に立っている美青年――ラインハルト・ヴァン・アストレアだ。

学内どころか市内、あるいは県内でも有数の美形であり、文武に優れる完璧超人ことラインハルトだが、どういうわけかフェルトにご執心なのだ。そんなラインハルトの猛アタックに、日頃から本気で嫌そうにしているのがフェルトなのだが――、

「こんな早朝に逢引き。まさか、今までの学校での振る舞いは全部カモフラージュ……」

「ばっ! ちげーよ! 言い出すと思ったから言いたくなかったんだ! アタシがこうしてんのは、ロミーのためだっつの!」

「ロミーって……」

ちらと見ると、フェルトの手に握られた赤いリードと繋がる犬が吠える。

なかなかでかい犬で、小柄なフェルトが連れていると振り回されそうなパワフルさを感じるが、そこはラインハルトがうまく制御しているらしい。

というか、この犬とラインハルトの関係とは。

「おはよう。二人もクラスメイトよね。ラインハルトと、仲良しのフェルトちゃん……」

「仲良しじゃねーよ。なんだ? 転校生までアタシのことそんな風に見てやがんのか。ああ、チクショウ、冗談じゃねーっつの」

ガリガリと頭を乱暴に掻き毟って、フェルトはエミリアの言葉にご立腹。

そんなフェルトの過剰反応にエミリアも驚いた様子だが、その態度にラインハルトが「ごめんよ」と苦笑した。

「驚かせてすまない。今朝はフェルトも少し気が立っているみたいなんだ。僕が一緒にいるといつもこんな調子なんだけど、普段はもっと心の優しい子なんだ。誤解しないであげてくれると嬉しい」

「テメーはアタシの母親か!? どこ目線でそれ言ってやがんだよ!」

「ん、わかったわ。大丈夫。それはちゃんとわかってるから。だって、こんなにワンちゃんが懐いてるんだもの」

間のフェルトの訴えを軽く無視して、エミリアがフェルトの足下にすり寄っているロミーを指差しながら微笑む。

実際、フェルトは口は悪いが面倒見はいいし、可愛らしい外見に反した気風の良さと男前な雰囲気から意外と男子人気の高い子だ。もっとも、多くの男子はライバル枠にラインハルトが入ってくると知れば早々に引き上げる。

核爆弾にジャンケンを挑むようなもの。つまり、意味がないのである。

「でも、このロミーちゃんとお二人がどう関係するんです?」

「元々、ロミーは捨て犬でね。この子を拾ったとき、僕とフェルトは一緒に帰っているところで……どうすべきか迷ったんだ。そのとき」

「……アタシの家じゃ、ロミーを飼うなんて余裕はねーからな。したら、こいつが代わりに飼うっていうじゃねーか。で、あとは任せっ放しってのもおかしいだろ」

「だから、こうして朝にロミーを散歩させたり、休日には外で遊んであげたり、そういうことでフェルトには責任を分かってもらっているんだ」

「へえ……」

なるほど、二人で見つけた捨て犬をラインハルトが拾い、その世話をフェルトが手伝っているわけだ。それで、朝の散歩中に俺らと出くわしたわけである。

それだけ聞くと、何とも微笑ましいエピソードだが――、

「フェルト、お前、ずぶずぶと外堀埋められてる気がするんだが……」

「言うなよ。ぼんやり察してんだから……」

目下、ラインハルトの情熱的な求めを乱暴に断り続けているフェルトだが、単純接触効果ということもあり、徐々に拒めなくなっている感があるのは傍目にも明らかだ。

このままなし崩しに陥落するのも時間の問題、俺には秒読み段階にも思えた。

「最近、フェルトがうちに顔を出すようになってくれたから、婆やもオヤツの作り甲斐があるって喜んでいるよ。君の感想は素直で裏表がないから」

「アタシだってマズいもんはマズいって言うっての。婆ちゃんにうまいって感想しか言ってねーのは、婆ちゃんの作るもんがうめーからだろ。……ホント、お前の家って、お前さえいなけりゃいくらでも入り浸るのにな」

「それはちょっと、反応に困ってしまうね」

しみじみと呟いたフェルトだが、それにはさすがにラインハルトも苦笑しかない。

俺からしたらずいぶんな言いようだが、ラインハルトは応えていないらしく、鋼の心の持ち主だ。ラインハルトぐらいになると拒絶は慣れていないだろうに。

「どんな反応でも、フェルトからもらえていると思うだけで存外に嬉しくてね。僕も、こんな自分がいるとは知らなかったから驚いてはいるんだ」

「まぁ、恋は盲目っていうし、今まで歩いてた道を目をつぶって歩いてみたら違った風に感じるのは自然なことなんじゃねぇの?」

「――。なるほど、面白い意見だね。それを採用させてもらうとするよ」

思いつきの適当な台詞だったのだが、妙に感心されてしまうと自分がいいことを言ったみたいな気分になってしまうのが不思議だった。

「とにかく! アタシはあくまでロミーのために、仕方なくこいつといんだ。そこを勘違いすんじゃねーぞ。あと、学校で言い触らしたりもすんな!」

「わかったわかった。お口にチャックしておくよ」

「言っとくけど、メールとかLINEでも一緒だかんな!」

「ちっ、抜け目がねぇ」

フェルトに念押しされ、俺は渋々と背中に隠していたケータイを出した。こっそりとクラスのみんなに共有するつもりだったのだが、ここは仕方ない。

「じゃあ、またあとで学校で」

「言い触らすなよ!」

手を振るラインハルトと、どこまでも疑り深いフェルトとそうして別れる。

あの調子だと、ラインハルトの努力が実を結ぶ日も遠くはなさそうだ。

「それはそれで一抹の寂しさを感じるのはなんでなんだろうな……」

「友達を、女の子に取られちゃうみたいな気持ち?」

「もしくは、フェルトさんがどのぐらいラインハルトさんのアタックから逃げ続けられるか、その賭けにスバルくんが負けてしまうからではないでしょうか」

「レムに五ポイント」

「やりました! 書き留めておきます」

「え! なになに、ズルいズルい!」

メモ帳にレムがいそいそと何かを書き綴るのを見て、エミリアが何事かと慌てているが、とっさに口が滑っただけの特に意味のないポイントである。

溜めたところで何があるわけでもないし、これまで溜めさせた覚えもないし。

「これで、スバルくんポイントも通算で二十万ポイントを超えました。達成感があります」

「そんな溜まるほどポイントやってた!?」

「わ、すごい年季の入ったメモ帳……これ、溜まるとどうなるの?」

「わかりません。でも、いつかスバルくんが溜めたポイントの分だけ驚きの何かをくれるのではないかと、レムは胸をドキドキさせながら待っています」

「プレッシャーがすごい。もっと百ポイントとか取り返しのつくときに言ってほしかったわ」

二十万ポイントって、戯れに五ポイントずつやってたとしても四万回もポイントやってないと届かないんだけど、どれだけ前から計測されてるんだ。

そして、俺は何をしたら二十万ポイントに報いることができるんだ。

「十ポイント消費で、頭を撫でるとかどうだ?」

「では、二万回頭を撫でてもらえるんですね」

「首がもげる!」

迂闊なことが言えないからと、レムには今度、ポイント対応表を作成することを約束して勘弁してもらった。しかし、俺基準となると、いったい俺に何をしてもらったら点数が高くなるとか、ちょっと判断がつかない。

「例えばなんだけど、エミリアたんなら俺に何してもらったら嬉しい?」

「私? えーと、そうね……あ、今日みたいに一緒にお散歩できたら嬉しいかも。それはすごーく楽しいと思うの。朝の早起きも大変じゃなくなりそう」

「E・M・T……」

「え? 今、急にどうしたの?」

「わかんない。急に温かいものが唇から溢れ落ちていった」

たぶん、エミリアたんマジ天使的なことを言いたかったんだと思われる。

だが、あんまり参考にはならなかったが、そう言ってもらえるのは年頃の男子として非常に嬉しい限りだ。

「ちなみに、レムは朝の散歩はどうだ?」

「とても嬉しいです。でも、朝の眠っているスバルくんの寝顔を眺めているのも、レムに与えられた幼馴染み特権ですので、天秤は非常に傾けづらいです」

「その幼馴染み特権、誰がくれたの? 神?」

「神です」

「そうなのか……」

神に与えられたんじゃしょうがねぇ、と引き下がるしかない迫力だった。

そんな感じで歩いていると、遠目にちょっとずつ見えてくるのが、土手に面した桜並木の豪華な眺め――ちょうど桜が花開き始め、満開桃色の景色が目を楽しませてくれる。

「わあ……」

「どう? ちょっとしたもんでしょ。このあたりだとわりと桜の名所って感じで知られてて、花見と言えばって人が大勢集まるんだぜ」

「桜のお祭りも週末にありますから、良ければご一緒しましょう」

「いいの?」

ちらほらと、祭りに備えた出店の骨組みなどがされているのを眺めていると、レムに誘われたエミリアが驚いた風な顔をする。

そんなエミリアの反応に、俺とレムは顔を見合わせ、同時に頷いた。

「もちろんです」

「何か悪いことあった? あ、誰かと約束してたとか……」

「う、ううん、そうじゃないの。ただ、私は転校してきたばっかりだし、二人が……二人だけじゃないけど、みんながよくしてくれるのが不思議で」

たどたどしく、微妙に戸惑った風なエミリアの言葉。

それを聞いても、俺はイマイチピンとこない。よくしているってほどのことをできているとは思わないし、クラスメイトならこれぐらい普通のことじゃなかろーか。

そこに美少女、と付けばなおさらである。

「このぐらい普通のことじゃねぇかな。なぁ、レム」

「その、普通のことを平然とこなせるスバルくんも素敵です。レムは感服しました」

「普通のことなのに!?」

「ぷっ」

レムの持ちネタみたいな反応を聞いて、不意にエミリアが噴き出した。そのまま、彼女は笑いの衝動に体を震わせて、「死んじゃう、死んじゃう……」と言いながら、

「……ん、わかりました。二人の優しさに甘えさせてもらいます。お祭り、一緒にいかせてもらうわね」

「そうこなくっちゃ!」

と、エミリアの答えに俺は指を鳴らし、快哉を叫ぶ。

たまの早起き、三文の徳。――このぐらいの役得があるなら、早起きした甲斐があったというものである。

△▼△▼△▼△

早起きしたおかげでエミリアと祭りへ行く約束が交わせた。

そんなわけで、たまには早起きも悪くないというのが今朝の総括である。

とはいえ――、

「このクラスで、週末の祭りにいかない奴とかほぼいねぇだろうけどさぁ」

「祭り好きの面々が集まっておるからな。顔を合わせぬものなどいまいよ。当然、妾も出店は制覇するつもりじゃ」

「と、姫さんは仰せだが、付き合わされるオレとしちゃたまったもんじゃねぇぜ。言っとくが、いい歳こいたオッサンの胃腸は若人たちと並べられたくねぇの」

そう言いながら、左手の高性能義手をカシャカシャ鳴らしているのがアルさんだ。

ルグニカ学園の理事長の孫娘でもあるプリシラは、こうして学校にお付きのアルさんを連れ歩いてくることが多い。なお、アルさんは片腕が義手な上に、首から上を毎日、色んな被り物で隠している謎の多い人でもある。

まぁ、話してみると普通に人生に疲れた中年のオッチャンなので、そのあたりのギャップも面白みの要因の一つではある。

「それにしても、朝から青春真っ盛りで羨ましい限りじゃねぇの。可愛い幼馴染みと、美人の転校生……オレも学生の時分にこんな綺麗どこだらけのクラスにいたら、ワンチャン狙ってもっと青春してたかもわかんねぇな」

「まぁ、気持ちはわかる。俺も、このクラスの美形率に慣れるまで、毎日ちょっとしたことで粉になりそうな気分だったもん」

「何を戯けたことを抜かしておるのか。妾一人の眩さで、十分に貴様らなど灰にもなろう。いっそ今、そうして灰と化しても構わぬぞ。ええ?」

「構わぬも何も俺が構うわい」

妙に高そうな扇子を振りかざし、そんな御大層なことを仰るプリシラに舌を出す。

なお、うちのクラスの美少女率の底上げに多大な貢献をしている一人がプリシラであるので、どうにもその言い分に反論しづらい。

美少女に美少女じゃない、と負け惜しみをぶつけるほど俺も弱卒ではないのだ。

――朝の散歩も終わり、普通に家に戻って制服に着替え、学校に登校した。

それだけ述べれば、ちょっとした朝の一幕といったところだが、気持ちいつもより早めに登校してみると、朝の散歩と同じで発見が多い。

例えば、こうしてプリシラとアルさんと話しているのもその一つで。

「しかし、まさかプリシラがこんな時間から登校してるとは思わなかった」

「これで姫さん、案外朝が早ぇんだよ。むしろ、それに付き合わされるオレまで朝方人間に改造されちまったくらい。深夜アニメが見づれぇ見づれぇ」

「でも、今は配信がだいぶ豊富だからな。俺も見てるよ、『異世界ウォンテッド』」

『異世界ウォンテッド』は、なんか色んな異世界モノのアニメがクロスオーバーしたアニメ作品だ。作者同一ではない作品のクロスオーバーなので、担当している監督は命懸けで死にそうだと思う。その頑張りをこの場を借りて称えたい。

ともあれ――、

「週末の桜祭り……これはもしかしてもしかすると、エミリアたんとの本格的なデートのお約束ってことになるんじゃないか?」

「ほう、デートとな」

「男と女が示し合わせて、何かしらのイベント事へ赴く……これが、デートでなければなんだというのか! それがグループ交際の賜物だとしても、朝の一件を踏まえてみれば間違いなくデート! これは、燃えてきた……!」

「何とも、さもしい有様よな。第一、貴様はあの双子の姉妹の妹とどうとでも遊びに出かけていよう。その経験があって、今さら身構えることか?」

なんか、普通にプリシラにデートの相談してるみたいな状況なのが笑えるが、しかし、プリシラの上げた条件はまったくもって参考にならない。

「言っとくが、俺にとってレムは幼稚園の頃から一緒の幼馴染みなんだぜ? 正直、単純なお出掛けだけなら数え切れないぐらいしてて、むしろ参考にならねぇ」

「それもずいぶんとアイタタタな発言に聞こえっけど、そしたら、本意気でデートについて腰据えて考えるのはこれが初めてってわけだ。初々しいじゃねぇの」

「へへ、だろ? なんか今から緊張で酸っぱいものが胃から持ち上がってきた」

「貴様、妾の前で間違ってもそれを溢れさせるなよ?」

音を立てて扇子を閉じると、プリシラはその先端で俺の顎をちょいと持ち上げる。話題の顎クイをされた状態だが、こいつがやるとそれも様になってやがる。

「せいぜい励むがいい。いつの世も、女は自分を楽しませようとする男の悪戦苦闘を愛でるものじゃ。よほどのことがなければ、相手の娘も悪い気はすまいよ」

「悪戦苦闘を愛でるって、悪女っぽい価値観だが……ひょっとして、今のって応援?」

だとしたら、とんでもなくレアな状況に出くわした気がしてびっくりだ。

しかし、俺のその一言を聞いた途端、プリシラの紅の瞳の温度がすっと下がった。マズい、と俺は自分の失言をとっさに謝ろうとして――、

「なになに? 今、祭りの話してへんかった?」

「……女狐か」

話に颯爽と割り込んできたのは、今日も今日とて威勢のいい関西弁が気持ちのいい美少女、アナスタシアだった。

そのアナスタシアの乱入を受け、プリシラが不機嫌に眉を顰める。

この二人の犬猿っぷりは学内では大層有名なので、できる限り混ぜるな危険と扱われているのだ。が、それでも頻繁に衝突が起こるのは、そもそもこの二人を同じクラスにしてしまった教師陣の人材配置の誤りが原因ではあるまいか。

「なんて、現実逃避してる場合でもねぇか。どうしたよ、アナスタシア。いつもだったらプリシラと話してるとこなんか割って入ってこねぇのに」

「いやぁ、ウチかていつもやったらそうするんやけどね? でも、祭りの話ってなったら聞き逃せんやん? ウチの商工会もばんばか出店するんやし、お客さんからの事前のリサーチもマーケティングには有用なんやから」

ウィンクしながら答えるアナスタシア――彼女の語った商工会とは、このあたり一帯の個人経営の店などがまとまった組合のことだ。

商売好きの銭勘定大好きのアナスタシアはその商工会に出入りし、大人たちに混ざりながら地域復興のために日夜あれこれと奔走している。その嗅覚は並大抵のものではないらしく、近年、着々と成果を挙げつつある商工会の活躍の裏側には、アナスタシアの手練手管によって作られたビクトリーロードが隠れているらしい。

もっとも――、

「それがどこまで本当なのかは疑わしいところだが……」

「――。なんだろうか、その目は。私に何か言いたいことでもあるのかい?」

俺の視線を受け、そう片目をつむったのは優麗な佇まいでアナスタシアと一緒にいるユリウスだった。なお、直前のアナスタシア情報はユリウスから聞いたものであり、この可愛い守銭奴を高評価している奴がどんな賛美を加えたかは謎である。

「最近は若い子ぉが祭りに足を運んでくれる機会も減って、色々とやってる側としては大変なんよ。せやから、アイディアやったら何でも大歓迎。それが、変わりもんの姫さんのでもなんかの足しになるかもしれんし?」

「相変わらず、躾のなっておらん女狐よな。それが人にものを頼む態度か? 妾の話が聞きたくば、大人しくそれを乞うところから始めよ。それをして初めて、妾が貴様の望みを聞いてやるかどうか決めてやる」

「あ、ええよ、言いたくないなら別に。ウチの本命はナツキくんの方やし? お姫さんの意見は下々にはわかりづらくて使いづらいだけやから」

「己の理解力の低さを棚に上げ、殊更に尊きものを貶めようとは恐れ入る。その卑小さには目を見張るものがある。なにせ小さすぎて、目を凝らさねば見えぬ故な」

互いに強烈な嫌味を交換し合い、結局は最終戦争が始まってしまった。

今回は出だしは悪くなかった気がしたのだが、何故こうなってしまうのか。

「うーん、謎だ。謎っていえば、ケンカになるってわかってるのに止めないお前も謎」

「ふむ、そうだね。これは私見だが、アナはあくまでプリシラさんを嫌っているわけではない。ただ、馬が合わないだけだ。その能力は認めているのだと思う。私が、君をある意味では認めているようにね」

「ある意味ってなんだ。どんな意味でもなんだ、この野郎」

いいように受け取る方法が皆無だったので、自然と俺もファイティングポーズ。所詮、俺とユリウスとは交わらない二つの線なのだ。

真面目に話を聞こうとしただけ馬鹿だった。

「やれやれ、これでは私もアナのことを笑えないな」

「なーにを勝手に納得してやがるのやら……お、生徒会のツートップ。二人は、週末のお祭りはどうするんだ?」

肩をすくめてニヒルな笑みを浮かべた優男をシカトし、俺はその後ろ――前後の席で談笑するクルシュとフェリスに水を向けた。

俺の呼びかけに、「私たちか?」とクルシュは顎に指をやり、

「当然、祭りには参加するが……一応、生徒会長として学園の生徒が羽目を外しすぎないか、それを監督する役目がある。なので、あまりお遊び気分のつもりはないな」

「ええ~、そんなの寂しいですよ。せっかくのお祭りにゃんですし、さすがに浴衣は気が早いにしても、ちゃんとおめかししていきましょうよ~」

「ふむ、そうだな。確かに、満開の桜並木の下を、普段と同じ格好で歩くというのも新鮮味がないか。それに、私も桜の下で着飾るフェリスが見たい。同感だ」

「えへ。それじゃ、クルシュ様のお召し物も準備しておきますネ」

メロメロのフェリスを甘やかすクルシュだが、まぁ、あそこはそういうわけわからん関係なので、いつも通りのイチャイチャに違和感はない。

結局のところ、クラスの過半数はほぼほぼ参加で間違いないわけだ。

「うちの場合、ベア子は……まぁ、ペトラちゃんとかメィリィちゃんが面倒見てくれるか。そうでなくても、ベア子を取られる父ちゃんの方が心配だな」

「――? 妹さんじゃなくて、お父さんの方が心配なの?」

内心の思いを吐露しているところに、職員室の用事を済ませたエミリアがやってくる。その質問に「そうなんだよ」と俺は頷いて、

「うちは親が……特に父親が全く子離れできてなくてな。何かにつけてベア子を束縛しようとするもんだから、俺が独り占めできなくて大変なんだ」

「そうなんだ……あれ? 今、スバルも独り占めする気って言わなかった?」

「――? そりゃ、ベア子は俺のベア子だから……」

できれば片時も離れず、鞄の中に入れて持ち歩きたいくらいなのだが、最近のベアトリスは鞄に入りきらなくなったのと、自分の関係性を築いているのでそこまでの束縛はできない。でも、たまには俺に独占させてほしい。

「そんな、寂しい兄心なんだ」

「そうなんだ。……でも、ちょっとだけ気持ちわかるかも」

「え! エミリアたんもベア子を食べたいと思ってるのか!?」

「食べたいと思ってたの!?」

正面から突っ込まれると、俺も自分がベア子をどうしたいのかがよくわからない。

猫を飼ってる飼い主は、猫を愛しすぎるあまりに愛情表現がわけわからなくなっていくと聞いたことがあるが、たぶん、それに近い気がする。

「それで、気持ちがわかるって言ったのは?」

「その、子離れできないって話の方。実は私の両親も、すごーく私を大事にしてくれてて……その、大変なの」

「へえ、大変なんだ」

「今朝だって、スバルたちと別れて家に戻ってから、散歩中にあったことを話して大変だったんだから。『今度、そのスバルくんを連れてくるのデス!』って」

「デス! って?」

なんか、ずいぶんと言葉のアクセントに勢いのある親御さんなんだな。しかし、そんな風に言ったエミリアの表情は柔らかかったので、家族仲はいいみたいだ。

うちもそうだが、家族仲がいいことはいいことだ。時にはうざったく感じるし、ちゃんとノックしてから部屋に入ってこいと思うこともあるが、いいことだ。

「基本、俺の我が家への不満って、全部父ちゃん発信なんだよなぁ……」

「あ、そうそう。そういえば、さっき職員室にいったときなんだけど、なんだかフレデリカ先生が慌ただしくしてて何かあったみたいよ」

「へえ、なんだろ。デリカ先生、いつもバタバタ忙しいからね」

主に、問題児だらけの学級を担当していることが原因なのだが、頑張り屋で仕事熱心なフレデリカ先生は、往年の学校ドラマみたいな奮闘で問題解決に奔走する。

時々、クリンド先生にやり込められるのもお約束で、だ。

「しかし、昨日のエミリアたんの転入といい、イベント事が絶えねぇな」

「でも、それってすごーく贅沢なことよね。毎日、いっぱい楽しいことがあって」

「エミリアたんは幸せ探しの名人だね」

「そう? ふふ、ありがと」

と、そんな調子で話していると、HRの時間を知らせる鐘が鳴った。

バタバタと、教室にいた面々が自分の席へと戻り始め、余所のクラスや遅れて登校してきた連中も同じように席へ着く。

今日も今日とて全員集合、出席率万全と我らがクラス――。

「うん? なんか、窓際に席が一個多いような……」

「――はいはい、皆さん、揃っていますわね」

俺の疑問が言い切られるより前に、扉を開けてフレデリカ先生が姿を見せる。

今日も気丈に背中を伸ばした美しい立ち姿のフレデリカ先生だが、気持ち、ほんのり、声の調子に疲れたモノが混ざっていた気がする。

「デリカ先生、何かあったん? ちょっと元気がないように見えるぜ」

「……ナツキくんはよく気付きますわね。これでもわたくし、ちゃんと隠そうと思って色々頑張っていましたのよ?」

「教卓の目の前だし、フレデリカ先生は美人だからよく顔見てるし、それでじゃない?」

「――――」

真面目にそう答えると、フレデリカ先生が翠の瞳を細めて黙り込んだ。その反応の意図が読み取れず、俺は右隣のレムにこそこそと声をかける。

「レム、レム、俺なんか変なこと言った?」

「いえ、特には思い当たりません。いつも通り、素敵なスバルくんでした」

「あれがいつも通りなのが問題なんじゃないかって思いますけどねえ」

意見を求めていないのに、俺の左隣にいる奴からの突っ込みがうるさい。

ともあれ――、

「ごほん。とにかく、話を進めますわね。昨日、エミリアさんがこのクラスに編入されてきましたが、実は今日も、皆さんにお話がありますの」

「おいおい、なんだその前振り。まさか、新キャラの投入――」

それはいくら何でも場当たり的というか、無節操すぎるテコ入れの仕方だと思うが、とりあえず勢いに乗ってそんなことを言ってみる。

だが、俺のその言葉を聞いて、フレデリカ先生は深々とため息をついた。

そして――、

「――まさかのまさか、その通りだよ、ナツキくん」

「え、その声は……」

聞こえた声に俺が驚いていると、教室の前方の扉を開けて現れる人影。ゆっくりと進み出るその姿を見て、俺は呆気に取られた。

上から下まで黒ずくめの喪服めいた衣装と、それを着こなす妙に退廃的な色香を纏った美貌。長い髪は色素が抜け落ちた純白で、蝶を模した髪飾りがひどく目を引く。

これもまた、とんでもなく綺麗な女性の登場で――、

「エキドナさん? 俺の隣の家に暮らしてる六人姉妹の三女! エキドナさんじゃないか!」

「説明的な台詞をどうもありがとう。ナツキくんからご紹介があった通り、ボクの名前はエキドナ。――今日から、この学園で教育実習をさせてもらう」

「き、教育実習生だと――っ!?」

薄く微笑み、教壇の上で一礼したエキドナさんに俺たちは色めき立つ。

教育実習生――それは、同級生や担任の教師とはまた微妙に違った距離感と立場を持ち、学園生活に彩りを与えるレアな立ち位置だ。

教員資格を取るために行われる実習、つまり実習生は教師ではなく学生なわけで、普段は接していない年代の女性との邂逅に、高校生男子は戸惑いを隠せない。

「く、まさかこんな隠し玉を用意してやがったとは……こないだ、二人でお茶したときは全然そんな話してなかったじゃねぇか」

「ナツキくんを驚かせようと思ってね。それに、君に打ち明けてしまったら、他の生徒たちにも知られてしまわないとも限らない。もちろん、君の驚く顔が見たかったというのが一番の目的でもあったんだが……驚いたろう?」

「まぁ、そりゃ大いに驚いたけども……」

悪戯っぽく笑ったエキドナさんの茶目っ気に、俺は照れ臭く頬を掻いた。

エキドナさんたち六人姉妹が我が家の隣へ引っ越してきてから一年も経っていないが、この年上の女性はどうも趣向を凝らして若者をからかうのが好きらしく、目下、彼女の可愛い悪意の犠牲者とされているのが俺である。

まさか、こんな形で仕掛けてくるとは思わず、その周到さに目を見張るが。

「しかし、昨日はエミリアたん、今日はエキドナさんと……驚き面白イベントを立て続けにぶち込んでくるじゃねぇか。さすがデリカ先生、エンターテイナー!」

「わたくしが首謀者みたいに言うのはやめてくださいまし。それに、実は話はこれで終わったわけじゃありませんのよ」

「へ?」

頭に手をやったフレデリカ先生、その発言に意味がわからないと俺は目を丸くする。

だが、その無理解の答えは、フレデリカ先生ではなく、真正面からやってきた。

「――――」

バン、と勢いよく音を立てて、エキドナさんが入ってきたのと同じ扉が開く。そこからぬっと姿を見せたのは、エキドナさんより背丈の高いシルエット。

それは褐色の髪を長く伸ばし、一つにまとめた背の高い女性だった。見知らぬ制服に身を包んだ彼女は、教壇を素通りし、悠然と仁王立ちする。

――何故か、俺の目の前に。

「――――」

「ええと、あの? どちら様でしょうか?」

緑の瞳に、赤い模様が珍しい瞳をした目力のある美人だ。

制服の前のボタンを一つだけ留めて、凶悪な視線誘導力を持つスタイルを惜しげもなく露出している。改造制服ぶりではプリシラといい勝負で、スタイルもプリシラに負けないものがある、というととんでもなさがわかるだろう。

ただし、そのとんでもないわがままバディよりも、この唐突なガンつけの方が俺には問題だった。

まさか、いきなりケンカを吹っ掛けられるとも限らないが、一対一の決闘を覚悟して放課後付き合ってくれる美少女転校生の実例を見たばかりなので、どんな素っ頓狂な展開が訪れるかはわからない。

今さらながら、ラムから喰らったローキックの影響が膝に残っている不安もある。

と、そんな不安に身を硬くする俺の前で、その美女の唇が動いた。

「――見つけた」

「へ?」

「――おーしーさーまー!!」

「うわぷっ!?」

真剣な表情が一転、にへらと笑った美人が、正面から俺を抱きしめた。そして、その豊満な胸に俺の顔面を押し付け、ぐいぐいとハグハグしてくる。

「もうもうもう、再会のときを待ち望んでたッスよ! こんなになっちゃって、でも一目でわかったッス! お師様、お師様~!」

「もがもがっ!」

「ええ? 何言ってるか聞こえないッス。でも安心安全大丈夫ッス。お師様がどんな感じにしょぼくれてても、あーしは変わらず愛し続けるッスから!」

巨乳の暴力にさらされて、必死でもがく俺を美人が手放さない。というか、腕の力が尋常じゃなく、本気でロックが外せない。このままだと死ぬ。死因巨乳だ。

「――待ってください! いったい、誰なんですか! スバルくんから手を放してください! スバルくんが死んでしまいます!」

「む……」

そんな天国地獄から俺を助け出してくれたのは、強引に俺の腕を掴んで美人を引き剥がしてくれたレムだった。レムは俺の右腕をぎゅっと抱いたまま、不満げな顔をする美人を睨みつけている。

「なんなんッスか、あんた。あーしとお師様の再会を邪魔するんじゃないッス」

「あなたの方こそいきなりすぎます! スバルくんが可哀そうじゃありませんか。あなたはいったい……」

「あーしはシャウラッス。お師様とは、小さい頃に出会って別れた、再会の約束を交わした遠距離幼馴染みポジションッスよ!」

「――っ! スバルくんの幼馴染みポジションはレムのものです!」

唐突に自分の地位を揺るがされ、怒ったレムが俺の右腕を引っ張る。が、それに対抗するように美人――シャウラと名乗った相手が俺の左腕を引っ張った。

「ぐああああ!!」

二人の美少女が俺を取り合い、一瞬で俺の両肩が悲鳴を上げる。

この瞬間、俺の脳裏を過ったのは大岡裁きという言葉――赤子を愛する生みの親と育ての親、取り合ったとき、赤子のことを思って手を離すのはどちらの親か、みたいな。

つまり、俺の体を慮る方こそ、真に俺を思ってくれているものと――、

「ふ、二人とも落ち着いて! スバルが裂けちゃうから、引っ張り合わないの!」

「ぎゃあああああ!!」

その俺の奪い合いを見ていられず、心優しいエミリアが止めようと参戦した。結果、俺の右足がエミリアに掴まれ、三方向からの引力に俺が千切れかける。

そして、こうなった場合のお約束として。

「そうなると、ここはボクが左足を持つのが正解だろうね」

「せ、正解とかないから、エキドナさん、助け……」

「生憎と、非力なボクでは彼女たちと対抗することは難しい。でも、君に対する想いの深さではそうそう見劣りはしない……なんて、少し照れ臭いな」

「言ってる場合かぁぁぁ……っ!」

ほんのりと頬を赤らめるエキドナさんだが、生憎と、そんなささやかな心の変化に色々と反応してやる余裕がない。このままだと、俺が四方向に裂ける。

「頑張って、スバル! 今、助けてあげるから!」

「スバルくんの幼馴染みポジションは、レムのものです……!」

「お師様! あーしとの、別れ際の約束を果たしてもらうッス……!」

「ここはせめて、最後まで手を離さないことで君への想いを証明しようと思うんだが、どうだろうか」

右手右足左手左足、四肢がねじ切られるような痛みを味わいながら、俺は美少女たちが俺を取り合っているという幸せなはずの地獄絵図を見る。

それはまるで、ここから先の学園生活の慌ただしさの予兆のようでもあり――、

「えー、教育実習生のエキドナさんと、二日連続の転校生のシャウラさんですわ。皆さん、二人が早くクラスに馴染めるよう、仲良くしてあげてくださいましね」

「――はーい!」

何もかもを諦めた風なフレデリカ先生の言葉に、そんな気持ちのいいクラスメイトたちの返事が重なる。

それを、なんだか遠い世界の出来事みたいに感じながら、俺の意識は徐々に徐々に、那由他の彼方へ遠のいていくようだった。

「お、俺、これからもう、どうなっちゃうの……?」

「……よくわかりませんが、碌なことにはならなさそうですよねえ」

と、薄れる意識に最後に滑り込んだのは、ギャルゲーの親友ポジションにまんまと収まっているオットーの、ぼやくような一声だけだった。

――俺の学生生活、これからどうなっちゃうのー!?

≪学園リゼロ! 4時間目へ続く!≫

前回の2時間目から4年半の歳月を開けての3時間目!

毎年、IFルートを投稿しているエイプリルフールですが、ご存知の通り、六章が終わってないのでここから先のIFルートは出しようがなかったんだ! すまん!

あと、勝手なイメージでこれまでのIFルートは七つの大罪になぞらえているので、それを埋めきってしまったというのもあります。

学園リゼロ!はいうなれば『虚飾ルート』とも言えますが、ぼちぼち続くといいですね!

ではまた! もうちょっと落ち着いたら本編も更新再開するよ!

第六章80 『精神の死』

――怒りの臭いがする。

かぐわしく、芳醇で、純度の高い怒りの臭いがする。それがたまらなく、この細く小さな体を掻き回し、高みへ押し上げてくれるのがわかった。

「ははァッ」

螺旋階段の上下で向かい合い、バテンカイトスはラムの啖呵に陰惨に嗤った。

薄紅の瞳に強い感情を宿した少女、彼女がこちらへ向けている憤怒や憎悪、殺意といった感情を胸一杯に吸い込んで、バテンカイトスは恍惚感を味わう。

言葉を選ばず言うなら、この一息のために生きていると言っても過言ではない。

「いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいから、いいじゃない。そんな風な怒り顔、俺たちに向けてくれる人って普段はいないからさァ。すごい貴重な感覚なんだよねェ。わかる? わかるかなァ、今の僕たちの嬉しい気持ちがッ!」

弾む気持ちの表現に地団太を踏んで、バテンカイトスは舌なめずりする。

そう、この感情との邂逅は、普段のバテンカイトスには決して望めないものだ。

『暴食』の権能で奪われた『記憶』や『名前』は世界から剥がれ落ち、ロイやルイ以外には認識することすらできなくなる。

大切な人を失った悲しみも、奪われた怒りも、空っぽの喪失感も、何もかもがすっかり消え去ってしまって、どうにもならなくなる。

「それで当然、そんなの当たり前。だから、気にしたことなんてなかったけどさァ」

嫌われ者の魔女教として活動していれば、所属に憎悪を向ける人間とは幾度も出会う。だが、ライ・バテンカイトスの所業を知って、ライ・バテンカイトス個人に対して憎悪を抱き、ライ・バテンカイトスを殺そうと狙うものはいなかった。

そんな、『暴食』の権能の生み出す当然の摂理、当たり前の不文律が、覆る。

――『暴食』の権能の影響を受けない、第三者の存在が浮上したことで。

「ナツキ・スバル……ッ!」

ルイの執着した男の名前を呟いて、バテンカイトスは薄い胸の奥に甘い疼きを得る。ルイに感化されたわけではない。それ以前から、彼のことは知っていた。

ルイよりもはるかに前から、ずっと強く深く、彼のことは想っていた。

それは――、

「――姉様も、わかってくれるんでしょォ?」

この胸の甘い疼きの原因と、こちらを見下ろしてくる少女との関係は深い。――否、深いどころではない。一心同体、かけがえのない一人、半身といって差し支えない。

そんな彼女ならわかってくれるはずだ。甘く淡く、強すぎる想い。まさしく、愛憎入り混じるこの感覚と、解放を待ち焦がれる胸の疼きを。

だから、そんな確信と期待を込めて、口を半月に裂いて語りかけ――、

「言ったはずよ。――豚のように鳴きながら死になさいと」

「――っ!」

次の瞬間、階段を蹴って降ってくるラムの先手が、バテンカイトスを大きく後ろへ飛びのかせていた。

すんでのところで身を引いたが、突き出される杖の先端は正確にこちらの右目を狙っていた。頭を引くのが遅ければ、眼窩から脳を掻き回されていたはずだ。

「姉様ったら容赦なァい! 今の喰らってたら、豚の鳴き真似どころか、何にもできなくなって死んじゃってたとこだからッ!」

「考え直したのよ。豚以下に真似されたら、豚もいい迷惑でしょうから」

螺旋階段を飛びのいて、段差の分だけ着地が遅れる。そのバテンカイトスへ、冷たい殺意を告げながら、ラムの猛撃が凄まじい勢いで追撃を仕掛けた。

細い体を回しながら、ラムが杖を突き、蹴りを放ち、肘鉄を穿たんと撃ち込む。バテンカイトスはそれをことごとく体捌きで避けるが、耳元を掠めた際の豪風などは、一発もらえば確実に肉体の一部の機能を喪失させる勢いがあった。

「ハハッ! 怖い怖い! 怖いけど、さァ!」

躊躇いなく襲いくる攻撃に際し、身躱ししながらバテンカイトスは嗤う。それは余裕ではなく、高揚だ。――否、わずかに余裕もある。

ラムの体術は大したものだ。容赦もなく、殺すことに躊躇いがない。だが、それでもバテンカイトスは悠々と避けられる。何故か。それは簡単だ。

「姉様がもっとすごいこと、こっちはちゃァんとわかってるからさァ」

バテンカイトスの内側に仕舞い込まれた数多の『記憶』。その中に、ラムを姉と慕い、彼女の無限の可能性に焦がれる情熱的なモノがある。

その『記憶』の有する、ラムへの飽くなき信頼と期待は、目の前にいるラムとの落差を悲しいぐらい正確にバテンカイトスへ伝達していた。

早い話――、

「――角のない姉様なんて、レムでも代替できる紛い物でしかないってことだよねェ」

「――――」

「あ、怒った? 怒っちゃった? 怒るんなら怒ってくれてもいいんですよ、姉様。考えてみたら、一度もちゃんとした姉妹ゲンカってしたことなかったからさァ」

思い出を、自らのものとしてひけらかすバテンカイトス。その言動にラムの頬が硬くなるが、彼女の攻撃の手は緩まない。

ずいぶんと、無理をしているなとバテンカイトスは内心で感嘆した。

どれほどの苦しみかは不明だが、角をなくした鬼族の肉体が自分の体を扱い切れなくなるのは有名な話だ。ラムも、延々とそのペナルティに苦しみ続けてきた。

何度、その苦しみを代わりたいと思ったことかわからない。

だが、同時に思ってもいた。――自分では、彼女の抱える苦しみに耐えられまいと。

角の喪失の苦痛が、その鬼の元々持っていた力に依存するのだとしたら、ラムもそれはこの世のどんな鬼にも共有できない、最大級のモノのはず。

だから、そんな苦しみを押して、自ら果敢に飛び込んでくる姿に称賛を。そして、すまし顔を歪めて、一生懸命に食らいついてくる姿勢に感謝を。

最高、最大、最上の美味が熟成され、芳醇に匂い立つ瞬間に立ち会えることを、いったい誰にお慶び申し上げればいいのかわからない。

――この美食に巡り合えた奇跡に、感謝感激雨あられだ。

「本当ッ! 姉様ったら素敵ですッ!!」

螺旋階段で繰り広げられる、愛憎入り混じった殺意の舞踏。それを存分に味わい尽くしながら、バテンカイトスはラムの存在を祝福した。

そして、『記憶』の欲するままに身を傾け、逸らし、屈んで避けて――、

「じゃじゃーんと、反撃タイ――」

「うるさいわね」

杖を突き出したラムの外側に回り込み、その白い首を狙おうとしたバテンカイトス。確実に死角に入り込んだはずのこちらと、振り向くラムの視線が交錯した。

瞬間、怖気を感じたバテンカイトスは攻撃を中断、大きく横っ跳びに逃れる。しかし、その右の頬が風を感じた直後、血を噴いた。

「――ッ」

ざっくりと裂けた頬を手でなぞり、バテンカイトスは微かに息を詰める。

受けるはずのない傷だった。少なくとも、バテンカイトスの中にある『記憶』――神童ラムを最もよく知る存在に従えば、この傷を受ける未来はなかった。

それなのに――、

「みっともなく鳴きなさいと言ったけど、見苦しい相手の声は聞き苦しくもあったわね。これ以上、付き合い切れないから、死なすことにするわ」

「姉様、これは……」

「『記憶』を頼りにラムを評価していたんだとしたら、まだまだ評価が甘いわね」

べったりと頬を血で汚したバテンカイトスを見やり、ラムが自分の桃色の髪を撫ぜる。彼女は恐ろしく冷え切った流し目をこちらへ送ると、

「ラムの地金を暴いたつもりでいたの? だとしたらお笑いね。――ラムの可能性は無限大よ。だって」

「――――」

「――ラムは、レムの姉様だもの」

何の根拠もない放言、それが異常な説得力を持って響くのは、他でもない、バテンカイトスの内側にある『記憶』が姉の存在をそう捉えているからだ。

その事実を認識し、バテンカイトスは笑みを消して、忌々しげに頬を歪めた。

楽しくない。面白くない。わかっていない。

「怒りも憎悪も、さらなる美味のためのスパイスなんだよ。だけど、スパイスの味が濃すぎたり、主張が強すぎたらせっかくの皿も台無しになる。料理しない姉様には、ちっともわかんない例えだったかなァ?」

「そんなことないわ。何を隠そう、ラムの得意料理は蒸かし芋だもの」

それを鮮明に想起させる『記憶』が蘇り、腹が鳴る。

その空腹感の訴えを意図的に無視して、バテンカイトスはお遊び気分を捨てた。

ラムはまだ、その力の真価を発揮していない。それはつまり、半身同然の妹にすら、全てを明かしていなかったということに他ならない。

つまり――、

「――姉様は、妹のことも信じられない、究極の個人主義ってことだよねェ」

「……浅い物事の見方ね。どれだけ多くの人間の人生を味わっていたのか知らないけど、その人たちも浮かばれないわ。レムのこと以外は些事だけど」

バテンカイトスの食事観を否定して、ラムが薄紅の瞳を細めた。

そして、彼女は自らの薄い胸を撫でながら、

「せいぜい気張りなさい、バルス」

と、ここにはいない少年へと呼びかけ、非情の覚悟を冷たい表情に宿した。

「運命共同体なんて、ゾッとするけどね」

△▼△▼△▼△

砂塵を飲まないように、口元まで防塵布を引き上げ、深く息をする。

本当ならゴーグルも欲しいところだが、それは残念ながら高望み。目の中に砂粒が飛び込んでくるのを覚悟で、塵旋風の奥に目を凝らし続けるしかない。

「ベア子! メィリィ! しのぐぞ!」

「わかってるのよ!」「もお、人使いが荒いんだからあ!」

砂で霞んだ視界を横断するのは、漆黒の甲殻を纏った凶悪な存在。

接近を許し、大鋏の一撃を浴びれば命取り。距離を置いて、尾針を放つための助走を稼がれれば命取り。他にも、命取りの条件は大量にある。

敗北条件だけなら、まさしく売るほどあるのが現状だ。

「とはいえ、それはいつものことだからな……!」

ナツキ・スバルの戦いは、いつだってギリギリの綱渡りの連続だ。

『死に戻り』で先のことがわかっているのに息苦しいのは、持ち得る能力と、相対する敵の強大さがあまりに釣り合っていないからだ。

手札が足りないのはいつものこと。みんなの力を信じて、臨機応変に戦ってくれることを期待しながら、スバル自身もみんなの期待に応えるべく奮戦する。

「これ、俺の戦いってより、俺と愉快な仲間たちの戦いだな!」

「言ってる場合なのお!? もお! 頑張ってえ、餓馬王ちゃん!」

スバルの益体のない叫びを受け、隣を並走するメィリィが魔獣――餓馬王へ命じる。

ケンタウロスを模した魔獣は赤子の鳴き声を上げながら、二頭がそれぞれ、スバルとベアトリス、メィリィを乗せて砂海を全力で駆け抜けていた。

そして、その猛然と砂を蹴る背中へ追い縋るのが、多くの足で砂を掻き、砂塵を巻き上げながら襲いかかる大サソリだ。

「――ッッ!」

先の感覚通り、距離を取れば尾針が、近付けば大鋏が、こちらの命を狙ってくる。つかず離れずの距離を保ちながら、相手の攻撃に対処する形だ。

数えた敗北条件と比べ、こちらに許された勝利条件は、遅滞戦闘の果ての変化。エミリアが塔の一層を攻略し、提示されたルールを書き換えるのを待つというものだ。

事実として、それが可能なのかどうかすら確定していないが――、

「それができないとしたら、そもそも塔の決まりに組み込まれてるのがおかしいかしら」

「イグザクトリーだ、ベア子。わざわざ、ルールに『決まりを壊してもいいよ』って断ってるってことは、このルールは壊されることを前提にしてるってこと」

そしてそれが可能だとしたら、塔の攻略者への褒美といったところだろう。そう考えれば、正当な手段でクリアしたものにだけ与えられる権利。

エミリアが、真っ当にレイドを突破してくれていて本当によかった。彼女が勝利してくれていなかったら、シャウラを救う手立ては指を掠めもしなかったろう。

「エミリアたんにセクハラしたあいつは、絶対に許さねぇけど……!」

思い返すに腹立たしい出来事だったが、レイドへの報復はユリウスに投げてある。

彼があの暴力男をコテンパンにしてくれることを期待しつつ、スバルは長大な監視塔を視界に入れ、ベアトリスとメィリィの奮戦に身を委ねていた。

「お兄さん! ここだと身動き取りづらいわあ! もっと塔から離れた方が、魔獣ちゃんたちが暴れやすいと思うんだけどお!?」

「ぐ……! お前の言い分はわかる! わかるんだが、無理だ! 俺は塔から離れられない。これ以上離れると、わからなくなる!」

メィリィの訴えを却下するスバルは、自分の胸元を掴んで奥歯を噛んだ。

『コル・レオニス』の効果は継続し、今も塔内にいる仲間たちの居場所は淡い光となってスバルの把握できる圏内にある。しかし、まだまだ未知数な部分の多いこの権能は、何が切っ掛けとなってほどけるかわかったものではない。

権能の効果として、一番わかりやすいのはやはり距離だろう。

現に、アウグリア砂丘の外にいる仲間たちの居場所まではスバルに感じられない。それが距離を原因としているなら、監視塔からどれだけ離れられるか。

仲間たちの居場所を、その安否を確かめられなくなるのも怖い。

だが、最大の問題は安否確認よりも、負担の肩代わりができなくなること。エミリアやユリウスといった、大変な戦いに身を躍らせるものたちは当然だが、それ以上にスバルの心を鷲掴みにして離さないのは、敵討ちに臨んでいるラムだった。

「――――」

それぞれ、仲間たちを最適な場所へ配置した自信はあるが、中でもラムの戦いが過酷になることは最初から予想されていた。それは、彼女の相手がライ・バテンカイトス――レムを『眠り姫』にした張本人であり、ラム自身のコンディションもあるからだ。

万全なラムでなくては、ライ・バテンカイトスには対抗できない。

その上で、ラムには思う存分、バテンカイトスを打ちのめしてほしい。そのためには、常日頃彼女を苦しめている負担をスバルが肩代わりする必要があるのだ。

だからこそ――、

「迂闊に塔からは離れられない! ハンディ戦ばっかで悪いが、付き合ってくれ!」

「~~っ! こんなの、絶対の絶対、あとでひどいんだからあ!」

スバルの訴えに唇を結び、顔を赤くしたメィリィが餓馬王の背中で叫ぶ。

そのまま、少女は空を睨みつけると、高い高い蒼穹を旋回する存在へ手を叩いた。

「羽土竜ちゃんたち! 出番よお!」

甲高い命令を受け、空を飛び回る小型の影が砂海へ急降下してくる。それが砂上の大サソリを狙うのを見て、スバルはとっさに「ベア子!」と声を上げ、

「あいつらに合わせてくれ!」

「――っ、わかったのよ! 『ヴィータ』!!」

スバルの狙いを察して、ベアトリスが小さな掌を空へ掲げる。

詠唱の効果が発動し、しかし、その狙いは大サソリの方ではなく、大サソリを目掛けて落ちてくる羽土竜たちの方だった。

落下する羽土竜の進路、そこに生じる淡い光の輪――羽土竜がその輪を潜った瞬間、光を纏って小型の魔獣が加速する。

「――――」

穿つ衝撃が大サソリの外殻に突き刺さり、激しい音が響き渡った。

ここまで、羽土竜の吶喊をそよ風のように受けていた大サソリが、無視できない威力の直撃に複数ある足を止める。

「今のって……ベアトリスちゃん、何したのお?」

「お前の操る魔獣を、ぶつかる前に重くしてやったかしら。速さと硬さは変わらないけど、重くなるだけで結果は変わるのよ」

メィリィの驚きにベアトリスが答える。

羽土竜の突然の強化の背景はそれが答え――威力は、重さと速度の掛け合わせだ。

その強靭な角で土中をも潜行する羽土竜、空と地下を自在に飛び回る魔獣の命懸けの突撃は、信じ難い破壊力で大サソリの足止めを敢行した。

大サソリの対応力は見事なものだが、初見の攻撃にまで満遍なく対応できるわけではない。そして、その反射的な対応力を上回るため、スバルは頭をフル回転させる。

「魔獣には悪いが、命と時間のトレードオフだ。使える魔獣の数と種類は豊富、ベア子のアシストがあれば可能性は無限大……! この方法なら――」

やれる、と確かな手応えがスバルに拳とベアトリスの髪を握らせる。その手の中で、ベアトリスが「痛いかしら!」と抗議の声を上げた。――その瞬間だった。

「――あ?」

時間稼ぎを引っ張りたい目算で、監視塔を見上げたスバルが声を漏らす。

その空虚な声を聞いて、ベアトリスが「スバル?」と振り向くが、答えられない。

スバルの意識が持っていかれたのは、監視塔の見えている外側ではなく、内側――淡い光を各所に感じる塔内、仲間たちの反応が原因だ。

おそらく、激しい戦いを繰り広げていると思しき面々、そんな中から一つの反応が消えていた。――頂上へ向かう、エミリアの反応だ。

「――――」

瞬間、スバルの心臓が爆ぜるように強く打った。

エミリアの反応が消えた事実、それがひどくスバルを混乱させる。まさか、今の一瞬でエミリアが失われたと、そんなことがあるはずが――、

「――ッ、落ち着け、馬鹿野郎」

目の前が暗くなりかけたのを、己を叱咤して引き止める。

現実に絶望するのは早い。もっと、『コル・レオニス』の能力を信じるべきだ。その発祥が最悪な男からでも、芽生えたての力だろうと、この権能は味方なのだ。

ここまでの『コル・レオニス』の反応から、淡い光の光度や温もりの強弱は、仲間の状態を示していると考えられる。

激しく昂っていれば色や光の強さは変わる。逆もまた然りだ。

ならば、エミリアの反応が消えたのは、彼女の『死』を意味するのだろうか。

「だとしたら、反応が消える速度が一瞬すぎる」

仮に、エミリアが存在を一瞬で消滅させるような恐ろしい敵と遭遇したのだとして、その敵の手にかかったのだとしても、無抵抗に消えるなんて思えない。

思えないし、思いたくない。信じている。だから、これはおそらく、別の問題だ。

監視塔を駆け上がり、一層へ向かったエミリアの身に、『コル・レオニス』の影響の範囲内から抜け出すような出来事が起こった。

それ故に、エミリアの反応はするりと一瞬でスバルの知覚から抜け落ちたのだと。

そう思わなくては――、

「スバル!」

「お兄さん! 呆けてる場合じゃないわよお!」

頬肉ごと奥歯を噛みしめ、痛みで自分を律するスバルを二人の幼女が呼ぶ。

それを聞いて、スバルは「わかってる」と己と、彼女たちへ聞こえるように応じて、

「どこで、何と相対してるかはわからない。でも、戻ってくれるのを信じてる」

△▼△▼△▼△

――はるか眼下の砂の上、スバルが祈りの言葉を口にしたのと同じタイミング。

何と相対しているかわからない、とスバルは考えていたが、そんなスバルの想像力でもエミリアの置かれた状況までは読み解けなかっただろう。

スバルの指示に従い、プレアデス監視塔のルールを書き換えるために一層へ向かったエミリア――彼女が遭遇したのは、青く輝く鱗を纏った強大な存在。

このルグニカ王国において――否、世界でその名を知らないもののいない存在。

『嫉妬の魔女』が恐怖の象徴だとすれば、それは希望や信頼の象徴と言うべきだろう。それほどの功績を、この存在は世界に対して積み上げ続けてきたのだから。

その、強大にして偉大な存在の名前は――、

「――『神龍』ボルカニカ」

名乗られた名前を反芻し、エミリアは自分の全身がさっと冷たくなったのを感じる。

こう言ってはなんだが、エミリアは緊張とは無縁の体質だ。もちろん、人前に立たされたり、大事な話をするときには少しだけ体が重く感じることはあるが、いざ実際に行動に移してみれば、それらの影響はすぐに忘れてしまえる。

よくよく、スバルやラムには大物だと褒められていたものだ。

だが、そんな大物であるエミリアをして、『神龍』の前では身動きを封じられた。

呼吸さえ、相手の許可なくしてはいけないのではないかと思わされる。それほどに、本物の龍の存在感は突出して、世界を掌握してしまっていた。

「――――」

息を呑みながら、エミリアはそのボルカニカの全身を改めて見る。

青く、深い色味を帯びた鱗は宝石のように煌めいていて、一枚一枚が鍛え上げられた宝剣よりも鋭いもののように思われた。

太い前足と後ろ足には黒々とした岩のような爪が備わっていて、地竜とよく似た顔つきには長命を感じさせる、信じ難い年月を見つめてきた黄金の双眸がある。その頭部には二本の太く大きな角が生えており、搾りたてのミルクのように白い。

『神龍』の体躯は十五、六メートルはあるだろうか。立ち上がらず、その場に翼と尾を畳んで蹲っているため、正確な大きさはわからない。しかし、その状態でこれだけ大きいのだから、塔の中に収まり切らないのも当然だ。

一層が開けたところに作られているのも、ボルカニカのために違いなかった。

「……三層が『賢者』で、二層がレイド、それで一層がボルカニカ」

『――――』

「もしかして、大昔の三英傑が全員、塔の『試験』に関わってるの?」

ここまでの『試験』の内容を振り返り、エミリアはそこに共通点を見出した。

『三英傑』――かつて、『嫉妬の魔女』の封印に尽力し、ルグニカ王国の歴史に残った三人の英雄たち。シャウラとレイド、それにボルカニカがそうだ。

もっとも、シャウラは実際にはフリューゲルの功績だと言っていたし、レイドはとても乱暴で口が悪かったし、ボルカニカは人ではなく龍だ。

それでも、全員がここに関係しているのなら――、

「何百年経っても仲良しなんて、すごーく素敵ね」

約束や結束、そういったものが三人の英雄たちを繋いでいるなら、それはなんだかとても素敵なことにエミリアには思われた。

元々、ボルカニカはルグニカ王国との『盟約』を交わした存在であり、実際、何十年も前に黒竜がルグニカ国内で暴れたときにも、その力を振るったと記録にあった。

エミリアは、約束を重要視する存在が好きだ。

ちゃんと約束を守れることはとてもいいことだと思っている。スバルのことはとても大切だし、信頼しているが、約束を守ってくれないところはダメダメだと思っていた。

あんな調子で、ベアトリスが真似するようになったらどうするのか。

エミリアも、スバルとベアトリスの二人を約束破りで叱りたくはないのだ。

「あ、いけない。そんなこと考えてる場合じゃなかった。……あのね、ボルカニカ! 私は『試験』を受けにきたの! 一層の『試験』! それに挑むわ!」

『――――』

「どんな大変な『試験』かわからないけど……でも、大急ぎでお願い! 私が頑張らないとスバルたちが困ったことになっちゃうの。何でも、どんとこいよ!」

自分の頬を両手で叩いて、エミリアは竦みかけた気持ちを立て直した。

図らずも、スバルやベアトリスのことを思ったことが切っ掛けになった。あの二人が約束を破ってエミリアに叱られるとしても、それは明日以降の未来の話。

その未来を迎えるためには、ここでエミリアが踏ん張る必要があった。

『――――』

沈黙する『神龍』は、その黄金の色をした瞳でじっとエミリアを見つめている。

誇張抜きに、吸い込まれてしまいそうなほどの深みを感じる瞳だ。

『嫉妬の魔女』と戦い、ルグニカ王国と盟約を結んだのが四百年前――だが、この偉大なる龍が生きてきた年月は、その四百年よりもはるかに長くへ及んでいよう。

それこそ、千年に迫るかもしれない年月、あの双眸は世界を見つめてきた。

そんな『神龍』に、エミリアの存在がどんな風に映るかはわからない。わからないが――、

「私、誰かに点数を付けられるのは慣れてるの。私のことをハーフエルフって理由で嫌う人も、エキドナみたいに意地悪な子もいたけど……でも、スバルやラム、ベアトリスたちみたいに、期待してくれてる子たちもちゃんといる」

話しながら、エミリアは自分の胸元の結晶石に指で触れた。

今も、眠り続けているエミリアの大切な家族は、そうやって色眼鏡で見られることの多かったエミリアを、一番最初に肯定してくれていた存在だ。

その家族を始めとして、この塔には、エミリアを認めてくれる仲間がいる。

「だから、どんな目で見られてもへっちゃらよ!」

一度は気圧されかけた『神龍』を前に、エミリアはそう啖呵を切った。

存在感の違いに押し潰されかけた魂も、震えて小さくなりそうだった手足も、悠久の年月を知る存在に呑まれかけたエミリアという存在も、もう負けない。

――絶対に、負けられない。

『――――』

ぐっと拳を固めて、威勢よく紫紺の瞳を輝かせるエミリア。

そのエミリアの眼差しを一身に浴びながら、ボルカニカはゆっくりと瞬きした。それから、ボルカニカはその龍の顎を雄大に動かし――、

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「――――」

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

「……あれ?」

息を詰め、ボルカニカから出題される難題に身構えていたエミリアが、龍の息吹きを共に吐き出された重苦しい言葉を聞き、首を傾げる。

その内容に、聞き覚えがあったからだ。

「あの、それってさっきも聞かせてくれたお話よね? 私が一層にきた人で、あなたがボルカニカ……それで合ってる?」

『――――』

「……あ! もしかして、自己紹介をしてないから? ごめんなさい。私はエミリア、ただのエミリアよ。ちょっと、今はたまたま私のことを覚えてない子が多いから、証明してって言われると困っちゃうんだけど、でも、エミリアなの!」

『――――』

「……これでも、ダメ?」

挨拶を飛ばしたことが不興を買ったのかと思ったが、改めて挨拶し直してもボルカニカの反応は芳しくなかった。

これがスバルなら、最初の挨拶を抜かしたことで一層の『試験』を受ける資格を剥奪されたとまで悲観するところだったが、エミリアはそうは考えない。

悪いことがあっても、謝れば相手はそこまで非情ではないと考えるのがエミリアだ。

そのため、このときも自分の非礼がボルカニカの沈黙を買ったとは考えなかった。

エミリアが考えたのは、ボルカニカが怒っているわけではないという可能性。あるいはその場合の方が、怒っているよりもっと悪いかもしれなかった。

何故なら――、

「もしかして……」

じっと金色の瞳を見つめ返し、エミリアはおそるおそる前に進み出た。

一歩、二歩と空に近い場所で足を進め、『神龍』ボルカニカとの距離を詰める。その息遣いさえも荘厳な存在へと、エミリアは堂々と近付いた。

そして、そっと手を伸ばし、相手の前足の鱗に触れる。

「――冷たい」

触れた鱗を氷のように、あるいは冷え切った鋼のように冷たかった。

いったい、どれほどの時間を停滞して過ごせば、ここまで熱を失うものだろうか。

それは生物的な『死』を意味するものではない。長きにわたる停滞が奪うものは、肉体の活力だけではないのだ。

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「――――」

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

その前足に触れるエミリアを見下ろしながら、ボルカニカが今一度繰り返す。

再三、と言うべき頻度で重ねられる出迎えの言葉。それは、エミリアが挨拶を欠いたことを責めるためのものではなかった。

ボルカニカの、深きを見つめるその瞳は、エミリアを映しているようで映していない。

その理由は明白だ。

「もしかして、お爺さんすぎて『試験』のこと、忘れちゃってる……?」

肉体の『死』ではなく、精神の『死』が、長命の龍をも襲ったのだと。

そしてそれは、一層の『試験』を乗り越えなくてはならないエミリアにとって、あるいは一層の『試験』の本命以上の難題として降りかかるのだった。

大図書館プレイアデス、第一層『マイア』の試験。

制限時間『仲間たちの生存時間』。挑戦回数『不明』。挑戦者『一名』。『試験内容』不明。

――試験、開始。

第六章81 『――お初にお目にかかる』

――『神龍』ボルカニカは長年の放置により、その精神の『死』を迎えていた。

有体に言えば、長い時間放っておかれてボケてしまったということだ。

「でも、そんなお年寄りみたいなことじゃ困るの! ねえ、ボルカニカ!」

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「もう! 全然ダメ!」

前足を叩いて必死にエミリアが呼びかけるが、返ってくるのは硬い鱗の感触と、それ以上に強固に思われる忘却という精神的な障壁だ。

レイドのように、死者が当時の状態で蘇る『試験』もなかなか難題だったが、今思えばそちらの方がよほど可愛く思えてくる。

まさか、あの乱暴者のレイドが可愛く思えるなんて冗談のような話だったが――、

「レイドは話も通じたし、何をしたらいいのか教えてくれたけど……」

ボルカニカはそうではない。

一層の『試験』を突破しなくてはならないエミリアにとって、出題者がボケてしまっているというのは最悪もいいところだった。

一刻も早く、スバルたちのところへ朗報を持ち帰らなくてはならないのに。

「うう……どうしようどうしよう、どうしたらいいの……。まさか、レイドみたいにボルカニカをやっつけたらいいって話じゃないだろうし……」

仮にそうだとしても大変な『試験』であることが予想されるが、三層と二層の試験内容の違いがエミリアのその考えに待ったをかけた。

三層『タイゲタ』の試験は、出題された問題を頭を使って解くことが必要だった。

それは幸い、スバルが大瀑布の彼方の知識を持ってくれていたおかげで解くことができたが、それがなかったらとても大変だっただろう。

そして、二層『エレクトラ』の試験は、ご存知、レイド・アストレアが障害だった。

あれだって、エミリアは何とか頑張ってレイドの頭をごつんとやれたから勝てたが、一度目の挑戦だったから成功したという向きもある。

いずれにせよ、三層も二層もギリギリの辛勝だったことは疑いようがない。

だから、普通に挑むだけでも十分大変だというのに――、

「その問題も出してもらえないなんて……」

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

「もう! わかったってば! その先を聞かせてほしいのに!」

何度か試したらその先を話してくれるのではと期待するが、それを試すための時間が惜しい。

エミリアは地団太を踏みたい気持ちを堪えながら、周囲に視線を巡らせた。

三層の『試験』は白い部屋で、出題してくれる黒い石板――スバルとユリウスがモノリスと楽しそうに呼んでいたモノがあった。

ひょっとすると、ああしたモノがこの一層にも隠されているかもしれない。

ボルカニカが当てにならない以上、問題は自力で探すのが得策だ。

「今の私にできることを全部やらなくちゃ……!」

ボルカニカの動向に常に気を払いつつも、エミリアは一層の調査に走り出した。

まず、一層はプレアデス監視塔の最上層――下からでは高すぎて見えないような位置に存在している。空間には周囲に六本の柱と、中央に巨大な柱が一本――ボルカニカは中央の柱にもたれるように蹲っていて、空間の広さは半径百メートルぐらいだろうか。

二層と比べてもかなり広い空間に感じられるが、巨躯のボルカニカの存在が実際の広さの感覚を狂わせる部分があった。

「下は……見えないようになってる?」

一層の周辺を取り巻く柱の一本に掴まり、エミリアは眼下を確認する。

塔内や地上、そこではスバルやラムたちが奮戦してくれているはずだが、分厚い雲が視界を遮ってしまい、その下を確認することができない状態だ。

あるいは雲の中へ飛び込めば、仲間たちとの合流も可能に思われるが――、

「そんな風に、外からズルして登るのは怒られる気がする……ううん、そもそも、私が一生懸命走ったくらいで、雲の上になんてこんなに早くこられない」

運動神経は悪くないつもりだが、エミリアも雲や空がどれだけ高いところにあるのかは知っているつもりだ。

小さい頃、手を伸ばしても雲は掴めなかったし、小さくなかった頃に試してもそれは同じだった。ラインハルトぐらいになれば、もしかしたら雲まで飛び上がることまでできるかもしれないが、エミリアにそこまでのことはできない。

だから、不思議な力が働いて、エミリアは塔の頂上へやってきたはず。

「それなら、やっぱり『試験』はこの場所になくっちゃおかしいわ!」

自分の考えに勇気づけられ、エミリアは六本の柱を見て回り、叩いたり、よじ登ろうとしたりしてみる。しかし、それらしい現象や文字はとんと見つからない。

あと、可能性があるとすれば――、

「――ボルカニカがくっついてる、真ん中のおっきい柱」

周りの柱に何もないのであれば、最も可能性が高いのは中央の大きな柱だ。

他の六本と違い、その柱だけ一層のさらに上へと伸びている。――あるいは一層よりも上の、零層とでもいうべき場所がそこにあるのか。

そこになら、何の変化も起きないこの場所を変える手立てはあるように思える。

ただし――、

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

その柱を調べるためには、同じ言葉を繰り返すボルカニカを回避できない。

「――――」

一層の『試験』へ挑む覚悟は決めたが、ボルカニカへ挑むのとはまた話が別だ。

その緊張感を維持したまま、エミリアは中央の柱へ、ボルカニカへ近付く。

「ボルカニカ、『試験』は何をしたらいいの?」

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

ボルカニカからの答えは変わらない。

そのことに落胆や失望よりも、エミリアは逆に安堵の方を覚えた。ボルカニカの反応が変わらないのであれば、前足に触れたときのようにこちらには無関心のはずだ。

そう信じて、エミリアはボルカニカと反対へ回り込み、その太い柱を調べようと――、

「――え」

柱に触れようとした瞬間、エミリアは風の音を聞いた。

それが何なのかを確かめるより早く、エミリアの本能が頭上に氷壁を作り出す。刹那、衝撃が氷壁越しにエミリアを打ち、細い体が大きく弾かれた。

「かふっ」

背中から胸へ突き抜ける衝撃、一層の床を激しく転がってエミリアは咳き込む。そのままの勢いを床に手をついて止め、何とか吹き飛ぶ体を制動した。

いったい、何があったのかと、エミリアはゆっくり顔を上げて気付く。

――柱に寄りかかる『神龍』の尾が、ゆっくりと床へ下ろされるのを。

「……尻尾で、叩かれた?」

言葉にしてみれば、それは実に単純な一撃だった。

龍が尾を使って感情表現をするのは、スバルとパトラッシュの間柄でもよく起きる。スバルが悪ふざけをすると、ラムかパトラッシュが競い合うように叩くからだ。

しかし、ボルカニカの尾の一撃は、そんな一人と一頭の愛情表現の比ではなかった。

とっさの防御が働いたからこの程度で済んだが、エミリアの反応が遅れていれば首が折られていたか、頭が吹き飛んでいてもおかしくない一撃だ。

それも、ボルカニカにとっては曖昧な意識の状態で虫を払ったに等しい挙動。

それはまるで、巨大な生き物の足下で翻弄される小虫のような扱われ方だった。

「――――」

その事実を理解し、エミリアのうなじや背筋をゾッと冷たい汗がなぞった。

だが、それは同時に一つの可能性をエミリアに浮かび上がらせる。

「やっぱり、その柱に何かあるんでしょう」

『――――』

「あなたは『試験』のためにここにいるんだもの。それは、『試験』のことを忘れちゃった今でも忘れてない。だから、同じことを繰り返し説明してるんだわ」

やるべきことを忘れてしまったように見えるボルカニカ。

それでも、『神龍』がこうしてここに居座っているのは、その精神が『死』を迎える前に交わした約束事を守る意志が、それだけ強固だった証だ。

『賢者』と『剣聖』、そして『神龍』がそれぞれ知恵や力、志を試すために。

それならば――、

「――中途半端な気持ちじゃダメね。私も、本気でいくから」

相手の妨害があることを前提で、エミリアも実力行使を宣言する。

途端、エミリアの周囲の大気が悲鳴を上げ、ゆっくりと世界が凍て付き始めた。まるでエミリアを女王として付き従うように、次々と生まれ出でる氷の戦士――それは、アイスブランド・アーツからさらに発展した、エミリアの新しい可能性。

狭い監視塔の中では試すこともできなかったが、この広さと相手ならば、容赦は無用。

スバルには教えていないから、名前は付けてもらえていない。

故に、エミリアが命名する。

「氷の兵隊さんと、アイスブランド・アーツ……!」

生み出される七人の氷の戦士、人型を象ったそれらは各々の武器を構えて、エミリアと共に死地へ挑む勇敢なるお供――、

「――いくわ、寝坊助さん! 起きるなら、きっと早めに起きてね!」

言いながら、氷の武装を構えたエミリアが、氷の戦士と共にボルカニカへ迫る。

それを、感情の読み取れない瞳で睥睨しながら、ボルカニカは口を開く。

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

その意識は、なおも変わらぬ茫洋の彼方へと埋もれたまま。

△▼△▼△▼△

――同時刻、自らの力を超える強大な敵へ挑むのはエミリアだけではなかった。

痴呆の『神龍』と戦うエミリアより一段下層、二層『エレクトラ』で行われている剣士のぶつかり合いもまた、その激しさを増している。

ただし、一方的である事実は揺るがぬままに、だ。

「オラオラオラオラ、どうしたどうしたどうしたぁ! こちとら、箸一本減らされて片手だけになってンだぞ? それでも届かねえンなら、オメエ、これが遊びでなくてなンになるってンだ、オメエ、オメエ、オメエよぉ!」

「ぐ……っ!」

豪快な罵声を浴びせながら、赤い長髪を躍らせる男が強烈な蹴りを放つ。

それを手にした騎士剣の柄で受け、優美な横顔の騎士は自ら大きく後ろへ飛んだ。衝撃は殺せない。散らすだけだ。そして、それが散り切る前に次がくる。

幾度も幾度も、その繰り返しが二層の戦場では行われていた。

そして、これも幾度目になるか、騎士が剣士の一撃に吹き飛ばされ、大きく後ずさったところで、「ったくよ」と剣士が吐き捨てた。

「気分が変わりゃあ剣も変わる。オメエにはその爆発に期待してンだぜ? だってのに、いったい全体いつになったら変わンだよ、オメエ。それとも……」

そう言って、赤髪の剣士――レイドが首をひねりながら唇を曲げる。

盛大に、相手を見下すように嘲弄する姿勢で、稀代の剣士は相手する騎士を睨みつけ、

「お行儀に拘って負けンのか、オメエ。それで満足かよ、オメエはよ」

「――ずいぶんと、好き放題に言ってくれるものだ」

そのレイドの物言いに、言われ放題だった騎士が唇を緩める。

あくまで騎士は粛々と、蹴りを受けて痺れる騎士剣の感触を確かめながら、鋭いレイドの視線を真っ向から受けて立った。

名無しの騎士を返上し、運命に抗うことを決めたユリウス・ユークリウスが。

「あなたは幾度も、私にそうした言葉を投げかける。面白みのない戦い、お行儀のいい剣技、遊びが足りないとも……私も、身に覚えのある言葉だ」

「ハッ、だろうよ。オレほどじゃねえにしても、誰の目から見てもおンなじように感じるンだろうぜ。オメエの剣にゃ、必死さしかねえってな」

「……必死さ、か」

レイドの放言は、崇高な考えから吐き出されたものではないだろう。

おそらく、彼は思ったことを思うがままに述べているだけ。それが本質を捉えているのは、わざと片目を覆ってなお、あの青い瞳には全てが透けて見えるから。

彼にはユリウスの、地金の上を覆った薄っぺらい理想が見えるのかもしれない。

「――――」

ちらと背後を見れば、ユリウスとレイドの戦いを見守る女性の姿がある。

ユリウスにとって、今や世界で最も尊ぶべき存在である女性の現身、しかし、その中身を別人へと違えた女性だ。

不可抗力とはいえ、あの水門都市で起きた出来事から約二ヶ月――何とも、自分たちは空虚な主従関係を続けてしまったものだ。

「思えば、私も君も、もっと自分の胸襟を開いて話し合うべきだったろうね」

「ユリウス……?」

「もしそれができたなら、君とはいい友人になれただろう。お互いに、同じ女性を大切に想い、憧れることができたのだから」

思いの丈を口にして、ユリウスは再び『剣聖』へと挑む。

レイドは右手一本に短く細い箸を構え、前進するユリウスを正面から迎え撃った。

切り払い、刺突し、振りかぶり、振り下ろし、連撃を叩き込む。

時に剣の柄や、足捌きによる虚実を織り交ぜながら仕掛けるユリウス、それをレイドは本気でさえないような態度で易々と防ぎ切る。

「まーたこれかよ。これじゃ通用しねえって何度も言わせンじゃ……」

「たとえ! つまらないと言われようと、これが私の剣だ!」

「っとぉ!」

欠伸まじりの採点を咆哮で打ち消し、ユリウスの剣撃にレイドが蹴りを合わせる。

その蹴りに姿勢を崩され、隙を見せたユリウスへとレイドの箸撃が斜めに入る――瞬間、ユリウスは羽織ったマントを翻し、とっさにその後ろへ身を隠した。

「へえ」

と、その動きにレイドが嗤い、マントごと向こうのユリウスを両断せんとする。

だが、箸撃の威力にマントが吹き飛んだときには、すでにユリウスは真後ろへ水平に飛び、箸の殺戮範囲からは逃れていた。

「おおし、そいつだ!」

「いいや、違う!」

「ああン?」

白い装いを目くらましにし、正道をかなぐり捨てる戦いをレイドが称賛。だが、ユリウスはその称賛を即座に切り捨て、吹き飛んだマントへ駆け寄った。

そして、箸撃に破られたマントを拾い、再び自らの体に纏う。

留め具をしっかりと留め、白い制服に白いマントを羽織り、騎士を体現する。

名無しであることはやめても、騎士であることはやめない。

そう示すようなユリウスの態度を見て、レイドはまたしても不機嫌に舌打ちした。

「オメエよ、オレはさっきの激マブと後ろのマブがきたとき、オメエが変わるってのに期待したンだぜ? なりふり構わねえで勝ちにくる。そういうオメエが見れるってよ。オメエ、自分のことがわかってねえンじゃねえか?」

「――――」

「騎士なんてかしこまったフリしちゃいるが、オメエの中身はそれじゃねえだろ。オメエの中身は、オレと変わらねえ『棒振り』だ。窮屈で見てられねえよ、オメエはよ」

ユリウスに箸を突き付け、レイドが渋い顔をしながら吐き捨てた。

そのレイドの発言を聞いて、ユリウスは瞑目する。そして、しばらくの沈黙を経て、一言だけ「そうか」と呟いた。

「ようやくわかった気がする」

「ああ? 何がわかった?」

「あなたが、どうして私にこうも執拗なのかが、だ」

苛立ちながらも、ユリウスに対して言葉をかけるのをやめないレイド。

その方法は乱暴で、当人にそんな意図は全くないだろうが、それはまるでユリウスを教え、導こうとする先達のそれだ。

そうまでして、レイドがユリウスを引きずり回す理由にようやく合点がいった。

「――あなたは、私に自分と同じモノを見ていたのか」

つまらない戦い方、お行儀のいい剣技だと幾度もユリウスを嘲笑ったのは、そのユリウスが被った殻の内側に眠れる獅子が隠れていると考えるから。

それが獅子であるなどと、ユリウス自身は過大評価もいいところと思うが――、

「細けぇことは知らねえよ、青びょうたンが。オレぁオレのやりてえようにやるだけだ。そのオレの感が言ってやがンだよ。オメエは、一皮剥けた方が面白ぇってな」

「――――」

「だから、剥いてやろうってしてンだ。オメエも、わかってンだろ? そのまンまじゃ、オレには届かねえし、後ろのマブにいいカッコもできねえってよ」

顎をしゃくったレイドにエキドナを示され、ユリウスは苦笑する。

本当に、レイドの目は大したもので、よく見えていると。

――ユリウス・ユークリウスが、見栄を張りたいだけの男だと、よくわかっている。

「だからこそ、私は私であることを曲げない」

「ンだと?」

「あなたの言葉は正しいのだろう。思い当たる節は多くある。……誰もが私を忘れた世界では語ることもなかったが、私はユークリウス家の嫡子ではなくてね」

顔をしかめたレイドや、気丈に前を向くエキドナに聞こえるように話し始める。

ユリウス・ユークリウスの、もはやナツキ・スバルしか覚えていない歴史を。

「貴族の家を出奔した父は平民の母と結ばれ、二人の間に私は生まれた。だから、私の出自は平民のそれだ。父母が亡くなり、叔父だった今の父に引き取られるまで、貴族の教養というものとは無縁で……故に、私の在り方は作り上げたものだ」

「不細工なハリボテだろうが」

「そうかもしれない。私の本質は、礼服ではなく平服を纏い、友と笑い合いながら野を駆け回っていた頃の、理想を知らない粗野な幼子の方なのだろう」

礼節を知らず、目指すべき理想もなく、日々を生きるのに懸命で。

そんなユリウスとしての在り方こそが、本来の自分に約束された未来だったはずだ。

だが、その未来は鉄砲水によって、実の両親共々押し流されて彼方へ消えた。

だからこそ――、

「だからこそ、私は騎士を装おう。見栄に拘り、本来の己を封じ込めよう」

「オメエ……」

「何も知らなかった無知な私は、しかし、理想と出会ったのだ。――私は騎士に憧れた。凛々しく、清廉とした騎士の姿に憧れたのだ。故に、憧れを貫こう」

音を立ててマントの留め具を付け直し、ユリウスの黄色い眼差しに力がこもる。

不機嫌な様子でいたレイド、その表情が苛立ちから怪訝へと変わっていた。それは、自分の言葉を否定され、だが、噛みつき返せないことへの驚きだ。

傍若無人を絵に描いたような男が、ユリウスの言葉に意識を奪われている。

ならばこそ、声を大にしてユリウスは続ける。

「私は不器用な男だ。物事も、形から入るばかりになる。立派な剣を持てば、品のいい服を纏えば、折り目正しい言葉が使えれば、それらしくなれると信じ、やってきた。だからこそ、その意地を通そう。見栄を、保とう」

見栄と、そういう言葉を嫌う人間がいることはわかっている。

ふと思い浮かべたナツキ・スバルなどは、その最たるものではないだろうか。

だが、とユリウスは思うのだ。

「背筋を正し、身嗜みを整え、そう在りたいと願う姿を装い、意志を貫く杖とする。それこそが、私が永遠に被ることを決めたハリボテなんだ」

「――――」

「見栄を馬鹿にするものもいるだろう。だが、それと同じぐらい、見栄を眩しく思うものがいるのだと信じている。――私が、騎士の在り方に焦がれ続けるように」

最初に、騎士への憧れを芽生えさせてくれたのが誰なのか、それは思い出せない。

だが、ユリウスは騎士となった。

ユリウスが『最優』とそう呼ばれたのは、研鑽した剣技や、磨き上げた精霊術、それらに裏打ちされた実力の高さだけが理由ではない。

ユリウス・ユークリウスの在り方こそが、騎士の在り方だと思ってもらえたから。

それが『最も』『優れたる』『騎士』の在り方だと、見栄を張る姿が眩しかったから。

そう言い切り、ユリウスは唇を緩め、エキドナへ振り返った。

敬愛する主の姿を借りた彼女へと、ユリウスは小さく首を横に振る。――ユリウスを覚えていられなかったことを、心の底から悔いてくれた彼女へ。

そんな罪悪感を抱く必要などなかったのだと、そう伝えるために。

「忘れられたことを恐れ、悔やみ、嘆く必要などどこにもなかった。誰もが知り、誰もが焦がれる騎士道の中にこそ、私という存在がいるのだから」

そして、それと同じことは、この場にいてくれる『彼女たち』にも言えることだ。

「これまですまなかった、我が蕾たちよ。失われた絆に縋り、君たちを手放そうとせず、ずっと不安な思いをさせた。その頸木から、今、君たちを解放する」

ユリウスの囁きにつられ、可視化されるのは鮮やかな色合いに輝く淡い光――それは、六つの属性を主張する美しき精霊、ユリウス・ユークリウスの準精霊。

ユリウス・ユークリウスが騎士となる以前から傍にあった、離れ難き存在。

彼女たちもまた、『暴食』の権能に『名前』を奪われたユリウスを忘れた。

しかし、精霊と契約者との間に結ばれた消えない契約と、ユリウスの生まれ持った『誘精の加護』の力に惹かれ、つかず離れず在り続けた。

ユリウスもまた、『名前』が取り戻されれば関係は取り戻せると、そう信じて、彼女たちを手放そうとはしなかった。

それは、なんと愚かなことだったのか。

何もかもが変わってしまったから、残された何かを変えたくなかったのだろう。

しかし――、

「以前までの私と、よく一緒にいてくれた、蕾たちよ。私は君たちの親愛に甘え、未練がましく温情を手放せずにいた。何事もなく、あの日々に戻れるのではないかと期待していた。――そんな、弱く、情けなく、格好悪い私を返上する」

戸惑うように、六体の準精霊がユリウスの周囲を取り巻きながら揺れる。

それらへ向け、ユリウスはそっと腕を差し出した。止まり木のように伸ばされる腕、それを見た準精霊たちが、緩やかにそこへ集まってくる。

そうして、腕に止まる淡い光へ、ユリウスは微笑みかけた。

「変わることを恐れる私がいた。だが、失う覚悟がなければ得られないものもある。たとえばそれは、愛情という名の蕾の開花。長らく傍にあった蕾たちが、どんな花弁を花開かせるのかこの目で確かめる未来」

『――――』

彼女たちは何も答えない。

しかし、これから何が起きるのか、彼女たちは予期しているように思えた。

故に、ユリウスはその通りに動く――。

「我が蕾たちよ! 君たちを解放しよう。長く、こぼれた絆に縋り続けてすまなかった」

その言葉と同時、ユリウスの腕を取り巻く準精霊たちが弾かれたように離れる。

衝撃を伴ったようにすら見えたそれは、ユリウスと準精霊たちとだけを確かに貫いた、まるで稲妻のような痛烈な感覚だった。

確かにあった繋がり、絆、魂と魂を結び付ける契約が、断ち切られる。

それは精霊術師にしかわからない、真に魂が結び付いた存在を喪失した痛みと嘆き。

ユリウスは知らないが、かつて同じ痛みにエミリアは涙し、蹲ったほどの。

それを、ユリウスは自ら、六体の精霊たちとの別れを一度に経験し、魂に傷を生む。

歪むような感覚が胸中を掻き毟り、ユリウスは魂の剥離を味わう。

それは、『暴食』の権能によって蕾たちから忘れられたときとは根本から異なる痛み。

ユリウスだけでなく、準精霊たちも同じ痛みを味わい、後悔したはずだ。

人間と契約など結ぶべきではなかったと、魂に付けられた傷を呪ったかもしれない。

だが――、

「――その上で、今一度、君たちを呼ぼう」

『――――』

「君たちを愛している。この見栄っ張りの求愛を受け入れてくれるなら、改めて結ぼう。――私と君たちとの、新しい契約を!!」

ユリウスが声高に、一度は下ろした腕を天へ伸ばして叫んだ。

その訴えを聞いて、弾かれたように散った準精霊たちは静かに、一秒だけ明滅した。

躊躇いと逡巡、それはたったの一秒のことだった。

△▼△▼△▼△

温かな光が、ユリウス・ユークリウスの全身を包み込む。

それは、契約を断ち切ったことで刻まれた魂の傷へ、優しく淡く沁み込んでくる。

喜びがあった。怒りがあった。悲しみがあった。愛情があった。憎しみもあった。

それら数多の感情が、ユリウスと彼女たちの十年分以上もあった。

それを一度はなかったことにして、また新しく、未来を紡いでいく。

これが正解なのかはわからない。でも、正解にしたいと、そう思えた。

何度も、間違っていくかもしれない。

ずっと正しい道を選び続けることはできず、過つこともあるかもしれない。

だけど、そのたびに自分を形作っていこう。

間違うことがあったとしても、自分は一人ではない。独りではない。

前を行こうとすれば、素晴らしき先人たちが作り上げてくれた理想がある。

足を止めかければ、愛情深く見守り続けてくれた蕾たちの温もりがある。

そして隣を見れば、そこには自分を形作った信念を捧げると誓う、主の横顔がある。

いったい、この先、ユリウス・ユークリウスに、何を恐れろと言えよう。

「――そうだろう。我が、麗しき花盛りの乙女たちよ」

その一声に、答える六つの蕾――否、花開く乙女たちの答えがあって。

光が、生まれ――、

△▼△▼△▼△

「これから先も、深く、優しく、傷付け合いながら、私はこの道を歩もう」

契約を断ち切られる痛みは、再び結ばれる絆によって癒される。

六つの、以前にも増して神秘的な光を纏い、ユリウス・ユークリウスは前を見た。

そこに、剣に身を砕くものとして憧れた頂点の姿がある。

だがしかし、ユリウス・ユークリウスの羨望は、その頂とは異なる場所に。

故に、その憧憬を、虹の光で切り開くことに躊躇いはない。

「お待たせした、『剣聖』レイド・アストレア。――お初にお目にかかる」

騎士剣を振り払い、ユリウスはマントを掴んで優雅に一礼した。

そして顔を上げ、この世で最も憧れる『それ』になり切って、名乗る。

「――私は『最優の騎士』、ユリウス・ユークリウス。あなたを斬る、王国の剣だ」

第六章82 『枷のある戦い』

――ゆっくりと、段階的に枷を外し、自らの体の熱量を上昇させていく。

血の沸き立つ感覚があり、細い体の全身の筋肉が絞られる。

触れれば柔らかく、儚く頼りなくも思われる少女の肉体だが、その内を流れる血は、それを構成する肉は骨は、世界で最も優れたる種族のモノ。

そして、その中でも最高傑作と呼ばれた『鬼神』の再来――、

「それが姉様ッ! あァ、なんて素敵なのッ! 輝いてるのッ! どこまでいってもレムじゃァ到底及ばない届かない敵わない、そんな姉様ッ!」

「唾を飛ばさないで。不愉快だわ。それと、ラムを何かと比べるのはやめなさい」

「へェ、その心は?」

「決まっているでしょう。――ラムには、レムの姉様以上の肩書きなんて不要だからよ」

呆れるような調子で言って、身を回したラムの肘鉄が風を穿つ。

掠めれば肌を裂き、打てば骨を砕き、その内の臓腑をも貫通する凄まじい体技、それが惜しげもなく振るわれ、手足を満遍なく駆使した連撃が放たれる。

それは、純粋な身体能力や技術だけがモノを言った技ではない。

もしこれが純然たる技巧によるものなら、喰らった相手の『記憶』を頼りに、古今東西あらゆる技を再現するバテンカイトスには対応されたろう。

しかし、ラムの戦技は端的なそれとは一線を画する。

「――――」

踏み込み、放たれるラムの肘や膝の一撃は、中途で自在に加減速を行う。それは、ラムが得意とする風の魔法を己に纏い、戦いの最中に虚実を織り交ぜるからだ。

風で速度を加速し、あるいは減速し、応戦しようとするバテンカイトスの認識を自在に狂わせる。挙句、ラムは風を応用して気配を四方に散らし、素早い身のこなしで相手の死角に紛れ込みながら、致命の一撃を幾度も叩き込むのだ。

「はァ! たまんないなァ!」

そんなラムの攻撃をすんでで回避しながら、バテンカイトスは嬉しげに喝采する。

その裂けた右頬から血を流しながら、長くざんばらと伸ばされた焦げ茶の髪を振り乱して、『暴食』は彼我の性能の比べ合いを楽しんでいた。

「辛みがあってたまんないスパイス! 渋みがあっていなせなトリック! 嬉しさ爆発でまさにダイナミック! 姉様は、俺たちの美食にぴったりの御馳走だッ!」

螺旋階段を飛び回り、互いの立ち位置を入れ替えながらバテンカイトスが嗤う。

両手の短剣をラムの杖と打ち合わせ、距離が開けば、開いた口からは涎が滴った。

「いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいから、いいじゃない、いいだろうさ、いいだろうとも、いいだろうからこそッ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

「――――」

「何より、その怒りの匂いがいい。僕たち個人を、ここまで憎悪してくれる相手……それを舌の上で味わったら、どんな美食が堪能できるんだろうねえ!?」

両手を叩いて、理解できない快楽の予感に打ち震えるバテンカイトス。

それを目前にしながら、ラムは大きく息を吐いて、自分の肉体の調子を確かめた。

「本調子には程遠いけれど……」

表情には出さないが、本心からラムは驚嘆していた。

自分のことは自分が一番よくわかっている、というのはわかっていない人間のある種の常套句だが、そういった愚か者と違い、ラムは本当に自分を完全に把握している。

鬼族の角を失い、『ツノナシ』となったラムの肉体は日々、膨大な負荷に押し潰されそうになっていた。故に、ラムは自らの意識に枷を嵌めたのだ。

通常、使用人として働くときには全ての枷をかけたままに。

時には有事となり、魔法を用いて状況を打破しなくてはならないときもある。そんなときには枷を一つ外して、最低限の魔法の使用を自らに許す。

そして、それでも収まらない事態があれば二つ目の枷を外し、短期決戦ではあるが、本来のラムの性能の二割ほどは発揮できる状態になれると。

約一年半前、『聖域』でガーフィールと一戦交えたときがちょうどそのぐらいだ。

あれが、『ツノナシ』であるラムに出せる全力であり、それ以上は肉体が負荷に耐えかねて使い物にならなくなると、そう確信していた。

そんな諸刃の剣である枷を、今、ラムはもう一段階外そうとしている。

「――――」

刹那、ラムの胸中を珍しい躊躇が歪ませた。

前述の通り、ラムは自分自身のことを完璧に把握している。

そんな彼女をして、これまでの戦いで自分への反動がここまで感じられない事態は、本当に十に満たない子どもの頃以来のことなのだ。

これまでの戦いの反動が跳ね返れば、ラムの頭は割れるように痛み、鼻血や血涙がとめどなく流れ、しばらく体が動かせなくなるのを覚悟しなくてはならない。

それがない。――運命共同体の、スバルへ流れ込んでいるから。

「……あまり長くかけると、バルスが死ぬわね」

話し合った通りなら、スバルは今頃は暴走するシャウラや、押し寄せる魔獣の群れに対処するために奔走していることだろう。

一緒にいるのはベアトリスと、おそらくはメィリィ。――記憶を疼かせるエミリアは塔の上層へ向かい、そこで孤軍奮闘中だろうか。

不思議と、あの前向きな銀髪の少女の動向が気にかかる。きっと、『名前』を奪われる前はよほど手を焼かされていたに違いない。

誰も彼も、ラムがいなくては頼りなくて仕方がなかった。

故に――、

「死ぬ気で耐えなさい、バルス。――レムが泣くわよ」

そう、聞こえない言葉を投げかけて、ラムは十年ぶりに三つ目の枷を外した。

△▼△▼△▼△

――瞬間、『コル・レオニス』の反動がナツキ・スバルへ牙を剥く。

「――ごぇ」

それは血を吐くような――否、実際に血を吐く負荷の到来だ。

一瞬、塔内に感じる淡い光の一個が肥大化したのを感じ、直後にはそれがスバルへと襲いかかっていた。

「スバル!」

「――ッ」

血の混じった咳をして、体勢に崩れかけるスバルを懐のベアトリスが支える。

生憎と、今のスバルとベアトリスを乗せているのは乗り慣れたパトラッシュではなく、生き物を乗せることを想定しない魔獣、餓馬王だ。

『風除けの加護』のない乗馬の経験は少なく、尻を乗せる鞍や踏ん張るための鐙もないのだから、気を抜けば一瞬で振り落とされかねない。

ここまでそうならずに済んでいるのは、魔獣の上半身に巻き付けたギルティウィップを手綱代わりに、ベアトリスが緻密な魔法で体重を制御してくれているから。

その不断の努力を、スバルが台無しにはできない。

「ラムの反動がきたかしら」

「お察しの通り、だ……悪い、何とか堪える……っ」

ぐっと鞭を握り直して、スバルは物分かりのいいベアトリスにそう応じる。

込み上げてくる嘔吐感は鉄錆の味と臭いがして、いったい体のどこにかかった負荷がもたらしたモノなのか皆目見当がつかない。

内臓が悲鳴を上げたとか、体内の何かが破れたとか、そういう類のダメージか。

いずれにせよ、これはラムが本気になった証だ。

「ラムが、『暴食』の片割れを片付けてくれたら……」

それで状況が一気に楽になるとは言わない。

まず、『暴食』の撃破が奪われた『名前』や『記憶』の返還を意味するのか、その確信も持てていないのだ。ただ、確実にスバルの負担が軽減されるだけ。

――そうすれば、スバルは引き取る負担をメィリィ一人に集中できる。

「はぁ、はぁ……っ」

餓馬王の上半身にしがみついて、メィリィは懸命に魔獣たちへ指示を飛ばしている。

スバルを狙い、猛然と鋏を、尾針を振り回す大サソリを相手に立ち回るには、そのメィリィの懸命な戦いが欠かせない。

足りない戦力を物量で補い、スバルたちは存在しない猶予を無理くり作り出す。

そのために、蝶よ花よとメィリィを愛でるのが肝要だと、そうスバルが叫んだのは遊びでも冗談でもなく、本気の発言だった。

今、五つの障害に狙われるプレアデス監視塔において、各々の障害を突破するためにエミリアやラム、ユリウスらの力がなくてはならないが、それらの戦場を維持するための要となっているのが誰か、それはメィリィ・ポートルートに他ならない。

故に、スバルはすでにしばらく前から、メィリィへと降りかかる加護のフィードバックを自分へと引き取っていた。

「羽土竜ちゃあん! 花魁熊ちゃん! 合わせて!」

高い声で、戦場を俯瞰しながらメィリィが魔獣を死地へ追いやる。

手を叩いたり、指を鳴らしたり、あるいは声に出して何をすべきか命じ、そのやり方は魔獣によって様々だが、いずれを従えるにも加護の力は全開だ。

それが相当な負担をもたらすことは、スバルも自分の脳が疼き、腫れぼったくなっているような感覚から大いに実感する。

「――――」

オットーの『言霊の加護』や、メィリィの『魔操の加護』がもたらす恩恵は、魔法的なものというよりは人間の持っている能力を拡大したような雰囲気が強い。

言うなれば、魔法ではなく、超能力方面の力のように思われた。

そうなると、他の加護と比べてフィードバックが大きいのも頷ける。

加護の対象が周囲や他者ではなく、あくまで自分に働くという意味で。

「加護も権能も、わけのわからないシステムの一部だからな……」

大罪司教や『魔女』、何の因果かスバルも用いることとなっている権能。

あるいは、この世界に生まれ落ちたものに確率で授けられることになる加護。

力は何事も使い道と、それがある種の真理であるとはスバルも認めてはいるが――、

「そんなものがあるから……」

悲劇が生まれるのではないか、と考えることもやめられない。

大罪司教や『魔女』たちが恐れられ、その傍若無人な力を振るえる背景には、間違いなく他者を寄せ付けない権能の力が大いに関与している。

加護だって、そんなものがなければ運命を歪められずに済んだ人は大勢いる。

たとえば、他ならぬメィリィだって、加護の負の側面の犠牲者だ。

生まれながらに魔獣を通じる力を持つが故に、彼女は実の両親から捨てられた。――それが事実かはわからない。だが、納得のいく説だ。自明の理だ。

少なくとも、メィリィの中ではそれが真実だった。

だからこそ――、

「俺ってやつは、ホントにダブルスタンダードだよな……」

権能や加護になんて頼りたくないと思う一方で、必要ならば使い倒すのを躊躇えない。弱い人間が選択肢を限られるのは事実だが、それで心まで卑しくなりたくはない。

道ならぬ道を強いている、そのことを忘れて、笑えるようになりたくはない。

「お兄さん! 集中してるう!? お兄さんとベアトリスちゃんがやられちゃったら、それで全部おしまいなんだからねえ!?」

「わかってる。――なぁ、メィリィ。全部終わったら、うちの子にならないか?」

「――っ! 言ってる傍から、集中っ!!」

頭の重みを堪えながら、そう尋ねたスバルにメィリィが怒鳴り返した。

お互い、余裕はない。集中が乱れたら、一瞬で持っていかれかねない。

だがしかし――、

「こんだけ苦しい思いをしてんだから、いい明日が待ってるって思ってないと割に合わねぇよ」

そう、血を吐きながらナツキ・スバルは思うのだ。

△▼△▼△▼△

砂上の戦いを続けながら、メィリィは口の中だけで「どうかしてるわあ」と呟いた。

もちろん、どうかしているの候補はたくさんいる。

眼前で大サソリへ変じたシャウラもそうだし、溌溂と元気な銀髪のハーフエルフもそうだし、監視塔の中で様々な敵と戦っているラムやユリウスたちもそうだし、一緒に戦っているスバルとベアトリスなど、特にそうだ。

しかし、きっと一番どうかしているのは――、

「わたし、なんでしょうねえ」

どうしてこうなったのか、メィリィ自身も自分で自分がわからない。

そもそも、スバルたちのアウグリア砂丘の旅路へついてきた時点で、メィリィの自分らしくない行動は始まっていたのだと思う。

流されるままに、求められるままに、それが正しいか誤っているかなんて気にせず、命じられたことを従順にこなしてきた。

それがメィリィの処世術であったから、ここでも同じことをするつもりだった。

それなのに――、

「――『死者の書』なんて、そんなものがあるからよお」

死者の想いを追体験できると聞いて、メィリィは己の中の好奇心に負けた。

ずっと燻っていた、エルザ・グランヒルテへの想いを開封するしかなくなり、結果、メィリィの生涯で最もメィリィらしくない愚行を重ねる始末だ。

挙句、それを見咎められ、スバルには偉そうに説教までされてしまった。

そんな彼の訴えを、鼻で笑う気には不思議となれなかったけれど。

なんだか、なし崩しにその後の協力まで約束させられて。

スバルには、ずっと背中を見せてやるとまで言われたけれど、どのぐらい責任を取るつもりがあるのか、軽はずみなことを言って後悔する類の人種なのだと思う。

流されやすい、という意味ではメィリィも思い当たる節はあった。

ただ、メィリィとスバルとで違っているのは、それが口先だけでないことだ。

スバルはやると言ったらやろうとするだろうし、その約束の現場に居合わせた――ベアトリスだったか。ベアトリスも、それを守らせようとするだろう。

そうなると、一方的に甘えているのも気が咎めて、何かを手伝ってやろうという気にもなったが、ここまでの話とは聞いていない。

「――――」

今も、メィリィの手振りに反応して飛びかかる羽土竜の群れが、大サソリの尾針に薙ぎ払われて一瞬で飛び散る。

本来、臆病な羽土竜が自分より強大な敵へ襲いかかることなどありえないが、その本能を飛び越えさせる命令を下せるメィリィでも、魔獣を強くしてやることはできない。

「ああん! やられちゃったあ!」

巨大な鋏を振り回し、荒れ狂う大サソリの暴力が次々と魔獣を殺していく。

切り裂かれ、押し潰され、穿たれる魔獣の流す血が渇いた砂に染み込んで、黄色く見えていた砂海が赤黒いモノへと姿を変えつつあった。

「――っ」

その事実に歯噛みしながら、メィリィは素早く周囲に目を配り、空や砂上、あるいは砂の下に至るまでの魔獣の気配を探り、手懐けられるモノから手懐ける。

質には拘れない。今はとにかく物量が、尽きぬ手駒が必要なときだった。

「もお、もおもおもお! これ、絶対あとでお兄さんにわがまま聞いてもらうんだからあ!」

額に浮いた汗を拭う余裕もなく、メィリィはつかず離れずの距離で大サソリを牽制し合っているスバルへの憎まれ口を叩く。

餓馬王の背中、快適な乗馬でないのはメィリィも同じ条件。ただし、メィリィの場合は体に巻いたマント越しに魔獣の背にナイフを突き立て、無理やり体を固定している。

支配下にある魔獣だ。このぐらいの暴挙、何ともなしに受け入れる。

問題なのは魔獣よりも、この状況に置かれたメィリィの方がよほどだった。

そもそも、こんな土壇場の戦い、メィリィ本来のやり方ではないのだ。

メィリィの戦い方は事前準備が命――周囲の魔獣たちをメィリィの支配下に置くための仕込みを行い、それらを戦場に配置、その総攻撃を高みの見物する。

それこそが『魔獣使い』メィリィ・ポートルートの本領なのだ。

もちろん、直接戦場で指揮した方が魔獣の攻防の精度は上がるが、それもメィリィ自身を危うくしてまでやることではない。その取捨選択を誤ったから、メィリィはスバルたちとの戦いに敗れ、囚われの身となったのだ。

「エルザが……」

彼女が死んだのは、そうした失策の積み重ねが原因でもある。

無論、エルザはメィリィが自責することなど全く望まないだろうし、何なら自分が死んだことさえ何とも思っていない可能性があった。だから、やきもきしてしまう。

エルザの気持ちがわからないのと同じように、自分の気持ちもよくわからない。

大体、こうして大サソリを相手に遅滞戦闘を演じ、魔獣の命と引き換えに時間稼ぎに徹しているが、こんなやり方をメィリィはしたことがないのだ。

メィリィ・ポートルートは、幼くとも殺し屋だった。

誰かの命令で、指示で、依頼で、誰かの命を奪うことを生業としていた。

だから、これが初めてなのだ。

――誰かの命を救うために、守るために、戦わなくてはならないのが。

「こんなの、わたしのやり方じゃないんだからねえ!」

先ほどの、スバルのうわ言のような一言が無性に腹立たしかった。

うちの子にならないか、などとメィリィによくも言えたものだ。

まるで、自分が憎まれることに心当たりがないかのような態度、実に忌々しい。

直接の仇はガーフィールだとしても、あの状況を組み立てたのはスバルだ。このプレアデス監視塔でも、やはり状況を己の自由に組み立てているように。

「――――」

そう、スバルの言動を否定的に考えているのに、気付けばメィリィ自身も彼の指示に従い、他の面々と同じように盤面を作る駒として動かされている。

それがスバルの深謀遠慮によって形作られた状況なら、その方がまだ納得がいく。

だが、どう見てもスバルにそこまでの器はない。スバルにあるのは必死さと、押し付けがましい期待、そして自分の命ごと預けるような狂気的な信頼だけ――、

「なんだか、わたしまでお馬鹿さんになった気分だわあ」

言いながら、メィリィは地下から捕まえた魔獣を引き上げ、大サソリを狙わせる。

「――――」

赤く染まる砂海をぶち割り、地下から飛び出すのは巨躯を震わせる砂蚯蚓だ。十メートル以上もある巨体をうねらせ、豪快に大サソリへと倒れ込む。

押し潰され、砂に埋もれれば大金星――だが、そううまくはいかない。

白光が迸り、太い砂蚯蚓の胴体が一瞬で消し飛んだ。

上下で真っ二つにされた砂蚯蚓が奇声と体液をぶちまけながら落ちてくるのを、続けざまに放たれる尾針の攻撃がさらに細かく打ち砕く。

しかし、それは砂蚯蚓の命を使った血肉の目くらましだ。

――本命は、砂蚯蚓が飛び出した地下から現れる三体の餓馬王だ。

「――――ッッ」

赤ん坊が泣き喚くような咆哮を上げ、燃える半人半馬が大サソリへ特攻する。

様々な魔獣が確認されるアウグリア砂丘だが、やはり、単体の火力として最も優れているのはこの餓馬王に他ならない。

数は多いが決定打にならない羽土竜や、持久力不足の花魁熊、そして巨躯で一切合切を押し潰さんとする砂蚯蚓を隠れ蓑に、メィリィは本命を温存していた。

この戦いの気配に引っ張られ、集まってきていた三体の餓馬王。

戦闘力では大サソリに劣るが、相手が最も警戒しているのがこの魔獣だ。それはとりもなおさず、魔獣の火力を脅威に感じている証拠。

「わたし、やっぱり調子いいみたい」

メィリィ自らが跨る一体、スバルとベアトリスを乗せた一体、そしてこの攻撃のために用意した三体の餓馬王、これらを同時に動かす負担は相当重いはずだった。

その反動が、不思議と今のメィリィには感じられない。

戦いの高揚感がそうさせている可能性もあったが、それならそれに甘えるところだ。

仕留めようとは思わない。

ただ、少しでも痛手を与えておけば、スバルの目的も達成しやすくなる。

「――――」

――それはある意味、流されて生きてきたメィリィという少女が、自らの意思で何かをしようと望んだ三度目の出来事だったのかもしれない。

一度目は、『死者の書』に救いを求めて夜の監視塔を出歩いたこと。

二度目は、追い詰められた境地で、螺旋階段へ立ったスバルの背へ迫ったこと。

そして、三度目が時間稼ぎの目的を果たすべく、望まれる以上の成果を求めたこと。

「――メィリィ!!」

三体の餓馬王が大サソリへ迫った刹那、血を吐く絶叫がメィリィを呼んだ。

それは文字通り、口の端から血を流したスバルの叫び声だった。

それが快哉でも、喜悦でも、驚嘆でもなかったことをメィリィは訝しむ。

こうもちゃんとやっているのに、何をそんなに怒ることがあるのかと。

だが――、

「――え?」

三体の餓馬王が炎の槍を構え、猛然と大サソリへと飛びかかる。

鋏と尾針をどれだけうまく扱っても、それでは防ぎ切れない目算――それが、大サソリの体に起こった変化を見て、崩れる。

それは、まるで炎に焼かれたか、あるいは砂と同じように血を吸ったようだった。

黒々とした鋼のように鈍く輝いていた外殻が、目が覚めるかのように変色する。一拍、次の瞬間には漆黒の甲殻の色が、血のような赤へと変じていた。

――ある種の魔獣には、『攻撃色』と呼ばれる変化を起こすものがいる。

それまでと明確に行動の種類が変わり、より獰猛で攻撃的になる変化だ。

それが起こったわかりやすい変化として、外見が変わることが多い。餓馬王の炎が膨れ上がったり、白鯨の全身に無数の目が生じるなども該当する。

そしてそれは大サソリ――否、『紅蠍』にも該当することだった。

より攻撃的に、より破壊的に、より殲滅的に――、

「――ぁ」

白い光が全方位へ向けて放たれ、飛びかかった三体の餓馬王が消し飛ぶ。

それと同時、乱れ飛んだ白光の余波は砂海を、まるで薙ぎ払うかのように荒れ狂った。

そして――、

「――――」

炸裂する光の奔流に呑まれ、メィリィの小さな体が血飛沫と共に宙を舞った。

△▼△▼△▼△

――血の沸く感覚と溢れ出す昂揚感、それが幼い頃から嫌いだった。

まるで、この世のあらゆるモノを統べることができるように思える全能感。

もしもあの錯覚に酔い続ける時間が続いたとしたら、いかに自分が強固な精神性に恵まれていたとしても、時間が道を誤らせたに違いない。

優れている自覚はある。だが、それを過信してはいない。

間違いもする。間違わないようにする意思と、間違いを正す姿勢があるだけで。

そうした姿勢を抱くことができたのも、全能感に酔い痴れなかったおかげだ。

周囲の持て囃すままに自分を素晴らしいものだなどと勘違いせず、古臭い因習と時代遅れの神秘性を尊ぶモノたちに言いなりにならなくて済んだおかげ。

そして、自分がそうした外因に潰されずに済んだのは、何のおかげだったのか。

それがきっと、思い出せない欠けた何かのおかげなのだと、わかっていた。

何故なら――、

「――ラムは可愛いだけでなく、聡明だもの」

自画自賛の言葉を置き去りに、ラムの踏み込みが螺旋階段の段差を砕いた。

瞬間、風を纏った桃髪の鬼が腕を振るい、受け止めんとした相手の腕を真っ向から打ち砕く。手首、肘、そのまま肩まで一瞬でねじり、へし折った。

「――がッ」

苦鳴を間に合わせない。

絶叫を上げかける横っ面に拳を叩き込み、ラムの白い指は散弾と化した。

無数の打撃を全身に撃ち込まれ、バテンカイトスが血反吐を吐いて吹き飛ぶ。それを追いかけ、ラムは足裏に発生させた風に乗り、高々と跳躍する。

「ひひッ」

そのラムを迎え撃つように、宙へ打ち上がるバテンカイトスが両足を振り回した。

直後、発生する空間の歪みがラムの肩に触れ、その服と肌を浅く切り裂く。――空中に見えない刃の置き土産、風の魔法が生み出す小癪な罠だ。

「この程度――」

「風で吹き飛ばすって? ダメダメ、無駄無駄! それは空間に固定しちゃってるもんだからさァ! いっくら姉様でも蹴散らせないよ、残念でしたァ!」

こちらの思惑を先取りして、血染めの笑みを浮かべたバテンカイトスが宙を蹴る。

それは実際に宙を蹴っているわけではなく、ラムの肩を切り裂いた刃を足場にした小細工ありの空中歩行――自分にしか位置のわからないそれを足場にし、塔を大きく使った螺旋階段を自由自在に飛び回る。

だが、しかし――、

「――『千里眼』」

たとえ、知覚としてそれを捉えられなかったとしても、設置した人間の視界へと重なることができれば、ささやかな意識の変化で在処はわかる。

罠を足場に上空へ上空へ逃れようとする『暴食』を、ラムは相手の視界に重なることで罠を見抜き、やはり同じように足場にしてそこへ追い縋る。

「ハッ! あはははははは! 姉様、それ本気? マジなの!?」

「バルスめいた口の利き方ね。――引っ叩く躊躇いが消えて助かるわ」

驚愕するバテンカイトス、その上昇よりも早く宙へ躍り出て、ラムは眼下にそのいけ好かない顔を見る。

そして、鋭い牙の並ぶ口を開けた顔面へ、容赦なくその靴裏を叩き込んだ。

「ぶ」

「さあ、下に落ちるまでの間、何回ラムの靴裏を味わうのかしらね」

鼻面を潰され、バテンカイトスの矮躯が空中で反転する。

上昇の勢いを殺された『暴食』は、そのままラムの蹴りの威力で今度は真下へと打ち落とされた。

それを追い、ラムは両手を天に掲げ、掌から風を生じさせて急降下、落ちるバテンカイトスの顔面へ、二度目の蹴りを――否、三度、四度目の蹴りをぶち込み続ける。

容赦なく、一発ごとに鼻を、前歯を、顎を、額をラムの踵が蹴り砕く。

そのにやけ面と、何度もラムのことを「姉様」と呼びかけてくる口が不愉快だった。

それを両方台無しにしてやり、なおも降下は続く。

ちなみに――、

「自分の仕掛けた罠に当たっても、それはラムのせいじゃないわ。自業自得よ」

「ぎっ! ぎゃ! ひぎいぃぃッ!」

蹴り落とされる途上、中空へ仕掛けた見えざる刃がバテンカイトスの体を裂く。

血が噴いて、中には肉が抉れるような深手もあるが、ラムはそれを一顧だにしない。

ラムは、わざわざあえて相手を苦しめて痛めつける趣味はない。

しかし、それも相手に同情すべき点がある場合の話で、その相手が憎い仇であるなら、豚のような悲鳴を上げさせるのに躊躇いはなかった。

「どう? 後悔している?」

空中で器用に身を制動し、ラムは相手の顔と胸に足を乗せたままそう尋ねる。

血でグズグズに汚れた顔のまま、バテンカイトスは問いかけには答えず、代わりにその両腕の短剣を振りかざそうとした。

瞬間、ラムの両手の手刀が素早く相手の両肩を打ち、肩の関節を強引に外す。

「――ぁお」

「どう? 後悔している?」

どれだけ優れた技を持とうと、外れた肩では腕は振るえない。

目を見開き、驚愕する顔を見下ろしながら、ラムは改めて同じ問いを重ねた。

「――――」

ラムを見るバテンカイトスの瞳に、恐怖が生まれるのを探そうとする。

刻み込むのが目的だ。恐怖を、痛みを、逆らってはいけないという敗北感を。それは復讐のために――なんて、些事が理由ではない。

「レムを――」

取り戻すためだ。

レム以外の、これまで『暴食』の被害に遭った大勢の犠牲者たち。『名前』や『記憶』を奪われて、触れ合ってきた歴史を簒奪されたモノたちを取り戻すためだ。

殺せばいいなら、こうしている間にもラムにはそれができる。

顔面を蹴り砕くのと同じ労力で、足裏に風の刃を纏って首を刎ねればいい。生き汚いことで有名な魔女教徒であろうと、首と胴が離れれば死ぬのは実証済みだ。

燃え上がる鬼族の里で、里を滅ぼしたモノたちへの応報の過程で。

所詮、魔女教徒など性根がおぞましいだけの、弱く愚かなモノの群れと知っている。

故に、その命よりも先に、その心を殺すために問いかけるのだ。

「どう? 後悔している?」

「――ッ、『日食』ッ!」

三度目の問いかけを聞いて、血の色の中にも微かな怯えが混ざった。

だが、それはラムの眼前で、文字通り瞬く間に消える。

高速で動いた、などという次元の消失ではなかった。

靴裏から踏みしめた相手の顔面の、体の感触が消える。だが、バテンカイトスがどこへ消えたのか、それはすぐに当たりがついた。

「――『千里眼』」

相手の視界を押さえている限り、誰もラムから逃げられない。

「――――」

見える視界を辿り、相手のいる螺旋階段の位置を特定する。風を纏ってそちらへ追いつけば、僧衣のようなものを纏った禿頭の老人の姿があった。

その外見の変化に、あるいはラム以外なら戸惑わされたかもしれない。

しかし、ラムは視界の共有により、相手の姿形がどうであろうと、それがバテンカイトスであることは確信している。

「化けるのは『色欲』の手口と聞いていたけど、他にどんな小技があるの?」

「あ、あぁぁぁ、クソッ! 使うつもりなどなかったと言うに……いや、なかったはずだったのに……ッ」

「――? 何を言ってるの?」

螺旋階段へ追いつけば、そこで跪く老人――バテンカイトスが苦しげに呻く。

演技に見えないその態度に眉を寄せ、しかし、ラムは疑問の解消を即座に投げる。

重要なのは相手にまだ息があって、その心がへし折れていないことだ。

それに――、

「――長くはかけられない」

口の中だけの呟きだが、すでにラムが大きな枷を外して一分以上――微かな負担はラムにもあるが、その大部分はスバルの方へいっている状況だ。

スバルには微調整しろと伝えてあったが、思った通り、ラムの負担を丸ごと引き取ることを勝手にやっている。どこまでも、格好つける。

そんなのは、想い人やレムのためにだけやっていればいいのだ。

「――。状況はわからないけど、こっちの要求を呑む気にはなった? これまで、あなたが『暴食』として喰らった全てを戻しなさい。そうすれば」

「……そうすれば、なんじゃ? 儂たちを見逃すとでも?」

「いいえ。そうすれば、すぐに殺してやるわ。いい取引でしょう? 万死に値するところを、一度で許してあげる」

「ふはっ」

一人称まで老成したバテンカイトスが、同じく老いた笑声を漏らす。

その挙動を観察しながら、ラムは姿形の変貌――それが、おそらくその人物の能力を十全に使うために必要な工程なのだと推測する。

先ほど、ラムの前から完全の消失したのは短距離の空間跳躍というべき技だった。

それを使えるのが、バテンカイトスの化ける禿頭の老人なのだろう。

「だけど、妙ね。そんな切り札があるなら、もっと早く切ってもおかしくないはず。それなのに、どうして伏せていたのかしら」

「――――」

「……使いたくない理由でもあるの? 器に引っ張られるとか」

「いやはや……本当に、ここまで恐ろしい女子とは出くわしたことがないぞい。……ないなァ。ホント、姉様って怖いよ」

散りばめられた可能性からの推測に、老人の姿がゆっくりと矮躯へ変わる。

それはラムの指摘の肯定であり、同時に変貌が与えた傷を失わせるわけではないことの証左でもあった。バテンカイトスは血塗れで、顔面もひどい有様だ。

「肩は?」

「壁にぶつけて嵌めたよ。一回じゃうまくいかないもんでさァ……痛い、あァ、痛い」

感触を確かめるように、バテンカイトスが嵌め直した両腕を大きく回す。それを見て、ラムは肩を外すのではなく、肩から腕を斬り飛ばすべきだったと反省した。

あるいは四肢の先端を潰せば、馬鹿げた小細工も諸共に潰せたか。

「あれもこれも、こっちのやることなすこと全部全部ぜーんぶ、先回り……すごいな、姉様。もしかして、姉様の方こそお兄さんみたいな権能を使ってるんじゃないの?」

「心外ね。ラムのこれはただの優れた洞察力よ。バルスの意味のわからない直感と一緒にしないでちょうだい。不愉快だわ。死になさい」

「あっはははァ、辛辣ゥ。でもでも、そっかそっか、そうだよねェ」

だらりと、牙の折れた口から裂けた舌を垂らし、血染めの笑みを浮かべるバテンカイトス。その不気味な仕草に目を見張り、ラムの肩に力が入る。

妙な動きをすれば――否、

「何かする前に喰らいなさい」

妙な動きが入る前に、ラムは風の刃で相手の四肢を吹き飛ばすことを選択する。

血の止め方はある。痛みの止め方はないが、死ななければ尋問は続けられる。そう判断して、手加減抜きの風刃を叩き込んだ。

だが――、

「――賭けは、あたしたちの勝ちよおん!!」

風の刃を浴びながら、丸々と太った髭面の男が後方へ飛んだ。どれだけ分厚い皮膚をしているのか、手足どころか太い胴体だって両断できるはずの風の刃が、その太った男の肌に赤みしか付けられずに弾かれる。

「姉様、ちょっと勘違いしてないかしらん。――言っておくけど、相手を観察してるのは何もあなただけじゃないのよん?」

その巨漢を逃がすまいと、前進しかけたラムへとそんな声がかかる。

直後、ラムは置き土産の刃に首を浅く斬られ、踏み込みが半歩遅れた。その、半歩の隙間へと、バテンカイトスがねじ込んでくる。

「儂たちのアプローチからの、俺っちたちの一発よぉ!!」

瞬きの速度で老人の姿が掻き消え、背後に出現した気配の威圧感が増した。振り向く暇も与えられず、ラムの脇腹へと強烈な拳が打ち込まれ、細身が吹き飛ぶ。

「かっ」と飛ばされながら見れば、ラムを殴り飛ばしたのは屈強な体格をした荒々しい雰囲気の男――三人の姿を瞬時に切り替え、その特性を完全に応用した連係――、

「だとしても、一度見せた技が通用すると――」

「思わない。思わないよ。思わないさ。思わないとも。思わないから。思わないからこそ。思わないって言えるから!」

吠えるバテンカイトスの姿が再び老人へ変わり、その手で自らの片目を塞ぐ。

その動きに怖気を覚え、ラムは長い足を伸ばし、とっさに壁を蹴りつけ、素早く相手へ飛びかかるための位置取りをしようと試みた。

しかし、間に合わない。

「儂たちは知っておる。――レムの姉様は、小細工なしにそんな風に動き続けられません」

「――――」

ラムの動きではなく、レムの知識がその答えを引き寄せた。

『ツノナシ』の限界値を超えたラムの動きを見て、バテンカイトスはその推測を確定、そして階段の段差へラムが戻ったときには、その悪意を完遂する。

すなわち――、

「――姉様、別に僕たちは姉様と力比べがしたいわけじゃないからさァ」

そう、老獪な笑みが空間に溶けるように消える。

短距離の空間歪曲による瞬間移動――それを連続すれば、戦場からの離脱は容易い。真っ当に、死ぬまで足を止めてやり合えるとは思っていなかったが。

「逃げを打つ決断が早い。いいえ、それより――」

ラムの『千里眼』を知っているなら、ただ逃げられるとは思わないはずだ。

それを知りながら距離を取ったのは、ラムにかけられた時間制限に思い至ったから。そして悔しいが、ラムは少なからず時間を奪われてしまった。

スバルにかける負担は一秒ごとに増す。

一刻も早く、塔内へ逃げ込んだバテンカイトスの居所を。

そう考えたところで、はたと気付いた。

あの、悪意の塊である大罪司教が、ただ逃げるために塔内へ入り込みはしないと。

相対するラムを最大限にいたぶる方法が何なのか、奴は熟知している。

それは――、

「――レム」

ようやく、再び捉えた邪悪の視界がラムの視界と共有される。

そこには『眠り姫』を乗せて走る、黒い地竜の尾が映り込んでいた。

第六章83 『ラム』

――赤く、赤く、何もかもが燃える炎に包まれていたことを覚えている。

穏やかで停滞した、退廃的な日々は唐突に終わりを迎えた。

その狂気的な暴力の前には、最強の亜人種という肩書きも、村で最も恐れられた村長という役職も、子を守る親の普遍的な愛情も、何も意味を持たなかった。

殺戮の蔓延に気付くのが遅れたのは痛恨事だった。

――否、この場合は相手の手際の良さの方を褒めるべきなのかもしれない。

奴らは世界から忌み嫌われ、疎まれ、弾かれ、迫害されるモノたちだった。

それ故に、奴らは闇に潜み、気配を殺し、音を遠ざけ、忍び寄る術を知っていた。

最初の奇襲の時点で、勝敗は決していたと言っていい。

大気中のマナに微かな澱みが混じり、その異変を角が感じ取ったときには手遅れだった。

まず、初手で村の人員の半数が削られ、その時点で戦えるものは半減以下。その上、異変を感じておきながら、何かの間違いではと緊急性に気付けないものがさらに半数。

早い話、平和と安寧に心が腐らされてしまっていたのだ。

かつては最強の亜人種と呼ばれ、『亜人戦争』へ参加していればルグニカ王国の情勢は変わっていたとさえ言われた鬼族――そんな歴史の『もしも』が仮に起きていたとしても、きっと鬼族は大した成果も挙げられなかったに違いない。

いずれにせよ、初撃で減らされた半数は、続く二撃目でさらに半数へ減らされた。

この時点で村の各所から火の手が上がり、断末魔が赤く照らされる夜空へ響き渡る頃には村の鬼たち全員が異変を察知した。

ただ、このときに鬼族が滅ぶとまで気付いたのは、たったの二人だけ――、

「――ラム! 囲みを抜けよ! お前が生きてさえいればいい!!」

巨大な二本の角を肥大化させ、全身の筋肉を膨れ上がらせた長老がそう吠えた。

長老は自らの得物である大刀を担いで家から飛び出し、雑兵を風で切り裂くラムへとそう言い放った。生きろと、それはラムを案じたからではない。

ラムこそが鬼族の輝かしい未来だと、最も愚直に信じたのが長老だったからだ。

かつての鬼族の栄光、『魔女』の時代に覇を唱えた『鬼神』の再来。

それがラムという神童に望まれた役割であり、戦うことを忘れた鬼族の最後の族長としての、彼の切なる願いだったのだろう。

「ハッ!」

馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑い飛ばしてやりたい気分だった。

この期に及んで、村を代表する鬼の望みが見果てぬ夢の実現を未来に託すことなのか。素早く仲間たちをまとめ、敵へ反撃を試みるなり、やれることはいくらでもある。

しかし、ラムはそれを族長へ進言してやるつもりがなかった。

この夜のことが原因ではない。

もうとっくの昔に、ラムは同族のことを見限っていたのだ。

「鬼の栄光なんて……」

くだらない。くだらない。くだらない。

そんな鬼族の最も純粋なる血が自分自身に流れている、その事実もおぞましい。

確かに力を望めば血が沸き、昂揚感が全身を支配し、あらゆる全てのモノが自分のためにあるような全能感に満たされる。

事実、健やかにラムが成長すれば、その全能感は本物になったかもしれない。

しかし、ラムはそれを望まなかった。

狭い世界で神の子を気取るよりも、ラムには選びたい未来があった。

それは鬼神の再来などと持て囃されるよりも、すでに滅び去った栄光に縋り続ける血族の神輿としての生涯を送るより、はるかに価値があること。

――■■の、■として生きること。

「――――」

額に意識を集中し、熱く照らされるマナを白い角から全身へ取り込む。

強く念じれば、ラムの知覚は大きく大きく拡大され、周囲にいる生きとし生ける全ての視界を乗っ取り、狭い村で起きた出来事を完璧に把握できた。

敵の数は多く、村から逃がすまいと包囲網が敷かれている。

最初の時点で対応が遅れ、抵抗らしい抵抗ができたのは半数の半数だったが、それもすでに片手で数えられるほどに数を減らし、鬼族の意地は品切れの様子。

一人、長老はかなり奮戦しているようだが、そこへ集まった敵はかなりの手練れ――劣勢に陥る長老の気配は、濃密な『死』を纏っていた。

「――■■」

小さな体に風を纏い、疾風の如く村を駆け抜けるラム。

その唇が紡ぐのも、脳裏を占めるのも愛おしいたった一人の■のことだけ。それは、ラムが薄情というわけではない。意識を切り替えているだけだ。

何故なら、ラムの両親は最初の半数に含まれてしまい、すでに助けようがなかった。

――両親を嫌ったことはない。

ただ、二人とも、良くも悪くもこの村で生まれ、この村で育ち、この村で死ぬことを選んだ鬼族で、緩やかな滅びを無自覚に受け入れていたとは思っている。

故に、この夜に命を散らしたのも、ある種の必然であったとも。

ただし――、

「――それは、応報しないという意味ではないわ」

立ちはだかる黒い影、頭からすっぽりと全身を包み込むローブを纏った敵。

十字架の形をした剣を振るうふざけた輩へと、ラムは手加減なしの風を見舞う。

こちらを子どもと侮ったか、あるいはただの実力不足か。

ラムの風刃を受け切れず、黒影は次から次へと切り倒され、無惨な死体が量産される。その後もラムは風を纏い、炎の中をまるで踊るように殺戮を続ける。

それはともすれば、美しい舞踊の一幕にも見えたかもしれない。

しかし、現実にはラムが腕を一振りするごとに命が散り、そうして形あるものを失わせるたびに、暗い悦びが幼い胸中で快哉を叫ぶのだ。

もっと殺せと吠え猛る。

血を、肉を、骨を、魂を、命を奪えと、内なる己が責め立てる。

その訴えを聞くのは、今宵が初めてではない。

――もうずっと、それこそ生まれたときから、この声は隙さえあれば誘惑してくる。

血に、肉に、骨に、魂に、命を委ねろと、内なる己の覚醒を求める。

もっともっと殺せると、もっともっと壊せると、そう訴える。

これの、いったい何が素晴らしいのか、ラムにはまるで理解できない。

長老も両親も、誰一人、これを理解できない。ラムに、ラムであること以外の役割を求めるものたちには、これを伝える気にもならなかった。

まるで、角に己を支配されているみたいだ。

確固たる自分というモノがなければ、幼い人格は容易く呑まれ、破壊され、それこそ周囲に望まれるままの鬼神の再来となっていただろう。

だが、そうはならなかった。何故なら――、

「――お■ちゃん!!」

高い声に呼ばれ、振り向けば■■が炎に照らされていた。

瞬間、迸る風が押し寄せる黒影の群れを吹き飛ばし、一息にそれらを蹴散らす。

そして、ラムは急ぎ足に■の下へ向かった。

「■■……」

怯える眼差し、足に力が入らないのか■■はその場にへたり込んでいた。

そんな愛しい■に手を差し伸べ、立ち上がらせようとする。長老の望む通り、生き延びてやらなくてはならない。ただし、ラムだけではなく、■■と共に――。

――その、瞬間だった。

■■の無事を確かめ、そこに一瞬の気の緩みが差し込んだ。

気配に気付いたときには周囲を囲まれていて、逃げ道を作るのも厳しい状況だった。独りなら、無理ではない。だが、一人で助かるなら死ぬのと変わらない。

何とか、状況を打破しなくてはならなかった。

そのために、封じていた力の枷を全て外して、荒れ狂う風を敵へ向け――、

「――――」

それは、忌み嫌った全能感がもたらした、心の間隙だったのだろう。

風の刃を掻い潜った黒影、それが放った一閃がしたたかに額を打ち、視界が爆ぜた。

大きな衝撃にのけ反り、強烈な喪失感を味わいながら、ラムは見る。

くるくると、くるくると、村を焼き尽くす炎に照らされる赤い夜へ、くるくると回りながら白い角が飛んでいった。

それが自分の角だと理解し、痛みと喪失感に細い喉が悲鳴を上げた。

悲鳴を上げながら、しかし、同時にラムは気付く。

生まれてからずっと、ラムを蝕み続けたあの声が聞こえなくなって。

ああ、こんなにも簡単なことだったのかと、自分の愚かさがおかしくなって。

赤い夜に放物線を描く角を見ながら――、

――ああ、やっと折れてくれた。

と、そう思ったのだ。

△▼△▼△▼△

――『千里眼』で共有された視界を、黒い地竜が懸命に懸命に逃げていた。

その背に負われているのは、ラムにとって大事な半身であるはずの少女。

欠落し、ぽっかりと喪失感だけを残した思い出せない片翼――、

「――レム」

それが何を意味するのかを理解し、ラムの心胆は怒りに震えた。

認めるのは癪だが、スバルの協力によって全盛期の力の一端を取り戻したラム、その力は『暴食』の大罪司教、ライ・バテンカイトスを圧倒し、劣勢に追い込んだ。

ラム自身、殺すだけならそうできる機会は無数にあったと断言できる。

しかし、奴の有する厄介な権能、他者の『記憶』と『名前』を喰らう力の存在が、軽率にその冒涜者の命を奪うことをラムに躊躇わせた。

温情ではなく、必要に迫られた判断だった。だが、結果は結果だ。

その結果、バテンカイトスは権能を駆使してラムの前から逃げ延び、そのままラムの半身であるレムの身柄の確保に向かった。

狙いは明白――まともに戦っても、ラムに勝てないと確信したから。

真正面から戦い、それで不利を悟れば撤退し、やり口を変える。

大罪司教は戦士でも何でもない。奴らは、自らの欲望を叶えるためだけに貪欲に行動し続ける存在、勝ち方に拘る理由など一つもないのだ。

故に、自分に屈辱を味わわせたラムへの報復と、そして奪ったレムの『記憶』を根拠にツノナシのラムの制限時間を削ろうと目論んだ。

その作戦は、腹立たしいことに最適解なのだ。

レムの身柄を押さえられれば、ラムは容易く無力化される。

そうでなくても、これ以上の時間をかければこちらの陣営の戦力は大きく目減りする。時間が経過するごとに、勝算は減っていく。

だから――、

「一刻も早く、パトラッシュに追いつく」

幸い、レムを預かるパトラッシュは、この塔にきている陣容の中ではユリウスの次に当てになると言ってもいいほど賢い地竜だ。

スバルやベアトリスはムラがあり、エキドナやメィリィに関しては未知数が大きい。頼ることを大いに躊躇わせる雰囲気のエミリアなど、言語道断だった。

そしてこれは複雑だが、バテンカイトスは明らかにパトラッシュを嬲っている。

追い詰めようと思えば一瞬で追い詰められるところを、バテンカイトスはわざと攻撃の手を緩め、追跡に隙を作り、獲物を弱らせる狩りを愉しんでいた。

全ては視界を共有し、ラムにこの光景を焼き付けさせるそのために。

これ以上、好き勝手な真似をさせるわけには――、

「――ぁ」

急ぎ、風を纏いながら駆け出そうとした瞬間だった。

螺旋階段で上階を目指そうとした視界がブレ、一瞬、『千里眼』がほどける。右目にバテンカイトスの視界を映したまま、左目に自分の視界を維持、なおも景色がぼやける。

それだけではない。先ほどまでは感じなかった重たい疲労感と、内臓が見えない手で掻き回されるような不快感と痛みが、ラム自身へと降りかかっていた。

これは紛れもなく、ラムが普段から味わっている倦怠感の影響だ。

スバルが何らかの権能で引き受けると豪語した、『ツノナシ』のラムを永遠に蝕むはずの代償――それが、ラムへと跳ね返っている。

瞬時に浮かぶのは、スバルが無様に犬死したという可能性。

だが、それはラム自身へ跳ね返る負荷の軽さから違うと判断できる。ほんの数分だが、ラムが引き出した力を考えれば、その代償はこんなものではない。

それこそ、文字通り血を吐き、のた打ち回っても不思議はない苦しみのはずだ。

そうならないということは、不測の事態こそ起こったが、それが理由でスバルが完全に戦線離脱したわけではないということ。

あるいは、起きた出来事から全く逆の展開が想像できる。

すなわち、ラムの体の負担以上に、スバルが引き受けなくてはならない不幸が誰かの身に起こってしまった場合、だ。

「ベアトリス様かメィリィ、騎士ユリウス……」

考えられるのはそんなところだが、その答えを確定させることに意味はない。

重要なのはこの瞬間、ラムが先ほどバテンカイトスを圧倒したような力を発揮することが困難になったこと。――枷で言えば、外せるのは一つだけ。

無理をすれば二つ目まで外すことも可能かもしれないが、それもはたして何十秒もたせることができるか、そんな目安の話でしかない。

それで、ライ・バテンカイトスに勝てるのか――、

「何を弱気になるの。――勝つための、方策を打つしかないのよ」

こうしている合間にも、陣営の勝利の可能性は目減りしていく。

ラムは今一度、踏み外しかけた段差を踏み、螺旋階段を駆け上がる。

――いつかも、こうして追われる妹の下へ駆け付けるため、息を弾ませたことがあったような、そんな風に欠落が疼くのを感じながら。

△▼△▼△▼△

「――ッッ」

「ははァ! ホントにいいなァ! 頑張るなァ、地竜のくせにさァ!」

投じた短剣に鱗を傷付けられながら、狭い通路を疾走する黒い地竜を称賛する。

その抉られた傷から痛々しく血を流し、しかし、地竜は賢明なる逃走を敢行し、自らの勝利条件を振り落とすまいと徹底していた。

『風除けの加護』は、地竜であるなら種族の全てが持ち合わせる特性だ。

その地竜が走り続ける限り、風や足場の悪さといった外的要因の大部分を無視し、目的のために『走る』という行為を肯定する。

その恩恵は地竜と繋がれた竜車や、その背に跨った騎竜者にまで及ぶ。

つまりは、意識のない状態で鞍に括り付けられている『眠り姫』が振り落とされずに済んでいるのも、その『風除けの加護』の影響下にあることが大きい。

それがなければ『眠り姫』も、とうにバテンカイトスの手の中に落ちていただろう。

「すごいすごい、健気健気ッ! これだけ走るのをあれこれ妨害されてるってのに、よくもまァ走る足を止めずに頑張るもんだ。まァ、足を止めたら『風除けの加護』は解除されるんだし、必死こく理由もわかるけどさァ!」

「――ッッ」

「地竜はいいね、頑張り屋だし、主人に忠実だ。きっと君が人間だったら、『美食家』の俺たち垂涎の一皿になってくれたってそう思うッ! でも、でもでも、でもでもでもでもでもでもでも! 悲しいかな、地竜じゃ僕たちの腹は膨れないッ!」

意思があり、魂があり、『記憶』があり、『名前』がある。

にも拘らず、『暴食』の権能は人間以外の『それ』を喰らうことができない。

故に、こんなにも必死で、懸命で、抗い難い敵に敢然と立ち向かう地竜を、バテンカイトスは自分にとって一番の方法で愛おしんでやることができない。

こんなにも美味そうで涎が滴るのに、食べてやれない。

それはまるで、至高の絵筆で絵画に描かれた食事であるかのように。――絵に描いた餅は食べられないと、そんな言い回しがあるそうだが。

「あァ、それだよそれ! 完全にそれなんだ! 腹が減って減って減って減って減ってどうしようもないときにッ! こんなにも美味そうな食べ物の絵なんて生殺しだ。こんなのは完全に、児童虐待ってヤツなんじゃないのッ!?」

疾走する地竜を追いながら、鼻の奥に詰まった鼻血の塊を噴き出す。

直前の戦闘で顔は潰れ、眼底が砕けたのか左目の眼球がゴロゴロしている。牙が折られて舌は裂け、とめどなく流れる血が下顎を濡らすが、全てがどうでもいい。

――今、ラムがこの光景を見ているかと思うと、心底ゾクゾクする。

「姉様は――」

清く気高く完璧で、非の打ちどころのない完成された存在。

それがバテンカイトスの内に眠る『記憶』の訴えであり、手も足も出せずに半殺しにされた上での正当な評価であると考える。

本気を出したラムには、バテンカイトスでは歯が立たない。――否、おそらくは大罪司教の誰であろうと、本気のラムには軽くひねり殺されるだろう。

あるいはレグルスなら、その権能の絶対性で勝負になったかもしれないが――、

「まァ、あんな馬鹿に姉様が殺せるはずないしさァ。どうせ、殺せないなら殺せないで、大瀑布にでも落とされて終わってただけってね」

殺せなくても、封じ込め方くらいならいくらでもある。

それこそ、『嫉妬の魔女』が三英傑の手でも殺せず、今も封魔石の祠に閉じ込められているように。

つまり、どうあれ――、

「最高で完璧な姉様をおもてなしするには、俺たちの方も相応の準備を整えなくっちゃ失礼ってもんだからさァ!」

ぐらつく左目を見開いて、バテンカイトスは血の滴る陰惨な笑みを浮かべる。

地竜の速度は大したものだが、屋内ではその機動力も宝の持ち腐れだ。ましてや、バテンカイトスは合間合間に『記憶』を応用した歩法で空間を渡り、開かれた距離をなかったことにさえできるのだから。

「姉様の妹として、恥ずかしくない成長をしなくちゃいけないですから」

高まる使命感を胸に、バテンカイトスは己の内の『記憶』を引っ張り出す。

『暴食』の権能、その一種に『蝕』と呼ばれている能力がある。それは端的に『日蝕』と『月蝕』の二つに分けられるモノだが、非常に使いどころが難しい。

『月蝕』は月が欠けて見える現象。――転じて、喰らった相手の『記憶』を引き出し、それをバテンカイトス自身の肉体で再現することだ。

普段、バテンカイトスが多種多様な『記憶』を閲覧し、それを組み合わせて超級の合成体術として運用するのが、この『月蝕』の本領と言える。

一方で『日蝕』は、太陽が隠れて見える現象。――転じて、喰らった相手の『記憶』だけでなく、その存在そのものを自らに被せ、本来のスペック通りに運用する手法だ。

当然、元の技の使い手の肉体の方が、その技を使いこなせるため強くなる。

ただし、肉体を相手のモノへ変じる場合、相手の精神の影響を強く受けすぎる恐れがあり、後々に大きく響く可能性がある。そのため、よほどのことがない限りはバテンカイトスやアルファルドはこれらを多用しない。

ライ・バテンカイトスとロイ・アルファルドが主に用いるのが『月蝕』。

ルイ・アルネブが主に用いるのが『日蝕』――それは自分の肉体を持たず、確固たる自我を持たないルイだから気軽に使える奥の手だった。

だが、ラムとの戦いで半殺しにされ、生き延びるために『跳躍者』ドルケルを『日蝕』で再現した瞬間、バテンカイトスは殻を破った。

これまで、自らが失われることを恐れて使わないでいた『日蝕』を使いこなし、確固たる己を維持する術を見出したのだ。

これでより完璧に、無駄なく相手の『人生』というメインディッシュを味わえる。

「戦いの最中に成長するなんて、本来なら儂のような老いぼれには絶対に起こりえないことなのにねん。ははッ! こいつは傑作だぜ! ですよね、姉様!」

強靭な自我を確立したおかげで、何とも清々しい気分だ。

この、覚醒状態の自分を素晴らしい姉様にちゃんと見てもらいたい。そのためにも、もっと彼女の憎悪を駆り立てる手法を選択しなくては。

怒りの匂い、怒りの味わい、怒りの舌触り、怒りのフルコース。

愛おしい人から体感できる全てを全力で堪能しなくて、いったい何が『美食家』か。

そのために、目の前の地竜の背にある、『自分』のことを――、

「そう言えば、案外やったことないんだよなァ。自分で自分を殺すのって、これも新しい価値観の発見になるのかなァってね」

「――ッッ」

ウインクした瞬間、短距離の空間跳躍によって世界が切り替わる。

喉の奥で呻きを爆発させる地竜が、背後にいたはずのバテンカイトスの出現に驚愕、その真横を足を止めずに駆け抜けようとする。

健気、実に健気。だが、健気さは後々の悲劇のスパイスにしかならない。

「――拳王の掌」

振り切られる拳の一撃が、地竜の横っ腹へと豪快に突き刺さる。

普段ならそれはバテンカイトスの矮躯から放たれる一発だが、死の淵を見ることで覚醒し、殻を破って新たな力を獲得したバテンカイトスはそうではない。

ネイジ・ロックハート本来の肉体が、地竜の胴体を衝撃で穿ち貫く。

剣奴孤島での無数の死合いで、全身甲冑の巨躯さえ一撃で倒した拳王の鉄拳。

それを浴びた地竜は致命的な声を漏らし、激しく通路の壁へと叩き付けられた。だが、地竜は倒れ込みながらも、拳からも壁からも床からも、そして自分自身の巨体からも背に乗せた少女のことを庇い続けた。

落竜する少女の体を、伸ばした尻尾で柔らかく受け止め、通路の床へ下ろす。

メスのはずだが、その扱いは紳士一同に見習わせたいほどスマートなものだった。

思わず、バテンカイトスも拍手してしまう。

「たーだーしッ! せっかく優しく床に寝かせてもらっても、これから丁寧に首チョンパして、姉様への手土産にさせてもらっちゃうんですけどね」

「――ッッ」

「はいはい、暴れない暴れない、よく頑張ったで賞」

横倒しになりながらも、噛みついてこようとする地竜の下顎を蹴り上げる。

その一生懸命さには涙が出そうだが、生憎とバテンカイトスと地竜は敵同士。その健闘を称え合うことはできても、同じ勝利の空を仰ぐことはできない。

片方が勝てば、片方が負ける。悲しいかな、それが現実というモノだ。

「それを! しっかりッ! 弁え! よう! ね!」

一言、一区切り、一声ごとに念入りに、黒い地竜へとそれを叩き込む。

頬骨や前足を砕かれ、蹲った地竜にもこれで痛みと共に教訓が刻まれたはずだ。幸い、バテンカイトスは地竜の『記憶』は喰らわない。

だから、その命を奪う理由もない。今日のことを、共に覚えていたい。

あとは――、

「姉様のために、姉様の大切なレムのことを、レムの手で……」

「――薄気味悪いことを言わないでちょうだい」

凛と冴えた声がした直後、レムへと覆いかぶさろうとした顔面が強烈に弾かれる。

聞こえた声に上げた顔が、真正面から迫る二つの靴裏の直撃を受けた形だ。そのまま大きく後ろへ弾かれて、バテンカイトスは背中で床を滑っていく。

そして――、

「あっはははははァ……やっと追いついてくれたんですね、姉様。僕たち……あで? あたしたち……俺っちたち……? ――レムたちは、待っていましたからァ」

ゆっくりと、寝そべった姿勢から足の力だけで起き上がる。

そうして愛しの半身を正面から見据えると、ラムは初めて見る顔をしていた。

「……短時間で、ずいぶんと不細工になったわね」

△▼△▼△▼△

「……短時間で、ずいぶんと不細工になったわね」

それは、ひどく悪趣味な追いかけっこに追いついたラムの正直な感想だった。

バテンカイトスの視界を奪ったまま、ラムは不完全な解放状態の肉体を引きずり、パトラッシュの奮戦を信じて現場へ駆け付けた。

四層の、螺旋階段からしばらく離れたその通路で、ボロボロになるまで痛めつけられた地竜と、その傍らに寝かされたレムの姿を見つけた。

そして、そのレムに覆いかぶさっていたのが――、

「不細工だなんて、姉様ひどいですゥ……僕たちはこんなに、こんなに、こんなにさァ! 姉様のことを大事に思ってってッてってってててて」

口調が定まらず、呂律が回らず、思考が千々に乱れている言動。

それが精神に異常をきたしたことが原因であると、ラムには――否、誰から見ても一目でそれとわかっただろう。

何故なら、バテンカイトスの姿はそれほどまでに歪な状態だったからだ。

「――――」

引き出した『記憶』を肉体に再現し、その相手の姿形をそのまま写し取れるというのが直近で見せたバテンカイトスの隠し玉だったはずだ。

しかし、それはどうやらバテンカイトスにとっても禁じ手だったらしく、ラムの目の前にいる『暴食』の姿は、引き出した『記憶』のどれでもあって、どれでもない。

ぐにゃぐにゃと、入り混じってしまっている。

空間を跳躍した禿頭の老人の部位があり、ラムの風の刃を受け付けなかった肥満体の巨漢の部位があり、神域に達した格闘能力を有する武闘家の部位があり、それ以外にも様々な人間の身体的特徴が、その不気味な人体を構成している。

右手と左手の長さが、手の大きさが違い、下手すれば顔も部位ごとに異なる誰かのモノを参照しているように見えた。

元のバテンカイトスの特徴が残っているのは、強いていうならその目つきぐらいだが、それさえももはや借り物になっているのかもしれない。

そして、どうやらそんな歪な状況に、バテンカイトス自身は無自覚だ。

「――?」

バテンカイトスは、もはや何者でもない何かになりかけていた。

元々、他者の『記憶』を奪い取ることに特化し続けた存在は、自己という強固な土台が希薄だったのかもしれない。それが原因で、奴は壊れた。

そして代わりに生まれたのが――、

「――レムを気取る怪物。正直、ここまで腹が立ったのは初めてだわ」

欠けた居場所を埋める欠片と、そうわかっている妹の顔を見下ろし、ラムはその特徴も顔の一部に加えているバテンカイトスに嫌悪感を催す。

よくもまあ、ここまで的確に他人の神経を逆撫でできるものだ。

スバルとどちらが人をイラつかせるのがうまいのか、いい勝負になるだろう。

「よく頑張ってくれたわ、パトラッシュ。レムを連れて、下がっていて」

「~~ッッ」

応答の声も弱々しく、血を吐くパトラッシュを背後に庇う。

ずるずると、巨体を引きずりながらパトラッシュがレムの襟首をくわえ、下がる。そのまま戦場から遠ざけたい考えだが――、

「ダメですってばァ、姉様。それは大切なオードブル……メインディッシュを堪能する前に、付け合わせは必須なんですか――」

「――死になさい」

人の頭ほどもある足を踏み出し、暴論を述べようとした顔面へ掌を向ける。

そこで渦巻く風の刃は、相手の首から上をズタズタに引き裂く威力を秘めた小規模の嵐だ。――事ここに至り、ラムは手加減するのをやめた。

殺さずに痛めつけ、『記憶』を戻す方法を探ろうとした結果、レムの身柄を危うくし、事実としてパトラッシュが大ケガをする事態を招いた。

それを、ラムは重く受け止める。――スバルには、深く詫びなくてはなるまい。

そして、二度とこの過ちを重ねないよう、殺意を実行した。

直前の、あの精神の錯乱した発言を鑑みても、バテンカイトスから真っ当な回答が得られる可能性は低い。総合的に見て、この選択が正しい。

バテンカイトスを撃破し、肉体の負荷をスバルから引き取る。

その上でパトラッシュとレムを緑部屋へ戻し、ラムは他の誰かの下へ援護に駆け付けるべきだろう。

と、そこまで考えたところだった。

「――――」

顔面を嵐で引き裂く寸前、ラムは生じた変化に瞠目した。

何のことはない。またしても、バテンカイトスの外見に変化が生まれただけだ。

ただしそれは、他ならぬラムにとっては見過ごし難い変化だった。

――その、複数名の特徴が集まった顔の額に、一本の白い角が出現したのだ。

「それは……」

本当に、心底、本能で動いているのだとしたら、脱帽する。

ことごとく、バテンカイトスの行動はラムを逆撫でする暴挙ばかりなのだから。

「――姉様」

一瞬、確かにレムと瓜二つの顔で、レムが発するのではと思われる声で、呼ばれる。

硬直したラムの顔面へと、バテンカイトスの巨腕の一撃が叩き込まれた。

△▼△▼△▼△

致命、ではない。

だが、楽観できるほど軽い一撃でもなかった。

脳が揺らされ、鼻から血が滴る。

足下が負荷とは無関係におぼつかなくなるのは、甚大な被害を受けた証拠だ。

そして、それをもたらしたのは、青い髪に優しげな面持ちをした可憐な少女――何の冗談か、この場に同じ雰囲気の顔が三つも揃えられている。

「泣いてください、姉様」

懇願の雰囲気を漂わせ、その薄青の瞳に涙を浮かべながら、拳が振るわれる。

一発ごとに骨の髄へ、あるいはその奥にある魂へ衝撃が届く。

「怒ってください、姉様」

腹を打たれて顔が下がり、その顎を真下から打ち抜かれる。舌は噛まずに済んだが、再び腹を打たれて後ろへ下がらされ、頭部に肘を入れられる連係の餌食だ。

「笑ってください、姉様」

声に込められた親愛が、一言ごとにラムの心を掻き毟る。

ずっと、ラムの認識では眠り続けていたレム。『記憶』を抹消され、人生で常に隣り合っていたはずなのにどこにもいない、奪われた妹。

いつか、彼女の目が覚めたとき、初めて呼びかけられるのを楽しみにしていた。

そのとき、ラムが妹の記憶を取り戻しているのかはわからない。

仮に戻っていなかったとしても、戻っていたとしても、そのときの最初の一言は、きっと産声のように特別なものになるはずだった。

それが――、

「泣いて」「怒って」「笑って」「苦しんで」「微笑んで」「痛がって」「むくれて」「昂って」「恥じらって」「微睡んで」「赤面して」「むずがって」「驚いて」「言祝いで」

「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」――。

「その――っ」

呼び方をするなと、吠えようとする口を掌底に塞がれ、声を出せない。

ラムが追い込み、生み出してしまった怪物――その力量は、圧倒的だった。

躊躇いがない。引き出しに制限がない。自分が失われている自覚がない。そして、それなのに姿形を、ラムの大切な半身から引き離そうとしない。

月も太陽も陰っているにも拘らず、闇は完璧に『暴食』を塗装していた。

無論、ラムもやられっ放しではない。応戦した。

スバルが引き受けてくれる限度いっぱいまで枷を外し、数十秒しか使えないと自らに課した制限を飛び越して、今度こそ息の根を止めるべく力を尽くした。

それが、まるで歯が立たない。

「姉様、姉様、そんな顔、姉様らしくないと思います」

「――っ」

唇を尖らせ、甘えるような表情の妹に拳で間違いを正される。

顔面を穿たれ、背後の壁に激突して、ラムは冒涜者を前に何とか倒れぬ矜持を持つ。しかし、それが今のラムには精一杯の状態だった。

いったい、この怪物との戦いが始まってどれだけ経過したか。

十秒、二十秒、当初設定していた制限時間をとっくに超過したことは間違いない。体感時間が当てにならず、実時間を数える余裕など皆無。

ただ、逃げ切れたのか、逃がし切れたのか、そこが最も重要だった。

ひたすら殴られる人形に徹して、パトラッシュとレムの撤退を支援した。

おそらく、それが目的だったはずだが、頭を殴られ過ぎたせいでそれもおぼつかない。

体が重い。息が切れる。頭が痛み、喉は涸れ、手足が痺れ、額の古傷から血が流れた。角を失った白い傷跡から、顔を縦断するように、血が流れた。

「――そんな汚いの、ダメです」

その、血になぞられた顔面が、再び掌に殴られる。

一撃を浴びて体が滑り、ついに膝が体重を支えられなくなる。そのまま横倒しになりかけるところを、「いけない」と小さな声が割って入り、蹴りが放たれた。

無防備に胸に受け、胸骨を軋ませながらラムは壁に激突する。

いつしか、強固な素材だったはずのプレアデス監視塔はその頑健さを失い、素材相応の強度しか持たないモノへと変わっていた。

つまり、執拗なラムへの暴行を一緒に浴びて、ついに壁が砕け散る。

石壁をぶち抜いて通路の向こうへ転がり込んだラム。

周囲には濛々と煙が立ち込め、血と粉っぽい舌触りに咳き込んだ。途端、折られた骨と潰れた肉が我先にと悲鳴の大合唱を始める。

首を巡らせ、いったい、どこへ叩き込まれたのかを確かめようとした。

「――ぁ」

小さく、掠れた息が漏れた。

それは落胆か、あるいは呆気ない感傷を交えたモノだったかもしれない。

倒れ込んだ通路の先、ラムの視界にパトラッシュとレムの姿があった。

距離は、せいぜいが十数メートル――ラムが稼いだ時間は、ラムが味わった苦痛にずっとずっと引き延ばされ、長く感じただけの十数秒だったのだ。

「姉様、姉様、ご無事ですか?」

白々しく無事を聞きながら、バテンカイトスが砕いた壁を乗り越えず、通路を迂回してこちらへやってこようとする。

その間、ラムは己の片腕を抱きながら、何とかその場に立ち上がった。

壁に体を預けて、ボロボロの状態のパトラッシュと互いの視線を交わす。

「――ッッ」

「……ええ、わかってる。全部終わったら、二人でバルスを折檻しましょう」

実際、パトラッシュが何を言ったのかはわからない。

しかし、おおよそラムの答えが間違っていなかったことは、黒い地竜からの訂正がなかったことが証明してくれる。

「――――」

ラムの判断、それが裏目に出たと認めざるを得ない。

バテンカイトスを真っ先に殺さなかったこと、それが全ての引き金となった。

その過ちを正そうと、次は即座に命を奪うつもりで仕掛けたが、瀕死の状態から生き延びたバテンカイトスは、最適解を見出す目を養ってしまった。

結果、眠っているはずの妹の現身を取られ、動揺するラムは一撃された。

持てる手札は使い尽くし、引いた札にはことごとく裏切られる。

ラムはあらゆる点で自分が秀でている自覚があったが、一点、どうしようもなく、持ち合わせていないと自覚しているモノがあった。

――時の運だ。

角を折られ、鬼族としての在り方を損なった日から、それは変わらない。

もっとも、在り方など大した執着はなかった。額に生える白い角を、この世で最も疎ましく思っていたのが、他ならぬラム自身だったから。

それなのに、都合のいいことに、今は失った角さえあればと思ってしまう。

――否、それは正確ではない。正確には、角自体はあるのだ。

角自体は今も、ラムの手元にある。ずっと肌身離さず持ち歩いている愛用の杖――その杖の基礎には、ラムの折られた角が使われている。

角は、鬼族の強靭な肉体が必要とするマナを、効率よく集めるための重要器官。

それ故に魔法を行使するための触媒として、ラムにとってはこれ以上に馴染むものは存在しない。

そのため、ロズワールがわざわざ角を回収し、特注で作らせたのがこの杖だ。

その角が、杖の中と額と、ある場所が違うだけでこんなにも――、

こんなにも――、

「――――」

ふと、角のことを思ったラムの脳裏に、とある考えが過った。

それは角の有無もそうだし、ラムが一度はバテンカイトスを圧倒した事実や、この状況を打破し、可能性を繋ぐために知識を総動員した結果だ。

角の折れたラムと、眠り続けているレム。

後者は結果の問題だが、前者は。――何故、ロズワールはラムを回収したのか。

ラムは、ロズワールが自分に求める役割を知っている。

その過程でロズワールが行おうとしている計画、それも知っている。

そのためにラムが必要だと、時がくれば自ずと、その方法もわかると聞いていた。

故に、ラムは必要なときがくるまで詮索しないつもりでいた。

しかし、この瞬間、ラム自身が、眠り続けるレムが、姉妹のために戦ってくれたパトラッシュが、生き延びるために必要な考えが、浮かぶ。

それは、ひどく荒唐無稽な可能性であった。

だが、同時に納得のいく推論でもあると胸を張れる。

ラムの愛した、ロズワール・L・メイザースであれば――、

「人でなしと罵られる覚悟で、それをすることもあるでしょう」

そうこぼし、ラムは震える手で腿に備え付けた杖を抜いた。

じっと、十年来使い込んできた杖を見つめ、そして、それを勢いよく壁に叩き付ける。

砕け散った杖の内側から、長らく見なかったそれが飛び出した。

――あのときのように、くるくると目障りなぐらいに回転しながら。

△▼△▼△▼△

ゆっくりと、白い土埃の立ち込める通路を手で払い、バテンカイトスは前に出る。

楚々とした仕草で足取りはたおやかに、必要以上に騒がしくしないのはメイドの嗜みであり、主に恥をかかせないための最低限の気遣いだ。

煙の先、愛おしい姉が倒れているはず。

彼女の、色んな顔が見たかった。強い感情を宿し、爛々と燃える薄紅の瞳、それを真っ向から見つめ返したかった。

それはもはや、恋心にさえ思えるほど初心な欲求で。

「あら」

「――ッッ」

煙の向こう、最初に見えたのは足を引きずる黒い地竜だ。

姉様との語らいと触れ合いの最中、いつしか見えなくなっていた地竜。別段、興味の対象ではないが、地竜が連れていった存在には用事があった。

姉様の、その気を不用意に引く存在は消し去りたい。

姉様を、姉様と呼び慕えるのは自分だけでいい。姉様は、自分だけのモノだ。

「あァ、見つけました」

身をよじる地竜の向こう側に、壁にもたれる『眠り姫』の姿があった。

おあつらえ向きに体を起こされていて、ちょうど首か心臓を狙いやすい。さっさとその息の根を止めて、メインディッシュの姉様に取り掛からなくては。

そう、『眠り姫』と距離を詰めようとして、バテンカイトスは気付いた。

――俯いた少女の青い髪を頂く頭部、そこがぼんやりと淡く光っているのが。

その光の正体が何なのか、一瞬だけ訝しむ。

だが、そんなはずがないと、自己認識が生じた答えを否定させた。

眠り続ける少女が、それを実行できるはずが――、

「訂正するわ」

「――っ、ねえさ」

「時の運がないと思っていたの。――でも、そうじゃなかった」

聞こえた声の対象を呼ぼうとして、しかし、それはできなかった。

それを上回る速度の一撃が、バテンカイトスの顔面を打ち抜く。驚愕があり、次の瞬間には衝撃波が突き抜け、歩いてきた通路を逆方向へぶっ飛ばされる。

「~~ッ!?」

あまりの威力に勢いを殺せず、バテンカイトスが壁を二枚ぶち抜いて止まった。

痛みや苦しみより驚きが先行し、立ち上がってからダメージの重さに膝をつく。ずっしりと、体の芯まで打ち砕かれるような一撃だった。

いったい、何が起きたのかと、バテンカイトスは可憐な顔を驚愕に染め――、

「どうやら、天さえもラムとレムの可愛さに首ったけのようね」

自らが砕いた壁の穴に立ち込める噴煙、その向こうに目を凝らそうとした直後、音さえも置き去りにする速度で掌に顔を掴まれていた。

そして、頬と顎の骨を握力で軋ませる相手を間近に見る。

それは――、

「ねえ、さま……」

「残念だけど、ラムの妹は奥で寝ているわ。『共感覚』ではっきりとわかる」

「きょう、かん……?」

「『共感覚』よ。ラムとレムは仲良し姉妹だったようね。喜びや怒り、悲しみや痛み、そういったものを分かち合える。――折れた角の再活性、その負担も」

意味は、はっきりとはわからない。

ただ、バテンカイトスがこの目で見たものが肯定された。

殴り飛ばされる前、壁にもたれかかる『眠り姫』の額に見たのは白い角――生来の、あの鬼の娘が持ち得た、姉に勝る唯一の財産。

それがあるから、それが光るから、それが通じているから、なんなのか。

「バルスの作戦がヒントというのが癪だけど、いいわ」

「スバルくんが、何を……」

「――その顔と声で、バルスの名を呼ぶのはやめなさい」

「――ッ!!」

瞬間、掴まれていた顔面ごと体を持ち上げられ、バテンカイトスは豪快に地面へと叩き付けられていた。

びくびくと、手足を震わせるバテンカイトス。そのバテンカイトスの前で、ラムは確かめるように掌を開閉し、その額の古傷からおびただしい血を流している。

だが、ラムはその流血を煩わしがるどころか、歓迎するように唇を緩めた。

まるで、失われた絆が繋がっていたことを、その血と痛みが証明するように。

「暗い場所で生まれたものは、暗い場所へ帰りなさい。泣き声を上げて生まれたのなら、泣き声と共に死になさい」

掌でそっと額の血を拭い、薄紅の瞳がバテンカイトスを見下ろす。

その瞳に激情が宿ることを望み、ここまでの多くを組み立てたバテンカイトス。

――そんな『暴食』の大罪司教を、ラムは凍てつくように冷たい目で見下した。

「鬼神の再来。好きじゃなかったけど、今日だけは演じてあげる。――ラムの可愛い妹の偽物、今度こそ八つ裂きにしてやるわ」

第六章84 『うんとこしょ! どっこいしょ!』

――氷を思った通りの形に作り上げるのは、『いめーじ』を固めるのが重要だ。

最初、スバルから『アイスブランド・アーツ』を提案されたときも、とても便利だとは思ったが、自分にできるかはエミリアは不安だった。

「大丈夫! 心配ご無用! エミリアたんならきっとできるよ!」

と、そんな不安がるエミリアに、スバルは笑顔で親指を立ててくれたのを思い出す。

今思うと、あれも根拠のない――否、スバル的には「好きだから」という理由で、エミリアの背中を押してくれたのだと思う。

『いめーじ』した武器を作り出す過程で、エミリアはたくさん絵の勉強をした。

絵の勉強は歌と違ってあまり得意ではなかったが、それでも、スバルと一緒に何枚も何枚もお絵描きをするうち、確かな上達があった。

勉強の傍ら、スバルやベアトリスとお絵描きしているエミリアを見て、ラムは呆れ、オットーは苦笑し、フレデリカやペトラはたまに混ざってくれて、ガーフィールはこうした方がいいと助言してくれた。ロズワールも、遠くからたまにエミリアとベアトリスが並んでお絵描きしているのを見ていて。

エミリアが思う、とてもとても大切で、手放し難い思い出。

みんなからは消えてしまったかもしれなくて、でも、スバルは覚えてくれている思い出。それを思うと、胸の奥でポカポカとした気持ちが湧いてくる。

「それを、えいやって勇気に変えるわ――!」

湧き上がる想いを原動力に、エミリアは作り出した氷の武器と、共に前進してくれる七人の氷の兵士を連れて正面、『神龍』ボルカニカへ挑む。

前述の説明通り、氷の整形には『いめーじ』が重要だ。

それは武器はもちろん、生み出された氷の兵隊であっても同じこと。つまるところ、氷の兵隊たちはエミリアの『いめーじ』しやすい姿で固まっていた。

早い話、エミリアと一緒に戦うのは七人のナツキ・スバルだ。

「でも、本物のスバルより力持ちだし、すばしっこいから!」

スバルも腕白さや元気さでは負けていないが、氷で作られた兵隊たちとは根本のところから造りが違う。

兵隊たちの強度はエミリアの与えたマナの密度に依存しており、単純な氷像とは比較にならない。氷の武器と同じで、鋼とだって引けを取らないだろう。

「いって!」

エミリアの指示に従い、先頭を走る氷兵がボルカニカの射程に入った。

ボルカニカは監視塔、一層中央の大きな柱に寄りかかったまま動かず、先ほどの尾の一撃からして射程範囲は六、七メートル――、

瞬間、柱へ取りつこうとした意思を感知したのか、龍の青い尾が高速で動いた。

風に穴が開く、とそう表現するしかない奇矯な音がして、直後に先頭の氷兵の上半身が木端微塵に砕け散る。直撃を浴びたのは胸のあたりで、氷兵の胴体はそこで真っ二つに打ち砕かれ、目つきの悪いスバル似の頭部が吹っ飛んでいった。

「ごめんね! でも、私じゃなくても狙うってことだわ」

試金石にされた氷兵には悪いが、これでボルカニカの狙いははっきりわかった。

ボケてしまい、『試験』のこともうっかりしてしまっている『神龍』だが、それでも明確に柱へ臨もうとする相手を迎撃する意思が生きている。

その、生命の有無は関係なく。ならば、やりようはあった。

「兵隊さんたち、お願い!」

エミリアの声に呼応して、銀髪の少女を追い越すように氷兵が飛び出す。

最初の一体が砕かれ、残った氷兵は六体、それぞれが別の方向へ散り、わずかな時間差を作りながら中央の柱へ。

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

接近する氷兵の気配を感じ取り、またしても『神龍』が口上を重ねる。

もはや無意味な言葉の羅列となったそれを、聞く耳を持たない人形に対してする姿には強い寂寥感と、胸を掻き毟られる切なさをエミリアは覚えた。

あんな姿になってまで、ボルカニカは『何か』を守ろうとしているのだ。

それが誰と、何と、何のために交わした約束なのかはわからないが――、

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

尾が振るわれ、武器を構える氷兵が二体、瞬く間に打ち砕かれた。

とっさの反応でそれぞれ防御の姿勢を取ったが、一体は腰から下を、もう一体も右半身を吹き飛ばされ、まともな行動ができずに崩れ落ちる。

ならばと、残る四体は攻撃の姿勢から定位置へ戻ろうとする尾を押さえに向かう。

現状、ボルカニカの迎撃手段は尾による一撃に限定されていた。ひょっとすると、ボケているだけでなく、足腰もよぼよぼになっているのかもしれない。

立ち上がるのが億劫な状態なら、その尾さえ止められればいい。

「どっしり構えて!」

尾の動きを止める狙いで、三体の氷兵が横並びに肩を組んだ。

その氷兵をいっぺんに薙ぎ払いに、再び『神龍』の尾の先端が音を置き去りにする。仕組みとしてはスバルの操る鞭に近いが、その速度と威力が桁違い。

スバルの鞭はエミリアなら手で掴めるが、龍の尾撃はそうはいかない。

大抵の生物の渾身に匹敵する威力を、虫を払う気軽さで放つ『神龍』。

その尾による薙ぎ払いが、横並びに腰を落とした三体の氷兵をまとめて打つ。しかし、聞こえるはずの強烈な破砕音はここでは鳴らなかった。

腰を落とした三体の氷兵、その背後に彼らを支える氷の壁が生じたからだ。

くる、とわかっていれば対処法はある。

全身をひび割れさせながらも、目つきの悪い少年に似た氷兵の口元の口角が上がった。そして、一撃を止めた三体の裏から、別働を任された最後の一体が飛びかかる。

最後の氷兵が振りかざすのは、いわゆる『刺股』という武器だ。

長い槍のような柄の先端には、相手を刺すのではなく、取り押さえるための曲線を描いた金具が取り付けられており、捕具という扱いで呼ばれるらしい。

その刺股で突き落とし、『神龍』の行儀の悪い尾を床に押さえ込む。

動きの止まった龍の尾は、その一番細い先端であっても丸太のように太く、刺股一本で食い止めるのは不可能と、ひび割れた三体も続々と刺股で挑みかかった。

そして、都合四ヶ所を刺股に押さえられ、さしもの『神龍』も尾を封じられたと――、

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

直後、世界の削がれる音がして、ハイタッチした四体の氷兵がごっそり抉られた。

腰から上が綺麗に消滅し、下半身だけを残して氷兵が崩れる。それをしたのは、身動きを封じられて本気になった尾の逆襲――ではなく、爪だ。

床に伏せていたボルカニカが、尾の代わりに左の前足を振るった。

ただそれだけで、エミリアの氷の兵隊は瞬時に消滅を余儀なくされたのである。

危うく、よぼよぼであると騙されるところだった。

「尻尾も手足も元気なら……もう! なんで大事な頭だけポカンとしちゃったの!」

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

「それはわかったか、ら――!」

エミリアでなければもっと逆上していたかもしれない繰り言。

それを聞かされながらも、エミリアの果敢な挑戦心は折れはしない。折れ砕かれたのはあくまで氷の兵、もちろん、少し心は痛むけれど。

「大丈夫! 何にもわからなかったわけじゃないもの」

砕かれた氷兵が無駄死にでないことを訴え、エミリアも尾の射程範囲へ。

ただし、尾を押さえ込む氷の刺股は健在で、四体の氷兵が犠牲になった価値はあった。ならば当然、尾の代わりに前足がエミリアを狙うところだが――、

「両手の届く範囲は尻尾より短いでしょ? それと」

その爪がエミリアを捉えるより早く、エミリアを通り越して『神龍』へ氷槍が迫る。

それはエミリアの背後、初期位置に再び生み出された氷兵――エミリアが作り出せる氷兵は最大七体までだが、それは砕かれるたびに作り直すことが可能だ。

つまり、氷兵はエミリアが力尽きるまで何度でも立ち上がることができる。

それこそ、まるで本物のナツキ・スバルのように。

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「きゃあっ!?」

降り注ぐ射程外からの氷槍の雨に、ボルカニカは前足を正面から叩き付けた。

その一撃はまるで空間を引き裂き、そこに爪痕をいつまでも残し続けるみたいな衝撃波を生んで、エミリアや氷兵ごと一層を豪風で呑み込まんとする。

「――――」

衝撃波に前身の勢いを止められながら、エミリアは紫紺の色をした目を凝らす。

ボルカニカの守る中央の柱、その堅固は硬く、まだ柱をじっくりと観察することもできていない。遠目には他の六本の柱と変わらないように見えるが、その判断も尚早だ。

ただし、ここでのエミリアの本命は中央の柱そのものというよりは――、

「――それより上の、塔のてっぺん!!」

風に負けじと踏み込んで、エミリアはその場で強く床を蹴った。

まだ、ボルカニカに対しても柱に対しても、何らかの行動に出るには遠い距離。だが、ここで踏み切るので正解だ。

何故なら、最初に砕かれた状態から再生する氷兵が、腰を落として両手を構える。

そして、踏み込んだエミリアの足を両手で受け止め、そのまま一気に上へ跳ね上がる跳躍を手助けしたからだ。

尾を押さえ、注意を柱に引きつけて、その隙に本命の最上層へ取りつく。

エミリアも滅多にやらない搦め手だが、この場へ到達したエミリアの直感が、辿り着かなくてはならないのは塔のてっぺんだと訴えていた。

氷兵の助力を借りた大跳躍、それで一気にボルカニカの頭を飛び越し、柱の上部へと取りつける。そこから一気に最上層へ上がれば――、

「――え」

直後、柱へ指を届かせようとしたエミリアの足下を、静かな熱波が掠めた。

――否、それは静かだったのではない。あまりの威力と熱量に、音が死んだのだ。音の概念が殺されたなら、現象が無音と化して不思議はない。

エミリアの知覚が、一層に展開した氷兵の消滅を感知する。

エミリアの跳躍に手を貸した一体が、それを援護するべく氷槍を投げていた四体が、刺股を追加するべく走り出していた二体が、いっぺんに消えた。

そしてそれを為したのは、ボルカニカの尾でも前足でもない。

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

そう、厳かさだけは失わない口から、焼かれる大気の断末魔が聞こえる。

繰り言が再び耳に届いたことを切っ掛けに、エミリアは殺された音の概念が息を吹き返したことを理解、同時に、その指が柱の上部へかかる。

何とか必死に自分の体を固定して、エミリアは眼下を見下ろした。

広がる一層、それが白く焼かれていた。

各所から燻るような白い煙が上がり、存在したはずの氷兵は残骸も残せていない。それほどの熱量、それほどの威力、それほどの殲滅性――、

――『神龍』ボルカニカの息吹きが、全てを焼き払ったのだ。

「尻尾も手足も元気で、火まで吹けるのに!」

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「わかった! わかりました! わかったから……ぁ」

起きた出来事と比べると悲愴さの足りない返事をして、途中でエミリアは目を見張る。

ゆっくりと、『神龍』の双眸が上を、金色の瞳がエミリアを映したのだ。

そして――、

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

そう言いながら、ボルカニカがその青い両翼を広げ、その場に立ち上がっていた。

△▼△▼△▼△

「大変――っ!」

眼下の出来事の危険性を解し、エミリアは大慌てで塔の上部へ手を伸ばした。

そうしている合間にも、立ち上がるボルカニカが刺股で止められた尾を引っこ抜き、おもむろに翼をはためかせようとしている。

飛翔する気だ。

『神龍』ボルカニカであるのだから、飛ぶのは当然――しかし、エミリアは飛んでいる龍を見たことがなかったので、現実味は薄かった。

そもそも、あんなに大きな体の生き物が本当に空を飛べるのだろうか。

「パックとかロズワールが飛んでるところしか見たことないし……」

精霊であるパックと、変人級の魔法使いであるロズワールが飛べるのは必然。

聞いた話だと、南のヴォラキア帝国には地竜や水竜のように翼竜と呼ばれる飛ぶ龍がいるとの話で、ボルカニカもその翼竜のような扱いなのか。

あるいは、竜と『龍』を同じに考えることこそが誤りなのか――、

「んしょっ! よいしょ! えや! たぁ!」

掛け声をかけながら、エミリアは自分にできる最高速で塔の上へとよじ登る。

それは遠目に見るものがいれば開いた口が塞がらないほどの速度だったが、エミリアの常識外れの運動力を駆使しても、先行逃げ切りには一手足りない。

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

その声が、先ほどよりも近くで聞こえたのは錯覚ではない。

置き去りにする眼下ではなく、同じ高さへ上がってきてからの宣告であるのだから。

――その青い両翼を広げ、信じ難い巨体が宙を舞っている。

『神龍』ボルカニカが堂々と、その衰えを知らない存在感を砂丘の空へ浮かべていた。

発される威圧感や、射竦められるような眼光、尾や前足、息吹きに至るまでそれは伝説に語られる超級の龍であることを裏切らない。

唯一、それを裏切ったのが――、

「私! 一層より上にいくつもりだから、あなたと敵じゃないかも!」

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

聞く耳を持たないとばかりに声を被せられ、柱にしがみつくエミリアへとボルカニカの猛威が襲いかかる。

息を呑み、エミリアはぐっと奥歯を噛みしめると、そこに『存在しなかった足場』の力を借りて、叩き付けられる尾を飛び越えた。

「んやうっ!!」

『アイスブランド・アーツ』の応用――柱にしがみついてよじ登るよりも、その柱の側面に足場を取り付けて、それを駆け上がる方が速度を上げられる。

「手足も自由になるか……きゃんっ!」

とっさに抜いた氷の双剣が、叩き付けられる尾を豪快に弾いた。

山勘を頼りに振り抜いた一発、エミリアの両腕が手首から肘まで豪快に痺れ、立ち直るまで何秒か新しい武器は握れそうにない。

しかし、エミリアの受けた被害と違い、ボルカニカは尾を振るっただけだ。

そのまま無常にも、挑戦者と同じ高度を取り続ける『神龍』は尾を振るい、柱を攻略しようとした無謀な相手を叩き落としに――否、叩き潰しにかかる。

「――っ」

その迫る尾に対し、エミリアは息を詰まらせた。

一度弾かれたら、また柱へ取り付ける元気が残っている気がしない。ギザギザの鱗がついた尾を直撃されたら、きっとあちこちひどいことになるだろう。

あの尻尾の攻撃に当たるわけにはいかない。

「まだまだ……すごーく、頑張れる!!」

両手は使えない。だが、足は動かせる。上は目指せる。

上を目指すために足場を作り出したが、それでは足りない。いっぺんに作り出せる氷細工には限りがある。その工程を、無駄にはできない。

足場の役目を果たしつつ、それでは終わらないものを――、

「――わかった!」

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

閃いたエミリアへと、またしても尾撃が迫りくる。

それを、エミリアは普通の足場の力を借りて何とか回避。そして、思いついた新しい足場を柱へ生み出し、伸ばした手でがっちりとその『手』を掴んだ。

「お願い、兵隊さん!」

そのエミリアの声に応え、氷でできた腕を軋ませたのは焼き払われて消滅し、また改めて作り出されたスバル似の氷兵――ただし、その上半身だけ。

ただの足場ではなく、エミリアの足場としても頼れる味方としても機能する存在――それが、柱に上半身だけを次々と生やした『氷兵の道』だ。

柱に上半身を生やすだけなので、足を作らなくていいから七体よりも数を増やせる。

いっぺんに十体ほどを柱に生やし、エミリアは彼らの手を借りながら上へ、上へ。

「えい! たあ! そや! よいしょ!」

柱に生えた氷の上半身に文字通り手を借りて、エミリアは柱の上部へよじ登る。

その間、ボルカニカはエミリアを妨害しようとするが、それを横から邪魔してくれるのも柱の男たちだ。

柱を守る習性に囚われるボルカニカは、その柱の氷兵を残してはおけない。

生まれる氷兵は氷の剣や斧を空中のボルカニカに向かって投擲し、『神龍』はそれを弾きながら、柱の氷兵を尾や前足で一体ずつ狩り尽くす。

だが、その間にもエミリアは柱の上へ、上へ、上へ――、

「ここは、ちょっと辛いけど!」

薄氷の上を渡る、というにはいささか絵面が豪快だったが、氷の兵隊たちの力と犠牲を礎に、エミリアの手がついに柱の最上部へかかる。

あと十メートルほどで塔の最上層へ辿り着けるはずだが、柱の上部はネズミ返しのように反り返った状態になっており、ここから上がるのは至難の業。

山登りが得意な人間でも苦心する状況だが、幸い、エミリアは木登りは得意だった。昔はそればかりに励みすぎて、フォルトナやアーチに叱られたものだ。

「指の痺れも大丈夫、これなら……!」

痺れていた指の感触を取り戻し、エミリアは反り返る意地悪な柱へ挑む。

反り返りに逆さに生えた氷兵の手を掴み、宙に足を浮かせながら不安定な空へ。だが、氷兵の助力のおかげで登攀は安定している。

あとは、ボルカニカの妨害さえ――、

「――っ」

刹那、一瞬の気の緩みへと、運命の悪戯が滑り込んでしまった。

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

発生した強い揺れは、そう述べるボルカニカの尾が柱をしたたかに打ち付けたことが原因だ。それは柱全体へと衝撃を伝わせ、その柱から生えている上半身だけの氷兵たちを根こそぎにひび割れさせ、一気に砕く。

それは、エミリアが手を借りようとした反り返りの氷兵も例外ではない。

「――ぁ」

掴んだ手が肩口からへし折れ、支えを失ってエミリアの体が落下する。それを、目つきの悪い氷兵は必死に止めようとしたが、もう片方の手は届かない。

浮遊感、それは即座にエミリアの全身を包み込み、懸命に登ってきた柱の上昇分を台無しにして、一層へとなかったことにしようと――ならなかった。

「きゃあ!」

登ろうとした柱の高さ、数十メートルを転落するはずだったエミリア。しかし、その予感に息を呑んだエミリアのお尻を、思いの外早く何かが受け止めた。

氷兵ではない。感覚的に、柱に生やした氷兵はみんな砕かれてしまった。

それに、とっさについた手がとてもゴツゴツして硬いものに触れていて――、

「もしかして……」

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

高空の風と、尻の下の感触を確かめたエミリアへと至近で声が届けられる。

その声の近さから、エミリアは遅れて理解した。――自分が、『神龍』ボルカニカの背中に落ちたのだと。

「――っ! ボーっとしちゃダメ! ここからなら」

また、ボルカニカを踏み台にして、柱に取り付くことができる。

そう考えたエミリアだったが、それを容易く実行させない困難が降りかかった。

翼をはためかせ、ボルカニカが上昇、身をよじり、振り落としにくる。

「――う、うううう!」

全身に強く強く襲いくる風に耐えながら、エミリアは必死に龍の背にしがみつく。

これまで、エミリアが感じたことのない物理的な風――一枚一枚が大きくて強靭な、まるで岩のような鱗に縋りついているが、このままでは長くはもたない。

その上、ボルカニカはただ、空を自由に飛んでいるだけなのだ。

尾の攻撃や、前足の一撃、ましてや息吹きを浴びているわけでもない。

ただ、しがみつくエミリアを振り落とそうと、勢いをつけて飛んでいるだけ。

これに負けてはあまりにも――、

「――スバルたちに、会いにいけなくなっちゃう」

迂闊に口を開ければ、飛び込んでくる風で肺が破裂しかねない。

俯いて、奥歯を噛みしめ、閉じた瞼の裏側にエミリアは大切な人たちを思い浮かべる。

まるで死んでしまうみたいな心の準備だが、そうではない。

エミリアが大切な人たちを思うのは前を向くためだ。

背中を押してもらい、顔を上げる勇気をもらうためだった。

「――――」

豪風に呑まれながらも、エミリアは瞼を力一杯押し開ける。

全力を注がないと、瞼を開けることもできない状態。そんな中、紫紺の瞳の力を失わせず、エミリアは活路を見出すためにあえて目を開いた。

人は恐怖や不安に押し潰されそうなとき、目をつむってしまうものだ。

だけど、エミリアが瞼の裏に描いた大切な人たちは、そんなときこそ前を向く。そんなときこそ、目を閉じることをしない人たち。

目は、開けていなくてはならない。

何かに届かせるためにも、誰かの手を取るためにも、そして――、

「――あの、へんてこ」

一面、上下左右、どこもかしこも青に支配された光景だった。

それはエミリアが雲よりも高い空の上にいることも原因だったし、エミリアのしがみついた『神龍』が輝かしい青い鱗を纏っていたこともそうだろう。

それ以外は何もかもがあまりに高速で過ぎゆくから、投げたボールの縫い目も見えるエミリアの動体視力でも世界を捉え切れない。

故に、エミリアの意識が捉えたのは、青の外にある世界ではなかった。

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

身をよじり、ねじるようにしながら飛行するボルカニカ。

どうやら、エミリアがしがみついているのはそのボルカニカの翼の付け根あたり。不思議なことに、龍はそれほど忙しく翼を動かしていない。鳥や虫が飛ぶためには羽ばたきを必要とするはずだが、龍の飛行の原理はそれらとは違っているようだ。

きっと、パックやロズワールの飛んでいる仕組みに近い。

だとしたら――、

「ロズワールは魔法……パックも、不思議な力だったから」

生憎と、ロズワールに試したことはないし、試すことはないと思う。

ただし、エミリアは長い間、たった一人しかいないと思っていた家族とずっと一緒のときを過ごしたのだ。

この一年、傍を離れていて、とても寂しいことが多い。夜、泣いてしまいそうになることだってあったが、思い出がそれを支えてくれていた。

そしてその思い出の呼び声は、こんなときにもエミリアに希望を見せてくれた。

それは――、

「もしかしてなんだけど、あなたも、首をくすぐられるのが苦手じゃない?」

押し開けられた紫紺の瞳が、身をよじる『神龍』の長い首を捉える。その、偉大な龍の顎の下、青い鱗がびっしりと生え揃った中に、一枚だけ白い鱗がある。

――エミリアの脳裏を、パックと戯れて過ごした日々が浮かんだ。

『ダメだよ~、リア。そんなにこそばゆいことされたら、集中が乱れちゃうでしょ?』

「――だよね、パック」

応じる声と共に、エミリアは意識を集中する。

なおも強い風の中、エミリアには直接、その白い鱗へ到達する力はない。だが、柱で学んだことは、たとえ相手が無機物から有機物へ変わろうと活かせる。

「――兵隊さん」

エミリアの意識の先、白い鱗の周囲に再び氷の兵隊たちが出現する。

上半身だけでがっちりとお互いを支え合った氷兵、その中心に生まれた一体が、ゆっくりとその手を白い鱗へ伸ばし――、

『――――ッッッ!?』

――初めて、『神龍』の繰り言以外の声をエミリアは聞いた。

△▼△▼△▼△

――逆鱗、という言葉がある。

古い中国の故事を発祥とするこの言葉は、神話の存在である龍の首には、触れてはならない鱗が一枚だけあり、それを『逆鱗』と呼ぶというモノだ。

逆鱗に触れられた龍は激怒し、必ずや相手を殺してしまうとされる。

その故事に由来して、相手の触れてはならない部分に触れてしまうことを、『逆鱗に触れる』という言葉で表すようになったのだと。

無論、そんな異なる世界の故事成語の成り立ちなど、エミリアは知る由もない。

龍の首にあった白い鱗に触れようとしたのも、こちらを振り落とさんと勢いよく飛び回る相手の集中を乱し、隙を作るのが目的だった。

しかし――、

「きゃああああ!!」

悲鳴を上げ、宙へ投げ出されたエミリアの天地がぐるぐると回転する。

だが、今度の浮遊感は先ほど、龍の背に落ちたときよりもさらに短く済んだ。硬い感触に受け止められ、エミリアはとっさに全身で受け身を取り、転がる。

そして、素早くその場に立ち上がり、周囲を警戒した。

「――――」

荒い息をつきながら、エミリアは周囲に視線を巡らせる。

幸い、そのエミリアに向かって、突然の攻撃が襲いかかってくる気配はない。それも当然だ。目下、最大の警戒対象であるボルカニカは、ずっとずっと上にいた。

『――――ッッ』

よほど白い鱗に触られたのが嫌だったのか、高空へ上がるボルカニカが悶えている。

空を噛み砕かんばかりの絶叫が木霊して、エミリアは思わず目を丸くしてしまった。

「パックは喜んでくれたのに……」

とはいえ、喜ぶ喜ばないは人それぞれの反応だ。

押し付けがましくならないよう自分を戒め、エミリアは手足の感触を確かめる。

ボルカニカの背中で大いに振り回され、体の血流が少しおかしくなっていた。

場合によっては血流が滞り、脳に血がゆかなくなって視界を失う現象を起こしかねなかったが、エミリアはギリギリ持ち堪えた形だ。

そして、それを確かめたところで、エミリアは気付く。

「――あ! ここって」

周りを見れば、エミリアの視界は一層到着時よりもさらに一段階高い。

周囲にあるはずの六本の柱がないのは、エミリアがそれらの柱の先端よりも上へ到達した証――すなわち、この場所こそが最上層。

ボルカニカの背中から振り落とされる形で、辿り着いたのだ。

プレアデス監視塔の最上層、前人未到の場所へと、ついに――、

「わ、やった! 頑張った甲斐があったわ!」

と、出来事に対する感動としてはささやかな反応をして、エミリアは胸の前で手を打ってから、すぐに最上層の中央へ駆け寄った。

もたもたしていては、悶えているボルカニカが戻ってきてしまう。

そうなる前に、スバルたちを助けるための『試験』を見つけ出さなくては。

「お願いだから、私にもわかる問題を出してね……」

『試験』を忘れたボルカニカも大問題だったが、エミリアにとっての問題は、そもそも第一層の『試験』が自分に解けるかどうか、それもあった。

それを恐れながら、エミリアは最上層の中央へ。そして、そこから天へと伸びている柱の根本へ到達し、「あ」と目を見開く。

あった。一段下の、六本の柱にはなかった特徴が。

この最上層の、中央の柱にだけしかない、不思議な特徴が確かにあった。

それは――、

「――誰かの、手形?」

プレアデス監視塔の最上層、中央の柱の根元にあったのは黒いモノリス。

そして、その黒いモノリスには手形が押されていた。

――六つの、それぞれ異なる男女の手形が、押されていた。

第六章85 『グッドルーザー』

――『最優の騎士』と、そう自ら名乗ることには勇気がいった。

他者からそう呼ばれ、褒めそやされることへの誇らしさはあった。

だが、自分から『最も』『優れたる』などと自称したことは一度もない。

惜しまぬ努力を重ね、研鑽の日々を過ごした自負はある。

しかし、非才で未熟な身の上では、上を見ればキリがないほど優れたる先達、尊ぶべき仲間、驚嘆すべき後進に囲まれるばかり。

それを悔しいとも、幸福なことだとも思っていた。

誰かに認められるということは、奮励と精進の果ての見返りであるべきだ。

ましてや、誰しもに認められようとするのなら、その奮励と精進は途方もない、ただそれだけで誰もが恐れ入ってしまうような、そんな研鑽でなくては。

――はたして、自分はそれに相応しい努力をしてきただろうか。

惜しまぬ努力と重ね、研鑽の日々を過ごした自負は、確かにある。

しかし、限界を超えたか? 常日頃、力尽きるまで己を磨いたか? 他者の奮励に触発されて、より一層の努力を理想に誓ったか?

その、自問自答に自ら答えよう。

ユリウス・ユークリウスは、それを果たしてきた。

限界を超え、力尽きるまで己の磨き、他者の奮励を手本により一層の努力を誓った。

――故に、『剣』の頂たる存在を前にして、堂々と胸を張れたのだ。

「――私は『最優の騎士』、ユリウス・ユークリウス。あなたを斬る、王国の剣だ」

「――――」

マントの裾を掴み、一礼したユリウスの正面で『剣聖』が沈黙する。

彼は眼帯に覆われたのと反対の目、そちらの瞳も閉じて、ユリウスを見ない。ただ静かに太くたくましい腕を組み、何事か思案する。

だが、その思案も長続きはしない。元々、考え事に不向きな性質であるのは、ここまでの短い付き合いでもようと知れる。

故に――、

「ああ、ああ、ああああ、あああああああああああああ――っとくらぁ!!」

ガシガシと自分の頭を掻いて、『剣聖』レイドが一度強く地団太を踏む。

その一発で二層の白い床が弾けたように揺れる。二人の対峙を見守るエキドナが身をすくめたが、真っ直ぐに立つユリウスは小揺るぎもしない。

それを見て取って、レイドは「ちっ」と舌打ちした。

「見栄、見栄、見栄……ああ、見栄かよ。やっぱりオメエ、オレの子分みたいなこと抜かしやがる。とことン、気に食わねえ野郎だな、オメエよ」

「生憎と心当たりはないが、その子分の男性には共感を抱かざるを得ないな」

「あぁ? 誰が子分が男だなンて言ったよ。第一、野郎なンざ連れ回しても面白くねえだろ。オレの言ってる子分ってのは女だ。面ァいいが、理屈がうるせえ」

「女性……では、私とその女性の共通点とは?」

「ああ? 何度も言わせンなよ」

鼻面に皺を寄せて、レイドは鮫のような獰猛な笑みを浮かべる。

そして、腕組みを解いた手で自分の頬をぺしぺしと叩いて、

「理屈臭ぇところと、面がいいとこだよ」

「――――」

「けっ、イラつきもしねえか。可愛げのねえ。……ま、それでいいがよ」

ユリウスの乏しい反応に鼻を鳴らして、レイドは首の骨を盛大に鳴らす。それから彼は青い瞳でユリウスを観察――否、ユリウスではなく、その周辺だ。

ユリウスを取り巻くように揺れ動く淡い光、それは輝きを以前よりも増していた。

何より、レイドの前でこうして彼女たちをお披露目するのは初めてとなる。

「私の蕾……いいや、麗しの乙女たちに何か?」

「ハッ、何もねえよ。いい女ってのは種族を選ばねえもンだ。生憎、抱けねえ女にゃ興味もねえがな。――オメエは、殻破った方が強くなれたぜ?」

「あなたがそう言うなら、そんな道もあったのかもしれない」

後進への助言など、レイドの人柄からは考えられない気紛れだ。

それを起こしたのは、レイド自身が気分屋なのと、剣に縋るしかなかったユリウスの必死な姿を、彼がもったいないとそう思ったからだろう。

どうせ剣に縋るなら、なりふり構わない姿勢を示せ。――彼が、ユリウスに望んだのはそういう態度と覚悟であり、それもありえた道だった。

しかし――、

「私は、この道を往くと決めた。あるいはあなたの言う通り、殻を破り、本来の私などというモノを剥き出しにした方がより強くなれるのかもしれない」

ユリウス自身、強く意識していなければ、自ずからそうなる自覚がある。

とっさの瞬間、ギリギリの攻防、皮一枚が生死を分ける局面となれば、本当のユリウスの顔が現れると。

だが、それは強く意識していなければの話。――もう、揺るがない。

「断言しよう。私は、騎士としての己を突き詰める。その上で、あなたが私を導こうとした道よりも、あらゆる面で優れたる私となろう」

「はン、どういう理屈でそうしようってンだ、オメエ」

「決まっている。――私の信じる騎士というものは、理想の体現だ。それは清く正しく、何よりも強い。ならば、騎士を名乗る私がそうでなくては話になるまい」

「――は」

我ながら無茶な理屈、筋の通らない暴論暴言、笑われて当然の横暴専横。

だがしかし、それを聞いたレイドは怒りを露わにするでも、呆れと軽蔑を向けてくるでもなく、ただ鋭い歯を見せて笑った。

そして――、

「泣かしてやるよ」

言いながら、レイドは手にした箸を放り捨て、瞠目するユリウスの前で大きく後ろへ飛びずさった。それから、ゆっくりとその手を横に伸ばす。

大きな掌が鷲掴みにしたのは、白い階層の床に突き立った選定の剣――、

本来なら、塔の試験官として存在を貸すだけだったはずのレイド・アストレア。

何の因果か、強烈な自意識で塔の仕組みを引き剥がし、ついには襲来した『暴食』の大罪司教の肉体を上書きすることで疑似的な蘇生さえも成し遂げた。

そんな状態になって、もう塔の『試験』になど従わなくてもいい立場になって、そこで初めてレイドは選定の剣を、本来の役目に従って引き抜く。

すなわち――、

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

「そりゃオレの台詞だろ。……まぁ、すっぽ抜けたから忘れちまってたが」

「だろうと思って、代わりに言ったのですよ。――挑ませていただく」

「許すかよ、間抜け。ひいひい言わせてやるぜ」

騎士剣を正面に構えたユリウスの前で、レイドが引き抜いた剣を雑に向けてくる。

隙が、全くない。自然体にして、極められた究極の剣士――、

――全ての剣を握るものたちの頂、『剣聖』レイド・アストレア。

「いざ――」

「適当に」

「――参る!!」

己を形作る騎士道を信じ、ユリウス・ユークリウスは全力で『剣聖』へ挑みかかった。

△▼△▼△▼△

身も、心も軽い。

比喩抜きに、それは騎士剣を振るうユリウスの全身を包む昂揚感の力だ。

戦いにおいて、精神の安定が大きく影響するのは言うまでもない。

考えてみれば、ユリウスはこのプレアデス監視塔にきて以来――否、水門都市で己の『名前』を奪われてから、ずっと不安定な状態にあったと言っていい。

無論、ユリウスは可能な限り己を戒め、自制し、それを表に出さずにきた。

人が聞けば鋼の理性などと評されそうな自制心――だが、褒められた話ではない。

そうして己の不調を表に出さず、仲間も、自分さえも騙していたことの結果が、この塔へ到着して以来の連戦連敗、あの無様な敗戦へ通じたのだ。

ユリウスはまず、他者を信じるべきだったのだろう。

自分の存在を忘れられたことの衝撃に狼狽え、相手の世界から欠け落ちた自分を憐れむばかりに、一番信じなくてはならなかったことを見落とした。

ユリウスの、自分が信じ、忠誠を誓い、背中を預けた大切な人たちは、我知らず世界から欠け落ちたユリウス・ユークリウスを蔑ろにするような人間だったか。

――断じて否と、そう言い切れる。

ならば、ユリウスのするべきことは一つだったのだ。

真摯に訴え、自分から愛情を示せばよかった。――蕾たちと、そうできたように。

「断ち切られた絆は結び直せばよかった。何者でもないものが、何者にでもなれる……他ならぬ私自身が、その生き証人だったのだから!」

何者でもない平民の子が、この世で最も格好のいい騎士にだってなれたのだ。

何者でもなくなったユリウスも、また何にだってなれたはずだった。

そして――、

「幾度機会を得られようと、私はあの日、燃えるような少年に憧れ、騎士を標榜する背中に理想を見、『剣』の頂たるあなたへ挑むだろう――!」

「ぐだっぐだと、しゃらくさいってンだよ、オメエ!!」

決意を剣先に乗せたユリウスの斬撃に、同じく剣撃を合わせるレイドが吠える。

その剣風と剣圧に全身を打たれながら、ユリウスは黄色い瞳を細めて感嘆していた。

こうしてレイドと戦うのは、仕切り直しを入れれば四回目。

最初の挑戦と、直後の敗戦。さらには監視塔全体が危うくなってからの足止めと、そして蕾たちとの再契約を果たした今回の四回だ。

その中で、レイドが箸以外の武器――箸を武器と呼んでいいかは甚だ疑問の余地があるが、とにかく箸以外を振るうのはこれが初めてのこと。

そうして、『剣』の頂たる『剣聖』が満を持して剣を握った今、思う。

「箸のときと、剣力が変わっていない……!」

「だぁから言ってやっただろうが。オレが強ぇのは剣が振れるからじゃねえ。オレが強ぇのは、ただオレが強ぇってだけが理由だってンだよ」

無造作に振り下ろされる剣撃を頭上で受け、膝が軋んだ直後には真下から追撃がくる。それを鍔元でかろうじてしのぎ、衝撃にユリウスは後ろへ飛んだ。

それを、レイドは踏み込みではなく、大股に歩くだけでついてくる。

特殊な歩法を疑いたくなるが、特別なことは何もない。

下がった相手に追いつくと、そう考えて足を踏み出すだけで、流派が何代もかけて編み出すような歩法を易々と実現するのがレイドというだけ。

それはレイド自身が語った通り、ただの規格外の『存在』というだけのこと。

「泣きたくなってきたか?」

「――。いいや、伝説に挑んでいる実感に胸が弾む!」

虚勢ではなく、ユリウスは実勢に駆られながら答えた。

そう、そうなのだ。目の前にいるのはレイド・アストレア。ユリウス自身、幾度彼の伝承に胸を躍らせ、瞳を輝かせ、憧れたことだったろうか。

実際のその人と会い、その人柄に驚きこそしたが、実力は憧れた理想そのものだった。

なればこそ、いったい自分はどこまでもったいないことをしてきたのか。

言葉を交わし、剣を交わし、思想と信念を交わす機会がありながら――、

「は」

『本物』と剣を交えながら、不意に掠めた考えにユリウスは息を吐く。

あまりに場違いで、しかし、期待に胸躍らせる発想、それは実に小気味いい。

「なに笑ってやがンだ?」

「いいえ、ただ思っただけです。――ここでの目的を果たして帰参した暁には、我が友、ラインハルトに挑もうと」

レイドの問いかけに、ユリウスはその思いつきを口に出す。

これまで一度も、ユリウスはラインハルトと剣の腕を競ったことがなかった。それどころか、王選で陣営を違えることとなるまで、何一つ競い合おうとは思わなかった。

――並び立とうとしなかったことを悔やんだこと。

それも、ユリウスがアナスタシアに仕え、王選に臨んだ理由の一つだった。

だが、仮にそんな想いがなかったとしても、ユリウスはアナスタシアの大器に魅せられ、彼女と同じ夢を見ることを望み、同じ場所に立っただろう。

ならば、つまらない言い訳や迂遠な建前など、最初から必要なかった。

最初から二振りの木剣を携え、ラインハルトの下へ赴けばよかっただけだ。

過去に一度、ラインハルトとヴォラキア帝国の最強の剣士が剣を交えたことがあった。

練兵場で誰もがその剣気に熱狂したあの日、ユリウスも胸を熱くした。

それが、答えだったのだから――。

「はン、知らねえ名前だ。どこのどいつだ、その馬の骨」

「あなたの子孫だ。そして、当代の『剣聖』にして、私の友」

「かっ! ガキのガキなンざ、もう他人だろうが。道端で会っても気付きゃしねえよ」

剣技に蹴り技を織り交ぜて、レイドが鼻を鳴らしながら無責任を説く。

その論説にはいささか反論があると、ユリウスは剣を合わせながら口を開こうとして、

「そろそろ、他人の話は飽き飽きしてンだ。オメエ、オレとお喋りしてえのか?」

「――。否定はしないが、否定しよう」

「――――」

「時さえ合えば、私はあなたと二晩でも三晩でも言葉を交わしたい。だが、今はそのための時が惜しい。急げ、とも背を押されている。故に――」

距離が開いたところで、レイドがユリウスを眺めながら頬を吊り上げた。そのレイドの青い瞳に、その輝きを増していくユリウスの姿がある。

渦巻く六色の輝きは混ざり合い、やがて緩やかに極光を、虹を描き始める。

そして――、

「――アル・クラウゼリア!!」

――放たれる虹の輝きが、白い世界をレイドへ向けて席巻した。

△▼△▼△▼△

放たれた極光の威力と範囲に、ユリウス自身も目を見張る。

それはもはや、これまでと同じモノとして扱う方が非礼に当たるほど、別格の規模の魔法と化した極大の精霊術――、

『――――』

蕾――否、その閉じたる才を文字通り開花させた彼女たちを蕾とは呼べない。

美しく、可憐に、勇壮に、凛々しく、華やかで、神々しくさえ思える成長を遂げた彼女たちは、蕾ではなく乙女だった。

六体、それぞれの魅力を発揮する彼女たちを、たった一人の身で占有するなどと、あるいは大罪司教以上の罪人であるのかもしれない。

しかし――、

「たとえ、君たちに忘れられようと、私は君たちを愛している」

放たれた極光へ追いつくように、ユリウスは前へ踏み込んだ。

六属性を纏った虹の光は、あらゆる防護を突破して対象を打ち砕く。故に、虹色の輝きの前に相手が打てる手は二つ――受けて立つか、躱すかだ。

「――は」

そして性格上、レイド・アストレアは虹の光を躱さない。

正面から押し寄せる虹の光に対して、レイドはそのたくましい腕を振りかざし、握った選帝の剣で光の先端を薙ぎ払った。

特別な魔法や加護に頼らない、純粋な暴力という名の『剣技』――それが、ユリウスの放った渾身の極大魔法を一振りで掻き消す。

だが、前に踏み込むユリウスはそれも織り込み済みだ。

掻き消される極光の後ろから飛び出し、ユリウスは剣と、乙女たちの力を借りる。

「イア! アロ!」

瞬間、呼びかけに応じる赤と緑の精霊がお互いの力を高め合い、燃え盛る炎を取り込んだ風が渦巻き、灼熱の竜巻がレイドの足下から生じた。

その熱波をゾーリの裏に感じて、レイドが焼かれるより早く上へ逃れる。

しかし、精霊騎士の、『最優の騎士』の連係はここからが本領だ。

「クア! イク!」

黄色の精霊が白い床に隆起を生み、ユリウスの体を上方へ押し上げる。同時、青の精霊の輝きが大気中の水分を凍結させ、上へ飛んだレイドの上昇を妨害した。

舌打ちし、空中を蹴るという人外じみた離れ業で姿勢を反転させ、レイドは中空に生じた氷の天井に逆さに足を付け、ユリウスを睨む。

ぐっと、レイドの膝に力が入り、上昇するユリウスの迎撃がくる――、

「イン! ネス!」

『剣聖』の反撃が迫りくる刹那、白と黒の精霊がそれぞれの力で世界に干渉。

白い光がユリウスの全身に力を与え、黒い光がユリウスの敵の力をわずかでも削ぐ。その瞬間に生まれるささやかな差が、直後の結果の立役者だ。

「――――」

足場にされた氷の天井が砕け散り、射出されるレイドの姿が速度で霞む。

選定の剣の無造作な構えは、縦横刺突を読み取らせないある種究極の型――それを脅威に感じるのではなく、ユリウスは胸据わって相対する。

剣撃に剣撃を合わせては、より強い力に弾かれるのが道理。

故にユリウスは目を開けた。――常に、上を、先を行くものを見続けてきた眼を。

「――――」

音や光の概念を殺して、レイドの一閃が空間を割った。

断言しよう。それが選定の剣だろうと箸であろうと、その一閃の途上にあったものはことごとくが斬り捨てられた。

何故ならそれは、『剣』という概念の顕現そのものであったからだ。

『剣』とは、物を斬るために生み出されるものだ。

そして剣技とは、その剣で物を斬るための技術の総称だ。

ならば、この世のあらゆる物を斬る一閃は、『剣』と『剣技』の極致にして本懐。

それに斬られたものは、斬られたという事実を永劫に忘れられまい。

だから、ユリウス・ユークリウスが左の目の下に受けた傷跡も永劫に消えない。

それが『剣聖』の一閃を、掠めるほどの距離で躱した代償だった。

「――――」

受ける姿勢を放棄して、相手の剣を刹那の攻防で見極めた。

斬られた眼底が血を噴く。だが、目は閉じない。相手を見据えたまま、腕を振るう。

受けを放棄し、攻めへと百を注いだ一閃――、

「――アル・クラリスタ」

ユリウス・ユークリウス、生涯最高の剣撃が虹色を描く。

それがレイド・アストレアの、鮫のように獰猛な笑みを捉え――、

――『剣聖』の左目を塞ぐ眼帯が、騎士の一撃に貫かれ、宙を舞っていた。

△▼△▼△▼△

「――――」

爪先から白い床に降り立ったとき、響く靴音がやけにうるさく感じられた。

それを意識した途端、ユリウスの胸の奥で鼓動するのを忘れていた心臓が慌てて動き出す。その血流に背を押され、深々と息を吐いた。

それから背後に振り返り、こちらに向けられたたくましい背中を見る。

「――――」

赤い長髪が揺れ、背中が立ち尽くしている。

偉丈夫は右手に選定の剣を握り、その左手を己の顔に当てていた。その、左手が探っている位置には本来眼帯があり、しかし今はそこにはない。

『剣聖』の左目を塞ぐ眼帯は今、ユリウスの足下に落ちていた。

「……届いた、のか」

白い床に落ちた眼帯と、自分の手の中の騎士剣を見下ろし、声が震える。

起きた出来事を確かめるように呟くが、それはあまりに現実感がない。泡沫の夢のように手指の隙間をすり抜け、どこへなりと消えてしまいそうに思える。

だが――、

『――――』

言葉という概念はなく、六つの光がユリウスの成し得た偉業を称える。

親愛という名の温かな花が、ユリウスの心に生まれた空白を埋めようとしてくれる。

そして、そんな花開いた乙女たちの称賛と共に――、

「――ユリウス」

微かな声が聞こえて、ユリウスの視線がそちらを向いた。

背を向ける偉丈夫、称賛を伝えてくれる乙女たち、そのどれとも違う位置から戦いを俯瞰し、ユリウスを呼んだのは薄紫の髪をした女性。

大切な、この剣を捧げると誓った主と同じ顔をし、知らず知らずのうちに互いを傷付け合うような関係にあった、悠久を生きる人工精霊――。

彼女がユリウスを慮ってくれたのは、アナスタシアを大切に思うからなのか、あるいは『誘精の加護』が働いた結果なのか、答えは暴かない。

ただ、ユリウス・ユークリウスの覚悟を見届ける誰かの存在が、こうまでこの心を軽くしてくれたことを感謝し、騎士剣を掲げた。

「――――」

無言で、騎士剣を天へと掲げる。

極光を帯びた残滓が煌めいて、剣の軌跡は文字通りに虹を描いた。

それはまさしく、ユリウス・ユークリウスという騎士を祝福するかの如く――、

「――これがクソったれな『試験』なら、ここでオメエの勝ちだろうよ」

そう言いながら、ゆっくりと偉丈夫がゾーリで床を踏みしめる。

振り向いたレイドの顔に傷はない。ユリウスの剣先が届いたのは、正しく彼の眼帯だけだった。だが、それを届かなかったと嘯くほどレイドも恥知らずではない。

何より、先の彼の発言は負け惜しみではなく、真実だ。

これがプレアデス監視塔、二層『エレクトラ』の『試験』の続きであるのなら、一撃が届いた時点でユリウスは合格と上層へ挑む資格を得ただろう。

しかし、ユリウスとレイドの戦いは、もはや塔の『試験』の問題ではない。

一人の騎士と一人の剣士、男と男の決着を付けるために戦っているのだ。

「――――」

眼帯を失い、両目を開眼したレイドが選定の剣を両手で握った。

順手で剣の柄を握り込み、正眼に剣を構える。――そう、『剣聖』が構えた。

無造作に棒を振るのではなく、正しく、敵を斬るために剣を構えたのだ。

「消えてなくなっても文句言うンじゃねえぞ」

「文句を言いたくとも、それを言う口がなくなっては如何ともし難い」

「はン! 笑い話を笑えねえ奴だ。オメエ、なンてったっけ?」

伝説に名前を問われ、ユリウスは眉を上げた。

もう何度となく彼の前で名前を名乗ったはずだが、それを覚えられていない。だが、覚えられていないことはどうでもよかった。

その問いかけで初めて、レイドが正しくユリウスを認めたとわかったから。

「ユリウス・ユークリウス。忘れられやすい名なので、覚えていただきたい」

少し前なら笑えなかった冗句を口にして、ユリウスも騎士剣の先端をレイドへ向ける。

そうして、先ほどひと働きしてもらったばかりの六精霊へと、再び助力を願った。

今の自分と彼女たちならば、虹の極光のさらなる高みへ至れるだろう。

アル・クラウゼリアとアル・クラリスタ。

六体の精霊の力を借りて、六属性の力を束ねた虹の極光。――その極大魔法を放つクラウゼリアと、それを騎士剣へ宿らせるクラリスタ。

その先に、未熟さ故に一度も成功しなかった秘儀――、

「――征く」

「――こい」

瞬間、極光が白い空間を埋め尽くし、虹の帯が紅の偉丈夫へと挑みかかる。

ユリウス・ユークリウスが独自に編み出した虹の精霊術、その秘中の秘。

六属性を束ねた虹の光を放つのでも、剣に宿らせるのでもなく、己に纏い、極光そのものとなって相手を討つ必殺――、

「――アル・クランヴェル」

その、精霊騎士の究極の一撃を、白い一閃が真正面から迎え撃った。

△▼△▼△▼△

最初から最後まで、それは素人目で追いかけるには高次元の攻防過ぎた。

ぶつかり合う剣撃はおろか、めまぐるしく入れ替わる立ち位置や足捌き、どちらが優勢でどちらが劣勢なのか、それすらも浅葱色の瞳では捉えきれなかった。

それは、この肉体が本来の自分の持ち物でないことは全く関係がない。

ただ、そういう次元で生き死にを競い合うものたちがいて、それらと比べて、自分の生きる世界はあまりに低次元であるというだけのことだった。

生物の価値観が生き物としての強弱にあるなら、無価値なほどに自分は弱い。

そしてそれは、自分が数百年という時間を無為に過ごし、己を高めるという道に背を向けてきたことの証でもあった。

初めて自我を意識したときから、予感があったのだ。

自分という不自然な存在の目的は、生まれた瞬間から尽きていたと。

強いて言うなら、生まれること自体が目的であり、その時点で目的は果たされた。故に放置され、無目的に世界を放浪し、数百年の空白を余儀なくされた。

死んでも構わなかった。だが、死ぬ理由がなかった。

だから、自分の終幕をダラダラと先延ばしにして、長く長く、怠惰を貪った。

そうして引き延ばしの生涯で、少女と出会ったのだ。

鮮烈な生き方をする少女の在り方に魅せられ、冷え切った命は熱を得た。

矮小な身でありえない大言を吐いた少女が何者になるのか、あるいは何者にもなることができないのか、それを見届けたいと焦がれた。

いつしか、そんな興味関心はどうでもよくなって――、

「――君も、君の大切に想う子たちも、失わせたくないんだ」

過ぎ行く時間というものが、優しくも残酷であることを知っている。

時は傷を癒しもするが、想いを古めかしくすることもある。

長い、長い時を生きてきて、初めて思ったのだ。――これを、過去にしたくないと。

「それも、無理な願いなんだけどね」

止まってほしいと懇願しても、時は止まらずに移ろいゆく。

定命の、ちっぽけで弱々しいはずの命たちは、その時の中であらゆる変化を見せる。

『名前』を奪われ、誰の記憶からも取り残された名無しの騎士が、ユリウス・ユークリウスという一人の人間であることを証明するように。

――虹の光を纏った騎士が、真っ直ぐに白い光へ飛び込んでいく。

秘儀を開帳したユリウスに対して、レイド・アストレアの行動はひどく単純だ。

振り上げた剣を振り下ろす、この世で最も繰り返されただろう剣撃の挙動――それが世界を斜めに両断し、途上のモノを全て打ち滅ぼす光となる。

特別な魔法でも、特別な技でもない。

ただ剣を振っただけで、世界が光と共に焼かれていくのだ。意味がわからない。

レイド・アストレアが規格外なのか、『剣聖』とは全員が全員こうなのか。

確かなことは――、

「――ユリウス」

極光が理不尽な白光に押し負けぬよう、力を尽くしたいと望むこと。

それは紛れもない本音で、しかし、この戦いに直接的に横槍を入れるなんて真似、自殺行為以前に、無粋という罪で魂を砕かれても文句は言えない。

そして、自分には何もできないと、彼女――エキドナはすでに自覚していた。

自分には、何もできない。

この場で、極光と化したユリウス・ユークリウスに何かできるとしたら。

「――――」

薄い胸に手を当てて、その内側で眠っている存在を意識する。

この肉体の本来の持ち主、彼女が深い眠りから目覚めない理由、それを求めてこの砂海の塔へやってきたエキドナ。――だが、それは欺瞞だった。

すでにエキドナは、どうして彼女が目覚めないのか、その理由がわかっていた。

自身を強欲であると嘯いて、あらゆる全てを手に入れたいと豪語した娘。

一度懐に入れたものは何としても手放さず、失うことを、失わせることを何よりも厭うのが彼女だったから、理由は一つしか考えられない。

「体をボクに譲り渡し、一時的に自身のオドの中に潜んだ君は、外界からの干渉を受けない状態だ。――オドは、ある種の固有の世界だから」

そして、彼女はその場所に自分から閉じこもっている。

その理由は明白だ。――オドの外に出れば、影響を受けてしまう。『暴食』の大罪司教のおぞましい権能、その影響を受けてしまう。

忘れたくないものを忘れさせられ、手放したくないものを手放させられる。

アナスタシア・ホーシンが、ユリウス・ユークリウスを忘れてしまう。

だから彼女は。しかし――、

「どうやら、この塔へきたのは全員、筋金入りの頑固者のようでね。――誰も、失われっ放しで終わるほどの可愛げはないらしい」

この二ヶ月近く、自分なりに彼女のやり方を真似てみたが、そろそろ潮時だ。

それに、良いところも悪いところも、名無しの騎士として慌ただしくする彼のことは傍で見てきたから、たとえ彼女が彼を忘れても、教えてやれる。

「あぁ、そうか」

何の目的もなく、生み出された時点で役目を終えた人工精霊。

そんな役回りだと思っていたが、これが存外、それで終わるだけのものでもない。

大切な少女と、大切な騎士と、欠ける二人の橋渡し。

なんと、責任重大な大役ではないか。

そのために生まれてきたのだと笑えるぐらい、責任重大ではないか。

だから――、

「――君の騎士の一番カッコいいところを見ないなんて、そんなもったいない真似、ケチな君らしくないじゃないか」

△▼△▼△▼△

――白光が、極光を塗り潰さんと襲いくる。

自らの全霊と、再契約した六体の精霊の力を借りて、なおも押される。

こちらは秘中の秘を開帳し、一方で相手は真面目に、本気で剣を振っただけ。――まったく、その不条理なまでの規格外さにはほとほと呆れる。

同時に、そうでなくてはと胸滾る思いもあるのだから、自分も救えない。

剣を振るえば世界が割れる。

それは、ラインハルトが剣を振った場合にも起こった『剣聖』の絶技。

ふと、命と命のしのぎ合いの最中に、ユリウスは思った。

はたして、ラインハルトとレイド、戦えばどちらが強いのだろうかと。

伝説と伝説、『剣聖』と『剣聖』、実現しない戦いはどちらに軍配が上がるのかと。

生憎と、それを見極める機会は訪れまい。

「ならば、私がこの身で確かめる他にないだろう」

ラインハルト・ヴァン・アストレアとも、レイド・アストレアとも剣を交える機会を得られるとしたら、それはこの塔へ到達した面々しかいない。

その上で可能なのはユリウスと、上層へ向かったエミリアという女性だけ。――その役目を他人に譲るつもりはない。

だから、あとは勝利するだけだ。

この白光を押しのけ、虹の光でレイド・アストレアを討ち果たす。

そのために全霊を、あと一歩の、剣力を――、

『最優の騎士』の剣先に、わずかの誇りと力が宿れば――、

「――ユリウス」

それは、届くはずのない呼びかけだった。

時間経過が曖昧になるほどの衝撃の中、しかし、剣と剣が一合交わるのに必要な時間など一秒にも満たない。これは、そんな刹那の世界の攻防だ。

その場所に、ましてや命懸けの戦いの最中に、誰かの声など届くはずもない。

「――――」

だが、声は確かにユリウスを打った。

あるいはそれは鼓膜ではなく、もっと奥深く、胸の最奥へ届いたのかもしれない。

騎士という殻を被り続けることを心に決めたなら、それに応えぬことなどありえない。

だから、聞こえるはずのない声を聞いたユリウスは、見えるはずのない相手へと振り向いて、その浅葱色の瞳と視線を交わした。

その、大きく丸い瞳に宿った光が、明らかに直前のそれと変わっていて――、

「――いったれ、ウチの騎士」

――その一言に、必要だった最後の剣力の一押しが宿った。

「イア! クア! アロ! イク! イン! ネス!」

最後の一押しそのものを求め、共に極光の一部となった精霊たちへ呼びかける。

正面、打倒すべき敵の姿は白い光の彼方にあり、それを、越えるために。

光の彼方へ、その剣先を届かせるために――、

「お、おおおぉぉぉぉ――っ!!」

らしくないほどに口を開け、血を吐くほどに声を上げた。

決死の形相で、優美さなどかなぐり捨てて、ただ己を支える骨子たる信念をひび割れさせぬよう、最大限にそれを奉じて、ユリウスは踏み込んだ。

「――――」

そして、輝きを増す虹の極光を受け、迎え撃つ白い光も勢いを増した。

なおも、なおも、強大化して、虹の光と白い光は激しくぶつかり合い――、

「――ぁ」

永劫に続くかと思われたそれは、不意の幕切れを迎えたのだった。

△▼△▼△▼△

「――ぁ」

と、自分の喉からか細い音が漏れたのを、ユリウスは唖然と聞いていた。

互いの最大火力のぶつけ合い、その突然の幕切れ。しかし、勢いは止まらず、極光を帯びた剣は真っ直ぐ、相手の急所を刺し貫いていた。

「何故……」

「ちっ、ああ、クソ、つまンねえ幕引きになっちまったじゃねえか」

刺し貫いた側であるユリウスの動揺、一方で貫かれた側のレイドは泰然としている。

その胸を一突きにされたにも拘らず、痛みに顔をしかめることさえしなかった。

それは彼の強靭な精神力の為せる業か、そうでないなら、その偉丈夫の肉体に起こった変調こそが原因であろうか。

レイド・アストレアのたくましい胸板には、ユリウスの剣が貫いたのとは異なる傷――否、亀裂が生じていた。

そして、それは胸だけに限った話ではない。腕や足、首や頬といった体の各所にガラスがひび割れるような傷が広がっていくのだ。

それが何なのか、ユリウスは直感的に理解した。

本来ならありえない歪みが正される。これは、その過程の現象であるのだと。

「結局のとこ、アレだ。オレって人間はオレ以外の器に収まり切らねえってこった」

ひび割れる自分の掌を見ながら、そうこぼすレイドの眼力は正しい。

『暴食』の権能によって取り込まれ、その肉体の支配権を略奪する形で実体を獲得したレイド・アストレア――だが、その体はあくまで、元となった『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドのものである事実は変わらない。

つまり、規格外のレイド・アストレアという魂の働きに、ロイ・アルファルドという容れ物が耐えられなかった。

それが、ユリウスとの戦いの最終局面で破綻したのだ。

「では、いっそあなたが!」

「ま、こいつに喰われてやってなきゃ、最後まできっちりやれたかもしンねえな。その場合、オメエが眼帯落とした時点でやっぱ終わってンだぜ?」

「く……」

「かかか。何事もままならねえもンだな、弱ぇ奴ってのは。泣きたくなったか?」

選定の剣を放り捨て、レイドが歯を見せながら意地悪く笑った。

何故、そのように笑えるのか。このまま、彼が消えるのはもはや確定した未来だ。

あるいはユリウスを打倒すれば、一度は終わった生を再び歩み始めることもできたかもしれなかったのに。その可能性が滑り落ちたというのに。

「馬鹿か、オメエ。もっぺン生きるとか、そンな面倒な真似誰がするか。大体、どっかでオレと出くわしたらどうなンだ、それよ」

「……残念ながら、あなたはすでに数百年前に老衰で亡くなっている。今のあなたが出歩いたとしても、元のあなたとは」

「はン! で、他人みてえなガキのガキの面でも拝めってのか? くだらねえ」

自分の子孫を他人扱い、先だっての発言は本心そのものであるらしい。

本気で二度目の生には興味のない様子で、レイドは首の骨を鳴らした。

「大体、生き返って何するってンだ、オメエよ。さっき通した激マブと遊ぶとか、そっちにいるマブでもいいけどな。あとはエロい格好した女も……」

「ほ、本当に未練はないのか……?」

「ねえよ。やりてえことはやりてえと思ったときにかますってのがオレの流儀だ。オメエもそうした方が、よっぽど楽だっただろうぜ」

「……助言には感謝する。だが、私にはそちらの方がよほど茨の道なのですよ」

殻を、進んで被ることを選んだ身だ。

自分を偽る、あるいは自分の根本の部分を別物だと演じると言ってもいい。

そちらを選ぶ方が、自分らしく、望んだままにあれると知ってしまったのだから、ユリウスはレイドの奔放さを眩しく思っても、選べはしない。

そのユリウスの答えを聞いて、レイドは忌々しげに鼻を鳴らした。

それから彼は、自分の胸の傷――限界を超えた結果で生まれたひび割れ、それとは異なる唯一の傷を指差して、

「オメエ、勘違いすンなよ? オメエの剣が届いたのはまぐれだ。これがオレの体なら、オメエじゃ鼻くそだって付けられねえよ」

「そんなことは最初からしないが……」

「はン! 面白くねえ!」

吐き捨てて、レイドが自分の胸を指差した手でユリウスの肩を叩く。

その衝撃に身を硬くしながら、ユリウスは長く息を吐いた。

まだ、何もかもに納得したわけでも、受け止め切れたわけでもない。

だが、目の前の出来事に狼狽え、動揺し、このひと時を逃すことの方が耐え難い。

ひび割れは拡大し、すでに終わりは見えている。

だから、ユリウスは己の抜き放った騎士剣を顔の前に掲げ、

「その剣力、心の底から尊敬します」

「野郎の憧れなンざいらねえよ。――オレの勝ち逃げだぜ、ユリウス」

「――――」

最後の一声、名前を呼ばれたことにユリウスは瞠目した。

だが、動揺しないと心に決めた通り、その驚きを微笑の裏に隠し、一礼する。

この、伝説の存在に堂々と名乗り上げた通り、最も優れたる騎士として。

ユリウス・ユークリウスの理想が、憧れに恥じない形であるように。

「ええ、最後まで。――あなたの勝ちだ、レイド・アストレア」

「はン、いい面するぜ、負け犬が」

その言葉を最後に、レイド・アストレアのひび割れが拡大し――、

△▼△▼△▼△

「――――」

見た目の印象と違い、最後まで拡大したひび割れに音は伴わなかった。

ガラスの砕けるようなそれはないまま、光がほつれるように赤毛の偉丈夫が消滅――代わりに白い床に倒れているのは、白目を剥いた矮躯の少年だ。

他者の『記憶』と『名前』を喰らい、意のままにする『悪食』にして冒涜者。

『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドが倒れ、轟沈していた。

「――――」

生きているのか死んでいるのか、『暴食』はぴくりとも動かない。

ただ、レイドと同じ左胸に深い傷があり、致命傷であることは疑いようがなかった。

そのことだけを見届けて、ユリウスは敬意の表明に掲げていた騎士剣を下ろし、自らの鞘へと納め、振り返る。

極光がほどけ、ユリウスの周囲には光を増した六体の精霊。

蕾から乙女へと開花した彼女たちの力がなければ、こうして白い床に倒れているのは相手ではなく、自分の方だっただろう。

そのことへの感謝とねぎらいの気持ちを伝えなくてはならない。

しかし、彼女たちには申し訳ないが、その謝意の表明は先送りだ。

ゆっくりと、ユリウスは前進する。

向かう先、ユリウスを見つめているのは浅葱色の瞳をした華奢で小柄な女性。薄紫色の長い髪を波打たせた、砂丘に見合わない白い装いを纏った人物。

彼女の足下には、その黒目がちの瞳を不安げに揺らしている白い狐がいる。

ずっと、襟巻きに擬態していたはずの彼女の姿、それがそこにある意味。

それを改めて意識して、ユリウスは目を閉じた。

そして――、

「――お初にお目にかかります」

ほんの少し前、挑戦者として『剣聖』へ伝えた口上を再び述べる。

だが、このときの胸の奥の感覚は、戦いに挑む昂揚感とは異なるものだった。

ただ、変わらないものもある。

新しい冒険譚のページを開くような、騎士に憧れる少年の冒険心だ。

「ウチは」

その場に跪いて、最初の言葉を放ったユリウスへと相手が応じる。

低い姿勢のまま、ユリウスは続く言葉を待った。どれだけでも待てると思った。

待てば、相手の言葉が聞けると信じられることが、どれほど幸いなことか。

「――ウチは、アナスタシア・ホーシン」

「――――」

「ウチは、この世の全部が欲しい。……で、えらいカッコいいお兄さん、お名前は?」

はんなりと、彼女がどう微笑み、どう首を傾げたのか手に取るようにわかる。

跪いて顔を伏せたまま、ユリウスは「は」と短く息で応じて、

「私はユリウス・ユークリウス。――あなたの、一の騎士」

「――――」

「お忘れかもしれません。ですが、私はあなたに剣を捧げた身。あなたのために、持てる力の全てを尽くし、その志をお支えするもの」

床に騎士剣を置いた最敬礼、その上で、ユリウスはようやく顔を上げた。

その先に、主のどんな眼差しがあったとしても、悔やみはしない。

狼狽え、戸惑い、下を向くなんて騎士らしくない。

誰よりも見栄を張り、格好を付け続ける存在こそが、ユリウスの憧れなのだから。

そして、そのユリウスを見下ろし、彼女は丸い瞳を細めると、

「そうなん? よう覚えてへんのやけど……でも」

「――――」

「一目見て、思うたんよ。――このお兄さん、ウチのもんにせなあかんて」

その間近に、求め続けた主の、何もかもを手放すまいと爛々と輝く瞳があって。

全てを手に入れる『強欲』へと、ユリウス・ユークリウスは再び、その剣を捧げた。

まるで、物語の王と騎士のように、それは神々しい一幕――、

奪われた『主従』の絆の再生が、二層『エレクトラ』にて果たされる。

それは、ナツキ・スバルの提示した五つの障害、その一つの排除の達成。

大図書館プレイアデス、第二の『試験』――終幕と。

第六章86 『昨日の話』

ずっと以前から、疑念を抱いてはいたのだ。

忠誠を捧げる主であるロズワール・L・メイザース、彼の最終的な目的を達成するためには、ルグニカ王国を守護する『龍』を殺す必要がある。

ラムは、ロズワールのその目的に欠かせない重要な駒、他ならぬ彼からそう聞かされたのは、もう今から十年近くも前のことになる。

赤く燃える鬼族の村、そこでラムと■■を救ったロズワールは対価を求めた。

そして、ラムは鬼族の応報と引き換えに、その対価を支払うと決めたのだ。

そのために、『龍』を殺す計画だろうと何だろうと協力しようと。

ただ一点、ラムの中で答えが出ていなかったのが、肝心の『龍』の殺し方。

容易くはない。策を弄し、手段を講じたとしても、それは容易いことではない。そのときがきたとして、いったいラムに何ができるのか。

「時がくればわかる。――君の、君たち姉■にしか果たせない役割が」

そんな、どこか欠け落ちた言葉をかけられたような気がする。

それがどういうことなのか、不思議と今日まで深く考えることはなかったが――、

「ようやくわかったわ。ロズワール様の狙いが」

ロズワールの行動の全ては、彼自身の長い人生を懸けた最終目標のためにある。

そのためにルグニカ王国に深く潜り込み、そのためにラムと■■を救い出し、そのために『聖域』を覚悟の試金石して押さえ、そのためにナツキ・スバルを試した。

元々の計画の変更を余儀なくされたとしても、それまでの仕込みは無駄にはならない。――否、無駄にはしないのが彼だ。

故に、ラムの中でも答えが出た。

ロズワールが、幼い鬼の姉■を自分の最後の切り札として引き取った理由が。

■■は、ラムの失われた角の代わりとして引き取られたのだ。

ラムと■■の姉■は、二人で一人の鬼として、『龍』を殺すために手元に置かれた。

無論、『暴食』の権能の影響からロズワールも逃れられない。

結果的に彼も、■■がどうして自分の屋敷に置かれていたのかを忘れたはずだ。だが、忘れたとしても、すぐに自分自身の狙いには勘付けたはずだ。

そして、『暴食』の被害から■■を取り戻そうと奮闘するラムたちを見ながら、その事実は口外しなかった。まったく、どこまでも――、

「周到なところは変えられないわね」

一度はスバルの行動によって計画を頓挫させられながらも、虎視眈々と水面下で自分の目的を果たすための工作は進め続ける。

厄介な性質だ。今頃はラムの目がないところで、何をしているやら。

ただし、こうも思う。

――今回の旅、■■を連れてゆくスバルたちにラムが同行するのを許した時点で、ひょっとするとロズワールはこうなる可能性を予期していたのではないか、と。

考えすぎかもしれない。

そもそも、『暴食』の大罪司教がプレアデス監視塔に現れたのは不測の事態で、ラムや■■が危険な状況に置かれる確信があったはずもない。

これは、ラムが自分の慕う男を過大評価するあまりの妄想かもしれなかった。

だが――、

「――どうせなら、好きな男に信頼されていたと思った方が気分がいいわ」

ラムがいれば、■■や他の面々が守り通されると思っていたのだと。

いざとなれば、ラムがロズワールの隠していた思惑に気付いて、『龍』を殺すための切り札をめくることを自ら選ぶと、そう信じられていたのだと。

ラムという女の十年間を、ロズワール・L・メイザースという男が評価したのだと、そう考えた方が、ずっとずっと気分がいい。

だから――、

「――今、最高に気分がいいの。ぶちのめされなさい」

△▼△▼△▼△

『拳王』ネイジ・ロックハートの打ち立てた偉業は、神聖ヴォラキア帝国の『剣奴孤島』ギヌンハイブではちょっとした語り草だ。――否、語り草だった。

『暴食』の権能の被害に遭い、『名前』と『記憶』の両方を奪われた今、彼が剣奴として打ち立てた功績を知るものはどこにもいない。

ネイジは強さを見世物とされる剣奴孤島の興行で、唯一、徒手空拳だけを武器に何百回もの死合いを生き抜き、ついには解放奴隷の権利を獲得した。

練り上げられた闘気を拳に宿し、刀剣を受け止め、鋼を打ち砕く彼の拳の前にはいかなる障害も乙女の柔肌同然で、史上最も人間を殴殺した一人と言えただろう。

『肉食獣』ベリ・ハイネルガは、そのあまりに残忍な手口でグステコ聖王国を震え上がらせた稀代の連続殺人鬼だ。――否、震え上がらせたこともあった。

『暴食』の権能の被害に遭い、『名前』と『記憶』の両方を奪われた今、彼が殺人鬼として生んだ多くの悲劇や教訓の数々は、誰の記憶にも残っていない。

ベリは生まれながらに異常な成長を見せ、およそ人間では実現し得ない肉体強度を獲得した。そして、自分の好みの男たちを抱きしめて殺す、凶悪な犯行をいくつも重ねた。

巨体が実現する怪力と、刀剣で掠り傷一つ負わない強靭な肌。触れ合いと温もりを求めるこの殺人鬼は、『腸狩り』と並んで恐れられた最悪の犯罪者の一人だった。

『跳躍者』ドルケルの経歴は変わっている。元はカララギ都市国家で暮らす一介の商人であったドルケルは、人ならぬモノの声を聞いて道を外れた逸脱者――だった。

『暴食』の権能の被害に遭い、『名前』と『記憶』の両方を奪われた今、彼が逸脱者として大勢から笑い者にされた事実は失われ、誰もそれを覚えていない。

ドルケルはある日、突然に妻子ごと人生を投げ捨てた。そして、存在しない何かを信奉する道を選び、魔女教と接触することを選んだ変わり種となったのだ。

究極、ドルケルは魔法とは異なる力を発現したが、それは魔女教の教義とは異なるものであり、魔女教からさえ追放された異端中の異端であった。

つまりは、それらはいずれ劣らぬ怪人、奇人、狂人の類の超越者。

並大抵の人間では歯が立たない上、それらはそれらであるだけで完結せず、『暴食』の中であらゆる『記憶』と混ざり合い、より最上のモノへ仕上がっている。

ネイジ・ロックハートが、ベリ・ハイネルガの耐久力とドルケルの神出鬼没の能力を手に入れればどうなるか。

それは、史上稀に見る凶悪な一個の存在の完成だ。

これまで、『暴食』の大罪司教、ライ・バテンカイトスはそれをしてこなかった。

自分という大鍋の中であらゆる『記憶』を混ぜ合わせることで、自分という存在そのものが鍋の中身に取り込まれるのを恐れていたためだ。

だが、たとえ混ぜ込んだ鍋の中身を飲み干したとしても、自分が取り込まれることはない――少なくとも、バテンカイトスの主観ではそうなった。

そしてそうなった以上、これまであえてやろうとしなかったことを試し、自分自身の定めていた限界を突破することにいささかの躊躇いもない。

この世のあらゆる、優れたる才能、経歴、可能性――『美食』の限りを喰らい尽くし、己の内に溜め込んできた『美食家』こそが、ライ・バテンカイトスなのだから。

故にこの日、世界の東の果てにある砂海の塔で生まれたのは、先天性や後天性問わず、あらゆる技術や異能を高次元で融合した魔人だった。

魔人は全てを破壊する腕を持ち、あらゆる攻撃を受け付けない肉体を持ち、どんな術法をも跳ね返す魔技を持ち、万物を掌握する智賢をも有していた。

歴史上どこを見渡したとしても、これほどまでにあらゆる能力に秀でた存在はおらず、そして今後、何千年が経過しようと生まれることもない。

これは、魔女因子と呼ばれる忌むべき災厄が生み出した、世界の可能性の抽出。

優れたモノだけを煮詰めた大鍋から生まれた、至高の『美食』そのもの――、

「――三回、機会をあげるわ」

その、稀代の存在を前にして、桃髪の少女が指を三本立てて言った。

額から血を流し、薄紅の瞳に冷たい光を宿した少女。彼女は満身創痍の状態で、細い体のあちこちに行動に支障をきたす大ケガを負っていた。

それ以外にも、彼女が立ち続けられない理由は山ほどある。それを知っている。

最大の要因は傷や流血ではなく、その弱い肉体が彼女という存在を受け入れる器として機能していないこと。――おいたわしいと、そう思う。

「三回、先に殴らせてあげる。試したいことがあるのよ。破格でしょう?」

だが、そんな感慨などどこ吹く風といった様子で、少女は指を三本立てたまま、まるでこちらを挑発するように言い放った。

三回、それは致命的な宣告だ。そもそも、一度であろうと耐えられるはずがない。

そして、その申し出を撥ね除ける理由も、特にはない。

罠か、と考えることもなかった。

無意味に、こんな交渉を持ちかけるような少女ではないのだ。ただ、過剰な自信が身を滅ぼすこともあると、それは真摯に伝えなくてはならないと。

同じ大鍋の中に取り込めば、わかることもあるだろうと――、

「――姉様、参ります」

ぐっと、力を溜めた後ろ足を爆発させ、お望み通りに一撃を叩き込む。

それは拳王の技術と破壊力の粋が詰め込まれた、一人の少女を破壊するには過剰すぎる威力の一発、それが整った少女の顔に吸い込まれ――、

「まず、一回」

「――っ!?」

確実に捉えたと思った刹那、少女の顔が産毛を掠めるような至近で拳を避けた。そして伸びた腕に手を添えて、放たれる膝蹴りが右腕を肘でへし折る。

ありえない出来事。聖剣の斬撃さえ通さない強靭な肉体を、少女は伸び切った腕と、肘の関節――ここしか存在しないという定点へ膝を入れ、破壊した。

しかし――、

右腕を折られた衝撃をそのままに、左足が少女の顔へと跳ね上がる。

腕の仕返しではないが、顔を狙ったのはこちらも膝蹴りだ。すらりと長い足、白い膝が少女の柔らかい鼻面を叩き潰し、その美しい顔を台無しにせんと、

「二回目」

その薄い唇から紡がれた言葉、それを聞いて耳を疑う。

口を利けないようにするはずだった。だが、少女は横から迫る膝蹴りに対し、すっとなぞるように手を動かし、その軌道を柔らかく上へ逸らした。

放たれた膝は、まるで最初から何もない空をなぞるために放たれたように、すんなりと少女の頭上を通過させられる。

そして――、

「三回目」

右腕と左の膝蹴りを躱され、身を回す勢いで放った左の肘鉄、鋭く硬いそれは直撃すれば少女の頭蓋を果実のように潰し、その中身を塔の床にぶちまけたはず。

そう――はずだった。

少女のこめかみを狙った肘鉄は、その桃色の髪を数本舞わせるだけにとどまった。

そして、まるでくるのがわかっていたかのように肘を躱した少女が、その伸ばした手で再びこちらの顔を掴み、

「馬鹿ね」

と、これ以上ないほどに冷酷に告げ、豪快にこちらの頭部を床に叩き付けた。

△▼△▼△▼△

ぐねぐねぐねぐねと、目の前で姿を変えながら迫ってくるバテンカイトスを床に叩き付け、ラムはその顔に三本、指を突き付けた。

「三回チャンスがあると思って勝負する人間は三回とも負ける。本気で勝つ気がないまま勝負するなら、運にすら見放されるわ」

「ぶ、が……っ」

「ありがとう。証明できたわ。――もう、時の運ですらラムの敵ではないと」

最も恐ろしい敵は、ラムにとって不条理な運勢そのものだった。

だが、ラムは自らの手でそれを調伏し、それさえも自分の足下にひれ伏せさせる。

もはや、恐れるものなど何もない。

「――ッ」

地面に寝そべったバテンカイトスが、両足を振り上げ、振り下ろす勢いで立つ。そのまま折れた右腕を叩き付けてくる相手へ、ラムは躊躇なく踏み込んだ。

額から血が流れる。だが、その痛みと喪失感が、ラムの血を奥底から沸かせた。

ああ、なんと腹立たしい。この感覚、この昂揚感、煩わしいとずっと思っていた。

憎たらしい鬼の本能、戦うことを歓迎し、力を振るえることに高揚し、殺すべき敵を殺すために血を沸かせる渇望が、ラムはずっと嫌いだった。

だからあの夜、自分の額に生える角が折れたとき、解放されたと思ったのに。

「皮肉なものだわ」

そうこぼしながら、ラムは叩き付けられる腕を取り、そのまま相手を背負い投げる。床に投げ捨て、その頭部を蹴り飛ばして通路の奥へ。

背後、負傷した地竜と、壁に寄りかからせた少女へは近付けさせない。

「――――」

変わらず眠り続ける少女、その額では白い角が淡く輝きながら存在を主張している。

本来、自らの意思なく眠り続ける彼女には、たとえ鬼族であろうと角を機能させることはできないはずだった。

しかし、その実感は失われたままだとしても、ラムと少女は双子の姉妹――『共感覚』と呼ばれるそれは、時折、血の濃い存在の間に結ばれる実体のない繋がりだ。

その存在自体は、眠り続けるレムを世話してきたこの一年、ラムも感じてきた。

外見の相似性だけではなく、その感覚があるからこそ、ラムはすんなりと彼女が自分の妹であるという事実を客観的に受け入れることができたのだ。

だが、その『共感覚』も眠るレムとの間では何がどうということもなかった。

もし、レムが怖い夢の一つでも見ていれば、その恐怖がラムに伝わることもあったかもしれないが、そうしたことが伝わったことはこの一年で一度もない。

つまり、眠り続けるレムは夢も見ていない。――ずっと、瞼の裏の闇だけを見つめ、ただ何もない無の世界で息をしているだけなのだ。

だから、ここでその『共感覚』の悪用に気付いたのも偶然でしかない。

腹立たしいことだが、スバルの発想のおかげだ。彼が妙な力でラムの負担を引き受け、戦う力を与えてくれたから、同じことをする発想が生まれた。

『共感覚』で繋がった同士は、強い感情や、時にケガや痛みさえ共有する。

原理はわからないが、以前、ベアトリスの禁書庫で一読した本にこんな仮説があった。

――『共感覚』とは、異なる個人二人の間でオドが繋がって作用していると。

オドとは、その人間の深奥に存在する力の源――魂とも言い換えられる。

マナの代わりに魔法を使うための力として使われることもあるが、本来、オドとはその人間をその人間たらしめる純粋な性質そのもの。

何者にも侵されざる領域、それが同じ胎から生まれたモノ同士、繋がってしまった結果が『共感覚』なのではないか、という説だ。

結局、それは俗説として片付けられ、証明された話ではない。

だが、禁書庫に置かれていた以上は眉唾な話でもなかったのだろう。何より、ラムはその説を個人的に気に入っていた。

生まれながらに、自分と誰かが繋がっているなんて、素敵な話だ。

「あの煩わしい角のせいで、面倒が多かったもの」

白い角から伝わってくる破壊衝動、あれをラムは嫌悪した。

周囲がラムを鬼神の再来と持て囃すのも忌々しかった。そんな、何とも知れない古臭い存在と、ラムの間に繋がりなど一片もない。

そんなモノではなく、ラムにこそ価値を付けるべきだろう。

故に、そんなモノと無関係に、誰かと繋がっていたのなら、素敵な話だ。

そして、そんな誰かとの繋がりが本当にあるなら――、

「――きっと、ラムは生まれながらにその子を愛してやまないでしょう」

たとえ赤子であったとしても、その絆を守るためなら手段を問うまい。

守るために、愛でるために、慈しむために、愛するために、全てを与えるだろう。

だから――、

「許してちょうだい。こんなときに、あなたにも荷を背負わせる悪い姉様を」

『共感覚』を通じて、ラムは己の肉体へかかる負担を眠る妹へ共有させる。

一度、スバルの権能を自分で体感したおかげだ。一度見れば、ラムは大抵のことは同じように実現できる。

スバルのアレも同じ仕組み――アレはおそらく、他者のオドと自分のオドを強制的に繋いで、かなり一方通行な『共感覚』を引き起こしているのだ。スバル側の負担を送ろうと思えば送れるだろうが、スバルは馬鹿なのでそれはしない。

逆に、一方的に引き取ることで、味方の負担を減らそうとする。

「――馬鹿ね」

先ほど、バテンカイトスへかけたものと同じ言葉。

しかし、それは同じ言葉でも、同じ響きではなかった。

スバルが権能でやったことを、ラムは『共感覚』で繋がるレムとのみ再現できる。

スバルの方に何があったかはわからない。だが、これで多少はマシになるだろう。ラムも、スバルとずっと繋がっているなんておぞましい状況から脱せる。

代わりに、ラムの負担はレムの方へ流れ込んでいるが――、

「――――」

眠り続けるレムは、何も言わない。

ただ健気に、その重ねた両手に持たされた白い角――杖の中に仕込まれていた、ラムの折れた角を触媒に、自身の角へと流れ込むマナをラムへ送り続ける。

その、ラムの必要とする莫大なマナを介するのは、レムの肉体にどれだけの負担をかけてしまうか計り知れない。

――故に、短期決戦だ。

「ねえ、さ、まぁぁぁ――っ!!」

吠えながら、蹴り飛ばされたバテンカイトスがラムの下へ舞い戻る。

『跳躍者』とやらの力を利用し、瞬く間に存在した距離を掻き消す魔技――しかし、その神出鬼没の技も、完全に相手に見切られていては意味がない。

「遅いわね、ウスノロ。これじゃラムが老婆になるわよ」

『千里眼』で相手の視界を盗み取る。

相手の焦点、目の動き、力の入り方、それらの統合で狙いは心を読むより容易く読むことができる。

突き出される掌を避け、すり抜け様に五指を全て反対側へ捻じ曲げた。

絶叫を上げかける喉に肘鉄を入れ、鋭い後ろ回し蹴りで相手を壁へ叩き付ける。

「か……っ」

「もっとも、ラムは老いても可愛いけどね」

言いながら、相手の服の襟首を掴んで引き下げ、再び後頭部から地面へ落とす。その顔面へ踵を叩き落とし、鼻面を粉砕。

掴みかかってくる両腕を下がって躱し、風の刃を無数に叩き込んだ。

「――ぎ、ああああ!!」

「可愛い顔で、ずいぶんと不細工な悲鳴ね」

全身を風刃に切り刻まれ、血飛沫を撒きながらバテンカイトスが吹き飛ぶ。

相変わらず、その肉体は落ち着きなく変化を繰り返しているが、徹頭徹尾、その首から上だけは見知ったそれから変えようとしない。

反吐が出そうだ。品がないので、ラムはそんなことをしないが。

「――――」

おびただしい血を流しながら、芸もなく飛びかかってくるバテンカイトス。

正しくは、おそらく神業めいた技術を駆使しているのだろう。様々な超越者の力を掛け合わせて、どだい、誰にも再現できない技を編み出しているはずだ。

その、あらゆる方向に特化した優秀な攻撃を、ラムはそれを上回る暴力で潰す。

百の、千の大技を、億の力で捻り潰す。これは、もはやそういう戦いだった。

バテンカイトスに触れさせもしない。調子がいい。

スバルと違い、やはり馴染む。枷を、さらに二つほど外した。

おそらくは全盛期の五割――否、当時のラムは幼かったから、成長した分、あのときよりもよほど今のラムの方が強い。

そして、その強さに溺れないことがラムの強みだった。

「やっぱり、角を折られて正解だったわ」

あの夜がなければ、いつか角の誘惑に屈していたかもしれない。

ありえないと言いたいところだが、ありえなかったことの答えはわからない。だから、ラムは今があって正解だったと、歩んだ道の清々しさを誇る。

角をなくしたおかげで、ラムは自分の嫌った『鬼』にならずに済んだ。

「そもそも、あの夜がなかったらロズワール様にもお会いできないのだから、比べるまでもなかったわね」

これ以上ない結論、それを答えとしてラムは掌を正面に差し出した。

その掌の目と鼻の先に、空間を跳躍したバテンカイトスが出現する。出現場所を読まれたことに驚愕する顔面、それを鷲掴みにして、

「連続して飛べないんでしょう? 手品は見飽きたわ。その顔も」

「ま――」

「待たない」

冷たく言い捨て、ラムは相手の顔面を掴んだ掌に風の刃を発生させる。

瞬間、目を、鼻を、唇を、耳を、顔のありとあらゆる部位をいっぺんに切り刻まれ、バテンカイトスが血を吐きながら絶叫した。

このまま、顔がなくなるまで風の刃で抉らせる。

と、それを実行したラムの手の内から、一瞬でバテンカイトスの姿が消えた。

しかし、逃れても、傷からも痛みからも、現実からも逃げられない。

「あ、ああ、あああああ――ッ!!」

泣き叫びながら、涙の代わりに大量の血を流すバテンカイトスがのた打ち回る。

それを見ながら、ラムはゆっくりとそちらへ足を進めた。

近付いてくるラムの足音を聞いて、バテンカイトスの姿が変わる。

長身の、たくましい肉体の持ち主。――迫る拳を叩き落とし、膝をへし折った。

蹴倒され、ラムから逃げるためにバテンカイトスの姿が変わる。

髭面の巨漢、丸くなって防護を固める。――その体を蹴り上げ、拳の連打で天井へ釘付けにし、自慢の皮膚の下をグズグズの肉塊に変える。

終わりのない責め苦を与えるラムを殺すため、バテンカイトスの姿が変わる。

禿頭の老人、神出鬼没の魔技。――もはや種の割れた手品を憐れみながら捕まえ、その顔面を壁に押し付け、全身を削るようにして走る。

「あ、ばばばばばばばばァァァ――っ!!」

ラムの剛力に押さえられ、逃げ場のないまま全身を削られるバテンカイトス。その姿がラムの手の中でグネグネと、最適解を求めるように変化する。

そのことごとくを封殺し、ラムは百の、千の、万の犠牲者を力ずくで弔う。

『暴食』に取り込まれ、鍛えた技を、歩んだ道を、愛した想いを、踏み躙られ、蔑ろにされた彼ら、彼女らのために、力で以て供養とする。

もう、技を、道を、想いを、利用されることはない。

何一つ、ラムには通用しないのだから。

「自分の責任は、自分で取りなさい」

腕を振り抜いて、ラムはその全身を激しく削られた冒涜者を投げ捨てる。

監視塔の通路に転がり、ビクビクと震えるバテンカイトス。その姿がゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと変化していく。

数多の『記憶』を頼りにしたその姿が変貌し――、

「あら、久しぶりね。会いたかったわ、その顔に。上から三番目くらいだけど」

「――ぁ、か、ぁ」

額の血を拭いながら、唇を緩めたラムの視線の先にバテンカイトスがいる。

本当の意味で、バテンカイトスだ。それまでの、他人の顔や技を借りた小手先の存在ではなく、自分の顔と姿に戻ったバテンカイトスが。

誰になろうと、頼ろうと縋ろうと、自分からは逃げられない。

角を折られようと、ラムが鬼であることが変えられなかったように。

『記憶』を奪われようと、ラムがレムの姉であることが変わらなかったように。

「せめて最後ぐらい、自分の力で抗ってみる?」

「――――」

「そう言えば、螺旋階段で気になることを言っていたでしょう。――あなた、弟や妹がいるようね。弟妹のために、意地を見せたらどう?」

倒れ伏したバテンカイトス、その痛々しい呼吸が不意に収まった。

命を落としたわけではない。ラムの言葉に反応したのだ。

弟と妹、その響きを聞いた途端、バテンカイトスの呼吸がわずかに落ち着く。そして、バテンカイトスはゆっくりと、その場で体を起こし――、

「おれ、たちの……ぼく、たちの……妹、に……」

「手を出すな、とでも? 生憎だけど、そんな主張ができる立場だと思うの? 一度でも誰かの訴えに耳を貸したことがある?」

「それ、れもぉ……」

「――――」

血塗れの顔をぐしゃぐしゃに歪め、バテンカイトスが涙声で懇願する。

その悲痛な響きの訴えに、ラムは微かに目を細めた。それから、吐息と共に目を伏せ、

「考えて――」

「――姉様は、優しすぎます」

刹那、視線が逸れた瞬間、バテンカイトスはそれだけ言い残し、姿を消した。

『跳躍者』ドルケルの空間跳躍――痕跡すら残さず、冒涜者は視界から掻き消えた。

――逃げたのだ。

△▼△▼△▼△

「ははッ! あはははッ! あはっははははァ!」

『跳躍者』ドルケルの異能を駆使し、バテンカイトスはラムの領域から逃亡した。

もう、ラムを喰らおうなんて暴挙は考えない。なりふり構わず、逃走を選ぶ。

勝てない。勝てない。あれには勝てない。

考えた通り、あれは怪物だった。時間を稼いだところで、より強くなって戻ってくるなんて規格外もいいところだ。

あれは、美食の皿にも悪食の皿にも載らない、そういう存在だった。

「ルイとロイ、二人には悪いけどさァ! 美食には下拵えが重要なんだ」

全身の負傷を押しながら、バテンカイトスは同じ獲物を狙っていた弟妹を嗤う。

ルイは早々に戦線離脱し、ロイも別なところで暴れている頃合いだ。いっそ、あの鬼が二人の方を狙ってくれれば、悠々と離脱することもできる。

『悪食』のロイは引き際を知らないから、いよいよ死ぬかもしれないが、仕方ない。

むしろ、ロイの『悪食』には辟易としていた。奴が好き放題に餌場を荒らすモノだから、こちらに回ってくるはずの美食が奪われることもあっただろう。

――否、これまでの自分の食したモノは、本当に『美食』だったのか。

「どいつもこいつも、役に立たない……あァ、クソ! クソ、クソ、クソ! あんな、あんなモノがあるなんてさァ! 知らなきゃよかったのにさァ!!」

それは、姉を慕う妹の気持ちが引き起こした感情ではない。

あれは計り知れない、絶大なモノへ焦がれる想い――バテンカイトスの内から生まれ、本当の本当に、心の底から欲しいと願う強烈な感情だった。

あれを、喰い尽くしたい。全身全霊で味わい尽くしたい。

『美食家』を標榜し、あらゆる感情や、優れた逸材を喰らってきたつもりだった。だが、この世に『本物』があると知ってしまった今、全ては色褪せていた。

ライ・バテンカイトスという存在が、『暴食』の大罪司教として価値あるモノと信じて集めてきた全てが崩れ去り、塵芥へと変わってしまった。

あれほど煌めいて見えた豪勢な食卓が、泥団子を乗せた砂場遊びと成り果てた。

「アレが、欲しい」

欲しい、欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい――、

あれを味わうためなら、何もかもを投げ捨てても構わない。

あれを喰らうそのためなら、これまで溜め込んだ全てを失って後悔はない。

あれ以外を味わいたくない。あれ以外で己を満たしたくない。

「おぶっ、うえっ」

走りながら、バテンカイトスの口の端から吐瀉物が漏れた。

痛みや苦しみが原因ではない。ただ、耐え難かった。最上と信じていたモノがそうではなく、至高を知ってしまったことで、自分を満たす全てが汚らわしい。

何故、あれ以外を素晴らしいなどと思ったのか。称賛したのか。堪能したのか。

真に素晴らしいモノ以外を愛して、いったい何が『美食家』なのか――。

「あァ、そうだ、そうだよ、そうだね、そうだろう、そうだろうさ、そうだろうとも、そうだろうからこそ、そうであってほしいからこそ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」

湧き上がる食欲、満たされる飢餓感、そして、欲しいと乞い願う心からの叫び。

一つになりたいと、混ざり合いたいと、食欲が外なる存在を取り込むことなら、自分を突き動かす『暴食』は、究極の愛だ。

「愛してる、愛してる……そう! 愛してるッ! 姉様を……いいや、ラム! 俺たちはお前を愛して――」

自らの内に芽生えた極大の感情、それを叫ぼうとした言葉が唐突に途切れる。

原因は痛み、それは新たに発生した痛苦によるものだった。

「――ぁ?」

頬を押さえ、べったりと血に濡れた掌をバテンカイトスは確かめる。

新たに生じた切り傷、それは逃げるために塔の外へ向かっていたバテンカイトスの頬を引き裂いた傷――原因は、何もない空間。

「――――」

そこに無言で指を伸ばし、バテンカイトスは自分の指先が切れるのを見た。

何もない空間に、見えざる刃がある。

「は」

それは、バテンカイトスが螺旋階段でラムに披露したモノと同じ技だ。

空間に不可視の刃を設置する技は、伝説的なシノビの技であったが、それが誰の『記憶』であったのかは捨ててしまったからもうどうでもいい。

問題は、バテンカイトスが置いた覚えのない刃がここにあることだ。

「まさか……」

指を浅く切った刃を避け、バテンカイトスはさらに奥へ足を進めようとし――その爪先が吹っ飛び、「あひっ」と悲鳴を上げてのけ反った。

そして、のけ反った後頭部をも浅く削られ、顔を強張らせて立ち尽くす。

――見えざる刃に、囲まれている。

「……はは、本気で?」

一度、見せただけだ。

戦いの中で一度、それも不可視の技なのだから、見えたわけでもなかっただろう。

しかも、彼女は実際にこの場に足を運んですらいない。にも拘らず、彼女はこちらの逃げ道を捕捉し、先んじて見えざる刃を設置した。

「――――」

バテンカイトスは、風の刃に切り裂かれて潰れた左目ではなく、かろうじて健在の右目に手を当てた。――『千里眼』で、ラムがこの目を共有している。

彼女は、バテンカイトスを逃がさなかった。この目に重なって、逃がさない。

「ひはっ」

バテンカイトスは嗤った。もはや、嗤うしかない。

愛した。初めて、何かに強く強く焦がれた。その規格外さに、惚れ惚れする。

そして――、

「あァ! 待って、待ってくれ! 待った待った、あと少し! あと少しだけでいい! あと少しだけでいいからッ!」

『千里眼』にどれだけ訴えようと、声は届かないのは知識の通り。

だから、必死の呼びかけは相手に聞かせるためのものではない。自分を突き動かすためのものだった。

大慌てで、バテンカイトスはすぐ脇の壁に取り付いた。

喰らったモノを放り捨ててしまって早まったことをした。『拳王』の異才さえ残っていれば、苦労しないで済んだものを。

そんな感情も後回しに、バテンカイトスは見えざる刃に腕を叩き付ける。両手の手首が吹っ飛び、傷口から血が噴き出した。

痛い、痛い、痛い、痛い、痛いが、痛みは、今はどうでもいい。

「受け取ってくれ、僕たちの想いッ! 見届けてくれ、俺たちの願いッ!」

ただ、血の噴き出る腕を壁に押し付け、力一杯に、文字を書く。

どす黒い血で、小さな体を目一杯使って、砂の塔の壁に大きく大きく文字を書いた。

「ぶはァっ」

そして、自ら後ろに下がり、右目を見開いてその文字を見る。

壁に描いたその血文字が、心の底から求めてやまない相手へと届くように。

彼女ならばきっと、最後の最期まで、自分と重なり合ったまま見届けてくれるから。

「あァ、愛して――」

――言い切る前に、『暴食』の大罪司教の首が風の刃に斬り飛ばされていた。

△▼△▼△▼△

「――フーラ」

指を振るい、風の刃を放ったラムは一言だけ呟く。

魔法の大小は効果範囲に影響しても、その威力自体はさして変わらない。まして、風の刃の切れ味で、細い首を飛ばすだけなら最小の威力で事足りる。

逃亡した『暴食』の背を追いかけ、ラムは風の刃を一枚だけ飛ばした。

必死で逃げる『暴食』の足取りは、『千里眼』で容易く追えた。狙いを正確にするために足止めの小細工をしたが、急造のわりにはうまく働いたようだ。

そして、最後の刃が届く寸前、『暴食』は異常な行動に出た。

己の腕を斬り飛ばし、その血で壁に血文字を書いた。

汚らしく、ひどく一方的なそれは、見る価値もない悪質な嫌がらせだったが――、

「――――」

最後の最期、その血文字がくるくると回転して飛ぶのを見届け、瞳を閉じる。

そうしなくては安堵できなかったから、そうしたまでだ。見届けなくてはならないといった義務感など、微塵もない。

冒涜者は、最後の選択を誤った。

弟妹のために命を懸ければ、ラムも慈悲を与えないではなかった。だが、奴はそれを餌にラムを謀り、自らが生き残るための道具とした。

喰らったモノを返す術も、知らないのだろう。知っていれば、それを取引材料として命乞いしたはずだ。――それもなかった。だから、報いを受ける。

「剣を握るものは剣に、魔に縋るものは魔に、炎に委ねるものは炎に。――そして、鬼に願うものは鬼に、拠り所にしたそれに滅ぼされる」

――それが、ラムの信じる応報の摂理だ。

腕を下ろし、長く息をついた。

それから、ラムは振り返り、ずいぶんと荒れた通路を戻る。近くで戦うわけにはいかなかったから、あえて距離を開いた。

それがもどかしい距離感で、ラムの足取りは自然と逸る。

「――ッッ」

崩れた壁を乗り越えて戻れば、ラムを出迎えたのは高い地竜の鳴き声だ。

漆黒の地竜はその体を使い、器用に背後にレムの姿を隠していた。最悪、戻ってくるのがラムでなかったとしたら、盾にでもなるつもりだったのだろう。

これだけボロボロになってなお、スバルの言いつけを健気に守ろうとするなど、本当にスバルにはもったいのない地竜――、

「――いいえ、違うわね。あなたも、レムを守りたいと思ってくれたの?」

「――――」

「そう。……いい子ね、パトラッシュ」

そっと、その地竜の首を撫でる、

傷だらけの彼女のことも、早々に『緑部屋』へと運び込む必要があろう。さすがの忠誠心を示す地竜も、この傷では無理はさせられない。

ラムも、妹の恩人――恩竜に無体な真似はしたくなかった。

そうして地竜をねぎらい、ラムは彼女の背後に庇われていたレムの下へ。

すでに『共感覚』を用いた角の力の共有は解いており、その額に角はない。ただし、鬼神同然のラムの力を肩代わりした反動は確実にその体を蝕んでいる。

ラム自身、遠からず訪れるだろう反動を思うと、気が重くなってくるほどだ。

だが――、

「今、このときは野暮なことは考えない」

ゆっくりとその場に跪いて、ラムは眠り続ける妹の頬に手を添えた。

実感のなかった姉妹としての絆、それは以前と比べてはるかに確かな実感を伴い、愛おしさと大切さが溢れてくるのを感じる。

角を折られ、鬼神の再来としての力を失い、今日までを過ごしてきた。

あの炎の夜が何のためにあったのか、これまでラムは、自分が自分になるためにあったのだと結論付けてきたし、それを間違っていたとも思っていない。

ただ、今日この瞬間から、それは変わった。

あの日、ラムの角が折れたのは――、

「――今日、ここで、ラムがレムの姉様だってわかるためにあったのよ」

『共感覚』を通じて、魂と魂の触れ合いで、一つの世界を分け合った双子だと、かけがえのない姉と妹なのだと、そう実感することができたから。

「今まで以上に、あなたと話をしたい。あなたとラムが、どんな時間を過ごしたか。どんな昨日を重ねたのか、足りない思い出を一緒に埋めましょう」

時が止まらず過ぎ行くから、未来の思い出なんていくらでも降り積もる。

だから、何も知らないまま、忘れられたままで全てが消えていかないよう、夜毎、何度でも思い出に花を咲かせよう。

「たくさんの、昨日の話をしましょう」

『眠り姫』は答えない。

けれど、その沈黙に胸を締め付けられず、温かなもので満たしながらラムは微笑む。

微笑んだまま、もう、自分の気持ちを疑うことなく、唇を動かせた。

「――愛してるわ、レム」

きっと、どんな時間を二人で重ねたとしても、この想いだけは裏切れない。

奇しくも、歪んだ大罪司教の最期の言葉と同じモノを口にしながら、それはやはり同じ音であっても、同じ響きにはならない。

愛を知らぬモノと、愛に生きるモノとでは、決して同じ響きには、ならない。

決して、同じ響きには、ならないのだ。

第六章87 『遠い眼差し』

ぐらぐらと、ものすごい勢いで頭が揺らされている。

誰かが自分の腰を横抱きにして、懸命に走っているのだとわかった。

こういう運ばれ方をするのは初めてではない。

物のように扱われるのに慣れている、というわけではないが、自分の配慮の足りない相方にこうした形で運搬されるのはよくあることだった。

「いい加減にしてよねえ、エルザ……」

何度注意しても耳を貸さない相手、彼女をなんと形容するかはいつも困る。

相棒、相方なんて言うほど信頼していないし、姉や母なんて呼べるほど近しくもない。友人なんて関係性じゃなくて、知人というほど遠くもなくて。

だから、いつも困ってしまうのだ。彼女を、なんと呼べばいいのか。

――エルザは、自分のことをなんだと思っていたのかと。

「揺らさないでってばあ……」

言っても治るものではないが、言わずに諦めたと思われるのも癪なので、届かないとわかっていながら文句を垂れる――否、垂れようとした。

そうする前に、言葉を上塗りするみたいに熱いモノが口の奥から溢れた。ごぼっと、食べたものを戻してしまったかと思うが、違う。

それは、自分の体の深いところから溢れ出した、赤い赤い血だった。

「クソ! 血が止まらねぇ! ベア子! どうしたらいい!?」

「とにかく! 吐いた血は出し切らせるかしら! 窒息したらマズいのよ!」

耳元で怒鳴り合う男女の声がして、それから体を横に傾けられた。咳き込み、なおも喉から唇から流れる血は止まらない。

何かが口に当てられ、止まらない血が吸い出される。かろうじて喉が空いて、窒息しかけた肺や脳へと空気が流れ込んでいった。

「――ぺっ! よっしゃ、呼吸戻った! 治癒魔法頼む!」

「わかってるかしら! でも、そればっかりにかまけてもられないのよ」

「そっちもわかってる! ……メィリィに深追いさせたのは俺のミスだ。その分のツケは俺が払う」

頭上で何事か言い合っているが、呼吸できるようになると、体が重くなってきた。

いや、おそらく体はずっと重かったのだ。重篤な部分が変わったことで、意識がそれ以外のところにも向き、結果的に被害の全体像が見えてくる。

手足、動かない。頭、ぐらぐらする。吐いた血はコップ三杯分くらいだろうか。全身が猛烈に熱く感じるが、特に熱いのは背中だ。

背中に全体的に、何か大きな違和感を受けてしまっている。

それが、体がうまく動かせないのと、自分が血を吐いている理由なのだろう。

直前のことも、言い合う男女も、何がどうなってしまったのかも、よく思い出せない。

ただ、薄ぼんやりと、何もかもが曖昧な世界に、引っかかるモノがある。

それは――、

「やく、そく……」

それを、誰かと交わしたような、そんな気だけがしていて――。

△▼△▼△▼△

――大サソリの体色が変化した瞬間、炸裂した光はこれまでで最大のものだった。

膨れ上がる白光が四方八方へ散り、その紅に染まった甲殻を狙った複数体の燃える餓馬王、それが木端微塵に砕け散り、その余波は拡大、砂海が割れた。

もちろん、その被害はスバルやベアトリスも免れなかったが、それ以上に当たりどころが悪かったのはメィリィだ。

魔獣の指揮のために前のめりになっていた彼女は、大サソリ――『紅蠍』の反撃をかなり強烈に浴びてしまった。

不幸中の幸いは、光の正体である尾針の直撃を免れたこと。もしも尾針に掠められでもしていれば、少女の小さな体は一瞬で蒸発していただろう。

そうならずには済んだ。だが、逸れた尾針が砂海を砕いて、その際に発生した衝撃波をまともに喰らった。それだけで、十分以上に瀕死の重傷だった。

「メィリィ!!」

スバルとベアトリスが砂に倒れる彼女の下へ駆け付け、抱き起こしたときにはひどい有様だった。とっさに体を丸めたのか、衝撃波の影響の大部分は背中だ。

黒いマントが吹き飛び、破れた衣服の下にはズタズタになった地肌が見える。重度の裂傷と火傷に見えて、スバルは一瞬、目の前が暗くなる。

だが――、

「馬鹿か俺は! 何のための俺だ」

遠くなる意識を拳骨で呼び戻し、スバルは己の内なる力に呼びかける。

常に発動し続けている『コル・レオニス』――仲間たちの負担を引き受ける力を使い、メィリィが受けた致命傷に近いダメージを引き取る。

無論、丸ごと引き取ってスバルが倒れれば元も子もない。メィリィを生かしつつ、スバル自身も昏倒しない配分が求められるが、

「大丈夫だ。俺ならできる。――やれるだろ、ナツキ・スバル」

以前までなら、ここで狼狽え、取り乱し、無様な醜態を晒したかもしれない。

しかし、『ナツキ・スバル』の辿った道のりを歩いて、スバルは己を見つめ直した。自分の役割はもちろん、自分にしかできないことも。

だから――、

「――エミリアたんと、ユリウスは大丈夫だ。エキドナとパトラッシュ、レムもセーブ」

塔内にいる仲間たちの反応を探り、それぞれの状態から最適解を求める。

反応の途切れたエミリアは気掛かりで、レイドと戦うユリウスの様子も気になる。エキドナとパトラッシュたちの位置も懸念事項、だが、信頼がそれを押しとどめた。

代わりに、スバルの意識はラムと、目の前のメィリィに集中される。

「――ぐ」

途端、メィリィの味わう苦しみが流れ込み、スバルは臓腑を焼かれる痛みに呻いた。

正直なことを言えば、ラムの負担の肩代わりだけでもかなりの消耗があった。そこへ、メィリィの瀕死の重傷を引き取るのは、まさに自殺行為。

「マズい……!」

威勢のいいことを言ったにも拘らず、両方を限界まで引き受けるのは不可能だ。

となれば、命に関わるメィリィの方を優先せざるを得ず、スバルはラムから自分へと流れ込む負担の程度を下げるしかない。

おそらく、それだけで察しのいいラムには何があったか伝わるはずだ。

「あとで、絶対どやされる……」

『ハッ! あれだけ威勢のいいことを言っておいて、この様。所詮はバルスね』

と、嫌にリアルな反応が想像できて、スバルは苦々しい思いで血の味を堪える。

『コル・レオニス』の効果はあくまで負担の肩代わりであるはずだが、実際に血の味を感じるのは、ある種のフィードバックがスバルの肉体に起きている証だ。

思い込みが肉体に与える影響は殊の外大きい。

焼けた鉄を押し付けられたと信じるものの体には、実際に火傷が生じるという現象も起こり得ると聞いたことがある。

つまり、背中や内臓に重大な傷を受けたメィリィのダメージを引き取ることで、スバルの肉体にも同じ反応が生まれるということだ。

下手をすると、同じ死因の死体が二つ生まれることにもなりかねない。

「それはちょっと、困るから、な――!」

口内に溜まる血を吐き捨てて、メィリィの体を担いで立ち上がる。そして、振るわれる餓馬王の炎の槍を下がって躱し、ベアトリスの紫矢で牽制、距離を取った。

今襲ってきた餓馬王は、先ほどまでスバルたちを乗せてくれていた一頭だ。

状況が悪くなった途端、利に聡い魔獣がまさかの裏切り――ではなく、メィリィの加護が切れて、通常営業の塩対応に戻っただけの話。

メィリィの指示がなければ、魔獣はスバルたちを敵とみなす人類の害敵だ。

そして、そんな魔獣はこの砂海に、今や無数に存在している。

「げほっ」

「メィリィ!」

魔獣と距離を取りながら、走るスバルの腕でメィリィが吐血する。咳き込みながら血を吐くメィリィ、その苦しげな様子に焦燥が高まる。

落ち着いて、治療する時間の確保さえできない。このままでは――、

「クソ! 血が止まらねぇ! ベア子! どうしたらいい!?」

「とにかく! 吐いた血を出し切らせるかしら! 窒息したらマズいのよ!」

歩幅の違いを懸命さで埋めながら、ベアトリスが少ないマナを駆使して周囲の魔獣を近付けない。その間、スバルはメィリィの体を揺すり、喉の血を吐かせようとする。

しかし、それでもメィリィの顔色は変わらず、血も止まらない。仕方ないと、スバルは少女の口に拳で作った即席のストローを当て、それ越しに血を吸い出した。

「えほっ! げほっ」

「――ぺっ! よっしゃ、呼吸戻った! 治癒魔法頼む!」

「わかってるかしら! でも、そればっかりにかまけてもられないのよ」

「そっちもわかってる! ……メィリィに深追いさせたのは俺のミスだ。その分のツケは俺が払う」

厳密には、失敗のツケはすでにスバルが支払いを始めている。

ただし、凄まじい勢いで利息は積み重なっていき、ラムへの融資を減らしながらもスバルはすでに青色吐息の状態だった。

このままで、あとどれだけ時間を稼げるか――、

「いいや、ここが俺の踏ん張りどころ。ここでやらなきゃ男がすた……」

「ふりゃ! かしら!」

「おう!?」

歯を食いしばり、権能の効果を全身に味わいながらメィリィを抱えて走るスバル。そのスバルの頭へと、唐突にベアトリスが飛びついてきた。

思いがけず、肩車するような形になってスバルは驚く。無論、ベアトリスは綿菓子のように軽いので、それが逃走の妨げにはならないが――、

「ベア――」

「スバル、何もかも一人で抱え込むのはよすのよ。ベティーとスバルはパートナーで、メィリィも仲間の一人かしら。助けるって、約束したのはスバルだけじゃないのよ」

「――――」

ぐっとスバルの頭を丸ごと抱え込み、ベアトリスは静かな声で訴えかける。

それを聞いて無言になるスバル越しに、彼女はその優しい治癒魔法でメィリィの傷の手当てを始めた。――じわりと、温かな光がメィリィを癒していく感覚、それがスバルにも彼女越しに伝わってくる。

この温もりの分だけ、ベアトリスが皆を思ってくれていることも。

「――――ッッッ」

「――――」

背後、魔獣たちの仲間割れは続いている。

幸い、メィリィの加護が切れたとしても、紅蠍と餓馬王とで即座に和平条約が結ばれることはなかったらしい。それは他の魔獣も同様だ。

紅蠍の薙ぎ払う大鋏と尾針が、スバルたちへ迫る魔獣の半分を倒してくれる。

当然、もう半分はこちらを狙ってくる以上、悠長にはできない。

「選択肢は――」

実は、ないわけではない。

ベアトリスのかけてくれた言葉、メィリィを大事に思ってくれる彼女の思いを汲み、この置かれた状況を打破まではいかずとも、変える手段は確かにあった。

ただし、実現可能かどうかは試してみなければわからないのと、その手法のモデルがスバルにとって最悪の相手であったため、実行を躊躇する。

しかし――、

「スバル! 躊躇う理由がベティーのためなら、いらないかしら! 理由がベティー以外なら、あとで一緒に謝ってあげるのよ!」

「――――」

「一緒に苦しみたいし、一緒に喜びたい……ベティーを仲間外れにしない! それが、ベティーとスバルの契約の条件かしら!」

抱え込むスバルの横顔に何を見たのか、怒りを込めてベアトリスが叫ぶ。

頭のすぐ後ろにいるものだから、ベアトリスの今の顔は見えない。だが、怒りの形相であっても可愛らしいのが、スバルの自慢のパートナーだ。

だから、そのパートナーからの言葉に勇気をもらい、スバルも甘える。

悩む時間は、ない。

悩む必要性は、悩むなと、そうパートナーが言ってくれたからそれもない。

故に――、

「愛してるぜ、ベア子」

「ベティーの方が上なのよ」

互いに愛情を交換し合い、スバルは腕の中で瀕死のメィリィを見下ろす。

そして、その命を決して取りこぼすまいと心に決めて――、

「――コル・レオニス、セカンドシフト」

自ら命名した『獅子の心臓』に新たな名を与え、自分の中でギアを明確に切り替える。

そうすることで、己に課した『小さな王』としての権能を拡大――みんなの想いを背負って立つ、孤独な王様としての在り方、それを叱られた。

かといって、自分の積み荷を誰かに押し付ける恥知らずな『強欲』にはなれない。

だから、スバルがこの権能の果てに望むのは――共に在りたいと、スバルをそう望んでくれる仲間と荷を分かち合うこと。

つまり――、

「セカンドシフト――負担の分配」

スバルが一人、全身で味わわなければならなかった仲間たちの負担。それを、分かち合う意思のある相手と分配する。

この場においてはさしあたり――、

「――スバル」

「ああ」

「……めちゃめちゃしんどいかしら!!」

「ああ、めちゃめちゃしんどいんだ!!」

『コル・レオニス』の第二段階が発動し、スバルの受ける負荷が分配される。

半分とはいかない。半分の半分程度だが、それでもスバルの負担はずいぶんと軽くなり、代わりに負担を共に背負うベアトリスの顔色は悪くなる。

その辛さを誤魔化すように怒鳴ったベアトリスに、スバルも声高に怒鳴り返した。

辛い。苦しい。やってられない。

みんなの負担を全部引き受けて、王様なんてクソ喰らえだ。――だから、一人では立てない『小さな王』を、支えたいと思ってくれるみんなのおかげで立っていられる。

「ちなみにこの苦しみ、お前に分けられたりは……」

「――――」

「しねぇよな、残念」

負担を分け合い、肩車するベアトリスにメィリィを治療してもらいながら、スバルはその意識を紅蠍の方へと向ける。

その正体はシャウラであり、今も彼女とは『コル・レオニス』を通じて存在が繋がっていることを感じる。淡く、大きな光がそこにあると。

しかし、残念ながらスバルとベアトリスが味わう負担をその紅蠍へ引き渡すことはどうやらできない。――受け取る意志が、今の彼女にないからだ。

『小さな王』を支えられるのは、支えたいと思ってくれる相手だけ。

実にわかりやすく、融通の利かない力。だからこそ、傲慢にならずにいられる。

自分が誰かに支えられていると、忘れないでいられるから。

「ベア子! 頭と体で違うことして!」

「――っ、難しい注文してくれるもんなのよ!!」

体にはメィリィの治療の継続を求め、頭には次なる状況の打開策を一緒に考えてもらう。何故なら発光する紅蠍の尾が、スバルたちへ向けられて――、

「――E・M・M!!」

切り札一枚目の絶対無敵魔法が切られ、衝撃波がスバルたち三人を呑み込んでいった。

△▼△▼△▼△

――雲の下の出来事は、雲上のエミリアには伝わらない。

ただ、命懸けの戦いを繰り広げる仲間たちと同様、エミリアも熾烈な戦いを潜り抜けた果てに、ようやくその場所へと辿り着いていた。

「――――」

プレアデス監視塔の最上層、一層よりさらに上、真の意味でのてっぺんへの到達。

多数の氷兵の犠牲があって辿り着けたその場所で、エミリアが目にしたのは中央の柱の根本――そこに置かれた、黒いモノリスだった。

モノリス自体は、三層の『試験』の最中にも見かけたものと同じに見える。

違うのは、モノリスが浮いているわけではなかったことと、真っ平らだったはずの表面に目を引く特徴があったこと。

それは――、

「――誰かの、手形?」

紫紺の瞳を丸くしたエミリア、その視界にあるのはモノリスの表面に押された複数の手形――全部で六つの、異なる男女の手形だった。

掌の大きさや指の太さから、それが全員別々の人間の手であるとわかる。

ただ、わざわざこんな風に並べて手形を残すぐらいだから、その人物たちが親しい間柄にあったことと、この監視塔の関係者なのは間違いなく――、

「……もしかして、シャウラのお師様とか、レイド?」

塔の関係者を思い浮かべたとき、エミリアが思いつくのはそれぐらいだ。

あとはボルカニカもいるにはいるが、ここにあるのはいずれも人間の手形なので、彼の龍の痕跡が残されている様子はない。

だから、エミリアに思いつく手形の該当者は六人中二人だけ。

「――? 待って、これって」

そこまで考えたところで、エミリアは手形の一つに違和感を覚えた。

それは、六つの手形の一番端にちょこんと押された手形――隣に同じぐらいの大きさの手形があるが、端の二つだけが明らかに小さい。

おそらく、その二つだけが女性の手形だからだ。

そして、エミリアの意識を引きつけたのはその手形の片方、それが――、

「この手形って、私の……?」

エミリアは眉を顰めながら、自分の右手を見下ろして呟く。

そんなことはおかしなことなのだが、そんな気がしてならない。そのモノリスに押された手形の一つ、それが自分のモノのように思えるのだ。

「――――」

息を呑み、エミリアはモノリスと向かい合った。そして、自分の疑念を晴らすため、その手形へと自分の右手を伸ばして――、

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「――っ! 戻ってきた!」

モノリスに触れる直前、上から降ってくる厳めしい声にエミリアは振り返る。

すると、翼をはためかせて最上層へ降り立つのは、先ほどエミリアの氷兵に喉元の白い鱗を触られ、激しく悶えていたボルカニカだった。

『――――』

モノリスを背に、エミリアは再び『神龍』と相対する。

柱をよじ登る戦いもうんと大変だったが、ここでさっきの続きとなるならかなり厳しい戦いを強いられるだろう。それなりの広さはあるが、最上層の空間は一層よりも狭く、立ち回りが難しい。

「それに、モノリスが壊されちゃったらすごーく困っちゃう……」

モノリスの丈夫さはわからない。

三層でモノリスと遭遇したときも、叩こうとするのはユリウスやラムたちに止められてしまったため、その強度は不明のまま。

ただ、いくら頑丈にできていても、『神龍』に力一杯叩かれて無事とまではとてもエミリアには思えない。

「あなたに叩かれたら、きっと壊されちゃうわ。だから――!」

やらせるわけにはいかないと、エミリアは再び自分の周囲に七体の氷兵を召喚する。

最上層へくるために散々砕かれた氷兵たちだが、エミリア同様、その表情はやる気に満ち満ちていて心強い。

彼らが氷の武器を構えるのに合わせ、エミリアの二振りの氷剣を両手に取った。

そして、七人の氷兵と一丸となってボルカニカへ突っ込む。

「いくわ、みんな! ボルカニカは、首の白いところが弱いから!」

あれだけ激しい反応を見せたのだから、あの白い鱗がボルカニカの弱点だ。

それを傷付けるまではしたくないが、触れるだけでも誰かが届けば、エミリアがあのモノリスを調べる時間が取れるはずと――、

「――ぇ?」

次の瞬間、エミリアは自分の視界がぐるりと上下反転したことに声を漏らす。

「――――」

何が起こったのか、とっさのことすぎて判断がつかない。

ただ、前進するために踏み込んだ足に、何かが素早く触れていった感覚があった。それも、ひっくり返ってから触れられたと気付くほどささやかに。

そして、それと同時に――、

「あ」

天地がひっくり返るエミリアの周囲、七体の氷兵がいっぺんに砕け散った。

全員、その頭部だけを器用に砕かれて、為す術もなくマナの塵へと姿を変える。それを肌で感じたところで、エミリアは戦慄と共に気付いた。

今のは、ボルカニカの尻尾だ。

ボルカニカの尾が高速でエミリアの足を払い、同じ尾で氷兵たちの頭を割った。

それを、高速の尾の一振りで実現したのだとわかり、喉が凍り付く。

とっさに、エミリアが防ぐことができた最初の不意打ちよりも桁違いに速い。

スバルの鞭が一なら、ボルカニカの尾撃は千か万か、それぐらいの差があった。

その強烈な攻撃の前には、エミリアさえも容赦なく敗北していただろう。

だから、疑問だった。

「なんで、私には優しくしたの……?」

エミリアに対しては足払い、氷兵に対しては頭部を砕いた。

ここで生まれた差はなんなのか。まさか、さっき白い鱗に触ったのと同じ顔をしているから腹いせをされた、とは考えにくいが。

と、そこまで考えたところで、エミリアは自分がいまだに天地のひっくり返った状況から抜け出していないのを思い出す。

「いけな――っ」

そのまま、危うく頭から床に叩き付けられる寸前だ。

再び、反転して宙にあるエミリアの足を横合いから柔らかい衝撃が打って、

「わ、ととっ……!」

反転状態からくるりと半回転させられ、エミリアは危うげに着地する。

そして、危なかったと顔を上げたところへ――、

『……汝は、何をしているのだ』

そう言いながら、エミリアの眼前に顔を突き付ける『神龍』の姿があった。

「えっと……?」

それは文字通り、目と鼻の先だった。

エミリアがちょっと顔を前に出せば、その岩のように鋭く頑健な肌と鼻が触れ合ってしまうぐらいの直近。

その距離に龍の顔があること、それ自体もエミリアを驚かせることだった。

だが、それ以上にエミリアを困惑させたのは――、

「さっきまでの、ずっと繰り返してたのと違うこと喋ってる!」

『――――』

「正気に戻ってくれたの? だったら、色々話せる? 『試験』のこととか、この監視塔の決まり事を変えたいとか、たくさん相談があって……」

ボルカニカの様子に希望を見て、エミリアは矢継ぎ早にそう声をかける。

ボケてしまったと思った『神龍』が復活したなら、改めて『試験』についての話ができる。それなら、無理に乱暴な手段に訴える必要もないのだ。

「ねえ、お願い! ちゃんと話を……」

『そうも奔放に飛び跳ねて、転びでもしたらなんとする。万一があれば、叱責を受けるのは我であろう。……皆、汝には頭が上がらぬ故』

「ボルカニカ……?」

塔の中のみんなの様子が気掛かりで、必死に訴えるエミリアにボルカニカがまたしても繰り言ではない言葉をかけてくる。

しかし、その内容はエミリアの言葉に答えたものと思えず、困惑は深まった。

ただ、ボルカニカのエミリアを見る金色の瞳、そこには穏やかな色が宿っている。

直前までの、茫洋として曖昧なものとは異なる、感情の光だ。

それは優しく穏やかに、慈しむようにエミリアを見つめていて――、

『フリューゲルやレイドは何処へいった? 別れ際に言葉もなくては、シャウラが寂しがるぞ。ファルセイルも、喧しく騒ごう』

「――――」

エミリアを優しげな目で見つめたまま、ボルカニカがそう言葉を続ける。

どこか遠いモノを見る眼差しで龍が語ったのは、フリューゲルとレイド、それにシャウラの名前と、もう一人――、

それが誰なのか、家名まで聞かなくてははっきりとわからないが、その響きにエミリアは覚えがあった。ファルセイルと、それがエミリアの覚えの通りなら。

「ファルセイルって、ファルセイル・ルグニカ? 四百年前の王様?」

それは、王選に向けての勉強の中で何度も文献に名前の挙がる人物だ。

ファルセイル・ルグニカ――ルグニカ王国の三十五代目の国王にして、四百年前の『魔女』の時代に国を統治した偉人。

そして、他ならぬ『神龍』ボルカニカと盟約を結び、長きにわたるルグニカ王国の繁栄の第一歩を刻んだ『最後の獅子王』。

「――――」

ちらと、エミリアは視線を背後のモノリスへ向ける。

六人の手形――ボルカニカの言葉が無関係でないなら、手形の三人はフリューゲルとレイド、それにファルセイルだろうか。あとの三人は不明だが、一つは未確認ながらもエミリアの手形と一致するのではないかと思われる。

あとはおそらく、男と女が一人ずつで。

「なら、女の人の手形はシャウラの……?」

可能性として、それが一番高いと考えられる。

最後の男性の手形の正体は不明だが、今のところはそのあたりで落ち着くだろう。相変わらず、目下最大の問題は知らない自分の手形がある事実――、

「まさか、私……森の母様たちのこと以外にも、まだ何か忘れてるの!?」

疑い始めると、エミリアには自分で自分の記憶に蓋をしていた過去がある。

そうでなくても、『暴食』の大罪司教の存在があるおかげで、『記憶』や『名前』がしっちゃかめっちゃかになることがあるとわかっている状態だ。

もしかしたら、エミリアは前にここにふらっとやってきて手形を押したくせに、それをぽんとうっかり忘れているだけなのではないだろうか。

「……ううん、いくら何でもそんなことないはず。パックがいてくれたら、私がここにきたことがあるかどうかわかったのに」

『――どうした? 悩み事か?』

「あ、ええと、大丈夫。心配してくれてありがと。ありがとなんだけど……」

結局、ボルカニカとの会話の成立が怪しく感じられ、エミリアは困る。

問答無用で尻尾や前足に叩かれるよりよっぽどいいが、『試験』に関して手詰まりな状況であることは変わらないまま。

どうしたものかと、エミリアは思案し――、

『何かあれば話せ。汝の憂いなら我が取り除こう、――サテラ』

――そう呼ばれ、息を詰めた。

「――――」

サテラと、その名前で呼ばれることは初めてではない。

銀髪に紫紺の瞳、そしてハーフエルフ――その特徴を備えたエミリアを見れば、この世界を生きる多くの人間は同じ存在を連想する。

あとは、それをなんと呼ぶのかという違いがあるだけだ。

ある人はサテラと呼び、ある人は最悪の災厄と呼び、ある人は『嫉妬の魔女』と呼ぶ。

だから、誰かがエミリアをそう呼んだとしても不思議はない。

ただし、ボルカニカが、親愛を込めてサテラの名を呼ぶのは不思議なことだった。

だって、ボルカニカとレイド、それにシャウラに己の功績を押し付けたフリューゲルの三者は、『嫉妬の魔女』と呼ばれるサテラを封じた張本人。

それがどうして、彼女のことを――、

「どうして、『嫉妬の魔女』に優しく話しかけるの?」

純粋と、そう呼ぶにはいささか不用意な問いかけだった。

それをこの瞬間のエミリアに気付けというのは酷な話だったが、少なくとも、状況を客観的に見たとき、起点となってしまったのはこの一言だ。

あるいはサテラでも、『魔女』でもよかったかもしれない。

ある人はサテラと呼び、ある人は最悪の災厄と呼び、ある人は『魔女』と呼ぶ。

そして、エミリアは『嫉妬の魔女』とそう呼んだ。

それが――、

『――『嫉妬の魔女』』

――ボルカニカの、遠くを見る眼差しへの変化を生んだ。

金色のボルカニカの瞳、そこに生じた変化は劇的なものだった。

変わらず、エミリアを見つめる龍の頭部は目と鼻の先にあった。だからこそ、その変化の度合いを間近で捉え、エミリアの全身が総毛立つ。

これは、良くない変化だと直感する。

森育ちのエミリアには、野生の中で育ったという経験値がある。そうした状況で、豹変する動物を、魔獣を幾度も見てきた。

その感覚に従い、エミリアは弾かれるように後ろに飛んだ。

それで正解だった。

「――っ」

瞬間、エミリアの目の前の空気が爆ぜる。

それは誇張でも何でもなく、文字通り、空間が圧縮され、直後に膨らみ、爆ぜた。

原理のわからない現象は、まるで空間そのものをねじ繰り回したような奇妙なものであり、その位置にいれば防護の硬軟と無関係にねじられていた。

そしてそれは、ちょうどエミリアの頭があった位置に発生していて。

ほんの刹那、頭を下げるのが遅れていれば、エミリアは死んでいた。

尻尾の打撃といい、今の空間のねじれといい、塔の上に登ってきてから、エミリアは死にかねない状況を何度も経験している。

未だかつて、ここまで命の危うい状況は初めてかもしれない。

「でも、全部何とかなってるってことは、すごーくついてるかも」

運が味方した要素がエミリアを生かしているなら、エミリアがこうして息ができているのも幸運の賜物、そうエミリアは自分の状況を前向きに解釈した。

そうでもしなくては、続く状況の変化にへこたれそうになってしまう。

何故なら――、

『――サテラ』

再び翼を広げたボルカニカが、確かな敵意をこちらへ向けているのだから。

それを見て、エミリアは地団太を踏みたい気持ちを堪える。せっかく、ボルカニカが正気に戻ってくれたように思えたのに、また逆戻りだ。

それどころか、さっきの半分寝ていたようなときと違い、もっとやる気を出してボケてしまっているように見える。

「――アイシクルライン」

故に、エミリアも手加減不要、不退転の覚悟で自分の魔力を開放する。

大気が冷たくひび割れ、ゆっくりと白い靄が漂い始めた。それは雲の上に位置する監視塔の最上層だろうと変わらず、世界を白く凍えさせる。

音を立てて、ゆっくりと生じるのは氷の武具――床に突き立つそれらから槍を引き抜くと、エミリアはそれをくるくると回し、正面に向ける。

改めて、ボルカニカとの一戦に備えた。

ただし、エミリアを足払いした一発、あれがボルカニカの本気の戯れだとしたら、この先の攻撃にエミリアが対応できるかはわからない。

ボケていたときとは桁違いの強さ――否、今もボケてはいるようなのだが。

「でも……」

真っ直ぐ、相手の金色の瞳を見つめるエミリアは、そのボルカニカの態度をただボケてしまっているからと、そう言い捨ててしまいたくなかった。

だって、ボルカニカの瞳には哀しみが、悲痛なそれが満ち満ちていたから。

『サテラ、そうだ、サテラ。『嫉妬の魔女』と成り果てた汝を、我らが止めねば』

「……仲良しだったの?」

『あの日、我が躊躇わなければよかった。あの日、我が躊躇わなければ、誰も――』

問いかけへの答えはなかった。

だが、そのボルカニカの震える声が、答えそのものに思えた。

悔やむ龍が大きく息を吸い、再び世界を白く焼き尽くす息吹きがくる。

その前に、エミリアは踏み込み、あの白い鱗を打たなくてはならない。それができなくては、エミリアも、当然、他のみんなも助からない。

「――スバル、ベアトリス、ラム、レム、メィリィ、パトラッシュちゃん、エキドナ、ユリウス、アナスタシアさん」

この塔にいて、大変な目に遭っているみんなのことを考える。

助けなくてはならないみんなを、同じ目的のために顔を上げているみんなを。

そうすることで、エミリアの胸の奥、そこから知らない力がモリモリ湧いてくる。

『――『嫉妬の魔女』、サテラ!!』

「――いいえ、違うわ。私はエリオール大森林の『氷結の魔女』、エミリア」

エミリアを、どうやら似ているらしい誰かと勘違いする『神龍』へ、エミリアは湧いてくる力を自らの全身に流しながら、大きな声で答える。

敵は『神龍』何するものぞ。――エミリアには、みんながついている。

だから――、

「――名前だけでも、ちゃんと覚えてね!」

――プレアデス監視塔を取り巻く最終局面、雲上と雲下で同時に光が爆発した。

第六章88 『――志を問わん』

――雲下、雲上で光が発生したのは、ほとんど同時のことだった。

厚い雲と、それ以上の隔たりが分ける二つの戦場、それらを同時に観測することができたモノがいたとしたら、それは外なる世界の観測者以外にあるまい。

プレアデス監視塔の攻略に端を発した戦いは、いよいよ大詰めを迎えつつある。

その状況は――、

「う、おおおお――っ!!」

着弾した砂の大地が吹き飛び、砂煙と衝撃波が荒れ狂う中、スバルは叫んだ。

全身に襲いかかる破壊の力は、スバルの肉体を一瞬で粉微塵にして余りあるモノ。それでもなおスバルが粉々にならないのは――、

「――E・M・M!!」

スバルとベアトリスの二人が編み出した、三つのオリジナル魔法の一つ。

大雑把に言えば、スバルとベアトリスの肉体の時間の流れを止めて、外からの影響を受け付けなくするという類の絶対防御魔法。

「編み出した直後はめちゃめちゃテンション上がったのに、似た能力使う奴が最悪だったせいで、これ使うとかつてないほど生き残るために手段選んでない感がする!」

「その件なら、もう十分話し合ったのよ! ベティーはとっくに目をつむるって決めてるかしら!」

スバルの嘆きを聞きつけて、肩車されているベアトリスがそう怒鳴る。

『強欲の魔女』の大罪司教、レグルス・コルニアスの『無敵』の性能は、このE・M・Mの上位互換とでもいうべき強力な力だった。使い手は最悪だが実用性はぴか一、目指すべき点はあの域だが、目指したくない域というのが本音のところ。

「思い出すだけで胸が悪くなるような奴でも参考に、だ……!」

経験を喰らって生きる、と言えば聞こえもよくなるだろうか。

それもそれで、『暴食』の大罪司教を思わせる考え方にも思えて、右を見ても左を見ても邪魔をしてくる奴らだと、スバルは心底うんざりする。

だが、それがなければ、そもそも自分も、ベアトリスも、メィリィも守れない。

「――ぁ」

スバルの腕の中、目をつむったメィリィがうわ言のように息をこぼす。

苦しげな表情だが、苦しげな間は息がある証拠だ。流れ込んでくる彼女のダメージも、ベアトリスの治癒魔法の影響で徐々に和らいでいる気がする。おそらく、誤差ぐらいの範囲だが、好転しているはずだ。きっと、たぶん。

「治癒魔法とE・M・Mと、両方使うのは大変なのよ! ベティーじゃなかったら、三人ともとっくにとっくにお陀仏かしら!」

「わかってる! ただ……」

ベアトリスの叱咤に感謝しつつ、スバルは己の内に問いかける。

ダメージの有無は、もはや奥歯を噛んで堪える以外にない。問題は、スバルに残されているマナの残量――そもそも、魔力タンクとしてしか役立たないくせに、スバルのタンクの容量は人並みか、ちょっと落第ぐらいしかないのだ。

それが、E・M・Mを使用することで、文字通り、穴の開いたバケツから水が流れ出すような勢いでどんどん消費されている。

この勢いでは遠からず、E・M・Mか治癒魔法の方が打ち止めだ。

そして、

「メィリィの治癒魔法を止めるって選択肢がねぇ……!」

「なら、E・M・Mを切るしかないのよ。タイミングと、その後の対処はスバル任せになっちゃうかしら!」

「おうよ、任せとけ。ベア子、お前はメィリィの治療と、俺が指示したことにすぐさま反応する都合のいい精霊としての心構えを頼む!」

「言い方が! 悪い! のよ!」

言い合い、視線を交わして、スバルとベアトリスは連係に一秒の乱れもなく、E・M・Mを解除――その場から、飛び出すようにして離脱する。

背後、紅蠍や魔獣の群れは争い合いながらもスバルたちを狙っている。

相変わらず、監視塔から離れられないハンディを背負ったまま、厄介なのは紅蠍の積極的な狙いがスバルにあること。

最悪、その状況が変わらないのであれば――、

「――『魔女』を」

自分の『死に戻り』を打ち明けることで瘴気を発生させ、周囲の魔獣を自分の方へと引きつける。――芸がないが、それはスバルがよく頼る手法の一つだ。

現時点で十分以上に危険な状態だが、紅蠍の執着がスバルにあるなら、他の魔獣と同士討ちさせる意味でやる価値はある、かもしれない。

しかし、それに賭けるには巻き添えにするものが大きすぎる。

ベアトリスが、メィリィが、そしてスバルが倒れれば少なからず負荷を預けてくれているラムの方も総崩れになり、最終的に芋づる式で壊滅する。

『コル・レオニス』の力で、結果的に一蓮托生感が強くなりすぎていた。この権能の力でどうしてあそこまで孤独になれたのか、レグルスの生き様が本当にわからない。

「――――」

「――っ! E・M・T!!」

益体のない思考の果てに、白光が頭部を蒸発させる未来を感知、スバルは『死』の予感に喉を涸らしながら、オリジナル魔法の二枚目を切る。

『E・M・T』は、動けなくなる『E・M・M』の弱点を排除し、あらゆる魔法を正面から打ち消すことに成功するアンチ魔法――原理上、それがマナを帯びて放たれたモノであるのなら、この魔法に打ち消せないものはない。

ただし――、

「E・M・M解除して五秒で切り札切っちまったぁ!」

口ほどにもないどころの話ではなく、それどころか次を打つ手立ても消えているため、本気の本気で八方塞がり。

そのままスバルたちを狙い、紅蠍の尾針が、餓馬王の炎が、その他魔獣たち諸々の攻撃がこちらへ放たれ、こちらを消し炭にしようとする。

息を呑み、スバルは身を硬くする。三枚目、最後のオリジナル魔法を使わなくては、この状況は打破できまい。だが、あれは未完成だ。

失敗した場合、スバルたち三人が虚数空間を漂う結果になる可能性があるが――、

「土壇場での覚醒に賭けられるほど、自分が信じられねぇ――!」

ナツキ・スバルが大した奴だと認めることはできても、それはどんな状況に置かれても打破するスーパーガイであると盲目的に信じたわけではない。

ただ、諦めが悪いだけだ。ねじ伏せられても、立ち上がる回数が人より多いだけ。つまりそれだけ、人より多くねじ伏せられているという意味でもある。

「ここで、負け癖発揮してる場合じゃねぇんだ。分の悪い賭けだが……」

「――意地と見栄でどうにかしてみせると? それも、実に君らしい決断だがね」

試すしかない、とスバルが決断しかけた瞬間だった。

不意の声が頭上から降ってきて、放たれる『死』の攻撃とスバルたちの間に人影が割り込む。それがあまりに眩しくて、スバルは思わず目をつむった。

比喩表現抜きに、眩しかったのだ。――その人影が、虹色に輝いていたから。

「――アル・クラウゼリア」

直後、襲いくる猛撃に対して、光を打ち払う光が放たれる。

破壊の衝撃波も、焼き尽くす炎も、自らの命と引き換えの突貫もあった。それらを黒い光が減退させ、溢れ出す水が呑み込み、吹き上がる砂嵐が勢いを逸らす。

まさしく、自然そのものを操るかの如き所業、それを為したのは砂の上に着地し、すらりと長い騎士剣を振るった優美な背中――、

「――故あって、馳せ参じた。危ういところだったようだね」

そう言いながら、ちらとスバルへ振り向くのは、ご存知『最優の騎士』ユリウス・ユークリウスだった。

その白い装いのあちこちを血や埃で汚しながらも、彼は悠然とそこに立つ。

纏った虹の輝きも同然に、以前にも増して優麗たる立ち姿で。

その堂々たる参上に、スバルは「ユリウス……」と声を震わせ、

「お前……終わったら、他の危ないとこ助けにいけって伝言頼んだだろうが!」

「ああ、聞いたとも。だから、ここへやってきた。すまないが、他の面々と比べても、ここが一番危険だと判断したのでね」

「うるせぇ! その面の傷どうした! レイドは!?」

「完敗だ。気持ちよく勝ち逃げされたよ」

「だっせぇ! どうせなら勝ってこいよ! きてくれなかったら死ぬとこだったわ、いっぺんしか言わねぇけどありがとよ!」

悪態に交えた感謝を聞いて、左目の下に白い傷を作ったユリウスが「ふ」と笑った。

気障ったらしい態度だが、どうやら彼も彼でレイドとの戦いを終えて、何やら得るものがあった様子。その証拠に――、

「準精霊たちと仲直りしたのか」

「正確には、彼女たちは蕾から開花し、精霊へと昇華された。それに、仲直りというのも適切ではないね。仲違いしていたわけではないのだから」

答えるユリウスの周囲を取り巻くのは、淡く、その光を増した六体の準精霊――否、精霊たちだ。

『暴食』の権能に『名前』を奪われ、その繋がりをも失った精霊たちは、ユリウスに付き従いながらも力を貸せず、戸惑いが長く続いていた。

しかし、そんな両者の溝は埋まり、以前以上の絆が育まれている。

六体の精霊と、スマートに契約を結び直したとは、とんだすけこましだ。

「俺はベア子を口説くだけで精一杯だってのに、喰えねぇ野郎だ」

「残念ながら、喰われはしていたのだがね」

「笑えねぇよ! お前、ちょっと吹っ切れすぎだろ!!」

権能の被害に遭ったことさえユーモアに変えるユリウスに、スバルは目を丸くした。

勝ち逃げされた、と表現した以上、レイドとの決着はあったのだろう。レイドの肉体はロイ・アルファルドのモノであるはずだから、『暴食』の片割れとの決着があったと考えるのが自然だ。

そして、ユリウスがその危険性に言及しないということは、アルファルドの無力化には成功していると、そう考えて間違いない。

「ユリウス! ちょうどいいところにきたかしら! クアを借りるのよ!」

「――、心得ました」

そのスバルの頭の上、ベアトリスの呼びかけにユリウスが即座に頷く。彼も、スバルに抱かれるメィリィの状態が一刻を争うと察してくれた。

六体の精霊から、水を司る青いクアが飛び出してくると、その優しい力がベアトリスの治癒魔法と共に、メィリィの体へ癒やしのマナを注ぎ込む。

その上で――、

「時間稼ぎに徹する必要があると」

「ああ、見ての通りだ。赤くなってシャウラはカンカンってとこだが、やれるか? 赤い奴に負けてきたばっかなんだろ?」

「だからこその雪辱戦と述べるのは、淑女に対して失礼な態度だろう」

真っ直ぐに向き合うべきと、ユリウスが騎士剣を構えて紅蠍――シャウラと対峙。

割り込んできた騎士の姿に、しかし、紅蠍の複眼からは意思は感じられない。その殺意は変わらずスバルへ向いていて、途上のモノは全てただの障害物。

精霊騎士として、一段階上へと自らを高めたユリウスをして、その態度だ。

「スバル、シャウラ嬢は私が引き受けよう。それ以外は……」

「自力で何とかしろってことだな、了解」

「いや、ベアトリス様と協力して成し遂げてくれ」

「こういう状況の俺の自力って、七割くらいベア子を計算に入れてるから」

正直、七割でもずいぶんと見栄を張った数値である。

八割か九割、スバルがベアトリスの契約者として誇れるのは、小賢しい頭と小技の数々くらいなのだから、九割五分でもおかしくないぐらいだ。

いずれにせよ――、

「戻ってくれて助かったぜ……」

「君も、己の価値を見つめ直したようで何よりだ」

そんな短いやり取りを交わし、スバルとユリウスは互いの役割に集中する。

ユリウスは魔獣の攻撃がスバルたちへ届かぬよう、自ら前進し、剣林弾雨にその身を晒すことによって背後への被害を減らす。

一方で、スバルは瀕死のメィリィを魔獣の被害から遠ざけつつ、勝利条件が満たされるまでの時間稼ぎに集中を、と思ったところだ。

「――っ」

驚きの感覚があり、スバルは弾かれたように顔を上げた。

理由はプレアデス監視塔、そちらに起こった変調だ。それは――、

「――ラムの反応が、消えた?」

△▼△▼△▼△

――ボルカニカの放った息吹きが、青い光となって最上層へと襲いかかった。

「――――」

それを、エミリアは渾身の力で生み出した氷の盾で防ぎ、突破を試みる。

プレアデス監視塔へ到着するまでの砂海の旅路、塔から降り注ぐ白光を受け止めるために用いられた氷盾は、しかし、龍の息吹きの前には刹那ともたない。

複数枚を重ね合わせた氷盾が瞬時に融解し、わずかでも威力が減衰していれば御の字という規模の攻撃がエミリアへ降り注ぐ。

「――――」

一瞬、エミリアの脳裏を背後に庇った黒いモノリスが過る。

頑丈で、龍の息吹きではびくともしないのかもしれない。しかし、万一、あれが失われたら『試験』が台無しになる予感があった。

それに、これは『試験』の突破とは無関係な感慨だが、

「あれを壊されたら、すごーく寂しい……」

奇妙な既視感を覚える手形、それを残したモノリス。

あれが自分とどんな関係があるのか、はたまた単なる思い過ごしなのかもわからない。ただ、その感覚の正体を確かめたかった。

だから、あれは失えない。あれを、失わないために。

「――――」

アイシクルラインとして展開し、感応可能状態だったマナを一極に集中する。

エミリアは、自分でもビックリするぐらいのマナを保有しているが、その莫大なマナを一度に操れるかというとそういうわけではない。

どれだけマナを溜め込んでいたとしても、一度に出せる量はゲートの分だけ。

それでも並大抵の魔法使いの十倍以上の出力を誇るエミリアだが、精霊術師として長年過ごしてきたことの強みが、その可能性をさらに広げた。

魔法使いはゲートを通じて、自らの内に溜め込んだマナを使用し、世界に干渉する。

精霊術師は精霊の力を借り、大気中のマナを使用し、世界に干渉する。

ならば、その両方の素養を兼ね備えたエミリアにはできる。

蛇口から出る水の量は定量だが、その水を桶に溜めればもっと多くの水を使える。それをエミリアは、自分の肉体と世界とで実行する。

自らの内から溢れたマナを外界に留め、ゲートを無視した極大魔法の応用――、

「――アブソリュート・ゼロ」

スバルがそう名付け、実現は難しいかもと話していた机上の空論。

本番での一発勝負ができるほど、自分で自分を信じられないとスバルが叫んだのは奇しくもほぼ同じタイミング、そこでエミリアは一度も成功していなかった勝負に出る。

そして、それを成功させる。

本来の、エミリアの魔法の力が一だとすれば、溢れた力を応用して顕現するこの魔法の威力は十か、あるいは百に迫るだろうか。

瞬間、世界を席巻する白い空白は、大気が凍て付いたなどという表現ではなく、止めることのできない時の経過さえも止まるような威力を伴っていた。

不可避の『死』であったはずの龍の息吹き、それさえも例外ではない。

真っ向からぶつかり合った青い光と絶対零度、その衝突が世界に空白を生む。

「――――」

刹那、その二つの極大の力は、わずかな時間の拮抗もなく、対消滅する。

本当に驚くほど、音も衝撃も伴わない消滅があり、止まったはずの時が再び動き出したときには、エミリアは氷槍を構えて前に飛び出していた。

「て、やぁぁぁぁ――!!」

細い喉を震わせて、エミリアはボルカニカへ向けて突撃する。

全身からごっそりと力を持っていかれ、体がとても重い。マナ自体は体の外に出したものを使ったとはいえ、それを扱うエミリアへの負担は絶大だ。

水を溜め込んだ桶をひっくり返すにも、当然、そのための力がいる。

桶ではなく、泉をひっくり返すような力を使ったのだから、エミリアが疲労困憊となるのも当然のこと。しかし、声を出した。

「へこたれてなんて、られないから!!」

そうやって叫ぶことで、エミリアは自分自身に活を入れる。

元気とマナは違うものだが、それでも力一杯を自分に言い聞かせることで、眠っている力が湧き上がってくるのを感じた。勘違いかもしれないが、騙されるのが自分なら、嘘をつくのもたまには悪いことではない。

『――サテラぁぁぁ!!』

息吹きを防がれ、吠えながらボルカニカがその前足と尾を振り回す。

知覚の外からくる衝撃、それをエミリアは自身の周囲に展開した氷の粒の感覚を頼りに防御――生まれる七人の氷兵が砕かれながら、エミリアの前進を手助けした。

振り下ろされる一撃を横っ跳びに、続く前足を氷兵が体で止め、その肩を借りてエミリアは大跳躍、空中のエミリアに振るわれる尾撃は、二体で肩車した氷兵が高さを稼いでその身を犠牲に食い止める。

「たあ! てや! そやぁ!!」

彼らの尊い犠牲に力を借りて、エミリアは身を回しながら氷槍を叩き込む。それは、『神龍』の外皮を削るには足りないが、意識を引くのは十分。

煩わしげに振られる前足を銀髪に掠めながら躱し、エミリアはボルカニカの懐へ命懸けの突貫をやり遂げた。――その位置から、

「あの、白い鱗に――」

触れるか、一撃が届けばとエミリアは頭上を仰いだ。

再び触れ合えるほどの距離へ近付いた『神龍』、その直視の難しかった白い鱗、それを目の当たりにして、エミリアは目を見開く。

理由は驚きだった。それは、白くなった鱗というわけではなかった。そうではない。

そこにあったのは、鱗の一枚と見紛うほどに大きな白い傷跡だった。

「古い、傷……」

すでに傷は塞がり、触れられたところで痛みはあるまい。

しかし、『神龍』はただ傷に触れられることを嫌がり、あれほどに悶えたのだ。それがボルカニカの消せない古い記憶と関わるとわかり、エミリアは息を詰める。

その一瞬の躊躇いに乗じて、ボルカニカが翼をはためかせた。

「あ――っ!」

羽ばたくボルカニカの巨躯が、手を伸ばすエミリアを置き去りに一気に上昇する。

やってしまったと、エミリアは自分の失敗を大いに悔やんだ。

これが、翼のある存在と矛を交える上で、一番やってはならない状況。

届かない位置から一方的に攻撃をされれば、負債はあっという間に積み重なる。

「ダメよ――!!」

とっさに床に手をつくエミリア、その足下から一気に氷が隆起する。

即席で作られた氷の足場を空へ伸ばし、エミリアは飛翔するボルカニカへ追いつこうと必死に手を伸ばした。

しかし、その氷の足場も、十メートル、二十メートルと伸ばしたところで限界を迎え、それ以上の距離を稼がれては届かない――、

「――みんな! お願い!!」

そのエミリアの叫び声に、氷の足場を駆け上がってくる氷兵たちが応える。

氷の兵隊たちは限界を迎えた足場の先端まで登ってくると、そこから一気に跳躍し、その跳躍した兵の背中を踏み台にさらに跳躍、それを六回繰り返し、最後の一体の背中をエミリアが踏んで、

「ごめんね!」

強く踏み切った瞬間、踏み台にされた氷兵が背中でへし折れる。

しかし、落ちていく七体の氷兵は全員、親指を立てて笑顔で墜落していく。そんな彼らの後押しを受け、最後の跳躍をしたエミリアの手が、ボルカニカの尾へ――、

『――愚か』

その一言と共に尾が引かれ、エミリアの指が宙を掠めた。

そして、瞠目するエミリアへと、引かれた尾が勢いよく戻ってくる。

空中、逃げ場がない。とっさに氷の盾を生み出そうにも、それを砕かれた上で届く威力だけで、十分にエミリアには致死性の破壊力。

「――ぁ」

失敗、大変、どうしよう、と様々な考えがエミリアの頭を錯綜する。

時の経過が遅くなる感覚の中、打開策を必死に探し、自分の頭や体の隅々まで何かできないか総動員。ただ、諦めるという選択肢だけはない。

エミリアの大好きな人たちは、誰一人、諦めることを選ばなかったから。

だから――、

「私も、諦めない!」

だが、威勢のいいだけの言葉では何も救えない。

その無常を教えるかの如く、長きを知る『神龍』の尾撃がエミリアへ迫り――、

「――エミリア様!!」

瞬間、真下から吹き上げる猛烈な風が、エミリアの上昇をほんのわずかに手助けした。

△▼△▼△▼△

吹き上げる風に体を押され、エミリアの状況がわずかに変わる。

『死』を十割免れなかっただろう状況から、『死』の可能性が九割の状況へ。

そして、その一割の生存の可能性を、諦めを知らないエミリアは見事に掴み取る。

「――っ」

エミリアの頭を狙い、振り抜かれる『神龍』の尾。

上昇の勢いが増したため、その尾撃の狙いが頭からエミリアの胴体へズレた。それを知覚ではなく直感で理解し、エミリアは思い切り膝を畳み込む。

体を小さくして、当たる範囲から逃れようと――その、エミリアの爪先を、振り抜かれる尾撃が掠め、凄まじい衝撃にエミリアの体が高速で回転した。

「――――」

膝を抱えたまま、エミリアの体は真上へ吹っ飛ばされる。

内臓が頭から飛び出しそうな衝撃に呑まれながら、エミリアはぐっと奥歯を噛みしめ、上空に氷の足場を展開、強引に自分の体を制動した。

どん、と強い音が鳴り響いて、全身で衝撃を受け止めたエミリアは涙目で下を見る。

空に作られた氷の天井、それを足場に天地のひっくり返ったエミリアの視界、ボルカニカの頭部と、一層の階段から姿を見せた人影が遠く見える。

正確には人影ではない。人と、地竜の影だ。

「ラムと……!」

こちらに手を伸ばし、エミリアの上昇を手助けしたのは乱入したラムだった。

遠目に見えるラムは血だらけの満身創痍で、あんな状態でこの場に駆け付けてくれたことに驚きを隠せない。

だが、彼女の手助けがあったおかげで、エミリアは頭を叩かれて死なずに済んだ。

その助力を借りて、エミリアは今一度、膝に力を込める。

この氷の天井を足場にして、一気にボルカニカへと急襲を仕掛けんと。その、エミリアの前でボルカニカはおかしな様子を見せていた。

尾を振るった姿勢のまま、エミリアの方を見ず、眼下を見ているのだ。

エミリアを助けたラムを次の獲物と定めたのかと、そう思われた。しかし、そうではなかった。古の『神龍』、その金色の目が見るのはラムではない。

それは――、

『――パトラッシュ?』

「い、やぁぁぁぁ――っ!!」

ボルカニカの呟きを掻き消す勢いで、エミリアの体が眼下へ射出された。

半瞬遅れ、頭上を仰ぐボルカニカの尾が氷の天井を砕く。遅い。すでにエミリアの姿はそこにはなく、そして、真っ直ぐボルカニカの喉を狙ってもいない。

放たれたエミリアは別の氷の足場――否、氷の『すろーぷ』を作り出した。

プリステラで、スバルと一緒にレグルスから逃げる際、その勢いを殺さずに加速する目的で作った代物――それを、宙に作り出し、氷の靴で滑走する。

エミリアの速度が空中で加速し、それを追いかける尾の攻撃を届かせない。

宙で生まれた氷の滑走路、それがエミリアの銀髪のなびいた直後を尾に追われながら、ぐんぐんぐんぐんと加速し、そして――、

「ちぇやあああ――っ!!」

滑走路から飛び出したエミリアの蹴りが、ボルカニカの喉へ高速で迫る。

それはエミリアを掴まんと閉じてくる前足を回避し、放たれた矢の如く真っ直ぐ、ボルカニカの喉元の白い傷跡へと届いた。

『――――ッッッ!!』

エミリアの白い靴裏が喉を捉え、ボルカニカが再びの絶叫。

空が割れるような音に「きゃあああ!」とエミリアは耳を塞ぎ、そのまま蹴りの反動で一気に落ちる。落ちて、落ちて、落ちて――、

「きゃ! ……わ、ありがとう!」

落ちてくるエミリアを、足場にされて落ちたはずの氷兵たちが受け止めた。

柔らかい衝撃に助けられ、エミリアはその場に立ち上がる。そして、自分が最上層へ戻ったことと、頭上のボルカニカが悶えているのを視認。

それから改めて、中央の柱のモノリスへ走る。

走って、走って、あのモノリスの、既視感を感じる手形へと走って――、

「やっぱり!!」

モノリスに到達し、今度こそ邪魔のない勢いで手を押し付けた。

その勢いと衝撃にモノリスが揺れたが、エミリアの手はぴたりと問題の手形と一致。手がそっくりな人が世界に何人いるのかわからないが、少なくとも、このモノリスの手形はエミリアと手がそっくりな人のモノだ。

そして――、

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「あ……」

モノリスに手を置いたエミリアの下へ、羽ばたく『神龍』が降りてくる。

なおも空にその巨体を浮かせたまま、一度は正気のようなボケ状態に戻ってしまったはずのボルカニカが、またしても最初と同じ問いを放った。

だが、その問いかけは、最初の、何もかも忘我の果てから出たものと違っているように感じた。――正しく、問いかけが始まるのだと、そう感じて。

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

何度となく、かけられた言葉。

頂へ至る者の志を問わん。――つまり、てっぺんにつく人の気持ちを聞かれた。

何をしたいのか、何を望むのか、何をするためにここにきたのか。

「――――」

その問いかけに対して、エミリアの答えはたくさんある。

何をしたくて、何を望んで、何をするためにここへきたのか、答えはたくさん。

しかし、今この瞬間、大急ぎでエミリアが望むことは――、

『――問わん。汝の、志は!』

重ねる問いかけ、それを聞いてエミリアは目を見開き、口を開けた。

そして、大きな声で答える。

「――みんな、仲良くして!!」

△▼△▼△▼△

瞬間、絶大な風が吹き荒れ、砂海がその勢いに一気に呑まれる。

「うお!?」と、魔獣の猛攻を躱していたスバルは悲鳴を上げ、メィリィの治療に奮戦していたベアトリスも「何かしら!?」と驚愕する。

それは当然、シャウラ相手に人外級の戦闘を繰り広げていたユリウスも同じだ。

――否、彼の驚きは、それ以上に大きなものだったかもしれない。

何故なら、凄まじい塵旋風が視界を覆い、身の危険を感じて下がったにも拘らず、追撃がなかったからだ。

そして、その答えを目の当たりにして、ユリウスの驚きはさらに続く。

「――これは。スバル!!」

「ああ!? なんだよ! 砂がヤバくて周りが見えね……」

「いいから! こっちへ!」

ユリウスの懸命な呼びかけを聞いて、口の中の砂を吐くスバルがそちらへ顔を向けた。

すると、ユリウスが必死な理由がわかり、目を見張る。

それは――、

「――シャウラ!?」

「~~ッッ」

驚愕の声を上げるスバル、その視界に映り込んだのは、塵旋風を浴びてひっくり返り、砂の上で複数ある足をバタつかせている紅蠍の姿だった。

それまで、あらゆる攻撃に対して何ら反応を見せず、機械的な動きでこちらを追い詰めんとしていた塔の管理者――星番と、そう自称していた通りの活動に生じたエラー。

「何かしたのか!?」

「いいや、特別なことは何もしていない。攻撃をしのぐのに注力していた。さっきの、あの砂風が吹いた途端に……」

「砂風……そうだ、あの風は……」

スバルたちを呑み込んだ猛烈な風、それを『砂風』と呼ばれて違和感に気付く。

アウグリア砂丘を行くものたちを容赦なく呑み込む砂風だが、問題の結界を突破して以降、監視塔の周辺に強い風が吹いたことは一度もなかった。

それこそ、砂風と呼べるほどのモノは一度も。それが、今、吹いたのは――、

「――スバル! 見るのよ! 空が」

「――――」

思考が千々に乱れるスバルへと、ベアトリスが可愛い声でそう叫んだ。それを聞いて、スバルはつられて上を仰ぎ、見る。

プレアデス監視塔に生じた変化、そのわかりやすい激変。

「――雲が、晴れた」

雲を突き破り、天へと伸びるプレアデス監視塔。

その最上部は文字通り、雲に覆われて下から覗き見ることはできなかった。その、監視塔を包んでいた奇妙な雲が、丸々消えている。

それで、ようやく気付いた。――さっきの風は、あの雲を散らすための余波だ。

雲が晴れ、塔のてっぺんが下から見える。

それが意味するところは、スバルの希望的観測によれば一つだけ。

「――やってくれたのか、エミリア」

呟くスバルの知覚、『コル・レオニス』が感知する塔内の仲間たち、その感覚に消えたはずのエミリアと、それからラムとパトラッシュが戻っていた。

おそらく、ラムとパトラッシュはエミリアの援護に向かい、そこで成果を出した。

つまり、スバルの考えが正しければ――、

「塔のルールが書き換わって……シャウラ! おい、シャウラ! 聞け!」

「~~ッ!」

「もう、俺たちと戦わなくていいんだ! お前は、もう、自由に……」

ひっくり返り、悶える紅蠍が苦しむのは、己の内に刻み込まれた古からの盟約が断たれたことが原因か。細かい事情はわからない。

ただ、もういいのだ。彼女がこれ以上、苦しむ必要はなくて――、

「なぁ、シャウ――」

「――っ! スバル!!」

呼びかけようと、そう近寄りかけたスバルの襟首が掴まれる。瞬間、引きずり倒すように逃がされた空間を、鋭い尾が猛然とすり抜けた。

その風に掠められ、空気が焦げた臭いを鼻に感じ、スバルは絶句する。

今、ユリウスが引き止めてくれなかったら、直撃されていた。

しかし、スバルを苦しめたのは『死』の感覚ではなく――、

「おい、シャウラ! シャウラ! なんでなんだ、しっかりしろよ!!」

「~~ッッ」

スバルの必死の訴えを聞きながら、紅蠍がゆっくりと砂の上に体勢を戻す。

ひっくり返った姿勢を戻した紅蠍、その複眼は揺らめきながら、しかし、ゆっくりと再びスバルを捉えて、その凶悪な牙から涎をこぼした。

それは、とても理性ある存在の態度とは思えず――、

「――スバル、残念だが」

そう言いながら、ユリウスがスバルの肩を掴み、前に出ようとする。

だが、そのユリウスの考えがわかり、スバルは彼の腕を掴んで引き止めた。

ユリウスが、汚れ役を引き受けようとしてくれているのはわかる。

しかし、それをさせるわけにはいかない。

「助ける、そう決めたんだ。――俺は、あいつを助け出す」

「自覚のない、お師様としての務めと?」

「違う」

首を横に振り、スバルはユリウスの言葉にそう応じる。

そうではない。スバルがシャウラを助けたいのは、お師様だからなんて理由じゃなく、

「俺が、あいつのお師様だからじゃない。俺が、あいつに絆されたから、そうするんだ」

「――――」

「ベア子と同じだ。こんな砂の塔でずっと一人でいて、それで俺らと過ごした何日かが楽しかったって泣きじゃくる奴を、どうして放っておけるんだよ」

奥歯を噛みしめ、スバルはユリウスの腕を掴んだまま、そう言い切る。

そのスバルを見つめ返し、ユリウスは吐息した。

「……強情だな。だが、そうすべきだ」

「――ユリウス?」

「いいや、改めて感心したんだよ。一度、見栄を張ったんだ。ならば、最後まで張り通せなくては、とね」

薄く微笑んだユリウスが、自分の左頬の傷を指でなぞってそう答える。

その答えに目を細めたスバルは、自分の空いた左手が柔らかい感触に握られたと気付く。見れば、それをしたのはベアトリスだ。

彼女はそのくりくりの地上一愛らしい目でスバルを見つめ、

「メィリィの、峠は越したかしら。あとは――」

「連れ出すの、手伝ってくれるか?」

「これでダメなんて言ったら、ベティーはどんな鬼畜なのよ。……まったく、スバルは本当にどうしようもないパートナーかしら」

ベアトリスの答えに、スバルは苦笑いして自分の頭を掻いた。

それからしっかりと、大切な契約精霊と手を繋ぎ直して、紅蠍と――シャウラと向き直る。

精霊騎士、二人並んで、救わなくてはならない、泣いている少女と向かい合う。

そして――、

「俺はもう、身も心もくたくただ。――だから、さっさと助けられろよ、シャウラ!」

――プレアデス監視塔攻略、最後の延長戦が、幕を開ける。

第六章89 『シャウラ』

ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。

△▼△▼△▼△

――塔外、押し寄せる無数の魔獣のスタンピード、『魔獣使い』の奮戦で突破。

――二層、ロイ・アルファルドの肉体を奪ったレイド・アストレアの撃破。

――四層、因縁の冒涜者、憎っくき大罪司教ライ・バテンカイトスの撃破。

――一層、まだ見ぬ未知の『試験』、エミリアの敢闘により突破。

プレアデス監視塔の攻略において、用意されていた複数の難題のクリアが為される。

これも、仲間たちが一丸となり、互いを信じて力を合わせた結果だ。

エミリア的な言い方をするなら、『みんな仲良く』が叶った結果と言えるだろう。

そのおかげで、ここまで辿り着くことができた。

ならば、あとは――、

「――全員で勝てなきゃ、嘘ってもんだろうが!」

最初、このプレアデス監視塔へやってくるとき、エミリアが言った。

なくしにいくのではなく、失われたものを取り戻しにいくのだと。

その彼女の言葉に同意したのだから、全員で無事に砂海から帰らなくてはならない。きたときよりも、帰りの人数が増えたとしても、それはそれだ。

スバル、エミリア、ベアトリス、ラム、レム、メィリィ、アナスタシア=エキドナ、ユリウスにパトラッシュ、そこにシャウラも加えてもいいだろう。

帰りの道中、どれだけ騒がしくても、ウザったくても構わないから。

「――往く!」

並んだ二人の精霊騎士、先手を引き受けたのは当然のようにユリウスだった。

一時的に治療のタイミングを抜け、治癒に預けたクアを引き戻したユリウスが、再び六体の精霊の力を借りて極光を纏う。

『コル・レオニス』の効果でわかるが、莫大に膨れ上がるオドの光と引き換えに、ユリウス自身にも精霊たちにも相当な負荷がかかっているはずだ。

ずいぶんと格好をつけてくれる。だが、元より長く戦うつもりは誰にもない。

「――短期決戦」

虹の軌跡を引きながら、砂の上をユリウスが飛ぶように走った。

開いた距離を一瞬で詰め、ユリウスの斬撃が紅蠍へ迫る。それを、紅蠍は獰猛な複眼で捉え、嵐のように荒れ狂う大鋏と尾針で打ち払った。

しかし、虹の剣撃を受けた蠍の甲殻が、一瞬の触れ合いで白い煙を上げる。

溶けたのだ。

虹と化したユリウスの斬撃は、極光を纏った魔法剣『アル・クラリスタ』を恒常的に発動しており、受けるという防護すらもまともに取り合わせない。

その上、全身に纏った虹の光も、ただの派手な見映えというだけではない。

「――――」

至近距離から放たれる紅蠍の尾針、スバルが十度以上も殺され、エミリアやユリウスの死因にもなったことがある『死』の一刺し――ヘルズ・スナイプ。

それを、ユリウスは剣で弾くのではなく、極光の防御力で受け流す。

全身に薄く纏った極光は、これもまた虹の壁を作り出す『アル・クラウゼリア』という魔法の概念を応用したものだ。

つまり、攻防一体、『虹の精霊騎士』とでも呼ぶべき超次元の剣士が生まれていた。

「~~ッッ!!」

必殺が通じず、防護も破られ、散々な目に遭わされる紅蠍。

だが、塔の星番として四百年を過ごした巨大な魔獣にも意地がある。紅蠍はその赤々とした甲殻の輝きをさらに鮮やかなものにして、生じる熱を大鋏から放出、ユリウスへと豪快に叩き付け、虹の騎士を大きく弾き飛ばした。

大鋏が強烈な熱を帯び、凄まじい火力に紅蠍の周囲の大気が歪み始める。

焦熱の大鋏――スバルが名付けるなら、『ジーザス・シザース・ヘルファイアフォーム』。

ここにきて新技を披露し、わざわざラストバトルを盛り上げようとしてくれる姿勢には頭が下がるが、相手する側としてはその成長性は勘弁願いたい。

殻を破って成長する敵キャラなんてものは、現状は望まれていないのだ。

「ミーニャ!!」

真っ赤な大鋏が大気を薙ぎ払い、ユリウスを狙うのを脇から紫矢が妨害する。

ユリウスと紅蠍の超級の戦いに割り込むには、スバル単騎では実力不足。ベアトリスの横槍でユリウスを援護しつつ、スバルはスバルの出番を探る。

「――――」

余波で死なないよう位置取りに気を付けながら、ちらとスバルが視線を向けるのは、塵旋風によって薙ぎ払われた砂上、そこから追いやられた魔獣の群れだ。

このアウグリア砂丘という環境において、魔獣たちがスバルたちの旅にもたらしてくれた被害や警戒、そういった影響は殊の外大きい。

それらが塔から一定の距離を置いて、こちらを眺める光景は異様だった。

監視塔の雲が晴れ、一層ではおそらくエミリアが塔のルールを書き換えた。

それが適用されたことで、何らかの魔獣を近付けない措置のようなものが働いたのか。元々、この監視塔には魔獣は近付かない仕組みだったようだから、あのスタンピードが起きていた状態が不自然だったのだろう。

いずれにせよ、魔獣たちのちょっかいが入らないのは、紅蠍――シャウラを正気に戻したいスバルたちとしては助かる状況だ。

「――スバル!!」

「あ」

最適な位置取りのため、砂海を斜めに突っ切るスバルへと声が届いた。

何事かと顔を上げれば、ユリウスの刺突を躱した紅蠍が、うっかりとスバルのすぐ傍らへと着地してくるところだった。

手を繋ぐベアトリスの訴えに、スバルはとっさに急停止。しかし、虫を払うような仕草で魔獣の尾が振られ、その一撃にスバルは『死』を意識する。

「根性――ッ!」

「――ムラク!」

スバルの判断と、ベアトリスの判断が同時に重なった。

重力の影響を軽くし、スバルとベアトリスの二人が綿菓子のように軽くなる。同時、スバルが放った鞭が紅蠍の尾の根元に絡んだ。

次の瞬間、尾を振り回す勢いに振られ、スバルとベアトリスが高速で宙を舞う。

「わ――」

「ぶやんっ!?」

振り回されるのではなく、振り落とされる。

足が浮いたと思った直後には、スバルとベアトリスは全身から砂に叩き込まれていた。

綿菓子のように軽くなっていようと、もし下が硬い地面ならそのまま全身が砕け散っていただろう勢いと威力、幸い、砂の上なので息詰まるだけで済んだ。

「追撃は諦めてもらおう――!」

「――ッ」

そのまま、砂に埋まったスバルとベアトリスを狙う紅蠍。しかし、進路に割って入る虹の光がそれを妨害し、灼熱と極光の剣戟が展開される。

光が散り、そのたびに砂海が割れ、衝撃波が快晴の空の下で砂風を生む。

破壊力は拮抗、速度はユリウス、持久力で紅蠍――決定打がないまま、このままでは時間切れで押し切られることになりかねない。

「――ぺっ、ぺっ! クソ、何とかしねぇと!」

「――ぺっ、ぺっ! 勝ち筋を見つけないとダメなのよ!」

一緒に砂から抜けたスバルとベアトリスが、同じ仕草で砂を吐く。

互いに涙目になりながら、ユリウスの虹を、スバルたちの声を、シャウラへ届かせる方法を模索する。

縋りたい可能性は三つ――、

ユリウスがさらなる覚醒を遂げ、紅蠍を一蹴して癪だけど勝利。

スバルとベアトリスが新技を完成、それが紅蠍を完封してチームの勝利。

急に空からエミリアが降ってきて、可愛さで世界が平和になってラブ&ピース。

「三個目寄りの一個目に期待したいところだが……」

自分の覚醒を信じていないのは前言の通り、エミリアがここでタイミングよく現れてくれるご都合主義にも期待はしない。

そうなると、ユリウスの地力が跳ね上がるのが一番の期待株だが――、

「それも、もう一回やってるから、さすがに立て続けは期待しすぎ……」

スバルの目では追えない速度で、ユリウスと紅蠍の剣戟は続く。

近付けば余波で焼かれかねない破壊の光景を眺めながら、スバルは次なる手を探る。

結局、持てる手札を全て尽くして戦うしかないのだ。

ならばせめて、持てる手札を見落とさず、ナツキ・スバルを完遂しろ。

「考えろ考えろ考えろ……」

頭の回転をフルスロットルに、希望的観測でも夢物語でもない、本物を手繰り寄せる。

そうして、自分の持ち得る手札を探したとき、スバルは気付いた。

最後の一枚、まだ使っていない手札を残していたことを。

「――ベア子!」

「何か、思いついたかしら!」

待ってましたとばかりに、スバルの呼び声にベアトリスが応える。

わかってくれているパートナーに恵まれて幸せ者だと、スバルは「ああ!」と小さな手と手を繋ぎ直し、力強く頷いた。

そして――、

「――この旅の、全部の力をここで使うぜ!」

△▼△▼△▼△

ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。

目の前を、虹の光が猛烈に過るのを、本能のままに振るう両腕で打ち払う。

赤々と輝く両手の鋏は、あらゆる全てを焼き切るほどの火力を秘めており、それが岩だろうと鋼だろうと、バターのように切り裂くこと請け合いだ。

「まぁ、バターってなんなのかあんまりなんスけど」

聞きかじりの知識で物を喋りながら、煌めく標的を追い詰める。

しかし、場所は広い砂海の上、障害物も何もないものだから今一歩詰め切れない。逃げ場のない場所、あるいは遠距離戦闘なら自分の独壇場――、

「スナイパーってのは、常に孤独なもんッスからね」

これも聞いた知識だが、スナイパー=狙撃手というものは、獲物を仕留めるまでじっと構えて待つもの、だそうだ。

だから、待った。自分も、スナイパーとしての誇りを胸に、待ち続けた。

くる日もくる日も彼方を見据え、塔へやってくる相手を見据え、待ち続けた。

ルールがあった。自分を、この塔に縛り付けるルールが。

それを煩わしく思ったこともあったが、それがなくては忘れっぽい自分は、すぐに色んなことを忘れてしまったとも思う。

一緒に歩いたこと、喋ったこと、過ごした日々や交わした思いも、何もかも。

「あぁ……それは、嫌ッスねえ」

何もかもが、自分を置き去りにしていった。

待てと言われれば、いつまでだって待つけれど、待たせるからには戻ってきてほしい。戻ってきてくれさえすれば、いつまでだって待てるから。

だから――、

「お師様が戻ってきてくれて、嬉しかったッス」

みんなみんな、いなくなってしまったから。

戻ってくると、そう言った言葉を信じていいのか、わからなくなっていて。

自分が信じていたから待っていたのか、ただの惰性で待っていたのか、それさえも答えはわからなかった。考えもしなかった。

考える必要もなかった。だって、朽ちるより前に、約束は守られた。

「あーし、幸せ者ッスよ、お師様」

だから、いかないでほしい。ずっと、ここで過ごしてくれたらいい。

孤独でなくなったから、スナイパーはもう卒業だ。スナイパーを卒業した自分には、それなりのご褒美があるべきだと思う。

「もう、置き去りは嫌ッスよ、お師様。……あーしも、愛されたいッス」

何もかもが、自分を置き去りにしていったから。

今度は、どこまでも、いつまでも、ついていきたい。

だから――、

「あーしを、愛してほしいッス。――お師様」

△▼△▼△▼△

身を震わせ、紅蠍の甲殻の光がさらに鮮やかさを増していく。

それは『攻撃色』のより顕著な反応と考えられたが、スバルには違って見えた。

その鮮やかな赤い色は、シャウラが泣き叫んでいる結果みたいだ。

四百年、自分の感情を閉じ込めて、言いつけを守ってこの塔にこもっていたシャウラという存在が、溢れんばかりの思いを爆発させて、光り輝いている。

赤は情熱、赤は激情、赤は抑えられない『愛』の色。

紅蠍が赤く輝くのは、きっと誰かを愛していて、愛されたいと願っているからだ。

「――さそり座の女ってのは、愛情深いってのが通説だからな!!」

力強く叫んで、砂を蹴りながらスバルは大きく肩を使い、鞭を放った。

「――――」

狙いはこちらに背を向け、ユリウスと打ち合っている浮気な紅蠍。

忙しいところ申し訳ないが、お前の執着するお師様はこちらだと鞭で主張する。ぐいぐいこられているときは、煩わしいと邪険にしたが――、

「それで他の男にいかれると、もやもやするのが男心――っ!!」

「スバルながら、最低な物言いなのよ!」

肩車されたベアトリスの厳しい物言いに背を押され、スバルの放った鞭が狙い通り――紅蠍の尾の根元へ綺麗に絡んだ。

ただし、それでは直前に振り回され、砂に埋められた状況と何も変わらない。

紅蠍も、先ほどのあまりに軽い綱引きの結果があるからか、ユリウスの方へと意識を集中し、スバルたちへの対処は二の次だ。

スバルたちは弱い。――その認識を、悪用する。

「エル・ヴィータ――!!」

「ぐおおお!!」

ベアトリスが魔法を詠唱、その影響がスバルの全身にかかると、凄まじい重量がその両足を砂に埋もれさせる。

重力の影響を軽減するムラクの反対、重力の影響を増大させるヴィータ――これで幕内から、横綱級へと重量をアップさせ、紅蠍の尾に対抗する。

だが、当然、それでもまだ足りない。多少重かろうと、せいぜいが百数十キロ。竜車をも軽々と運ぶようなシャウラの怪力には遠く及ばない。

だから――、

「――ここが見せ場だ! やってくれ!!」

腕に力を込め、砂に足を埋めたスバルがそう叫ぶ。

次の瞬間、紅蠍の尾力に引き抜かれかけたスバルの体が地面にとどまった。

理由は明白、引き合う力が拮抗したのだ。紅蠍とスバル――否、スバルたちの間で。

「――――ッッ」

踏みとどまったスバルの前、ぴんと張り詰める鞭を掴んでいたのは、その異形の巨躯で引っ張り合いに乱入した餓馬王だった。

そして、その前代未聞の綱引きに参戦するのは餓馬王だけではない。

全身に花を纏った熊が、翼を持つモグラが、怪しげな蛇が、参戦する。

仇敵であるはずの魔獣たちが、スバルの戦いに助力していた。

それを引き起こせるのは――、

「……ホント、人使いが荒いんだからあ」

不機嫌な、けだるい雰囲気を纏った少女の声。

それを発したのは、砂の上、血の気の失せた顔で荒い息をつく少女――メィリィだ。

彼女はその可憐な横顔を引き締め、大きく長く、深い息を吐く。

そのまま、彼女は「ほおら」と強く手を打って、

「みんな、いらっしゃあい。見てるだけなんて、もったいないわあ」

両手を叩いたメィリィの声に、一拍遅れて砂海が揺れる。

それはなおも押し寄せる魔獣たちの足踏みであり、鳴き声であり、この魔境と呼ばれたアウグリア砂丘を支配する『魔獣使い』――否、もはやそうは呼べまい。

『魔獣使い』などと、そのような規模の現象ではなかった。

『魔操の加護』の力を用いて、アウグリア砂丘を占拠する魔獣の群れを意のままに操るその姿は、一介の『魔獣使い』などという肩書きではそぐわない。

それはかつて、南の帝国を荒らした存在、『魔獣の母』の再臨。

この戦いを、正しく総力戦とするスタンピードの再利用、それを為す本領発揮だ。

「――――」

痛々しい表情のメィリィ、それでも彼女が意識を回復し、ラストバトルに参戦できるまでに復調した背景にはカラクリがある。

当然、メィリィの受けたダメージを、スバルが『コル・レオニス』で引き受け、分配したのだ。――スバルの持つ、最後の手札に。

それはエミリアでも、ベアトリスでもラムでもない。ユリウスでもエキドナでも、パトラッシュやメィリィ、ましてや眠るレムでもない。

この、アウグリア砂丘攻略のための、最後の協力者――、

「――巻き添えにしてすまん、ジャイアン! 手伝ってくれ!!」

遠く、監視塔の地下――六層に置き去りの地竜、ジャイアンの存在が『コル・レオニス』に引っかかり、スバルは地竜への負担の分配を敢行した。

ものすごい心が痛い決断だが、もっと心が痛いのは、ジャイアンがスバルの『コル・レオニス』による負担の分配の条件を満たしてくれていたこと。

つまり、ベアトリスや他の仲間と同様、ジャイアンもスバルを支えたいと、そう思ってくれていたということになる。

そのジャイアンの劇場版ばりの思いに甘え、メィリィの負担の大部分を、スバルを介して地竜に肩代わりしてもらう。それが、メィリィの立ち上がれたカラクリだ。

それが紅蠍が予想外に、力比べに敗北した原因でもある。

そしてそれは――、

「――そのまま、お前の敗因だ、シャウラ」

文字通り、魔獣と地竜の力まで借りた総力戦を制し、スバルの言葉に紅蠍の足が浮く。

その瞬間を、『最優の騎士』は見逃しはしない。

放たれる虹の斬撃が、力比べに拮抗する紅蠍の尾を、根本から断ち切った。

「――――」

切断される尾部が爆ぜ、自切と同じ破壊が周囲に広がるが、それは虹の光が通さない。遮られ、切り札を封殺された紅蠍が、猛然と大鋏をユリウスの背へ振り下ろす。

しかし、力比べに負け、尾を斬られ、動揺と焦りのある攻撃は、初代『剣聖』との戦いを乗り越え、壁を破った騎士には通用しない。

「し――っ!」

弧を描く斬撃が、左の大鋏を脆い関節部分で見事に斬り飛ばす。その腕の吹き飛ぶ勢いに身を揺らしながら、なおも残る右の大鋏がユリウスを挟み込む。

そして、胴でその長身を両断せんと鋏が閉じかかり――、

「――アル・クランヴェル」

閉じる寸前、ユリウスの全身の極光がほどけ、一気に拡大する。

纏った虹の鎧を脱ぐ瞬間、爆発的に広がる極光が閉じかけた大鋏を内から爆ぜさせ、根本から吹き飛ばしていた。

「――――ッッ」

生じる衝撃波に揉まれ、紅蠍の巨体が宙を舞う。そのまま、砂の上に豪快に転がった魔獣は、尾と両腕を失い、満身創痍の状態。

さらにそこへ、ひっくり返った紅蠍を囲うように魔獣が取り押さえる。

八本の足を押さえられ、身動きを封じられた紅蠍。

それが、迫る終わりを拒むように身をよじり、鋭い牙のある頭部を動かした。

あるいは紅蠍の対応力なら、ここから新たな技を派生させ、この窮地を乗り越える成長を遂げても不思議はなかったが――、

「――ここまでだよ、シャウラ」

身をよじる紅蠍の複眼、その全部に映るように正面にスバルが立った。

武器を失い、足を押さえられ、哀れな状態に追い込まれた紅蠍。トドメを刺すのも容易いだろう状況だが、それはスバルの望みではない。

ここまで追い込んで、それでもなお、何が正解かはわからないでいたが――、

「メィリィ」

「……お兄さんたちって、わたしがいなかったらどうしてたのかしらねえ」

名前を呼ばれ、メィリィがため息まじりに紅蠍の方へ。

スバルの隣に並ぶと、吐息と共に彼女は指を鳴らした。そして、複眼の意識を自分に集中させると、

「あなたはだあれ? 赤くて怖いサソリさん? それとも……」

「――――」

「それとも、誰なのかしらあ?」

問いかけに、紅蠍の複眼の動きが鈍った。

揺れるそれが、静かにメィリィを見つめ、それから、視線がスバルへと移る。

攻撃的な赤い瞳、それがゆっくりと、色を変える。

「シャウラ」

その甲殻の赤々とした光共々、落ち着いていく。

瞳は緑に、甲殻は黒と、徐々に落ち着いていって、やがて――、

「――シャウラ!」

やがて――、

△▼△▼△▼△

ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロと、全てが遠く、煌めいて見えて。

何もかもがこぼれ、剥がれ、色褪せて、遠く遠く、煌めいて見える。

置き去りにされて、思い出が遠ざかって、だけれど、それは確かに輝いていて。

その日々が大事な全部だったから、掬い上げるのに必死になれて。

「――――」

「覚えてるッスか、お師様。あーしに、絶対戻ってくるから待ってろって、そう言っていなくなったッスよ」

小首を傾げて、体育座りのシャウラにそう問いかけられる。

その、昔の懐かしい思い出を語るみたいな彼女の態度に、スバルは首を横に振った。

「覚えてねぇ。つか、知らねぇって言ってるだろ。何べんも言わせるなよ」

「まぁ、仕方ないッス。お師様が忘れっぽいのはあーしに譲られてるッスもん。あーしとお師様は似た者同士ッス」

「ゾッとしねぇ! いや、言語センスが近いのは認めるけども」

とはいえそれも、彼女がスバルの世界の言葉を使い倒すものだから、ついつい感じてしまう親近感の一種ではある。

スバルは彼女ほど愛嬌もよくないし、可愛くないし、健気でもない。

四百年も、自分を置き去りにした誰かのためになんて、尽くせない。

「俺は辛抱弱いからな。せっかちだし、すぐ結果が欲しくなる。せめて、相手の傍にずっといられたら、我慢しようって気にもなるけど……」

「あ~、そりゃダメダメッスね、お師様。いいッスか? こんな名言があるッス。愛ってのは我慢ッスよ!」

「それ、オシャレは我慢の間違いだろ!? 尽くす女っていうか、貢ぐ女のスローガンっぽいぞ!?」

「全てはこの胸の奥の昂る想いを成就させるためッス。馬鹿な女と、哀れな女と笑ってくれて構わねッス。その笑顔も、素敵だよ……ッス」

「いや、笑えねぇよ。見て、ちょっと涙目になってきた」

「どれどれ~ッス」

自分の顔を指差して、そう言ったスバルにシャウラが顔を近付ける。

ぐっと勢いよく立ち上がったシャウラ、彼女の顔が吐息が届くぐらいの近くにきて、改めてその端整な顔の造りを間近に見た。

大きく切れ長な瞳、目力があって、鼻筋がすっと通っていて。

長い睫毛と、砂海で長く過ごしたとは思えないきめ細やかな肌、コロコロと表情が変わるからわかりづらいが、可憐さよりも美麗さの方が際立つ全身の造形。

星の名前を与えられ、此の地でずっと、愛しい誰かを待ち続ける運命を背負った存在。

「あれ? お師様、涙目ってか、ちょっと泣いちゃってないッスか?」

「……お前のお師様は、クソ野郎だ。俺が、この手でぶっ飛ばしてやりてぇよ」

「それ、あーしめちゃめちゃ複雑な気持ちで見てなきゃなんないヤツッス! お師様がお師様をKOって、もうどんな状態なんスか! ……もう」

わなわなと唇を震わせ、スバルはぎゅっと目をつむった。

熱い、込み上げてくる熱いものが、それで瞼から押し出され、頬を伝う。

その透明な雫を見て、シャウラはもう一度、「もう」と小さく呟くと――、

「――――」

不意打ち気味に、目を閉じたスバルの頬を湿っぽい感触が撫でた。

目を開けたら、ゆっくりと離れていくシャウラの顔。悪戯っぽく笑い、彼女は自分の唇に指を当て、赤い舌をちろりと見せる。

「……お師様の体液、しょっぱくて甘いッス」

「言い方……」

「言い方なんて、何でも変わったりしないッスよ。あーしの想いは、全身全霊、体で表現してる通りッス。――お師様、愛してるッス」

愛してると、たびたび彼女はそう口にした。

それを、軽い言葉だなんて、その背景を知っていたら絶対に言えない。

シャウラが折に付け、「愛してる」とそう口にするのは、愛が溢れているから。

ずっとずっと、伝えたいと思っていた言葉が、彼女の中から溢れてくるから。

四百年間、愛したい、愛されたいと、それを願い続けた彼女の想いが――、

「愛してるッス、お師様」

「……俺は、お前に愛してるなんて言わないぜ」

「わかってるッス。お師様はいけずだし、照れ屋でシャイッスから。でも、そこも好きッス。ぞっこんッス。オンリーユーッス」

「――――」

時間が彼女を置き去りにして、課せられた役割は鎖のようにその身を縛って。

それが愛しい人を傷付けそうになったとき、彼女は泣いて、『死』を懇願した。

傷付けるぐらいなら、失われていいのだと。そう泣きじゃくる彼女に、なんて言った。

泣いたままになんて、させてやらないと言ったのに。

「俺は、お前に、愛してるなんて、言って、やらない……」

「……いいッスよ。お師様が言ってくれない分、あーしが言い続けるッス。そしたらいつか、きっと跳ね返したくなる日がくるッスよ」

「いつかって……気の長ぇ話だな。四百年待つ気かよ」

「そうッスか? 四百年なんて、すぐだったッスよ」

悲痛な声で、ずっと待っていたと泣き叫んだことがあった。

時の経過に取り残され、愛情を人質に束縛され、ずっと寂しかったと泣き叫んだ。

そんな自分の心情を吐露した世界があったことを、今の彼女は知る由もない。だから、あっけらかんとして見える態度の裏、彼女の胸中を吹き荒れる想いはどれほどか。

泣かせないと、そう誓った。今も、それを違えるつもりはない。

だから――泣いてほしかった。泣いて、まだ足りないと、訴えてほしかった。

泣いて泣いて、泣き喚いて、泣きじゃくって、泣き崩れてくれたら。

お師様でも何でもない、ナツキ・スバルが全霊で、その涙を止めるために奔走した。

それなのに――、

「四百年なんて、明日の明日みたいなもんだったッス」

紅蠍の姿の片鱗なんて見せず、ただ、美しい少女として彼女は微笑んだ。

思わず見惚れるほど美しく、指で触れれば崩れてしまいそうなほど儚く、シャウラは白い頬をほんのりと紅潮させ、恋する乙女の顔で「だって」と続けた。

恋する乙女は、「だって」と続けて――、

「――待ってる時間も、愛してたッスもん」

「――――」

「ねえ、お師様。だから、また、いつか――」

△▼△▼△▼△

ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロと、全てが遠く、煌めいて見えて。

「――シャウラ」

ボロボロと、剥がれる甲殻の一部が砂の上で塵に変わる。

それは一部に留まらず、剥がれ落ちる全ての部位に伝搬していく。

切断された尾も、切り離された大鋏も、魔獣たちに押さえつけられていた複数の足、そして、ナツキ・スバルに抱擁される頭部も、何もかもが――、

「……役目を、果たし終えたかしら」

抱擁する胸の中、徐々に存在の希薄になっていくそれを掻き集めようとするスバルに、小さな声でベアトリスがそうこぼした。

可憐な容姿の精霊は、力なく崩れていく魔獣を――否、自分と同じ、運命の課した役割に殉じ続けた同胞を、寂しげに見つめていた。

ベアトリスの言葉、その理解を脳が拒む。

だが、本能は理解していた。――これは『死』ではない。

これは、彼女が星番としてこのプレアデス監視塔を任され、そして、いずれ迎える今日が訪れたとき、避けられない結末だったのだと。

「だったら……俺たちが……」

ここにこなければ、彼女はずっと、ここにいられたのだろうか。

この砂の塔で、ずっと、戻らない誰かを待ち続けながら、この場所で――。

「――スバル、わかっているはずだ。その仮定は、彼女への侮辱だと」

「――――」

「そして、君がすべきは後悔ではない」

すでに騎士剣を鞘に納め、血や砂で汚れた装いを正した騎士が、そう告げる。

非情で、しかし、彼はどこまでも正しかった。

奥歯を噛み、その正しさへの憎々しさを隠して、スバルは息を吐く。

そして、ずっと一人きりだった彼女を、より強く抱きしめた。

置き去りにされ、誰もいない場所で長い時間を過ごした彼女に。

ゆっくりと、一人でなくなって、見送られていく彼女の一番傍で。

スバルが、ベアトリスが、ユリウスが、メィリィが。

遠く、監視塔から誰かが走ってくる淡い気配。それが、塔にいる仲間たちで。

ずっと、一人で過ごした彼女のために、みんなが集まってきていて。

『でも、あーしはお師様が一人いてくれたら十分ッス』

そんな、可愛げのないことを言う姿が目に浮かんで、それがそのまま涙に変わった。

ゆっくりと、その、スバルの頬を伝った雫を、魔獣の牙がそっとなぞる。

鋭い、何もかもを壊してしまいそうな牙で、この場にいる誰よりも壊れやすいだろうスバルを壊さないよう、愛おしむよう、優しく、優しく。

そして――、

「――ぁ」

抱擁する腕が、不意の感触を失った。

ボロボロと、その質量を喪失する紅蠍の外殻がほつれ、塵へと変わる。黒い塵が、砂の上に舞い、スバルは大きく口を開けた。

「シャウラ……」

『はいッス、お師様』

「シャウラ……シャウラ……シャウラ……」

『お呼びッスか? お師様』

「シャウラ、シャウラ……」

『も~、あーしってば、お師様に愛されすぎて、困っちまうッス~!』

目をつむれば、呼びかけに答える彼女の声が耳に蘇る。

それなのに、もう、彼女はどこにもいなくて。

「――ぁ」

砂の上に蹲って、砂海を掻き毟るスバル。

その鼓膜に、誰かの声が届いた。それが誰のものなのかわからない。確かめる余裕もなく、ただ、つられたように顔を上げ、スバルは目を見開いた。

黒い塵が降り積もった砂の大地、そこがわずかに揺れて、何かが這い出す。

それは小さな、掌ほどの大きさの存在。二振りの鋏で砂を掻いて、その尾部を使って器用に砂から体を引っ張り出す、赤い甲殻をした小さな存在――、

「――――」

それは、地面に膝をつくスバルの方へやってくると、砂についた手にそっと寄り添う。

その、ただの触れ合う仕草が、あの愛嬌の面影を残しているように思えて――。

△▼△▼△▼△

ボロボロ、ボロボロ、こぼれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、剥がれ落ちていく。

ボロボロ、ボロボロ、色褪せていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロして、全てが遠く、煌めいていく。

ボロボロ、ボロボロ、ボロボロと、全てが遠く、煌めいて見えて。

――煌めいていく全部に、あなたがいたから。

『四百年なんて、明日の明日みたいなもんだったッス』

『だって、待ってる時間も、愛してたッスもん』

『ねえ、お師様。だから、また、いつか――』

『いつかまた、あーしと出会ってほしいッス』

『今度は、お師様があーしを待つ番ッスよ? 追う女より、追われる女ッス』

『――お師様、大事な、大事な、約束ッス』

『今度は、忘れないでくださいッス』

『――お師様、愛してるッス』

△▼△▼△▼△

「お前は、馬鹿だ」

忘れられるものかと、震える声で、スバルはそう呟いた。

そして、自分の手の甲にくすぐったく触れるそれを拾い上げ、両手で包む。

それをくすぐったく、こそばゆく思うように受け入れ、小さな、小さな蠍が震えた。

その甲殻は赤く、目に鮮やかなぐらいに赤く、真っ赤で。

――それは、四百年の時でも色褪せさせられない、『愛』の色をしていた。

今日のサブタイは、『明日の明日』と迷いました。

でも、『愛』の色をしていたと書いたから、自然とこっちになりました。

第六章90 『英雄』

――塵から現れた小さな蠍を手に乗せて、スバルは静かに肩を震わせる。

救いたかった。

彼女を、この寂しい砂の塔から連れ出してやりたかった。

助けてやると、そう約束をした。

それなのに、約束を守ってやれなかった。

ナツキ・スバルはいつも、できない約束ばかりをしている。

「――――」

砂の上に蹲り、無言のスバルに誰も声をかけられない。

傍らのベアトリスも、背後のユリウスやメィリィも、かける言葉が見つからない。

ただ、嗚咽すら忘れて涙するスバルを慰めるように、手の上の蠍が腕を伝い、スバルの肩をよじ登って、その首に体を寄せてきた。

この小さな蠍が、いったい何なのかスバルにはわからない。

『紅蠍』の巨体、その崩れた塵の中から現れたこの蠍は、はたしてシャウラとどういう関係があるのか。あるいは、この蠍は彼女そのものなのかとも思うが――、

「――それは、ない」

最後の最期、スバルがシャウラと交わした言葉があった。

あのやり取りが、実際に彼女と交わせたものなのか、それとも別れ際にスバルが見た白昼夢だったのか、それは定かではない。

だが、あれは確かにあったことだと、スバルは悲しい確信を抱いていた。

シャウラは、失われた。

その存在は、このプレアデス監視塔のルールそのものと結び付いていて、究極的にはレイドや、三層のモノリス同様――『試験』を進行するための舞台装置。

故に、監視塔がそれまでの役割を終えれば、彼女も退場しなくてはならない。

最後の最後まで、彼女はその『舞台装置』の役割に殉じたのだ。

ただの『舞台装置』ではありえない、そんな風穴をスバルの胸に開けていって。

「――――」

あのあけすけな笑顔も、触れ合いを求めるウザったさも、お師様お師様と心当たりのない親愛を込めた声も、何もかもが失われた。

シャウラが泣き喚いて、消えたくないと叫んでくれたなら、スバルは全力でそのための方法を探したし、何度でも命を投げ出し、助けにいった。

でも、彼女はそれを望んではくれなかった。

笑いながら、また出会ってほしいと、それだけを言い残して消えてしまった。

その方法も、それが本当に可能なのかも、わからない。

わからないが――、

「わかった。……きっといつか、俺はまたお前と出会う。だから」

晴れ晴れしい笑顔で、愛してると言ってくれた彼女の願いを叶える。

そのために――、

「――だから、今はさようなら、シャウラ」

砂風が、赤い塵となった彼女の想い、その残骸を連れ去っていく。

それを見届け、スバルは息を吐いた。見れば、スバルの首元に身を寄せた蠍が、まるで元気を出せと言わんばかりにその鋏でスバルの耳を摘んでいた。

「いてっ」

鋭い痛みがあって、へこたれているなと背を押された気分だ。

その痛みで涙目になりながら、スバルは「わかったわかった」と頷いて、首元の蠍を掴み、耳から引き剥がそうとする。

しかし――、

「いたっ! いや、わかったから、もう放していいって……いってぇ! おい、これ、耳から血が出る……こいつ! こいつ、本気で……!」

「……お兄さんったら、何やってるのよお」

耳を挟んだまま、ちっとも引き剥がせない小紅蠍に危機感を抱く。

危うく、耳の柔らかい軟骨までがっつりいかれそうになるスバルだったが、そこに助け舟を出したのはメィリィだった。

呆れた様子の彼女は、ひょいとスバルに変わって小紅蠍を小さな手で掴み、

「ちっちゃくても魔獣ちゃんなんだからあ、迂闊に顔に近付けたりしたら、目とか鼻とか食べられちゃっても知らないわよお」

「目とか鼻!? けど、こいつがそんな真似……」

「魔獣ちゃんよお、お兄さん。――あの、裸のお姉さんじゃないわあ」

「――――」

そう言って、メィリィは小紅蠍を自分の頭の上にぽんと乗せた。

先ほどのスバルへの暴虐と違い、小紅蠍はメィリィの頭で悪さを働かない。メィリィの『魔操の加護』の影響下に入り、その獰猛さを潜めたようだ。

それは言わずとも、小紅蠍がメィリィの加護の通じる魔獣であることの証であり――シャウラとしての自我がないこと、その証明でもあった。

「スバル、傷の治療をしないとなのよ」

また俯きかけたスバルの袖を引いて、ベアトリスが優しく体を案じてくれる。

その配慮に唇を噛み、スバルは深く頷いた。いつまでも、砂海に長居していられない。

「――スバル! みんな!」

遠く、監視塔の入口の大扉を開け、エミリアがこちらに駆けてくる。

その彼女も、かなりの大波乱に巻き込まれた装いで、楽な道のりではなかったことが窺えた。それも含め、全員で言葉を交わそう。

話さなくちゃならないことも、済まさなきゃいけないお別れも、多すぎるのだから。

△▼△▼△▼△

「……シャウラは、すごーく頑張り屋さんだったのね」

事の顛末、シャウラがその場に見当たらないことの説明を聞いて、エミリアはその塵さえも散ってしまった砂海を見つめ、彼女らしくその喪失を悼んだ。

そっと、白い指がメィリィの頭の上の小紅蠍に触れる。メィリィに暴れないよう命令されているとはいえ、エミリアの指を受け入れる小紅蠍の様子は、表情や仕草はわからないながらも気持ちよさそうにして見えた。

「エミリア様、一層の方はいかがでしたか? 無事、『試験』を終えられたのでしょう?」

シャウラの説明を終えて、沈んだ顔のスバルにエミリアが憂いの目を向ける。

だが、そこであえて話題を進めることを選んだのはユリウスだった。そのユリウスの呼びかけに、エミリアは「ええ」と頷いて、

「よくわからなくて大変だったんだけど、何とか終わらせられたみたい。……それと、ユリウスも、私のことちゃんとわかる?」

「――。そう、ですね。確かに、はっきりと思い出せます」

おずおずと尋ねたエミリアに、ユリウスはハッとした顔でそう答えた。

自分の口元に手を当て、ユリウスは「エミリア様」と改めて反芻、自分の中に消えたはずのエミリアの存在があることを確かめ、頷いた。

「ベアトリス! 私のこと、わかる? メィリィは?」

「……心配しなくても、思い出したかしら。というか、忘れてたことを言われるまで忘れかけてたくらいなのよ。薄気味悪い感覚かしら」

「わたしも、ちゃあんと覚えてるわよお。お姉さんの方こそ、わたしのこととか、した約束とかちゃんと覚えてくれてるう?」

「もちろんよ。忘れたりなんて絶対しないわ。よかった。ラムとパトラッシュちゃんも思い出してくれてたから、大丈夫とは思ってたんだけど……」

ベアトリスとメィリィの答えを聞いて、エミリアがホッと胸を撫で下ろす。

そんな彼女たちの反応に、スバルは「待った」と声をかけた。

そして、皆の注目を自分に集めると、スバルは喉を鳴らし――、

「ものすごい朗報だけど、ちゃんと整理したい。つまり? みんな、エミリアたんのことを無事に思い出したのか? それは、ええと……」

「――ラム女史が、ライ・バテンカイトスを討ったということだ」

「――――」

結論を引き取り、そう断言したユリウスにスバルは目を見開く。

ライ・バテンカイトス――『暴食』の大罪司教、その三人の内の一人であり、スバルやラムにとっては最も因縁深い仇敵とも言うべき存在。

この塔においても、エミリアの『名前』を喰らい、それ以外にも大暴れして幾度も辛酸を舐めさせられた相手だった。

それが倒れたと聞かされ、スバルの喉がひどく強い渇きを覚えた。

何故なら、ライ・バテンカイトスが倒れたということは――、

「あいつが、奪ったモノが戻ってきてるってことか……? だったら」

エミリアの『名前』が戻ったなら、それ以外の『暴食』の権能の効果も解けるはず。

『美食家』を気取り、バテンカイトスはあまりに多くを奪い続けてきた。その、奪われたモノが解放されるとしたら、水門都市プリステラの人々も――、

「――――」

そこまで考えて、スバルは首を横に振った。

欺瞞はよそう。自分の心に蓋をして、嘘をつこうとするのもやめだ。

この瞬間、ナツキ・スバルはひどく利己的に、エゴイスティックな希望を抱いた。

ライ・バテンカイトスが討たれ、その権能の影響がほどけるなら――、

「――レムを、思い出してくれたのか?」

誰からも忘れられ、その存在の大きさでスバルの胸に大穴を開けた少女。

この旅は、奪われたモノを取り戻すための旅であり――スバルにとっては、レムを救うための旅路そのものであった。

そのための知恵を求めた監視塔へ、『暴食』が襲来するという皮肉な形となったが、それでももたらされる成果が同じであるなら関係ない。

そんな、逸る希望に急き立てられ、スバルは一同の顔を見渡した。

そのスバルの問いかけに、しかし――、

「……ごめんなさい、スバル。まだ、私はレムのことを思い出せてない」

「――っ! どうして!」

「ベティーも、なのよ。ラムの妹のことは、まだ思い出せてないかしら。それに……」

「それに? それに、なんだ。まだ、何があるんだ?」

エミリアに否定され、ベアトリスもそれに続いてスバルは瞠目する。

芽生えた希望を拒まれ、スバルは言葉に詰まったベアトリスに詰め寄った。そのスバルの必死な目に、ベアトリスは白い顎で後方、ユリウスを示す。

「まだ、ユリウスのことも思い出せてないのよ。『暴食』の被害の、全部が戻ってきてるわけじゃないかしら」

「ユリウスの……」

ベアトリスの話を受け、やはりエミリアも同じように頷く。

元々、『名前』を奪われる前のユリウスを知らないメィリィは肩をすくめるが、エミリアたちが嘘をつく理由もない。

ならば、レムもユリウスも、『名前』は戻っておらず――、

「その点に関してだが、私の『名前』が戻らない理由の想像はつく」

困惑するスバルたちの中、他ならぬユリウスがそう言った。

そうして、ユリウスは切れ長な瞳でスバルたちを見つめ返し、続けた。

それは――、

「――『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドは生け捕りにしてある。厳密には、私の『名前』は彼に奪われたモノだ。だから、まだ戻らないのだと思う」

△▼△▼△▼△

大正門を通り、プレアデス監視塔の中へ戻ると、五層にはスバルたちを砂の塔へと連れてきた竜車が置かれており、その傍らで手を振る人影に出迎えられた。

「エミリアさん、それにナツキくんらも、ずいぶんと久しぶりやねえ」

「……まさか、アナスタシアさんか?」

はんなりと微笑み、ゆるゆると手を振る人物を見て、スバルは凝然と目を見開いた。

その仕草や態度、表情に至るまで自然体なのを確認する。それは、人工精霊であるエキドナが扮し、トレースし切れなかった人間性の完全再現――否、再現ではない。

元々の本人の性質なのだ。それを、再現とは言わないだろう。

つまり――、

「アナスタシアさん! 起きられたの?」

「そうそう。もう、長いこと居眠りしててしもたみたいで、心配かけて悪かったわぁ。この何ヶ月か、どうしてたんかはエキドナに聞かせてもらったわ」

「エキドナも、無事なんだな」

「何とかね。自責の念以外では、ボクが死ぬようなことはひとまずなさそうだ」

エミリアの問いに答えるアナスタシア、その首元の襟巻きが動いて、白い狐が申し訳なさそうな様子で項垂れる。

そんなエキドナの頭を撫でて、「こーら」とアナスタシアは叱りつけると、

「またそうやって自分を責める。言うたやん。ウチが自分で選んだことなんやから、それでエキドナが凹む必要なんてないんよ。そう思うやろ、ユリウス」

「私ですか? ……そうですね。正直、アナスタシア様のご決断にはずいぶんとハラハラさせられたもので、その通りですとお答えしづらいのですが」

「しづらいけど、なに?」

「己の内に閉じこもられていた理由を聞いては、騎士冥利に尽きるなと」

唇を綻ばせ、優美に答えるユリウス。その答えを聞いて、アナスタシアは「まぁ、言いよるやないの」と自分の口に手を当てて笑った。

ずいぶんと息の合ったやり取りだ。この主従らしいと言えば主従らしいが、

「本当に、アナスタシアさんはユリウスを忘れてんだよな? そのわりには、やけに馬が合ってるみたいなんだが……」

「元がどんな関係か忘れた……それ自体、ウチにとってはもう、お腹の中からむしゃくしゃして辛抱でけんことなんやけど……! なんやけど……!」

「ぐっと堪えて、この姿勢というわけだよ。幸い、この二ヶ月で知ったユリウスのことならボクからも話せる。どうやら、ボクはそのために生まれたようでね」

「……お前も、変な方向に振り切れたみたいなのよ」

わなわなと唇を震わせるアナスタシア、彼女の首元で自らを定義したエキドナに、ベアトリスがほんのりと優しく言葉をかける。

それを聞いて、エキドナも狐の鼻をすんと鳴らし、「ああ」と頷いた。

過去のない人工精霊エキドナ、アナスタシアの代理として監視塔へやってきた彼女も、何やら思うところがあり、前向きな結論を得たようだ。

無事、アナスタシアが自分の体を取り戻していることも、その一環なのだろう。

アナスタシアのオド、それを削って活動したことの後悔や、その生まれながらに抱える問題の解決など、それらがクリアされたわけではないが――、

「それを俺たちがつつくのは野暮な話、か」

アナスタシアとエキドナの間の問題は、彼女たちが話し合うべきことだ。

もちろん、助けを求められれば一緒に悩むし、解決に協力もする。そのぐらいの絆は、この二ヶ月の砂の旅路が育んでくれたと思っていいはずだ。

「――ねえ、アナスタシアさん。無事に戻ってくれたのはすごーく嬉しいし、話したいこともたくさんあるんだけど……」

「わかってるて。ユリウスがやっつけた大罪司教のことやろ? ユリウスがあれこれやって、竜車に放り込んだままになっとるよ」

「ユリウスがあれこれ……」

肩をすくめ、アナスタシアが背後の竜車を示す。

その言葉を反芻するエミリアの隣、スバルは息を呑んで竜車を見た。この中に、『暴食』の大罪司教ロイ・アルファルドが捕らえられている。

「――――」

竜車の裏に回り込む前に、繋がれた地竜――ジャイアンの首を撫でる。

太い四足を持ったアガレス種の地竜は、シャウラとの最後の戦いにおいて、スバルたちの勝利を演出してくれたまさかの立役者だ。

最善の結果は得られなかった。だが、それでジャイアンの心遣いが台無しになるわけではない。ましてや、メィリィの生存はジャイアンの心意気の成果だ。

「お前のおかげで助かった。……このあと、何かあっても助けてくれ」

「――――」

太い首を撫でられるジャイアンが、荷が重いと言いたげに鼻息をこぼした。

それにわずかに苦笑して、すぐ頬を引き締めたスバルは竜車の客車へ。そして、エミリアたちと頷き合い、その中を覗き込んだ。

そこに、『暴食』の大罪司教が――、

「――これって」

緊張感をみなぎらせて竜車を覗いたスバルは、中の様子を見て肩透かしを食らう。

竜車の中、確かにアルファルドはいた。ただし、その拘束のされ方はスバルが想像したものとは一味違う。

ロイ・アルファルドは、全身を黒い結晶のようなもので包み込まれ、白目を剥いた状態で拘束――否、封印されていたのだ。

「相手は大罪司教……ただ、身動きを封じるだけでは不十分だろう。だから、可能な限り厳重に固めておいた」

「固めるって……これ、どういう原理なんだ?」

「原理的には、陰魔法の応用かしら。シャマクで相手の意識を切り離して、そのまま固めてあるのよ。……これ、えげつないやり方かしら」

「じゃあ、この黒いの、シャマクの塊ってことか……」

ベアトリスの説明を聞いて、スバルはぎょっとしながら改めて封印を見やる。

シャマクは、スバルがベアトリスと契約する前、最もこの世界で頼りにしていた存在と言っても過言ではない魔法だが、それがもたらす効果と、その効果を応用したユリウスの封印の手口には舌を巻くしかない。

そんなスバルの反応を見て、ユリウスは「誤解しないでもらいたいが」と前置きし、

「何も、これは私が編み出した手法というわけではない。世界で最も有名な封印も、これと同じ術式を採用している。規模は桁違いだとしてもね」

「世界で一番有名な……それってまさか」

「――『嫉妬の魔女』、よね」

固められたアルファルドを観察していたエミリア、彼女の言葉にユリウスが「はい」と深々と頷いて肯定する。

アルファルドの封印、それはこの監視塔からさらに東――彼の地に封じられる『嫉妬の魔女』、その四百年の眠りと同じ方法であるのだと。

つまりは信頼と実績の方法、封印を施したのがユリウスとなれば、より信頼度は高いと言うべきだろう。ただし、問題はそこではない。

「問題は、どうしてこいつを生かしておいてるのか、だ」

「スバル……」

封印されたアルファルドを見つめ、そう言ったスバルにエミリアが眉尻を下げる。

その視線に胸を痛めながら、スバルは「だってそうだろ?」と振り返り、

「『暴食』の片割れ……バテンカイトスが死んで、エミリアたんのことはみんなが思い出した。だったら、残りの『記憶』だってこいつが死ねば……」

「戻ってくる確証はない。私が彼を処断しなかったのも、それが最大の理由だ」

「――――」

「バテンカイトスをラム女史が討ったことに疑いはない。だが、エミリア様の『名前』が解放されたのは、本当にただ討つだけで成立したことなのか? 何か他の、能動的に奴に戻させた……そうした可能性は拭い去れない。早まれば、全てを失う可能性もある」

逸るスバルを窘めるように、そう続けるユリウスの言葉はいちいち正論だ。

スバルも、ぐうの音も出ないような正論。

だが――、

「だったら……だったら、『死者の書』はどうだ?」

代案としてスバルが提示するのは、この監視塔にしか存在しない手法。

他者の思想を暴く手段として、およそ『死者の書』よりも裏のないものは存在しまい。なにせ、その人間の生涯そのものを追体験する代物なのだ。

「仮にあいつに尋問したとして、本当のことを吐く保証はない。それなら、『死者の書』を使ってでも、奴の内心を暴いた方が……」

「スバル、それは……そんなの、良くないと思うわ。そのやり方は……」

「でも、確実のはずだ。これなら……」

「あんな? ちょっと口挟んでもええ?」

『死者の書』の利用を提案するスバルに、エミリアが消極的な姿勢を見せる。それにスバルが食って掛かろうとすると、挙手したのはアナスタシアだ。

彼女は鼻白むスバルを見やり、胸の前で白い手を合わせると、

「ウチもエキドナから聞いた話やし、あちこち抜けがあるかもしれんのやけど……その『死者の書』やっけ? 過信するんは危ないんちゃう?」

「危ないって、どうして」

「どうしても何も、それはナツキくん自身がいっちゃん体感したことやろ? ウチが寝とる間に、ナツキくんも自分がなくなったりしてたって話やないの」

「――――」

短時間でどれだけエキドナと話せたのか、アナスタシアは痛いところを突いてくる。

しかし、スバルの記憶喪失と、『死者の書』の危険性は厳密には一致していない。スバルの記憶がなくなったのは、『死者の書』の影響というわけではないからだ。

ただ、それで『死者の書』の危険性が全くなくなるわけではない。

事実、スバルはメィリィの『死者の書』を読むことによって、思考や感情の一部を彼女というパーソナリティに塗り潰されかけた。

スバルは自分が特別メンタルが強いとも、自我が強いとも思っていないが、それでも、影響を受けやすい人間ならどうなるかはわからない。

あるいはその結果、ロイ・アルファルドの精神を引き継いだ、新たなロイ・アルファルドが誕生しないとも言い切れはしなかった。

「じゃあ……じゃあ、アナスタシアさんも、こいつを生かしておくのが正しいって、そう言うのか? こいつが今まで、どれだけのことを!」

「正しい正しくないの話をするんなら、ウチやって大罪司教なんて生かしとくんが正しいやなんて思わんよ。この御人を殺して、ウチの中のユリウスの『記憶』が戻ってくるならそれもええと思う。でも、ウチにも持論があってな?」

「持論……?」

「命のあるなし、取り合い奪い合いは最後の手段。――人を簡単に死なせる人間は、碌な結末を迎えない。ホーシン語録やなしに、ウチの言葉」

アナスタシアの言葉に、スバルは目を見開いた。

この、剣も魔法もあるファンタジー世界で、何を甘いことをと反発心が起こる。だが、同時にスバルの中の倫理観は、それを正しいとも感じていた。

スバルだって、人死には少ない方がいいに決まっていると考えている。

味方はもちろん、敵だって人死には少なく済む方がいい。

しかし、その理屈は、あくまで相手が温情をかけるに値する場合だけだ。

「大勢を不幸にして、今だってみんなを苦しめてる。……そんな奴でも、アナスタシアさんは殺すなって言うのか」

「殺さなならんときは殺すよ。そう決断するし、いざとなったら手も汚す。でも、衝動に任せるんは違う。――ナツキくんも、こっち側の人間やと思う」

「そんな、ことは……」

「せやから、いなくなった誰かのために涙も流せる。……ウチは、血も涙もない非情なナツキくんより、そっちの方が末永いお付き合いがしたい思うわ」

アナスタシアが指で自分の頬をなぞり、スバルの涙の跡を指摘する。

瞬間、シャウラを失わせた傷が疼いて、スバルは静かに俯いた。アナスタシアの、その言い方は卑怯だ。だが、間違いなく効果的ではあった。

「……スバル、私もアナスタシアさんとおんなじ意見。ユリウスや、眠ってるレムのことを考えたら、急いで解決してあげたいけど……」

「少なくとも、私のことはお気遣いなさらず。事ここに至れば、拙速さよりも確実性を優先すべきだ。……弟のこともかかっている」

プリステラに残してきたヨシュア、その記憶が蘇る瀬戸際でもあり、ユリウスの意見は慎重の極み――だが、前述の通り、それが正論なのだ。

失った痛みを埋めたいがために、成果を性急に求めている。今のスバルの心境は、まさにそういうことなのだろう。

「まとめよう。アナとユリウスの意見は、ロイ・アルファルド……『暴食』の大罪司教を王都へ移送し、権能の犠牲者を救う方法を聞き出すこと。その後、恩赦が下ることはないだろう。極刑は免れないはずだ」

「年齢を理由に酌量するにも限度がある。最終的にはそうなるやろね」

握った拳の力を解くスバルを見て、エキドナとアナスタシアが話を整理する。

アルファルドの処遇について、エミリアも反対意見はない。その身柄は封印された状態で王都へ運ばれ、ある意味では先に連行されたシリウスと同じ立場になる。

「エミリアさんらも、それでええ?」

「ええ。私も、ちゃんと忘れてしまった人たちのこと、思い出したい」

アナスタシアの意思確認に、エミリアは顔を上げ、堂々と答えた。

異を挟ませない彼女の言葉に、頼もしさと同時に苦いものを覚え、スバルは竜車の大罪司教から目を逸らし、そこで不意に膝をつく。

「あれ……」

「スバル! ああもう、やっぱり無茶しすぎたのよ! あんな気持ち悪いのずっと抱えてて、こうなって当然かしら!」

頭が重くなり、視界がぐらつくスバルの肩を支え、ベアトリスがそう怒鳴る。

その可愛い声がきゃんきゃんと頭に響いて、スバルは自分が思っていた以上に消耗していたのだと自覚した。

当然と言えば当然か。

記憶を失い、その間に何度も死に、その後にも何度も死に、記憶を取り戻すために己と向かい合い、目覚めては塔を襲う五つの障害と激突し、権能で仲間たちの負担を引き受けながら戦って、最後にはシャウラを失って――。

心身共に劇的な消耗があった。

それこそ、ほんの数日なのに、五年以上もこの塔で過ごしていたみたいに。

「――ぁ、俺」

「スバル、平気、大丈夫だから。今は、少しだけでいいから休んで? また、起きたらちゃんとお話ししましょう。私も、話したいことたくさんあるから」

ぐったりと力が抜け、その場にへたり込んだスバルをエミリアが正面から抱きとめる。柔らかい感触と甘い香り、いつもなら身を硬くするはずのそれが、今のスバルには劇薬のように効果的で、意識がすっと闇に落ちていく。

もし、このまま闇の底で命を落としたら、またこの塔を取り巻く奔走の場所に戻って、そこでシャウラを救う方法を探せるだろうか。

そんなものはないと、半ば理解していながらも、望まずにはおれないまま。

ゆっくりと、スバルの意識は闇に呑まれていった。

△▼△▼△▼△

「よいしょっと」

意識をなくしたスバルの体を抱き上げて、エミリアはそう息をつく。

ぐったりと瞼を閉じたスバル、その死んでしまいそうなくらい深い寝息は、この監視塔の問題解決のため、彼がどれだけ頑張ってくれたのか、その証だ。

エミリアたちを救うため、スバルがどんなに必死だったことか。

自分も記憶をなくして大変だったのに、バテンカイトスに『名前』を奪われ、みんなに忘れられてしまったエミリアのところに彼が駆け付けてくれて、どれだけ嬉しかったか。

そういうことを、ちゃんと伝えてあげたい。

頑張り屋さんのスバルが、自分で自分を責めすぎてしまわないように。

シャウラのことはスバルの責任ではない。

エミリアたち、全員の責任であり、もっと言うなら――、

「――お師様の、フリューゲルが悪い人だと思う」

『賢者』としての功績をシャウラに押し付け、そして、プレアデス監視塔の役割の一新と共に、彼女を眠りにつかせた張本人。

仮に、彼が世界を救った三英傑の一人だったとしても、シャウラを寂しがらせ、スバルを泣かせた時点で、エミリアの中では極悪人の仲間入りだ。

当然、会って話す機会もないから、このもやもやは誰にも晴らせない。

「見たところ、消耗は激しいようですが……大事はありません。休ませれば回復するでしょう。このまま、あの『緑部屋』に?」

「ええ。ラムたちもそこにいるし……私を助けにきてくれる間、アナスタシアさんがレムのことを見ててくれたんでしょ?」

「そんな大げさな話でもないよ? ただ、ウチが自分を取り戻したあと、ナツキくんを助けにいくユリウスと、エミリアさんらを助けにいくラムさんとを見送っただけやし。……生憎、レムさんの方に変化はなかったわ」

「そう……」

『緑部屋』で待機しているラムとレム、それにパトラッシュらのことを思い、エミリアは形のいい眉を顰める。

バテンカイトスの撃破、それはある意味、『記憶』と『名前』を奪われたレムの敵討ちを果たしたと言える。しかし、重要なのは彼女が目を覚ますことであり、それが果たされていない以上、敵討ちの成否は些事でしかない。

少なくとも、ラムは憚ることなくそう言うだろう。重要なのはレムの帰還だと。

「それについても、ロイ・アルファルドから聞き出せることに期待しましょう。まだ、この監視塔……いえ、大図書館プレイアデスについても不明点が多すぎる」

「何でもわかる大図書館……それがシャウラの言い分だったのよ。適当な娘だったけど、だからこそ、言われた話を捻じ曲げたりはしないはずかしら。ここが大図書館だと、そう言い含められていたのは間違いないのよ」

その大図書館としての機能が、『死者の書』を意味しているのか、それ以外にも可能性があるのか、それを確かめなくてはならないだろう。

その上で、エミリアはベアトリスたちに話さなくてはならないことがあった。

「あのね、スバルを『緑部屋』で休ませてあげたあとなんだけど、みんなには一緒にきてもらいたいところがあるの。……会ってもらいたい人がいて」

「……もしかして、それって一層と関係があるのかしら?」

一層へ上がり、エミリアが最後の『試験』を突破した。

それ自体はベアトリスたちも知っている話。問題は、まだ話していないその先だ。

具体的に、一層に何があり、誰と出会い、エミリアがどうしたのか。

それは突飛で超越的で、言葉にするのが何とも難しい出来事だったから――、

「話すと長くはないんだけど、ややこしいから、直接会ってみてくれる?」

と、自分の頭上、はるか上の塔のてっぺんを指差して、エミリアはそう言った。

△▼△▼△▼△

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「――――」

エミリアに案内され、プレアデス監視塔の最上層――一層へ辿り着いた面々は、その巨大な龍の出迎えに圧倒され、言葉を失っていた。

そんな一同の様子を見て、エミリアは「ビックリ仰天でしょ?」と首を傾げ、

「一層に上がってみたら、ボルカニカが待ってたの。私、すごーく驚いちゃって……」

「まま、待つのよ、待つかしら。お、驚くで済ませていい問題じゃないのよ!?」

青い鱗に覆われた『神龍』を前に、ベアトリスが泡を食って声を裏返らせる。

パタパタと手を上下に振り、落ち着かない様子のベアトリス。しかし、動転しているのは彼女だけではない。

「これ、は……」

「はぁ~、さすがにウチもこれは予想外やったわ。なんやの。『神龍』さんて、大瀑布の向こうにいるって話やなかった?」

「そのはず、だったね。『竜歴石』の予言によれば、王選が決着する年、改めてルグニカ国王となったアナと盟約を結び直しに現れると聞いていた」

絶句するユリウスの隣、泰然としたアナスタシアもさすがに冷や汗を隠せない。彼女の首元のエキドナも、声がわずかに上擦っていた。

ただ、そんな女性陣の反応に遅れて、ユリウスは「失礼を」と姿勢を正し、

「偉大なる龍にして、我らが王国を守護せし『神龍』。長きにわたり、盟約を遵守し、多くを与えてくださった救済の担い手、ボルカニカ様にご無礼をいたしました」

『――――』

「このような形ではありますが、お目にかかれて光栄です。私はルグニカ王国近衛騎士団所属、ユリウス・ユークリウス。御身の逸話の数々、この胸の奥にしかと」

その場に跪いたユリウスが、腰の剣を外して床に置く最敬礼。

そして、親竜王国に仕える騎士として、神聖なる龍に誠心誠意の礼儀を尽くした。それを受け、ボルカニカは金色の目を細めると、

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

「は! 我が身、我が信義の全ては、こちらにおわすアナスタシア・ホーシン様へ捧げております。次代の王、次なる盟約は必ずや、アナスタシア様が……くっ」

「ゆ、ユリウス、泣いてるん?」

跪いたまま、感涙を堪え切れないユリウスにアナスタシアが動揺する。その主の言葉に「申し訳ありません」とユリウスは手の甲で涙を拭い、

「『三英傑』の一角、レイド・アストレアと言葉を交わせただけではなく、ついには『神龍』ボルカニカと対面できたのです。ルグニカ王国の騎士として、これ以上の誉れがありましょうか。……ここは、なんという塔なのか」

畏れ多いものに触れたことで、ユリウスが声を震わせている。

そんな彼の感動に水を差すようでとても悲しい気持ちになりながら、エミリアは「あのね……」と言いづらそうに切り出した。

「ユリウス、すごーく喜んでるから言いにくいんだけど……」

「――。申し訳ありません、エミリア様。アナスタシア様とエミリア様を差し置いて、私が勝手に『神龍』と対話を試みてしまい……」

「ううん、それはいいの。ただ、ボルカニカなんだけど……」

なんと説明すべきか、ユリウスを傷付けないように言葉を選ぼうとエミリアは苦心。すると、そんなエミリアの頭を飛び越して、

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

「……ちょい待ち。今の台詞、ウチ、さっきも聞いた気がするんやけど」

繰り返された言葉を聞いて、アナスタシアが最初に不信感を抱く。

しかし、同じ疑問は他の面々にも伝播した。当たり前と言えば当たり前だが、同じ口上を繰り返すボルカニカの異変に、全員がすぐに気付く。

そして――、

「ボルカニカなんだけど、ここで長く待ちすぎちゃったせいでボケちゃったみたいなの。体は元気だから、すごーく暴れたりするんだけど……」

痴呆の進んだボルカニカ、彼の龍の強さは本物だが、その頭が長い時間の経過にやられてしまったのも本当の話。

『神龍』は一層の『試験』のためか、柱へ挑むエミリアの妨害にものすごい力を発揮していたが、エミリアがモノリスに到達し、『試験』を乗り越えたと判断すると、またしても元の曖昧な状態に逆戻りしてしまった。

おまけに『試験』は終わったのに、まだ『試験』の話をずっとしている。

「偉大な『神龍』が、ボケてしまった……?」

「ゆ、ユリウス、落ち着き? ほら、ちょっと疲れてるやろ? 座ってもええのと違う?」

そのエミリアの話を聞いて、大きな衝撃を受けているのはユリウスだ。

レイドに続いて、遭遇した二つ目の伝説も聞いていた話と違い、膝が震えている。

エミリアも、目をキラキラ輝かせているユリウスをガッカリさせたくなかったので、なんだか自分の胸がしくしくと痛むような気がしていた。

しかし――、

「エミリア、たぶんそうじゃないかしら。これはボケてるんじゃないのよ」

「え?」

「エキドナ、お前も感じるはずかしら。これはボケてるんじゃなくて……」

「ああ、そうだね。最初はわからなかったが、今は感じる。これは精神の摩耗ではない。魂が虚ろなんだ」

「魂が、虚ろ……?」

ベアトリスとエキドナ、わかり合う人工精霊同士の会話にエミリアは首を傾げる。

ユリウスとアナスタシア、二人も怪訝な顔をする中、ベアトリスが「簡単な話なのよ」と指を立てて前置きした。

「魂が虚ろ……つまり、中身が入ってないかしら。だから、決められた発言と、限られた反応しかできない。九割寝てると思えばいいのよ」

「九割……でも、すごーく強かったのよ?」

「魂が入っていたら、その比ではなかっただろうね」

命拾いした、というニュアンスのエキドナの言葉に、エミリアはゾッとする。

氷兵たちの協力もあって、ギリギリの攻防をかろうじて生き抜いたのがエミリアだ。そんなボルカニカとの対決も、彼からすれば寝惚けていたも同然と。

ボケたのと寝惚けたのとでは、似ていてもその質が全く異なってくる。

「ただ、魂が虚ろでも、『神龍』の肉体には違いないかしら。それなら、プリステラの人間たちを助ける方法はあるかもしれんのよ」

「――! みんなを助ける方法? それってどうしたらいいの?」

「――なるほど。『神龍』の、龍の血を手に入れるんやね」

指を鳴らしたアナスタシア、彼女の言葉にベアトリスが頷く。

その話を聞いて、エミリアも「あ」と目を丸くした。

『神龍』ボルカニカの血、それはルグニカ王国に伝わる様々な逸話の発生源。

龍の血は涸れた大地を蘇らせ、豊穣を約束し、病やケガによる血をたちどころに遠ざける妙薬であると、とにかくすごい効果の数々が記録されている。

そして、他でもない。その龍の血は、エミリアにとって聞き逃せない要素――、

「ボルカニカから、血をもらえたら……」

エミリアの、王選に参加した目的――ルグニカ王国が保存する『龍の血』を獲得し、その血を使ってエリオール大森林の凍土、その凍結を解く。

あの森で、エミリアの力の暴走によって氷漬けとなった同胞たち、その身柄を解放するために、エミリアは王選への参加を志したのだから。

「――――」

その、エミリア参戦の最大の目的が、この瞬間に叶う可能性が浮上した。

そのことにエミリアは動転し、息を詰める。

ここでボルカニカから血をもらうことができれば、エミリアが王座に就こうという理由は失われることとなり――、

「私、は……」

「……エミリア、混乱させて悪かったかしら。ただ、エミリアが考えてる『血』と、このボルカニカの血は違うものなのよ。だから、そっちは叶わないかしら」

王選への参加の意義、それを失いかけたエミリアにベアトリスが言った。

その言葉に、エミリアは「え?」と目を丸くする。

「叶わないって、どういうこと? 私、すごーくちゃんと勉強したのよ。みんなの、あの森の氷を溶かすには、お城にある『龍の血』がいるって。それで……」

「その考えは間違ってないのよ。ただ、さっきも言った通り、ルグニカ王城にある『龍の血』と、このボルカニカの血は厳密には違う。……城の『龍の血』は、死した龍の最後に脈打った心臓からこぼれた血、かしら」

「最後の、心臓の血?」

聞いたこともない話を聞かされ、エミリアは形のいい眉を顰めた。それに静かに頷くベアトリスに対して、「よろしいですか」とユリウスが挙手する。

魂の有無を聞いて、先の衝撃からかろうじて立ち直ったらしきユリウス、彼は反応の変わらない『神龍』を見上げながら、

「お言葉ですが、ベアトリス様、今のお話はどこで? 私も、ルグニカ王国の近衛騎士団に所属した騎士です。王国の大事の多くは耳に入ってくる。しかし、今の話は……」

「――最後の心の臓の響き、龍の心血として器に注がれたり。その血、真の龍の血として王城へ託され、人と龍との盟約の証とならん」

「――――」

「知らないのも無理ないのよ。今の話は禁書庫に封じられた記録……もはや外の世界に名の残らない、『強欲の魔女』エキドナが残した記述の一文かしら」

ベアトリスのその答えに、ユリウスが瞠目し、息を詰めた。

王国騎士である彼も知らない、しかし、ベアトリスの嘘とは到底思えない内容。そしてそれが事実だとしたら――、

「では、ルグニカ王城に保管されている『龍の血』とは、どの龍の血なのですか? 最後の心臓の鼓動ということは……」

「その血を残した龍は死んでないとおかしい……そうなると、そこで頭の中空っぽでも生きとる『神龍』さんやと筋が通らんねえ」

ユリウスとアナスタシアの疑問、それももっともなものだった。

『龍の血』が最後の心臓の鼓動だとしたら、それはボルカニカのものではなくなる。そして、それでもなお絶大な力を持つ血であるなら――、

「残念だけど、そこまでは書にも書かれてなかったのよ」

「……半端なことをするものだね。察するに、その『強欲の魔女』というのが、ナツキくんがボクに冷たく当たる最大の原因だろう? そのせいであまりいい印象がなかったが、今のでよりその印象を強めたよ」

「お母様の悪口は許さんかしら。口を慎むのよ」

「二人とも、そうやってケンカしないの! でも、うん、そうなんだ……」

エキドナ性の違いで対立する二人を叱り、エミリアは静かに俯いた。

城の『龍の血』と、ボルカニカの血が違うものであるという話は初耳で、驚きだった。ただ、それと同時に少しだけホッとしている自分もいて。

「……そんなの、すごーく変なのに」

森のみんなを助けることが、エミリアにとって一番の目的だ。それは今も、いつだって変わっていない。だから、ここでボルカニカの血をもらい、それが解決策になるなら、それでエリオール大森林を解放するべきだった。

しかし、それをしたいと思う反面、エミリアは迷ったのだ。

――ならば、自分は別の手段でエリオール大森林の永久凍土を溶かせるなら、もう王選に参加することを辞退し、舞台から降りるのかと。

「――――」

「……エミリアさんの関心はともかく、ベアトリスさんの話が本当なら、このボルカニカさんの血ぃで何とかなるん? 期待外れの可能性が高いんやない?」

「腐ってもボケても、魂が抜けても『神龍』かしら。その血が大きな力を持つことには違いないのよ。ただ……」

「みんなの氷を溶かしてあげられるほどじゃない、のね」

エミリアの問いかけに、ベアトリスが申し訳なさそうに頷く。

その、エミリア以上に落ち込んでいそうなベアトリスの様子を見て、エミリアは「大丈夫よ」と唇を緩め、へこたれていないと顔を上げた。

「すごーく残念なのはホントのことよ。でも、いきなりのことだったから、驚いちゃったのが大きくて、実感が湧いてなかったから……私は、へっちゃら」

「ごめんかしら。話しておくべきだったかもしれんのよ。……まさか、こんなところに『神龍』がいるとは思わなかったかしら。痛恨だったのよ」

「ええ、そうね。お騒がせものなんだから」

ベアトリスに沈んだ顔は似合わないと、エミリアはしっかり胸を張った。

がっかりした気持ちは、正直ある。でも、ベアトリスに言ったことも本当だ。むしろ、近道やズルはできないのだと、そう言われたも同然だと思える。

「では、改めて話を戻そう。この『神龍』の血があれば、プリステラで『色欲』の権能が姿を変えた人々を元に戻せる可能性がある。ベアトリスの言う通り、魂がなくとも、血に宿る絶大な力自体は残っているはずだ」

「城の『龍の血』は一滴でも荒れ地が蘇ったって話やね。劇薬にならん?」

「だから、数千倍に希釈する必要があるだろうね」

「ですが、何の方法もなかったときと比べれば大きな進歩です。万事に効く霊薬であるという話が本当なら、試してみる価値はある」

エキドナとアナスタシア、そしてユリウスの話し合いを聞いて、エミリアも改めて、その話に希望が湧いてくるのを感じる。

あの、大変な目に遭った人たちを助けるためにアウグリア砂丘を渡ったのだ。

『暴食』のことも『色欲』のことも、解決する方法を持ち帰れるならそれが一番。

そうでなくては、スバルがあんなに傷付いてしまったことに報いれない。

「なんて、私ったらすごーく勝手……」

シャウラの犠牲に意味を持たせようなどと、とても身勝手な考えだ。

彼女には彼女の意思と願いがあって、この塔で長い時を過ごし続けた。それに意味を持たせるのはシャウラ自身であって、エミリアではない。

「ん、わかった。ボルカニカにお願いしてみましょう。もしかしたら、全然話は通じないかもしれないし、血をもらおうとしたら大暴れするかもしれないけど」

「それを聞くとげんなりするかしら。エミリア、お前はプレアデス監視塔の新しい管理者の権限を得たはずなのよ。それでどうにかならないのかしら」

「管理者の権限……全然、その自覚がないのよね……」

三層の謎を解き明かし、二層のレイドを突破して、一層のボルカニカに志を示した。

それらの条件だけ見れば、確かにエミリアは監視塔の踏破者と言える。だが、それがエミリアにわかりやすい変革をもたらしたかというと、それはノーだった。

ぼんやりとわかることは――、

「もう、この監視塔にくるための砂丘も、誰も拒まないってこと……かな」

「それが、エミリアさんが選んだことなん? 『死者の書』ってのもずいぶんと厄介な代物みたいやし、それもだいぶ賭けみたいな話やない?」

「危ないこともあるかもしれないけど、それこそちゃんとみんなで気を付けて使ったらいいと思うの。私たちだけじゃ、判断できないこともたくさんあると思うし」

エミリアたちが、この少ない人数で結論を出すには監視塔の抱えるものは大きすぎる。

良くも悪くも、ここをどうにかする権利はエミリアたちにはない。だから、もっと多くの人間で知恵を持ち寄り、一番いい方法を探すべき。

「そう思うんだけど、ダメ?」

「……いささか他者に期待しすぎな気はするが、君らしい結論だ。ボクは、アナやユリウスが反対しないなら反対しないさ」

「ありがと、エキドナ」

最初に賛意を示したエキドナに、エミリアがそう礼を言う。

すると、アナスタシアも「わかったわかった」と手を振って、

「ウチも、反対はせんよ。実際、せっかく隠しておいても、これは扱い切るんに苦労するし……それなら、発見と開拓の手柄を山分けした方がずっといいわ。『暴食』の件と、龍の血も持ち帰れるのかもしれんのやし」

「多くを、ましてや卑に染まって望んではならない。何より、この塔の一番上へ辿り着かれたのはエミリア様です。そのご意思を尊重しましょう」

「アナスタシアさん、ユリウスも、ありがとう!」

二人の合意を得て、エミリアは笑いながらお礼を言った。それから、最後にまだ意思表明をしていないベアトリスを振り返り、

「ベアトリスは? 無責任だと思う?」

「責任無責任の話をするなら、調べもせずにここを放棄する方がよっぽどなのよ。ベティーは反対しないかしら。個人的に、興味深くもあるのよ」

「よかった!」

一番身近な身内に反対されないかと、ハラハラしていた胸を撫で下ろした。

きっとみんなの知恵を持ち寄れば、この監視塔の上手な使い方も見つかるはずだ。

「よし、それじゃ、あとは血ね。……ボルカニカが一緒にきてくれたら、それが一番簡単に話が進むんだけど」

「ウチ、それはそれで問題が多発しそうな気がするわぁ」

確かに、ボルカニカはとても体が大きいので、連れ回そうとするとあちこちにぶつかってしまって大変かもしれない。でも、ボルカニカは飛ぶことができるので、街に入るときはずっと飛んでいてもらったらぶつかる心配はいらなそうだ。

「ねえ、ボルカニカ。あなた、私たちと一緒にこられる? それとも、ここにどうしても残るなら、ちょっと血を分けてほしいんだけど……」

『――――』

「ボルカニカ?」

期待半分諦め半分、ボルカニカから『試験』の繰り言があるものを思って話しかけたエミリアは、そのボルカニカの反応に眉を上げた。

一層の床、柱に寄りかかる最初の姿勢に戻ったボルカニカ、その『神龍』がゆっくりと首をもたげ、塔の外に視線を向けたのだ。

やってきたエミリアたちに話しかけるでも、攻撃を仕掛けてくるでもない態度。

それが明確におかしな態度だと、少なくともエミリアだけは感じ取った。

そして、それと同時に――、

「――なに?」

ゾクッと、背中を冷たい指でなぞられるような感覚があり、エミリアは慌てて悪寒の原因――ボルカニカの眺める方、塔の東側へと目を向けた。

塔の東側、そちらには砂海のさらに果て、大地の終わりである大瀑布が――否、大瀑布と、特別な地が存在する。

それは――、

△▼△▼△▼△

「う……」

ざらついた感触に顔を撫でられ、スバルは呻きながら瞼を開けた。

ぼやけた視界、それが何度かの瞬きでまともな輪郭を帯びてくると、視界に飛び込んでくるのはざらついた感触の原因、赤い舌でスバルを舐めるパトラッシュの顔があった。

「……パトラッシュ、か」

「――――」

「心配かけて悪かった。……お前、また頑張ってくれたんだろ? いつも悪いな」

愛竜の憂い顔へとそっと手を伸ばし、鋭い面貌を撫でながらスバルは唇を緩める。

この漆黒の地竜には、いつもいつも危ないところを助けられる。記憶をなくしたスバルを救ってくれた恩義はもちろん、この最後の周回でも、パトラッシュが任された役割はとても大きい。なにせ――、

「パトラッシュがいなかったら、レムは危ないところだったもの。この子を連れ帰ったことが、バルスの生涯最大の功績でしょうね」

「否定し切れないからやめれ。ベア子を連れ出したり、エミリアたんのために徽章を取り戻したりもしてるから。どっちもロズワールが関与してたけど」

厳密にはベアトリスの問題にロズワールは無関係だが、こう言ってやった方が相手への反撃になるので、あえてそう言ってやった。

案の定、それを聞いたラムは「ちっ」と忌々しげに舌打ちする。

その、『緑部屋』の壁に背を預け、己の腕を抱いたラムの姿を見て、スバルはその満身創痍ぶりに痛々しく目を細めた。

ライ・バテンカイトスとの戦いは、当然だが激戦になってしまったようだ。

途中、メィリィの負傷があったとはいえ、スバルが引き受けられる負担が激減してしまったのも、彼女の苦戦の理由の一端だろう。

口ほどにもなかったと、そのことをスバルは詫びようと口を開いて――、

「なあ、ラム。俺のせいで、そんなケガを……もががっ!」

「馬鹿を言わないで。ラムが傷付いたのがバルスの責任? ラムの人生において、バルスが何かの要因になることなんて一欠片もないわ。おぞましい」

「おぞましいは言いすぎだろ! 人の口に草の塊詰め込むお前の方が怖いわ!」

剥がした蔦の塊を口にねじ込まれ、青臭さに涙目になるスバルがそう抗議する。それを聞いて、ラムは「ハッ」と悪びれない態度。

と、そんなスバルとラムのやり取りに、「くすくす」と笑う気配があった。

「お兄さんとお姉さん、ホントに仲良しよねえ。姉弟を見てるみたいだわあ」

そう言って、草のマットレスが敷かれた床に足を投げ出していたのは、頭の上に小紅蠍を乗せたメィリィだ。

含み笑いのメィリィ、彼女の言葉にラムはわかりやすく顔をしかめて、

「バルスが弟……? 百歩譲って、血の通わない出来の悪い弟だとしても、そんな役立たずは鬼の里じゃ口減らしに遭うわよ」

「鬼の里、そんなシビアなの? 鬼じゃなくてホッとしたわ……」

「嘘よ。ただ、ラムがおぞましさに耐えかねて口減らししただけね」

「仮定の話に仮定の話を重ねてややこしくするなよ!」

相変わらずのラム節に、スバルは唾を飛ばしながら怒鳴り返す。

とはいえ、今のがラムの遠回しな気遣いであるのはスバルにもわかる。彼女は、自分の負傷はスバルの判断が原因ではないと、そう言ってくれているのだ。

その配慮に甘えるのは辛い。が、意地を張って自分の責任だと言い続ければ、かえってそちらの方がラムの怒りを買う可能性が高い。

「お前は、本当に厄介な女だな、姉様……」

「さっきのメィリィの妄言のあと、ラムを姉様なんて呼ぶのはやめなさい。いい加減、初対面の人間に誤解されたら困るでしょう」

いつも通りのすげない返事、それにラム感を感じながら、スバルは室内――『緑部屋』の面子を見回した。いるのはスバルとパトラッシュ、それからラムとメィリィwith小紅蠍。そして、部屋の奥のベッドに寝かされる『眠り姫』――、

「――レムは、起きてないか」

「生憎と、ね。憎たらしい無礼者の首はねじ切っておいたわ。それで、エミリア様のことは戻ってきたみたいだけど……」

「ユリウスのことも、レムのことも戻ってきてない。……何かが足りないのか」

ぐっと掌に拳を押し付け、スバルは苦々しい感情を噛みしめる。

意識を失う直前、エミリアたちと話したことの再確認。――結局、『暴食』の被害を完全に根絶するには、奴らから直接話を聞き出すしかないのだと。

「ここにいるのは、ケガが重かった順番か? エミリアたんたちは?」

「お姉さんやベアトリスちゃんなら、会わせたい相手がいるって上に向かったわよお。一層だから、ずっとずっと上……誰がいるのか、ラムお姉さんは知ってるんでしょお?」

「大したことじゃないわ。ただ、体の大きいボケ老人がいるだけよ」

「監視塔のてっぺんにいるボケ老人って、絶対重要なキーキャラじゃん……」

ここにきて新たな登場人物がいると聞かされ、スバルは眉間に皺を寄せる。

ボケ老人とラムが説明した人物、それが何者なのか。あるいは、それが二層でのレイドのように試験官だとしたら――、

「――フリューゲルじゃ、ないだろうな」

「バルス」

「もし、そこにフリューゲルがいるんなら、俺は絶対に許さねぇぞ。あいつには、言ってやりたいことが山ほどあるんだ。そうでなきゃ、シャウラは……」

「バルス、落ち着きなさい」

「落ち着け? お前、ラム、そんなこと、シャウラは……」

膝に力を込め、塔の最上階にいる老人の正体を突き止めようと、血気に逸ったスバルの頬が弾かれる。理由は、歩み寄ったラムの平手だ。

頬を叩かれ、スバルは唖然と目を見開いてラムを見る。

「自分の無力の腹いせに、シャウラを使うのはやめなさい」

「――――」

「シャウラのことは聞いたわ。うるさくて品がなくて、バルスを慕うなんて目が完全に腐り切ってしまっていたけれど……消えなくちゃならないほどではなかった」

そう言いながら、ラムがそっと、スバルの叩いた頬に手を添える。

打たれた頬は熱を持つが、触れてくるラムの掌はひんやりと冷たかった。その熱を感じながら、息を呑むスバルにラムは続ける。

「惜しむなら、怒りではなく、泣きなさい。バルスの八つ当たりの理由にされるより、寂しいと泣かれた方がシャウラは喜ぶわ。――ラムもそうだから」

「ラム……」

「強く想う相手だけは間違えていると、今でもそう思っているけれどね」

最後に一言付け加えて、ラムの指で額を弾かれる。その、痛くもない威力に尻餅をつかされ、スバルは「悪い……」と弾かれた額に手をやった。

冷静になれば、一層にいるのがフリューゲルというのはスバルの願望であり、さらに言えば被害妄想のようなものだ。

仮に本当にフリューゲルがいたとしたら――、

「バルスが何かする前に、ラムやエミリア様が半殺しにしてたわ」

「……エミリアたんはともかく、ラムのそれは信じられるわ」

シャウラのことを思えば、フリューゲルに対する怒りは少なからず、この塔にいる全員が持ち合わせる自然な感情だった。

それをラムに肯定され、スバルは長く息を吐く。

そうなると、一層にいるボケ老人というのが何者なのか大いに気になるが。

「ひとまず置いておきなさい。仮にボケ老人が何かの役に立つとしても、それは話に聞く『色欲』の大罪司教の被害者の方で、『暴食』の方ではないわ」

「それもだいぶでかい話なんだが……そう、か」

そのあたり、ラムの中でははっきりと優先順位がついている。それを憚らず、堂々と主張できるところもラムの強いところだ。

そして、スバルも少なからず、彼女の思いに共感できてしまう。

『色欲』の被害者を救える目算が見えるのはとても大きい。だが、と。

「でも、ラムお姉さんはさっきの話だと、別の考えがあるのよねえ?」

しかし、そう自戒するスバルの横顔に、メィリィがそんな言葉を投げた。彼女は頭の上の小紅蠍を指でつつきながら、

「言ってたじゃなあい? 『暴食』の影響は、時間と関係してるとか何とかってえ」

「――。口の軽い娘ね。そんな調子だと、屋敷に戻ったらきつい躾が必要そうだわ」

「きゃあ、こわあい」

小さく舌を出して頭を抱えたメィリィ、そんな彼女の頭上で、小紅蠍が彼女を守るように鋏と尻尾をラムへ突き出す。が、ラムの冷たい視線を浴び、蠍はすぐに丸くなった。

その慌ただしい仕草に、元となった彼女の片鱗を感じるが――、

「ラム、その仮説か? それって、何の話なんだ」

「何のことはないわ。ただ、『暴食』は他人の記憶を食べると話していたでしょう。もし、それが本当に食べ物のような扱いなら、消化に時間が影響すると思ったのよ」

「消化……」

「エミリア様は、奪われて数時間で取り返すことができた。なら、騎士ユリウスやプリステラの被害者、それにレムは?」

「――ぁ」

指を立てたラムの仮説を聞いて、スバルはその単純さに目を見開いた。

彼女の言う通り、『暴食』の大罪司教は『記憶』や『名前』の簒奪を食事に例えた。それが比喩表現以上の意味を持つなら、ラムの仮説にも頷ける。

奪った『記憶』や『名前』には、消化されるまでの時間がある。

そして、エミリアの『名前』だけが戻り、他のモノが戻らない理由は――、

「……まさか、消化され切った?」

「――わからないわ。ただ、戻ってくるのにも相応の時間がかかるだけかもしれない。もしそうなら、希望はある。ユリウスや、他の被害者の『記憶』……レムのそれが戻ってくるのにも、希望が」

「――――」

悪いようにも良いようにも取れると、ラムはそれ以上の説明をしなかった。

スバルも、ラムの考えはわかる。これは、今すぐには答えの出ない問題だ。

ただし、バテンカイトスが撃破され、アルファルドも捕縛した状況下で、スバルには大きな懸念が新たに――否、改めて生まれた。

「ルイ・アルネブ……」

『記憶の回廊』で出会い、そしてそこに取り残してきた最後の『暴食』。

自らの肉体を持たず、二人の兄の肉体や、ナツキ・スバルに寄生することで悪事を働いたあの少女は、はたして魔女因子の対象なのか。

能力自体は、『暴食』のそれと遜色のないものを持ち合わせていた。

しかし、もしも権能の被害を全て取り返すために必要なのが『暴食』の大罪司教の命だとしたら、あの場所にいるルイ・アルネブをどう倒せばいいのか。

そもそも――、

「あの場所に、死ぬとか死なないとかの概念があるのか?」

物理的な肉体を伴わず、精神的な存在としてあの場所はあった。

漫画やゲームの概念に倣えば、精神の死というものが適用されるのかもしれないが、精神の死が、すなわち魔女因子を解き放つことになるのか。

あの場所も、あの場所に残るルイも、全てが不明瞭だ。

それに、仮にその答えが出せたとしても――、

「ユリウスがレイドを倒して、『試験』としての役割が終わった。それなら、レイドの『死者の書』の白紙は、元に戻ってるんじゃないか?」

スバルが『記憶の回廊』、オド・ラグナの揺り籠と呼ばれる場所へいけたのは、ちょうどその場所へ通じる空っぽとなった『死者の書』が存在したためだ。

レイド・アストレアの魂が『試験』に利用され、それ故に『死者の書』に空白が生じ、それが『記憶の回廊』へと繋がった。もし、それがなくなったら。

ナツキ・スバルは、ルイ・アルネブを打倒する機会を逃した可能性すらある。

「――――」

これがスバルの思い過ごしで、レイドの『死者の書』がなおも白紙である可能性は確かめなくてはわからない。それに加え、スバルにはスバル自身の『死者の書』に挑むという方策もある。あれも、スバルと『記憶の回廊』とを繋ぐ切り札だ。

今一度、自分の『死』を見るという地獄を味わう必要はあるだろうが、何もかも可能性が断たれるよりはずっといい。ずっといい、はずだ。

自分が取り返しのつかない失敗をいくつも重ねたと、そう諦めるよりは。

「――馬鹿ね」

「姉様?」

「くだらないことに思い悩む暇があるなら、体も頭も休めた方がずっと利口よ。――この塔で最適解を選べなかったのは、バルスだけじゃないわ」

首を横に振り、ラムはそっと自分の額に触れた。

デリケートな傷の残るそこは、かつてのラムの角が生えていたはずの場所。その古傷をそっと撫で、それからラムは同じ指をベッドのレムへ伸ばす。

そして、彼女は妹の額を愛おしげに撫でると、

「『暴食』の大罪司教を倒すのに、レムの力を借りたわ。結果的に勝てたけど、その代償は大きい。……この子には、かなりの重荷を支払わせたでしょうね」

「重荷……」

「角があった頃の働きをしたわ。バルスなら、内側から爆ぜていたぐらいの」

それが大げさな話でないことは、ラムの普段からの苦しみを引き受けたスバルには十分伝わる。ただ呼吸し、平然と振る舞うだけでラムは地獄を味わっている。

そんな彼女が本気になった。――そのフィードバックはどれほどのものか。

誇張なく、スバルが受けていたら、きっと体のどこかが回復不可能なほどに壊れてしまったに違いない。

その負担をレムに負わせたと、ラムは長い睫毛に縁取られた目を閉じる。

しかし、彼女は「いい?」と言葉を継いで、

「そのことで、目が覚めたレムに恨まれるかもしれない。でも、悔やみはしないわ。ラムは、レムの姉様だもの。この子が憎もうと恨もうと、それは同じ。……なら、その先を良くしていくために、触れ合うだけよ」

「――。レムは、お前を憎んだりは」

「そうでしょうね。――よくできた子だわ。自慢の妹よ」

そう、自信満々に笑い、ラムはスバルを薄紅の瞳で見つめた。

記憶にないはずの妹、レムのことをスバル伝いにしか知らないはずなのに、彼女の妹を愛し抜くと、そうした心情には迷いがない。

過去を悔やむのではなく、未来を良くするために挑むと。

「……それを俺に言うのは、めちゃめちゃ耳が痛いぜ」

ラムの思惑と外れたところで、スバルは過去を捻じ曲げるために幾度も奔走した。

究極の前向き思考をするラムからすれば、スバルの『死に戻り』は究極の後ろ向き思考と言って過言ではあるまい。

起きた出来事を変える『死に戻り』は、いつだって過去を悔やんだ結果の産物だ。

「結局、使わないに越したことはないんだよな……」

ぎゅっと、力の入っていた拳を再び解いて、スバルは苦笑する。

『死に戻り』を使い、みんなと笑い合う未来を掴むために頑張る自分の姿勢は認めた。その上で、『死に戻り』自体に溺れないよう、自分を戒める。

この塔でも、それだけ多くの涙と、スバルを惜しむ声を聞いたから。

「よくわからないけどお、お兄さんったら少しは元気になったみたいねえ」

スバルの表情の変化を見て、床で膝を立てるメィリィが呟く。体育座りのような姿勢の彼女は、自分の三つ編みを手で撫でながら、

「お姉さんとかラムお姉さんがやってくれるでしょうけどお、お兄さんを励ますなんてわたしにはできないんだから、あんまり凹まないでよねえ。ちゃんとした背中、わたしに見せるって約束でしょお?」

「ああ、その約束もあったな。おう、今度こそ、守るよ」

メィリィと、彼女の頭の上の小紅蠍を見て、スバルは力強く頷いた。

すると、そんなスバルの決意を後押しするように、傍らのパトラッシュが頬をすり寄せてくる。彼女の鱗が強烈な肌も、慣れれば痛みを感じず頬を合わせられる。

そんな親愛の表現に、スバルも心からの親愛を返して、その場に立ち上がる。

さっきは耐えきれずに倒れてしまうぐらいの消耗があったが、失われた体力も少しは回復したようだ。『緑部屋』の精霊、その治療様々である。

「考えてみると、ジャイアンまで入れての総力戦だったわけだけど、この部屋の精霊にどれだけ助けられたか、ちょっと感謝してもし足りねぇレベルだな……」

回復部屋として利用している『緑部屋』だが、元々ここには室内に入った生き物の負傷を治療する物好きな精霊がいる、というのがシャウラの説明だった。

肉体も持たず、対話の意思もない精霊だが、傷を癒す意図だけは明確で、スバルたち一行は生傷の絶えない塔の攻略中、幾度もこの部屋の世話になった。

それこそ、監視塔に到着してからずっと、レムなどこの部屋に入り浸りだ。

「まぁ、浸らせたくて浸らせてるわけじゃねぇんだけども」

「精霊、ね。バルスの……いえ、言うだけ無駄だったわね。ユリウスの『誘精の加護』の効果で、無理やり実体化でもさせたらどう?」

「言いたいことはわかったけど、俺の魅力はベア子特攻だから悔しくないぜ。実際、ユリウスの加護の効果なら、話せたりすんのかな……」

ユリウスの持つ『誘精の加護』は、単純に言えば精霊に好かれやすくなる加護。その効果で六体の準精霊――否、現在は精霊に昇格したイアたちと契約しているわけだが、その効果で『緑部屋』の精霊と話せるなら、それも可能性を広げる一つの手だ。

シャウラと同じか、それ以上にこの監視塔で過ごした精霊。

名前もないその存在ならば、この監視塔における謎を解き明かす一助に――、

「――?」

スバルがそう考えたとき、ふと微かな吐息が室内に漏れる。

その吐息をこぼし、形のいい眉を顰めたのはラムだ。彼女は薄紅の瞳を細めたまま、その視線でぐるりと室内を眺める。

「ラム? どうした?」

「……何か、妙な空気を感じるのよ。これは」

――そう、ラムが変調の予感を口にした瞬間だった。

「――っ!?」

「なんだ!?」

不意に、『緑部屋』の中心に発生した現象――光が溢れ出し、スバルたちが驚愕する。

突然のことに身を硬くし、スバルとラムは弾かれたようにレムの下へ。メィリィとパトラッシュも警戒を露わに、その光から後ろへ遠ざかる。

「なになになに、なんなわけえ!?」

「わからねぇ! とにかく、俺たちから離れるな! 何が起きても……うお!?」

慌てふためくメィリィを背後に庇い、注意を促す言葉が中断される。

部屋の光がひと際強くなり、スバルの目を焼いたことが原因だ。そして、腕で顔を覆いながら、スバルはおそるおそる、光の方へ目を凝らす。

今の強い発光を受け、光は徐々に弱まり、消えつつあった。そのことに安堵と警戒、どちらを抱けばわからないまま、スバルは『それ』を目の当たりにする。

「――は?」

眼前、光の消えた地点に現れた『それ』を見て、スバルは意味がわからない。

絶句し、驚愕し、改めて絶句する。

「……女の子?」

スバルの隣で、同じものを見たラムが怪訝そうに呟いた。

その認識は正しい。スバルも、彼女と同じものを見ている。ただし、彼女とスバルとでは、その『女の子』に対する知識が明確に違っている。

スバルは、その『女の子』の名前を知っていた。

何故なら、『緑部屋』の床に横たわる彼女の名前は――、

「――ルイ・アルネブ」

△▼△▼△▼△

『緑部屋』の中央、床の上に光と共に現れた少女、ルイ・アルネブ。

『暴食』の大罪司教である三人兄妹の末妹にして、肉体を持たないはずの『飽食』――それが、こうして現実に姿を現したことに、スバルは絶句していた。

ただし、そのスバルの言葉を、隣のラムは聞き逃さない。

「ルイ・アルネブ……『暴食』の、最後の一人の名前ね」

この周回、スバルは『死者の書』を通して出会ったルイについて、詳しいことをラムたちに話せていない。触りを話した程度だが、ラムの記憶力は確かだった。

その問いかけに、スバルは動揺を残しつつ、

「あ、ああ、そうだ。あいつは、『暴食』の最後の一人……ルイ・アルネブ。バテンカイトスとアルファルドの、妹って話で……」

「――。見たところ、意識はないようね」

冷静にルイを観察し、ラムの言葉にスバルも彼女が眠っているのを確認する。

眠り、というべきなのか、具体的な状況は全く不明だ。そもそも、どうしてこの場に肉体のないはずのルイが現れたのか。

あれほど、スバルを恐れ、恐怖し、『死に戻り』に絶望した彼女が、あれから数時間で立ち直り、再び挑んでくるとは考えにくい。

――『死』とは、そのぐらい人の心に深い傷を残すものなのだから。

「考えてても埒が明かねぇ……メィリィ! エミリアたんたちを呼んできてくれ! 俺とラムで、こいつは見張ってる!」

「もお、人使いが荒いわねえ。……勝手に死んじゃわないでよお?」

そろそろと後ずさり、メィリィが『緑部屋』の入口へ。そこから外へ抜け出す前、念を押すようなメィリィの言葉に、スバルは親指を立てた。

そのメィリィの頭の上、小紅蠍が真似するように鋏を立てるのを見届け、彼女はさっと身を翻し、エミリアたちを呼びに一層へ。

そして、代わりに部屋に取り残されるスバルとラムは――、

「何事もないと思いたいが、とりあえず、適当に蔦を使って縛り上げておくか?」

「下手な刺激はしたくないところね。……それとバルス、気付いている?」

「――? 何にだ?」

ルイの処遇を相談するスバルに、肩を引き止めながらラムが問いかける。その問いかけの意図がわからず、首を傾げるスバル。

すると、ラムは顎をしゃくり、『緑部屋』の天井――否、部屋を示して、

「――部屋の治癒の効果が切れてる。精霊が、いなくなったのよ」

「え……な、嘘だろ!?」

「嘘じゃないわ。バルスでも、集中すれば感じるはずよ。ここが空っぽになったのを」

ラムの言葉に動転し、スバルは部屋の中を見回した。

集中と言われても、スバルが精霊の存在を感じる方法は、抱き上げたり、頬ずりしたり、一緒に添い寝したりといった方法が主で、やり方がわからない。

ただ、ラムの言う通り、全身を淡く包んでいた優しい波動を感じない。

『緑部屋』の精霊の消失、それは確かに起こった出来事のようで――、

「だとしたら、あの大罪司教と無関係ではないでしょうね」

「――――」

ラムの推測をスバルは否定できない。

スバルも、同じことを考えた。『緑部屋』の精霊がいなくなり、代わりにルイ・アルネブがこうして現れた。それは、あるいは――、

「――。とにかく、結論を急ぐのはやめましょう。エミリア様やベアトリス様が戻るのを待つべきだわ。エミリア様たちが戻ったら――」

改めて、ルイについての対処を話し合おう。

おそらく、ラムが続けようとしたのは、そんな言葉であったのだと思う。

しかし、そのラムの言葉は続けられなかった。

それよりも早く――黒い終焉が、プレアデス監視塔へと襲いかかったからだ。

「――っ!?」

どん、と大きな爆発が足下で発生したように、スバルたちの体が浮かび上がる。

直後、思い切り全身を天井や壁に打ち付け、スバルは「ぐあ!」と悲鳴を上げた。そして、何が起きたのかと頭を振り、気付く。

――全身の総毛立つ、おぞましい気配の接近に。

「ま、さか……」

そんなはずがないと、感じた予感を振り払いながら立ち上がる。だが、悪寒はますます強くなり、スバルの疑念をより確かなものとして刻み込もうとした。

それは、こないはずと考えた障害――事実、この瞬間まで起こり得なかったはずで、それにも拘らず、それは膨大な破壊となってこの場へ訪れた。

「パトラッシュ! ラムを――!」

「――ッッ!」

床に這いつくばり、立てずにいたラムの体を抱き上げ、スバルはとっさにパトラッシュへと彼女を投げ渡した。

それを、全身におびただしい傷を負いながらも受け止め、パトラッシュはスバルの意を察して猛然と部屋の入口へ駆け寄る。

「バルス、この馬鹿……!」

そう勝手に動かれたラムの恨み節だが、耳を貸している暇がない。

スバルは揺れる足場を強く踏みしめ、とっさに蔦のベッドにいるレムへ駆け寄った。そして、彼女の体を抱き上げると、パトラッシュを追って部屋の入口へ――、

「――――」

――その直前、草の上を転がっているルイの姿が視界の端を過った。

「――っ! ああ、クソ! クソったれ!!」

憤激に罵声をつきながら、スバルはボロボロの体で火事場の馬鹿力を発揮。レムの体を右腕で抱え込み、空いた左手でルイの腕を強引に掴む。

どちらも軽い体だ。非常時の、この状況なら重さを度外視で運び出せる。

そう、二人を抱えたまま、スバルが『緑部屋』を飛び出す寸前だった。

「――――」

その入口とスバルたちとを分断するように、『緑部屋』の床を突き破って黒い影が室内に流入してくる。――そう、黒い影だ。

こないと信じていたかった、五つの障害の最後の一つ――スバルに執着する、『魔女』の黒い影が、この期に及んで監視塔へと襲いかかってきていた。

「ラム――!」

吠えるスバルは、その影の隙間からレムだけでも外へ逃がそうとする。

だが、黒い影はスバルの視界の前面を覆い尽くし、決して隙を作らない。その上、黒い影の流入は止まらず、正面だけでなく、左右も、背後も影が呑み込んでいた。

「クソ……ここまで、きたってのに……!」

迫りくる影を見ながら、脱出路を探すスバルの胸中を悔しさが支配する。

影に呑まれれば、スバルは命を落とし、『死に戻り』する羽目になる。もし、この監視塔で『死に戻り』すれば、リスタート地点が更新されていない限り、スバルは己の内側にルイ・アルネブを抱え込んだまま、やり直すことになる。

そうなれば、この白い少女の姿をした大罪司教に支配され返される。

それを恐れ、だからこそ、このループが最後の機会だと全力を尽くしたのに――。

「――バルス! しっかりなさい! レムが泣くわよ!!」

「――ッッ!!」

黒い影の向こうから、ラムとパトラッシュの必死な声が飛んでくる。

それに答えるために息を吸い、しかし、言葉を吐き出すことができなかった。

――それより早く、黒い影がナツキ・スバルを丸ごと呑み込んでいたからだ。

△▼△▼△▼△

――莫大な黒い影に呑まれ、スバルの意識は闇の中をゆっくりと揺蕩う。

「――――」

手が、足が、血が肉が、自分という存在が解体され、概念化される感覚。

何か、途轍もなく巨大な感情に呑み込まれ、自分が塗り潰されていく。

『――愛してる』

そう、誰かが何もない、真っ暗な闇の中で囁いてくるのが聞こえた。

それが、ずいぶんと懐かしい声に思えて、ナツキ・スバルの意識は自嘲する。

愛してると、そう呼びかけられることに慣れているなんて、まるで六体の精霊に愛されるどこぞの優美な騎士様のようだ。

生憎と、スバルにそこまでの甲斐性はない。与える愛も、両手と背中で精一杯。それもかなり無理しての話だが、

「その、無理がしたいんだよ……」

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

「悪いが、それには答えられねぇよ。……今は、その言葉は俺に地雷なんだ。そう言ってくれた相手の手を、掴み損ねたばっかなんでな」

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

「……聞く耳持たないのはお互い様か。なら、とっとと飲み干してくれ」

何もない空間、事ここに至って、ここから生きて出られる希望は皆無だった。

ならば、ナツキ・スバルはこの闇の中、無情にも命を落とすのだろう。

それを、悲嘆ではなく、怒りと奮起に変えて、受け入れる。

「戻ったら、最悪の状況が待ってるかもしれない。頭をすっきり切り替えたルイが、今度こそ『死に戻り』を奪おうとするかもだ」

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

「けど、負けねぇよ。俺は、負けない。何度でも、戦う。何度でも何度だって、戦う。今度こそ、約束を守る」

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

「――明日の明日のために、何度だって戦ってやるよ」

愛してると、そう幾度も繰り返される言葉に、押し潰されない。

悪いが、その言葉で傷付く心なら、ほんの少し前にすっかり傷付けられ切った。今さらそんな愛情で、ナツキ・スバルは縛れない。

だが、重ねられる愛の言葉は、そんなスバルの拒絶さえ意に介さない。

まさしく、盲目的な愛の言葉が世界そのものを塗り潰さんと押し寄せ、ナツキ・スバルの存在は、闇の中へと呑み込まれ――、

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛し』

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

次の瞬間、直上より降り注ぐ凄まじい青い光が、世界を包む闇を直撃した。

そして、猛烈な光が闇を喰らい尽くし、世界は一気に色を変えて――、

変えて――、

変え、て――。

△▼△▼△▼△

「う……」

ざらついた感触に顔を撫でられ、スバルは呻きながら瞼を開けた。

意識が、ゆっくりと浮上してくる。それに合わせ、開いた瞼の向こうでぼやけた視界、それが徐々にまともな輪郭を帯びてくる。

その間も、なおもスバルの頬にはざらついた感触がずっとあって。

「ぱと、らっしゅ……わか、った。わかった、から。起きた。もう、起きたよ……」

ぐいぐいと圧し掛かり、顔を舐める感触にスバルは声を絞り出す。

どれだけ疲れ切っているのか、喉から漏れる声は信じられないほどか細くて、うまく意図が伝わらないのか、そのスキンシップが終わる様子を見せない。

「いや、どんだけ甘えんだ……お前、そんな可愛いとこ見せて、次のヒロインレースでトップに躍り出る気……」

「あーぅ?」

「あー、う……?」

カラカラの口の中で唾を呑み込み、どうにか言葉を作ったところへ返答があった。

だが、その返答が予期したものと異なり、スバルは頬を硬くする。べろべろと舐められた頬、ゆっくりと視界のぼやけが取れ、そこに浮かび上がるのは――、

「う、ぁー?」

――スバルに馬乗りになり、顔を舐めているルイ・アルネブだった。

「う、おわあああ――っ!?」

「うあんっ!」

そのありえない光景に驚愕し、スバルはとっさに目の前のルイを突き飛ばした。その動作に押され、悲鳴を上げたルイがゴロゴロと転がる。

それを見ながら、スバルは必死に後ろに尻を滑らせ、

「な、な、な、なんだ、てめぇ!? 何のつもりだ!? また、俺をおちょくって……」

「うー、うー? うあー」

「うあーじゃねぇ! 何が、何があった……俺は、死んで……?」

愕然と、ルイを睨みつけながら、スバルは必死に声を震わせる。

そのスバルの前で、ルイは草むらで仰向けになったまま、手足を子どものようにバタつかせて唸っている。

意図がわからない。狙いも――否、それ以前に、

「ここ、どこだ……?」

ルイから視線を外さず、スバルは警戒を強めながら周囲の様子を確認する。

すると、目に飛び込んでくるのは鮮やかな緑の平原――草花がちらほらと風に揺れているそれは、広い草原のような場所だった。

「――――」

アウグリア砂丘にはありえない光景。

正確には、花魁熊の群生地には花畑のようなものもあったが、これはそういった不自然の産物ではなく、確かな自然の植生としてここにあるものだ。

遠く、少し離れた場所には森があるのも見えて、スバルの思考を混乱させる。

ここは、アウグリア砂丘ではない。かといって、ルイと対峙した『記憶の回廊』というわけでもなさそうだった。

「草にも、実体がある。味も……ぺっぺっ! 草だ!」

毟った草の匂いと味を確かめ、スバルはそれが本物であるのを確かめた。

それから、自分の負傷や服の破れ具合から、直前の戦闘――プレアデス監視塔を取り巻く戦いの痕跡、それが残っているのを確認する。

つまり、あの戦いは確かにあったことで、スバルはまだ死んでいない。

『緑部屋』を襲った膨大な黒い影、あれに呑まれながらも生き残って――、

「――そうだ! レム! レムは……」

目の前にルイがいるのなら、あの瞬間、同じように抱えていたレムもいるはず。

その思いからルイを放置し、スバルは草原の景色にレムを探した。そして、程なく、背の低い草むらの中、静かに横たわる彼女の姿を発見する。

「レム! ああ、よかった……ちゃんと、ちゃんと無事だ……」

レムに駆け寄り、スバルはその無事を確かめ、安堵でその場にへたり込む。

見たところ、レムにも外傷はない。体の熱も、静かな呼吸もずっと見てきたままだ。そのことに心の底から安堵して、スバルは額の汗を拭った。

「はぁ、安心した。レムに何かあったら、姉様に殺されるからな……」

それでなくても、スバル自身が自分を許せなくて自裁したくなる。

そんなことを考えながら、スバルは「それにしても……」と顔を上げ、

「ここはどこで……塔はどこにいったんだ? エミリアとベア子たちは……」

ぐるりと周囲を見回すが、遠目にも見えるはずの監視塔の存在が確認できない。

四方どちらを見ても、それは同じことだった。

「エミリア――!! ベア子!! ラム――!!」

「うー、あーっ!」

見えないまでも、返事があることを期待してスバルがエミリアたちを呼ぶ。

しかし、声は空しく響き渡り、返事をしたのは草むらに寝そべるルイだけだった。その事実にも腹が立つが、彼女の存在を無視できないのも本音だ。

何を企んでいるのか、間違いなく持て余す状況下、しかし、レムを守れるのは自分しかいないと、スバルはルイに対処するべく立ち上がり――、

「――――」

――立ち上がろうとする腕を、そっと誰かに引かれた。

「――え」

片膝をついて、立とうとしていたスバルは掠れた息をこぼした。

腕を、服の袖を引く力はそれほど強くはない。しかし、動けなくなった。

「――――」

ガクガクと膝が震え、スバルの全身がわけのわからない汗を掻き始める。

本当に、それはわけのわからない衝動だった。内臓が一斉に動き始め、ナツキ・スバルという人間の全部が、その現象に打たれ、暴れ出している。

それは、言葉にならない衝撃だった。

それは、たとえようもないほどの激情だった。

それは、この世で味わった驚愕の中でも飛び切り強い大波だった。

「――ぁ」

ゆっくりと、瞼が震えて、薄く開き始める。

その向こうに閉ざされていたのは、湖のように澄んだ薄青の瞳。

楽しげに華やぐそれが、好きだった。

時に悪戯っぽく輝くそれが、好きだった。

胸を締め付けるほどに懇願するそれが、好きだった。

――ずっと、ずっと、ずっと、その輝きに焦がれていた。

「れ……」

心臓が弾み、喉が震え、まるで何かを詰まらせたみたいに声が出ない。

詰まらせた。そうだ。そうだとも。この胸、どれほどの想いが詰まっていたことか。

伝えたい言葉も、話したい話題も、交わしたい願いも、積もるほどにあった。

それを求めて、ナツキ・スバルは――、

「――レム」

唇を震わせ、名前を呼んだ。

情けないことに、たったそれだけのことをするために、何度も失敗してしまった。

はっきりと、彼女に伝わるように言えただろうか。もしかしたら、言えたと思ったのはスバルの幻想に過ぎなくて、大切なことは伝わっていないのでは。

それが怖くて、喘ぐように呼吸しながら、スバルは何度も繰り返す。

「レム、レム……レムっ、レムぅ……れ、む……れむぅ……!」

ボロボロと、彼女の名前を一度呼ぶたびに、滂沱と涙が溢れ出した。

そうして涙が溢れるたびに、彼女の姿がぼやけてしまう。そうして、彼女の姿が曖昧になったら、またしてもこの手を滑り落ちてしまいそうで、それが怖い。

だから、スバルは顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、必死で自分の顔を袖で拭って、彼女の顔を見失わないように必死になった。

「――――」

パチパチと、静かに瞬きして、薄ぼんやりとしていた瞳に確かな光が宿る。

ここまでくれば、これはスバルの願望が見せたまやかしなんかではないとわかる。

間違いなく、ここに彼女が――レムが、いる。

「――ぁ」

弱々しく唇を動かし、レムが何事か口にしようとする。

その声の、掠れた一音が聞けただけで、スバルは胸がはち切れそうな思いだった。

ずっと、彼女の寝顔に語りかけ、寝息を立てるその命が繋がっているのを確かめた。

必ず取り戻すと心に誓い、幾度も幾度も朝と夜を迎えてきた。

だが、その間、ただの一度も、彼女の声は聞けなかった。

目をつむれば、彼女がかけてくれた言葉が、名前を呼んでくれたことが、様々な場面でのことが思い出された。――でも、それは全て過去のことだ。

今を、明日を、新しい彼女の声が聞きたかった。

それが今、ようやく叶う。果たされる。

「れ、む……大丈夫、だ。ゆっくりでいいから……」

「――ぅ」

もごもごと、もどかしげに彼女は唇を動かす。

本当なら、彼女のために水の一杯でも汲んでくるべきなのだろう。しかし、近くに水場は見当たらないし、彼女から目を離せない。

一言でいい。彼女がもう一度、スバルを呼んでくれたら。

その一言が聞けたら、スバルは――、

「――たは」

「……レム?」

静かに、レムが唇の動きを溜め、渇いた口内に微かな潤いを求める。

分泌される唾液で舌を湿らせ、何とかささやかな力を取り戻し、レムは口を開いた。

そして、その青い瞳にスバルを大きく映しながら――、

「――あなたは、だれ、ですか?」

「――――」

唇から紡がれる声、それが確かな音と意味を結び、スバルの脳に浸透する。

――アナタハダレ、と。

「――――」

膝をついて、レムの顔を覗き込んでいたスバルは息を詰めた。

それから、肺の奥に苦々しく溜まった息を吐いて、自分の胸を強く叩く。

強く、強く、二度三度と叩いて、己に訴えかける。

――この可能性は、予期していたはずだ。

目覚めたレムが、スバルのことを覚えていない可能性は考えていた。

『暴食』の権能のことを考えれば、それは自然な成り行きだ。彼女が自分の『記憶』か『名前』を失い、目を覚ますことは十分にありえた話だった。

そう、十分ありえた話だ。だから、考えないわけではなかった。

もちろん、それでスバルの受ける衝撃が、痛みがゼロになるわけではない。

それでも、運命を呪って絶望したり、不条理に怒りをぶつけて悲劇の主人公ぶるほどに自分を憐れまなくて済んだ。

何より、ナツキ・スバルはすでに言われている。

『かっこいいところを、見せてください。スバルくん』

「――俺の名前はナツキ・スバル」

ぐっと、強く奥歯を噛みしめて、スバルは嘆きかけた顔を下ろし、頬を歪めた。

ぐしぐしと顔を拭い、精一杯虚勢を張って、スバルはレムに笑いかける。

ナツキ・スバルらしい、晴れ晴れしいほどに根拠のない笑みで。

「今はまだ、思い出せないかもしれねぇ。でも、俺は……」

「あなた、は……」

レムの掠れた問いかけに、スバルは一度言葉を切り、ぎゅっと目をつむった。

それから、その青い瞳を黒瞳で見つめ返し、続ける。

「俺は、お前の英雄だ。――レム、会いたかった」

そう言って、誓いを立てた少女のために、今一度、ナツキ・スバルは英雄を名乗った。

傷だらけの英雄像を背負い、少年は少女のため、再びそう名乗った。

――もう一度、誓いをここに。ゼロから、彼女との物語を始めるために。

はい。これにて、長らくかかりました『Re:ゼロから始める異世界生活』六章終了です。

はあ!? めちゃめちゃ途中じゃねぇか!?

と思われるかもしれませんが、明確にここから章が変わるので、これで正道です。

様々な謎を残した監視塔、どこぞへ飛ばされたスバルたち、事態はどうなるのか。

どうぞ、近日開始の七章を楽しみにお待ちください。

25巻の書籍作業が終わったら、ゆるゆる始めます。では、以降もよろしく!

△▼△▼△▼△

7日追記

「エミリアが龍の血の効果を知らないのはおかしい!」と指摘を受けまして、「ほんまや!」となったので該当部分を修正しました。

また、指摘が多かったのですが、「ベアトリスはレムを覚えていません」。

五章でスバルとベアトリスが『暴食』の権能の効果について話す場面は、「ベアトリスが禁書庫にいた間は権能の影響を受けなかったが、出てきたら受けた」というシーンのつもりです。

そのため、ベアトリスはスバルと契約して禁書庫を離れた時点でレムを忘れています。

ベアトリスがレムを覚えていた場合、ラムが思うところのある相手がスバルだけでなく、ベアトリスも対象になって感情ががちゃるので、やっていません。

そんな感じでよろしく。

目次
第 403 部分 第六章1  『竜車帰還路』
第 404 部分 第六章2  『彼なりの歓待』
第 405 部分 第六章3  『少女の檻』
第 406 部分 第六章4  『君を連れ出す理由』
第 407 部分 第六章5  『それぞれの不安』
第 408 部分 第六章6  『ユークリウスの銘』
第 409 部分 第六章7  『砂海を目指して』
第 410 部分 第六章8  『砂丘の洗礼』
第 411 部分 第六章9  『砂時間を越えろ』
第 412 部分 第六章10 『閃光の如き』
第 413 部分 第六章11 『涙声が聞こえる』
第 414 部分 第六章12 『監視塔の洗礼』
第 415 部分 第六章13 『砂の嘲笑』
第 416 部分 第六章14 『砂上の信頼』
第 417 部分 第六章15 『砂に散る』
第 418 部分 第六章16 『咀嚼の残滓』
第 419 部分 第六章17 『砂海の王』
第 420 部分 第六章18 『砂の塔の番人』
第 421 部分 第六章19 『賢者の行方』
第 422 部分 第六章20 『シャウラ ≠ 賢者=フリューゲル』
第 423 部分 第六章21 『モノリスの挑戦状』
第 424 部分 第六章22 『白い星空のアステリズム』
第 425 部分 第六章23 『三層タイゲタの書庫評』
第 426 部分 第六章24 『へそ曲がりの試験官』
第 427 部分 リゼロEX 『ゼロカラカサネルイセカイセイカツ』
第 428 部分 第六章25 『二層エレクトラの待ち人』
第 429 部分 第六章26 『棒振り男』
第 430 部分 第六章27 『エレクトラの壁』
第 431 部分 第六章28 『ユリウス・ユークリウス』
第 432 部分 第六章29 『ルーザー』
第 433 部分 第六章30 『二層攻略反省会』
第 434 部分 リゼロEX 『ゼロカラアヤマツイセカイセイカツ』
第 435 部分 第六章31 『塔共同生活のすゝめ』
第 436 部分 第六章32 『何者』
第 437 部分 第六章33 『■■■・■■■』
第 438 部分 第六章34 『コンビニを出ると、そこは不思議の世界でした』
第 439 部分 第六章35 『薄氷関係』
第 440 部分 第六章36 『安堵感の置き所』
第 441 部分 第六章37 『ハリボテの見る夢』
第 442 部分 第六章38 『オマエハダレダ』
第 443 部分 リゼロEX 『ゼロカラオボレルイセカイセイカツ』
第 444 部分 第六章39 『残骸』
第 445 部分 第六章40 『星空に見捨てられて』
第 446 部分 第六章41 『安らぎの臭い』
第 447 部分 第六章42 『死者たちの塔』
第 448 部分 第六章43 『生者たちの塔』
第 449 部分 第六章44 『血の勲章』
第 450 部分 第六章45 『罪人の抱擁』
第 451 部分 第六章46 『メィリィ・ポートルート』
第 452 部分 第六章47 『わたしは許さない』
第 453 部分 第六章48 『――殺人は、癖になる』
第 454 部分 第六章49 『出来損ないのアナタへ』
第 455 部分 第六章50 『――出来損ないこそアナタで』
第 456 部分 第六章51 『生者たちの塔 PART2』
第 457 部分 第六章52 『神様、許してください』
第 458 部分 第六章53 『――声が、した』
第 459 部分 第六章54 『Re:ゼロから始まる異世界生活』
第 460 部分 第六章55 『雪解けを待つあなた』
第 461 部分 第六章56 『これからの話』
第 462 部分 第六章57 『いったん置いとこう』
第 463 部分 第六章58 『それはそれ、これはこれ』
第 464 部分 第六章59 『白い世界に嗤う』
第 465 部分 第六章60 『ひとつ分の陽だまり』
第 466 部分 第六章61 『――立ちなさい』
第 467 部分 第六章62 『崩壊の地響き』
第 468 部分 第六章63 『五つの障害』
第 469 部分 第六章64 『二番目の障害』
第 470 部分 第六章65 『二つ目と、五つ目と、それから――』
第 471 部分 第六章66 『終焉へのセカンドチャンス』
第 472 部分 第六章67 『小さな王』
第 473 部分 リゼロEX 『ゼロカラツギハグイセカイセイカツ』
第 474 部分 第六章68 『サソリ座の女』
第 475 部分 第六章69 『理不尽な剣の鉄槌』
第 476 部分 第六章70 『一途な星』
第 477 部分 第六章71 『カウント・ワン』
第 478 部分 第六章72 『■■・■』
第 479 部分 第六章73 『 『ナツキ・スバル』 』
第 480 部分 第六章74 『ナツキ・スバル』
第 481 部分 第六章75 『ルイ・アルネブ』
第 482 部分 第六章76 『自分という名の地獄』
第 483 部分 第六章77 『反撃の狼煙』
第 484 部分 第六章78 『角四つ』
第 485 部分 第六章79 『READY STEADY GO』
第 486 部分 リゼロEX 『学園リゼロ! 3時間目!』
第 487 部分 第六章80 『精神の死』
第 488 部分 第六章81 『――お初にお目にかかる』
第 489 部分 第六章82 『枷のある戦い』
第 490 部分 第六章83 『ラム』
第 491 部分 第六章84 『うんとこしょ! どっこいしょ!』
第 492 部分 第六章85 『グッドルーザー』
第 493 部分 第六章86 『昨日の話』
第 494 部分 第六章87 『遠い眼差し』
第 495 部分 第六章88 『――志を問わん』
第 496 部分 第六章89 『シャウラ』
第 497 部分 第六章90 『英雄』
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